性生活の知恵

性生活の知恵 昭和35年(1960年)

 昭和35年6月、日米安全保障条約改定をめぐり15万人のデモ隊が国会議事堂を取り囲み、連日のように「安保反対」の声が日本中に響き渡っていた。日米安保条約阻止闘争は全国で580万人が参加し、6月15日には全学連・学生8000人が国会突入を図り、完全武装の警視庁機動隊と激しく衝突した。この衝突による負傷者は双方で510人に達し、東大文学部4年生・樺(かんば)美智子(22)さんが死亡した。樺さんの追悼式には全国190カ所で2万人が参加した。

 安保闘争は激しさを増し、過激派が火炎びんや投石で交番を襲い、全国45の大学でストが決行され、まさに革命前夜のような雰囲気に包まれていた。JRの前身である国労と動労も安保反対のストを行い、全国1345カ所の集会に77万人が参加した。このような安保条約阻止の抵抗にもかかわらず、6月23日、安保条約は自動延長となった。昭和35年は新しい時代を生み出す難産の年であった。

 また一方では、池田内閣は所得倍増計画を発表し、個人所得は毎年十数%ずつ伸びていき、日本はまさに高度経済成長の入り口にあった。昭和35年は戦後の日本社会にとって大きな節目の年であった。

 この年は大きな節目の年であったが、「性」に関する戦後の人々の意識も大きく変わった年でもあった。それはひとりの産婦人科医師によって性の解放がなされたからである。

 昭和35年6月25日、安保条約が自動延長になった2日後のことである。日赤本部産院(現、日赤広尾病院産科)医局長・謝国権(しゃ・こくけん)博士が書いた「性生活の知恵」が定価320円で本屋の店頭に並んだ。

 発売された時には、「性生活の知恵」がまさかこの年のベストセラー第1位になるとは、誰も想像していなかった。むしろ発禁になったら元も子もなくなると心配していた。「性生活の知恵」は、がけから飛び降りる想いの発売だったが、何のおとがめもなく次々に売れていった。

 これほど売れるとは、著者の謝国権でさえも予想していなかった。謝は「この本がたとえ初版で終わっても、読者の幸福のために少しでも貢献したい」と本の序文に書いたほどであった。

 この本が店頭に並ぶと、それこそ飛ぶように売れていった。初刷3000部だけだった「性生活の知恵」は重版に重版を重ね、年末までに40万部、1年間で152万部を売り上げる史上空前のベストセラーになった。この売り上げにより、版元の池田書店が自社ビルを持つことができたほどであった。

 「性生活の知恵」が発売されるまで、「性」に関する本は数多く出版されていたが、それらは人前で読むことのできない淫乱なものが多く、暗がりで密かに読むような本ばかりであった。学者がまじめに書いた性の解説書もあったが、専門すぎて一般人には難解過ぎた。それまでの出版界は「性交における体位は禁物」という不文律があったため、一般人が最も知りたいことが書かれていなかった。

 「性生活の知恵」が出版される前に、ヴァン・デ・ヴェルデが書いた「完全なる結婚」の翻訳本が昭和21年に出版され、ベストセラーになっていた。しかしその内容は一般人には理解難解であった。その意味で、「性生活の知恵」は一般人向けに性生活を解説した最初の本といえる。読者は男性ばかりでなく、多くの女性も熱心に読んでいた。

 謝がこの本を書いたのは、女性の性に対する啓蒙が目的であった。産婦人科医師である謝は、それまで中絶した女性たちに避妊の指導を行ってきたが、自分たちの性生活が異常ではないかと悩んでいる女性が多いことを知っていた。

 正常位以外の体位はすべて異常とされ、時には変態と受け止められていた。性に積極的な女性は異常と思われていた。「性生活の知恵」は秘められたもの、後ろめたいものとする性意識を変え、ライフスタイルそのものを変えることになった。謝はこのような性生活のタブーを取り払い、産婦人科医師として「性」の指導を行った。「性の営みは、美しいもの」という基本的姿勢が多くの女性の支持を得た。

 「性生活の知恵」がこれほどまでに読者を引きつけたのは、性生活を誰にでも分かりやすく解説し、女性でも買えるように猥褻感をなくしたからである。当時は「性」をあからさまに語ることはタブーとされていた。

 「性生活の知恵」が発売される2年前、イギリスの作家・ロレンスの小説「チャタレイ夫人の恋人」を訳した作家・伊藤整が、最高裁で猥褻文書頒布罪により10万円の罰金刑が下されていた。伊藤整は「性は罪や汚れを伴わないもので、この作品を猥褻とする者は、その者自体が性を汚している」と主張したが、その主張は裁判で否定された。裁判官は伊藤整に、「春本とは異なるが、猥褻文書であることは否定できない」と判決理由を述べた。文壇において、芸術か猥褻かの大論争が引き起こされたが、「チャタレイ夫人の恋人」は猥褻文書として発禁となった。

 このような社会背景の中で、暮らしに余裕のできた人々は「性」を渇望していた。「性の営みは2人の愛情から」が謝国権の基本理念で、性行為の技巧の啓蒙ではなく、性行為を前提とした夫婦の精神的愛情を重要視していた。「四十八手」のような性の技巧を解説はしていたが、性の技巧はお互いの愛情をより豊かなものにする手段としていた。

 この本の特徴は、著者の謝国権が独自に考案した木製人形を使ったラーゲ(体位)の解説である。性がまだタブーの時代に、男女の体位を写真であれ、絵であれ掲載することは不可能と思われていた。このような時代にピノキオのような人体模型を用い、正常位や横臥位など、男女のからみを分かりやすく、しかも清潔に見せた。

 男性を表す黒い人形、女性を表す白い人形、この2つの人形を別々に撮影し、撮った写真を別々に紙面に載せ、性交の猥褻を感じさせずに、読者は体位を知ることができた。人形を使い100に近いラーゲ(体位)を具体的に示していた。

 女性でも抵抗なく読める「性生活の知恵」は、性の営みが明るく表現され、知的な雰囲気で書かれていた。性を美しいものとする著者の思いが読者に伝わり、読者カードによると読者の3割が女性であった。書店ではあらかじめ題名が分からないようにカバーをかけ、女性が買いやすいようにした。

 「性生活の知恵」がベストセラーになったのは、それだけの条件が備わっていた。もともと日本人は性については大らかな民族であったが、明治以降、性は子供を産むため、生殖のためとされ、快楽としての情報はなくなっていた。戦争前後の教育と禁欲を美徳とする中で、性を楽しむという概念は少なかった。一夫一婦制が強化され、売春防止法が施行され、性は個人の中に閉じ込められていた。

 農村から都市へ人口が移動し、農村共同体の崩壊は性を語る若者宿などの場所を失い、若者から若者へ言い伝えられた性文化が断絶し、夜ばいの風習も否定され、活字による性文化が始まるはざまの時期であった。

 戦争時の若者たちは、性に関する教育はなされず、子供をつくるための性行為は知っていても、性生活を楽しむことを知らなかった。知らないが故に、性欲が性生活の楽しみを求めていた。戦後の生活もようやく落ち着きを取り戻し、人々の関心が「性」に向かい始めていた時代が「性生活の知恵」を待ち望んでいた。どのような社会でも食欲と性欲は残るものである。当時の人たちはセックスの知識は少なく、無知なるが故に渇望していた。

 「性生活の知恵」には正常位という言葉は用いずに「女性仰臥(ぎょうが)位」と書かれている。男性が上になるのを正常位とすれば、女性は常に受け身で、男性が主動権を持つ社会を反映させることになる。謝が女性仰臥位と表現したのはセックスにおいては、男女は平等でむしろ受け身の女性を重要視したからである。「性生活の知恵」は性を家庭のなかで充実させ、夫婦の絆を強めるという役割を果たした。

 性への意識は、生めよ増やせよから、避妊による産児抑制に変わり、さらに性生活を楽しむ時代へと移行していった。時代が性のタブーを取り払い、秘められた性という隠微なふたを「性生活の知恵」が取り払ってくれた。多くの書籍を押しのけ、性の解説本が昭和35年のベストセラー第1位になったのは、いかにこの本の存在が偉大だったかを示している。

 「性生活の知恵」は日本のみならず、アメリカ、フランス、スウェーデン、デンマーク、オランダ、中国など各国で翻訳がなされ、世界中の人々も「性生活の知恵」を読むことになった。売り上げは総計で400万部に達し、翻訳された英語版の題名は「ア・ハッピー・セックス・ライフ」であった。

 ちなみに、この年のベストセラー第1位は「性生活の知恵」、第2位は林髞(はやし・たかし)の「 頭のよくなる本」、第3位は精神科医師・北杜夫が書いた「どくとるマンボウ航海記」、第4位は井上 靖の「敦煌」であった。

 謝は「性生活の知恵」に続いて、「続・性生活の知恵」「結婚前後の知恵」の「知恵三部作」を出版した。「性生活の知恵」は映画にもなり、映画はある団地に住む4組の夫婦の性生活の不調和問題に回答編をつけたオムニバスで、それぞれが啓蒙的役割を果たした。監督は水野洽であった。

 謝国権は月給1万円弱、6畳1間5000円の下宿生活で、本が売れ出した直後に肺結核で入院となった。謝は入院中に読者カードを丹念に読み、性は男女の愛情からという持論を変えず、興味本位の企画には応じなかった。病床では、著書の検印を押し続け、手が麻痺するほどだった。

 謝国権は大正14年に東京で生まれ、昭和24年、東京慈恵会医科大学を卒業し、昭和25年から日赤本部産院に入局していた。日赤本部産院では菅井正朝博士、長橋千代博士とともに精神予防性無痛分娩法の普及に努めていた。昭和37年に日赤本部産院を退職した後、東京世田谷区上馬で産婦人科を開業、診療に追われる毎日であったが、平成15年11月他界、78歳だった。