森永ヒ素ミルク事件

森永ヒ素ミルク事件 昭和30年(1955年)

 昭和30年6月から8月にかけて、岡山県を中心とした西日本一帯で、発熱、下痢、腹部膨満、皮疹、貧血などの症状を示す乳児の奇病が相次いだ。赤ん坊は夜昼となく泣き続け、次第に皮膚が黒ずんでいった。肝臓が腫大し、腹部がパンパンにはれ上がり衰弱をきたした。このような症状を示す生後2カ月から2歳の乳児が続々と病院を受診したのだった。

 診察に当たった医師たちは、この奇妙な病気の原因が分からず、胃腸障害、夏ばて、貧血などの診断を下し保健所に届けなかった。

 日赤岡山病院小児科の矢吹暁民医師は、これまでに経験したことのない奇怪な症状を示す乳児が急に増えたことに驚き、その原因究明にいち早く奔走することになる。

 日赤岡山病院には同じような症状の子供が30人も入院していた。患者の母親から病歴を聞くと、この奇病を呈した乳幼児は母乳ではなく人工栄養で育てられていて、しかも特定の銘柄「森永乳業のMF印ドライミルク」を飲んでいた乳児ばかりだった。矢吹医師は岡山市内の開業医に協力を求め、乳児のミルクの実態調査を行った。その結果、日赤岡山病院だけでなく、岡山市内で異常を示した乳児全員が森永粉ミルクを飲んでいることが分かった。日赤ではこの奇病を森永の頭文字をとってM貧血と呼んだ。

 森永粉ミルクが奇病の原因と確信した矢吹医師は、8月13日に森永商事・岡山出張所に連絡を取り、被害防止のため森永粉ミルクの発売中止を求めた。しかし森永商事は販売を中止せずに出荷を続けた。

 矢吹医師は恩師である岡山大学医学部小児科・浜本英次教授にこれまでの調査結果を説明し、原因解明の協力を求めた。浜本教授は矢吹医師の報告を聞くまでは、この奇病の原因を細菌感染と考えていたが、矢吹医師の説明を受け、ミルク中毒、しかも症状から「ヒ素中毒」であろうと推測した。

 8月21日夜、岡山大学医学部に入院していた乳児が死亡、法医学教室で乳児の病理解剖が行われた。その結果、乳児の体内から灰白色のヒ素の結晶が検出された。2日後の8月23日、2例目の乳児の解剖が行われ、遺体の肝臓からヒ素を検出。さらに乳児が飲んでいた粉ミルクからも多量のヒ素を検出した。

 この事実を踏まえ、8月24日、浜本教授は「この奇病は、森永乳業が製造した乳児用粉ミルクによるヒ素中毒である」と発表。翌日の新聞やラジオにより全国にこの事件が大々的に報道された。乳児を持つ親たちは、顔をこわばらせて医療機関に殺到し、日本中がこの事件で大騒動となった。

 全国の母親を恐怖に陥れた森永ヒ素ミルク事件は、奇病発生から原因解明までの3カ月間に、犠牲者は1都2府25県に広がり、患者総数は1万3400人、133人が死亡する大惨事となった。世界でも類をみない大規模な集団中毒事件となった。

 昭和30年当時は戦後の食糧難が一段落し、明るい希望が見えてきた時期であった。電気がまが発売され、テレビ、洗濯機とともに「家庭電化時代」を迎えようとしていた。神武景気が始まり、石原慎太郎の「太陽の季節」が話題をよんでいたころである。

 森永乳業は「粉ミルクを飲ませれば、元気な赤ちゃんが育ちます。このミルクを飲みましょう」とラジオや新聞で粉ミルクを盛んに宣伝していた。当時の保健所も小児科の医師たちも、森永のドライミルクを薦めていた。終戦後の食糧難の影響を受けた母親の体格はまだ低下しており、母乳不足を訴えがちであった。さらに母乳ではなく人工ミルクで乳児を育てることが、生活の豊かさをイメージさせ、ある種のステータスの雰囲気があった。

 昭和25年4月に、戦時中から規制されていた「牛乳と乳製品の配給と価格に関する統制」が撤廃され、乳業業界は自由経済へと移行。牛乳の加工部門である乳業が次第に拡大し、牛乳が大量生産されるようになった。

 森永乳業は5年間に9つの工場を開設し、牛乳の集荷量は約3.1倍に増えていた。この森永乳業の猛烈な拡大路線が、ヒ素ミルク中毒事件を招くことになった。牛乳の集荷量の増大は、育児用粉ミルクの急増によるところが大きい。「母乳で育てると乳房の形が悪くなる」「母乳で育てた子供は背が伸びない」「母乳より牛乳のほうが栄養価が高い」と、間違った流言飛語が流され、多くの母親が育児用粉ミルクに走った。そのため粉ミルクの消費が急速に伸びた時期であった。

 森永ヒ素ミルク事件は、乳児の主食ともいうべきミルクが引き起こした大規模食品公害事件である。より健康的に、より丈夫にと願って与えた粉ミルクが、大切な乳幼児の身体をむしばんでいった。母親が悔やみ悲しんだのは、われとわが手で毒ミルクを愛児に飲ませたことだった。

 粉ミルクにヒ素が混入したのは、森永乳業・徳島工場が製造過程で使用した乳質安定剤(第二燐酸ソーダ)が原因であった。粉ミルクの製造は、牛乳の劣化を防ぐために、食品添加用の第二燐酸ソーダを0.01%添加することになっていた。ところが食品添加用の第二燐酸ソーダを使うはずが、間違って工業用の粗悪品を使ってしまったのである。

 工業用・第二燐酸ソーダには不純物として10%のヒ素化合物が含まれていた。そのため昭和30年4月から8月24日まで、森永乳業・徳島工場で製造された約84万缶の「森永MF印ドライミルク」にヒ素が混入したのである。

 ヒ素中毒を引き起こした工業用・第二燐酸ソーダは、日本軽金属・清水工場がボーキサイトからアルミナを製造するときに出た産業廃棄物だった。この産業廃棄用の第二燐酸ソーダは、陶器の色づけに使用されるはずであったが、数社の業者間で転売が繰り返され、徳島市内の協和産業から森永乳業・徳島工場に納入されたのである。徳島工場は第二燐酸ソーダをいつも協和産業から納入していたので、新たに納入した食品添加用の第二燐酸ソーダが工業廃棄物に変わったことに気づかなかった。

 森永乳業・徳島工場は故意に廃棄物を用いたわけではない。しかし食品を扱う企業としては、あまりに安全対策がずさんだった。この事件は、品質検査などのわずかな手間を惜しんだための人災であった。

 粉ミルクの製造には、ミルクを溶けやすくするため乳質安定剤(第二燐酸ソーダ)を加えるが、もともと原料に新鮮な牛乳を用いていれば、乳質安定剤は必要なかった。牛乳を放置すると、次第に乳酸菌が増えて酸性になり、牛乳が酸性化すると牛乳が固まりやすくなる。そのために乳質安定剤を加えていたのだった。つまり森永乳業は新鮮度の低下した牛乳を原料として粉ミルクをつくっていたのだった。

 森永乳業・徳島工場が乳質安定剤を使用するようになったのは、昭和28年以降のことで、それ以前は使用していなかった。またその当時、森永乳業は4つの粉ミルク工場を持っていたが、第二燐酸ソーダを使っていたのは徳島工場だけであった。

 昭和30年8月30日、森永乳業・徳島工場は営業停止3カ月の処分を受けることになった。このあまりに軽い行政処分に、被害者の批判と怒りが爆発した。事件を引き起こした同工場のずさんな安全対策、それを監督すべき厚生省に批判が集中した。営業停止3カ月の軽い処分は、工場側の過失が軽微と判断されたこと、工場に牛乳を納入している酪農業者の影響を考慮しての政治的な配慮であった。

 森永乳業はこのヒ素中毒事件を工場の過失とは考えず、そのため被害児への謝罪や補償の意思を示さなかった。このことから被害児の親たちは森永乳業の責任と補償を求めて団結することになる。親たちの団結は、この事件の惨状を訴え、この未曾有(みぞう)の不祥事件を風化させないことであった。

 日赤岡山病院の被害児の親たちが中心になって被害者同盟が結成された。9月3日には、日赤岡山病院、岡大付属病院、倉敷中央病院の被害児の家族が中心となり、「岡山県総決起集会」が開催された。岡山県全域から被害者が集まり、岡山県森永ミルク被害者同盟への加入者は700人を超えた。

 被害者同盟は、森永乳業に速やかな事件への対応を求めたが、森永乳業は被害者同盟を被害者の代表とは認めず、回答を出さなかった。被害者同盟は「死者250万円、重症者100万円」の要求書を手渡すが、森永乳業はこれを拒否。このため各県の被害者が結束を強め、9月18日に「森永ミルク被害者同盟全国協議会」が結成された。

 会社側は被害の深刻さと巨額の補償金を恐れ、厚生省に問題解決を依頼した。厚生省は森永に有利な「第三者委員会」をつくり解決を計ろうとした。

 厚生省は、10月6日、ヒ素ミルク被害児の診断と治療のための指針作成を日本医師会に依頼。日本医師会はこれを、小児保健学会会頭である大阪大学・西沢義人教授に委ねることにした。西沢教授は岡山大学・浜本英次教授、徳島大学・北村義男教授、兵庫医科大学・平田美稔教授、京都府立医科大学・中村恒夫教授、奈良医科大学・吉田邦夫教授らと第三者機関である「西沢委員会」をつくり、ヒ素ミルク被害児の診断と治療のための指針作成にあたった。

 この指針は、ヒ素ミルク被害児を特定するためのものであったが、西沢委員会が作成した診断基準は、色素沈着、肝臓肥大、貧血などのヒ素中毒の典型的症状を必須項目としたため、非典型例の多数の被害児を切り捨てることになった。またヒ素中毒の急性症状を重視し、慢性中毒の多様な症状を考慮しなかった。そのため、西沢委員会の診断基準でヒ素ミルク被害児と認定されなかった被害者が多数でることになった。

 さらに西沢委員会は、「ヒ素ミルク中毒患者はほとんどが治癒しており、治療中の被害児もいずれ完治する」と発表した。このためヒ素ミルク中毒患者の非典型例が除外されただけでなく、慢性あるいは遅発性の障害児が無視されることになった。

 補償交渉も補償総額が膨大となることが予想され難航した。12月15日、厚生省から依頼された第三者機関である補償交渉斡旋委員会(「五人委員会」)が発足。厚生省は被害者の補償を、弁護士やマスコミ関係者から成るこの五人委員会の裁定に委ね、被害者同盟にその裁定に従うことを要請した。

 五人委員会が示した補償額は、「死者25万円、患者1万円の補償金」で、被害者が要求していた十分の一の金額であった。この五人委員会の運営資金は実は森永乳業から出ており、森永乳業は五人委員会を隠れみのにしていた。森永乳業はこの補償額の線を譲らず、被害者同盟全国協議会は、今後、精密検査を行うことを条件にこの補償を受け入れることになった。しかもこの補償金は認定患者に限られ、西沢委員会が作成した診断基準から外れた被害者は何の補償金を得ることはできなかった。さらに西沢委員会は「後遺症はない」と宣言したため、後遺症の補償はなかった。

 西沢委員会、五人委員会は中立を装っていたが、ともに森永乳業の立場を擁護していた。森永は死者25万円、患者1万円の補償金を現金書留で送り、これで一切終わりと宣言した。これに対し、森永乳業への怒りから、森永製品の不買運動が各地で始まることになる。だが昭和38年10月25日、徳島地裁が「森永ミルク事件における会社側の責任はない」と無罪判決を下すと、世論も次第に沈黙するようになった。被害者の声は闇の中に閉じ込められ、この事件はいったん決着したかのようにみえた。

 この事件から14年目の昭和43年、森永ミルク中毒事件が世間から忘れられていたとき、この事件は急展開を迎えることになる。それまで後遺症はないとしていた五人委員会の報告が大きな間違いであったことが明らかになったのである。

 ヒ素ミルク中毒で命を取り留めた被害児の中に、脳性麻痺や知恵遅れなどで苦しむ患者が多数いることが確認されたのである。世間から忘れ去られ孤立無援の被害者を救ったのは大阪府・堺養護学校の1人の教員だった。

 事件発生から7年後の昭和37年、教員のクラスに脳性麻痺の男子が入学してきた。母親はかつての森永ミルク事件で脳性麻痺になったことを教員に話した。このことがきっかけになり、森永ミルク被害児の追跡調査が始まった。1人の教員が始めた追跡調査の実態が分かるにつれ、それを支援するグループが立ち上がることになる。大阪大学公衆衛生学・丸山博教授が中心となって、養護教論、保健婦、学生(阪大医学部)から成る22人の調査グループが結成された。

 昭和43年、調査員は大阪地区の被害児55人の家を一軒一軒訪問し、聞き取り調査を行い、その結果、67%の被害児に発育の遅れや脳波異常などの異常を認め、後遺症に苦しめられていることが明らかになった。被害者の家族たちは「この世に神さまがいるとしたら、それはあなたたちです」と感謝の気持ちを表した。

 わが手で毒入りミルクを飲ませてしまったことへの悲しみを抱えながら、乳が出なかった自分がいけなかった、嫌がって飲もうとしないのに、なぜ無理に飲ませ続けたのか。母親たちは重い十字架を背負っていた。手足が動かない子供、皿に注がれたお茶をなめるように飲む子供…。母親たちはヒ素入りミルクを販売した森永乳業ではなく、ミルクを飲ませた自分を責め、子供の世話をしていた。

 昭和44年10月の第27回日本公衆衛生学会で、阪大の丸山教授は「14年目の訪問」と名付けた演題でこの調査結果を発表。中枢神経系の障害を残した子供たちが多数いることを明らかにした。この学会には、小児保健学会の会頭で、「西沢委員会」の委員長でもある阪大の西沢義人教授も出席していた。西沢義人教授は「森永ミルクヒ素中毒事件では後遺症は生じない。中枢神経系の障害はヒ素ミルク中毒とは関係がない、調査チームに医師が参加していない」と反論した。因果関係を否定して、報告の信頼性に難癖をつけた。もちろんこの西沢教授の発言は間違いであった。誤認のまま14年間もヒ素中毒の権威者のトップに座り、西沢教授は被害者を無視する態度を取り続けていたのだった。

 丸山教授の報告は、全国に大きな衝撃を与え、厚生省も対策に乗り出すことになった。多くの公衆衛生学者、多くの小児科医が集まり、被害児の後遺症についての共同研究が始まった。広島大学、岡山大学でも同様な報告がなされ、被害児の後遺症が明らかになった。それまで被害者の苦しみを無視してきた医療機関や行政も、患者とともに14年のブランクを埋めるため努力することになった。

 丸山教授の報告を受けて、昭和44年11月30日、全国の親たちは「森永ミルク中毒のこどもを守る会(渡辺祝一理事長)」を発足させた。「守る会」は賠償金の要求ではなく、子供たちの健康回復と社会的自立を求め、そのための医学的究明と恒久的対策を国と森永乳業に要求した。

 守る会は多くの専門家や世論の支持を受け、国(厚生省)と森永乳業を相手に民事訴訟などの運動を進めた。弁護団が結成され、その弁護団の団長を務めたのが、後に住宅金融債権管理機構の社長になった中坊公平弁護士である。

 守る会は独自の「恒久対策案」を作成し、その実現を迫った。14年のブランクを埋めるため多くの支援グループが誕生し、森永製品の不買運動が広がり、森永乳業もヒ素ミルク中毒の責任を認めるようになった。同年11月4日、森永乳業は被害者に補償金15億円の拠出金を提示し、患者への恒久的救済を発表したが、「森永ミルク中毒のこどもを守る会」はこれを不十分として受け取りを拒否することになった。

 事件から19年目の昭和48年11月28日、差し戻された裁判の判決が徳島地裁で言い渡された。徳島地裁は森永乳業の刑事責任を認め、徳島工場の元工場長は無罪となったが、元製造課長に禁固3年の実刑判決を下した。「同工場が化学的検査などのわずかな手数を惜しんだための人災」と判決は述べた。

 森永側は協和産業が間違って産業廃棄物の第二燐酸ソーダを納入したことを盾に、自分たちに過失はないと主張していた。取引先を信用していたので注意義務はないと主張していた。だが工業用第二燐酸ソーダが、同じように間違って国鉄仙台鉄道管理局に納入されていたことが分かった。国鉄はボイラーの洗剤として第二燐酸ソーダを使用する予定だったが、事前に品質検査をしてヒ素の混入を発見して返品していた。この例からも、まして乳児の口に入るものを作っている食品会社が、注意義務がないなどの理屈が通るはずがなかった。

 昭和48年12月23日、「森永ミルク中毒のこどもを守る会」と森永乳業・厚生省の間で、被害児の恒久救済実施の合意が成立することになる。恒久救済とは一定額の補償金ではなく、厚生省と森永乳業の両者が、被害者が存在する限り救済を続けることだった。森永乳業は被害児の健康管理、治療、介護などのために30億円を拠出することになった。

 翌49年5月12日、森永乳業が被害児の恒久救済を表明したことから、「森永ミルク中毒のこどもを守る会」は損害賠償請求の訴訟を終結することを決定。この結果、森永ヒ素ミルク中毒事件は19年ぶりに解決し、森永製品の不買運動は取りやめになった。12月には被害児の健康管理や生活保障を行う財団法人「ひかり協会」が設立された。

 昭和59年、当時の大野勇社長が亡くなり、社長の遺族が香典の全額を被害者の救済資金として寄付。「守る会」の提案で、ひかり協会主催の「大野社長に感謝する会」が開かれた。加害者と被害者の関係を超えた信頼関係が形成されたのだった。

 森永ヒ素ミルク事件は、世界最大級の食品公害事件であった。しかも最も安全性が求められるミルクにヒ素が混入した悲劇的な事件で、日本が高度経済成長に入ろうしていた日本の工業立国のゆがみがもたらした事件であった。さらに企業の論理に立った森永乳業だけでなく、それを助けた行政、医学界を含め大きな教訓を残すことになった。

 平成4年の段階で被害者数は1万3420人である。森永ヒ素ミルク被害者の医学的特徴は、脳性麻痺、知的発達障害、てんかん、脳波異常、精神障害等の中枢神経系の異常が多いことであった。皮膚症状としては、ヒ素中毒特有の点状白斑とヒ素角化症が2%から7%に存在すること、さらにさまざまな身体的不定愁訴をもつ被害者が多いことであった。

 ヒ素が食品に混入したことによるヒ素中毒は、歴史上多数の犠牲者を出している。1900年、イギリスではビール製造過程でヒ素が混入して70人が死亡、中毒患者6000人を出している。最近では和歌山カレー殺人事件(平成10年)が記憶に新しい。

 ヒ素は毒物として古くから知られていて、ヒ素中毒を有名にしたのは、1821年にナポレオンがヒ素によって毒殺されたことである。1961年10月の科学雑誌「ネィーチャー」で、ナポレオンの遺髪から平常の13倍量のヒ素が検出されたと発表された。セント・ヘレナ島へ流されたナポレオンは、少しずつヒ素を飲まされて死亡したのである