人間ドック


人間ドック 昭和29年(1954年)

 医療の目的は病気を治すことであるが、人間ドックの目的は病気を早期に見出し、軽症のうちに対策を講じ、重症化する前に病気を予防して治療することである。そのため人間ドックを受けるのは自覚症状のない者がほとんどである。人間ドックの名称は、船舶が定期的に船体をチェックする「船舶ドック」から転用したもので、人間も船舶と同じように「自覚症状をきたす前に病気をチェックする」という考えに基づいている。

 昭和29年7月12日に、国立東京第一病院(現、国立国際医療センター)院長・坂口康蔵の発案により人間ドックが始められた。人間ドック利用者の第1号は代議士の首藤新八夫妻で、身長、体重、血圧測定、尿、血液が調べられ、医師の総合的診断と指導が行われた。期間は5泊6日で料金は1万2000円、当時としては高額であった。

 このように人間ドックは社会的に地位のある者が、安心して仕事を行えるように体調を整える目的から始まった。戦後の混乱が落ち着き、生活にゆとりができ、国民の関心が自分の健康に向いてきたのである。ペニシリンにより感染症の脅威が薄らぎ、心筋梗塞、脳卒中、糖尿病、高脂血症、がんなどの予防可能な成人病が注目されるようになった。医学の進歩とともに、疾患への関心も予防医学へと変化したのだった。

 それまでの検査は医師が顕微鏡をのぞき、試験管を振って結果を出していたが、検査の自動化と簡素化が人間ドックの普及に貢献した。検査の進歩とともに人間ドックの入院期間は短くなり、値段も安くなり、全国の病院に普及していった。人間ドックの費用は自己負担であるが、病気の早期発見、早期治療になることが宣伝されて普及することになる。

 また人間ドックは自由診療なので、自由に値段を設定することができた。病気を発見すれば、その患者を病院で囲い込むことができ、高額な医療機器をフル回転させ、医療機器を効率よく利用することができた。このように人間ドックの普及は、病院経営上の動機もあった。

 多くの人たちが人間ドックに期待するのは当然であるが、実際にはそう単純ではないことが昭和60年ころから言われている。人間ドックの早期発見、早期治療のメリットが疑問視されるようになったのである。つまり「人間ドックを受けて健康に留意している人たちが、健康で長生きをしている」との科学的証拠がなかったからである。また人間ドックを受診した3人に1人が異常と診断され、人間ドックが健康な患者を増やしているとされた。

 人間ドックの効果は「費用に見合うだけの医療効果」があるかどうかである。この費用対効果が議論され、特にがん検診が疑問視されるようになった。アメリカで肺がん検診の有効性について大規模な追跡調査が行われ、肺がん検診の受診者と非受診者を比較すると、肺がんの死亡率に差がないことが報告されたのである。

 肺がん検診が無効となったのは、肺がんと早期に診断されたても、肺がんの治療成績が悪いためであった。また乳がん検診でも、検診で見つかった患者と、病院の外来で見つかった患者の10年生存率を比較すると、両者ともに生存率は約80%で検診の有効性はないとされたのである。

 人間ドックや検診で病気を早期に発見しても、死亡するまでの時間が同じならば、早期診断患者は病気で悩み、闘病生活が長くなるだけである。早期発見が早期治療に結びつき、早期治療が患者に利点をもたらさなければ意味がないのである。検診の効果を否定するアメリカの報告から、日本でもがん検診の有効性が再検討することになった。

 平成6年4月21日、厚生省は「がん検診の有効性に関する情報提供のための手引き」を発表。この手引きを個別に見ると、胃がん、子宮頚がん、大腸がんは有効としているが、子宮体がん、肺がん、乳がんは有効性を示す根拠は十分でないとしている。

 それまで厚生省は「がん検診」を推奨し、年間2200万人が受診して約600億円の公費を投入してきたが、平成10年、厚生省は「市町村に義務付けていたがん検診の補助金」を打ち切る決定を下した。では人間ドックはどの程度有効なのか興味があるが、この疑問に答えるのは難しいことである。現在、人間ドックの検査項目は膨大で、各検査が受診者にどれだけ有効なのか不明の部分が多いのである。

 例えば、新しい医療機器であるMRIによる脳ドックが流行しているが、脳ドックについてもその有効性に疑問が投げかけられている。MRIを脳梗塞の予防に役立てようとしても、どのように予防するのか。さらに「くも膜下出血の原因として脳の動脈瘤の発見のため」とされても、MRIで動脈瘤を発見されても、手術を受けずに余命を全うする者もいれば、予防的手術を受けて死亡する患者もいるわけで、その有効性についてまだ明確ではなく、また病院間に技術の差があることも問題になっている。

 現在、検診や人間ドックで確実にメリットがあるのは、胃がん、大腸がん、子宮がん、糖尿病の診断のための血糖値の測定、血圧ぐらいである。人間ドックは検診とは違い、検査項目を選択することができ、肺がんのヘリカルCT検査、胃がんの内視鏡検査は有効である。

 病院経営からすれば、人間ドックは医療機械をフル回転させ、投資した資金を回収するうえで利点は大きい。このような病院の事情があるため、人間ドックの利点が過剰に宣伝されがちであるが、「受診する者の期待と人間ドックがもたらす利点」に大きな隔たりがある。

 「肺がん検診は、結核の減少で仕事の減った医師を救済するため」などとかつて悪口が陰で言われていた。今後、人間ドックや検診の科学的有効性を証明することが大きな課題になるが、いずれにしても年間300万人近い健康人が検査を受けているのが現状である。

 ところで人間ドックや検診により寿命が延びたとする報告はないが、その逆の報告がある。それはフィンランド症候群、あるいはフィンランド・パラドックスといわれる報告である。この研究はフィンランドの保険局が行ったもので、40歳から45歳の管理職1200人を2つのグループに分け、1つのグループ600人には定期検診、栄養学的チェック、運動、禁煙、禁酒、塩分制限などの健康管理を厳格に実施。もう1つの600人グループには目的を説明せずに健康調査のみを行い放置した。この調査開始から15年後、予想とは全く逆の結果となった。健康管理をしなかった放置群のほうが心臓血管系の病気、高血圧、がんの発症、死亡率、自殺率、これらすべてが管理群より少なかったのである。

 このことは何を意味しているのか。健康を求めることがストレスとなり、健康に無頓着な人間のほうが長生きすることを示唆している。人間の健康を管理しようとすると、その逆の現象が起きる。これが健康管理のパラドックスである。健康管理がストレスを生み、そのストレスが健康に悪影響を及ぼすと推測されている。

 健康のためには厳格な健康管理が良いとする思い込みがあるが、フランス人はヨーロッパ人の中で飲酒もたばこの本数も多いが、ヨーロッパ人の中では長生きの方である。またモルモン教徒はキリスト教徒の中で最も厳格な生活を行い、禁酒、禁煙は当たり前であるが、モルモン教徒の平均寿命が一般人より有意に長いというデータはない。

 国民が健康を願うのは当たり前であるが、「健康ばかりを気にする不健康な人間」が増えることになる。健康はまじめに考えず、ある程度いい加減な部分がないと、健康不安病が増えるのである。「テレビの健康番組が健康狂騒曲を奏でる」ように、健康を求めることが悪い結果をもたらす可能性がある。

 かつて短命国だった日本は、健康を気にかけないまま世界一の長寿国となった。真に健康的な生活を目指すならば、酒、たばこに重税を課し、体重にも重加算税を設けるのがよいと思われる。