クレムト

グスタフ・クリムト 1862-1918)

 1862年、グスタフ・クリムトはウィーン郊外のバウムガルテンで、彫金師である父エルンスト・クリムトと母アンネ・フィンスターの間に7人兄弟の2番目として産まれた(男3人、女4人)。1876年(14歳)、ウィーンの小学校を卒業すると、博物館付属工芸学校に入学し、石膏像のデッサンや古典作品の模写を中心とした教育を受けた。 

 1879年(17歳)から弟や友人らと共同でデザインや美術の請負を行うようになり、ウィーンの美術史美術館の装飾などを行い貧しい家計を助けていた。
 学校を卒業すると芸術家商会を設立し、劇場装飾を中心に多くの装飾品を手がける仕事につた。

 1886年から ウィーンのブルク劇場の装飾を引き受け、これがフランツ・ヨーゼフ皇帝の目に止まり、この功績によって28歳で金功労十字賞を得ている。さらにウィーン市からの依頼された 「旧ブルク劇場の観客席」は観劇する当時のウィーン社交界の人々を正確に描き第一回皇帝賞をうけている(下:ブルグ劇場の天井画・壁画、最後の1枚は幕である)。

 しかし、1894年にウィーン大学大講堂の天井画の制作を依頼され、このことによりクリムトの人生は大きく変わってゆく。「学部の絵」と名づけられた天井画は「哲学」「医学」「法学」の3部からなっていて、大学人間の知性の勝利をテーマに依頼してきたのである。これに反し、クリムトが描いたのは理性の優越性を否定する意図に満ちていた。クリムトの作品は性的描写など大学にそぐわない内容であったため、教授たちが望む威厳に満ちた学問とはかけ離れたものであった。そのため、天井画の是非をめぐり大論争を引き起こし、帝国議会において依頼主の文部大臣が攻撃されるまでに発展した。この論争の大きさに、クリムトは契約の破棄を求め、事前に受け取った報酬を返却した。クリムトは国家というパトロンを諦める決心をする。

 

下図は左から「哲学」「医学」「法学」の順で、大戦で消失している。


 この事件で国家や画壇にうんざりとしたクリムトは、保守的なウィーン美術家組合を嫌っていた仲間たちと、ウィーン美術家組合に対抗し「ウィーン分離派」を結成した。「分離派」とは伝統的な美術からの分離を宣言し、アカデミズム主導の芸術家組織とは分離した、新たな芸術家集団を指し、官主導のサロンから脱退したパリの画家たちに次ぐものであった。パリからその活動は各国に飛び火し、92年のミュンヘン分離派、97年にはクリムトを中心としたウィーン分離派が、さらに99年にはマックス・リーバーマンを中心としたベルリン分離派が起きる。
 「ウィーン分離派」はクリムトが初代会長となり、世紀末のウィーンにおいて新しい芸術のうねりを作り出した。方向性を先導しながら同じ意欲を持った若き画家たちに援助を惜しまなかった。多くの非難を受けて逆境に立たされながら、分離派は展覧会、出版などを通してモダンデザインの成立に大きな役割を果たした。
  1902年、クリムトは分離派によるベートーヴェン展に大作「ベートーヴェン・フリーズ」を出品したが、クリムトの敬愛するマーラーの顔に似せて描いたため反感を買った。翌年のウィーン分離派展ではクリムトの 回顧展示が行われ、この展覧会ではじめて出品されたのが、当時のクリムトが置かれた状況を映し出す「人生は戦いなり」(愛知県美術館蔵)である。
 1903年に設立されたウィーン工房にクリムトは強い関心を示したが、分離派内部からウィーン工房は美術の商業化と批判され、さらに内部対立、国からの補助金停止などが重なり、クリムトらは1905年に分離派を脱退し、翌年オーストリア芸術家連盟を結成した。
 クリムトは後にウィーン工房で上流階級の婦人たちの肖像画を多く手がけた。1910年代には作品が少なくなり、金箔などを用いる装飾的な作風から脱却していった。1918年、56歳のときウィーンで脳梗塞でで半身不随になり、その3週間後にスペイン風邪をこじらせて肺炎により死去。看取ったのはエミーリエだった。ウィーンのヒーツィンガー墓地に埋葬された。

 

愛人
  クリムトの家には、多い時には15人もの女性が寝泊りしていた。何人もの女性が裸婦モデルをつとめ、妊娠した女性もいた。生涯結婚はしなかったが、多くの モデルと愛人関係にあり、非嫡出子の存在も判明している。結婚はしなかったが、恋人として愛情を注いだのが、当時の社会では新進的な女性ブティック経営者 であったエミーリエ・フレーゲである。彼女は夭折した弟エルンストの妻の妹で、モデルの衣装をデザインしていた。毎年アッターゼー湖を訪れは親密な関係を 築いていた。クリムト最期の言葉も「エミーリエを呼んでくれ」であった。エミーリエはクリムトの死後にクリムトと交わした手紙を全て処分し、生涯独身を貫 いた。


作風
 女性の裸体、妊婦、セックスなど、赤裸々で官能的なテーマを描くクリムトの作品は、甘美で妖艶なエロスと同時に、常に死の香りが感じられた。また、 「ファム・ファタル」(宿命の女)というテーマも多用された。「接吻「に代表される、いわゆる「黄金の時代」の作品には金箔が多用され、絢爛な雰囲気を醸 し出している。エジプト美術と琳派の影響も指摘されている。

 クリムトはかなりの数の風景画も残していて、アッター湖付近の風景を好んで描いた。正四角形のカンバスを愛用し、平面的、装飾的でありながら静穏で、同時にどことなく不安感をもたらしている。


接 吻

 1907-1908年 180×180cm

ベルヴェデーレ宮殿オーストリア絵画館

 グスタフ・クリムトが残した傑作」。クリムトと恋人であったエミーリエ・フレーゲとが最も良い関係にあった頃の作品。自分と恋人をモデルに、絵画では当時タブーとされていた接吻をモチーフに描いた作品である。1908年、ウィーンで開催された総合芸術展で、検閲を逃れ発表された。この作品は大好評を博し、展示終了後にオーストリア政府に買い上げられ、国が認めた名作となった。

 いわゆる黄金時代の最も優れた作品として知られている。まばゆい黄金と宝石に彩られ、華やかにして影を併せ持つ表現は、画家としての特質を見事に表している。非現実的でありながら、極めて深い思慮と官能性に満ちている。さらに平面的に描かれる男性が纏う衣の四角の装飾と、女性の纏う衣の円形の装飾が、男女の対比を示しており、全てを委ねるように受動的で退廃的な女性像は、これまでの絵画で描かれたことがない。さらに男女が立っている色彩豊かな花の咲く崖が、今にも崩れ落ちそうである。愛の絶頂期において「愛や幸せは、疑心や不安と紙一重」であり、その先に待つ悲劇を予感させる。

アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 I
1907-08年 138×138cm | 油彩・画布・金箔・銀箔 |
個人所蔵

 本作に描かれているのは、銀行家フェルディナント・バウアーの妻であるアデーレ・ブロッホ=バウアーである。本作は自然主義的な写実表現と、金箔・銀箔を多用した豪奢で華麗な平面的装飾性を融合させている。やや頬が紅潮したアデーレの表情は、寛いでいるようにも、緊張しているようにも見え、胸の前で組まれた両手と共に複雑な感情や性格を感じさせる。一方、エジプト美術から着想した三角形の目によって装飾されるドレス、その上に羽織る流々と広がる布衣、そしてアデーレの背後の大小様々な円形で構成される文様は、画面の中で一体となり心地よいリズムを刻んでいる。この優れた装飾性こそが最も注目すべき点である。またアデーレが座る椅子の渦巻模様(唐草模様)はクリムトが好んだ異国趣味の表れで、画面下部に配された金色と対比する緑色は、色彩のアクセントとしての効果を発揮している。

 本作はかつてナチスに没収され、戦後は国家所蔵の美術品としてオーストリア美術館に所蔵されていたが、元の所有者の姪が所有権を訴え裁判で勝訴。2006年のオークションで競売にかけられた。化粧品会社エスティー・ローダー会長ロナルド・ローダーが、史上最高値となる1億3500万ドル(約160億円)で落札し、現在は同氏が所有するニューヨークのノイエ・ギャラリーで展示されている。絵の価値はお金で測ることはできないが、画家として人気の高さを示している。なおクリムトは1912年、アデーレ・ブロッホ=バウアー氏の肖像画「アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 II」を制作している。

ダナエ
1907-08年77×83cm | 油彩・画布 |
個人所蔵

 最もエロティックな作品。ダナエは神話を主題とする作品で、オウィディウスの「転生神話」に記される、アルゴス王の娘ダナエに恋をした主神ユピテルが、妻ヘラの嫉妬を逃れる為に黄金の雨に姿を変え、ダナエの下へ降り立ち、愛の契りを交わすという逸話にある。
 ほぼ正方形の画面の中へ蹲るような姿態のダナエの股間部に、まるで精子を思わせるような円と線、そして鉤状の形をした黄金の雨に姿を変えた主神ユピテルが流れ込んでおり、その情景はあたかも主神ユピテルによる愛するダナエへの愛撫を連想させる。ダナエはユピテルの激しく至福的な愛撫を受け、頬は紅潮し恍惚の表情を浮かべている。あまりの快楽ゆえなのだろうか、右手は乳房へと置かれ、己の敏感になった感覚を掻き毟るかのように爪を立てている。薄透した黒布の装飾的な文様。ダナエの姿態の大部分を占める大きな左大腿部で隠れてはいるが、ダナエの左手は性器へと向けられているようであり、古くからダナエは自慰行為をおこなっているとされている。ダナエはルネサンス期ヴェネツィア派の巨人ティツィアーノを始め、コレッジョ、レンブラントなど過去の偉大なる画家たちも描いてきた、神話の中でも最も一般的な主題で、ここまで露骨に性と快楽を表現した作品は他にない。

 

水蛇 I
1904-1907年 | ミクスト・メディア・羊皮紙 | 50×20cm
オーストリア美術館(ウィーン)

 クリムトが画業の初期から取り組んできた「水の中における官能的女性美」を象徴した作品。また同時に同性愛を示した作品として知られている。

 画面上部に、美しい黄金の頭髪を水中でたゆらせる裸体の女は恍惚の表情を浮かべ、同じ金髪の女性を胸に抱き寄せている。抱き寄せられる金髪の女性は、表情は見えないが、薄く細い女性の胸を愛撫している様であり、観る者へ否が応にも官能的な印象を抱かせる。女性の体が蛇のように見えるほど透き通っていると同時に、細部の質感や量感を描き出している。体のラインや肋骨の固さまで見るものに伝える。

 さらに両者の背後には、文様のような鱗の水蛇が女性たちの官能的な愛の世界と絡み合うように配され、画面下部には頭部が巨大な古代的な魚と黄金色の水草、加えて様式化された蛸の足などが描かれている。

 本作で注目すべきは、2人の女性の同性愛的抱擁表現と、その退廃的でエロティクな雰囲気を隠蔽する装飾性の高さである。女性2人が、水中で揺らめく細い黄金の髪、それと呼応するかのような水蛇の文様、そして同色に単純化された水草などの象徴的表現は当時のクリムトの典型を感じることができる。