岸壁の母

岸壁の母とは、第二次世界大戦後、ソ連による抑留から解放され、引揚船で帰ってくる息子の帰りを待つ母親を取り上げた呼称。その一人である「端野いせ」をモデルとして流行した楽曲、映画作品のタイトルである。昭和29年9月、菊池章子のレコード「岸壁の母」が100万枚以上の大流行となった。作詞した藤田まさとは端野いせのインタビューを聞いて、母親の愛の執念への感動と、戦争への憤りを感じてすぐにペンを取り、詞を書き上げた。歌詞を読んだ平川浪竜は、これが単なるお涙頂戴式の母ものでないと確信し、徹夜で作曲、翌日持参した。さっそく重役・藤田まさとに聴いてもらった。3人は感動で涙していたのであった。そして、早速レコード作りへ動き出した。歌手には専属の菊池章子が選ばれた。レコーディングが始まると、演奏が始まると菊池は泣き出した。何度しても同じであった。放送や舞台で披露する際も涙が止まらなかった。菊池曰く「事前に発表される復員名簿に名前がなくても、「もしやもしやにひかされて」という歌詞通り、生死不明のわが子を生きて帰ってくると信じて、東京から遠く舞鶴まで通い続けた母の悲劇を想ったら、涙がこぼれますよ」と語っている。昭和29年9月、発売と同時に、その感動は日本中を感動の渦に巻き込んだ。菊池は端野いせの住所を探し出してもらい、「私のレコードを差し上げたい」と手紙を送った。しかし、端野の返事は「もらっても、家にはそれをかけるプレーヤーもないので、息子の新二が帰ってきたら買うからそれまで預かって欲しい」というものであった。菊池はみずから小型プレーを購入し端野に寄贈した。