ルノワール

 ピエール=オーギュスト・ルノワール

Pierre-Auguste Renoir 1841年〜1919年)
 フランスの印象派の画家である。後期から作風に変化がみられたため、ポスト印象派とされることもある。風景画や花などの静物画もあるが、代表作の多くは人物画である。初期にはアングル、ドラクロワなどの影響を受け、モネらの印象主義のグループに加わるが、後年は古典絵画の研究を通じて画風に変化が見られ、晩年は豊満な裸婦像などの人物画に独自の境地をひらいた。日本など、フランス国外でも人気の高い画家である。
 ルノワールは1841年、フランス中南部の磁器の町リモージュで生まれる。7人兄弟の6番目で、父は仕立屋、母は針子であった。3歳の時一家でパリのルーヴル美術館の近くに引っ越す。
 幼いころから画才を示していたが、ルノワールは美声の持ち主でもあった。9歳の頃、作曲家のシャルル・グノーが率いるサン・トゥスタッシュ教会の聖歌隊に入り、グノーから声楽を学んでいる。ルノワールの歌手としての才能を高く評価したグノーは、ルノワールの両親にオペラ座の合唱団に入れることを提案したが、同時期に父親の知人からルノワールを磁器工場の徒弟として雇いたいとの申し出がにあったため、さらにルノワール自身が磁器工場での仕事を希望したため、両親とルノワールはグノーの提案を断り聖歌隊も辞めている。
 1854年、13歳で磁器工場に入り絵付の職人の見習いとなる。しかし産業革命による機械化は伝統的な磁器絵付けにも影響を及ぼし、手書きの職人は不要になり仕事を失うことになる。失業したものの4年間の職人としての気質はそれ以降も残っていた。

 1861年(20歳)からはシャルル・グレールのアトリエ(画塾)に入り、ここでモネ、シスレー、バジールら後の印象派の画家たちと知り合っている。それまでのルノワールはルーブル美術館で過去の巨匠の名作の模写していたが、シスレーの勧めでフォンテンヌブローの森で写生をするようになった。これは伝統的でアカデミックな美術教育から逸脱していた。しかし自分の目で見た自然の風景や普通の人々の風俗を見るままに描こうとしたのである。試行錯誤を繰り返しながら、画家になるための努力は職人気質そのものであった。印象派の画家の中で唯一労働者階級出身であった。

 画塾でルノワールに師のグレールが「君は自分の楽しみのために絵を描いているようだね」と言ったところ、ルノワールが「楽しくなかったら絵なんか描きませんよ」と答えたことは有名である。翌年1862年、ルノワールは画家を目指しパリのエコール・デ・ボザール(国立美術学校)に入学する。
                   初期

 1入学から2年後の864年(23歳)には「踊るエスメラルダ」をサロンに出品して初入選している。この作品は、後に作者自身によって破棄され現存しない。
 1865年にもサロンに2点が入選するが、1866・1867は落選するなど、入選と落選を繰り返していた。初期の作品にはルーベンス、アングル、ドラクロワ、クールベなど、さまざまな画家の影響が指摘されている。この頃の作品としては「ロメーヌ・ラコー嬢の肖像」(1864年)などが現存する。

 ルノワールの友人であったバジールは、当時、生活に困窮していたルノワールを、自分のアトリエに同居させていた。ルノワールはモネとも親しく、1869年にはパリ郊外ブージヴァルのラ・グルヌイエールの水浴場でモネとともにカンバスを並べる日々を送る。この時、彼ら2人が制作した、ほとんど同構図の作品が残っている。
 1868年のサロンには、前年に制作した「日傘のリーズ」を出品して入選している。この作品のモデルは当時ルノワールが交際していたリーズ・トレオという女性で、彼女は他にも「夏、習作」(1869年のサロンに出品)、「アルジェの女」(1870年のサロンに出品)などでモデルを務めている。
 1870年(29歳)、普仏戦争が勃発するとルノワールも召集され、ボルドーの第10騎兵隊に配属されるが、赤痢にかかり翌年3月に除隊している。なお、ルノワールの画家の親友であったバジールは、普仏戦争に志願し29歳の若さで戦死している。

ムーラン・ド・ラ・ギャレット
1876年 131x175cm 油彩 キャンバス

オルセー美術館(パリ)

            下絵
            下絵

 パリの街の北端にあるモンマルトルの丘はパリを見下ろす絶好の地であるが、19世紀のなかばまでは郊外の田舎の村であった。城壁で囲まれたパリ市との境界線上にあるこの地区は安い居酒屋や舞踏場が軒を連ね、市民の憩いの地区になっていた。

 ムーラン・ド・ラ・ギャレットは庶民的なカフェで、かつての粉挽き小屋であった。木々の間から射し込む木漏れ日の中で、喧騒なカフェで愉快に踊ったり、楽しく会話する人々を描いている。

  ルノワールのお気に入りのモデル・マルゴを始め、ノルベール・グヌット、フランク=ラミー、リヴィエールなどルノワールの友人や知人たちが多数描かれてい る。光の表現や曖昧な輪郭、複雑な空間の構成などが優れている。当時のカフェとは退廃的でメランコリックに描かれることが多かったが、それとは異なる陽気 な雰囲気に幸福な社会や治世を望んだルノワールの世界観が示されている。

 木々の間から射し込み移ろう斑点状の木漏れ日や、喧騒なカフェで愉快に踊り、楽しい会話する人々が描かれている。この作品は印象派を代表する画家で友人のカイユボットが購入し、ルノワールの死後にオルセー美術館へ寄贈された。
 本作より一回り小さいヴァージョン(78.7×113cm)が、ゴッホの「ポール・ガシェ医師の肖像(ガッシェ博士の肖像)」と同様、大昭和製紙の名誉 会長・斉藤了英氏が1990年5月にオークションで109億円で落札したが、1997年に米国の収集家へ売却されている。

フレデリック・バジールの肖像
1867年 105×73.5cm | 油彩・画布 |
オルセー美術館(パリ)

 親友フレデリック・バジールがカンバスに向かい作品を制作している姿を描いている。大きな体躯を丸く屈めながらバジールはアオサギ(サギ科の鳥)を描いている。同時期に同内容の作品をシスレーが描いていることから、初期印象派の画家たちのつながりを感じさせる。ほぼ真横から捉えられるバジールは、右手には絵筆を、左手にはパレットを持ち、視線は絵筆の先へと向けられている。バジールの作品に対する集中を感じることができる。全体的に暗い色調の中で、右足の靴下の赤色の線が画面を引き立てている。背後に掛けられる冬景色の作品は現在個人が所蔵するモネの「サン・シメオン農場への道、冬」である。ルノワールはバジールとアトリエを共有し、このバジールのアトリエにはルノワールの他に、モネ、シスレー、そして年長で印象主義の先駆ともなったマネが訪れていた。

ロメーヌ・ラコー嬢の肖像
1864年 81×65cm | 油彩・画布 |

クリーヴランド美術館

 23歳のルノワール最初期の肖像画である。テラコッタ(陶器や焼物用の粘土で形成された器や像)の製造業者ラコー夫妻の依頼により、娘「ロメーヌ・ラコー嬢」を描いている。当時ルノワールが修練を重ねていたアカデミックな表現がされている。真正面向きの構成や座して膝の上で手を組む姿勢はスペインの巨匠ディエゴ・ベラスケスや新古典主義の巨匠アングルから学んでいる。落ち着いた色彩はバルビゾン派の画家コローからの影響とされている。

 ロメーヌ・ラコー嬢の子供らしい表情や、緊張気味ながら意思の強さを感じさせ、品格・格調の高さを思わせる明確な瞳と口元、さらに膨らんだ袖やスカートのシルエット、また上品で艶やかな色彩に、若きルノワールの豊かな才能と先人から学び取る意欲が示されている。

 ロメーヌ・ラコー嬢が手にする赤々とした花や、ロココ的な典雅性や幸福的な軽やかさを感じさせる背後の画面左部分に掛かる薄地のレース、色彩豊かな花々の静物描写に、画家の色彩に対する取り組みが示されている。

日傘をさすリーズ
1867年 184×115cm | 油彩・画布 |
フォルクヴァング美術館(エッセン)

 1867年の夏、パリ近郊の森で日傘を差す女性像を描いた。サロン展示時、風刺画との批判があったがサロンに出品し、2年ぶりにの入選となった。モデルのリーズ・トレオは最も気に入っていたモデルで、本作以外にも「狩りをするディアナ」「浴女と犬」などのモデルを務め、リーズが結婚するまで関係が続いている。全体的な構図や横を向くリーズの顔の表情に写実主義のクールベの影響が感じられ、色彩を抑えた背景にはバルビゾン派のコローの影響が指摘されている。
 静寂な雰囲気、湿潤な空気が漂う森の中、上品な白い衣服のリーズを、柔らかに照らす陽光はあくまでも自然である。日傘の影が肩から顔に落ちているが、当時としては最も描くべき「顔」には影を落さないのが常識であり、その常識を破っているが、それが不思議と人々を惹きつける。白い衣服と黒い腰帯の明調の対比、やや荒く仕上げられた背景によってリーズがより強調されている。ルノワールはこの頃から陽光が生み出す色彩に注目していた。

            印象主義の時代

 軍を除隊したルノワールは、パリ郊外のモネの家をしばしば訪問し、ともに絵を描いた。この頃、画家で印象派絵画のコレクターであるギュスターヴ・カイ ユボット、画商のポール・デュラン=リュエルと知り合っている。

 1873年12月、モネ、ピサロ、シスレーらは「芸術家、画家、彫刻家、版画家その他による匿名協会」を結成。ルノワールもそこに名前を連ねていた。1874年4月〜5月にはパリのキャピュシーヌ大通りの写真家ナダールのアトリエで、このグループの第1回展を開催された。これが後に「第1回印象派展」と呼ばれるもので、ルノワールは「桟敷」など7点を出品している。
  1876年の第2回印象派展には「ぶらんこ」、「陽光を浴びる裸婦」など15点を出品している。後者は今日ではルノワールの代表作として知られているが、裸婦の身体に当たる木漏れ日や影を青や紫の色点で表現した技法が当時の人々には理解されず、「腐った肉のようだ」と酷評された。1877年の第3回印象派展 には、前年に完成した大作「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」を含む22点を出品した。印象派展は1886年まで全部で8回開催されたが、ルノワールは 1882年の第7回展に25点を出品したものの、第4、5、6、8回展には参加していない。
 1878年にはサロンに出品し好評を得て、翌1879年の サロンに出した「シャルパンティエ夫人と子どもたち」は絶賛を浴びた。モデルのシャルパンティエ夫人は出版業者の妻で、同夫人が自邸で催すサロンは評判が高く、ルノワールもこのサロンに出入りして当時の文化人や芸能人の知己を得ていた。
 1881年(40歳)には大作「舟遊びをす る人々の昼食」を完成させる。この作品の左端に描かれる、帽子をかぶり犬を抱く女性は後にルノワール夫人となるアリーヌ・シャリゴである。アリーヌは「田舎のダ ンス」(1882 〜1883年)などの作品のモデルとなり、同年のアルジェリア・イタリア旅行にも同行する。1885年には息子ピエール(俳優でジャン・ルノワールの兄)をもうけるが、ルノワールと正式に結婚するのは1890年のことである。

舟遊びをする人々の昼食
1880 – 81年 129.5×172.5cm | 油彩・画布 |

フィリップス・コレクション(ワシントンD.C.)

 セーヌ河でボート遊びに興じ、河沿いのシャトゥー島のレストラン・フルネーズのテラスで食事を楽しんでいる様子を描いている。この本作は屋内外で過ごす人々を描写しており、「ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏場」と同様に画家の友人・知人らが多数描かれている。中央に昼食やワインが置かれるテーブルがあるが、画面左手前には犬を抱き上げるアリーヌ・シャリゴ(後に画家の妻となる)とその後ろにレストランの経営者の姿が、画面右側手前で椅子に座り談笑しているのが画家カイユボットと女優エレン・アンドレ(ドガの代表作「アプサントを飲む人」のモデルとしても知られている)、そして取材者マジョロの姿がある。画面奥のバルコニーへ身体を預ける帽子を被った女性は経営者の娘で、彼女と会話をするバルビエ男爵の後姿がある。グラスを口元へ傾けるモデルのアンジェール、その後ろで経営者の息子と話をしているドガの友人で銀行家兼批評家のシャルル・エフリュッシ、そして画面奥右端にはジャンヌ・サマリーやポール・ロート、レストリンゲスの姿が見える。
 本作品では人体の躍動感や生命感、色幅の大きい豊潤な色彩、明瞭な光の表現、テーブルの静物の洗練された描写などにルノワールの技巧の成熟が感じられる。また風景描写と切り離された登場人物の表現は堅牢で存在感をもたらしている。この作品はルノワールが印象主義時代と決別を告げた作品でもあり、ルノワールの転換期の集大成的な作品としても重要である。

 この舟遊びをする人々の昼食」の舞台になったレストランは1990年に改装され、現在も多くの人たちで賑わっている。

シャルパンティエ夫人と子どもたち
1878年 153×189cm | 油彩・画布 |

メトロポリタン美術館

 1879年のサロン入選作である。後にルノワールの有力な支援者となった出版事業者ジョルジュ・シャルパンティエの夫人とその子供らを描いた肖像画である。当時流行していた社交界的な肖像画でありながら、暖かみのある暖色を多用し家族的な雰囲気をだしている。絵が売れず貧困に苦しんでいたルノワールにとって、シャルパンティエとの出会いや夫人マルグリットのサロンへの出入り、さらに本作の成功は重要な出来事で、夫人はこの作品を大変気に入り官展での評価を強く推してくれた。ルノワールの画壇での出世作となり、夫人が催すサロンの場で当時の政治家や官展画家、文筆家、女優など様々な人々と出会えるようになった。ルノワールのやや大ぶりで闊達な筆触による夫人やセントバーナードの上に腰を下ろす姉ジョルジェット、その間で椅子に座る弟ポールら子供たちの描写は、非常に繊細かつ優美であり、観る者に幸福で家庭的な温もりを感じさせる。誤解があるといけないが、当時の男の子は女性と同じスカートをはく習慣があった。小さな可愛い子供は男の子である。

 また当時欧州を席巻していたジャポニズム的な部屋の家具や装飾などが多様で豊潤な美しさを備えている

ぶらんこ
1876年 1876年 92×73cm | 油彩・画布

オルセー美術館(パリ)

 当時ルノワールが借りていた家(コルトー街12番地)の「ぶらんこ」のある庭園で過ごす人々を描いた作品で、主人公となる「ぶらんこに乗る女」は「ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏場」にも登場する女優ジャンヌがモデルである。
 ルノワールは木々の間から射し込む斑点状の木漏れ日の変化や、色彩描写の効果を追求しており、特に画面全体を覆う大きめの斑点状のやや荒いタッチによる光の描写は、今でこそ理解され観る者を強く魅了するものの、当時は類の無い表現手法から悪評に晒された。この点描表現の先駆とも言える独特の表現は、当時ルノワールが追い求めていた表現の典型例のひとつであり、「ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏場」同様、この時代の優れた作例のひとつとして認められている。
 ぶらんこの女の衣服の白色と青色、隣で背を向ける男の濃紺の衣服と黄色の帽子、ぶらんこの女と背を向ける男、背を向ける男とその奥の男、背を向ける男と画面左端の幼児など色彩おいて補色性、対称性、相乗性など色彩表現が注目に値する。当時の労働者階級の人々を描いているが、そこには重々しい疲弊的な雰囲気は感じられず、明るく愉快に過ごす人々の生や喜びを強く感じる。このことはルノワールの絵画における信念や思想の表れでもある。

ルグラン嬢の肖像

1875年 81.3x59.7cm

フィラデルフィア美術館蔵

 描かれた少女はマリー・アデルフィーヌ・ルグランで、1867年に販売員の父と麦藁帽子を作っていた母のあいだに生まれている。この肖像画はマリーが8歳の時のもので、ルノワールはこの頃、生活のため子供の肖像画を多く描いている。愛らしく色彩豊かで魅力的などの肖像画である。
 少女マリーは、やや緊張気味に手を組み、視線をそらしたポーズを取り、あどけない少女の恥じらいと、すましたパリジェンヌの微妙なバランスが感じられる。子供から大人への美しさがあり、育ちのよい顔立ちや気品の高さを感じさせる。金髪と赤い口紅、青いスカーフ、金のロケット、手にはシルバーの指輪と見る人の視線の流れがある。黒のエプロンと、白と紫の素早いタッチのブラウス、ピアスやネックレス、指輪の金色がアクセントとなっている。この少女の視線は反対のほうを見つめ、その視線には色気さえ感じられる。
 美術館展にはお土産としてポストカードが売られているが、ルノワール全65種類のなかで人気ナンバーワンである。なおマリー・アデルフィーヌは25歳で詩人と結婚するが、その結婚式にルノワールが参列し、結婚の証人になったという記録も見つかっている。ルノワールとの親しい付き合いはその後も続き、マリーはその後再婚して79歳まで生きたとされている。

桟 敷
1874年 80×64cm | 油彩・画布

コートールド・ギャラリー(ロンドン)

  1874年の第一回印象派展に出品され、批評家たちから好評を得た数少ない作品の中の一点。本作に描かれるのは、桟敷席(劇場で正面に対して一段高く設けられた左右の席)で、当時の女性らが最も華やかに映える場所であった。当時のお気に入りのモデルであるニニ・ロペズと、ルノワールの弟エドモンをモデルに描かれている。白黒を色彩の基調としながら柔和で瑞々しい筆触による多様かつ輝くような洗練された描写が特徴的で、観る者と視線を交わらせる女性の豪華な白黒の縦縞模様の衣服や上品に輝く(何重もの)真珠の首飾り、アクセント的に彩りを添える胸元の(おそらく隣の男から贈られた)薔薇の花束などは女性の優雅な美しさを強調している。女性そのものの魅力を観る者により強く印象付けさせ、女性の背後でオペラグラスを上空へ向ける男は舞台を眺めるのではなく、おそらくは女性又は有名人が座る他の桟敷席の観客を眺めている。これらの行動は当時の生活における日常を見事に描いたものである。

            1880以降

 ルノワールは、1880年代前半頃から光の効果におぼれ形態を見失った印象派の技法に疑問を持ち始める。1881年のイタリア旅行でラファエロ・サンティらの古典に触れてからはこの懐疑はさらに深まった。この時期、特に 1883年頃からの作品には新古典派の巨匠アングルの影響が顕著となり、明快な形態、硬い輪郭線、冷たい色調が目立つようになる。
 1890年代に入ると、ルノワール本来の暖かい色調が戻り、カトリーヌ・エスランなどをモデルとして豊満なヌードを数多く描いた。1892年(52歳)には「ピアノを弾く少女たち」が国家買い上げとなる。印象派の作品としては初の快挙であった。
  1898年頃からリューマチ性疾患に悩まされ、晩年は車椅子で制作を続けた。「当時、すでに筆を持つことができず、手に筆をくくりつけて描いていた」とされている。

 1903年(66歳)から南仏のカーニュに移り住み、ついの住み家(レ・コレット荘)を建てる。1914年(73歳)第一次世界大戦が勃発し、従軍した長男次男ともに負傷する。ルノワール自身も作品をドイツ軍に強奪される恐怖の中で絵を描いた。1919年(78歳)この地で家族に見守られながら死を迎えた。

 ルノワールの画歴は50年以上で、作品は4500点以上とされ、日本にも早くから紹介されている。その親しみやすい画風のため愛好者も多く、梅原龍三郎をはじめ多くの画家に直接・間接に影響を与えている。
    フランス映画として2012年の「ルノワール 陽だまりの裸婦」 がある。ルノワールの子孫ジャック・ルノワールの原作を基に、偉大な画家の晩年を描く人間ドラマである。光あふれる南仏を舞台に、不自由な体にむち打ちながらも意欲的に創作を続ける老画家と、美貌のモデルにまつわる物語を紡ぎ出す。

ブージヴァルのダンス
1883年 ボストン美術館

都会のダンス
1883年 180×90cm | 油彩・画布

オルセー美術館(パリ)

 ルノワールが光の効果を重んじ、印象主義に疑問を抱き始め、古典主義へと傾倒していった頃の作品。画家の友人であったポール・ロートと都会的な女性シュザンヌ・ヴァラドン(当時18歳)をモデルに描かれ単純かつ洗練された構成、画面の中で溶け合うような人物と背景の一体感、明確な人物の形態、やや装飾的な表現など、光の効果的な表現や曖昧な輪郭、複雑な空間構成等が特徴であった印象主義時代とは明らかに異なる表現手法によって描かれている。本作の優雅で洗練された雰囲気、上質なシルク地を思わせるハイセンスな本繻子のドレスを纏うシュザンヌの澄ました表情や慣れた仕草は、「田舎のダンス」と対照的に、喧騒とは程遠い都会的で上品な印象を観る者に与える。ルノワールはこの頃、シュザンヌと「田舎のダンス」のモデルを務めたアリーヌ・シャリゴの二人に心惹かれていたとされ、画家がそれぞれに感じていた人物像や抱いていた想いが表現されている。また当時シュザンヌ・ヴァラドンは後にエコール・ド・パリを代表する画家となるモーリス・ユトリロを身篭っていたことが知られている。なお画家は田舎のダンス・都会のダンスの両作品を描く前に、≪ダンス三部作≫の第一作目となる「ブージヴァルのダンス(ボストン美術館所蔵)」を制作している。

田舎のダンス
1883年 180×90cm | 油彩・画布
オルセー美術館(パリ)

 ダンス三部作の一枚「田舎のダン」』。画家の友人であったポール・ロートと画家のモデルとなり、後に妻ともなるアリーヌ・シャリゴ(当時24歳)をモデルに描かれた作品である。単純かつ洗練された構成、画面の中で溶け合うかのような人物と背景の一体感、明確な人物の形態、やや装飾的な表現など、光の効果的な表現や曖昧な輪郭、複雑な空間構成等が特徴であった印象主義時代とは明らかに異なる表現手法によって描かれている。本作での喧騒的で活気に満ちた雰囲気や、如何にも楽しげな表情、アリーヌ・シャリゴが身に纏う垢抜けない衣服などは、「都会のダンス」とは対照的に、気楽で田舎的ながら、どこか心を許してしまえるような安心感や幸福感を観る者に与える。ルノワールはこの頃、アリーヌ・シャリゴと、『都会のダンス』のモデルを務めたシュザンヌ・ヴァラドンの二人に心惹かれていたとされ、画家がそれぞれに感じていた人物像や抱いていた想いが表現されていると考えられている。

イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢
1880年 65×54cm | 油彩・画布 |

ビュレル・コレクション(チューリヒ)

 この作品は当時としては数少ないルノワールの理解者で庇護者でもあった裕福な銀行家カーンの末娘のカーン令嬢の肖像画である。ルノワールは子供を画題とした肖像画を数多く手がけているが、その中でも本作は特に優れた作品として知られている。清潔で上品な顔立ちの中で輝く大きな瞳、子供特有の白く透き通る肌、肩にかかり腰まで垂れたやや波打ち気味の長い赤毛の頭髪、高級感のある青白の衣服、膝の上で軽く組まれた小さな手。いずれも細心の注意を払いながら綿密に描いている。とりわけ注目すべき点は少女イレーヌ・カーン・ダンヴェールの長く伸びた赤毛の頭髪にある。ふんわりと流れるような筆触によって髪の毛一本一本が輝きを帯び、赤茶色の髪の毛と白肌が背景の緑の葉影と調和し際立たせている。ルノワールならではの個性で、大人が子供に抱く愛情と、彼の子供の肖像画に通じる微かな甘美を感じさせる。この作品はルノワールの代表作として今も人々を強く惹きつけている。

 なお描かれた美少女カーンは、当時パリの大資産家カモンド家に嫁に行き、二人の子供を授かったが、長男は第一次世界大戦で戦死し、長女一家はアウシュビッツで虐殺されている。カーンは90歳まで生きるが、子供たちの悲劇を耐え忍ぶ人生だった。

テラスにて
1881年 100.3×80.9cm | 油彩・画布
シカゴ美術研究所

 若く美しい婦人と愛らしい少女を母子として描いた人物画で、1881年4月にセーヌ河畔シャトゥー村のレストラン・フールネイズで描かれた作品である。1882年の第7回印象派展へ出品され、若い婦人は女優ダーロウで、彼女の身に着けるハイセンスな赤い帽子と洗練された紺色の衣服、そのアクセントとして胸元に添えられた白花の飾りの色彩は彼女の美貌を引き立たせている。隣の愛らしい少女の衣服や帽子、花飾り、テーブルの上の色とりどりの花々も観る者の目を惹きつけている。

 ダーロウの赤い帽子についてルノワールは次のように述べている。「私は「赤」が呼鈴のように音色高く鳴り響くものにしたい。もしそうならないのであれば、もっと赤色を塗り重ねるか、他の色彩を組み合わせる」。ルノワールのこの言葉どおり、前景には多様で豊潤な色彩の配置で処理して「赤い帽子」を際立たせ、我々に感動を与え続けている。

 ダーロウの背後の手摺の前景と背景が明確に分かれており、前景は左から右へ斜めに視線が下がるように構成されているが、背景では逆に左から右へ斜め上に視線が向かうようなっている。この斜めへの視線誘導はルネサンス時代から続いているもので、視線を画面へ向かわせる伝統的な手段である。このことからもルノワールの古典芸術への理解を見出すことができる。さらに前景のやや強い濃色に対して、背景の色彩はやや淡彩的に描写されているが、色調は背景の方がより明瞭であり、画面全体が重く沈みこんでしまうのを回避させている。

ピアノに寄る少女たち
1892年 116×90cm | 油彩・画布

オルセー美術館(パリ)

 国家から依頼された作品で、二人の少女がピアノに向かい楽譜を読む姿である。この頃のルノアールが意欲的に描いた若い娘の姿や動作を、豊かな暖色を用いて豪奢に描いている。光の効果を探求した印象派時代から、線描を重要視した古典主義時代(枯渇の時代)を経て辿り着いたルノワール独自の様式が示されている。

 特に流動的で大ぶりな筆触によって表現される二人の少女の愛らしい表情や頭髪、衣服の動き、柔らかい肌の質感などは、まさに「愛でる」「安らぎ」「ぬくもり」「家庭的」という言葉が相応しい。全体の感じは柔らかく、二人の少女、ピアノや楽譜、家具、少女の動作や室内空間がひとつとなって溶け合っている。このような表現は枯渇の時代以降のルノワールの画風の特徴で、同時に最大の魅力でもある。さらに少女らの赤色と白色の対称的な衣服や、鮮やかなリボンや腰布の青色、カーテン部分の緑色などの色彩もおだやかな平和で表そうとしている。

 なお本作のヴァリアントがメトロポリタン美術館やオランジュリー美術館、個人所蔵など合計4点が確認されている。

雨 傘 

1881—86年頃 180.5x114.5cm 

ロンドンナショナル・ギャラリー

 

 このよく知られた作品は、傘を広げて雨をものともしないパリの人混みを描いている。この作品は、珍しいことに作成年代が2度に分かれている。右側が1881年頃で、左側と上部は1885年に描かれている。

南 の 果 実

1881年 51x68.5cm 

シカゴ美術館蔵

 

 

 ルノワールは果実や花を題材に,多くの静物画を描いた。この作品では,色の配置に細心の注意を払って果物や野菜を選んでいる。赤いピメント、紫紐のナス、黄緑のレモンなどが見える„

 

ポート

1879年ころ 71x91.5cm 

ロンドンナショナル•ギャラリー

 ルノワールはアニエールのかすみがかった夏の日の情景をこの作品 に表現するにあたって、流れる水にきらめく日の光に視点を集中してい る。ボートの黄とオレンジ、 それと水の鮮やかな青のコントラストがうまく作用して、画面に活気を生み出している。背景には、パリからきた蒸気機関車が煙を吐きながら通り過ぎて行く。

初めての外出

1876- 77年頃 65 X 51cm

ロンドンナショナル・ギャラリー

 

 ルノワールは若い娘が初めて観劇に訪れた際の天真爛漫な驚きと、不安の入り交じつた期待感をとらえている。娘は熱心さのあまりに身を乗り出し、花束を握りしめている。聴衆は大胆に大まかな雜いで描かれ

ていて、顔がぼやけているのは彼らの動きを暗示するためである。

ラ・グルヌイエール

1869年 66Xx81.5cm ストックホルム国立美術館蔵

 ルノワールと友人のクロー ド・モネは、セーヌ川の有名な水浴び場ラ・グルヌイエ一ルの情景を共に描いている。 戸外で画架を並べて制作したもので、生き生きとした人々とその水に映る影を描いている。

浴 後

1888年 64.5x54cm 

日本個人蔵

 ルノア一ルが晩年に好んだテーマは裸婦だった。豊かで燃え立つような色彩で、まろやかで豊満な女体を描いた作品を何百点も残している。「私は裸婦を描くとき、それがすばらしい果実であるかのように、いつも気を配つてきた」と述べている。

浴女
1892年 メトロポリタン美術館

長い髪の浴女
1895年 オランジュリー美術館

眠る浴女
1897年 オスカー=ラインハルト・コレクション
(ドイツ、ヴィンタートゥール)

自画像

1910年 個人蔵

 セザンヌは次のように記している。

「私はモネとルノアールを除いた画家の全てを軽蔑する」