マルセル・ジュノー博士

マルセル・ジュノー博士 昭和20年(1945年)

 昭和20年8月9日、国際赤十字委員会から駐日主席代表に任命されたスイス人医師、マルセル・ジュノー博士(1904〜61)が、戦火を避けながら満州から飛行機で羽田に到着した。この日は日本が無条件降伏する6日前のことで、ちょうど2発目の原爆が長崎に投下された当日のことである。

 エチオピア戦争、スペイン内乱などを経験しているジュノー博士の任務は、日本における連合国捕虜の待遇を視察し調査することであった。ジュノー博士は東京で終戦を迎えると、ただちに連合軍捕虜3万4000人の解放に奔走した。米軍捕虜の待遇が彼の仕事であったが、最大の関心事は、むしろ原爆を受けた広島、長崎の惨状についてであった。

 原爆については厳重な箝口令が敷かれ、米軍から情報は得られなかった。しかし広島から東京に逃げてきた人たちの話しから、原爆被害の惨状を知ることができた。外務省から被爆地の写真を得たジュノー博士は、その写真をマッカーサーに突き付け、緊急援助を申し出て、医療物質の取り付けに成功しすると広島に向かった。

 9月7日、ジュノー博士は飛行機に15トンの救急医薬品を携え岩国飛行場に降り立ち、翌日、壊滅状態の広島に到着した。ジュノー博士はこれまで戦争の惨状を各地で見てきたが、原爆がもたらした広島の惨禍に大きな衝撃を受け、広島の原爆を「悪魔の仕業」と表現した。

 ジュノー博士は広島に救護所をつくり、外国人として初めて被爆者の治療に乗り出した。しかしジュノー博士の人道支援を遮るように、GHQ(連合軍総司令部)は原爆の機密保持と残虐性を隠すため、わずか4日間の滞在許可しか与えなかった。

 ジュノー博士は4日間の短い滞在中、被害調査という当初の目的を越え、救援作業に奔走し献身的に治療に当たった。15トンの救急医薬品にはペニシリン、サルファ剤、DDT、乾燥血漿など大量の医薬品や医療材料が含まれ、苦しみの極限にあった広島市民の命を救った。

 広島市内の病院や救護所では、生き残った医師や看護婦が被爆者の治療に全力を尽くしていが、医薬品が絶対的に不足し底をついていた。当時の広島には包帯もなく、浴衣を裂いて包帯代わりに使っていた。そのときジュノー博士が真っ白な包帯や乾燥血漿などの医薬品15トンを届けてくれたのである。これは1万人が1か月間治療できる量であった。まさに「干天の慈雨」である。地獄絵のごとき広島に一明の光を投げかけてくれた。

 ジュノー博士は昭和21年2月にジュネーブの赤十字本部に帰ると、直ちにアメリカ軍の原爆投下を糾弾するアピールを発表した。原爆の非人道性を告発し、核戦争防止の重要性を唱えた。ジュノー博士は、昭和34年に北朝鮮帰還問題で再来日したが、翌々年の36年6月16日、スイスで心臓発作のため急死、57歳であった。

 日本ではジュノー博士が広島の恩人であることを知るものは少なく、彼の功績は歴史の中に埋もれていた。昭和54年になって、広島県医師会が埋もれていたジュノー博士の人道的な業績を掘り起こし、広島市平和記念公園に記念碑を建立することになった。

 ジュノー博士の記念碑には、「1945年8月9日、赤十字国際委員会の駐日首席代表として来日。広島の原爆被災の惨状を聞くや、直ちに占領軍総司令部へ行き、ヒロシマ救援を強く要請。9月8日、調達した15トンの医薬品と共に廃墟の市街へ入り惨禍の実状を踏査、自らも被爆市民の治療に当る。博士の尽力でもたらされた医薬品は市内各救護所に配布され数知れぬ被爆者を救う。博士の人道的行為に感謝し、国際赤十字のヒューマニズムをたたえ永く記念してこれを建てる。ジュノー博士記念碑建立会」との献辞が彫られている。

 碑の裏面にはジュノー博士の著作「第三の兵士」の一文「無数の叫びが、あなたたちの助けを求めている」、が刻まれている。

 ジュノー博士記念碑が建てられた後、博士の遺徳を慕う人々は記念行事を企画。平成2年よりジュノー博士の命日に合わせ、 毎年6月16日に広島県医師会は「ジュノー記念祭」を行っている。

 ジュノー博士の記念碑は、博士の人道的行為に感謝して広島赤十字・原爆病院の玄関入り口にも建立されている。またジュノー博士の功績は、「世界の平和を求めて生きたドクター・ジュノー」の題名で、日本の中学3年の国語の教科書にも取り上げられた。広島の人たちにとってジュノー博士は忘れることのできない命の恩人である。ジュノー博士の持ち込んだ医薬品のケースなどは、広島平和記念資料館で見ることができる。

 ジュノー博士の半生は、回想録「ドクター・ジュノーの戦い」(昭和56年・勁草書房)、「ドクター・ジュノー武器なき勇者」(昭和54年・新潮社)につづられている。さらにジュノー博士を主人公とした映画「第三の兵士」が平成6年に完成している。