菊田  昇           (赤ちゃん斡旋事件)

菊田昇(赤ちゃん斡旋事件)

 昭和48年4月17日、18日の両日、宮城県石巻市の地元紙「石巻新聞」と「石巻日日新聞」の片隅に赤ちゃんを斡旋しますという小さな広告が掲載された。「急募、生まれたばかりの男の赤ちゃんを、わが子として育てる方を求む。菊田産婦人科医院」。この小さな新聞広告がいわゆる「赤ちゃん斡旋事件」の発端であった。そしてこの小さな三行広告が、日本中に大論争を引き起こすきっかけとなった。

 

人工妊娠中絶の現実

 広告の主は宮城県石巻市の開業医、菊田昇医師(48歳)であった。菊田は、昭和33年に菊田産婦人科医院を開業すると、人工中絶を希望する患者がたくさん受診することに驚かされた。それまで勤務医として働いていた彼にとって、これほど中絶を希望する患者が多いとは想像もしていなかった。何より彼を悩ましたのは、中絶を希望しながらその時期を過ぎてしまった妊娠8ヵ月以上の妊婦であった。妊娠7ヵ月の胎児であれば人工中絶は法律的に可能であった。しかし7ヵ月を過ぎた場合は違法行為である。さらに妊娠後期の人工中絶は胎児の生命を奪うだけでなく、母親の生命をも脅かす危険性が高かった。

 菊田産婦人科医院だけでも、妊娠7ヵ月を過ぎながら中絶を希望する妊婦は年間10数例に達していた。田舎の産婦人科医でさえこの人数である。人工中絶の資格を持つ産婦人科医は全国で約1万人いることから、妊娠7ヵ月を過ぎながら婦人科に駆け込む妊婦は年間10万人以上いることは容易に想像できた。

 人工中絶の定義は「胎児が母体外で生命を維持できない時期に胎児を排出すること」である。しかし妊娠7ヵ月であれば、胎児は未熟児として生存可能であった。

 妊娠11週までの中絶は、妊婦に麻酔をかけ、寝ている間に掻爬することができた。しかし11週を過ぎると掻爬はできなくなるため、子宮口を人工的に拡げ、薬剤で陣痛を誘発させ、出産という形で中絶することになる。人工中絶と言いながら,それは通常の出産と変わらない。7ヵ月の胎児は中絶により母体から外に出されても、外見上は通常の赤ちゃんと同じで、自分で呼吸をして、オギャー、オギャーと泣き出すことがあった。産婦人科医は赤ちゃんをそのまま放置し、水に漬け、あるいは薬物を注射して合法的に殺していた。それはあまりに残忍な行為であった。

 菊田はこの胎児殺し、赤ちゃん殺しの問題に悩んでいた。そして胎児を救うには「赤ちゃんを実子として他人に斡旋するしかない」と確信するに至った。実子として他人に赤ちゃんを斡旋する行為は違法である。しかしたとえ違法行為であっても、人間として、医師として間違った行為とは思えなかった。むしろ当たり前のことと思えた。

 菊田は人工中絶を希望する妊娠7ヵ月以上の母親に子供を出産するように説得した。そして生まれてきた赤ちゃんを、子供のいない夫婦に実子として斡旋していた。そのためには「ニセの出生証明書」を発行しなければいけない。つまり菊田昇の赤ちゃん斡旋は、違法を承知の上での行為だった。

 昭和48年当時は、第二次ベビーブームのさなかである。妊娠がわかると医師は「おめでとう」と言うように、通常の女性は妊娠を知って喜ぶはずである。しかし妊娠を喜ぶ女性もいれば、悲しむ女性もいた。現実には妊娠しても出産を望まない女性がたくさんいた。出産を望まない女性には多くのパターンがあった。子供が多すぎて経済的に養っていけないと訴える母親。同棲相手が蒸発してしまい、父親のいない子供を産みたくないと訴える女性。性の知識が乏しいため出産間際になって何とかしてくれと泣きつく若い女性。それらはいずれも妊婦にとって切実な問題であった。

 当時の性教育は皆無に等しく、避妊に対する知識は乏しかった。マスコミは女性の性の解放を叫びながら、その一方、避妊に対する教育はなされていなかった。避妊に対する情報が少なく、そのため不幸な妊娠を背負ってしまう女性が多くいた。性道徳は荒れているのに、性行為の結果である妊娠という現実についてはほとんど取り上げられなかった。マスコミは婚前交渉を時代の最先端のようにもてはやしながら、その一方では性交渉に伴う妊娠というリスクを隠し、未婚の母親をふしだらな女性と決めつけた。また人工中絶が許されるのは妊娠7ヵ月までであることを知らない女性が多く、出産間際になって妊婦はあわてて産婦人科に駆け込むのだった。

 

望まない妊娠

 昭和48年当時は、同棲時代、内縁時代、フリーセックス、ウーマンリブなどという言葉がもてはやされ流行語になっていた。中学生や高校生までもが妊娠して産婦人科に駆け込むというケースがあった。性行為が愛の証であるかのように雑誌は書き立て、性行為を推奨するかのように映画はつくられた。中学生や高校生は性行為を本能のまま行えても避妊の知識は乏しかった。たとえ避妊を知っていても、彼らがコンドームを買いにゆくのは抵抗があった。そしていったん妊娠が発覚すると、女子学生にはろくでもない不良学生とのレッテルがはられ、学校は彼女を切り捨てることで、問題の解決をはかった。このように国全体が経済の高度成長にうかれ、セックスを煽りながら、セックスの現実と結果に対してはあまりに無責任であった。

妻子ある男性に離婚を条件に身体を許し、妊娠末期になって約束を守らず逃げてしまう男性が意外に多かった。「妊娠を知ったとたん、男性はその女性を嫌になる」という身勝手なパターンであった。女性は望まない妊娠をしたまま取り残され、大きくなる赤ちゃんを腹に宿しながら途方に暮れるばかりとなった。困り果てた妊婦は、腹の中の子供をどうすることもできず、出産間際になって産婦人科に駆け込むのだった。そして「何とか胎児を始末してほしい」と泣き叫びながら医師に懇願するのだった。

当時は日本の経済が高度成長期に入ったばかりである。外国の恋愛小説や映画が大量に輸入され、若者はその影響を受けていた。しかし社会は恋愛そのものを大っぴらに受け入れる状態ではなかった。日本の結婚はまだ見合い結婚が多く、恋愛結婚という欧米の形態は現在ほどではなかった。まして日本の女性はひとりで私生児を育てる経済力はなく、私生児、父なし子の存在を受け入れる時代でもなかった。日本の社会も家族も、私生児を恥とし、その存在さえも闇に葬ろうとしていた。現在でも私生児を産み育てることに対して独特の伝統的嫌悪感を持つのが日本社会である。

 さらに妊娠7ヵ月までは中絶は可能であったが、妊娠7ヵ月を過ぎれば中絶そのものが母体にとって危険だった。優生保護法も妊娠7ヵ月を過ぎた堕胎を認めていなかった。そのため子供を希望しないのに産まざるを得ない不幸な女性がいた。これは菊田産婦人科医院に限ったことではなく、全国の心ある産婦人科医を悩ましていた。

 菊田昇が開業したばかりの頃は、妊娠8ヵ月の人工中絶をすべて断っていた。しかし断られた妊婦は他の産婦人科を受診して堕胎し、このような妊婦は産婦人科医の仲間で話題になっていた。妊娠後期の人工中絶は胎児の生命を奪う行為であったが、それが平然と闇で行われていた。このことを知った菊田は愕然となった。それは人工中絶ではなく、赤ちゃん殺しに思えたのだった。

 このように自分の意思に反して妊娠した女性たちを救うためには駆け込み寺が必要だった。ひとつは妊娠8ヵ月でも違法を承知で人工中絶を行う医師である。妊娠7ヵ月を過ぎた堕胎は法律では禁止されていたが、闇で堕胎を行う産婦人科医がいたことは事実である。もう一つの駆け込み寺は、菊田のようにニセの出生証明書を発行し、実子として別の夫婦に養子にだしてくれる医師であった。どちらも違法行為であったが、前者は赤ちゃんの生命を奪う行為で、後者は赤ちゃんの生命を守る行為であった。

菊田は「子供を殺してください」という妊娠7ヵ月を過ぎた妊婦に、「本当に殺したいのか」と訊いた。たとえ望まない子供であっても、妊婦は自分の子供を本当に殺したいとは思っていない。子供を産むことに抵抗はなかった。

抵抗があったのは戸籍の問題であった。出産の秘密が自分の戸籍に載れば、もう新たな結婚は望めない。生活力のない女性にとって人生すべてが万事窮すとなる。私生児出産の烙印を押されることになった。そのため殺すか、捨てるかの選択しかなかった。このような妊婦に対し、菊田は「ここで堕すのは殺人と同じだから、子供をほしがっている夫婦のために丈夫な赤ちゃんを産んでほしい。危険なところに捨てるより、安全な菊田医院に捨てなさい。あなたの戸籍は汚さないようにします」と説得して出産させた。多くの妊婦は菊田の説得に従い、生まれた赤ちゃんは他人の夫婦に実子としてもらわれていった。

 

赤ちゃん受難の時代

 菊田が赤ちゃん斡旋の新聞広告を出した昭和48年は、赤ちゃんをコインロッカーに捨てる嬰児の遺体遺棄事件が頻発していた。昭和48年だけでコインロッカーに捨てられた赤ちゃんは43件である。「コインロッカーベービー」という言葉が流行語になっていた。

 人工中絶を受けず、運よく生まれたとしても、赤ちゃん殺しや赤ちゃんの死体遺棄事件が当時多発していた。このように出産したばかりの赤ちゃん殺しは、発覚したものだけで年間約200件に達していた。

 生まれたばかりの赤ちゃんは人目をさけて川や林に捨てられ、また街中では駅やデパートのトイレやゴミ箱に捨てられた。川や林に赤ちゃんを捨てる母親は完全に母性本能を喪失していた。人目につく所に捨てた母親は誰かに育ててもらうことを期待してのことであるが、しかしどのような事情があるにしても許せない行為だった。日本では大人が殺されれば大騒ぎになるのに、赤ちゃんが殺されても、同じ人間でありながら世間の関心は薄かった。母親が赤ちゃん殺しに走る社会的背景を世間がある程度理解していたからである。

 戦前は「産めよ増やせよ」の国策により、性行為は子供を産むための行為とする概念が強かった。しかし戦後になると、「性行為は性の享楽を求めること、男女の愛の表現方法」と変わっていった。それでいて避妊に対する知識は乏しく、望まない妊娠という現実が日本中に溢れていた。自分だけは妊娠しないという思い込みによる失敗、そして消費文化を象徴するかのように、不用品を捨てるような感覚で赤ちゃんが捨てられていった。このような自己中心的風潮に性道徳の低下が重なり、堕胎、嬰児殺し、嬰児遺棄、捨て子事件が頻発していた。また発作的に赤ちゃんを殺し、その罪悪感から赤ちゃんを追うように自殺する哀れな母親もいた。

 昭和47年の警視庁の統計によると、母親の赤ちゃん殺しの動機は、未婚者の8割が世間体を恥じて、既婚者の4割が貧困によるものであった。わが子であれば自分の意のままに赤ちゃんを処分してしまう、自由の意味をはき違えた未熟な母親が多かった。

この現象を母性本能の喪失と単純に決めつけることはできない。赤ちゃん殺しには、本来、出産させた男性にも責任があるからである。赤ちゃん殺しは母親だけが追い詰められた結果であるが、女性を妊娠させた男性は、妊娠を知ると女性を突き放し、責任を逃れようとする。男性が女性と同じように責任を持つならば、このような悲劇は起きないはずである。男性の責任は追求されず、女性ばかりが性交渉の結果に対して責任を追及された。婚前交渉については男性に甘く、女性に厳しい社会であり、男性は妊娠から逃れられても、女性は決して逃れることはできなかった。

男性の戸籍にも子供の記載がなされれば平等といえる。しかし男性の戸籍はきれいなままで、騙された女性だけが傷つくような法律であった。

 明治初年に戸籍法が制定されて以来、未婚の母親であっても、養子に出した母親であっても、出生の事実が女性の戸籍に明記されれば生涯消えることはない。父親の名前は分からなくても、子供を出産した母親の戸籍には子供の名前が記載されるのである。

 出産を希望しない女性が一番恐れたのは、この紙切れ一枚にすぎない戸籍の問題だった。戸籍を汚してしまった女性の人生は終わったに等しかった。未婚の母親は世間から白眼視され、親戚中の恥とされた。戸籍を汚すという言葉は、未婚の母親に対する社会の根強い偏見を意味していた。未婚の母親はふしだらな女と非難され、養子に出す母親は身勝手な母親と非難された。彼女らはそれを避けるために妊娠7ヵ月を過ぎても人工中絶を希望し、望まない胎児を腹に抱えながら必死で堕胎を迫ってきた。

 

なぜ赤ちゃん斡旋を始めたか

 このような不幸な妊娠がある一方、子宝に恵まれない夫婦もいた。夫婦10組のうち1組は不妊症の夫婦である。不妊症の原因が夫の精子にあろうが、妻の子宮にあろうが、不妊症の夫婦にとって不妊が分かることは絶望的なことだった。子供のいない夫婦の悲しみは、子供を持つ夫婦には想像できないことである。何組かの夫婦が集まれば子供の話題ばかりとなり、子供の話題に入れない夫婦がその場にいることは拷問に等しかった。何としても子供がほしいと思う夫婦も多くいて、このような不妊症に悩む夫婦も菊田産婦人科を受診していた。

菊田は、不幸な妊娠で生まれた赤ちゃんを戸籍に載せず、直ちに母親から切り離して他人とした。そして子供を欲しがる身元の確かな夫婦に実子として斡旋していた。つまり実の母親の戸籍を汚さず、養子を希望する新しい両親に実子として斡旋したのである。そのためにはニセの出生証明書を作ることが必要であった。しかしそれは明らかに戸籍法違反の確信犯であった。

赤ちゃんを捨て子として届ける方法もあったが、その方法では産みの親は警察から追われることになった。また捨て子の場合は少なくとも2年間は施設に収容され、産みの母親の出現を待つことが義務づけられていた。子供のほしい夫婦は、赤ちゃんの時から育てたいと願っている。また子供が2歳になってからの養子縁組では、養子であることが周囲に分かってしまう。そのため出産直後に貰った母親が産んだことにするのが一番現実的であった。

菊田はこの違法行為を自分だけの問題ではなく、世間一般に問う必要性を感じていた。何万人という赤ちゃんを救うためには、自分の違法行為を正当な行為として社会に認知させ、法律を変えるしかないと考えていた。戸籍に子供の出生の秘密が書かれるから、母親は胎児を中絶し、赤ちゃん殺しが起きる。その赤ちゃんを救うためには、実子として斡旋するしかない。日本中の赤ちゃんを救うためには、実子斡旋を認める特例法が必要であった。

 この事件に至るまでの菊田の人生について簡単に振り返ってみる。菊田昇は大正15年5月31日、地元の宮城県石巻市に生まれた。石巻市は太平洋に面する漁港、貿易の街である。子供のころは頑固なまでに正義感が強かった。自分の信念を曲げることを知らず、先生が間違ったことを言えば、とことん調べその間違いを指摘した。それは正しいことを正しいとする勇気、大きなものに挑戦する勇気といえたが、逆に言えば、独断性が強く融通がきかなかった。旧制石巻中学時代は文科系が好きだったので歴史学か法学への進学を考えていた。しかし昭和18年、徴兵年齢が引き下げられ学徒出陣令が出たため、石巻中学を卒業すると東北大学付属医学専門部に進むことになった。

昭和24年、東北大学付属医専を卒業すると同大学産婦人科に入局。昭和31年に東北大学より学位を授与されると秋田市立病院に1年間勤務し、昭和33年から菊田産婦人科医院の看板を掲げて、石巻市で開業することになった。産婦人科として開業すると、大学病院とは違った患者が多く来院することが分かった。大学病院では婦人科の病気や出産だけを扱っていたが、開業すると人工中絶を希望する患者があまりに多かった。そこで初めて人工中絶という闇の社会に直面したのだった。日本は堕胎天国と呼ばれるほど中絶が多く行われていた。

 昭和45年の厚生省の推定では、優生保護法による人工中絶は75万件以上、ヤミで行われている人工中絶を加えると少なくとも100万件を越えていた。だから田舎の開業医にも人工中絶を求める患者が押し寄せてきたのだった。年間100万ともいわれる胎児が闇から闇に葬り去られていた。当時は年間1万人が交通事故で死亡し、2万人が自殺で死亡していた。年間100万人の人工中絶、これはアウシュビッツの虐殺をはるかに上回る数であった。

 菊田は妊娠7ヵ月を過ぎた人工中絶は殺人に等しいと思うようになった。産婦人科の仲間に相談しても、心情を理解してくれたが、法律の改正は政治家や法律家が行うことだとして相手にされなかった。たとえ貧困による中絶であっても、また祝福されない妊娠であったとしても、赤ちゃんには生きる権利があるはずだった。この問題に菊田は心を痛めていた。そして開業した翌年から密かに赤ちゃんの斡旋を行っていた。

 

あえて一石を投じる

 しかし自分だけが赤ちゃん斡旋を行っても問題の解決にはならない。多くの赤ちゃんの命を守るためにはこの問題を世に問うべきである。地方紙に出した「赤ちゃん斡旋」の小さな広告にはその強い信念と決意が込められていた。世の矛盾を正すため、自分が泥をかぶっても、違法行為を承知で世に問いかけようとした。

 新聞広告の翌日、4月19日に運命の日がやってきた。午後3時ごろ毎日新聞の藤岡記者が菊田医院を訪問し、あの広告の内容を知りたいと取材を申し込んできた。藤岡記者は捨て子の斡旋だろうと軽い気持ちで訪問したのだった。菊田は診察中だったので、「診察が終わってから説明する」と言って藤岡記者を待たせていた。診察の終わる夕方5時ごろになると、朝日新聞の記者も面会を求めてきた。

 「生まれたばかりの男の赤ちゃんを、わが子として育てる方を求む」。この広告に書かれたわが子とは、実子を意味するのか、養子を意味するのか、広告ではこの点が曖昧だった。もし「わが子」が養子を意味するのであれば何ら問題のない広告であった。しかしそれが実子を意味するのであれば明らかに戸籍法違反となってしまう。広告では「わが子」の意味を曖昧にしていたが、その言葉の意味によっては菊田の立場は、合法、非合法という大きな違いがあった。

 もちろん菊田はそのことを十分に承知していた。そして毎日新聞、朝日新聞の記者が全国版で報道してくれるならば、「わが子とは実子を意味する」と言うつもりだった。菊田は「赤ちゃん斡旋」を国民的問題として提起したかった。もし全国版に載らず地方版の小さな記事で終われば、赤ちゃん斡旋事件は一人の田舎医師の罪の告白として失笑を買うだけと思った。菊田は何としても社会的問題として日本全国にこの問題を投げかけたかった。個人の力ではどうすることもできない問題を世に問い、養子制度そのものを変えてほしかった。

 菊田は毎日新聞、朝日新聞の記者を前に、「もしあなたが、この事件を全国版で報道してくれるならば包み隠さず本当のことを話す」と条件を出した。無名の医師が天下の大新聞に注文をつけたのである。毎日新聞の藤岡記者は本社に連絡をとり、全国版で報道することを約束してくれた。そこで菊田は藤岡記者に本当のことを述べたのである。つまり「わが子とは実子を意味している」と公表し、ニセの出生証明書を書き、赤ちゃんを養子ではなく実子として他人に斡旋していると告白した。さらに、「戸籍法違反である赤ちゃんの斡旋をこの10年間で約100件行ってきた」と述べた。

田舎の開業医でさえ10年間で約100件の違法行為である。この数値は何を意味しているのだろうか。100件の違法行為は100人の赤ちゃんの命を救ったことを意味しており、救われた赤ちゃんと同じような危機に置かれ、生命を断たれた胎児は全国で何百万人いるという現実を示していた。菊田は違法行為を承知で胎児の生命を救ったが、大多数の胎児は合法的に殺されていた。

 菊田の行為は、赤ちゃんの生命を守る行為であっても明らかに戸籍法に違反していた。この生命を守るための違法行為が本当に間違った行為なのか、菊田の目的はただひとつである。日本から胎児殺しをなくすために、赤ちゃんの生命を救うために、実の親子関係を断絶させ、育ての親を実親とする法律をつくることであった。自分は間違っていない、間違っているのは法律なのだ。そのためには自分が罰せられても、自分の違法行為が新たな法律を作るきっかけになればよいと思った。

 

広がる波紋

この赤ちゃん斡旋事件は、翌日の毎日新聞全国版トップ記事として大々的に報道された。菊田昇の行為は法律的には違法であったが、その信念は毎日新聞の報道と同時に日本中に大論争を沸き起こした。その反響はすさまじいものであった。新聞ばかりではなく、テレビのニュースやワイドショーが菊田の主張や行動を報道した。「赤ちゃん斡旋事件」は一夜にして大きなうねりとなって全国に波紋を呼んだ。法律を形式的に守ることが医師として正しいことなのか、違法行為でも赤ちゃんの生命を守ることが医師として正しいことなのか。間違っている法律が国民の不幸を呼んでいるのならば法律を変えるべきではないか。それとは逆に、たとえ法律が間違っていても、法律は法律として守るべきではないか。あまりに突然の事件に日本中が騒然となった。

 事件発覚時、多くのマスコミは菊田の行為を支持していた。新聞の解説でも支持する内容がほとんどであった。テレビのワイドショウでは見識者は菊田の行為を支持し、法律家は菊田昇の違法性を解説したが、その行為を非難する者は少なかった。日本中が冷静さを失い、マイクを向けられたコメンテーターは直感的に菊田を支持した。

 地元の社会党宮城県本部石巻支部は4月23日、「法律的には問題はあるが、基本的には支持する」と表明。コメントを求められた各政党もほぼ同じような支持を述べた。

 また地元では「菊田先生を支援する石巻市民の会」が結成され、4月24日朝には、「中絶は殺人だ」「勇気ある生命尊重の先生」と書かれたビラ2万枚が石巻駅前で配られた。しかしこのことが地元の産婦人科医を激怒させることになった。このビラをまいた支援者は人工中絶そのものを殺人と考える団体だった。彼らは菊田の考えとは関係なく、堕胎そのものを殺人と受け止め「やたらに中絶する赤ちゃん殺しの医師と、赤ちゃんの生命を守った医師のどちらが立派でしょうか」と勝手に応援した。地元の産婦人科医にとっては、この「菊田先生を支援する石巻市民の会」の運動は、菊田だけが良い医師で、中絶を行う自分たちは悪い医師であるという大きな誤解を与え、そして怒りを引き起こすことになった。

菊田は中絶をしない良い医師と宣伝されたが、実際には6ヵ月までの胎児の中絶を行っていた。しかも人工中絶によって高額所得者に名前が載せられていた。決して人工中絶そのものを否定してはいなかった。他の産婦人科医と同じ診療を行っていたが、菊田昇の主張はゆがめられて宣伝された。このように「菊田先生を支援する石巻市民の会」の行動が大きな誤解を呼び、地元の医師会、産婦人科医会との間に大きな溝をつくった。

 事件発覚と同時に、地元の医師会、産婦人科医会は菊田を呼びつけ、この赤ちゃん斡旋問題へのコメントを控えるように注意した。それは彼の独走を押さえるためだった。しかし彼の発言を押さえながら、地元の医師会、産婦人科医会は赤ちゃん斡旋の是非について対応できずにいた。菊田の行動を支持するのか支持しないのか、正しいことなのか間違ったことなのか、何度も議論を重ねたが結論は出なかった。最初のうちは菊田医師を守ろうとする意見が多かったが、反対する意見もあった。結局、地元医師会は赤ちゃん斡旋事件の是非について判断できず、マスコミ、世論の動きを横目で追いながら風見鶏の対応を決め込んだ。そして上部組織の日本医師会、日本産婦人科学会の発言を待った。

 この「赤ちゃん斡旋事件」は国民的な大きな関心を呼んだ。菊田は毎日新聞の記事と同時にマスコミに引っ張り出された。地元医師会は発言を控えるようにとクギをさしたが、マスコミはそれを許さなかった。マスコミは菊田産婦人科医院に押しかけコメントを求めた。電話は鳴りっぱなしとなり、電話の声は勇気ある菊田を支持する内容がほとんどだった。そして菊田医師から実子を斡旋してもらった親は、もし必要ならば菊田医師の正しさを証言すると申し出た。

赤ちゃん斡旋事件がこれほどの波紋を呼んだのは、母性失格、性道徳の荒れ、不幸な出産と嬰児殺しという社会的背景があったからである。このような風潮のなかで、菊田昇の「いのちを救うためには法律を犯すこともやむなし」、「母親の戸籍に子供の出生の秘密が書き込まれるので悲劇が起きる。実子斡旋は子供を救うための緊急避難措置」という言葉には説得力があった。はたして菊田医師の違法行為は正しい行為なのか、マスコミを中心に想像もつかないほどの議論の渦が巻き上がった。

国会に呼ばれる

昭和48年当時は、母子家庭への福祉政策、託児所などは皆無に等しい時代だった。そのような時代に突然飛び込んできた「赤ちゃん斡旋事件」は社会問題となり、菊田はマスコミのスポットライトを浴び、多くの取材を受けた。これだけの大問題である。事件発覚から数日後には国会で取り上げられた。4月24日、菊田は参議院法務委員会に呼ばれ、そして「赤ちゃん斡旋事件」の動機について説明することになった。

 参考人席に座った菊田昇にテレビのライトが集中した。参議院法務委員会では菊田に対する質問形式により尋問が行われた。

 

まず社会党の鈴木強委員が質問に立った。

 鈴木議員「この事件は堕胎天国、子捨て時代といわれる世相と法律のギャップを浮き彫りにした事件なので、深くメスを入れ対応を見いだすべきである。先生は現行の憲法、医師法に違反までして赤ちゃんを他人に斡旋したというのは事実ですか。事実ならは、それなりの理由、決意、信念があると思うが、述べていただきたい」

 菊田「私は、この行為が法律に違反していることを素直に認めます。しかし妊娠7ヵ月以降の生存可能の胎児を助けるには、これ以外に方法はないのです。法律を犯すこともやむを得ないと判断しました」

 鈴木議員「医師の立場として人工中絶をやめさせ、なんとか出生させることは医師の責務だと思うので異論はない。しかし法律的には養子縁組の制度があるのに、なぜ戸籍を誤魔化す方法をとったのか」

 菊田昇「養子縁組ができればそれを選びました。しかし今の養子縁組では現実的には解決できないことが多いのです。もらう側は実子としてもらいたい、産む側は戸籍を汚したくない。このように希望している母親がほとんどだからです」

 鈴木議員「私はあなたの行為を責めているわけではありません。では育ての親の適格性をどのように判断するのか」

 菊田昇「赤ちゃんがほしいと何度も頼みにくる親の熱意で判断した。できれば家庭裁判所の判事に立ち会ってもらえるような制度ができればと思っている」

 鈴木議員「なぜ新聞広告を出したのか」

 菊田昇「女の子を望む人は多いが、男の子は引き取り手が少ないからです」

 次に自民党の玉置和郎委員が質問に立った。玉置和郎委員は優生保護法を改正して人工中絶廃止を唱える議員であった。質問の前に「菊田昇先生の行為に私は心を打たれた」と前置きを述べて質問に移った。

 玉置議員「先生の行為は妊娠7ヵ月以上の胎児を殺さないためであり、公文書不実記載は刑法の緊急避難に値する。先生のやり方は誰も実害を受けていないのだから、刑事責任は受けないと思う」

 菊田昇「ありがたいご配慮です。全国の産婦人科医も力を得るでしょう。何十年も前の法律が現実に合わないのであれば、犠牲者の数を増やしてしまう。立法府の先生たちはきちんとこのことを捉えてほしい」

 玉置議員「養子であることは知らせない方がよい。育ての親も、生みの親が取り返しに来るのではないかと心配しないですむ。この点についてはどうでしょうか」

 菊田昇「全く同感です」

 このように鈴木強委員、玉置和郎委員は菊田昇を支持する発言を行ったが、3番目の社会党の佐々木静子は菊田昇を支持しない立場から質問に立った。

 佐々木静子「妊娠7ヵ月以上の胎児を殺さないという人道的立場はわかるが、正式に養子という方法があり、養子として子供をもらいたい人がたくさんいるのに、なぜ違法の手段をとったのか。ニセの出生証明書は養子縁組より法的に不安定と考えるが」

 菊田昇「生んだ母親が子供を養子に出しても、生みの母親の戸籍に子供の名前が記載され、戸籍が汚れてしまう。生んだ母親は戸籍が汚れ、いずれ過去が知られてしまうことを一番恐れている。また育ての親も、実母が子供を取り返しに来ないか不安になってしまう」

 佐々木静子「生命を守るという人道的な気持ちは理解できるが、ウソの出産届が子供の幸せにつながるとは思えない。広告が出た夜に、申し出た人にすぐ引き渡すなど、親の選定に問題があるのではないか」

 菊田昇「子供を殺してくださいということが、子供をやってもよいという意思表示と理解している。さらに子供を欲しいというのは、その熱意で判断できます」

 佐々木静子「養子縁組だけでなく、里子制度もある。戸籍をいつわるような実子斡旋を合法化するような方向に暴走しないでほしい。現行の法律のワクで解決すべきだと思う」

 菊田昇「子供を殺そうと決めた母親を説得する場合、そのような理屈では母親を説得できない」

 佐々木静子「どのような基準でもらい手の親を決めているのか」

 菊田昇「片方は殺してくれ、片方はわが子にしてくれ、と言っているのだから、それほど難しい判断ではない」

 参院法務委員会はおおむね菊田に好意的であった。また菊田は現代の子殺しの実情や、実子特別法の必要性を訴えた。自分の行為は他人の目から見れば悪いかもしれないが、神様から見れば喜んでもらえる行為という自信があった。

 

好意的な反応

 菊田が赤ちゃん斡旋を公にしたのは、赤ちゃんの命を守りたかったからである。そのためには法律を改正して政府の力で赤ちゃんの命を救い、社会の力で赤ちゃんを守ってほしかった。実子特別法案、家庭裁判所による実親の斡旋などの制度を作ってほしかった。日本人の意識を変えるよりも制度を変えるほうが近道だと考えていた。現行の法律が不幸をつくっているならば、法律を変えれば不幸は減るはずである。そのためにはまず戸籍法を変える必要があった。もらい子を戸籍上の実子として認めてほしい、それは現行の戸籍法に大きな改革を迫るものであった。

 「子供の命を助けるには、子供を欲しがっている夫婦に実子として世話をする以外に方法がない」という菊田の主張には説得力があった。赤ちゃんの生命、産みたくない母親、産めない母親、戸籍上の問題、これらをめぐって全国的な議論がまきおこった。マスコミでは多くの著名人や評論家がこの問題に対しコメントを述べた。

 作家の遠藤周作は「人命尊重の観点から、菊田医師の行為は結構なことだと思う。法律違反というが、法律は人間のためにあるのだから改正すればよい。菊田医師の勇気に敬意を表したい」。作家の佐藤愛子は「最近、赤ん坊を簡単に殺したり、捨てたりする事件が相次ぎ、人命を物のように考える風潮が広まっている。菊田医師の行為は、そのような風潮に対する警鐘になると思う。人間の命を尊ぶ気持ちに胸を打たれた。菊田医師によって、はじめて生命の尊さを知らされた女性も多いのではないか。法律でかたづけてよい問題ではない」

 警察庁刑事局長は「形式的には公正証書不実記載になるが、子供をもらった家庭の幸せを破壊する恐れがあるので慎重に対応したい」と述べた。また田中伊三次法務大臣は「子供の幸福を考えれば、罰則を必しも適用しなくてもよいのではないか」と発言した。また参議院の法務委員会は「正面きって言えば戸籍にウソを登録するわけだから、けしからんと言えばそのとおりであるが、周囲が平穏を保たれているならば、取り立ててけしからんという必要はない。こっそり行われている方がよいのではないか」というコメントを出した。

 毎日新聞(昭和48年5月23日)は、衆参両院の社会労働、法務の両委員会のメンバーである65人の国会議員の回答として次のような調査結果を発表した。菊田医師の行為について「生命は何よりも尊い。高く評価する」とした委員は23人、「やむを得ぬ行為と認める」と条件付き賛成派は17人、「賞賛も批判もできない」との中間派は11人、「新聞広告まで出したのは、善意ある勇気どころか、批判すべき蛮勇だ」という批判派が11人、全体の6割以上が赤ちゃん斡旋を支持していた。また法的問題については、「違法だが責任の追及は差し控える方がよい」が36人、「胎児の命を助けたのだから、刑法37条の緊急避難に当たり違法性はない」が16人、「法治国家である以上処罰は当然」が16人で、80%が菊田医師を処罰する必要はないとした。

 菊田の行為が子供の生命を救おうとする勇気ある行為なのか、あるいは医道に反した逸脱行為なのか、評価は二つにわかれたが、世論、マスコミは菊田に好意的であった。ある新聞は菊田が赤ちゃん斡旋をしているのは金儲けのためだと報道した。しかしそれは間違いであり、その新聞社はすぐに謝罪している。それだけ日本中がこの問題で混乱をきたしていた。菊田の行為は違法行為であるから、法務省の見解が注目された。

 最初のうち法務省は曖昧な態度だった。しかし時間が経つうちに、司法当局は菊田の行為の善悪は別として、違法行為は違法行為として罰すべきとの考えに傾いていった。現行の法律が悪いかどうかは別問題で、現行の法律に違反しているかどうかが問題になった。法務省は類似行為が続発した場合、戸籍の信頼性が薄れることを最も心配した。

 コメントを求められた医師は「実の親が分からないと、将来近親結婚の恐れがある」と指摘した。この近親結婚の問題は意外に障害になったが、人工授精によって他人の精子をもらう母親は、相手が誰なのか分からない。人工授精を認めながら、それを問題にするのは、おかしな理屈といえる。

 ちなみに欧米の戸籍は親の名前を書く欄は一つだけで、産みの親が誰なのか、育ての親が誰なのか分からないようになっていた。養子であれ、里子であれ、子供は戸籍に書かれた親を実親と信じるシステムになっている。欧米の養子縁組は公的機関が双方の親を審査し仲介する仕組みである。そのため養子の実親が誰なのかは永久に分からず、育ての親が本当の親として扱われる仕組みになっていた。欧米では女性のプライバシーが守られていた。父なし子を生んだ母親や、養子に出した母親の戸籍には出生の秘密は記載されず、日本のように戸籍が汚れるという発想は生じなかった。とくに当時のソビエトでは親の意に反して子供の出生の秘密を漏らした者は処罰されることが法律で決められていた。

 

実子特例法を推進する機運

 日本の養子縁組は欧米とは事情が違っていた。日本の養子縁組は先祖代々の墓を守ることや封建的な家族制度の存続を目的としていた。そして最近では、自分の老後をみてもらうことが動機となっている。日本の養子制度には欧米のように赤ちゃんの命を守るため、子供のためという発想はなかった。日本の養子制度では、もらい子はもらい子として、実子とは差別されていた。たとえば実子であれば親の都合で離縁できないが、もらい子は親の都合で離縁することができた。このことは遺産相続の際にしばしば問題になった。実子が親を説得しもらい子を離縁させれば、実子が遺産を独占できたからである。

 またカトリックの国々では、人工中絶は神から授かった胎児を殺す行為とされ禁止されている。胎児は受精した瞬間から罪のない人間として扱われていた。その点、日本は堕胎天国である。親の都合によって簡単に堕胎した。それは宗教の違い、文化の違いが根底にあった。

 日本は奈良時代から明治時代まで間引き(嬰児殺し)という言葉が使われていたように、赤ちゃんの生存権は親が握っていた。日本では「霊魂は成長するにしたがって授けられる」という考えがあり、赤ちゃんの人権を軽く見ていた。この考えは現在も生きており、人工中絶をさほど罪悪視しない風潮がある。たとえば妊婦が殺されても殺人罪を問われるのは妊婦本人だけで、胎児の命はたとえ出産直前であっても刑法上は無視されている。このように胎児の人権は法律上は中途半端な状態となっていた。

 昭和48年4月5日、こどもの日に「赤ちゃんを守る国会議員懇親会」が設立された。玉置和郎、山下春江、楠正俊、藤原道子、小平芳平が準備委員となって党派を超えて活動することになった。赤ちゃんの問題はイデオロギーを越えたヒューマニズムの問題であるとして、「揺りかごから墓場まで」に代えて、これからは「胎内から墓場まで」というスローガンを掲げた。そして乳児院を見学し、今後の対策を協議することになった。

 また昭和48年11月12日、「実子特例法推進委員会」が発足した。このグループは委員長に元都議会議員の玉井省吾、事務長に藤井英一、顧問に中川高男教授が就任し、学者、弁護士、医師、牧師、市民など多数が参加した。そして次のような声明文を発表した。

 「私たちは日本の社会が「子殺し天国」といわれている現状に深い怒りをいだいてきた。しかし、その原因と対策については、まったく把握するすべがなく、手を拱いている以外に道はなかった。今回、菊田医師の生命尊重の説話と、同医師の「私は殺せない」の著書により、「子捨て」「子殺し」の最大の原因が血縁偏重の現行民法、および戸籍法であり、これを一部改正し「実子特例法」を立法化することにより、殺されかけている赤ちゃんと、「子捨て」「子殺し」の瀬戸際にある女性を救済し得ることを確認した。

 さらに同法が制定されれば、その後の赤ちゃんの幸福も保障され、不妊症の多くの夫婦や家庭に光明をもたらすことを知るにおよんで、私たちはこの人間愛にもとづく法改正が1日もすみやかに実現されるように運動を展開し、広く全国民に訴え、政府ならびに国会に要望するものである」

 この「実子特例法推進委員会」によって本格的な市民運動が始まった。各地に支部が結成され署名活動が始まった。この活動は日本だけでなく、外国でも報道された。そして12万人の署名が集まった。「実子特例法推進委員会」には全国の善意の人たちが協力を惜しまなかった。とくに公明党宮城本部、東京母の会連合会、沼津市の善意銀行、四国、九州の生長の家、東京のあゆみの会、その他多くの団体、個人が協力した。

 すべての新聞は赤ちゃん斡旋事件についての社説を掲載した。社説は新聞社としての公式見解であり、そのためこの問題に対して明確に賛成、反対を表明できず、優等生が書いた玉虫色の論調が多かった。その中で毎日新聞だけが次のような社説(昭和50年3月20日)を掲げ、菊田支持を訴えた。

「われわれは赤ちゃんの生命を守るため、自分の医院で生まれた赤ん坊を、他人の夫婦に実子として世話をしてきた菊田医師の現場からの切実な要請に、もっと耳を傾けるべきと考える。さらに、世界の養子法が、いまや実子特例法の時代であるという現実をみるとき、なおさらそのことを強調せざるを得ない。とりわけ昨今は、戦前の多産時代とは違って、養子を欧米並みに、孤児、私生児に求めざるをえなくなっている。したがって「出生の秘密を知って」の悲劇は、今後ますます多くなる傾向にあるといってよい。もともと、菊田医師が「実子特例法」の設定を主張する根本的な発想は、子捨て、子殺しを制度的になんとか防止したいという体験で得た教訓からきている。養子縁組の歴史は捨て子の歴史に始まるといわれるが、現代ではその捨て子の本当の幸福を考えた場合、子を実親と断絶し、養親の実子とするのがもっとも望ましいという結論に到達したのである。子供の生命と幸福がおびやかされているとき、この子供に新しい親を用意することは、なんら不都合なことではあるまい。「実子特例法」は、それを法的に認めようというものに過ぎない」

 新聞には解説、社説だけでなく、多くの読者からの投書が掲載された。各新聞社はバランスをとるため菊田医師の違法行為に賛成、反対の両意見を掲載したが、もちろん賛成の意見の方が多かった。

人間はいつから人間か

 石巻署はこの赤ちゃん斡旋事件に戸惑いを覚えていた。もし違法行為として捜査に乗り出せば、直接子供に影響を与えるからである。最初に斡旋した子供は、すでに高校生になっていた。捜査の過程で高校生が出生の秘密を知ったらどうなるか、そのため違法行為であってもそれを捜査するかどうか決めかねていた。

 菊田はマスコミが動けば世論の賛同が得られ、そうすれば日本医師会が賛成を表明し、法律家の裏付けを得て政治家が動く。このような流れを想定していた。そして国会で戸籍法の改正がなされるものと考えていた、しかし世論とマスコミは菊田を支持する論調が強かったものの、それとは反対に日本医師会と行政は菊田昇不支持の構図に傾いていった。菊田がマスコミで実子法案の必要性を訴えれば訴えるほど、日本医師会は日本医師会の立場を無視する売名行為と受け止めた。菊田が有名になればなるほど、権威者たちのひんしゅくをかうことになった。

 政党としては公明党宮城県本部がまず菊田医師を支持する立場で動いた。公明党宮城県本部は「子捨て、子殺し事件は人間性の欠陥とともに、日本古来の戸籍法、養子制度が大きな要因となっている。子供の生命と幸福を守るために実子特別法の早期設定が必要」との声明を出し、この決議は全国の公明党の運動方針となった。

 菊田医師の行為は明らかに違法行為であった。違法行為でありながら、誰も告発しないまま年月が経っていった。そして赤ちゃん斡旋事件が発覚してからも、菊田産婦人科医院では赤ちゃん斡旋が継続されていた。

 菊田の妻、静江はキリスト教徒であった。キリスト教は堕胎そのものを認めない宗教だったので、菊田に対する静江の理解は十分すぎるものであった。静江は菊田の考えを理解しているだけでなく、愛情が菊田の心を支えていた。菊田はキリスト教徒ではなかった。むしろキリスト教に偽善的なものを感じていた。静江が教会に行くことさえ不快に思うほどであった。しかしいつしかキリスト教に傾倒してゆくようになる。最初は妊娠後期の人工中絶に反対していたが、しだいに人工中絶そのものに反対する心情に傾いていった。

 人間はいつから人間といえるのだろうか。それは出産時であろうか、法律で言う妊娠8ヵ月であろうか、それとも受精の瞬間だろうか。考えれば考えるほど分からなくなった。菊田は人工妊娠中絶をするとき、「私を殺さないで」という胎児の声が聞こえるような気持ちになった。

 人工中絶は必要悪であり仕方ないとする人がいる。しかしお腹の中に宿ったときから、すでにまぎれもなく生命なのである。生命を宿したときからそれは、お母さんのものでも、お父さんのものでも、国家のものでもない。その生命は赤ちゃん自身のものである。産まれた子供を殺せば殺人、生まれる前なら無罪というのはおかしいのではないか。お腹の中の赤ちゃんを助けたいという菊田の願いは次第に強くなった。胎児は受精後わずか3週間で心臓の拍動が始まり、4週目にはすべての臓器が形成される。3ヵ月目には指しゃぶりを始める。たとえ子育てが困難でも、ひとたび生命を与えられた胎児は、生きる権利があるはずだと思えた。

 世論は菊田医師の行為を好意的に受け止めていた。昭和49年7月の参議院選挙全国区でコロンビア・トップ(下村泰)が日本で初めて「実子特例法」の公約を掲げ当選した。そして「実子特例法推進委員会」の顧問となった。

 昭和49年12月、札幌市議会が実子斡旋特別法を推進させるための意見書を採択、これをきっかけにNHKがドキュメント番組で、赤ちゃん斡旋事件を全国に放映した。菊田は生の映像をとおして、実例を挙げ、実子特例法が設定されない限り、赤ちゃんの生命を救うことはできないと訴えた。放送は国民の感動を引き起こした。しかし日本母性保護医協会(当時)からは、違法行為を宣伝する菊田に非難の声が挙がった。

 

産婦人科医の反発

 日本母性保護医協会は全国の優生保護法指定医師の団体、つまり人工中絶の免許を持つ産婦人科医師の団体である。赤ちゃん斡旋事件の発覚当初、日本母性保護医協会は「菊田医師の人間尊重の心情に敬意を賞する」と菊田の違法行為を賞賛していた。しかし発覚1ヵ月後には「菊田医師が胎児の生命を救ったごとくのべているが、安易に英雄的行為のごとくもてはやすことは、目的のためには手段を選ばないとの風潮を助長する恐れがある」と変わっていった。さらに「出生証明書は出産に立ち会った医師が正確に記載すべきで、事実と違う証明書を書くのは誤りである」とした。このように協会の見解が大きく変わったのは、先にのべた「菊田医師を守る石巻市民の会」の団体の影響が大きかった。この団体は人工中絶を止めさせるために、優生保護法の改正を目指していた。菊田医師は人工中絶そのものを否定していたわけではなかったが、この団体のまいたビラが大きな誤解を生んだ。

 加えて菊田医師が妊娠7ヵ月の中絶を間違いだと公表したことが日本母性保護医協会を激怒させた。当時の優生保護法では妊娠7ヵ月までの人工中絶を合法としていたが、菊田は妊娠7ヵ月の胎児は母体外で生存可能であり、それを人工中絶するのは間違いであるとマスコミに述べた。これに対し日本母性保護医協会は妊娠7ヵ月の人工中絶はほとんど行われていないと表明した。しかし妊娠7ヵ月の人工中絶総数は、昭和48年の統計では、1年間で1650件に達していた。この数値は厚生省に届けられた数値で、実際にはその数10倍以上とされていた。協会は菊田が自分たちの恥部をさらした内部告発者として憤慨した。そして実子特例法の制定運動を止めること、実子斡旋を止めることを迫った。もちろん菊田は良心に恥じることは何もないとそれを拒否したのだった。

 昭和50年3月、日本母性保護医協会は「赤ちゃんを斡旋するなら養子の手続きを踏むべきだ」と主張し、菊田を除名処分にした。河北新聞は「菊田に弁明の機会を与えず、子捨て、子殺しをどうするかの議論もせず、菊田昇を除名したのはあまりに一方的である」との記事を載せた。

 菊田は昭和48年にこの事件が起きてからも、黙認されたかたちで赤ちゃん斡旋を続けていた。闇から闇に葬られる胎児を見るに忍びず、斡旋した赤ちゃんの数は220人に達していた。菊田の行為は明らかに違法行為であった。しかし違法行為であっても、誰も告訴しないまま黙認され、赤ちゃん斡旋は暗黙の了解として続けられていた。

 日本母性保護医協会との「妊娠7ヵ月の中絶論争」は協会からの一方的な除名処分により解決したように見えた。しかし最終的には菊田が勝つことになる。それは昭和50年11月、田中正巳厚生大臣が妊娠7ヵ月まで認めていた人工中絶を1ヵ月短縮して妊娠6ヵ月までにしたいとコメントし、厚生省事務次官の通達により人工中絶は妊娠6ヵ月までとなったからである。つまり「妊娠7ヵ月に達した胎児は生存可能なのに、ヤミに葬るのは殺人行為である」という菊田の主張が国を動かしたのである。菊田は妊娠7ヵ月の中絶論争で日本母性保護医協会に勝ったのだった。昭和28年に厚生省が妊娠7ヵ月までとしていた人工中絶の基準が23年ぶりに1ヵ月短縮された。医学の進歩により妊娠7ヵ月の胎児は生存可能となったのだから、菊田の主張は当然であった。同じ病院の中で、医師が未熟児を救おうとして必死になっているのに、隣室では生存可能な胎児に薬物を注射し、バケツに放り込んでいるのは大きな矛盾であった。

 しかし協会の主張に勝ってしまったことが、協会の面子を潰してしまった。日本母性保護医協会は日本医師会の産婦人科部会と同じ組織である。菊田昇のスタンドプレーが産婦人科部会、日本医師会の怒りを増大せることになった。当時の医師会は現在の医師会とは違い権威的で面子を重んじていた。菊田の考えが正しいかどうかよりも、自分たちを無視するような菊田の言動を目立ちたがり屋の無礼者と捉えたのである。

 赤ちゃん斡旋事件の発覚から4年の間、菊田昇の赤ちゃん斡旋は多くの議論を引き起こしたが、黙認されたままであった。しかし昭和52年になって、ついに愛知県産婦人科医会(会員650人)が菊田を公正証書原本不実記載の疑いで仙台地検に告発した。なぜ遠隔地である愛知県産婦人科医会が告訴したのか。愛知県産婦人科医会は、昭和51年10月に「愛知県の産婦人科医が、子捨て、子殺しをなくすために赤ちゃん斡旋を行う」と宣言したのだった。初めは菊田もやっと同業者が立ち上がってくれたと喜んだ。しかし愛知県産婦人科医会は赤ちゃん斡旋を合法的に行うと宣言し、非合法的斡旋を行っている菊田をマスコミで批判した。愛知県産婦人科医会は親と子の血縁関係を重く見ており、菊田と見解を異にしていた。そこで菊田を日本の伝統的な親子関係を根本的に覆す者と攻撃したのである。

 赤ちゃん斡旋について、菊田と愛知県産婦人科医会のS理事との間で激しい論争が始まった。東海テレビでは菊田とS理事との対立を放映した。この番組は連続放送されるほど大きな反響をよんだ。そしてS理事は菊田の赤ちゃん斡旋に関し斡旋料を取っているような発言をした。さらにS理事と菊田は月刊誌の紙上でも激突したが、現行の法律を変えなければ無意味とする菊田の主張に対し、S理事の反論は弱かった。3度目のテレビ対決でS理事は突然出演をキャンセルし、テレビでは菊田だけが話すことになってしまった。その結果、愛知県産婦人科医会から告訴状が仙台地検に出された。

 

医業停止処分と全面敗訴

 告訴状がでた以上、仙台地検は事件に着手せざるを得なかった。菊田は「赤ちゃん斡旋」でニセの出生証明書を作成したとして公正証書原本不実記載、医師法違反の罪で仙台簡易裁判所に略式起訴されることになった。

 仙台地検は菊田の行為を表面上「国民の身分関係を公証する戸籍制度への重大な挑戦」と受け止めた。菊田の主張に対し、法務省は「親の責任放棄を法律で裏付けることは論外である」との見解を示した。赤ちゃん斡旋事件が表面化してから4年目の告訴であった。もし本当に悪い行為であればすぐに法的処置が施行されたはずである。それが4年間も放置されたのは、司法当局は違法と分かっていても、法的問題として取り上げたくなかったからである。ニセの出生証明書一枚と赤ちゃんの命のどちらが大切かは誰でも常識的に分かることだった。

 しかし告訴を受けた以上、法律に則してこの違法行為を罰しなければいけない。裁判所の判決に世間の注目が集まった。そして昭和53年3月、菊田昇は仙台簡裁から公正証書原本不実記載で罰金20万円の略式命令を受けた。菊田昇は斡旋した赤ちゃんの家族を証人として法廷に立たせないため、あえて反論せず、罰金刑を受けることにした。

 罰金20万円の現金を支払い、今後「赤ちゃん斡旋」は行わないと法廷で誓った。罪を償い、再犯しないことを誓った。しかしこの判決を口実とするかのように、厚生省の医道審議会は菊田に対し6ヵ月間の医業停止の行政処分を命じた。6ヵ月間の医業停止は厳しい処分であった。これを聞いた菊田は6週間の間違いではないかと自分の耳を疑った。

 厚生省の6ヵ月間医業停止は医師免許剥奪に次ぐ重い処分である。同年、菊田医師と同じ6ヵ月間の医業停止処分を受けた医師は全国で2名だけで、ひとりは覚醒剤取締法違反で懲役2年、もうひとりはニセ診断書を書いて保険会社から2300万を騙し取った医師だった。赤ちゃんの生命を守ろうとした菊田が、懲役刑を受けた医者と同等の処分を受けたのである。医の道を守り、生命尊重を何よりも優先させたはずなのに、医道審議会は極悪人なみの重罪を与えたのだった。医業停止の理由として医道審議会は、出生証明を曲げたのは医師としての職業倫理に反していること、近親結婚の恐れがあるのに医師としての配慮が欠けていたこと、また斡旋された子供をめぐり法的紛争が起こる可能性があること、さらに菊田医師は赤ちゃんの生命を守るための行為と主張しているが、客観的に見て緊急避難に該当しないとした。

 このことに対し朝日新聞は「菊田昇医師がマスコミを巻き込んだ派手なスタンドプレーを行ったため、高齢医師からなる医道審議会が憤慨したのが真相であろう、感情的判断である」と報道した。

 国の命令による医業停止処分であるから、菊田は医院の看護婦や従業員を解雇しなければならなかった。

 マスコミ、国民の多くは生命を守る行為が、なぜ医師法違反に相当するのか理解できなかった。人工中絶は胎児への殺人であり、子供の欲しい夫婦に新生児を斡旋する方が道徳的であると直感していた。法律を守ることが社会の中で最優先とはいえ、医師法違反の判決、医業停止処分など一連の処分に憤慨する市民が多かった。

 菊田は6ヵ月の医業停止処分を不満として、処分撤回を求めて東京地裁に提訴した。しかし裁判では1、2審とも請求は棄却され敗訴となり、最高裁まで争うことになった。昭和63年7月、最高裁の牧圭次裁判長は菊田の訴えに対し、「実子斡旋行為は法律上許されないだけでなく、医師の職業倫理にも反する」として上告を棄却し敗訴が決定した。菊田の行為が嬰児らの生命を守ろうとした点にあったとしても、医師の職業倫理に反する程度は大きく、処分は裁量権の範囲内とした。また優生保護医指定の取り消し処分をめぐる裁判でも、最高裁は上告を棄却し、赤ちゃん斡旋事件に法的決着がつけられた。

 菊田は裁判では全面敗訴に終わった。数百万の弁護士料が重くのしかかった。しかし彼は赤ちゃん斡旋事件以来、一貫して戸籍法を改正する必要性を訴え続けてきた。出産の事実を知られたくない未婚の母親の戸籍に出生の記録を残さないこと、子供を産んだ実親との親子関係を断絶させること、養子となった子供は戸籍上養親の実子として取り扱うことが必要と主張し続けた。しかし「血は水よりも濃い」という伝統的な考え方と厚い法律の壁が菊田や支援団体の前に立ちはだかっていた。それでも菊田の問題提起は世の中を少しずつ動かしていった。

 

念願がかなう

 赤ちゃん斡旋事件発生から数年が過ぎると、実子特別法案の制定運動の熱もしだいに冷めていった。その中で地方議会が動きはじめた。秋田県議会は町民から実子特別法案の早期実現のための陳情を受け、その採択が迫られていた。陳情書を出したのは大曲農業高校の奥山栄千であった。孤立した菊田を救うため情熱を燃やしたのである。奥山は自分で嘆願書を書き秋田県議会に提出した。そして各議員に赤ちゃんの生命救済を訴えた。この奥山の嘆願書は県議会を動かした。自民党議員総会では嘆願書は時期尚早との意見が多かった。しかし小山田四郎議員は「実子特別法案はイデオロギーを超えた人道的措置。人道主義を忘れた政治は真の政治とはいえない。私は党を除名されても賛成に回る」と述べた。この小山田四郎議員の発言は議員たちの心を動かした。そして実子特別法案の早期実現を全員一致で採択した。秋田県だけでなく長野県議会、千葉市議会、札幌市議会、男鹿市議会などで、次々に実子特別法案の早期実現の決議が行われた。

 そして「赤ちゃん斡旋事件」から15年目、最高裁で敗訴が決定する直前に、菊田の念願は法律の改正という形で実ることになる。

 昭和62年9月18日、国会で「実子特例法」に近い内容の「特別養子制度」が全員一致で可決された。「特別養子制度とは養子を実子と同様に扱う法律」で、それまでの養子制度とは大きく違っていた。特別養子制度はまず「家庭に恵まれない子に暖かい家庭を与え、その家庭の中で健全な育成が図れるようにする」ことを目的とした。従来からの養子制度は家のため、親のため、相続税対策などの目的で利用されることが多かったが、特別養子制度は子供の利益のために導入された。実親との関係を切り、裁判所が6ヵ月養親の養育状態を見た上で実子として縁組みを認めるもので、養子であっても戸籍には実子と同等に扱われるようになった。戸籍から養子という言葉は消え、「長男」「長女」と記載されるようになった。戸籍の父母欄には養父母の氏名だけが記載され、養子を貰う親にとっては画期的な制度となった。

 特別養子制度では「子供を産んだ女性の戸籍に出産事実を記載しない」という措置は認められなかったが、養子と産みの親との法律上の親子関係を断ち切るという画期的な制度であった。血縁主義の戸籍から愛情主義の戸籍へと大きく変わったのである。それは血のつながりがなくても、愛によって合法的に親子関係が決まることを意味していた。血は水よりも濃いと言うが、この法案は親子の愛情は血よりも濃いことを示していた。「特別養子制度」は菊田の赤ちゃん斡旋事件があったから成立したのである。

 また菊田の働きによって、中絶できる妊娠月齢が引き下げられた「母体保護法」も再度特記すべきことである。これらの法律は、犯罪者として扱われた菊田の行為によって成立された法律といっても過言ではない。菊田の熱意が世論を動かし、政府の重い腰を上げさせたのである。

 子供を捨てようとする親がいて、養子をもらいたい親がいる。その間のパイプがなかったため人工中絶や赤ちゃん殺しが繰り返されてきた。法の改正によってこのパイプができたのである。特別養子制度の導入は菊田にとって完全なものではなかった。改正された項目は養子をもらう側にとっては朗報であったが、実母の戸籍には出産の事実がそのまま残る改正に終わったからである。子どもを捨てようとする実母の苦境や赤ちゃんの危機的状況への配慮が欠けていた。しかし「赤ちゃん斡旋事件」から15年が経っていた。若者の避妊などの性的知識は増え、日本も貧困から脱出し、女性の権利も守られるようになった。さらに23週以上の胎児の人工中絶が禁止されたことから、菊田の念願の多くが達成できたと考えられる。

 菊田昇は「赤ちゃんあっせん事件」により罰せられたが、彼の信念は間違った法律をより正しいものに改正させた。このような勇気ある医師を有罪にした日本の裁判所は社会における法律の意味を考え直すべきである。日本の戸籍では、殺人を犯しても戸籍には殺人の記載はされない。しかし出産の秘密を隠したいと母親が望んでいても戸籍にはまだ記載することが義務づけられている。

 

マザーテレサとの出会い

 昭和56年4月24日、映画監督千葉茂樹から電話が入った。千葉監督は「マザーテレサとその世界」という映画を撮った監督であるが、「マザーテレサが日本に来ており、生命尊重のシンポジウムを行っている。あなたの考えとまったく一致している。ぜひ紹介したいからすぐ来てほしい」という内容であった。菊田とマザーテレサの生命に対する意見は一致していた。そしてマザーテレサは菊田の運動がすみやかに達成されるようにと祈られた。

 菊田は長い間、自分は何者なのか、どのように生きるべきか、人間はなぜ生まれ、なぜ死ぬのかについて悩んでいた。マザーテレサに会って、それは自分が胎児を守るために命を与えられ、自分がそのために生かされているのだと分かった。菊田は堕胎の時期を短くするように主張して、法律を改正させたが、キリスト教は胎児には受精の瞬間から人権があるとしていた。考えれば考えるほど、菊田はかつて嫌っていたキリスト教に傾いていった。

 赤ちゃん斡旋事件以来、菊田は自分の信念を貫き通した。しかし残念なことに、いつしか病魔におかされていた。昭和61年12月、石巻赤十字病院で大腸癌と診断され手術を受けた。翌1月に退院し、術後経過は順調に快復に向かった。そして菊田昇は、妻の静江にキリスト教の洗礼を受けたいと打ち明けた。

 妻の静江は夫の言葉に驚き、しばらくは声もでないほどであった。それまで菊田は静江が教会に行くのを嫌がるほどキリスト教を嫌悪していた。それは結婚33年目のことであった。「夫婦ふたりそろって教会に行ける日」が来たのである。

 平成2年5月、国連の国際生命尊重連盟の第一回世界会議がオスロで開催された。国際生命尊重会議とは、生命尊重の実践活動を推進するため、国連が世界各国に呼びかけて創設された会議だった。科学や医療技術が急速な進歩を遂げ、人間の生命操作が可能になり「人間の生命とは何か」という根本的命題に立ち向かう必要にせまられ設立された。第一回世界会議では「見失われていく生命の原点」がテーマとなった。それは失われた「生命への畏敬の復活」を願うものであった。

 平成2年10月、菊田昇は静江夫人とともに、国際養子としてアメリカに斡旋した家族たちから招待を受けた。ロサンゼルスで元気な子供たちに囲まれ、両親たちの喜ぶ姿を目にして涙が流れた。本当は殺されるはずだった子供たちの笑顔に囲まれ、彼の嬉しさ、感動は言葉では表現できないくらいであった。

 しかし帰国後の、平成2年12月、大腸癌の転移が見つかり東北大学付属病院で再手術を受けることになった。癌は肝臓や骨に転移して、医師である菊田は自分の余命が短いことを自覚した。しかし後悔はなかった。キリスト教を信仰したことによって、自分に負わされた苦難の意味を理解し、癌の末期であっても平穏な気持ちを保つことができた。

 

世界生命賞を受ける

 平成3年4月25日、第二回国際生命尊重会議が東京で開催された。第二回の国際生命尊重会議の討議事項は「胎児の人権宣言」についてであった。国際生命尊重会議の最終日、胎児の人権宣言が高らかに宣言され、そして東北大学付属病院に入院中の菊田昇にマザーテレサに次ぐ世界で2人目の「世界生命賞」が授与されることが決定した。胎児を中絶から守ったこと、また胎児の人権保護に尽くしたことが受賞の理由であった。

 菊田昇は病室で「自分は受賞には値しない人間で、あまりにもったいない」と目をうるませた。4月27日、菊田昇は末期癌の身体をおして妻の静江、看護婦、二人の息子とともに東京の会場にはいった。カメラのフラッシュを浴びながら菊田昇が壇上に挙がると、会場からは大きな拍手が沸きあがった。

 受賞式を済ますと、その夜には病院に戻りベッドに横たわった。毎日、多くの人たちからの手紙や来訪があった。かつての多くの医師仲間も見舞いに来てくれた。

 菊田昇は自分の人生を振り返っていた。裁判で負けたことも、反対者に攻撃されたことも、振り返ればすべてが良かったと思えた。手紙の束を前にして、自分はこんなにも多くの人々から愛されていたことを知った。自分は世界で一番幸せな男だったと思った。ベッドには、いつも妻の静江が付き添い、毎日夜になると聖書を読んでくれた。菊田はしだいに衰弱し、「世界生命賞」の受賞から4ヵ月後の8月21日、安らかに天に召された。

 菊田昇は法律よりも医師としての使命感を信じ、行政よりも神の声を信じ、もっとも弱い無防備な赤ちゃんの生命を守るために、自らの生命を賭けて闘った。菊田昇の半生はまさに愛と苦難の連続であった。彼は自分の信じる道を駆け抜け、特別養子制度という遺産、人工中絶期間を短縮させたという遺産、そして家督よりも胎児の権利を守るという考えを私たちに残してくれた。信じた道をまっすぐに突き進んだ菊田昇の半生は殉教者のようであった。享年65、彼の墓標には「世に勝つ勝利は我らの信仰なり」の聖書の一節が刻まれている。