宝組勝島倉庫で火災

宝組勝島倉庫で火災 昭和39年(1964年)

 昭和39年7月14日午後9時55分頃、東京品川区勝島にある宝組勝島倉庫で塗料の原料となるニトロセルロースが爆発、火災が発生した。宝組勝島倉庫にはドラム缶入りのニトロセルロースが放置され、空地にもドラム缶入りのニトロセルロースが野積みされていた。

 最初の爆発が倉庫内のドラム缶だったのか、空地に野積みにされていたドラム缶だったのかは不明であるが、1回目の爆発からわずかな時間をおいて2回、3回と爆発が連続し、巨大な火柱が100メートル上空をこがした。出火の原因は自然発火か、たばこの火によるものとされたが、最終的には不明であった。

 宝組勝島倉庫は、割増し料金を取って収容能力を超える危険物を倉庫に預かり、野積みの危険物にはシートをかけてごまかしていた。火災の起きる5日前、大井消防署の査察を受け、野積みにされている無許可のニトロセルロース入りのドラム缶(2万リットル)を発見され、安全な倉庫に移すように指導されていたが、宝組勝島倉庫はドラム缶を撤去せず、さらに大量のニトロセルロースを無許可で入手し、爆発時には20万リットルが野積みにされていた。さらに隣接する倉庫にはアセトン、アルコール、シンナーなどが貯蔵されていた。

 東京消防庁は最大規模の第4出動を指令、化学消防車20台、ポンプ車713台、救急車18台、消防艇7隻を出動させ、戦後最大の消防体制をとった。

 現場は火の海であったが、ホースを握り締めた消防隊の必死の消火活動で、灼熱地獄の現場はいったん下火に向かった。ところが第1次爆発から1時間後の午後10時55分頃、最初の爆発現場から30メートル離れた倉庫に貯蔵されていたメチルエチルケトンパーオキサイド(商品名パーメックN)が2回目の大爆発を起こした。鉄筋モルタルの屋根から火柱が噴き上がり、原子爆弾を思わせるような不気味なキノコ雲が東京の空を覆った。爆風で建物が崩れ、火の付いた木片、鉄片、コンクリートが消防隊員の頭上から降り注いだ。

 この2回目の爆発火災によって、火活動に従事していた消防職員19人が外壁の下敷きになって一瞬にして殉職。道路を挟んだ現場指揮本部も吹き飛び、指揮を執っていた蒲田消防署長ほか158人が重軽傷を負い、わが国の消火史上最大の惨事となった。首都高速は通行止めになり約3時間半後の1時38分に鎮火した。

 負傷者は京浜中央病院、安田病院、外山外科に運ばれ、病院は負傷者で戦場と化した。このように多数の消防隊員が犠牲になったのは、関東大震災で22人、昭和20年3月10日の東京空襲での119人を除けば、前例のない惨事であった。

 火災の原因は、危険物の貯蔵違反によるもので、東京消防庁はすぐに関係者を東京地方検察庁に告発した。東京地裁では火災は予知可能な自然発火とされたが、東京高裁は放火の可能性もありとした。12年の歳月を経て、昭和51年10月17日、最高裁判所の上告棄却により会社には5万円の罰金、宝組関係者には執行猶予付きの刑が科せられた。消防職員19人が犠牲になった事故にしては軽い刑罰であった。

 「危険物安全の日」はそれまでは6月20日であったが、宝組勝島倉庫爆発火災の発生から7月14日に改められた。