ローランサン

マリー・ローランサン

(1883年〜1956年 満72歳没)
 マリー・ローランサンは20世紀前半に活動したフランスの女性画家である。

 ローランサンの母・ポーリーヌは年上の妻子ある代議士と付き合い未婚のままパリでマリーを生む。そのため私生児として育ったマリーは父親が誰かを長い間知らなかった。幼児期より読書や絵を描くのが好きで、いつしか画家になることを夢見ていた。夢見がちな少女時代を経てラマルティーヌ高校を卒業すると、アカデミー・アンベールで絵を学ぶことになる。ここでブラックと知り合い、キュビズムの影響を受ける。

 1907年にサロン・ド・アンデパンダンに初出展。このころ画家のたまり場だったモンマルトルのアトリエ兼用の古いアパート、通称「洗濯船」に多くの芸術家たちが集まっていた。この「洗濯船」でピカソや詩人アポリネールらと青春時代を送る。

 パステルカラーで少女たちを描き出す夢のような世界は、多くの人々を魅了した。パステルカラーとは「中間色」を意味し、 赤、緑、青などの原色や鮮やかな色ではなく、薄いピンクやブルーなど彩度は低いが明るい色をいう。 「淡い色調で、簡潔な形で憂いをたたえた詩的な女性像」という独自の画風を作り上げた。

 ローランサンは22歳の時、詩人のアポリネールと出会い二人は恋に落ちる。だが1911年にアポリネールがモナ・リザ盗難事件の容疑者として警察に拘留された頃には(無罪であったが)、ローランサンのアポリネールへの恋愛感情も冷めていた。その後もアポリネールはローランサンを忘れられず、その想いを歌った詩が彼の代表作「ミラボー橋」である。

 1912年に開いた最初の個展は評判となり、その後、次第にキュビスムから脱する。ローランサンが30歳になる頃にはエコール・ド・パリの新進画家として知られるようになった。

 1914年に31歳でドイツ人男爵と結婚。これによりドイツ国籍となったが、その直後に第一次世界大戦が始まり、マドリッド、バルセロナへの亡命生活を余儀なくされた。戦後、離婚すると、単身パリに戻ってからのローランサンは画風を大きく変わる。
 それまで彼女の絵にあった「憂い」は消え去り、繊細さと華やかさと官能性をあわせ持つ、夢の世界の幸せな少女像を生み出した。第二次世界大戦に向かう爛熟した平和のひととき、それはフランス史上では狂乱の時代と称されたが、その時代を体現した売れっ子画家となった。

 パリの上流婦人の間では、ローランサンに肖像画を注文することが流行となった。また舞台装置や舞台衣装のデザインでも成功を収めた。関わった作品としては、フランシス・プーランクのバレエ「牝鹿」、オペラ=コミック座の「娘たちは何を夢みる」、コメディ・フランセーズ、シャンゼリゼ劇場で上演されたローランド・プティのバレエなどが知られている。
 第二次世界大戦の際には、フランスを占領したドイツ軍によって自宅を接収されて苦労するが創作活動を続けた。戦後、世の中の美術の動きがより急進的になっていくのを見守り、静かな老いの中で自らが信じる美を描き続けた。1954年、シュザンヌ・モローを養女とする。その2年後の1956年にパリにて心臓発作にて死去。72歳であった。


マリー・ローランサン美術館
 長野県茅野市の蓼科湖畔にあるマリー・ローランサン美術館は、世界でも唯一のローランサン専門の美術館であった。館長の高野将弘が収集した個人コレクションをもとに、ローランサンの生誕100周年にあたる1983年に開館。収蔵点数は500点余りを数えたが、観光客減少のため2011年閉館した。

 

マリー・ローランサンの詩にこんなものがある。

 

退屈な女より もっと哀れなのは 悲しい女
悲しい女より もっと哀れなのは 不幸な女
不幸な女より もっと哀れなのは 病気の女
病気の女より もっと哀れなのは 捨てられた女
捨てられた女より もっと哀れなのは よるべない女
よるべない女より もっと哀れなのは 追われた女
追われた女より もっと哀れなのは 死んだ女
死んだ女より もっと哀れなのは 忘れられた女