ユトリロ

モーリス・ユトリロ(1883年〜 1955)

 ユトリロはエコール・ド・パリの 画家のなかでは珍しくフランス人であり、パリの風景を、それも身近なパリの街並みを詩情豊かに描き続けた。ありふれた街の風景を描きながら、モノトーンに近い色彩は不思議な詩情と哀愁に満ちている。特に壁に用いられた独特の白が印象的である。

 ユトリロといえばアルコール中毒でも有名で、モンマルトルで「ユトリロに会いたければ酒場へ行けばいい。いつもカウンターで飲んでいるか、泥酔して店の端や外で寝込んでいる」と言われるほどであった。

 これが世界的画家ユトリロの実体であるが、パリ郊外にはユトリロ美術館があり、モンマルトルの丘にある彼の墓には、今も献花が絶えない。ユトリロの絵画はアルコール中毒になった初期のものが評価が高く、後に「白の時代」といわれている。


 ユトリロはパリのモンマルトルで私生児として生まれる。ユトリロを語る上で、その母親シュザンヌ・ヴァラドン(1865~1938)を抜きに語るはできない。ヴァラドンは恋多き母親で、パリのサーカスに勤めていたが、空中ブランコから落下して曲芸師を辞めた後、その美貌を生かしモデルに転向、ロートレック、ルノワールなどの著名な画家に描かれるうちに、自らも絵の道へ進む事となる。
 ユトリロが生まれた時、母親ヴァラドンは16歳でモデルとして生計を立て始めていたころであった。実際にはルノワールでは「ブージヴァルのダンス」、「都会のダンス」(オルセー美術館蔵)に描かれている。さらにシャヴァンヌの「聖なる森」、ロートレックの「二日酔い」でもモデルとして描かれている。

 ロートレックやサティとも同棲していて、恋愛と仕事に忙しいヴァラドンには息子ユトリロにかまっている暇はなかった。ユトリロは身体が弱く情緒不安定であったが、ヴァラドンはユトリロを祖母のマドレーヌに任せていた。なおヴァラドンも私生児で、ヴァラドンの人生も波瀾万丈の連続であった。

 ユトリロが2歳の頃、てんかん発作を起こし、その後も後遺症が残った。ユトリロは学校に馴染めず、母親は画家として成功したため、ユトリロは私立学校に入学する。しかしユトリロが8歳の時、母親はユトリロを精神病院へ連れて行き、別の私立小学校の寄宿舎に預けさせた。その後パリの中学に入学。中学へは汽車で通学するが、このころからすでにアルコール中毒になっていた。一等の汽車の切符を二等に節約して酒代にあてていた。ユトリロは精神的問題から中学を退学している。
 母親のヴァラドンは実業家ポール・ムジスと同棲して結婚。ユトリロは外交員の職につくが4か月で退職。ユトリロはアルコール依存症によって暴力が増え、転居せざるを得なくなった。しかし引っ越した後も症状は悪化した。ユトリロのアルコール依存症は、母親の不在による孤独感や寂しさを紛らわせるためと考えやすいが、実際には祖母のマドレーヌに問題があった。祖母マドレーヌも酒に目がない飲んだくれで、一種の精神安定剤として孫のユトリロに子供の時から酒を飲ませていた。

 ユトリロは17歳でアルコール依存症の治療のため精神病院に入院することになる。ここで主治医から「真剣に打ち込めるものとして、絵を描くように」と薦められた。この医師の提案がその後のユトリロを形成することになるが、医師に絵を描くように提案させたのはもちろん母親ヴァラドンであった。

 病院を退院したユトリロは、モンマルトルで絵を描いた。しかし他の画家のように絵を研究したり、学んだりはせずに、自分の思うがままに描いていた。いわば素人の独学により画風を生み出したのであるが、初めは母の画風の影響を受け、その後ピサロの影響から印象派画風に入ったとされている。このころから絵画の才能を発揮するが、アルコールから離れることは出来ず、酒代を稼ぐために絵を描くようになった。同時期にユトリロは2歳年下の画家ユッテルと交流し、意気投合したふたりはモンマルトルの丘に絵を描きに行き、共に飲みあかした。

 母親が離婚し、ユトリロ、祖母と一緒に住むようになる。母の離婚によって収入がなくなったためユトリロは石膏採掘場で働くが、大暴れして警察沙汰になった。当時の画商ルイ・リボードはユトリロの才能を理解し、半ダース ほどの作品を購入した。1911年4月12日、ユトリロは「公道で通行人に性器を露出した」として恥辱罪で逮捕され、パリ市更正裁判所により泥酔と猥褻の罪で起訴され罰金刑を受けている。

 同年、孤独なユトリロにたった一人の友人があった。友人というよりは、弟子と呼ぶべきだが、それはセザール・ゲイという退職警官だった。ゲイは街角に小さな酒場持っていて、同時に「ベル・ガブリエル」という店を所有していた。ユトリロはそこに出入りして飲食だけではなく、店の奥で絵を描くことを許されていた。完成した絵はゲイが自分のカフェに掛け、それが好評を博し、ユトリロは芸術家として知られるようになった。

 1912年にユトリロの絵画の価値が急上昇し、経済的安定をもたらしたが、2歳年下の友人ユッテルは自分が画家になることを諦め、母親のヴァラドンと共にユトリロの絵画を売って生活しようとする。また母親ヴァラドンと21歳年下の友人ユッテルが付き合い始め、母親を信用できなくなったユトリロは再び酒に溺れるようになった。

 入院中ユトリロは、病院の「オープンドア」システムのおかげで病院を出ることが許され、多くの絵を描いた。治療は効果的で、ユトリロは1年間に600枚以上もの作品を描くようになり、独特の白色を用いてモンマルトルの家並みを描いた。この頃は、後に「白の時代」と呼ばれるが、ユトリロはこの独特の白色を生み出す為に絵の具に砂や石膏を混ぜ合わせ、さまざまな手法を工夫している。彼の作品は評論家や有名な画商は注目していなかったが、モンマルトルの人々には好評ですぐに売り切れた。
 第一次世界大戦後、ユトリロの作品価値は高騰し、母親ヴァラドンと義父になった友人ユッテルはユトリロの作品の売買を仕切り、ユトリロに作品を描かせるために部屋に閉じ込めたりもした。

 1913年には最初の個展を開いたが、1918年には酒のために心身をそこね、レピクピュスの病院へ入り、退院してモンパルナスへ戻った時、同じアル中の画家モジリアニと逢った。アル中のモジリアニはその時33才で、ユトリロは35才だった。この二人の放浪画家は大いに喜んだ。二人は作品を描いては店の客から金をもらい、それで大いに飲んだ。
 翌日彼らは安レストランの壁に絵を描き、そこで僅かな金をもらってまた飲み歩いた。金は瞬く間に使い果たし、あとは無銭飲食になって警官に追われた。その辺の地理に詳しいモジリアニはうまく逃げたが、ユトリロは追い詰められ、つかまっては留置された。ユトリロは錯乱状態で、取り調べの警官も困り果て、前に入っていた精神病院に収容されることになった。

 1910年代の前半は、傑作を量産した白の時代と呼ばれている。白の時代以前も以降も酒浸りの日々ではあるが、1919年、35歳のときの個展が大好評で、華々しい脚光を浴び、人気は高まるばかりであった。1920年代以降は色彩の時代に入り、色彩が豊かになっていく。祖母クロー婆さんが85歳で死去すると、ユトリロは昼は部屋に閉じこもり絵を描き、夜になると酒を飲んでは騒ぎを起こして入退院を繰り返した。

 ユトリロの人気は相変わらずで、1928年 レジョン・ドヌール勲章を授与され、後にパリ名誉市民となった。あの酔っ払いの乱暴者がパリ名誉市民となったのである。それだけパリ人に愛されていた。49歳のときリヨンで洗礼を受け、信仰に深くのめりこみ、教会を多く描くようになる。

 1936年、ユトリロ51歳の時、リュシー・ヴァロールという年上の裕福な未亡人と結婚した。結婚生活はユトリロを変え、酒に溺れることはなくなった。しかし「白の時代」のような作品は描けなくなっていた。1938年、母親のヴァラドンがアトリエで倒れ、病院へ搬送される途中で死去、72歳だった。
 ユトリロは母の死に大きなショックを受け、葬儀にも参列できなかったほどであった。絵を描く事よりも祈る事が多くなった。年上の妻ボーウェルが母のように彼の面倒をみてくれた。

 1948年サロン・ドートンヌで彼の回顧展が開かれた。

 1955年11月5日、療養先ダックスのホテルで突然死去、71歳。ここにユトリロの波瀾の人生は静かに幕を閉じた。

ドゥイユの教会

 パリから20キロほどのドゥイユ村にある教会。この絵は徐々に作品が売れ始めた、白の時代を代表する、最もユトリロらしい作品。

 なぜかユトリロはその生涯のなかでたくさんの教会を描いている。サクレ・クールやノートル・ダムなどの名所と言われる大聖堂も多いすが、ここのような名もない教会を描いた小品にこそ、ユトリロの最も純粋な視線を感じることができる。
 教会を描きながら、ユトリロ自身の癒しがたい渇望や安らぎを求める祈りが描きこまれていたからであう。この白く孤独な教会の姿はまさに当時のユトリロの姿を伝えているようである。「ユトリロは、自分の信仰のあかしとして教会を描いた。教会を描くことは彼にとって一種の宗教的な行であった」描くことがそのまま祈ることに他ならなかったと思われる。

コタン小路

1911年 62x46cm

パリ、国立近代美術館

 白い壁に囲まれて、まっすぐにのびる白い小路。その先には長い石段が続いている。殺風景な、それでいて人の住んでいる世界を切り取ったような静かな世界である。家々の窓は鎧戸を閉ざして寒々としているが、壁を見ているとその肌触りの中からぬくもりが伝わってくる。道に沿って街灯がひとつ、右側には人が孤独な影を落としながら立ち尽くしているように見える。階段を登るとモンマルトルに向かう黒い影が見えるが、そこに住む人はユトリロの絵に郷愁を感じるのであろう。ユトリロの絵からにじみ出るひそやかなぬくもりを感じられる。

サン=ヴァンサン墓地の墓標

パリ、モンマルトルにある

 ユトリロ、妻と共に眠る。モンマルトルは坂が多く、墓も斜めになっており、女神はパレットを持っている。

最後の3枚は、ユトリロの母ヴァラドンの作品