ゴッホ

フィンセント・ファン・ゴッホVincent Willem van Gogh、1853年3月30日 - 1890年7月29日)

 ゴッホは最も有名で、最も人気の高い印象派の画家といっても過言ではない。情熱の画家、炎の画家と称され、その画風だけでなくゴッホの生き方に共感するところが大きい。情熱ゆえの耳切り事件、天才ゆえに誰にも理解されずに自殺。情熱と狂気はゴッホに対する印象であるが、それはゴッホの絵を観る者に、迫るような迫力があるからである。

 分類上は後期印象派になるが、荒々しい長めの筆触、絵の具の本来の強烈な色彩、うねるような筆の流れ、絵の具の質感、それらが彼の炎の精神を表すように情熱的である。燃える内面を反映するような迫真がある。これらは全て独学である。

 ゴッホの作品で生前に売れたのは「赤いブドウ畑」1枚だけで、後は全く売れなかった。生活は弟テオからの金銭的援助があったが、死後急速に絵の評価が高まり、現在では後期印象派を代表する画家である。1987年に「ひまわり」約58億円で日本人が落札したことでゴッホ人気に拍車がかかり、日本でゴッホといえば知らない人がいないまでになった。ゴッホは友人たちに手紙でやり取りをして、生まれてくる弟の子どものために絵を制作したりなど孤独や情熱どは遠いやさしい姿もある。

ゴッホの生涯

 1853年、ゴッホはベルギー国境近郊のオランダのツンデルト村で牧師の子供として生まれている。ゴッホはフランス人ではなく生粋のオランダ人で、6人兄弟の長男(初子は死産)として生まれ、4つ下の弟テオドルス(通称テオ)はゴッホの良き理解者であり、ゴッホの生活の面倒を見てくれた。ゴッホと弟テオとは終生固い兄弟愛で繋がっていて、ゴッホの人生を語る上でもっとも重要な人物である。

 ゴッホは幼少時から絵が好きだったが、少年時代から思い込みの激しい性格で、熱烈な片想いと失恋を繰り返していた。やがて就職するが、客や上司と衝突を繰り返し、1869年ゴッホ16歳の時、美術商グーピル商会の共同経営者である伯父の取り計らいで同社に転職し、ハーグ支店で画商として働き始める。この年からテオとの文通が始まる。

 最初は真面目で熱心な仕事ぶりであったが、上司や伯父との折り合いがしだいに悪くなり、1873年(20歳)の時にロンドン支店に栄転し、同社のテオもブリュッセル支店に就職した。ロンドンでは下宿先の娘ウルスラに惚れ、相思相愛と信じて求婚するも拒絶され激しい失意に見舞われる。ロンドンで2年間勤務するも、失恋から立ち直れず、仕事への熱意を失い、ゴッホの精神状態を心配した伯父の計らいでパリ本店に配属となった。

 ゴッホは次第にミレーなど農村を描いたバルビゾン派の作品に心を惹かれていく。画商にもかかわらず、自分が気に入らないと「この絵は買わない方がいい」と客に忠告したり、クリスマス商戦を放り出して無断で休むなど勤務態度が問題になった。拝金主義のグーピル商会に嫌気が差し、翌春には解雇される。

 1876年(23歳)、約7年間勤務したグーピル商会を解雇されると、新聞広告で知った英国の小学校教師の職を得て仏語・独語を教える。趣味はペンでスケッチする素描程度出会ったが、職業としては画家は考えていなかった。

 しかしロンドンの貧民街に接してショックを受けたゴッホは、すぐに副説教の職に就き初めて福音の説教を行った。聴衆の反応に手応えを感じ、貧者を救う為に伝道活動に身を投じる覚悟を決める。 牧師の父の影響で少年時代から聖書を専心に読んでいたので、聖職者へなりたいという気持ちが強かった。オランダ・アムステルダムの大学神学部を受験するため家族から金銭的援助を受けながら勉強をはじめるが、あまりに科目が多く挫折してしまう。

 翌年、聖書の研究をしながら伯父が見つけてくれたオランダ・ドルトレヒトの書店に勤めるが4ヶ月間で退職する。キリスト教への情熱が加速して神学校に入るが、語学教科のギリシャ語で挫折してしまい、棍棒で自分の背中を打ちつけて自分に体罰を与えた。趣味で素描程度はしていたが画家になることは考えていなかった。

 1878年(25歳)、それでも聖職者になりたいゴッホは伝道師を目指し、ベルギーの伝道師養成学校に通うが、ベルギー人でないことから周りの生徒と同じ扱いを受けれられないと通達を受けた。同年暮れ、聖職者の仕事を探してベルギー南部のボリナージュ炭鉱地帯へ半年間の期限付きで伝道師として向かうことになる。この頃、ゴッホはテオ宛ての手紙に「僕は他人の為にどうすれば役に立てるのかをずっと悩んでいる」と苦悩を綴っている。

 南のボリナージュ炭鉱で、ゴッホは炭鉱で働く者の労働の厳しさや貧困を知った。ゴッホは劣悪な環境で働く炭鉱夫たちに心から同情し懸命に伝道活動を行った。「この貧しく闇に埋もれて働く労働者たちの中に、人の心を感動させるものを見出し、痛ましいほどの悲しさを覚える。このドン底の連中は、世間から悪人か泥棒のように見なされている。だがそんなやつは1人としていない」。

 ゴッホは聖書の「汝の持ち物を売りて、貧しき者に施せ」を実践し、ひどい掘っ立て小屋に住み、伝道師の衣服は坑夫にやり、手製のズック地のシャツを着ていた。顔は炭で汚れ、落盤事故で負傷者が出ると下着を引き裂いて包帯にした。ゴッホは裸で暮らす日々が続いた。この労働者へのあまりにも献身的な態度を伝道師協会は奇行と捉え、半年の契約が終わると期待していた延期を認めなかった。

 常軌を逸したこの熱心さによりボリナージュで伝道師への道を断たれ、1880年27歳のゴッホは、自分を見つめなおし、自分にできることは「絵を描くことだけ」と思い、農家や農民などのスケッチをはじめた。テオへの手紙の中で「伝道師として挫折した私は、絵画を通じて救いたかった」と画家になることを告白し、取りつかれたように素描(デッサン)を始めた。ボリナージュ近郊のクウェムで毎日を過ごし、生活費は父親に送ってもらっていた。しかし家族からは働かないゴッホに非難の目が向けられ、父親からはヘールの精神病院に入れようとしたことで口論となる。見かねた弟のテオ(グーピル商会に勤務)はゴッホに金銭援助をはじめた。

 ゴッホは伝道師として人々に光を与えることが出来なかった為、絵によって光を与えようとしたのである。芸術はゴッホにとって「愛を訴える方法」だった。テオは兄の生活を助けるべく父の名前で毎月仕送りを始めた。ゴッホは「僕の主食は乾パンとジャガイモ、或いは街角で売っている栗」「4日間で23杯のコーヒー以外に殆ど何も食べなかった」とテオに書き送っている。

 テオが多忙で返事を書けないでいると、ゴッホは「手紙を寄越さないのは、僕が金をせびるのを警戒しているのか」と書いたが、テオが表向きは父親の名前で送金していたことを後で父から聞かされると、恥じ入るとともに「心から感謝している。テオが後悔しないように、決してテオの期待を裏切らない」と心に誓った。

 テオに対する負い目を感じていたゴッホは、描いた絵をすべてテオに送ることで心の重荷から逃れようとした。「僕は君が送ってくれる金を、自分で稼いだ金と考えたいのだ。だから僕は毎月君に作品を送る」。

 ゴッホは独学でスケッチしていたが、秋になるとブリュッセルの美術学校で遠近法と解剖学(人体構造)を学ぶことになる。

 経済的な理由でゴッホは1881年(28歳)に実家のエッテンに戻る。ゴッホは聖書の影響から大地に根づき毎日を暮らす農民こそ高貴な存在と考え、農夫や田園風景などをスケッチし、バルビゾン派のミレーを尊敬してミレー作品の模写に努めた。1850年代のフランスではこの考えをもつ一派が登場し、田園のバルビゾン村に住み田園や農民を描いたのでバルビゾン派と言われ、主な画家にミレー、ドービニー、コロー、ルソーなどがいた。ゴッホはバルビゾン派のミレーを尊敬しミレー作品の模写に努めた。

「その夏、夫を亡くしたばかりの子持ちの従姉ケーが、ゴッホの父の招きで共に暮らしていた。父はケーの悲しみが癒えるまで過ごさせるつもりでいた。ところがゴッホはそのケーに惚れてしまう。彼女を真実の愛で救おうと求婚するが、ケーはゴッホの想いに驚愕してこれを拒絶し家を去ってしまう。父は未亡人の気持ちを理解していないと激怒したが、ゴッホは自分の誠実な想いがケーに伝わっていないと、ケーの実家のあるアムステルダムまで追いかけた(この旅費もテオが送った)。だがケーは会おうともせず、裏口から逃げ出した。ケーの両親に「会わせて欲しい」と懇願し、愛の強さを証明するために左手の指をロウソクの火にかざした。その苦痛を我慢できる間だけケーと話をさせて欲しいと頼んだ。ケーの父は慌てて火を吹き消したが会うことは許さなかった。

 父と喧嘩が続き、居場所を失ったゴッホは、クリスマスに「教会制度なんて唾棄すべき」と捨てゼリフを吐いて家を出た。さすがにテオもこの悪態が許せず「意見が合わないからと言って両親にあんなふうに言うなんて、どうして恥知らずなことが出来るのか」とゴッホを叱り、ゴッホは理性を失ったことを詫びた。「父と母が僕をどう見てるかがよく分かる。家の中に入れることに恐怖を感じるのだ。ちょうど大きな野良犬を家に入れたのと同じなんだ。犬は濡れた足で部屋に押し入る。みんなの邪魔だし、大声で吠える。ようするに汚い獣なのだ。いいだろう、だがこの獣にも人間らしい魂がある。犬には違いないかも知れないが人間の魂を、それもとびきり敏感な魂を持っている」。

オランダ・ハーグへ

 ゴッホの親族は絵画関係者が多く、その意味ではゴッホは恵まれていた。グーピル商会への就職時もそうだったが、従兄に画家アントン=マウフェがいた。彼は当時オランダで流行していた写実的な絵の一派のリーダー格でハーグ派と呼ばれた。1882年(29歳)ゴッホはハーグで家を借りマウフェから絵を学んだ。

 だがモーヴが石膏像のデッサンを重視すべきと言うと、ゴッホは石膏像を粉砕して「僕が描きたいのは生命であって、冷たい石膏じゃない」と言い放った。呆れたモーヴはしばらく距離を置くことになる。ゴッホは自分の焦燥感をテオへ書き送る「一体人々の目に僕はどういう人間に見えているのだろう、取るに足らぬ存在、あるいはひどく風変わりで不愉快な男、社会的地位を何も持たず、将来も最低の地位すら持てそうにない男。それなら、それで結構だ。そういう男の胸中に何があるのか、僕は作品によって見せてやろう。これが僕の野心だ。この野心は、何と言われようとも、怒りよりも愛を基礎に置いている」。わずか1年ほどでゴッホはマウフェのもとを去った。

娼婦との同棲生活

 ハーグに住み始めて1ヶ月が経った頃、ゴッホは街で出会った娼婦シーン(クリスティーヌ)と知り合い同棲を始める。シーンは30歳。子持ちで、妊婦しており、性病に感染しアルコール中毒だった。性病をうつされたゴッホは3週間入院し、その後、シーンをモデルにデッサンを続けた。

 娼婦シーンと同棲するが親族に知られ、弟テオを除く家族の信頼を失う。子供連れの娼婦と同棲をはじめたと聞けば家族の反対は当然である。しかしゴッホは「もし目の前に僕が助けなければ死んでしまう女性がいたら、そのまま見捨てるだろうか、僕にはそんな真似はできない」と弟テオの手紙に書き、1年余り同棲した。

 1883年(30歳)、ゴッホは彼女を救済したいと結婚を考えるが周囲は猛反対し、夏にはテオがやって来てシーンと別れるように説得した。ゴッホとシーンは喧嘩が絶えなくなり、生活のためにシーンが娼婦に戻ると言ったことが決定的になった。1883年9月、これを受けてゴッホはハーグを去り、オランダ東部のドレンテ地方へ向かい、農民の過酷な暮らしを描き始める。

 3ヶ月後、ゴッホは次第に孤独感がつのり、年末には両親の元へ戻った(一家はニューネンに赴任していた)。翌年、ミレーに心酔していたゴッホは、ニューネンで農夫と同じ環境で暮らし、仕事着の農民や職人を描き続けた。炭鉱夫も娼婦も救えなかったゴッホは、貧しい人々への愛を絵で表現しようとした。「巨匠たちの絵の中の人物は生きて働いていない。働く農民の姿を描くことは近代美術の核心である」「僕はいくら貧乏になっても絵を描き続ける。そして自然に背を向けず、その懐の中に入って人間的に生きるのだ」。やがて隣家の娘マルホット・ベーヘマンから求愛され、ゴッホはその気持ちを受け入れようとしたが、生活能力の問題から双方の親に交際を禁じられ、ベーヘマンは服毒自殺を図った。

 ゴッホは尊敬する画家ミレーのように、必要なものは大地で雄大に生きる農民の姿と考えオランダ・ドレンテへと旅立った。ドレンテでミレーのように農民風景を描いたりミレーの模写をしたりして1年余り過ごしたが、1883年末(30歳)に家族の住むヌエネンに帰省した。父とは折り合いが悪かったが、実家の小部屋をアトリエとして使用することを許可してもらった。

 さらに翌1884年初旬に母親が足を骨折し、ゴッホが献身的な介抱をするうちに家族との関係は好転した。しかし同年、父親が急死し、父親の信頼で契約していた部屋を打ち切られたことでヌエネンを去ることを余儀なくされた。オランダを去りパリで最新の絵画に触れることで、ゴッホの才能が急速に開花するのであった。
 1886年、アカデミーに入るも伝統的な権威主義に反感を抱くが、ルーベンスの明瞭な色彩に魅了される。同年3月、パリのモンマルトルに住んでいた弟テオの家に向かう。パリでロートレックやベルナール、ゴーギャン、カミーユ・ピサロ、ジョルジュ・スーラ、ポール・シニャック、エドガー・ドガ、ギヨマンなど当時、先端をゆく画家らと親しくなり多大な影響を受け、パレット内の色彩も急速に明るさを増してゆく。また当時の流行のひとつであった浮世絵など日本趣味にも触れ、日本に憧れを抱くようになる。

 1888年、パリ生活に疲れていたゴッホは、ロートレックの勧めもあって強い太陽の光を求め友人の画家らを誘い南仏アルルへと向かうが、応じたのはゴーギャンのみであった。南仏アルルでゴーギャンと共に意欲的に制作活動をおこなうが、対象を見て描く画家と、写実的描写を否定するゴーギャンの間で討論となり、二人の間の緊張度が増す。

 同年12月23日夜、ゴッホは自ら剃刀で耳を切り落とし娼婦ラシェルのもとへ届け、翌日入院。二人の共同生活は二ヶ月足らずで終了となる。耳切り事件については近年、ゴッホとゴーギャンが馴染みの娼婦を巡って口論となり、激昂したゴーギャンが剃刀を手に取りゴッホの耳を切り落としたとする説が唱えられている。耳切事件からすぐに退院するも翌1889年、画家自身の希望によりサン・レミのカトリック精神病院に入院。比較的自由な生活を送り、数多くの作品を制作(画家の代表作の多くもこの時期に生まれる)。また色調と筆触に変化が見られるようになる。

 1890年、パリ近郊のオーヴェール・シュル・オワーズに移住するも、同年7月27日に(おそらく胸部に)ピストルを撃ち自殺を図る。29日駆けつけた弟テオに見守られながら死去、享年37歳。弟テオも翌年に死去した。

 ゴッホは画家としては28歳の遅い出発で、活躍したのはわずか9年ほどである。


馬鈴薯を食べる人たち(食卓についた5人の農民)

1885年 82×114cm |油彩・画布

アムステルダム ファン・ゴッホ美術

 ゴッホが画家を志す決意を弟テオに手紙に書いてから数年後、32歳の頃に描かれたゴッホにとって初めての構成画となる本格的作品である。ゴッホは数年前から農夫を題材に油絵や素描を数多く描いたが、あくまで練習用の習作であり、他人に見せるものではなかった。そこで約1年をかけて原案を練りに練り構成画を考えた。それが「ジャガイモを食べる人々」で画家ゴッホはここからはじまる。

 貧しい労働者階級の家族が小さなランプの光の中で夕食として馬鈴薯(じゃがいも)を食べる情景で、暗い画面の中で、手の仕草や農民の表情にこだわり、労働の疲れを癒す一瞬の安らぎの中で、精一杯生ようとしている人たちの尊厳を表現している。宗教画にも通じる労働者への賛美と共感が示されている。

 ゴッホは炭鉱地帯で伝導師として活動し、貧しい人々の生活を目の当たりにしていた。彼らの生活に漂う独特の悲愴感・哀愁感、それでも逞しく生きる労働者たちに強く共鳴していた。日々の暮らしを一生懸命に生きる農民を主題に、大地から採れるじゃがいもを食べている姿こそゴッホにとって崇高な存在であった。じゃがいもを取る微細な手の動きまで入念にデッサンし作り上げた。

 ゴッホは「僕はこの絵で強調したかったのは、ランプの下で皿に盛られた馬鈴薯を食べる人の手が、大地を耕していた手であること」を表現することに力を注いだ、「つまりこの絵は手の労働を語り、農民が自分たちの糧を稼いだことを語っている」。誰もこの絵を好きになったり褒めたりしてくれるとは思わない。だが「これこそ本当の農夫の絵」とやがて世間の人は悟るだろうと書いている。

 画面中央上に暗闇を照らす小さなランプが配され、その周りを囲むように労働者階級の人々が描き込まれている。画面左側の男女は会話をしながら皿に盛られたジャガイモにフォークをさし、画面右側の年齢を重ねた老男女はカップに飲み物を注いでいる。画面手前(最前景)には後姿の幼い女性が描かれている。

 陰影と光の描写によって、登場人物や各構成要素が闇の中で浮かび上がるようで、その姿は風俗的な内容ながら聖画のような厳粛性を感じさせる。また太く明確な筆触による独特の表現は素朴でありながらゴッホの主題に対する真摯な態度を見ることがでる。

 なおゴッホは「馬鈴薯を食べる人たち」を描くために、数多くのデッサンを手がけ、ゴッホは満足したが周囲はそうではなかった。この作品はゴッホの不滅の名画とされたがこの絵は評価されず、ハーグの画材店がゴッホの作品を初めてショーウインドウに展示してくれたが売れなかった。ベルギー時代の友人の画家ラッパルトには人物の描き方や遠近感など些細な点まで批判を受け、グーピル商会の画商としてパリで勤務していた弟テオは色彩が暗くパリでは時代遅れと批判した。

 秋になるとかつてモデルとして描いた女性が妊娠し、ゴッホとは無関係なのに、地元の教会がゴッホのモデルになることを禁じる布告を出した。そのため誰もモデルになってくれず、11月、2年間家族と過ごしたニューネンを出て、ベルギーのアントワープに移る。3ヶ月滞在したアントワープの街で、日本の浮世絵と出会い、その構図や色使い力強い輪郭線に感銘を受けている。


1足の靴(古靴、古びた靴)

 1886年 37.5×45cm | 油彩・画布 |

フィンセント・ファン・ゴッホ美術館

 1877年、ブリュッセルの福音伝道学校で神学を学ぶ為に徒歩で向かったゴッホが、その旅の途中で購入した靴靴である。福音伝道学校は3ヶ月であきらめ、1878年の12月に炭坑地帯である、ベルギー南部のボリナージュの鉱山へゆき、過酷な労働条件で働く労働者や病人の世話などをおこなっていた、この革靴はボリナージュ滞在期にゴッホが履いていた。

 ゴッホが絵画を学ぶ為にパリを訪れた1886年の夏頃に制作された。荒々しく大胆な筆触で、皮が擦り切れた古びた靴の状態や、過酷な状況下で使用したことを容易に想像させた。ゴッホの写実的姿勢が示されている。

 ここで注目すべきは、バルビゾン派の画家ミレーの抑制的な色彩と、19世紀フランスの画家アドルフ・モンティセリの写実的表現への変化である。本作品では、激しく損傷した革靴の状態を冷静に観察し、的確に表現し、また色彩表現においても、靴の底の橙色を始めとした暖色と、背景や床の青色(寒色)の対比的描写は特筆すべきである。

 本作品を始めとしたパリ時代に靴を描いた作品群は、ゴッホの表現手法の変化や、独自の表現への過程を示しており、この時代を代表する絵画である。


パリ時代(1886.3-1887

 1886年(33歳)3月、ゴッホはテオに事前の連絡もせずにオランダを去りパリにやって来て、テオの部屋に転がり込んだ。「突然来てしまったがどうか怒らないでくれ」テオはゴッホの言葉に戸惑いながらも、自分の部屋で兄と共同生活を始める。ゴッホは画家コルモンの画塾で若いロートレック(22歳)やシニャック(23歳)と友情を育み、画材屋のタンギー爺の店でも芸術家たちと知り合った。

 パリ画壇は印象派の大ブームで、画風においては印象派の重鎮ピサロや、点描法を得意とした6歳年下のスーラ(1859-91)の絵画から影響を受け、それまでの武骨で暗い絵から、明るく輝かしい色調の作品へと大きく変わった。テオは妹宛ての手紙に「兄は絵がめきめきと上達している。太陽の光を絵に取り込もうとしている」と書いている。パリで最新の絵画に触れることで、ゴッホの才能が急速に開花するのである。しかしモデルを雇う金がないため、パリ滞在の2年半で27点も自画像を制作した。


ムーラン・ド・ラ・ギャレット

1886年 38×46.5cm | 油彩・画布 |

ベルリン国立美術館

 ゴッホがパリを訪れて半年後、1886年の10月に制作された、この作品は本作は、現在では有数の観光地としても名高いモンマルトルの庶民的なキャバレー(ムーラン・ド・ラ・ギャレット)の風景である。ゴッホはパリで知り合ったロートレックから教えられ、ムーラン・ド・ラ・ギャレットを描いたことが判明しており、馴染みのある場所であった。当時、風車の付いた粉挽き小屋とダンスホールが備わった建物であったムーラン・ド・ラ・ギャレットである。左側には数名の人がいて、やや離れた所に2名の人物の歩く姿が描き込まれている。この時代のモンマルトルは都市開発の真っ只中にあり、本作で表現されるやや退廃的で重々しく、荒涼とした雰囲気や、質素で貧困的印象は都会的な一面と、田舎的な一面が混在していた。ゴッホはモンマルトルの風景を数点残している。


カフェ・タンブランの女(タンブーランの女)

1886-87年頃 55.5×46.5cm | 油彩・画布 |

ファン・ゴッホ美術館

 この作品はゴッホがにしばしば訪ねていたパリの古い酒場キャバレー/カフェであり、ゴッホと恋愛関係にあったイタリア出身の女主人セガトーリを描いている。ゴッホは1886年3月から2年間パリに滞在しているが、この作品は同時期を代表する作品である。

 画面中央の女主人は、疲れきった様子で、やや陰鬱な表情を浮かべている。右手に火のついた煙草を持っており、焦点が定まらない両目は酔いの深さを感じさせる。円卓として使用されている太鼓の上にはアルコールが置かれ、当時のパリのアルコール依存を暗喩させている。さらに店の奥(画面右上)には日本の浮世絵が飾られ、セガトーリの民族的な髪型や、異国的な雰囲気を醸し出させる衣服と共に印象深い。本作は印象派の先駆者のひとりエドガー・ドガの傑作「アプサントを飲む人」の影響が指摘されている。事実、女主人のセガトーリはドガのモデルを務めていた。


日本趣味 : 梅の花

 1887年 73×54cm | 油彩・画布 |

ファン・ゴッホ美術館

 ゴッホの日本趣味(ジャポニズム)への強い憧れと傾倒を示す作品。本作品はゴッホが数多く所持していた日本の浮世絵の中の1点、歌川広重屈指の傑作「名所江戸百景 亀戸梅屋敷」の模写作品である。19世紀にパリで開催された万国博覧会以来、日本の美術様式はジャポニズム)として欧州各地を席巻するほど流行した。

 異国情緒を感じさせる雰囲気、斬新な構図、平面構成による鮮やかな色彩などは他の印象派の画家同様、ゴッホ自身も強く魅了された。原図となるのは歌川広重の「名所江戸百景 亀戸梅屋敷」であるが、梅の枝や花を超近景として配する大胆な構図、赤色から白色と緑色へと変化を示す鮮明な色彩があでやかである。周囲にはオリジナルには存在しない漢字による装飾が施されているが、これは日本趣味を強調するためのものである。

 ゴッホは浮世絵に憧れたが、パリの生活と浮世絵によって、それまでのゴッホの暗い画風が明るくなってゆく。


 

日本趣味 : 雨の大橋(大はしあたけの夕立)

1887年 73×54cm | 油彩・画布 |
ファン・ゴッホ美術館

 本作は19世紀前半期を代表する浮世絵師 歌川広重随一の錦絵「名所江戸百景 大はしあたけの夕立」をゴッホが忠実に模写した作品である。ゴッホはこの時期、本作以外にも同じく歌川広重の「梅の花」や渓斎英泉の「雲龍打掛の花魁」など複数の錦絵の模写作品を残しており、ゴッホの模写作品から浮世絵が世界的知名度を得ることになった。

 原図をほぼ忠実に模している本作で最も注目すべき点は、原図となった「名所江戸百景 大はしあたけの夕立」の特徴であり、西洋式絵画表現とは決定的に異なる雨の描写である。上空から降る雨を複数の長い斜線によって描写する錦絵独特の手法は、西洋の一般的な雨の表現とは異なるものであるが、豪雨の激しい躍動感や落ちる水滴の瞬間の速度の印象度は非常に高いもので、ゴッホも(西洋式表現と比較し)この極めて個性的で独自性豊かな表現に惹かれ、「名所江戸百景大はしあたけの夕立」を模写したのであろう。さらに原図の簡素ながら大胆な構図による手前の大橋や、斜めに傾く水平線の妙にも惹かれたことであろう。なお原図には認められない周囲の漢字による装飾は、「梅の花」同様、日本趣味的表現の強調として描き込まれていた。


日本趣味 : 花魁

1887年 105×61cm | 油彩・画布 |

ファン・ゴッホ美術館

 本作は19世紀前半(江戸時代後期)に活躍した美人画で名高い浮世絵師、渓斎英泉による花魁図「雲龍打掛の花魁」をゴッホが模写した作品である。ゴッホは弟テオの会社が発刊した雑誌パリ・イリュストレの1886年5月号(日本特集号)表紙に縮小掲載された「雲龍打掛の花魁」を見て本作を手がけたと考えられて、画面中央に配される花魁の姿は原図をほぼ踏襲している。しかし色彩のけばけばしさと大胆な配色が施されている。これらは浮世絵から着想を得たゴッホ色彩的印象そのものである。また背景として描かれる画面左側の大鷺(ダイサギ)は佐藤虎清(又は一圓斎芳丸)による≪芸者≫から、画面下部の蛙は葛飾北斎による≪北斎漫画≫からの引用であると推測されている。


タンギー爺さんの肖像(ジュリアン・タンギーの肖像)

1887年 92×75cm | 油彩・画布 |

ロダン美術館(パリ)

 1887年の秋に制作された本作はモンマルトルで画材店を営んでいたジュリアン・タンギー氏、通称「タンギー爺さん」を描いた作品である。タンギー爺さんはパリの若い画家たちを損得抜きで助け、飯を食わせ、画材を買えない画家には作品と引き換えに絵の具やカンバスを渡していた。売れない画家の絵も店に飾ってあげ、セザンヌの絵がタンギーの店にしかない時期もあった。

 ゴッホもタンギー爺さんには多大な恩恵を授かっており、本作では同氏に対するゴッホの深い敬愛の念を感じられる。たびたびテオへの手紙にタンギー爺さんのことを書き、「タンギー爺さんは何と言っても長年にわたって苦労し堪え忍んできた。どこか殉教者や奴隷に似たところがある。現代のパリの俗物どもとは全く違うんだ。もし僕が長生きしたらタンギー爺さんのようになりたい」と語っていた。

 

 ゴッホの死後、ある美術評論家がタンギー爺さんの店でゴッホの静物画を発見、買い求めたところ、爺さんは古い帳簿を調べて「42フラン」と言った。なぜ半端な金額か尋ねられると「可哀相なゴッホが死んだとき、ワシは42フランの貸しがあったんですよ。これでやっと返してもらいました」と返答したという。

 ゴッホは日本の浮世絵からも影響を受け、浮世絵を愛していた。貧しい生活の中でも500点近くの浮世絵を収集するほどであったが、ゴッホの浮世絵コレクションを手助けしたのが、パリの画商で働いていた実弟のテオであった。

 タンギー爺さんの作品の背後を日本画で埋められている。本作の背景を構成する複数の浮世絵も注目すべきで、画面左中央に二代目歌川豊国の「三世岩井粂三郎の三浦屋高尾」、左下に二代目歌川広重の「東都名所三十六花選 入谷朝顔」、中央には歌川広重の「富嶽三十六景 相模川」、右上には同じく歌川広重の「東海道五十三次名所図 会石楽師」、右下には渓斉英泉の「雲龍打掛の花魁」が描かれている。本作にはゴッホの日本美術への強い傾倒や、その後の平面性的な構図展開などを予感させる。太く力強い筆触による描写や厳格な正面性も、この頃の画家の画風を考察する上で参考になる。なおゴッホは1887年の冬から翌88年初頭にかけてほぼ同様のタンギー爺さんの肖像をもう一枚制作している。


イーゼルの前の自画像(画家としての自画像)
1888年 65×50cm | 油彩・画布 |

ファン・ゴッホ美術館

 ゴッホが南仏アルルへと旅立つ直前の1888年の1月から2月にかけ描かれた本作品は、画架の前に絵筆を持つゴッホの「自画像」である。パリ時代にゴッホは28点の自画像作品を手がけているが、それは貧乏でモデルを雇うことができなかったからである。画面中央のゴッホ自身の姿は、パリの都会的な衣服を着ているわけではなく、素朴な労働者階級の衣服である。視線は本作を観る者へ向けられ、ゴッホの画家としての決意が感じられる。画面右側へは画中のゴッホが取り組んでいる絵画作品の画架が、画面下部では色彩豊かなパレットと数本の絵筆が右手に握られている。パリ時代の28点の自画像はそれぞれが微妙に違っており、そこにゴッホの心理状態の違いを伺うことができる。


黄色い家(アルルのゴッホの家、ラマルティーヌ広場)

  1888年 76×94cm | 油彩・画布 |

フィンセント・ファン・ゴッホ美術館

 ロートレックの勧めもあり、1888年2月から南仏プロヴァンスの町アルルでゴッホが他の画家仲間らと共同生活をしながら制作活動をおこなおうとした。そのために借りたアトリエが通称「黄色い家」である。本作品はその「黄色い家」を描いた作品で、同年の9月に制作された。しかしこのゴッホの意欲的で壮大な計画は、他の画家仲間から賛同を得られず、結局、ゴーギャンだけが参加するでことになる。しかし二人の共同生活はゴーギャンの到着から2ヵ月後に、耳切り事件によって悲惨な結末を迎えることになる。本作にはゴッホの抱いていたアルルでの制作活動に対する大きな夢と希望が感じられる。画面中央にはラマルティーヌ広場に面する黄色い家が描かれ、画面下部には街道を行き交う人々が数人配されている。建物群と街道には南仏プロヴァンスの明瞭な光に照らされ、輝くような強烈な黄色が用いられており、本作は画面の2/3が黄色によって支配されている。またそれとは対照的に画面上部(画面の1/3)は鮮やかでやや重々しい青色の空が縦横の筆触によって描かれており、黄色と青色の絶妙な色彩対比を生み出している。本作で用いられる黄色こそゴッホが自身の個性を最も反映する色彩であり、本作や傑作「ひまわり」などを始めとしたアルル時代の作品にはそれらが顕著に示されている。


アングロアの橋アルルの跳ね橋)
1888年 54x65cm
オッテルロー 国立クレラ=ミュラー美術館

「アルルの跳ね橋」1888年3月、アルル。クレラー・ミュラー美術館。34歳のゴッホは突然テオのもとを去ってアルルに移った。暖かいアルルに到着したゴッホはすぐに同地を気に入り、麦畑や花が咲き乱れる果樹園、跳ね橋を好んで描いた。ゴッホが基調に使った色は6色である。土手や樹のオレンジと、川の水や空の青を対照させ、また草の緑に赤茶色が配してある。ゴッホが白や黒を加えたのは洗濯女と馬車のみである。このすばらしい背景のもとで濃い茶と緑の不気味な糸杉がゴッホの心のドラマを描くように加えられている。ゴッホはパレッ卜のかぎられた少ない色で、彼の存在を表した天才であった。

ラ・クロの収穫(青い荷車)

1888年 73×92cm | 油彩・画布 |

ファン・ゴッホ美術館

 ゴッホが強烈な陽光を求めて向かった南プロヴァンスのモンマジュール近郊ラ・クロ平野の収穫風景を描いた作品である。画面のほぼ中央へ青い荷車が描かれ、その水平線上の右部分へは小さな赤い荷車が、左部分へは大きな積み藁が配されている。これを中景として画面下部へは前景となる簡素な柵と背の低い木立が、画面上部へは遠景として悠々と広がるラ・クロ平野と青々とした山が構成されている。ゴッホ自身「故郷を想い起こさせる」と述べている。やや高い視点からパノラマ的に捉えられたラ・クロ平野の風景には、17世紀オランダ絵画黄金期における風景画の巨匠ヤゴブ・ファン・ライスダール(ロイスダール)の影響が指摘されている。本作で最も注目すべき点は南仏の強い日差しによって多様に輝くラ・クロ平野の輝くような黄金色の色彩を主色とした各色彩との対比にある。平野に使用される黄色がまず前景を支配し、前景と中景の間には黄色と相性の良い緑色の木立が広げられている。そこから再度、多様な黄色が中景として画面の大部分を支配し、そして青く透き通る山々と雲ひとつ無い青空へと続いていく。この視線の流れを意識した色彩の心地良い変化、さらに点々とアクセント的に加えられる赤色、白色などはゴッホの色彩に対する類稀な才能を示している。なお本作の対の作品として同時期に「プロヴァンスの積み藁」が制作されている。


種まく人(種をまく人、農夫)

1888年 64×80.5cm | 油彩・画布 |

クレラー=ミュラー国立美術館

 強烈な陽光の輝きを求め訪れた南仏アルル滞在期(1888年2月-1889年5月)に制作された作品で、農民画家としてもよく知られているミレーの代表作「種をまく人」に共鳴を覚え、同画題にて取り組んだ作品のひとつでもある。絵画を制作し始めた早い時期からゴッホはミレーが扱った画題「種をまく人」に強い固執と羨望の念を抱いており、ゴッホはミレーの『種をまく人』のエッチングを所有していた。ゴッホは手紙の中で次のような言葉を残している。「種まく人を描くことは昔から僕の念願だった。古い願いはいつも成熟できるとは限らないけど、僕にはまだできることがある。ミレーが残した「種をまく人」には残念ながら色彩が無い。僕は大きな画面に色彩で種まく人を描こうかと思っている」。このような言葉からもミレーへの傾倒が理解できるが、1888年の秋に手がけられた本作で最も注目すべき点は過剰とも思えるほどの刺激的な色彩の表現にある。画面上部ほぼ中央には、強烈な光を放ちながら地平線へと沈みゆく太陽が配され、遠景の穂畑を黄金色に輝かせている。中景へは陽光の黄色と対比するかのような青色の凹凸の陰影が斑状に描き込まれる畑へ種を撒く農夫がミレーの『種をまく人』とほぼ同様の姿態で配されて、逆光に包まれたその姿には人間としての力強い生命力が感じられる。本作のあたかも外側へと弾けだしているような筆触による激しく鮮やかな陽光の神秘的な色彩や、画題「種をまく人」が象徴する人間の生への希望や生命の再生を現代的アプローチによって表現したゴッホの取り組みは20世紀前半の画家たちに大きな影響を与えたように、今なお色褪せることなく我々を惹きつける魅力に溢れている。


アルルのダンスホール

1888年 65×81cm | 油彩・画布 |

オルセー美術館(パリ)

 アルル滞在期の代表的作例のひとつ『アルルのダンスホール』。ゴーギャンと共に共同生活を送りながら制作活動をおこなっていた頃となる1888年に手がけられた本作は、アルルのレ・リス大通りに面する≪フォリー・アルレジエンヌ劇場≫における祝祭の夕べの情景を描いた作品である。画面の手前から奥にかけて無数に描き込まれる人々は犇めき合う様にダンスホールの中で踊りに興じており、その印象は独特の退廃性に溢れている。また描かれる人々の姿も、一方では流行の衣服に身を包み、また一方では伝統的な衣服を着こなすなど多様で混沌とした様子である。画面右側に描かれる唯一観る者と視線を交わらせる女性は、画家と親しく、ゴッホがアルルを去る日まで援助を続けていた郵便配達人ジョゼフ・ルーランの妻ルーラン夫人であり、ここに画家の交友関係を見出すことができる。本作で最も注目すべき点は、互いの芸術に対する態度や視点の差異により、やや関係が悪化しつつあったゴーギャンへの理解や、氏との和解を示すかのようなクロワゾニスム的表現にある。太く明確な輪郭線によって描写される人々は線と色面とが強烈に誇張され、極めて装飾的に表現されており、さらにフォリー・アルレジエンヌ劇場の奥や二階にも無数の人々が配されると共に、原色の円で表現される黄色の光がそれらと効果的に呼応している。さらに奥行きを感じさせない平面性や日本趣味的な水平と垂直の強調、毒々しい印象すら抱かせる独自の奇抜で原色的な色彩の使用にもゴッホの個性とゴーギャンへの歩み寄りを見出すことができる。


夜のカフェテラス(アルルのフォラン広場)
1888年 81×65.5cm | 油彩・画布 |
クレラー=ミュラー国立美術館

 ゴッホの友人ロートレックの勧めで、強烈な陽光を求めで訪れた南仏アルルのラマルティーヌ広場に面するカフェの店内を描いた作品である。1888年の9月に制作された本作についてゴッホ自身が「夜のカフェには邪悪な力が潜んでいる。夜のカフェは人を破滅させることも、発狂させることも、犯罪を犯させることもできる。繊細な桃色や血の赤色、濃い赤色、そして地獄の様な雰囲気を醸し出す黄色と緑色、青色と緑色と、淡い緑色と激しい薄黄色の対比によってそれを表現した」とテオへの手紙で述べている。

 本作品で印象に残るのは、強烈な色彩と強調される遠近法によるカフェの退廃的雰囲気である。画面中央に配される長方形のビリヤード台を中心に周囲へ薄青色の四角いテーブルが置かれて、その中の数席には酒に酔う客たちが描かれている。さらに画面上部では天井から吊るされる4つのランプが煌々と灯っていて、光によって血のような赤い壁や木製の黄色い床面を浮かび上がっている。画面奥の壁には画家の孤独的な心理を表すような時計が掛けられ、画面手前(左下)には画家が好んで描いた椅子が無造作に置かれている。アルルで制作活動をおこなったゴーギャンは労働者階級の人々が集うこのようなカフェは好まなかったが、ゴッホは夜のカフェへ興味を持っていた。


 1888年2月から滞在した南仏のアルルの旧市街の中央にあるフォラン広場に面する、比較的裕福な階級層向けのカフェテラスの情景を描いた作品である。モデルとなった店は現存していて、フォルム広場で今も営業している。なお店の名前はカフェ・バン・ゴッホと言う。この作品は、1888年9月に描かれたことがゴッホの書簡から判明している。

 夜のカフェテラスは夜景でありながら黒をほとんど使うことなく、淡く幻想的な世界を作り出している。画面左側に当時の文明の発展を象徴するガス灯(人工灯)の黄色の光に照らされたカフェが輝くように描写され、画面右側と前景にはカフェへと続く石畳、そして一本の杉が描かれている。一方、画面上部(遠景)には窓から光の漏れる薄暗い旧市街の町並みがあり、青々とした夜空が配されている。夜景でありながら黒色を使用せずに、黄色と深い青色で描かれ、、ゴッホにとっても馴染み深い黄色と青色の明確な色彩的対照性が観る者の目と心を奪ってしまう。

 さらに夜空に輝く星々の独特な表現は、画家自身の言葉によれば、夜空に咲く「天国の花」として描いたとしている。本作の黄色と青色、杉の木の緑色の鮮やかな色彩描写は注目すべきではあるが、石畳の複雑な色彩表現も特筆すべきである。画面最前景の轍の入った石畳の、やや影が落ちた暗く強い色調、最もガス灯の光が当たるカフェテラスの前の石畳の白く反射する明瞭な色調は、図形化したかのようでる。


アルルの女(読書するジヌー夫人、本を持つジヌー夫人)
1888年 91.4×73.7cm | 油彩・画布 |
メトロポリタン美術館

アルル滞在期における代表的な肖像画作品のひとつ『アルルの女(読書するジヌー夫人、本を持つジヌー夫人)』。1888年の11月頃(又は1889年5月頃)に制作された本作は、南仏アルル駅前にあったカフェ・ド・ラ・ガールの主人の妻マリー・ジヌーの姿を描いた肖像画作品で、ゴッホはアルル滞在当初、「黄色い家」を借りるまでの間、このカフェに住んでいたことが知られており、ゴッホ自身も親しくなったジヌー夫人の肖像画を数点制作している。画面中央へ左斜めからの視点で描かれるジヌー夫人は濃緑色の円机の上に肘を突きながら、数冊、机上に置かれている書物へと視線を向けている。またジヌー夫人は(ゴッホが高い関心を示していた)この地方独特の民族的な衣服を身に着けており、衣服に用いられた黒色と紺青色(プルシアンブルー)は、簡素な背景となる淡い檸檬色の中で際立っている。表現手法としては質感や立体感などを否定した形態そのものへの追求や平面化された色面構成などポール・ゴーギャンとエミール・ベルナールが提唱した総合主義的表現の影響を強く感じさせるものの、太く感情的な筆触や強烈な印象を与える原色的アプローチにはゴッホ独自の芸術的な確信が感じられる。なお共にアルルで制作活動をおこなっていたポール・ゴーギャンは本作と『夜のカフェ(アルルのラマルティーヌ広場)』を組み合わせ再構成した作品『アルルの夜のカフェにて(ジヌー夫人)』を制作しているほか、パリのオルセー美術館には本作とほぼ同時期(又は少し前)に、本を手紙と傘に置き換えた同画題の作品『アルルの女(ジヌー夫人)』が所蔵されている。


ウジェーヌ・ボックの肖像

1888年 60×45cm | 油彩・画布 |

オルセー美術館(パリ)

 本作品はゴッホが南仏アルル滞在時に弟テオを通じて知り合ったベルギー出身の画家兼詩人でもあったウジェーヌ・ボックを描いた肖像画作品で、 1888年の8月から9月にかけて制作された。ゴッホは次のような言葉を残している。「彼はダンテを思わせるような風貌の持ち主で、オラニエ公ウィレム1世時代のフランドルの紳士貴族を連想させ、親切な男で、この作品では無限の空間の中に輝く蒼白い星の神秘的な光に包まれように描いた」。このゴッホの言葉からわかるように、中央やや上部にウジェーヌ・ボックの顔面が配され、瞳の方向こそ観る者へと向けられているものの、その視線は別の何かを見ているようである。背景には夜空の星々を思わせるように深い青色の中へ白色の点が散りばめられており、夢想家としてのウジェーヌ・ボックを強調させている。また身に着けている衣服は当時としては近代的であり、黄色実を帯びた上着や赤色と緑色のタイは背景の色彩と対比している。これらの効果的な色彩は、これまでゴッホが手がけてきた肖像画には見られない野心的な取り組みで、ゴッホの絵画的独自性と近代性性格が表れている。

 この絵が購入されたのはゴッホ自殺の5ヶ月前のことで、400フラン(現在の11万円程度)だった。


郵便配達夫ジョゼフ・ルーランの肖像
1889年 65×54cm | 油彩・画布 |
クレラー=ミュラー国立美術館

本作はゴッホがアルルへ滞在していた時に親しくなり、画家に対して(アルルを離れるまで)援助を続けていた同地の郵便配達人≪ジョゼフ・ルーラン≫氏を描いた肖像画作品で、ゴッホは1888年12月から翌1889年4月の間に同氏の肖像画を4点以上制作しており、本作はその最後期の作品であると推測されている。画面中央に正面から捉えられる郵便配達夫の制服を着たジョゼフ・ルーラン氏は純真そうな澄んだ緑色の瞳を本作を観る者へと向けている。赤味の差す頬から顎にかけては髭が蓄えられており、その形状は巻き毛で描写されている。帽子や制服の清潔な紺色と対比するかのような緑色の背景(これは瞳の色彩とも呼応している)には紅白の花が描き込まれており、ジョゼフ・ルーラン氏の共和主義的な思想を考慮したかのような(ロシアの肖像画的な)ロマン主義的な雰囲気を醸し出している。本作で最も注目すべき点はゴッホ特有の大胆で荒々しい筆触による形態表現と豊かな色彩描写にある。ジョゼフ・ルーラン氏の顔面や髭部分は勿論、制服や帽子、背後の緑色まで勢いのままに描写されたかのような筆触は本作に描かれる同氏の輝くような純真的生命力を見事に表現しており、さらに緑色、青色、黄色、乳白色、赤色と色数自体は少ないものの各色が画面の中で絶妙に引き立て合うことでジョゼフ・ルーラン氏の人物像を明確に示すことに成功している。なおジョゼフ・ルーラン氏を描いた本作以外の作品ではボストン美術館に所蔵される『郵便配達夫ジョゼフ・ルーランの肖像』などが一般的に知られている。


ラ・ムスメ(少女の肖像)
1888年 74×60cm | 油彩・画布 |
ワシントン・ナショナル・ギャラリー

 本作品は1888年7月、同時代のフランス人作家ピエール・ロティの小説「お菊さん」を読んでいたゴッホが、日本に行った手記である同小説の若い「娘(ムスメ)」に着想を得て描かれた肖像画である。ゴッホは前年に制作した「日本趣味 : 花魁」などの作品からも分かるよう日本趣味(ジャポニズム)があり、日本そのものに対して強い興味を抱いていた。本作品もそのような画家の傾向のひとつとして制作された。手記では「ムスメ」とは「口をおちょぼ口にした12~14歳くらいの女の子」と書かれていて、ゴッホはさっそくアルルの少女をモデルに「ムスメ」風にアレンジしたのである。

 丸みを感じさせる椅子に腰掛けた姿で配される若い娘は、少し緊張の面持ちを観る者に抱かせ、左手に花が持たされている。極めて簡潔な構成で名称こそ日本語の「娘(ムスメ)」であるが、日本的特徴は示されず、顎が小さくやや膨らんだ頬など少女の顔立ちに異国情緒と東洋的なイメージを連想させるのみである。他方、衣服は刺激的で幻覚的で、水玉模様のスカートに用いられる赤や青、橙などは原色である。さらにそれを抑制させるかような背景の薄い緑色の使用はゴッホ独特の色彩感覚である。


赤いブドウ畑

 ゴッホが生前は売れた絵はたった1枚だけだったが、それがこの「赤いブドウ畑」である。この作品はアルルでゴーギャンと共同生活をしていた1888年11月初旬に描かれたもので、テオへの手紙に「赤紫と黄色だけのブドウ畑に取り組んでいる」と記されている。ゴッホは想像で描くことをしなかった画家だが、同じ手紙に「想像でブドウ畑の女を描いている」とあることから想像で制作したのかもしれない。

アルルのゴッホの椅子

1888年 93×73.5cm | 油彩・画布 |

ロンドン・ナショナル・ギャラリー

アルル滞在期の代表作『アルルのゴッホの椅子(黄色い椅子、パイプが載っている椅子)』。陽光の強烈な光と色彩と、画家仲間たちによる共同制作を熱望し、1888年の2月から南仏アルルへ滞在したゴッホが同地で制作した作品である本作に描かれるのは、画家自身が黄色い家(アルル滞在時の共同生活場所兼アトリエ)で使用していた≪椅子≫で、『アルルのゴッホの寝室』などゴッホが手がけた他の作品にも登場している。本作は、ゴッホの誘いを受け、画家仲間の中で唯一南仏アルルへと向かった大画家(そして画家としての偉大なる先輩)ゴーギャンが、黄色い家で使用していた椅子を画題とした作品『ゴーギャンの椅子(本と蝋燭が載っている椅子)』と対の作品であり、おそらくはゴーギャンとの関係に決定的な亀裂が入る直前頃に制作されたと考えられている。画面中央へは、やや高い視点から描かれる斜めに配された黄色の木椅子が描かれており、その上にはゴッホが当時愛用していたパイプ煙草が載せられている。ゴッホは弟テオへ送った手紙の中で「芸術家が座った椅子のみを描くことは、その芸術家の喪失なのだ」という主旨を述べており、本作には芸術家同士の共同生活による制作での相乗的効果を願っていたゴッホの、ゴーギャンとの緊張関係への形容し難い喪失感や失望を見出すことができる。また画家の共同生活への並々ならぬ熱意は、そのままゴッホの社会主義的な思想が反映している点も特筆に値する。表現手法としては主題である簡素な黄色の椅子と対比させるかのような床の赤褐色や壁や扉の青緑色、そして椅子と呼応させている木箱に入った玉葱など明快な色彩的表現は、椅子の存在感を際立たせることに成功している。


ゴーギャンの椅子(本と蝋燭が載っている椅子)
1888年 90.5×72cm | 油彩・画布 |
ファン・ゴッホ美術館

アルル滞在期の代表作『ゴーギャンの椅子(本と蝋燭が載っている椅子)』。本作はゴッホが南仏アルルで借りた≪黄色い家≫での共同制作に賛同(※ゴッホも熱心に誘っていた)し、同地を訪れた総合主義の創始者≪ポール・ゴーギャン≫が同家で使用していた椅子を画題とした作品で、対画として画家自身が黄色い家で使用していた椅子単体の作品『アルルのゴッホの椅子』も制作されている。画面中央にはやや曲線を強調した木製の椅子が斜めに配されており、座面部分には一本の蝋燭と2冊の小説(表紙から同時代のフランスの小説であると推測されている)が置かれている。そして椅子と同じ木製の床面は、画面左上で輝くランプの光を粒状に反射にある種のテクスチャー的な効果を生み出している。椅子の上に置かれる炎が灯された蝋燭は画家としての人生の光明を、そして儚さを同時に象徴している。またこの蝋燭に炎が灯されている点や壁部分で煌々と室内を照らすライトは本作が夜の場面であることを示しており、昼の場面を描く対画『アルルのゴッホの椅子』との時間的対比を容易に連想させる。また本作において特に注目すべき点として単純ながら効果的な色彩の使用法が挙げられる。画面を構成する色彩の主となる色味は椅子や床面に使用される茶色と、椅子の座面や壁色として使われる緑色であるが、この両色の色彩的対比と、それらを関連・調和させる炎やランプ、小説のカバーに用いられる黄色の絶妙な感覚はゴッホの色彩的才能を如実に感じさせる。


アルルのゴッホの寝室(画家の寝室、ゴッホの部屋)
1888年 72×90cm | 油彩・画布 |

フィンセント・ファン・ゴッホ美術館

 ゴッホが大きな希望を抱いて滞在していた南仏アルルで制作された作品で、画家たちの共同生活場所を想定して借りられた「黄色い家」の自身の寝室が描かれている。画家は弟テオに宛てた手紙の中で本作について次のように述べている。「僕は自分の寝室を描いた。この作品では色彩が全ての要であり、単純化した物体は様々な色彩によってひとつの様式となり、観る者の頭を休息させる。僕はこの作品で絶対的な創造力の休息を表現したかった」。右側にゴッホが使用していた木製のベッドが置かれ、その上の白壁には二枚の肖像画と不可思議な絵画が飾られている。ベッドの反対側(画面中央)には椅子が一脚置かれており、この椅子は本来白色をしていたことが判明している。画面右側には小さな木机とそこに置かれる瓶や水差し、さらに画面手前に椅子が配されている。正面の壁には三角形の窓と、その両脇に風景画らしき絵画が掲げられている。寝具、木製の机、ニ脚の椅子、壁に掛けられる絵画、木の床、窓などに持ちいられる赤色や黄色の鮮やかな色彩と、三面の壁の青味を帯びた色彩の対比は本作の最も注目すべき点であり、一点透視図法を用いた急激な遠近法による空間構成と共に、表現的特徴を決定付けている。


ひまわり 14本
1888年 92×72.5cm | 油彩・画布 |
ロンドン・ナショナル・ギャラリー

 ゴッホは日本の浮世絵から強い影響を受け、日本を光に溢れた国と憧れ、日本へ行くことを願っていた。しかし日本はあまりに遠すぎたので、ゴッホはゴーギャンを誘い、日差しの強い南仏の町アルルへ向かった。アルル時代に描いた作品の中で、ひまわりを題材にした作品は6点で、パリ時代には5点描いている。アルルはゴッホの人生の中でも重要な時代で、アルル滞在時に描かれた作品の中でも、「ひまわり14本」は最も傑出した作品である。

 この「ひまわり」を見てもわかるように、ゴッホは黄色が好きだった。「ひまわり」以外の絵にも黄色を多用し、すぐに黄色の絵の具がなくなることから、弟のテオに手紙を出す時はいつも「黄色の絵の具を買ってきてほしい」と書かれていた。ゴッホがアルルに借りたアトリエも黄色に塗り、通称「黄色い家」と言われていた。

 この作品は、ひまわりを画家仲間に見立て、「ひまわりの家」に住むはずだった画家仲間たちを暗示している。またひまわりの強い生命力とボリューム感を表現するため、絵具を厚く塗り重ねたが、それは同時に彫刻のような立体感を生み出している。

 誤解が多いが、名画「ひまわり」は1枚ではなく、アルル時代には花瓶に挿された油彩の絵画は7点描かれていて、そのうちの1点は焼失しているが、他は現存している。さらにパリで描かれたものを含めれば全部で12作品が存在している。なお、ひまわりの数は3本から15本まで幅があり、それぞれの「ひまわり」に、それぞれの個性がある。「ひまわり」は世界中に点在しているので、いくつかの国の美術館を渡り歩くと、各地にゴッホのひまわりがある。
 ゴッホのひまわりは、まず1点が日本にて焼失(小説家の武者小路実篤の依頼により、実業家の山本顧彌太が購入したが、第二次世界大戦の空襲で芦屋で焼失)、残り6点はそれぞれ、東京の損保ジャパン東郷青児美術館、オランダのアムステルダムのゴッホ美術館、アメリカのフィラデルフィア美術館、ドイツのミュンヘンのノイエ・ピナコテーク、ロンドンのナショナルギャラリー、そしてアメリカの個人が所有している。
 したがって、実際に見ることができるのは、焼失した1点と個人蔵のものを除く5点である。日本、アメリカ、ヨーロッパと世界各国にひまわりは点在している。

 1889年1月、ゴッホは「ひまわり」のヴァリエーションを3点(フィラデルフィア美術館所蔵版、ファン・ゴッホ美術館所蔵版、損保ジャパン東郷青児美術館所蔵版)描いているが、その意図や解釈については現在も議論されている。


ひまわり、5本

 1888年 98×69cm | 油彩・画布 |

山本顧弥太氏旧蔵(現在は焼失)

 神戸芦屋で貿易商を営んでいた実業家山本顧弥太氏が所蔵していた「ひまわり、5本」である。芦屋市民には「芦屋のひまわり」と呼ばれ親しまれていたが、残念ながら第二次世界大戦の芦屋大空襲で焼失してしまった。他の画家の作品は壁に掛けてあっただけなので避難させたが、この「芦屋のひまわり」は壁に固定されており移動できなかった。
 第二次大戦の戦火で焼失するが、ゴッホのひまわり連作中の2作目になる。ゴッホが、ゴーギャンと共同生活をするために、南仏の町アルルで借りた「黄色い家」と同じ、背景が黄色の「ひまわり」が一般的によく知られている。しかし本作品に描かれる「ひまわり」の背景は深い藍色で、「ひまわり」の数もこれまでとは異なり、さらに花瓶の足元に二輪のひまわりが配されている点が他の作品と違っている。

 画題「ひまわり)」は、南仏アルル前のパリでも5点制作されていることから、ゴッホにとって「ひまわり」は魅力的な画題であったことがわかる。アルル時代のひまわりには、南仏アルルでの制作活動や生活に対する希望など心理的内面が表れていて、その意味では本作のやや陰鬱な「ひまわり」は注目に値 する。また描写においてもアルル時代の「ひまわり」よりも単純平面化しており、対象の固有色を否定し、輪郭線で囲んだ平坦な色面は太く力強い輪郭線と共に、本作を解釈する上で重要視されている。


耳を切った自画像(頭に包帯をした自画像)
1889年 60×49cm | 油彩・画布 |
コートールド美術研究所(ロンドン)

 本作品はゴッホが南仏の町アルルで起こした有名な「耳切り事件」の直後に描いた自画像である。ゴッホは見ながら描く自然主義的な写実的表現であったが、ゴーギャンはそれを否定したため、両者は対立してしまう。ゴッホの南仏アルルでの制作活動に答えたのはただひとりゴーギャンだけで、そのゴーギャンから見放されれば独りになってしまう。そのことを恐れたゴッホは、次第に精神を病んでいった。

 1889年12月23日の夜、ゴーギャンと芸術について激論を交わし、黄色い家を出て行こうとするゴーギャンを、剃刀を持ったゴッホが追いかける。しかし逆にゴーギャンがゴッホを威嚇すると、ゴッホは剃刀で自身の耳を切り落とし、それを娼婦ラシェルのもとへ届けるという「耳切り事件」をおこしてしまう。本作のゴッホは包帯で巻かれ痛々しい様子であるが、その表情は冷静であり、一見すると落ち着きを取り戻したかのように見える。しかしこの事件以降、画家は幻覚と悪夢にうなされ、その症状は生涯続くことになる。

 本作品の背後には浮世絵「芸者」が飾られていて、鮮やかで明るさの増した色彩と共に、ゴッホの日本趣味への傾倒が示されている。なおゴッホは本作以外にも、耳切り事件直後の自画像「パイプをくわえる包帯の自画像」を残している。この作品は切り落とした耳の傷から滴る血の色を思わせる赤色と、身に着ける衣服の緑色との色彩的対比が特徴的である。


アルルの病院の庭(アルルの療養院の庭)
1889年 73×92cm | 油彩・画布 |
オスカー・ラインハルト・コレクション

 ゴッホはゴーギャンとの共同生活の果てに起こした「耳切り事件」後、著しい妄想によって12月末から翌年の3月末までアルルの市立病院へ2度入院するが、2度目の退院した後(1889年4月)に同病院の庭を描いた作品である。アルル市立病院へ入院した時の担当医師は入院中のゴッホに絵を描く許可を与え回復を試みており、ゴッホ自身も描くことで復調の兆しを示していた。そのような状況にあった当時のゴッホのお気に入りの病院の庭である。中央には噴水が設置されており、その周囲へは美しい花壇が八方に分けられ手入れされている。庭の情景をやや斜めの視点で捉え、画面手前の左右へ配される二本の木と、その間の背の低い4本の植木が垂直を強調して絶妙な動きを与えている。さらに画面奥の病院建物の二段の廊下の壁面と複数の柱に用いられた明瞭な色彩が、ゴッホの希望的心象を思わせる庭の花々の生命感をより強調している。


ピエタ(ドラクロワによる)
1889年 73×60.5cm | 油彩・画布 |
ファン・ゴッホ美術館

神経発作と精神的病に冒されたゴッホが治療(療養)のためにサン・レミのカトリック精神病院へ入院していた時に制作された本作は、ロマン主義の巨匠ウジェーヌ・ドラクロワによる≪ピエタ≫を画題とした作品のリトグラフに基づく模写作品である。本作の画題≪ピエタ≫は磔刑に処され死した受難者イエスの亡骸を聖母マリアがその腕の中に抱くという、新約聖書の中でも特に崇高で悲哀に満ちた主題(※ピエタはイタリア語で「悲しみ」「慈愛」などの意味をもつ)であるが、本作には宗教的側面より画家の個人的解釈がより強く示されている。画面中央に配される赤毛の髭を蓄えた土気色の受難者イエスは、紛れも無くゴッホ自身の姿であり、そこに自身の置かれている状況や不安定な精神的状態を重ね合わせているのは明白である。さらに受難者イエスの亡骸を抱く聖母マリアの手は、画家が生の象徴的存在として捉えていた労働者階級の者と同じ印象を受けることができる。ゴッホが生涯に手がけた(本作を含む)5点の宗教画は、ドラクロワやレンブラントなど何れも過去の偉大な巨匠たちの模写であり、画家独自の解釈を加えながらも巨匠たちに対する純粋な敬意を感じることができる。また本作の色彩表現に注目しても、聖母マリアの身に着ける青衣と、受難者イエスや遠景に用いられる黄色(黄褐色)との明確な色彩的対比は、画面を引き立てる上で極めて効果的に働いている。


月夜-糸杉と村
1889年| 73×92cm | 油彩・画布 |
ニューヨーク近代美術館

 ゴッホが神経発作のためにサン・レミのカトリック精神病院に入院中に描かれた。ゴッホは盲信していた自然世界との一体化について次のように語っている。「夜空の星をみていると、いつも夢見心地になるが、それは地図の上で町や村を表す黒い点を見てあれこれと夢想することに近い。何故、夜空に輝く点には近づくことができないのか不思議に思う 。 僕らは死によって星へと到達するのだ」。ゴッホは星降るような空を創造したいと語っているが、それを表現した作品である。

 渦を巻く暗雲、その中で光を放つ月は観る者に強い印象を与える。ゴッホは静寂に包まれた闇夜を描いたのではなく、自分のエネルギーを発散する黙示禄的な激情に溢れた夜を描いたのである。糸杉と呼ばれる天高く伸びた木などはゴッホが入院していたサン・レミのカトリック精神病院の病室から見た風景であるが、画面中央の北欧的小村と教会はゴッホの想像によって描かれている。この背景は映画「ミッドナイト・イン・パリ」に使用されたことでも知られる。


糸杉と星の見える道(夜の星空、荷車、通行人)
1890年 92×73cm | 油彩・画布 |
クレラー=ミュラー国立美術館

 本作は画家が精神的窮地に陥り、自ら志願して入院することとなったサン・レミのカトリック精神病院「サン・ポール」で制作された作品である。画面中央には大きく枝葉を揺らめかせるように天へと伸びる糸杉が1本、象徴的に配されており、その先端となる画面上部では、糸杉を境に右側へ明々と輝く3日月が、左側には煌々と闇夜を照らす星が描き込まれている。サン・レミ滞在時期、通称サン・レミ時代にゴッホは糸杉を画題とした作品を複数枚手がけていることが良く知られているが、画家にとって糸杉は人間の生、すなわち誕生や成長、友愛、永遠への憧憬を意味していたと同時に、その終焉である死を象徴する存在であり、精神的圧迫に苦悩していたゴッホには自身の内面世界を反映する最も的確なモチーフであった。さらに画面下部には2人の農夫と一台の荷馬車が配されており、画家の迷宮的な孤独からの脱却願望も見出すことができる。本作の表現手法に注目しても、この頃のゴッホが獲得していた、やや長い筆触による荒々しい大胆な形態描写と印象表現は本作の異様的な(ゴッホ自身の)心象世界を見事に表現しており、特に夜空に輝く星や三日月の渦巻くような筆致による光と闇の対比的描写や、農夫たちを飲み込んでしまうかのような農道の質感表現にはゴッホの画家としての独創性が表れている。


自画像(渦巻く青い背景の中の自画像)
1889年 65×54cm | 油彩・画布 |
オルセー美術館(パリ)

耳切り事件後、1889年5月から神経発作により画家自身の希望でサン・レミのカトリック精神病院「サン・ポール」へ入院していた時代(通称サン・レミ時代)の9月頃に制作されたゴッホの自画像作品で、少し前(8月末頃)に手がけられた『自画像(パレットのある自画像)』と共に、ゴッホの自画像作品の中では最後期の自画像としても広く知られている。画面中央へやや斜めに構え白いシャツと上着を着たゴッホの上半身が描かれる本作の最も注目すべき点は、やはり青い渦巻き模様風の背景の描写にある。画家の観る者(或いは画家自身)の内面すらまで見据えるかのような厳しくある種の確信性に満ちた表情と呼応するかのように本作では背景が表現されており、それは耳切り事件と度重なる神経発作による画家の不安定で苦悩に満ちた感情が、あたかも蒼白い炎となってうねりながら燃え立つ渦巻き模様として具現化しているようである。サン・レミ時代のゴッホは自室のほか制作部屋が与えられるなど、比較的自由な入院生活の効果もあり、精神状況も回復(安定)しつつあったものの、それでも本作で表現される画家自身の姿からは狂気的で異様な画家の精神的内面が如実に感じられる。さらにゴッホ自身は、自身の心理の最深部まで入り込んだかのような本作の自画像表現に関してレンブラントなど17世紀オランダ絵画黄金期の伝統性に着想を得たと弟テオに宛てた手紙の中で言及している。また本作は色彩表現や表現手法においても、『耳を切った自画像(頭に包帯をした自画像)』や『自画像(パレットのある自画像)』などそれまでに手がけてきた自画像と比較し、明度と筆触に明らかな違いが示されており、幻想的で夢遊な明るさと短く流線的なタッチは、ゴッホが晩年期に辿り着いた自身の絵画表現の最も優れた例のひとつである。


刑務所の中庭(囚人の運動)

1890年 80×64cm | 油彩・画布 |

プーシキン美術館(モスクワ

 サン・レミ滞在期の代表作「刑務所の中庭(囚人の運動)」。本作はゴッホが自身の精神状態に著しい変調を覚え、強度の神経発作を起こした後に自ら望んで南仏サン・レミのカトリック精神病院サン=ポール・ド・モゾルへ入院していた時代、通称サン・レミ滞在期に制作された作品で、画家も高く評価していたフランスの版画家ギュスターヴ・ドレによる「ニューゲート監獄-運動場」に、ほぼ忠実に基づきながら画面が構成されいる。画面中央から下部に高い壁が聳える刑務所の中庭で円を描くように歩行運動をおこなう33人の囚人が整列的に配され、その傍ら(画面右下端)には3人の帽子を被った看守たちが描き込まれている。中庭で歩行運動をおこなう囚人達の表情には全く生気や希望が感じられず、あたかも出口の無い迷路を彷徨っているかのような絶望的印象すら受ける。その中で只一人、帽子を被らない列手前の(金髪の)男だけが僅かに本作を観る者の方へと視線を向けており、ここに入院中の画家の自由への渇望を見出すことができる(※一部の研究者はこの男を画家の比喩的な自画像と解釈している)。さらに画家の鬱屈的な精神状態を反映させたかのような刑務所の高い塀へ、(囚人達の様子とは対照的に)眩いほどの明瞭な光が最も強く当てられている点や、画面上部やや左側に配される二匹の白い蝶の存在も、ドレの『ニューゲート監獄-運動場』に準えたゴッホの希望の投影にも思えてくる。


アイリスのある静物(花瓶に入った背景が黄色のアイリス)
1890年| 92×73.5cm | 油彩・画布 |
ファン・ゴッホ美術館

 1890年を代表する静物画作品『アイリスのある静物(花瓶に入った背景が黄色のアイリス)』。本作は神経発作の治療で滞在していたサン・レミでの苦悩と退屈の生活から脱する為に1890年5月に友人であり精神科医でものあったポール・ガシュの居るオーヴェールへと出発するゴッホが、その数週間前に制作した静物画作品である。花という画題、鮮やかな黄色の単色的背景、丸みを帯びた花瓶など、前年に制作された名高き『ひまわり』の連作を彷彿とさせる本作に描かれるのは、アヤメ科アヤメ属の多年草≪アイリス(菖蒲)≫で、ゴッホは本作を制作した1890年の5月にこのアイリスを含む様々な静物画を手がけているが、その精神状況はもはや非常に危機的状況にあった(この頃、ゴッホ自身が弟テオに宛てた手紙の中で「僕には新鮮な空気が必要だ。ここに居ては退屈と哀しみに押しつぶされてしまう。」と、サン・レミでの生活の苦しみを訴えていたほど、画家の神経発作と精神的不安が悪化していた)。本作はそんな状況から脱する為にオーヴェールへと向かう数週間前に制作された作品であり、画家の狂気性と希望が画面の中で入り交じる類稀な静物画でもある。画面中央に描かれる青い花を咲かせた美しいアイリスは画家の太く明確な輪郭線による独特の描写で、あたかもその生命を咲き誇らせるかのように堂々と力強く描かれている。花の間からのぞく緑色の葉も画家の強烈な観察的視線をそのまま表現したかのように鋭く直線的であり、観る者の目を惹きつける。その中で画面右下に描かれる萎れたひと束のアイリスは画家の不安定で漠然とした恐れを感じさせる。そして背景や花瓶に使用されたアイリスと色彩的対比を示す明度の高い黄色が、画家の絵画への純粋な想いを反映させたかのように強烈な輝きを放っている。なおゴッホは本作以外にもアイリスを画題に作品を複数制作していることが知られている。

終焉の地、オーヴェール

 5月16日、サン・レミの病院を出て、夜行列車で新たな静養地、パリ北西部(30km)のオーヴェールに向かった。同地は芸術家村として知られ、また画家兼精神科医のポール・ガシェ(62歳)がいることから、ピサロがガシェの下での療養を勧めてくれた。途中でパリのテオ一家を訪ね初めて妻子と出会う。赤ん坊は4ヶ月。ゴッホが次々と送った絵は、全く売れない為に家中に溢れかえっていた。ヨハンナが思い出を綴っている「テオは兄を坊やのゆりかごのある部屋へ通しました。兄弟は黙って眠る赤ん坊に見入った。2人とも目に涙を浮かべていました」「私たちの家はゴッホの絵でいっぱいで、どの部屋の壁にも彼の絵が掛かっていた。食堂には「ジャガイモを食べる人々」、居間には「アルルの風景」と「ローヌ川の夜景」、ベッドの下もソファの下も、小さな空き部屋の押入れの下も、カンバスでいっぱいだった」。5月20日、ゴッホはオーヴェールに到着し、ラヴー夫婦が営むレストラン「ラヴー亭」に下宿した。2階は家賃が高かったので、3階の屋根裏を借りた。天窓が唯一の窓で、夏は40度まで暑くなる3畳ほどの狭い部屋だった。

 南仏からオーヴェールへの転地療養は正解だった。絵筆がよく走り、発作の再発もなく、2ヶ月という短期間に約80点もの作品を描き残した(1日に1作以上のペース)。ガシェ医師もゴッホの作品をこよなく愛してくれた。6月8日にはテオ一家がピクニックで遊びに来てくれた。ヨハンナは「ゴッホは甥のオモチャとして小鳥の巣を持って駅まで迎えに来てくれた。ゴッホは赤ん坊を抱いて歩くと言い張り、ガシェ家の庭にいる山羊、孔雀、犬、猫、兎、鳩、鴨、亀を全部子どもに見せてしまうまで休まなかった。私たちは戸外で食事をとり、ゆっくりと散歩した。大変穏やかで幸せな1日でした」。

 翌月7月6日(死の3週間前)、今度はゴッホがテオ一家に招待されパリを訪ねる。ヨハンナの兄夫婦やロートレックも招待され、皆で楽しいひとときを過ごすはずだった。テオは上司が印象派を低く見ているので画商として独立したいと言い、不安になったヨハンナが家計の苦しさを訴えて夫婦は喧嘩になった。ゴッホは自分への援助がいかにテオ一家の負担になっているかを痛感した。

 ゴッホは逃げるようにオーヴェールに戻ると、心労でヘトヘトになった。自分のためにテオ夫婦は喧嘩をしている。「こっちに帰って来てから、僕もとても気が滅入っている。君たちを襲っているあの嵐が、僕の上にも重くのし掛かってくるのをずっと感じている。どうすればいいのか。僕も生活も根っこからやられており、そして僕の足もよろめいている。実は僕は心配でたまらなかった。僕のことが重荷で、君は僕を荷厄介に感じているのではないかと」。その後、『ドービニーの庭』を描き上げ、7月25日には遺作とされる『カラスのいる麦畑』を完成させた。「今にも嵐になりそうな空の下に麦畑が広がる絵だが、僕はここに究極の悲しさと孤独を表せないかと思った。この絵を早く君にも見て欲しい。なるべく早くパリに持って行こうと思っている。見ればきっと、口では言えないものを、じかに君に語ってくれると思うからだ」。


オーヴェールの教会
1890年 94×74cm | 油彩・画布 |
オルセー美術館(パリ)

 ゴッホ最晩年の代表作。本作はかの有名な「耳切り事件」後、精神的に不安定となったゴッホが、1890年5月20日からパリ北西のオーヴェールに赴 き、画家の友人であるセザンヌや医学博士(精神科医)ガシェのもとで治療・療養生活を過ごした最後の二ヶ月間に手がけられた80点あまりの作品の中の1点 で死の前月の作品である。

 12世紀頃に同地へ建てられた教会を描いている。渦巻いた深い青色の空を背景に、逆光の中に沈むような、それでいて重量感に溢れたオーヴェールの教会は、何者をも寄せ付けぬ不気味な雰囲気を醸し出している。さらに構造的に波打つように激しく歪んだ教会の近寄りがたい異様な様子をより一層強調している。

 これらをゴッホの不安と苦痛に満ちた病的な心理、意識世界の反映(顕示)と解釈するか、あくまでも画家として技術的・表現的な革新性と解釈するのか、批 評家・研究者の間でも分かれている。絵画作品としての本作品は、ゴッホ最晩年期の筆触の大きな特徴がみられる。それはやや長めで直線的な筆使い、本風景 (情景)に精神的迫真性をもたらしていることで、さらに画面中央から上部へは、まるで教会が負(邪悪)のエネルギーを放出しているかのような暗く重々しい色彩を、下部へは一転して大地の生命力を感じさせる明瞭で鮮やか色彩が配し、この明確な色彩的対比が秀逸の出来である

 ゴッホは他の画家と異なり教会の風景画を殆ど描いていない。おそらく牧師を目指して成れなかったこと、父との確執があって描けなかったのだろう。死の直前の当作品で父と和解したように思える。しかも手前左の女性は、オーヴェールは仏なのにオランダの衣装を着ていて両親との和解を意味しているように思える。


ポール・ガシェ医師の肖像(ガッシェ博士の肖像)
1890年 67×56cm | 油彩・画布 |
個人所蔵(米国)

 最晩年に手がけた肖像画の代表作「ポール・ガシェ医師の肖像」。本作品はゴッホがサン・レミの精神病院からパリ北西のオーヴェールに行き、主治医であり、画家でもあった精神科医ポール・ガシェを描いた肖像画である。ガシェ医師はゴッホのよき相談相手で、ゴッホは毎日のように彼の家を訪ね、娘の肖像画も書いている。

 パリのオルセー美術館にもほぼ同時期に制作された同構図のガシェ医師の肖像が所蔵されている。本作品と比較すると、その表現に狂気じみた画家の強迫観念的な精神状態を見出すことができる。画面中央に描かれるガシェ医師の視点は合わず、虚空を見ているように描かれている。またその姿態は伝古典絵画でのメランコリック(憂鬱)を示す片肘を突き握られた拳を頬に当てている。太く短い筆触の流れが独特の質感をもたらし、明確な輪郭線は表現の独自性を表現している。ゴッホの画家としての意識の強さを感じさせる。

 ゴッホは本作品に対して「僕は写真のようにただ似せるのではなく、情熱に満ちた肖像画を描きたい。この作品では、現代の社会そのものの悲痛的表情を伝えたい」と妹に宛てた手紙の中で述べている。なお1990年5月のオークションで、ルノワールの傑作「ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏場」と共に、115億円で大昭和製紙の名誉会長であった斉藤了英氏が購入している。


烏のいる麦畑(カラスのいる麦畑)
1890年 51×103.5cm | 油彩・画布 |
アムステルダム、ファン・ゴッホ美術館

 ゴッホの最後の作品。風景画「烏のいる麦畑(カラスのいる麦畑)」はゴッホがサン・レミの精神病院から、パリ北西のオワーズに向かい、友人の精神科医ポール・ガシェ医師の療養院で生活を始めた頃に描かれた。

 今にも嵐に変わりそうな空、怒りに満ちた空は2つの雲を圧倒し、激しく揺れる麦畑もまた空と戦う怒れる海のように沸き立っている。その上を飛ぶ真っ黒な烏の群れ、まるでゴッホの精神状態を反映させているようである。水平線は容赦なくこちらへ押し寄せ、大地は盛り上がり、天は垂れ込めて観る者を圧倒する。

 太く短い筆触によって描写される麦畑は強烈な色彩に満ちているが、陰鬱で不吉な雰囲気で、不安定で死を暗示している。うねるような空は深淵な濃青色のグラデーションで低空を飛ぶ烏(カラス)の一群や水平線に消えてゆく道、これらは画家自身の生命の終わりを予感させ、そのためこの作品がゴッホ最後の作品と信じられている。

 極度の悲しみと孤独感を表現した、とゴッホは語り、実際、この作品を描いて数週間後の7月27日に、この絵と同じ麦畑で自らピストルを撃ち自殺をしている。ゴッホが極めて危険な精神的状態にあったことが窺えるが、そのような状況のゴッホだから描くことのできた風景である。本作品が持つ独特の圧迫感、死を予言するような象徴的表現は見る者を惹きつけ圧倒する。

 画家ゴッホの生涯を語る上で、この「烏のいる麦畑(カラスのいる麦畑)」をゴッホの絶筆作品としたことは、キリスト教社会において、その方が都合の良かったこともある。しかしこの絵画がゴッホの絶筆である証拠はなく「烏のいる麦畑」の題名も本人がつけたものではない。ゴッホの手紙からこの作品は、最晩年の作品であるが、絶筆とされているのは、映画「炎の人ゴッホ」でこの絵を描いた直後に自殺するシーンがあったからである。ゴッホの死から24年が経っているが、世界中に神話のごとくに絶筆作品として定着したのである。

 画家になって10年目のゴッホは独自の画風を確立させていた。そのゴッホがなぜ自ら命を絶ったのか。悲哀と孤独、絶望と切なさなどが想像されるが、弟テオの経済的行きずまりがあった。人生において1枚しか売れなかった画家にとって、経済的に援助してくれた弟テオの破産は、ゴッホ自身すまない気持ちが大きかったと思われる。

ゴッホの自殺

 7月27日夕刻、ゴッホはオーヴェール城裏手の麦畑でピストル自殺を試み腹を撃った。だが急所を外れてしまい、宿に戻って苦しんでいるところを家主が見つけガシェが呼ばれた。ガシェが「大丈夫、助かる」と励ますと「それならもう一度撃たねばならない」とゴッホは答えた。テオの住所を言おうとしないので、ガシェはテオの職場に連絡をとった。そのため弟は翌朝まで事件を知らなかった。駆けつけて泣き濡れるテオに「また、しくじってしまったよ」とゴッホは云った。そして「泣かないでおくれ。僕は皆のために良かれと思ってやったんだ」と慰めた。ゴッホは真夏のうだるように暑い屋根裏部屋で、2日間苦しんだ後、7月29日午前1時半にテオに看取られながら絶命した。最期の言葉はオランダ語で「家に帰りたい」だった。オーヴェールの司祭は自殺者の葬儀を拒否し、そのため隣村の司祭が葬儀に呼ばれた。

ゴッホ最後の手紙

 ゴッホのポケットには弟テオへの最後の手紙が入っていた。「弟よ、これまで僕が常々考えてきたことをもう一度ここで言っておく。僕は出来る限り良い絵を描こと心に決め、絶対に諦めることなく精進を重ねてきたつもりだが、この全生涯の重みをかけてもう一度言っておく。テオは単なる画商ではない、僕を介して君もまた、どんな悲惨にあってもたじろぐことのない、僕の絵の制作そのものに加わっていたのだ。ともかく、僕は自分の絵に命を賭けた。そのため、僕の理性は半ば壊れてしまったも同然だ」。

葬儀

 葬儀の様子は参列した親友の画家ベルナールが詳しく書き残している。「遺体が安置された部屋の壁には、晩年の作品すべてが掛けられていた。それは彼を取り巻く後光のように見えたが、絵が輝かしく天才的であるだけに、彼の死は我々画家にとっていっそう悲しいものだった。棺には質素な白布が掛けられ、大量の花が置かれていた。それは彼が愛したヒマワリや黄色のダリアなど黄色の花ばかりだった。黄色は彼の好きな色で、彼が芸術作品の中だけでなく、人々の心の中にもあると考えた、光の象徴だった」「遺体は3時に友人たちの手で霊柩車に運ばれた。テオがずっとすすり泣いているのが哀れだった。外は狂おしいほど太陽が照りつけていた。私たちは故人の人柄について、彼の芸術家としての勇気、画家共同体の夢、彼から受けた影響について語り合いながらオーヴェールの丘を登った。彼が葬られる共同墓地はまだ新しく、新しい墓標が点在しているだけだった。青空の下、収穫間近の麦畑が眼下に広がっていた。気候はまさに彼の好みにぴったりで、彼はまだ幸福に生きられたのにと思わずにはいられなかった」。

 葬儀にはピサロやタンギー翁らも参列し、埋葬時にガシェは涙に暮れながら「彼は誠実な人間で、とても偉大な芸術家だった。彼には人間性と芸術というたった2つの目的しかなかった」と告別の言葉を捧げた。

テオの死と、その後のゴッホ家

 ゴッホの死の直後、テオは母親へ手紙を書いている。「お母さん。どんなに悲しいか書き表せません。何も慰めにはなりません。僕は生ある限り、この悲しみを背負っていかなくてはなりません。ひとつだけ言えるのは、兄さんはずっと望んでいた安らぎを手に入れたのです。死に際に兄さんは言いました。「もうそろそろ逝けそうだよ」と、そして30分後、彼の望みは叶えられた。人生はそれほど彼にとっては重荷だった。それにしても、よくあることですが、今や誰もが彼の才能に賛辞を惜しまないのです。お母さん、彼はあんなに僕の、僕だけの兄さんだったのに!」。

 テオは一度も送金停止を云うことはなかった、それでも援助のことで兄を不安にさせたことや、妻子を得たことが兄を孤独に追い込んだのではと責任を感じ、葬儀後も全身全霊で兄の作品を世に紹介しようとした。個展の実現に向けて奔走した。しかしどこも会場を貸してくれず、2ヶ月後の9月20日、やむなく自宅のアパートで初の回顧展を開いた。部屋中に兄の絵が掛けられ妹に次の手紙を出した「君にも見てもらえたらと思う。そうすれば兄さんの絵が決して病んだ心から生まれてきたものではなく、偉大な男の情熱と人間性から生まれてきたことが君にも分かる」。膨大な作品群から個展用の傑作選を決める作業で、テオは疲労が蓄積し職場で上司と大喧嘩して辞表を叩き付けた。

 そしてテオは、回顧展の翌月に錯乱し、11月18日にユトレヒトの精神病院に入院した。そして兄の死からわずか半年後の1891年1月25日に、兄の絵が死後になって売れ始めた世の皮肉を呪いながら病院で衰弱死した。享年33であった。

苦難の連続であったゴッホは生涯を通じて、献身的な弟テオ•ファン.ゴッホの献身的な援護を受け続けた。テオ自身は画商として働きながら、パリでは2年間兄を寄宿させ、アルルやサン•レミへは生活費や画材を送り、絵画に関する情報や人の紹介などあらゆる面で兄を支えた。テオの人生は兄ゴッホのためにあったといえる。ゴッホが命を絶った6か月後にはテオもまた心臓発作でこの世を去っている。

  後には妻と幼児ヴィンセントが残された。 その後、ヨハンナはオランダに帰り小さな下宿屋を営みながら、テオの子、ヴィンセ ント・ウィレムを育て上げた。テオの墓は没後23年が経った1914年にゴッホの墓の隣りに改葬され、ヨハンナは兄弟の墓をツタで覆い、聖書の次の言葉を 捧げた。「二人は生くるにも死ぬるにも離れざりき」(サムエル記・下1章23節)。同年、ゴッホの命日にテオ宛ての書簡集がヨハンナの尽力で刊行された。

  ヨハンナは義兄の作品を幅広く売却することで知名度をあげようとしたが、ウィレムは反対に特定の場所に集めることを重視した。ウィレムのお陰で作品が過度に散らばることなく保管された。そして1960年代にゴッホ財団の創設を条件に作品群を寄贈し、1973年に国立ゴッホ美術館がアムステルダムに誕生する ことになった。世界のゴッホ・ファンはゴッホ美術館にさえ行けば、絵画、素描、手紙など膨大な作品資料(所蔵1000点以上)に触れることが出来る。

ゴッホ語録(書簡集より)
◎私は美しい自然に会うと有項天になる。自分がだれだかわからなくなり、絵は夢のなかのように私に向かってくる。
◎すばらしい絵画を制作するのは,ダイヤモンドや真珠を見つけ出すのと同じぐらい難しい。艱難辛苦を覚悟し、命をも賭けなければ成し遂げられないことだ。
◎残念だが、私の作品が売れないのはどうしようもないことだ。いつの日か、人々が私の作品についている値段以上の価値があることがわかるだろう。