日本の美人

 美人というと、林芙美子次の短詩を思い出す。
「花の命は短くて苦しきことのみ多かりき」
女性を花にたとえ、楽しい若い時代は短く、苦しいときが多かったことを短詩にしたのだろう。林芙美子は尾道高女を卒業後に上京し、銭湯の下足番、工員、カフェの女給など転々としながら詩や童話を書いていた。代表作「放浪記」は、貧苦や屈辱に耐えながら、けなげに生きる主人公の姿をにつづっている。林芙美子は何人かの男と同棲を繰り返し、恋愛に対しても一生懸命だった。
 この短詩の「花」は女性を意味すると思っていた。「花の命は短くて」は女性の綺麗な時期は短く、年齢とともに花のように枯れてゆく切なさをうたっていると思っていた。しかし「放浪記」を読み、林芙美子の人生をたどれば、花は恋愛、人生そのものを意味していることがわかる。むしゃらに人生を駆け抜けていった林扶美子の本音だったのだろう。今では「花の命はけっこう長い」といえるが、それとは別に日本の美しい女性を選んでみた。

美智子皇后陛下

 美智子さまを評価すること自体、恐れ多く失礼なことであるが、美智子さまは、外面の美しさのみならず内面の輝きがほとばる日本女性の象徴といえる。

 阪神淡路大震災から2週間後、余震も心配されるなかで、両陛下は被災地に駆け付けてくださいました。両陛下は各非難場所をまわり、震災者の一人一人に、膝をつき、目線を合わせ、静に声をかけられました。そして避難民が見送る際、美智子さまは「ガッツ・ポーズ」を避難民に送ったのです。それは「がんばって、負けないで、一緒に乗り切りましょう」と心からの励ましの気持ちでした。いつも慈愛に満ちた笑顔を見せる美智子さま。その美智子さまの心の美しさ、清らかさ、そして力強さを知った瞬間でした。

  平成4年に山形県で行われた第47回国民体育大会(山形べにばな国体)で、開会のお言葉を述べられる今上陛下、その隣には美智子さまがお立ちになられています。そこへ突然、競技場内のトラックから男が駆け寄り、ロイヤルボックスに向かって発煙筒を投げつける事件が起きました。美智子さまは一切の躊躇なく右手を今上陛下の前へ伸ばし、陛下を庇われたのです。陛下をかばわれた美智子さまが凛々しく思われます。




 吉永小百合

 昭和20年生まれ、東京都渋谷区代々木西原町出身。本名は岡田小百合。昭和32年、小学6年生の時にラジオドラマ「赤胴鈴之助」でデビュー。松竹映画「朝を呼ぶ口笛」で映画に初出演。翌年、名門東京駒場高校進学と同時に日活に入社。「ガラスの中の少女」で初主演。「キューポラのある街」でブルーリボン主演女優賞を受賞し、「寒い朝」で歌手としてもデビューした。 橋幸夫とのデュエットで30万枚の大ヒットとなっ た『いつでも夢を』で「第4回日本レコード大賞」受賞。 あまりの人気にプロマイドが売れすぎて店頭から消えるほどであった。「青い山脈」、「愛と死をみつめて」「潮騒」など日活が衰退するまで日活映画76作品に出演した。その後も、松竹「男はつらいよ」シリーズの「柴又慕情」、「寅次郎恋やつれ」、東宝の「青春の門」などに出演。同世代の男性からの圧倒的な人気を得ていて、吉永小百合とともに青春時代を歩んだファンを「サユリスト」と呼ぶようになった。近年の出演作に「母べえ」、「おとうと」、「北のカナリアたち」など数多い。06年に紫綬褒章を受章、10年に文化功労者に選ばれた。







八千草薫  (1931年1月6日 - )

 大阪府出身、プール女学院卒。

 幼少期時に父を亡くし、母子家庭で育った。小学校時代は引っ込み思案。思春期は戦時中で、自宅も空襲で焼けてしまう。昭和22年、16歳で宝塚音楽学校入団。純情可憐な娘役で注目される。宝塚時代の活躍と人気ぶりから、また在団中から東宝映画などの出演をこなしていたので、当時は息を呑む程の美しさで、「お嫁さんにしたい有名人」で常時1位だった。昭和35年に宝塚音楽学校退団。その後、映画監督の谷口千吉と結婚した。テレビでも活躍し、いつも清楚で無邪気な顔で「清純派女優」を続けている。現在では理想のおばあちゃんランキングに常に入っている。






倍賞 千恵子(昭和16年 - )
 東京西巣鴨で生まれ北区滝野川で育つ。幼少時は「のど自慢」荒らしとして知られ、1957年、松竹音楽舞踊学校に入学後、松竹歌劇団(SKD)13期生として入団する。グランドレビュー「東京踊り」で初舞台を踏む。この年から主席入団生にフィナーレの先頭を切って大階段を降りる栄誉が与えられ、倍賞がその初代を勤めた。
1961年、松竹映画にスカウトされ、『斑女』(中村登監督)で映画デビュー。1963年、山田洋次監督の映画『下町の太陽』に主演、以降、山田作品に欠かせない庶民派女優となる。『下町の太陽』は映画だけでなく歌手としてもデビューし、第4回日本レコード大賞新人賞を受賞。NHK紅白歌合戦にも4年連続出場した。他のヒット曲に「さよならはダンスの後に」「おはなはん」「忘れな草をあなたに」などがある。
 『男はつらいよ』シリーズでは渥美清演じる主人公「車寅次郎」の妹・さくら役を演じ、人気を不動のものにした。
 映画『男はつらいよ』シリーズ終了後は、音楽に重点を置いた芸能活動をしている。歌謡曲からポピュラー、スタンダード、童謡・唱歌まで幅広いジャンルを歌いこなすことに加え、日本語の発音の美しさも評価が高い。





加賀 まりこ(1943年12月11日 - )

 本名は加賀雅子。東京都神田区小川町に生まれ、新宿区神楽坂で成人した。現在は新宿区在住。父・加賀四郎は大映のプロデューサー。
 小学生の時より神田神保町の古本街に通い、澁澤龍彦翻訳の「マルキ・ド・サド選集」を愛読していた。
小学生時から思ったことは何でも口にする毒舌だった。また映画で見たオードリー・ヘップバーンの髪型にするため1人で美容院に行くほどであった。中学校時代は陸上競技を行い、走幅跳で都大会で優勝している。
 一橋中学から明星学園高等学校入学。同校に通学する姿を見た篠田正浩と寺山修司に路上でスカウトされ、『東京タワーは知っている』でデビュー。松竹と5年間の新人契約を交わし、1962年に『涙を、獅子のたて髪に』で映画デビュー。その後、数々の映画やCMに出演、演技力と小悪魔的なルックスで人気を呼ぶ。反面、常に歯に衣着せぬ発言、かつ強気であるため「生意気」のレッテルを貼られ、その言動が波紋を呼ぶことになる。20歳の時、次々に舞い込んでくる仕事に嫌気がさし単身パリに渡る。
 半年後に帰国、劇団四季の舞台『オンディーヌ』に出演。連日大入りの大盛況で日生劇場始まって以来の大成功となる。この舞台で初めて、女優としての喜びを知り、以降女優業に本腰を入れている。




大原麗子

 昭和21年生まれ、東京都文京区出身。本名は飯塚麗子。実家は老舗の和菓子屋であった。潤徳女子中学校、北豊島高等学校卒業。テレビドラマ「幸福試験」(NHK)の出演でデビューし、翌年、東映へ入社。佐久間良子主演の『孤独の賭け』で初めて本格的な映画に出演し、高倉健の『網走番外地』シリーズ、梅宮辰夫の『夜の青春』シリーズをはじめ、数々の映画に出演した。1970年代以降はテレビドラマを中心に主演・助演していた。映画『男はつらいよ』シリーズでは、マドンナ役を2度務めた。CMへの出演も多く、昭和55年から平成2年まで出演していたサントリーレッドのCMは、「すこし愛して、なが〜く愛して」のキャッチコピーとともによく知られた。平成18年、連絡が取れず不審に思って警察に通報した実弟らによって、自宅で死亡しているのが発見された。行政解剖の結果、死因は不整脈による脳内出血であると診断された。 62歳没。



若尾文子
(1933年11月8日ー)

 東京府東京市豊島区に生れる。第二次大戦中は宮城県仙台市に疎開していた。宮城県第二女子高等学校中退。1951年に大映の第5期ニューフェイスとして映画界入り。1952年、急病で倒れた久我美子の代役として、小石栄一監督の『死の町を脱れて』でデビューした。翌53年に映画『十代の性典』がヒットし、マスコミから性典女優と酷評されるが知名度は急上昇した。同年の映画『祇園囃子』では演技が高く評価され、性典女優の蔑称を返上した。以降、日本映画を代表する正統派女優として大映の看板女優となり、160本以上の映画に主演した。和服姿の艶やかな美貌から、人気が高く1960年代半ばに各映画賞を総なめにした。
 1971年に大映が倒産すると、NHK大河ドラマ『新・平家物語』(1972年)などテレビドラマを中心に活躍。また『雪国』(川端康成原作)で舞台にも進出。特に1988年の『武田信玄』では信玄の実母及びナレーションをこなし、「今宵はここまでに致しとうござりまする」が流行語大賞を受賞した。
    疎開中、仙台で観た長谷川一夫の舞台に感激し、舞台終演後、楽屋へ訪問し「私も女優になりたい」と長谷川に直訴。それが縁で帰京後、大映ニューフェイスへ応募し合格した。
    父親は山梨県南巨摩郡身延町出身、最初の夫とは同町の久遠寺で挙式している。父親の若尾定雄は尾形金声の名で活動弁士をしていた。
    黒川紀章との結婚は1976年にテレビ番組『すばらしき仲間』で対談したのがきっかけだった。黒川は若尾に「君はバロックのような人だと、その美貌をバロック美術に例えた。黒川は結婚しており、黒川の妻が離婚に応じなかったため、若尾との結婚まで7年がかかった。
    黒川紀章が亡くなる2日前に、若尾が「私、あんまりいい奥さんじゃなかったわね。」と問うと、「そんなこと、そんなことない! 本当に好きだったんだから」と黒川に言われたのが最後の会話になったという。




夏目雅子(昭和32年12月17日 - 昭和60年9月11日)

 本名は西山雅子。六本木の輸入雑貨店・亀甲屋の子として生まれる。父親は貿易商。趣味は毛糸の編物、絵、琴、古い食器収集、俳句、生け花。17歳のときに映画「ひまわり」を見て衝撃をうけ、ソフィア・ローレンに憧れ、女優を目指すようになる。東京女学館短期大学に進学するが、タオルメーカーのコマーシャルに出演。そのため短大は中退することになる。同年、愛のサスペンス劇場「愛が見えますか」のオーディションで486人の中からヒロイン役に選ばれ女優デビュー。昭和52年から8年間、山口銀行の広告に登場。同年、カネボウ化粧品のキャンペーンガールとなり、「クッキーフェイス」のCMで注目を集めた。この時、夏の注目の目玉商品になることで、芸名を夏目雅子へと改名する。この時のCMディレクターが、後の直木賞作家で夫の伊集院静であった。
 
昭和53、NHK大河ドラマ『黄金の日日』に出演。日本テレビ系『西遊記』では三蔵法師役を演じて人気を得る。『ザ・商社』のヒロインとして大抜擢され、映画『二百三高地』にも出演。『おんな太閤記』にもお市の方役で出演。1982年、『鬼龍院花子の生涯』の台詞「なめたらいかんぜよ!」が流行語となる。迫真の演技が話題になりこの作品でブルーリボン賞獲得した。
 
昭和59年、作家伊集院静と結婚。神奈川県鎌倉市由比ガ浜に在住。舞台『愚かな女』の公演の最中に体調不良を訴え、しかし「這ってでも舞台に戻る」と病院へ行くのを拒否。何とか説得して慶應義塾大学病院を受診し緊急入院となる。診断は急性骨髄性白血病だった。夫の伊集院は仕事を辞め、母親らと共に看病にあたった。約7ヶ月の闘病生活の後、昭和60年9月11日逝去。戒名は芳蓮院妙優日雅大姉。菩提寺は山口県防府市防府駅近くの大楽寺である。




 浅田真央

 愛知県名古屋市生まれ。中京高等学校卒業の後に、中京大学体育学部へ進学。浅田の2005年のGPファイナル優勝と荒川静香のトリノオリンピック優勝の相乗効果で、日本はフィギュアスケートブームになった。尊敬している選手は伊藤みどり、エフゲニー・プルシェンコ。伊藤の衣装を着用して競技に臨んだこともあり、「みどりさんの衣装を着るといつも調子がいい」と語っていた。長野オリンピック金メダリストのタラ・リピンスキーにも憧れの言葉を寄せており、彼女の演技を見て自分もオリンピックに出たい思うようになったという。趣味はジグソーパズルとレゴ制作。DREAMS COME TRUEの「何度でも」は練習中や試合前によく聴いている曲である。2005年の世界ジュニア選手権で優勝した時からトイ・プードルを飼いだした。オリコンによる「好きなスポーツ選手ランキング」の女性部門において、2007年、2009年、2010年、2011年 2013年で1位となった。 バンダイが行ったアンケート「バンダイこどもアンケートレポート」によると、子供が好きなスポーツ選手として、2009年では女の子部門1位、2011年9月では総合1位に挙げられている。