藤田嗣治

 エコール・ド・パリは、第1次世界大戦頃から第2次世界大戦まで、パリのモンマルトルやモンパルナスに集まって活躍した、出身国も画風もさまざまな画家たちの総称である。

 1928年にパリで開催された「エコール・ド・パリ展」が語源とされているが、印象派のようにグループ展を開いたり、キュビスムのように芸術理論を掲げているわけではない。

 エコール・ド・パリ(パリ派)といっても流派や画派ではない。モディリアーニ、シャガール、スーティン、キスリング、パスキン、フジタ(藤田嗣治)などが代表格である。人間的交流はあったが、彼らは一匹狼であった。芸術の都パリで生まれた、国際的でかつ個性的な集団であった。自由奔放な生活を目指し、しばしば悲劇的でかつ破滅的な作風をみせることがあった。日本人としてフジタ(藤田嗣治)は有名であるが、パリ派と呼ばれる日本人画家たちは400〜500人いて、芸術の都パリで切磋琢磨の日々を送っていた。


藤田嗣治(ふじたつぐはる)

レオナール・フジタ(明治19年〜昭和43年)
 日本生まれの画家。戦前よりフランスのパリで活動、猫と女の絵画を得意にしていた。日本画の技法を油彩画に取り入れ、独自の裸婦像(乳白色の肌)などを描き、西洋画壇から絶賛を浴びた。現在においても、フランスにおいて最も有名な日本人画家である。
 藤田嗣治は東京都新宿区新小川町の陸軍軍医の家に生まれた。藤田家は家老の家柄で父・藤田嗣章は陸軍軍医として台湾や朝鮮などの外地で衛生行政に携り、森鴎外の後任として最高位の陸軍軍医総監にまで昇進している。兄・嗣雄(法制学者・上智大学教授)の義父は陸軍大将児玉源太郎である。
 藤田嗣治は子供の頃から絵を描き始め、筑波大学附属小学校、附属中学校を卒業する。母を早くになくし、軍医の父は医者になることを望んでいたが、14歳の時、嗣治が画家になりたいと父に宛てに長文の手紙を書いた。「画家になりたい、好きな 事をさしてくれろ、必ず成功してみせる」と書いて画家志望であることを伝えた。それは幼少期に父と離れて生活していた嗣治にとって、軍服姿の父が「わけもなく恐ろしい」存在であったため、面と向かって自身の希望を伝えることが困難だったからである。息子からの手紙を受け取った父は、叱られることを覚悟していた 嗣治に10円札が5枚入った封筒を渡した。それは息子の志望を許可することを示すものであった。嗣治はこの父に对し、生涯にわたり感謝の念を抱いている。父の上司だった森鴎外の薦めで19歳で東京美術学校(東京芸術大学)西洋画科に入学した。
 当時の日本画壇はフランスから帰国した黒田清輝らが中心で、いわゆる印象派や光にあふれる写実主義がもてはやされ、嗣治の画風はまったく評価されなかった。表面的な技法ばかりの授業に失望し、劇、旅行、吉原通いなどをしていた。

 東京美術学校を卒業すると展覧会などに出品するが全て落選している。落選して悲憤やる方のない嗣治に対して「フランスにでも行つてゆつくり勉強して来い」と父がすすめてくれた。なおこの頃女学校の美術教師であった鴇田登美子と出会い、新宿百人町にアトリエを構えている。しかし駆け落ちまでして結婚したのに、フランス行きを決意した藤田は、妻を残して芸術の都パリへ向かい、結婚は1年余りで破綻する。
 大正2年に渡仏し、パリのモンパルナスに住んだ。当時のモンパルナス界隈は町外れの新興地で、家賃が安いことから芸術家、特に画家が多く住んでいて、藤田嗣治の隣の部屋に住んでいたモディリアーニと知り合う。またピカソ、ルソーなどとも交流する。さらにフランス社交界で「東洋の貴公子」ともてはやされた薩摩治郎八との交流が藤田の経済的支えとなった。日本では考えられないほど自由な表現と、画家の地位が認められていることを知る。
 日本で黒田清輝の絵こそが洋画だと思い込んでいた藤田にとって、パリではキュビズムやシュールレアリズム、素朴派など、新しい20世紀の絵画が登場し大きな衝撃を受ける。絵画の自由さ奔放さに魅せられた藤田は、それまでの作風を全て放棄するため、アパートに帰ると黒田清輝から与えられた絵具箱を叩き壊した。藤田嗣治は日本人の自分がパリを魅了する絵描きになると心に誓うのだった。
   1914年、パリでの生活を始めてから1年後に第一次世界大戦が始まり、灯火規制の中、ひたすら絵だけを追求する生活であった。生活は困窮したが、父の仕送りを断り、成功するまでは日本に帰らない覚悟を伝える。戦時下のパリでは絵は売れず、食事にも困り、寒さのあまりに描いた絵を燃やして暖を取ったこともあった。決死の覚悟で欧州にとどまったが、長期化する貧困生活のなかで運命が新たに展開する。

 困窮生活が2年ほど続いたが、大戦が終局に向かいだした頃、カフェで出会ったフランス人のフェルナンド・バレエと二度目の結婚をした。フェルナンドはまだ芽の出る前の藤田を喜んで支えた。初めて藤田の絵が売れた。最初の収入は、わずか7フランであったが、その後少しずつ絵は売れ始め、3ヵ月後には初めての個展を開くまでになった。
 独自のスタイルを追究するなかで、日本や東洋の絵画の支持体である紙や絹の優美な質感を、油絵で再現しようとした。藤田の絵の特徴は、筆による線描を生かし、独特の透きとおった色彩で、サロンに出すたびに黒山の人だかりができた。1918年に終戦を迎え、戦後の好景気にあわせて多くのパトロンがパリに集まり、この状況が藤田にとって追い風となった。パリへ来て8年がたった1919年にはサロン・ドートンヌに出品した6点の油絵がすべて入選し、ただちに会員に推挙された。藤田の作品はパリで大人気となり、絵も高値で売れるようになった。
 藤田嗣治は、当時のモンパルナスにおいて、成功を収めた数少ない画家となった。手製の平滑で白いキャンバスに、筆と墨で細い輪郭線を引き、繊細な陰影を施した裸婦像は「素晴らしい白い下地」「乳白色の肌」と呼ばれて絶賛された。独自の技法を確立し、日本人として初めて油彩画の本場パリで活躍する作家となった。

 もちろん藤田嗣治の才能や努力によるものであるが、19世紀後半以来ジャポニスムを濃厚に経験したこの街の恩恵を受けていた。おかっぱ頭に丸眼鏡、ちょび髭、時にピアスで姿でパリ画壇に挑んだことは、日本人という枠を 超えた、20世紀的な新たな美術家の誕生を感じさせた。

 当時は珍しかった熱い湯のでるバスタブを部屋に据え付けていた。多くのモデルが彼の部屋にやってきた。その中にはマン・レイの愛人であったキキも含まれていた。彼女は藤田の為にヌードとなったが、その中でも「寝室の裸婦キキ」と題される作品はセンセーションを巻き起こし、8000フラン以上で買いとられた。そのころの藤田はフランスでは知らぬものはいないほど有名な画家になっていた。独特の頽廃と狂乱で満ちたパリで藤田は大歓迎を受け、エコール・ド・パリを代表する画家となった。独特の風貌、東洋のエキゾシズムを湛えた繊細な作品は、実に高い評価を得た。

 トレードマークのおかっぱ頭は、散髪のための金もなく自分で切り揃えていた時代の努力を忘れないようにと、成功してからのちもずっと変えることはなかった。 芸術家たるものかく在るべしと考えていた。藤田はそのFoujitaという名から「FouFou(フランス語でお調子者)」と呼ばれ、数々の奇行で知られていた。実際は酒は飲めず、出かける時は必ず絵を描いてから出かけるようにしていた。その切り替えが可能だったのは、絵のためならどんな努力も惜しまぬという強く純粋な意志と、早筆の業を持っていたからである。逆にその鮮やかな切り替えの早さが、彼の能力を嫉妬半ばに快く思わない同業者や日本美術界での、”単なるアルチザン(技術者)”という評価を後押したのである。大正14年にはフランスからレジオン・ドヌール勲章、ベルギーからレオポルド勲章を贈られている。
 2人目の妻、フェルナンドとは不倫関係の末に離婚。藤田自身が「お雪」と名づけたフランス人女性リュシー・バドゥと結婚した。リュシーは教養のある美しい女性だったが酒癖が悪く、藤田公認で詩人のデスノスと愛人関係にありその後離婚する。

 昭和6年に4番目の妻マドレーヌを連れて個展開催のためアメリカへに向かった。個展は大きな賞賛で迎えられ、アルゼンチンのブエノスアイレスでは6万人が個展に訪れ、1万人がサインをもらうために列をなした。まもなくマドレーヌはコカイン中毒で急死する。
 その2年後に凱旋帰国展のため16年ぶりに一時帰国。昭和8年以降は日本を活動の拠点とし、昭和10年に25才年下の君代と出会い、一目惚れをして翌年5度目の結婚をする。この君代とは終生連れ添うことになる。日中戦争がはじまると、昭和13年には小磯良平らとともに従軍画家として中国に渡り戦争画を嘱託される。しかし数枚の絵を描いたのち、1年後に突然パリ行きを決意する。戦下の日本を離れ絵を描くことに集中したかったのだが、パリでも第二次世界大戦の戦火に追われ、ドイツに占領される直前パリを離れ再度日本に帰国した。
 日本では陸軍美術協会理事長になり、戦争画の製作を手がけ、「アッツ島玉砕」などの作品を描いた。今まで冷たかった日本画壇で、初めて公に認められた作品であった。画業で世界に通じる日本人になりたいと願っていたが、画家としての成果を祖国にみとめられたのだった。藤田は祖国への貢献を願い大画面の戦争画の制作に没頭する。
 しかし戦争を鼓舞したとの理由から、戦後は画壇から戦争協力者として批判を浴び、さらにGHQからも追われる事となり、GHQに協力したと右翼から非難され、千葉県内の味噌醸造業者に匿われていた。「国賊」「美術界の面汚し」とまで言われ、嫌気が差し日本を去った。傷心の藤田嗣治がフランスに戻った時には、多くの親友の画家たちはこの世を去り、マスコミも「亡霊」と呼んだが、再会を果たしたピカソとの交友は晩年まで続いた。
 日本には戻らないと決めた藤田は、昭和30年にフランス国籍を取得。昭和32年にフランス政府からはレジオン・ドヌール勲章シュバリエ章を贈られ、昭和34年、72歳の時にはカトリックの洗礼を受けてレオナール・フジタとなった。その後の絵画では動物をモチーフにした寓意画や独特の子供の絵が多い。
 最晩年には、フランスに感謝を示したいと礼拝堂「シャぺル・ノートル=ダム・ド・ラ・ペ(通称シャペル・フジタ)」を建設した。完成から2年後の昭和43年にスイスのチューリヒで膀胱癌のため81歳で死去し、遺体はパリの郊外に葬られた。その2ヵ月後、日本政府から勲一等瑞宝章を没後追贈された。最後を見取った君代夫人は藤田の旧蔵品を守り、パリ郊外の旧宅をメゾン・アトリエ・フジタとして開館した。君子夫人は「正しく評価しない以上、忘れて欲しい」と作品の日本公開を強く拒み続けていたが、君代夫人は平成19年に東京国立近代美術館に藤田の旧蔵書約900点を寄贈しその蔵書目録が公開された。戦争画を保管していた東京国立近代美術館を皮切りに、藤田嗣治展が各地で開催されるに至った。君代夫人が所有した藤田作品の大半はポーラ美術館とランス美術館に収蔵されている。
 君代夫人の遺骨は藤田嗣治が造営に関わったランスのフジタ礼拝堂に埋葬された。

エピソード
  戦時中、藤田嗣治は陸軍報道部から戦争記録画(戦争画)を描くように命じられ、そのため描いた絵は100号や200号の大作で、戦場の残酷さ、凄惨、混乱を細部まで濃密に描いており、一般に求められた戦争画の枠には当てはまらない。藤田は鬼気迫る絵を描くためラファエロら西洋絵画の臨場感あふれる戦争画を参考にした。
 戦後スケープゴートに近い形で戦争協力の烙印を押された藤田は、渡仏の許可を得ると「日本画壇は早く国際水準に到達してほしい」との言葉を残してパリへ向かい生涯日本に戻らなかった。藤田は「私が日本を捨てたのではない。日本に捨てられたのだ」と語った。その後も、国のために戦う一兵卒と同じ心境で描いたのに、なぜ非難されなければならないか」と嘆いていた。藤田は存命中に日本社会から認められる事はなかった。死後、日本でも藤田の評価が高まり、展覧会が開かれるようになった。

  藤田嗣治の絵の特徴である「乳白色の肌」の秘密について本人は一切語らなかったが、絵画が修復された際にその実態が明らかになった。藤田は貝殻から得られる粉末、あるいはベビーパウダーを下地に用い、その上に炭酸カルシウムと鉛白を1:3の割合で混ぜて絵具を塗っていた。炭酸カルシウムは油と混ざるとわずかに黄色を帯びる。さらに絵画からはタルク(滑石)が検出され、それは和光堂のシッカロールだったことが発表された。この2つが藤田の絵の秘密だった。

 藤田嗣治の作品は東京のブリヂストン美術館、国立西洋美術館、赤坂迎賓館や箱根のポーラ美術館、秋田市の平野政吉美術館で見ることができる。 また藤田嗣治は多くのエッセイを書き残している。藤田の芸術に対する考え方、人生に対する取り組み方が興味深い。


 小さな職人たち
 1958年秋から翌年の春にかけて、フジタはおもにパリを舞台にさまざまな仕事に従事する子どもたちの姿を描いた。連作「小さな職人たち」に登場する子どもたちは、それぞれの仕事に真剣に取り組んでいるものの、そのしぐさにはどことなくユーモアがある。小さな職人たちのモティーフは、仕立て屋やガラス職人、椅子職人のような手先の技術によって物を製作する職人たちで、そのほかにはパリの路上の辻音楽師や焼き栗売り、監視員や煙突掃除夫などである。各作品は正方形の世界に表されている。絵にはフジタの空想が重ね合わされており子どもを描いた作品のなか でも異彩を放っている。

 小さな職人たちは、当初はアトリエの木製扉を装飾するために描かれたが、フジタはアトリエの壁一面にこれらを飾り、絵に囲まれていることを喜びとした。作品は200枚にのぼる。これらの小作品をタイル状にはり、作家はアルティスト(芸術家)であるよりも前に、腕利きの職人でなければならないと語っていた。本連作には、フジタの職人に対する敬意とパリという街への特別な思いが凝縮されている。

                       聖 母 子

1959年油彩、カンヴァス81.5x54.2.3cm

  ノートルダム大聖堂 ランス

建設中の木造建築の構造を思わせる木枠を背 にたたずみ、優しく穏やかな幸福感をたたえた聖母子と、彼らを祝福する4人の天使たちを描いた作品。 周囲の金地に施された丸い装飾は、藤田の宗教的な 作品においてしばしば見受けられる。本作を藤田は、洗礼を受けた1959年10月14日にランスの大聖堂に贈呈した。レオナ一ル・フジ夕という洗 礼名を画面に初めて記した記念すべき作品である。

      イ ヴ

1959年油彩、カンヴァス61.5x38.3cm

   ウッドワン美術館

 旧約聖書に登場するイヴをテーマとした作品。さまざまな野生の動物 たちが生息する広大なエデンの園を背景 に、林檎を手にしてたたずむ裸のイヴの姿が 描かれている。可憐な花を摘んで編んだ髪 飾りをつけ、純粋無垢な面持ちをみせる彼 女の頭上には、禁断の果実を食べるよう にそそのかす大きな蛇が忍び寄っている。洗礼の年に描いた理想の楽圍。


 藤田嗣治が建てた礼拝堂「シャぺル・ノートル=ダム・ド・ラ・ペ(通称シャペル・フジタ)」。礼拝室には聖母の像をはじめ多くのフレスコ画がフジタによって描かれている。

 藤田嗣治が1968年(昭和43)に81歳でこの世を去ってから、まもなく50年を迎えようとしていて、生前の藤田嗣治を直接知る人がほぽこの世から去っている。その最期を看取った年少の君代夫人が2009年に100歳を目前に亡くなり、彼女が最期まで手元に残していた夫の遺品や作品、 蔵書、日記などを美術館や大学に贈答している。

 礼拝堂内部の右側、「最後の晩餐」の場面 が描かれた半円形ドー 厶の下に、藤田は安ら かに眠っている。また妻の君代夫人もまた、同じ墓標のもとに埋葬されている。