マネ

エドゥアール・マネ(1832年〜1883年)
 19世紀のフランスの画家。西洋近代絵画史の冒頭を飾るにふさわしい画家である。1860年代後半、マネはパリのバティニョール街の「カフェ・ゲルボワ」で芸術論を戦わせ、後に「印象派」となる画家グループの中心的な存在となる。印象派の代表とみられているが、マネ自身は印象派展に一度も出展していない。
 1832年、マネはパリ市街地のセーヌ川左岸、ルーブル宮殿を望むボナパルト街で裕福な家庭に生まれた。父は法務省の高級官僚でレジオンドヌール勲章をもらうほどの人物であるが、王政や帝政に批判的な共和主義者だった。母ウジェニーはストックホルム駐在の外交官の娘で、母ウジェニーの名前はスエーデン国王が名づけてくれた。富を蓄えて高い知識をもつ市民階級をブルジョワと呼ぶが、マネの家庭はまさにブルジョワそのものであった。

 マネは3人兄弟の長男として生まれ、父親は長男のエドゥアール・マネが一族の職を継いで法律家の道を進むことを望んでいた。1844年に名門中学のコレージュ・ロランに入学し、この頃から本人は画家になることを考えていた。このような美術好きの少年にデッサンの手ほどきをしたのは、母方の伯父フルニエ大佐だった。フルニエ大佐は反骨精神のある芸術家で、彼はマネ兄弟とマネの同級生プルーストらを定期的にルーブル美術館に連れていった。生涯の友人となるプルーストは、のちに美術省の大臣になりマネの死後、マネの伝記を書いている。

 フルニエ大佐のおかげで古典絵画に親しく接し、特にルーブル宮殿内で開設していた「スペイン絵画館」(1838~48年)に連れて行かれ、17世紀スペイン絵画のリアリズムに接し影響を受けた。

 マネは早くからデッサンの才能を発揮したが、かなり生意気な生徒だった。早い時期に画家になることを両親に打ち明けているが、両親は成績の悪い息子が法律の道を歩むことを諦めてはいたが、画家になることは許していなかった。
 1848年(16歳)、両親の意向もあり海軍兵学校を受験するが不合格となる。再試験を待つ間、練習船の見習い船員になり南アメリカのリオデジャネイロへ航海に出かける。6ヶ月の航海はパリっ子のマネには未経験の出来事ばかりだったが、この航海で鍛えられ、マネは海が好きになった。帰国後、海軍兵学校を再受験するもふたたび不合格となる。
 不合格が重なったことから、両親はマネの希望を受け入れて、17歳で本格的に画家への道を歩むことになる。このころ生涯の伴侶となる、オランダ人のジュサンヌ・レーンホフと恋仲になる。ジュサンヌは弟のピアノの家庭教師だった。

 1850年(18歳)、気鋭の画家トマ・クーチュールに弟子入りして6年間、マネは精力的に過去の巨匠たちの作品を模写して絵画を学んだ。若きマネにとって美術館での模写が学習の場だった。

 1859年、初めてサロン(官展)に「アブサンを飲む男」を出品するが落選する。落選はしたものの審査員のドラクロワや、詩人のボードレールからは高く評価された。サロンにはこれ以降も作品を送ることになる。ルーブル美術館で模写仲間としてドガと知り合うのもこの頃である。

 マネの父親が死ぬと、長い期間内縁関係でいたジュサンヌを入籍する。ジュサンヌへのマネの愛情は生涯変わらないが、ある時、可愛らしい女性と歩いているマネを見つけると、ジュサンヌは「今度こそ現場を見つけた」と声をかけると、マネは「お前だと思った」と言い返した逸話がある。気丈なジュサンヌがマネの自由な創作活動を支えていた。

 1861年、「スペインの歌手」と「オーギュスト・マネ夫妻の肖像」をサロンに出品し2作とも入選する。マネの画風は明快な色彩で、立体感や遠近感の表現を抑えた平面的な画風で、近代絵画の到来を告げるものであった。

 1863年の落選展に「草上の昼食」を出品すが、「草上の昼食」は物議をかもしだした。さらに2年後の1865年のサロンに展示された「オランピア」は、さらなる巨大なスキャンダルとなった。

  1870年代以降は、自らが影響を与えた印象主義から、逆に影響を受け、戸外での制作を積極的に行い、作風も印象派に特有の素早い筆致が目立つようになる。ただし印象派展には一度も参加せず、あくまでも芸術運動としての印象派とは一定の距離を置いた。
 1878年から体調が不安定になり、1880年代に入ると左足が壊疽にかかり歩行が困難となった。1882年、晩年の代表作である「フォリー・ベルジェールのバー」をサロンに出品するが、翌1883年に左足を切断し、同年4月30日に死去した。

草上の昼食

1862-1863年  208×264.5cm | 油彩・画布 |

オルセー美術館(パリ)

 エドゥアール・マネの名を一躍有名にした問題作「草上の昼食」。本作はラファエロが残したデッサンに基づいて、後世の画家マルカントーニオ・ライモンディが制作した銅版画「パリスの審判」や、巨匠ティツィアーノの代表作「田園の奏楽」に着想を得て、神話的主題、古典的名画をマネが取り入れ、当時の民衆の間で流行していたセーヌ河畔で過ごす休暇の風景を現代化し、「水浴」の名で1863年のサロンに出典した作品である。
 「水浴」はサロンから拒絶され落選したが、4年後にサロン審査に反発して開かれた落選展(落選作品が展示される絵画展)で民衆に公開されると、1日7000人の観客が押しかけ驚きの声をあげた。批評家、記者を始めとする来場者の殆どが「堕落した恥ずべき作品」、「批評家をからかい、混乱させるために描いた稚拙で厚かましい作品」と猛烈な批難を浴びせた。しかしこのスキャンダラスな事件はエドゥアール・マネの名を一気にパリ中に浸透させ、伝統に批判的だった前衛的画家らがマネを革新的先駆者とするきっかけとなった。
 物議をもたらしたのは、正装するふたりの男性と裸体で草上に座る女性の奇妙な組み合わせであった。女性はヴィクトリーヌ・ムーランがモデルで、正装の男は画家の実弟と義弟になる男性であった。

 最も重要なことは、これまでの伝統的絵画に、世俗的裸体を初めて持ち込んだことである。サロンに出品した時はタイトルは「水浴」であったが、サロンに落選して落選展に出品した時には「草上の昼食」であった。「水浴」は神話画によくみられるタイトルであった。マネは風俗を描いたことを強調するためタイトルを変更したとされている。こちらを見つめる裸体の女性は非現実的でありながら、それでいて世俗を象徴するかのようであった。当時の人たちは、市民の憩いの場所で、裸体の娼婦が平然とこちらを見つめる構図に強い嫌悪感を抱いた。これまでの伝統的絵画を否定する挑発的作品であった。この伝統への挑戦的絵画はマネの芸術の根幹であり、後の印象派の画家たちに通じるものであった。なお本作はマネの個展が1867年に開かれた際に、現名称である「草上の昼食」と画家自身が変更した。

 官製サロン、アカデミーは伝統に縛られ、伝統的継続こそが芸術としていた。裸体においてもキリスト教に縛られていた。まして娼婦の裸体像などは想像を超えており、神話的裸体と対極にある裸体像に猛反発したのは当然のことだったかもしれない。しかし時代は変化しているのである。この年から画家の登竜門であるローマ賞から「歴史的風景画」が廃止されたのである。それまでの絵画のヒエラルキーが崩壊し、近代化の幕が開こうとしていた。マネは画壇にさらなる一撃を加えたのである。伝統に縛られないマネの絵は新しい絵画を切り開いたと評価できる。

バルコニー

1868-1869年頃
170×124.5cm | 油彩・画布 |

オルセー美術館(パリ)

 ロマン主義の巨匠で近代絵画の創始者のひとりとして知られるフランシスコ・デ・ゴヤの「バルコニーのマハたち」との関連性が指摘される本作品は、1869年のサロンに展示され、当時は「現代の生活を、ただ描いただけの絵」、「画布に絵具を塗っただけの平面的な絵」との批難を受けた。
 本作に登場する人物は、手前で椅子に座る女性が印象派の女流画家でマネの弟ウジェーヌと結婚したベルト・モリゾ、隣に立つ日傘を持った女性がヴァイオリニストのファニー・クラウス、その後ろのネクタイの紳士は印象派の風景画家アントワーヌ・ギュメ、奥の部屋の影に溶け込んでるように描かれる帽子の男(給仕)は画家の息子レオン・レーンホフなど、親しい友人や知人をモデルに描かれており、マネとその周辺の者との繋がりを示す作品である。
 真正面から捉えられた本作の画面構成は、部屋の奥行きを陰影などの古典的描写を逸脱し、平面的かつ装飾的に描かれてる。光の描写は衣服や物体の立体感を意識的に失わせている。パリ街を傍観しているが、観る者と視線が交わらないように無感情に人物を描いているが、ある種の緊張感を生み出している。このような手法はマネの絵画における空間構成に対する疑念と、伝統的な絵画芸術に対する挑戦の表れである。画家の絵画的思想を示す先品のひとつとして重要視されている。

ナナ

1877年 油画 キャンパス 154×115

ハンブルグ美術館

 オリンピアのスキャンダルから14年後、マネは再び高級娼婦をテーマに取り組む。情人を従え下着姿で化粧をするのは、女優のアンリエット・オーゼルである。こちらを挑発するような眼差しで、見る目によれば、裸体よりも扇情的な下着姿である。レースで縁取りされたコルセットや花柄のストッキングはその時代の最先端技術によるものである。

 「ナナ」とは愛称であり、この作品の3年後にゾラは小説「ナナ」を書き、パリの娼婦となったナナの成功と凋落を書いている。

すみれのブーケをつけたベルト・モリゾの肖像

(黒い帽子のベルト・モリゾ)

 1872年 55×38cm | 油彩・画布 |

オルセー美術館(パリ)

 描かれるのはベルト・モリゾの単身像である。ベルト・モリゾはマネの弟ウジェーヌと結婚した印象派を代表する女流画家で、マネ独特の筆触や平面的な画面、落ち着きのある色彩が大きな特徴である。

 ベルト・モリゾがルーヴル美術館で模写をおこなっていた時に、友人から紹介されて以来、マネとベルト・モリゾは親密な交友関係にあり、画家の代表作「バルコニー」を始め、ベルト・モリゾをモデルとした作品を多数手がけている。ただし弟ウジェーヌと結婚後はモデルとした作品は描かれていない。

 本作はマネが1872年にベルト・モリゾの肖像を描いた4点の作品の中の1点で、観る者と対峙するように、こちらを見つめるベルト・モリゾの魅力的な表情は見事である。またベルト・モリゾの衣服と帽子の黒色は、画面の中で圧倒的な存在感を示すが、この黒色と背景に用いられた灰色が画面の大部分を占めることが、ベルト・モリゾの顔や頭髪に用いられた明瞭な茶色や肌色、すみれのブーケの控えめな青色を、より洗練された印象を与えている。なお本作は画家の死後、画商であり批評家であったテオドール・デュレが所蔵していたが、1893年にマネの子孫が買い取り、1998年にオルセー美術館が所蔵した。

 

皇帝マクシミリアンの処刑

1867年 252×305cm | 油彩・画布 |
マンハイム市立美術館

 歴史画の代表作「皇帝マクシミリアンの処刑」。本作に描かれるのはナポレオン3世の要請によりメキシコ皇帝に即位した、オーストリア皇帝フランツ・ヨゼフの弟「マクシミリアン大公」がメキシコ軍によって銃殺刑に処される場面である。構図や画面構成はロマン主義の大画家フランシスコ・デ・ゴヤの傑作「1808年5月3日、プリンシペ・ピオの丘での銃殺」から着想を得ている。

 当時のフランスはナポレオンの甥にあたるナポレオン3世の統治下にあった。ナポレオン3世はアメリカ大陸でのフランスの影響力を拡大させる目的で、1861年からメキシコへ軍を進行させ、1864年にメキシコで皇帝マクシミリアンを即位させた。しかしマクシミリアンの即位から1年足らずでフランスとの関係が悪化する。さらに南北戦争を終えたアメリカがフランス軍の撤退を要求してきたため、ナポレオン3世はメキシコ駐留のフランス軍を全て撤退させた。フランス軍によって北へ追いやられていたメキシコ軍は、アメリカの軍事支援を得て進軍、フランス軍の後ろ盾が無くなった皇帝マクシミリアンに退位を迫ったが、これをマクシミリアンが拒否したため、1867年6月19日に処刑がおこなわれた。
 この一連の事件は皇帝ナポレオン3世への責任問題へ発展しただけでなく、フランス第二帝政に対して反感の象徴となった。共和主義者であったマネは本歴史画を制作することで絵画的挑戦をおこない、それは官展(サロン)へのアピールも兼ねていた。

 マクシミリアンの処刑を新聞で知ったマネは、マクシミリアンを見捨てたナポレオン3世への強い批判にかられ筆をとった。さらにナポレオンを批判したゴヤの「1808年5月3日、プリンシペ・ピオの丘での銃殺」の構図を参考にこの作品を描いた。

 本作は事実とは異なる点が多い。まず銃殺刑の執行者たちはメキシの正規軍の制服ではなく、フランス軍の制服に類似している(画家の友人ルジョーヌ将軍に頼み、小部隊をモデルに使用した)。

 また本作品がゴヤの「1808年5月3日、プリンシペ・ピオの丘での銃殺」と決定的に異なるのは、人物の動作、姿態的な感情にある。ゴヤの作品では登場人物は演劇的な激しい感情に溢れているが、本作では皇帝マクシミリアンと部下、銃殺執行隊はある種の醒めた感情表現で描写され、粛々と刑の執行が進められている。また事実とは異なり、受刑者三人の真ん中に皇帝マクシミリアンを配することで、この処刑を受難者イエスに準じたとされている。

 マネの政治的意図が顕著に示される本作は、当局により反政府的と見なされた。本作を見たエミール・ゾラはナポレオン3世の失政に対して、皮肉を込め「皇帝マクシミリアンはフランスによって銃殺された」と述べている。

 

フォリー=ベルジェール劇場のバー

1881-1882年 96×130cm | 油彩・画布 |
コートールド美術研究所(ロンドン)

  エドゥアール・マネが死の前年に完成させたサロンへの出典作でもある。この傑作に描かれているのは、流行に敏感な人々が集ったパリで最も華やかな社交場であったフォリー=ベルジェール劇場のバーと、シュゾンという女給をモデルにしたことである。
 マネはこの頃、梅毒によって左足が壊疽しており、激痛に耐えながら劇場に通いデッサンを描いていたが、痛みが強く歩けないほどに悪化した。そのためアトリエに劇場のバーのセットを組み、そこにモデルを立たせて完成させた。

 女給仕シュゾンの背後の情景は、鏡に映った劇場で繰り広げられる様々な情景であり、画面右部分で紳士と会話する女は給仕本人の鏡に映る後姿である。中央では給仕を真正面から描き、右部の鏡に映る後姿は紳士と共に角度をつけて描かれていて、現実ではありえない構図である。このことから発表当時は辛辣な酷評を受けたが、平面的でありながら空間を感じさせる絵画的な構成や、給仕の魅惑的かつ虚無的とも受け取る独特な表情は、観る者を劇場の世界へと惹き込む。パリという都会の中で興じられる社会的娯楽を的確に捉え、そのまま切り取ったかのような作品である。本作では技法的にも大胆に筆跡を残す筆さばきや色彩など特筆すべき点が多く、画面前面に描かれる食前酒など様々な酒瓶、オレンジや花が入るクリスタルのグラスなどの静物は秀逸な出来栄えである。

 

笛吹く少年

  1866年 161×97cm | 油彩・画布 |

オルセー美術館(パリ

 本作はフランス帝国(フランス第二帝政)衛兵に所属する鼓笛隊の横笛奏者をモデルとした人物画である。マネが賞賛していたスペイン自然主義の巨匠ベラスケスが手がけた人物画「道化師パブロ・デ・バリャドリード「や、日本の版画の影響が示されている。マネはベラスケスの「道化師パブロ・デ・バリャドリード」から、横笛を吹くの少年と空間のみの構成や簡素化された人物画の表現を、日本の版画からは対象を正面から捉える平面的なアプローチや、強く太い輪郭線を用いて対象と空間を隔離する表現手法を取り入れている。観る者に鮮烈な印象を与える大胆な色彩を取り入れている。
 特に少年が穿くズボン側部の一本の縦縞模様は、そのまま少年の輪郭も形成しており、本作と対峙する者を錯覚させる。また黒、白、赤、黄、茶、そして少年の肌色と非常に抑えられた本作の色数も、日本の版画から取り入れた重要な特徴である。本作は1866年のサロンに出品され落選したが、画家の良き理解者である文学者エミール・ゾラは、簡素で単純であるが、装飾的で極めて空間的調和のとれた作品でと賞賛している。


テュイルリー公園の音楽祭

1862年頃  76×119cm | 油彩・画布 |

ロンドン・ナショナル・ギャラリー

 フランス・パリのテュイルリー公園でおこなわれた音楽祭をモティーフに描いた作品で、マネの写実主義的な絵画表現がより明確に示されている。本作には画家自身はもとより、家族、友人、知人、同輩など、当時の文化的なブルジョワ層の人々が描かれている。
 左端にはマネ本人の半身が傍観的観察者のように描かれ、その隣にはマネの友人の画家バルロワ卿アルヴェールがステッキを手にする、さらに隣の椅子に腰掛けるのは評論家ザカリー・アストリュクである。
 前景の二人の青帽子の女性は、軍事司令官の妻ルジョーヌ夫人と作曲家オッフェンバックの妻ジャック・オッフェンバック夫人が配され、その背後にはアンリ・ファンタン=ラトゥールやボードレールを始めとした写実主義者が見える。また画面中央やや右寄にマネの弟ウジェーヌの姿があり、その隣の眼鏡をかけているのは作曲家オッフェンバックで、帽子を上げ挨拶しているのが画家シャルル・モンギノである。
 群集肖像画である本作では、マネが現代的な生活を営む現代人の優位を賞賛しており、写実主義の巨匠ギュスターヴ・クールベの傑作「画家のアトリエ」に比較し得る現代性の描写が明示されている。このような意味でも重要な作品のひとつと位置付けられている。

オランピア

1863年  130.5×190cm | 油彩・画布 |

オルセー美術館(パリ)

 画家エドゥアール・マネが世に出した最もスキャンダラスな作品。本作はルネサンス期ヴェネツィア派最大の巨匠ティツィアーノの「ウルビーノのヴィーナス」に構図的着想を得て、当時の娼婦に用いられた通称「オランピア」の名称で出品された。サロンに入選するも、当時は「ウルビーノのヴィーナス」に基づくとは知られていなかった為に、いや知っていたとしても、露骨に娼婦を描いた卑猥な作品として1863年の「草上の昼食」以上に大きなスキャンダルを引き起こした。
 しばしば新古典主義の画家で当時最高のアカデミー画家のカバネルの代表作「ヴィーナスの誕生」(「草上の昼食」落選時の入選作品で当時の皇帝ナポレオン3世が購入)との関連性が指摘された。しかし「草上の昼食」同様、ヴィクトリーヌ・ムーランを娼婦のモデルに、植民地からの入植者である黒人女性ロールを召使のモデルに描いており、この露骨な裸婦像はこれまでの裸体像とは明らかに違っていた。当時の裸体像は。ギリシャ神話、キリスト教のイブ以外では認められていなかった。それを娼婦の裸婦像を描くとは、絵画自体を侮辱するとんでもない表現であった。現実、裸婦像は人々にエロスと背徳感を抱かせた。

 オランピアの肢体が纏う装飾は、この女性が娼婦であることを印象付け、片足の脱げたサンダルは処女の喪失を表しており、オランピアの足下の黒猫は自由の象徴し、猫の立てられた尾は高ぶる性欲を意味しているとされている。

 近年の研究では、マネの友人である詩人ボードレールは「現代生活の画家」中で、「芸術家は娼婦と同様、自らの身体やいかなる手法を用いても、観る者の注意を惹きつけなければならない」と書いており、オランピアをマネ自らに重ねて描いたとしている。これはオランピアが身に着けている腕輪が、マネの毛髪が入れられたマネの母親の腕輪であることとに関連付けられる。どのように評価するかは別として、誰がどのように解釈しようが、娼婦を描いた絵画であうことに間違いはないであろう。

 

アプサントを飲む男

1858-1859年 181×106cm | 油彩・画布 |
ニイ・カールスベルグ美術館

 描かれているのは、ニガヨモギの根から抽出するアプサントと呼ばれた安価で毒性の強い緑色の蒸留酒を飲む路上生活者である。この路上生活者は画家の近所にいたコラルデという男性で、ルーヴル近辺では比較的名が通っていた屑拾いであった。マネの最も初期の自然主義的作品で、この自然主義的な描写は、マネが学んでいたクテュールとの決別を意味しており、本作はサロン出品時に批判の対象となった最初の作品である。本作の「アプサントを飲む男」はフランス近代詩の父シャルル・ボードレールに想を得ていたと考えられ、マネ自身もボードレールに本作を認める嘆願の手紙を送っている。また小説家エミール・ゾラの著書との関連性も指摘されている。

 この頃、パリではアプサントを始めとする度の強い酒による重篤なアルコール依存症が社会問題化しており、本作においても画面中央左部分に描かれるアプサントのほか、地面に転がる酒瓶、男の古着の黒衣などにマネの社会性や文学性を帯びた絵画的挑戦を感じさせる。なお本作は大多数の批評家が拒絶・拒否したが、サロン審査に参加していたロマン主義の画家ドラクロワが擁護したことが知られている。

老音楽師(辻音楽師)
1862年頃187×248cm | 油彩・画布 |
ワシントン・ナショナル・ギャラリー

 本作は、当時再開発が進んでいたパリ市内サン=ラザール駅裏手にあった取り壊し後の貧民街の殺風景な風景の中に、そこへと集まる老音楽師や浮浪者、大道芸人、屑拾いなどを描いた風俗画である。老音楽師はアトリエ近郊のユダヤ人街に居たゲルーという男をモデルに、大道芸人はバティニョル近郊に住んでいたジャン・ラグレールというジプシーをモデルに描かれているほか、シルクハットを被る屑拾いは1850年代の代表作「アプサントを飲む男」と同一人物である。また中央やや左寄りに描かれる二人の浮浪者の子供の描写はムリーリョ作「蚤をとる少年」や、ロココ美術の画家アントワーヌ・ヴァトー作「ピエロ(ジル)」に典拠を得たとされている。登場人物各々が独立し、やや分裂気味に描かれる画面の中に、当時のパリの近代性や社会的変化、そしてそれがより進む未来的予測を見出すことができる。画家の時代を見つめる鋭い観察眼と、マネのサロン様式にとらわれない、確信犯的かつ野心的な自然主義的写実性が感じられる。

キアサージ号とアラバマ号の海戦
1864年 134×127cm | 油彩・画布 |
フィラデルフィア美術館

 キアサージ号とアラバマ号の海戦は歴史画の代表的な作品で、1872年のサロンに入選した、アメリカで始まった南北戦争から4年後の1864年、フランス北西部、コタンタン半島に位置する港湾都市シェルブールの沖で、北部連合の軽巡洋艦キアサージ号が南部連盟の巡洋艦アラバマ号を撃沈した場面である。マネが目撃したとの説もあるが、おそらくマネは目撃せず、ブーローニュ港に停泊していた時に描いていたキアサージ号のデッサンと当時の新聞に掲載された写真を用いて制作したと考えらる。
 本作はマネがサロンへの入選を目指して描かれた歴史画であるが、描写的誇張を示しながらも、真実性に溢れた表現は、当時の批評家から「単純で力強い自然と風景の感覚によって表現された、このキアサージ号とアラバマ号の海戦の絵画に私は感情の高揚を覚えた。あのマネがこのような作品も描けるとは。構想、表現、どれも素晴らしい」と賞賛されている。
 やや縦長の画面に描かれるシェルブール沖の海上を、荒々しく高まる波で描き出すことによって、砲撃され撃沈される巡洋艦アラバマ号の迫力をより一層効果的にしている。また実際に本海戦を見るため、多数の民衆ら船で海上へ押し寄せたこともマネは逃さす描写している。なお本作はルノワールの有力なパトロンになった出版事業者ジョルジュ・シャルパンティエが所有していが、1888年に米国の美術収集家ジョン・G・ジョンソンに売却された。


兵士に侮辱されるキリスト(キリストの嘲笑)
1865年 195×150cm | 油彩・画布 |
シカゴ美術研究所

 マネ最大の問題作「オランピア」と共に1865年のサロンへ出品された作品である。本宗教画は新約聖書に記された「キリストの嘲笑」を主題に制作され、マネは本作以外にも「死せるキリストと天使たち(キリストの墓場の天使たち)」など幾つかの宗教画を残している。本作はその代表作で、画面中央には、白い肌が強調され、荊の冠を着けられた受難者イエスがほぼ裸体で配され、その視線は「父なる神」の天上へと向けられている。受難者イエスの周囲にはユダヤ人やローマ兵たちが配され、イエスに侮蔑の言葉や嘲笑を浴びせている。

 最も注目すべき点は、登場人物の表現にある。背景を黒一色に統一することで人物以外の要素を除外し、観る者の視線を登場人物へ集中させている。受難者イエス、3人のユダヤ人、ローマ兵たちには宗教的な意識はなく、肖像画の人物像がそのまま描き込まれている生々しさがある。また構図や構成は、ルネサンスのティツィアーノの同主題の作品や、ヴァン・ダイクの「茨の冠のキリスト」の影響が感じられる。しかし画布の上へ乗せられる絵の具や、力強さを感じさせる肉厚の筆触などにマネの画家としての個性を感じさせる。

鉄 道
1873年
93×114cm | 油彩・画布 |
ワシントン・ナショナル・ギャラリー

 1874年のサロンへ出品された。本作に描かれるのはマネの問題作にして代表作である「草上の昼食」や「オランピア」のモデルを務めたヴィクトリーヌ・ムーランと、友人の画家アルフォンス・イルシュの娘である。急速に近代化が進められるパリ市内ヨーロッパ橋近傍の鉄道のある風景である。本作の名称に「鉄道」と付けられているが、そこに機関車など具体的なものは描かれていない。鉄格子を境に画面後景を支配する真っ白な煙と、右端で僅かに見えるヨーロッパ橋(サン・ラザール駅の鉄橋)がそれを表すものと描かれている。これらにより公開当時は批評家や一般の者から数多くの批判を受けることになった。しかし煙によって隠れている鉄道を表現している風景は、観る者に新鮮な印象を与える。また無関心な表情を浮かべるムーランの虚空な眼差しと、鉄格子に手をかけ煙の向こうの蒸気機関車を見つめる子供の後姿は、マネが数多く手がけた人物画においても特に白眉な出来栄えである


オペラ座の仮面舞踏会
1873年 59×72.5cm | 油彩・画布 |
ワシントン・ナショナル・ギャラリー

 1874年のサロンに出品するも落選した作品。本作に描かれるのは歌劇場で、当時はル・プルティエ街に建てられていた旧オペラ座(旧オペラ座は本作が描かれた1873年10月に起こった火事で焼失し、現在オペラ座はシャルル・ガルニエの設計により1875年に完成)を舞台に開かれた仮面舞踏会の場面である。
 シルクハットを被る男たちの構図には、マネが1865年に訪れたスペインで見たエル・グレコ屈指の代表作「オルガス伯爵の埋葬」の影響が指摘されている。この男たちを始め、画面左端の赤と緑の人形の格好をした男などはマネの友人や知人などが多数描かれている。画面右端から二番目の正面を向く男性がマネ自身を描かれている。
 このように風俗を扱った作品の中にも画家の鋭い現実への洞察や、聖書や神話など正統的な主題への皮肉が示されている。例えば「オルガス伯爵の埋葬」で聖人や教会を支えた有力者たちの集団は、当時のパリを支えた上流階級の人々と仮装した娼婦たちの姿に変えて描かれている。また絵画としての色彩構成も、黒色の衣服に身を包む男たちが画面の大部分を占める中で、アクセント的な差し色として、娼婦らや人形の格好をした男や画面上部に下半身のみ描かれるの女性の脚の赤色や緑色、水平に描かれる2階部分の床や垂直に描かれる2本の大理石の柱の白色が用いられている。

ヴェネツィアの大運河
1874年 57×48cm | 油彩・画布 |
老後保険会社(サンフランシスコ)

 風景画の代表例で、マネが休暇旅行として妻シュザンヌや画家仲間と共に1874年9月、カーティス夫妻の招待客としてヴェネツィアを訪れた時に制作された作品である。ヴェネツィアの大運河と、運がから見える風景が描かれている。ゴンドラ上からの視点で制作されているが、画面中央から右部にかけての青色と白色で捩れた模様(ゴンドラ会社の目印ともなっているゴンドラを岸に繋げるための杭)は、際立った存在感を放ち、またパリーナの奥の遠景にはサンタ・マリア・デッラ・サルーテ聖堂が見える。本作の特異な構図やスケッチ的な描写による左部分の建物も特筆に値するが、本作において注目すべき点は大運河の水面の表現である。水面に映るパリーナや建物の影は大ぶりで混ざり合わない配色によって表現されている。これはマネが表現様式として印象主義的の影響を受け入れたもので、画家の表現・描写の変化が示された例である。なおマネ自身はこのヴェネツィア滞在を「退屈であった」と述べている。


胸をはだけたブロンドの娘
1878年 62.5×51cm | 油彩・画布 |
オルセー美術館

 マネの問題作として名高い「オランピア」以降に制作された7点の裸婦作品の中の1点である。胸部がはだけた女性の半身像を手がけた作品で、モデルは不明である。芥子の花飾りの付いた麦藁帽子を被る娘は、やや虚ろに感じさせる空虚な表情を浮かべながらぼんやりと左側を向いている。その顔には緊張はもとより、女性の自意識と生命感が感じられない。これは頭痛や脚の痺れなど体調に変化の兆しが見え始めたマネが、己の行く末を想う複雑な心境が投影されている。

 ここでマネはルノワールの作品にも似た芳醇な裸纖を実現した。勢いのある太い描線が瑞々しく、左の乳房は筆で入念に仕上げてあるのがX線写真で分かる。大胆で輝くような裸体像である。モデルに関しては諸説あるが、画家は個性よりも裸体の美しさに魅せられているようだ。流行の麦わら帽子にさした赤い花が緑の背景と相まって美しい。

 一方、画面下部の半分以上を占める娘の豊潤な姿態や、明確に輪郭線を引いた肌蹴た胸部の柔らかな曲線には女性としての見事な官能性や画家としての絵画に対する挑戦性を見出すことができる。さらに本作で最も注目すべき点は表現そのものにある。本作は油彩を用いながらも、別の素材として松精油(テレビン油)を混合させていることが知られており、その薄塗り的効果はあたかも水彩のような表情を生み出している。この他、素材との混合的描写手法は晩年期のマネの作品の特徴である。他にも若い娘の黄色味を帯びた肌色や麦藁帽子に装飾される赤々とした芥子の花と、背景に使用されたくすみを帯びた緑色との色彩の対比などに画家の創意と才能を感じる。


温室にて
1878-79年 115×150cm | 油彩・画布 |
ベルリン国立美術館

 本作に描かれているのは知人のジュール・ギュメ夫妻で、後期から晩年期にかけての画家の作品に見られる特徴が出ている。モデルであるジュール・ギュメは流行のドレスショップを営み、妻のギュメ婦人は画家の社交界に繋がりのある女性であった。柵の向こう側から身を乗り出すジュール・ギュメは妻の方へ視線を向けているが、妻ギュメ婦人は無関心に視線を正面へと向けている。1870年代以降の作品に多く見られる、このような女性の無関心な態度は、上流階級の女性個々の自意識の本質的な表れであるとされている。本作の温室内に茂る異国情緒に溢れた植物による圧迫的空間構成や、画面ほぼ中央で接近する互いの手の指にはめられるそれぞれの結婚指輪、夫妻のわざとらしさやぎこちなさの残る姿態の表現、鮮やかで鮮明な色彩の描写なども注目すべき点である。なお本作はマネがが国家に買い上げを要望するも叶わず、後にベルリンのコレクターたちによって購入された。

ガラス花瓶の中のカーネーションとクレマティス
1881-83年頃 56×35cm | 油彩・画布 |
オルセー美術館(パリ)

 エドゥアール・マネが最晩年に手がけた静物画はガラスの花瓶に入れられたカーネーションとクレマティス(クレマチス)である。画面のほぼ中央に配されたやや背の高い台形型のガラス花瓶に、葉のついたままの大きく花開いたクレマティスがガラス口付近に活けられ、その背後にはカーネーションが数本配されている。日本美術の影響を感じさせる飾り気の無い簡素な配置ながら、クレマティスとカーネーションの構成的なバランスや絶妙な配色、そして画面の中に躍動感をもたらしている左右のクレマティスの葉は特に優れている。
 さらに花が活けられたガラス花瓶の中で、水を通り微妙に変化する光の描写や質感は、闊達で力強さを感じさせ表情豊かに描かれている。最晩年期(1880年代)のマネは体調を悪化させ大作は困難な状況にあり、その為、室内に飾られていた花を描くことが多くなっていた。本作はそのような状況で描かれた典型的な画家の作品である。花の画題には安堵や癒しを求める姿勢、逆に短命な花と自身の置かれた状況を重ねたと考えられる。

ローラ・ド・ヴァランス


1862年 123X92cm 油彩・カンヴァス 


パリ オルセ一美術館

 マドリード王立劇場舞踊団は、1862年の夏から秋にかけて、パリのイポドローム劇場で公演を行い大人気を博した。マネは一座を友人の画家ステヴンスのアトリエに招いて描く。舞踊団随一のスター、ローラがポーズをとった本作は、大胆な色彩と表現で周囲を驚かせた。大胆かつ繊細に描かれた花形踊り子である。ポードレールが少々エロテイックな4行詩を捧げて、ローラとマネ双方へのオマージュとしたことはよく知られている。

ブーローニュニシュル=メールの浜辺

1869年 油彩・カンヴァス

 

アメリカ アッパーヴィル、ボール•メロン夫婦

 

 パリからほど近い英仏海峡沿いの町々が、マネー家の避暑のためのおもな滞在地であった。そのひとつブーローニューで、一家は1868年と69年の夏を過ごした。この海景画にはマネ独特の構図感覚が願著にみられる。画面は湾曲した水平線と砂浜によって3段に切られ、水平線は異様に高い。奥行きは圧縮され、人々の関係性は希薄である二次元的な独特の構図感覚である。

死せるキリストと天使たち

(キリストの墓場の天使たち)

1864年 | 油彩・画布 | 179.4×149.9cm |

メトロポリタン美術館

船遊び(ボート遊び)
1874年 97×130cm | 油彩・画布 |
メトロポリタン美術館

 制作年は1874年であるが、1879年のサロンに出品された。本作に描かれるのは、余暇をセーヌ川で舟遊びを楽しむ人々の近代的な日常場面で、水平線を描かず場面と対象のみを切り取ったかのような日本の版画的な構図と構成が大きな特徴のひとつである。本作に描かれる人物のモデルについては、男性はルドルフ・レーンホフもしくはバルビエ男爵と、女性は印象派の画家クロード・モネの最初の妻であるカミーユ・モネとする説が一般的である。
 男女と彼らが乗る船は柔らかな陽光を浴び、輝きを帯びながら画面内へ大胆に配されている。特にカミーユ・モネが身に着ける衣服の縦縞模様の荒々しい筆触は、光の表現において印象的な効果を生み出している。また青々としたセーヌ川水面は、反射する陽光によって多様な色彩的表情を見せ、繊細で鮮やかな色彩描写は自然と観る者の視線を傾けさせる。

ラテュイユ親父の店にて

(1879)

 レストラン「ラテュイユおやじの店」はカフェ・ゲルボアのすぐ隣にある。主人の息子ルイ・ゴーティエ=ラテュイユは、この絵の由来について次のように語っている。

「1879年7月に兵役を終えて帰ってきたとき、ぼくは家の前でマネにあった。マネはぼくの容貌をほめて、父にいった。「考えがあります。息子さんを竜騎兵に仕立てて絵を描きましよう」。マネは(女優の)エレン.アンドレを呼んだ。若いて魅力的な楽しい人だ。死にたくなるようなすてきな装いだ。それはすばらしいことだった。絵はうまく行った。2度モデルとして座った。でも3度目にはエレン•アンドレは来なかった。次の日に来たが少し遅れて来た。芝居の稽古をしていたのだ。マネは怒って、彼女抜きでやることに決めた。つぎの日、マネはジュディット・フレンチをつれてきた。オッフェンバックの親戚だ。ぽくは彼女と組んで、もとのポーズをとろうとした。けれど、ずいぶん様子が違ってしまった。マネは神経質になったようだった。とうとうマネは「軍服を脱げ」といった。そして「私の仕事着を着るんだ」。そういうわけでぽくは一市民としてフレンチ嬢とポーズをとることになったんだ」、

 この作品では、若い男がシヤンパングラスを手にして熱烈に女性を見つめている。右側では給仕がコーヒーポットを持って立っている。ユーモラスな今日の生活をスケッチした佳品である。この「ラテュイユおやじの店にて」は1880年のサロンに出品された。そのときの題は「屋外で」だった。

 テオフィル・シルヴェストルは次のように書いている。「レストランのこの一角には、輝きと喜びだけがある。こうした日々の暮らしのささやかな場面には、まったく並はずれた活力がある。マネが難さと真実のこもりた、自分の透明なヴィジヨンを、そして自分の印象の明快さを、さらには自分のパレットの源を、これほど強力に主張したことはなかった」

アルジャントゥイユ

1874年頃 149×115cm | 油彩・画布 |

トゥールネ美術館

 1875年のサロンに出品された唯一の作品である。本作に描かれたのは、パリの北西にある、セーヌ河沿いのアルジャントゥイユに集う男女の姿で、女性のモデルは不明であるが、男性のモデルは「船遊び(ボート遊び)」同様、マネの義弟となるルドルフ・レーンホフである。
 サロン出品時、本作は批評家や観衆から嘲笑され続けたが、本作の表現や辛辣な観察眼で描写される俗物的な画題選定は特に注目に値する。未婚の男女間の集いの場としても名高かったアルジャントゥイユの舟遊び場で横縞の衣服を着た男が一人の女に寄り添いボート遊びを誘っている。しかし女は他のマネの作品同様、無関心な表情を浮かべている。男はボート遊びの後の肉体的快楽を期待し女を誘っているが、女はそんな男の安易な思惑を見越しているかのような態度である。本作には舟遊び場での男と女、それぞれの狙いや考えが画家の辛辣な観察眼によって鋭く描写されている。また平面性を強調した二次元的な画面構成に大ぶりの筆触によって描写される登場人物や船、水面などの構成要素は当時のマネの表現様式を考察する上でも優れた例である。

エミール・ゾラの肖像

1867-1868年 146×114cm | 油彩・画布 |

オルセー美術館(パリ)

  1868年のサロンに出品されたエミール・ゾラの肖像である。画家アントワーヌ・ギュメの紹介で1866年にマネと知り合い、その後マネとの友情が生涯続くことになる小説家兼批評家のエミール・ゾラの肖像である。エミール・ゾラが冊子「エヴェヌマン」の中でマネを強く擁護した論文に対し、マネがゾラへの感謝と賞賛の証として描いた作品である。ゾラの前の机上には様々な書物や小冊子が置かれており、その中に画家の署名代わりの「MANET」が記され、マネに関する冊子であることが確認できる。また壁にはエミール・ゾラが強く擁護したマネの代表作「オランピア」の版画や、マネが賞賛していたバロック絵画の巨匠ディエゴ・ベラスケス作「バッコスの勝利(酔っ払いたち)」のエッチング、そして当時マネが強く関心を寄せていた日本趣味的要素として二代目歌川国明による「大鳴門灘右ヱ門」が飾られ、いずれもゾラへ視線を向けている。またゾラの背後には江戸時代の絵師尾形光琳を始めとした琳派を思わせる屏風絵が描かれている。本作ではエミール・ゾラの肖像として作品に名称を付けながらも、マネのゾラに対する興味より、マネ自身の興味(スペイン絵画や日本趣味)を中心に画面が構成されている。現在ではゾラの肖像画というよりも、マネ自身の関心を描いた静物画的人物画の側面が強いと解釈されている。なおエミール・ゾラは印象主義の画家らの強い擁護者でもあったが、マネとセザンヌをモデルとした小説「作品」により、印象派の画家らと決定的な亀裂が生じ関係の終焉を迎えた。

ステフアヌ•マラルメの肖像

1876年カンヴァス油彩27.5x36cm

パリオルセ一美術館

 親友である詩人マラルメを描いたこの肖像画はエミール・ゾラを描いたもっと早

い時期の肖像とは対照的である。ゾラの肖像画ではマネは、そのゾラを説明する持物の描写に精力をかけたが、マラルメではひじかけ椅子により掛かかり、読書の最中に夕パコをふかしている。他には壁紙の簡単な模様が見えているだけで、マネは人物だけにの注意を注いでいる。この小品はきわめて短時間,おそらくは1回のポーズだけで描いたのであろう。親密さの現れた,気持ちのこもった肖像画である。

マネが10歳年下のマラルメに出会ったのは1873年後半のことで,彼らはほとんど毎日会うようになった。マラルメはマネの作品について評論し、マネもまたマラルメによるエドガー・アラン・ポーの翻訳本に挿図を描き,また1876年4月に出版された「牧神の午後」に木版画による挿図を制作している。マラルメはマネ的確に鋭く見抜いていた。彼は言っている。

「作品が未完成とはどういう意味だろう。その作品の要素のすべが調和しており、一筆でも加えればその魅力は壊れてしまうというのに」この疑問はこの作品にこそ向けられるものだろう。マラルメの姿と個性をこの上なく雄弁に伝える一方で,その手段が極端に切り詰められている作品である。