ツベルクリン反応とBCG

ツベルクリン反応とBCG 昭和27年(1952年)

 1882年に、ドイツの偉大な細菌学者で、細菌学の父と呼ばれるロベルト・コッホが結核菌を発見。コッホは次の目標として、結核の治療としてワクチン開発に乗り出した。

 コッホは結核菌を大量に培養し、その上液を何回も濾過し、加熱濃縮を繰り返して結核菌の毒素を抽出。この結核菌から精製した毒素をツベルクリン液と命名した。コッホは第10回国際医学会議で、結核の治療薬としてツベルクリン液を発表。このニュースは世界中に広まった。

 現在では「ツベルクリン反応(ツ反)」は結核の診断に欠かせない検査法であるが、ツ反に用いるツベルクリン液は、結核の治療ワクチンとして開発されたのである。当時のヨーロッパの人々は結核を「白いペスト」と恐れていた。ツベルクリン液は結核の特効薬と宣伝され、世界中の結核患者が期待を抱きベルリンのコッホのもとに集まった。しかし患者の期待とは逆に、ツベルクリンの治療効果は全く認められず、発熱や悪心、注射部位の発赤や水胞、喀血などの副作用ばかりが出現した。

 結核患者の皮膚に発赤をきたすツ反は、現在ではアレルギー反応であることが知られている。つまり結核患者にツベルクリン液を投与すると、アレルギー反応による副作用だけが出現したのである。ツベルクリン液は結核の治療薬として大失敗に終わり、コッホの業績に大きな汚点を残したが、偉大なるコッホ先生は「結核に関する研究業績」によって1905年ノーベル賞を受賞している。

 ツベルクリン液による結核の治療は惨憺(さんたん)たるものであったが、1907年、オーストリアの小児科医ピルケがツ反によって結核感染を知り得ることを発見。さらにフランスの医師マントーがツ反を一般化した。

 日本では小林義雄がツ反陽転者から胸膜炎が発生することを報告。千葉保之らが国鉄職員のツ反陽転者を追跡調査し、結核の初感染発病説をつくった。昭和15年には国立公衆衛生院の野辺地慶三らによってツ反の判定基準が提案された。

 ツベルクリン液は結核菌から抽出された成分であるが、結核菌を構成する多成分が含まれている。アメリカの生化学者サイバートは結核患者に特異的な皮膚反応を起こす物質を抽出して、精製ツベルクリンpurified protein derivative(PPD)と名付けた。日本でも昭和43年から旧ツベルクリン液の代わりにPPDがツ反に用いられている。

 ツ反は、ツベルクリン液0.1 mlを皮内に注入し、48時間後に発赤の長径を計測する検査法で、皮膚の硬結、二重発赤、水疱の有無を同時に観察する。発赤の径が4ミリ以下を陰性、5〜9ミリを疑陽性、10ミリ以上を陽性としている。ツベルクリン液を皮内に注射すると、結核に感染している場合は2日目に発赤を示し、陽性となる。

 皮膚の壊死や水胞をともなう場合は結核感染の可能性が高いが、BCGを接種していれば長期にわたりツ反が陽性になる。そのためBCG接種を受けた者が陽性の場合、BCG接種によるものなのか結核感染によるものなのかの区別が困難になる。

 ツ反には例外が多く含まれ、結核の絶対的な診断法ではない。ウイルス感染時、栄養状態の悪い時、ステロイド剤および免疫抑制剤投与時、結核感染の初期では結核に罹患していてもツ反陰性になることがある。また結核菌と似た非定型抗酸菌に感染した場合、交叉反応のために弱い反応が起こる。このような例外はあるが、「ツ反陽性者は必ずしも結核感染とはいえないが、その反応が強ければ結核の可能性が高くなること。ツ反陰性者は結核をほぼ否定できること」、このことは覚えておきたい。

 BCGは結核の予防のためのワクチンで、パスツール研究所のカルメットとゲランによって開発された。BCGの名前は彼らの功績をたたえ、2人の頭文字をとって命名された(Bacille de Calmette et Guerinの略語)。

 カルメットとゲランは、1908年から13年間ウシの結核菌の連続培養を行い、230世代の連続培養で人間に無毒な結核菌種を作ることに成功した。人間への感染力をなくし、免疫のみを獲得させる変種菌の開発に成功したのである。

 1921年、結核の妊婦患者から生まれた新生児にBCG接種が行われ、それ以降、BCGの安全性と有効性が調べられ、結核の予防としてBCGが急速に普及することになる。

 日本では、大正14年にパスツール研究所からBCGの菌株を譲り受け、国立予防衛生研究所で継代保管され、昭和13年から5年間、BCGの安全性と有効性が検討され、BCGの接種により結核の発症率が半分以下に、死亡率が8分の1になった。さらにBCGの大量生産にも成功して集団接種の体制が整った。

 BCGは結核の予防に絶大な効果を示し、昭和24年以来、法律によってBCGは強制接種となった。BCGの副作用である皮膚の難治性潰瘍と瘢痕を補うため、昭和42年から多刺法接種が用いられている。多刺法接種とはBCGを皮膚に塗り、その上から9本の針の付いた管針を押しつける方法で、この方法により接種後に赤い小斑点ができるが、その後はかさぶたを生じる程度になった。

 結核予防法によってBCG接種が義務付けられ、4歳未満のツ反陰性の乳幼児が接種することになっている。その他の年齢でも、希望者は保健所でツ反とBCG接種を受けることができる。BCGの結核への予防効果は10年とされ、中学生時にBCGを接種しても20歳を過ぎるとその効果は低下するとされている。

 BCGの効果に水を差すようであるが、最近になりBCGの評価が大きく変わってきた。日本ではBCGの有効性への思い込みが強いが、その有効性は確実とはいえないのである。BCGが有効なのは乳幼児の結核性髄膜炎の場合で、幼児以外の結核の予防にBCGが本当に有効かどうか疑問視されている。そのため欧米ではBCG接種をやめており、世界保健機関(WHO)もBCGの廃止を勧告している。

 日本ではツ反陽性が正常者とされ、ツ反陰性の場合にBCGが接種されていた。一方、BCG接種をしていない欧米ではツ反陰性が正常者で、ツ反陽性が「結核の疑い」となる。このように日本は世界と大きく異なっている。

 BCGの有効性については興味があるが、むしろ日本人の多くがBCGを信じ、世界で日本だけがBCGを接種しているという事実の方が、日本人の国民性を知る上で興味深い。医学が一筋縄でないことのよい例である。

 この世界の流れから、平成14年、厚生労働省は小中学校でのBCG再接種を廃止する方針を決めた。それまでの結核予防法では、0歳から4歳までに保健所でBCG接種を受け、その後小学校1年、中学校1年でツ反を調べ、陰性の児童に2度目の接種をしていた。再接種を受けた児童は年間約125万人(平成12年度)で、1人当たり数千円の費用を自治体が負担していた。

 これを厚労省は平成15年4月から、生後6カ月から4歳未満の乳幼児にツ反を行い、陰性者のみにBCGの接種を行い、小中学生のBCG接種を廃止したのである。

 ツ反とBCG接種が学校から消えたのは、結核患者が減ったからであった。平成12年の小児結核患者は220人で、学校健診を受けた小学1年生と中学1年生の総数は約230万人で、その中で結核が発見されたのは17人であった。再接種を中止した欧米で結核患者が増加していないことから、ツ反とBCG接種が学校から消えることになった。

 また16歳以上のほぼ全国民に義務づけていたエックス線撮影による年1回の結核検診を、就職などの節目検診に変更することになった。年1回の結核検診に約2500万人が受診して、見つかった結核患者は約2000人であった。つまり受診者1万人に1人以下の患者では、結核の早期発見によりもエックス線被爆が心配されたのである。

 これまで「BCG接種によって結核の脅威がなくなった」と多くが信じてきたが、「結核患者の激減はBCGの効果もあるだろうが、むしろ環境衛生の改善、栄養状態の改善が大きかった」と思われる。