ルオー

ジョルジュ・ルオー
(1871年〜1958年)は野獣派に分類されるフランスの画家。ルオーはパリの美術学校でマティスと同期だったこともあり、フォーヴィスムの画家に分類されることが多いが、ルオー本人は「画壇」や「流派」とは一線を画し、ひたすら自己の芸術を追求した孤高の画家であった。
 1871年、ルオーはパリに指物職人の子として生まれた。ルオーの謙遜な人柄や誠実さは、父から受け継いだ職人がたぎによると思われる。

 ルオーの家族が住んでいたのは労働者街で、14歳の時にステンドグラス職人イルシュに弟子入りする。後年のルオーの画風、特に黒く骨太に描かれた輪郭線には明かにステンドグラスの影響が見られる。ルオーは修業のかたわら装飾美術学校の夜学に通った。

 1890年には本格的に画家を志し、国立美術学校に入学、ここでマティスと知り合った。同校でルオー、マティスらの指導にあたっていたのは象徴派の巨匠モローであった。モローは自己の作風や主義を生徒に押し付けることなく、ルオーとマティスという2人の巨匠の個性と才能を巧みに引き出したのである。1892年にキリスト教に入信し、その純粋な性格から燃えるような情熱で信仰生活を続けていた。またルオーは終生、師モローへの敬愛の念が篤く、1903年にモローの旧居を開放したギュスターヴ・モロー美術館の初代館長となっている。ルオーは同美術館に住み込みで働いていたが給料は安く生活は楽ではなかった。

 ルオー20歳代の初期作品にはレンブラントの影響が見られ、茶系を主とした暗い色調が支配的であるが、30歳代になり独特の骨太の輪郭線と宝石のような色彩になる。画題としてはキリストを描いたもののほか、娼婦、道化、サーカス芸人など、社会の底辺にいる人々を描いたものが多い。ルオーは版画家としても傑出した作家で、1914年から開始した版画集「ミセレーレ」がよく知られている。
 1917年、ルオーは画商ヴォラールと契約を結び、ルオーの「全作品」の所有権はヴォラールにあるとされたが、この契約が後に裁判沙汰になる。ルオーは仕上がった自作に何年にも亘って加筆を続け、納得のいかない作品を決して世に出さない画家であった。晩年、ルオーは「未完成で、自分の死までに完成する見込みのない作品は、世に出さず焼却する」と言い出した。ヴォラール側は「未完成作品も含めて自分の所有である」と主張したが、「未完成作の所有権は画家にある」とするルオーの主張が認められ、ルオーは300点以上の未完成作をヴォラールのもとから取り戻し、ボイラーの火にくべた。それがルオーの芸術家としての良心の表明だった。ルオーは第二次大戦後も制作を続け、1958年パリで86年の生涯を終え、た国葬が行われた。

 ルオーにとって人生における仕事は「神を知ること」に尽きたのではないか。後光の射したキリストの顔。1912年からこの世を去るまで、ルオーは多くのキリストの顔を描いている。正面または真横の顔を好んで描いているが、それは堂々と力強い印象を与えると考えたからと思われます。胸を衝かれるような目を見開いて眩しいばかりのキリストである。くっきりとした黒い線に縁取られたこのキリストの大きな目からは今にも涙が溢れ出しそうに見える。神に対する人間の愛に対して、神もまた愛のしるしでそれに応え給う存在なのに、信仰を失いつつある人間の姿を見て苦悩する信仰心篤いルオーの心情がこのキリストの顔になっているのかもしれない。

 もし誰一人いない孤島に取り残されても描き続けるか、と尋ねられたルオーは「もちろん描き続けるだろうね。私にとって描きたい欲求は、精神的伝達の手段としてやむにやまれぬ必然なのだ」と語ったている。イエス・キリストによってでなければ神を知ることはできないと、おそらく固く信じていたのであろう。ルオーにとって描くことは神を知ることと同じだったと思える。