黄変米

黄変米 昭和27年(1952年)

 昭和45年にコメの過剰生産が社会問題になり、そのころから日本は飽食の時代を迎えることになった。しかし昭和20年代の日本は食糧難に苦しみ、主食であるコメの一部を輸入に頼っていた。アジアやアメリカはもとより世界各地からコメが集められ、ヨーロッパ、アフリカからも商社によって買われたコメが、日本に送られてきた。

 当時の日本の人口は8900万人で国産米は1240万トン、現在の日本の人口は1億2400万人で国産米は1060万トンである。現在の私たちに比べ、当時の日本人は2倍以上のコメを食べ、毎年100万トンのコメを輸入していた。コメはまさに日本人の主食であった。

 コメは世界中から集められたが、それでもコメは不足し、ヤミ米の値段が跳ね上がっていった。農協の倉庫を狙うコメ泥棒も頻発していた。一方、外国からの輸入米は現地での保管状態が悪く、船倉で赤道を越える間にカビが生え、カビの繁殖によってコメ粒の表面が黄色に変色した黄変米(おうへんまい)が社会問題となった。

 昭和27年12月12日、神戸港に陸揚げされたビルマ米5000トンを神戸検疫所が検査したところ、3分の1が肝臓や腎臓に悪影響を及ぼす黄変米であったと発表された。この発表と同時にビルマからの輸入米は配給停止になった。さらに同月18日には、清水港に陸揚げられたタイ米にも黄変米が大量に混入していることが分かった。

 カビが寄生した黄変米は、昭和22年頃からすでに問題になっていて、カビの毒素が肝機能障害、神経障害、腎障害、貧血などの障害を起こすことが、ネズミの実験で明らかになっていた。毒素を出すのはペニシリウムに属する3種類のカビであった。東南アジアに従軍していた兵隊たちが、このカビに汚染されたコメを食べ、肝臓や腎臓の障害をきたしたことが知られていた。

 政府にとって、この汚染された6万トンの黄変米をどのように処理するかが問題になった。現在では食品に含まれる有害物質の許容濃度は、その基準が厳しく定められているが、当時はそのような概念はなかった。

 厚生省と農林省は、黄変米を日本産のコメに2.5%の割合で混入させ、1カ月に1日程度で配給すれば人体に害もなく無駄にならないと説明した。厚生大臣・草葉隆円は記者会見で黄変米入りのカレーライスを食べ、その安全性を国民に訴えた。

 政府はこのようにして黄変米を強引に販売しようとしたが、黄変米騒動は厚生大臣が試食した程度ではおさまらず、さらに世論を刺激した。婦団連、主婦連などの婦人団体は、政府の不手際を国民の犠牲でごまかすものと黄変米反対運動を開始し、黄変米は国会で追及されることになった。

 学者たちは黄変米の有害性を警告し、婦人団体は反対運動を繰り返し、黄変米の安全性についての議論が5年間も続いた。しかし昭和29年、政府は13万8000トンに及ぶ黄変米を廃棄処分にすることを決定。この決定により、5年にわたる黄変米騒動に決着がついた。決定された前年は、戦後最悪の大凶作で、輸入米は約30年ぶりに100万トンを超えていた。それにもかかわらず政府の黄変米廃棄処分の決定は素晴らしい決断であった。