肥沼信次(リーツェンの桜)

 肥沼信次(リーツェンの桜)

 昭和20年5月8日、ドイツが連合軍に無条件降伏すると、ドイツ国内は大混乱に陥り、食糧不足による栄養失調、下水道の破壊による不衛生、住居を失った人たちの集団生活などにより伝染病が蔓延する最悪の状態となった。特に発疹チフスは戦争チフスの別名があるように、敗戦直後のドイツで大流行した。日本人医師、肥沼信次(こえぬまのぶつぐ)は日本大使館の帰国命令に逆らい、自らの感染を恐れず、伝染病の最前線に飛び込んでいった。異国の地で,彼は昼夜を問わず伝染病にあえぐ患者の治療に尽くし、多くのドイツ人の生命を救った。そして自ら発疹チフスに感染し、昭和21年3月8日、肥沼信次は異郷の地リーツェンで発疹チフスのため他界した。37歳の若さであった。

 

 リーツェンの英雄

 肥沼信次がドイツ人のために献身的に働いたリーツェンはドイツ東部のポーランド国境近くにある。敗戦後、ドイツは東西に分断され、リーツェンはソ連統治下の東ドイツとなった。そのため肥沼信次の名前は共産主義陣営の壁に阻まれ、平成元年11月9日に市民の手でベルリンの壁が崩壊するまで、彼の名前は日本ではほとんど忘れられていた。40数年間にわたる東西冷戦が肥沼の名前を消し去り、彼に関する資料はほとんど残されていない。また彼を直接知る者も数人だけである。しかし多くのドイツ人の生命を救った彼の名前は、親から子へ、子から孫へと語り継がれ、多くのドイツ人の心に刻みこまれていた。肥沼信次はドイツの教科書に載るほど地元の人たちから尊敬されていた。

 肥沼信次が死去した後、リーツェンの人々は彼に救われたことを感謝し、大理石の立派な墓をフリート広場の墓地に建て、献花の絶える日はなかった。自分たちの恩人を忘れず、半世紀にわたり彼の墓を守り続けてきた。

 リーツェン市では、毎年、肥沼信次が亡くなった3月に、ドイツ、ポーランドの少年、少女たちの柔道大会が行われる。この大会は「肥沼記念杯」と名付けられ、数百人の参加者が試合前に彼の墓に花をささげることになっている。柔道着に身を包んだ少年少女たちが墓前に整列し、自分たちの祖父母を救ってくれた恩人の冥福を祈るのであった。また市役所の正面玄関には肥沼信次の功績を讃えた記念プレートが飾られ、市内の郷土博物館には彼の記念室が設けられている。

 伝染病撲滅のため自らの命をささげた肥沼信次は、世界に誇る数少ない日本人のひとりである。彼の人生はかつての日本人が持っていた「人を思いやる人間愛」、日本人医師が持っていた「人道的使命感」、現在の日本人が見失っている「日本人としての誇り」を教えてくれるものである。

 

 生い立ち

 肥沼信次は、明治41年10月9日、東京都八王子市中町の外科医、肥沼梅三郎の長男として生まれた。父親の梅三郎は「肥沼医院」を開業し、診察、投薬、往診など地域住民の医療につくしていた。叔父の松井寅三郎は八王子医師会の会長を務め、母親ハツは造り酒屋の娘であった。兄弟や親戚に医師が多いことから、七人兄弟の長男である信次は幼少の時から医師になって父親の跡を継ぐことが当たり前とされる環境で育った。信次に対する父親の教育はきびしかったが、彼はきびしい教育を当然のように受け止めていた。

 八王子尋常小学校時代の信次は、どうしても数学が苦手だった。そのため父親が数学の家庭教師をつけて数学の基礎を学ばせた。家庭教師は数学は暗記科目ではないこと、また小手先のテクニックを習得するものでもないことを教えてくれた。そして数学が持つ理論的思考、さらには神秘的な真理が数式によって解き明かされる喜びを教えてくれた。そのお陰で信次は数学が大好きになり、数学の成績もぐんぐんと伸びていった。彼はもともと勉強が好きであったが、数学の面白さにとりつかれていった。

 八王子尋常小学校を卒業すると東京府立第二中学校(現都立立川高等学校)に入学した。ちょうど中学生の時に、相対性理論で有名なベルリン大学教授アインシュタインが来日、アインシュタインはマルセイユから日本郵船の北野丸で来日したが、日本に向かう船中で彼のノーベル賞授与がノーベル財団から発表された。アインシュタインは熱狂的な歓迎を受け日本各地で講演を行った。新聞は連日のように彼の特集を組み大々的に報道した。

 アインシュタインの相対性理論はそれまでの物理学の常識を根底からくつがえす天才的発想によってつくられた。信次は「自分もアインシュタインのようになりたい」と強いあこがれをもった。また信次はラジウムの発見者であるキュリー夫人をも尊敬していた。キュリー夫人はフランスの科学者であったが、女性初のノーベル賞受賞者で、しかも2度も受賞するほどの学者であった。信次の部屋にはアインシュタイン、キュリー夫人の写真が飾られ、勉強に疲れると、写真をながめながら物思いにふけった。そして思い出したかのように、また勉強に打ち込んだ。

 信次は「ドイツに行きたい、ドイツで研究したい、ドイツに留学しなければならない」と中学生の時からドイツ留学にあこがれていた。彼は遊ぶことを知らない勉強家であった。特に数学の成績は飛び抜けて優秀で、学年では常に一番であった。日本の教科書では飽きたらず、ドイツ語で書かれた原書を買って読んでいたほどである。

 肥沼は旧制第一高等学校を受験するが結果は不合格であった。それは数学の勉強に没頭しすぎて、他の学科がおろそかになったからである。1年の浪人の間、彼は本郷に下宿し、東京物理学校(現東京理科大)で数学を教えていた。これは生活費を稼ぐためではなく、数学がおもしろかったので、東京物理学校の教壇で数学を教えることに喜びを覚えていたからである。

 

 大学時代

昭和2年4月、肥沼信次は父親の梅三郎の母校である日本医科大学に入学した。文京区に下宿を変えたが、下宿にいても、学校にいても、八王子の自宅に帰ってきても、机に向かい勉強に明け暮れる毎日であった。その当時は大正ロマンと呼ばれ、退廃的、享楽的な雰囲気が学生の間に漂い、時流に流されて遊ぶ学生が多かった。またマルクス主義を理念とした学生運動が学生の心をとらえようとしていた。経済の悪化と大衆の貧困、国家主義と思想弾圧、国家体制による学問への束縛、このように日本国全体が混沌としたなかで軍国主義の色合いが濃くなっていた。しかし信次はそのような時代に流されず常に勉学に励んでいた。

彼が何を勉強していたのか、級友たちは知らなかった。彼は多くを語らず、しかも読んでいたのはドイツ語の原書だったので、周囲は何の勉強なのか理解できなかった。級友が尋ねても、恥ずかしそうに笑みを浮かべるだけであった。彼は主に数学、物理学の本を読んでいたが、医学、生物学についての本も読んでいた。

 日本医科大学における信次の成績は優秀であったが、むしろ数学が天才的にできる学生として有名であった。いつも数学のドイツ語の原書を離さず、「数学の肥沼」、「数学の鬼」と言われていた。日本医科大学には有名な数学の教授がいたが、分からないところがあると、肥沼のところに聞きに行ったほどである。医学生であれば医学を勉強するのが当然であるが、戦前の医学はまだ進歩しておらず、難しいものではなかった。解剖学、細菌学、生化学、薬理学、病理学などの基礎医学は暗記が主で、まだ臨床医学との結びつきは弱かった。臨床における治療法も限られ、彼の思考を満足させるものではなかった。信次は医学に飽きたらず、数学や物理学の本ばかり読んでいた。下宿の部屋にはドイツ語の原書が山積みになっていた。彼にとって数学は学問であり、同時に趣味の世界でもあった。学生でありながら数学関係の学会の会員になっていた。

 昭和3年の夏、肥沼信次が大学2年生の時である。飛行船ツェッペリンがドイツから世界一周の旅の途中で東京上空を飛んだ。飛行船は空気より軽いガスを巨大な袋につめて機体を浮上させ、これに推進用の動力をつけたものである。飛行機が実用化するまでは、飛行船は時代の最先端をゆく航空輸送であった。信次は巨大な飛行船ツェッペリンの姿を見ながら、それを造りあげたドイツ物理学に強いあこがれを抱いた。

 彼だけでなく、科学に関してはドイツが最も優れた国であるという印象を多くの日本人が抱いていた。また日本の医学は明治時代からドイツを手本にしており、用いられる医学用語も英語ではなくドイツ語であった。学生時代の肥沼も学問を目指す学生としてドイツという国にあこがれていた。そして心にあこがれを秘めながら静かに机に向かっていた。

 大学三年生のときに満州事変が勃発、半年後には満州国が建国された。日本は国際世論の反発を受けながらも軍国主義の道をひた走ることになった。日本の軍国主義、変化する国際情勢のなかにおいても、肥沼の生活は変わらなかった。学問という純粋なものに近づこうとする向学心に燃えていた。そのため同級生の肥沼に対する印象は極めて乏しい。「数学が出来る学生」という記憶しか残されていない。大学の卒業アルバムには趣味の欄があるが、他の学生たちは「音楽」とか「読書」などを挙げていたが、肥沼の欄には「趣味は数学」と書いてあった。

 

 放射線医学の研究

 肥沼信次は日本医科大学を昭和9年に卒業すると、東京帝大医学部放射線医学教室に入局し放射線医学を専攻した。当時、放射線医学は医学の中では新しい分野で、日本医科大学にはまだ放射線医学教室はつくられていなかった。東京帝大医学部放射線医学教室も彼が入局する2年前にできたばかりで、放射線医学の初代教授はドイツ留学から帰国したばかりの中泉正徳であった。放射線医学教室ではレントゲン写真による診断を行いながら、未知の分野である放射線の研究を行っていた。放射線の人体に及ぼす影響、放射線の抗ガン作用など、多くの未解決の問題があった。

 放射線医学の研究には数学的思考が必要で、肥沼にとっては得意な数学や物理学を生かせる分野だった。彼は中泉教授の指導を受け実力をつけていった。放射線研究に関する医局での議論は常に真剣だった。特に中泉教授と肥沼の議論は他の医局員が理解できないほど難解で専門的な激論となった。時として怒鳴り合うように周囲から見えたほどである。しかしそれは師弟の関係を超えた学問上の真剣な議論のぶつかり合いであった。

 東京帝大医学部放射線医学教室での3年間の研究生活で、肥沼は教授との共著で3編の論文を書いている。ひとつは酵母にレントゲン照射を行い、成長の段階において細胞障害に違いが出てくることを示した研究である。分芽期、増殖期に照射すると照射量によって成長障害が強くでるという研究であった。この論文は「細胞の発育と放射線照射の時間的因子に就いて」の題名で日本レントゲン学会誌(十三巻三号一八二頁)に掲載されている。さらに翌年には、「分割照射における分割間隔とL線の生物的作用」が同学会誌に掲載され、昭和12年1月には「長時間連続照射中における脾臓の組織学的変化」を(十四巻五号四七一頁)に発表している。

 肥沼は放射線の生体に及ぼす基礎研究を行っていたが、日本での研究に飽きたらずドイツ留学を決意していた。しかしその決意が父親の梅三郎の知るところとなり、父親が中泉教授の研究室に怒鳴り込んできた。自分の息子が日本を離れることが許せなかったからである。父親は信次を肥沼医院の跡継ぎと考えていたので留学を許すことができなかった。しかしドイツ留学は信次の意志によるもので、父親が反対しても留学を辞めさせることは不可能だった。中泉教授はベルリン大学に推薦状を書いたが、留学を命令したわけではなかった。信次は交換留学生に応募して合格していたのである。

 

 あこがれのドイツへ

  昭和12年の春、29才の肥沼は国費留学生としてドイツに留学することになった。小雨まじりの肌寒い朝、横浜港から船でドイツに向かうことになる。母親ハツ(61)、弟の栄治(24)、研究室の仲間たちが見送りに来た。信次は長年の念願が叶えられ晴れやかな笑顔を見せていた。彼の笑顔を前に、これが最後の別れになるとは誰も思っていなかった。欧州定期航路は、横浜、名古屋、大阪、門司に寄港してからマルセイユ(フランス)に着くまで41日間の航路であった。肥沼はこの航路の途中、門司で停泊している間に、転地療養している同僚の野口隆を別府まで見舞いに行っている。別府は門司から汽車で日帰り可能な距離とはいえ、このことは彼の情の深さを示している。

 昭和12年6月、肥沼はマルセイユを経由してベルリンに到着。ベルリン大学(現フンボルト大学)の放射線研究所で研究することになった。担当教授は中泉正徳教授の恩師であったヴァルター・フリードリ教授であった。当初、肥沼は客員研究員であったが、すぐに正式な研究員として給料をもらえる立場になった。

 肥沼は放射線研究に没頭し、実験を繰り返しながら多くの論文を書いた。ベルリン大学近くのフリードリッヒに住んでいたが、大学にいても、アパートに戻っても研究のことが頭から離れなかった。その間、世界的に権威のある学術書に数編の論文を書いている。それらは放射線学、物理学、医学に関する論文であったが、放射線による細胞の突然変異から発癌のメカニズムを推測するという価値の高い研究であった。

 昭和16年、彼はフンボルト財団の奨学生となった。フンボルト財団の奨学生になることは優秀な研究者であることを証明するもので、研究者として大きな名誉であった。

 さらに留学6年目にベルリン大学医学部に教授申請の論文を提出した。提出した論文は「レントゲンと紫外線照射がタンパク質および胸腺核酸水溶液に与える作用のメカニズム」という題名であった。この論文は、東大時代から考えていた研究テーマを集約したものである。この教授申請の論文を審査したのはフリードリ教授とATP(アデノシン3リン酸)の発見者であるカール・ローマン教授であった。教授申請の論文は高い評価を得てドイツ学術教育省は教授申請を受理した。このことは彼が放射線分野においてきわめて優秀であることを示している。ベルリン大学で教授資格を受理されたのは東洋人として肥沼信次がはじめてのことであった。この教授資格はドイツ国内だけでなく、欧州の大学でも通用するものであった。

 

 ヒットラーの第三帝国

 肥沼信次は放射線学を研究するためにドイツに留学したが、時あたかも日本が満州事変から太平洋戦争に向かったように、ヒットラーが率いるナチス党によってドイツも第二次世界大戦という渦の中に巻き込まれていった。

肥沼は昭和12年にドイツの土を踏んだが、ドイツは大正7年に終結した第一次世界大戦で巨額の賠償金を抱え、昭和4年の世界大恐慌の直撃を受け、ドイツ経済は疲弊していた。そのため街には600万人の失業者が溢れ、借金を返せずに貧困にあえぐ人がたくさんいた。経済悪化や生活苦による不満が国中に充満し、ナチスはこの国民大衆の不満を利用して勢力を伸ばしていった。民族主義、右翼的な考えのナチスはドイツの不況をそれまでの政治家や政党の失政であると激しく批判した。ドイツ国民はナチスがドイツ国内を健全にしてくれるという幻想に近い期待を持った。多くの民衆は冷静さを失い、生活苦の中で感情的にナチスを支持した。そして昭和8年、ヒットラーが首相に任命された。

ヒットラーは法律を作る権利をナチス政府に全権委任する法律を可決させ、独裁政府を作ることに成功した。ナチスは国会の審議なしに次々と法律を作り、ドイツはヒットラー総裁を中心としたナチスに支配されていった。昭和8年には肥沼が尊敬するアインシュタインもドイツからアメリカに移住した。国際的物理学者であるアインシュタインでさえ、ユダヤ人としての身の危険、学問的弾圧を恐れドイツを去ったのである。

 ヒットラーは第三帝国の建設を目指していた。第三帝国とは優れたドイツ民族を中心に帝国を建設しようとするものである。それに異を唱える政治家や学者は冷遇追放され、迎合する政治家や学者はその建設に追従した。民衆はナチスに洗脳され、軍部はそれを実現しようとした。そして反対する者を虐待した。ヒットラーはドイツ民族(アーリア人)を理想的な人間と考え、ドイツを中心に世界統一を達成させようとした。

 中世の神聖ローマ帝国(962〜1806)を第一帝国、ビスマルクの帝制ドイツ(1871〜1918)を第二帝国、そしてナチス支配下の国家(1933〜45)を第三帝国とよんだ。この第三帝国はナチスドイツそのものを意味する歴史的名称で、ヒットラーは第三帝国の実現を信じていた。1936年(昭和11年)ベルリンオリンピックが開催されたが、その記録映画「民族の祭典」を見ると、ヒットラーの自信に満ちた演説からも、このことがうかがい知ることができる。

 ヒットラーはヴェルサイユ体制を破棄して軍備を拡大させた。そしてスペイン内戦へ干渉し、オーストリア、チェコスロヴァキアを併合した。昭和14年9月1日、ドイツ軍は軍ははわになった.しりを中心としたナチスドイツに支配されていただポーランドに侵攻、イギリス、フランスはドイツに宣戦布告をして、第二次世界大戦に突入した。昭和16年、ドイツ軍はソ連にも侵攻し戦争は激しくなった。

 ヒットラーは、アーリア人(純粋なドイツ人)は文化を創造する優秀な民族で、ユダヤ人は文化を破壊する民族と決めつけていた。そして4代にわたりドイツ人でないものは純粋なドイツ人とは見なされず、ユダヤ人の血が混じっていることが分かると多くの迫害を加えた。ヒットラーのアーリア人至上主義は狂気じみており、他民族を絶滅すること、特にユダヤ人根絶がアーリア人の民族的使命としていた。

 ヒットラーの民族主義は、他民族に対するものだけではなかった。同じドイツ人である精神薄弱者、身体障害者40万人に不妊手術を強制し、7万人以上をガス室で抹殺していた。純粋なドイツ人であっても、病院で治療を受けている役に立たないドイツ人をヒットラーは殺害していたのだった。つまり彼のアーリア人至上主義は健全で優秀なドイツ人のための優性思想であった。また宗教も弾圧され、教会から十字架がはずされ、キリスト教徒徒たちも迫害を受けた。 

 

 誇り高い日本人

 昭和15年、日独伊軍事同盟が調印され、日本人である肥沼信次はアーリア人との友好的民族として特別な扱いを受けていた。しかし世界制覇を目指すドイツの国粋主義は日本人といえども危険だった。日本人を特別扱いにしたのは軍事的理由からで、日本民族そのものを高く評価していたわけではなかった。

 ヒットラー政権はドイツの職業集団のナチ化を進めた。公務員、宗教界、法曹界、医療などの分野にナチズムを導入することでドイツ社会全体をナチ体制に組み入れようとした。医学界においては「ナチス職員同盟」「ナチス医師同盟」がつくられ、医師たちは強制的に加入させられた。

 当時のドイツはナチス一色に染められ、大学では、ナチス思想に忠誠を誓わない学者は追放された。ベルリン大学だけでも数百人の学者が職を奪われ、ナチス思想に反する本は図書館の前に積み上げられて燃やされた。数万冊におよぶ焚書にはアインシュタインの書物も含まれていた。このような学問の自由に対する弾圧の中で、肥沼は日本人である誇りを捨てなかった。

 昭和19年2月15日、肥沼信次はナチスドイツへの宣誓書を提出した。「自分はドイツの職業組合に所属せず、純潔な日本人であり日本国籍を有する」と宣言する内容であった。この宣言書はヒットラーへの忠誠を示すものではなく、ナチスドイツに対し、自ら反ナチスを堂々と宣言するものであった。この宣誓文は彼の意志の強さと勇気を示している。肥沼は医学者としてすばらしい業績を残したが、ナチスドイツに迎合しなかったことが後に高く評価されている。

 

 苦悩の日々 

 ヒットラーが言うまでもなく、ドイツは多くの偉大な学者を輩出してきた。しかし日本もドイツに劣らない学者を数多く生み出していた。医学の分野においては、世界で初めて全身麻酔で手術をおこなった華岡青州、ノーベル賞以上の業績を残した北里柴三郎、赤痢菌の発見者である志賀潔、ウサギの耳にタールを塗り世界で初めて人工的発ガンを成功させた山極勝三郎(東大医学部教授)と市川厚一(北大農学部教授)、吉田肉腫をつくりあげた吉田富三(東大医学部教授)などがいた。また物理学の分野においては湯川秀樹は「素粒子の相互作用について」という論文で中間子の存在をすでに予見していた。肥沼は湯川秀樹の論文を読み、彼の中性子理論を高く評価していた。

 ドイツでは日本人は友好民族とされていたが、彼はドイツ人が自分たちを低く見ているのを肌で感じていた。しかし日本の自然科学はドイツに負けてはいなかった。ナチスがアーリア民族の優秀性を言うたびに、彼は反発したい憤りを覚えた。

 肥沼は日本人として誇りを持っていた。しかしいっぽうでは日本にも幻滅を覚えていた。日本が軍国主義になり、ドイツと同じ軍部による独裁政治が行われていたからである。日本とドイツは戦争に至る経緯は違っていたが、罪のない多くの人々を死に追いやったことは同じであった。

 また学問に対する日本の旧態依然の考えに深い失望を覚えていた。肥沼はドイツの大学教授資格論文を書き、高い評価を得ていた。しかし肥沼が博士号をとるため東京帝国大学に論文を提出すると、東大医学部では物理学の研究をあつかった論文は医学とは関係ないとして請求を拒否した。東大理学部に提出すると理学部出身でない肥沼に博士号を与えることはできないという返事であった。肥沼は科学の真理に近づくために研究をしてきたのに、日本における学閥主義が学問を愛する彼の前に立ちはだかっていた。

 肥沼は約8年間ベルリンで生活をしたが、どのような暮らしであったのか、その資料はほとんど残されていない。ドイツの留学生は定期的に研究状況を日本大使館に報告する義務があった。また日独学徒会議へ参加するように言われていた。しかし肥沼は軍国主義を嫌うように日本大使館を避けていた。また大学でも他の日本人研究員との交流も少なかった。

 肥沼が日本の家に出した手紙は八王子の空襲で焼け、またベルリンも連日にわたる執拗なまでの空襲を受け、彼に関する資料は残されていない。昭和20年1月の空襲でベルリン大学も焼けてしまい、大学での研究を続けるという彼の夢も打ち砕かれてしまった。

 昭和20年3月18日、日本大使館はヒトラー政権の崩壊が確実として、ドイツの日本人に帰国命令を出した。当時ドイツには約300人の日本人がいた。日本大使館は約300人の日本人をドイツ南部からチェコスロバキアを経由して日本に帰国させる計画を立てていた。肥沼にも帰国命令が届いていた。肥沼は集合の前日に大使館を訪れたが、避難のための集合日には大使館に現れなかった。肥沼信次は誰にも告げずドイツに残ることを決意していた。そして帰国する日本人たちとは反対方向にある北部のエバースバルデに向かった。エバースバルデはポーランドに近い国境の街である。ポーランドにはソ連軍が駐在し、まさにドイツ国境を越えようとしていた。彼は進攻するソ連軍に向かうようにベルリンを去って行った。 

 ドイツ降伏

 昭和20年4月16日、ロシア軍はドイツとポーランドの現在の国境を流れるオーデル川の東岸に集結し一斉に川を渡たった。ドイツ軍はオーデル川の左岸で激しく抵抗、ドイツ国内での最大の戦闘が行われた。オーデル川から10キロ離れたリーツェンの街は空爆を受け、建物のほとんどが破壊された。ドイツ軍は武器も人員も消耗していたが、ヒトラーは「断固死守」の指令を出しただけであった。ソ連軍はリーツェンの街を制覇し、ヒトラーのたてこもるベルリンへ怒涛のごとく進撃を開始した。ドイツ国内の戦闘は激しいものだった。ドイツ軍は必死に抵抗を繰り返し、ソ連軍の犠牲者はベルリン制圧までのわずか2週間で60万人に達していた。そしてドイツは昭和20年5月9日、連合軍に無条件降伏した。

 なぜ肥沼信次が日本に帰らず、ソ連軍が迫るエバースバルデに向かったのか。ここに大きな謎がある。肥沼がナチスと同じ軍国主義である日本への帰国を嫌ったのか、敗戦後のドイツで新たに学問を始めたかったのか、彼の本心は分からない。しかし肥沼にとってシュナイダー夫人の存在が大きかった思われる。シュナイダー夫人は軍人である夫を戦争で亡くし、5歳の娘クリステルを育てていた。当時、肥沼信次は35歳、シュナイダー夫人は32歳である。彼とシュナイダー夫人がベルリンの時から同棲していたのか、あるいは単に同居していたのかは不明である。しかし彼がベルリンからエバースバルデに移ったのは、エバースバルデにはシュナイダー夫人の妹がいて、そこを疎開先としたからである。そして敗戦後、エバースバルデから25キロ離れたリーツェンに移った時も、肥沼とシュナイダー夫人は一緒に同じ家に住んでいた。

 肥沼が幼い子供を抱えたシュナイダー夫人に同情して行動を共にしたのか、2人の間に特別な感情があったのかは不明であるが、彼がドイツにとどまったのはシュナイダー夫人の存在なしでは考えられない。彼の人生の中で女性と生活を共にしたのは、金髪の美しいシュナイダー夫人だけであった。シュナイダー夫人は肥沼に献身的につくした。彼はシュナイダー夫人について誰にも話していない。彼とシュナイダー夫人のことは、家政婦だったエンゲルさんだけが知っていた。

 

 伝染病指定地域に飛び込む

 第二次世界大戦で700万人のドイツ人が、600万人のポーランド人が、2000万人のロシア人が死亡した。さらに570万人のユダヤ人がナチスの犠牲となった。この犠牲者の数の多さは、人間が引き起こした戦争という悲劇を示していた。しかし運良く生き残った人たちにも、大きな悲しみに加え、明日への不安、伝染病の恐怖が衰弱した身体を震わせていた。

 ポーランド国境に近いリーツェンは中世時代から栄えていた歴史のある美しい古都である。しかし市街地は空襲で無惨にも破壊され、街は黒ずみ、90%の建物が廃墟となっていた。樹木の太い枝は折れ、下水道は壊れ、衛生環境は極度に悪化していた。そのうえポーランドから追放されたドイツ兵、ドイツ難民、被災民が街にあふれ、リーツェンの人口は5000人ほどであったが、傷つき疲れ切った人々で数倍に膨れあがっていた。彼らは住む家もなく、食糧事情も悪く、そのため発疹チフスなどの伝染病が流行する条件が十分にそろっていた。リーツェンは伝染病指定地域に指定されたが、医師はチフスを恐れ誰も行きたがらなかった。リーツェンは無医村地区となり、発疹チフスの恐怖にさらされ死の街になっていた。

 エバースヴェルデに疎開していた肥沼は、リーツェンに発疹チフスが蔓延していることを知った。彼がどのような経緯でリーツェンに移ったのかはわからない。ソ連軍の命令と推測されるが、たとえそうであったとしても、彼は医師としての使命を自ら果たそうとしたと思われる。

 リーツェンの中心部にあるナチス戦車隊訓練学校がソ連軍によって「伝染病医療センター」として設立され、肥沼信次がその初代所長に任命された。伝染病医療センターといっても医師は東洋人の肥沼ただひとりである。看護婦などの職員を含めても10人前後の人数だったが、近くの修道院のシスターが看護活動を手伝に来てくれた。リーツェンには多くの患者が溢れていたが、リーツェンの病院、薬局は破壊され、医師は市内で肥沼ただひとりだった。

 伝染病医療センターといってもベッドは足らず、毛布の代わりにワラを敷き、通路にまで患者は寝かされていた。所長に就任した肥沼が目にしたのはまさに足の踏み場もない戦場だった。センターには80人が入院していたが、悪臭の中で患者は飢餓に苦しみ、傷の痛みに耐え、病にうなされていた。薬剤、消毒液、ガーゼなどの医薬品は不足し、患者は次々と死んでいった。

 肥沼は白衣を着て、自らの感染を恐れず患者を診察していった。ネクタイを締め、清潔な身なりで、ドイツ人以上に流暢なドイツ語で患者に話しかけた。最悪の衛生環境の中で患者を励まし、献身的に治療にあたった。患者を診察した後に手を消毒して感染を予防した。看護婦、患者にも手洗いとクレゾールによる消毒を徹底させ、タオルを別々に使わせた。彼は科学者として伝染病の予防を行っただけでなく、医師として患者に話しかけることが、そして励ますことが患者の精神を強く支えることを知っていた。

 発疹チフスは何世紀もの間、戦争や飢饉のときに流行した。発疹チフスはシラミに寄生するリケッチアによって伝染した。患者の血液を吸ったシラミが他の人に飛びつき、生きたリケッチアを排泄する。そしてリケッチアが皮膚から擦り込まれて感染した。潜伏期は10日から15日で、発疹と高熱、さらに激しい頭痛と関節の痛みがでた。発疹チフスは約15日で死に至る伝染病であった。

 シラミを媒介とするため、患者と接触する者は常に感染の危険性が高かった。しかし肥沼は感染を恐れず、チフス患者を救うため素手で患者を診察し冷静に治療を施した。肥沼は発疹チフスの原因がシラミであることを知っていた。そのため患者のボロ服を脱がせて感染の原因であるシラミの駆除に力を入れた。酢酸アルカリ液を用いてシラミの駆除を行い、共同風呂を設置し衛生改善を行った。これだけでも感染の予防に役に立った。肥沼は不眠不休で働き、患者が回復するたびに、ひとつの命が救われたことを心から喜んだ。

 

 難民収容所の惨状

 伝染病医療センターから5キロ離れた難民収容所でも発疹チフスが流行していた。難民収容所はポーランド領地から逃げてきた多数のドイツ人がいて、発疹チフスに加えマラリアや赤痢も流行していた。その状況は伝染病医療センター以上に悲惨であった。彼は難民収容所にも毎日のように往診にいった。難民収容所では衰弱した患者が大勢横たわり、患者は栄養失調のため手足は枯れ枝のように痩せこけ、暗室のなかでうめき声を上げる人たちで溢れていた。ボロ服をまといながら生死をさまよう地獄のような惨状であった。

 若い看護婦はあまりに悲惨な状況を前に、怖くて部屋に入ることができなかった。しかし肥沼は何のためらいもみせず勇敢な兵士のように部屋に入っていった。そして感染に怯える様子もなく、患者一人一人の手をとり優しく声をかけた。医療器具もクスリも食料も極端に不足している状況では治療は不可能に思えた。しかし彼は患者を励まし治療にあたった。自分のことよりも患者の治療を優先させた。

 日本人はドイツにおいても勤勉な民族として知られていた。また武士道が示すように勇敢な民族としても知られていた。肥沼はそのような日本人をイメージさせるかのように、不眠不休で、それでいていつも優しく患者に話しかけていた。患者や看護婦にとって、自らの感染を恐れない異国の医師肥沼信次は勇敢な戦士に見えた。

 リーツェンでは多くの患者が死んでいった。伝染病医療センターでは7人の看護婦のうち5人がチフスに罹患して死亡した。それはまさに殉職であった。抗生剤もなければ、DDTも支給されず、感染症が市全体に蔓延していた。食料も不足し栄養不足による衰弱が伝染病の流行に拍車をかけた。肥沼は医薬品を調達するためにベルリン大学、ソ連軍の野戦病院、アメリカ軍の病院などを訪ねまわった。敗戦直後のドイツは空襲により道路は破壊され、橋は落ち、汽車は壊れて動かない状態であった。彼は危険を承知で馬車に乗り、あるいは徒歩で医薬品の調達に出かけた。戦争の爪痕の残る街を、瓦礫が残る道路を医薬品を求めて進んでいった。ソ連の野戦病院へは、ぎゅう詰めの汽車で2時間、そこから徒歩で2日の距離であった。彼は断られながらも辛抱強く頼み込み医薬品を手に入れた。そして抱えられるだけの医薬品を持ち帰ると、惜しみなく患者に薬剤を与えた。

 伝染病に感染する子供も多かった。子供の生死は親にとっては自分以上に重要なことであった。肥沼はできるだけの治療をつくし、あとは子供の快復を祈った。彼は子供が快復するかどうかを、子供の顔色で判断していた。そして食べることができれば大丈夫だと判断した。治療によって何人もの子供が助かっていった。彼は患者が回復することだけを祈り治療にあたった。

 肥沼信次は伝染病医療センターや難民キャンプだけでなく、患者の家にも往診に出かけた。また自宅にも診療所を設け患者を救った。睡眠時間は1日2時間という状態が続いた。

 彼の献身的行為は、報酬を求めるものではなく、自己犠牲という気負いもなく、医師として当然の行為と捉えていた。放射線医学を研究することも、苦しむ患者を救済することも、人の役に立つという教えの上では同じことであった。

 

 近隣の村にも行く

 リーツェンから7キロ離れたアルメデヴィッツ村にも肥沼信次の往診を受けたという証言が残されている。それは村のヴィルヴァルト(70)さんが発疹チフスにかかったときの息子ヘルムットの記憶だった。戦争から帰ったばかりのヴィルヴァルトさんが発疹チフスを発症したが、治療を受けたくても、村には医師はいなかった。そして村人の噂からリーツェンに日本人医師がいることを知った。その日本人医師はドイツ語を話せる感染症の専門医で、この村でも治してもらった人がいるということだった。村人の話しを聞いてヴィルヴァルトは父親をその医師に診てもらいたいと思った。しかし父親は衰弱しておりリーツェンまで行くことはできなかった。

 この村まで往診してくれるかどうか分からないが、息子のヘルムットは往診を頼みに行くことにした。鉄道は爆撃で寸断され、道路は空爆でいたるところに穴が開いていた。彼の家には馬が一頭いた。この馬は役所に内緒で飼っていたものである。当時、馬は役所に徴集されたが一頭だけ隠していたのだった。見つかると取り上げられてしまうが、他に方法がなかった。息子は馬に乗ると肥沼を迎えにゆくことにした。7キロの道は雪解けの泥んこの状態だった。道の破損が大きく、壊れた建物が道を塞ぎ危険な状態であった。乗っていた馬は衰弱し途中で倒れてしまい、そのあとはリーツェンまで歩いて行った。肥沼に父親の往診を頼むと、すぐに行くと約束してくれた。

 肥沼信次が黒い帽子をかぶり黒いマントを着て、リーツェンからアルメデヴィッツ村までの悪道を3時間かけ荷馬車でやって来たのは、雪の降る寒い日だった。訪問を受けたヴィルヴァルトは感激した。凍てつくような寒さの中を約束どおりに彼は来てくれたのである。応接間のドアを開けると二畳ほどの細長い部屋にヴィルヴァルトさんは横たわっていた。それまで往診してくれる医師はいなかった。生まれて初めての医師の往診だった。肥沼はベッドに横たわるヴィルヴァルトを治療しながら、優しい励ましの声をかけた。そして診察を終えると持ってきた薬剤を全部置いていった。その後2回往診に訪れ、ヴィルヴァルトさんは70歳の高齢にもかかわらず回復した。アルメデヴィッツ村には30軒の農家があった。そしてどの家でも一人以上は発疹チフスに感染していた。彼は村人を救うため何度も荷馬車で訪れた。治療を受けない老人の死亡率は60%とされていたから、彼は多くの村人を助けたことになる。

 

 医師としての倫理を貫く

 肥沼はどの家を往診しても診察料のことを口にしなかった。患者を診察して、患者を慰め、患者と握手をして薬剤を与えていった。戦後の狂乱の時期に、自らの感染を恐れず、診察料を求めず、寝食を忘れて患者の治療に尽くした。当時の医者の多くは偉そうに威張っていたが、彼は患者に対し常に優しく親切だった。肥沼は異郷の地の伝染病センターの医師として働き、医薬品が不足すれば荷馬車や鉄道に乗り、各地から医薬品を調達してきた。

 彼はリーツェンの人たちには個人的なことは何も話さなかった。日本での生活、なぜドイツに来たのか、またなぜリーツェンの地で医療活動を行っているのか、彼は何も話さなかった。シュナイダー夫人と同居していたが、そのことも話さなかった。そのため周囲の人たちは肥沼を独身だと思っていた。また人間への奉仕という純粋な行為から、彼がキリスト教徒だと人々は思い込んでいた。しかし彼はキリスト教徒ではなかった。彼の行為は、宗教や思想とは関係のない、純粋な人間としての行為だった。人間として、医師として、患者を見捨てることができなかっただけであった。それは彼の使命感であり、自分の良心、正義、勇気、倫理観に従っての行為だった。

 肥沼信次が話したことといえば、「日本の自然はとてもすばらしい。富士山は美しい山で、特に桜はたいへん綺麗だ。桜の花をみんなに見せてあげたい」このようなことだけでであった。日本のこと、家族のことが脳裏にあったが、望郷の気持ちを日本の自然に例えていた。

 肥沼は不眠不休で働き、自宅に帰ると服を着たままソファーに倒れ込む毎日であった。しかし彼の体力も限界に来ていた。苦しむ患者にはいつも親切に笑顔を絶やさなかったが、難民収容所からの帰りに彼は自分の体調の変化に気がついた。自分が発疹チフスに感染したことを否定したかったが、しだいに発疹チフスの症状が現れてきたのだった。

 

 発疹チフスに倒れる

 昭和21年3月2日、悪寒と発熱が襲いかかり、肥沼は発疹チフスで起きあがることができなくなった。顔色は青ざめ気分が悪かった。自室に閉じこもり病気を隠していたが病状は悪化し、頰が痩せ、意識が遠くなった。心配して看護婦たちがやってきたが、彼はチフスの治療薬や注射を使うことを拒否したのだった。そして看護婦たちに「はやく患者さんのところにもどりなさい。そして貴重なクスリは他の患者に使ってほしい」と言った。

 肥沼が治療を拒んだ本当の理由は分からない。医師として伝染病に感染したことを恥としたのか、治療そのものを潔しとしなかったのか、日本人特有の無常観なのか、あるいは自分よりも他人を救ってほしと思ったのか、その理由は分からない。しかし生を受けてからこの日まで、彼は自分の信念に忠実であった。死を前にして彼は彼の持つ信念に従ったのである。

死の直前の3月7日、その日は家政婦エンゲルさんの16歳の誕生日であった。肥沼は額の汗を拭き取ってくれるエンゲルさんに「誕生日おめでとう、誕生祝いをやれずにごめんね」と弱々しい声でいった。肥沼はそれまで日本に帰りたいとは決して言わなかった。しかし最後に「桜が見たい」とつぶやいた。異国の地で死を前にして望郷の気持ちが脳裏をよぎったのである。

 昭和21年3月8日午後1時、肥沼信次はシュナイダー夫人、家政婦エンゲル、病院の看護婦に看取られながらリーツェンの自宅で亡くなった。遺体は粗末な棺に納められ、冷たい小雨の降る中、市民に囲まれ自宅からフリート広場の墓地まで運ばれていった。そして数日後、残されたシュナイダー夫人は娘のクリステルの手を引き、人知れずリーツェンの街を去っていった。

 第二次世界大戦が終結しブランデンブルク州のリーツェン市は旧東ドイツの街となった。伝染病医療センターはその後閉鎖され、リーツェンの市役所として使われた。

 日本はソ連とかつて戦った対戦国である。旧東ドイツはソ連の衛星国で秘密警察が存在し、肥沼信次を公に賞賛する事は出来なかった。しかし人々は肥沼の墓を建て、四季を通して花を絶やさなかった。リーツェン市民は恩人を慕い、墓を大切に守った。肥沼にたすけられた住民たちは、命と引き換えに自分たちを救ってくれたことへの感謝を忘れなかった。

 

 語り継がれた勇気

 肥沼信次の墓は高さ1メートルの大理石でできていている。それは墓というより記念碑のように立派なものだった。墓石にはギリシア神話に登場する医術の神アスクレピオスが持つ「蛇の巻きついた杖」が彫られ、肥沼が医師であることを示していた。そして「伝染病撲滅のため自らの命を捧げた」と刻まれている。遠い異国の地で、うっそうとした樹木の立ち並ぶ墓地で、肥沼の墓は市民たちによって大切に守られてきた。

 肥沼信次が自分たちの祖父母を救ったことは、家族が子供に話し、学校では歴史の授業で教えられた。リーツェンの子供たちも大人も肥沼を尊敬していた。同じ人間として助けられた恩を忘れず、彼の苦労に酬いようとする情があった。アルメデヴィッツ村を初めとした近隣の村々の人たちも自分たちの村を救ってくれた肥沼のことを決して忘れなかった。村の家々では肥沼について代々語り継がれ、小学校、中学校でも先生が彼の業績を話してくれた。

 平成元年にベルリンの壁が崩壊して、東ドイツのホーネッカー大統領は失脚し、東ドイツは西ドイツと統一された。東ドイツのそれまでの秩序や体制も崩壊し、40数年間にわたり封印されてきた肥沼信次に対する感謝の気持ちが公にできるようになった。東ドイツの支配が終わり、彼の名前が知られるようになった。

 地元の郷土史家シュモーク博士が肥沼信次に関する住民の証言を集め、歴史に埋もれようとしていた彼の功績を公にした。その業績はドイツの新聞でも報道され、それをきっかけにドイツでは肥沼の身寄り調査が始まった。彼が日本人医師であることを住民たちは知っていた。しかし彼の経歴を誰も知らなかった。どうしてリーツェンに来たのかも知らなかった。リーツェン市長は肥沼信次の人生と業績を記録に残したかったが、彼がどこの誰なのか分からなかった。

身元探し

 ドイツ・アカデミー会員の長老であるピアマン博士も肥沼信次に強い関心を示していた。ピアマン博士はフンボルト研究所所長であった。博士はドイツ大学の客員教授であった桃山学院大学・村田教授に肥沼信次の調査を依頼した。村田教授は肥沼の遺族、家族を捜すために日本大使館、住民票、文部省などに問い合わせたが分からなかった。

村田教授は何度か朝日新聞の尋ね人の欄に肥沼信次の名前をのせた。やがて平成元年12月14日の朝日新聞の記事によって肥沼信次の弟である肥沼栄治が東京で見つかった。栄治は読売新聞を取っていたため朝日新聞の記事には気づかなかったが、義理の兄弟の息子が記事を読み連絡してくれた。弟の栄治は兄の死を日本赤十字社から知らされていたが、どこでどのように亡くなったのか詳しい内容を知らなかった。

肥沼信次の身元発見の知らせが、村田教授からピアマン博士、ピアマン博士からシュモーク博士、シュモーク博士からリーツェン市長へと伝えられた。リーツェンの人々は自らの感染という危険を恐れず、自分たちの生命を守ってくれた肥沼の過去を初めて知ったのだった。ここで最も驚いたのはフンボルト研究所所長のピアマン博士であった。肥沼が自分の管轄しているフンボルト奨学金を貰っていた優秀な放射線医学者であったことを知ったからである。

 平成5年、リーツェン市役所の入り口に肥沼信次の記念プレートが飾られた。肥沼が働いていた伝染病医療センターは市役所になっており、記念プレートには「肥沼信次はこの建物で自ら悪疫に感染し、倒れるまで多くのチフス患者の生命を救った」と刻まれている。平成6年、リーツェン市議会は肥沼信次の功績をたたえ名誉市民とすることを決定した。リーツェンの名誉市民は過去に旧ソ連の司令官が指名されただけで、肥沼信次は2番目であった。このことからリーツェン市民がいかに彼を尊敬していたかが分かる。肥沼信次は名誉市民となり、彼の墓は永遠に市が責任をもって管理することになった。

 平成6年、弟の肥沼栄治がリーツェンを訪れた。そしてリーツェン市長をはじめ多くの人たちの歓迎を受け、兄の墓に花を捧げた。それは横浜の桟橋で別れて以来57年目のことであった。

 

 リーツェンの桜

 弟の栄治は当時の兄を知る人々の話から「桜を見たい」という兄の最期の言葉を知った。そして寄付金でリーツェンに100本の桜の苗木を送った。肥沼信次の墓にも桜が植えられ、「桜を見たい」という兄の夢が48年ぶりに叶えられた。またリーツェン市内各所に桜の木が植えられ、街中で桜が見られるようになった。リーツェンでは毎年春には桜が咲き、人々は肥沼信次を偲びながら感謝の気持ちを新たにしている。

 平成12年7月1日、リーツェン市役所の広場に肥沼信次の記念碑が建てられ除幕式が行われた。式には多くの人々が参列し、ドイツの新聞はこの除幕式を大きく報道した。また郷土博物館には肥沼信次の胸像とその生涯を説明した碑が建てられている。

 日本人医師・肥沼信次は自分の命と引き替えに多くのドイツ人の命を救った。彼は学者として優秀であっただけでなく、それ以上に人間として素晴らしかった。医師として患者救済の責任をはたし、人間として愛と倫理観を持ち、日本人としての勇気と正義を実践した。リーツェンの人々の心の中に、肥沼信次の名は永遠に生き続けることであろう。