レンブラウント

レンブラント・ファン・レイン(1606年〜 1669年)
 レンブラントは黄金の世紀と呼ばれた17世紀を代表するオランダの巨匠であり、光の探求や陰影表現、明暗法を終生追求し「明暗の巨匠」「光と影の魔術師」の異名をもつ。人物画の黒々とした瞳が特徴で油彩だけでなくエッチングや複合技法による銅版画やデッサンでも作品を残している。絵画「夜警」はレンブラントの代表作である。また生涯を通じて自画像を描いたことでも知られ、自画像はその時々の彼の内面を伝えている。

 若くして肖像画家として成功し、晩年には私生活における度重なる不幸と浪費癖による財政的苦難に喘いだが、それでも高い評価を受け続けている。
 1606年、レンブラントはスペインから独立する直前のオランダのライデンで生まれる。父は製粉業を営み、母は都市貴族でパン屋を生業としていて、裕福な家庭に生まれました。父は製粉の風車小屋をライデンを流れる旧ライン川沿いに所有しており、一家の姓ファン・レインは「ライン川の」を意味する。

 1613年にラテン語学校に入学、14歳の時、ラテン語学校から飛び級でライデン大学へ入学した。進学したのは兄弟の中でレンブラントのみで、両親は法律家への道を期待したが、実際に大学に籍を置いたのは数箇月で、翌年には画家を目指した。当時、美術学校がなかったことから、歴史画家スヴァーネンブルフに弟子入りして3年間絵画を学んだ。

 18歳のレンブラントは当時オランダ最高の歴史画家と言われたラストマンに師事し、カラヴァッジョ派の明暗を用いる技法や物語への嗜好性、表現性などを学んだ。約半年修行し、それからレイデンへ戻り、実家にアトリエを構えて製作に乗り出した。

 1625年、初の作品「聖ステバノの殉教」を製作。早くから才能を発揮し、22歳で弟子を持つようになる。弟子は「知識を実践せよ、さすれば知らぬ事、学ばねばならぬ事が自明になる」というレンブラントの言葉を記している。このようにレンブラントは常に新たな領域へ踏み込むことに熱心で、この頃はエッチングに手を染め始めた。

 1630年に父親が亡くなると、翌年、アムステルダムの工房に移り仕事をおこない1632年に代表作「テュルプ博士の解剖学講義」を制作し評判を得る。
 1633年にアイレンブルフのいとこで22歳のサスキアと知り合った。サスキアの父は亡くなっていたが、レーワルデン市長を務めたこともありその一族は裕福であった。翌年にはレンブラント側の親族を誰も呼ばないで結婚式を挙げた。

 これでレンブラントは正式なアムステルダム市民となり、また聖ルカ組合の一員となる。多額の持参金と富裕層へのコネクションをもたらしたサスキアは、レンブラントの絵のモデルとなり、ふくよかな姿を描いた多くの作品が残された。

 名声を得たレンブラントは、提督オラニエ公からの注文を受け「キリストの受難伝」をテーマにした作品群を仕上げたが、オラニエ公が気に入らず代金支払いが滞った。50人の弟子が門下に入った。富と名声を得ていたレンブラントは、弟子を教育しながらあらゆるものを対象に描いた。美術品や刀剣などの工芸品、多くの民族にわたる衣装や装飾品など手当たり次第にはいろいろなものを収集した。そして自らにふさわしい豪邸を求め、ユダヤ人街に邸宅を購入し、ここで大きな規模の工房を主宰した。
 1640年の末に火縄銃手組合が発注した複数の集団肖像画のうち、市の名士が率いる部隊の絵を受けた。彼は独自の主題性と動きのある構図を用いて、1642年初頭に『夜警』を完成させ、組合会館に掲げられたが、この頃多くの不幸に見舞われていた。

 最初の長女、次女ともに誕生数ヶ月で死去。母も亡くなる。妻サスキアは結核で29歳で亡くなっている。レンブラントは乳母として未亡人を雇うが、やがて彼女と愛人関係となるが、告訴され裁判で負ける。この頃は創作活動も滞り気味となり、告訴された年には一点の作品も残されていない。

 裁判後、また旺盛な制作活動に戻ったが批判も聞かれるようになった。特に肖像画では、発注主は自分がはっきりと立派に見えるように要望するも応じなかった。また完璧主義で顧客を待たせることで有名だった。顔や構図に10以上の下書きをすることもあり、筆を入れ始めてからも何度も書き直すため、顧客は何箇月も拘束された。このようなことからレンブラントへの肖像画の依頼は段々と減っていった。

 この頃になるとレンブラントは金銭に事欠くようになる。仕事は減ったが浪費はそのままで、借金の返済の当てもなく邸宅の年賦支払いも滞っていた。このような事態に、彼は美術品コレクションを売却してその場をしのいでいた。ところが、1652年に英蘭戦争が勃発しオランダ経済が不況に陥いり、高等裁判所はレンブラントに「財産譲渡または財産委託」を宣告した。これは債務者の財産をすべて現金化して全債権の弁済とする方法でである。これを受けてレンブラントの363項目にわたる財産目録が作成された販売品リストが残っており、蒐集品の内容を知ることができる。
 著名な作者の絵画や素描、ローマ皇帝の胸像、日本の武具やアジアの物品、自然史関係の物品や鉱物などがあった。競売は買い叩かれ貧民街に住み着いた。行政や債権者たちはレンブラントに好意的だったが、アムステルダムの画家ギルドは厳しく、彼を画家として扱わないように定めた。
 このような境遇においても、レンブラントの探求心が損なわれることはなく、画家としての評価も依然高く絵画作成の依頼もあった。
 しかしこの頃、ヘンドリッキエは健康を害し、1661年8月7日に彼女は娘コルネリアが相続する財産をレンブラントが自由に使えるように定めた遺言書を作成した。この中で彼女はレンブラントの妻とされている。レンブラントは絵画制作のためにまたも美術品の蒐集などに手を出して借金を作り、1662年にサスキアが眠るアウデ教会の墓所を売却するまでした。これを憂慮しながらヘンドリッキエは1663年に38歳で亡くなり、彼女は移されたサスキアの棺が安置された西教会に葬られた。
 1667年、トスカーナ大公国のコジモ3世がアトリエを訪問した。随行員の日記に「有名なレンブラント」とあるように彼の名声は健在だった。コジモ3世はレンブラントの自画像を購入したが彼の人生は好転しなかった。晩年の彼は娘コルネリアと雇った老女中と生活し、「パンとチーズと酢漬ニシンだけが一日の食事」とされるほど質素な日々を送った。翌1669年10月4日にレンブラントはアムステルダムで亡くなった。享年63。

テュルプ博士の解剖学講義

1632年 1.7 m x 2.16 m  油絵具

マウリッツハイス美術館

 レンブラントは前例のない絵画に取り組んだ。集団肖像画はオランダでは100年以上の伝統を持つが、その構図は各人物それぞれに威厳を持たせた明瞭な描き方をすることに注力するが、記念写真のように動きに乏しくかった。没個性的で絵の主題とポーズや構図に違和感があったが、レンブラントは「解剖の講義」という主題を表現するため、鉗子で腱をつまむトゥルプ教授に全体の威厳を代表させ、他の人物の熱心に語りを聴く姿から彼らの学識を表現した。この作品はレンブラントは驚嘆されるような前例のない絵画に取り組んだ。集団肖像画はオランダでは100年以上の伝統を持つが、その構図は各人物それぞれに威厳を持たせた明瞭な描き方をすることに注力するあまり、まるで記念写真のように動きに乏しく没個性的で、絵の主題とポーズや構図に違和感があった。レンブラントは「解剖の講義」という主題を表現するため、鉗子で腱をつまむトゥルプ教授に全体の威厳を代表させ、他の人物の熱心に語りを聴く姿から彼らの学識を表現した。この作品によってレンブラントは高い評価を得て出世作となった。

夜 警

1642年 363 cm × 437 cm キャンバスに油彩

アムステルダム アムステルダム国立美術館

 この作品は「夜警」の通称で呼ばれているが、正確な題名は「フランス・バニング・コック隊長とウィレム・ファン・ラウテンブルフ副隊長の市民隊」で、レンブラントおよびオランダ黄金時代の絵画とされている。

 通称の「夜警」は長い間、夜の風景を描いた絵とされてきたが、長い年月により表面のニスが変色して黒ずんだためによる誤解である。20世紀に入り二度の洗浄作業でニスが取り除かれた際、絵は明るみを取り戻し昼を描いた絵であることが明らかになった。

 この絵画の特徴その巨大な大きさ、光と影の効果的な使用、さらに集団肖像画に動きの要素を取り入れたことある。

 この絵は火縄銃手組合による市民自警団が出動する瞬間を描いていて、黒い服に赤い帯を斜めにかけた隊長と、その右横の黄色の服を着た副隊長が隊を率いて動き出そうとしている。その周辺には銃に火薬を詰める隊員や銃を構える隊員がいて、鼓手がドラムを構え、後ろでは旗手が隊旗を掲げている。各隊員はそれぞれ異なった方向に体を向け、多様な表情を見せていて画面に興奮を生み出している。全身が描かれているのは3人のみで、他は体の一部分しか映されていない。

 一斉に人々が動き始めたため、犬が吠え左には少年が走り回っている。

 レンブラントは火縄銃手組合の象徴物をさりげなく画面に配している。黄色いドレスの少女は隊のマスコット的存在で、少女の帯にぶら下がった鶏の爪は火縄銃手の象徴である。死んだ鶏は打ち倒された敵の象徴でもあり、黄色は勝利の色である。鶏の後ろの銃も火縄銃隊を象徴する。また少女は自警団の盃を持っていて、彼女の前の人物はオークの葉のあしらわれた兜をかぶっているが、これは火縄銃手の伝統的なモチーフである。

 レンブラントは市民隊の隊長バニング・コックと隊員17名の計18名により制作を受注した。隊長は裕福な薬剤師の一人息子で、この絵が描かれた後にアムステルダムの市長になっている。発注した18人の名は中央右後方の盾に描かれているが、各人が100ギルダー、計1,600ギルダーを支払った。これは当時の肖像画としては大きな額である。

 この絵は新建された火縄銃手組合集会所の宴会場に掲げられたが、この絵を発注した隊員たちが支払った額と同じ様に平等に各人を描かなかったことに不満を持たれた。当時、数人から20人ぐらいまで様々な立場の人たちが画家に集団肖像画を依頼した。集団で描いてもらうため一人当たりの画料は安く済むのが最大の理由であった。しかし、レンブラントは本来の「集団肖像画」のルールよりも作品のドラマ性を重要視し芸術性を高めようとしたのである。

 この「夜警」がレンブラントの名を後世まで語り継がせる原動力となり「名作」と呼ばれる傑作であることは間違いない。しかしこの「夜警」が、レンブラントの人生の転落の始まりともされている。「夜警」完成の年に妻が死去し、翌年から仕事のペースを落ちている。さらに絵画売買のトラブル、ぜいたくのための借金、召使との恋愛問題などから疲弊し、画家の仕事もうまくゆかなくなってゆく。

「夜警」はこれまでに三度観客に傷つけられている。一度目は解雇されたコックが、自分が無名なのに、この絵が有名であることに腹を立てナイフで傷つけた。しかし当時、絵は分厚いニスで覆われていて刃先はキャンバスを切り裂くことができなかった。1975年9月14日、精神的に不安定だった元教師がナイフで絵に襲いかかりジグザグ状の切り裂き傷を作った。絵は補修により元通りに直されたが、今でもよく見ると当時の傷が残っている。1990年には精神を病んだ観客にスプレー状の酸を吹きかけられたが、警備員が素早く水で洗い流したため絵画表面のニスを溶かしたにとどまった。

織物商組合の幹部たち

1662年 油彩

 

 レンブラント後期の作品で、レンブラントが長年取り組んだ集団肖像画で、その求めた主題性・ドラマ性が、人物の顔や視線を正面から描く従来の肖像画を両立させている。テーブルの上に置かれた書物を見ていた各人が、不意に部屋に入ってきた者に目を向けた瞬間で、手前に配されたテーブルが前面に出る遠近法を使い、部屋に入った者はこの絵から男たちの急に意識を向け見下ろした視線に晒される。そうして幹部たちの威厳を強調することに成功している。この絵は織物商組合本部の会議室の高い場所に掲示されていた。

放蕩息子の酒宴(レンブラントとサスキア)
1635年頃 161×131cm | 油彩・画布 |
ドレスデン国立絵画館

「放蕩息子」とはある裕福な家族の二人の兄弟のうち、父から財産をもらった弟は家出し、娼婦と酒宴など豪遊で散々放蕩する。その挙句に散財し生活が苦しくなると、豚の飼育をおこないながら餓えをしのぎ、後悔の末に実家へと帰る。父は息子が帰ったことに喜び、子牛を屠り祝宴を催す。
 農作業から帰宅した息子(兄)は「ずっと父と共にいた私には何も無く、散々放蕩した弟には祝宴を催すとは何事か」と父に詰め寄る。父は「私のものは全てお前のものだ、しかしお前の弟は死んでいたのに生き返った。いなくなったのに見つかった。祝宴を催すのは当然ではないか」と宥めたとされる、新約聖書ルカ福音書のみに記されるた逸話である。「放蕩息子」は放蕩息子が娼婦と酒宴を催し豪遊している場面で、かつてはレンブラントと妻サスキアの肖像とされていた。レンブラントが自身の家族の幸福を祝宴する場面とされてきたが、軽薄な表現性から現在は否定され、レンブラントが人生の順調な躍進に対して、ある種の戸惑いや違和感、矛盾、恐れなどを示したとする説が有力である。

放蕩息子の帰還

1666-1668年頃 262×206cm | 油彩・板

 

エルミタージュ美術館

 

 晩年の代表的な宗教画作品のひとつ。新約聖書ルカ福音書に記される「放蕩息子」の逸話が描かれている。

 放蕩の末に父の下へと帰った息子の姿は、若くして成功しながらも妻の死や没落したレンブラントの人生を彷彿とさせる。本作は63歳頃に描いたが、この頃に生存していた最後の息子ティトゥスが急死しており、本作で放蕩息子を抱く父親の姿もレンブラント自身の姿と解釈できる。筆跡を感じさせるやや大ぶりな筆使いで、顔面の中心に光を当てる描写や静謐な雰囲気をもつ人物は、精神的内面を重視したレンブラント晩年の手法である。

バテシバ(バト・シェバ)

1654年 142×142cm | 油彩・画布 | 

 

ルーヴル美術館(パリ)

 

 ダヴィデは人妻バテシバの水浴姿を目撃し、あまりの美しさに自分の妻になるようにする。バテシバの夫ウリヤを戦場に就かせ戦死させた後、バテシバを娶る。しかし父なる神に背いたことで愛息たちに死という不幸が訪れ、己のおこないを悔いたダヴィデはバテシバとの間に生まれたソロモンに王の座を譲った。本作ではバテシバの苦悩はもちろん、王ダヴィデの罪深きおこないも汲み取れる。

 暗中に描かれる肉感的なバテシバの裸体が画面の半分を占め、圧倒的な存在感を示している。またバテシバはダヴィデからの召喚状を読み、その意味を悟ったのか虚ろな表情を浮かべている。足下の侍女の献身性が、精神性深く思考的なものにしている。二番目の妻をモデルに制作された。

エマオの晩餐

1648年68×65cm | 油彩・板 | 

 

ルーヴル美術館(パリ)

 

 新約聖書マルコ福音書、ルカ福音書に書かれた有名な逸話である。

「イエス復活の日に、それを知らずに悲しみに沈みながらエルサレム近郊のエマオ村に向かっていたイエスの二人の弟子がいた。その道中に出会った旅の男がイエスであることに気づかず、晩餐で男がパンを取り分け、弟子らに与えたことから主イエスだと悟る」

 強烈な光の描写を用いながら、庶民的で温和な表現である。主イエスの聖性と人間性を両立させ、登場人物の内面的な精神性を重要視した、ある種の親しみやすさが感じられる。制作意図や目的は不明である。

ガニュメデスの誘拐

1635年 171×130cm | 油彩・画布 | 

 

ドレスデン国立美術館

 

 アムステルダムに移住した頃に描かれた神話画作品。本作は鷲に姿を変えたユピテルが、トロイア王国の建国者トロスの息子で、絶世の美少年とされたガニュメデスをつれ、天上へ飛び立つ場面が描かれている。泣き喚くガニュメデスの表情、恐れの余りに放尿してしまう姿などが注目に値する。ドレスデン美術館には本作の素描も残されている。なお近年の修復によって、画面左下にユピテルに連れ去られるガニュメデスを必死に追いかける母親の姿が描かれていることが判明している

イサクの犠牲 

1635年頃 193×133cm | 油彩・画布 | 

 

エルミタージュ美術館

 

 旧約聖書に書かれた「イサクの犠牲」である。イスラエルの祖・アブラハムには妻サラとの間に生まれたイサクがいた。そのイサクを「山上で焼き、我に捧げよ」と神が命じたのである。アブラハムは苦悩しみながら祭壇でイサクの喉元へ小刀を当てる。次の瞬間「お前が、神を恐れる者であることがわかった」と神の祝福する御言葉が響き「お前の子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。地上の諸民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る」と祝福を与える。

 本作品は旧約聖書の記述とは異なり、アブラハムを制止する神の言葉は、神の意志を伝える天使の制止によって表現されている。アブラハムの右手からこぼれ落ちる短刀が、緊張感と激動性を表している。画面に横たわるイサク、イサクを抑えるアブラハムの左手、天使によって制止されるアブラハムの右手、アブラハムを制止する天使、これらの動作が連なって躍動感を示している。また各登場人物に光をあて躍動感を強調している。

ユダヤの花嫁(イサクとリベカ)

1660年代 121.5×166.5cm | 油彩・画布 | 

 

アムステルダム国立美術館

 

 長い間「ユダヤの花嫁」と誤って題名が付けられていたが、アブラハムの息子イサクと、下僕エリエゼルによって連れてこられた妻リベカが愛し合い抱擁する場面を描いている。晩年期のレンブラント作品の特徴である、やや大雑把で平坦に描かれ、赤色と金色による描写によって、厳粛でありながら極めて、親密で詩情性に富んだ作品にしている。

トビトとアンナ 

1626年 39.5×30cm | 油彩・板 | 

 

アムステルダム国立美術館

 

 最初期の作品で、レイデンで独立した頃に描かれた。本作は旧約聖書外典「トビト記」第2章11~14節に記されている。裕福で信仰の厚かったトビトの目に燕の糞が入り盲目となり財産を失い。そのため猜疑心が巣食い、仕事から帰宅した妻アンナが手間賃の変わりに受け取った山羊の子を盗んだものではないかと疑う。妻アンナがそれを否定し、盲目になって独善的で猜疑心にさいなまれていると咎められ、トビトが祈りを捧げる姿である。

 若きレンブラントの表現は、師ラストマンに由来する明瞭で均一な光彩や、偉大なる大画家ヤン・ファン・エイクなどの初期ネーデルランド絵画の写実性の高い細密描写を用いた表現である。構図の巧みな構成力、細部まで緻密に書き込まれ、それでいて登場人物の感情を的確に表現している。画家として並外れた技量が存分に示されている。

窓辺の少女

1645年 77.5×62.5cm | 油彩・画布 | 

 

ダリッジ美術館(ロンドン)

 

 1690年代に本作を購入した者が自分の書斎に飾ると、それを見た客が現実の窓辺に少女が居ると騙されたという逸話がある。そのため伝統的に「窓辺にひじをつく少女」とよぶようになった。

 力強く豊潤で、勢いと動きに富んだ表現が、それと対照的である抑えられた落ち着きのある配色によって独特の雰囲気を感じさせる。人物の心情の瞬間を捉えたハイライトの効果と重なり合い、ある種の官能性と生命力を携えている。レンブラント独自の深い精神性を感じさせる。

ガリラヤ海の嵐

 

イサベラ・ガードナー・スチュアート美術館

 

「ガリラヤ海の嵐」は嵐のガリラヤ海の波を鎮めるキリストの奇跡を描いた作品で、、新約聖書のマルコによる福音書の第4章に書かれている。レンブラントによる唯一の海景作品である。ガリラヤ海はイスラエル最大の淡水の湖で、別にゲネサレト湖とも呼ばれている。当時、この湖の周辺にいくつかの都市が繁栄し、この都市間を船で行き来していた。

船の後部の真ん中に座っているイエスは、この地で布教活動をはじめ、漁師であったペテロやヤコブと船に乗り込むが、嵐に遭って乗組員達は慌ててしまう。そこでイエスが湖に対し鎮まれと命ずると不思議と波が鎮まった。

 この絵は1990年に盗難にあってまだ発見されていない。

フローラに扮したサスキア
1634年頃 125×101cm | 油彩・画布 |
エルミタージュ美術館

 1633年に婚約し、翌年結婚した美術商の娘サスキアが、花と美の女神フローラに扮した肖像である。本作の意図は不明であるが、当時の財産目録等の記録から、サスキアの肖像画として制作された可能性が高い。当時は肖像画の衣装で、牧歌的な田園生活を感じさせる羊飼いの服装が流行していた。その服装の見事な表現や、強い光と柔らかさも併せ持つ独特の光彩表現は本作の最も大きな特徴である。

十字架降下
1634年頃 89.4×65.2cm | 油彩・画布 |
アルテ・ピナコテーク

 連作「キリストの受難伝」の中で、「キリスト昇架」と共に最初に手がけられた作品である。本作に描かれているのは、エルサレム郊外のゴルゴタの丘で磔刑に処され、死した受難者イエスの亡骸を、アリマタヤのヨセフとニコモデらによって降ろされる場面である。
 巨匠ルーベンスの「キリスト降架」と同様に、古代ギリシア彫刻・ラオコーンの肉体的構図を用いているが、ルーベンスの神格化的な「キリスト降架」とは対称的に、生命感を感じさせない肉体表現で死した受難者イエスが描かれている。

キリスト昇架
1634年頃 96.2×77.2cm | 油彩・画布 |
アルテ・ピナコテーク

 アムステルダムで、名声を確立した連作物語画の「キリスト昇架」である。本作に描かれているのは、受難者イエス自らが担いで、ゴルゴダの丘に運ばされた十字架に磔られ、ローマ兵士らによって樹立される場面である。
 対角線上の構図を用い、受難者イエスを中心に、明暗対比の大きいスポット的な光彩の使用によって、イエスの受難をより劇的に表現している。またイエスの足下で十字架を支えるベレー帽を被った男はレンブラント自身の自画像と指摘されていて、受難者イエスが「画家自身を含め全ての人間の罪を背負う」という信仰を表している。なお本作と「十字架降下」を描いた後、レンブラントは連作画の3作品「キリストの埋葬」、「キリストの復活」、「キリストの昇天」を描いている。

自画像
1658年頃133.7×103.8cm | 油彩・画布 |
フリック・コレクション

 1650年代を代表する自画像。レンブラントが自画像を描く場合、歴史上の人物、聖人、哲学者などに扮して制作されることが多いが、この自画像はふんする人物の特定には至っていない。本作が制作された頃は、レンブラントが資産運用の失敗や内縁の縺れから破綻し、財産の競売が三度おこなわれた、画家の人生で最も経済的苦難を強いられた時期であるが、自画像の画家は、あたかも王族の衣服のような豪華な衣装に身を包み、手には銀の杖を、肩からは毛質の良い毛皮を羽織り、非常に凛々しく雄雄しい姿で描かれている。その表情の中の瞳は、真摯と厳しさを併せ持つ独特の力強さを感じさせ、真一文字に結んだ唇は、画家が本作に込めた意思や思想をより強調している。
 本作は苦境に立たされた身の上でも、画家としての誇りを失わず、絵画の本質と真実に迫ることを示した作品である。あるいは演劇の登場人物に見立てた人生へのアイロニーを込めた皮肉な作品とも解釈とすることもできる。

ダナエ

 

1636-1637年

 レンブラントが初めて手掛けた等身大のヌード画である。1637年に描かれた「ダナエ」はギリシア神話に登場し、この主題は何人もの画家が取り組んでいる。他の画家たちは金の滴と化したゼウスを受容するダナエを描いているが、レンブラントは右の掌を前に向けたダナエを描き、ダナエに独立した人格と意識を与えている。X線分析によると当初この右手はもっと低い位置に手の甲を見せるように差し出して描かれていたが、製作途中で書き直されていたことが判明している。また頭上の手を縛られた金色のクピドは、彼女が幽閉された状況を象徴している。

アトリエの画家
1628年頃 25×32cm | 油彩・板 |
ボストン美術館(マサチューセッツ州

 レンブラント初期を代表作である。立てかけたカンバスの前に立つ画家が、画面の前で構想を練っている場面である。アトリエの画家を描くことは、17世紀のネーデルランド(オランダ)では典型的な構図になっている。画家とカンバスの間の絶妙な距離感、アトリエに射し込む光や影、描かれた画家が同時期に描かれた自画像に類似していることからレンブラントの作品とされている。

3本の木

1643年 213 x 279 mm エッチング

国立西洋美術館

 この作品はレンブラントの風景版画を代表といえる。レンブラントの版画は多くのステート常とするが、この作品はひとつのステートしかないこの作品では日常の光景と突然の天候の変化による非日常的な世界とが対比されていて、入念に準備された構図と丁寧な明暗表現による完成度の高さをもっている。画面全体は暗く憂鬱に支配されているが、前年に妻のサスキアを失っていて、その個人的悲劇がこの作品に暗い影を投げかけている。

3本の十字架第3ステート

1653年、388 x 455 mm ドライポイント、

大英博物館

 レンブラントの代表作「3本の十字架」は第5ステートまであり、群集を伴うキリスト磔刑の場面が描かれている。

キリストと姦淫の女
1644年 84×65.5cm | 油彩・板 |
ロンドン・ナショナル・ギャラリー

 宗教画作品「キリストと姦淫の女」は新約聖書ヨハネ福音書に書かれている。ファリサイの民や律法学者らが、姦淫の罪を犯した女を連れてきて、イエスへその処罰について問うと、イエスは「あなたたちの中で罪を犯したことがない者が、まずその女に石を投げよ」と答える。ファリサイの民や律法学者が去ったのち、姦淫の女に今後は罪を犯さぬよう戒めたとの逸話である。
 しばしばマグダラのマリアと混同されるが、レンブラント作品の特徴のひとつである赤暖色を用いた豊かな色彩が指摘される。レンブラントは輝きを帯びたスポット的な光源で表現している。他の作品に比べると、その表現は緩和され、登場人物の内面的性格を映し出すような私的な感情表現へと変化している。この頃のレンブラントは妻サスキアとの死別、雇った家政婦との愛人関係など私生活に大きな変化があり、本作の主題「キリストと姦淫の女」に示される「罪を犯していない者はいない」という内容に、何らかの心理的作用が働いたと指摘されている。

水浴する女
1654-1655年頃 62×47cm | 油彩・板 |
ロンドン・ナショナル・ギャラリー

 巨匠レンブラントが残した女性像作品の中でも屈指の代表作。衣服の裾をたくし上げて水浴する女性(婦人)が描かれる。
 旧約聖書に記された、人妻バテシバの水浴姿を目撃して恋をするダビデ王の物語、旧約外典に記される預言者ダニエルの逸話、「水浴するスザンナ」を描いた作品と指摘もある。また荒く素早い筆跡から未完成または習作とも捉えらることもあるが、画面左下に署名があることから一般的には完成作品と見なされている。
 本作が習作であれ完成作品あれ、その表現や色彩、構成においてレンブラントの描いた女性像作品の中でも特筆に値する。赤褐色の色調の中で輝きを帯びる女性の肌は官能というよりも、神聖な雰囲気を持つ。水浴する女性の自然な動作はモデルを使用した写生であり、大胆に残される筆跡には独特の抽象性を感じさせる。水浴する女性の足に接する水面と、そこに落ちる影の見事な表現にも注目したい。

ベルシャザルの酒宴(壁の言葉)
1635年頃 | 167.5×209cm | 油彩・画布
ロンドン・ナショナル・ギャラリー

 本作品「ベルシャザルの酒宴」は、旧約聖書ダニエル記の第5章に書かれている、バビロニアの王ベルシャザルが父王や妻妾、廷臣ら千人の者と共にエルサレムの神殿から略奪した金銀器、祭器で祝宴を催した際のことである。
 突如、人の手が現れ、ヘブライ語で「ネメ・ネメ・テケル・ウパルシン」と空間に書き、これに驚愕し恐れたベルシャザルが、この意味を解く為に捕らえていたユダヤ人の預言者ダニエルを召喚すると、預言者ダニエルは「ベルシャザル王の無謙虚さと神に対する冒涜を批判した後、ベルシャザルの統治の終焉を予告する。そしてその夜、メディア王の放った刺客にベルシャザルが暗殺される。この作品は別名(壁の言葉)とも呼ばれている。
 カラヴァッジョやルーベンスなど偉大な先人たちへの傾倒を感じさせる、大げさで劇的な表現や強い明暗対比は、本作の特徴である。また王ベルシャザルを中心に、王の両手、空間に現れた輝く人の手、妻妾、廷臣ら登場人物らが放射線状に配された複雑な空間構成がより劇的な場面を構築している。

ミネルヴァ

1631頃 

 

ベルリン 国立美術館

 

 レンブラント25歳の頃の作品で、名声を獲得し始めたころの作品。背景の暗部の中から女性が上部からの光を浴びて浮かび上がっている。マントは深い暗赤色の質量感のある布地で、縁飾りが金糸で刺繍され、きらきら輝く宝石が縫い付けられ、合わせの部分には豪奢な毛皮が施されている。ミネルヴァは学問、技芸、は戦いの女神で、神々しい光に照らされた姿で描いている。観る者はスポット照明を浴びている実在感、とくに纏っているマントの光る輝く質感に圧倒される。この「ミネルヴァ」は、レンブラントの約50年におよぶ画業の初期の作品ながら、またはあまり知られていないが、レンブラント芸術を代表する作品のひとつである。

聖パウロに扮した自画像

1661年 92×77.5cm | 油彩・板 | 

 

アムステルダム国立美術館

 

 レンブラントが破産し、それまで住んでいた豪邸から借家に引越した頃に描かれた作品である。懐へ差された短刀や、神の言葉を象徴する書物など伝統的なアトリビュートが示されている。

 キリスト教弾圧のためにダマスクスへ向かう道中、突然天からの光に照らされ主イエスの声を聞き、熱心なキリスト教徒へと改宗して布教に努め、後にキリスト十二使徒として数えられた「聖パウロ」に扮した自画像である。

 画家が聖人パウロに扮しているが、その表情は内向的で憂鬱な雰囲気に満ちている。

 この悟りとも諦めともいえる感情は、聖パウロの残した書簡集の深い精神性と共通する。ほぼ顔面に集中する光の表現や、それと対照的な画面内の陰影の荒いタッチは興味深い。

黄金の兜の男 

1650-55

ベルリン・国立美術館

 暗い背景に浮かび上がる姿は、30年戦争時の傭兵とされている。その傭兵が敵の武将から奪った黄金の兜をかぶった半身像を描いている。

 30年戦争は17世紀前半にヨーロッパ中を巻き込んだ戦争で、当時の軍隊は傭兵中心の戦争であった。プロテスタントとカトリックの争いに加え、ヨーロッパの民族間の抗争、さらにはハプスブルク家とそれに対抗する諸国との争いでもあった。1618年から1648年にわたって断続的に戦いが行われ、老兵の栄光と挫折を、金色の輝きと苦悩の表情に対比させて表現した。

 晴れやかな表情はなく、陰鬱で苦渋に満ちた表情を見せている。光を浴びて輝く兜の華やかさと戦士の苦悩の様子が対照的で、レンブラントの手法がじゅうぶんに投影されているが、本作品は本人が描いたのではなく、レンブラント工房の作品とされている

ゼウクシスとしての自画像(笑う自画像
1665-69年頃82.5×65cm | 油彩・画布 |
ヴァルラフ=リヒャルツ美術館

 暗中で不気味に笑みを浮かべる作品。当初、レンブラントの肖像画とされ、それまでの画家の死そのものへの軽蔑や反抗、皮肉を込めた表現と唱えられてきた。
 しかし近年、レンブラントの弟子が同主題の自画像を手がけていたことが判明し、笑みを浮かべる画家の姿はゼウクシス、画面左端に真横から描かれる人物が老婆であることが判明した。ゼウクシスとは古代ギリシアの伝説的な画家である。観る者の目を欺くそっくりの絵を描き、類稀な観察眼と欲望、知的情念を持っている。

 レンブラントは本作でゼウクシスに自身を重ね、同時代の批評家への挑戦的思考を表現した。老女を描いた最後の作品を手がけていた時に、己の好奇心の本性に気付き笑い死にしたとの逸話が残されている。また本作において極めて厚塗で描写される画家の表情は、観る者に自画像には感じられないユーモラスな印象を与えている。このように老いてなお高ぶる創造力と探究心によって意欲的に制作された作品である。そのことから、今なお人々の心を捉え続けるのである。