サンドロ・ボッティチェリ

サンドロ・ボッティチェリ
(1445年 - 1510)はイタリアのフィレンツェ生まれの画家で、本名は「アレッサンドロ・ディ・マリアーノ・フィリペーピ」という。「ボッティチェリ」は兄が太っていたことから付いた「小さな樽」という意味のあだ名である。
 生涯のほとんどをフィレンツェで過ごし、優雅で美しい聖母や神話の女神を描いた画家として知られている。大型の祭壇画から私的な神話画まで幅広く絵画を手掛けた。同時代の芸術家たちは、遠近法や明暗法を駆使した自然主義的な表現に向かっていたが、ボッティチェリはその流れとは一線をかしていた。芸術家たちは輪郭を排除し明暗で人物を立体的に見せる表現を競っていたが、ボッティチェリは輪郭線をはっきり引き、鮮やかな色彩を用い、中世美術を思わせる装飾的で象徴的な様式を貫き、平面的で明快な独自の絵画世界を作り上げた。

  1445年、ボッティチェリはフィレンツェで4人兄弟の末っ子として生まれた。父親は皮なめし職人で、近くに工房を構えていた。彼の幼少時代は病気がちで、内向的な性格だった。兄が金細工の仕事をしていたため、兄の工房で教育を受けた可能性がある。
 1464年から3年間、フィリッポ・リッピの工房において絵画技法を学ぶ。この時期に制作された一連の聖母像は師匠リッピの影響が大きい。下図はボッティチェリの最初期の作品「聖母子と天使」(1465年頃、捨て子養育院蔵 下図左)と「聖母子と天使」(アジャクシオ、フェッシュ美術館 下図右)である。


 フィリッポ・リッピの死後、ヴェッロッキオの工房(かつてレオナルド・ダ.ビンチがいた工房)に入り、さらに絵画様式を徐々に磨いていった。
   1469年にボッティチェッリは自ら家を持ち独立、自らの工房を構えた。

東方三博士の礼拝
1475年頃
111×134cm | テンペラ・板 |
ウフィツィ美術館(フィレンツェ)

 星の導きでイエスの誕生を知り、はるか東方からベツレヘムに贈り物を携えて参じた「東方三博士の礼拝」は聖書のテーマとして有名な場年である、ボッティチェリ初期の作品で、ボッティチェリの名声を高めた記念すべき作品。

 星を見てイエスの誕生を知った三博士は、ヘロデ大王にこのことを報告し、博士たちは星の導きによってヨセフ家族のいる家に辿り着くと、幼子イエスを拝み、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。ところが三博士は「ヘロデ王のところへ帰るな」と夢でお告げがあったため、別の道から帰国し、さらに天使がヨセフに「ヘロデ王がイエスを殺そうとしてる」と告げたため、ヨセフは妻子を連れてエジプトに逃れた。ヘロデ王は学者たちに騙されたことに怒り、ベツレヘムとその周辺にいる二歳以下の男子を虐殺する。この作品は「マタイによる福音書」に記載されている三博士がキリストを拝んだ場面である。

 技巧や表現にボッティチェリの特徴を良く示している。特に聖母マリアの繊細でありながら優美で洗練された線描は、ボッティチェリの大きな特徴であり、本作においても登場人物の表現や背景描写などに示されている。

 この作品は当時のフィレンツェの支配者であるメディチ家の集団肖像画という側面も持ち合わせている。画面左端で赤い衣装を着けた人物、聖母子の前に跪いているのが、メディチ家の若き当主ロレンツォで、他にも4人のメディチ家一族が描かれている。そして右端でこちらに視線を投げかけているのがボッティチェリ本人である。

 敬虔な姿の聖母マリア

 繊細でありながら優美で洗練された線描手法は、ボッティチェリの作風の大きな特徴であり、本作においても他の登場人物の表現や背景描写にも示されている。

聖母子の前に跪くコジモ・デ・メディチ

 本作の最も大きな特徴は権力者であったメディチ家の主だった人物や当時の知識人などが描き込まれている点にあり、特にコジモ・デ・メディチを始めとした絶対的な権力者は、場面においても重要な人物として描き込まれている。


 画面中央に描かれるピエロ・デ・メディチ(コジマの長男)とジョヴァンニ・デ・メディチ(右)。

 聖母子に近い場所に配され、赤・白などの豪華な衣服をまとい博士の一人として重要な人物として描かれている。なおピエロは「痛風病みのピエロ」と言われている。

詩人ポリツィアーノ(左)と哲学者ピコ・デラ・ミランドラ(右)。またピコ・デラ・ミランドラの後ろの白い衣服を身に纏うのはロレンツォ・イル・マルフォイと考えられている。

ジュリアーノ・デ・メディチ(左)と青い服を着た初老の男が本作の注文主であるラーマ。ジュリアーノはメディチ家のイケメンとして知られているが、この絵が描かれて間もなく暗殺されている。

ボッティチェリ自身の肖像とされる人物。本作の主題≪東方三博士の礼拝≫救世主イエスの降誕を告げる新星を発見した東方の三人の王が、エルサレムでヘロデ王にその出生地を聞いた後、星に導かれベツレヘムの地でイエスを礼拝する場面で、最も好まれた主題のひとつでもある。

ヴィーナスの誕生
     1483年頃  172.5 cm × 278.5 cm
     ウフィッツィ美術館(フィレンツェ)


 この絵画は、ギリシア神話の「愛と美の女神ヴィーナス」が成熟した女性として、海の泡から誕生する様子を描いている。等身大で描かれたヴィーナスは繁殖力の象徴であるホタテ貝のうえに立ち、豊かな黄金の髪をなびかせ、右手で胸を、左手で陰部を隠し、恥じらいのポーズをとっている。八頭身の女神であり、古典的美人の条件を備えている。

 画面左にはバラの花に囲まれ、頬を膨らませヴィーナスに春風を吹きかける西風の神ゼフュロスと妻フローラが描かれている。西風の神と妻フローラは、愛や結婚の象徴なので、愛と美の女神ヴィーナスの誕生を祝福していることがわかる。西風は強く息を吹き、フローラは柔らかな息を吹き巨大なホタテ貝は水面を滑り、海から岸辺へ吹き寄せている。

 画面右には果樹園のある岸辺があり、季節の女神であるホーラが、生まれたばかりの恥じらいのポーズのヴィーナスの到着を歓迎し、バラ色の布でヴィーナスを包み込もうとしている。布にはヒナギク、桜草、ヤグルマギクなど「誕生」の主題にふさわしい春の花が刺繍されている。
 この「ヴィーナスの誕生」は、イブ以外では絵画史上初の女性の全裸像である。キリスト教が普及すると、キリスト教にとって異教となるギリシャ神話のモチーフや裸婦は排除されていた。しかし当時のフィレンツェを支配していたメヂィチ家がギリシア哲学に傾倒してゆくと、ルネサンス(=再生) の流れの中で、古典文化の再生を目指すようになる。そのためギリシャ神話の世界を借りて、初めて人間の肉体を賛美したのがこの「ヴィーナスの誕生」であった。優美な曲線で描かれた女性の肉体、豊かなブロンドの髪、物憂げな眼差し、大理石のように白く輝く肌。当時の女性の理想の全てがその肉体に込められている。キリスト教という呪縛から開放された、おおらかで甘美な世界である。周囲の風景はヴィーナスの美を引き出すために描かれている。

 キリスト教世界において非常に異教的絵画であるが、この絵はメヂィチ家の依頼で、絵自体メヂィチ家の別荘に飾られていたので庶民が見ることはなかった。メヂィチ家は真プラトン哲学を重んじ、「神から発せられる光が美であり」「精神的に美を求めることが愛であり」「美を求めるのが愛である」と考えていたのである。
 ボッティチェリのヴィーナスの描き方は、レオナルド・ダ・ヴィンチやラファエロの作品に見られる古典的リアリズムとは違っている。このことはヴィーナスの首が現実にはあり得ないほど長く、左肩の傾きは解剖学的にあり得ない「なで肩」で、両肘の長さが違い、左腕が不自然であることから分かる。しかし全体を見ると全く不自然さを感じさせない。この描き方は絵画においてリアルよりも美の表現を強調するためだったからである。ボッティチェリは写実的で解剖学的な正確さではなく、どこまでも優美で繊細な愛の女神を描くことにしたのである。それは科学とは対立するが、美の追求がもたらした自然な姿である。
 ヴィーナスといえば、紀元前2世紀末に作成された「ミロのヴィーナス」の彫刻を思い浮かべるが、「ミロのヴィーナス」から1600年以上隔たっているのに、両者の表現は驚くほど似ている。ルネサンス期にイタリア人をとらえたのは古代ギリシャ・ローマの栄光で、神話の中に神秘的な真実があるとしていた。海から現れるというヴィーナスの物語は、美の神聖なシンボルであった。

 ヴィーナスは愛と美の女神とされ、冒頭にヴィーナスは海の泡から誕生したと書いたが、実際のギリシャ神話は残酷であった。全宇宙の神ウラノスと対決して勝利した息子のクロノスは、父親ウラノスの手足を切り取り去勢してそれを海に投げ捨てたのである。それが水に触れた瞬間、白い泡があふれ出しヴィーナスが誕生したのである。このことは帆立貝の下にわずかに白い泡が描かれていることも納得出来る。

 そうなると「ヴィーナスの誕生」の作品名は間違いで、ボッティチェリはヴィーナスの誕生を描いたのではなく、誕生したヴィーナスが西風に乗って、巨大なホタテ貝が水面を滑りながら、海から愛の島シテーレ島へ吹き寄せられた様子を描いたとするのが正しい。 


プリマヴェーラ(春)
1482年頃 203 cm × 314 cm
ウフィツィ美術館(フィレンツェ)

 この絵画はイタリア・ルネサンスを代表する名画で、メディチ家の家族の結婚記念として制作された。すべての登場人物が愛につながる神であり、結婚への賛美を表現している。

 木板にテンペラで描かれた板絵で、作品名プリマヴェーラを日本語に訳し「春」と呼ばれている。この作品に描かれているのはギリシャ神話の神々で、ボッティチェリはこの絵画に名前を付けていなかったが、この作品を見た画家ジョルジョ・ヴァザーリが「ラ・プリマヴェーラ 」とよんだことから作品名となった。

 この絵画の解釈は15世紀の作品の中でも最も難解とされているが、花々に囲まれた森の中央に女神ヴィーナスがが立っていることから、ここで表現しているのは「愛」であることが分かる。

 ヴィーナスの上には「盲目の愛」を示すキューピッ ドがいる。キューピッドは目隠しされているが、視線はメルクリウスに注がれ、メルクリウスがまとった薄衣の左側が半ば脱げ落ちているのは、純真な乙女の愛の目覚めを表している。

 近年の修復の結果、オリジナルの華麗な色彩がよみがえり、従来、すすに覆われてはっきりしなかった多くの草花が、ヴィーナスの立つ地面に描き込まれているのがわかった。これらの草花の数は200種類以上で、今でもトスカーナ地方に自生している。

  画面右側では、西風の神ゼフュロスが1人の乙女を捕えようとしている。なぜ西風の神ゼフュロスの肌が不気味な青なのかは不明であるが、この西風の神ゼフュ ロスは春をもたらす風で、風神たちの中でも最も優しいとされている。冬が過ぎ去った森に西風の神ゼフュロスが現れ、土の中で寝ていた妖精クロリスを呼び起 こし、求愛し、求愛を受け入れた妖精クロリスはゼフュロスの妻となり花を支配する女神フローラになる。クロリスの左に立つ花柄の衣裳を着た女神はクロリス が変身した花の女神フローラ、あるいは春の女神プリマヴェーラとされている。

 画面左端にいる赤衣の若者は伝令神メルクリウスで、手にした杖で空にかかる雲をなぎ払っている。メルクリウスは豊饒の女神プロセルピナを冥府から地上へ連れ出した神なので、ここでは冬の終わりと新たな春の到来を告げる使者として描かれている。

 彼の隣で輪舞を踊っている乙女たちは優美の三美神として知ら れる「美の女神、貞潔の女神、愛の女神」で、絵画の世界では理想の女性像を象徴している。

 画面全体から暖かく美しい「春」の香が 伝わってきくる。


メディチ家の存在

 華やかなルネサンスが開花したのは、銀行業で財を成し、政治家としても台頭したフィレンツェの権力者「メディチ家」の存在が大きい。メディチ家はフィレンツェの実権を握り、財力にものをいわせ、多くの芸術家のパトロンとなった。またフィレンツェの都市整備や美術館の建設もおこなった。作品「春」や「ヴィーナス」の誕生は、メディチ家の注文によって描かれている。

 メディチ家は、学者たちのサークルを主催し、そこには一神教であるキリスト教を主張する学者と多神教である古代ギリシャ・ローマ時代を支持する学者たちが混在していた。ボッティチェリは彼らの影響を受け、古代からの多神教の神々を作品に取り入れたのである。キリスト教からすればギリシャ神話は異教であり、裸婦像はもってのほかであったが、メディチ家がパトロンだったので、キリスト教にこだわらずに自由に描くことができた。


美しきシモネッタの肖像
1480-85年頃 テンペラ、板
丸紅コレクション蔵

 ボッティチェリがシモネッタを描いた肖像画は複数枚存在する。シモネッタは馬上槍試合の翌年、肺結核を患い23歳で亡くなっている。ボッティチェリが描く女性は、額が広く、面長で、ウェーブのかかった長い髪をしている。ボッティチェリの女性像は目鼻形が似ていて、絶世の美女とされたシモネッタの可能性が高い。シモネッタはジェノバの名家からフィレンチェに嫁いできた人妻で、メディチ家の御曹司ジュリアーノの愛人とされている。

シモネッタ・ヴェスプッチの肖像
1480年:テンペラー:57 × 42 cm:Chantilly

ピエロ・ディ・コジモ


シモネッタが亡くなってから数年後の1480年頃、クレオパトラのように首に蛇を
巻かせて運命の女性のように想像によって描いている

レオナルド・ダ・ヴィンチ
(Leonardo da Vinci) 1452年〜1519年
絵画、彫刻、建築、土木、人体、その他の科学技術に通じ、極めて広い分野に足跡を残している。「最後の晩餐」や「モナ・リザ」などの精巧な絵画は盛期ルネサンスを代表する作品になっている。膨大な手稿を残しており、その中には航空についてのアイデアも含まれていた・・・



反逆者たちの懲罰

1481-82年 348.5×570cm | フレスコ |

システィーナ礼拝堂(ヴァティカン)

 キリスト教美術の図像としては非常に珍しい旧約聖書「律法(モーセ五書)」より律法者モーセへ叛逆したコラ、ダタン、アビラムの懲罰の場面が中央と左右に三場面として描かれている。中央の場面では司祭アロンに反抗し薫香を捧げようとしたコラの従者が、モーセの放った見えない炎によって焼かれる姿が描かれ、背景には初めてキリスト教を公認した皇帝聖コンスタンティヌス帝の凱旋門が配されている。また右部にはモーセを石打せんとするダタンの一行が、左部にはモーセによって現れた大地の裂け目に落ちるアビラム等が描かれている。この律法者モーセによる父なる神への反逆者たちへの懲罰の各場面は、鮮やかな色彩と透明感による三つに分かれた古代風の都市風景に重なり、非常に美を意識させる描写がなされ、人物描写においてもボッティチェリの特徴的な古典を感じさせる。なお、ボッティチェリは本作のほかにシスティーナ礼拝堂の側壁画として「モーセの生涯の出来事」や「キリストの誘惑と癩病者の浄め」を手がけている。

聖母子(書物の聖母)
1482-83年頃 テンペラ、板 
ミラノ ポルディ・ペッツォーリ美術館蔵

そのほかの作品

 フィレンツェ共和国の政治的支配権はメディチ家によって握られていたが、15世紀末期になって、徐々にその勢力が揺らぎ始めた。ロレンツォ=デ=メディチが43歳の若さで没し、1492年、ピエロ=ディ=ロレンツォ=デ=メディチが20歳の若さで家督を継承した。
 やがてイタリア戦争が勃発し(1494-1559)、フランス軍がナポリ侵攻を行った。しかし国を仕切るはずのピエロがこの侵攻に恐れ、フランス軍を易々とナポリに入城させて、フィレンツェも占領された。これによりメディチ家は人心を失うことになる。

 しかしイタリアの混乱を予言していた人物がいた。ドミニコ修道士のジローラモ=サヴォナローラ(1452-1498)であった。サン=マルコ修道院長の肩書きを持っていたサヴォナローラは、かねてよりフィレンツェの行政や経済、ルネサンス文化について批判していた。大富豪によって仕切られたフィレンツェは、信仰心を忘れて享楽に耽った結果、不安と混乱をもたらし、イタリアは外敵に攻められたと主張した。彼はメディチ家専政体制によって政治腐敗を招いたとしたのである。またサヴォナローラは政治・経済・文化のみならず、教会までもメディチ家の支配となり、真のキリスト教の教義もどこかへ行ってしまったと嘆き、キリスト教における真の教義、そして神の至上性を信仰心の薄れた市民たちに説教した。
 サヴォナローラに人望が集まり、メディチ家に代わる新しいフィレンツェのリーダーとして支持が集まった。
 1494年、メディチ政権は崩壊、メディチ銀行は破綻、ピエロも国外追放となった(メディチ家、フィレンツェ追放。1494-1512)。これに代わり、サヴォナローラによるフィレンツェ支配となった(支配期1494-98)。サヴォナローラの政治は神権政治である。神によって守られる国を理想に掲げ、これまで享楽に耽った市民生活を禁じて厳格と質素を重んじた。その一環としてルネサンスを批判、特にメディチ家が保護した芸術品を押収し、市庁舎広場で火刑と称し、焼却処分にした。(1497,98"虚栄の焼却")。この結果、市民は生活が貧弱となり殺伐としてしまった。さらに攻撃の的は、当時のキリスト教に向けられた。真の教義を教えないローマ=カトリック教会にも異論を唱えたサヴォナローラは、ローマ教皇アレクサンデル6世(位1492-1503)との対立を生み、その結果、サヴォナローラは破門となった(1497)。こうした彼の一連の活動は、ドミニコ修道会と同じく、清貧を重んじていた托鉢修道会のフランチェスコ修道会もサヴォナローラのやり方に苦言を呈した。
 メディチ家のパトロンとして保護されてきた芸術家も影響を受けた。最も大きく影響を受けたのがボッティチェリであった。「人智の及ばないところに至上の神はいる」とするサヴォナローラの教えはすぐさまボッティチェリの画風の変化に現れた。
 サヴォナローラの圧政が遂に崩壊する時が来た。フランチェスコ修道会が「火の裁判(火の試練)」と呼ばれる、火中をくぐって主張の真偽を問う裁判を要求したのである。フランチェスコ修道会の主張は、サヴォナローラが神を知る預言者ならば、火中をくぐっても焼けないはずだというものであった。この要求をサヴォナローラは拒否したため、多くの信奉者が離反していった。サン=マルコ修道院では市民の暴動が起こり、1498年4月、サヴォナローラは逮捕され拷問を受けたあげく、裁判ではローマ教皇も参加し、判決では市庁舎前広場においての絞首刑後、火刑に処されることが決まった。5月に刑は処され、遺骨はアルノ川に投じられた(サヴォナローラ殉教。1498.5)。
 修道士サヴォナローラに傾倒したボッティチェリは、手元にあった古代古代ギリシャ・ローマ的な自分の作品をすべて焼いてしまった。その後は、神秘主義的な宗教画を描くようになるが、修道士サヴォナローラの処刑後、画業を止めるに至った。ボッティチェリは女嫌いで生涯独身を貫き、孤独失意のうちにフィレンツェで死去した。享年65。