優生保護法の成立

優生保護法の成立 昭和23年(1948年)

 昭和23年7月13日、優生保護法が公布され、妊娠中絶の条件が緩和された。当時の優生保護法は中絶によって終戦後の人口増加を抑制することで、さらに危険なヤミ堕胎を減らして妊婦の健康を守ることであった。

 それまでの国民優生法(昭和15年)は、富国強兵政策のため、産めよ増やせよの時代につくられた法律で、妊娠した女性は国家によって出産が義務付けられていた。女性は国のため、あるいは家系制度のため、子供を産むことが当然とされていた。遺伝子疾患などの例外を除けば、中絶は堕胎罪によって禁じられ、取り締まりも強化されていた。「堕胎を罰することは不条理」と訴えた女性雑誌「青踏」は発禁処分になり、女優の志賀暁子が見せしめのため堕胎罪で逮捕され懲役2年、執行猶予3年の判決を受けている。堕胎罪は女性だけが罰せられ、男性は処罰されない法律であった。

 終戦により爆発的なベビーブームとなり、日本の国土は6割に減少したのに、年間160万人もの赤ん坊が生まれたのである。当時は食糧難の時代で、日本の経済や食糧事情に見合う人口に抑制が急務だった。そのため産児制限が必要だったが、当時の一般成人は性行為を楽しむという概念は薄く、避妊という言葉を知らなかった。性行為は子供をつくるための行為としていた。

 昭和24年の朝日新聞の世論調査では、日本の人口が多すぎるとする者が全体の80%で、避妊をしている夫婦はわずか9%にすぎなかった。このように避妊を実行している夫婦は少なく、それでいて中絶は法律で禁止されていたため、ヤミの中絶に頼らざるを得なかった。生活苦、父親の蒸発などの理由で「望まない妊娠をした場合」には、ヤミの人工中絶が公然と行われていた。ヤミ中絶はもうかることもあって、産婦人科医ばかりでなく内科、外科、獣医などの畑違いの医師までも中絶に手を出した。

 その結果、妊婦の子宮を傷つけ、細菌感染で死亡させる事故が多発し、このような事情から中絶を緩和し、安全な中絶によって妊婦を保護する政策が必要になった。優生保護法の原案は、産児調節運動家の太田典礼が中心になって作成された。太田典礼は、議員の加藤シズエや福田昌子(医師)らとともに優生保護法を成立させるために奔走した。

 太田典礼がめざした優生保護法は、法律で人工中絶を緩和することで、女性の立場から中絶の条件を緩和し、女性が自分の意思で中絶できる法案を考えていた。つまり堕胎罪をなくしたかったのであるが、「障害者や精神病患者などが増えると困る」という優生思想がまだ一般的だったため、太田らは堕胎罪を残したまま中絶条件の例外を緩和する方針を出した。

 太田らは優生保護法を「食糧難と人口増加、ヤミの人工中絶をやめさせるため」として、GHQの承諾を得ることに成功した。当時はまだ国会審議よりGHQの方が優先されていた時代であった。このように優生保護法は成立したが、人工中絶は本人、配偶者の同意だけでなく、優生保護委員会による審査が必要だった。また中絶を行う医師の資格を厳しくしたため、指定医不足が生じた。

 優生保護法は何回かの改正を受け、昭和24年の改正では「経済的理由による中絶」が追加され、これで中絶件数は急増することになる。昭和27年の改正では、優生保護委員会による審査が廃止された。刑法では堕胎罪はまだ残っていていたが、優生保護法の「経済的理由による中絶」の規定により、事実上、女性は逮捕されずに中絶できるようになった。

 優生保護法は避妊具の販売、避妊の指導についても定められていた。そのため避妊の啓蒙運動も次第に浸透していった。医師以外でも、保健婦、助産婦、看護婦などによって避妊器具を用いた受胎調節の指導が行われるようになった。避妊器具としては、ペッサリー、避妊用スポンジ類、避妊リングなどが指定され、避妊によって性生活を楽しむという概念が一般化した。製薬会社も避妊薬を続々と開発し、産児制限の国策に協力した。

 昭和24年4月29日、多数の避妊薬が新薬として厚生省の認可を受けた。エーザイから発売された避妊薬「サンプーン」は「イチ、ニ、サンプーン、3分で溶ける」のキャッチフレーズで発売された。サンプーンは膣に入ると泡が出て精子を殺す避妊薬である。また、「1姫、2太郎、サンシーゼリ」の宣伝で「サンシーゼリ」が発売された。

 このように同年だけで避妊薬ゼリー3品目、避妊錠剤4品目が発売され、多くの避妊薬が薬局の棚に並ぶことになった。薬剤の発売は厚生省の認可が必要であるが、終戦から24年までに申請された新薬のすべてが避妊薬であった。このことからも、いかに産児制限が重要な国策であったかが分かる。

 優生保護法の目的は「母体の生命健康の保護と人口抑制」であったが、優生保護法は優生上の見地から不良な子孫の出生を防止すること、つまり悪い遺伝子を持つ子供の出生を防止する意味が含まれていた。実際には人工中絶の99.9%までが「経済的理由」であったが、条項にある「不良な子孫の出生の防止」が障害者差別と非難されるようになった。

 優生保護法には障害者の出生は家族と社会に負担をもたらし、本人の不幸にもつながるという偏見が含まれていた。

 つまり戦前の国民優生法は遺伝性疾患を持つ女性の不妊手術を認めていたが、戦後の優生保護法は優生手術の対象を遺伝性疾患だけでなく、ハンセン病、精神病、総合失調症にも拡大解釈し、本人の同意なしに手術できるようになっていた。そのため優生保護法は「女性の生殖を支配し、障害者と女性の人権を侵害している」と非難されるようになった。事実、精神病院や収容施設に入所している女性患者に、本人の同意を得ずに子宮摘出が行われた例があった。この優生保護法による本人の同意のない優生手術は、昭和24年から平成6年までに、統計上だけでも約1万6500件実施されていた。優生保護法が大きな変化をきたすのは平成の時代に入ってからである。

 平成8年、優生保護法は49年ぶりに改正され、母体保護法と名前が変わり、優生思想に関する旧条文が全部削除された。この改正は優生思想の排除が目的で、人工妊娠中絶は母体の生命健康に限定され、胎児に関するものは認められなくなった。

 中絶方法は妊娠12週までは頚管拡張後、吸引あるいは掻爬術が行われる。12週以降はラミナリアやメトロイリンテルにより頚管を拡張させ、プロスタグランジン製剤(腟剤、静脈内点滴)により人工的に陣痛を誘発させるのが一般的である。実施には本人と配偶者の同意書が必要で、指定医は毎月都道府県知事に実施報告書を提出する義務がある。人工妊娠中絶が可能なのは妊娠満22週未満となっている。

 現在では出産は本人の意思に基づいて行われるが、戦前までは出産の意思は国家が決定していた。それが戦後成立した優生保護法により、出産における国家の影響力は薄れ、代わりに医師の関与が加わった。現在では、出産する女性の自由な意思によって出産を決めるべきとの考えが強くなっている。つまり配偶者である男性の意思を考慮せず、女性の意思による出産である。

 母体保護法の指定医は妊娠中絶を届け出る義務がある。届け出件数は、昭和35年に106万件であったが、平成2年には45万6797件、平成9年には33万7799件と減少している。年齢分布では20代から30代の中絶が最も多く、10代の人工中絶も徐々に増加し、平成9年には全体の7.9%に達している。

 医学の進歩は著しく、出産についても例えば多胎児出産における胎児減数手術、不妊症における凍結受精卵、障害児の出生前診断など多くの難題が投げかけられている。生殖技術の進歩に伴い、人間がどこまで生命を操ってよいのかという倫理、法律、宗教、哲学がついて行けないのが現状である。