モネ

クロード=オスカール・モネ

(1840年〜1926年)は、印象派を代表するフランスの画家。「光の画家」との別称があるぐらい、時間や季節とともに移りゆく光と色彩の変化を生涯にわたり追求した。モネは印象派グループの画家のなかでは最も長生きし、20世紀に入っても「睡蓮」の連作をなどの絵画を数多く残している。ルノワール、セザンヌ、ゴーギャンらは印象派を離れて独自の道を進むみ、マネ、ドガはもともと印象派とは気質が異なっているが、モネは印象主義の技法を終生追求した典型的な印象派の画家である。日本人にとって印象派ほど身近な西洋絵画はない。その意味ではモネは私たちが慣れ親しんでいる「光の追求に生涯を捧げた」画家である。
初期
 モネは1840年パリで生まれ、5歳の時、売店を営む父の仕事の関係でノルマンディーのセーヌ河口の港町ル・アーヴルに転居した。裕福な家庭で育ったモネは、小さい時から手先が器用で、絵の才能を見せはじめた。10代後半にはアルバイトで描いた人物戯画(似顔絵)を文具店の店先に置いてもらい小遣いをを稼いでいた。15歳の頃には、町中の評判になり、1枚20フランで売れるほどになっていた。

 1857年(16歳)にはコレージュを退学。この頃から地元の美術教師に絵を学んでいる。1858年頃、モネの描いた戯画が、ル・アーヴルで活動していた風景画家ブーダンの目にとまり知り合いになるにコレージュを退学、この頃から地元の美術教師に絵を学んでいる。1858年頃、モネの描いた戯画が、ル・アーヴルで活動していた風景画家ブーダンの目にとまり、モネに風景画を描くようにすすめたのだった。ブーダンはキャンバスを戸外に持ち出し、陽光の下で海や空の風景を描いていた画家で、ブーダンと出会ったことが、後の「光の画家」モネの生涯を決定づけた。ブーダンはモネを戸外に誘い、海辺で一緒に絵を描くようになった。ブーダンに風景画の手ほどきを受けたモネは「この時、絵の真実を知った」と後に語っている。ブーダンとの出会いが大家モネを誕生させたといえる。当時の素描や戯画は現存している。
 モネの現存する最初の油絵は、1858年の年記のある「ルエルの眺め」(埼玉・丸沼芸術の森所蔵)である。この作品はバルビゾン派の影響がみられるもので、地元ル・アーヴルの展覧会に出品された。
 1859年(18歳)、モネはパリに出て、1860年にアカデミー・スイスに入学する。ここで後に印象派の仲間となるカミーユ・ピサロらと知り合う。アルジェリアでの兵役(1年強)を経て、1862年秋、シャルル・グレールの画塾に入る。ここではシスレー、バジール、ルノワールらと知り合う。グレール自身はアカデミックな画家であったが、彼は自分の作風を強要せず、自由に個性を伸ばす方針だったので、画家の卵たちが集まることになった。

 だが生活は苦しかった。親からの仕送りはわずかで、パンを買う金もないほどであった。モネの恋人カミーユ・ドンシューと知り合うが、金がないため結婚できずにいた。
 1865年、サロン・ド・パリに2点の作品を初出品し2点とも入選した。翌1866年のサロンには、エドゥアール・マネの著名な作品「草上の昼食」(1863年)と同じテーマの作品を出品す予定であったが、縦4メートル、横6メートルを超える大作だったため制作が追いつかず、代わりに、1866年のサロンに出品した「緑衣の女」と「シャイイの道」を出品し2点とも入選した。「緑衣の女」は、モネの恋人カミーユ・ドンシューをモデルにしたベラスケス風の人物画で、当時の審査員の好みに合うものであった。

 1868年のサロンでは出品した2点のうち1点が入選するが、1869年と1870年のサロンは落選し、以後しばらくサロンへの出品を取りやめるこおになる。

 1867年8月にはカミーユ・ドンシューとの間に長男ジャンが生まれるが、家族はモネとカミーユの仲を認めず、また養育費もなかった。彼らが正式に結婚したのは1870年のことであった。
 1870年7月、普仏戦争が勃発すると、モネは兵役を避けるため、同年9月頃ロンドンへ赴き、翌年5月まで滞在した。ロンドンではイギリス風景画の第一人者ターナーやコンスタブルの作品を研究するが、ロンドンで制作した作品は少なく6点のみである。当時ロンドンに滞在していた著名な画商ポール・デュラン=リュエルともこの時期に知り合っている。モネは1871年5月までロンドンに滞在した後、数か月のオランダ滞在を経て、同年秋にパリに戻り、同年12月、パリ郊外のアルジャントゥイユに転居した。


印象派展
 アルジャントゥイユはパリ郊外のセーヌ川に面した土地で、パリへの鉄道が通じ、交通は便利であった。このアルジャントゥイユには1871年から6年間を過ごし、この間に約170点の作品を残している。モネは、1863年に完成したアルジャントゥイユの鉄道橋を、しばしば作品のモチーフにしている。
 1873年12月には、画家仲間のピサロ、シスレー、ルノワールらと「芸術家、画家、彫刻家、版画家その他による匿名協会」を結成。1874年にはパリのアトリエでこの「匿名協会」の第1回展が開催された。
 後に「第1回印象派展」と呼ばれる歴史的展覧会である。この第1回展にモネは油絵5点、パステル7点を出品。出品作のうち「印象・日の出」(1873年)は、評論家のルイ・ルロワ(英語版)の「粗雑で印象だけの絵」と酷評され、この悪口が「印象派」という名称の由来となった。

 なお一般にはパリのマルモッタン美術館所蔵の絵が、この時の出品作だとされているが、マルモッタンの絵は実は「日没」を描いたもので、第1回印象派展に出品された「印象・日の出」とは別の作品だとされている。また「キャピュシーヌ大通り」(1873年)もこの第1回展に出品している。
 モネは1876年春の第2回印象派展には18点、1877年春の第3回展には30点、1879年春の第4回展には29点の作品をれ出品している。第2回展には日本の衣装を着けた妻カミーユをモデルにした「ラ・ジャポネーズ」を出品しているが、これは、風景画家モネによる人物画の大作として注目されている。1877年初頭には、パリのサン・ラザール駅を題材にした12点の連作を制作し、そのうちの8点が第3回印象派展に出品された。なお苦労をともにした妻カミーユは1879年に32歳の若さで死去している。皮肉にも者の絵が少しずつ売れ始めた時期だった。


アルジャントゥイユからジヴェルニーへ
 1878年には6年ほど暮らしたアルジャントゥイユを離れ、半年ほどパリで暮らし、同年8月末、セーヌの50kmほど下流にある小さな村ヴェトゥイユに移転。1881年12月にはヴェトゥイユよりはパリ寄りのポワシーに移っている。この間、モネの家庭生活には大きな変化があった。

 モネのパトロン・エルネストが破産し、債権者から逃れるため、5人の子どもと身ごもった妻を残してフランス国外へ逃亡した。1878年、モネはエルネストの妻アリス・オシュデと6人の子ども(1人は生まれたばかり)を引き取って共に暮らすことになる。モネの妻カミーユには1878年3月に2人目の子であるミシェルが生まれたばかりで、モネは合計10人の家族を養っていくことになった。そのカミーユは、1879年9月に病死し、カミーユを献身的に看病してくれたアリス夫人と後に再婚することになる。
 こうした中、1880年には10年ぶり、かつ最後のサロンに出品し、1点が入選、1点が落選している。印象派展には、1880年から1886年にかけて開催された第5回から第8回展のうち、1882年春の第7回展のみに出品している。
 1883年4月、モネはパリの西約80kmの郊外にあるジヴェルニーに転居した。以後、1926年に没するまでこの地で制作を続けた。モネはジヴェルニーに睡蓮の池を中心とした「水の庭」、さまざまな色彩の花を植えた「花の庭」を造った。パリ郊外の観光名所として多くの人が訪れるこの庭そのものが、自分の「最高傑作」とモネ自身は言っている。モネがジヴェルニーのアトリエでもっぱら「睡蓮」の連作に取り組むようになるのは後のことで、1883年12月には北イタリアのリヴィエラを初めて訪問。1886年9月 から11月にはノルマンディーの小さな島・ベリールに滞在し、断崖の多い海の景色を、異なった天候や光のもとで繰り返し描いた。

円熟期 から晩年
 1880年代の終わりから晩年にかけてのモネの作品は、1つのテーマをさまざまな天候や、季節、光線のもとで描く「連作」が中心になる。ジヴェルニーの自宅近くの農園で制作した「積みわら」の連作は1888年から翌年にかけてが5点、1890年から翌年にかけて25点確認されているが、この連作でモネはさまざまな気象条件のもとで光の変化を描き分けた。光の画家モネにとっては、同じような連作であっても、光の当たり方、季節などによって連作の一つ一つが類似絵ではなく独立した絵画であった。

 1891年5月に開かれた個展は反響を呼び、モネの名声を決定づけた。その後に描いたセーヌの支流エプト川沿いのポプラ並木を描いた連作は23点、「ルーアン大聖堂」のファサードについては時刻や季節の光の効果を追求して30点に及ぶ連作を意欲的に描いている。1895年5月のリュエル画廊の個展では、「ルーアン大聖堂」の連作のうち20点が展示された。
 そして1898年から1901年にかけては毎年ロンドンに出掛け、「国会議事堂」の連作のほか、チャリング・クロス橋、ウォータールー橋などを繰り返し描いた。これらの連作は、現地で描き、ジヴェルニーのアトリエで入念に仕上げ、「連作」としての変化も考慮したものである。この頃のモネは画家として高く評価されるようになり、「ル・ゴロワ」紙が1898年6月16日の日曜版別刷でモネ特集を組むなど、大家として扱われるようになり、収入も安定してきた。
 晩年のモネは自宅への来客を断る事が多かったが、日本人の来客は歓迎したとされている。ジヴェルニーを訪ねた日本人家族の少女に、顔をほころばせるモネの写真が残されている。また美術収集家である松方幸次郎も訪ねている。若い頃からの日本美術への傾倒が、その理由と思われるが、モネの作品が日本に多く在ることからも、モネと日本の結びつきが感じられる。


並木道(サン=シメオン農場への道)
1864年
81.6×46.4cm | 油彩・画布 |
国立西洋美術館(東京)


印象 -日の出-
1872年
48×63cm | 油彩・画布 |
マルモッタン美術館(パリ)

 1874年にモネがセザンヌ、ドガ、ルノワールらと開いた展览会は、新聞記者ルイ・ルロワに「シャリバリ」紙上で酷評された。彼はモネの作品「印象、日の出」を、見る者を驚かせあきれさせる絵の「印象」にひっかけて、記事のタイトルを「印象主義者たちの展覧会jとつけた。以後モネたちは「印象派」と呼ばれるようになる。1886年までに8回のグルーブ展覧会(印象派展)が開催され、モネは合計8回のうち5回に出品している。

 ルアーブルの港を描いたこの作品は「印象派」の名付け親となった。朝もやに太隔が昇るようすを表現したこの風景画をルイ・ルロワは「なんという気ままさ、なんという無造作!」と皮肉をこめて 評愚した。

 モネは印象派の理想を追い続けた。 沈み行く太陽のスピードと競うよように、満ちあふれる光に彩られた世界を色彩でとらえていく。風景は絶え間なく変わり続け、ひたすら光を追つたモネではあるが、批評家や風刺漫画家は「印象派」を格好の標的にした。鮮やかな色彩と大胆な筆触は、従来の重々しい伝統的絵画に憤れた人々の目には、粗けずりで未完成に映ったのである。

緑衣の女性(カミーユの肖像)

1866年  231×151cm | 油彩・画布 |

ブレーメン美術館

草上の昼食(習作)
1865年 130×181cm | 油彩・画布 |
プーシキン美術館(モスクワ)

揺りかごの中のジャン・モネ
1867年 | 116.2×88.8cm 油彩・画布 |
ワシントン・ナショナル・ギャラリー

王女の庭園(シャルダン・ド・ランファント)
1867年 | 91.8×61.9cm 油彩・画布 |
オバーリン大学アレン記念美術館

サンタドレスのテラス(海辺のテラス)
1867年 98×130cm | 油彩・画布 |
メトロポリタン美術館

この絵を制作した翌年ごろ、 28歳のモネはまだ画家としての評判は確定せず収入も乏かったので父からの仕送りに生計を託すしかなかった。 すでにカミーユと息子ジャンとともに暮らしていたが父 から力ミ-ユとの結婚の許可が出たのは1870年、彼が30歳になってからである。

かささぎ
1869年 89×130cm | 油彩・画布 |
オルセー美術館(パリ)

 雪のの日の風景がであるが、日陰の雪の色、晴れ間の雪の反射が眩しいほどである。雪の日の空気を味わいながら視線を移していくと鳥がいる。自然を感じさせる作品である。

ラ・グルヌイエール
1869年 75×100cm | 油彩・画布 |
メトロポリタン美術館

 アルジャントゥイユの散歩道
1872年 50.4×65.2cm | 油彩・画布 |
 National Gallery (Washington)

アルジャントゥイユのレガッタ
1872年頃 48×75cm | 油彩・画布 |
オルセー美術館(パリ)

アルジャントゥイユのモネの家の庭(ダリアの咲く庭)
1873年 61×82.5cm | 油彩・画布 |
ワシントン・ナショナル・ギャラリー

アルジャントゥイユのひなげし
1873年 50×65cm | 油彩・画布 |
オルセー美術館(パリ)

アルジャントゥイユの橋
1874年 60.5×80cm | 油彩・画布 |
オルセー美術館(パリ)

アルジャントゥイユの橋
1874年 60.5×80cm | 油彩・画布 |
オルセー美術館(パリ)

カピュシーヌ通り
1873年 61×80cm | 油彩・画布 |
プーシキン美術館(モスクワ)

草原(ブゾンの原)
1874年 57×80cm | 油彩・画布 |
ベルリン国立美術館

赤い頭巾、モネ夫人の肖像(窓に立つカミーユ・モネ)
1873年 99×79.8cm | 油彩・画布 |
クリーヴランド美術館

散歩、日傘をさす女性
1875年 100×81cm | 油彩・画布 |
ワシントン・ナショナル・ギャラリー

ラ・ジャポネーズ
1875-1876年 231×142cm | 油彩・画布 |
ボストン美術館

サン・ラザール駅

(La gare Saint Lazare) 1877年
75.5×104cm | 油彩・画布 | オルセー美術館(パリ)

サン=ドニ街、1878年6月30日の祝日
1878年 76×52cm
| 油彩・画布 | ルーアン美術館

死の床のカミーユ・モネ
1879年 90×68cm | 油彩・画布 |
オルセー美術館(パリ)

最初の妻、力ミーユが死んだのは1879年だった。モネは深い悲しみにありながら、冷静に画家としての目で彼女を見つめ、「動かない彼女の顔に死が刻み行く段階的な色の変化」をとらえた。

 ヴェトゥイユの画家の庭園
1880年 151.5×121cm
油彩・画布 |
ワシントン・ナショナル・ギャラリー

プールヴィルの断崖の上の散歩
1882年 66.5×82.3cm | 油彩・画布 |
シカゴ美術研究所

戸外の人物習作(右向きの日傘の女)
1886年 | 131×88cm | 油彩・画布 |
オルセー美術館(パリ)

戸外の人物習作(左向きの日傘の女
1886年 | 131×88cm | 油彩・画布 |
 オルセー美術館(パリ)

1886年、ジベルニーで描かれた。透き通るような青空と風になひく鮮やかな草花そして風景に溶け込むような白いドレスの女性が印象的な本作。画面全体の明るい色調から、画家の描く喜びが伝わってくるかのようだ。強い陽光が射し込み、風景と人物を絶妙に融合させる手法は「光の画家」と呼ばれたモネならでは。手にした日傘の裏地の鮮やかな緑色が、全体を引きしめるアクセントになつている。本作は、妻力ミーユを描いた連作のうちのーつ。彼女の死後に別の女性をモデルに描かれたため、顔がぼやかされている。

 空を描く筆触からは雲が疾走しているようすがうかがえる。荒天を予告しているようだ。モネは大気の変化を素早く取り入れて描いた。

ポール=コトンのピラミッド岩、荒海
(ソヴァージュ海岸、ポール=コトンの尖塔)
1886年 65×81cm | 油彩・画布 |
プーシキン美術館(モスクワ)

舟遊び(ノルヴェジエンヌ号で)
1887年 98×131cm | 油彩・画布 |
オルセー美術館(パリ)

積みわら、夕陽(積みわら、日没)
1890-1891年 73×92cm | 油彩・画布 |
ボストン美術館

積みわら、冬の効果
1891年  65.4×92.1cm | 油彩・画布 |
メトロポリタン美術館

エプト川のポプラ並木、白と黄の効果

1891年 100.3×65.2cm | 油彩・画布 |

フィラデルフィア美術館

陽を浴びるポプラ並木(ポプラ、三本の木、夏)
1891年 93×73.5cm | 油彩・画布 |
国立西洋美術館(東京)

ルーアン大聖堂、扉口とアルバーヌの鐘塔、充満する陽光

1893年 | 107×73cm | 油彩・画布 |

オルセー美術館(パリ)

モネはゴシック様の聖堂の複雑なフォル厶を極度に単純化し、まぶしい陽光が織りなすもやを描こうとした。光の効果を表すために絵の具の色をそのまま使わず、白色を混ぜて使用している。

ジヴェルニー近郊のセーヌ川の朝

1897年 81.4×92.7cm | 油彩・画布 |
ボストン美術館

 

ロンドンの国会議事堂、霧を貫く陽光

1904年 81×92cm | 油彩・画布 |
オルセー美術館(パリ)

睡蓮の池、バラ色の調和(太鼓橋)
1900年 89.5×100cm | 油彩・画布 |
オルセー美術館(パリ)

モネの家の庭、アイリス
1900年 81×92cm | 油彩・画布 |
オルセー美術館(パリ)

睡 蓮
1914-1917年
200×200cm | 油彩・画布 |
マルモッタン美術館(パリ)

睡 蓮
1916年 200.5×201cm | 油彩・画布 |
国立西洋美術館(東京)

日本風太鼓橋(日本の橋)
1918-24年 89×100cm | 油彩・画布 |
マルモッタン美術館(パリ)

しだれ柳 
1918-19年頃 100×120cm | 油彩・画布 |
マルモッタン美術館(パリ)

バラの並木道、ジヴェルニー
1920-1922年 89×100cm | 油彩・画布 |
マルモッタン美術館(パリ)

薔薇の庭から見たモネの家
1922-24年 89×92cm | 油彩・画布 |
マルモッタン美術館(パリ)

カピュシーヌ通り
1873-74年 | 油彩・画布 | 80×60cm |
ネルソン=アトキンズ美術館(カンザス・シティ)

この街の冬景色をモネは写真をもとに描いた。画面右のシメレクハットの人物は窓から下をながめているのだろう。その下のピン クの点描は風船の束のようである„

サン・ラザール駅、列車の到着
1877年 | 油彩・画布 | 82×101cm |
フォッグ美術館(ケンブリッジ)

アルジャントゥイユのモネの家
1873年 | 油彩・画布 | 60.2×73.3cm |
 シカゴ美術研究所

アルジャントゥイユの鉄道橋(鉄橋)
1874年 | 油彩・画布 | 55×72cm |
オルセー美術館(パリ)

アルジャントゥイユの道路橋
1874年 | 油彩・画布 | 60×79.7cm |
ワシントン・ナショナル・ギャラリー

ジヴェルニー近郊のセーヌ川の朝
1896年 | 油彩・画布 | 73.8×93cm |
ボストン美術館

ジヴェルニー近郊のセーヌ川の朝
1897年 | 油彩・画布 | 82×93.5cm |
ひろしま美術館

ジヴェルニーの積みわら、夕陽
1888-1889年 | 油彩・画布 | 65×92cm |
埼玉県立近代美術館(浦和)

積みわら、雪の効果
1891年 | 油彩・画布 | 60×100cm |
シャルバーン美術館

積みわら、雪の朝
1891年 | 油彩・画布 | 65.4×92.4cm |
ボストン美術館

ポプラ並木、夕日
1891年 | 油彩・画布 | 102×62cm |
個人所蔵(米国)

ジュヴェルニーのポプラ並木:曇り空
1891年 | 油彩・画布 | 92×73cm |
MOA美術館

ロンドンの国会議事堂、テムズ川の反射
1900-01年頃 | 油彩・画布 | 81×92cm |
マルモッタン美術館(パリ)

ロンドンの国会議事堂、太陽の効果
1903年 | 油彩・画布 | 81×92cm |
ブルックリン美術館(ニューヨーク)

ロンドンの国会議事堂、夕暮れ
1903年 | 油彩・画布 | 81×92cm |
ワシントン・ナショナル・ギャラリー

ロンドンの国会議事堂、日没
1904年 | 油彩・画布 | 80×91cm |
カイゼル・ヴィルヘルム美術館(クレフェルト)

ロンドンの国会議事堂
1903年 | 油彩・画布 | 81×92cm |
マルロー美術館(ル・アーブル)

ジヴェルニーのモネの庭の小道
1901-02年 | 油彩・画布 | 89×92cm |
ウィーン美術館(オーストリア)

アルジャントゥーユの橋

1874年 60 X 80cm

パリ オルセ一美術館

パリ郊外のアルジャントウーユに住んだ7年間に、モネはセーヌ川に浮かぶヨッ卜を数点描いている。こののどかな風景画においても、きらめく水面上に映ったものがゆらめいているようすをはっきりした色彩で描いている。

荷馬車、雪下の道

1865年 | 65×92.5cm | 油彩・画布 |

 

ルーブル美術館(パリ)

 ほとんどの印象派画家と同様、モネもどちらかといえば、まばゆく鮮やかな色彩で夏の景色を好んで描いた。しかしモネは冬景色をも愛し、早くから戸外で雪景色を描いた画家であった。これらの雪景色を描いた作品は彼の新たな挑戦を意味している。というのは冬景色は自然の色彩に乏しく、色調や陰影の微妙なグラデ一シヨンをとらえる鋭い感受性と正確な観察眼を要したからである。この作品ではどっしりと雪の降り積もったノルマンディ一の小道を行く馬車が描かれている。雲が垂れ込めるどんよりした空の下の道も土手も木々も納屋の屋根も、白く雪の毛布に覆われている。そして雪の白さと対照的に,ブルーグレーの色調が絶妙に配されている。

 画面右手の凍った小川や遠くの木々はじつに効果的であるし、より淡いグレーが雪上の荷馬車や納屋の屋根の影をきわだたせている。このブルーグレ一は、空の色にも混ぜられて土手の上の未踏の新雪にも反射しているのがわかる。そして、この白とブルーグレーの織りなす調和に対して、モネは濃い色の荷馬車をI点のコントラストとしておいている。こうして陰鬱になりがちな画面に生気を与えたのがモネのモネたるゆえんである。

ひなげし

1873年50x65cm 

パリ オルセ一美術館

ひなげしの咲く野原を散策する妻,力ミーユと息子ジャンを描いたこの小品は、1874年の第1回印象派展に出品された。カミーユとジャンは絵のなかに2回登場し、視点が幾度となく,輝く赤いひなげしで埋められた丘の斜面を行き交うよう工夫されている。

睡蓮の池と日本の橋

1899年 88.3cmx93.1 cm 油彩 カンヴァス

ロンドン ナショナル ギャラリー

モネは、1883年からパリ郊外の村ジヴェルニーに移住している。このジヴェルニーの家に造った美しい庭園を、モネは生涯愛した。睡蓮の咲く池に架かっているのは、好きだった日本の浮世絵に描かれているような太鼓橋。本作は、「水の庭」と呼ばれる、池のある庭園を描いたもので、18点ある日本風の橋をテーマにした連作のうちの1つである。このあとしだいにモネの興味は、天候や時間帯によって日光が水面にもたらす、さまざまな効果へと向かっていった。

セザンヌはモネをこ評している。 「モネは一つの目に過ぎない。しかしそ れは素晴らしい目だ」。