抽象表現主義とは


 マティスの上下逆展示事件

フランスの画家アンリ・マティス(1869年~1954年)は「色彩の魔術師」と言われる20世紀を代表する巨匠である。そのマティスの作品「舟」が、 1961年にニューヨーク近代美術館で47日間も上下逆に展示され、11万6000人もの観客が鑑賞しているのに誰も気づかず、また専門の学芸員もいるのに、最終日の前日の夕方になって、ある観客がパンフレットと違うことに気づいたのであった。正しい向きに展示されたのは最終日だけだった。

 この絵は「切り絵」で、マティスは色を塗った紙をハサミで切り貼りすることで舟を表現したのだった。

左に正しい向きの「舟」の絵を示す。

モネの上下逆展示事件

 同様にパリのマルモッタン美術館に飾ってあったモネの「睡蓮」が上下逆さだったことがある。昭和46年に西澤潤一氏(元東北大学総長でノーベル賞物理学賞候補者)が逆であると指摘したのである。睡蓮の葉が実在するとすると、それに隠れている草の葉や雲は水面に反射したものになる。すると草の葉が正立しているのはおかしい。つまり逆さ富士のように水面に映る像は逆になるはずであった。どうも絵が逆のようだった。しかし専門家が気づかないはずはないと考え、翌年ふたたび行くと同じままだった。そこで名刺にその旨を書き、守衛に渡して帰った。この話はすぐに「ル・モンド」が取り上げ話題になった。さすがノーベル賞物理学賞候補者である。見る目も一流であった。

 マティスの「舟」の絵は具体的に「舟」が対象物なので、上下逆は明らかな間違いである。またモネの「睡蓮」はパンフレットを見なくてもわかる単純ミスである。

 

 抽象表現主義とは

 しかし具体的対象物のない「抽象表現主義の絵画」の場合はどうなるのだろうか。抽象表現主義の絵画は、文字通り具体的な何かを描かずに、色と形が現実から離れ、自由に表現されているのだから、絵画の上下を本人が指摘してもしなくても、どれだけの意味があるのであろうか。

 次のような逸話がある。ある有名な抽象表現主義の画家が自宅に帰っみると、これまでに見たこともない素晴らしい絵がかけられていた。その画家はその絵に魅了され、誰の絵だろうと思っていたら、画家の妻が本人が書いた絵を上下逆にかけてしまったというのである。これは笑い話ではなく、実話であるが、このように抽象表現主義の絵画はむずかしい。いや難しいのではなく簡単に言えば、絵画の上下を逆にしても美しいのが抽象表現主義と定義できる。この上下逆でもよい抽象表現主義をバカにできない。具体的でないので、模様としてどこにでも気軽に飾れる魅力がある。また服などの日用品にデザインされたものが巷に溢れているからである。これまでの絵画は画家が完成された作品で、見る人の創造性が立ち入る余地はなかった。しかし抽象表現主義は画家と見る人によって創造される絵画なのである。