セザンヌ

 ポール・セザンヌ(1839年1月19日〜1906年)

 セザンヌはフランスの画家である。モネやルノワールらとともに印象派のグループとして活動していたが、後に印象派のグループを離れ、ポスト印象派と呼ばれるようになった。なお印象派にはルノワールやモネ、ポスト印象派にはゴッホやゴーギャンといった画家が分類されている。ポスト印象派として紹介されることが多いが、キュビスムをはじめとする20世紀の美術に大きな影響を与えている。いずれにしても、伝統的な絵画の約束事にとらわれず、あくまでも自分の絵画様式を探求した。

 セザンヌは人間嫌いで、社交下手であったが、うつろいやすい外観に惑わされず、その内にある本質を描き出そうとした。自然そのものよりも、その奥にある構造をさぐりたいとしていた。またセザンヌほど多くの画家たちから賞賛され愛された人はいない。マチィスは「1点のセザンヌは、ある瞬間の芸術家である」と賛美し、ピカソは「現代絵画の父」と慕った。彼が描いたのは風景画、人物画、静物画と多岐にわたり、800点以上の作品になるが、時代を超えた普遍的画風が画家たちの賛同を得た。

 ひとつのモチーフに執拗に向き合い、肖像画のモデルに100回以上もポーズをとらせ、リンゴを描く際には、リンゴが腐るまで描き続けた。若き日「りんごひとつでパリを征服してやる」が口癖であった。

 

出生から学生時代
  セザンヌは南フランスのプロヴァンスの裕福な家庭に生まれた。父親は帽子の行商人であったが、商才があり、地元の銀行を買収して銀行経営者になっていた。母親はエクスの椅子職人の娘で、セザンヌ誕生時、両親は内縁関係にあり、妹マリーが生まれてから入籍した。
 銀行家の息子として裕福な家庭で育ち、ラテン語やギリシャ語をこなすほど優秀な少年であったが内気な性格だった。13歳でブルボン中学に入学するが、このブルボン中学は良家の子息が集まる名門校で、作家「エミール・ゾラ」と天文学者「ジャン=バティスタン・バイユ」と友達になる。3人は仲良くプロヴァンスの山野に遊び、文学や美術論などを語り合った。エミール・ゾラはパリで生まれ、親を亡くしていたので、級友からいじめられていたが、セザンヌはゾラをかばい、そのため級友からセザンヌが袋叩きにあったことがある。
 セザンヌはエクスの市立素描学校に通いデッサンを習うが、厳格な父親は絵画に関心を示さなかった。デッサンの勉強を続けながら、銀行家の父の後を継ぐべくエクス大学の法学部に通った。それでも画家になりたい思いは抑えられず、次第に大学の授業をサボるようになった。

 1858年2月、小説家ゾラがパリの母親のもとに帰り、残されたセザンヌはゾラとの文通を始めた。セザンヌが絵の道に進むかどうか迷っていると、ゾラは「絵の勉強をするなら、早くパリに出るんだ。なにを躊躇している」とセザンヌの背中を押した。さらにゾラからの手紙には「勇気を持て、まだ君は何もしていないのだ。僕らには理想がある。だから勇敢に歩いていこう」、「僕が君の立場なら、アトリエと法廷の間を行ったり来たりすることはしない。弁護士になってもいいし、絵描きになってもいいが、絵具で汚れた法服を着た、骨無し人間にだけにはなるな」とある。

 

画家としての出発(1860年代)
 1861年(22歳)の時、大学を中退して画家修業のためパリへ旅立つ。しかし国立美術学校を受験するが見事に不合格となり、画塾(アカデミー・シュイス)に通うことになる。ここでピサロやギヨマンと出会った。朝は画塾に通い、午後はルーヴル美術館あるいは仲間のアトリエでデッサンをしていた。
 同年9月、なぜか故郷エクスに帰り父の銀行で働く。しかし銀行勤めはうまく行かず、翌年秋、再びパリに戻り画塾にかよう。この時、モネやルノワールと出会い、エクス出身の彫刻家で、終生の友人となったソラーリとも知り合い共同生活を送った。ロマン主義のドラクロワ、写実主義のクールベ、マネの影響を受けた。
 1863年、ナポレオン3世が開いた落選展に、マネが「草上の昼食」を出品して大スキャンダルになる。1865年、サロン・ド・パリに応募するが落選する。応募の時、親友ピサロへの手紙に「学士院の連中の顔を、怒りと絶望で真っ赤にさせてやる」と書いている。

 セーヌ川沿いの小村ベンヌクールで制作活動を行ったが、ここを訪れたゾラは、「セザンヌは仕事をしている。彼はその性格の赴くままに、ますます独創的な道を突き進んでいる。彼には大いに希望が持てる。でも彼は向こう10年は落選するだろう」と友人に報告している。美術批評家としての地位を確立しつつあったゾラは、マネを囲む革新的画家がたむろするカフェ・ゲルボワの常連になり、セザンヌもこれに加わった。しかしセザンヌは都会の機知に富む会話にはなじめなかった。文学の道を選んだゾラがサロン評をまとめた「わがサロン」を刊行し、その序文でセザンヌに触れている。
 1869年、後に妻となるオルタンス・フィケ(当時18歳)と知り合い、後に同棲するが、厳格な父を恐れ、彼女との関係を隠し続けた。父からの月200フランの仕送りで2人の生活をしなければならず、経済的に苦しくなった。
 1870年のサロンに応募するもまたも落選した。この年の7月19日に普仏戦争が勃発したため、母が地中海に面した村エスタックに用意した家にフィケとともに移り兵役を逃れた。


「レヴェヌマン」紙を読むルイ=オーギュスト

セザンヌ(画家の父)
1866年 200×120cm | 油彩・画布 |
ワシントン・ナショナル・ギャラリー

 後期印象派の巨匠セザンヌは若いころまったく売れない画家だった。国立美術学校の試験に落ち、パリのサロン(官立の美術展)への入選を目指しているが17年間も落選につぐ落選で、気が付けば彼は43歳になっていた。そんなセザンヌの父は厳格な人物で、帽子職人から銀行の頭取にまでなった苦労人である。「金があれば生きてゆけるが、天才だけでは死ぬ」という父はセザンヌとは水と油のようなものだった。画家をやめ自分の跡を継いで欲しいと願う父は、それでもセザンヌに仕送りを続けた。      
 1882年、セザンヌは「L・A氏の肖像」でついにサロン入選を果たす。しかしそれは友人を通じて審査員特権(自分の弟子を一人無条件に入選させられる)を使ったものだった。セザンヌはこのことを恥じていなかった。自分と考え方の異なるサロンに入選することは、家業を継ぐことを断り、生涯田舎者の父の脛をかじり続けたセザンヌのせめてもの親孝行だった。

タンホイザー序曲(ピアノを弾く若い娘)
1868-69年頃 57×92cm | 油彩・画布 |
エルミタージュ美術館

これはセザンヌのやさしい雰囲気の絵で、ジヤ•ド•ブフアンの居心地のよい客間での妹マリーの姿とされている。セザンヌはマリーをとてもたよりにしていた。

画家アシル・アンプレールの肖像
1869-70年頃 200×122cm | 油彩・画布 |
オルセー美術館(パリ)

パンと卵のある静物

1865 Oil on canvas  59 x 76 cm

シンシナティ美術館

印象主義の時代(1870年代)
  パリ・コミューンの混乱が終わり、フランス第三共和政が発足すると、パリを逃れていた画家たちが戻ってきた。セザンヌも、1872年夏にはエスタックから パリに戻ってきた。同年、フィケと生まれたばかりの息子ポールを連れてパリ北西のポントワーズに移り、ピサロとキャンパスを並べて作品を描いた。

 その後、ピサロとともに近くのオワーズに移り住み、ここでアマチュア画家の医師ポール・ガシェと親交になる。1873年にモンマルトルに店を開いた 絵具商タンギー爺さんことジュリアン・タンギーも、ピサロの紹介でセザンヌの作品を熱愛してくれた。セザンヌは、この時期にピサロから筆触分割などのの技法を習得し、セザンヌの作品は明るい色調のものが多くなった。セザンヌはピサロとの出会いによって印象派の技法を学んだだけではなく、ピサロがセザンヌを屋外に連れ出すことが多かったために、絵画の色調も明るいものに変わっていった。

 セザンヌは、印象派からの影響について、「私だって印象主義者だった。ピサロ は私に対してものすごい影響を与えた。私は印象主義を美術館の芸術のように堅固な、長続きするものにしたかった」。またモネについて、「モネは 一つの眼だ、絵描き始まって以来の非凡なる眼だ。私は彼には脱帽する」と語っている。
 1874年、モネ、ドガらが開いたグループ展に「首吊りの家」、「モデルヌ・オランピア」など3作品を出品した。「モデルヌ・オランピア」は、マネの 「オランピア」に対抗して近代の絵画を示そうとした作品であった。この展覧会は、後に第1回印象派展と呼ばれることになるが、モネの「印象・日の出」を筆頭に、世間から激しく酷評されることになる。セザンヌの「モデルヌ・オランピア」も、新聞紙上で「腰を折った女を覆った最後の布を黒人 女が剥ぎとって、その醜い裸身を肌の茶色いまぬけ男の視線にさらしている」と酷評や皮肉が集中した。他方、ゾラはマルセイユの新聞 「セマフォール・ド・マルセイユ」に無署名記事で、「展覧会で心打たれた作品は多いが、中でもセザンヌの注目すべき風景画をここに特筆しておきたい。その作はある偉大な独創性を証明していた。ポール・セザンヌは長年苦闘を続けているが、真に大画家の気質を示している」と援護している。また、「首吊りの家」は、アルマン・ドリア伯爵に300フランの高値で買い上げられた。セザンヌは、この年の秋に母に書いた手紙で、「私が完成を目指すのは、より真実に、より深い知に達する喜びのためでなければなりません。世に認められる日は必ず来るし、下らないうわべにしか感動しない人々より、ずっと熱心で理解力 のある賛美者を獲得するようになると信じてください」と自負心を表している。
 その後、パリとエクスの間を行ったり来たりして、第2回印象派展には出品していない。辛辣な批評に自信を失って出品を断ったとも言われるが、サロンに応募を続けるセザンヌに、グループ展に参加するからにはサロンに応募すべきではない、というエドガー・ドガの方針に従ったためとも言われている。
 絵画収集家ヴィクトール・ショケの励ましもあり、1877年の第3回印象派展に、油彩13点、水彩3点を出品した。ここには肖像画、風景画、静物、動物、水浴図、物語図といったセザンヌが扱う主題が全て含まれていた。その中の「ショケの肖像」は再び厳しい批評にさらされた。一方、「「水浴図」を見て笑う人たちは、私に言わせればパルテノンを批判する未開人のようだ」と述べたジョルジュ・リヴィエールのほか、ル イ・エドモン・デュランティ、テオドール・デュレのように、セザンヌの作品を賞賛する批評家も現れた。ゾラも「セマフォール・ド・マルセイユ」紙に 「ポール・セザンヌ氏は印象派の中で最高の偉大な色彩画家である」と賛辞を書いている。

赤い肘掛け椅子のセザンヌ夫人

1877年頃 72.5x56.0cm

ボストン美術館

 

 この絵の題名は「赤い肘掛椅子のセザンヌ夫人」となっているが、オルタンス正式に結婚する9年前に描かれている。1869年に「画家とモデル」としてオルタンスと知り合って17年後の1886年にようやく籍を入れた。

セザンヌは一代で銀行家として財を成した父の怒りを恐れ、彼女と子供の存在を20年近くも父親に隠していた。1886年に父親が死に、セザンヌに莫大な遺産が入り、その事により籍を入れる事が出来た。

 

 セザンヌの絵は全体的に硬さがあり、滑らかさに乏しいのが特徴であるが、この絵は初期の作品と云う事もあって硬さが目立つ。張りぼてで出来ている夫人と云う感じで、セザンヌ以前なら到底認められなかったであろう。セザンヌはオルタンスの肖像画を25点残している。

冬のジャ・ド・ブファンのマロニエの並木

1885~07 ミネアポリス・インスティテユート・オブ・アーツ

 サント・ヴィクトワール山が並木越しに描かれている。並木の枝ぶりは筆圧の力が抜け伸び伸びしていて、それが主題はヴィクトワール山であることを何気なく示している。

座る農夫

1897年頃 55.0x46.0㎝ 

ひろしま美術館蔵

 セザンヌ以前の画家は、目の前の対象を描くとき、一点の視点から放射線状に物を見て描いていた。しかしセザンヌは動いた視点のまま描いている。この絵では床が異様に上がっていて、椅子の座る位置と同じ高さに描かれている。セザンヌは描く対象物を一点の高さから放射線状に見て描いているのではなく、床に目の視点を下げて床の中心に視点を置き、画面にそのままの見える角度で描いていのかがわかる。

 例えば部屋の床を見て視点を上げ下げすると、床の端の高さが変わり面積が広くなったり狭くなったりが、これと同じ状態がこの作品で起きているのです。セザンヌの花瓶の口が手前に向いて見えるのも視点が動くからである。多視点で視点がずれて描くことは、画面が歪むので、セザンヌ以前の画家はバランスを考え避けてきました。セザンヌが意識して多視点で描いたのかは分からないが、多視点の画面の歪みがの表現方法はそれまではみられなかった。その意味では、今までの概念に囚われずに絵画を開放したと言える。この多視点画法はピカソやブラックによってキュビズムとして発展する。

エクスでの隠遁生活(1880年代)
 セザンヌは、1878年頃から、時間とともに移ろう光ばかりを追いかけ、対象物の存在感をなおざりにする印象派に不満を感じ始めた。そのためセザンヌは、モネ、ルノワール、ピサロとの友情は保ちながらも、第4回印象派展以降には参加していない。

 1879年4月、ピサロに対し「私のサロン応募のことで論争が起こっているので、私は印象派展覧会に参加しない方がよいと考えます。また作品搬入の面倒さの苦労を避けたくもあります。ここ数日のうちにパリを発つ予定です」と書き送っている。印象派グループの中でも、モネやルノワール、ドガとの対立が 鋭くなり、ドガが出品する第4回(1879年)、第5回(1880年)印象派展を、モネやルノワールがボイコットしている。
 セザンヌは、制作場所をパリから故郷のエクスに戻した。この頃、妻子の存在を父に感付かれ父子の関係は 悪化し、1878年4月から8月頃、月の送金を半分に減らされた。
 画材をタンギーの店で買い、代金代わりに絵を渡すことが多くなった。そのためゴーギャン、ゴッホはこの店でセザンヌを研究した。また、ショケ、ピサロ、ガシェなどはセザンヌの作品を買った。ゴーギャンはピサロに、「セザンヌは万人に認められる作品を描くための正確な定式を 発見したでしょうか。どうか彼に神秘的な薬を与えて、眠っている間にそれをしゃべらせ、できるだけ早く私たちに報告してください」と手紙を書いている。またゴッホは、アルルに移った時、「前に見たセザンヌの作品が、否応なく心に蘇ってくる」と書いている。
 1880年代前半には、10月から2月頃までは南仏で過ごし、エクスの父の家、マルセイユの妻子のいる家、エスタックの自分の家を行き来し、サロンの シーズンが始まる3月にはパリに出て、パリのアパルトマンを借りたり近郊の町に下宿したりする生活を繰り返した。パリを訪れた時は、ゾラがセーヌ川沿いに買った別荘に招待されることもあった。
 1882年、「L・A氏の肖像」という作品で初めてサロン・ド・パリ(官展)に入選した。この時、彼は、サロンの審査員となっていた友人の弟子という形にしてもらった。審査員が弟子の1人を入選させることができるという特権を使って入選させてもらったのであるが、セザンヌはすでに43歳になっていた。裕福な家庭に生まれ育ったが、芸術家として芽が出るには時間がかかった。
 1886年、ゾラが「セザンヌをモデルにしたと見られる」小説を送ってきた。その内容は「画家を目指す主人公が世に出ることなく、自らの作品の前で命を絶つ物語」で、この本を受け取ったセザンヌは、親友の作品を裏切りと受け止め、ゾラとの訣別を決意しする。孤独のなかで、自らの画風に没頭してゆく。
 同年(47歳)父が88歳で死去し、17年間同棲していたオルタンス・フィケと結婚する。父からの莫大な遺産を相続したことにより経済に安定し、父の重しがとれ、経済的に苦しむことなく創作活動に没頭できた。
 1889年、パリ万国博覧会で旧作「首吊りの家」が目立たない場所に展示された。1890年にはブリュッセルの20人展に招待されて3点の油彩画を送ったが余り反響はなかった。しかし、前衛的な若い画家や批評家の間では、セザンヌに対する評価が高まりつつあった。

 故郷に戻りサント・ヴィクトワール山などをモチーフに絵画制作を続けた。特にエクスの東にそびえる雄大なサント・ヴィクトワール山は、油彩だけでも40数点あり、晩年は繰り返し描いている。
 ルコントは「セザンヌは最も平凡な対象を描く時でも、常にそれを高貴なものにする」、「限りなく柔らかな色調と、豊かな広がりをうまく抑制できる極めて単純な色彩の均一性にもかかわらず、彼の絵画には力強さがみなぎっている」と賞賛した。

 カイユボットが、1894年に亡くなった時、ルーヴル美術館に入れられることを条件に、セザンヌらの印象派の絵画コレクションを政府に遺贈した。しかしアカデミーの画家やジャーナリズムから批判を浴びて大問題となり、政府が一部のみの遺贈を受け入れることで決着した。このこともセザンヌの知名度を増すことになっ た。
 1890年頃からは年齢と糖尿病のため、戸外制作が困難になり、人物画に重点を移すようになった。

帽子をかぶった自画像

1890-94年 60x49cm 

ブリジストン美術館蔵

  セザンヌは油彩で24点の自画像を描いているが、この「帽子をかぶった自画像」は晩年の作で、この作品の目には、揺るぎない自信と強固な意志が感じられる。晩年になるにつれ頑固で気難しくなった性格がよく表現されている。

 セザンヌは自分が現代の画家で一番優れていると確信していたが、その自信がこの自画像には表われている。画家は自分を描く事で自分自身を見つめ、自画像には画家のその時の気持ちが出てくるが、この作品は自信と確信にあふれている。自画像を描くのにソフトをかぶって、オーバーを着て、こちらをじろりと見ている。右半分をあけた背景には漠然とした染み、斑点のようなものが浮かんでいて森なのか空なのか。自画像なのに何もない背景を広げているようである。色彩の綺麗な肖像画である。この自画像は1921年、武者小路実篤によって日本で初めて公開されたセザンヌの作品である。

水の反映

1888-90年頃 65.0x92㎝ 

愛媛県美術館蔵

 例えば青色には明るい青から暗い青がありますが、同じ青色でも明るさが違えばその色を並べた時に明るい青は暗い青より前に出て見える。これを色価というが、セザンヌ以前の絵画では、色の色価が狂っていたら実物の空間が絵画に反映しなくなる。空間が歪むように見えるわけで、正確な空間を描くように画家は石膏デッサンや人物デッサンなどの訓練をして、正確に対象を写す事が出来るようにしている。

セザンヌはこの色の色価を故意に破って感じたままの色を使っている。この絵「水の反映」でも色価を無視して描いている。普通なら色の色価が狂えば汚くなるが、セザンヌの絵画はその狂いが心地よい。

 意識して色価を狂わすのと、無意識の内に狂うのでは全く別である。セザンヌの視点のズレがキュビズムにつながったが、色価のズレはマティスなどのフォービズム(野獣派)に受け継がれた。セザンヌは「現代絵画の父」と言われているが、まさにそのとおりである。

 個展の開催(1895年)
 1895年11月、パリの画商ヴォラールがピサロの勧めで、セザンヌの初個展を開いた。南仏にいたセザンヌから、1868年頃からの集大成といえる約150点の油彩画が送られてきた。そのため個展開催に漕ぎ着けたが、批評家たちの評価は芳しくなかった。一方、個展を見たピサロは、「実に見事だ。静物画と大変美しい風 景画、何とも奇妙な水浴者たちがとても落ち着いて描かれている」「蒐集家たちは仰天している。彼らは何も分かっていないが、セザンヌは驚くべき微妙さ、真 実、古典主義を持った第一級の画家だ。」と手紙に書いている。

 同郷の詩人ジョワシャン・ガスケが、1896年、セザンヌと知り合い、後に彼の伝記を書いている。1897年、母が亡くなった。セザンヌは、父の形見として大事にしていた肘掛け椅子や机が家族に処分のため燃やされてしまったことに絶望を露わにした。
 1898年にヴォラールが第2回目の個展を企画し、1899年には第15回アンデパンダン展に出展した。セザンヌは、この両年は一時パリで 過ごしたが、1900年以降はエクスでの制作に専念するようになった。しかしエクスでは周囲に理解されず、ゾラがドレフュス事件で「私は弾劾する」 (1898年)を発表したときなどは、その友人としてセザンヌを中傷する記事が地元の新聞に掲載されたこともあった。

 画商アンブロワーズ・ヴォラールはセザンヌの才能を認め、セザンヌに絵を売って欲しいと頼むがセザールは売ろうとしない。セザンヌとの専属っ契約を結んでもらうためにヴォラールは、1年間で155回も絵のモデルを務めた。
 人や物の本質を描きたいセザンヌはモデルになったヴォラールに対しても容赦ない。ヴォラールが居眠りをして姿勢を崩すと、「なんてことだ、りんごのように動いてはいけないと何度言えばわかるんだ、りんごは動かないぞ」と怒った。
 父親からの送金が減らされ、セザンヌはお金に困っていた。友人のエミール・ゾラに毎月60フランの援助をしてもらっていた。画材もタンギー爺さんのところで買って、つけが溜まると代金代わりに絵をタンギーに引き渡すことがあった。 一方タンギーは早くからセザンヌの天才を見抜いていて、熱烈なセザンヌ信奉者でしたからこの取引を喜んでいた。


サント=ヴィクトワール山

1904-06年 73.5x91cm

フイラデルフィア美術館

 セザンヌはエクスから16kmほどのところにそびえる、この石灰岩の巨大 な山にとりつかれ60回以上も描いている。筆使いはしだいにのびやかになる。この晚年の作では。風景に見られる自然の要素を示唆するための色面が、ほとんど抽象的な色のモザイクとなっている。

リンゴとオレンジ 

1895-1900年 74 x 93cm

パリ オルセ一美美術館

 セザンヌの静物画のなかでも最も壮麗な作品である。 左から右上に劇的にせり上がったテーブルの上に、果物、皿。水差し、布のひだを複雜に配置しており、白いクロ スの縁が作る大胆なジグザグのラインが全体に安定感をもたらしている。

 この絵は静物なのにダイナミックな形と色があり、部分的な視点では「不安定」であるが、全体的な視点では「安定感」がある。さらに白いクロスにあふれる果実はこぼれ落ちそうである。この絵画は、静物たちがのっているソファーを斜め上方からの視点で描かれているが、果物たちをのせている白いクロスは真横からの視点である。
 つまりこの絵は、異なった視点によって描かれているが、果物の色の美しさ、じゅうたんの柄の紋様などに眼を奪われ、視点のちぐはぐさを感じさせない。
 品々の色の輝きや紋様が強調され、このトリックによって、ソファーが斜めに傾いているように見えてしまう。そして傾いたソファーからリンゴとオレンジが左下へとこぼれ落ちそうな、不安定な印象を与えている。しかしこのリンゴとオレンジを単なる「平面」の構成として眺めると、この絵は、三角形によって構成され「安定感」を生み出している。この作品はエクスで制作された。絵に描かれたいくつかのものはシュマン・デ・ローヴの彼のアトリエにいまも保存されている。

 


 

赤いチョッキの少年

 1890~95年 79.5x64.0cm

ビューレル・コレクション

 セザンヌの肖像画としては珍しいポーズの少年を描いている。頬杖をついて物憂げな表情をしているが、ルネッサンスの時代から頬杖は憂鬱症を表している。赤いチョッキの少年は単純な肖像画であるが、詳しく観ると全く違うものに変化する。この作品は色の使い方が極めて現代的で、赤、茶、青、そして白の色面がはっきりした単純な形で仕切られている。一度使った色を他の場所でも使い、色幅を制限する事で調和を生み出している。「赤いチョッキ」は、遠くの壁では空気の厚みを示す「ブルー」が多用され、近くは輪郭が強烈になっている。後退して見える青を遠くに、飛び出して見える暖色系を近くにする技法である。この少年のポーズは自然に見えるが、よく見ると右の二の腕が妙に長く、両腕の開きが大きすぎるが、これは絵の奥行き感を表現するためで、このことで画面は一段と安定感をましている。左側のカーテン、少年の曲がった背中と左腕など、何本もの斜めの線が交差して互いに影響し合っている。セザンヌはどこにでもあるシーンを分解し、それを組み立て直して3次元の形態を表現したのである。

 セザンヌは近代絵画の父と言われている。セザンヌがいたからキュビズムも生まれたし、写実にこだわらない表現が次々に生まれた。そのセザンヌも印象派の活動が無ければ、絵画の父と言われる様な画家には成っていなかっただろう。もしもセザンヌと云う存在が無ければ歴史(美術史)も大きく変わっていた。セザンヌはこの少年を同じ服装で4度描いている。セザンヌ絵画の力強さが良く表現されている。  


    最晩年(1900年 - 1906年)
 1900年にパリで開かれた万国博覧会の企画展「フランス美術100年展」に他の印象派の画家たちとともに出品し、これ以降セザンヌは様々な展覧会に積極的に作品を出品するようになる。1904年から1906年までは、まだ創設されて間もなかったサロン・ドートンヌにも3年連続で出品した。パリの ベルネーム=ジューヌ画廊でも、セザンヌの作品を取り扱うようになった。
 画家モーリス・ドニは、1900年、画廊を舞台のセザンヌの静物画の周囲に、ドニ自身を含む仲間、批評家、巨匠らが向い合って立っている作品「セザンヌ礼賛」を制作し、これを1901年の国民美術協会サ ロンに出品した。

 セザンヌは一般社会からはまだ受け入れは弱かったが、若い画家たちからは強い敬愛を受けていたことを示している。用いたセザンヌの静物画は、ゴーギャンが愛蔵し、その肖像画の中に画中画として描き入れた。
 1902年、エクス郊外にアトリエを新築し、多くの静物画、風景画、肖像画を描いた。特に大水浴図に力を入れた。晩年には、セザンヌを慕うベルナールやカモワンといった若い芸術家たちと親交を持った。ベルナールは、1904年にエクスのセザンヌのもとに1か月ほ ど滞在し、後に「回想のセザンヌ」という著書でセザンヌの言葉を紹介している。ベルナールによれば、セザンヌは朝6時から10時半まで郊外のアトリエで 制作し、いったんエクスの自宅に戻って昼食をとり、すぐに風景写生に出かけ、夕方5時に帰ってくるという日課を繰り返していた。また日曜日には教会のミ サに熱心に参加していた。
 1906年9月21日のベルナールへの書簡には、「私は年をとった上に衰弱している。絵を描きながら死にたいと願っている」と書かれている。その年の10月 15日、嵐に打たれながら数時間も戸外制作を続けていたセザンヌはついに倒れ、体調を悪化させたまま、23日朝7時頃、自宅で死去した。この愛してやまなかったプロヴァンスの自然に抱かれ、セザンヌはエックスのサン・ピエール墓地に眠っている。

 1901年にエクスの郊外に小さな地所を買い,そこにアトリエを建てて、セザンヌは每日歩いてそこに通い制作にはげんだ。

 年をとって健康が衰えると,セザンヌは歩くのをやめて馬車で出かけるようになった。ところがある日、料金の値上げに腹をたて、彼は馬車をあきらめ、そのためにどしゃ降りのなかを長い時間戸外にとり残された。セザンヌは雨に打たれ気を失い>、洗濯屋の荷馬車で家に運ばれた。 その翌日も絵を描こうとしたために病状は悪化し、1週 間後の1906年10月22日、肺炎のために世を去った。 パリにいる妻と子に会うすべもなかった。

エピソード
 青春時代、近所の農家の家屋が火事になり、セザンヌはその家が燃える様子を見て、その炎に見とれてしまった。そこに消防士がやってきて火事を消し止めようとするが、セザンヌは「この炎を消そうとするものは、これを一発見舞ってやる!」と懐からピストルを一丁取り出し消防士にその銃口を向けた。当然誰も身動きが出来ずに家は全焼した。

   

 セザンヌは異常なまでな潔癖症だった。例えば、ちょっとでも洋服が誰かに触れた、もしくはすれ違っただけで何度も何度もぬぐった。特に彼は女性を嫌っていたのはこの癖のためであった。

 
    作品は時間をかけて何度も描き直したため、最初の構図を留めなかったものも多い。絵が完成する前に、リンゴなどが干からびてしまうからであった。

 
    セザンヌは人付き合いが極端に苦手な性格で、心を許せる友人はピサロなど数人に限られていた。さらに妻オルタンスや息子ポールの存在が発覚したとき、厳格な父とのパイプ役となったのは母親であったが、この母親はオルタンスと折り合いが悪かった。父の死後、セザンヌは母と妹それに妻オルタンスと一つ屋根の下で暮らすことになるが、女性3人はケンカばかりしていたので、家庭では常に居心地の悪さを感じていた。そんな環境の中で、セザンヌは一人息子のポールに対してだけは終生変わらぬ愛情を注いだ。


    1880年代以降、ピサロを除く印象派のメンバーたちとの直接の交流はほとんどなかったが、クロード・モネに対しては、画家として敬意を表していた。1894年にモネの招待でジヴェルニーを訪れた際は、他の招待客の冗談に対して大声で笑うなど陽気な態度を示していた。