表現主義(クレー)

パウル・クレー(1879年〜1940年)61歳没。
 クレーはスイスの首都ベルン近郊のミュンヘンブーフゼーという小さな街で生まれる。ドイツ人の父親は音楽養成学校の教師だったので、クレーは教職員宿舎で生まれた。母も声楽家で、同じ音楽学校の出身であった。このことから家庭ではいつも音楽を楽しむ環境にあった。

 出生の翌年ベルンに移住し、小学校入学と同時にベルンでヴァイオリンを習い、11歳でベルンのオーケストラの非常勤団員となるほどの腕であった。クレーの作品の画題にはポリフォニーやフーガといった音楽用語が用いられているものがあるが、これは音楽の影響である。

 また3歳頃から祖母の手ほどきを受け絵を親しむようになる。このように幼少の頃から絵画や音楽、さらには文学への関心も芽生えていた。詩人なることを夢見てギリシャ神話から近代まで万巻の書を精読していた。このように才能に恵まれていたが、迷った末に絵に専念することを決意する。それでも音楽や文学への関心が薄れたわけではなく、一日に何時間もヴァイオリンを演奏したり、また詩を作って日記に書いたりもしてい た。18歳の頃から書き始めた日記は日々の出来事や詩だけではなく、クレーの絵画および芸術に対する考えや方向性を書いている。

 音楽のリズムとメロディー、詩のようなイメージをどのように絵に組み込ませるのか、クレーは絵画、音楽、文学という異なった芸術を融合させ、また家庭ではよきパパでもあった。クレーは物静かで、勤勉で、いつも音楽を口ずさんでいた。

下図右、クレー10歳時の作品「夏の風景」。下図左16歳時の作品「無題(山羊、牛)」いずれも紙に描いた水彩画で、すでに画家になる素質をはっきりと示している。

 画家を目指したクレーは、1898年(18歳)、ミュンヘンに行き美術学校に入学した。当時のミュンヘンはパリと並ぶ芸術の都で、カンディンスキーの恩師の指導を受けるが、画一的な教育があわずに退学。同年から翌年にかけてイタリアを旅行してルネサンスやバロックの絵画や建築を見て多くを学んだ。

 クレーはミュンヘンの画塾で3歳年上のピアニストのリリー・シュトゥンプフと音楽の共演で知り合い、 1906年(26歳)、リリーと結婚する。ミュンヘンで新婚生活をおくり、翌年には息子フェリックスが誕生する。無名だったクレーには収入はなく、リリーがピアノ教師 として家計を支え、クレーは育児や家事に携わることになった。クレーは母親のように赤ん坊に寄り添い、室内から出ることはなかった。クレーに仕事部屋はなく、キッチンが唯一のアトリエだった。クレーは高校卒業から20年間日記を書いているが、息子フェリックスの詳細な育児日記を書き残している。

 また偶然にも生涯のともとなるカンディンスキーが隣家に住んでいて知り合うことになる。そして彼らが立ち上げた「青騎士」展に参加し、翌年の第2 回展に出展するが、クレーの作風は表現主義、超現実主義のいずれにも属さない独特のものであった。この頃から、光と色彩の探求が始まり、輪郭のみの単純化と自由な線の動きを追求するようになる。

 クレーにとって画家の転機となったのは、 1914年春から夏にかけての北アフリカ(チェニジア)への旅行であった。この旅行でクレーは鮮やかな色彩感覚に目覚め、作風は一変し抽象絵画に踏み込んでゆく。「色彩は、私を永遠に捉えた」という言葉が、チュニジアでの体験を端的に示す言葉として日記に残されている。クレーの画集等で紹介されている色彩豊かな作品は、ほとんどがこの旅行以後のものである。

  1916年(36歳)、第一次世界大戦が勃発するとクレーはドイツ兵として従軍する。多くの芸術家も兵士として動員され、クレーの知人であるマルクやマッケらは戦死した。特に親友マルクの死はクレーにとって大きな衝撃を与えた。クレー自身もドイツ兵として従軍したが、クレーが画家として次第に認められるのもこの頃からであ る。この時期のクレーは絵に文字を取り込む実験を行いながら、具象とも抽象ともつかない、あるいはその両面を兼ねた絵を手がけていた。その後のクレーの作品の多くに見られる、「抽象的でありながら、明らかに何らかの物を表しているも」もあれば、「より純化して特定の物とは対応していないもの」も常に意識し て描かれようになった。
  1920年(40歳)、現代美術の画家として知られるようになりミュンヘンで大回顧会が行われ、造形学校バウハウスで教鞭をとる。10年後にはニューヨークやパリで個展が開かれ、第1回シュルレアリスム展に参加する。51歳にはデュッセルドルフ美術学校の教授になるが、ナチスのヒトラー は前衛芸術を弾圧し始め、1933年(53歳)公職を追われたクレーはスイスのベルンに亡命する。ドイツにあった銀行預金は凍結され経済的に貧窮した。さらに数年後、 皮膚硬化症という難病を発症し、療養と闘病のなかで制作活動を行うことになる。皮膚硬化症のため手がうまく動かず、単純化された線による造形が主なものとなる。1940年、ロカルノ近郊ムラルトの療養所に移り、その地で死去した。

 「芸術は見えないものを見えるようにする」と主張していたクレーの作品は、キャンヴァスに油彩で描いたものは少なく、新聞紙、厚紙、布、ガーゼなどに油彩、水彩、テンペラ、糊絵具を用いて描いている。

 日本では宮城県立美術館に35点のコレクションがある。2005年には故郷ベルンが約4000点の作品を収蔵し、彼の偉業を集大成した「ツェントルム・パウル・クレー」がオープンした。クレーの絵には子育てを通しての無垢な眼差しと、病魔に襲われた透明な悲しみがある。


セネキオ(野菊)

 1922年 40.5 x 38 cm 油絵 キャンパス 

バーゼル市立美術館


 植物を好んだクレーが、セネオの花と人物の顔を重ね合わせた植物の擬人化の作品である。「セネシオ」はラテン語で野生の菊を示す言葉で、クレーが「子供が描いた花の顔」と言った表現がぴったりの作品である。クレーは「子供の絵は脳髄からしぼり出されたものでないので、自分より優れている」と、子供の描く絵を高く評価しているが、逆に言えば、クレーは子供の絵のような、簡潔な表現をとらえることのできる画家である。

 まるい顔をセネキオの丸い花に、少しずらした眼を花びらに、瞳をサイネリアの種に模している。単純な直線と曲線で人間の表情を表現しているが、幾何学的であっても決して冷たい印象はなく、その眉や眼や口元は、少し顔をしかめたようなユーモラスな表情である。生き生きとして明るく、見る者を思わず微笑ませてくれる。

 セネキオの花は鮮やかなオレンジ色で、時間が経つと真っ赤に変わる。クレーは下地に赤を塗り、その上からオレンジを塗っている。「見えるもをそのまま描くのはカメラのすること。私は描こうとするものの心をとらえたい」とクレーはいっている。

 この顔は、子供とも老人ともいわれていて、死の予感の中で、咲き誇る花に宿り、次の生命を見ているようである。クレーの無垢な眼差しが感じられる色彩輝く美しい作品である。

ハルナッソスへ

 1932年 100 x 126 cm 油絵 麻布 

ベルン美術館

 エジプトの砂漠にそびえ立つピラミッドを描いたように見えるが、パルナッソスは現存するギリシャの山で「アポロと学芸の女神たちが住んでいたと伝えられるギリシャ中部の山の名」で、ピラミッドを描いたのではない。クレーはギリシャを訪れたことはないい

ので音楽と詩の聖地とされている、パルナッソスをいかにもクレー好みに描いている。

 大胆な三角形はこの山を表し、赤い円は太陽、下のアーチの形は神殿の門である。クレーはポリフォニー(多重音楽)や対位法(異なる旋律を組み合わせる技法)という音楽のアイディアを絵画で表現しようと試みている。

 点描写で描かれているが、スラーの点描写とは違い、イタリアのモザイクに近い。小さな矩形はそれぞれブルーやオレンジやイエローに色分けされ水平にリズムを刻んでいる。さらに下塗りの部分はより大きな矩形に色分けされ、それぞれが微妙に調和し、互いに美しい共鳴音を奏でているようである。整然としているのに暖かく、抽象画でありながら心が調和するクレーならではの視覚のハーモニーの世界である。

幻想オペラ劇「航海者」の戦いの場面
1923 39x29cm    

パリ、ハインツ・ベルグリューエン蔵

金色の魚

1925 油彩 水彩/ 厚紙 紙 50 x 69 cm

ドイツ ハンブルク美術館

 クレーの作品には鳥や蛇などと並んで魚がしばしば登場する。少年のころナポリの水族館で魚の美しさにうたれ、それ以来、魚は重要なモチーフになっている。またクレーの青年時代は釣りが趣味であった。

 この作品では魚に「発色」を持たせ、黄色い魚を発光体に見立て、深海の王国での独裁者のように描いている。圧倒的な風格で他を圧し超然としている。輝きは熱を感じさせず、光源でもなく自らの内なる光によって輝く高貴な存在を表す。この神秘的な美しさは、高貴であっても永遠の孤独を示しているようにも感じられる。また金色の魚の胴体には古代ルーン文字が描かれ、謎めいた感じを醸し出している。

 クレーの芸術の中で重要なのはキリスト教的宗教性である。この作品の金の鱗を持つ魚もイエス風格をそのまま神秘的に輝せているようでもある。自然の中に神を見て、敬虔な態度で自然と向き合ったクレーの心の象徴なのであろう。この作品「金色の魚」は、幾何学模様は無く、自由に気ままに描いているようで、分かりやすく楽しい作品になっている。

蛾の踊り
1923年 51.5 x 32.5cm
愛知県美術館

 

 

 

 

「地」にあたる部分がフリーハンドの格子状になっていて、外側から上下の二つの中央に向けて紺色から黄色へと色彩が段階的に変化している。

 そこに反りかえった胸を矢で撃たれながらも、どこか恍惚したような蛾の擬人化された姿が「油彩転写素描」技法で描かれている。クレーが生み出したこの技法は、油絵具を塗った転写用の紙を裏返して、裏側から、原画となる素描の描線を尖筆で強く押しなぞり、手の圧力によって転写される描線である。線描は軽やかな感覚と静止感を与え、線描の周囲の表現はぶれを感じさせ、空気の揺れや時間のずれを感じさせる。蛾の上昇感とバランスをとるように線は下向きの矢印へと変化し、たわんだ格子の表現でリズムに変化を与えている。こうしてクレーは、一見詩情的に見える一枚の絵に、運動と静止に関わる抽象的思考を共存させている。


死と火

パウル・クレー財団(ベルン美術館)蔵

 この絵はクレーの死の年の作品である。硬皮症のため次第に衰弱するまま創作意欲はあふれていた。次第に衰弱死を意識しながら描いた。
 こちらを嘲笑している灰色の顔はドイツ語で死を意味する「Tod」の文字がみえる。その手には黄色の球体が持ち、死神によって運び去られようとする魂を暗示している。
 クレーの日記のには「何かが私の中で叫んだ。私は応えようとしたが、叫ぶことができなかった。私は涙にぬれながら胸の奥底から声を上げようとした」。クレーの絶望が伝わってくる。しかし息子のフェリックスには「死は少しもいとわしいことではない。ぼくはずっと以前に死と折り合いをつけている。もしぼくがこのうえ二、三のよい仕事を創り上げたならば、ぼくは喜んで死んでゆきたい」。死の直前、ピカソは「現代最高の画家」と讃えたクレーはあふれる才能を抱えたままドイツ人のままスイスで生涯を閉じた。

インスラ・ドゥルカマーラ(眠り草の島)

1938年 油彩、新聞紙、ジュート麻布貼り 80x175cm 

ベルン、クレー財団

 1938年、クレーはこの作品以外に6点の横長の大作を描いていて、その総てが新聞紙をジュード麻布に糊で貼り付け、繊細で滑らかな下地に描いている。作品によっては新聞の活字や広告が透けて見えるのがあるが、この画像でははっきりはしていないが、それを探して見るのも楽しいかもしれない。

 この作品には記号の様な物が沢山あるが、それぞれ意味がり、上の左の半円が日の出、右が日の入り、地平線の辺りには汽船があり、その下の長い黒い輪郭線が海岸。中央の真っ直ぐ伸びた首は偶像、その他の曲がりくねった線は悲劇的な誘いの罠を暗示している。

画面の色彩は春を表わしていて、緑は若葉、薔薇色は花、青が空だそうです。美しく、楽しい作品であるが、なぞ解きのようにこの記号を読み解くのも作品鑑賞の楽しみ方である。