インスタントラーメン

インスタントラーメン 昭和33年(1958年)

 昭和33年は、長嶋茂雄がプロデビューした年である。ちょうどその年の8月25日、世界初の即席ラーメン「チキンラーメン」が日清食品から発売された。お湯を注ぐだけで気楽に空腹を満たしてくれる即席ラーメンは爆発的に売れ、戦後の日本人の食生活を変えた。「お湯をかけ,

2分間でできる魔法のラーメン」、これがチンラーメンのキャッチフレーズであった。チキンラーメンは即席ラーメン、後にインスタントラーメンとよばれ、庶民の生活に定着した。

 このチキンラーメンを開発したのは、大阪府池田市に住んでいた日清食品の会長・安藤百福(ももふく)だった。安藤百福はそれまで多くの事業を手がけているが、不幸なことに2度の獄中生活を送っている。1回目は軍の支給物質を横流した嫌疑で、2回目は税金の滞納疑惑である。この2つの事件はいずれも冤罪であったが、競売された財産は戻らず無一文になっていた。その後、安藤百福は信用組合の理事長を務めるが、その信用組合は倒産し、倒産によって再び全財産を失ってしまった。このような波瀾万丈の人生のなかで、安藤百福は「どのような不幸な環境にあっても、食文化は残る」という確信があった。安藤百福は終戦直後の焼土の街で、着の身、着のままの人たちが、ラーメンの屋台に長い列を作っている光景がいつも頭から離れず、日本人が麺好きの民族であることを実感していた。

 安藤百福は借金をして、池田市の自宅裏庭に粗末な研究小屋を建て、長期間保存ができ、気楽に食べられる即席ラーメンの開発に取り組んだ。安藤百福のそれまでの人生はラーメンとは無縁だったが、お湯をかけるだけで食べられるラーメンを開発すれば必ず売れると確信していた。

 ラーメンは生麺をゆでる以外に調理法はないが、その時代にお湯をかけるだけで、ただ待つだけで食べられる手軽なラーメンをつくろうとした。古道具屋から製麺機を買い、実験を繰り返したが、実験は失敗の連続であった。

 まず麺をいかに乾燥させるかが問題になった。そしてたどりついたのは、スープの味をしみこませた麺を油で揚げて乾燥させることだった。麺を天ぷらのように油で揚げると、麺の水分が抜け麺に無数の穴ができる。そこにお湯をかけると、穴からお湯が麺全体にゆきわたり、柔らかい麺ができるのだった。チキンラーメンの麺をよく見ると、麺の1本1本は扁平な形をしているが、この扁平な形が湯の吸収を良くするのであった。

 さらにおいしいこと、保存できること、調理が簡単なこと、価格が適正なこと、安全なこと、量産できること、これらを目標に開発が進められ、麺1本の長さが50センチ、1袋に120本入れることになった。麺を揚げる油はコレステロールが少ない植物性パーム油を使用し、健康志向とした。

 チキンラーメンは、味のついた麺に熱湯を注ぎ2分間待つだけで、麺はやわらかくなり、麺にしみこんでいた味がスープとなった。このお湯を注ぐだけの手軽さが若い人たちに受け、さらにチキンラーメンという名前が覚えやすく栄養満点のイメージをもたらした。その当時、うどん1玉の値段が6円に対し、チキンラーメン1袋は35円だった。このチキンラーメンの販売価格は、店で中華そばを食べるのと変わらない値段だった。問屋はその値段の高さに顔をしかめたが、チキンラーメンは販売と同時に爆発的に売れ、品不足で悩むほどであった。

 チキンラーメンの袋は黄色い線が入り、袋の卵型の透明な窓から中のラーメンが見えるデザインであった。チキンラーメンは、テレビコマーシャル「お湯をかけて2分間待つだけ」の宣伝が人気を呼び、1袋35円の値段は30円に値下げされ、さらに当時台頭したスーパーマーケットが大衆消費者をつくり、チキンラーメンは驚異的な売り上げを示した。

 当時、ラーメンという呼び名は一般的ではなく、中華そば、支那そばと呼ばれていた。しかしチキンラーメンの登場によって、ラーメンという言葉が日本に定着した。チキンラーメンはインスタント食品の先駆けとなり、新しい大衆消費文化を築き上げた。

 昭和34年にチキンラーメンは年間1万食をこえ、昭和35年には120万食を売り上げた。他社もこの即席ラーメンブームに乗り遅れまいと、次々にラーメン工場をつくり、昭和36年には200のメーカーが乱立した。

 一方、主婦のあいだから、「肉や野菜を入れて食べたい」、「栄養のバランスを考えて調理したい」という声が上がった。この市場調査の声に答えるように、昭和37年6月、後発メーカーである明星ラーメンが「支那筍入り明星ラーメン」を発売した。それまでの即席ラーメンは「お湯をかけ味付け麺」であったが、明星ラーメンは「ナベで煮て、後で味を加える」というスープ別添えのインスタントラーメンを作ったのである。次いで東洋水産が「マルちゃんハイラーメン」を発売。スープ別添えの新製品は、昭和37年だけで日清食品の「日清焼きそば」、エースコックの「即席ワンタンメン」、東洋水産の「マルちゃんたぬきそば」と次々に新製品が登場した。麺をナベで煮る手間がかかったが、野菜や卵などを自由に入れることができ、具を入れることで味わいを加えることができた。

 スープ別添えタイプは都市部の主婦たちに好感を持たれ、インスタントラーメンは味付け麺からスープ別添え麺に変わった。この技術が他の麺類に応用され、うどん、やきそば、スパゲッティなどのインスタント麺が次々に発売された。インスタントラーメンは、昭和37年には年間10億食、昭和38年には20億食、昭和40年には25億食、昭和45年には36億食に達した。

 これまでに多くのインスタントラーメンが発売されてきたが、ベストセラーは「明星チャルメラ(明星食品)」、「ワンタンメン(エース食品)」、「出前一丁(日清食品)」、「マルちゃんのタヌキそば(東洋食品)」、「サッポロ一番(サンヨー食品)」、「長崎タンメン(サンヨー食品)」などである。明星チャルメラはホタテ味をベースに木の実のスパイスが添付され、麺に使われた小麦粉も上質のものであった。サッポロ一番はガーリックのきいた味で乾燥ねぎが入っていた。出前一丁は胡麻ラー油が付いていた。インスタントラーメンはテレビ・コマーシャルで何度も放映され、各社は競い合いながら売り上げを伸ばしていった。

 昭和46年9月、日清食品が「カップヌードル」を発売した。開発したのは安藤百福で、安藤百福は即席ラーメンだけでなく、「カップヌードル」も開発したのだった。カップヌードルは発泡スチロール容器に入った味付け麺で、お湯を注ぐだけの商品だった。

 「おいしさに国境はない」、このことを信じていた安藤百福が、チキンラーメンの売り込みのため欧米へ視察旅行にいった。ロサンゼルスのスーパーで何人かのバイヤーに試食を頼んだが、アメリカには麺を入れるどんぶりがなかった。すると彼らは紙コップにチキンラーメンを砕いて入れ、熱湯を入れてフォークで食べ始めたのである。そして食べ終わったコップをそのままゴミ箱に捨てたのだった。安藤百福は「おいしさに国境はないが、文化圏の違う国でもインスタントラーメンが食べられるようにする」と決意した。そして安藤百福が注目したのが自販機の紙コップとフォークであった。この使い捨ての光景が「カップヌードル」の原点になった。

 カップの材料は身体に害を与えない発泡スチロールを採用した。発泡スチロールのお湯は冷めにくく、手に持っても熱くないのが特徴で、カップヌードルの開発に大きな前進をもたらした。カップヌードルは構想から5年後に発売され、いつでも食べたいところで食べられる新しいラーメンの誕生となった。カップヌードルの登場は、インスタントラーメン市場にインパクトをあたえ、市場は再び活気づき生産量が急増した。

 カップヌードルが最初に注目されたのは、昭和47年2月の連合赤軍による「浅間山荘事件」であった。開発されたばかりのカップヌードルはまだ店頭には並ばず、日清食品は販売ルートを検討中であった。そして最初に納入されたのが警視庁の機動隊であった。浅間山荘事件で、寒空の下で機動隊員が湯気の上がるカップヌードルをすする姿が何度もテレビで放映され、日本の茶の間にカップヌードルの存在を強烈に印象づけることになった。インスタントラーメンが30円の時代に、カップヌードルの値段は100円であったが、お湯さえあればいつでも食べられるカップヌードルは飛ぶように売れた。

 高度経済成長のもと、カップヌードルは寸暇を惜しんで働く日本人の胃袋を満たした。さらに世界中の飢餓や災害の現場に欠かせない貴重な食料となった。カップ麺の総生産量は昭和47年に1億食、昭和48年に4億食、昭和49年に7億食、昭和50年には11億食と驚異的に伸び、平成元年に袋麺を抜いた。

 世界中で食べられている即席麺は、現在1年間で約500億食になっている。日清食品の工場はアメリカ、中国、インドなど世界8か国25か所で、それぞれの国に合わせた味の即席麺を作っている。

 平成7年1月17日に阪神大震災がおきると、安藤百福はすぐに援助隊を結成し、給湯器付きのライトバン3台と即席麺1万5千食を震災地に送りこんだ。そして即席麺は寒さと空腹に苦しむ被災者の胃袋だけでなく心までも温めた。さらに震災で肉親を失った学生に安藤百福は奨学金を提供した。

 現在、大阪府池田市に「インスタントラーメン発明記念館」が建てられ、年間10万人が来館している。その1階展示ホールには安藤百福が「チキンラーメン」の開発に没頭した研究小屋が再現されている。安藤百福は勲二等旭日重光章を受賞し、「人間にとって一番大切なことは創造力で、発明、発見が歴史を動かす」という言葉を残している。

 平成19年1月5日、急性心筋梗塞のため大阪府池田市の市立池田病院で死去、享年96。ニューヨークタイムズは「ミスターヌードルに感謝」という見出で訃報を伝えた。