日本人の飢餓を救ったララ物資

 終戦当時、日本は深刻な食糧不足とインフレに苦しめられていた。日本政府はアメリカに食糧援助を要請するが、「日本の破綻は日本国の責任である」としてアメリカは食糧援助を拒否していた。この状況を知ったアメリカの日系人たちは、日本の窮状を助けるために資金集めに奔走した。日系人はやっとの思いで援助物資を集め、日本へ輸送しようとしたが、アメリカ政府は日系人が日本に援助物資を送ることを許可しなかった。そのため日系人たちは救世軍などの宗教団体や労働団体に頼み、彼らの名前を借りて日本へ援助物資を送ることにした。
 日系人たちの努力によってアメリカの各団体が結集し、ララ(LARA : Licensed Agencies for Relief of Asia、アジア救済連盟)が組織されることになる。このララの呼び名から、またアメリカの宗教団体の名前で援助されたことから、ララ物資が日系アメリカ人からの贈り物であることを知る人は少ない。現在でもほとんどの歴史書はララを日系アメリカ人からの贈り物とは記載していないが、ララ物資は日系人が中心になってなされたのである。
 食糧難の日本にとってララ物資は天の助けだった。文字通り干天の慈雨で、当時の金額にして400億円に及ぶ食糧、衣料品、衣服などが日本に送られてきた。昭和21年11月30日に第1船が横浜に入港、それ以後、援助は27年6月まで続けられた。
 ララ物資は生活に困っている人たちに配分され、ミルク、穀物、バター、ジャム、缶詰などの食料は、戦災孤児、結核患者、老人施設、国立病院、保育所、学校などに優先的に配布された。ララ物資は国民の15%に行き渡り、ララ物資が日本の食糧危機を救った。
 昭和21年の東京都の調査では、1日に1度も米を食べていない学童は43%に達していた。育ち盛りの学童にとってララ物資の恩恵は大きかった。昭和22年に学校給食が始まったが、学校給食の脱脂粉乳もララ物資によるものであった。ララ物資が日本人の飢餓を救ったが、同時に、日本人の対米感情を大きく好転させた。ララ物資が「日本を愛する日系アメリカ人」の努力によってなされたことを重ねて強調したい。