原爆乙女

【原爆乙女】昭和29年(1954年)

 広島市、長崎市に投下された原子爆弾は20万人以上の死者だけでなく、生存者にも後遺症などの被害をもたらした。被害は発がんや遺伝的影響だけでなく、精神的な悩みや不安など生活全般に及んでいた。火傷によるケロイドの後遺症のため婚期を逸してしまった女性は、「原爆乙女」「原爆娘」の名前で呼ばれ、多くの同情が集まった。

 昭和27年6月、広島の「原爆乙女」9人が皮膚のケロイド治療のため東京へ向かった。これが広島での本格的な被爆者医療再開のきっかけとなった。まず、市内の外科医が同年7月から診察と治療に乗り出し、翌28年1月には医師会を中心に広島市原爆障害者治療対策協議会が結成された。

 このような医師の努力のなかで、昭和30年5月、最新の治療を受けるため25人の原爆乙女がアメリカから招かれ渡米することになった。作家パール・バックらが資金援助を行ったのである。ここで興味あるエピソードがある。原爆乙女がアメリカから招かれる前年の昭和29年に、ビキニ環礁での第五福竜丸の水爆被害があり、アメリカ内外で反核運動が盛り上がりをみせようとしていた。アメリカ国務省は、原爆乙女による反核運動の影響を心配して、少女たちが岩国飛行場の輸送機に乗り込もうとしたちょうどその時に、「少女たちのアメリカ行き飛行を即刻中止せよ」との電報が極東アメリカ・ハル司令官に届いた。しかしハル司令官は飛行を中止せず、老眼鏡がないので読めないと言って国務省の命令を無視したのである。

 原爆乙女25人が岩国飛行場からニューヨークへ向かい、マウントシナイ病院で1年近くケロイドの治療を受けた。ハル司令官の行動は、後にアメリカ国内で高く評価されている。