ヒロポン中毒 

ヒロポン中毒 昭和24年(1949年)

 今日では想像できないことであるが、終戦から数年間、覚醒剤である「ヒロポン」は街の薬局で自由に買うことができた。今日ではヒロポンの名前を知る人は少ないだろうが、ヒロポンは覚醒剤の代名詞として合法的に乱用されていた。厚生省がヒロポンの有害性を認めて劇薬に指定したのは、昭和24年になってからである。

 覚醒剤はアンフェタミンとメタアンフェタミンの2種類に分類され、両者は喘息や風邪薬に含まれるエフェドリンと類似した構造を持ち、エフェドリンの合成過程で生成される。明治11年、日本近代薬学の開祖である長井長義が、喘息に効果のある漢方薬・麻黄(マオウ)からエフェドリンを世界で初めて抽出。このように覚醒剤のもとになるエフェドリンは、世界に先駆け日本で研究がなされた。ところが長井長義の長年にわたる研究でも、長井はアンフェタミンやメタアンフェタミンの覚醒作用には気づいていない。昭和10年になって、アメリカで初めてその覚醒作用が認識されたのである。

 昭和10年にメタアンフェタミンが喘息薬としてアメリカで発売されたことが、覚醒剤としての作用を知るきっかけになった。メタアンフェタミンが「ベンセドリン」の商品名で発売されると、ベンセドリンに興奮作用があることがクチコミで広まり、「スーパーマンの薬」として学生や長距離トッラクの運転手の間で流行、また女性もやせ薬としてひそかにベンセドリンを愛用した。

 メタアンフェタミンより覚醒作用の強いアンフェタミンは、主にドイツで研究された。ロンドン空襲に出撃するドイツ軍パイロットの眠気覚ましとして、士気高揚のためアンフェタミンは積極的に用いられた。アンフェタミンの覚醒効果はドイツ軍と友好関係にあった日本にも伝えられ、昭和16年に長井長義が創立した大日本製薬から「ヒロポン」の商品名で発売された。アンフェタミンは長井が世界で初めて合成したことから、覚醒剤が日本で独自に開発されたと誤解されているが、ヒロポンはドイツの製造方法をまねて商品化されたのである。

 ヒロポンの名前は「疲労をポンと取る」というイメージで広まった。当時は、覚醒剤としての副作用や中毒に関する認識はまったくなく、ヒロポンは軍部を中心に用いられ、内服剤だけでなく即効性のある注射用ヒロポンも使用された。

 特に特攻隊の飛行士の間では、眠気や恐怖心を取るクスリとして盛んに用いられ、また徹夜作業を続ける軍需産業の工員の間でも士気を鼓舞する目的で半強制的に服用された。ヒロポンは「突撃錠」「はっきり薬」と呼ばれ、軍部を中心に使用されていたが、終戦と同時に民間に流れ込むことになる。在庫を抱えた製薬会社が、街の薬局で大々的に宣伝して販売した。

 ヒロポンの爆発的な流行は、終戦によって退廃に陥った自暴自棄の人々をとらえ、虚無と刹那(せつな)的心情を反映していた。神国日本を信じていた人たちが、すべての価値を崩壊させ、虚脱の中でヒロポンに救いを求めたのである。まさにヒロポンは戦後の落とし子だった。

 ヒロポンは大日本製薬が製造していたが、市場に出回っていた大部分は密造によるもので、ヒロポンの値段は1本12円と、酒よりも安かったので乱用を招くことになった。当時の警察も、張り込みの警官が眠気覚ましにヒロポンを使用していた。

 ヒロポンを密造する者にとって、原価が販売価格の10分の1だったので、何度検挙されてもボロ儲けが忘れられず、密造を止めることはできなかった。当時の映画館の入場料が100円だったことから、ヒロポンの値段がいかに安かったかがわかる。

 昭和28年、大日本製薬大阪工場は14万アンプルを出荷していたが、大阪府警に押収されたアンプルは2170万本であった。いかに膨大な覚醒剤がヤミルートで出回っていたかがわかる。この反社会的ヒロポンの副作用に気づいた大日本製薬の労働者が会社に抗議したが、会社は「生産阻害者」として首切りで応じた。昭和28年の全医薬品の生産高は約740億円であったが、覚醒剤の売り上げは220億円に達していた。

 ヒロポンは中枢神経の興奮作用が強く、ヒロポンを打つと頭がさえて疲労がとれ、多幸感と活動性を得ることができた。自信と性欲増進をもたらし、長時間にわたる性交を可能にした。一度ヒロポンの快楽を味わうと多くがその虜(とりこ)になった。

 夜遅くまで働く人たち、流行作家や芸能人の間でヒロポンの乱用が広まった。坂口安吾、織田作之助など当時の無頼派と呼ばれた作家たちが、ヒロポンを打ちながら原稿を書き、中毒に陥った。高見順の「高見順日記」に、ヒロポンについての記載が詳しく書かれている。

 芸能界では文壇以上にヒロポンが広まり、楽屋でヒロポンを注射する光景が日常的となっていた。徹夜で勉強する学生、内職の主婦たちの間にもヒロポンは浸透し、昭和24年頃から、青少年の間にもヒロポンは広がりをみせた。当時の浮浪者や愚連隊の6割がヒロポンを常用し、銭湯の客の1割に注射痕があった。

 しかしヒロポンが切れれば、その反動として虚脱感が全身を襲い、不眠、興奮、不整脈などの副作用が常用者を苦しめた。さらに幻覚、妄想、混迷、人格障害など統合失調症に似た症状を引き起こした。これがいわゆるヒロポン中毒である。

 さらに薬が切れるとヒロポンを求める衝動に襲われ、ヒロポンの入手のために犯罪に走った。中毒者は1日何本も注射を打たなければ我慢ができなくなり、中毒による幻覚、妄想による殺人、暴行、自殺などの反社会的犯罪が引き起こされた。ヒロポンの被害は黙視できないほどになり、「亡国の魔手」と表現されるに至った。ヒロポンはこのように多くの青少年の心身をむしばみ、常用3カ月から1年半でヒロポン依存症となった。

 文頭に述べたように、昭和24年までは誰でもが薬局でヒロポンを買うことができ、新聞にもヒロポンの広告が堂々と掲載されていた。このようにヒロポンは、風邪薬と同じ感覚で一般人が容易に買えたのであった。

 ヒロポンの害が次第に社会問題となり、昭和24年3月にヒロポンは劇薬に指定されたが、その制限は緩やかで、14歳以上ならば薬局で住所や氏名を明記すれば買うことができた。昭和26年に覚醒剤取締法が公布され、製造や使用に制限が設けられたが沈静化には至らず、最盛期の昭和29年には約5万6000人が覚醒剤取締法違反で摘発され、全国の常用者は285万人(うち28%が中毒者)となった。

 ヒロポン中毒者は多くの凶悪犯罪を引き起こした。昭和29年4月、東京文京区の小学生が学校のトイレで暴行を受け死亡、大阪では3人の幼児が運河に突き落とされて死亡する事件が起きている。精神病院ではヒロポン中毒者が多すぎて収容できない状態であった。東京都立松沢病院では、入院しているヒロポン中毒患者どうしのけんかで死亡する事件が起きている。

 政府はこれら凶悪犯罪にショックを受け、昭和30年に覚醒剤の取り締まりを強化した。それまでの取り締まりは、中毒者の保護が中心であったが、製造した者や販売した者を摘発する方針に変えたのである。その結果、ようやくヒロポンは沈静化へ向かった。この昭和29年をピークとする「ヒロポン蔓延期」が覚醒剤の第1次乱用期である。

 以後、取り締まりの強化や経済復興によりヒロポンは下火になるが、20年後の昭和59年頃から暴力団の資金源確保のため覚醒剤乱用の流行を再び迎えることになる。次ぎに第3次乱用期は平成10年頃で、中国・福建省などから覚醒剤が大量に流入した。外国人が街頭で販売するようになり、末端価格が低下し高校生も一種のファッション感覚で乱用が広がった。さらに最近では北朝鮮からの密輸が増えている。覚醒剤ではないが、覚醒剤に構造が似ているエフェドリンを大量に常用し、幻聴や幻覚に浸ることも一時流行した。市販の風邪薬にエフェドリンが含まれていたからである。

 覚醒剤が恐ろしいのは、覚醒剤中毒による死亡、あるいは幻覚による殺人である。この覚醒剤の恐怖を決定的にしたのは、昭和56年6月に起きた川俣軍司による通り魔殺人事件である。覚醒剤常用者の川俣軍司が東京・深川の商店街で通りかかった主婦2人、乳児2人をナイフで刺殺、女性を人質に中華料理店に立てこもった。7時間後にパンツ姿の川俣軍司が逮捕されたが、このテレビ中継で世間は覚醒剤の恐ろしさを見せつけられた。また平成5年には、新幹線の乗客が覚醒剤常用者から理由もなくナイフで刺殺され、この事件はいつ自分が被害者になっても不思議でないことを示した。

 覚醒剤はその名前が示すように眠気を吹き飛ばす作用があり、1週間寝なくても平気であった。そのため不眠が脳に変調をきたすことが症状の一部である可能性がある。覚醒剤で次ぎに問題となるのは、覚醒剤をやめても後遺症が持続し、廃人状態になることである。

 さらに覚醒剤をやめて一見治ったように見えても、アルコールや精神安定剤の投与をきっかけに、あるいは少量の覚醒剤の再使用で、激しい幻聴・幻覚を引き起こすフラッシュバック現象(flashback phenomenon;再燃現象)が起きる。このフラッシュバック現象は統合失調症の症状に似ており、覚醒剤をやめて5年、10年経っても後遺症として突然現れ、しかも日常生活のなかでいつ出現するのか分からなかった。

 現在、覚醒剤使用者は年齢が低下して青少年が増えている。始めた動機は興味本位で、みんながやっているからと罪悪感に乏しい。また女子生徒も肥満解消を理由に安易に使用する傾向がある。若者の間では、「スピード」「エクスタシー」などの洒落(しゃれ)た名前でよぼれることがある。しかし当然のことであるが、覚醒剤は将来性のある青少年の身も心もボロボロにするので、若気の至りでは片づけられない。

 覚醒剤の使用を後悔しても、その後遺症から一生逃れられずに苦しみ続ける患者が多い。また、覚醒剤の服用をやめても、半数がまた覚醒剤を使用するようになる。「覚醒剤やめますか、それとも人間やめますか」。まさに、その言葉通りである。