ラーオコオーン像


ラーオコオーン

(バチカンのピオ・クレメンティーノ美術館)

 ラオコーン像は大理石でつくられた古代ギリシアの彫刻である(紀元前160〜20年頃)。

 ラオコーンはギリシア神話に登場するトロイの神官の名前で、ラオコーン像とは「神官ラオコーンと2人の息子が、海蛇に巻きつかれている情景」を彫刻にした作品である。作者はロドス島出身のアゲサンドロス、アテノドロス、ポリュドロスの三人とされている。

 神官ラオコーンは、トロイ戦争の際、トロイの木馬を市内に運び込もうとする市民たちに「トロイの木馬はギリシア軍の計略」とトロイの木馬に槍を投げた。市民を諌めようとするが、この行為は女神アテナの怒りを買ってしまう。女神アテナはラオコーンの両目を潰し、さらに海に潜む2頭の大蛇の怪物を使ってラオコーンを襲わせた。ラオコーンと2人の子供は怪物に食われてしまう。

 ラオコーン像は、1506年、トラヤヌス浴場(皇帝ネロの黄金宮跡)付近の地中から発掘された。発掘の様子を見学に来たミケランジェロは大きな感銘を受け、教皇ユリウス2世によってバチカン宮殿に搬送された。身体表現は美の極致とも言われ、ルネサンス以降の西洋美術に大きな影響を与え、激しい身体の動きはバロック的である。

 ラオコーン像が発掘されたとき、ラオコーンの右腕や左右の息子たちの腕や手は損壊し失われていた。ユリウス2世は失われた腕がどのようになっていたかラファエロに審査させた。その結果、ラオコーンの右腕は大きく伸ばされた状態がふさわしいとして、伸ばされた腕の状態で修復された。

 しかし1906年にローマで右腕の破片の彫刻が発見される。ラオコーン像と様式が似ていることからバチカン美術館に右腕の彫刻が持ち込まれたが、バチカン美術館はその右腕を半世紀にわたって放置していた。1950年代になってバチカン美術館は、この右腕はオリジナルのラオコーンのものと鑑定した。

 彫像は一旦解体され、右腕が新しく付けられ、再び組み直された。このとき、以前の修復で取り付けられた二人の息子の腕と手は再び除去されている。この彫像には多くのコピーがあり、有名なものとしてロドス島のマルタ騎士団本部の彫像がある。
 「ラオコーン像」の発見はイタリアの彫刻家にとって大きな衝撃で、ルネサンス芸術の方向性に重大な影響を与えた。ミケランジェロの筋肉美を強調した作品、官能的なヘレニズム風様式、男性裸像の表現はよく知られているが、これらは「ラオコーン像」の影響によるものである。さらに教皇ユリウス2世の墓碑のための「反抗する奴隷(ルーブル美術館、1513年 - 1516年)」、「瀕死の奴隷(ルーブル美術館、1513年 - 1515年)」の2彫刻が影響を受けた例としてあげられている。  
 メディチ家出身の教皇レオ10世の依頼で「ラオコーン像」のコピーがバンディネッリによって制作され、さらにこの彫刻も幾度かコピーされ、ブロンズ像のコピーがウフィツィ美術館に所蔵されている。フランス王フランソワ1世が宮殿に飾るために、イタリア人画家・彫刻家プリマティッチオに、「ラオコーン像」のオリジナルから鋳型を取らせブロンズ像をつくらせ、このブロンズ像は現在ルーブル美術館に所蔵されている。
 ナポレオンがイタリア侵攻した時に「ラオコーン像」は強奪されパリに移され、当時「ナポレオン美術館」と呼ぼれていた現在のルーブル美術館に収容された。しかしナポレオン没落後の1816年にバチカンへ返還されている。
 プリニウスはラオコーン像のことを「あらゆる絵画・彫刻作品のなかでもっとも好まれている」として、さらに「すべての芸術作品の中で彫刻がもっとも優れている」とも述べ、このことからラオコーンの伝統的価値観をもたらした。

 18世紀、ドイツ人の美術史家ヴィンケルマンは本来厭わしいはずの衰弱と死を捉えたラオコーン像を賞賛する文章を書いた。このことからラオコーン論争が起きた。レッシングは、この彫刻とウェルギリウスの詩文を比較して視覚芸術と言語芸術との違いから、この彫刻を作成した芸術家はラオコーンの現実的な肉体的苦痛を表現しきれていない。死に至るような苦痛はもっと激しいもので、目に見えるものとして表現できないとした。しかし多くの芸術家たちは「美としての苦痛」を表現しているとし、彫刻の気品あふれる悲劇性を、ドイツの詩人レッシングは文学・美学テーマの一つであると称した。

 このラオコーン論争で、ギリスの版画家・詩人のウィリアム・ブレイクは、「ラオコーン像」のまわりを落書きのような数ヶ国語で取り囲んだ版画を作った。さらに「ラオコーン像」は出来の悪い彫刻とし、「3人のロドス人がソロモン神殿のヤハウェと2人の息子サタンとアダムの彫刻をコピーした」と書いた。このようにラオコーン像はその美ゆえに様々な論争を生んできた。ラオコーン像が元々ギリシアで造られた彫刻をローマ時代(1世紀)に模刻したものか、それともローマ独自の作品だったかどうか様々な議論がある。