ポール・ゴーギャン

ポール・ゴーギャン(1848年〜1903年)

  フランスの後期印象派を代表する画家。自身の作品によって有名なだけではなく、ゴッホと親交があったことでも知られている。またタヒチとの関係が深く、タヒチで長く暮らし、そこで多くの作品を残した。
 1848年、ゴーギャンはフランスの二月革命の年にパリで生まれた。父親は共和系のジャーナリストで、母アリーヌ・マリア・シャザルの母(祖母)は社会主義の主唱者フローラ・トリスタンであった。

 ゴーギャンが1歳のときに、ナポレオン3世のクーデターで、共和主義者であった父親は職を失い、不安定になった政情から逃れるため、一家揃ってパリを離れて南米のペルーに向かった。父親は旅の途中の航海中に急死し、残されたゴーギャンとその母と姉は、リマでゴーギャンの叔父を頼って4年間を過す。母アリーヌは、インカ帝国の陶芸品を好んで収集していた。
 ゴーギャンが7歳の時、祖父の死によって遺産相続の必要が生じたため、一家はフランスに戻り、父方の祖父を頼ってオルレアンで生活を始めた。

 オルレアンはゴーギャン一家が昔から住んでいた土地であり、スペイン語で育っていたゴーギャンは、ここでフランス語を身に付けた。オルレアンという町は田舎にあり、活気のない町で、亜熱帯の色あざやかなペルーとは全然違う環境にゴーギャンは不満をもっていた。南米で幼少期を過ごしたことからくるこの不満がタヒチへ移住するきっかけになった。
 ポールは地元の学校に通った後、ラ・シャペル=サン=メマンの格式あるカトリック系寄宿学校に3年間通った。14歳の時、パリの海軍予備校に入り、最終学年にオルレアンに戻ってリセ・ジャンヌ・ダルクを修了した。そして、商船の水先人見習いとして登録。3年後、フランス海軍に入隊し2年間勤めた。

 1867年母が亡くなったが、ポールは、数か月後に姉からの知らせをインドで受け取るまで知らなかった。1871年、23歳の時、パリに戻ると、母の富裕な交際相手ギュスターヴ・アローザの口利きにより、パリ証券取引所での職を得、株式仲買人として働く。その後11年間にわたり、彼は、実業家として成功し、株式仲買人として3万フランの年収を得るとともに、絵画取引でも同程度の収入を得ていた。
 1873年、ゴーギャンは、デンマーク人女性メット・ソフィネ・カーズと結婚し、2人の間には5人の子供が生まれた。
絵の修業
 ゴーギャンはすぐに画家になったわけではない。水夫として仕事をし、株式仲買人としての仕事を始めた頃から、ゴーギャンは余暇に絵を描くようになった。彼が住むパリ9区には、印象派の画家たちが集まるカフェが多く、ゴーギャンは画廊を訪れたり、新興の画家たちの作品を購入したりしていた。結婚翌年の1874年、カミーユ・ピサロと知り合い、日曜日にはピサロの家を訪れ、庭で一緒に絵を描いていた。ピサロはゴーギャンを、モネやマネ、ルノワール、セザンヌなどの画家たちに紹介したが、画家としては遅咲きであった。

 1876年、ゴーギャンは初のサロン入選を果たし、翌年、パリの都心を離れ15区ヴォージラールに引っ越し、初めて家にアトリエを持った。元株式仲買人で画家を目指していた親友エミール・シュフネッケルも近くに住んでいた。ゴーギャンは、1879年の第4回印象派展に息子をモデルにした彫刻像を出品したが、1881年と1882年の印象派展には絵を出展した。作品は、不評であった。
 1882年、パリの株式市場が大暴落し、絵画市場も収縮した。ゴーギャンから絵を買い入れていた画商も恐慌の影響を受け絵の買付けを停止した。この頃、まだ画家に専念していなかったが、株式仲買人のゴーギャンの収入は急減し、その後の2年間、徐々に絵画を本業とするようになった。ピサロや、時にはポール・セザンヌと一緒に絵を描いて過ごすこともあった。1883年10月、彼は、ピサロに画業する決意を伝える手紙を送り、同年、株式仲買商の職を捨てた。しかしこのもとによって、ゴーギャンは経済的に困窮することになる。

 翌1884年1月、ゴーギャンは、家族とともに生活費の安いルーアンに移り、生活の立て直しを図るがうまく行かず、その年のうちに、妻メットはデンマークのコペンハーゲンに戻ってしまった。ゴーギャンも、同年11月、作品を手にコペンハーゲンに向かった。
 ゴーギャンは、コペンハーゲンで防水布の外交販売を始めたが、言葉の壁にも阻まれ失敗した。妻メットがフランス語教え、家計を支えた。1885年、ゴーギャンはメットの求めを受けて家族を残してパリに移った。

 40歳になったとき、ゴーギャンはゴッホと出会い共同生活を送り始める。しかしゴーギャンもゴッホも個性が強すぎて2ヶ月で共同生活は終わってしまう。
    この後、パリに戻ったゴーギャンは絵を描きながら、ペルーのような暖かい土地で自由に生活することを夢みていた。1891年、ゴーギャンは当時フランス領だったタヒチに移住する。ゴーギャンはタヒチで楽園のような生活を夢見ていたが、タヒチでも貧しい生活が続き、健康を損ねたたやめ2年でフランスに帰国することになる。
    ゴーギャンのタヒチを題材にした有名な絵画の多くは、この後、再びタヒチに移住したあとに描かれたもである。しかし、その生活は南国の気楽で開放的なイメージにかなうものではなかった。肝炎は悪化し船乗りと揉めて足を骨折し、かつて一緒に暮らしたテハアマナという女性は、他の男と一緒になっており。娘であるアリーヌの死を知らされ、落ち込むことになる。
 ゴーギャンは新しくマリ=ローズ・ヴァエオホを妻に迎え、高床式のアトリエ「快楽の家」に住み、絵画が売れるようになり、病気になっても病院にいけないほどであった。ゴーギャンは1903年54歳でこの世を去った。彼の墓はヒヴァオアの村を見下ろせる丘に残されている。彼の死に際して、借金の形として絵画が持ち出され、燃やされてしまうという悲劇が起こり、タヒチにあった作品は多くが失われることになる。

 

ゴーギャンとゴッホ
 他の画家との交流によって新しい技法を学んだり、作風に影響を受けることが多いが、ゴーギャンとゴッホもそのような関係にあった。彼らは南仏のアルルという街で共同生活を送ったが、ゴーギャンにとってゴッホの存在よりも、ゴッホにおけるゴーギャンの重みの方が大きかった。アルルへ行くことを提案したのはゴッホだったが、ゴッホは何人かの芸術家を誘ったが、それに応じたのはゴーギャンだけだった。「黄色い家」を準備し、「ひまわり」や「夜のカフェテラス」といった代表作を、この時期にゴッホは残している。
 わずか2ヶ月で終わった共同生活だったが、ゴッホはこの後、苦難の日々を送った末、二年後に亡くなる。これに対し、ゴーギャンはタヒチに移って1903年まで生きる。彼らは個性が強い者同士だったため、共に暮らすのは無理があったと指摘されるが、当初は順調だった。「ひまわり」や「夜のカフェテラス」が描かれたことからも、そのことが伺える。

 

ゴーギャンとタヒチ
 タヒチは温暖でのどかなイメージがあるが、彼のタヒチでの生活は苦難に満ちたもので、決して優雅なものではなかった。経済的にも苦しく、健康面でも厳しい状態にあった。住民との不和もあり、理想郷と呼べる環境とは程遠いものであった。ただ、タヒチで制作された作品の中には「我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか」「紘かけ椅子のひまわり」をはじめとして名作が多く、これまでの西洋絵画の流れとは独立した存在として、重要な意味を持つものが多く残されている。一部の作品は燃やされてしまったが、タヒチでの生活はゴーギャンを特異な経歴を持つ画家として確立することになった。

『縫い物をする女』1880年。ニイ・カールスベルグ・グリプトテク美術館。

『ヴォージラールの庭』1881年。ニイ・カールスベルグ・グリプトテク美術館。

     パリからポン=タヴァンへ(1885年-1886年)
 ゴーギャンは、1885年、6歳の息子クローヴィスを連れてパリに戻った。その他の子はコペンハーゲンのメットの元に残り、メットの稼ぎと家族・知人の助けで生活することとなった。
 ゴーギャンは画家として生計を立てようと思ったが現実は厳しく、雑多な雇われ仕事を余儀なくされている。クローヴィスは病気になり、ゴーギャンの姉マリーの支援で寄宿学校に行くことになった。パリ最初の1年に制作した作品は非常に少ない。第8回(最終回〉印象派展に19点の絵画と1点の木のレリーフを出展しているが、ほとんどがルーアンやコペンハーゲン時代の作品であり、唯一「水浴の女たち」が新たなモチーフを生み出した程度で、新味のあるものはほとんどなかった。それでもフェリックス・ブラックモンはゴーギャンの作品を1点購入している。この時の印象派展で前衛画家の旗手として台頭したのが、新印象派と呼ばれるジョルジュ・スーラであったが、ゴーギャンは、スーラの点描主義を侮蔑した。この年、ゴーギャンは、ピサロと反目し、ピサロはその後ゴーギャンに対して敵対的な態度をとるようになる。
 ゴーギャンは、1886年夏、ブルターニュ地方のポン=タヴァンの画家コミュニティで暮らした。最初は、生活費が安いという理由であったが、ここでの若い画学生たちと交流し、思わぬ実りをもたらした。シャルル・ラヴァルもその1人であり、彼は、後にパナマやマルティニーク島への旅をともにすることとなる。
 この年の夏、ゴーギャンは、第8回印象派展で見たピサロやエドガー・ドガの手法をまねてヌードのパステル画を描いている。また「ブルターニュの羊飼い」のように、人物が表れるものの主に風景を描いた作品を多く制作している。「水浴するブルターニュの少年」は、デザインや純色の大胆な使用において、明らかにドガを模倣している。またブルターニュの少女のスケッチでも、意識的にコールデコットの作品を模倣している。ゴーギャンは、後にこの時のスケッチをパリのアトリエで油絵に仕上げているが、コールデコットの素朴さを取り入れることで、初期の印象派風の作品から脱皮したものとなっている。
 ゴーギャンは、パナマやマルティニーク島から帰った後も、ポン=タヴァンを訪れており、エミール・ベルナール、シャルル・ラヴァル、エミール・シュフネッケル、その他多くの画家と交流した。このグループは、純色の大胆な使用と、象徴的な主題の選択が特徴であり、ポン=タヴァン派と呼ばれることになる。ゴーギャンは、印象派に至る伝統的なヨーロッパの絵画が余りに写実を重視し、象徴的な深みを欠いていることに反発していた。これに対し、アフリカやアジアの美術は、神話的な象徴性と活力に満ちあふれているように見えた。折しも、当時のヨーロッパでは、ジャポニズムに代表されるように、他文化への関心が高まっていた。

『水浴する女たち』1885年。国立西洋美術館(東京)。

『ブルターニュの4人の女』1886年。ノイエ・ピナコテーク。

『水浴するブルターニュの少年』1886年。シカゴ美術館。

ゴーギャンの作品は、フォークアートと日本の浮世絵の影響を受けながら、クロワゾニスムに向かっていった。クロワゾニスムとは、批評家エドゥアール・デュジャルダンが、ベルナールやゴーギャンによる、平坦な色面としっかりした輪郭線を特徴とする描き方に対して付けた名前であり、中世の七宝焼きの装飾技法から来ている。クロワゾニスムの真髄と言われる1889年の「黄色いキリスト」では、重厚な黒い輪郭線で区切られた純色の色面が強調されている。そこでは、古典的な遠近法や、色の微妙なグラデーションといった、ルネサンス美術以来の重要な原則を捨て去っている。さらに、彼の作品は、形態と色彩のどちらかが優位に立つのではなく、両者が等しい役割を持つ綜合主義に向かっていく。

『黄色いキリスト(英語版)』1889年。オルブライト=ノックス美術館。

『ラヴァルの横顔のある静物』1886年。インディアナポリス美術館。

マルティニーク島
 1887年、ゴーギャンは、パナマを訪れた後、6月から11月までの約半年、友人のシャルル・ラヴァルとともに、マルティニークのサン・ピエールに滞在した。ゴーギャンは、パナマ滞在中に破産し、当時のフランス法に従い、ラヴァルとともに、国の費用で本国に戻ることになった。しかし2人は、マルティニークのサン・ピエール港で船を降りた。この下船が計画的なものだったのか、突発的なものだったのかについては、研究者の間で意見が分かれている。2人は原住民の小屋に住んで人間観察を楽しんでいたが、夏になると暑く雨漏りがした。ゴーギャンは、赤痢とマラリアにも苦しんだ。マルティニークにいる間、彼は12点前後の作品を制作した。戸外の情景を明るい色彩で描いたものである。島内を旅行して回り、インド系移民の村も訪れたと思われる。彼の後の作品にはインド的モチーフが取り入れられている。

『マルティニークの風景』1887年。スコットランド国立美術館。

『林の中の小屋』1887年。個人コレクション。

『海辺II』1887年。個人コレクション。

『池』1887年。ゴッホ美術館。

『熱帯の立ち話』1887年。個人コレクション。

『マンゴー摘み』1887年。ゴッホ美術館。

ゴッホとの共同生
 ゴーギャンのマルティニークでの作品は、絵具商アルセーヌ・ポワティエの店に展示された。ポワティエと取引のあったグーピル商会のゴッホの弟テオとその兄で画家のフゴッホは、その絵を見て感銘を受けた。テオはゴーギャンの絵を900フランで購入してグーピル商会に展示し、富裕な顧客に紹介した。同時に、フィンセントとゴーギャンも親しくなり、手紙で芸術論を戦わせた。グーピル商会との取引は、テオが1891年1月に亡くなった後も続いた。
 1888年、ゴーギャンは、南仏アルルに移っていたゴッホの「黄色い家」で、9週間にわたる共同生活を送った。しかし、2人の関係は次第に悪化し、ゴーギャンはここを去ることとした。12月23日の夜、ゴッホが耳を切る事件が発生した。ゴーギャンの後年の回想によると、ゴッホがゴーギャンに対しカミソリを持って向かってくるという出来事があり、同じ日の夜、ゴッホが左耳を切り、これを新聞に包んでラシェルという名の娼婦に手渡したのだという。翌日、ゴッホはアルルの病院に送られ、ゴーギャンはアルルを去った。2人はその後二度と会うことはなかったが、手紙のやり取りは続け、ゴーギャンは、1890年、アントウェルペンにアトリエを設けようという提案までしている。
 ゴーギャンは、後に、アルルでゴッホに画家としての成長をもたらしたのは自分だと主張している。ゴッホ自身は、『エッテンの庭の想い出』で、想像に基づいて描くというゴーギャンの理論を試してみたことはあったものの、ゴッホには合わず、自然をモデルに描くという方法にすぐに回帰している。
最初のタヒチ滞在
 1890年までには、ゴーギャンは、次の旅行先としてタヒチを思い描いていた。1891年2月にパリのオテル・ドゥルオー(英語版)で行った売立てが成功し、旅行資金ができた。この売立ての成功は、ゴーギャンに依頼されたオクターヴ・ミルボーが好意的な批評を書いたことによるものであった。コペンハーゲンの妻と子どもたちのもとを訪れてから(これが最後に会う機会となった)、その年の4月1日、出航した。その目的は、ヨーロッパ文明と「人工的・因習的な何もかも」からの脱出であった。とはいえ、彼は、これまで集めた写真や素描や版画を携えることは忘れなかった。
 タヒチでの最初の3週間は、植民地の首都で西欧化の進んだパペーテで過ごした。パペーテでレジャーを楽しむ金もなかったので、およそ45キロメートル離れたパプアーリにアトリエを構えることにして、自分で竹の小屋を建てた。ここで、『ファタタ・テ・ミティ(海辺で)(英語版)や、「イア・オラナ・マリア(カタロニア語版)』といった作品を描いた。後者は、タヒチ時代で最も評価の高い作品となっている。
ゴーギャンのノート(時期不詳、ルーヴル美術館)。
 ゴーギャンの傑作の多くは、この時期以降に生み出されている。最初にタヒチ住民をモデルとした肖像画は、ポリネシア風のモチーフを取り入れた「ヴァヒネ・ノ・テ・ティアレ(花を持つ女)」と考えられる。彼は、この作品を、パトロンでシュフネッケルの友人ジョルジュ=ダニエル・ド・モンフレーに送った。
 ゴーギャンは、タヒチの古い習俗に関する本を読み、アリオイという独自の共同体やオロ神についての解説に惹きつけられた。そして、想像に基づいて、絵や木彫りの彫刻を制作した。その最初が「アレオイの種」であり、オロ神の現世での妻ヴァイラウマティを表している。
 彼がパリのモンフレーに送った絵は、全部で9点であり、これらは、コペンハーゲンで亡きゴッホの作品と一緒に展示された。売れたのはわずか2点で、ゴッホの作品と比べても不評だったものの、好評だったとの報告を聞いてゴーギャンは意を強くし、手元の70点ほどを携えて帰国しようと考えた。いずれにせよ、滞在資金は尽きており、国の費用で帰国するほかなかった。その上、健康も害しており、当地の医者に心臓病だとの診断を受けていた。梅毒の初期症状であったとの見方もある。
 ゴーギャンは、後に、「ノアノア」という紀行文を書いている。当初は、自身の絵についての論評とタヒチでの体験を記したものと受け止められていたが、現在では、空想と剽窃が入り込んでいることが指摘されている[29]。この本で、彼は、テハマナ(通称テフラ)という13歳の少女を現地で妻としていたことを明かしている。1892年夏の時点で、彼女はゴーギャンの子を宿していたが、その後その子がどうなったかの記録はない。

『ジャワ女アンナ』1893年。個人コレクション。

『ナヴェ・ナヴェ・モエ(ポーランド語版)』1894年。エルミタージュ美術館。

『ナヴェ・ナヴェ・ファヌ(かぐわしき大地)』、『ノア・ノア』の木版画、1894年。アートギャラリー・オブ・オンタリオ。

          2度目のタヒチ滞在
 ゴーギャンは、1895年、再びタヒチに向けて出発した。一つの原因は、メルキュール・ド・フランス誌の1895年6月号に、エミール・ベルナールとカミーユ・モークレールがそろってゴーギャンを批判する記事を書いたことにある。パリで孤立したゴーギャンは、タヒチに逃げ場を求めるほかなかったといわれている。
 同年9月にタヒチに着き、その後の6年間のほとんどを、パペーテ周辺の画家コミュニティで暮らした。徐々に絵の売上げも増加しつつあり、友人や支持者の支援もあったため、生活は安定するようになった。ただ、1898年から1899年にはパペーテで事務仕事をしなければならなかったようであるが、記録は余り残っていない。パペーテの東10マイルにある富裕なピュナオイア地区に家を建て、広大なアトリエを構えた。
 好きな時には、パペーテに行って植民地の社交界に顔を出せるよう、馬車を持っていた。「メルキュール・ド・フランス」誌を購読し、パリの画家、画商、批評家、パトロンたちと熱心に手紙のやり取りをしていた。パペーテにいる間に、地元の政治では次第に大きな発言権を持つようになり、植民地政府に批判的な地元誌スズメバチ誌に寄稿し、更には自ら月刊誌Le Sourire誌を編集・刊行するようになった。1900年2月には、Les Guêpes誌の編集者に就任し、1901年9月に島を去るまで続けた。彼が編集者を務めていた間の同誌は、知事と官僚に対する口汚い攻撃が特徴であったが、かといって原住民の権利を擁護しているわけでもなかった。
 少なくとも最初の1年は、絵を描かず、彫刻に集中していることをモンフレーに伝えている。この時期の木彫りの彫刻が、モンフレーのコレクションに少数残っている。『十字架のキリスト』という、50センチメートルほどの円柱状の木の彫刻を仕上げているが、ブルターニュ地方のキリスト教彫刻の影響を受けたものと思われる。絵に復帰すると、「ネヴァモア」のように、性的イメージをはらんだヌードを描くようになる。この頃のゴーギャンが訴えようとした相手は、パリの鑑賞者ではなく、パペーテの植民者たちであった。
 健康状態はますます悪くなり、何度も入院した。フランスにいた当時、彼はコンカルノーを訪れた際に酔ってけんかをし、足首を砕かれる怪我を負った。この時の骨折が完治していなかった。その治療にはヒ素が用いられた。また、ゴーギャンは湿疹を訴えていたが、現在では、これは梅毒の進行を示すものと推測されている。
 1897年4月、彼は、最愛の娘アリーヌが肺炎で亡くなったとの知らせを受け取った。同じ月、彼は、土地が売却されたため家を立ち退かざるを得なくなった。銀行から借入れをして、今までよりも豪華な家を建てようとしたが、身の丈に合わない借入れにより、その年の末には銀行から担保権を行使されそうになった。悪化する健康と借金の重荷の中、絶望の縁に追い込まれた。その年、自ら畢生の傑作と認める大作『われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか』を仕上げた。モンフレーへの手紙によれば、作品完成の後、自殺を試みたという。この作品は、翌1898年11月、ヴォラールの画廊で、関連作品8点とともに展示された。これは、1893年にデュラン=リュエル画廊で開いて以来の、パリでの個展であり、今度は批評家たちも肯定的な評価を下した。ただ、『われわれはどこから来たのか』は、賛否両論であり、ヴォラールはこれを売るのに苦労した。1901年にようやく2500フランで販売され、そのうちヴォラールの手数料は500フランであったという。
 ヴォラールは、それまでジョルジュ・ショーデというパリの画商を通じてゴーギャンから絵を購入していたが、ショーデが1899年秋に死去すると、直接の契約を締結した[50]。この契約で、ゴーギャンは、毎月300フランの前渡金を受け取るとともに、少なくとも25点の作品を各200フランで売り、その上、画材の提供を受けることになった。ゴーギャンは、これによって、より原始的な社会を求めてマルキーズ諸島に移住するという計画が実現できると考えた。そして、タヒチでの最後の数か月を、優雅に暮らした。
 ゴーギャンは、タヒチで良い粘土を入手できなかったことから、陶器作品を続けることができなくなっていた。また、印刷機がなかったため、モノタイプを使わざるを得なかった。
 ゴーギャンがタヒチにいる間に妻にしていたのは、プナオイア地区に住んでいたパウラという少女で、妻にした時に14歳半であった。彼女との間には2人の子供ができ、うち女の子は生後間もなく亡くなり、男の子はパウラが育てた。パウラは、ゴーギャンがマルキーズ諸島に行く時、同行するのを断った。

『十字架のキリスト』(1896年)からの転写(反転)。ボストン美術館。

          マルキーズ諸島
ゴーギャンは、最初にタヒチのパペーテを訪れた時から、マルキーズ諸島で作られた碗や武器を見て、マルキーズ諸島に行きたいという思いを持っていた[55]。しかし、実際にマルキーズに行ってみて分かったのは、ここも、タヒチと同様、文化的な独自性を既に失っているということだった。太平洋の島々の中でも、マルキーズは、最も西欧の病気(特に結核)で汚染された島々だった。18世紀には8万人いたという人口は、当時4000人にまで落ち込んでいた。
 ゴーギャンは、1901年9月16日、ヒバ・オア島に着き、アトオナの町に住み始めた。アトオナは、マルキーズ諸島全体の政庁がある所で、パペーテよりは開発が遅れていたが、パペーテとの間で汽船の定期便があった。医師がいたが、翌年2月にパペーテに去ってしまったため、ゴーギャンは、ベトナム人冒険家のングエン・ヴァン・カムと、プロテスタントの牧師で医学を学んだことがあるというポール・ヴェルニエに病気の治療を頼ることになり、2人と親しくなった。
 ゴーギャンは、ミサに欠かさず通うことで地元の司教の機嫌をとってから、町の中心部にカトリック布教所から土地を買い取った。司教ジョセフ・マルタンは、当初、タヒチでゴーギャンがカトリック側を支持する言論活動を行っていたことから、ゴーギャンに好意的に振る舞った。
「ゴーギャンは、この土地に2階建ての建物を建て、「メゾン・デュ・ジュイール(快楽の館)」と名づけた。壁には、彼が集めたポルノ写真が飾られていた[59]。初めの頃、この家には、写真を見ようと多くの地元住民が詰めかけた。このことだけでも司教には不快なことだったが、ゴーギャンは、その上、司教とその愛人と噂される召使を当てこすった2体の彫刻を階段の前に置いたり、カトリックのミッション・スクールの制度を批判したりしたことで、司教との関係は更に悪化した。
 ゴーギャンは、ミッション・スクールから2マイル半以上離れた生徒は通学の義務がないと主張し、これによって多くの女生徒が学校に行かなくなってしまった。その中の1人、14歳の少女ヴァエホ(マリー=ローズとも呼ばれた)を、彼は妻とした。少女にとっては、健康状態のますます悪化したゴーギャンを毎日手当てしてやらなければならず、楽な仕事ではなかった。それでも、彼女はゴーギャンとの同居を選び、翌年には娘を生んだ。
 1901年11月までに、新居を設け、ヴァエホ、料理人と2人の召使、犬のペゴー、猫1匹と暮らし始めた。ここでゴーギャンは制作に専念するようになり、翌1902年4月にはヴォラールに20枚のキャンバスを送っている[66]。彼は、モンフレーに、マルキーズではモデルも見つけやすいので新しいモチーフを見つけることができると思うと書き送っている。
 ゴーギャンは、タヒチ時代のテーマを避けて、風景画、静物画、人物の習作に取り組んだが、タヒチ時代の絵を深化させた『扇を持った若い女』、『赤いケープをまとったマルキーズの男』、『未開の物語』という3作品を制作している。
 1902年には、ゴーギャンの健康状態は再び悪化し、足の痛み、動悸、全身の衰弱といった症状に悩まされた。9月には、足の怪我の痛みが激しくなり、モルヒネ注射をせざるを得なくなった。視力も悪化し、最後の自画像で、彼は眼鏡をかけている。

 1902年7月、妊娠中だったヴァエホがゴーギャンのもとを去り、家族と友人のいる隣村で子供を産もうと帰ってしまった。ヴァエホは、9月に子供を産んだが、戻ってくることはなかった。ゴーギャンは、その後、新たな「妻」を設けることはしていない。ちょうどこの時期に、ゴーギャンとマルタン司教との間でのミッション・スクールをめぐる論争が加熱していた。
 12月には、病気のため、ほとんど絵の制作ができなくなった。自伝的回顧録を書き始め、2か月で完成させた。表題には、タヒチに来る前と後の体験を綴ったという意味と、祖母の回顧録への敬意が含まれている。ポリネシアでの生活、自分の生涯、文学・絵画への批評などが雑多に綴られたものである。その中には、地元当局や、マルタン司教、妻メットやデンマーク人一般などへの批判も盛り込まれている。
 1903年初頭、ゴーギャンは、島の国家憲兵ジャン=ポール・クラヴェリーやその部下の無能力や汚職を告発する活動を始めた。ゴーギャンは、逆にクラヴェリーから名誉毀損で告発され、3月27日、罰金500フラン、禁錮3か月の判決を受けた。ゴーギャンはすぐにパペーテの裁判所に控訴し、その旅費の資金集めを始めたが、5月8日の朝、急死した。
 ゴーギャンは、名誉毀損で有罪判決を受けてから、その控訴のための準備をしていた。この時点で体力は落ち込んでおり、体の痛みも激しかった。彼は、再びモルヒネに頼るようになった。死は、1903年5月8日の朝、突然訪れた。それに先立ち、ゴーギャンは、ポール・ヴェルニエ牧師を呼び、ふらふらすると訴えている。ヴェルニエ牧師は、ゴーギャンと言葉を交わし、容態が安定していると考えて立ち去った。ところが、午前11時、近くの住人ティオカが、ゴーギャンが死んでいるのを発見した。そして、マルキーズ諸島の伝統的なやり方に則って、蘇りのために彼の頭を噛んだ。枕元には、アヘンチンキの空の瓶が置いてあり、その過剰摂取が死の原因ではないかと疑われることになった。他方、ヴェルニエは、心臓発作が死因だと考えている。
 ゴーギャンは、翌9日の午後2時、カトリック教会のカルヴァリー墓地に埋葬された。1973年、彼の遺志に従って、「オヴィリ」のブロンズ像が横に置かれた。皮肉にも、ゴーギャンの墓の一番近くに埋葬されているのは、マルタン司教である。
 ゴーギャン死亡の報は、1903年8月23日までフランスに届かなかった。遺言はなく、価値のない家財はアトオナで競売に付され、手紙、原稿、絵画は9月5日にパペーテで競売にかけられた。このように財産が速やかに処分されてしまったため、彼の晩年に関する情報が失われてしまったと指摘されている。メット・ゴーギャンが競売の売上金を受け取ったが、およそ4000フランであった。

 ポール・セザンヌに「支那の切り絵」と批評されるなど、同時代の画家たちからの受けは悪かったが、没後西洋と西洋絵画に深い問いを投げかけたゴーギャンの孤高の作品群は、次第に名声と尊敬を獲得していった。イギリスの作家サマセット・モームの代表作「月と六ペンス」の主人公の画家のモデルであった。
「いつ結婚するの」1892年作が、2015年プライベートセールにかけられ、史上最高額となる日本円でおよそ360億円)で落札された。