終戦と自決

 昭和20年8月15日の終戦とともに、500人以上の軍人が自らの命を絶った。阿南惟幾陸軍大臣(享年58)から無名の二等兵に至るまで、自決した軍人の階級はさまざまであった。軍の上層部の自決は天皇の軍隊を敗北に導いた責任を感じ、さらに多くの部下を死なせた責任、降伏の屈辱に駆られてのことであった。終戦によって多数の殉国の士を出したことは、有史以来、初めてのことである。
 終戦のあの暑い日からすでに65年が過ぎ、今日では国に殉じた尊い人たちについて語られることは少なくなった。終戦によって日本は新しい国に生まれ変わったが、平和な日本を願いながら、国の運命をかけて自らの命を絶った人たちがいた。戦争責任は別として、日本を想い死んでいった多くの英霊たちがいたことを忘れてはならない。私たちは彼らの至高至純の精神を永遠に伝えるべきなのに、多くの英霊たちをあまりに粗末に扱っているのではないだろうか。現状をわびたい気持ちになる。
 8月15日5時30分、玉音放送が始まる日の早朝、最後まで本土決戦を主張していた阿南陸相は「一死以て大罪を謝し奉る。神州不滅を確信しつつ、大君の深き恵に浴みし身は、言い遺すべき片言もなし」との遺書を残し、東京・三宅坂の陸相官邸で割腹を遂げた。阿南陸相は陸軍将校の間で進められていた終戦阻止のクーデターを前日に阻止、昼に予定されていた天皇陛下の玉音放送を、「拝聴するに忍びない」と玉音放送の前に自決した。帝国陸軍の最後の大臣となった阿南陸相はポツダム宣言以降、徹底抗戦、本土決戦を主張したが、日本の終戦に強い自責の念をもっていた。陸相に就任して4カ月であったが、終戦の難局に際しての阿南陸相の自決は陸軍の強硬派を沈静化させた。
 玉音放送と同時に、軍部は米軍への攻撃中止命令を出した。8月15日午後5時、この中止命令にもかかわらず、宇垣纒中将(58)ら17人は大分の海軍飛行場から11機の爆撃機「彗星」に分乗し、沖縄の米艦隊に向けて特攻攻撃を決行した。宇垣中将は「部下隊員が桜花と散りし沖縄に進攻」と打電して太平洋に散華した。8月16日には、海軍特攻隊の生みの親である大西滝治郎海軍中将(50)が「吾が死を以て旧部下の英霊とその遺族に謝せんとす」との遺書を残し、官邸で自決している。
 終戦時の陸海軍の自決者については、書籍「終戦時自決烈士芳名録」に記録が残されている。将官以上の自決者37人の内訳は陸軍が32人、海軍が5人となっている。海軍に比べて陸軍将官に自決者が多いのは、本土決戦、一億総玉砕を陸軍が号令し、それを真剣に受け止めていた証拠といえる。自決烈士芳名録に526人の名前が記されているが、名を残さず自決した軍人はその数倍に達していた。
 軍人のみならず、右翼を初めとした民間団体でも集団自決が相次いだ。8月22日には、日本の降伏に不満を持つ尊攘同志会員12人が東京・愛宕山で割腹自決している。翌23日には、右翼団体である明朗会(日比和一会長)13人が宮城広場に集合し、青酸カリをあおって自決。翌24日には大東塾生14人が降伏に反対して代々木練兵場で一斉に切腹している。彼らの自決は軍指導部が導いた終戦への抗議、天皇の臣としての責任、神国の復活を唱えてのみそぎの意味が含まれていた。彼らの壮絶な死は、神国日本の崩壊に虚無を感じ、虚脱感の中で日本の国に殉じたのである。
 人知れず自決した者は数多くいるが、その中に橋田邦彦がいる。橋田邦彦は近衛、東条両内閣の文部大臣で、同年9月14日、戦争犯罪人に指名され、出頭を求められ荻窪の自宅で自決した。橋田邦彦は東京帝国大医学部を卒業、医学部生理学教室からドイツへ留学、帰国後に東京帝大医学部教授となり、第一高等学校長を経て文部大臣になった。戦時中に流行した「科学する心」という言葉は彼の造語である。橋田邦彦の遺書には「戦争責任者として指名されしこと光栄の到なり、さりながら勝者の裁きにより責任の所在軽重を決せられんことは、臣子の分として堪得ざる所なり。皇国国体の本義に則り茲に自決す」と書かれていた。橋田は自分の生き方に筋道をたて、自らを処する方法として自決を選んだのである。
 終戦を信じず、一億総玉砕を信じていた時代である。辱めを受けるより、潔い死を当然とする人たちが多くいた。自らの命を国にささげた4000人以上の特攻隊員、降伏を潔しとせず玉砕攻撃で死んでいった軍人、聖戦の勝利を疑わなかった人たち、彼らの愛国心あるいは武士道の精神に基づく死が自決であった。
 自決と自殺とは、その潔癖性と決然性において大きな違いがある。昔から日本人が桜を好むのは、その散り際が潔いからで、武士道による「死を美徳と捉える」のが当時の日本人の根底にあった。自決と自殺とは、ともに自らの生命を絶つ行為であるが、動機の純粋性において両者は大きく異なっている。
  自決に至ったのは軍人や右翼ばかりではなく、むしろ沖縄や満州では非戦闘員、すなわち民間人の自決の方が圧倒的に多かった。民間人の自決は軍人の自決とは、その意味合いが異なっていた。逃げ場を失った民間人は捕虜となって生き恥をさらすことになる。この行き場のない絶望感が自決の動機だった。
 鬼畜のごとき敵兵が男性を殺し、女性を辱しめる絶望感が自決の根底にあった。自決を「みずから決断した責任ある自殺」と定義するならば、民間人の自決は軍国主義に強要された自決、あるいは洗脳された死であって、その意味では最も悲惨な戦争犠牲者といえる。
 昭和19年7月8日、真珠湾奇襲を成功させた南雲忠一中将はサイパンの洞窟で自決。米軍は投降勧告を行ったが、日本兵は「バンザイ突撃」で玉砕した。残された民間人にはさらなる悲劇が待っていた。老人、婦人、子供たちは島の北端までたどり着くと逃げ場を失い、手榴弾を爆発させ、毒薬をあおって死んでいった。マッピ岬(バンザイクリフ)の断崖から多くの女性が海へ身を投じた。
 昭和20年4月1日、沖縄の中部にある読谷村(よみたんそん)の海から米軍が上陸。村民140人は村から500メートル離れたチビチリガマに隠れ、140人のうち83人が集団自決、その6割が18歳未満であった。沖縄では数多くの集団自決が相次いだ。沖縄師範学校、県立第1女子高校などの女子生徒と教師で結成された「ひめゆり部隊」は、看護要員として動員され443人が戦争に参加し249人が戦死。そのなかには青酸カリを配られ自決を命じられていた者が多くいた。逃げ場を失った女学徒たちは、青酸カリを飲み、あるいは崖から身を投じて命を絶った。
 8月9日、満州ではソ連が日ソ中立条約を一方的に破棄し、突然、攻撃してきた。逃げ遅れた1万人以上の民間人が、生きて辱めを受けまいと各地で自決した。満州の開拓団では、成人男性のほとんどが軍に動員され、開拓団に残された者は、病弱者、女性、子供ばかりであった。8月15日、日本は無条件降伏を表明したが、ソ連軍は無抵抗な民間人を殺戮していった。ソ連軍の攻撃に蹂躙され、住民の攻撃を受け、日本へ帰る道を絶たれた女性たちは自決の道を選んだ。ソ連軍の圧倒的な戦力により、軍人には民間人を助ける余裕がなかった。自決の方法は縊死、溺死のほか、塩酸モルヒネ、亜砒酸、青酸カリなどによるものが多かった。
 8月12日、哈達河(ハタホ)開拓団421人が集団自決。8月17日には272人の来民開拓団が集団自決するなど、開拓団の集団自決が相次いだ。石川県鳥越村の出身者を中心とした白山郷開拓団は、8月27日に「集団焼身自決」の悲惨な最期をとげ100人以上が亡くなった。満州長安の病院では、最後まで現地に残っていた22人の看護婦がソ連軍の辱めを受け、あるいは受けまいとして集団自決している。
 「満州開拓史」によると、全滅あるいは自決した者は1万1500人。病没と行方不明者を合わせると、開拓団の死者は7万8500人で、全開拓団の3人に1人が死んでいる。国から見捨てられた満州開拓団の悲劇は残留孤児、残留婦人の現実を残すことになった。
 サハリンでも病院に残った看護婦23人が集団自決を図り6人が死亡。同じサハリンの真岡郵便局では若き電話交換手9人が集団自決を図り死亡している。戦火に包まれたサハリンで最後まで仕事を全うし、ソ連軍が迫ってきたことを知ると、まだ通じる電話で「皆さんこれが最後です。さようなら、さようなら」の言葉を残し、青酸カリで集団自決した。サハリンを望む北海道・稚内公園の丘の一角には、彼女たちの死を悼んで「9人の乙女の碑」が建っている。
 このように民間人の絶望による自決が相次ぐなかで、昭和12年以降3度の総理大臣を勤めた近衛文麿(公爵)は、公家にありがちな優柔不断の態度であった。戦犯容疑でGHQから出頭を命じられると、出頭当日の12月16日の朝、杉並・荻窪の自宅で青酸カリを飲み自殺した。近衛は日本最後の華族で、罪人になって縄をかけられる屈辱に耐えられなかったのである。
 一方、東条英機元首相はGHQに逮捕される直前の、9月11日午後3時半すぎ、自宅でピストル自殺を図った。しかし自殺は失敗に終わり、米軍の手で病院に運ばれ、一命を取りとめた。東条英機は極東軍事裁判で死刑となり、昭和23年に巣鴨刑務所で絞首刑となったが、国民はこの自殺の失敗を単なる醜態と受け止めた。
 東条英機は軍人や民間人に「捕虜となるなら、潔く自決せよ」と命じながら、逮捕の日まで未練げに生き、外人のようにピストルを用い、取り乱して自殺に失敗したことへの国民の反応は冷ややかだった。東条英機は戦勝国に裁かれることを拒み自殺を図ったが、それは自決ではない。恥の上塗りであった。
 終戦と敗戦、退却と転進、占領軍と進駐軍、このように言葉の言い換えがあるが、自決は自決であって、自殺とは明らかに違う行為である。
 終戦により、日本は新しい国に生まれ変わったが、その陰には平和国家の実現を願いながら、国の運命とともに自らの命を絶った人たちが多くいたことを忘れてはならない。至高至純の精神を持った日本人の殉国の事実を歴史にとどめるべきであるが、忘却の彼方に埋没している。