教科書には載らない名作

 日本で使われている高校の国語の教科書に載っている小説を調べてみると、以下のようになる。

1位 芥川龍之介   1作品23冊 「羅生門」
2位 太宰治   2作品12冊 「富嶽百景」「走れメロス」
2位 志賀直哉  4作品12冊 「城の崎にて」「清兵衛と瓢箪」「出来事」
4位 村上春樹  4作品10冊 「鏡」「青が消える」「とんがり焼の盛衰」
5位 夏目漱石   1作品 9冊  「夢十夜」

 さらに、中島敦の山月記、宮沢賢治などが続く。

 教科書に載る小説は、差別用語があってはいけない、道徳的で誰からも批判されない、感想文が書きやすい、試験問題が作りやすく入試問題に使われそうなもの、短編であることなどの制約がある。さらに「次の四つから正しい答えを選べ」このような出題を思い起こせば、国語そのものが拘束されて、事実、国語の授業はつまらなかった。

 しかし文学を言語表現による芸術、小説を人生を捉えた芸術とした場合、教科書に載らない名作が数多くあることに気づく。解答がないのが人生であるように、小説に解答を求めること自体間違っている。人間心理や人間模様をじわじわと放つ作品、人生の機微を示す名作、何度も読んでみたいと思う小説。私たちはこれらを次世代に引き継ぐ義務がある。

 義務教育で教えないなら、私たちが次世代に教えなければいけない。簡単なことである。誕生日か、何かの記念日に本を買って、何も言わずに渡せば良いのである。押し付けてはいけない。多感な子供たちが、あるいは鈍感な子供たちが、それを読むかどうかは子供たちの勝手に任せることである。


春琴抄(谷崎潤一郎)

  明治のはじめの大阪道修町。軒をならべてにぎわう薬種問屋の中の一軒、鵙屋の次女お琴は九つの春に病がもとで失明。そのため、それまでの舞踊を断念したが、美しいお琴には三味線の才能が残されていた。奉公人の佐助はそのような琴の身のまわりの世話をまかされていた。佐助は幼い頃から琴に付添い、琴が師匠のもとに通う際の手引きを勤める。またお琴の教えるままに佐助は三味線の稽古をするようになった。そんなある日、突然激しい地震が鵙屋をおそった。必死にお琴を救った佐助とお琴の間に愛が芽ばえたのか、他人には知ることのできない不思議な生活が生まれた。
 やがて奇妙な事件が持ち上がった。お琴が佐助と瓜二つの子を産んだのだった。激しくつめよる主人に佐助はかたくなに答える。「わて、何も知りまへん」。お琴もまた血相を変えて母にくってかかった。「佐助は奉公人でっせ、わての弟子でっせ」。結局、この子は父親の知れぬまま、里子に出された。
 そのお琴に大きな不幸がおとずれた。父・安左衛門の死と師匠・春松検校の死だった。お琴は、師匠に生前から許されていた春琴の名をかかげ、佐助ともども新居に移った。そんな時、お琴をめあてに、美濃屋利太郎が、かよってくるようになった。利太郎はお琴にむりやり、自分の別荘で琴の独演会を開くことを承知させ、当日、別室でいきなりお琴を抱きすくめるのであった。騒ぎを聞きつけて佐助がかけつけた時、利太郎は眉間から血を流して倒れていた。
 ある夜、お琴の身に思いがけない惨事が起きた。逆うらみをした利太郎が賊を差し向け、お琴の顔に熱湯をあびせたのだった。佐肋が飛び起きた時にはすでにおそかった。お琴はうつぶせで苦悶しながらも絶叫する。「見たらあかん、わての顔みたらあかん」。月日が流れ、明日は包帯がとれるという日に、お琴は佐助に涙ながらにうったえた。「お前だけには、この顔を見せとうない」。春琴に仕える佐助は意を決すると部屋にもどり、針を持って、鏡の前で、左、右と激痛にたえながらおのれの両目を突きさすのだった。佐助は春琴の美貌を永遠に心に留めたいがために自らの眼を針で貫く。「白眼のところはかたくて針が入らない」「黒眼は柔らかい二度三度突くと巧い具合にずぶと二分ほど這入った・・・」。
 気配を感じたお琴が佐助の所にきた。「佐助、どないしたんや」「わて、針で目を突きました!」。絶句するお琴。佐助は自分の目をつぶし、佐助の心にしみついたお琴の美しい姿をだいじにするのだった。そして涙にぬれたほほをよせて、二人はかたく抱きあった。


 官能美をテーマにした短編小説であるが、官能とはアダルトの意味の「性」ではなく、精神的な「愛」を意味している。また現在の小説では一般化している性描写が一切ないまま、読み手に究極の愛のかたちを伝える究極の傑作である。日本語の極致とも云うべき流麗なる美文で、句点のない不思議な文章にもかかわらず、春水の流れの如く読ませてくれる。ストーリーを知っていても読む価値は十分にある。まさに芸術的である。

 春琴抄は5度映画化され、山口百恵と三浦友和が演じた作品がDVD化されている。

 

刺青
 江戸時代のことである。当時の人たちは刺青(イレズミ)を肌に彫り、刺青の美しさを比べ合っていた。江戸の深川に浮世絵の刺青師清吉がいた。天才刺青師と呼ばれていた清吉の願いは「美しい女の肌に、己の魂を彫りこむこと」であった。ある夏の夕方、駕籠の簾からこぼれ出た、まっ白な足の女に魅せられた。それこそ清吉が求めていた女と確信するが、駕籠はいず方ともなく去ってしまう。翌年の春、姉芸者の使いで偶然清吉の家を娘が訪ねてきた。顔を見るのは始めてであるが、足を見てあのときの娘と分かった。清吉が長年求めていた女だった。

 清吉は巻物を取りだし娘に見せた。その絵は、「暴君として名を残した、古代中国・殷の皇帝の寵妃が大杯を傾けながら、これから処刑されようとしているうなだれた男を眺めている」ものだった。そして男は、絵を見つめる娘の顔がだんだんと妃の顔に似てくるのを見てとった。「この絵にはお前の心が映って居るぞ」男はうろたえる娘の前に、さらにもう一巻の絵を見せまる。「肥料」と名づけられた作品は、男たちの屍が累々と描かれており、それを喜びにあふれた表情で女が見つめている絵だった。「これはお前の未来を絵に現したのだ」娘は唇をわななかせ、「親方、白状します。私はお前さんのお察しの通り、その絵の女のような性分を持って居ます」清吉は娘に麻酔薬をかがせ、その背中に女郎蜘蛛の彫り物を仕上げた。眠りから醒めた娘は、清吉に向かって「親方、私はもう今迄のような臆病な心を、さらりと捨ててしまいました。お前さんは私の「肥料」になったんだねえ」と告げた。娘は刺青によって、本性を掘り起こされ男を肥やしにする妖婦になっていたのだ。

 帰る前にもう一度刺青を見せてくれ、と頼む清吉の願いに応えて肌を脱いだ娘の背中には、折からの朝日を受けて刺青が燦爛と輝いていた。

 

谷崎 潤一郎

 1886〜1965年、東京生まれ。東京帝国大学国文科を月謝滞納にて中退。24歳時に発表した刺青で文壇に登場した。耽美派作家、悪魔派作家として出発するが、後に古典的日本美に傾倒して行く。明治末期から第二次世界大戦後の昭和中期まで、旺盛な執筆活動を続け、国内外でその作品の芸術性が高い評価を得た。現在においても評価は非常に高い。三島由紀夫は谷崎潤一郎追悼文で、 「氏の死によって、日本文学は確実に一時代を終った。氏の二十歳から今日までの六十年間は、後世「谷崎朝文学」として統括されても、ふしぎはないと思われる」 と書いている。


阿部一族

 九州肥後藩主・細川忠利の症状が悪化し、生前恩を受けた19人の家臣たちが次々に殉死を願い出た。しかし、当然殉死するはずの阿部弥一右衛門だけは生前の忠利は殉死を許可せず、「生きて新藩主を助けよ」と遺言したまま忠利は死去する。弥一右衛門はやむなく、新藩主光尚に奉公すが、弥一右衛門が命を惜しんでいるとの評判を耳にして、露骨な批判に堪えきれず、一族を集め彼らの前で切腹を遂げる。

 しかし前君主忠利の遺命に背いたことが問題となり、遣族の相続は許されず、長男・権兵衛は禄高を減らされる侮蔑を受けた。家中のもの達は阿部家を侮蔑するようになる。桜の盛りの向陽院で、忠利の一周忌の法要が晴々しく行われた。弥一右衛門の嫡子権兵衛はまげを切って仏前に供え武士を捨てる覚悟を見せた。藩主はその無礼を怒って彼を盗賊同様に縛り首にしてしまう。次男弥五兵衛、三男の一太夫などの阿部一族のものは、権兵衛の所行は不埒には違いないが、武士らしく切腹を仰せ付けるのが当然と怒り、次男弥五兵衛は武士の意地をかけ妻子を引き纏めて権兵衛の屋敷にたてこもり、藩のさし向けた討手と死闘を展開して全滅する。江戸時代初期に肥後藩で実際に起きた事件を題材に創作されている。

 

森鴎外

 本名森林太郎。石見国鹿足郡津和野町生まれ。代々津和野藩亀井家の典医の家柄で、鴎外もその影響から第一大学区医学校(現・東 大医学部)予科に入学。そして、両親の意に従い陸軍軍医となる。1884(明治17)年から5年間ドイツに留学し衛生学などを学ぶ。「舞姫」「うたかたの 記」「文づかひ」「大発見」「ヰタ・セクスアリス」などに、そのドイツ時代の鴎外を見て取ることができる。その後、陸軍軍医総監へと地位を上り詰めるが、 創作への意欲は衰えず、「高瀬舟」「阿部一族」などの代表作を発表する。


人間失格 (太宰治)


3つの手記からなる。「第一の手記」では、主人公・大庭葉蔵が、成長する間に経験した人間に対する恐怖を語り、人間不信を示す。自らの感情を悟られないため、幼少の頃から道化になるという手段をとってきたが、貧弱で学力も劣っているクラスメートの竹一に、葉蔵が道化をするのは自然なものではなく、演技であると見破られる。自分は、世界が一瞬にして地獄の業火に包まれて燃え上がるのを眼前に見るような心地がして、わあっ!と叫んで発狂しそうな気配を必死の力で抑えました。

「第 二の手記」では、画学生の堀木に左翼思想と淫売婦を教えられた葉蔵が、銀座の女給と心中をはかって彼だけが助かる。次の女性は、雑誌記者をしていたシヅ子とその娘のシゲ子。娘のシゲ子は、子供の無邪気さ故に、葉蔵に不可解な一面を見せ、シゲ子だけは特別だと思っていた葉蔵の心に、シゲ子に対する恐怖が芽生える。「第三の手記」では、たばこ 屋の娘ヨシ子を内縁の妻にする。その後、ヨシ子が致死量に至る睡眠薬を所持していたことを知った葉蔵は自らそれを飲む。その後、吐血、モルヒネ中毒と続いた葉蔵は親戚、友人によって、病院に連れて行かれる。いまはもう自分は、罪人どころではなく、狂人でした。いいえ、断じて自分は狂ってなどいなかったのです。一瞬間といえども、狂った事は無いんです。けれども、ああ、狂人はたいてい自分のことをそう言うものだそうです。いまに、ここから出ても、自分はやっぱり狂人、いや、癈人(はいじん)という刻印を額に打たれる事でしう。
    人間、失格。もはや、自分は、完全に、人間でなくなりました。それでも、後に彼を知っていた女性は、彼を懐かしみ語った。「神様みたいないい子でした」と。

太宰治(明治42年〜昭和23年)
 本名、津島修治。青森県北津軽郡金木村の大地主の六男として生まれる。父・源右衛門は衆議院議員、貴族院議員等をつとめた地元の名士。津島家は「金木の殿様」とも呼ばれていた。27歳時(昭和11年)遺書のつもりで書いた処女短編集のタイトルは「晩年」だった。昭和14年に結婚。井伏に対して「再び破婚を繰り返した時には私を完全の狂人として棄てて下さい」と結婚誓約書を書いた。精神的にも安定し「富嶽百景」「走れメロス」などの短編を発表。昭和22年、没落華族を描いた長編小説「斜陽」が評判を呼んだ。『人間失格』『桜桃』などを書きあげ、昭和23年6月13日、玉川上水で愛人山崎富栄と入水自殺。遺体の発見されたのは太宰の誕生日で、彼が死の直前に書いた短編「桜桃」にちなみ桜桃忌と名付けられ、禅林寺(三鷹市下連雀)では毎年多くの太宰ファンが参拝に訪れている。


恩讐の彼方に (菊池 寛)(明治21年 - 昭和23年)

 若侍・市九郎は旗本である主人の愛妾お弓と通じ、それを知った主人に斬りつけられ反対に主殺しの大罪を犯してしまう。そして市九郎はお弓の強欲さに嫌気がさし、身一つで逃げ去り美濃の浄願寺に駆け込みひたすら仏道修行をし名も了海と改める。

 得道した彼は、諸国遍歴のおり九州耶馬溪の難所にたどり着いた。そこは年に10人もの命を落とす危険な絶壁の道だった。この絶壁を掘り貫き道をつくれが10年で100人、100年で1000人の命を救うことができる。市九郎はせめてもの罪滅しにと厚さ340メートルの絶壁をくりぬいてトンネルを掘ろうとする。市九郎は誰になんといわれようと、一心不乱に19年間トンネルを掘り続けた。もう少しで貫通する希望が見えてきた時、了海の元を1人の若侍が噂を聞きつけ訪ねてきた。若侍は親の仇討にきた主人の子・実之助だった。

「実之助様いざお切りなされい。これは了海めが、罪亡しに掘り穿とうと存じた洞門でござるが、19年の歳月を費やして九分までは竣工いたした。了海、身を果つとも、もはや年を重ねずして成り申そう。御身の手にかかり、この洞門の入口に血を流して人柱となり申さば、はや思い残すこともござりませぬ」
 市九郎は仇討ちを貫通後にと約束し、市九郎と実之助は二人が並んでノミをふるい、1年半後ついにトンネルは貫通した。一つのことを成し遂げた達成感の前では復讐心などすでに消えていた。二人はすべてを忘れ手を取りあって涙にむせんだ。

 菊池 寛

 明治21年〜 昭和23年。香川県高松の生まれ。高松中学校を首席で卒業、学費免除の東京高等師範学校に進んだだが、授業をサボって除籍処分となる。後、徴兵逃れを目的としに早稲田大学政治経済学部に入学。さらに京大文科大学を卒業し、時事新報社会部記者を経て小説家となる。文藝春秋社の創設者でもある。「恩讐の彼方に」は江戸時代に豊前国(大分県)の山川沿いの耶馬渓にあった交通の難所に、洞 門を開削した実在の僧・禅海の史実を書いた作品である。小説の主人公である市九郎(了海)のようにこれを独力で掘り続けたわけではなく、托鉢勧進によって 掘削の資金を集め、石工たちを雇って掘った。また敵討ちの話も菊池による創作である。現代における菊池寛の評価は不当に低いが、「藤十郎の恋」「父帰る」など彼の小説は読みやすく名作が多い。


 眠れる美女(川端康成)
 海辺に秘密の宿がある。若く美しい裸体の娘たちが強い薬で眠らされており、「安心できるお客さま」である老人たちが、あどけない少女たちと添い寝をするために宿を訪れる。主人公の江口老人は、若い娘の横で、自らの人生、そして自らの老醜を思う。江口の眼はみずみずしい娘の肉体を透して、訪れつつある死を凝視していた。五度目に宿を訪れた夜、ふたりの娘と眠った彼は、黒いほうの娘が冷たくなっ ているのに気づき、ふるえながら隣室へ行き女主人を呼んだ。「お客様は余計なお気遣いなさらないで、ゆっくりおやすみになっていて下さい。娘ももう一人おりますでしょう」いかにも隣室の床には肌の白い娘が残っていたが、娘がもう一人いるという言い方が、生と死を重ね合わせて考えていた江口老人の心を突き刺した。

 決して目覚めない美少女たちと床を共にするのは、肉体を重ねる以上のエロティズムを感じさせる、エロチズムと退廃を主題にしているような設定であるが、それは単なる舞台装置で、むしろ老人の悲哀、罪の意識、死への恐怖を示した、あるいは人生そのものの寂しさと儚さに胸を打たれる川端文学の最高傑作だと思う。
川端 康成(明治32年〜昭和47年)

 大正から昭和の戦前・戦後にかけて活躍した日本文学の頂点に立つ作家である。大阪府出身。東京帝国大学国文学科卒業。大学時代に菊池寛に認められ文芸時評などで頭角を現した後、横光利一らと共に同人誌『文藝時代』を創刊。 代表作は「伊豆の踊子」「雪国」「山の音」「古都」など。多忙の中72歳でガス自殺した。


  愛(井上靖)
名文である。井上靖の隠れた珠玉の短篇集である。「結婚記念日」「石庭」「死と恋と波と」の三篇が収録されている。何れも男女間の愛がテーマとなっている。

「結婚記念日」妻と死別した男、春吉が主人公。まだ若いので再婚を勧められる も、頑なに拒み続けている。ある晩の思い出が、彼と彼の妻を永遠に結びつけていた。ある日、彼は宝籤に当たると、妻は一泊旅行を提案。一泊の箱根温泉旅行に出かける。途中道に迷うが、無事旅館に到着。しかし、豪華な室内を見た妻は「なんだか泊りたくなくなっちゃった」。そのまま二人は帰ってしまう。夫婦愛の本質を突いている。

「石庭」魚見二郎は新婚旅行で妻とともに、京都の龍安寺の石庭を訪れる。その場所は彼にとって思い出のある所だった。かつて恋人をめぐって友人を裏切り、恋人をも裏切った場所だった。魚見二郎が宿に帰ると置手紙があった。そこには、石庭を見ている内に、人生で妥協してはいけないと気付いた、との新妻の別れの言葉だった。

「死と恋と波」男は自殺を決意し崖の近くに建つホテルに宿泊する。宿泊カードを見ると宿泊者は2人で、旅行目的の項に「MORS」と書いてあった。「MORS」とはラテン語で「死」を意味していた。食事の時、男は彼女が自殺志願者である事を知っていると洩らす。夜半にノックの音がすると、下着姿の彼女がずぶ濡れで立っていた。「わたくし、死ねませんでしたわ」。彼女は崖から飛び込めなかった。濡れた体を拭いていた彼女は、「自殺するのを、横目で睨んでいる人間がいると思ったら、人間死ねなくなりますわ」。ここで彼もまた自殺する事を打ち明ける。彼女に最後に望むものを聞かれた彼は、健康な男性なら口にするであろう事を言う。彼が部屋に入ると、真っ暗な部屋の中で「明るくなさらないで」という彼女の声がした。夜中、彼は自殺する為、崖へと向かう。崖の突先にある石に足を載せる。いよいよという時、彼は美しい彼女の顔を脳裏に浮かべる。死にたくない。とそこに彼女が立っていた。「あなたに飛び込まれたら、私も飛び込むつもりでした」。

男女の愛情の機微を情感深く描く、三篇の愛が描かれている。

井上靖

1907年北海道旭川生まれ。幼少期を伊豆の天城湯ヶ島ですごし、沼津中学(現沼津東高校)で青春を謳歌した。京都大学哲学科卒業。大阪毎日新聞社学芸部に勤務の傍ら、「闘牛」「猟銃」を発表。50年の「闘牛」で第22回芥川賞を受賞。51年に同社を退社後、精力的な執筆活動を開始、多彩で詩情豊かな名作を次々と生み出す。76年文化勲章を受章。代表作に『天平の甍』(芸術選奨文部大臣賞)『おろしや国酔夢譚』 『孔子』(野間文芸賞)『淀どの日記』(野間文芸賞)など多数。井上は自身の幼少年時代のことを名作「しろばんば」や、「あすなろ物語」などの作品において、天城湯ヶ島の自然と人間の営みとして描いている。



仮面の告白 (三島 由紀夫)
『仮面の告白』は、自伝的作品で大きな成功をおさめた三島由紀夫の代表作である。人と違う性的傾向に悩み、生い立ちからの自分を客観的に生体解剖していく「私」の告白の物語。性的異常者の自覚と、正常な愛への試みと挫折が、苦痛と悲哀に満ちた理知的かつ詩的な文体で描かれている。当時、同性愛というテーマを赤裸々に綴ったことで大きな話題を呼び、この作品により三島由紀夫は24歳で著名作家となった。

「私」は、生まれた時の光景を憶えていた。産湯の盥のふちに射していた日の光を「私」は見ていた。祖母は「私」を溺愛し、「私」の遊び相手は、女中か看護婦、祖母の選んだ女の子だけだった。幼年時の記憶は、坂道を下りて来る血色のよい美しい頬の汚穢屋(糞尿汲取人)の若者である。「私」は彼に惹かれた。さらに「私」を駆り立てたのは、家の前を行進する兵士たちの汗の匂いだった。やがて「私」は、級友の近江に恋をした。体育の授業中、鉄棒で懸垂をする近江の腋窩に生い茂る毛に、恋を諦めてしまう。「私」の偏愛は、血を流し死んでゆく与太者や水夫や兵士へ向けられた。高校卒業間近の「私」は、友人草野の家で、草野の妹・園子を見た。スカートから覗く彼女の脚の美しさに「私」は感動する。「私」は入隊した草野の面会に行くことになった、駅で草野の家族と待ち合わせ、プラットフォームに下りて来る園子の清楚な美しさに、今までになかった胸の高鳴りを覚える。「私」は、園子を肉の欲望なしに愛していることを感じ、彼女と一緒に生きない世界は何の価値もないという観念に襲われた。
「私」と園子との文通が続いた。隔てられた距離と、生死の危機感が男女の恋人を演じることを容易にした。園子の疎開先に招かれた「私」は、園子と散歩中、接吻を試みたが、何の快感もなかった。「私」は園子から逃げなければと考えた。草野の家から結婚の申し出が来たが断りの返信をした。そして終戦となり、戦後間もなく園子は他の男と結婚した。「私」は友人に誘われ娼家に行くが、やはり「不能」が確定し絶望に襲われた。ある日偶然、人妻となった園子に出会い、それ以来再び二人だけで逢うようになった。彼女への肉欲はないのに、性欲のない恋などあるのだろうか? 人妻の園子と「私」は何度か逢い引きを重ね、園子の気持ちは揺れ始めていた。二人は真昼のダンスホールの中庭に出た。しかし「私」の視線は、ある粗野な美しい肉体の刺青の若者に釘付けとなった。園子のことは忘れ、彼が与太者仲間と乱闘になり、匕首に刺され血まみれになる姿を夢想していた。

 

憂國
 憂国は昭和11年に起きた2・26事件が背景になっている。2・26事件は軍部の皇道派と呼ばれた青年将校が起こしたクーデター未遂事件である。青年将校たちは部隊をひきいて総理官邸や国会議事堂を占拠し、東京の首都機能がマヒして戒厳令が布告された。「憂国」の主人公の青年将校は2・26事件を起こしたグループの中核メンバーだった。しかし、事件が起きた日、彼だけが決起を知らされていなかった。仲間は結婚したばかりの青年を巻き込みたくなかったのである。2・26事件後、皇道派の青年将校たちは反乱軍として討伐されることになる。青年も軍人である以上は、反乱軍となった仲間たちを鎮圧することになる。青年は仲間に銃を向けることはできず、軍人として命令に逆らうこともできない。このことから青年は死を決意する。青年の妻は形見の品の整理をする。妻は夫が腹を切ることがわかっていて、自分も夫の共をすることを心に決めていた。夜になって青年が家に帰ってきた。青年は腹を切ることを妻に言わなかったが、妻はだまって整理を終えた形見の品を夫の前に差し出す。青年と妻は最後の情を交わし、青年が腹を切る。妻は死化粧を整えたあと、夫の死体を整えてのどを切る。

 憂国は監督・主演三島由紀夫で映画も制作され、ツール国際短編映画祭劇映画部門第2位を受賞した。大義に殉ずる者の至福と美を主題に、皇軍への忠義の元、死とエロティシズム、夥しい流血と痛苦をともなう割腹自殺が克明に描かれている。60年安保という時代背景と共に「精神と肉体、認識と行動の問題」をあらたに思考していた三島があらたに表現した作品である。

三島 由紀夫(大正14年〜昭和45年)

 東京生まれ、本名は平岡 公威。東大法学部卒。16歳で「花ざかりの森」、20歳で「仮面の告白」を発表。戦後の日本文学界を代表する作家であると同時に、海外においても広く認められた作家である。代表作は小説に『潮騒』『金閣寺』『鏡子の家』『豊饒の海』など、戯曲に『鹿鳴館』『近代能楽集』『サド侯爵夫人』などがある。修辞に富んだ絢爛豪華で詩的な文体、古典劇を基調にした人工性・構築性にあふれる唯美的な作風が特徴。
 晩年は政治的な傾向を強め、自衛隊に体験入隊し、民兵組織「楯の会」を結成。昭和45年11月25日、楯の会隊員4名と共に、自衛隊市ヶ谷駐屯地(現:防衛省本省)を訪れて東部方面総監を監禁。その際に幕僚数名を負傷させ、部屋の前のバルコニーで演説しクーデターを促し、その約5分後に割腹自殺を遂げた。


楢山節考(深沢七郎)

 信州の山々に囲まれたある貧しい村に住むおりんは、「楢山まいり」の近づくのを知らせる歌に耳を傾けた。村の年寄りは70歳になると「楢山まいり」に行くのが習わしで、69歳のおりんはそれを待っていた。山へ行く時の支度はずっと前から整えてあり、息子の後妻も無事見つかった。安心したおりんには、あともう一つ済ませることがあった。おりんは自分の丈夫な歯を石で砕いた。食料の乏しいこの村では老いても揃っている歯は恥かしいことだった。
 「塩屋のおとりさん運がよい 山へ行く日にゃ雪が降る 」と、村人が盆踊り歌を歩きながら歌っているのが聞こえ、「自分が行く時もきっと雪が降る」と、おりんはその日を待ち望む。孝行息子の辰平は、ぼんやりと元気がなく、母の「楢山まいり」に気が進まなかった。少しでもその日を引き延ばしたい気持だったが、長男のけさ吉が近所の娘・松やんと夫婦となり、すでに妊娠5ヶ月で食料不足が深刻化してきたため、そうもいかなくなってきた。雑巾で顔を隠し寝転んでいる辰平の雑巾をずらすと涙が光っていたので、おりんはすぐ離れ、息子の気の弱さを困ったものだと思ったが、自分の目の黒いうちにその顔をよく見ておこうと、横目で息子をじっと見た。「楢山まいり」は来年になってからと辰平は考えていたが、おりんは家計を考え、急遽今年中に出発することを決めた。ねずみっ子(曾孫)が産まれる前に、おりんは山に行きたかった。
 あと3日で正月になる冬の夜、誰にも見られてはいけないという掟の下、辰平は背板に母を背負って「楢山まいり」へ出発した。辛くてもそれが貧しい村の掟だった。途中、白骨遺体や、それを啄ばむカラスの多さに驚きながら進み、辰平は母を山に置いた。辰平は帰り道、舞い降ってくる雪を見た。感動した辰平は、「口をきいてはいけない、道を振り返ってはいけない」という掟を破り、「おっかあ、雪が降ってきたよう~」と、おりんの運のよさを告げ、叫び終わると急いで山を降りていった。
 辰平が七谷の上のところまで来たとき、隣の銭屋の倅が背板から無理矢理に70歳の父親を谷へ突き落としていた。「楢山まいり」のお供の経験者から内密に教えられた「嫌なら山まで行かんでも、七谷の所から帰ってもいい」という不可思議な言葉の意味を、辰平はそこではじめて理解した。家に戻ると、妊婦の松やんの大きな腹には、昨日までおりんがしめていた細帯があり、長男のけさ吉はおりんの綿入れを着て、「雪がふって、あばあやんは運がいいや」と感心していた。辰平は、もしまだ母が生きているとしたら、今ごろ雪をかぶって「綿入れの歌」(― なんぼ寒いとって綿入れを 山へ行くにゃ着せられぬ ―)を考えているだろうと思った。

深沢七郎(大正3年〜昭和62年)

 山梨県東八代郡石和町に生まれ、日川中学校卒。中学の頃からギターに熱中し、職を転々とした後日劇ミュージックホールでギタリストを努める。その傍ら、昭和31年に姨捨山をテーマにした「楢山節考」を書き、中央公論新人賞第1回受賞作となった。三島由紀夫らが激賞して、ベストセラーになった。また戦国時代の甲州の農民を描いた「笛吹川」も評判になった。昭和35年に「中央公論」に発表した「風流夢譚」では、皇室を侮辱していると受け取れるような内容を描いたため、翌年、中央公論社社長宅が右翼に襲撃される嶋中事件(風流夢譚事件)が起きた。そのため筆を折って3年間各地を放浪し、昭和35年に埼玉県南埼玉郡菖蒲町に「ラブミー農場」を開き、以後そこに住んだ。昭和43年心筋症による重度の心臓発作に見舞われ、以後、亡くなるまでの19年間、闘病生活を送ることになる。