昭和40年代

昭和40年代

 日本の産業が農業から工業へ変わり、田舎から都市に人口が移動し、景気の拡大と雇用の充実が庶民の収入を増やし、生活は豊かになった。昭和39年の東京オリンピックまでに国内インフラはおよそ整備され、同年には東海道新幹線が開通し、東海道新幹線は日本の技術力の高さを世界に示した。昭和44年には東名高速道路が全線開通し、自家用車が日常生活の一部になり、生活は消費へと向かった。しかし一方では、重化学工業の拡大が公害を生み、生活排水が河川の悪臭を生み、生活を便利にするはずの自動車が光化学スモッグをもたらした。

 昭和40年代は急激な経済成長の中で、その歪みをもたらした時代でもあった。重化学工業を優先させる政策と生活の利便性が、公害という健康被害をもたらし、国民は企業の利潤追及に拍手と戸惑いを見せながら、地方自治体の選挙で革新首長を次々に登場させた。昭和42年から54年まで美濃部達吉が東京都知事を務め、京都府の蜷川虎三知事は728年にわたり、その他に北海道、大阪、神奈川などで革新自治体を登場させた。

 国政は佐藤栄作首相の78か月にわたる長期保守政権が終わると、昭和47年には「日本列島改造論」を唱えた田中角栄が首相となり、国土開発はさらに進んだ。「日本列島改造論」は、首都圏などの大都市と地方の格差を埋めるために、全国に高速道路網を巡らせ、地方に公共事業を持ち込み、公共事業や公共施設の建築は地方経済を中短期的に潤わせた。しかし都市部への人口移動と地方の過疎化は止まらず、都市部と地方の格差は進んでいった。農業は食の変化と国際化により次第にゆがみを生じ、米の完全自給を達成したのに、食料自給率は低下し、農業の機械化とともに農民100万人が出稼ぎにでるようになった。農村の周囲の道路は整備されたが、農業人口の減少と高齢化が進んだ。

 昭和40年に、日本は大韓民国と日韓基本条約を締結され、昭和47年には田中角栄首相が中国との国交を回復させた。しかし同時に中華民国(台湾)との国交を断絶し、北朝鮮とは国交がないままである。

 団塊の世代の血気盛んな青年は、60年安保闘争の敗北を眼前に記憶しており、学園闘争やベトナム戦争反対運動をより過激にした。一部の学生は既成政党の打倒、革命を叫び、暴力的活動へと走った。東大紛争、連合赤軍、連続リンチ殺人、内ゲバ、連続爆破事件へと彼らは暴走したが、国民を敵視する暴力革命は、国民に不安と嫌悪をもたらすことになった。

 国民は社会不安、環境破壊などに戸惑いを覚えていたが、それを吹き飛ばすように、昭和45年に「日本国際万博」が開催された。入場者は6421万人で、人類の進歩と調和をテーマにしたパビリオンには家族連れが列をつくり、万博は日本の平和と繁栄を国民の心に植え付けた。政治よりも経済が生活の水準を高めることを実感させ、国民の多くが中流意識を持つようになった。

 昭和47年にグアム島から横井庄一さんが、昭和49年にはルバング島から小野田寛郎少佐が帰国し、2人はかつての日本人を思い起こさせた。しかし学生運動で挫折を味わった若者はジリ貧になり、若者は内向的フォークの世界に入り、フーテン族、アンノン族となり、破廉恥な若者文化でさえ昭和元禄という言葉に飲み込まれた。大人の財布は緩み、デスカバージャパンの宣伝とともに、個人的な趣味と享楽へと移行していった。経済の繁栄が自分たちの繁栄のように受け止めていた。

 一方、正義と栄光のアメリカは、ベトナム戦争の泥沼から抜け出せずにいた。日本はアメリカを支持しながら、昭和43年に国民総生産(GNP)が西ドイツを抜き、世界第二位の経済大国となった。日本人の勤勉さ、手先の器用さ、技術の高さなどが経済大国にしたのであるが、日本国憲法により軍隊を持てず、安保条約の傘の下で経済に集中できた要因が大きい。

 昭和46年、アメリカ経済の低迷と日本経済の繁栄を象徴するように、1ドル360円の固定相場が変動相場へ変わりドルが切り下げられた。昭和4810 月には第四次中東戦争が勃発し、原油価格は3倍になり、このドルショックとオイルショックにより日本経済は低下し、狂乱物価が生活を襲った。昭和49 年、経済は戦後初めてマイナス成長となったが、それは一時的な休息にすぎなかった。

 当時、塾もなければ、国立大学の授業料も安かった。勉学に励み、成績さえよければ希望する大学に進めた。大学に入れば就職は保障され、中卒でも「金の卵」と呼ばれ、田中角栄のような才能と頑張りがあれば将来は明るかった。日本は若く、終身雇用制、年功序列を保持する活力があった。和をもって貴しの日本社会の中で、立身出世の夢を持ち得た活気ある時代だった。若者はベンチャーズ、ビートルズに夢中になり、そしてタイガーズなどのグループ・サンズが日本中に鳴り響いていた。主婦はスーパーで買い物をして、亭主は飲み屋で憂さを晴らし、老後の問題は存在せず、不安なき日々であった。




アンプル風邪薬事件 昭和40年(1965年)

 昭和40年代は、日本そのものが若々しい時代だった。団塊の世代は青年となり、若さゆえに政治や人生について議論を交わし、若い労働力は高度経済成長を支えた。国民の生活は豊かになり、国民医療費も経済に連動して膨張し、製薬会社は驚異的な売り上げを誇っていた。医師は高収入で、社会的地位は高く、権威主義がまかり通り、医師にとって40年代はまさに黄金時代であった。

 昭和40年はA型インフルエンザが猛威をふるい、患者数2万6000人、学級閉鎖2378校となった。昭和40年2月11日、インフルエンザが猛威を振るっているさなか、千葉県で農業を営む男性が団体旅行から帰宅後に、アンプル入り風邪薬「強力パブロンアンプル」(大正製薬)を飲み急死した。この事件から3日後、同じ千葉県でアンプル入りの風邪薬を飲んだ老人と15歳の少女が死亡。2月17日、静岡県伊東市の主婦(39)がやはりアンプル入りの風邪薬「エスピレチン」(エスエス製薬)を飲んで死亡した。

 日本各地でアンプル入り風邪薬を飲んで急死する事件が続発し、アンプル入り風邪薬による事件は連日のようにマスコミをにぎわした。新聞が報道しただけで3月4日までに死亡11人、累積死亡数は50人をこえた。大阪府医師会の調査では、アンプル入り風邪薬で異常をきたした患者は半年間で702人、そのうち62人が意識混濁、失神、呼吸困難、痙攣などの症状を示し、死に至らなくても多数の重症例がいた。

 アンプル入り風邪薬は亜細亜製薬の「ベルベ」の発売が最初だった。風邪薬はそれまでは粉末や錠剤であったが、それを水溶性の液体に変わったのである。アンプル入り風邪薬の主成分は解熱鎮痛剤のアミノピリン・スルピリンで、従来の風邪薬と同じで薬理学的にはなんら違いはなかった。アンプル入り風邪薬は注射薬の即効性を狙ったイメージ商品で、製薬会社はインフルエンザの流行に乗り遅れまいとガラスに入ったアンプル風邪薬を盛んに宣伝して増産体制をとった。当時の日本は高度経済成長に沸き、働き続けることが美徳と受け止められていた。仕事が忙しく、風邪ぐらいで休めない雰囲気があり、勤労者にとって薬局の店頭でチュッと1本飲んで風邪が治ればそれに越したことはなかった。

 当時は、科学や医学の進歩を過信し、風邪は風邪薬で、しかも効きそうなアンプル入り風邪薬で治ると思い込んでいた。そのため各製薬会社は、粉末や錠剤の風邪薬をアンプル剤に変更した。アンプル風邪薬がより効果的との証拠は何もなかったが、注射を思わせるアンプルの首を割ってチュッと飲むと、何となく早く効きそうなイメージがあった。これは日本人の注射信仰を利用したものである。

 当時、「モーレツ社員」「ファイトで行こう」が流行語になっていて、風邪をひいたら注射ですぐに治してもらおうとした。高度経済成長の気分の中で「風邪などひいている場合ではない」という雰囲気であった。風邪でも何でも病院に行き、患者は「あの医者の注射はよく効く」、あるいは「注射を1本打ってください」と医師に注文するほどだった。

 アンプル風邪薬事件は、患者の特異体質と簡単に報じられていた。個人的な不幸な出来事ととされていたが、1カ月に11人の被害者が出たことから、マスコミが連日のように事件を報じるようになり、厚生省は重い腰を上げることになった。昭和30年2月19日、厚生省は大正製薬にアンプル入り風邪薬の広告と販売の自粛を要請。だが大正製薬の広報課長は「アンプル入り風邪薬は当社だけで9000万本を製造し、10年の実績をもっている。このような死亡事故は偶然が重なったせいで、厚生省の基準に従って製造したのだから問題はない」とコメントを述べ、厚生省の要請に難色を示した。

 この広報課長の難色発言がマスコミで大きく取り上げられ、アンプル入り風邪薬は社会問題へと発展していった。厚生省は責任が自分たちに及ぶことを恐れ、大正製薬、エスエス製薬に販売中止を再度要請、両社はこれを受け入れることになった。大正製薬は「強力パブロン・強力テルミック」、エスエス製薬は「エスピレチン」などのアンプル入り風邪薬を販売中止とした。

 アンプル風邪薬は販売停止となったが、薬局に置いてあるアンプル風邪薬を回収しなかったため、その後もアンプル風邪薬による死亡例が続発することになる。在庫を抱えた薬局が「在庫一掃大売り出し」を行っていたのだった。

 そのため3月2日、厚生省は「市場からのアンプル入り風邪薬の回収」を日本製薬団体連合会に要請。日本製薬団体連合会は「回収および返品に伴う損失を補う優遇措置」を条件にこれを受け入れた。つまり損害の救済、税制上の優遇、金融上の優遇、薬型変更の承認許可の優遇を条件にアンプル入り風邪薬3000万本を自主回収することになった。

 風邪薬の副作用の大部分はピリンが原因とされているが、厚生省は「患者の体力が弱っている時に、早く治りたい一心から多く飲み過ぎたこと、他の薬剤との併用が原因ではないか」と述べ、悪いのは患者本人であるかのような発言をした。中央薬事審議会は「水溶性のアンプル剤は吸収速度が早いため、血中濃度が急速に上昇し、毒性が強く出たのであろう」と述べ、さらにショック死は「使用者の特異体質も原因」とコメントした。

 アンプル入り風邪薬を製造していた製薬会社は全国で200社で、年間数百万本が生産されていた。アンプル入り風邪薬は製薬会社の稼ぎ頭で、年間売り上げは約100億円とされていた。製薬会社の中には全体の売り上げの半分以上を占める会社もあり、製造中止は製薬会社にとって死活問題となった。

 薬局も大きな打撃であった。当時は医薬品の過剰生産から、薬局の倒産が続出しており、利潤の大きいアンプル入り風邪薬は起死回生の商品だった。風邪薬は10100円であったが、アンプル入り風邪薬は1本100円から200円で、40%が薬局の儲けになっていた。薬局の売り上げの2割を占めていた。

 厚生省の対応はかつてないほどの英断と評価されているが、製薬会社は大損害を被ることになった。そのため厚生省は回収が終えた時点で製薬会社を集め、今回の経緯について説明するとともに、損害を与えたことを陳謝している。この製薬会社への遠慮が、後に続くクロロキン網膜症の対応の遅れを作ったとされている。

 この事件の背景には、製薬会社の利益追求があった。製薬会社は病院で処方される医家向け薬剤よりも、薬局で自由に買える大衆薬品にウエイトを置いていた。そのため各製薬会社は新聞、雑誌、テレビ、ラジオを通して誇大広告や過激な広告を繰り返していた。風邪薬には成分の違いはほとんどないので、薬剤の内容よりも薬剤のイメージが販売戦略となり、宣伝が加熱した。

 ところで「くしゃみ3回、ルル3錠」は三共製薬の風邪薬のCMであるが、このCM史上に残るキャッチコピーは昭和30年に作られたもので、三島由紀夫が絶賛したとされている。「くしゃみ3回、ルル3錠」は現在でも使われており、この宣伝によって三共は総合感冒薬市場でトップクラスを確保している。ルルの宣伝は大空真弓、いしだあゆみ、由美かおる、伊東ゆかり、松坂慶子、大竹しのぶ、富田靖子、木村佳乃と受け継がれ、ルルの宣伝に出た女優は大女優になるという伝説が生まれた。

 宣伝が全く逆効果だったのが、昭和3912月に放映された興和の風邪薬「コルゲンコーワ」のCMだった。「おめえ、ヘソねえじゃねえか」と言いながら、子供が薬局前に置かれたカエルの人形に落書きをするCMは、「子供の言葉遣いが悪い」と批判を受け2カ月で放送打ち切りとなった。

 当時の新聞を見ると、広告の半分近くが医薬品で占められていた。製薬会社は薬品の広告に熱心で、今日でいえば家電製品や自動車と同じように広告を出していた。またテレビのコマーシャルも同じだった。広告産業にとって製薬会社は一番の得意先で、「製薬会社の研究費は売り上げの4.0%であるが、広告費は5.1%」であった。製薬会社は利潤追求にしのぎを削り、イケイケドンドンの営業で、およそ人命にかかわる薬剤を売っているとの意識は乏しかった。

 製薬会社は市販の薬剤に重点を置いていたが、昭和36年に国民皆保険制度が発足すると、患者数が増大して、医家向けの薬剤が急速に伸びていった。昭和30年から45年までの15年間に、製薬会社の売り上げは12.4倍、利潤は22.9倍に伸び、製薬会社は国民皆保険制度、高度経済成長、大衆薬ブーム、さらに薬好きの国民性も加わり驚異的な成長を遂げた。

 アンプル入り風邪薬事件をきっかけに、日本製薬団体連合会は「医薬品広告に関する自主規制」を行い、薬の宣伝が急速に減少することになる。今回、アンプル入り風邪薬が問題となったが、一般的な風邪薬が必ずしも安全とは限らない。風邪薬がスティーブンス・ジョンソン症候群(全身の皮膚がやけどのようにただれる)を引き起こして死亡した例、ショックによる死亡例も報告されている。また大量の風邪薬が死に至ることは、埼玉県本庄市の風邪薬連続保険金殺人事件(平成11年)が証明している。風邪をひいたら薬剤に頼るのではなく、薬剤の助けをかりて休養で治すべきである。

 



新潟水俣病(第二水俣病) 昭和40年(1965年)

 栃木県、福島県を源水として日本海に流れる阿賀野川は新潟の重要な交易路として栄えていた。阿賀野川流域に住む人々は半農半漁民が多く、豊かな水源は新潟平野の灌漑用水として、住民たちの食卓にはサケ、マス、ヤツメなどの川魚が並び、川魚は住民たちの重要なタンパク源となっていた。この日本有数の阿賀野川は、アイヌ語で「清い川」を意味していた。この「清い川」がメチル水銀(有機水銀)に汚染されたのが新潟水俣病である。

 熊本県・水俣市の水俣病が「チッソ水俣工場から排出されたメチル水銀が原因」と判明してから6年後のことである。昭和39年から40年にかけて、阿賀野川流域の住民の間で、手足がしびれ、口が利けなくなるなど、水俣病に似た患者が発生していることが明らかになった。

 昭和391112日、原因不明の神経症状を示す31歳の漁民が新潟大学医学部付属病院に入院、新潟市下山地区に住むこの患者が新潟水俣病発見のきっかけとなった。この男性患者が入院してから、同じ症状を持つ患者が連続して新潟大学病院に入院してきた。

 その症状は視野狭窄、歩行障害、言語障害などの中枢神経症状が主であった。昭和40年1月、ちょうど東京大学脳研究所から新潟大学医学部神経内科に赴任してきた椿忠雄教授(後にスモンのキノホルム原因説を確定させたことでも有名)は、これらの患者を診察してすぐに水俣病を疑った。

 水俣病の原因であるメチル水銀は消化管から100%吸収され、脳に移行して神経症状を引き起こすことが分かっていた。患者はいずれも阿賀野川流域に住み、川魚を多く食べていた。椿教授は患者の毛髪に含まれる水銀を測定、通常の50倍にあたる390ppmの有機水銀を検出したのだった。

 昭和40年5月31日、新潟大学医学部脳神経外科・植木幸明教授、神経内科・椿教授は「阿賀野川流域に水俣病に似たメチル水銀による中毒患者が発生している」と新潟県衛生部に報告。6月12日に記者会見で、「この疾患は阿賀野川の川魚を多く摂取したことが原因と推定される」と正式に発表した。脳神経を冒され、視力障害、聴力障害、全身のしびれなどを訴える患者はそれまでに7人入院し、2人がすでに死亡していた。

 メチル水銀中毒の原因については、住民の多くは容易に想像ができた。阿賀野川の上流60キロの福島県との県境の鹿瀬町に昭和電工鹿瀬工場があり、チッソ水俣工場と同じアセトアルデヒドを生産していたからである。

 当時、日本のアセトアルデヒドの生産量はチッソが第1位、昭和電工が第2位であった。昭和電工は昭和11年からアセトアルデヒドを生産しており、メチル水銀を含んだ排液が阿賀野川を汚染させたとしても不思議ではなかった。昭和電工鹿瀬工場は山奥にあったが、従業員約2000人の日本有数の化学工場であった。

 熊本県の水俣病と同じように、昭和39年8月頃から阿賀野川流域のイヌやネコが狂死し、大量の川魚が浮き上がることが観察されていた。だが昭和電工鹿瀬工場は、熊本のチッソ水俣工場以上に強固な反論を繰り返し、自社犯人説を否定した。昭和電工側は熊本の水俣病が問題になってからも何ら対策をとらず、それでいて工場排水中のメチル水銀が原因でないと頑として認めなかった。

 同工場はアセトアルデヒドの製造過程で水銀を使用し、排水を阿賀野川に放出していた。阿賀野川の魚介類から有機水銀が検出されたが、工場は非を認めず、昭和39年6月16日に起きた新潟地震によって有機水銀農薬が阿賀野川に流出したことが原因と主張した。

 新潟地震は死者25人、家屋全壊994戸に達する大地震であったが、有機水銀を流出させた農薬工場はどこにも存在しなかった。また新潟水俣病患者が工場周辺よりも、阿賀野川下流に多いことも否定の根拠となった。

 調査が進むにつれ、患者の発生地区では「食べた川魚の量と毛髪中のメチル水銀の量が明らかに比例すること」がわかった。婦人の長い髪に含まれる有機水銀の量を分析した結果、新潟地震以前の毛髪部分からも正常値を超える水銀が検出された。このことから川魚の汚染は昭和電工鹿瀬工場の排液中のメチル水銀とほぼ決定された。患者が阿賀野川下流地域に多いのは、阿賀野川に生息する生物の食物連鎖で水銀が濃縮され、下流の魚介類の水銀濃度が高くなっていたせいであった。

 先に発生した熊本県の水俣病は、水俣市がチッソの企業城下町であったこと、患者や漁民が周囲から孤立したことなどから原因解明に遅れを取った。しかし新潟水俣病は水俣病の前例があったため、また環境汚染への住民の認識が高まっていたため、周辺住民だけでなく、新潟県知事、民間団体、行政、政府が一体となって解決に努力したことから原因究明は速かった。熊本大学水俣研究班やチッソを退職した水俣工場付属病院の細川一・元院長らが新潟水俣病の究明のために協力を惜しまなかった。

 ここで重要なことは、同じ水俣病である新潟と熊本の患者認定に大きな差がみられたことである。熊本県の水俣病は重症の典型例だけを水俣病と認定したが、新潟水俣病はしびれや運動障害などの軽症例も水俣病と認定していた。

 このことは椿教授の功績が大きかった。熊本水俣病の前例を踏まえ、県衛生部と綿密に住民調査を行い、原因が有機水銀と分かると、すぐに汚染地区の2万9000人全員にアンケート調査を実施し、疑わしい患者をピックアップして毛髪の水銀を調べる方法を取った。そのため軽症の患者を含む全患者をリストアップすることができたのである。

 また熊本水俣病の「胎児水俣病の悲劇」を繰り返さないように、頭髪の水銀濃度の高い婦人には避妊の指導が行われた。新潟水俣病の患者は阿賀野川流域の住民がほとんどで認定患者は690人、非認定ではあるが医療救済対象者は834人となった。死者は50人以上とされている。

 被害者対策は迅速に行われたが、住民にとって水俣病の認定は周囲との偏見との戦いでもあった。認定には大学病院で検査を受けて自己申請しなければならない。補償金欲しさのニセ水俣病との偏見もあった。

 水俣病と認定されると、就職はできず、会社はクビになり、結婚ができない、とのうわさが流れ、症状があっても申請しない患者も多くいた。患者は自暴自棄となり、家庭は崩壊し、阿賀野川の魚は売れずに漁民は深刻な打撃を受けた。

 昭和41年3月に、厚生省特別研究班は、「昭和電工鹿瀬工場の排水口から採取した水ゴケからメチル水銀を検出した」と発表、新潟水俣病の原因を昭和電工鹿瀬工場の排水によるものと断定した。43年9月に政府は新潟水俣病を公害病に認定したが、政府が公害と認定したにもかかわらず、昭和電工はその関係を否定したまま裁判で争われることになった。

 昭和42年6月12日、新潟水俣病患者13人が昭和電工に慰謝料4450万円をもとめ新潟地裁に提訴し、さらに患者77人が慰謝料5億2267万円の損害賠償を求めた(第1次訴訟)。この第1次新潟水俣病訴訟は患者側の全面勝訴となり、新潟地裁は昭和電工に2億7779万円の支払いを命じた。昭和電工は責任を追及する世論が沸騰したため控訴を断念した。

 この裁判は、わが国の4大公害裁判(熊本水俣病、四日市ぜんそく、富山のイタイイタイ病)の中で最初に結審した判決で、それ以降の公害裁判に大きな影響を与えた。公害裁判では、高度経済成長の中で環境よりも生産性を優先させた企業の姿勢が争点となった。

 水俣病と認められなかった水俣病未認定患者140人が、国の行政責任を求め新潟地裁に提訴(第2次水俣病訴訟第2〜8陣)。この裁判は長期化し、平成7年、村山連立内閣は水俣病患者の救済が遅れたことについての政治責任を認め、患者と和解をめざすことになった。村山首相の謝罪談話を受け、東京高裁(第2次第1陣)と新潟地裁(第2次第2〜8陣)では国との和解協議が進められ、国は患者1人当たり260万円の一時金と団体加算金4億4000万円を支払うことになった。この結果を受け患者は訴訟を取り下げたが、この政治決着までに13年半の月日を要し、この間、原告43人が亡くなっている。

 国は和解に応じたが、賠償金の全額は昭和電工が支払うことになった。国が政治責任を認めたのに、昭和電工が損害賠償の肩代わりをしたのは、国が昭和電工に公害防止の設備投資などの名目で、租税優遇措置や低利融資などの実質的資金援助を行い、昭和電工には実質的な損害を生じさせなかったからである。

 新潟水俣病は、和解により決着したが、高度経済成長のなかで熊本水俣病の教訓を生かさなかった企業の悲劇といえる。阿賀野川の魚類の有機水銀濃度は次第に自然界レベルに低下し、阿賀野川流域の魚介類の食用禁止は昭和53年に解除された。

 



赤ちゃん取り違え事件 昭和40年(1965年)

 自分のおなかを痛めた子供が、手塩にかけて育てた子供が、実は他人の子供だったら、母親のショックは言葉では表現できないことであろう。このような信じ難い事件が昭和40年頃日本各地で多発した。

 滋賀県大津市に住む大学助教授Yさん夫婦には、4月から幼稚園に通う4歳の長男がいた。Yさん夫婦は交通事故の痛ましいニュースを頻回に耳にすることから、入園を機会に子供の血液型を調べて名札に書いておこうとした。そのため長男を近くの病院に連れて行き、血液型を調べてもらった。その結果、驚くべき事実を知ることになった。

 Yさん夫婦の血液型はともにB型であったが、長男の血液型はなぜかA型だった。B型の両親からA型の子供は絶対に生まれるはずがなかった。Yさん夫婦はこの結果に驚き、頭を抱え込んでしまった。妻の不貞は考えられず、残された可能性は、長男が生まれた大津日赤病院での取り違えだけであった。連絡を受けた大津日赤病院では、当時の入院患者をひそかに調査すると、同じ大津市に住む土建業Aさんの子供と、Yさん夫婦の子供が取り違えられていたことが明らかになった。

 生まれたばかりの赤ちゃんは、赤ちゃんの足の裏にマジックインクで名前を書いて識別していた。しかしインクが蒸発して赤ちゃんが中毒症状を起こす可能性があったため、この方法は中止され、次に木札を胸にぶら下げる方法が採用されたが、赤ちゃんのけがが心配された。

 そのため大津日赤病院では、識別票を付けずに赤ちゃんを扱っていた。出産直後から赤ちゃんを母親のそばに同室させる方法を採用し、赤ちゃんの取り違えは予想外であった。YさんとAさんの「赤ちゃんの取り違え」は、生後3日目の入浴時に起きた。赤ちゃんは1日1回入浴することになっていたが、生後3日目のYさんとAさんの赤ちゃんの入浴時間が同じだった。

 看護師不足の病院では、看護師が両腕に2人の赤ん坊を抱えて入浴させることが日常的に行われていた。母親にとって五体満足の赤ちゃんを無事に出産した安堵感、さらに出産後の疲労も重なり、自分の子供の取り違えに気づかなかった。

 「自分の産んだ赤ちゃんを間違えるはずはない」と思うかもしれないが、出産後の赤ちゃんは顔のむくみが次第に取れ、毎日のように顔の表情が変化していくのである。たとえ多少顔つきが違っていても、まさか自分の赤ちゃんが取り違えられたとは想像外のことであった。

 取り違えられた子供は、すでに物心のついた幼稚園児である。子供を交換するといっても簡単なことではない。オッパイを含ませ、おしめを取り替え、鼻が詰まったときには口で吸い、生まれたときから自分の子供として育ててきたのである。4年間も実子として育ててきた子供を、他人の子供だったからと言われ、「ああそうですか」と割り切れるはずはなかった。

 間違って育てられた子供も大変であった。昨日までAちゃんと呼ばれていたのが、違う両親からBちゃんと呼ばれ、昨日までお兄ちゃんと呼んでいたのに、昨日までのお兄ちゃんとは違って、明日からは別のお兄ちゃんをお兄ちゃんと呼ばなければいけなかった。このようなことは子供には理解困難なことであった。

 YさんとAさんの家族は相談の結果、しばらく一緒に生活をして、徐々に慣れさせていくことになった。市内の旅館で2組の家族が19日間の共同生活を行い、子供の反応を見ながら実子を引き取ることになった。母親にとって、「実の子供」も「育ての子供」も、子供を思う気持ちに変わりはない。「知らないで過ごしていれば幸せだった。血液型なんかなければ良かったのに」と科学の進歩を恨んだりもした。

 だが、知ったからには仕方がない。泣く泣く交換に踏み切ったのである。両夫婦の苦悩、子供の戸惑い、これらは他人が想像する以上に大きなものであった。子供を交換しても、それまでの子供を忘れることはできなかった。子供は本当の両親を「お父さん」「お母さん」と呼べず、夜になると育てられた家に帰りたいと泣いて両親を困らせた。

 昭和40年頃から「赤ちゃんの取り違え事件」が全国で多発した。広島県福山市、山形県米沢市、静岡県吉原市(現富士市)、三重県四日市市、同県員弁郡の病院で同様の事件が起きている。昭和48年の学会で、東北大学医学部の赤石英教授は「赤ちゃんの取り違えは全国で64人」と報告、いずれのケースも実子を引き取っていると述べた。

 この赤ちゃん取り違え事件は、当時のベビーブームに加え、看護師の多忙が関係していた。産婦人科の看護師は、次々に生まれる赤ちゃんに追われ戦場のような忙しさだった。この「赤ちゃん取り違え事件」は看護師不足が生んだ悲劇であった。

 医療法では新生児は患者数にカウントされず、新生児数とは無関係に看護師定数が決められていた。しかしこのような事件が多発したため、昭和43年から新生児4人に対して看護師1人を置くことが法律で定められた。赤ちゃん取り違え事件は看護師の過誤ではあるが、行政の責任はそれ以上に重いと考えられる。

 この事件以降、親子の識別のため、母親の腕と赤ちゃんの足には同じプラスチックのバンドが付けられるようになった。プラスチックのバンドは出生時に付けられ、入院中はいかなる理由でも外すことはできず、帰宅した後に外すようになっている。このバンド以降、赤ちゃん取り違え事件は起きていない。

 



夢の島と東京ごみ戦争 昭和40年(1965年)

 昭和40年6月、東京の江東区南砂町一帯にハエの大群が押し寄せ大騒動となった。南砂町の商店街にはハエが群がり、民家の天井を黒く覆った。住民は振り払っても顔にたかられ、夜も眠れない状態になった。この突然現れたハエの大群は海を隔てた「夢の島」から飛んできたのだった。

 夢の島とは、東京湾沖合に造られた東京のごみ捨て場のことである。東京都のごみのほとんどが夢の島に持ち込まれ、ハエにとってえさは無尽蔵で、天敵がいないのだから増えないはずはなかった。このハエ騒動が起きるまでは、ハエの活動半径は40m以内が定説であったが、この定説をあざ笑うかのようにハエは海を越えて飛んできた。住民たちは夢の島を「悪魔の島」と呼んだ。

 その当時、日本の魚屋の店先や食堂には、ハエ取り紙がヒラヒラとぶら下がっていた。ハエ取り紙は黄色い粘着テープで、一般家庭でも見ることができた。江東区の家々ではこのハエ取り紙をぶら下げても、1時間もするとハエでいっぱいになり、小学校の給食時にはPTAがハエ取りに駆り出された。

 このハエの大量発生による伝染病が心配され、東京都清掃局、衛生局、江東区は共同でハエ撲滅対策本部を設け、ハエの駆除に乗り出した。佐藤栄作首相が「全力を挙げてハエを撲滅するように」と厚生大臣に指示を出したほどである。

 昭和40年7月16日、タンクローリー5台分の重油がごみの山にかけられ、ハエの焼き払い作戦が行われ、さらに大量の有機リン系殺虫剤を繰り返し散布してハエの絶滅を図った。ところが夢の島のハエはしぶとかった。殺虫剤に対して通常の2000倍にも達する驚異的な薬剤抵抗力を獲得し、ハエは不死身となって増え続けた。

 東京都は薬剤抵抗性のハエをなくすため、複数の殺虫剤を1年ごとに変更して散布する作戦を取った。この方法により薬剤抵抗性のハエの発生を抑え、ごみの表面を土で覆うサンドイッチ方式で、ハエの撲滅作戦は次第に成果を上げていった。

 江東区の夢の島には東京23区の7割、毎日9000トンのごみが持ち込まれていた。そのためにハエの大量発生だけでなく、同区の一部では悪臭が漂い、自然発火による火災が相次ぎ、煙と灰が江東区民の頭上を流れた。被害を受けた江東区民は、他区から持ち込まれるごみを拒否するため、「江東区だけがごみ公害の吹きだまりにされるのは御免」と声明を出した。江東区は美濃部亮吉・東京都知事に「各区はごみの自区内処理。処理と迷惑の公平な負担」の2原則を求め、各区のごみは各区で処分することを要請した。

 ほとんどの区では江東区の要請を受け、区内にごみ処理場の建設計画を進めることになった。ところが夢の島から約20キロ離れた杉並区だけはごみ処理場の建設計画を進めずにいた。昭和48年、ここに「東京ごみ戦争」が始まった。

 昭和48年5月18日、東京都は杉並区でごみ処理場建設の説明会を開いたが、建設反対派が乱入し、説明会は中断となった。これを「杉並の住民エゴ」と怒った江東区議会は全会一致で杉並区からのごみの受け入れを拒否することを決定。ヘルメット、防災服で身を固めた区長、区議、町会役員ら180人が道路に並び、杉並区からのごみ運搬車の立ち入りを実力で阻止した。

 このため5月22日から杉並区ではごみ回収が中止されることになった。杉並区はごみを出さないように各家庭に通知したが、杉並区の住民は路上にごみを捨て、5月の陽気で生ごみは悪臭を放った。これでは「杉並エゴ」といわれても仕方がなかった。杉並区は消毒車を出動させ、路上のごみに消毒液をまいた。

 「東京ごみ戦争」この物騒な言葉がマスコミをにぎわし、江東区と杉並区は対立したが、孤立した杉並区は区長がごみ処理場建設を約束して収集がついた。それにともない杉並区ではごみの回収が再開されたが、放置された2000トンのごみを処理するのに10日以上かかった。

 この東京ごみ戦争から9年後の昭和57年、杉並区高井戸に日本最大級のごみ処理施設が完成。杉並区の可燃ごみのすべてが処理するようになったが、杉並区内のごみの量はさらに増え、現在では杉並区から出されたごみの一部は隣接する世田谷区の処理場に持ち込まれている。

 東京ごみ戦争を境に、ごみ処理は「埋め立て地から焼却場」に代わったが、焼却場にも限界があった。資源の有効利用、リサイクルシステムの確立が課題となっている。

 現在の夢の島は広大な公園として整備され、当時の面影はない。「夢の島」の名前は、ごみ捨て場の悪いイメージを意図的に隠すためと思っている人が多いが、夢の島は戦前からの地名で、都民のごみを埋め立てて、ハワイに匹敵する保養地にすることが計画されていたのである。現在、夢の島はそのイメージに近い公園になっている。ところで東京都心の山といえば港区の愛宕山(26m)、上野のお山(23m)が知られるが、都心部で最も高い山は東京湾内の夢の島である。埋め立て地は「チリが積もった標高30mの山」となっている。

 



白い巨塔 昭和40年(1965年)

 山崎豊子が昭和38年からサンデー毎日に連載した「白い巨塔」が昭和40年に新潮社から出版され、翌41年に映画化(大映)されると、大きな反響を呼んだ。昭和44年に「続・白い巨塔」が出版され、白い巨塔は息の長いベストセラーとなった。

 白い巨塔は欲望と野心が渦巻く医学界を描いた異色のベストセラーで、大学医学部をテーマにした小説としては、白い巨塔を超える小説はないといっても過言ではない。教授選をテーマに医学界の暗部に鋭いメスを入れ、350万部を売り上げ、映画化のほかテレビドラマにもなっている。

 浪速大学第1外科の教授選、その後に起きた医療訴訟をめぐり、「白い巨塔」は医学部の裏に隠れた暗部を赤裸々に描いていた。聖域とされていた医学部、ヒエラルキーのトップに立つ教授の権力、医局内の序列化、閉鎖された医局の壁と派閥、金と名誉に揺れる医師たちの心理…、白い巨塔はこのようなドロドロとした医学部内部を見事に描いている。

 主人公の財前五郎、その友人で医師として誠実に生きようとする里見脩二を中心に、医学部の実情をダイナミックな人間模様として描いている。

 財前五郎は早くに父を亡くし、貧しい生活から医学部に進み、資産家である婦人科開業医・財前又一の婿養子になって実力をつけてきた。浪速大学第1外科の助教授となり、食道がん、胃がんの権威となり、教授を差しおいて財界人の手術を行い、マスコミの脚光を浴びるようになった。

 第1外科教授・東貞蔵は退官を間近に控え、後任の教授を誰にするか悩んでいた。財前五郎が後任教授になると周囲は評価していたが、東教授は財前の傲慢な性格を嫌い、部下が有名になることに嫉妬があった。東教授は母校の外科学会のボスに相談、金沢大学医学部教授・菊川昇を後任教授に推薦してもらった。

 財前五郎はこのことを知ると、猛烈な巻き返しを始める。財産家の義父は教授の名誉を娘婿に与えるため必死になる。財前は義父の財力、地元医師会とOBの後押しを受け、熾烈(しれつ)な教授選で勝ち残ろうとする。財前派は医学部長に高額な絵を送り、学会の理事への推薦、研究費の認可をちらつかせ、財前五郎はわずかな差で教授選に勝った。

 財前五郎は教授に就任すると、国際外科学会から招待を受ける。権力と名誉を手に入れ、まさに得意の絶頂にあったとき、第1内科の里見助教授からある腹痛患者の診察を依頼される。里見助教授は財前と病理学教室で一緒に学んだ親友であった。

 里見脩二は胃カメラで異常がなかった腹痛患者の診断を財前に依頼したが、財前は2枚の胃のレントゲン写真から噴門がんと診断した。術前検査で肺に異常な陰影があったが、里見助教授の指摘にもかかわらず、財前は自らの実力を過信し、がんの肺転移を古い結核の陰影と診断した。

 多忙の中で手術は成功し、患者の治療を医局員に任せドイツの国際外科学会に行くが、外遊から帰ると、待っていたのは患者の死であった。患者の家族は手術後一度も診察に来なかった財前の不誠実な態度に憤慨し裁判に訴えることになる。

 里見助教授は、大学での自分の立場が不利になることを承知で患者側の証人となる。医療裁判の判決は予断を許さなかったが、財前は証人に圧力をかけ一審で勝訴する。財前五郎は教授として前途に野望を持ち、学術会議選挙にも当選するが、二審の裁判では注意義務違反で敗訴、最高裁に上告することになる。財前五郎は過労の中、いつしか胃がんにむしばまれていた。里見脩二は裁判で不利な証言をしたため近畿癌センターに左遷されていたが、財前は里見に診断を仰いだ。孤高の学究肌の里見、典型的な権力志向である財前、この対照的な2人は対立しながらも互いの実力と友情を認めていた。

 財前は自分を追い出そうとした元教授の東貞蔵に手術の執刀を依頼、東貞蔵が財前の手術をすることになった、しかし開腹すると、胃がんは肝臓に転移していて、手の下しようがなかった。開腹したが何もできずに、そのまま縫合。財前は肝不全で意識がもうろうとなりながら死亡した。

 白い巨塔は医学部における野望、学問、友情、愛情、処世、名誉、それらを交錯させながら、医学界の知られざる実態と人間の生命の尊厳を描いていた。この小説には多くの人物が登場するが、読者はそれぞれの登場人物に感情移入するほどに見事に描かれていた。

 当時の大学付属病院はまさに「白い巨塔」だった。権威主義がはびこり、教授の発言、医師の医療行為は絶対であった。一般の人々はそのような医学部の権威主義を知っていたが、詳しい内情は知らなかった。権威に反発するよりも、権威への尊敬と恐れが大きかった。

 そのため戦前の医療訴訟は12件のみで、昭和20年から40年まででも9件にすぎなかった。この小説は大学病院内の権力闘争と葛藤(かっとう)だけでなく、患者の権利としての医療訴訟を先取りした小説といえる。

 昭和41年の映画化では、俳優の田宮二郎が主人公を演じ観客をうならせた。テレビドラマは42年(全26回、主役・佐藤慶)、5354年(全31回、主役・田宮二郎)、平成2年(4時間スペシャル、主役・村上弘明)に続き、平成1516年(全31回、主役・唐沢寿明)には連続ドラマとして25年ぶりの新バージョンが放映された。

 この中で特に田宮二郎ははまり役であったが、昭和531228日、ドラマの最終回の放映を目前にして猟銃で自殺。それまで13%だった視聴率が、最終回(1月6日)は31.4%に跳ね上がった。

 作家の山崎豊子は、大正13年に大阪に生まれ、京都女専国文科を卒業して毎日新聞大阪本社に入社。当時、学芸部副部長であった井上靖の下で記事の書き方の指導を受け、勤務のかたわら小説を書いていた。昭和32年、昆布商人を主人公に大阪商人の哲学を描いた処女作「暖簾」を発表。翌33年には「花のれん」で直木賞を受賞。同年、毎日新聞を退社すると執筆活動に専念した。その後、「女の勲章」「女系家族」「花紋」「ぽんち」など次々に作品を書き、白い巨塔、続・白い巨塔を書いた。

 さらに山崎豊子は銀行の内部の熾烈な戦いを描いた「華麗なる一族」。国際商戦を生き抜く商社マンをテーマにした「不毛地帯」。太平洋戦争中、日米2つの祖国の間で苦悩する日系二世を描いた「二つの祖国」。中国残留孤児をテーマとした「大地の子」の戦争3部作を書いた。航空業界を描いた大作「沈まぬ太陽」を発表して、平成3年に菊池寛賞を受賞している。

 



生ガキの食中毒 昭和41年(1966年)

 昭和4112月、広島産のカキ(酢ガキ)による下痢症が11都府県で発生し、その患者数は1596人に及んだ。このため東京都衛生局は、広島産のカキ約3000缶を生食禁止とした。カキ中毒の症状は食後2428時間後に軽度の腹痛、激しい嘔吐と下痢で始まった。大規模の食中毒事件であったが、幸いにも死者は出なかった。

 食中毒の起因菌について、国立衛生試験所、東京都衛生研究所、広島県衛生研究所が検査を行ったが、いずれも特定できなかった。当時、カキ中毒の原因は不明で、人口の集中、公害の増大、下水処理の立ち遅れによる水質汚染が関係しているとされていた。

 国はこの事件をきっかけに国内向け生ガキについて、「生食用カキの成分規格加工基準、保存基準」を設定した。規格基準では一般細菌数5万/g以下、大腸菌230/100g以下、カキの採取は大腸菌群70/100mL以下の海域で採取されたものとした。さらに容器には「生食用」「調理加熱用」と明示することが義務づけられた。

 カキに当たるという表現があるが、生ガキによる食中毒の原因は、細菌ではなくウイルスであることが分かったのは比較的最近のことである。原因ウイルスは昭和47年に発見され、小型球形ウイルス群SRSV(Small Round Structured Virus)と呼ばれた。その後、平成15年8月29日に食品衛生法が改正され、小型球形ウイルス群はノロウイルスと名称を変えた。

 海中のカキは1時間に20リットルの海水を吸い込み、海水に含まれるプランクトンをえさにしている。海水温度の高いときは、カキは新鮮な水を活発に出し入れするので、ウイルスはカキの体内には滞らない。しかし水温が低くなると、カキの活動が鈍り、海水の出し入れが少なくなり、ウイルスがカキの中腸腺に滞ることになる。

 このためノロウイルスによる食中毒は冬期に発生することになる。ノロウイルスはカキだけでなく二枚貝(アサリ、ホタテ、ハマグリなど)にも蓄積されるが、二枚貝を生で食べる習慣がないため、二枚貝による食中毒は少ない。

 11月から3月にかけてカキはおいしくなるが、それはカキのうま味であるグリコーゲンが冬に増えるからで、海のミルクとも呼ばれるほど栄養価は高くなる。一般に食中毒は冬に少ないが、生カキは例外で冬に多い。それはノロウイルスの体内蓄積とカキのおいしい時期が一致しているからである。殻からカキを出すと黒く見えるところがあるが、この部分にウイルスが濃縮して存在している。

 カキの食中毒はカキの生息海域がノロウイルスに汚染されているかどうかで決まる。ノロウイルスはカキにとっては毒でも餌でもなく、たまたまノロウイルスがいる海水を吸いこんで体内に貯めているだけである。ノロウイルスはカキの体内では増殖しないので、カキの食中毒はカキの新鮮度とは関係がない。中毒はノロウイルスの蓄積の有無だけなので、そのためカキがどこの海域で採れたのかが重要となる。

 ノロウイルスはヒトの由来のウイルスで、ヒトの腸管で増殖し、糞便とともに排出される。ウイルスが河川に、河川から海へ流れ、海水をカキが吸い込み、カキの体内でウイルスが蓄積される。つまり生ガキの食中毒は、養殖業者や調理者が悪いのではなく、生活排水の処理がウイルスに不十分であることを示している。つまりカキの食中毒はヒトの糞便で汚染されたことを意味している。

 カキの食中毒は海外でも発生している。1968年にアメリカ・オハイオ州のノーウォークで生ガキの集団中毒が発生し、1972年には病原ウイルスが初めて同定され、2002年の学会で小型球形ウイルス群はノーウォーク様ウイルス Norwalklike viruses(NLV)と名づけられた。

 アメリカのNLVによる胃腸炎はこれまで患者数2300万人、入院患者5万人、死者310人を出している。欧米でNLVをノロウイルス(Norovirus)と総称していることから、日本でもノロウイルスと呼ぶようになった。

 ノロウイルスは、人間の小腸で増殖し感染性胃腸炎を起こす。食中毒全体の10数%を占め、潜伏期間は1日から2日で、症状は腹痛、嘔吐、下痢、38℃以下の発熱などである。ノロウイルスに感染しても全員が発症するわけではなく、風邪程度の症状ですむ場合もあり、通常は3日以内に回復する。抵抗力が落ちている人、乳幼児では数百個程度のウイルスでも発症することがある。

 ノロウイルスは平成9年に食中毒原因物質に指定され、現在第4類感染症に分類されている。このウイルスは酸、アルコール、塩素に抵抗性があり、培養できないのが特徴である。また動物実験ができないことから、詳しい解析はなされていない。殺菌は60℃、30分では不十分で100℃の加熱が必要である。つまりカキの調理は中心部まで十分に加熱することである。

 生のカキ中毒を予防するには、多量に食べると体内のウイルス量も多くなるので2、3個でやめることである。現在、生ガキは食品衛生法により海水中の細菌数が基準以下の海域で養殖されたものであるが、体調が悪いときや過労時は生ガキの摂食は避けるのが賢明である。

 一般的に、食中毒の予防には調理人はよく手を洗浄し、マスクや手袋の着用が奨励されているが、生ガキの中毒だけは例外で、予防を尽くしても発症は避けられない。

 生ガキの養殖では、海水中の細菌数が一定基準を満たしている海域で、かつ紫外線で殺菌した海水をシャワー状にカキに注いで滅菌処理を行っている。この浄化システムによってカキが海で蓄積した細菌やノロウイルスを体外に排出させることができる。

 現在、生で食べられるカキには「生食用」と表示され、採取海域名が記載されている。記載されていないものは加熱調理用なので生では食べないことである。また賞味期限を守り、表示されている温度以下で保存し、早く食べることである。なお加熱用は基本的には取れたままの状態なので、コクやうまみは生ガキより多く、火を通して調理する場合は加熱用の方が味は良いのである。

 平成13年2月7日、仙台市青葉区一番町の飲食店で殻付きカキを食べた大学生32人が食中毒症状を訴え、飲食店は3日間の営業停止となった。このように生ガキによる集団食中毒は現在でも全国で散発し、生ガキを出した飲食店が営業停止になるのが常である。しかし生食用のカキを期限内に出している飲食店は、運が悪いだけで食中毒の予防は不可能である。ノロウイルスは生ガキの新鮮度とは関係ないので、飲食店への営業停止処分は酷と思われる。

 



無給医局員診療拒否闘争  昭和41年(1966年)

 当時の医師育成制度は、医学部を卒業した医学生は1年間の実地研修が義務づけられ、研修後に初めて医師国家試験の受験資格が得られるインターン制度であった。この仮免許のインターンを終え、医師国家試験に合格して初めて医局に入局することになるが、医局に入局しても給料はもらえず、研究と診療にあたっていた。このインターン制度、無給医制度は、医学教育の名前を借りた医療労働の搾取で、この矛盾に満ちた研修制度に無給医たちが立ち上がったのである。

 昭和38年9月、名古屋大学医学部の無給医が全国に呼びかけ、医局無給医の全国的組織ができあがった。昭和39年4月、名古屋で全国無給医代表者会議が開催され、15の大学の代表50人が参加した。昭和4012月には、無給医局員は待遇改善を求め、東京大学、名古屋大学、群馬大学の各付属病院で「1日診療拒否」を行った。この闘争には3大学で340人が参加し、経済的裏づけのない無給医局員の実情を訴えた。

 この診療拒否闘争は、国民に理解を求めるため「診療専念日闘争」と名づけられ、無給医の実情を社会にアピールした。だが1日だけの診療拒否では何ら解決には至らず、翌年には全国レベルでの闘争を展開することになる。

 昭和41年6月24日、全国医学部無給医局員対策委員会の呼び掛けにより、無給医による全国規模の「1日診療拒否」が行われた。この日の統一行動に参加したのは16の国公立大学で、無給医局員は診察をボイコット、待合室や玄関でビラを配り、無給医局員のただ働きの実情を訴えた。彼らの行動により無給医局員は世間の注目を集めることになった。

 名古屋大学では540人の医師が「適正医療」を名目にストに入り、無給医は名古屋駅前で3万枚のビラを配った。適正医療とは、責任のない無給医に病院の診療をさせるのではなく、有給医のみが診療に当たることを意味していた。このように16の国公立大学で診療拒否が行われたが、各大学病院の足並みは揃わず、東京大学では精神神経科、耳鼻科の無給医だけがストに加わった。

 医学部の医局において教授は絶対的権力を持っていた。そのため診療拒否闘争は生殺与奪を持つ教授に逆らうことになった。現状を変えようとする闘争は、医師としての将来をかけての闘いであった。

 医学部の各診療科は教授をトップとした医局によって構成され、国家試験に合格した若い医師は医局に入り、教授の指導で患者の診察や研究を行っていた。医局員の数が100人を超える医局もあり、このような大所帯では、大学が給料を支払える有給医師には限りがあった。医学部は文部省の管轄で、文部省が決めた定員は各講座に所属教員が5人(教授1、助教授1、助手3)、附属病院は4人(講師1、助手3)と規定されていた。大学の職員として文部省が給料を出しているのが有給医師で、それ以外が無給医局員であった。大学の有給医師は教育や研究に専念し、病院の有給医師は診療に専念することが建前となっていたが、医局のピラミッド構造を支えていたのが無給医局員で、この無給医局員が今回の闘争の主役であった。

 無給医局員は給料をもらえず、逆に研究費を徴収する医局も少なくなかった。無給医局員の多くはアルバイトをしながら博士論文のために研究に打ち込んでいた。しかも試薬、実験動物、試験管などの研究費は自前のことが多かった。無給医局員は大学の職員名簿に名前がなく、保険に入れず、アルバイトで生活費を稼ぎながら研究をしていた。

 医学博士の学位をもらうまでの数年間はこの状態が続くことになるが、もし大学教授の地位を狙うならば、この状態はさらに長く続くことになる。よほどの金持ちの息子でもないかぎり、過酷なアルバイトをしなければ生活はできなかった。

 無給医局員は労災や病気の保障はなく、もしものことがあれば、無収入となって妻子を路頭に迷わすことになった。文部省の調査では、昭和41年の国立大学病院の無給医局員は8238人、教授から助手までの有給医局員は4147人であった。私立医科大を含めると有給医局員は1万3000人で、大学病院で働いている約7割の医師が無給医であった。また大学病院には2400人の大学院生が診療していたので、大学院生を加えると無給医局員は8割を超えていた。医局の構造はまさに異常であった。このように無給医局員が多かったのは文部省に予算がなかったからで、これでは腰を落ち着けて診療、研究などできるはずはなかった。

 



千葉大腸チフス菌事件 昭和41年(1966年)

 昭和41年3月1日、静岡県三島市にある社会保険三島病院の職員や患者の間で、腸チフスが流行していることが地元の静岡新聞によって報道された。社会保険三島病院では腸チフスで副院長が死亡し、腸チフスと診断された患者数は2カ月で25人に達していた。

 同日、厚生省は三島病院の閉鎖を命じ、病院内を消毒した。同月9日、朝日新聞と読売新聞がこの事件を全国版で報道すると、すぐに世間の注目を浴びるようになった。翌10日には、社会保険病院の管轄である厚生省が、腸チフスの集団発生に関しての管理責任を国会で追及されることになった。

 この腸チフスの集団発生は社会保険三島病院だけではなかった。昭和39年から41年にかけ、千葉市にある千葉大学医学部第一内科、川崎製鉄千葉工場、静岡県御殿場市付近でも腸チフスが集団発生し、患者数は東京都を挟んで100人以上に達した。この腸チフス事件が報道されると、謎が謎を生み、ミステリアスな事件として国民の関心を呼んだ。マスコミが先頭に立ち、国民的な謎解き競争が始まった。

 「腸チフス 三島から千葉を往復」。このような見出しでマスコミは連日のように腸チフス事件を取り上げ、報道は加熱していった。この腸チフス事件は、通常の腸チフスの集団感染とは異なる怪奇性を帯びていた。

 腸チフスが発生すれば、その感染源や伝染経路を解明し、感染の広がりを防止するのが通常である。ところが三島病院の場合は、感染経路に不可解な点が多くみられた。腸チフス患者は病院関係者に多かったが、感染者と感染者の間に接点が見られなかったのである。三島病院に通院している患者にも腸チフスは多発したが、その感染経路が分からなかった。

 三島病院では内科を中心に職員25人が腸チフスで入院。腸チフスは法定伝染病で、病院は保健所に届ける義務があったが、三島病院は隠蔽を図り保健所に届けていなかった。さらに三島病院では腸チフスだけでなく、赤痢患者が数人いることが分かった。

 腸チフスは、その病名から赤痢やコレラのように下痢を起こすイメージがある。しかし腸チフスの胃腸症状は少なく、約1週間の潜伏期間の後に、全身倦怠感、食欲不振、頭痛などが出て、次に発熱が出現する。発熱から1週間後に皮膚にバラ色の小さな斑点ができ、このバラ色斑点(バラ疹)によって腸チフスの診断が下されることが多い。

 厚生省公衆衛生局防疫課がこの事件の調査に乗りだし、腸チフスが発症した4カ所すべてに関係している人物が浮かび上がった。それは千葉大第一内科に所属する医師で、この医師が故意に腸チフス菌をばらまいたとすれば、千葉と静岡にまたがる集団発生の謎がきれいに説明できた。しかしこの医師が関与していたとしても、医師が単なる保菌者だった場合、着衣からの感染だった場合もありうるが、それらはすべて切り捨てられた。疑惑の医師は自宅待機を命じられ、保菌者の名目で千葉市立病院に強制隔離となった。

 厚生省は医師と面談、同時に千葉県警も捜査に乗り出した。昭和41年4月2日、朝日新聞が「殺人の疑いで鈴木逮捕へ」と実名顔写真入りで報道。4月7日、千葉県警は千葉大学付属病院第一内科無給医局員の鈴木充(35)を、腸チフス菌混入による傷害罪容疑で逮捕した。容疑は13回にわたって腸チフス菌や赤痢菌を64人に感染させたことであった。

 三島や千葉の腸チフス発生現場に鈴木充は関与しており、静岡県御殿場市の腸チフス集団発生では、鈴木充の実家の本家で6人、実家の隣家で5人、親戚の家で8人の患者が出ていた。神奈川県小田原市でも1人発症しているが、それは鈴木充の弟の家であった。

 医師が伝染病の細菌をばらまく、このような犯罪史上類のない事件に国民は大きな衝撃を受けた。マスコミは鈴木医師の行くところに腸チフスありと報道し、鈴木充の犯行説を国民に印象づけた。

 逮捕された医師の鈴木充は千葉県警の取り調べに犯行を否認していたが、逮捕から7日目に、「自分が菌をばらまいた」と自白。試験管で腸チフス菌を増やし、カステラにかけ、注射器でバナナに注入し、ジュースなどの飲食物に混入させ、同僚や患者たちにばらまいたと述べたのである。鈴木充は「研究に熱中し、人体実験を無意識にやってしまった」「医学上の新学説を発見するため」などと自白したとされている。無給医局員の不安定な生活への不満、愉快犯としての要素、日本医科大出身である鈴木充の千葉大医局での疎外された存在、このようなことが事件の動機とされた。

 鈴木充は千葉大カステラ事件でも起訴されている。千葉大カステラ事件とは東京オリンピックのあった昭和3911月、千葉大第一内科の研究室に置いてあったカステラを食べた室長、技術吏員、看護師ら4人が激しい下痢と発熱をきたして大学病院に入院した事件である。

 原因としてカステラを疑った加藤直幸研究員が、床に落ちていたカステラ片を培養し、赤痢菌を見いだしたのだった。この赤痢菌による千葉大カステラ事件も鈴木充によるものとされた。

 チフス菌事件で鈴木充は、いったん犯行を自供したが、その後、自供を翻し無罪を主張した。裁判では、腸チフスの集団発生が鈴木充による人為的な犯行なのか、あるいは自然発生による流行なのかが争点となり16年もの長い裁判となった。

 昭和47年7月8日、千葉地裁の第一審の判決では、鈴木充は証拠不十分で無罪となった。犯行の動機があいまいだったこと、腸チフスの摂取と発症までに時間のズレがあること、赤痢菌や腸チフス菌はカステラに注入しても増殖しにくいこと、つまり自供した方法ではチフスを発症させることは不可能とされ無罪となった。検察側の主張した菌の注入方法では腸チフスは発症しないとしたのは、米国の刑務所で行った人体実験をよりどころにしており、裁判官は「一抹の疑惑は残る」と異例の発言を付け加えた。

 検察はすぐに控訴し、昭和51年4月30日、東京高裁で懲役6年の逆転有罪判決が下された。逆転有罪の決め手になったのは、千葉大病院と三島病院から検出された腸チフス菌がいずれもD2型菌で、同じ特性を持った腸チフス菌だったことである。

 千葉県と静岡県の集団感染がお互いに無関係ならば、菌の型や性質が同一のはずはないとされた。この菌の分析から、鈴木の犯行の可能性が高いと判断したのである。また鈴木充の自白には一貫性があり信用できるとした。犯行の動機は性格異常に加え、医局への潜在的な不満によるとされた。

 鈴木充は最高裁に上告したが棄却され、事件から16年後に懲役6年の有罪が確定した。鈴木充は無実を主張しながら6年の刑期を刑務所で過ごすことになった。有罪が確定したために、昭和58年9月28日、医道審議会は鈴木充の医師免許を取り消した。

 鈴木充が果たして集団腸チフス事件の犯人なのか。この事件を取材し、冤罪を主張する畑山博がノンフィクション「罠」を書き、冤罪の根拠を次のように述べている。当時、腸チフスの自然発生はかなりの頻度で発生しており、病院での腸チフスの集団発生は管理体制としての病院の責任に結びつくものであった。さらに病院を管理する厚生省の責任も重大で、病院側と厚生省は管理体制の不手際を隠すため、この事件の犯人を鈴木充にでっち上げたとしている。

 この事件で、鈴木充は有罪判決を受けたが真相は闇に包まれたまま、科学的とみられるこの裁判が真実を裁いているかどうか永久に不明である。この千葉大腸チフス菌事件は、読売新聞が行った昭和41年の10大ニュースの第3位であった。いかに国民の関心が高かったかが想像できる。

 



うそつき食品 昭和42年(1967年)

 現在では原料や材料を偽って食品を売ることは固く禁じられている。ところが昭和41年頃は「うそつき食品」が堂々と店頭に並んでいた。豚肉と称してウサギの肉が売られ、鯨肉なのに牛肉のラベルを張った缶詰、馬肉入りのコンビーフなどが堂々と高い値段で売られていた。

 また人工甘味料の入ったジュースを天然ジュースと偽り、乳分が少ないのにコーヒー牛乳と表示し、サッカリンで味づけしているのに全糖と表示された缶詰などが販売されていた。その当時、販売されていた100種類のジュースを検査した結果、表示通り100%天然ジュースだったのは3種類だけだったと記録されている。

 その他、クリの入っていないクリようかん、バターの入っていないバタービスケット、ワサビの入っていない粉ワサビ…、このように数え切れないほどのまがい物が作られていた。さらにイワシやサバで作られた花ガツオ、トウモロコシの粉を用いた片栗粉、天然醸造酢と称して化学薬品を薄めた食品などが店頭に並んでいた。

 また植物油や大豆タンパクを混ぜたチーズまでも売られていた。カジキマグロを食べた者が下痢を起こし、調べてみたら油の質の悪いバラムツだった。

 うそつき食品への消費者の怒りや苦情が相次ぎ、消費者を惑わすうそつき食品がマスコミで大きく取り上げられた。当時の佐藤栄作首相がうそつき食品を取り締まるために経済企画庁に対策を講じさせたほどである。

 多くのまがい物が出回ったため、商品の品質についての消費者の目が厳しくなった。さらに食肉の変色防止のため、ひき肉にニコチン酸を添加し新鮮肉と見せかける不正事件が発覚し、消費者から批判が集中した。うそつき食品が横行するなかポッカレモン事件が起きた。

 昭和30年代は生活が豊かになり、欧米の生活を思わせるレモンがブームになっていたが、レモンは輸入が制限されていたため、庶民の手に届かないほど高価であった。大卒初任給が1万円以下の時代にレモン1個が200円で、カクテルにレモンを入れて飲むことが、高級な生活をイメージさせていた。

 このような時代に、ビン詰めのポッカレモンが発売され爆発的に売れた。「ポッカといえばレモン」と言うほどで、どの家庭にもポッカレモンが置いてあった。ポッカレモンは身近な存在であったが、このポッカレモンが取り締まりを受けたのである。

 昭和42年5月11日、不当表示を行ったとしてポッカレモンに排除命令が出された。ポッカレモンは合成ジュースを天然ジュースと偽って販売していたのである。この事件は、公正取引委員会が無果汁飲料の表示基準を決めるきっかけをつくった。

 ポッカレモンはこの事件で売り上げを激減させたが、昭和46年に100%レモン果汁による「ポッカ100レモン」を発売して復活を遂げた。なおレモンに関し、公正取引委員会が摘発したのはポッカレモンだけでなく、森永製菓、東食、明治屋、ヤンズ通商、サントリーの5社も含まれていた。

 うそつき食品と似たものにコピー食品がある。コピー食品とは、本物に似せて作られた模造食品を意味する言葉である。コピー食品の元祖は、江戸時代からの「がんもどき」である。「がんもどき」は漢字で「雁擬き」と書くように、がん(雁)の肉の味に似せて作られた油揚げが「がんもどき」である。コピー食品は古くから日本にあって、これらは寺院での精進料理の中に見ることができた。

 昭和40年ころから、工場で作られたコピー食品が次々と出回るようになった。また最初はコピー食品であっても、バターにおけるマーガリンのように、代用食品として一定の地位を築き上げるものもあった。

 コピー食品で注意が必要なのは本物と偽物の区別がつかないことで、たとえば天然のイクラはサケ・マスの卵であるが、コピー食品のイクラは天然色素で着色したサラダ油と海藻エキスからできている。サラダオイルを乳酸カルシウム液に落とすと、化学反応によりイクラそっくりの形になる。これに食品添加物で味をづけたのがイクラのコピー食品である。

 イクラのコピー食品は本物に比べ皮がやや硬いのが特徴であるが、外観から見分けることは難しい。見分けるためにはお湯を注いでみれば、本物のイクラはタンパク質が多いので白濁するが、コピー食品はサラダオイルが主成分のため白濁はしない。

 皮肉なことに、本物のイクラは高コレステロール食品であるが、コピー食品はヘルシーな健康食品である。かつてはイクラのコピー食品が店頭に数多く出回っていたが、最近は本物のイクラの値段が安くなったためコピー食品は姿を消している。イクラのコピー食品は芸術品、あるいはハイテク工業製品といえる。

 次に世界三大珍味のひとつであるキャビアを挙げることができる。本物のキャビアはチョウザメの卵であるが、キャビアのコピー食品はランプフィッシュの卵を着色剤で黒く着色したもので、世界的な規模で流通している。缶の裏には「キャビア(ランプフィッシュ卵)」と書かれている。

 本物のキャビアは高価な食品であるが、安い値段のキャビアはほとんどがコピー食品である。ちなみに本物のキャビアは「純正キャビア」と書かれている。ニセモノは黒く着色されているので、パンなどに塗るとうっすらと黒い色がパンにつくことで判別することができる。

 チューブ入りわさびの原材料名をみると、「西洋わさび」と書かれているが、西洋わさびは「わさび大根」のことである。もちろん西洋人はわさびを食べないから、西洋ではわさびを栽培していない。西洋わさびはホース・ラディッシュという大根のことで、この大根に合成からし粉、でんぷん、着色料、ガムを混ぜて作られている。「本わさび使用」などと書かれているが、これは本物のわさびを数%混ぜたもので、本わさびだけを使用しているわけではない。

 シメジの名前で「ヒラタケ」という全く別種のキノコが売られている。また「ブナシメジ」が「本しめじ」の名前で売られているが、本しめじはシメジではないのでややこしい。その他、スケソウダラを加工したイカ、シシャモを加工したカズノコ、カニの足に似せたかまぼこ、牛の横隔膜を固めて加工したステーキなどがある。

 コピー食品を日本人が見分けられるかどうかの実験では。区別は困難とする結果が示されている。コピー食品が作られた背景には、本物は量が少なく値段が高いからである。そのため値段によって、コピー食品と本物を区別するのが最も確かな方法である。日本人の味覚がいかに危ういかが分かる。

 



心身障者安楽死事件 昭和42年(1967年)

 昭和42年8月2日、生まれてから27年間寝たきりだった重症心身障害者の息子を、医師である父親が思いあまってエーテルをかがして絞殺する事件が起きた。東京都千代田区に住む開業医・Mは結婚してすぐに子供が生まれたが、息子は脳水腫症で手足を動かすことができず、精神薄弱で寝たきりであった。この間、母親は下の世話から食事の世話まで、つきっきりで介護し、自分の時間のない生活を送っていた。

 M医師は70歳近い高齢になり、自分のうつ病の持病も悪化したため医院を廃業。自分の先が短いと思った父親は、後追い心中を決意した。母親が買い物に行って留守になったとき、父親は息子に苦痛を与えないようにエーテルをかがせ、意識不明にした上で「許してくれ」と言いながらタオルで絞殺した。父親は多量の睡眠薬を飲みガス自殺を図ったが、帰宅した妻に発見され一命を取り止め、妻に付き添われて警察に自首した。

 安楽死裁判が行われた。弁護側は絞殺された息子は不治の病で、収容先もなく、行く末を案じての安楽死であったこと、また父親はうつ病のため心神喪失状態だったと主張した。検察側は、わが子のために尽くしたことは認めるが、殺人という手段よりも改善策を国などに働きかけるべきだったとして、殺人罪では最も軽い懲役3年を求刑した。母親は「私も子供を殺して自殺しようと何度も思った」と証言、主人を責めることはできないと泣きくずれた。

 昭和4312月4日、東京地裁で判決が下された。傍聴席は心身障害児を持つ親たち、法律を専攻する学生たちであふれていた。清水春三裁判長は、「罪なきものと決めつけることはできないが、犯行時、父親は心労の余りうつ病による心神喪失状態にあった」として、無罪の判決を下した。裁判長は弁護側の主張を認め、感情を持たぬ子供を育てたM医師の苦労を容認する発言をした。父親の行為は殺人ではあるが、その動機には愛情と人情が含まれていた。この判決文の朗読の際、満員の傍聴席からもらい泣きの声が流れた。

 この事件は大きな問題を抱えていた。1つは、「回復の見込みのない生きる屍(しかばね)となった息子を生かすことは、苦しみを与えるだけ」とする父親の殺害動機である。息子は27年間、父親に笑いも喜びも与えてくれなかった。ここに父親の情、葛藤(かっとう)、苦悩があり、このことから裁判官は温情判決を下したのである。

 父親が息子を殺害したのは、息子を思考力のない者と捉えていたこと、自分が高齢になって息子の介護ができないと思ったこと、息子を生かし続けることが息子の生命を尊重することにならないと思ったからである。この父親の心情は十分に理解できた。

 父親は「人の生命は神様でも奪うことはできないのだから、自分の行為は間違っていた。もし息子に少しでも感情があればやらなかった」と罪を償おうとした。裁判官は父親のうつ病を理由に無罪の判決を下したが、それは法律上の理屈を利用したにすぎない。裁判官は、安楽死を是認するのではなく、父親の精神病が息子を殺害したとして無罪にしたのである。

 実際には、父親は親として、あるいは人間として正常な判断で息子を殺した。しかし裁判官は、息子が不治の病で、両親の肉体的、精神的苦痛を黙認できず、倫理的妥当性を考慮してこの判決を下したと思われる。この判決には、誰でも納得できる十分な事情があった。検察側は控訴せず、無罪が確定した。

 昭和40年の統計によると、心身障害児は約2万人とされている。それでいて心身障害児の収容施設は4380床だけであった。親が若くて元気なうちはまだよいが、親が死んだら誰が面倒をみるのか。心身障害児が収容施設に入れるのはわずかばかりで、成人の心身障害者が収容できる施設は皆無に等しかった。福祉の遅れがこの事件を招いたといえる。清水裁判長は「重症心身障害児を持つ親たちの苦労には頭が下がる。国の看護施設の強化を強く望む」と、異例の発言を加えた。

 父親は無罪になったが、医師である父親をここまで追い込んだ共犯者は国といえる。「無策だった国を無罪にはできない」、このことが心身障害児を抱える親たちの共通した気持ちだった。当時の齋藤邦吉厚生大臣はこの温情判決を支持し、施設整備などの対策に尽くすことを約束し、2度とこのような事件が起きないようにと述べた。

 



高カロリー輸液 昭和42年(1967年)

 医療において輸液という手段がなかったら、食事のできない患者は脱水から腎不全をきたして死を待つだけになる。この輸液は、1832年にアイルランドの医師ラッタが、瀕死のコレラ患者15人に生理食塩水を静脈に注入して5人の命を助けたのが最初である。しかしラッタの輸液療法は学会で疑問視されたため普及せず、80年後に英国の病理学者ロジャースがインドのカルカッタでコレラ患者に輸液を行い、患者の死亡率を下げたことから輸液が一般的となった。

 点滴は脱水に著効を示し、特に小児の下痢には効果が大きかった。20世紀になると電解質に関する代謝学が進歩し、細胞内液、細胞外液の概念が確立し、輸液は普及するようになる。輸液には電解質欠乏、水分不足、出血などを補充するもの、特殊な薬剤を注入するものなどがある。輸液療法は一般的治療となったが、電解質と水分の補給が主で、栄養状態を改善させるまでには至っていない。点滴は目で見える四肢の皮下静脈に注射針を刺すが、この末消血管への点滴は水分と電解質の補給のみである。点滴のカロリー(糖分)を高めると末梢血管は炎症を起こして壊死するため、低カロリーの輸液のみの注入であった。

 人間が生きていくには栄養が必要で、毎日2000カロリー必要とされている。だが末梢静脈から5%のブドウ糖を含んだ点滴を1.5リットル注入しても300カロリーにしかならない。注入できる点滴量には限界があるため、栄養補給の問題は未解決のままであった。重症患者にとって低栄養状態が続けば創傷の治癒は遅くれ、感染にかかりやすく、最終的には栄養不良から衰弱死をきたすことになる。末梢静脈からの輸液では栄養補給の壁を乗り越えることができなかった。

 この栄養の問題を解決したのが高カロリー輸液である。昭和42年、アメリカのダドリック博士が中心になり、身体の深部にある太い静脈に直接チューブを入れて点滴をする画期的な方法を考案した。ダドリック博士は高濃度のブドウ糖とアミノ酸の混合液を子犬の太い血管に入れ、点滴だけで子犬の成長を可能にした。

 人間では心臓の近くにある鎖骨下静脈、あるいは足のづけ根の鼠径静脈などに直接カテーテルを挿入することで高カロリー輸液を可能にした。太い静脈は血管が丈夫で、血液の流量が速いため、高濃度のブドウ糖液を滴下しても損傷をきたさないのであった。つまり経口摂取が不可能でも、食事と同じカロリーを点滴で与えることができた。理論的には、食事ができなくても点滴だけで生きていけるようになった。

 中心静脈点滴法栄養補給だけでなく、チューブの先端を心臓の近くに置くため、心臓内圧を測定することができた。重症患者を治療する場合、その患者が脱水状態なのか、余分な水分が心臓に負担をかけている心不全状態なのかで、投与する輸液量は全く違ってくる。この判断に迷う場合、中心静脈の圧を測定すれば、どちらの病態なのか判断できるのだった。

 病院に行くと、胸や首から点滴をしている患者さんを多く見ることができる。これらが高カロリーの点滴である。消化管の手術で食事が取れない患者、重症で食事の取れない患者、彼らはこの高カロリーの点滴の恩恵を受けている。まさに高カロリー点滴は医療そのものを大きく変えた。

 高カロリーの点滴が普及したのは、昭和55年ころからで、この点滴法は医師ならば基本的手技として多くが習得している。高カロリーの点滴は、利点は大きいもものその手技には常に危険が伴っている。まず肉眼では見えない皮下深部の太い静脈に、解剖学的知識のみで太い注射針を挿入するので、失敗することが多い。末梢の血管ならばたとえ失敗しても合併症は少ないが、高カロリーの点滴は太い血管に刺すので、平行して走る太い動脈を刺したり、肺を傷つけたりすることがある。このように生命の危険に結びづくことがあるので、施行時には患者からの承諾書を得てから行われる。動脈や静脈の走行は個人差があるので、たとえ熟練した医師でも100%成功するわけではない。また高カロリーの点滴は長期間固定するため穿刺部位から感染することがある。

 かつての点滴にはビタミン剤が混注されていたが、ビタミン剤の乱用と非難され、平成4年の診療報酬改定で、食事ができる患者さんの点滴にはビタミン剤の混注が禁じられた。そのため高カロリー輸液を受けている患者の場合もビタミン混注は禁止されていると誤解され、全国の病院からビタミン剤が一斉に引き上げられた。

 その結果、高カロリー輸液を受けている患者さんにビタミンB1が不足し、ウェルニッケ脳症を起こす例が出るようになった。ビタミンB1が徐々に欠乏して末梢神経が冒されれば脚気になるが、ビタミンB1が急速に減少すると中枢神経が冒され、ウェルニッケ脳症を引き起こすのである。

 一般的に食事をしないで、2週間ビタミンB1を取らないと、体内のビタミンB1が欠乏してウェルニッケ脳症になる可能性が高くなる。脳の脚気と呼ばれるウェルニッケ脳症の死亡率は1〜2割で、助かっても意識障害、健忘、歩行障害、人格障害を残す。特に問題なのは前向健忘症で、前向健忘症とは病気になる以前の記憶は残っているが、発症後に記憶が定着しない障害である。つまり朝食を取ったのか、風呂に入ったのか、直前の記憶が抜けてしまうのである。

 平成7年4月、点滴によるウェルニッケ脳症が警告されたが、その後も続出し、京大病院(平成7年)、東大医科研病院(平成8年)でもウェルニッケ脳症で訴えられている。高カロリーの点滴は食事の取れない患者に行われるため、特に老人の場合はウェルニッケ脳症と診断されず、老人ボケ、老衰などと診断されて死亡した患者が多いと予想される。このように大学病院でも死亡例が報告されおり、高カロリー輸液には必ずビタミンB1を混注することである。

 



医師国家試験ボイコット 昭和42年(1967年)

 昭和42年3月12日、青年医師連合(36大学、2400人が参加)はインターン制度の完全廃止、医局の改善を要求して第42回医師国家試験をボイコットした。ボイコットした受験者は全体の87%に達し、受験したのはわずか13%、404人であった。各地の試験場では医学生やインターン生がピケを張りデモを行い8人が逮捕された。

 全国46の医科系大学のうち全員が受験の方針をとったのは、千葉大学、東京女子医大、昭和医大の3校だけで、千葉大学はいったん試験場に入り、56人が一斉に会場から退場した。

 青年医師連合が試験会場前に集結し、受験を阻止しようとしたため、試験会場には機動隊が動員され、装甲車が並ぶものものしい雰囲気になった。国家試験の東京会場では、学生400人が試験会場周辺でデモ行進を行い、機動隊と衝突して医学連委員長・木下信一郎ら7人が公安条例違反で逮捕された。

 大阪会場でも学生ら400人が会場にバリケードをつくり機動隊と衝突した。さらに札幌会場では50人がピケを張り機動隊と衝突、1人が公務執行妨害で逮捕された。全国の医学部の卒業生が医師国家試験をボイコットしたのはインターン制度の改善が目的であった。

 インターン制度は、昭和20年の終戦時に進駐軍の指令によって導入された研修医制度である。日本の社会は進駐軍の指令で、あらゆる分野の民主化が行われ、医学教育においても進駐軍の指導によりインターン制度が導入された。

 インターン制度とは、医学部を卒業した者は1年間病院で働き、その後に医師国家試験を受ける制度である。戦勝国であるアメリカの医療制度を取り入れた研修医制度であった。この制度の名前は、アメリカと同じインターン制度であるが、その内容はすべての面でアメリカとは異なっていた。教育のカリキュラムはないに等しく、また研修を裏づける予算もなかった。

 インターンの1年間は身分の保証はなく、医学士ではあるが医師でも学生でもない中間的存在であった。働いても無給与で経済的保証はなく、研修という名前の強制労働であった。インターン生として1年間各科を回り、自分にあった科を選択できたが、教育体制や指導者はないに等しく、職員の嫌がる便や尿の検査ばかり押しつけられた。

 不安定な身分や処遇への不満は大きく、昭和41年頃からインターン制度に反対する医学生の運動が全国的に広がった。「インターン制度を変えるには、インターンが終了しても医師国家試験を受けない」。この実力行使は非常に有効な戦術であった。大部分の受験者が医師国家試験をボイコットしたことは戦術的に成功であった。当時の医師不足は深刻で、医師国家試験のボイコットは医師不足をさらに深刻化させるとして厚生省を慌てさせたのである。厚生省は何とか国家試験を受けるように策を練るが、通用せず、うろたえるだけであった。

 医師を無給で働かせるインターン制度は政府にとって都合がよかった。しかしインターン制度は、あまりに医師の使命感に頼りすぎ、現実離れしていた。アメリカのインターン制度は、給料も支給され、教育体制も整っていた。そのため横須賀などの米軍病院でインターンを希望する者が多かった。なおインターンとは内にいる者、つまり住み込み医師制度を意味している。

 このインターン制度の混乱が、昭和42年の東大医学部卒業試験ボイコットを引き起こし、東大紛争の導火線となった。

 このインターン制度は東大紛争後の昭和43年に廃止され、以後、2年間の卒後臨床研修が努力規定として医師法に明記された。こ新たな臨床研修医制度は、大学卒業と同時に国家試験を受け、医師免許を得た後に指定研修病院で2年間研修する制度であった。しかし規定は「2年間研修することが望ましい」というもので、強制的制度ではなかった。この制度も平成16年から卒後臨床研修が義務化され、新しい研修制度になっている。

 インターン制度の発祥の地であるアメリカでは、医学校を卒業した学生は国家試験を受け、1年から2年の研修を終えると、専門的な研修を行うレジデント(病棟医)コースに移り、専門試験を受けて専門医になるのが一般的である。日本の研修医制度は形の上ではアメリカの研修医制度と似ているが、給料面、教育面においてははるかに劣っている。

 フランスでは「インターンはアンテルヌ(研修医)」と呼ばれている。平成12年4月にこのアンテルヌによる一斉ストが行われた。週60時間以上の過酷な労働条件、月給約12万円の改善を求めてのストであった。このストは労働条件の改善と月給の上乗せをフランス政府が約束して解決した。医療制度を安くすませようとする政府の思惑、それに反発する研修医の闘争は日本だけの話ではないのである。

 



東京女子医大山岳部 昭和42年(1967年)

 昭和42年7月19日、東京女子医大山岳部の今井通子(25)と若山美子(26)の2人がヨーロッパ・アルプス3大北壁の1つであるマッターホルン北壁の登頂に成功した。マッターホルンの標高は4478メートルで、4000メートル級の山々が連なるスイスアルプスのなかでも、住民からは「魔の山」として恐れられていた。マッターホルンの山頂は夏でも白銀の雪を冠し、古くから世界中のアルピニストたちを魅了していた。

 マッターホルンの北壁は雪と氷に覆われ、岩は崩れやすく、男性でも恐れをなす難コースである。今井通子らは1晩のビバーク(野営)の後、夜の8時に頂上に立った。吸い込まれそうな巨大な氷壁に苦戦し、女性だけのパーティーで北壁の登頂に成功したのである。マッターホルンの北壁は女人禁制といわれていたほどの難所であったが、今井たちは世界で初めて女性だけで登頂に成功した。翌20日の朝に下山を始め、昼過ぎにベースキャンプに着いたが、世界のクライマーはこの快挙に驚き、女性だけで北壁を登るとは信じられないと絶賛した。

 その2年後の昭和44年、今井通子はアルプス・アイガー北壁(3970メートル)の登頂に成功。アイガー北壁は「赤い絶壁・魔の絶壁」と呼ばれ、赤黒く湿った岩肌が直角を超え、あらゆる者を拒絶していた。今井通子は加藤滝男を中心とする男性パーティーの一員として登頂に成功した。

 昭和46年、今井通子は婚約者である高橋和之とアルプス・グランドジョラス北壁(4208メートル)に挑んだ。雪や落石と戦い、登頂に成功すると、仲間たちは頂上に雪洞を掘り、シャンペンと赤飯で2人の結婚を祝った。

 それまで3大北壁のすべてを征服したのは全世界でも数人しかいなかった。今井通子は女性として世界で初めて3大北壁を征服し、世界の登山史に大きな足跡を残した。その後、チョモランマ(中国側のエベレスト)、アフリカの最高峰キリマンジャロにも登頂し、山頂からのパラグライダー飛行にも成功している。

 今井通子はスイスでは有名なクライマーで、山に関心のあるスイス人なら、だれでも知っている日本人女性である。それまでの岩登りは男性だけで女性はほとんどいなかった。今井通子は男性にできることは女性にもできることを示し、女性の地位向上に貢献した。

 今井通子の3大北壁制覇から4年後の昭和50年、日本女子登山隊が女性として初めてエベレスト登頂に成功した。登頂者は田部井淳子だった。当時、登山は大変なブームだったが、男のスポーツとされていた。娘を持つ親たちは、「お願いだから、山と全学連だけには行かないでくれ」と言っていたほどである。そのため山男という言葉はあるが、山女という言葉はない。

 今井通子は昭和17年、東京・世田谷に生まれ、中学生のころから父親に連れられて山に親しみ、東京女子医科大に入学と同時に山岳部に入った。山岳部時代には、女性パーティーとして初めて谷川岳烏帽子奥壁の登攀(とうはん)に成功し、女性登山家として名を知られるようになった。

 今井通子は、北壁登頂によって「女だてらに登山をするという世間の偏見を称賛」に変えた。彼女は後に、「私の北壁」「私の北壁 続」(ともに朝日文庫)、「山は私の学校だった」(山と渓谷社)、「男は仕事、女は冒険」(主婦と生活社)を出版、自分がいかにして山に親しみ、いかにしてトレーニングを積み3大北壁を制覇したのか、さらに遭難を心配する家族への葛藤(かっとう)などを書いた。今井通子は東京女子医大を卒業後、泌尿器科医として勤務、環境保護問題など幅広く活躍している。

 



カネミ油症事件 昭和43年(1968年)

 カネミ油症事件はPCB(ポリ塩化ビフェニール)による日本最大の食品中毒事件である。昭和43年の3月から10月にかけ、北九州市のカネミ倉庫が製造したカネミ・ライスオイルの製造過程で加熱用のパイプからPCBが混入、このPCBの混入によって大規模な中毒事件が起きた。

 カネミ・ライスオイルとはカネミ倉庫が製造した米ぬか油の商品名で、天ぷらやトンカツなどの揚げ物に用いられていた。またライスオイルはコレステロールを減少させると宣伝され、口当たりが軽く風味が良いことから、身体に良いだろうとライスオイルを直接飲む者がいた。カネミ・ライスオイルは台所で静かなブームとなっていた。

 このPCBに汚染されたライスオイルが、目をそむけたくなるような皮膚病変を引き起こした。黒い吹き出物、かゆみ、全身倦怠感、腰痛などの難治性の症状を示し、さらには多数の死者を出すことになった。被害者は1都2府8県で1万4320人、死者50人に達する大惨事となった。

 このカネミ油症事件に言及する前に、この事件の直前に起きた「ダーク油事件」について説明が必要である。もしダーク油事件の原因をきちんと究明していれば、カネミ油症の悲劇は防止できたからである。ダーク油事件とはニワトリに発生したカネミ油症事件であった。

 ダーク油事件は、昭和43年2月頃から西日本一帯で発生した。ブロイラーで飼育されたニワトリが肺水腫などで次々に死んでいった事件で、罹病したニワトリは70万羽、死んだニワトリは少なくても20万羽以上とされている。

 このニワトリの大量死について、当初は新種の伝染病が疑われたが、死亡したニワトリの解剖所見から家畜保健衛生所は中毒死と断定。ニワトリに与えた配合飼料による中毒死と推測した。ニワトリに与えられていた配合飼料は2種類で、2種類とも北九州市のカネミ倉庫が製造したダーク油を使用していた。

 このことから、残されていた配合飼料とダーク油をニワトリに与える実験が行われ、その結果、大量に死亡したニワトリと全く同じ症状が再現され、ニワトリが死亡したのである。この実験からニワトリの大量死亡はダーク油によることが明確となった。

 ダーク油とは米ぬか油を精製する過程で生じる脂肪酸が混じったもので、色が黒いことからダーク油と名づけられていた。ダーク油事件の解明のため、農林省はカネミ倉庫の本社工場に立ち入り調査をおこない、カネミ倉庫のダーク油を分析したが、ニワトリを大量に死亡させた原因を突き止めることはできなかった。カネミ倉庫はダーク油が原因と認めず、「製造の過程で、何らかの理由でダーク油が変質した」ということで落着した。農林省は被害はニワトリであって、人間とは無関係としてそれ以上の調査をしなかった。

 カネミ倉庫はダーク油だけでなく、同じ製造過程で食用のカネミ・ライスオイルも作っていた。ダーク油事件が米ぬか油の変質によるものだとしたら、同じ製造過程で作られているカネミ・ライスオイルの品質を調べるのが当然のである。しかしその点検を見過ごしたことが悲劇を生んでしまった。農林省はカネミ倉庫に対し品質の管理を十分に行うことを命じただけであった。

 このダーク油事件の原因解明が行われていた同時期に、福岡や長崎を中心とした北九州で顔や臀部などに黒いニキビのような吹き出物(後に塩素座瘡と診断)を訴える患者が病院を受診するようになった。それは目をそむけたくなるような皮疹で、四谷怪談のお岩さんのようであった。

 患者は皮膚症状だけでなく、身体のしびれや倦怠感を訴えたが、皮膚症状が目立ったため患者のほとんどが皮膚科を受診した。しかし病院側の反応は鈍く、この奇病が家族内発症を特徴としているのに集団中毒は念頭になかった。九州大学付属病院皮膚科には4家族が受診していたが、半年近くも漫然と診察していた。患者たちに共通していたのは、カネミ倉庫が製造した米ぬか油を使用していたことである。そのことを最初に気づいたのは病院での患者同士の会話からであった。

 福岡県大牟田市に住む九州電力社員の患者(42)が家庭で使用していたカネミ・ライスオイルを九大病院に持ち込み毒物分析を依頼した。だが九大病院はライスオイルを分析せずに、時間だけが経過した。九大病院をはじめとした多くの医療機関は漫然と患者を診察するだけであった。

 ニワトリの「ダーク油事件」は、同年4月にダーク油の出荷が停止され、発症が食い止められた。しかし人間が被害者となったカネミ・ライスオイル中毒は放置されたまま、半年も販売され被害者は広がっていった。

 九電社員の患者は九大病院の対応にしびれをきらし、同年10月4日、奇病が集団発生していると保健所に訴え、ライスオイルの分析を保健所に依頼した。九電社員の訴えから1週間後、この奇病が世間の注目を浴びるようになった。それは朝日新聞の記事がきっかけであった。1010日の夕刊で、福岡市に住む朝日新聞の記者がこの奇病を報道した。この報道のきっかけをつくったのは保健所でも大学でもなかった。記者の妻の友人がこの奇病に罹患し、苦しんでいることを知ったからである。取材によって同じような患者が九大病院皮膚科に大勢受診していることを知ったのだった。

 朝日新聞の報道によって被害者たちは自分だけでないことを知った。そして翌日の朝刊には、この事件に先だって発生したダーク油事件との関連性が報道された。この朝日新聞の記事をきっかけに、連日のように新聞やテレビでこの奇病が報道されるようになった。

 新聞で報道された翌日、福岡県衛生部の職員4人が九州大学医学部付属病院皮膚科を訪れ、聞き取り調査を開始した。そしてカネミ・ライスオイルを中止すると、症状が消退することを知った。もし九大病院皮膚科がこの事実を保健所に報告し、広く注意を喚起していれば、この事件の被害者は最小限にとどまっていたはずである。このため九大は世間から非難を受けることになった。九大病院皮膚科は学会発表のためにデータ収集と原因分析を優先させ、ライスオイルが原因と知りながら公表しなかったのである。

 福岡県衛生部はカネミ倉庫に、原因が分かるまで自主的に販売を中止するように勧告した。しかしカネミ倉庫は県衛生部の勧告にもかかわらず、自社製品の関与を認めず非協力的な姿勢を貫いた。

 カネミ倉庫の加藤三之輔社長は「わが社の社員、家族、2000人の中から病人は出ていない。問題の油は偽物ではないか」とコメントし、販売を止めるつもりのないことを強調した。カネミ倉庫が県衛生部の勧告を受け入れなかったため、福岡県は食品衛生法に基づき1カ月の営業停止を通告した。カネミ倉庫は従業員約400人、西日本最大の食用油のメーカーであった。

 事件が表面化した段階で、九大病院皮膚科はずさんな対応について患者やマスコミから多くの非難を受けた。しかし集団発生が明確になると、九州大学は大学を挙げて原因究明に取り組むことになる。事件が表面化した4日後の1014日に、九大病院は勝木司馬之助・病院長を班長とする「油症研究班」を結成した。

 油症研究班には九州大学だけでなく久留米大学からも臨床、化学分析、疫学の専門家が集まり、原因解明に全力を挙げることになった。原因物質としては「皮膚と末梢神経系を侵す毒物」が推測され、有機塩素、リン、ヒ素などがリストに上った。当初は米ぬかの原料に農薬が混入したのではないかとされていた。

 久留米大公衆衛生学部教授は問題の米ぬか油から大量のヒ素が検出されたと発表した。大量のヒ素事件となれば、山口県下で起きた「ヒ素入りしょうゆ事件」や「森永粉ミルク事件」の記憶がまだ人々の記憶に残されていた。しかし九大の油症研究班の分析ではヒ素が見つからず、このヒ素原因説は後退していった。

 疫学調査では患者に性差はなく、どの年齢層にも患者が分布し、顕著な家族性を持っており、何らかの要因がその家族に作用したと考えられた。福岡県内の患者のすべてがライスオイルを摂取しており、しかもライスオイルは同年2月5日と6日に出荷されたものに限定されていた。この両日に出荷されたライスオイルで発症した者は81%で、19%は出荷日不明、違う日に出荷されたライスオイルを使用した者には患者の発生はなかった。

 1022日、高知県衛生研究所がカネミ倉庫の米ぬか油をガスクロマトグラフィーで分析、米ぬか油から有機塩素物質を検出したと発表した。この有機塩素物質の報告は重要視されたが、どのような有機塩素物質なのかは不明であった。

 1029日、カネミ倉庫製油工場の立ち入り検査が行われ、油症研究班は持ち帰ったサンプルから塩化ビフェニール(PCB)を検出した。カネミ倉庫製油工場では鐘淵化学工業のPCB「カネクロール」を脱臭目的で使用していた。11月4日、勝木・油症研究班長は「カネミ油症の原因は米ぬか油に含まれていたPCBである」と正式に発表した。PCBは米ぬか油の脱臭のために熱媒体として使用されていたが、PCBはパイプを挟んで米ぬか油に接しているだけであった。PCBはパイプの中を通るだけで、タンクの米ぬか油に混入するはずはなかった。PCBがなぜ米ぬか油に混入したのかが問題になった。

 九大調査団はPCBを通していたステンレスのパイプに圧をかける実験を行い、パイプに小さな穴(ピンホール)が3カ所空いているのを見いだした。つまりこのピンホールからPCBが米ぬか油に混入していたのだった。

 PCBがステンレス製のパイプの中で塩化水素を発生、これが水と反応してパイプに穴を開けたとされたが、このピンホールが原因だったとして、なぜ2月上旬に製造されたものにだけPCBが混入したのか分からなかった。この疑問について、パイプのさびや焦げついたライスオイルが穴をふさいだとされた。

 しかし事故から10年以上たった裁判の過程で、このピンホール流出説が間違いであったことが明らかになった。PCBはピンホールから漏れたのではなく、タンク内にあるパイプの接合部から漏れていたのだった。このパイプの接合部がタンク内にあったことが設計上の重大なミスであった。パイプ接合部がタンクの外にあれば、PCBが米ぬか油に混入するはずがなかった。しかも工場側はパイプの接合部からPCBが漏れていたことを知っていたのだった。一定の量のPCBがパイプの中で循環しているはずなのに、PCBの量が極端に減少しているのを工場側が気づき、パイプ接合部のボルトを締め直していたのだった。このことから2月上旬に製造されたライスオイルのみにPCBが混入して、それを摂取した人たちに被害が出たのである。カネミ倉庫側はこの人為的なミスを隠していたのだった。

 PCBがどのような被害をもたらすかは、先に発生したニワトリの「ダーク油事件」で容易に想像できたはずである。それにもかかわらずカネミ倉庫はPCBに汚染されたライスオイルをそのまま出荷していたのだった。

 先に発生したニワトリの「ダーク油事件」、多くの犠牲者を出した「カネミ油症事件」、この2つは同じ工場の同じ製造過程で米ぬか油にPCBが混入して起きたのだった。ダーク油事件が起きたとき、農林省の関心はニワトリにとどまり、人間にまで及ばなかったことが残念でならない。またダーク油事件でPCBに汚染されたニワトリが、その後どのように処分されたのか明らかにされていない。もちろん生き残ったニワトリの卵は、そのまま人間の体内に移行したものと思われる。体内に一度入ったPCBは排泄されず、排泄されるのは出産によってPCBが妊婦から新生児に移行するときであった。

 カネミ油症事件の真相が明らかになったころ、カネミ油症を飲んだ母親から、皮膚の黒ずんだ赤ちゃんが生まれたことが報道された。PCBは油に溶けやすい特徴があり、体内に入ると脂肪組織に蓄積される。特に胎盤に蓄積されやすく、新生児に移行しやすかった。この事実に人々は大きなショックを受けた。そして皮肉なことに、出産のたびに母親の症状は軽くなった。油症事件の翌昭和44年に被害者から生まれた13人の子供のうち2人は死産、10人は全身が黒色で、その他の異常所見も多くみられた。黒い赤ん坊は成長とともに肌の色が白くなっていったが、これは成長により体内のPCBが希釈されたせいで、身体のPCBが減少したからではなかった。

 長崎県の五島列島の玉之浦は人口4400人の集落であるが、113世帯、309人がカネミ油症の被害者となり、21人の黒い赤ちゃんが誕生した。玉之浦に犠牲者が多く出たのは、この地区の店でカネミオイルを盛んに宣伝し、安い値段でセールを行っていたからである。

 カネミ油症患者の症状は醜く黒ずんだ皮膚症状が主であった。PCBは身体に長時間蓄積され慢性の症状を引き起こしたが、当時は長期的な危険性の認識は乏しかった。PCBは身体全体をむしばみながら、やがて死亡例が続出することになる。

 PCB汚染による被害者は1万4000人に達していたが、カネミ油症の認定患者は症状が著明な1857人だけであった。また事件から5年以内に27人が死亡したが、認定患者であっても救済の手は差し伸べられなかった。そのため患者らが法廷闘争に立ち上がった。

 中毒事件を起こしたPCBは、最近では地球汚染物質としてよく知られているが、当時は危険な物質との認識は少なかった。PCBは電気の絶縁性が高く、不燃性で安定性に優れているため、トランスやコンデンサの絶縁体、熱媒体、塗料、印刷用インキ、複写紙、可塑剤などに広く利用されていた。

 カネミ油症事件を引き起こしたPCBは鐘淵化学工業が製造したものである。そのためカネミ油症の被害者はカネミ倉庫だけでなく鐘淵化学を相手に裁判を行うことになった。鐘淵化学が訴えられたのはPCBの毒性や金属腐食性を知りながら、食品工業に売り込んだ責任を問われたからである。

 鐘淵化学は「自動車や青酸ガスなども危険だが、使用者はそれを周知の上で使っている。使用者が責任を負うべき」として、食用油を製造したカネミ倉庫に責任があると主張した。鐘淵化学はPCBの使用上の注意事項として簡単な説明をしただけであったが、もし「毒性が強いため、加熱用パイプのピンホールのような小さな傷にも注意して使うようにとカネミ倉庫側に警告していれば、恐らく食用油製造にPCBは使わなかった」とカネミ倉庫側は裁判で証言している。通産省はPCBの使用を全面的に禁止することを関係業界に通達。鐘淵化学はPCBの生産を全面中止し、PCBの国内生産は完全に中止となった。

 裁判は民事(損害賠償請求)と刑事(業務上過失傷害)の両面から争われた。このうち民事についは、8件の提訴(個人1件、集団7件)があった。昭和52年、福岡地裁で福岡第1陣訴訟(原告44人)の判決があり、原告の主張をほぼ認め、カネミ、鐘化両社に合わせて7億円の損害賠償の支払いを命じた(国は訴訟の対象外)。

 昭和59年の福岡高裁で小倉第1陣訴訟(原告729人)による控訴審判決では、「食品の安全性に疑問が生じた場合、行政庁は規制する権限を予防的に行使すべき法律上の義務を負う。また農林省担当官がその措置を取っていれば油症拡大は防止できた」として昭和53年の一審判決(福岡地裁小倉支部)を覆し、初めて国の責任を認めた。その上で国に賠償額47億円のうちの30%を払うように命じた。

 しかし昭和61年、福岡高裁の小倉第2陣訴訟(原告344人)の控訴審判決では、福岡高裁判決が認めた国の責任を否定し、それまで4つの判決で認められていた鐘淵化学の責任を否定する判決を出した。

 裁判官によって責任の所在の判断が異なり、損害賠償額も一、二審で違っていたが、事件から19年後の昭和62年3月20日、最高裁で和解が成立。被告側のカネミ倉庫と鐘淵化学が総額107億円の損害賠償の支払いで合意した。鍾淵化学の和解条件は事故の免責と引き換えに、被害者に「見舞金」を支払う内容だった。鍾淵化学に製造物責任はないが、計21億円の見舞金と弁護士費用などを支払うという内容の和解であった。

 刑事事件については、カネミ倉庫の社長と工場長が業務上過失傷害罪で起訴されたが、昭和53年に社長の無罪が確定、57年に工場長の禁固1年6月の判決が確定した。

 PCBと接触した場合、多くは時間とともに症状が改善していくが、カネミ油症患者の症状は変化がなく死亡者が続出した。なぜ症状が改善しないのか、そのことが判明されたのは事件から20年後のことであった。カネミ油症の原因はPCBだけではなく、ポリ塩化ジベンゾフラン(PCDF)も含まれていることが昭和50年に、コプラナーPCBも含まれていることが昭和61年になって明らかになった。

 これらの物質はダイオキシンの一種で、相乗作用によって重篤な症状を起こしたのである。特にPCDFはライスオイル中に2.7ppm含まれ、PCDFの毒性はPCBより強いことから、現在ではPCDFが油症の主要な病因を起こしたとされている。この発見がなされたのは化学分析の進歩によるが、それが分かった時には油症事件はすでに過去の事件となっていた。

 ダイオキシン被害の特徴はその発生の遅延性である。事件から時間が経過するとともに、ダイオキシンの発がん性によりがんで死亡する例が増えていった。

 



 さつま揚げでサルモネラ食中毒 昭和43年(1968年)

 昭和43年6月5日の夕方に会食した13人が食中毒症状を起こしていることが宮城県若柳保健所(現在、栗原保健所)から、さらに6月8日には岩手県北上保健所から食中毒患者30人が発生したと連絡があった。

 この食中毒事件は宮城県の2市10町1村で231人が発症し、岩手県では2市6町3村で377人が発症、4人の死者を出す大規模食中毒事件となった。中毒者608人の半数以上は女性であったが、これは岩手県内の女子寮の給食で59人が発生したこと、田植えの慰労会の会食で女性が多かったからである。

 発症までの潜伏期間は1824時間で、症状としては水溶性の下痢が95%、発熱と腹痛が90%に認められ、そのほか吐気、頭痛などがあった。会食者の発病率は宮城県で55%、岩手県では92%であった。岩手県で発症率が高かったのは、原因となった「さつま揚げ」の製造から摂食までの時間が長かったため、菌の増殖が多かったからである。

 宮城県の患者から採取した59人の便のうち45人からサルモネラ・エンテリティディスが検出され、さらに食べ残しや小売店より回収したさつま揚げからも同じ菌が検出された。6月8日、対策本部が設置され、関係機関への連絡や報道機関への公表がなされた。原因とされたのは塩竃市の業者が製造したさつま揚げで、行政指導により製造中止、残品回収が行われた。

 さつま揚げを調べると、表面よりも中心部にサルモネラ菌が多く検出された。このことは、油で揚げる前段階で菌に汚染され、油で揚げても中心部のサルモネラ菌が生き残ったことを示していた。工場内の容器や工場内で捕獲されたネズミからもサルモネラ菌が分離された。

 その当時は、ネズミによるサルモネラ食中毒が流行していた。工場がネズミ防御を怠ったことから、大規模な食中毒の発生となった。製造過程でサルモネラ菌が混入し、加熱によっても殺菌できず、生き残ったサルモネラ菌が増殖し、広範囲に食中毒を発生させたのだった。

 この食中毒事件はネズミ駆除の重要性、製造過程における加熱の不備、流通での保存温度などが問題となった。また食品流通の拡大により、複数の県にわたって広範囲に発生したことが特徴であった。この食中毒事件以降、魚肉練り製品工場の行政指導が強化され、大規模な食中毒は発生していない。

 日本最大のサルモネラ食中毒は、昭和11年に起きた静岡県浜松市の浜松第一中学校の「大福もち食中毒事件」である。運動会で出された大福もちのあんこがサルモネラ菌に汚染され、それを食べた生徒、職員、家族が犠牲となり、患者2201人、死者44人という大規模食中毒事件となった。

 運動会に9000個の大福もちが出されたが、食中毒の原因は大福もちのあんこだった。大福もち用のあんこは運動会の4日前から製造され、保管場所がないため床に置かれていた。このあんこがネズミの尿により汚染され、サルモネラ菌が増殖したのだった。この例が示すように、かつてのサルモネラ食中毒はネズミの尿が原因であったが、昭和40年後半から鶏卵による中毒が多くを占めている。

 サルモネラ菌はヒトや動物の腸管内に生息し、食物や水を介して感染、またヒトからヒトに感染する。サルモネラには約2000種類が確認されているが、サルモネラ・エンテリティディスによる食中毒が90%以上を占めている。平成4年、サルモネラ食中毒が、腸炎ビブリオと黄色ブドウ球菌を抜いて、発生件数および患者数ともに1位になった。サルモネラ食中毒は全食中毒件数の33.5%を占め、患者数は食中毒の42.2%、年間約2000人である。国内ではサルモネラ食中毒で死亡したのはこの10年間で10人である。

 サルモネラ食中毒は学校、旅館、飲食店などで集団発生する場合と、家庭などで散発的に発生する場合がある。サルモネラ菌が食中毒を起こす菌数は、個人差があるが1グラム中1万個とされている。チーズやチョコレートなどによる食中毒は菌数が少なくても起きるが、それは食品中の脂質が胃酸から菌を保護するためである。

 昭和62年頃から世界各国で鶏卵によるサルモネラ食中毒が多発し、アメリカでは平成6年、アイスクリームで22万人の集団食中毒が起きている。また平成22年には2000人以上が食中毒を起こし55000万の卵が回収されている。

 日本では平成元年にサルモネラ食中毒が多発し、例年の2倍近くまで増加した。多くは卵と卵料理によるもので、食品としては、洋菓子、卵入り丼、焼き物、揚げ物、アイスクリーム、マヨネーズの順であった。最近の例では、平成22年に大分県で合宿中の高校生と職員206人が卵による集団食中毒を起こしている。

 鶏卵がサルモネラ菌に汚染されるのは、産卵時にすでに汚染されている場合と、ニワトリの糞便に付着したサルモネラ菌が卵殻を通過して卵内に侵入する場合がある。サルモネラ菌に感染している卵は1万個につき2〜3個で、サルモネラ菌に感染しているニワトリが生む卵の約2%から菌が検出される。

 サルモネラ菌に感染している卵には、平均で2個のサルモレラ菌が存在する。このように最初は数個のサルモネラ菌であるが、保存状態によってサルモネラ菌は20分で倍に増殖することから食中毒を起こす。つまり常温で保存することは危険であることを示している。サルモネラ菌の対策として鶏にワクチンの接種が行われており、国内に流通している約半数はワクチンを受けた鶏から産まれた卵である。しかし店頭の卵のパッケージにワクチン接種の有無が表示されていないことが多い、

 サルモネラ食中毒の予防は、サルモネラ菌が乾燥と低温に弱いことから、卵は冷蔵庫に保存し、1週間以内に使い切ることである。買いだめはせずに、購入時にはきれいで、ひび割れのない新鮮な卵を選ぶことである。卵を割って皿の上に落とすと、古い卵ほど黄身は平らになり白身は薄くなることが参考になる。

 サルモネラ菌は十分に加熱すれば死滅するので、ゆで卵なら沸騰後7分以上おけばよい。またマヨネーズを作るときは酢を多くすることで、賞味期限を過ぎた卵は加熱して料理することである。そして肉や卵に触れた場合は、手、ボウル、まな板を必ず洗うことである。

 サルモネラに限らず下痢をきたす食中毒で最も恐ろしいのは脱水症状で、下痢をしても水分を多く取り、飲めなければ点滴を行うことである。水分の補給が何よりも肝心である。 

 



東大紛争 昭和4344年(196869年)

 昭和43年から45年にかけ、大学改革をめぐり、大学紛争の嵐が日本中で吹き荒れた。ヘルメットをかぶった学生が大学を占拠し、日本中が騒然となった。この大学紛争は日本だけでなく、むしろ世界各国の若者が立ち上がり、「スチューデント・パワー」と呼ばれる学生の反乱が海外から日本に伝染したといえる。

 パリのソルボンヌ大学では共産主義の赤旗とアナーキズムの黒旗が飜り、パリ市街は「パリ5月革命」の言葉が象徴するように、労働者と学生40万人がデモを行った。アメリカではベトナム戦争と大学の管理体制に反発し、学生たちは警官隊と衝突した。欧米の学生たちは既成体制を打破しようと、既存の権力に挑戦し、それに呼応するように日本の学生たちも権力に向かったのである。

 高度経済成長により大学の大衆化が進んだが、大学は戦前の体質を脱皮できずにいた。学生たちは大学の古い体質や権威主義への反発を強めていた。教授、助教授、助手、学生という古いタテ社会が下部から揺らいでいった。

 大学紛争の頂点を成したのが、22億円のヤミ給与事件に端を発した日大紛争であり、医学部の登録医制度が発端となった東大紛争である。日大闘争は大学の金儲け主義への抗議であり、東大闘争は学問の自由と独立への抗議であった。この東大・日大闘争が全国の大学闘争に波及した。

 東大紛争の発端は、東大医学部の学生がインターン制度に反発したことである。このインターン制度は、昭和21年にGHQから義務づけられたもので、医学部の学生は大学を卒業するとインターン(無給研修医)として病院で働き、1年間の実地研修を受けることになっていた。このインターンの1年が終了して、初めて医師国家試験を受験できる制度であった。

 このインターン制度は、アメリカの研修医制度の物まねであったが、日本のインターン制度は名前ばかりで、在日米軍病院を除けば研修カリキュラムはないに等しいものであった。インターン制度は、病院の労働力不足を補うためのタダ働き制度で、タダ働きを正当化するための名称といえた。

 東大ではインターン生(青年医師連合)たちが自主研修カリキュラムを作り、自主カリキュラムに基づく研修協約を病院に認めさせようとした。豊川行平医学部長や上田英雄医学部付属病院長は研修医たちが作成した「研修協約締結のための要望書」を受け取ったが、医学部当局はこれを徹底的に無視した。ちょうど国会で、インターン制度に代わる登録医制度が審議されていたので、大学側は学生の要請に応じる必要がないとして、学生の提案を無視する姿勢で臨んだ。

 昭和43年1月29日、東大医学部の学生たちは自分たちの提案を無視する大学当局に憤慨し、医学部学生自治会が無期限ストを決定した。学生たちは、新しい登録医制度は実質的にインターン制と変わらないとして、卒業試験のボイコット、インターン研修拒否などを掲げストに入った。この東大医学部の動きは他の大学にも波及し、春の医師国家試験ボイコットへと進展していった。

 大学当局との交渉が膠着(こうちゃく)状態に入った学生たちは、2月19日、病院内で上田病院長と春美健一医局長を偶然見つけ、話し合いを要求。話し合いを拒否する上田病院長と病室の前でもみ合いになった。患者のいる病室の前であったため、上田病院長は学生たちに内科医局で話し合うことを約束、場所を移すことを提案。この提案を学生たちは承諾して内科医局へ移り上田病院長を待った。

 ところがいつまで待っても上田病院長は現れなかった。上田病院長はすでに学外に逃亡していたのだった。怒った学生たちは院長の代わりに春美医局長を朝まで軟禁し、研修協約締結の要望を無視したことへの謝罪文に署名させた。この偶発的「春美事件」に対し、医学部教授会は首謀者と学生17人に対し4人の退学を含む懲戒処分を行った。

 ところが処分を受けた1人が、九州の久留米大学医学部にいて事件現場にいなかったことが確認され、「春美事件」は大学当局の「事実誤認冤罪事件」へ発展していった。医学部講師である高橋晄正と原田憲一は久留米大学に行き、その学生のアリバイを調査し、医学部教授会に報告した。しかし医学部教授会は誤認を認めず、高橋講師らの行動を教授会への反逆行為とした。

 学生たちはこの「春美事件」の処分撤回と謝罪を求めたが、医学部教授会はそれを無視する態度をとった。怒った学生たちは医学部の一部を占領し、安田講堂に座り込み、卒業式を阻止する構えをみせた。しかし、大学側は卒業式を中止したため混乱は避けられた。

 医学部のストライキには研修生や学生900人が参加した。学生たちは「春美事件」の処分撤回と医学部教授会との直接団交を迫ったが、大学は回答を示さなかった。この医学部ストライキは、医学部の各学年の代表者から成る「医学部全学闘争委員会」が闘争方針を立てた。医学部全学闘争委員会は、要求を無視する大学当局に対し、安田講堂占拠という起死回生の手段を決定した。

 安田講堂は、安田善治郎によって建てられた東大のシンボル的存在である。1738人が入れる講堂があり、東大総長室があり、安田講堂は東大の本部を兼ねていた。6月15日、東京医科歯科大生らの応援も加わり、80人の学生たちが安田講堂を占拠し立てこもった(第一次安田講堂占拠)。

 この時点では、東大紛争は医学部だけに限局した闘争であった。しかしこの安田講堂占拠への大学当局の対応のまずさが東大全学部紛争へと進展させた。安田講堂が占拠された2日後の6月17日、東大総長・大河内一男は突然1200人の機動隊を大学構内に入れ、安田講堂から医学部学生の排除を図った。機動隊によって学生たちは排除されたが、この機動隊導入が大失敗であった。学生にとって機動隊は、安保闘争、羽田闘争で自分たちの仲間を殺した宿敵に等しい存在だったからである。

 機動隊を大学に入れたことに、学生たちの怒りは頂点に達し、また、大学院生や若手教官からも、大学構内に機動隊を入れた大学当局に批判の声が上がった。「大学は学問の自由と独立を守るために、国家権力から独立していなければいけない」との考えから、機動隊の導入は学問の自由を奪うものと批判したのだった。

 この機動隊の導入に反発して、医学部の問題は東大文学部など各学部にも波及し、法・理・薬学部を除く7学部が無期限スト突入となった。

 6月28日、東大紛争を打開するため大河内一男総長と学生代表との会談が行われた。大河内総長は「機動隊導入はやむを得ない処置であった」と述べ、学生側との話し合いはつかないまま、大河内総長がドクターストップにより退場し会談は決裂した。大学の助手たちは「真の大学自治を確立するため、現在の自治理念、管理機構を根本から批判していく」と闘いの決意を示した。

 7月2日、無党派の学生や大学院生たちが安田講堂を再び占拠(第二次安田講堂占拠)。同月5日には東大全学共闘会議(東大全共闘、代表・山本義隆)が結成され、決起集会には3000人が結集した。全共闘は学生が全員参加する学生自治体とは異なり、闘う意思のある学生ならば誰でも参加できる組織だった。安田講堂は全共闘系学生の闘争拠点となり、集会では機動隊を導入させたことへの自己批判を要求する7項目を大学側に突きつけた。また7月23日には東大全共闘を支持する全学助手共闘会議が結成された。

 大河内総長は事態収拾のため「8・10告示」と題する文章をまとめ、夏休み中の全学生に郵送した。この「8・10告示」が逆に紛糾を大きくした。大学当局の非を認める言葉が文中になかったからである。「8・10告示」は学生だけでなく、大学教官からも非難された。

 8月28日、医学部の学生が医学部本館を封鎖、そのため研究や実験が停止。さらに9月27日には東大医学部赤レンガ館を研究者たちが自主封鎖。1012日、それまで秩序を保っていた法学部が17時間の学生大会を経て無期限ストを決定。この法学部のストにより東大の全学部がストに突入することになった。

 東大紛争が長引くにつれ、さらなる闘争も激しさを増していった。それは学生運動の主導権をめぐっての東大全共闘と民青同の対立であった。学生運動は学生内部で東大全共闘(反代々木系)と民青同(代々木系)の2つに大きく分かれていた。

 民青同とは代々木にある日本共産党に基づく学生たちである。東大全共闘は日本共産党に反発し、過激な行動で革命を目指す新左翼グループであった。学生運動のグループは分裂を繰り返し、「革マル」「中核」「社学同(ブンド)」「反帝学評」などのセクトに分かれ、各セクトは、各セクトを示すヘルメットをかぶり対立を深めた。

 9月に入ると東大構内に立看板が乱立し、へルメットをかぶった学生の姿が目立つようになり、東大全共闘、民青同は激しく対立した。民青同系全学連は「東大全共闘を政府・自民党に泳がされたニセ左翼暴力集団」と呼び、各セクトは「東大を制するセクトは全国を制覇する」として、全国から応援部隊を招き入れた。

 大学当局は管理能力を失い、学生は代々木系と反代々木系が対立、過激派各派の衝突や内ゲバが繰り返された。この間、政府は「大学の運営に関する臨時措置法案」(大学運営措置法)を法制化した。この法律は、戦後の民主主義が獲得した大学の自治と学問の自由を大きく制限するものであった。この大学運営措置法の施行に伴い、中大、岡山大、広島大、早大、京大、日大などの大学封鎖は徐々に解除されていった。当時の全国大学の総数は379校であったが、そのうち紛争校は165校、さらに封鎖・占拠された大学は140校であった。

 11月1日、大河内総長が責任をとり辞任。東大総長が任期を全うせずに辞任したのは東大90年の歴史の中で初めてのことであったが、総長辞任を惜しむ声はどこにもなかった。そして11月4日、加藤一郎教授が総長代行として収拾に乗り出すことになる。加藤教授が総長代行に就任した日、林健太郎文学部長らが文学部学生との団交で、そのまま学生に拘束され1週間にわたり監禁状態に置かれた。

 11月になると全共闘側の行動はエスカレートし、民青同学生と激しく対立。1112日、東大総合図書館前で全共闘と民青同学生が衝突、両派には他の大学の学生も支援に加わり、東大構内は騒然となった。1114日には、駒場第三・第六本館封鎖をめぐって再び全共闘と民青同学生が衝突した。

 加藤総長代行は全学集会を開催し、紛争収拾のための予備折衝で、民青同学生と収集の合意を得た。しかし全共闘は「全学バリケード封鎖」の方針を打ち出し、安田講堂前で「全国総決起集会」を開くことになった。民青同は「全共闘の全学バリケード封鎖に反対」の立場をとり対決を強めた。

 全共闘は角材、青竹、鉄棒などを準備し、全国から2000人の学生が東大に集結。民青同もその日に1万人近い学生を動員して封鎖阻止の構えをみせた。この集会は日本の学生運動の「天王山」とされ、両派ともに主導権争いのため動員力を誇示し合った。

 1122日、東大校内に新左翼系約2万人が集結、デモを行い、民青同系と小競り合いが始まった。深夜まで集会や激しいデモが繰り返され、6階建ての東大図書館は反代々木系学生に占拠された。しかし多数の一般学生が両派の間に割り込み、非暴力を掲げて無抵抗の座り込みを行ったため流血の事態にはならなかった。

 1229日、坂田道太文相は長期化した東大紛争を解決し、授業を再開すべきと発言。翌年の入試を中止すると宣言、暗に東大を廃校とする発言をした。この動きを前に1225日に法学部が、翌26日には経済学部がストを解除。紛争を解決させる勢力が勢いを増していった。

 一方、入試中止が決まると、全共闘は決戦気運が盛り上がった。全共闘の運動は大学改革だけでなく、東大の存在を根本的に否定し、東大解体の方向に進んでいった。大学解体をスローガンに大学当局との交渉を拒否、帝国主義大学という言葉を使い当局との対立を深めた。

 昭和44年1月、加藤総長代行は7学部による話し合いの場を設定、不参加を宣言した全共闘を批判した。1月9日、全共闘は3000人を集結させ、教育学部、経済学部を襲撃。この激しい衝突で100人が負傷、機動隊の導入が要請された。

 昭和44年1月10日、事実上の団体交渉といえる「7学部集会」が東京・青山の秩父宮ラグビー場で開かれ、紛争を集結させようとする秩序派学生と大学当局との集会が5000人の機動隊に守られて行われた。この集会には学生7500人、教職員1500人が参加し、加藤一郎総長代行ら大学側代表団と7学部学生代表団の間で、学生側からの7項目要求などが討論された。学生側の要求に、大学は一部修正を加えた10項目の確認書に署名し、両者はスト解除について合意した。

 残された問題は、全共闘が立てこもる安田講堂だけとなった。大学当局と学生代表団が確認書を取り交わした以上、紛争解決のための機動隊導入は必須であった。大学解体を叫ぶ全共闘は決戦の時を迎え、全国から支援部隊を安田講堂に集結させた。学生たちは機動隊の実力排除を間近とみて安田講堂に入り、石や鉄パイプを安田講堂に運び、要所を生コンで固めた。追い詰められた全共闘は安田講堂で決戦の時を待った。

 安田講堂は大正12年に、安田財閥の安田善次郎が巨費115万円を投じて寄付したもので、東大のシンボル的存在であった。鉄筋4階建ての西欧風の重厚な建物は大正期を代表する建築物のひとつで、安田講堂は東大の入学式、卒業式などに使われ、半世紀にわたり日本各界をリードする人材が巣立っていった。その安田講堂が、反権力を唱えるヘルメットの若者たちの要塞「安田とりで」となった。

 昭和44年1月18日早朝、東京大学は安田講堂の封鎖解除のため、警視庁に機動隊の出動を要請。この要請を受けた警視庁は、全学共闘会議派の学生を排除するため、同日朝7時に機動隊8500人を出動させた。東大紛争の決戦の時であった。

 警視庁は学生との対決を前に、多重無線指揮車、放水車など346台を東大前に集結させ、催涙ガス銃500丁、装薬包5914発、催涙ガス弾10528発(パウダー弾8732発、スモーク弾1796発)を用意した。気温は零度。晴れてはいたが、凍(い)てつくような寒い朝であった。マスコミのヘリコプターが上空を何機も飛び回った。

 警視総監・秦野章が動員した機動隊は安田講堂の決戦を前に、安田講堂を孤立させるため、バリケードの手薄な別の建物に立てこもる学生の排除を始めた。まず東大紛争の発火点となった医学部中央館に機動隊が入り、投石で抵抗する学生を次々と逮捕した。

 次に工学部、法学部、工学部列品館での攻防が始まった。学生たちは構内ベランダから警備車にガソリンをかけ、火のついた紙くずやボロきれを機動隊員の頭上に落とした。中核派が主力だった法学部研究室では170人近くが逮捕された。

 屋上の出口近くのマイクロフィルム室には、国際的に貴重な記録資料が多数あったがすべて破壊され、3階326号室の加藤総長代行の研究室も破壊され、他の教授の研究室は破壊とともに落書きだらけになっていた。

 工学部列品館での攻防が最も激しく、機動隊は法文1号館の屋上から水平撃ちでガス弾を撃ち込み、ヘリコプターからはガス弾が次々に投下された。学生は投石と火炎びんで抵抗したが、激しいガス催涙弾と火炎びんで列品館は炎と煙に包まれた。列品館は1時間の攻防で、学生は棒の先に白いハンカチをつけて陥落した。

 本格的な安田講堂攻撃は午後1時から開始された。機動隊は放水を続け、おびただしい催涙ガスが撃ち込まれた。ヘリコプターからの催涙液が籠城者の頭上からかけられたが、学生の抵抗はすざましかった。

 機動隊の頭上にはスチールの机やいす、コンクリートの塊、火炎びんが雨のように降り、正面玄関の攻防は機動隊にとって命がけの闘いとなった。火炎びんが投下され、それを放水で消し、火責め水責めの攻防となった。各テレビ局はこの攻防を中継し、テレビの視聴率は95%と驚異的な数値となった。

 機動隊は、安田講堂1階北側の用務員室の窓をたたき割って突破口としたが、ロッカーが三重に重なり、両脇をコンクリートで固めたバリケードは強固だった。2階から上へ行くには機動隊の生命の危険性が高かった。そのため1日目の攻防は、ここで終了した。

 2日目の攻防は、翌19日朝6時半に再開された。学生たちは火炎びんと投石で抵抗したが、機動隊は頑丈な木枠の上に、丸い屋根を付けた投石防止トンネルをつくり、機動隊が次々と安田講堂へ突入した。機動隊は少しずつバリケードをはがし、12時半に2階の講堂を制圧。講堂のピアノはバリケードに使われて無残にたたき壊されていた。ヘルメット姿の学生たちは大講堂の奥へ逃げ、抵抗せずに横に並んだ。

 午後3時には3階大講堂が制圧され、あとは時計台と屋上に立てこもる連中だけとなった。大時計の針が午後5時45分を指した時、機動隊は安田講堂の屋上に達し、安田講堂は完全に落城した。攻防が開始されてから34時間45分、安田講堂の時計台で振られていた赤旗がテレビの画面から消えた。

 この紛争で逮捕された学生は18日の列品館、法研などで256人、19日の安田講堂で377人。いずれも公務執行妨害、凶器準備集合、放火、不退去などの罪名であった。この安田講堂で逮捕された377人のうち東大生はわずか20人だけで、あとは各地から支援にかけつけた外人部隊だった。東大全共闘の多くは、「70年闘争への勢力温存」を理由に、攻防直前に安田講堂から脱出していた。このことから「東大生はいざとなると逃げ出す」と後々まで批判されることになる。両日の衝突で占拠学生のうち重傷者は76人であったが、その多くは至近距離からのガス弾の水平射撃によるものであった。

 安田講堂が陥落する直前に、次のような放送が流れた。「われわれの戦いは勝利だった。全国の学生、市民、労働者のみなさん、われわれの戦いは、決して終わったのではなく、われわれに代わって戦う同志諸君が、再び解放講堂から時計台放送を行う日まで、この放送を中止します」。これは東大医学部全共闘リーダーであった今井澄の声であった。

 今井澄は安田籠城組で逮捕された数少ない東大生であった。今井澄は後に長野県諏訪中央病院に勤務、勤務中に刑が確定したため刑務所に入ることになった。今井澄は大勢の病院職員、市長、市会議員に見送られながら刑務所に入った。

 今井澄は外科医であるが、獄中で内科学を学んだ。そして出所後、諏訪中央病院の院長になり農村老人医療と取り組んだ。平成4年に長野地方区から参院選に立候補して当選、民主党国会議員として活躍したが、平成14年に胃がんのため死去。今井澄ほど信念を通し、信念に殉じ、周囲から愛された医師はいないであろう。ご冥福をお祈りしたい。

 



和田寿郎教授心臓移植事件 昭和43年(1968年)

 昭和43年8月8日、北海道・札幌医大付属病院で日本初の心臓移植手術が行われたことを各新聞の夕刊が大々的に報道した。手術を行ったのは胸部外科教授・和田寿郎(46)を中心とした20人の医師団であった。日本中の視線が札幌医大に集まり、新聞、テレビ、ラジオ、日本の全メディアは総力を挙げて心臓移植の取材を行った。

 マスコミは「札幌医大の快挙、日本初の心臓移植」と絶賛し、新たな医学の到来に日本中が沸き上がった。多くの人々は移植を受けた北海道恵庭町の宮崎信夫君(18)の回復を願い、報道される宮崎君の容体に声援を送った。しかし宮崎君が移植手術から83日目に亡くなると、その日を境にして和田教授の国民的称賛は冷め、それまでくすぶっていた疑惑が表面化し、非難へと変わっていった。

 心臓移植を受けた宮崎君は、同年4月から心不全で同病院に入院していた。和田教授の説明では、宮崎君の病名は僧帽弁閉鎖不全症、三尖弁閉鎖不全症、大動脈弁狭窄症の3つが重なった重症の心臓弁膜症で、そのため心臓が異常に肥大していた。

 宮崎君は小学5年生の時、リウマチ熱を患い、心臓弁膜症のため小学生の時から学校の体操は見学だけで、この5年間は寝たきりの状態が多かった。和田教授は宮崎君が生きるには心臓移植しかないと判断、そのことを本人と家族に説得した。

 一方、心臓を提供したのは札幌に住む駒沢大学4年生の山口義政君(21)であった。山口君は移植前日の8月7日正午すぎ、小樽市の蘭島海水浴場でおぼれ、海底に沈んでいるのを発見された。引き上げられた山口君は救急車のなかで奇跡的に息を吹き返し、意識不明のまま小樽市内の野口病院に収容された。

 山口君の治療に当たった上野冬生医師は自発呼吸と瞳孔反射認め、命に別状はないと判断して帰宅。ところが容体が急変したため、野口暁院長は高圧酸素治療ができる札幌医大へと転院させた。

 同日午後8時、山口君は救急車で札幌医大に運び込まれ、午後1010分、瞳孔が散大し、脳波が停止したため脳死と認定された。医師団は山口君の両親に心臓の提供を申し出て承諾を得た。そして翌8日午前2時5分、和田教授の執刀で心臓移植手術が開始され、宮崎君の肥大した心臓を取り出すのに13分、山口君の新しい心臓を宮崎君に移植するのに45分かかり、手術は午前5時に終了した。

 南アフリカ共和国のC・バーナード博士が世界で初めて心臓移植の手術を行ってから9カ月目の快挙であった。バーナード博士の患者は18日目に死亡しているが、以後生存例が増え、和田教授による心臓移植は世界で30番目であった。

 8日午後2時20分、札幌医大付属病院で緊急記者会見が行われ、日本初の心臓移植が行われたことが発表された。テレビ、新聞のほとんどが心臓移植一色となり報道は過熱していった。心臓移植に関してはまだ社会的合意はなされておらず、脳死についてもまだあいまいな時代であった。

 和田教授は「2人の死より1人の生を」「移植の是非よりも、目前の患者を救うこと」を主張した。マスコミは当時46歳の和田教授を医学界の風雲児ともてはやし、新聞は「日本医学の黎明(れいめい)を告げた一瞬」「涙ぐむ両親、提供者にただ感謝」などの見出しで報道した。

 手術を受けた宮崎君に多くの国民が声援を送り、拒絶反応を乗り越えて早く回復してほしいと多くの人々が祈った。宮崎君は順調に回復し、病院の屋上を車いすで散歩する様子や笑顔で手を振る姿が日本中に放映された。ところが手術時の大量輸血の影響により体力の消耗をきたし、宮崎君の症状は日を追うごとに悪化してゆき、手術から83日目の1029日に宮崎君は死亡した。

 和田教授は宮崎君の死因について、気管支炎によって痰がのどに詰まり、急性呼吸不全を起こしたためと説明した。和田教授は心臓移植に伴う拒否反応の関与を否定、心臓移植そのものは成功したが、偶発した事故により運悪く死亡したと暗にほのめかした。

 宮崎君が死亡すると、日本初の心臓移植は急速にほころびを見せ、近代医学の進歩を絶賛していた国民的な雰囲気が徐々に疑惑へと変わっていった。宮崎君が死亡するまでは想像もしていなかった疑惑が一気に浮かび上がった。

 その疑惑は「宮崎君は本当に心臓移植が必要なほど重症だったのか」、「心臓を提供した山口君は生きていたのではないか」の2点だった。それは和田教授のそれまでの発言をすべて否定する疑惑だった。もし山口君が生きたまま心臓を取られ、移植の必要ない宮崎君に移植されたのなら、これほど恐ろしいことはない。事態は礼賛から疑惑、疑惑から糾弾へと展開していった。

 最初に疑問を持ったのは、宮崎信夫君の主治医の札幌医大内科・宮原光夫教授であった。宮原教授は心臓移植が行われたとき、移植を受けたのが自分の患者とは知らなかった。宮崎君は僧帽弁だけが悪く、弁置換術のために内科から胸部外科に転科しただけで、トイレにも歩いて行けたし、心臓移植を受けるほどの重症ではなかった。和田教授は移植が必要なほどの心臓弁膜症と述べたが、宮原教授は「そもそも心臓手術が必要な状態ではなかった」として、内科専門誌(内科、昭和44年5月号)に宮崎君の術前状態を掲載し、和田教授の診断を正面から否定した。

 宮崎君の遺体を解剖した札幌医大病理学の藤本輝夫教授も、心臓に関して宮原教授と同様の見解を発表した。その内容は、「剖検所見からみた心臓移植」の題名で内科論文誌・最新医学3月号に書かれている。解剖の結果、腹部には緑膿菌感染による膿瘍が大量に貯留していて、この膿瘍は免疫抑制剤の副作用による感染によるものとした。宮崎君の心臓は1080gと通常人の4倍に膨れあがり、心膜に癒着を認め、これを移植の拒絶反応の所見とした。藤本教授は免役学的な基礎研究もしないで、いきなり宮崎君に心臓移植を実施したことは「結果的に人体実験だった」と和田教授を批判した。

 このように札幌医大内部から和田教授を非難する声が上がったため、札幌医大学長は「心臓移植の検討会を持ちたい」と定例教授会で提案した。移植手術に関する臨床データは学内ですら公表されていなかった。これを検討しようという学長の提案であったが、反対意見が続出した。「やれば内容がマスコミに漏れ、十大ニュースになるはずの心臓移植の名声が失われてしまい、大学に汚点を残す」などの意見が大勢を占めた。居並ぶ教授陣のほとんどが和田移植への疑惑を持ちながら、その大勢は疑惑隠しに傾いていた。

 宮崎君は本当に移植手術が必要だったのか。この疑惑が渦巻く中、宮崎信夫君の切除された心臓が3ヶ月間行方不明になる事件が起きた。病理学の藤本教授は「宮崎君の心臓が行方不明となり、3か月後に見つかったが、何者かによって心臓の3つの弁が根元からくり抜かれていた。ばらばらになった3つの弁と心臓の復元を試みたが、明らかに大動脈弁だけは宮崎君の心臓と切り口が合わなかった」と述べた。

 宮崎君の心臓は移植を必要とするほど致命的な弁膜症だったのか。それを検証するための大動脈弁が他人の大動脈弁とすり替えられた可能性があった。この「弁のすり替え疑惑」は、後に札幌地検の依頼で東大医学部病理学・太田郁夫教授が鑑定しているが、その結果、宮崎君の血液型はAB型だが、大動脈弁はA型であった。このあまりに恐ろしい結果に、太田教授は鑑定書では断定を避ける表現に終始している。

 一方、海水浴中におぼれて心臓を提供した山口義政君は本当に死んでいたのだろうか。山口君は小樽の野口病院から札幌医大付属病院に転院となったが、野口病院の上野冬生医師は「山口君が入院したときには自発呼吸があり、対光反射、心音もはっきりしていた」と証言している。

 山口君が札幌医大付属病院に転院したのは上野医師が帰宅したあと、午後7時に野口病院の野口暁院長の判断で札幌医大への搬送がなされた。野口院長は以前から和田教授と親しく、かつて結核病院で和田教授と一緒に結核の手術を100例以上行っていた。その関係で、院長は以前から心臓提供者を頼まれていた、つまり和田教授が心臓提供者の網を張っていたとうわさされた。

 札幌医大付属病院における山口君の容体についての証言は大きく分かれている。和田教授は限りなく脳死に近い状態だったとしているが、救急隊員や山口君の父親、手術に駆けつけた麻酔科医・内藤裕史(後の筑波大学教授)は、体動や自発呼吸があり、血圧は落ち着いていたと証言している。

 果たして山口君を生かす努力がなされたのか。蘇生は麻酔科の担当であるが、麻酔科・内藤医師は病室から追い出され、脳死の判定は移植グループの医師によって行われた。しかし脳死を示す山口君の脳波の記録はなかった。脳死の判定はブラウン管に映った波形を見て判断したと説明されたが、それでは第三者を納得させることはできない。さらに心電図の記録も重要なところが抜けていた。胸部外科教室員だけで行われた脳死の判定は密室の医療の疑惑があった。

 また宮崎君の両親から心臓移植の同意を得る段階、正確には山口君が札幌医大付属病院に搬送される前の時点で、宮崎君用の輸血が大量に注文されていたことが日赤の記録から分かっている。さらに山口君の両親が移植に同意したのは、山口君の胸部が切開された後であることも明らかになった。

 宮崎君の死から1カ月後の12月3日、大阪の東洋哲学医学漢方研究会(増田公孝代表)の6人が、大阪地検に和田教授を「未必の故意による殺人罪」と「業務上過失致死罪」で告発した。刑事告発は大阪地検から札幌地検へ送られ、札幌地検が捜査をすることになった。この告発によって、心臓移植の疑惑についての報道が過熱していった。

 札幌地検は、刑法上の殺人罪は構成しないとしながら、業務上過失致死が問えるかどうかの検討に入った。札幌地検は和田教授から事情を聴取、捜査に乗り出すことになった。参考人として154人が聴取され、山口君の心臓やカルテなど物的証拠は553点に達した。担当したのは札幌地検刑事部長・秋山真三だった。捜査は長期化し、当初2カ月とみられていた事情聴取に7カ月を費やした。誤算だったのは、検事が証拠隠滅の可能性はないとして強制捜査を行わなかったことである。

 この心臓移植疑惑の重要な点は、脳波と心電図の記録、さらに誰が宮崎君の心臓を盗み、弁をくり抜いたかであった。この点について、和田教授は手術スタッフの門脇医師が行ったと証言している。門脇医師は責任を負わされることになるが、門脇医師は移植手術から5カ月後に胃がんのため死去、死人に口なしであった。

 札幌地検の捜査上、最大のネックになったのは、山口君の遺体が解剖されないまま、札幌中央署の検視だけで火葬されていたことだった。司法解剖をしていれば、心臓を摘出した時点で生きていたかどうかを客観的に示すことができたのである。

 昭和45年1月、札幌地検は医学鑑定に踏み切り、東京女子医大・榊原仟教授、東大医学部・太田邦夫教授、京大医学部・時実利彦教授、この日本を代表する心臓の権威者3人に鑑定を依頼したが、いずれの鑑定書も曖昧な内容で決定的な結論には至らずにいた。

 鑑定では医学界特有のかばい合いが行われた。「真実が明らかになれば、日本では心臓移植ができなくなる」、このことを権威者たちは心配したのだろうが、結果的に日本の心臓移植は33年間にわたり、道を閉ざされることになる。真実は闇の中であるが、密室医療の恐怖が医療への国民的不信を招くことになった。

 同年7月27日、「和田心臓移植を告発する会」が発足。13人のメンバーには2人の元厚生大臣(坊秀男、吉井喜実)、3人の評論家(石垣純二、松田道夫、川上武)のほか、若月俊一・佐久病院長、中川米造・阪大助教授らそうそうたる名前が連ねられていた。この会は、「患者の基本的人権の尊重に欠け、医師の倫理に反する」として、法務委員会、医道審議会、人権擁護委員会に和田教授の事件を調査するように働きかけた。

 ところが同年9月、札幌地検は札幌高検、最高検と協議し、「和田教授を殺人と断定する決め手がない」として、証拠不十分で不起訴処分としたのである。不起訴処分から1年後の昭和4610月、札幌検察審査会は再捜査を要求。札幌地検は再捜査を行うが、翌年8月、新たな証拠がないとして再び嫌疑不十分として不起訴とした。「嫌疑不十分とは、犯罪を認める証拠がない」ことで、シロを意味する「嫌疑なし」とは違い、灰色の意味である。いずれにしても和田教授への刑事責任は事実上なしと決着した。

 和田寿郎教授は、大正11年に札幌市に生まれ、北海道大学医学部を卒業、昭和25年に米国ミネソタ大学に留学、心臓弁膜症の手術など2300例を行った。心臓外科の進歩に伴い、心臓の部分的な修復を目指す手術に限界を感じ、「重症な心臓疾患には心臓移植を行う」との考えを持っていた。

 心臓移植から20年後の昭和63年に、和田教授はこの事件について、「第三者の告発を受けたが、宮崎君や提供者の家族から何の批判を受けなかった、さらに手術スタッフの中で誰も傷つく者が出なかったことは幸せであった」と述べている。

 和田教授による心臓移植事件は日本の医学界を委縮させただけであった。日本医師会長・武見太郎は「臓器移植は医療としては邪道」と意見を述べ、臓器移植だけが医学の進歩の中で取り残されてしまった。

 この事件以降、心臓移植は拒絶反応を抑える画期的薬物が開発され、世界では年間3000例以上の心臓移植がなされ、心臓移植はごく普通の手術になっている。医療現場の密室性、医療専門家のかばい合い、医師への警察や検察の低姿勢がこの事件の根底にあった。

 日本では和田教授の事件から30年後、平成9年10月に臓器移植法が施行され、脳死による臓器移植にやっと道が開かれた。和田教授は心臓移植のパイオニアを自負してのことだろうが、結果的に心臓移植に33年間の空洞を作ってしまった。和田教授の疑惑により、和田教授に続く病院、医師はいなくなり、「移植手術」に関して日本は世界から40年の遅れをとった。この事件の代償はあまりに大きかった。事件当時、札幌医科大学整形外科の講師だった作家・渡辺淳一は「小説心臓移植(後に白い宴と改題)」を発表。吉村昭もこの事件を題材に小説「神々の沈黙」を書いている。

 



アポロ11号病 昭和44年(1969年)

 昭和44年7月20日、アポロ11号から発進した月着陸船イーグルが月面に着陸。人類が初めて月面の「静の海」に降り立った。アームストロング船長は月面の「静の海」に左足を踏み出し、「1人の人間にとっては小さな1歩だが、人類にとっては偉大な飛躍である」の有名な言葉で多くの人々に感動を与えた。その19分後、オルドリン飛行士も月面に降り立ち、観測装置を月面に設置し、写真撮影を行い、21.7kgの月の石を地球に持ち帰った。合計2時間20分の月面活動であった。

 月面着陸の様子はテレビで実況中継され、6億人の人々がテレビを見つめ、この快挙に歓声を上げた。月面着陸は日本時間では21日、月曜日の午前1156分であったが、テレビの視聴率は62%を記録した。人類が月面に立ったことは技術革新の時代を予感させた。

 アポロ11号が月面着陸に成功したころ、西アフリカのガーナで急性出血性結膜炎が突如大流行となった。この伝染病はガーナの首都アクラに近いヌングアから流行し、アクラ市内に広がっていった。

 アクラ大学医学部付属コレブー病院の眼科に第1号患者が現れたのは同年6月25日だった。それまで眼科を受診する外来患者数は20人程度だったが、8月になると急増し8月18日には770人、25日には1115人となった。そして年末までに患者数は2万人に達した。

 はやり目の流行は異様なことで、この新しい伝染病はインフルエンザに匹敵するスピードで世界各地に広がっていった。ガーナのアクラ大学付属コレブー病院はかつて野口英夫が黄熱病の研究を行っていた場所である。この地に現れた新型の「はやり目」は何万人単位で流行し、2年間で世界中に蔓延した。昭和45年には、日本にも上陸して各地で集団発生した。

 ちょうどアポロ11号の月面着陸という世紀の大ニュースと時期が重なったため、急性出血性結膜炎は月から持ち帰った病原体によるものなどとうわさされ、現地の人は「月の神が人類の暴挙に怒り、地球に新しい病原体を送り込んだ」と信じ込み、急性出血性結膜炎はいつしかアポロ11号病と別名がつけられた。

 このうわさは無理からぬ話だった。月には生物がいるかもしれないと議論されていた時代である。実際、宇宙飛行士が月から帰ってきた時、飛行士は1週間近く隔離された。それは月や宇宙から有害な未知のバクテリアやウイルスを持ち込む可能性があったからである。月から持ち帰ったものすべてと宇宙飛行士が隔離され、徹底的に調べられた。もちろん月の石などからも有害物質、生物は発見されなかった。

 急性出血性結膜炎はエンテロウイルス70型、コクサッキーA24の変異株の¥ウイルスによって引き起こされる。同じ病原性を持った2つのウイルスが、時期を同じくして人類の前に出現した理由は今でも謎である。

 エンテロウイルス70型は、昭和46年に国立予防衛生研究所ウイルス中央検査部長・甲野禮作と山崎修道が、北海道で分離した株から世界で初めて発見した。2つの原因ウイルスは他のウイルスと違い33℃の低温で繁殖した。このことが消化管ではなく温度の低い結膜に感染しやすいことを示していた。

 急性出血性結膜炎の潜伏期は1日から2日で、突然目にごみが入った時のような激しい痛みがでる。目やにが出て涙が出てまぶたが腫れ、結膜の出血のため白目が真っ赤になる。白目が真っ赤になるので患者や家族は驚くが、ほとんどは特別な治療を必要とせず、1から2週間で自然に治癒する。

 感染は小学校高学年の児童から成人が多く、乳幼児では大部分が軽症であるが、ウイルス性疾患なので、眼科の医院、学校の集団検診などで感染する危険性が高い。感染力が強いので、眼科医は患者の目を触らず、結膜の出血具合で診断することになっている。感染予防のためには、タオルや洗面器などを別にして、同じ目薬を使わないことである。手指を常に清潔にしておくのが予防の第一である。

 このように急性出血性結膜炎は世界中に流行したが、ウイルスの性質が変わったせいか、最近ではまれな疾患となっている。なぜ突然地球上に現れ、突然去っていったのかは謎のままである。

 



ブルーボーイ事件 昭和44年(1969年)

 昭和44年、東京地裁の熊谷弘裁判長は優生保護法違反で東京都中央区の青木病院院長・青木正雄医師(41)に懲役2年、執行猶予3年、罰金40万円の有罪判決を下した。産婦人科医である青木医師は、3人の男性(ゲイボーイ)から女性になりたいと頼まれ、1人6万円で性転換手術を行った。睾丸摘出、陰茎切除、造膣などの性転換手術が優生保護法違反として罪に問われたのは、わが国では後にも先にもこの事件だけである。

 この性転換事件は「ブルーボーイ事件」として、事件発生の昭和40年から判決が下る44年まで世間の注目を集めた。この事件が発覚したのは、赤坂警察署が検挙した売春婦を調べたところ、毛深く声の太い売春婦が含まれており、問い詰めたところ男性であることが分かったからである。その男性は、青木医師から性転換手術を受けたと自白したのである。

 ブルーボーイというのはパリのカルーゼル・ショー劇が来日した際に、男性から女性へ性転換したダンサーをブルーボーイと呼んでいたことが語源になっている。このブルーボーイ事件には被害者は誰もいない。青木医師が医師法に違反したわけでもない。また医療ミスを犯したわけでもない。罪に問われたのは、青木医師が行った性転換手術が優生保護法(現在の母体保護法)に違反したからである。

 優生保護法の第28条「故なく、生殖を不能にすることを目的として手術又はレントゲン照射を行ってはならない」という条文への違法性を問われたのだった。しかしこの優生保護法違反は青木医師を有罪とするための名目上の理由であって、青木医師が性転換手術を闇で行っていたことが有罪の本当の理由であった。つまり性転換手術そのものが優生保護法に違反しているわけではない。

 弁護側は「性的倒錯者の性格を変える方法はなく、むしろ性転換をして精神的な苦しみを解消させる手術の方が正統な医療行為である」と主張した。これに対し検察側は「完全な女性になれないのだから、異常な欲望を満足させるだけで、取り返しのつかない手術は正当とはいえない」と反論した。判決で熊谷裁判長は、性転換手術の法的問題は日本では未開発の分野だが、正当行為と認められるためには少なくても次ぎの3条件が必要だとした。

 <1>精神的、心理的観察を行い、一時的な気分による者を排除すること<2>家族、生活環境を調査し、人間形成の過程を調べ手術がやむを得ないかどうかを調べること<3>精神科医を含んだ複数の医師団の決定によること。

 このように裁判所は性転換手術の合法性を示したのである。つまり性転換を希望する患者は、適切な精神科コンサルトなどの手順を踏めば性転換手術は可能としたのである。

 青木医師が罪を受けたのは、カルテも作らずに闇で手術をしていたからで、また青木医師は友人に医療用麻薬オピアト注射液10本を合計6000円で譲り、この麻薬取締法違反が絡んでいたので重い判決となったのである。この判決で、裁判所は「性転換手術を行うためのガイドライン」を提示したが、この事件は性転換手術に対して必要以上に医療機関を委縮させてしまった。

 医療機関だけでなく患者も「性転換手術そのものが違法」と誤解したのである。裁判所は「もし性転換手術を行うなら、こうあるべき」との的確な指針を示したのに、なぜか「性転換手術は違法」との誤解が広まったのである。

 このブルーボーイ事件を境に、日本では性転換手術はタブー視され、手術をする医師はいなくなった。性転換手術を違法行為と誤解したため、性転換手術を希望する者はモロッコなどの海外で受けるようになった。ゲイボーイとして有名なカルーセル麻紀さんも日本では手術ができず、昭和47年にモロッコで手術をしている。

 このようにこの事件から30数年間、自分の性に強い違和感を持ち、別性になりたいと悩む性同一性障害者の手術はタブー視されていた。平成10年になって、埼玉医大が性同一性障害女性の性転換手術を行い、これをきっかけに性転換手術が行われるようになった。

 性転換手術といえども、当然ながら性を転換することは不可能である。内性器を摘出、外性器を構築して性器の形状を異性のものに変えるだけで、どんなことがあっても女性は死ぬまで女性である。学校で習ったように、性別は染色体によって決定されているからである。

 性転換手術を受けても、戸籍の性を変更することはできなかったが、平成16年7月、性同一性障害者性別特例法が施行され、家裁の審判で戸籍上の性別を変更できるようになった。カルーセル麻紀さんも家庭裁判所へ戸籍の変更を申し立て、同年10月、戸籍の性別変更が認められ晴れて「女」になり、カルーセル麻紀さんは「平原徹男」から「平原麻紀」となった。

 昭和44年のブルーボーイ事件までは性転換手術は意外に多く行われていた。ブルーボーイ事件摘発の背景には、警察が性転換によって女性になった男性街娼の対策に手を焼いていたからでで、彼らは戸籍上男性なので、売春防止法で取り締まることができなかったからである。

 そこで優生保護法を持ち出し、「性的に不能にする手術は行ってはならない」との規定を無理矢理当てはめ、あたかも性転換手術そのものが違法行為であるようなイメージを植えつけたのである。

 



チクロ騒動 昭和44年(1969年)

 チクロは砂糖に似た合成甘味料で、その甘さは砂糖の約30倍とされている。昭和32年から食品添加物としてチクロが使用され、サッカリンやズルチンとともに貴重な甘味源とされてきた。ところがアメリカで、チクロに発がん性があることが問題になり、チクロの使用が禁止されたことが大きく報道された。

 昭和441029日、厚生省はこのアメリカの動きを受け、日本でもチクロの使用を禁止することを決定、さらに厚生省はチクロの使用禁止だけでなく、チクロが入った製品をすべて回収するとした。

 厚労省は回収期間を清涼飲料水は昭和45年1月末まで、その他の食品は昭和45年2月末まで、医薬品は昭和45年6月末までに行うと各食品業界に通達した。この厚生省の措置により、市場から半年以内のチクロ回収が義務づけられ、食品業界は大混乱となった。回収までの期間があまりに短かったからである。

 国が食品添加物として認めていたチクロを、国が突然禁止したことにより倒産する会社まで出現した。なにしろ缶詰業界は1年分がすでに流通していた。また漬け物は市場に出る前に2年間寝かせておく必要があった。厚生省の回収命令により食品業界が受けた被害は1000億から2000億円とされた。

 チクロはシクロヘキシルスルファミン酸ナトリウムの略名で、1939年アメリカのイリノイ大学のスベーダによって発見された化合物である。砂糖に近い穏やかな味のため、1944年から世界中で使用されてきた。

 チクロは水に溶けやすく、熱に安定していたので、合成甘味料として広く使用されていた。砂糖の値段が高かったこともあって、チクロは多くの食品に含まれ、チクロの入っていない食品を探す方が難しいとさえいわれていた。

 懐かしい話であるが、当時の日本で流行した商品に「粉末ジュース」がある。それまでジュースといえば進駐軍が持ち込んだバヤリースオレンジを意味していたが、バヤリースオレンジは1本が35円で、とても庶民の手に届く飲み物ではなかった。

 そこへ1袋5円の粉末ジュースが登場したのである。粉末ジュースは粉末を水に入れ、かき混ぜるだけでおいしいジュースが飲めるのである。多くの庶民が粉末ジュースに飛びつき、爆発的ブームを生んだ。

 その代表的製品は渡辺製菓がつくった粉末ジュースで、「渡辺のジュースの素(もと)」の宣伝で売り上げを伸ばしていた。ジュースの素は水に溶けやすく、しかも値段の安いチクロを使用していたので、粉末ジュースは渡辺製菓だけで1日1億杯分が生産されていた。「10杯飲んでも50円、1袋たったの5円」のキャッチコピーが当たったのである。

 ジュースの素をなめると舌がオレンジ色になることや、冷凍庫で凍らせてシャーベットを作ったことを懐かしく思い出す人が多いと思う。このチクロの使用禁止によって、粉末ジュース業界は壊滅的な打撃を受けることになる。渡辺製菓の経営は急激に悪化、鐘紡に吸収合併されることになった。このようにチクロの使用禁止は社会的な影響を引き起こした。

 チクロのがん誘発性はその後の追加試験で否定されている。このようにチクロの発がん性の真実は明らかではないが、このチクロ騒動以降、チクロは合成甘味料として日本では現在も使用禁止となっている。

 チクロに引き続き、同じ合成甘味料であるサッカリンが問題になった。サッカリンの発がん性がいわれたのは、ある研究が発端であった。オスのラットに大量のサッカリンを与えると膀胱がんが生じやすいことが確認されたのである。しかし使用されたサッカリンを人間に換算すると、ダイエットコーラなどの人工甘味料飲料を毎日800本、生涯にわたって飲み続けるほどの量だった。いずれにせよFDA(米食品医薬品局)はこの動物実験の結果を受けサッカリンを使用禁止とした。

 サッカリンは、蔗糖(しょとう)の500倍の甘味を持ち、体内に蓄積されず、そのまま尿中に排泄された。このことからダイエットとして重宝されていた。また微生物の成育を阻害しないことから、漬け物類の甘味料として広く使用されていた。日本ではサッカリンの使用禁止が議論されたが結論は出ず、発がん性は不明のままサッカリンの使用量が制限され、現在ではチューインガムにのみに限定使用されている。

 このようにチクロは日本では使用が禁止され、サッカリンは使用が制限されることになった。日本では法律で禁止が決定すると、禁止のままであるが、欧米ではいったん禁止されたチクロの発がん性が実験で否定されたため解禁になっている。またサッカリンも同様に解禁されている。

 安全性を考慮すれば発がん性の疑いのあるものは禁止すべきであるが、糖尿病や心臓疾患に悩む欧米では人工甘味料の害よりも糖分の少ない方が健康に良いと判断したのである。現在、欧米ではサッカリンは発がん物質のリストから外されている。

 日本では「チクロは発がん性がある」として使用禁止のままである。中国や台湾ではチクロは認められており、そのため中国や台湾からの食品にチクロが含まれると、業者が食品衛生法違反で摘発されることになる。

 チクロ、サッカリン騒動に続き、厚生省はAF-2騒動に巻き込まれた。AF-2は日本だけが使用している食品添加物で、ソーセージ、かまぼこ、豆腐、めん類などの防腐剤として昭和40年から使用されていた。

 AF-2は殺菌作用が強い添加物で、九州大学で開発され上野製薬が製造販売していた。このAF-2を使用している製造業者に皮膚炎、甲状腺異常、喘息、精神障害などが多発しているとして有害説が唱えられたのである。上野製薬はAF-2の危険性を訴えた郡司篤孝を東京地検に告訴したが、裁判では郡司篤孝氏は無罪となった。

 AF-2の安全性は国立大学医学部の教授のデータによるものであったが、その実験データは上野製薬の研究所で行ったものであった。さらにAF-2を許可する食品衛生調査会の委員が上野製薬の監査役を兼任していた。

 東京医科歯科大学の実験でAF-2に強い変異原性があることがわかり、日本環境変異学会でもその毒性が問題になった。厚生省はこの指摘にもかかわらず、AF-2の安全性をうたうパンフレットを食品業者に配り、国民の不安を取り除こうとした。

 ところが昭和49年、国立衛生研究所が「AF-2の発がん性を示す動物実験結果」を公表し、AF-2は使用禁止となった。欧米では発がん性の疑いから、AF-2はもともと使用されていなかった。日本人だけが発がん性物質を9年間食べ続けたことになる。同年8月22日、ソーセージ、かまぼこ、豆腐、めん類などの防腐剤AF-2の全面使用禁止が決定した。

 チクロ、サッカリン、AF-2などの食品添加物は、それ自身は食品として食べるものではない。食品の製造過程や貯蔵のために添加されるもので、食品衛生法では食品添加物を「食品の製造過程で、加工、保存の目的で使用するもの」と定めている。

 食品添加物を含めた飲食物は、食品衛生法によって使用が制限されている。食品衛生法は、昭和23年に制定された法律で、食品に使用してもよい化学合成品60種類が定められている。欧米では使用禁止の添加物を法律で定めているが、日本は使用可能な添加物を設定していて、その意味では日本の食品添加物への考え方が進んでいる。

 その後、食品添加物の数が増え、現在では化学合成添加物350種類、天然添加物1051種類が食品添加物として認められている。明記された添加物以外を使用することは法律で禁止されている。

 食品添加物は、人間が食べるために作られた化学物質で、生産された食品添加物のすべてが国民の体内に入ることになる。そのため添加物は、量が少なければ大丈夫とはいえない。体内に入る添加物の量を国内生産量から計算すると、日本人は1日平均10g、種類にして約60種類、1年間で約4kgの添加物を食べていることになる。このように大量の添加物であるから、当然、安全性に問題があってはいけない。そのため食品添加物はその発がん性、催奇形性、アレルギー性などが検査され、厚生大臣が使用を許可することになっている。急性毒性試験、慢性毒性試験、発がん試験、催奇形性試験、変異原性試験が行われ、食品衛生調査会によって安全性が評価されている。

 これらの試験は、各1種類の添加物だけについて行われるが、毎日60種類の添加物を食べているのだから相互作用も考慮しなければいけない。多数の化学物質が体内で一緒になった場合、どのような影響が出るのかを正確に調べることは不可能なので、疑わしい化学物質は体内に入れないことである。また農薬、大気汚染、水質汚染物質などとの関係も考慮しなければいけない。

 私たちの食べ物は、米、小麦、肉、魚などさまざまな材料から作られている。これらの材料は私たちの空腹を満たし、栄養のある食料となる。ところが、食品に味を付けるための食塩やコショウのような香辛料、しょうゆなどの調味料などは、食品を作る上で重要ではあっても、私たちの空腹を満たすものではない。いわゆる食品添加物も同様である。

 日本では化学的合成品は原則的に使用禁止で、厚生省が安全性や有用性を検討し、使用しても良いと指定したものが合成添加物(一般に食品添加物)となる。これに対して天然物から取り出したものが天然添加物で、その中には発酵法などで作られたものも含まれている。

 食品衛生法は食品添加物だけでなく、すべての食品に関する元締めのような法律である。加工された食品の内容表示、飲食店の営業許可、食品加工業の営業許可および停止、食品添加物の国家検定、食品に使用する器具・包装の規制、中毒に関する届け出・調査・報告、幼児の使用するおもちゃの規制、保健所による監視業務、検査のための食品の強制収去…、このように食品衛生法は多岐にわたり規定している。

 



千葉大採血死亡事件 昭和44年(1969年)

 昭和44年4月27日、献血のため千葉大医学部付属病院を訪ねてきた千葉県八街町(現在は市)に住む酒類販売業・杉井陽太郎さん(32)が、採血ミスのため心肺停止となった。杉井陽太郎は全くの健康人で、入院している知人に輸血をするために病院を訪れたのに、杉井さんの若い生命は看護婦の不手際によって奪われてしまった。

 杉井陽太郎さんの採血に当たったのは、千葉大第二内科の無給医局員の医師と看護婦(23)の2人だった。医師は杉井さんの左腕静脈にいつものように注射針を刺した。注射針には採血用のチューブがついていて、看護婦は採血をするためチューブを電気吸引器にセットした。

 献血では採血量が多いため吸引器を用いて血液を引いていた。そしていつものように杉井さんから採血が行われるはずであったが、看護婦は採血のためのチューブを吸入口ではなく、反対側の噴射用の口につないでしまったのである。

 電気吸入器は、採血や痰を引くための吸入(減圧)口と、薬品を噴射するための噴出(加圧)口があり、一台で減圧と加圧の両方の機能を備えていた。例えていうならば、電気掃除機の構造と似ていた。吸入口に採血用チューブをつなぐべきなのに、排出口にチューブをつないでしまったのである。

 機械のスイッチを押すと同時に約200ccの空気が静脈に逆流した。この事態に慌てた看護婦は、腕に巻いていたゴムの駆血帯をほどいてしまい、杉井さんの体内に空気が一気に注入されてしまった。空気は肺から脳に達し、杉井さんは瞬時に意識を失い、けいれんを起こして心肺停止となった。

 そばにいた医師は直ちに針を抜き、心臓マッサージを行った。必死の心肺蘇生により杉井さんの心臓は再び鼓動を取り戻したが、意識は戻らなかった。脳波は停止したまま、血圧、脈拍、体温は正常人とほぼ同じ状態で、いわゆる植物人間となった。看護婦の寝ずの看病、病院側の懸命な努力にもかかわらず、事故から41日後の6月7日、杉井さんは死亡した。

 この医師と看護婦の2人は業務上過失致死罪で起訴され、看護婦の単純なミスが引き起こした医療事故として終わるはずであった。ところが裁判の過程で、看護婦はこの採血死亡事件の裏に隠れた、医療が抱えているゆがんだ現状を次々に暴露したのである。

 看護婦は杉井さんを死を自分の非と認めたが、同時に大学の医療そのものを非難する内容を暴露したのである。無用の心臓カテーテル検査で心臓破裂を起こし死亡させた事例などを挙げ、「医師が研究のために患者の治療を二の次にした。そのため患者が犠牲となった事件が過去に何度も起きている」と裁判で証言した。看護婦は「大学病院のでたらめな医療が同時に裁かれなければ、自分の罪を償うことはできない」と主張したのである。

 次に看護婦が訴えたのは、危険な医療機器を納入した大学病院の責任についてであった。医療機器は厚生省の許可が必要なのに、問題の吸引機は厚生省の許可は受けておらず、市内の機械屋が試験的に置いていったものであった。また自分だけでなく、この吸入器によって他の看護婦も同様の事故を起こしそうになったと証言した。

 次いで、<1>大学病院では他にも多くの医療ミスがあり、大学側がそれらを隠していた<2>事故当時ほとんど休みがなく、働きずくめの状態で、過酷な勤務を強いられ、ミスをしても不思議でないような労働環境にあった<3>身分の保障のない無給医局員の問題などを主張した。

 看護婦は自分の非を認めながら、自分の過失だけでなく病院の体質が生んだ事故、過労が引き起こした事故と主張したのだった。看護婦は大学病院の体質を変えることが罪滅ぼしとしたのである。看護婦を擁護するグループが立ち上がり、日本の医療、大学病院の医療が抱える問題が指摘され注目を集めることになった。

 しかしこの看護婦を擁護したのは反戦看護グループだったこともあり、看護婦の主張は責任を大学病院に転嫁するものと批判され、過失裁判を政治裁判にすり替えようとする法廷戦術ととらえられた。この医療過誤事件は、大学病院の医療の実態が暴露されたことで世間の注目を集めたが、結局、禁固10カ月、執行猶予2年の判決が下された。

 この刑事事件の追及とは別に、採血死亡事件で死亡した杉井さんの遺族は、国に1億6000万円の損害賠償を求める民事訴訟を起こし、千葉地裁佐倉支部は被告の国に1億2000万円の支払いを命じる判決を下した。国は控訴し、昭和47年3月31日、東京高裁で3584万円の賠償が決定した。事実関係は何も変わらないのに1審と2審で命の値段が3倍も違っていた。

 



東北大学「人体実験」訴訟 昭和44年(1969年)

 昭和44年の暮れごろから、山形県天童市に住む黒沼正五郎さん(45)が両下肢に力が入らないことが数回あった。そのため東北大学付属病院第二内科を受診、担当医は体重減少、手の震え、動悸、眼球突出からバセドー病と診断した。

 バセドー病とは甲状腺機能亢進症のことで、甲状腺ホルモンが過剰に分泌されるために起きる疾患である。甲状腺ホルモンは身体の新陳代謝を活発にするホルモンで、甲状腺ホルモンが過剰に分泌されるバセドー病の患者は一見、生き生きと元気そうに見えるが、安静時でも走っている時と同じくらいのエネルギーを消費する。

 そのため疲れやすく、動悸、手の震えなどがこの病気の症状で、放置すれば心不全で死亡する。幸いにもバセドー病には特効薬があるため死に至ることは極めてまれとなっている。

 黒沼さんは両下肢の脱力を周期的に起こしていたが、この症状はバセドー病の合併症である周期性四肢麻痺によるものであった。四肢麻痺はその病名のごとく、四肢の麻痺が周期的におきる病気で、バセドー病40人に1人の割合で起きることが知られている。

 昭和45年3月17日、黒沼さんはバセドー病の治療のため東北大付属病院第二内科に入院。バセドー病の治療として甲状腺にアイソトープを照射して甲状腺の機能を抑制する治療方針がとられた。周期性四肢麻痺は血液中のカリウムが高値で起きる場合と、低値で起きる場合があり、脱力発作時のカリウムを測定すれば分かることであるが、黒沼さんは入院中に1度も発作を起こさなかった。

 血液中のカリウムが高値の場合と、低値の場合では治療法は全く逆となる。そのため担当医は甲状腺の専門医である村田輝紀医師に、四肢麻痺を一時的に誘発する「インシュリン・ブドウ糖負荷試験」を依頼した。インシュリン・ブドウ糖負荷試験とはインシュリンを投与して血中のカリウム濃度を低下させ、発作を誘導する試験で、患者さんの同意を得て実施した。

 インシュリン・ブドウ糖負荷試験は学会でも認められている検査法で、麻痺が誘導できればその病態が明確になるはずであった。ところが負荷試験を行った結果、黒沼さんは全身の麻痺状態をきたし、4月13日に心停止を起こして死亡したのだった。

 村田医師は「四肢麻痺は脳圧降下剤マンニトールで改善できる」という自らの仮説を証明するため、麻痺を誘発するインシュリン・ブドウ糖負荷試験を実施し、負荷試験後にマンニトールを注射して麻痺の改善を見届けようとした。しかし黒沼さんは負荷試験の段階で全身麻痺をきたし、心臓に異常を起こし死亡したのである。死亡診断書には急性心停止と書かれ、原因欄は空欄のままであった。

 黒沼さんが死亡して1年後にこの事件が発覚した。東北大付属病院第二内科・鳥飼龍生教授が定例の症例検討会でインシュリン・ブドウ糖負荷試験により黒沼さんが亡くなったことを発言したことがきっかけであった。当時、大学病院の研究至上主義に反対していた医局改革運動に参加していた若手医師たちは「東北大学・鳥飼内科人体実験を告発する会」を結成した。

 また遺族にも教授は誠意ある態度はみせなかった。そのため黒沼さんの妻、京子さんらは「治療上不必要なうえ、危険な負荷試験をしたのは、大学病院の研究至上主義に基づく人体実験」として、昭和48年に総額5180万円の損害賠償を求めて提訴した。

 この裁判は「人体実験訴訟」として注目を集めた。人体実験という言葉は、患者の人権を無視した非道な行為をイメージさせるが、インシュリン・ブドウ糖負荷試験は一般的に認められた検査法であった。

 昭和5211月、仙台地裁は、担当医師が患者の症状を十分に監視せず、症状が悪化した段階で回復措置を講じなかったとして、医師としての注意義務を怠ったとして、国に総額3570万円の支払いを命じたが、「人体実験」については「証拠がない」として原告の主張を認めなかった。控訴審では遺族側が「単なる医療過誤ではなく、大学病院特有の研究至上主義を背景にした非人道的な生体実験である」と主張した。被告側は、当時インシュリン・ブドウ糖負荷試験による死亡例はなく、昭和45年当時の医学水準では妥当なもので、マンニトールは実際には投与していなかったと反論した。控訴審判決では担当医師の過失を認めたが、人体実験については訴えを退けた。控訴審では損害賠償額を約700万円増額して約4270万円とした。

 東北大などの大学医学部は、診療と同時に研究、教育の使命がある。この研究をしていた村田医師は、「麻痺の診断を確定し、治療方法を確かめるための検査方法である」と主張した。 村田医師は負荷試験実施の際、黒沼さんから承諾を取ったと法廷で証言したが、判決では「日常的な診療行為について、医師は患者から事前に包括的な同意を与えられている」としただけで、本人承諾の有無は認定外とした。

 患者の人権を守るため、世界の医師が集まって1964年に採択した「ヘルシンキ宣言」では、「医学の進歩のためには人体実験も必要」とし、その際は、「研究内容が科学的客観性に裏づけられたもので、実験内容の妥当性を客観的に保障する手続きが必要」としている。

 判決でも「人体への害がないように医療関係者がその職業倫理に基づき妥当な基準を設定し、順守することが必要」としている。患者の承諾を得て検査を行う場合は、欧米先進諸国で行われているような基準設定などの手続きが必要であるとした。

 原告側は仙台高裁控訴審判決を不服として最高裁に上告した。この裁判は最高裁まで20年間争われ、慰謝料の増額と、東北大学医学部長と病院長の謝罪で決着がついた。この事件は人体実験訴訟と呼ばれたが、人体実験という言葉が独り歩きした印象が持たれた。

 



公害列島 昭和45年(1970年)

 昭和25年の朝鮮戦争による特需を契機に日本の重工業が復興、重工業の復興とともに日本の経済は高度成長の波に乗ることになった。昭和43年、日本の国民総生産(GNP)が西ドイツを抜き、アメリカに次いで世界第2位となり、国民の生活水準は飛躍的に向上したが、その代償として工業化による環境汚染が広がっていった。

 日本に豊かさをもたらした経済成長のゆがみが、公害となって日本を侵していくことになる。生活の豊かさに比例するかのように環境汚染が進み、高度経済成長のツケが回ってきたのだった。とりわけメチル水銀中毒による熊本水俣病と新潟水俣病、カドミウム中毒のイタイイタイ病、大気汚染の四日市喘息は「四大公害病」と呼ばれ、その他、数多くの公害が日本各地で引き起こされた。

 工業先進国を目指していた政府は、企業を優先させ公害への対応が遅れていた。地方自治体は地元に税金や雇用をもたらす企業の誘致に熱心だった。また面倒なことに、環境汚染は特定の工場による汚染だけでなく、複合汚染で汚染の犯人を特定しにくかった。

 特に自動車の排気ガスは、運転手一人ひとりが犯人であるが、一人ひとりに自覚を求めることは困難であった。日本の公害への対応は遅れたが、あまりにすさまじい公害は住民運動を引き起こし、政府は重い腰を上げざるを得なくなった。

 昭和42年に公害基本法が設定され、大気汚染防止法、環境庁設置などが打ち出された。社共推薦の美濃部亮吉が「東京に青空を」のスローガンを掲げ、独特のスマイルで東京都知事選に当選したのも昭和42年のことであった。公害は深刻な社会問題になり、昭和45年の第1回公害メーデーでは「青空と緑を取り戻すこと、国民の命を守ること」がスローガンになり、全国150カ所で82万人が参加した。

 昭和45年、「公害」「公害列島」という言葉が誕生したが、公害という言葉は英米法のパブリック・ニューサンス(公衆への生活妨害)に相当する言葉であった。この年は大阪万博や国産宇宙衛星の打ち上げの成功に沸き、日本の経済成長を実感する一方で、公害が深刻化した年でもあった。


【田子の浦のヘドロ】

 静岡県富士市の田子の浦は日本有数の景勝地で、富士山の眺望と切れ目のない青松がどこまでも続く海岸を有していた。万葉の歌人・山部赤人が、「田子の浦 うち出でてみれば真白にぞ 富士の高嶺に雪は降りける」と歌を残していた。

 田子の浦は、富士山の清澄な伏流水を利用した和紙作りの盛んな土地であった。この豊富な地下水と森林資源に恵まれた富士市に、大昭和製紙を筆頭とした製紙工場が戦後建設され、富士市は工業都市として発展することになる。この製紙工場が景勝地である田子の浦の風景を一変させた。

 製紙工場は製紙工程で大量の燃料と水を必要とし、チップなどの原料から大量の汚水が発生した。製紙のカスであるヘドロが1日に3000トンも排出され、ヘドロによって田子の浦の浅瀬が埋め尽くされた。ヘドロは有機物を含んだ粘土質のもので、製紙工場から排出されたヘドロがドロドロと堆積して悪臭を放った。

 田子の浦では、奇形の魚が釣れるようになり、アワビやサザエを捕っていた海女たちは、原因不明の蕁麻疹に悩まされた。そして昭和45年7月、ヘドロによって貨物船の運航が不可能になる事態へ進展していった。

 昭和45年8月9日、ヘドロ公害追放住民大会が開かれ、漁船144隻が海上デモを行った。住民たちはヘドロを除去しようとしたが、ヘドロが発生する毒ガスで中毒症状を起こすほどであった。日本の誇りである富士山を背景に、アブクで埋まった田子の浦が全国に放映され、国民に大きなショックを与えた。田子の浦の公害はヘドロだけでなく、大気汚染もすざましく、富士市の工場が使用する重油は1日3200キロリットル、発生する二酸化硫黄の量は1日130トンに達していた。

 昭和52年の公害病患者は912人、死者が39人となった。富士市はさまざまな公害を抱え、公害のデパートといわれた。静岡県は港内に堆積したヘドロの処理を行い、約18230003のヘドロを除去したのは昭和55年のことであった。

 このように公害問題は日本中で吹き荒れ、政府は公害を抑制するための官庁として昭和46年7月に環境庁を誕生させた。当初の名称は「公害安全庁」であったが、「環境保護庁」に変わり、最終的には環境庁に落ち着いた。平成13年1月には省庁再編で環境省に昇格している。


【光化学スモッグ】

 昭和45年7月18日の昼すぎ、東京都杉並区堀ノ内にある東京立正高校のグラウンドでソフトボールの練習をしていた女子生徒たちが、突然、吐き気、目の痛み、呼吸困難を訴えだした。プールで泳いでいた生徒も同様の症状を起こし、女子生徒たちは保健室や応接室に寝かされた。時間とともにその数は増え40数人にまで達して痙攣を起こす生徒もいた。

 学校周辺を救急車が走り回り、サイレンの音が響きわたり、学校周辺は騒然となった。その日、症状を訴えたのは立正高校の生徒だけではなかった。杉並区、世田谷区など東京都各地で目の痛みや吐き気などを訴える者が続出した。4日間で被害者は5000人を超え、被害者の大半が学生だったことから、文部省は空気のきれいな田舎に学童疎開を検討するほどであった。

 東京都の公害規制部と公害研究所がこの事例を新たな公害として調査を開始。その結果、原因を光化学スモッグによる公害と断定した。

 それまでの公害は、水俣病(熊本県水俣市)やイタイイタイ病(富山県神通川流域)など特定の企業による環境汚染で、戦後の復興と高度経済成長を目指すには不可抗力とする雰囲気があった。しかし東京を襲った光化学スモッグは、公害を自分たちの身近な問題としてとらえられることになった。

 光化学スモッグとは、煤煙(スモーク)と霧(フォッグ)を合成した造語で、自動車の排気ガスに含まれる窒素酸化物などが太陽の紫外線を受け、大気中で光化学オキシダントに変化することによる。光化学オキシダントは、目やのどの痛みを引き起こし、さらに頭痛や胸痛、意識障害などの重篤な症状まで示すことがあった。この大気汚染物質の被害は人間だけでなく、植物にも影響を及ぼした。植物の葉の表面には白い斑点が現れ、草花は醜く枯れていった。

 光化学スモッグの予防は屋外に出ないこと、さらにうがいをして目を洗うことである。そのため光化学スモッグ警報が出ると、外出を控え、うがいや洗顔を行うようになった。

 日本の光化学スモッグは東京都杉並区が最初の事例であったが、自動車大国であるアメリカのロサンゼルスでは、東京の発生以前から小規模な光化学スモッグがあった。光化学スモッグは風が弱く、紫外線が強い夏場におきやすい特徴があった。

 光化学スモッグは東京だけでなく、大都市で続々と発生し、国民一人ひとりの問題となった。そのため各都道府県は大気汚染防止法に基づき大気汚染のレベルを条例で定め、レベルを超えた場合には警報を出すようになった。注意報は1時間値0.12ppm、警報は0.4ppm以上が採用された。

 昭和48年前後が光化学スモッグのピークで、首都圏では光化学注意報が1年間に45回出され被害者は3万人に達した。環境庁は光化学スモッグ対策として自動車の排気ガスを規制し、自動車メーカーに規制基準を守ることを通知した。当初、この規制基準が厳しすぎると指摘されたが、ホンダがCVCCエンジンを、東洋工業がロータリー・エンジンを完成させ、各自動車会社はそれに続き基準合格車を完成させた。

 日本の排ガス規制は欧米よりも厳しいものであったが、それをクリアするための技術が優位に働き、日本車が世界市場で販売されるようになった。この技術改革により日本車が欧米自動車会社の脅威となるまでに成長した。

 この光化学スモッグ排ガス規制により、自動車の排気ガスはきれいになり、またオイルショックの影響、工場の窒素酸化物対策などにより、昭和50年代後半から光化学スモッグは激減し、現在では光化学スモッグは死語に近い言葉になっている。現在では想像もできないが、かつての東京の空は排気ガスでどんよりと曇り、太陽は乳白色に濁っていた。


【四日市喘息】

 昭和25年、中東の原油が生産過剰から原油の国際価格が低下した。そのためGHQは国際石油資本を救済するため、日本の輸入原油の精製を解禁した。輸入原油の精製には、石油化学コンビナートとして広大な湾岸用地が必要だった。

 用地として四日市(三菱)、徳山(出光)、岩国(三井)などの旧日本軍の燃料廠跡が一括入手された。その際、政治家、官僚、企業グループの癒着が表面化して、世論の強い批判を浴びることになる。一方、当時の臨海コンビナートは高度経済成長の旗手とされ、地方自治体はコンビナートの誘致に奔走した。

 伊勢湾に面した三重県四日市は、かつては美しい浜辺が続く勝景の海岸を有していた。四日市市塩浜にある元陸海軍燃料廠跡が、シェル石油系の昭和石油と三菱系化学企業を中核とした石油化学コンビナートに払い下げられ、この美しい浜辺は東洋最大規模石油化学コンビナートに生まれ変わった。

 昭和32年、三菱を中心とした精油所の建設が始まり、34年に第1コンビナートが完成。次いで大協石油と中部電力から成る第2コンビナートが完成した。このコンビナートが作動すると、四日市の海水は次第に汚染されていった。伊勢湾の魚は石油の臭いがして、そのため魚の値段は下がり漁民は打撃を受けた。

 もちろん原因は石油コンビナートであったが、企業は住民の訴えを聞こうとしなかった。海の汚染は戦争中に沈没したタンカーの油が漏れたせいと主張した。この石油の臭い以上に住民を困らせたのは亜硫酸ガスによる悪臭であった。四日市の石油コンビナートは、利益は中央の企業に流れ、損失だけが地元に残る典型的な国内植民地的な開発であった。

 昭和34年ころから、喘息などの呼吸器症状を訴える患者が多発するようになった。また患者の症状は喘息だけでなく、慢性気管支炎、肺気腫、さらには感冒様症状、扁桃炎、結膜炎などのさまざまな症状を引き起こした。

 特にコンビナートの排煙が流れ着く四日市の塩浜地区、磯津地区の住民に被害が多かった。塩浜地区の住民は外出時にはマスクを着け、学校では悪臭のため夏でも窓を開けられない日が続いた。当時の学校にはエアコンがなかったため、夏の授業は灼熱(しゃくねつ)地獄の教室で行われた。

 四日市市は、昭和35年に公害対策委員会を発足させ、三重県立大学医学部公衆衛生学教室の吉田克巳教授、名古屋大学医学部の水野宏助教授に環境汚染と呼吸器症状との因果関係についての調査を依頼した。吉田教授らは硫黄酸化物濃度が汚染地区では名古屋の4倍であること、硫黄酸化物濃度と喘息発作との間に高い相関関係があることを指摘し、コンビナートから排出される硫黄酸化物が気管支喘息の原因と結論づけた。地域住民は再三にわたり公害の早期解決を訴えてきたが、各企業はこれを無視して操業を続け、さらにコンビナートの拡大まで計画していた。四日市市や三重県は公害対策をしなかったため、喘息患者は増え続けていった。

 昭和42年、四日市喘息の患者とその遺族12人が、昭和四日市石油、三菱油化、三菱化成、三菱モンサント化成、石原産業、中部電力の6社に対し、「工場から排出された亜硫酸ガスで健康を害した」として慰謝料を請求する訴訟を起こした。被告となった6社は、各工場の排煙の大気汚染濃度は煤煙(ばいえん)規制法の規制以下の数値で、違法性はないと反論した。

 昭和47年7月24日、津地方裁判所四日市支部は企業による大気汚染に対し、「気管支喘息などの症状は、企業が排出した亜硫酸ガスなどの硫黄酸化物が原因である」として、闘病生活による収入減、家庭生活の破壊、精神的苦痛に対し、企業6社は連帯して総額8821万円の損害賠償額を原告12人に支払うよう命じた。

 大気汚染と喘息との因果関係を否定し、病気への責任はないと主張していた企業に、裁判長は「疫学的に相関関係がはっきりしていれば、因果関係に科学的論争は必要ない」として患者側の勝訴とした。人間の生命に危険をもたらす汚染物質については、企業は経済性を度外視して最高の技術を導入して防止の措置を取るべきとした。

 賠償金額は請求額の4割5分にとどまったが、6社ぐるみの共同不法行為が認められたのである。裁判長は国や地方自治体が地域振興のために被告企業を誘致した責任についても言及した。

 この判決を受け、会社側は硫黄含量の多い重油から低硫黄重油への切り替え、ボイラーに脱硫装置を設置し、60メートルの煙突を150200メートルの高煙突へ変え、工場周辺に植樹することになった。昭和51年末の四日市ぜんそくの認定患者は1112人であったが、それ以降、新規の患者数は減少していった。

 四日市公害訴訟は、大気汚染の総量規制、亜硫酸ガスの環境基準の改正、公害健康被害補償法の制定などに影響を与えた。この裁判は大気汚染だけでなく、公害対策の進展に大きく寄与することになった。

 この裁判は、全国の石油化学コンビナートの公害対策に大きな影響を与えた。企業が個別に公害規制法を順守しても、結果として公害被害が発生した場合、企業の法的責任が問われることになった。高度経済成長期社会が生んだ公害に対し、四日市公害訴訟は全国的な住民運動のきっかけをつくり、被害住民が公害訴訟で勝訴したことできれいな環境が戻ったのである。

 



ハンセン病治療に尽力の医師 昭和45年(1970年)

 昭和451212日、ハンセン病(らい病)の治療に尽くした小笠原登医師が、肺炎のため故郷の愛知県甚目寺町(じもくじちょう)にある真宗大谷派の円周寺で亡くなった。82年間の名誉ある人生であった。

 ハンセン病は、明治時代から90年間にわたる強制隔離政策がとられ、患者の差別と偏見を招いていた。小笠原医師は国賊と言われながらもこの強制隔離政策に反対し、患者の治療のためにすべてを尽くした。小笠原医師は現代医療思想の先駆けとして高く評価されている。

 小笠原医師は円周寺に生まれ、真宗大谷派の僧侶でもあった。祖父・小笠原啓實は漢方医を兼ねた僧侶で、寺でハンセン病患者の療養をしてきた。国の隔離政策が行われるまではハンセン病患者は寺院に集まり生活をすることが多かった。

 小笠原医師の医療を支えた背景には、ハンセン病患者が集まる寺院に生まれたこと、また仏教への信仰が強かったことがある。漢方医であった祖父の治療を通じて、ハンセン病の感染力は弱く、遺伝性はないと確信していた。

 小笠原医師は旧制三高から京都帝大医科大学(現京大医学部)に進学、大正4年に卒業すると、京大医学部皮膚科でハンセン病の治療と研究を始めた。小笠原医師は「隔離政策」に反対しながら外来で治療を行っていた。京大時代に診察したハンセン病患者は1500人を超えたとされている。

 当時の医師はハンセン病の感染を恐れ、患者に触れないで診察していた。しかし小笠原医師は患者を直接手で触り診察した。診察が終われば手を洗うが、患者の目の前では決して手を洗うことはなかった。患者の心を傷つけたくなかったからである。ハンセン病と診断すれば、医師には届け出の義務があり、患者は強制隔離された。そのため患者には「進行性皮膚炎」などの偽りの病名をつけ、あるいは病名を書かないで診療した。

 ハンセン病の強制隔離政策は、ハンセン病を伝染病とする光田健輔医師(18761964)の学説から打ち出され、隔離政策を当然とする考えに医学界も国民も縛られていた。国は各地に療養所をつくり、ハンセン病患者の隔離政策を進めていた。

 「大和民族の純潔を守るため、多数の国民の安全を守るためには少数の人権無視はやむを得ない」。このような隔離政策には、ハンセン病を恐ろしい伝染病とする以外に、醜い形相を世間から隔離しようとする意図があった。

 小笠原医師はハンセン病の感染力は弱く患者を隔離する必要がないこと。つまり感染しても発病は個人の体質に大きく左右されるとする「体質説」を昭和16年に発表したが、この体質説は学会から攻撃を受け、小笠原医師は学会や社会から異端視され、国民からも隔離制度を混乱させる国賊とされた。そのため生前の小笠原医師への世間の評価は低いものであった。京大でも助教授のままで退官しているが、医学史の視点からみれば、小笠原医師の学説が正しかった。

 戦後、基本的人権を尊重する憲法ができたが、ハンセン病患者の人権はないに等しいものであった。アメリカでハンセン病の新薬プロミンが開発され、昭和24年頃から日本でも使われ、この特効薬によりハンセン病は不治の病ではなくなった。しかし昭和28年に「癩予防法」は「らい予防法」と名前を変えたが隔離政策は継続された。プロミンの普及で療養所の患者に希望が広がり、ハンセン病の国際会議(ローマ会議:昭和31)では日本の隔離政策が批判された。世界の流れは開放治療へ向かっているのに、日本では隔離政策が続けられていた。「らい予防法」は近い将来改定するとの条件つきだったが、平成8年の廃止まで40年間も放置された。その間にも患者への偏見と差別は増幅され、このことはハンセン病の本質を知る医師たちの怠慢といえる。

 京大勤務時代の小笠原医師は、毎年のように医学雑誌などに論文を書き、昭和23年から60歳で退官する昭和48年まで、論文数は110を超えていた。京大退官後は国立豊橋病院(愛知県豊橋市)や国立療養所奄美和光園(鹿児島県名瀬市)に勤務し、論文発表を続けていた。

 小笠原医師は医師として診療を行い、研究者として多くの学会に報告している。また漢方に関する論文も多く書いているが、それは西洋医学だけでなく、東洋的、仏教的な思想を医学や医療に応用したかったからである。

 京大の皮膚科時代の患者が、豊橋の円周寺を訪ねてくると、診察を終えたあと患者と一緒に食事をとり宿泊させた。どこまでも患者に温かい医師であった。 

 小笠原医師の写真を見ると、いつも黒の詰め襟の服を着ていた。頭髪も短く刈り込み、黒衣の僧侶が医者になった感じである。さらに強い信念を持っていたことが伝わってくる。

 小笠原医師が活躍した時代は、大正デモクラシーから軍国主義への転換期で、非民主的な政策がまかり通っていた。ハンセン病患者の隔離政策もそのひとつで、時代の流れの中で自分の思想を捨てなかった小笠原医師の内面の強さは高く評価される。

 小笠原医師と同じ考えを持つ医師として大谷藤郎がいた。大谷医師は京大医学部の学生時代に小笠原医師の研究を手伝い、後に厚生省医務局長となってらい予防法の廃止に尽力した。その後、ハンセン病の啓発団体「財団法人藤楓協会」理事長、国際医療福祉大学学長となっている。ハンセン病を語る場合、この2人の医師の存在を無視することはできない。

 小笠原医師は70歳を超えてから奄美大島の和光園療養所で7年間を過ごし、300人の患者の診察にあたった。療養所では患者に慕われ、奄美の良寛さまと言われていた。

 奄美大島から故郷に戻り、肺炎で亡くなったが、円周寺にある小笠原医師の墓は、墓といっても墓標はない。それは、「みんなと同じように土に埋めてほしい」という本人の遺志からであった。墓地の一角に小さなお地蔵さんが立っているが、その場所に遺骨が埋められている。

 小笠原医師が亡くなってから、ハンセン病の発病に至る体内のメカニズムが急速に解明され、発病の仕組みが遺伝子レベルで解析れるようになった。かつては国賊と呼ばれた小笠原医師は再評価され、平成13年に東京弁護士会から東弁人権賞を受賞している。

 



三島由紀夫割腹事件 昭和45年(1970年)

 昭和451125日午前1045分、世界的に有名な純文学作家・三島由紀夫(45)が、自ら結成した民間防衛組織「盾の会」の会員4人を引き連れ、東京・市ヶ谷の自衛隊駐屯地を訪ねた。三島は前日に陸上自衛隊東部方面総監である益田兼利陸将(56)に面会を申し込んでおり、盾の会の制服を着た5人は2階の総監室に案内された。

 三島由紀夫は日本刀を持っていたが、指揮刀と称して総監室に持ち込むことができた。かねてから交友のあった益田陸将としばらく雑談を交わし、三島が総監に持参の日本刀を見せようとした瞬間、三島がハンカチを取り出すのを合図に4人が益田陸将を羽交い締めにして椅子に縛りつけた。

 部屋の外にいた自衛官がこの異変に気づき、総監室に入ってきたが、三島は日本刀「関の孫六」を抜き、4人は短刀を振るい、中村二等陸佐が三島の日本刀で左腕を切られ重傷を負うなど自衛官5人が負傷した。

 三島由紀夫らは机やいすで部屋の内側からバリケードを築き、陸将を監禁して立てこもった。騒ぎを知って駆けつけた吉松幕僚副長がガラス窓越しに説得したが、三島は受けつけず、正午までに自衛隊員を本館前に集めるように要求した。

 三島由紀夫が立てこもった総監室はかつて大本営が置かれていた歴史的な部屋で、部屋の前には正面バルコニーがあった。三島は総監室から正面バルコニーへ出ると、集められた約1000人の自衛隊員の前で要求書の垂れ幕を下ろし、檄文(げきぶん)をばらまいた。カーキ色の楯の会の制服を着た三島は、七生報国のハチマキを締め、約10分間にわたり演説を行った。

 三島由紀夫の主張は、「米軍の支配下にある自衛隊の自立、憲法改正のための決起、民族の自立、天皇を中心とした日本の伝統の擁護」であった。戦後、日本民族は深い惰眠をむさぼり、日本の文化は破壊され、日本の伝統は後退して武士の魂は失われた。このことに危機感を持っての演説であった。

 「日本人は戦後の経済繁栄にうつつを抜かし、国の大本を忘れ、国民精神を失い、本を正さず末に走り、自ら魂を空白の状態へ落とし入れた」と訴えた。さらに国を防衛すべき自衛隊が妥協と欺瞞の政治の中で、ご都合主義の法的解釈でごまかしているとした。三島の演説は、荒廃した日本に活路を見出そうとするもので、自衛隊の治安出動によってクーデターを起こそうとしたのである。

 「われわれの愛する歴史と伝統の国、日本。これを骨抜きにしてしまった憲法に体をぶつけて死ぬやつはいないのか。もしいれば、共に立ち、共に死のう。われわれは至純の魂を持つ諸君が一個の男子、真の武士としてよみがえることを切望する」、「今から国会を占拠し、憲法を改正しよう」。三島はマイクを使わず必死に訴えたが、彼の演説はあまりに唐突で、声も届かず、集まった自衛隊員には通用しなかった。

 三島の演説はテレビで放映されたが、バルコニーからの三島の演説に対し、まじめに耳を貸す者はいなかった。むしろ演説する三島に「バカヤロー」「頭を冷やせ」「英雄気取りはよせ」などの野次や罵声(ばせい)が飛んだ。

 自衛隊員への檄文、三島由紀夫の絶叫は悲壮感を帯びていた。三島の演説は不発に終わったばかりか、時代錯誤の醜悪と受け止められた。サラリーマンと化した自衛隊員に武士という言葉は通用しなかった。演説は2時間の予定だったが、野次と上空を飛ぶヘリコプターの騒音にかき消されわずか8分で終わった。

 三島は自衛隊の決起はないと判断、皇居に向かい天皇陛下万歳を三唱し、再び総監室に戻ってきた。三島は益田総監の前で制服のボタンを外し、上半身裸になるとじゅうたんの上に正座し、古式にのっとり、銘刀「関の孫六」で左脇腹から右へ腹部を切り裂き割腹自決を遂げた。後ろに立った森田必勝(25)が日本刀で三島を介錯(かいしゃく)、次いで森田も切腹を遂げた。

 血の海となった総監室に残された古賀浩靖(23)、小賀正義(22)、小川正洋(22)の3人は三島の遺した命令に従い、三島と森田の2つの首を遺体の前に並べ、上から制服を掛け部屋を出た。すべてが終わったのは午前1223分だった。

 翌朝の朝日新聞に三島と森田の首の写真が掲載された。2人の遺体は慶応大病院で検死を受けたが、見事なほどに腹部は深く切られていた。

 三島由紀夫は日本を愛し、必死の形相で自衛隊に決起を呼び掛けたが、彼の愛国主義によるクーデターは失敗に終わった。文学的手法では人々の心は動かず、理想と現実は小説以上に分離していた。しかしあれほど有名な三島由紀夫が、自衛隊の決起を本気で信じていたのだろうか。もし自衛隊が三島に賛同して決起したら、どうするつもりだったのか。クーデターに失敗しての切腹ではなく、切腹を演じるためのクーデターだったのではないか。三島は日本文化を天皇制中心の華麗な古典主義ととらえ、日本人の生き方を武士の生き方と重ね合わせていた。葉隠に書かれた「武士道とは死ぬことと見つけたり」を美的で英雄的な死としていた。

 形の上では日本国憲法と民主主義に対する死の抗議であったが、憂国の士としての最後のかけだったとは思えない。自らの小説「憂国」の主人公・武山信二中尉が腹を切ったように、自分の人生を小説のように演じたように思える。

 三島の真意は分からないが、前代未聞の事件は世間を驚かせた。佐藤栄作首相は官邸での昼食中にテレビ速報で事件を知り、記者団に感想を問われると、暗い顔で「気が狂ったとしか思えない。常軌を逸している」とコメントを述べた。中曽根康弘防衛庁長官は「迷惑千万」と語った。作家の井上光晴は「三島は必死に自分の思想を追求した結果、現実との相違に失望して死んだ。その思想も行動も全く漫画的で無意味である」。このように見識者のコメントも、マスコミの論調も「狂気あるいはピエロ」だった。「法秩序を乱す思い上がりの幻想」と受け止められていた。

 確かに三島由紀夫の唱える古典的天皇制は非現実的で、天皇陛下万歳を唱えて自決することが、たとえ純粋であっても時代錯誤であった。天才なのか狂気なのか、三島由紀夫の衝撃的な行動と死は日本だけでなく世界中を驚かせた。大正元年、乃木希典が明治天皇への殉死として割腹自殺しているが、三島の割腹自殺はそれ以上の衝撃をよんだ。

 三島由紀夫は本名・平岡公威(きみたけ)。大正14年に東京・四谷に生まれ、祖父は元樺太庁長官の平岡定太郎である。父親の平岡梓は東京帝大から農林省に入り水産局長を務め、母親は開成中学の校長で儒教学者・橋健三の次女であった。

 三島由紀夫は学習院初等科のころから病弱で、文学にあこがれ多くの書物を読んでいた。学習院中等科のころから文学を志し、俳句や詩歌などを作り、16歳で処女作「花ざかりの森」を書いている。19歳時に学習院高等科を首席で卒業、天皇陛下から銀時計を授かり、東大法学部に推薦入学している。

 大学生時代に文学的才能をノーベル賞作家・川端康成に見いだされ、川端康成の推薦で雑誌「人間」に「煙草」を発表して文壇デビューとなった。昭和22年に東大法学部を卒業して大蔵省に入るが、翌年には創作活動に専念するため大蔵省を1年で退職した。三島由紀夫の作品は緻密に計算された物語性が特徴で、昭和24年に「仮面の告白」で文壇の注目を集め、「愛の渇き」「青の時代」「潮騒」などの小説を次々に書き、その才能を十分に発揮した。

 昭和32年に書いた「金閣寺」は11カ国で翻訳され、三島由紀夫は世界的作家となった。それ以降、「美徳のよろめき」「鏡の家」「宴のあと」「憂国」などの小説を書き、また独創的な戯曲や切れのいい評論を次々と発表し、作品を書くたびに話題を集めた。昭和40年と42年にノーベル文学賞候補になっている。

 文学以外でもボディービルで身体を鍛え、剣道4段で、自作の映画にも出演して話題をまいた。文壇をリードしていたが、文学から次第に政治的な発言を強め、「天皇を日本文化の中心にすること」を主張した。当時は左翼全盛の時代であったが、三島は左翼陣営に対抗する右翼の論客として担ぎ上げられ、また自衛隊に体験入学した学生らと「楯の会」を結成した。「楯の会」は民間防衛組織で、隊員は早大、東大、京大など学生95人から構成され、反共、天皇制支持、暴力是認を掲げていた。楯の会会員はカーキ色のダブルの軍服を着て、規律と品位を保つことに重点が置かれ、隊員は自衛隊での1カ月以上の体験入隊を義務づけられていた。

 三島由紀夫は、天皇を歴史の文化的連続性と捉え、民族的同一性の象徴とした。共産主義は日本の伝統と文化に反するもので日本の歴史とは相容れず、暴力否定は日本共産党の宣伝に乗るだけとして暴力を是認した。

 当時は大阪万博が成功し、日本中が好景気に浮かれていた。そして戦後の経済的繁栄の反動として左翼運動が活発化していた。このような時代の中で、偽善に満ちた日本の表面的な繁栄に義憤を感じている者がいた。三島の死を憂国と捉え、三島が命を掛けて「たるみきった日本に活を入れた」と心に秘めながらも、声に出して賛同することはできなかった。

 三島由紀夫の葬儀には8200人が集まったが、評論家の参列は少なく、参列者の多くは何も語らなかった。三島由紀夫の葬儀委員長は川端康成が務めたが、川端康成は総監室での現場検証で三島由紀夫の首を見ており、そのショックは計り知れないものであった。川端康成は三島由紀夫の死から2年後の昭和47年4月16日、三島の後を追うように逗子マリーナのマンションで水割りを飲み、布団の中でガス管をくわえ自殺している。

 三島由紀夫は昭和の年号と自分の年齢が同じであった。激動の昭和とともに生き、自らの芸術を開花させ、三島の死は彼の美学の総括だったといえる。三島の事件から1カ月後に朝日新聞は大学生にアンケート調査を行ったが、三島の死をバカバカしい自己陶酔ととらえる否定派、死をかけての主張とする心情共感派、行動が理解できずショックを受けたとする不可解派、この3つの受け止め方がほぼ同数であった。

 現在、山梨県山中湖の湖畔に三島由紀夫文学館が建てられ、多くの資料が並べられている。小説家が小説を完了させるように、三島由紀は「切腹という死」をもって人生を完了させ、それを三島美学として永久に残したのである。

 



よど号ハイジャック事件 昭和45年(1970年)

 昭和43年からの2年間で、海外では110件の航空機ハイジャック事件が起きていた。しかし、まさか日本でハイジャック事件が起きるとは誰も想像していなかった。よど号ハイジャック事件とは、日本赤軍派学生が起こした日本で初めてのハイジャック事件であった。

 昭和45年3月31日午前7時21分、羽田発福岡行き351便の日本航空ボーイング727ジェット旅客機「よど号」は、乗員7人、乗客131人を乗せ羽田空港を離陸した。当時の航空機には愛称がついていて、その愛称名からこの事件は「よど号ハイジャック事件」と呼ばれるようになった。

 乗員は機長の石田真二(47)、副操縦士の江崎悌一(32)、航空機関士の相原利夫(31)、それに4人のスチュワーデスであった。ほぼ満員の乗客の中には、福岡での日本内科学会に出席する聖路加国際病院名誉院長の日野原重明(58)の姿があった。

 羽田を定刻より10分遅れて離陸したよど号は、2時間後に板付空港(福岡空港)に着陸するはずであった。禁煙のサインが消えるまでは、機内は普段と変わりなかった。

 7時40分、飛行機が富士山の南側を飛行中、突然、赤軍派学生が操縦室に乱入、日本刀を振りかざし飛行機をハイジャックした。当時の空港には金属探知機もボディーチェックもなく、日本刀、ピストル、ダイナマイトなどを簡単に持ち込めた。

 飛行機を乗っ取った赤軍派学生のリーダーは田宮高麿(27、大阪市立大)で、サブ・リーダーは小西隆裕(25、東大)、それに田中義三(21、明冶大)、安部公博(22、関西大)、吉田金太郎(20、元工員)、岡本武(24、京大)、若林盛亮(23、同志社大)、赤木志郎(22、大阪市立大)、神戸市内の高校生(16)の計9人であった。なお岡本武の弟は岡本公三で、昭和47年5月30日に奥平剛士、安田安之とともにイスラエルのテルアビブ空港を襲って26人の死者を出していた。

 当時の日本は赤軍派への捜査が厳しさを増し、赤軍派は反帝国統一戦線の拠点を海外に求め、北朝鮮に活路を見いだそうとしていた。「いかに国境の壁が厚かろうが、再度日本に上陸して武装蜂起を貫徹する」と田宮高麿が声明文で述べたように、彼らは世界同時革命を信じていた。

 赤軍派は乗客の手を縛り所持品を検査し、石田機長に北朝鮮へ行くように命じた。しかし石田機長は、平譲に行くには燃料が足りないと説得し、犯人たちに給油のため福岡行きを承諾させた。午前8時59分、よど号は機動隊230人と警察官1000人が待機する板付空港に着陸。犯人への説得は通用せず、機体を離陸不能にする工作も失敗、政府は初めてのハイジャックに対策を打てずにいた。給油を遅らせるなどして5時間にわたる引き延ばし工作を行うも有効な解決には至らなかった。

 午後1時35分、犯人は病人、女性、子供ら23人を解放すると、よど号は突然北朝鮮に向かって離陸した。石田機長に渡された北朝鮮の地図は中学生が使う地図帳を破り取った簡単なものであった。よど号が福岡空港を飛び立って約35分後、38度線付近で右側に戦闘機の姿が見えた。国籍は不明であったが、操縦席の兵士は親指を下に向け、高度を下げろとサインを出した。石田機長が高度を下げると、管制塔から無線が入り、石田機長は無線に指示されるまま空港に着陸した。

 しかしそこはソウル郊外の金浦(きんぽ)空港だった。金浦空港は北朝鮮らしく偽装されていた。韓国兵は北朝鮮兵の服装を着て、女性はニセの歓迎プラカードを立てて出迎えた。しかし赤軍派は空港内に米軍機を発見、激怒した犯人は「金日成の大きな写真を持ってこい」と言った。もちろん韓国にはそのような写真はなく、韓国側の計画は失敗に終わった。

 翌4月1日、韓国側は朴正煕大統領が陣頭に立ち、「乗客を解放すれば、北朝鮮に行かせる」と説得したが、犯人は態度を硬化させた。朴大統領は人質を北朝鮮にやれば、戻ってこれないと確信していた。韓国では前年12月に大韓航空のYS-11がハイジャックされ、乗客・乗員11人が北朝鮮に抑留されたままになっていた。

 よど号の機内は暑く、食料、水は不足し、自由にトイレに行けない状態が続いた。東京から山村新治郎運輸政務次官(36)がソウルに到着。赤軍派と交渉を始めたが、交渉は難航した。午後になって橋本登美三郎運輸相もソウルに到着。翌2日、山村運輸政務次官が身代わりになることを提案して、ようやく乗客99人全員とスチュワーデス4人が解放された。北朝鮮赤十字は領土内の飛行の安全、乗員の人道的処遇、機体返還を保障すると発表した。

 3日午後6時4分、山村運輸政務次官を乗せたよど号は金浦空港を離陸し、北朝鮮へ向かった。石田機長の手には中学生用の地図しかなく、気象情報も運航情報もなかった。夕闇が迫る中での有視界飛行は危険だった。平壌管制塔からの応答は全くなかったが、石田機長は戦時中、夜間特攻隊の教官だったことから、肉眼で見つけた滑走路に強行着陸した。

 明かりのない暗闇の空港への着陸は成功したが、着陸したのは平譲の美林(ミリム)空港という廃港であった。北朝鮮は、もし誘導を行えば「よど号」を受け入れたことになるので、最初から誘導するつもりはなく、「よど号」はあくまで不法侵入として扱うつもりだった。赤軍派の9人はそのまま北朝鮮に収監された。

 赤軍派の亡命は成功。4月5日、山村新治郎運輸政務次官と乗員3人を乗せたよど号は羽田に到着した。日航は見舞金として金浦空港で降りた乗客に10万円、福岡空港で降りた乗客に5万円を配った。ちなみにこの夏のボーナスは一流企業で平均約15万円であった。

 この事件で山村政務次官は男を上げ、マスコミも「男、山新」と書き立てた。「身代わり新治郎」というレコードまで売り出され、次の衆院選挙ではトップ当選となった。また危険な任務を沈着冷静にこなした石田機長は国民的英雄としてマスコミに取り上げられた。ところが石田機長は女性とのスキャンダルが報道され、日本航空を退社することになる。

 「よど号ハイジャック事件」は1人の負傷者を出すこともなく解決。ハイジャック犯たちは腐敗した資本主義である日本から脱出し、北朝鮮では社会主義朝鮮・金日成のもとで、犯人たちは自由な共同生活を保証されたが、彼らが抱いていた革命戦士としての凱旋帰国の夢は次第に破れ、軍事訓練も帰国も許されなかった。政治思想である主体(チュチェ)思想の講義を受ける日々となった。

 北朝鮮に行った犯人たちの消息は、事件発生から20年近く、日本に届くことはなかった。彼らの生活について伝わってきたのは平成の時代に入ってからで、彼らは貿易会社を設立して平譲市内に外貨ショップを開いていた。また昭和50年、金日成は犯人らに革命持続のため結婚相手を見つけるように指示、各メンバーたちは日本人女性と結婚した。花嫁たちは日本でチュチェ思想と金日成主義の洗礼を受けていた者が多く、東欧の朝鮮大使館経由で入国した女性たちは、彼らとの結婚が目的ではなかったのに、結婚させられた者もいた。

 北朝鮮における赤軍派とその家族への待遇は良かった。衛星放送や新聞などで日本の事情を知ることができた。そして犯人のうち数人は昭和50年頃から海外へ出て、各国の北朝鮮大使館を宿泊場所として北朝鮮の工作員と行動をともにすることになる。スペインのマドリッドが彼らの重要な工作拠点で、10年間にわたって日本人拉致の活動舞台となった。しかし北朝鮮側の活動は西側に徹底的にマークされ、ベルリンの壁の崩壊とともに彼らはヨーロッパの拠点を失い、北朝鮮へ帰ることになった。

 平成4年4月12日夜、よど号事件で男を上げた山村衆院議員は翌日の北朝鮮訪問のために千葉県佐原市の自宅に戻っていた。自民党訪朝団の団長として、金日成主席80周年への参加と「よど号」グループとの再会を楽しみにしていた。しかし深夜、ノイローゼだった次女(24)に自宅で包丁で刺され死亡。次女は判断能力がなかったことから不起訴になったが、その4年後に自殺している。よど号事件の際に父親を羽田空港に出迎えたのは、ほかならぬ彼女であった。

 ハイジャック犯たちはヨーロッパでの活動ができず、平成6年、元高校生はひそかに日本に入国しようとして逮捕され、懲役5年の実刑判決を受けた。翌7年11月には田宮高麿(52)が心臓発作で死亡。平成8年には、田中義三がカンボジアで偽札事件を起こし、4年間の獄中生活を送り日本へ移送され、東京地裁は懲役12年を言い渡した。

 北朝鮮に残された犯人グループは子供の帰国に取り組み、これまで18人の子供のうち14人が帰国しているが、犯人たちの長い漂流の旅は終わっていない。彼らの活動は闇に包まれているが、犯人メンバーたちは次々に病死や事故死などで、北朝鮮に残っているのは小西隆裕、安部公博、若林盛亮、赤木志郎の4人だけとなっている。

 



シンナー遊び 昭和45年(1970年)

 昭和42年ころから、シンナー遊びが若者の間で流行し、昭和45年には約5万人の青少年が補導された。シンナーは値段が安いこと、入手しやすいことから、若者の間で急速に広まっていった。それまでは覚醒剤が特定の人たちの間で流行していたが、覚醒剤は値段が高いだけでなく販売ルートが限られていたため、若者たちの間では流行しなかった。

 シンナーはペンキなどの塗装を薄めるために用いる有機溶剤で、麻薬や覚醒剤のように販売は規制されていなかった。シンナーは50円で買えるボンドなどの接着剤にも大量に含まれ、誰でも気楽に買える入手の安易さが流行を生んだ。シンナーの主成分はトルエンであるが、その他キシレン、メタノール、エタノール、酢酸エチルなど多種多様の成分が含まれている。

 シンナー遊びは若者の間で流行したが、シンナー遊びのきっかけは刑務所だったとされている。刑務所では酒を飲むことができない。そのため受刑者たちは塗料に使うシンナーを酒の代わりに隠れて使用していたのだった。

 シンナー遊びはビニール袋にシンナーを入れて吸い、あるいは脱脂綿に染み込ませて吸うことが多かった。肺から吸収されたシンナーは脂溶性のため、脂肪組織である脳に作用し、多幸感、酩酊、幻覚を引き起こした。意味も分からず楽しくなり、羞恥心や恐怖感が消失する。ろれつが回らなくなり、歩行もふらつくようになる。夢の中をさまよっているような、いわゆる「ラリった」状態になる。シンナー遊びは、若者の仲間たちが数人で行うことが多かったので、仲間意識からやめることができず、いつしか中毒になっていった。

 シンナー中毒は発育に障害をもたらすが、恐ろしいのは統合失調症(精神分裂病)と似た症状から、殺人などの傷害事件を引き起こすことである。幻覚、幻聴により、窓から飛び降りる転落事故、自動車で運転事故を起こす例が多発した。また自傷事故だけでなく、周囲にも被害を与えた。

 ビニール袋をかぶったままシンナーを吸い、麻酔状態から呼吸苦を感じないまま無酸素状態となり、あるいは急性シンナー中毒で死亡する者が多くいた。死亡事故は友人たちとビニール袋をかぶったまま集団で吸う場合に多かった。特に自動車などの狭い空間でシンナーを吸って死亡する事件が多発した。自動車に150mLのシンナーを持ち込んで気化した場合、車内のシンナー濃度は1%になる。空気中にシンナーが1%含まれると危険な状態となり、2%で死亡するとされている。

 さらにたばこの火がシンナーに引火して火傷を負う事件も多発した。シンナーによる死亡事故は、昭和42年に9人が確認され、翌43年には42人に急増し、補導件数も激増した。シンナー遊びは思春期の終わりとともに多くは卒業するが、シンナーの慢性中毒になると後遺症が残ることが多い。慢性中毒の患者は脳波に異常がみられ、頭部CTスキャンでは脳の萎縮が認められる。また末梢神経障害をきたし、両下肢の脱力や手足のしびれなどの感覚障害を残すことがある。メチルアルコールが含まれているシンナーを吸って失明をきたした例もある。

 シンナーの主成分はトルエンであるが、トルエン中毒は習慣性があって、麻薬と同じ禁断症状が特徴である。トルエン中毒は中枢神経症状が強く、慢性中毒では歩行が困難となり、物をつかめず、手の震えなどの小脳失調症状が出現する。その他、耳鳴り、視力障害、不眠、小脳萎縮、脳波異常など、さまざまな精神神経症状が出現した。

 シンナーやトルエンは脳細胞を破壊し、脳細胞に不可逆的変化を引き起し、その後遺症は覚醒剤より強いとされている。このようにシンナー遊びは麻薬以上に危険で、一時的な快楽や開放感のため一生を棒に振ることになる。平成10年だけでもシンナー乱用者として6611人が検挙されている。

 平成10年1月10日、大阪府堺市でシンナーを吸った男性による通り魔事件が起きている。路上で上半身裸になった無職男性(19)が登校途中の女子高生(15)の背中を包丁で刺し、さらに幼稚園の送迎バスを待っていた幼稚園女児(5)とその母親を包丁で刺した。この事件で園児は死亡し、母親と女子高生は重傷を負った。逮捕された男性は前夜からシンナーを吸っていて、裁判では心神耗弱状態であったとして無罪を主張したが、平成12年2月の1審では懲役18年の判決が言い渡されている。

 この事件が有名になったのは、平成10年4月、月刊誌「新潮45」に男性の顔写真と実名が掲載され、男性がこの顔写真と実名掲載が少年法に違反するとして、編集長と筆者を名誉棄損で告訴したことによる。この裁判の1審では男性側の訴えが通ったが、2審では逆転敗訴となり請求は棄却された。この事件のようにシンナーを吸っての殺人、事故で死亡する自損事故が多発した。

 昭和の時代を振り返ると、街角にしゃがみながらビニール袋を口に当てている若者が目立っていた。シンナーはアンパンと呼ばれ、うつろな視線の若者が街角に散在していた。現在ではシンナー遊びは激減しているが、平成10年の全国中学生の調査では1.2%の中学生がシンナー遊びを経験していた。なおシンナーが入手しにくくなったことで、平成8年頃からシンナー遊びに代わって、ガスパン遊びがはやっている。

 ガスパン遊びとは、ガスライター用のガスボンベからビニール袋にガス(ブタンガス)を注入し、それを吸入して一種の酸欠状態による恍惚(こうこつ)感に浸る遊びのことである。いわゆるアンパンからガスパンへと代わって、ガスパン遊びによる死者が増加した。

 ブタンガスは空気より重いため、いったん吸い込むと肺に蓄積し、肺の換気量が減少し酸欠状態となる。そのため血液中の酸素濃度が低下し窒息寸前に意識が遠くなり、これが恍惚感となる。シンナーが酩酊状態をつくるのに対し、ガスパンは酸欠による幻覚、幻聴を引き起こした。肺にブタンガスが充満すると、そのまま窒息死することになる。シンナー遊び、ガスパン遊び、これらは遊びどころか、極めて危険な自殺行為である。

 



中ピ連 昭和45年(1970年)

 昭和45年、欧米各国で盛んになった女性解放運動が日本に上陸し、男女差別の撤廃、雇用の機会均等などを主張する女性による女性解放運動が活発になっていた。彼女たちの運動はウーマン・リブと呼ばれ、女性の地位の向上を目指した運動として、若い女性にある種の期待感を持たせた。ウーマン・リブ運動として、「女性解放運動準備会」「ぐるーぷ闘うおんな」などのグループが活動していた。

 ところが女性解放運動は当初の目的から逸脱し、世間の反感と失笑を買うようになった。その原因となったのが中ピ連である。中ピ連はピンク色のヘルメットをかぶり黄色い声を張り上げ、あの時代を駆け抜けていった。

 昭和47年6月18日、ウーマン・リブ運動から2年遅れて中ピ連は結成された。中ピ連とは「中絶禁止法に反対し、ピル解禁をかちとる女性解放連合」の略称で、27歳の榎美沙子が代表であった。他のウーマン・リブのグループは自然発生的な団体で代表者を置かなかったが、中ピ連だけは榎美沙子が唯一の代表者であった。榎美沙子の独裁色の強い個性によって、榎美沙子そのものが中ピ連といってよかった。

 昭和48年5月12日、ピンクのヘルメットをかぶった中ピ連は「ピルを解禁せよ」と厚生省に押し掛け座り込んだ。「生む生まないは、女性に任せよ」「厚生省は、男性の避妊薬を開発せよ」などとシュプレヒコールを繰り返した。

 「中絶禁止法に反対し、ピル解禁をかちとること」だけが中ピ連の目的であったならば、中ピ連はそれほど注目されなかった。しかし中ピ連の活動は常に過激だった。当時盛んだった学生運動をまねたピンクのヘルメットをかぶり、集会やデモなど派手な街頭行動を繰り返した。

 家族計画連盟の集会に殴り込みをかけ、優生保護法に反対して男女平等を唱え、中ピ連は一部の若い女性から支持を得られたが、多くはその奇抜な行動ゆえに好奇の目で見られていた。

 代表の榎美沙子は京大薬学部出身で、優秀で美人だったので、このお騒がせ集団をマスコミが黙っているはずはなかった。榎美沙子はテレビやラジオに頻回に顔を出し、マスコミは次第に彼女にほんろうされていった。マスコミは榎を追い回し、榎はマスコミに出ずっぱりとなった。

 この中ピ連は、昭和49年8月19日、「女を泣き寝入りさせない会」を結成し、身勝手な男たちにゲバルト行動を行うようになった。浮気や慰謝料などの問題が発生すると、男性の職場に大勢で押し掛け、「慰謝料を出せ」とシュプレキコールを張り上げた。プラカードを持ち、会社の前に座り込み、問題のある男性の糾弾を繰り返した。

 「離婚するときは全財産を妻に渡すこと、さもなければ連日勤め先にデモをかける」「上司の責任も追及する」…。このように恐喝といえる過激な実力行使を繰り返した。実際に20年間連れ添った妻を無一文で追い出した自動車会社社長の会社に押し掛け、財産の半分を譲渡する条件を引き出し世間を驚かせた。

 また倒産寸前の会社に押し掛け、女子職員の給与を支払うように団体交渉を行った。中ピ連は「弱き女性を助け、強き男性をくじく行動」であった。だが彼女らの行動は世の良識をはるかに越えていた。公私混同のゲリラ戦と呼ぶにふさわしかった。

 昭和50年は国際婦人年で、そのこともあって、マスコミは中ピ連に迎合した。中ピ連はミス・インターナショナル・コンテストに抗議し、会場に押し掛け中止を叫んだ。NHKの紅白歌合戦に出演する男性歌手の中に女性を泣かせた者がいると粉砕予告を出した。中ピ連はマスコミを意識し、過激な運動を繰り返し、マスコミも面白半分に中ピ連を取り上げた。

 昭和50年4月1日、京都国際会館で開催中の日本医学会総会の会場に中ピ連35人が乱入し、ピルの解禁を迫った。そればかりではなく、愛人同伴で総会に出席していた離婚訴訟中の東京の医師をつるし上げた。

 昭和5110月6日、東京で行われた第29回世界医師会総会にも乗り込み、「ピルを不当に解禁せず、妊娠中絶手術でボロ儲けしている日本医師会粉砕」を叫んだ。

 黄色い声でシュプレヒコールを繰り返す中ピ連に、誰も手を出せなかった。中ピ連の行動は女性解放運動ではなく、女性解放を利用して世間の注目と騒動を求めているようだった。そのためウーマン・リブへの偏見と反感をもたらし、彼女らの行動は女性の地位向上にマイナスとなった。

 昭和51年6月25日、中ピ連は宗教団体「女性復光教」を創設、オスが子育てをするタツノオトシゴをご神体に榎美沙子自らが教祖となった。

 翌52年4月1日に参院選挙を目差し、「日本女性党」を結成、「内閣はすべて女性とする」「公務員はすべて女性とし、男性は臨時職員かアルバイトとする」など、荒唐無稽(むけい)の政策を掲げ10人の公認候補を立てた。

 榎美沙子は白地に金モールのミリタリー・ルックで演説を繰り返したが、もちろん全員落選であった。選挙中に福田赳夫自民党総裁は「ワラのごとき存在」と称したが、まさにそれを実証した。

 参院選挙に惨敗して、榎美沙子は「中ピ連」「日本女性党」を解散、「愛する夫に尽くす」と、しおらしく主婦業を宣言して家庭に入った。あまりにあっけない言葉を残しての解散であった。榎美沙子は女性のためと言いながら、結果的に最も女性を裏切った女性であった。

 榎美沙子はそれ以降、ウーマン・リブ運動の舞台からは完全に姿を消し、南極越冬隊に参加した内科医と結婚して家庭に入った。その後、夫からの申し出で協議離婚となったが、彼女は今でもマスコミから完全に身を隠している。

 現在、世界中でピルを服用している女性は約1億人と推察されている。欧米では過半数の女性がピルを内服しているが、先進国の中で日本だけは副作用を理由にピルを認めていなかった。平成11年6月になって、厚生省はホルモン量の少ない経口避妊薬(低用量ピル)を医薬品として承認。中ピ連・榎が「ピル解禁」を叫んでから27年目の同年9月2日から低用量ピルが販売された。

 日本もようやく低用量ピル解禁となったわけだが、ピルを入手するには医師の診察、処方せんが必要で、また保険も適用されていないため、年間数万円の負担になる。榎が理想としていた市中の薬局での販売はまだなされていない。

 一世を風靡したピンク色のヘルメットをかぶった中ピ連、あれはいったい何だったのだろうか。榎美沙子はまさに時代が生んだあだ花と呼ぶにふさわしい女性であった。

 



天六ガス爆発 昭和45年(1970年)

 昭和45年は、大阪万国博覧会が開催された年で、万博を契機に大阪の再開発が急ピッチで進められていた。地下鉄は5年間で6路線33キロの建設を終え、総延長は64キロとなり、大阪は世界第9位の地下鉄都市になった。次の目標を周辺都市への地下鉄の延長とし、その第一歩が谷町線東梅田・都島間3.5キロの延長工事だった。

 大阪万博の開催から約1カ月後の4月8日、予想もしなかったガス漏れ事故が北区菅栄町の地下鉄・天神橋六丁目駅(天六)付近で起きた。天神橋は大阪駅から東北約2キロに位置する繁華街で、午後5時頃、建設工事現場でガス漏れが発見された。

 地下2メートルに宙づりになっている直径50センチのガス管から黒煙が上がっているのを作業員が発見。現場で働いていた10人を避難させ、すぐに大阪ガス、大阪市消防局、大阪府警に連絡した。大阪ガスの緊急事故処理車が現場に到着した時にはガスは付近一帯に広がっていた。そのうちに緊急処理車のエンジンの火花がガスに引火し車は炎上。午後5時45分、大音響とともに大爆発を引き起こした。

 鼓膜が破れそうになるほどの大爆発とともに10メートルの火柱が3本立ち上り、この爆発で作業員や通行人79人が死亡、重軽傷者420人の大惨事となった。地面は炎に覆われ民家22棟と車10数台が炎上した。200メートル四方の民家、ビルの窓ガラスやドアは爆風で吹き飛んだ。

 この事故が悲惨だったのは、大阪ガスの自動車が炎上した時点では、単なる事故と思い込んだ2300人の見物人が現場に押し寄せていたことだった。爆発直前の午後5時半の時点ではケガ人はいなかった。見物人はガス漏れを知らず、退避指導がなかったことが被害を甚大にした。その意味では人災とされても仕方のない事故であった。

 当時の地下鉄工事はオープンカット方式で建設されていた。道路の中央に深さ15メートルの堀を造り、堀を覆うように長さ1.5メートル、幅50センチ、厚さ20センチ、重さ400キロのコンクリート鉄板を市道に敷き、その上に自動車を走らせていた。コンクリート鉄板の下には電気、ガス、水道、下水道、通信線などを支柱にぶらさげていた。今回の事故は地下溝にむき出しの状態の都市ガス管の継ぎ目から大量のガスが漏洩したのだった。

 見物人は爆風でなぎ倒され、10メートル下の工事現場に転落し、飛んできた畳1枚400キロのコンクリート鉄板の下敷きになり尊い多くの生命が奪われた。コンクリート鉄板に下半身を挟まれ、助けを求める者が目の前にいても、再爆発を恐れて手が出せない状態だった。爆発の犠牲者は作業員の4人で、残りのほとんどが10代や20代の見物人であった。

 この事故は帰宅のラッシュと重なり、バスが動かなかったため、歩きながら見物して犠牲となった者が多かった。被害が拡大したのはガス会社の対応が後手に回ったためで、自動車が炎上してから爆発まで10分間の間に見物人は増え続けていた。

 爆発現場は警察も消防も正確な被害者数を把握できないほどだった。夜の9時半になって消防局がガス管を閉め、炎が鎮火し、夜11時から救出作業が開始された。 400キロのコンクリート鉄板はめくり上がり、積み重なったまま木箱のように散乱していた。工事現場に転落した遺体はクレーン車で運び上げられた。

 救急車が現場に駆けつけたが、周囲は混乱していた。負傷者は北野病院、松本病院、斎藤病院、行岡病院に運ばれたが、病院は戦場そのものであった。遺体は黒こげで判別がつかないほどで、また火傷はなく打撲による死亡も多かった。

 この事故は人災といえた。現場から一般家庭にガスを供給する2本のガス管を止めるバルブはなく。それぞれ6カ所にストッパーを入れ、1時間かけやっとガスが止まったのである。午後9時半まで現場ではガスが充満していた。

 この事故は都市災害として最初のものであった。天神橋六丁目交差点から東へ60メートルを左折すると、立派な山門の國分寺がある。その國分寺公園に地下鉄谷町線工事現場ガス爆発事故犠牲者の慰霊碑が建立されている。

 昭和40年代から地上の交通過密を解消するため、都市の駅前には地下街が網の目のように造られていった。炭鉱事故を除くガス爆発事故を誰もが心配していたが、心配していたガス爆発がついに起きたのだった。

 昭和55年8月16日には、静岡駅前地下街の飲食店で小規模のガス爆発が起き、その30分後にガス管から漏れた都市ガスに引火し、二次爆発となり死者15人、重軽傷233人を出した。事故後の調査により、最初の爆発は地下湧水槽に捨てられていた残飯のヘドロから発生したメタンガスが原因だったが、最初の爆発によって破損したガス管から漏れた都市ガスが30分後の二次爆発の原因となった。

 現場検証中の消防士や取材中の報道関係者、通行人などが爆風で吹き飛ばされ、火災でやけどを負うなどして死傷した。静岡県警は業務上過失致死傷の疑いで静岡ガスの保安要員ら2人を書類送検したが、静岡地検は嫌疑不十分で不起訴処分としている。

 昭和581122日正午、静岡県掛川市のレクリエーション施設「つま恋」の室内バーベキューガーデンでプロパンガスが爆発、建物は崩壊し全焼した。この事故でアルバイトの女子学生、従業員など14人が死亡、28人が重軽傷を負った。現場から約15分の距離にある総合病院には何の連絡もなく、市民病院と市立病院の2カ所で対応し、市民病院に34人が収容された。

 静岡県は集団災害時の救急体制のまずさから、集団災害時のtriage(重症選別)が救命手段に欠かせないとし、その後、集団災害時の対応として、事故時の医師と看護婦は出動する救急隊とともに災害現場で赤(重症)黄(中等症)青(軽症)の順に重症度識別を患者につけ、重症度に応じて応急処置を行い搬送する病院を振り分ける対策を取るようになった。

 つま恋の事故は、バーベキューガーデンの改装の時に、床下のガス栓を閉め忘れたことが原因であった。爆発前に警報機が鳴ったが、誤報と思い込み、逃げ遅れたのだった。ところでサッカーの監督として川崎フロンターレを優勝させた松本育夫さんは42歳の時につま恋ガス爆発事故に巻き込まれ、両手両足を複雑骨折、40%の火傷を負い死線をくぐり抜けていた。

 



クロロキン網膜症 昭和46年(1971年)

 昭和461014日、朝日新聞は宮崎県延岡市の会社員・木村正幸さん(46)が「クロロキンによる薬害を厚生大臣に直訴したこと」をスクープ記事として報道した。

 木村正幸さんは腎疾患を患い、昭和38年に延岡市内の病院に入院。その後5年間にわたってクロロキン製剤である「キドラ」を毎日3錠ずつ飲み続け、昭和41年頃から夕方になると物が見えにくくなり(夜盲症)、昼間も全体がかすんで見えなくなった。視野は極端に狭くなり、1メートル離れた人の顔も、顔の中心部しか見えなかった。昭和43年に九州大学病院に入院して、視力障害はクロロキンによる網膜症であることが分かった。

 クロロキンに視力障害の副作用があるは、欧米では以前からよく知られており、会社員が厚生大臣に直訴したのは、厚生省がクロロキン薬害に何ら手を打たず放置していたからである。会社員は厚生大臣にクロロキン薬害を訴えたが、厚生省は会社員の手紙に返事を書かずに無視する態度をとった。

 しかしこの朝日新聞の報道をきっかけに、全国に散在していたクロロキン網膜症の被害者が続々と名乗り出ることになった。クロロキン網膜症の被害者たちは全国レベルで団結、薬害の世論が盛り上がり、「クロロキン被害者の会」が結成された。

 クロロキンはドイツのバイエル社が昭和8年に開発した抗マラリア剤である。このクロロキンは毒性が強いことから長い間使用されずにいたが、昭和16年、太平洋戦争勃発とともにクロロキンが注目されることになる。アメリカ軍が、東南アジアの兵士をマラリアから救うため、従来から用いられていたキニーネよりも効果のあるクロロキンが再評価されたのである。

 アメリカ軍は4カ所の刑務所で百数十人の囚人を2つのグループに分け、一方にはクロロキンを内服させ、もう一方にはキニーネを内服させた。この人体実験でクロロキンは投与1週間でマラリアを完治させること、長期間の大量内服で眼の障害をきたすことが分かった。クロロキンはマラリアの特効薬としてアメリカ軍を中心に世界中に広がっていった。

 昭和23年、クロロキンを1年間服用した場合、約半数に網膜症を起こすことがアメリカで発表された。クロロキン網膜症の特徴はクロロキンを中止しても治らないこと、治療法もなくクロロキン内服を継続すれば失明に至ることであった。さらにクロロキン網膜症は中心性視野狭窄が特徴で、中心性視野狭窄とは健康な人の視野は左右180度、上下120度であるが、クロロキン網膜症による視野狭窄は、この角度が狭まり視野の中心部しか見えないことであった。つまり筒をのぞいている状態になった。

 日本でクロロキンが販売されたのは昭和30年6月からで、吉富製薬がバイエル社から輸入し、武田薬品が「レゾヒン錠」の商品名で販売した。発売当初の投与対象疾患は欧米と同じくマラリアと慢性関節リウマチに限定していたため何の問題もなかった。その証拠に、欧米ではクロロキンは現在でも発売されており、マラリアと慢性関節リウマチの治療薬として高い評価を得ている。

 クロロキンの副作用はごくわずかであったが、昭和33年、神戸大学・辻正造教授が学会で「腎炎の治療にクロロキンが有効」と報告した。この報告は被験者が8人とのお粗末なものであったが、製薬メーカーはこの論文に注目し、この論文がクロロキン網膜症増大のきっかけを作った。

 同年、クロロキンを輸入販売していた吉富製薬がクロロキンの適応疾患を腎炎に拡大したのである。さらに昭和36年、小野薬品がクロロキンの生産体制を整え、クロロキンを慢性腎炎の特効薬と称して「キドラ」の商品名で大量に販売した。昭和36年はちょうど国民皆保険制度が発足した年である。国民皆保険制度が医薬品の大量製造、大量販売に拍車をかけた。

 小野薬品はキドラを腎機能に効果があると宣伝し、「医家に謹告、新しい腎臓病の治療薬が出ました。腎疾患治療剤キドラ」このような広告が新聞をにぎわせた。それまで腎疾患はステロイド剤以外に特効薬がなかったため、腎臓を患っていた患者はクロロキンの出現に希望を持った。

 腎臓病患者はクロロキンを長期内服することになった。この小野薬品「キドラ」が最も多くの被害者を出し、クロロキン網膜症の約8割がキドラよって引き起こされた。クロロキンは腎疾病の患者にバラ色の夢を与えたが、その夢が悲惨な悪夢を生むことになる。

 腎疾患で腎排泄機能に障害のある患者は、クロロキンが尿から排泄されず、体内に蓄積されクロロキン中毒を引き起こしたのである。クロロキン網膜症をきたした被害者のほとんどが慢性腎疾患の患者だった。

 このクロロキン網膜症がより悲劇的なのは、昭和51年にクロロキンの腎炎への治療効果がないことが判明したことである。慢性腎炎の患者は、治療効果ない副作用だけのクロロキンクを飲まされ失明だけが与えられた。

 腎臓疾患にクロロキンが効果ありとされたのは世界では日本だけである。なぜ効果のない薬剤が日本で盛んに宣伝され使用されたのか。クロロキンが腎炎に効果があるとしたのは神戸大の辻正造教授であったが、それは単にクロロキンの化学構造から腎炎に効果があるだろうとの思いつきであった。非科学的思いつきで腎炎患者にクロロキンが投与されたのである。

 クロロキンについては、京都大医学部内科第一講座、日本大学医学部第二内科、大阪大医学部吉田内科、慶応大医学部相沢内科が臨床試験を行い、腎炎に効果があり副作用は認められないと報告した。この臨床試験の成績が中央薬事審議会を通過し、クロロキンは腎炎の治療薬として認可されたのである。小野薬品社長の友人である辻正造教授、辻教授と連なる教授たちが、腎臓に効果があるとする論文を書き、300もの論文が製薬会社の宣伝に利用され、クロロキンの投与が拡大したのであった。

 腎臓病に効果のない薬剤を、大御所の教授が効果ありとの論文を書き、それを根拠に製薬会社は腎炎治療薬として販売したのである。ごく限られた疾患に限定使用されていたクロロキンが大量に売られ、しかも投与されたのがクロロキンの体内蓄積をきたす腎臓病患者であったことが悲劇の構図であった。欧米では腎炎の治療効果を示した論文はなく、むしろ腎臓病患者には禁忌とされていた。つまりクロロキン網膜症は日本だけの薬害であった。

 製薬会社は何の根拠もなしにクロロキンを腎炎、ネフローゼ、てんかん、気管支喘息に効果があると宣伝した。現在では信じられないことであるが、当時の薬事法は一度認可された医薬品は、適応疾患の拡大に制限がなかった。例えば、心臓の薬として販売していた薬剤が胃炎に効くと認められれば、胃薬として使用することが可能だった。

 小野薬品の「キドラ」に続いて、複数の製薬会社が同種薬を相次いで発売した。クロロキンの生産量が増加し、昭和36年頃からクロロキン網膜症が多発することになった。昭和37年、アメリカではクロロキン網膜症はごくわずかであったが、FDAはクロロキンの副作用を医療機関に配布するように指導、製薬会社は24万通の警告書を発送している。日本ではクロロキンを大量に使用しながら、クロロキン網膜症の警告はなされていなかった。

 昭和40年のリウマチ学会でクロロキン網膜症が話題となった。当時の厚生省薬務局製薬課のT課長は、自分が慢性関節リウマチのためクロロキンを内服していたが、製薬会社からクロロキン網膜症の情報を教えられ、すぐにクロロキンの内服をやめていた。このことが後の裁判で偶然明らかとなり、厚生省に非難が集中することになった。薬の安全性を監督する立場にあったT課長がクロロキンを中止した段階で適切な措置をしていれば、被害者の8割は防げたとされている。T課長がクロロキンの内服をやめたのは、クロロキン網膜症が新聞で騒がれる6年前のことだった。クロロキンは欧米で開発された薬剤で、日本の製薬会社はそれを輸入販売していたにすぎない。欧米からクロロキンの効果だけでなく副作用も警告されていたはずで、クロロキンの副作用を製薬会社も厚生省も認識していたことが、患者にとっての第2の悲劇といえる。

 厚生省がクロロキン網膜症の情報を国民、医療機関に流さず、製造中止の措置をとった後にクロロキンの回収をしなかったことが被害を大きくした。この批判に対し、厚生省は「医薬品の安全確保の責任は製薬会社にある」と述べただけであった。問題となったT課長は何ら責任を問われず薬務局審議官に出世し、東京医薬品工業協会に天下り、その後、漢方メーカーの相談役を務めた。

 クロロキン薬害が話題になり始めたころ、科研薬化工は新たなクロロキン製剤「CQC錠」を販売。しかもクロロキンの副作用を逆手にとり、他社のクロロキンでは網膜症を発症するが、当社のCQC錠は網膜症の副作用はないことを強調したのだった。毒性が弱いため長期投与に適すると宣伝したのが、その根拠は何ひとつなかった。

 クロロキン網膜症は、被害者の1人が厚生大臣に直訴し、厚生大臣が直訴に応じなかったことから新聞に取り上げられ、世論の盛り上がりによって、最終的には昭和49年にクロロキンは販売中止になった。クロロキン訴訟の弁護団長、後藤考典は5つの大罪としてクロロキン薬害の責任を追及した。

1.腎臓病に効果のない薬剤を、神戸大教授などの専門医が「製薬企業の提灯論文」を書き、それを根拠に治療薬として販売した責任

2.日本で大量販売が始まる以前から、外国では副作用が判明していたのに、日本だけ腎臓病への適応を認め販売した責任

3.クロロキン網膜症の副作用を知りながら無警告で販売した責任

4.多数の被害発生を無視して10数年も販売した責任

5.積極的に防止策を取らなかった厚生省の責任

 クロロキン網膜症の被害者は約1000人から2000人とされている。昭和57年2月1日、東京地裁は製薬6社の過失責任を認め、患者266人に288600万円の賠償支払いを命じる判決を下した。患者側はこの判決を不服として控訴し、昭和63年6月6日に約70億円で和解が成立している。

 平成7年6月23日、最高裁は国の責任を否定した。「原告側は、国が副作用を知りながら承認を取り消さなかったと主張するが、クロロキン製剤を服用したのは昭和34年から50年で、薬の有用性が否定された昭和51年より前だったことから、当時の医学的、薬学的知識の下では、クロロキン製剤の製造承認を取り消さなかったとしても、著しく不合理とは言えない」と述べて国の責任を否定したのである。

 



ゲバ棒を捨て銃や爆弾で武装 昭和46年 (1971年)

 東大、日大闘争を頂点とした大学闘争は、学生たちの敗北によって終わりを告げようとしていた。中核派、革マル派などが凄惨(せいさん)な内ゲバを繰り広げる中、一部の過激派学生は武装闘争による革命を目指した。

 それまでの学生運動は、大衆を味方にすることを最大の武器としていたが、過激派学生は革命のためには国家権力と闘い、大衆を目覚めさせる方針に変わっていた。そのため大衆を敵にすることも辞さなかった。そのような過激派学生たちの中で、共産主義同盟の武闘路線派から生まれたのが共産主義者同盟赤軍派(赤軍派)である。赤軍派は共産主義を信じ、世界同時革命を目標にしていた。

 昭和44年9月4日、日比谷野外音楽堂で開かれた全国全共闘結成大会で、赤軍派400人が公然と姿を現した。赤軍派は少ない人数で革命を成功させようとしたため、その闘争は手段を選ばず、革命の手段としてそれまでのゲバ棒を捨て、銃や爆弾を得ようとしていた。

 赤軍派は、大阪・阿倍野派出所など3カ所の交番を火炎ビンで攻撃し(大阪戦争)、東京・本郷では同時多発ゲリラを展開した(東京戦争)。さらに、10月の国際反戦デーでは、鉄パイプ爆弾でパトカーを襲撃した。血気盛んな若者は、ゲバ棒を振り回す従来の闘争よりも、本格的なテロ組織である赤軍派に魅了された。そのため赤軍派の逮捕者の中には多くの高校生が含まれていた。

 しかし11月5日、赤軍派は首相官邸襲撃の予行訓練のため、山梨県の大菩薩峠に集結したところを、内偵していた警察に踏み込まれ53人が逮捕された(大菩薩峠事件)。翌年には、議長・塩見孝也が逮捕され、組織は一気に弱体化した。追いつめられた赤軍派は革命拠点を海外に求め、昭和45年3月に「よど号ハイジャック事件」を起こすことになる。

 昭和45年1月16日、赤軍派は東京で約800人、2月7日には大阪で約1500人を集め、蜂起集会を開いた。そして森恒夫(27、大阪市立大)を中心にM作戦を展開することになる。M作戦とはマフィアの頭文字から取ったもので、革命資金を得るための強盗であった。2月から7月にかけ、郵便局、銀行など8カ所を襲い資金奪取を行った。6月17日、沖縄返還調印阻止闘争で837人が逮捕されたが、赤軍派は明治公園オリンピック道路で全共闘デモを展開し、鉄パイプ爆弾を機動隊に投げつけ2人の機動隊員に重症を負わせた。これらは理論的指導者を欠いた赤軍派の暴走であった。

 一方、日本共産党は中国共産党との対立を深め、党内の親中国派を除名した。この親中国派・毛沢東主義と結びついた武装集団が京浜安保共闘である。昭和44年、京浜安保共闘は赤軍派とほぼ同時期に誕生し、理論的指導者である川島豪(28)は「革命は銃から生まれる」との過激な路線を宣言した。

 京浜安保共闘は、京浜工業地帯の労働者や学生を中心とした組織で、3カ所の米軍基地や米国大使館を爆破するなど過激な闘争を展開した。しかしこの闘争で川島豪をはじめ25人が逮捕され、残された幹部は永田洋子(24、共立薬科大卒)、坂口弘(23、東京水産大中退)、吉野雅邦(21、横浜国大中退)、寺岡恒一(21、横浜国大)となった。

 昭和45年9月、永田洋子が委員長になると、京浜安保共闘は彼女の独裁体制となった。政治ゲリラから軍事ゲリラへと戦術を転換し、攻撃目標を交番襲撃に移していった。交番襲撃は武装蜂起のために銃を奪うことが目的だった。1218日、東京都練馬区の上赤塚交番を襲撃するが、仲間の柴野春彦(24、横浜国大)が警官に射殺された。京浜安保共闘は、柴野春彦の復讐として、昭和46年4月から12月にかけて10カ所以上の交番を爆破した。そして1218日、警視庁警務部長の土田国保宅に届けられた小包が爆発、夫人の民子さん(47)が死亡、四男も重傷を負った。1224日には、新宿伊勢丹デパート前の四谷署追分交番でクリスマスツリーに見せかけた爆弾が爆破、警官2人が重傷を負い通行人10人が負傷した。

 警察は相次ぐ爆弾事件で、威信を賭けて東京のアパートをしらみつぶしに捜査するローラー作戦を実施。都市部のアジトから京浜安保共闘を追い出す作戦に出た。追い詰められた過激派は山岳アジトに移動することになる。

 昭和46年2月17日、京浜安保共闘は栃木県真岡市の塚田銃砲店に侵入。出刃包丁で家人を脅迫して猟銃10丁、空気銃1丁、散弾実砲2800発を奪い、群馬県館林市のアジトに運んだ。4月には、山梨県北都留郡丹波山村に17人が集結し、猟銃による実践訓練を行ったが、この集結で向山茂徳(21、諏訪清陵高校卒)、早岐やす子(21、日大看護学院中退)が逃走。警察への通報を恐れた京浜安保共闘は、逃走した2人をアジトに誘い殺害した。

 京浜安保共闘は、アジトを群馬県北群馬郡伊香保町の榛名山に移動、このときのメンバーは20人であったが、森恒夫が率いる赤軍派9人が合流して、計29人からなる「連合赤軍」が誕生した。赤軍派は世界同時革命を目指して資金力があり、京浜安保共闘は反米革命論で武器の調達をしていた。この2つの集団は革命理論上の違いはあったが、武力革命を目指す点においては一致しており、ここに連合赤軍が創設された。

 翌47年、山中アジトでは風呂に入らず、彼らは異臭を漂わせたまま街に出た。髪はボサボサで顔はすすけ、服は泥とほこりまみれ、ひどい悪臭を放っていた。このような悪臭と風ぼうを不審に思った商店主が警察へ通報、また2人の男女を乗せたタクシー運転手が群馬県警に通報した。このときの2人は森恒夫と永田洋子だった。

 2月16日、山中のぬかるみにはまっているライトバンを松井田署員が発見。車内にいた奥沢修一(22、慶応大)と杉崎ミサ子(24、横浜国大)を逮捕。2月17日には、機動隊350人と警察犬13頭を動員して妙義山の山狩りを開始。午前9時35分、籠沢上流の洞くつ付近に隠れていた森恒夫と永田洋子が警察犬に追い立てられ逮捕された。このとき、森と永田はナイフを持ち機動隊にケガを負わせている。

 森恒夫と永田洋子の逮捕をラジオで知った9人は軽井沢の山中に逃げ込んだ。植垣康博(23、弘前大)、伊藤和子(23、日大看護学院)、青砥幹夫(22、弘前大)、寺林真喜江(22、市邨学園短期大卒)の4人は山を降り軽井沢駅に姿を現した。、駅の売店のおばさんが不審に思い、駅員にそのことを伝え、駅員は電車を遅らせて警察に通報して4人が逮捕された。残された5人は軽井沢町レイクニュータウンの無人の「さつき山荘」に逃げ込んだ。

 



あさま山荘事件 昭和47年(1972年)

 昭和47年2月19日、群馬、長野の両県警は1000人を超す警察官を動員して連合赤軍の捜索を行っていた。5人の警察官が北佐久郡軽井沢町のレイクタウン近くで数人の足跡を発見。この周辺の別荘は冬の間は無人のはずである。警察官が足跡を追いながら別荘に近づき、町田勝利隊長(28)が空き別荘の雨戸を開けた瞬間、中から拳銃を乱射しながら犯人が飛び出してきた。警察官は2人の負傷者を出しながらピストルで応戦、連合赤軍は約500メートル離れた河合楽器の保養所「あさま山荘」に押し入り、管理人の妻・牟田泰子さん(31)を人質にとって立てこもった。夫の郁男さん(35)は街に買い出しに行っていた。

 立てこもったのは坂口弘(25、東京水産大中退)、坂東国男(25、京都大卒)、吉野雅邦(23、横浜国大中退)、加藤倫教(19、東海高校卒)、その弟のM(16、東山工業高校)の5人であった。犯人が「あさま山荘」を選んだのは、山荘の前に車が止めてあったので、人質になる者がいて、籠城のための食料が豊富にあると考えたからである。

 午後5時20分、機動隊200人が浅間山荘前に到着した。3階建てのあさま山荘の出入り口は、道路に面した3階の玄関だけで、山の急傾斜に建てられた山荘の裏側は絶壁になっていた。山荘からの見通しはよく、警察の動きが手にとるように分かった。山荘には食料が豊富にあり、まさに難攻不落の要塞になっていた。連合赤軍は、1年前に栃木県の猟銃店から奪ったライフル1丁、拳銃1丁、2連銃3丁、5連銃1丁、爆弾数個、実弾約700発を持っていた。

 警察庁長官・後藤田正晴はこの事件解決について6項目の指示を出した。<1>人質の牟田泰子さんを必ず救出すること<2>犯人を射殺すると殉教者になるので犯人は生け捕りにすること<3>身代わり人質は殺害の恐れがあるので要求には応じないこと<4>銃器の使用は警察庁の許可事項とすること<5>報道機関と良好な関係を保つこと<6>警察官の犠牲者を出さないよう慎重に行動することであった。

 あさま山荘への突入は物理的に困難と判断、人質の人命尊重を第1に持久戦に入った。このあさま山荘事件の指揮を取ったのは、長野県警本部長・野中庸であった。警備局参事官・丸山昂、警備局付警務局監察官・佐々淳行、公安第1課警視・亀井静香も現地入りした。軽井沢署に「連合赤軍軽井沢事件警備本部」が設置され、防弾チョッキ、鉄かぶとで武装した長野県警、群馬県警、機動隊750人が山荘を包囲した。

 あさま山荘は標高1169.2メートルに位置し、零下15℃で食事はすぐに凍ってしまった。警察にとっては流血とともに寒さとの闘いであった。このとき、緊急用に納品された日清食品の「カップ・ヌードル」が活躍することになる。

 犯人は屋内から銃を発砲してきたが、中の様子は分からなかった。2月20日(2日目)、警察と機動隊は何度もマイクで連合赤軍に呼びかけた。「君たちは完全に包囲されている。これ以上罪を重ねることはやめなさい」「人質を取るのは卑劣な行為である。管理人の奥さんを早く返しなさい。君たちの仲間はすでに逮捕されている。君たちも抵抗をやめて出てきなさい」、このように何度も呼びかけたが、連合赤軍は発砲で応じるだけだった。連合赤軍はバリケードを強化し、壁には警察部隊を狙撃するための銃眼が作られた。警視庁は狙撃班員を送り込み、装甲車3台が山荘を取り囲んだが、人質がいるのでうかつに手を出せなかった。

 2月21日(3日目)、警備心理学研究会の3人が現場に到着。心理学的には連合赤軍側が有利で、警察側が逆に追い詰められていると分析。警察は疲労を避けるため交代で休息し、明かりや音で犯人たちを眠らせない作戦をとった。夕方、吉野雅邦の両親と坂口弘の母親(58)がヘリで現場に駆けつけた。吹雪の中でマイクを握りしめた2人の母親は切々と呼びかけたが何の反応もなかった。

 2月22日(4日目)、吉野雅邦の両親と坂口弘の母親を乗せた特型警備車が山荘玄関前に接近し説得を再開した。「きのう、ニクソンが中国に行ったのよ。社会は変わったの。銃を捨てて出てきなさい」。事実、2月21日には、ニクソン米大統領が北京で毛沢東と会談し、米中間の国交正常化が実現していた。吉野の母親が「お母さんを撃てますか」と子供を叱るような涙声で叫んだ。ところが吉野はためらわずに銃を発砲、弾は母親を乗せた特型警備車に命中した。

 午前1140分頃、新潟でスナックを経営している田中保彦さん(29)が北側斜面をよじ登り南側玄関に近づた。田中さんは事件のテレビ放送を見ていて「今の学生はけしからん。俺が説得してくる」と新潟から現場へとやって来たのだった。警察官もマスコミもあっけにとられていると、玄関のドアから内部に向かって呼びかけた。「赤軍さん、赤軍さん、私も左翼です。人質の奥さんは元気ですか。あなた方の気持ちは分かります。中へ入れてください。私も警察が憎い。私は妻子と離縁してきた。俺が身代わりになる」、そう言いながら警察隊に向かって手を振った瞬間、田中さんは拳銃で打たれその場に倒れた。

 田中保彦さんはフラフラと立ち上がり道路への階段をはい上ってきた。警備車が前進して機動隊が素早く救助した。「ああ痛え。おれか?おれは大丈夫だ」とつぶやいたが、意識はもうろうとしていた。田中さんは救急車で軽井沢病院へ搬送されたが、銃弾が脳内にとどまっていることが分かった。佐久病院に移送され、弾の摘出手術を受けたが、3月1日に死亡した。この事件で初めての犠牲者となった。

 事態は進展しないまま時間だけが過ぎていき、報道は過熱するばかりであった。あさま山荘の攻防戦を見ようと、野次馬の数が次第に膨れ上がり、別荘付近の違法駐車は3000台、野次馬の数は20003000人となり、屋台まで立ち並んだ。テレビは連日実況中継を続け、ドラマにはない迫力を伝えた。その一方、地元農民は土のうを作り、主婦は食事を用意し、別荘所有者は放水用の水道水を提供するなど警察に協力した。午後2時39分、装甲車の後ろにいた警官に犯人が発砲し、巡査部長(30)と巡査(22)が負傷した。

 捜査本部は警備車に拡声器を取り付け、催涙ガス弾の発射音、機動隊指揮官の号令、警備車のディーゼルエンジン音などの録音テープを流し、屋根に投石するなど犯人たちを眠らせないようにした。さらに発砲を挑発し、弾薬を消耗させようとした。午後8時、連合赤軍がニクソン大統領の中国訪問をテレビで見ていたとき、警察はあさま山荘への送電をストップした。テレビが見れなくなったため、連合赤軍は携帯ラジオで警察の動きを探ることになった。

 2月23日(5日目)、坂東国男の母親(47)が呼びかけに協力したが効果はなかった。山荘では銃眼の数を増やし、バリケードも補強されていった。警察側は山荘南の道路に土塁を築いたが、連合赤軍は作業中の警察に発砲を繰り返した。警察側は発煙筒10発、催涙ガス弾21発を使用して山荘に近づき、人質の安否確認のため強行偵察を行ったが、成果は得られなかった。

 2月24日(6日目)、泰子さんの夫の郁男さん、父親、弟による呼びかけが行われた。人質となった泰子さんはいたたまれず、連合赤軍に「夫を安心させたいので顔を出させてください」と哀願したが、坂口はこれを拒否。午後4時10分、警察は「君たちが抵抗をやめないので、われわれは武器を使用する」と呼びかけ、銃眼に向け高圧放水が開始された。放水した水は屋根や軒から流れ落ち、すぐに凍って氷柱になって垂れ下がった。やがて玄関のドアのガラスが破られ、そこを狙ってガス弾が撃ち込まれた。坂東と加藤が山荘の銃眼から放水車めがけて猟銃を発射した。

 2月25日(7日目)、警察は土のうを積み上げ、連合赤軍はバリケードを補強して猟銃を乱射した。軽井沢署では毎日、記者会見が開かれ、取材記者数は600人を超え、カメラマンも約600人になった。

 2月26日(8日目)、軽井沢町の「ますや旅館」の大広間で、長野県警本部とマスコミとの間で「Xデー取材報道協定締結」のための会議が開かれた。日刊紙、週刊誌、月刊誌、ラジオ、テレビ合計56社が集まった。一方、同日の夜、坂口、坂東、吉野の3人は、警察の攻撃があっても泰子さんを解放せず、中立を守らせることにした。泰子さんを呼んで、「もし警察が攻めてきても、顔を出したり、逃げたりしないでもらいたい。警察がきても、われわれが守る」と伝えた。

 泰子さんが「こんなことで、ここで死にたくない」と答えると、「われわれはここで死んでも本望だ」と言い切った。泰子さんが、「私を盾にして脱出しないでください。それから後で裁判になったときに、私を証人に呼ばないでください」と言うと、「分かった。われわれは言ったことは守る」と答えた。

 2月27日(9日目)、この日のラジオは警察の動きに関する放送はなくなり、坂口らは警察が何か仕掛けてくるのではないかと推察していた。マスコミは、「報道協定」により、警察の動きが分かるようなニュースを流さないようになっていた。この日も土のうを積み上げる作業が行われ、屋根裏の銃眼から合計10発の発砲を受けた。警察は犯人の逃走を警戒し、現場周辺に警察犬5頭を野放しにした。

 ついにそのときが来た。連合赤軍が立てこもってから10日目を迎えた2月28日がXデーとなった。警備部隊1635人、特型警備車両9両、高圧放水車4両、10トン・クレーン車1両が集結した。「君たちは何の罪もない泰子さんを監禁している。監禁時間は200時間を超えた。もうこれ以上待つことはできない。泰子さんを解放して銃を捨てて出てきなさい」。午前9時50分、警察からの最後通告がスピーカーから発せられた。

 「山荘の犯人に告げる。君たちに反省の機会を与えようとしたが、君たちは何ら反省を示さない。最後の決断の機を失って一生後悔することのないよう考えなさい。今こそ君らの将来を決するときだ。間もなく泰子さんを救出するため突入する」。

 最後通告の後、バルコニーや風呂場に向かって一斉にガス弾が撃ち込まれた。同時に銃眼めがけて高圧放水が開始された。連合赤軍は特型警備車、放水車に向かって狂ったように銃を撃ち始めた。

 午前1025分、クレーン車が接近、アームにつり下げられた2トンの大鉄球が山荘の壁にぶつけられた。大鉄球の2撃、3撃が壁を壊していった。そのすき間を狙ってガス弾が撃ち込まれ、放水が続いた。連合赤軍は猟銃、拳銃、手製爆弾などで抵抗した。

 午前1117分、山野決死隊が3階南西側管理人室から山荘内に突入、1124分、長田幹夫中隊が1階に突入して占拠した。犯人らは狂ったように銃を乱射し、午前1127分、吉野が放水車を指揮していた警視庁特科車両隊の高見繁光警部(42)を散弾銃で狙撃し、弾丸は前額部に命中、高見警部は病院に運ばれたが殉職した。

 警視庁第2機動隊の大津高幸巡査(26)は土のうを飛び越え山荘内に突入しようとしたが、山荘正面の銃眼から散弾銃で撃たれ、土塁の反対側に転落した。同僚2人が大盾をかざして大津隊員を助け出したが、大津隊員は左眼に無数の鉛の粒弾が当たり、左眼を失明する重傷を負った。午前1154分、坂東が警視庁第2機動隊長の内田尚孝警視(47)をライフル銃で狙撃し、内田警視は病院に運ばれたが殉職した。

 午後0時38分、警察庁から拳銃使用の許可が出た。警官2人を殺された機動隊員は興奮し、「弔い合戦」を希望した。しかし、「冷却期間」を置くため、機動隊は午後1時、攻撃を一時中断。午後2時50分、3階調理室を確保していた部隊に鉄パイプ爆弾が投げ込まれ、牧嘉之巡査部長(28)の右耳鼓膜が破れるなど警官5人が負傷した。

 犯人たちを3階のベッドルームまで追い詰めた機動隊は、狭い室内に突入するための4人の決死隊を編成した。決死隊は警視庁9機動隊から2人、長野県機動隊から2人が選出された。決死隊の4人は人質奪還だけではなく、殉職した隊員の名誉を背負っていた。

 午後3時30分、決死隊4人が突入した。高圧放水、ガス弾の一斉射撃により、「いちょうの間」の連合赤軍は耐え切れず、北側の窓ガラスを割って交代で外の空気を吸おうとした。警察はさらに、「いちょうの間」と隣の談話室(食堂)の壁を壊し始めた。「いちょうの間」は30センチ浸水し、連合赤軍はライフルや拳銃で抵抗したが壁の穴はさらに広がっていった。

 午後6時20分、決死隊は一斉に「いちょうの間」に飛び込み5人を逮捕。ベッドに横になっている人質の泰子さんを発見して救い出した。泰子さんはふとんにうずくまり、ぐったりとしていた。連合赤軍の籠城から約219時間が経過していた。

 報道陣は協定を守り、山側のロープにカメラを並べ待機していた。午後6時21分、犯人たちは身体から湯気を発しながら、舌をかみ切らぬよう「さるぐつわ」をされて、報道陣の前に姿を現した。「人殺し」「お前たち、それでも人間か」「殴れ、殴れ」、記者たちからも罵声(ばせい)が飛び交い、本気で殴りかかろうとする者もいた。

 この「あさま山荘銃撃戦」で、警察側は3人が死亡(うち1人は民間人)、27人が重軽傷を負った。連合赤軍の5人はかすり傷を負った程度であった。警察はこの「あさま山荘銃撃戦」で、催涙ガス弾3万1296発、発煙筒326発、ゴム弾96発、現示球83発、放水量158500リットルを使用したが、拳銃はわずか16発で、それは威嚇射撃であった。一方、連合赤軍側が発砲した弾は104発だった。

 「あさま山荘」事件に費やした予算は国費26756000円、県費69837000円の総額96593000円となった。現場には現金751615円(M作戦で強奪したお金など)が残されていた。同日、坂東の父親の基信(51)は大津市の自宅で、「死んでおわび申し上げます」と遺書を残し、首つり自殺した。

 この日、各テレビ局は番組を変更して現場中継を流し続けた。NHKは午前9時40分から午後8時20分まで連続放映し、視聴率89.7%を記録した。民放もCMを削減して、現場の生々しい光景を放映し、累積到達視聴率は98.2%に達した。国民のほとんどがテレビの前でくぎづけになっていたのである。まさに全国を震撼(しんかん)させた事件だった。

 逮捕された5人のうち、坂口弘幹部は死刑が確定。超法規的措置で出国した坂東国男を除く3人は服役、刑期を終えるなどしている。

 



連合赤軍リンチ殺害事件 昭和47年(1972年)

 昭和47年2月28日、全国民がテレビの前でかたずをのんで見守っていた「あさま山荘事件」が10日ぶりに解決した。管理人の牟田泰子さん(31)が人質になり、警官2人、民間人1人が犠牲になったこの事件は、機動隊の強行突破によって終わりを告げた。ところが、「あさま山荘事件」の解決は、連合赤軍による陰惨なリンチ事件発覚のエピローグにすぎなかった。

 連合赤軍による総括殺人が明るみに出ると、人々は大きな戦慄と衝撃を覚えた。静粛殺人が発覚するまでは、彼らの死をかけた革命路線、反権力主義に心情的に賛同する者もいたが、彼らの狂気じみたリンチは国民の支持を消失させ、大学に吹き荒れていた学生運動の息の根を止めた。連合赤軍29人のうちの約半数の14人が、総括(過去の自分への清算)によって残虐なリンチを受け殺害されていたのである。

 事件発覚のきっかけは、アジトに残されていた鋭利に切り取られた衣服だった。捜査官はこれを遺体から衣服を脱がすときの切り方と直感。逮捕された赤軍派の奥沢修一に衣服を突きつけると、犯行の一部を供述した。

 昭和47年3月7日、群馬県警は下仁田の山中に埋められていた若い男性の遺体を発見、被害者は赤軍派幹部元京大生・山田孝(27)であった。山田は赤軍派幹部であったが、穏健派で武装方針に批判的だった。そのため裏切り者としてリンチを受け、全裸のまま手足を縛られ、零下15℃の野外の柱に縛りつけられて凍死した。遺体の写真を連合赤軍最高幹部・森恒夫と永田洋子に見せると異様な反応を示した。

 山中のアジトの中で、永田と森の気に入らない者は、規律違反、日和見主義、反共産主義的などの理由で次々にリンチにかけられた。「総括」の名の下で、殴られ、蹴られ、縛られ、極寒の中で凍死していった。2人の命令は絶対で、命令に逆らう者、異を唱える者、動揺を見せる者はリンチを受け、リンチに参加しなければ自分が裏切り者とされて次ぎに処刑された。

 総括を決める人民裁判は7人の中央執行委員によって行われた。中央執行委員の委員長は森恒夫、副委員長・永田洋子、書記長・坂口弘、委員は坂東国男、吉野雅邦、寺岡恒一、山田孝であったが、実際には委員長の森と副委員長の永田が判決を下し、他の5人がそれに同調するだけだった。榛名山のアジトでは、1231日から半月の間に8人が殺害され、遺体は榛名山の山林に埋められた。

 尾崎充男(22、東京水産大)、進藤隆三郎(22、秋田高卒)は反革命的という理由で殺された。小嶋和子(22、市邨学園)は永田に「寝ていると、加藤能敬(22、和光大)が変なことする」と訴えたが、永田に「あんたにも責任がある」と言われ、暴行を受け小屋の外で凍死。加藤は、小嶋と情を通じたとして殺害された。この加藤の殺害には、加藤の未成年の2人の弟によって行われた。遠山美枝子(25、明治大)と行方正時(22、岡山大)は異性関係を理由に、山崎順(21、早大)は逃亡の恐れがあるとして殺害された。1月15日、中央執行委員であった寺岡恒一は、「この調子ではいつ自分がやられるか分からない」と坂口弘にしゃべったことから総括となった。

 1月中旬、岩田半冶(21、東京水産大)が榛名山ベースから逃亡。もし岩田が警察に逮捕されればアジトが分かってしまうことから、群馬県沼田市上発知町にアジトを移動することになった。1月30日、山本順一(28、会社員)は妻の保子への態度がブルジョア的と批判を受け殺害され、大槻節子(23、横浜国大)、金子みちよ(24、横浜国大)も殺害された。吉野雅邦の妻である金子は妊娠8カ月だったが、物質欲が強いことを理由に手足を縛られ凍死した。山本保子(山本順一の妻、22)は生後3カ月の乳児を残して逃亡、中村愛子(22、日大看護学院)と前沢虎義(24、工員)も逃走した。処刑を下す永田には、女性同志への異常な嫉妬心が下地にあった。

 2月上旬、碓氷郡松井田町の山林に妙義山ベースを設置。16日、妙義湖畔でレンタカーが立ち往生して奥沢修一と杉崎ミサ子が逮捕された。幹部たちは武器弾薬や食料、最低生活必需品を背負って山越えを決行。その翌日、永田と森は山狩りの警察隊に逮捕された。リーダーの逮捕をラジオで知った青砥幹夫、植垣康博、寺林真喜江、伊藤和子の4人は、軽井沢駅で逮捕された。最後に残った坂口弘、坂東国男、吉野雅邦、加藤倫教、その弟のMの5人があさま山荘に乱入し銃撃戦となった。

 昭和48年1月1日、森恒夫は司法の裁きを受けることなく、「唯銃主義は誤りだった」と遺書を残し、東京拘置所で自殺。自らの理念を語らず、自らの責任を全うせず、自らの命を絶った。

 連合赤軍の戦士たちは、自分たちの理想とする共産主義、世界同時革命、反米主義を実現しようとしたが、その理想を支える理論は妄想に近かった。本来、総括とは闘争の最終的結論として用いられていたが、連合赤軍では処刑を意味していた。総括は革命の名前を借りた森、永田の独裁的ヒステリーによる処刑で、連合赤軍は山岳アジトでの3カ月間、ささいなことで殺し合う凄惨(いんさん)な集団となっていた。

 恋愛が反革命とされ、女性が化粧をしただけで拷問を受け、処罰に反対する者も凍死あるいは撲殺された。同志の半数が殺戮され、身元が分からないように髪を切られ全裸で埋められた。これは主義や思想によるものではない。同志への愛のかけらもなく、狂った指導者による処刑であった。彼らが尊敬する毛沢東の文化大革命における虐殺、毛沢東主義の継承者たるポル・ポトの虐殺を思い起こさせた。

 



日本医師会の保険医総辞退 昭和46年(1971年)

 日本の医療制度の特徴は、全国民が何らかの保険に加入していることで、患者は保険によって治療を受け、医療機関は保険によって治療費を得ることができた。昭和36年に国民皆保険制度が発足して以来、日本人ならば誰でも、いつでも、どこでも保険証1枚で適切な治療を受けられるようになった。

 国民皆保険が誕生して10年目の昭和46年、この日本の皆保険制度にさまざまな矛盾が生じてきた。保険証を持っていれば、安い費用で診てもらえるので、人々はちょっとした風邪や二日酔いでも受診するようになった。そのため患者は増大し、診療所や病院は混み合い、治療が必要な重症の患者が待たされることになった。また政府管掌健保は3000億円の赤字なのに、組合管掌健保は2億円の大黒字で保養所を次々に建てていった。開業医の収益は増え、製薬会社も高い利益を上げた。

 日本全体が医療財源を奪い合う状態になり、昭和40年頃から政府の扱う健康保険が、国鉄、米と並んで「3K赤字」と呼ばれるようになった。厚生省は国民医療費の膨張を抑えようと医療費の適正化、医薬品のおまけ販売の廃止、保険監査の強化を打ちだした。

 日本医師会は、国の医療政策にある程度の理解を示したが、下部会員の反発が強かった。そのため日本医師会は、表面では国の統制医療に反発し、昭和46年7月1日から保険医の総辞退に突入し、28日間にわたる医師の反乱が始まった。日本医師会は健保連のことを「帝国主義」と呼び、健保連は医師会を「医療ファッショ」とののしり合い、事態は泥沼化していった。

 日本医師会が保険医を辞退したため、患者は保険証を使用できず、医師の診察を受けるには現金を用意しなければならなかった。国民は不安の中で右往左往するだけであった。

 この日本医師会の反乱は、日本の保険診療そのものを否定する行動と誤解されやすいが、日本医師会は保険診療を否定したのではなく、日本の医療を建て直すために保険診療を人質に取ったと言う方がふさわしい。

 国家による統制医療に反発し、日本医師会は保険医総辞退という切り札を使ったが、そこには診療報酬の引き上げという隠れた目的があった。日本医師会に加入している病院や開業医の約9割、6万5000人の医師が日本医師会の保険医総辞退の決定に従った。しかし従ったものの、いつも診ている患者が診察を求めてきたら、冷たく追い返すわけにはいかない。それでいて保険診療が日本医師会にばれたら、日本医師会を裏切ることになる。そのためタダで治療を行った赤ひげ医師が多かった。また保険医を辞退しなかった公立病院や開業医に患者が殺到した。

 日本医師会は保険診療を辞退したが、実際には日本医師会が独自に算定した適正料金表を用いていて、現金で医療費を支払っても、領収書を保険組合に請求すれば払った医療費は戻る仕組みになっていた。しかしそれを知る者は少なく、そのため多くの病院や開業医では患者が減り、医療費は通常の7割に落ち込んだ。

 保険医総辞退は日本の医療を大混乱に陥れたが、武見太郎がなぜ保険医総辞退を行ったのか、その真意は謎のままである。厚生省も健保連もどうしてこうなったのか分からないでいた。保険医総辞退の前年の昭和45年の診療報酬は平均10%引き上げられていた。しかし入院料は30%の値上げなのに、薬価基準は大幅に引き下げられたため、開業医の不満が大きかった。武見太郎は保険医総辞退との強硬手段を用いたが、これは医師会下部会員の不満を解消させることが狙いだった。

 武見太郎はある危機感を抱いていた。それは武見太郎が独自に提案した保険制度の抜本的改正案が日本医師会の臨時代議員会で否決されたことであった。武見太郎が厚生省に要求しようとした保険制度の抜本改正案は、政府管掌、組合、国保の3保険制度を統合して、地域、産業、老齢の3保険にする案であったが、臨時代議員会で否決されたのである。武見案が臨時代議員会で否決されたのは初めてのことであった。

 いずれにしても厚生省の一方的な診療報酬適正化に対し、日本医師会は圧力団体として政治力を発揮した。保険医総辞退のきっかけは、昭和46年2月18日に行われた中央社会保険医療協議会(中医協)での公益委員から示された審議用メモであった。中医協は医療の値段(診療報酬)を協議する場で、診療側、支払い側、公益委員によって構成されている。この中医協で公益委員提出資料として事務局が作った審議用メモがきっかけとなった。審議用メモは診療報酬を議論するたたき台として事務局が用意したもので、各方面の意見を聞いて作られたものである。保険審議官の江間時彦が作ったことから俗に「江間メモ」と呼ばれる。

 この江間メモには、医師の技術の適正評価、薬剤などの適正使用、医療行為の包括化、医療機関の機能、施設設備等に対応した診療報酬体系の創設など11項目が書かれていた。この江間メモは、各自がそれぞれ持ち帰って今後の討議のたたき台にするための単なる資料にすぎなかった。医師会側の代表は大いに乗り気で、次回の協議会の日程を繰り上げたいと要望するほどであった。ところが医師会側の態度は一夜にして豹変する。

 日本医師会長・武見太郎はこの江間メモを事前に知っていて、「メモが出たら一切反対して持ち帰るな」と医師会幹部に言っていたのだった。武見太郎は、厚生省から審議用メモを持ち帰った常任理事の小池昇を怒鳴りつけた。武見太郎は厚生省が一方的に反社会的な診療報酬を強行しようとしていると激怒したのだった。

 武見太郎は江間メモの中に、「同じ治療内容でも病院と診療所の診療料金に差を設けること、高度医療の診療報酬を上げること、肺炎なら何点というように包括医療を目指すこと」、つまり病院に優位で、開業医に不利な診療報酬体系を読み取ったのである。厚生省の病院優先政策を直感したのだった。そして翌日、中医協から委員の引き揚げを決めた。江間メモは単なるたたき台にすぎなかった。武見太郎は江間メモの裏を読み取ったのではなく、メモを利用して難癖をつけたといった方が正しいと思われる。

 武見太郎は政治家や厚生省の役人がひざまずくほどの権勢を誇っていた。日本医師会は医療費値上げを求める下部会員の不満を解消させるため、厚生省とのけんかのきっかけを「江間メモ」に求めたのである。武見会長は、「総辞退をかけても粉砕しなければならん」と激怒し、日本医師会幹部に厚生省との対決姿勢を強調した。彼は厚生省との対決のきっかけに、この審議用メモを利用したのである。

 武見太郎は、「厚生省は一方的に診療報酬の適正化を強行し、それは生命と学術を無視した不見識な案で、この案は診療報酬体系を行政の知恵からゲスの知恵に置き換えるものだ」と述べ、厚生官僚がしばしば繰り返す悪しき常套手段と決めつけた。武見太郎は厚生省の諮問機関から日本医師会の委員をすべて引き揚げさせ、厚生省との対立姿勢を深めていった。

 3月4日、武見太郎は全国の都道府県医師会長あてに、「厚生行政に対する抵抗体制の確立」との指令を出した。まさに武見太郎のツルの一声で、5月3日には都道府県医師会が保険医登録抹消請求書を各自治体に提出することになった。そして日本医師会は、武見太郎会長の下で7月1日からの保険医総辞退を決定した。

 東京都医師会は保険医9875人の保険医辞退届を出した。東京都医師会に加入している開業医のほぼ100%が参加し、参加者9875人のうち9200人が開業医で、残りが病院勤務医だった。日本全体では6万5000人を超える医師が保険医総辞退に同調した。マスコミは日本医師会を攻撃したが、日本医師会会員の団結力はすさまじかった。彼らの団結を支えたのは自由主義経済における適切な診療報酬体系の確立だった。

 この保険医総辞退に厚生省は対策を打てずにいた。それは日本医師会が保険医総辞退を行った真意が分からなかったからである。厚生省は医師会の切り崩しに奔走するが不調に終わった。厚生省は保険医総辞退に突入してもせいぜい2万人程度と予想していたが、47都道府県の医師会は一致結束して保険医総辞退に参加し、総辞退は約1カ月続くことになる。厚生省の狼狽ぶりに、日本医師会は「日本に厚生省がなくても国民の医療を完全にやっていける」と発言した。

 この事態を解決するため、武見会長と斎藤昇厚相との会談が行われた。いずれの会談も公開討論の形式で、すべてがテレビで放映された。斎藤厚相は事態を収拾するため、日本医師会よりの「健保制度の抜本的改正試案」を示し総辞退の中止を求めた。4回にわたる武見会長と斎藤厚相との会談で4点の合意事項と8項目の抜本的改正が確認され、武見会長と斎藤厚相、佐藤栄作首相との三者会談で28日間に及んだ総辞退体制は解除された。

 日本列島を揺るがした保険医総辞退は収束したが、「けんか太郎」の異名をもつ武見太郎による日本医師会の完全な勝利であった。隠れた実話として、斎藤厚相は武見太郎の患者で、武見太郎の意見に強く反発できない事情があった。新聞は、斉藤厚相は武見講座をおとなしく聴講する学生のようであったと表現した。

 ところでこの保険医総辞退は医師全体の総意ではなかった。武見太郎は開業医の団体である日本医師会の会長で、病院の代表ではなかった。日本病院協会の神崎三益会長、全国公私立病院連盟の近藤六郎会長、日本医学協会の吉田富三会長は保険医総辞退に批判的であった。日本医師会内部でも異論があり、この事件をきっかけに武見太郎で一枚岩だった日本医師会に亀裂が生じることになった。この28日間にわたる日本医師会の反乱は国民に大きな不安を与え、日本医師会の団結力を誇示したものの、日本医師会への不信の火種を作ってしまった。武見会長の独善的なイメージが国民の反発を買うこととなった。

 保険医総辞退を武器に武見太郎は言いたい放題であった。「なぜ保険医総辞退をやらなければいけないのか分からない国民が多くいます」という記者の質問に、「国民が分からなくても結構。私は国民の家庭教師ではない」と答えた。この国民を見下した独善的態度が国民の反発を買い、マスコミの格好の攻撃目標となった。

 日本の医療を論じるだけの力量がないマスコミは、保険医総辞退について庶民泣かせの論調で応じた。例えば茨城県下で老婆が自殺、この自殺は家族が否定したにもかかわらず、マスコミは医療費を苦に自殺と見出しをつけた。

 日本医師会は保険医総辞退を武器に、あるいは国民の生命を人質に完全な勝利を得たが、しかし医療を診療報酬で論じる悪い癖を作ってしまった。日本医師会は、開業医はもうからないと宣伝したが、高額所得者にはずらりと開業医の名前が並んでおり、説得力に欠けていた。日本医師会は大きな理念を掲げたが、国民の多くは日本医師会の利益誘導を感じており、日本医師会は次第に国民の支持を失ってゆくことになる。そして診療報酬が高く設定されている間はよかったが、診療報酬の呪縛(じゅばく)のなかで、プロとしての医療への姿勢が失われ、国家統制医療に縛られることになった。



 

男性用カツラ 昭和47年(1972年)

 昭和47年4月6日、「私も使っています」という男性用のカツラの広告が読売新聞に初めて掲載された。モデルとなったのは、当時、第一生命保険に勤務していた金沢秀行で、カツラをかぶる前後の写真が紙面に掲載された。カツラは隠しておきたいのが男性の心理であるが、金沢は快く写真広告を引き受け、新聞広告も予想外に好評だった。

 新聞に続いて週刊誌、テレビへと広告は広がっていった。テレビで放映されたのは、カツラをかぶったタレントの南たかしが、娘に「パパ、行ってらっしゃい」と送り出されるほのぼのとしたコマーシャルで、電話番号「9696(くろぐろ)」とともに世の中に自然に溶け込んだ。これはアートネイチャーの宣伝であったが、時期を同じくしてアデランスもテレビ広告を放映した。アートネイチャーはロッテ・オリオンズの倉持明選手をモデルに採用し、明るく活動的なイメージと、激しい運動に耐えることをアピールした。これらのテレビ広告により男性用カツラは市民権を得たといえる。男性カツラ業界は、アートネイチャーとアデランスが約8割を占め、創立はアートネイチャーがわずかに先であった。

 明治学院大学を卒業した阿久津三朗は大正製薬に就職したが、不動産会社に転職し、そこでトップセールスマンとなった。昭和38年、成績優秀者として欧州旅行をプレゼントされた阿久津を驚かしたのは、薄毛の男性がヘアサロンに入り、フサフサの髪になって出てくる光景だった。欧州では男性カツラは当たり前だったのである。阿久津は大正製薬の営業部で、育毛剤を希望する男性の切実な悩みを思い出した。

 帰国した阿久津は、女性用カツラ・メーカー「ボア・シャポー」に就職。カツラの知識を得ると、昭和40年に日本初のオーダーメード男性用カツラの会社を創業した。会社の名前アートネイチャーは「自然な芸術」を意味していた。毎日、会社の窓から下を眺め、薄毛の男性を見つけると階段を駆け下り、家まで追いかけて営業を行った。当時、カツラは女性の専用だったので、営業のたびに「ばかにするな」と客に怒鳴られた。

 阿久津が勤めていたボア・シャポーには、根元信夫(27)、平川邦彦(31)、大北春男(26)も勤務していて、彼らも男性カツラの必要性を感じ、昭和43年にアデランスを設立した。アデランスとは、フランス語で「くっついている」を意味していた。これまでのように「カツラはかぶるのではなく、つける」という意味を込めた社名だった。以後、この2つの男性カツラ・メーカーは競うように新技術を開発し業績を伸ばしていった。

 当時のカツラは、すっぽりかぶる既製品だったが、次第に頭部の形状を型取りして製作するオーダーメードが主流となった。使用目的に応じ10秒で着脱できるタイプと、粘着剤を使用し薄膜を頭皮に張りつけて約1カ月間着脱なしで使えるタイプが考案された。個人によって毛の太さや長さなどが違うため、すべてオーダーメードとなった。

 カツラとは別に増毛法も登場した。増毛法とは自分の髪の1本1本の根元に1本から数十本の人工毛髪を接着する方法である。1回千本増毛するのに通常5万円、毛髪は毎月成長するので、人工毛を代えるため1カ月ごとに5万円が必要になった。増毛で間に合わない場合はカツラになるが、カツラの平均価格は50万円で、3年から5年でカツラを替える必要があり、修理などにも費用がかかる。カツラに使われる人工毛は、形状記憶素材のため。自然な毛並みで、自分でセットし、シャンプーも使うことができた。

 さらに自分の後頭部の健康な毛髪と皮膚を一緒に採取し、薄くなった部分に移植する方法が開発された。皮膚移植手術なので、高度な技術を必要し、費用は200万円から500万円であった。このほか人工的に作られた毛を頭皮に植毛する方法もある。さらに最新の技術では、頭部の無毛の部分に通気性に優れた極薄の特殊素材と毛髪素材を使用し、自然な発毛と思わせる方法も登場した。

 現在、日本の男性薄毛人口は成人男性の2割で1000万人を超えている。特に、20歳代からの薄毛が増えている。若者の多くは、洗髪、頭皮マッサージなどの育毛コースを利用するが、このコースが好評なのは、人気タレントを起用した明るいテレビCMによって、ファッション感覚の若者が増えたからである。育毛コースでは髪が生えるのでなく、髪の脱毛時期を遅らせるのが目的であった。また紫外線、ヘアカラー、パーマなどで傷んだ髪、細い髪質の改善を目的とした髪のエステもはやっている。髪が薄くなると育毛剤や養毛剤を買い求めるが、最終的にカツラになる人が多い。

 カツラはオーダーメードで、長期間使用するため値段が高いのが難点である。カツラ使用男性は100万人以上とされ、確かに街中では老人は増えたが、薄毛の男性を見ることは少なくなった。かつては大学でも頭髪の薄い学生がいたものだった。

 カツラは生活必需品なので不況とは関係なく、最近は若年の客が増加して業績を上げている。男性カツラは1000億円市場とされ、かつら業界は口コミで顧客が広がることは期待できず、広告宣伝が売り上げにつながっている。アートネイチャーがイメージキャラクターにさとう珠緒を起用したように、宣伝が最も重要な企業戦略となっている。

 アデランスは、やけど、けが、放射線治療などによる脱毛で、頭髪に障害がある200人の子供たちにオーダーメードのカツラをプレゼントする「愛のチャリティキャンペーン」を毎年行っている。昭和40年、全国で初めて男性用かつらの事業を始めた阿久津三郎は肝不全のため、平成7年7月19日、慶応大病院で死去、58歳だった。

 



千日デパート火災 昭和47年(1972年)

 沖縄返還を直前に控えた昭和47年5月13日の夜10時半頃、大阪市南区の繁華街にある難波新地四番町(現・中央区千日前)の雑居ビル・千日デパート(7階、地下1階)の3階婦人服売り場から出火した。火は瞬く間に燃え広がり、火と煙は最上階の7階まで達した。7階のキャバレー「プレイタウン」では、客、ホステス、従業員ら179人が煙に巻かれ逃げ場を失った。猛煙と猛毒ガスに襲われ、7階から地上へ飛び降り、あるいは酸欠で死亡した。この千日デパート火災は、死者118人、重軽傷37人の犠牲者を出し、火災としては戦後最大の惨事となった。

 出火の原因は、3階のスーパーで配電工事をしていた現場監督が投げ捨てたたばこの火であった。たばこの火が化繊の衣服に燃え移り、吹き抜けのらせん階段が煙突の役割を果たし、7階まで一気に燃え広がった。たばこの火を投げ捨てた現場監督はすぐに逮捕された。千日デパートの火災は多くの犠牲者を出したが、それは無銭飲食を防止するため4つの非常口がふさがれていたこと、電気が切れ真っ暗で、窓が小さく救助が困難だったこと、多くの客が酩酊状態であったこと、従業員の誘導が不備だったことなどが重なったからである。

 救助袋には鍵がかかっていて開けるのに手間取り、鍵を開けて救助袋を下ろしたものの使用法が分からなかった。救助袋の中に入って降りるのを、滑り台のように降りようとして墜落死した者も多かった。

 デパートの幹部ら6人が、防火管理を怠ったとして業務上過失致死傷容疑で書類送検となった。1審では責任の所在が不明確として無罪となったが、高裁、最高裁では種々の措置を講ずべき注意義務があったとして、執行猶予付きの禁固刑となった。

 火災の当日は、「母の日」の前日の土曜日だった。犠牲となったホステスのほとんどは、家計を助けるために働き、翌日の母の日を前に子供と外出の約束をしていた。死者118人のうち女性が70人と圧倒的に多かった。

 デパート1階の映画館では、皮肉にも「恐怖の地下室」という映画が上映されいた。現場の千日前は、明治初期までは刑場と墓場だったが、明治45年の大火で周辺一帯が焼失した後に、ミナミを代表する繁華街として生まれ変わっていた。

 翌481129日午後1時20分頃、熊本市の中心街にある熊本大洋デパートで火災が発生した。歳末商戦でにぎわう9階建ての店内には、店員500人、買い物客4000人がいた。多くは建物の外側の非常階段から脱出し、屋上から70人がロープで消防隊員に救助された。しかし逃げ遅れた買い物客48人、店員53人、工事関係者3人の計104人が死亡、重軽傷者123人を出した。

 出火場所は2階から3階に上がる階段の踊り場に積み上げられていたダンボールだったが、出火の原因は不明であった。従業員がすぐに消火しようとしたが、火は猛烈な勢いで燃え広がった。商品の寝具などに燃え広がり、3階から8階まで全焼した。昼間の火災であったが、火災と同時に停電となり、非常階段は商品の山でふさがれていた。同じ熊本にある鶴屋デパートには、救命袋が13本あったが、昭和28年に建設された大洋デパートには救命袋は1本もなかった。大洋デパートでは、報知機、救命具、スプリンクラーなどの防火設備に不備があった。だがこれは大洋デパートに限ったことではなく、当時は東京都内のデパートやスーパーでも、それらを完備している店はわずか18%だった。

 猛煙に巻かれ、酸欠状態となり、救助を待ちきれずに屋上から飛び降りる姿は地獄絵のようであった。大洋デパートの火災は鎮火までに8時間を要し、損害額は20億円に達した。デパートの火元責任者と防火管理者が業務上過失致死傷罪に問われ、最高裁まで争われたが、最終的には無罪となった。

 ビル火災が恐ろしいのは、火傷よりも一酸化炭素などの有毒ガスである。日本のビル火災として有名なのは、昭和7年12月に起きた東京・日本橋の白木屋の火災である。この火災で14人が死亡したが、この火災の特徴は火傷による死者が1人に対し、墜落による死者が13人だったことである。270人が窓から救助されたが、犠牲となった13人は和服だったため下着をつけておらず、ロープで脱出する際に裾がめくれるのを押さえようとしてロープから手を離し、墜落死したのだった。この白木屋の火災を教訓にズロースが普及することになる。

 戦後のデパート火災としては、昭和38年8月に池袋の西武百貨店で7、8階が燃え、エレベーターなどで7人が犠牲となった。また、昭和48年9月に、大阪府高槻市の西武タカツキショッピングセンターが全焼し、6人が犠牲になった。

 大規模な火災としては、昭和551120日の午後3時半頃に発生した栃木県藤原町・川治温泉にある川治プリンスホテルの火災が挙げられる。出火当時、ホテルには112人の宿泊客がいたが、この火災で死者45人、負傷者22人の犠牲者を出した。死亡した45人のうちの40人は、東京都杉並区から紅葉見物に来た老人クラブの人たちであった。ホテル1階の風呂で浴槽工事に使われていたガスバーナーが引火したとされている。

 川治プリンスホテルは、増改築で迷路のようになっていて、出火時に火災報知機は鳴ったが、偶然、その日は火災報知器の点検の日であった。従業員はテストと勘違いして、避難誘導をせず、「試験だから心配しないように」と館内放送を流したのである。このような不手際が重なり、白昼の火災にもかかわらず、火は瞬く間に燃え広がり最悪の事態となった。

 昭和62年、東京高裁は川治プリンスホテル元社長に禁固2年6カ月執行猶予3年、元専務には禁固2年6カ月の実刑、出火の原因となった建設作業員に禁固1年執行猶予3年の判決を言い渡した。この川治プリンスホテルの火災をきっかけに、旅館、ホテル、劇場などでは「マル適マーク」の掲示が義務づけられた。

 まだ記憶に残る火災として、東京・赤坂のホテル・ニュージャパンの火災を挙げることができる。昭和57年2月8日深夜3時25分頃、東京都心の永田町に立地する地上10階地下2階、客室数513室、収容人員2946人の大規模ホテルで火災が発生した。この夜の宿泊客は442人で、9階と10階に宿泊していたのは103人。その多くは台湾や韓国からの「札幌雪祭りツアー」61人の旅行客だった。9階に宿泊していた英国人の寝たばこが火災の原因であるが、ホテルにはスプリンクラーは設置されていなかった。その上、防火扉は作動せず、自動火災報知器のスイッチは切られていて、非常放送は故障のため使用できなかった。

 このようなずさんな防火体制が、多数の犠牲者を出すことになった。これらの不備は当局から再三指導を受けていたが、全く改善していなかった。消火設備の不備のため、火はまたたく間に燃え広がり、従業員による避難誘導もなく、宿泊客442人中死者33人、重軽傷者34(うち消防隊員7人)を出す大惨事となった。

 ホテル・ニュージャパンの火災は深夜であったが、熱さに耐えきれず窓枠の外側から助けを求め、高層階の窓から飛び降りる犠牲者の姿がテレビで放映され、日本中に衝撃を与えた。死者33人のうち、飛び降りまたは転落して死亡したのは13人で、66人もの人命が奇跡的に救出された。窓からシーツや毛布、配水管等を伝って必死の脱出を遂げた者が多くいた。

 ホテル・ニュージャパンの横井英樹社長は乗っ取り王の異名をもつ有名人で、目先の損得を優先した経営方針が犠牲者を多く出した。当日の早朝、まだ騒然といている現場でトレードマークのちょうネクタイで現れた横井社長は拡声器を持って、「みなさん早朝よりご苦労さんです。不幸中の幸いで、火災は10階と9階だけで終わりました」と詰め掛けた報道陣に言葉を発し、他人事のように開き直った言動に多くの国民はあぜんとなった。ホテル側のあまりにもずさんな防災対策が明らかとなり、怒りの声が経営者の横井社長に向けられた。

 1118日、横井社長ら4人が業務上過失致死容疑で逮捕された。このホテルはその後、1996年に千代田生命が38階建ての高層ビルを建築しようとして取り壊しに着手したが、平成12年に千代田生命が破綻したため、米国の生命保険大手のプルデンシャルと森ビルに買い取られ、平成1412月に「プルデンシャルタワー」という高層ビルに生まれ変わった。

 最近のビル火災としては、平成13年9月1日午前1時頃に発生した東京都新宿区歌舞伎町の明星ビル火災がある。明星ビルは地上4階地下2階の雑居ビルで、3階はマージャンゲーム店、4階はキャバクラになっていた。出火場所は、救助された従業員の供述から3階エレベーターホール付近とされ、同階に燃え広がった後、屋内階段を経由して4階のキャバクラに拡大した。

 3階には客と従業員が19人いて、3人は脱出したが16人が死亡。4階のキャバクラ「スーパールーズ」には、若い従業員と客28人がいて全員が死亡した。この火災でビル内にいた57人中44人が死亡(男性32人、女性12人)したが、死亡した人たちの火傷は軽度で、死因は一酸化炭素中毒だった。一酸化炭素は無色無臭の気体で、濃度が高ければわずか3呼吸で意識不明になる。ビルの窓がふさがれ、消防法で義務づけられた避難器具は設置されておらず、階段にはロッカーやイスなどが山積みになっていた。

 消防車35台が出動して消火、救助活動を行い、けが人は東京女子医大、慶応大病院、国立国際医療センターなど15カ所の病院へ搬送された。警視庁は放火と失火の両面から調べたが、火災があまりに早かったことから、たばこの火や漏電ではなく、何者かが3階踊り場付近で放火した疑いが強かった。何者かが3階エレベーターホールにあったゴミに放火したか、ガス管を外して放火したとされている。この火災の真相は不明であるが、事故ではなく放火ならば大量殺人事件といえる。

 明星ビル火災の特徴として、建物が細長く屋内階段が1カ所しかないペンシルビルと呼ばれる危険な構造だったこと、火元が階段のそばで逃げ場がなかったこと、3階から4階への階段にはロッカーが多数置いてあって消火活動の障害になっていたことである。明星ビルは新宿消防署の立ち入り検査で、防火管理者の未選任▽消防計画の未作成▽避難場所の障害物▽消火訓練の未実施▽消防設備の未点検▽火災報知器の不備▽避難器具の未設置▽誘導灯の不点灯が違法と指摘されていたが、改善されていなかった。

 死者した客と従業員の平均年齢は、男性32.7歳。女性23.7歳と若かった。若い女性はキャバクラで働き、若い男性はキャバクラで遊んでいたと報道された。犠牲者の悲しみに同情すると同時に、痛ましい事件に追い打ちを掛けるような、名前や顔写真の実名報道に強い怒りを覚えた。まさに報道被害者と言える。 

 



脳組織摘出の人体実験 昭和47年(1972年)

 20世紀初頭の精神医学は、病気の診断だけで、治療と呼べるものはなかった。この流れを変えたのは「社会的適応」であり、「ショック療法」であった。社会的適応は、精神病患者を社会に適応させながら病気を緩和する方法で、ショック療法とは脳に激しいショックを与えて現実に取り戻そうとする方法であった。ショック療法にはインシュリンを与えて低血糖にするインシュリン療法、頭部に電流を流してけいれん発作を人為的に起こさせる電気ショック療法があった。さらに新しい精神病治癒としてロボトミー(精神外科)が注目された。

 昭和37年、ポルトガル・リスボン大学のモニスが精神病患者の大脳の一部を切断して精神状態を改善させる治療法を考案した。モリスが考案したロボトミーは、精神病を治すのではなく、精神病患者を社会に都合よく無気力にさせるものだった。犯罪者を精神病院に入れ、脳の一部を削除して暴力的な性格は消えれば、社会にとって都合が良かった。犯罪を繰り返す人たちに「精神病質」と病名をつけ、ロボトミーを行うことが普通に行われた。ロボトミーは術後の患者の身体は維持されても、感情が失われるなどの問題があった。もちろんそこには精神病患者の人格への考慮はなかった。精神医療への薬物治療がなかった時代である。ロボトミーは社会に受け入れられ、昭和24年にモリスはノーベル生理医学賞を受賞している。

 このような精神医学の背景の中で、東京大学の石川清講師が、台弘・東大教授の医療行為を告発した。台教授は、「精神分裂病は脳の脚気」との仮説を持ち、それを証明するため20数年前から都立松沢病院に入院している精神分裂病患者42人、躁うつ病や性格異常者約40人の大脳皮質摘出手術(ロボトミー)の際に、脳組織を0.3〜1グラム取り出し、生化学的分析を行っていた。このことを石川清講師が日本精神学会会員全員に告発したのだった。

 脳組織を取られた患者の中には11歳の少女も含まれ、手術直後に2人の患者が死亡していた。石川清講師はこの台弘・東大教授の根底には研究至上主義の医局制度があると指摘した。これまで患者の人権が問題になるようなことはなかった。731部隊の歴史はもみ消され、731部隊の幹部は日本医学会の中枢で反省もなく生き残っていた。人体実験があったとしても、患者の人権がそれほど問題になることはなかった。大学教授は絶対権力の中で、患者の権利など眼中になかった時代であった。

 石川講師は日本精神神経学会評議員で、告発された台教授は同学会の理事長を務めていた。この告発はそれまでの精神医学、医学研究、医学講座制、患者の権利に対する大きな問題を提起したのであった。学会が台教授の事例について特別委員会を設置し、検討することになった。まず台教授の行った実験が、許容範囲かどうかが検討された。

 昭和47年6月13日の同学会で、脳組織を0.3〜1グラムを取り出した人体実験が3時間にわたり議論され、台教授の人体実験を間違いとする医師は235人、擁護する医師は28人、保留は69人であった。大部分の医師は台教授の研究を人体実験として批判したが、投票直前に100人以上が会場を退出したため、学会の正式決議にはならなかった。

 一方、松沢病院には、脳組織摘出後に出血死した患者の経過が記録されたカルテが残されていて、患者は手術を拒否しているのに手術が強行され、患者や家族の同意を得ていないことが明らかになった。このことから昭和48年5月の日本精神神経学会で、台教授の行った実験は安全性を確認していないだけでなく、患者の人権を無視した行為で、医学上の人体実験であり、台教授だけでなく学会としても深く反省すべきとした。

 わが国では20年間に12万人の患者がロボトミー手術を受けている。事件当時はちょうど向精神薬が開発中で、昭和50年の学会では、精神外科を医療として認めない決議が行われた。

 昭和40年代は大学紛争の時代だった。精神医学界も大揺れに揺れ、昭和44年の日本精神神経学会では、左翼系若手医師と執行部が激しくぶつかり紛糾していた。

 昭和4310月、東大では精神科医局が自主解散し、左翼系の医師たちが「東大精神科医師連合」を結成、翌年には保守派の医師たちが「教室会議」を結成、東大の精神科は2つに割れた。精神科医師連合は病棟を、教室会議は外来を占領して対立し、外来患者を病棟に入院させることはできず、退院した患者は別の病院の外来で受診することになった。このような時代背景の事件であった。

 



恍惚の人 昭和47年(1972年)

 恍惚の人とは、有吉佐和子の小説「恍惚の人」から生まれた言葉で、すなわちボケ老人(認知症)を意味していた。この小説が昭和47年6月に出版されると大きな反響を呼び、140万部を売り上げる大ベストセラーとなった。有吉佐和子は暗く深刻になりがちな老人問題を、恍惚の人というネーミングを用い、全体的に明るくユーモアを含んだタッチで描いていた。

 この小説は、今後確実にやってくる高齢化社会を先取りし、老人問題を初めて正面から扱っていた。それまでボケ老人(認知症)は家族の恥とされ、世間から隔離され、話題にすることはタブーとされていた。その当時の日本の平均寿命は、男性が69歳、女性が74歳で、その後に予想される高齢化社会をわずかに意識するようになったばかりであった。現在、65歳以上の高齢者は人口の24%であるが、当時は7%にすぎなかった。

 それまでの日本人は高齢化社会を意識していなかった。定年を過ぎれば、多くは何らかの病気で死んでいったからである。老人は長寿を全うして死を迎えるものと思い込んでいた。そのため老人性痴呆は問題にされていなかったが、医学が進歩し、平均寿命が延びるにつれ、脳の老化ともいえる老人性痴呆の患者が増加したのだった。その意味で「恍惚の人」は、誰もが抱く高齢化という不安を直視し、高齢化に向かう社会の変化に初めて光を当てた小説であった。

 小説「恍惚の人」は、84歳の舅(しゅうと)・茂造がもうろくしてしまい、それを献身的に介護する息子の嫁・昭子の苦労話である。会社員である昭子の夫・立花信利は東京の郊外に住み、離れに信利の両親・茂造夫婦が住んでいた。それまで一家の大黒柱だった茂造が定年になり、定年後に勤めていた保険集金をやめたころから、様子がおかしくなった。そして老妻の死がきっかけに茂造の痴呆が明らかになり、茂造は老妻の死を理解できず、死の数日後にはボケが進行して徘徊(はいかい)するようになった。突然家を出てしまい、家族が探し回るようになった。

 舅のボケは、立花家にとって降って沸いたようなもので、平均的なサラリーマン家庭を突然襲ってきた悲劇だった。茂造は何もかも忘れてしまい、幼児化していった。雪の日にコートを着ないで外出し、食べ物を際限なく食べ、空腹を訴えながら突然徘徊し、想像もつかない奇行の連続であった。嫁いびりをするほど元気だった茂造は、自分の息子や娘の顔を忘れ、息子を暴漢呼ばわりした。それでいながら、昭子と孫のことをかすかに覚えていて、子供のような無邪気な笑顔を見せながら、便をそこら中に塗りつけた。昭子は懸命に介護を行うが、夫の信利は何の役にも立たなかった。

 昭子はそれまで勤めていた法律事務所を辞め、茂造の介護を一身に引き受けた。何も手伝わない夫や親類はあれこれと口を出し、昭子の悩みは深まるばかりであった。福祉事務所に相談しても何の解決にも至らず、虚栄だけの夫、口先だけの親戚、精神病院に入れるしかないと言う福祉事務所。預ける福祉施設もない馬鹿げた社会だった。

 その結果、昭子は1人で茂造の面倒を見ることになった。いつ終わるとも知れない介護の日々、何が起きるか分からない毎日、それは家庭崩壊を予感させる戦場であった。昭子は「生かせるだけ生かしてやろう」と必死に茂造の世話をするが、茂造は次第に衰弱して、排泄の始末もできなくなり、寝たきりとなった。そして間もなく、茂造は安らかに死んでいった。茂造が死ぬまでの日々は、昭子にとって心身をすり減らす戦いの連続であった。

 当時はボケの原因は分かっていなかった。茂造が痴呆となったのは無趣味だったから、病気を持っていたから、精神的ストレスがあったから、このように昭子は考えを巡らしていた。女性の社会進出が進み、核家族のなかで、読者は親あるいは自分を襲ってくる老後の姿を重ね合わせていた。

 高齢化社会を前に、介護は妻の役割とする社会通念、立ち遅れた老人福祉、人間の生死の意味、高齢者の孤独、寝たきり老人と老人性痴呆。このように「恍惚の人」は多くの問題を読者に投げかけてきた。痴呆症になった老人を抱えた家族の苦悩、老人を励ましながら、それでいて老人の死を期待する隠れた心情などが理解できた。身につまされるテーマが読者の関心を呼んだ。

 誰もが抱える問題でありながら、日本の老人福祉は遅れていた。老人ホームは数年の入所待ちで、しかも痴呆老人は老人ホームには入所できなかった。痴呆老人を預けることができるのは精神病院だけで、途方にくれる主人公の心情が読者の心を締めつけた。

 現在、痴呆性老人は65歳以上では8%、85歳以上では33%を占めている。痴呆老人は、老年性痴呆、脳血管性痴呆、アルツハイマー病の3種類に大別でき、老年性痴呆とは脳動脈硬化が進み、大脳の前頭葉の働きが徐々に低下してボケの状態になることである。内臓は普通に働き、運動障害も軽度で、いわゆる脳の機能が低下によるものだった。脳血管性痴呆は、脳梗塞などの脳血管障害による脳機能の低下で、発症の時期が明確で、経過は階段状に進行する。脳血管性痴呆の症状は軽度で自覚もあるが、老年性痴呆は進行性で自覚症状に乏しい。アルツハイマー型痴呆の原因は不明であるが、女性に多く、人格が変わることがある。

 当時の平均寿命は現在より短かったが、近い将来、高齢化社会を迎える日本にとって、老人性痴呆は他人事ではなかった。人口の高齢化、老人問題への不安はすでに始まっていた。そして昭和47年に、時代の流れに鋭敏な有吉佐和子は、いち早く痴呆症の老人を取り上げ、「恍惚の人」を世に問うたのだった。

 当時は、老人を大切にするという考えが、核家族化が進む中で残されていた。嫁が老人の世話をするのは当然とされ、このことが老人問題、痴呆症問題をより悲劇的にした。福祉は遅れ、ようやく老人病院が建てられようとしていた。

 有吉佐和子は時代を見抜く才女であった。有吉佐和子は人間として避けて通れない老いの寂しさを、老人になる入り口で考えたのである。有吉佐和子は印税1億円を老人施設に寄付したが、地方税を含め8000万円が税金となることがわかった。この税制のゆがみに対し有吉佐和子は新聞に意見広告を出し、大きな社会問題となった。そしてこの意見広告をきっかけに、厚生省は社会福祉施設への寄付を免税とする制度を作ったが、それまで福祉施設への免税を所得の15%までを20%までに引き上げたにすぎなかった。

 有吉佐和子は恍惚の人ばかりでなく、環境汚染に警鐘を鳴らした「複合汚染」を昭和49年から半年間、朝日新聞に連載し、大きな反響を呼んだ。複合汚染とは2種類以上の物質により汚染が増幅されることで、当時は公害、農薬、排気ガス、合成洗剤などの環境汚染が問題になっていたが、それら1つ1つを汚染の原因とするだけでなく、それらが組み合わさって予想を超える汚染を引き起こすことを忠告したのである。

 有吉佐和子は「高度経済成長に伴う公害が自然を破壊し、農薬中心の農作物が健康を損なわせ、これらが人間そのものを汚染し、人間を破壊から滅亡に追いやる」と強い危機感と憤りを持っていた。「複合汚染」は農薬や化学物質に依存する農業の在り方を問う衝撃的な内容であった。恍惚の人、複合汚染は社会問題を先取りしたという意味では社会派小説といえる。

 有吉佐和子は、昭和6年に和歌山県で生まれ、幼少期は銀行員の父親の関係からジャワ(インドネシア)で生活、豪邸の中で召使にかしずかれて育った。少女時代は病弱で読書が趣味であった。戦時中に帰国すると軍国主義の日本に失意の日々を送った。昭和27年、東京女子短大英語科を卒業、大学在学中から歌舞伎や芝居の劇評を書き、同人雑誌・白痴群に投稿していた。

 昭和31年、25歳のときに書いた「地唄」が芥川賞候補となって文壇に登場。紀州を舞台にした年代記「紀ノ川」で本格的な作家活動に入った。小説「華岡青洲の妻」では、約200年前に世界で初めて全身麻酔で乳がん摘出手術に成功した、和歌山出身の医師・華岡青洲の生涯を取り上げた。そのほか「出雲の阿国」「有田川」など50以上の作品を残している。有吉佐和子は「恍惚の人」を書いたが、そのきっかけは彼女が35歳のとき、英語の辞書で同じ言葉を何度も引くようになったことに老いを感じてのことであった。

 有吉佐和子は、女性でありながら怒りの作家、社会派作家とされている。昭和50年の「四畳半襖(ふすま)の下張り」裁判では、言論の自由をめぐり、裁判に負けたら自分もポルノを書くと公言。そして裁判に負けるとポルノ小説「油屋おこん」を新聞に連載した。しかし主人公と自分の娘の年齢が同じだったことから筆が進まず、途中で連載をやめてしまった。女性ながら根性の入った作家だった。昭和59830日、睡眠中に突発的心不全をきたし急死、享年53。時代と闘いながら、生き急ぎ、死に急いだ作家であった。

 



コインロッカーベビー 昭和48年(1973年)

 米国で生まれたコインロッカーは、昭和39年の東海道新幹線の開通とともに登場し、以後大阪万国博覧会などの旅行ブームから全国の駅に設置された。それまでは手荷物預かり所で、住所や氏名を書いていたが、匿名性と便利性が受け、昭和48年には全国のコインロッカーの数は18万個になった。コインロッカーの使用期間は4日間で、それを超えると鍵が開けられ、2カ月間、駅で保管された。この匿名性と密閉された空間が犯罪に用いられるようになった。

 昭和45年2月3日、東京・渋谷の百貨店のコインロッカーで新聞紙に包まれビニール袋に入れられた新生児の遺体が発見された。渋谷署は以前売春容疑で検挙した女性の指紋が遺留品の指紋と一致したため、佐世保生まれの女性(21)を全国に指名手配した。これがコインロッカーに新生児が捨てられた最初の事件だった。昭和48年にはコインロッカーに捨てられた新生児は43件に急増し、コインロッカーベビーが流行語になった。

 当時は、赤ちゃん殺しや赤ちゃんの死体遺棄事件が多発し、発覚しただけで年間約200件に達していた。赤ちゃんは人目を避けて川や林に捨てられ、あるいは駅やデパートのトイレやゴミ箱に捨てられた。人目につく場所に捨てた母親は、誰かに育ててもらえることを期待したのであろうが、いずれにしても許されない行為であった。

 医師は妊娠がわかると「おめでとう」と母親に言うが、妊娠を喜ぶ女性がいれば、妊娠を悲しむ女性もいた。出産を希望しない女性にはさまざまな理由があった。当時の性教育は皆無に等しく、避妊の知識は乏しかったので、不幸な妊娠を背負ってしまう女性が多くいた。性道徳は荒れていて、マスコミは婚前交渉を時代の最先端のようにもてはやし、その一方で、性交渉に伴う妊娠というリスクを隠し、未婚の母をふしだらな女性と決めつけていた。

 昭和48年当時は、同棲時代、内縁時代、フリーセックス、ウーマンリブなどの言葉がもてはやされていた。雑誌は性行為を愛の証しのように書き立て、映画は性行為を推奨するように美的に描いた。外国の恋愛映画、ドラマが大量に輸入され、若者はその影響を受けていた。それでいて恋愛結婚という欧米の形態はなじみが薄く、まして当時の女性は私生児を育てる経済力はなかった。国全体がセックスをあおりながら、その結果への社会的な受け入れは無責任であった。日本の社会も家族も私生児を恥とし、その存在を闇に葬ろうとしていた。現在でも一部の自立した有名人を除けば、私生児について日本独自の伝統的嫌悪感がある。 

 戦前は「産めよ増やせよ」の国策で、性行為は子供を産むための行為とされた。時代が進むにつれ、「性行為は性の享楽を求めること、男女の愛の表現方法」に変わったが、避妊の知識は乏しく、望まない妊娠という現実があった。自分だけは妊娠しないという自己中心的な思い込みによる失敗。消費文化を象徴するかのように、不用品を捨てる感覚があった。

 昭和47年の警視庁の統計では、母親の赤ちゃん殺しの動機は、未婚者の8割が世間体を恥じ、既婚者の2割が貧困であった。赤ちゃん殺しの背景には、わが子ならば自分の意のままに処分してしまうという、自由の意味をはき違えた母親がいた。

 しかし、この現象を母性本能の喪失と決めつけることはできない。それは妊娠させた男性にも責任があるからで、妻子ある男性に離婚を条件に身体を許したあげく、男性が妊娠末期に約束を守らずに逃げてしまうケースも多く、「相手が妊娠した途端、男性はその女性を嫌になる」という身勝手なパターンであった。男性が女性と同じように性行為の結果への責任を持つならば、このような悲劇は生じなかったはずである。男性の責任は追求されず、女性ばかりが責任を追及された。婚前性交渉については、男性に甘く、女性に厳しく、男性は妊娠から逃れられても、女性は逃れることはできなかった。赤ちゃんの生命は無視され、胎児、赤ちゃんにとって受難の時代であった。

 出産を希望しない女性が恐れていたのは、紙切れ一枚にすぎない戸籍のことだった。女性の戸籍に子供を産んだ事実が書かれれば、その後に結婚できるはずはなかった。戸籍を汚してしまった女性の人生は終わったに等しかった。当時の性道徳は荒れていたが、性道徳の荒れによる妊娠を世間が受け入れる時代ではなかった。未婚の母親は世間から白眼視され、戸籍を汚すという言葉は、未婚の母親への社会的偏見を意味していた。未婚の母親はふしだらな女性と非難されたため、彼女らはそれを避けるために赤ちゃんを殺してコインロッカーに入れたのである。コインロッカーの使用期間の短縮、避妊の普及により、コインロッカーベビーは次第に減少していった。

 



ゴキブリホイホイ 昭和48年(1973年)

 人間の歴史は数十万年であるが、ゴキブリは約4億年前から地球上に存在し、いわゆる「生きた化石」であるが、ゴキブリほど人間に嫌われている昆虫はいない。ゴキブリは病気を媒介せず、人間に危害を加えるわけではない。その意味では害虫とはいえないが、とにかくその見た目のせいか人間から嫌われている。全体に油を塗ったようなツヤがあることから、かつてはアブラムシと呼ばれていた。

 昭和48年、営業不振に苦しんでいたアース製薬が「ゴキブリホイホイ」を発売。それまでのゴキブリ捕獲器はプラスチック製であったが、紙製の使い勝手のよさから、発売と同時にそのネーミングのようにホイホイと売れまくった。1セット5枚で500円だったが、発売から3カ月で売り上げ27億円を記録し、殺到する注文に昼夜3交代で生産しても間に合わないほどであった。テレビ広告に由美かおるを起用し、一般消費者から爆発的な人気を得た。

 ゴキブリホイホイを開発したのは、アース製薬開発部長・木村碩志(44)だった。木村は立命館大学の応用化学部を卒業すると、京都大学薬学部で学位を取り、国立衛生試験所からアース製薬に研究員として入社。アース製薬は殺虫剤では老舗だったが業績が悪化し、昭和44年に会社更生法を申請、翌年大塚グループの傘下に入った。この傾きかけた会社の片隅で、木村はゴキブリの研究の毎日だった。同社はエアーゾールタイプのゴキブリ殺虫剤「アース・ローチ」を製造販売していたが、昭和45年に塩素系殺虫剤が全面禁止となったため、これをきっかけに、各社は一斉に新たなゴキブリ殺虫剤の開発に走った。

 アース製薬は、大塚正富社長を中心に開発プロジェクトチームを編成した。プロジェクトチームは開発のために4つの目標を掲げた。それは、<1>使い捨てにする<2>家庭に置いても楽しい容器とする<3>使用方法は簡単にする<4>殺虫剤は使わず、粘着剤によってゴキブリを捕獲するであった。そして飼育室に30万匹のゴキブリを飼ってその生態を研究した。

 ゴキブリホイホイの開発で最も重要な課題は、ゴキブリを引き寄せる誘導物質であった。ネコにおけるマタタビのようなもので、ゴキブリの誘導物質として性ホルモンが検討されたが、量的問題が解決できなかった。さらに誘導効果が弱いとゴキブリは引き寄せられず、強いと家の外からゴキブリが入ってくる可能性があった。苦労の末に、ゴキブリの好きな臭いを発生する誘導物質が開発された。もちろん誘導物質が何であるかは企業秘密となっている。

 大塚社長はゴキブリの捕獲に、トリモチを用いるアイデアを思いつき、紙箱に粘着剤を塗って、そのまま使い捨てにする方法が生まれた。有毒物質でゴキブリを殺すのではなく、餌を食べられない状態にしてゴキブリの餓死を待つのである。そのためゴキブリホイホイの中をのぞくと、1週間経っても触角を動かしているゴキブリを見ることができる。

 発売されたゴキブリホイホイは次々に改良され、もがけばもがくほどゴキブリの足がめり込む「デコボコ粘着シート」、ゴキブリの足についた油分・水分を取り除く「足ふきマット」を採用して捕獲力が一段とアップした。

 家の形をしたゴキブリホイホイは、入ってみたいというイメージを、ゴキブリではなく使用者に持たせた。なにしろゴキブリホイホイのネーミングが素晴らしかった。商品のネーミングには、豪華さを感じさせるもの、効果をイメージさせるものなどがあるが、ゴキブリホイホイのネーミングは、殺虫を感じさせない親しみがあった。本来ならば「ゴキブリ版アウシュビッツ」であるが、それを感じさせないところにゴキブリホイホイの素晴らしさがあった。

 傾きかけていたアース製薬はゴキブリホイホイでよみがえり、アースレッド(昭和55年)、ねずみホイホイ(57年)、ダニアース(58年)を開発し、不景気といわれる平成の時代でも、アース製薬は成長を続け売り上げを確保している。

 アース製薬は殺虫剤・虫除け剤の分野でトップシェアを占めるが、そのほかに洗口液の「モンダミン」、水洗トイレ用芳香洗浄剤の「セボン」、除菌消臭剤の「車内のニオイとり」、「アースエアコン洗浄スプレー」など、他社に類を見ない創意あふれる商品を生み出している。アース製薬の商品は、アジア、米国、欧州を中心に80以上の国々に輸出され、殺虫剤をはじめ20品目にわたる商品が海外で利用されている。

 これもすべて「ゴキブリホイホイ」があったからである。数万匹のゴキブリと昼夜をともにした木村碩志の功績であるが、地球上の先輩であるゴキブリにとって木村の評価は最悪であろう。

 



一酸化炭素中毒殺人事件 昭和48年(1973年)

 昭和48年3月20日の早朝、山形市釈迦堂に住む農家の主婦(43)が一酸化炭素中毒で死亡した。練炭による一酸化炭素中毒死と思われたが、この事件は夫のYによって巧妙に仕組まれた保険金殺人だった。

 事件当日、夫から要請を受けた救急車が農家に駆けつけると、母屋の裏にある4畳半ほどのビニールハウスの中でYの妻が倒れていた。ビニールハウスでは椎茸が栽培されていて、その中央に練炭火鉢が2つ置いてあった。外傷がなく死因は一酸化炭素中毒とされ、事故死として司法解剖はされずに火葬された。

 ところが主婦の死亡から1年後、主婦の死は単なる一酸化炭素中毒ではなく、Yによる殺人とうわさされた。Yは死亡した妻に、年収とほぼ同じ額の保険金を払い、多額の生命保険を掛けていたのだった。山形市だけでなく、茨城、東京、大阪、岐阜など全国各地で生命保険に加入し、加入時には妻の替え玉の女性を使っていた。Yは妻の死後保険金8000万円を受け取っていた。

 当時の郵便局や保険会社では、コンピューターによる全国ネットは整備されておらず、他県の窓口で保険に加入すれば、何口でも入ることができた。ところがYは、なぜか保険金の請求をすべて地元の郵便局で行っていた。不審に思った職員が全国の郵便局を丹念に調べ、巨額の金額が支払われている事実をつかんだのである。このちょっとしたミスにより、完全犯罪が発覚することになった。

 巨額の保険金、短期間の加入、突然の死亡、このことから保険金目当ての殺人の疑惑が出てきた。捜査は極秘のうちに行われ、警察はYを保険金詐欺罪で逮捕した。

 Yは事件当時、商品相場に手を出し、株にも失敗して、多額の負債を抱えていた。殺人の動機は明確であったが、事故死とされた妻の遺体はすでになく、殺人の証拠はどこにもなかった。Yは保険金詐欺を認めたが、殺人については否定した。

 捜査陣は当時と同じビニールハウスを建てて実験を繰り返した。しかし、妻は一酸化炭素中毒で死亡したのに、何度実験しても練炭だけではビニールハウス内の一酸化炭素濃度は上昇せず、殺人だけでなく死因さえも証明できなかった。

 警察の聞き込み調査により、Yは偽名を使い、数カ所の薬局から硫酸などの薬品や試験管などを購入していることが分かった。それを裏付けるように薬局に残された明細書からYの指紋が検出された。さらに決定的だったのは、山形大学理学部から山形県警への1本の電話であった。理学部の教授が「Yが理学部の研究室を訪ね、合成した一酸化炭素から臭いを消す方法をしつこく尋ねた」と証言したのだった。一酸化炭素は無臭だが、化学的に合成した一酸化炭素には強い臭気が残るのだった。Yは合成した一酸化炭素の臭気を消す方法を山形大学の研究室に聞きに行っていたのだった。

 山形大学理学部の情報を突きつけられたYは殺害を自供した。Yは生命保険殺人を成功させるため、生命保険の契約と同時に化学の本を買いあさり、完全犯罪の研究を始めたのである。硫酸とギ酸を混合すると100%の一酸化炭素を合成できることを知ったが、ギ酸は一般の薬局では入手できなかった。Yは試験管やフラスコを買い、ひそかに実験を繰り返し、シュウ酸と硫酸を加熱して50%の一酸化炭素と50%の二酸化炭素を精製、50%の二酸化炭素を苛性ソーダで取り除く方法を見出し、高濃度の一酸化炭素の精製に成功したのである。しかし、強い臭気を消すことができず、そのため山形大学理学部に助言を求めたのだった。

 脱臭方法は理学部でも分からなかったが、研究熱心なYは冷蔵庫の脱臭剤を利用することを思いついた。高濃度の一酸化炭素をビニール袋に入れ、冷蔵庫の脱臭剤を用いて無臭化することに成功。ネズミを用いた実験では、即死に近い結果を得た。

 Yはビニールハウスを建設。実際に椎茸の栽培を始めて、保険金殺人の計画を進めていった。Yは偽装殺人のために、防塵(ぼうじん)マスクを2つ準備した。

 事件当日の3月20日の深夜、Yは「ビニールハウスの様子がおかしい」と寝ている妻を起こし、一緒にビニールハウスに行った。そして「一酸化炭素中毒にならないように」と言って、防塵用のマスクをつけ、妻にもマスクをつけさせ、妻がマスクをつけると同時に、マスクにつけてあったエチレンの袋のひもを外し、高濃度の一酸化炭素を吸わせた。妻は数秒で気を失いその場に倒れた。Yは妻のマスクをはずすと、ビニールハウスの戸を閉めたまま1時間放置し、死亡を確認して救急車を要請した。

 東北大学法医学教室と山形県警は、Yの自供通りの方法で一酸化炭素が精製できること、精製した一酸化炭素は数秒で即死する濃度であることを証明した。Yは第1審で無期懲役の刑を受け、控訴せずに服役した。自家製の一酸化炭素による殺人事件は、世界で初めてのことであった。

 一酸化炭素中毒はそれほど珍しいものではない。狭い部屋での練炭の使用、ガスストーブ、ガス湯沸かし器のつけっぱなしなど、数多くの事故が毎年繰り返されている。また車庫の中でエンジンをかけたまま、排ガスによる一酸化炭素中毒が多い。かつての都市ガスには数%の一酸化炭素が含まれていて、都市ガスによる事故や自殺も多かった。

 一酸化炭素を吸うと、一酸化炭素がヘモグロビンと瞬間的に結合。一酸化炭素とヘモグロビンの結合力は酸素の約250倍で、そのため必要な酸素を体内に供給できなくなる。体内の細胞が酸欠状態になり、数秒で窒息死状態になるのだった。

 一酸化炭素は、無色、無味、無臭の気体で中毒を予知することはできない。軽度の中毒では頭重、頭痛、疲労、倦怠(けんたい)感、めまい、悪心などの症状をきたすが、一酸化炭素の濃度が50%以上になると瞬間的に意識を失い死亡する。治療は高濃度酸素の投与、呼吸管理と全身管理であるが、治療よりも一酸化炭素状態からの脱出である。

 



幼児大腿四頭筋短縮症 昭和48年(1973年)

 昭和48105日、朝日新聞は「幼児集団奇病 山梨で23人が歩行困難 原因はカゼの注射?」の見出しをつけ、全国版の1面でこの記事を報じた。朝日新聞は、山梨県南巨摩郡鰍沢町と隣の増穂町を中心に、ひざ関節が曲がらず、足がつっぱったまま歩行や正座ができない幼児が20数人いることを伝えたのだった。

 この幼児の奇病を最初に気づいたのは地域の保健婦だった。保健婦は家庭訪問で歩行に障害を持つ幼児が多発していることを不思議に思っていた。保健婦は保健所所長に原因究明を進言したが実現せず、親を説得して病院での診察を勧めたが、幼児たちはどの病院でも異常なしといわれた。「奇形」の幼児を持つ親たちは、周囲からカタワ者の家系といわれるのを恐れ、ひっそりと暮らしていた。

 この奇病が公になったきっかけは、増穂町に住む大工が奇形の孫を連れて、山梨県立中央病院の副院長宅へ仕事に行ったことだった。副院長夫人は奇形の孫を見て、県立中央病院の整形外科で診てもらうことを大工に勧め、孫は整形外科で大腿四頭筋短縮症と診断され、手術を受けることになった。手術は成功し、歩行障害が治ったことが増穂町で評判になり、同じ症状の幼児たちが県立中央病院に押し掛けたのである。

 この事態に病院関係者は驚き、町役場もこのことを重く受け止め、歩行困難の集団検診を行い、乳児33人中25人が大腿四頭筋短縮症であった。この障害について、先天性の奇形、風土病、筋ジストロフィー、農薬中毒、新しい公害などがうわさされたが、母親からの聞き取り調査から、先天性疾患ではなく、後天性の可能性が出てきた。

 母親の話からS産婦人科医院(慶応大医学部卒業)に疑いの目が向けられた。障害児たちは例外なくS産婦人科医院を受診していて、風邪や下痢などで大腿部に筋肉注射を受けていた。子供に注射を打つ場合、尻に打つことが多いが、S産婦人科医院では仰向けのまま大腿部の前面に注射をしていた。子供はうつぶせにさせられただけで、恐怖心から泣いてしまうが、仰向けの場合は子供が泣く前に注射は終わっていた。S産婦人科医院では、子供の風邪にも頻回に注射を打ち、生後1年間に最高150回の注射を受けた乳児がいた。

 大腿四頭筋短縮症とは、大腿四頭筋の伸展性が失われ、膝の関節が曲がらずに歩行障害をきたす疾患である。大腿部前面にある4本の筋肉の弾力性と伸展性が失われ、足が突っ張ったまま状態となった。そのため尻を突き出しで歩くことになり、その姿が「アヒル」や「ゴリラ」と似ていて、周囲から奇異な目で見られた。ひざ関節の屈曲障害が強くなると、歩行だけでなく正座もできなくなった。地元医師会が「筋肉注射とこの奇形との関連性」を調べたが、明確な関連性を認めなかった。

 ちょうどそのころ、東京大医学部講師の高橋晄正が、増穂町に薬害問題の講演に来ていた。当時、スモン、コラルジル中毒、クロロキン網膜症などの薬害が問題になっていて、高橋晄正は「薬を監視する国民運動の会」を創設し、薬害運動の中心になっていた。高橋晄正は大腿四頭筋短縮症の存在を知らずにいたが、講演での聴衆との質疑によって初めて知ったのである。

 高橋晄正の行動は速かった。大腿四頭筋短縮症の原因解明を約束して東京へ帰えると、自主検診医師団を結成、昭和49年3月9日と17日に子供たちの検診を行った。この検診によって、171人の子供のうち130人が大腿四頭筋短縮症と診断された。大腿四頭筋短縮症の子供は例外なく大腿前面に注射を打たれていて、障害の程度は注射の回数に比例していた。

 同年1218日、テレビの「奈良和モーニングショー」で、ひざの曲がらない奇病と自主検診医師団が特集として放映されると、全国の母親たちは騒然となった。多くの母親は、子供が風邪などで頻回に注射を受けていることを知っていたからである。大腿四頭筋短縮症は全国から注目を集めることになった。

 大腿四頭筋短縮症は、昭和21年に東京女子医大の森崎直木が初めて症例を報告して、筋肉注射が原因としていた。しかし散発的な発症から、筋肉注射の危険性は軽視されていた。しかし昭和30年代の後半になると、消炎鎮痛剤や抗生物質などの開発が進み、筋肉注射が急増することになる。昭和35年に南江堂から出版された日本外科全集には、「大腿四頭筋短縮症の原因は大腿部前面への注射による」と記載されたが、小児科医の大腿四頭筋短縮症への認識は乏しかった。

 昭和36年に国民皆保険制度が開始されると、患者の医療費負担が少なくなったため、医療機関を受診する患者が急増し、大腿四頭筋短縮症も増えていった。大腿四頭筋短縮症は筋肉が未熟な幼児期に多かった。幼児期は筋肉が未熟な上に、大腿前面に注射をされる場合が多かったからである。この大腿四頭筋短縮症は山梨県だけでなく、日本各地で急増していた。

 国民皆保険制度は医師の技術料を低く設定したため、医療機関は注射や薬を乱発するようになった。風邪や下痢で受診すれば、すぐに筋肉注射となった。風邪はウイルス性疾患なので抗生物質の効果は期待できないが、大腿四頭筋短縮症をきたした患者の8割が風邪で、1割が下痢の診断で筋肉注射を受けていた。使用された抗生物質はクロラムフェニコール、解熱剤はスルピリンが多かった。

 山梨県の幼児大腿四頭筋短縮症が全国に報道されると、同じ症状の子供たちが各地で集団発生していたことが分かった。昭和37年には、静岡県伊東市宇佐見地区で約30人が集団発生し、「泉田病」とよばれていた。東京大学整形外科・三木威勇治教授が調査して、特定の医院の小児患者から発生していたことから、「泉田病は頻繁な大腿部への筋肉注射のため」とした。しかし、患者と医院の間で示談が成立したこともあり、三木教授は筋肉注射の危険性について沈黙したままであった。

 昭和44年には福井県今立町で乳児大腿四頭筋短縮症40人の親24人が現地の小児科医を追及したが、医師会の斡旋により示談が成立した。また同年には名古屋市、福島市で各10数人の大腿四頭筋短縮症が集団発生しているが表面化しなかった。

 東北大学小児科は、昭和26年から48年までに120例の大腿四頭筋短縮症を経験していたと報告。東大でも19例を報告している。なお筋短縮症は筋肉注射による筋肉障害の総称で、注射を打たれた場所により大腿四頭筋短縮症(太もも)、三角筋短縮症(肩)、上腕三頭筋短縮症(腕)、殿筋短縮症(尻)などがある。

 昭和48年、昭和大学の坂本柱造は、「大腿四頭筋短縮症に関する研究(昭和医学会雑誌、46,8,26)」で、ウサギに抗生物質を投与し、筋肉注射部に筋線維の萎縮を認め、注射の量と筋線維の萎縮が比例することを報告している。このように坂本柱造が重要な実験結果を示したが注目されず、筋肉注射による筋短縮症はが社会問題になるまで時間を要した。

 山梨県の大腿四頭筋短縮症が注目されたのは、東大講師の高橋晄正を中心とした自主診察団によるもので、自主診察団は高橋以外に宮田雄祐(大阪市大小児科講師)、今井重信(整形外科)、飯田鴎二(富山労災病院整形外科)など、全国の医師150人によって構成されていた。

 昭和50年5月18日、 日本小児科学会は、「大腿四頭筋短縮症は、頻回な注射が原因」と発表。注射の物理的刺激と薬剤による筋肉組織の破壊が運動障害を起こしたとして、風邪には筋肉注射をしないこと、抗生物質と他の薬剤を混合して注射しないことが取り決められた。

 この大腿四頭筋短縮症は裁判で争われ、山梨県では158の家族が医師、厚生省、製薬会社を相手に667000万円の損害賠償を東京地裁に訴えた。医師は診察上の注意義務違反、国は医薬品の製造認可に関する注意義務違反、製薬会社は注射液の安全性の責任について訴えられた。これに対し、医師は「子供の病気を治すには、注射はやむを得なかった。注射によって筋短縮症が発症することは予測できなかった。注射液には筋肉注射用と記載されており、筋肉用を筋肉に使用しただけ」と主張した。国と製薬会社は「注射行為は医師の自由裁量で、医師の注射乱発が原因」と言い張り、医師、製薬会社、厚生省は責任の転嫁を繰り返した。

 昭和50年、厚生省は「大腿四頭筋短縮症は重症が1552人、軽症が1177人」と発表したが、高橋晄正は、自主検診から全国には1万人を超える患者がいると推定していた。

 当時、高橋晄正は製薬会社の儲け主義、医師の権威主義を打破する旗頭であった。昭和40年代の医療を知る者にとって、高橋晄正の名前は忘れることのできない存在であった。平成1611月3日、高橋晄正は心不全のため死去、86年間の人生であった。

 



陣痛促進剤の多用 昭和49年(1974年)

 人類の誕生以来、ヒトの誕生と死は繰り返し営まれてきたが、女性たちが連綿と繰り返してきた出産は、戦後30年間で大きく変化した。今では病院での出産が一般的であるが、長い歴史の中で人々が病院で生まれるようになったのはごく最近のことである。終戦後のベビーブームの頃でも自宅出産が主流で、9割以上は産婆と呼ばれていた助産婦が主役であった。しかし時代の流れは、出産は助産婦から産科医へと変わり、昭和45年頃から病院での出産が当たり前になった。

 妊婦の心理からすれば、「病院での出産が安全」となるが、ここに大きな問題が生じてきた。昭和49年、日本母性保護産婦人科医会は「陣痛促進剤による事故が多発している」ことを全国の産婦人科医たちに警告。陣痛促進剤の使用上の注意事項を冊子にまとめて配布した。この警告にもかかわらず、助産婦や医師たちの陣痛促進剤への危険性の認識は足りなかった。そのため陣痛促進剤による被害者は増えるばかりだった。

 陣痛促進剤の特徴は、その収縮効果が妊婦によって100倍以上の違いがあり、陣痛促進剤は妊婦によって拷問のような陣痛をもたらすことがあった。そのため使用については、「1分間に3滴以下の少量から開始し、必要最小限の使用にとどめること」が注意事項となっていた。陣痛促進剤の使用は慎重にすべきであるが、この危険性が現場の医師や助産婦に徹底していなかった。陣痛促進剤を注射器で急速に注入する医師がいたほどである。

 出産児が脳性麻痺となる確率は、現在でも500分娩に1の割合で、出産には常にリスクを伴うが、出産は両親や親族の期待が大きいだけに、子供の障害は悲惨な状況を招くことになる。また出産には当然苦痛が伴うため、妊婦が訴える陣痛が、出産による正常の痛みなのか、陣痛促進剤による異常な痛みなのか、その判断を誤ると、子宮破裂、胎児死亡などの悲劇を生むことになる。

 子宮口がまだ十分に開かず、陣痛も弱いのに「微弱陣痛」の病名をつけて陣痛促進剤を安易に投与する傾向があった。妊婦が激痛を訴えても、「がまんが足りない」「だらしない」「痛みへの甘え」などと勝手に決めつけられることがあった。子宮破裂をきたした妊婦は、苦痛のために「病院のなかで、救急車を呼びたかった」と表現している。

 出産は曜日や時間に関係なく、妊娠37週(10カ月)を過ぎれば、いつ始まってもおかしくない。しかし計画出産の名目で陣痛促進剤が多用されると、曜日により、時間により出産数に違いがみられるようになった。平成7年の統計では、平日の出産は平均3500人なのに、土日、祭日はそれぞれ2500人で、出産数に1000人の差が出ている。もちろん人手の少ない深夜の出産は少なく、勤務時間内の出産が多い。このような曜日や時間による出産数の違いは、かつてはなかったことである。現在では助産師による出産は約1%と少ないが、法的に陣痛促進剤を使えない助産婦による出産は、曜日による差はみられず、出産時間は早朝に多く、夕方以降は少ないとされている。

 陣痛促進剤が過剰に使用されたのは、人手不足のため夜間や休日の分娩を避けたい病院側の事情があった。自然分娩を標榜(ひょうぼう)する病院では、少ない日の出産数はゼロ人、多い日は40人というように出産数に差があった。このような自然分娩では人件費がかかるので、陣痛促進剤を用いざるを得ない事情があった。

 もし休日や時間外出産の値段が高く設定されていれば、陣痛促進剤の使用は少なかったはずであるが、現在の医療システムではかなわぬことである。「陣痛促進剤の投与は、陣痛微弱という病気の治療」を意味しており、病院の収入を増やすことになった。もともと産婦人科医は激務の割に収入が少なく、土日や夜間の対応には人手不足であった。また昼間の方が急変に対応できる事情があった。つまり陣痛促進剤を用いなければ病院が成り立たない事情があったが、世間からは安易な金儲けと非難された。

 陣痛促進剤によって子宮破裂を引き起こして死亡する例、赤ちゃんが酸素不足から死亡する例が多くみられた。陣痛促進剤は「自然な分娩ではなく、薬剤による強制分娩」なので、陣痛促進剤の過剰投与や分娩監視体制の不備が事故を招くことになった。お産は病気ではないので、何かあれば家族の不信を残すことになる。医療訴訟全体の約3割を産婦人科が占めていることがそれを物語っている。

 陣痛促進剤は子宮筋の収縮作用を持つオキシトシン、プロスタグランディンのことで、陣痛の誘導、あるいは陣痛を強めて出産をコントロールする。もちろん重症妊娠中毒症、前期破水、過期妊娠、胎盤機能不全、子宮内胎児死亡など医療上の必要から陣痛促進剤が投与される場合もあるが、このようなケースはまれで、陣痛促進剤の使用は病院側の事情と言われても反論は難しい。

 陣痛促進剤を使用するときは、陣痛の周波や波型、胎児の心拍数をモニターする分娩監視装置をつけて十分な監視下で投与する必要がある。医師や助産師は陣痛や胎児の状況を監視しながら、1分間に3滴という微量から点滴しなければならない。胎児心音は1分間に140前後が正常で、120以下や160以上は危険で、特に100以下なれば緊急事態となる。

 通常の分娩では波のように陣痛がきて、小さな波が徐々に大きくなってゆくが、その合間には必ず間欠期がある。しかし陣痛促進剤を用いると、間欠期はなくなり子宮の収縮が持続的に強くなる。そのため過強陣痛、子宮破裂、頸管裂傷、早期胎盤剥離、弛緩出血などを引き起こす。また間欠期がないため胎児は酸素不足となり、胎児仮死、低酸素症による脳性麻痺、死産などが生じる。特に帝王切開を行ったことのある経産婦の場合に子宮破裂の危険性が高くなる。

 市民団体「陣痛促進剤による被害を考える会」の調査では、昭和45年から20年間で、子宮破裂で母親死亡、死産などの事故が51件起きていて、それでも氷山の一角としている。自然分娩では、母親のホルモンだけでなく胎児からもホルモンが出ていて、お互いの共同作業で子宮口が柔らくなるとされている。しかし陣痛促進剤は、子宮口が開いていなくても子宮を収縮させ、赤ちゃんの準備ができていないのに、無理に出そうとするので、赤ちゃんが圧迫され脳へ酸素が行きにくくなる。

 陣痛促進剤は有効な薬剤であるが、必要のない妊婦に多用されていた。現在では周産期医学は格段に進歩し、ほとんどの病院では分娩監視装置が備えられ、安全性が徹底され、陣痛促進剤による医療事故は少なくなっている。日本の周産期死亡率、妊産婦死亡率は世界一低いレベルであるが、出産というおめでたい日を悲惨な日にしないように、陣痛促進剤の使用には十分な注意が必要である。

 女性は出産を前に、雑誌、本、母親教室などで出産について勉強するが、陣痛促進剤についてはほとんどの本に書かれていない。また陣痛促進剤の使用について医師が説明していないケースが多い。

 



連続企業爆破事件 昭和49年(1974年)

 昭和49年8月30日昼の043分、東京丸の内の三菱重工本社ビルの玄関近くに仕掛けられていた時限爆弾が大音響とともに爆発。丸の内のビル街は、昼食帰りのサラリーマンやOLでにぎわっていたが、彼らは爆風で吹き飛ばされ、砕け散ったガラスの破片で血まみれとなった。路上に止めてあった小型トラックは原形をとどめないほどに破壊され、現場一面には白煙が立ちこめ、この爆発で8人が死亡、385人が重軽傷を負った。

 この爆破が起きる5分前、若い男性の声で「ビルに爆弾2個を仕掛けた。これは冗談ではない」との予告電話があった。この電話を受けた電話交換手(55)が課長室へ報告に向かう途中で爆弾が炸裂した。

 玄関のには40キロの時限爆弾が2個置かれ、その威力はダイナマイト700個分に相当していた。警視庁は1600人の機動隊を出動させたが、ガラスの破片が降り注ぐ現場の救出は困難をきわめた。この無差別テロに国民は怒り、卑劣で凶悪な犯人を非難した。

 爆破事件から1カ月後、東アジア反日武装戦線「狼」と名乗るグループが「三菱重工は商売の陰で、植民地の死肉を食らう日本帝国主義の大黒柱である」と犯行声明文を出した。三菱重工は、朝鮮戦争やベトナム戦争によって巨大な企業となり、米軍の武器部品の製造や自衛隊の兵器製造契約の約20%を占めていた。同社が軍需で儲け、権力と癒着していたことはある程度は事実であるが、犠牲となったのは罪のない一般サラリーマンやOLであった。無差別テロを正当化する声明文に怒りを感じない者はいなかった。

 日本人でありながら、反日を名乗る「東アジア反日武装戦線」という新左翼集団による無差別テロであった。学生運動が急速に衰退するなかで、武装路線で革命を目指す赤軍派とは別に、法政大学を中退した大道寺将司が、独自の反日思想から武装路線をとるようになったのが、いわゆる黒ヘルグループとよばれた極左団体であった。沖縄やアイヌを含めた東アジアへの侵略から、独自の反日思想を生み、支配層だけでなく市民や労働者も日本帝国主義の構成分子として打倒すべきとした。学生運動では目的を達成できず、彼らはその刃を一般国民に向けたのである。

 東アジア反日武装戦線は「狼」「サソリ」「大地の牙」の3グループによって構成されていた。狼(大道寺将司、大道寺あや子、片岡利明、佐々木規夫)は資本家に苦しめられている民衆を絶滅したニホンオオカミになぞらえ、さそり(黒川芳正、宇賀神寿一、桐島聡)は猛毒で大資本を倒すサソリになぞらえ、大地の牙(斎藤和、浴田由紀子)は国家や資本家に立ち向かう大地の牙になぞらえていた。

 「狼」は当初、三菱重工ではなく昭和天皇の命を狙っていた。昭和48年8月14日の未明、那須のご用邸から天皇・皇后陛下がお召し列車で帰郷することを知ると、東京都と埼玉県の間にある荒川鉄橋を爆破して殺害する計画(虹作戦)を立てた。だが当日、鉄橋付近の人影を私服警官と間違えて鉄橋爆破を断念。その翌日、韓国で在日朝鮮人・文世光が朴正煕大統領狙撃事件を起こし、「狼」はこれに衝撃を受け次の闘争の準備に取りかかった。それが三菱重工本社爆破だった。

 「狼」はその後、企業を狙った爆破事件を次々に引き起こした。昭和491014日、東京・西新橋の三井物産本店(18人が負傷)を爆破。以後、東京都日野市の帝人中央研究室、中央区銀座の大成建設本社ビル(9人が負傷)、江東区東陽の鹿島建設内装センター、港区北青山の間組本社、埼玉県与野市の間組大宮工場横、中央区銀座の韓国産業経済研究所、兵庫県尼崎市神田北通の尼崎オリエンタルメタル、千葉県市川市の間組江戸川作業所、江戸川区小岩の横河工事会社に次々と爆弾を仕掛けた。

 捜査は困難をきめたが、それは犯行グループが平凡なサラリーマンを装い、都市ゲリラ兵士として「隣人との挨拶は最低限必要」などと、一般市民の中に紛れ込んでいたからである。しかし昭和50年5月19日、潜伏中の7人が一斉に逮捕された。荒川区南千住のアパートで大道寺将司(26)と大道寺あや子(26)夫婦が、江東区亀戸のマンションで斉藤和(27)と浴田由紀子(24)が、さらに黒川芳正(27)、佐々木規夫(26)、益永利明(26)が東京で逮捕された。また荒井まり子(24)が仙台市で逮捕された。犯人たちは青酸カリを隠し持ち、大道寺あや子は手錠をかけられようとしたとき、青酸カリを飲もうとして捜査員にたたき落とされたが、斉藤和は取調室で隠し持った青酸カリで自殺した。

 犯人グループは「腹腹時計」を作成し、そこには爆弾の作り方から生活上の注意まで詳しく書かれ、活動家や一部の書店に送付されていた。捜査当局はアイヌ解放に関係していた斉藤和を徹底的にマークして、芋づる式に一斉逮捕にこぎ着けたのである。

 この一斉逮捕で、爆弾テロは終息するかと思われたが、その後も爆破事件は頻発した。東京都立川駅北口派出所、国鉄名古屋駅西コインロッカー、小金井公会堂前、北海道警本部(5人負傷)、沖縄海洋博会場、高円寺駅前派出所裏、銀座の三原橋派出所、練馬区の小竹町派出所裏、港区の赤坂御用地南門付近、北区の赤羽の路上(1人死亡、1人負傷)と爆破は続いた。さらに、渋谷区代々木駅前派出所、千駄ヶ谷駅前派出所、杉並区の荻窪駅南口派出所、静岡市の安倍川農業用水取水口、大阪の三井物産ビル、このように爆弾テロはやむ気配がなかった。

 昭和50年8月4日、日本赤軍がクアラルンプールで米国大使館とスウェーデン大使館を占拠、人質との交換で佐々木則夫が釈放された。9月4日には横須賀の緑荘アパートで爆弾製作中に誤って爆発し、5人が死亡し8人が負傷している。

 昭和51年3月2日午前9時、北海道庁1階ロビーで時限爆弾が爆発、道庁職員2人が死亡、95人が負傷し、三菱重工ビル爆破事件に次ぐ惨事となった。地下鉄駅のコインロッカーから「東アジア反日武装戦線」の名で「道庁に群がる占領者はアイヌの土地を強奪してきた」と書かれた犯行声明文が見つかった。一方、アイヌたちは「テロリストの活動に、アイヌが利用された」と非難した。この道庁爆破で大森勝久が逮捕された。

 昭和52年には京都の梨木神社、大阪の東急観光、東京大学法文学部1号館、三井アルミ社長宅、渋谷の神社本庁、東本願寺が爆破された。昭和52年9月28日、日航機が日本赤軍の丸岡修、佐々木則夫らに乗っ取られ、ダッカ空港で乗員・乗客141人を人質に、身の代金16億円と赤軍派奥平純三、東アジア反日武装戦線の大道寺あや子、浴田由紀子ら9人の釈放を要求。福田赳夫首相は「人命は地球より重い」として、6人(3人は出国拒否)と身の代金を渡した。日本国内では福田首相の超法規措置は問題にされなかったが、世界各国からは日本政府の弱腰に非難の声が上がり信用を失墜させた。

 昭和57年7月12日に宇賀神が逮捕。昭和58年5月18日、道庁爆破の疑いで加藤三郎が逮捕。平成7年3月4日、浴田由紀子がルーマニアで身柄を拘束された。

 東アジア反日武装戦線は天皇陛下暗殺を計画し、多くの市民を犠牲にしたが、彼らの思想は理解しがたい。日本は明治維新以来、台湾、朝鮮、中国、インドシナ諸国などに侵略し、その利益を築いたことは事実である。戦後は企業が海外に進出し、貿易によって日本の社会構造を形成したといえるが、それを企業侵略と呼ぶかどうかである。

 東アジア反日武装戦線は、「企業侵略によって搾取されている国々の労働者から、企業侵略を阻止するのが目的」と主張し、日本の「原罪」を告発するため一連の事件を起こしたとしているが、その考えには強い異質性を覚える。

 大道寺将司、益永利明、大森勝久は死刑、浴田由起子は懲役20年、加藤三郎は懲役18年、黒川芳正は無期懲役、荒井まり子は懲役8年が確定している。東京地裁の山室恵裁判長は「社会を変革しようという正義感から行ったものであるにせよ、自分たちを絶対視し、爆弾攻撃という過激な手段を選んだ独善的、短絡的な犯行で、非難を免れない」とのべた。

 



別府保険金殺人事件 昭和49年(1974年)

 昭和491117日の夜10時頃である。大分県・別府国際港第3埠頭の岸壁から1台の乗用車(日産サニー)が暗い海面に転落した。車のテールランプは数秒で海中に消え、岸壁で夜釣りをしていた人たちが、泳いできた荒木虎美(とらみ、47)を岸に引き上げた。助けられた荒木が「車の中に妻子3人が残されている。おれが運転していればよかった」と言ったことから、釣り人たちは慌てて警察を呼んだ。午後1140分、海中から乗用車が引き揚げられたが、同乗していた荒木の妻・玉子(41)、中学生の長女(12)、小学生の二女(10)はすでに溺死していた。

 この事件は、単なる交通事故とみられていた。病院で手当てを受けた荒木虎美は警察当局に次のように説明している。家族が関門大橋を見たいと言うので出かけたが、帰る途中で妻と運転を交代、妻が「別府湾のきれいな夜景が見たい」と言ってフェリー岸壁に入った。私は助手席で寝ていたが、妻が悲鳴を上げた瞬間、車が岸壁から海面に転落し、海水がどっとあふれてきた。フロントガラスが割れたので何とか脱出できた。

 荒木虎美は妻の運転ミスを強調したが、翌日になり荒木が事故の3カ月前に結婚し、その直後に妻とその子供に3億1000万円の生命保険金を掛けていたことが分かった。しかも保険加入時の健康診断は、妻ではなく愛人を身代わりにさせていた。定職のない荒木はたちまち疑惑の人となった。

 マスコミはこの事件をスキャンダラスに書き立てた。これが保険金殺人事件ならば死刑は確実であるが、単なる事故ならば億万長者となる。まさに天国と地獄だった。荒木は、それまで何度も刑務所としゃばを往復していて、前科5犯の九州一の極悪人として有名だった。そのため大分県警は、この事故を保険金目当ての偽装殺人と考えていた。

 昭和2年、荒木虎美は旧姓山口虎美として大分県佐伯市の農家に生まれた。海軍特攻隊基地で終戦を迎えた山口虎美は、復員して佐伯市で中学校の代用教員になった。ところが昭和24年に最初の犯行を起こす。山口虎美は結婚していたが、愛人が子供を身ごもったため、知人の鍼灸(しんきゅう)師に妊娠中絶を頼み、愛人の子を堕胎させた。堕胎させながら、山口虎美はこの鍼灸師を「医師法違反と堕胎罪を世間にばらす」と恐喝。鍼灸師は山口を恐喝罪で告訴し、山口虎美は懲役3カ月、執行猶予3年の判決を受け、教員を辞めることになった。

 最初の妻と別居し、別府市で肉屋を始めたが、商売はうまくいかず、借金苦から放火による保険金詐欺を行った。放火の2週間前に20万円の火災保険を掛け、昭和25年1月20日、店に放火して全焼させた。山口は火災保険金を受け取ったが、保険証や衣服などを別の場所に保管していた。この不自然な保険契約から、保険金詐欺と放火罪で起訴された。この裁判は最高裁まで争われたが、結局は懲役8年の実刑判決となった。自分の有罪の決め手を証言した妻とは離婚した。

 出所後に不動産業を始めたが、昭和42年7月、共同経営者の妻との不倫から傷害罪を犯し、宮崎刑務所で再度服役。この服役中にエドワード・ケネディが車に愛人を乗せて事故を起こし、女性だけが死亡した事件を知った。この事件によって保険金殺人を思いつき、「今度こそ大金をつかむ」と刑務所の仲間に話していた。

 昭和4711月に宮崎刑務所を出所すると、不動産ブローカーの仕事をしながら次々に女性をあさり、保険金殺人の獲物を探していた。「子供が大好きなので、母子家庭の母親と結婚したい」と結婚相談所や福祉事務所を訪ね回り、土産物店でアルバイトをしていた荒木玉子と知り合うことになる。玉子は大工の夫と死別し、中学3年の長男(15)を頭に3人の子供がいた。

 昭和49年8月1日、2人は婚姻届を出し、山口虎美は荒木姓となって3人の子供と養子縁組を結んだ。ところが2人は結婚式を挙げず、親戚にも知らせずに別居生活を続けた。荒木虎美は妻子に保険を掛け、2カ月間に契約した保険金は3億1000万円に達した。荒木虎美は自分には保険金を掛けず、保険金の受け取りはもちろん荒木本人であった。荒木は結婚直後から別居し、数人の愛人をマンションに連れ込んでいた。

 保険契約から12日後の1117日夜、荒木虎美は家族をドライブに誘った。荒木を嫌っていた長男は受験勉強を理由に難を逃れた。事故後の1119日に行われた葬式には、喪主である荒木虎美は姿を見せず、中学3年生の長男が喪主を務めた。車の転落事故は保険金殺人事件とのうわさが広まったが、荒木は記者会見で無実を訴え、事件について次のように説明した。

 「自分だけが助かり、私は不利な立場になっている。自動車が沈んだとき偶然フロントガラスが割れたので助かったが、私も死んでいたかもしれない。私の言葉を信じないならば、岸壁から自動車で飛び込んでごらんなさい。生命保険は玉子が加入したいと言うから入った。保険金が多額すぎるというが、1人1億円なら3人で3億円、毎月の払込金額もわずか17万円だ」と述べたが、事件のあった当時の上級国家公務員の初任給は7万2800円で、荒木虎美には保険の掛け金を払うほどの収入はなかった。

 事故から10日目、荒木は事故証明をもらうために別府署の交通課を訪ねた。しかし交通課長は、捜査中なので結論が出るまでは事故証明は出せないと拒否。荒木は報道陣が取り巻く中、警察官に大声で抗議を繰り返した。保険会社は「警察の結論が出るまでは、保険金を払わない」と答えるだけであった。

 荒木虎美は週刊誌やテレビで自らの潔白と無実を雄弁に語り、得意の弁舌で警察の不当性を非難した。マスコミは荒木の周囲に群がったが、保険金殺人の単語を口に出せないでいた。保険金殺人は家族の命を奪って金を得ることで、そのような恐ろしいことを口に出せなかったのである。

 捜査の焦点は、事故当時誰が運転していたかであった。捜査本部は牧角三郎・九州大教授に鑑定を依頼。1210日、玉子の遺体に残された右ひざの皮下出血が助手席のダッシュボードの傷と一致したことから、荒木虎美が運転していたとした。

 翌日、荒木虎美はフジテレビのワイドショー番組「3時のあなた」に生出演、自分の主張を訴えた。司会者の寺島純子、推理小説家の大谷羊太郎、作家の戸川昌子が事故当時の模様について荒木に質問し、荒木は愛する妻子を亡くした哀れな夫を演じた。

 その中で、「奥さんはハイヒールを履いていた。自動車を運転するのにハイヒールはおかしいのではないか」と追及されると、荒木は逆上し「私の言うことと、他人の言うことと、どっちを信じるんですか。くだらない質問はやめなさい。私の言うことが信じられないなら自分で飛び込んでみたらどうです。もうテレビには出ません。本人を呼んでおいて、人の話を信用しないのは失礼じゃないか」

 荒木虎美は放送本番中にもかかわらず、席を立ってスタジオを出て行った。荒木はフジテレビの裏門で報道陣に囲まれ、事件の発端から捜査の方法まで整然と説明した。しかし午後5時50分、フジテレビの裏門で荒木は警視庁捜査1課の刑事に逮捕された。荒木は報道陣に笑顔を見せながら警察の車に乗り込んだ。

 大分県警は荒木虎美をクロとする決定的な物的証拠をつかんでいなかった。警視庁は殺人容疑者がテレビ出演しているのを不快に思い逮捕に至ったのである。検察はその後の捜査で犯行の状況証拠を次々と出したが、確実な証拠はなく傍証だけであった。

 まずサニーの車体にある5つの水抜き孔のゴム栓が抜かれていた。水抜き孔は車内にたまったゴミを掃き出すために車体の底につけられたもので、荒木が栓を抜いていたので、サニーは海に転落して5秒くらいで海中に沈んだとされた。また運転席の前にあるルームミラーが固定式から脱落式のものに取り換えられ、転落の衝撃ではずれやすくなっていた。さらにサニーの中から金づちが見つかり、捜査本部は転落の衝撃でフロントガラスが割れたのではなく、荒木が金づちで割ったとした。

 捜査本部はサニーの中古車を使って転落実験を行った。その結果、予想とは逆に転落の衝撃でフロントガラスが割れたのである。金づちで割ったとする捜査本部の推測ははずれてしまった。状況からは荒木の犯行の可能性が高いが、決定打がないまま裁判となった。

 検察側は事故が起きる1カ月前、荒木が愛人を乗せて現場の下見をしていたこと、刑務所仲間に犯罪計画を漏らしていたことを強調したが、荒木は罪状を認否し、運転していたのは玉子で、玉子の過失による事故と主張した。荒木が運転していたとする牧角教授の鑑定に、弁護士は論理的矛盾があると反論した。

 しかしここで、予想外の証人が現れた。証言台に立ったのは、別府市内で鮮魚商を営む男性であった。男性は「事故直前、荒木が運転するサニーが別府国際港第3埠頭に入る手前の国道210号線で信号待ちをしているのを見た」と証言したのである。さらに「運転していたのは、荒木虎美に間違いない」と断言した。

 ドライブの誘いを断って命拾いした長男が証言に立った。荒木は大きくなった長男を見て、むせび泣いた。しかし長男は検事の尋問に「あの男を死刑にしてほしい」と言い、荒木に向かって「お前がやったんだ」と叫んだ。

 昭和55年3月28日、大分地裁は起訴事実をすべて認め、荒木虎美に死刑を言い渡した。裁判長は「まれにみる計画的、残忍な犯行で情状酌量の余地はない。極刑が相当で、死刑に処する」と判決を下した。荒木は上告したが、昭和59年9月、福岡高裁も荒木に死刑の判決を下した。荒木は最高裁に上告したが、肺がんを患って手術を受け、平成元年1月13日、八王子の医療刑務所でがん性腹膜炎のため61歳で死亡した。最高裁は、「被告人死亡につき控訴棄却」として、最終決着がつかないまま事件は終了した。

 この事件は、松本清張の小説「疑惑」となり、監督・野村芳太郎、主演・桃井かおりで映画化されている。荒木虎美役を桃井かおりが演じ、夫を助手席に乗せ、車ごと海に飛び込んで自分だけが助かるのはこの事件と同じであった。岩下志麻が演じた敏腕弁護士は、海に飛び込んだときに夫が運転していたと立証して妻を無罪に導くが、弁護士はこの妻が気に入らず、夫が自殺目的であったと証明。保険を掛けてから1年以内の自殺だったため、妻には保険金が入らないというストーリーになっていた。

 生命保険金を狙った殺人事件は、生命保険の歴史とともにあったが、生命保険殺人を国民に強く印象づけたのは、この3億円保険金殺人事件が最初である。それまでの保険金がからんだ事件は、最初に家庭があって、殺人は愛人問題、子供の問題、経済的問題など、ドロドロとした家庭内騒動によって偶発的に起きたものである。しかし今回の事件は、はじめから生命保険金を得るために、餌食となる未亡人を物色し、形式的に結婚し、多額の保険金を掛け、凶器となる自動車を買うという、極めて計画的犯行であった。

 誘拐や強盗などの多くの犯罪は、捕まるリスクが高い割には儲けは少ない。それに比べ、生命保険を利用した事件は捕まるリスクは低く、大きな儲けをもたらした。このような事件は、ヒトの生命をモノと捉える拝金主義、欲望社会、消費社会という戦後の日本が、ひとつの到達点に達したことによって引き起こされたといえる。それまでは家族の生命を利用して金儲けをする発想はなかった。今回の事件は劇場型犯罪の元祖といわれ、この事件以降、同様の手口による計画的保険金殺人事件が目立つようになった。

 荒木虎美は九州一のワルとよばれたが、もし荒木に前科5犯の過去がなかったら、マスコミに出ず謙虚を装っていたら、また数年前から生命保険を掛けていたら、物証のないこの事件の判決がどうなっていたか分からない。

 


昭和40年代小事件史


【新宿赤十字・新生児結核事件】昭和40年(1965年)

 昭和4010月、東京都牛込保健所が乳児の3カ月検診を行ったところ、ツベルクリン反応陽性の乳児が数人見つかった。検査を受けた42人中、強陽性が1人、陽性が2人、疑陽性が27人、陰性が12人だった。このことは、結核の集団感染を思わせる結果だった。

 乳児はいずれも西大久保にある新宿赤十字産院で生まれていて、3人の乳児の胸部レントゲン写真を撮ったところ肺結核が確認され、ほかの3人の乳児も結核に感染していた。1つの産院で産まれた乳児から、結核患者が集団で発生することは異例のことであった。

 牛込保健所は乳児結核の集団感染として都衛生局に報告、調査が開始された。昭和40年に新宿赤十字産院で生まれた乳児は1237人だったが、結核を発症したのは同年6月から7月にかけて出産した乳児に限られていた。

 最終的に乳児29人が結核を発症し、1人が死亡。死亡した乳児の胃液から結核菌が検出された。結核の感染ルートは不明だったが、乳児、あるいは病院職員からの感染とされた。感染を受けた乳児は肺門リンパ節の腫大が認められ、経口感染ではなく経気感染とされた。

 結核菌は日光に弱く約30分で死滅するが、空気中の小さなチリに付着した場合には約10時間、痰の中では1日以上生存する。そのため、閉鎖された狭い空間ではこのような集団感染が起きやすかった。

 新宿赤十字産院の未熟児センターは、昭和39年に完成したばかりで、ベッド数90床、東洋一の規模を誇っていが、結核の院内集団感染としては日本初例の病院となった。この乳児集団結核に関する調査については、岩崎龍郎が詳細に報告している(日本医師会雑誌。56:11401146,1966)。


【睾丸(こうがん)摘出事件】昭和40年(1965年)

 昭和40年9月、宮崎県の11歳の少年が精神病院に入院。親への相談もなく少年の睾丸が摘出された。この少年は炭坑離職者の子供で、7歳のころから放火などの不良行為が絶えず、消防署にイタズラ電話を掛けたことから、県知事の命令で措置入院となった。

 精神病院の院長は、少年は興奮性のある知的障害で危険性が高いと判断、睾丸の摘出手術を行った。現在では、このような去勢は行われていないが、当時は精神科の外科治療のひとつであった。乱暴者を去勢すれば、あるいは女性ホルモンを投与すれば、女性のようにおとなしくなるという理屈であった。

 さらに当時は、精神病は遺伝性疾患され、変質者の子孫を残さないために去勢手術が行われていた。明治35年の「神経学雑誌」第1巻第1号には、「変質者ノ睾丸摘出ト社会保護」という論文が掲載されている。昭和40年当時は、変質者という言葉が新聞でも多用され、この睾丸摘出事件は大きな問題にはならなかった。

 平成8年、米国でミーガン法が成立。このミーガン法とは「性犯罪者の情報公開法」のことで、ニュージャージー州の少女ミーガンちゃん(7)が性犯罪常習者にレイプされ殺害された事件をきっかけにできた州法である。性犯罪者の住所、犯罪歴を住民に公開し、地域で性犯罪常習者を監視する法律であるが、法律の検討段階で性犯罪者の去勢を求める提案も、真面目に検討されていた。


【当たり屋稼業】昭和41年(1966年)

 昭和34年に日産ブルーバードが発売され、そのころからマイカー時代が始まった。自動車の数が増えるに従い交通事故が増加し、そこに目をつけた新たな犯罪が生まれた。それはわざと道に飛び出し、自動車にぶつかって大げさに痛がるふりをして、運転手から慰謝料や治療費をだまし取ることであった。「当たり屋」という言葉が、昭和37年の流行語になり、日活映画「当たり屋大将」も上演された。

 昭和41年8月31日、鳥取、群馬両県警は当たり屋一家4人の父親(44)と妻(27)を詐欺容疑で指名手配。9月1日には、北海道警、山梨、栃木の両県警からも指名手配となり、警視庁は「準広域重要事件」として凶悪犯並みの扱いとした。この事件が悪質だったのは、両親が自分の子供を当たり屋にしていたことで、各新聞社は連日のように報道した。

 しかし9月3日、両親は大阪市西成区のアパートで逮捕された。逮捕されたのは大阪府警の巡査部長だった大家が、手配中の当たり屋一家と気づいたからだった。刑事3人が張り込み、格闘の末に逮捕となった。父親は戦時中に銃創を負い、左手が不自由だったため職はなく、傷痍軍人手当金年額17万円の生活であった。

 この一家は、昭和41年4月から8月の間に、北海道から九州まで場所を変え、26件の当たり屋を行い、約60万円を得ていた。長男(10)の身体には自動車に何度もぶつかった傷があったが、警察の取り調べに、「自動車にぶつかったことはない」と長男は泣き出した。わが子を犠牲にする親のゆがんだ意識、親を助けようとするけなげに子供の気持ち、この2つが際だったコントラストを見せ、取調官は複雑な気持ちだった。当たり屋を始めた動機は、子供が実際に事故に遭って示談金3万円を得たことだった。

 この事件は当たり役が子供だったことから大きな話題となった。その手口は、徐行中の自動車に子供を当たらせ、母親が大声で「はねられた」と叫び、慌てて自動車から飛び出してきた運転手に、父親は「仕事中で先を急ぐ」、「子供の修学旅行についてきた」と適当な理由を並べ、動転している運転手に巧みな話術で警察ざたを避け、示談に持ちこんでいた。大島渚監督がこの事件を「少年」のタイトルで映画化し、ベネチア映画祭で絶賛を浴びた。


【丙午(ひのえうま)】昭和41年(1966年)

 丙午の年は災害が多く、その年に生まれた女性は「気性が荒く、夫を食い殺す」という迷信があった。江戸時代、男に会いたい恋しさから放火の大罪を犯した「八百屋お七」が丙午生まれだったことから、この迷信が広がった。

 丙午は60年に1度なので、昭和41年は明治39年以来の年となった。明治39年生まれの女性の多くは、丙午が原因で嫁にいけなかったとされているが、昭和41年は、ソ連の無人探査機が人類初の月面への軟着陸に成功、ビートルズが来日し、集英社が週刊プレイボーイを創刊した年である。高度経済成長の時代にこのような非科学的迷信は忘れ去られていたと思われていた。ところが親の考えは違っていた。昭和41年の出生数は135万人で、昭和40年に比べ約50万人、29%も激減した。出生数は明治39年の丙午以来最低となり、「へこみの世代」となった。日本には清め塩、北まくら、数字の4、家相などの迷信があるが、このような迷信が現代日本でまだ生きていたのである。

 ここで問題になるのは、明治39年の丙午の年の出生減少率は4%で、昭和の方が明治より丙午迷信の影響が7倍高かったことである。これは医療の進歩で人工中絶がしやすくなったのではなく、多すぎる情報によると考えられる。つまり無知による迷信や偏見よりも、生半可な知識が偏見をつくったのであろう。

 しかしながら、昭和41年に生まれた女性が結婚するのに、丙午を理由に相手の両親が反対することは少なくなった。丙午の紀子様が皇室に嫁がれたが、紀子様が丙午生まれであることは話題にもならなかった。次の丙午は平成28年である。果たして平成28年の出生率はどうなるであろうか。いやそれ以上に、昭和41年の出生数は135万人であるが、平成15年は112万人で、丙午以上に少ない平成以降の低出産を憂うべきである。

【南光病院人体実験】昭和41年(1966年)

 昭和41年3月、岩手県一関市の岩手県立南光病院で精神障害者に新薬の投与実験が行われていたことが発覚した。入院患者約350人のうち42人に新薬が投与され、内服後、約20人に高熱や皮疹などの副作用でて、3人が死亡した。この事件は、南光病院の脳波技術者の解雇をめぐる裁判の過程で明るみに出た。

 てんかん患者に新薬「エピアジン」(旧吉富製薬)のほか、KBH、KBL、TX−123など神経毒性のある治験薬が投与されていた。エピアジンは、当時の厚生省が認可していた薬剤であったが、副作用が強かったため使用されていなかった。KBHは、鼻汁、よだれ、ろれつ障害、血便などの副作用があり、KBLは発汗などの副作用が、またTX−123はよだれ、手足の震えなどの副作用があった。てんかんの新薬「エピアジン」が、てんかん以外の患者にも投与されていた。

 精神病患者への投与実験は、患者には説明されておらず、院長の独断で行われていた。この投与実験を新聞が報道し、遺族が提訴したが和解となった。国会でも追及され、患者の人権が叫ばれた。


【むち打ち症】昭和42年(1967年)

 交通事故の増加とともに、むち打ち症が社会問題となった。むち打ち症とは、首の骨をつないでいる筋肉や靭帯(じんたい)が自動車の追突事故などで損傷を受けることで、頸部ねんざ、頸椎ねんざとも呼ばれている。自動車を運転中に不意に追突されると、前のめりの状態から瞬時に背部の座席にたたきつけられ、その際、頸部を支えるヘッドレストがないと、空中でむちを振ったような衝撃が頸部に起きることによる。むち打ち症患者は、昭和41年だけでも全国で5万数千人に達し、昭和421026日に全国むち打ち症被害者対策協議会が発足した。

 昭和4312月、国立王子病院が中心になり、サルを用いた実験が行われ、脊椎を包む硬膜外に出血が見られ、頸椎よりも腰椎の障害が強かった。むち打ち症患者の約半数が性的不能と排尿障害を併発することから、むち打ち症は首だけの障害でないことが分かる。

 むち打ち症の症状は、首のしびれ、頭痛、めまいなどで、重症の場合は上下肢が麻痺することがある。また事故直後に痛みがなくても、時間が経ってから悪化することがある。症状によって治療法は異なるが安静が一番である。頭部を固定し、炎症が取れるまで冷やすのがよい。軽度のものは2〜3日、だいたいは2〜3週間で改善するが、自己判断せずに医療機関を受診して、外傷、骨折、脱臼の有無を調べることである。最近の車は、事故の衝撃を和らげるための衝撃吸収装置が取りつけられ、ヘッドレストやエアバッグ、シートベルトなどが普及し、むち打ち症の頻度は低下している。


【ミニスカート】昭和42年(1967年)

 昭和421018日、英国のスパーモデル・ツイッギーが来日。彼女はひざ上30センチのミニスカートで記者会見に臨んだ。カートからすらりと伸びる脚線の美しさは、男性の目を楽しませ、女性に新たな美意識をもたらした。

 ツイッギー人気はたちまちツイッギー旋風、ミニスカートブームを引き起こした。ツイッギーという名前は「小枝」を意味し、身長167センチ、バスト75.5センチ、ウエスト55センチ、ヒップ84.5センチの体型は、まさに小枝のようであった。小柄で華奢な体型ゆえにミニスカートがよく似合った。

 妖精のように愛くるしい笑顔、ボーイッシュなヘアスタイル、大きな瞳と独特なメイク。ツイッギーはミニスカートの女王として一世を風靡(ふうび)した。彼女は森永製菓などのCMにも出演し、ミニスカートはあっという間に全国に広まった。駅の階段では目のやり場に困り、女子高ではスカート丈の指導が毎日のように行われ、メガネをかけた大学の女性教官もいつの間にかミニスカートに変わっていた。

 ツイッギーの登場は世界のファッションを変えたが、ミニスカートを仕掛けたのは英国のデザイナー、マリー・クワントであった。それまでの女性ファッションは、映画「ティファニーで朝食を」のオードリー・ヘップバーンのように、品の良いスーツや長いスカート、大きなつばの帽子と長い手袋が定番であった。そのひざ下のスカートをひざ上に変え、女性のファッションを変えてしまった。ミニスカートは街を華やかにしたが、本当の目的は、新しい生き方を模索している女性に自信と自覚を持たせるためのデザインであった。

 時代の流れを反映させ、既成のファッションを変えたマリー・クワントは、英国に巨額の外貨をもたらし「英帝国勲章」を受賞した。この時代、ビートルズの登場で音楽が変わり、ツイッギーの登場で女性ファッションが変わった。その一方で、フーテン族やヒッピー族も現れ、マスコミはこの世相を昭和元禄と評した。同じ時代、中国では文化大革命が燃えさかったが、ビートルズやツイッギーの方が文化大革命の言葉にふさわしいように思える。


【ブタコレラ事件】昭和42年(1967年)

 ブタコレラはブタに発症するコレラで、下痢や食欲不振、歩行困難などの症状が現れ、致死率は高いが人間には感染しない。このブタコレラの予防にはワクチンが有効で、ワクチンを作るためにはブタコレラ菌をブタに感染させて、ブタから血清を採る必要がある。

 コレラ菌を感染させたブタは焼却処分にされるはずであるが、正常なブタと偽装されて、食肉業者に1頭300円で密売され、ブタコレラ菌に侵された豚肉が食卓に並べられた。ヒトには無害ではあるが、この事件は全国の消費者に衝撃を与えた。

 この事件を引き起こしたのは、栃木県の日本ワクチン那須研究所であった。死亡した「感染ブタ」を東京都葛飾区の大真産業会社らが買い、肉屋に市価の3分の1の値段で売っていた。売られた感染ブタ7100頭のうち、524頭が回収され19人が逮捕された。

 この事件で豚肉の卸値は暴落、ハム、ソーセージも売り上げを落とした。事態を憂慮した政府は、佐藤栄作首相や閣僚が豚肉の試食会を行ったほどである。プリマハムも病菌ブタを使っていたとして営業停止処分を受けた。

 ブタコレラは、平成4年の熊本での発症を最後に、日本では撲滅されている。このため、平成12年からワクチンは使用されていない。この事件は大きな騒動となったが、その後さらに悪質な事件が起きた。病死した牛の肉は、販売が禁止されているが、昭和61年1月、栃木県内で病死した牛肉が宇都宮市内の食品店やレストランに売られていたことが発覚した。病死した牛の肉は動物の餌として売買されるが、それを食肉に転売した事件が摘発されたのである。


【ボンカレーの発売】昭和42年(1967年)

 昭和33年8月25日、「チキンラーメン」が即席ラーメンとして世界で初めて日清食品から発売された。この即席ラーメンと並んで世界で初めて開発されたレトルト食品が「ボンカレー」だった。袋のまま湯でゆでて3分間待つだけのボンカレー(大塚食品)が、昭和42年に80円で発売された。食堂のカレーが100円程度なのに、ボンカレーは80円だった。高すぎると小売店の評価は散々だったが、3分間で出来上がる手軽さが受け、やがて若者を中心に急速に浸透し始めた。

 大塚化学の社長・大塚正士(まさひと)は、昭和39年にカレー粉の製造会社を買収した。しかしカレー業界は競争が激しく、他社と同じものを作っては勝てないと思っていた。そこでNASA(米航空宇宙局)が宇宙食として研究していたレトルトパックを利用し、缶詰に代わる保存食として調理済みのカレーを袋詰めにする商品を開発した。

 大塚グループには点滴を製造する医薬品部門があったため、液体をパックに詰める技術や殺菌技術を持っていた。ボンカレーのボンはフランス語のBON(おいしい)を意味していた。当時のテレビドラマ「琴姫七変化」で人気絶頂だった女優・松山容子がボンカレーの宣伝に起用され、着物姿の松山容子の微笑む笑顔が、日本の優しいお母さんのイメージをつくった。当時の雑貨屋が並ぶ街並みには、松山容子の微笑む看板をよく見ることができ、全国に掲げられた松山容子の看板は9万5000枚に達していた。

 ボンカレーは発売から35年間で、20億食以上を売り上げ、現在では年間約500億円市場に成長している。レトルトカレー市場のシェアは、ハウス食品が約40%、エスビー食品、大塚食品の順になるが、単品ではボンカレーが王座を守っている。

 チキンラーメン、ボンカレーなどのインスタント食品は、簡単で手間がはぶけ、値段が安く、時間がかからない利点があった。そのため、インスタントコーヒー、即席しるこ、チャーハンの素、粉末ジュースなどさまざまなインスタント食品が開発された。


【ストックホルム症候群】昭和43年(1968年)

 昭和43年8月23日、スウェーデンのストックホルムの銀行に強盗が入り、2人の犯人が4人の女性職員を人質に立てこもった。人質は6日後に解放されたが、不思議なことに、被害者である人質が犯人をかばう証言をしたのだった。さらに犯人が寝ている間、人質が警官に銃を向けていたことが分かった。人質の女性は犯人に同情や愛情を向け、感謝すべき警察に、敵意を持っていた。そして人質の女性が、犯人と結婚するに至った。

 このように誘拐や監禁などの被害者が、極度の恐怖心の中で、犯人への同情、連帯感、好意を持つ心理は、後にストックホルム症候群と命名された。本来、憎むべき犯人との間に妙な信頼関係が生じ、それが愛情へと変化するのである。ストックホルム症候群は、犯人と長時間接しているうちに起きやすいとされ、犯人と話しているうちに、同じ人間であること、同じ時間を共有していることから、憎しみが親密感と同情に変わり、共感から愛情が生まれるのである。

 昭和49年、米国カリフォルニア州で1人の女性が誘拐された。誘拐されたのは大学2年生のパトリシア・ハーストで、彼女は米国でも十指に入る大富豪ハースト家の令嬢だった。犯人は過激派組織(SLA)で、貧民や虐げられた黒人や有色人種の解放を求めた。SLAは、「パトリシアの解放と引き換えに、カリフォルニアの貧民1人につき月70ドルを出せ!」と要求。それは日本円にして1カ月1220億円に相当する大金だった。大富豪のハースト家といえども支払える額ではなかった。そのためパトリシアは解放されずにいた。

 マスコミは連日連夜、この誘拐事件を大々的に取り上げ、さまざまな憶測が広がっていった。この事件は一体どうなるのか? 大衆はかたずをのんで見守ったが、事件はあまりに意外な展開を見せた。誘拐事件から2カ月後、SLAはサンフランシスコの銀行を襲撃、そのときの銀行の監視カメラに、誘拐されたはずのパトリシアがマシンガンを持ち、SLAメンバーといっしょに銀行に押し入る姿が映し出されたのである。SLAの犯人6人はアジトを急襲され射殺。パトリシアは逃亡するが、その後FBIに逮捕され、懲役7年の刑罰を受けることになった。誘拐された大富豪の娘がなぜ過激派の一味に加わったのか。この現象が典型的なストックホルム症候群である。

 同じようなことは、平成8年にペルーで発生した日本大使公邸占拠事件でも、逆の形で起きている。若いゲリラは人質と生活を共にするうちに、日本の文化や環境に興味を示すようになり、人質に親近感を持つようになった。ペルー軍特殊部隊が強行突入したとき、犯人は人質を殺さず特殊部隊に射殺されたが、これも逆の意味でのストックホルム症候群とされている。


【自閉症】昭和43年(1968年)

 昭和43年5月19日、東京・青山学院大学で、第1回「自閉症児親の会全国大会」が開催され、全国から自閉症の親の代表約300人が参加した。

 自閉症は脳の中枢神経に何らかの先天性の機能障害があり、そのために生じる発達障害である。原因は分からないが、生まれつきの障害で、親の育て方やストレスなどの環境によって生じるものではない。発生頻度は約500人に1人で、寡黙で内気な性格を自閉症と誤解されやすいが、まったくの間違いである。

 自閉症は知的障害を伴うことが多いが、知的障害を伴わない自閉症(知能指数70以上)を高機能自閉症、またはアスペルガー症候群と呼んでいる。自閉症の根本的治療法はないが、早期発見や適切な教育によって自閉症の子供の発達は違ってくる。

 自閉症の症状は、他人とのコミュニケーションが困難なことで、自分の考えを伝えられず、混乱からパニックを起こすことがある。興味や関心が偏っていて、同じことを何度も繰り返す特徴がある。それが正常範囲内の隔たりなのか病的異常なのか、専門医でも自閉症の診断は難しい。そのため自閉症の診断を下せるのは、子供が4歳から5歳になってからとされている。

 自閉症の患者は約24万人とされ、自閉症は法律上障害者と認められず、福祉サービスや年金の対象になっていなかった。そのため日本自閉症協会は、自閉症患者の教育、福祉、雇用を保障するように運動を続け、その結果、平成16年に自閉症の援助などを定めた発達障害者支援法が成立した。


【九大構内に米戦闘機墜落】昭和43年(1968年)

 昭和43年6月2日の夜10時半頃、福岡市箱崎の九州大学工学部構内の大型電算機センタービルに、米空軍のF4ファントム戦闘爆撃機が墜落して炎上した。戦闘機は板付米軍基地(現福岡空港)で夜間離着陸訓練を行っていたが、着陸に失敗したのだった。機体と燃料が飛び散り電算機センターは炎上した。乗員2人は墜落直前にパラシュートで脱出して無事だった。板付米軍基地は福岡空港と併用しており、付近の住民は市街地にある米軍基地の恐ろしさを見せつけられた。

 水野高明九大学長が先頭に立ち、抗議集会とデモが行われた。九大構内で開かれた抗議集会には九大の学生約2000人が参加、大濠の米領事館へデモをかけた。福岡市役所前では、社会党、共産両党、福岡県評、福岡地区労が、「板付米軍基地撤去・日米合同演習即時中止市民集会」を主催し、参加した労組員ら2500人が領事館へ抗議デモを行った。一般市民を巻き込んだ抗議行動は、ベトナム戦争反対の運動を高め、全国的な反戦運動の後押しをすることになった。

 米軍のウィルキンソン参謀長は、事故について遺憾の意を表明。事故原因が究明されるまで板付基地では必要な場合以外、夜間飛行は行わないと表明した。この米戦闘機墜落事故は学生運動の気運を高め、機体の片づけ作業をめぐって大学当局と意見が対立した。


【米軍王子野戦病院】昭和43年(1968年)

 終戦後、米軍は東京都北区十条の旧陸軍用地を接収し、兵器修理工場「キャンプ王子」として使用していた。昭和41年、米軍はこの「キャンプ王子」をハワイへ移転し、その跡地にベトナム戦争の後方支援として野戦病院を作ることを計画していた。当時、ベトナム戦争の激化に伴い負傷兵が増加してため、埼玉県・朝霞基地の野戦病院だけでは対応しきれず新たな病院が必要だった。

 この米政府の動きに対し、小田実、開高健、鶴見俊輔らが発起人となったべ平連(ベトナムに平和を!市民文化団体連合)、声なき声の会などの市民団体が、王子野戦病院建設反対を掲げ、デモや街頭ビラなどの行動を行った。彼らはベトナム戦争を米国の侵略戦争ととらえ、日本が基地や病院を提供することは、米国の侵略戦争の手助けになると政府を非難した。「ベトナム侵略戦争やめろ」の声とともに、王子野戦病院は「日本の中のベトナム」として、反戦の象徴となった。

 闘争は特定の市民団体だけでなく、地元の町内会も立ち上がり、エプロン姿の婦人たちが駅頭宣伝やデモを繰り返した。北区の高校の文化祭ではベトナム侵略戦争をテーマに取り上げ、校舎には「王子野戦病院反対」の垂れ幕が掲げられた。このように王子野戦病院の建設は、ベトナム戦争反対と反基地闘争が相まって、激しい街頭闘争をもたらした。

 昭和43年3月18日、米軍は王子野戦病院を突然開院。その前後に、反代々木系学生(全学連)が王子でデモを行い、警官と衝突して157人が逮捕された。全学連の反対闘争は激しかった。彼らはヘルメット姿で、マスクで顔を隠し、手に角材を握り、歩道の敷石をはがして機動隊に投げつけた。

 機動隊員にも多数の死傷者がでた。3月28日の王子野戦病院反対デモでは一部の学生が病院に突入、将校クラブを占拠して179人が逮捕された。このデモはその後も激化し、交番の焼き討ちに発展した。4月1日のデモでは、巻き添えになった通行人が死亡、闘争期間中の負傷者は1500人以上となった。自民党の佐藤栄作総理は「安保条約上、やむを得ない」と発言、この発言は安保条約がベトナム戦争と結びつく要素を暗に意味していた。

 ベトナム戦争の激化に伴い、戦傷兵が直接ベトナムから運び込まれ、マラリアなどの伝染病の発生も心配された。さらに米兵による風紀上の不安が広がった。カービン銃を持った米兵が住民を威嚇し、米兵の基地からの脱走兵も相次いだ。このような状況を背景に、王子野戦病院の閉鎖を求める声が急速に高まり、署名は続々と集まり52万人を超えた。美濃部亮吉・東京都知事も反対運動の先頭に立ち、米軍に野戦病院の移転を要請した。「米国はベトナム侵略をやめよ」「日本は侵略戦争の手先となるな」、このような声が沸きあがった。国民世論が急速に高まり、昭和4412月、王子野戦病院はとうとう閉鎖に追い込まれた。

 王子野戦病院の跡地は現在、北区中央公園として野球場やテニスコート、サイクリングロード、図書館など充実した施設を備えた憩いの場所になっている。


【栗山病院事件】昭和43年(1968年)

 昭和431224日、大阪の精神病院・栗山病院で患者16人に院長や職員が暴行を加え、患者1人が死亡する事件が起きた。栗山病院は患者への待遇が悪く、職員による患者への暴行が繰り返され、患者たちは病院からの脱走を計画していた。

 院長や職員は患者を裸にしてバットでメッタ打ちにして死亡させ、死亡した患者は急性肺炎として処理していた。この事件が発覚したのは、一部始終を見ていた患者の1人が真相を書いた手紙を何度も窓から外に投げつけ、それを拾った通行人が警察に届けられたのである。警察の調査によってこの暴行事件が明らかとなり、事件から約10カ月後に大阪府警の立ち入り調査が行われ、犯行を認めた院長は懲役3年、ほかの職員にも有罪判決が下った。

 精神科病院による患者の暴行事件は栗山病院だけではなかった。昭和44年には、大阪の安田病院で看護人3人が男性患者をバットで殴り死亡させ、昭和55年には、大阪の大和川病院で看護人が男性患者に暴行を加え死亡させている。

 昭和59年には宇都宮病院でリンチによる患者死亡が大きく報道され、新聞・テレビなどで連日取り上げられたことから、このような暴行事件はなくなると思われていた。だが平成9年には、高知県・山本病院で職員2人が女性患者の頭を壁に打ちつけて死亡させ、平成10年には、北海道の平松病院で患者が職員の暴行によって死亡している。精神科病院は世間から隔離されているので、このように精神障害者の人権を無視する暴行事件が続発するのだった。


【逆恨み2院長刺殺事件】昭和44年(1969年)

 昭和441229日午前11時頃、大阪市住吉区の丸毛医院に、かつて性病の治療を受けた無職の少年A(19)が刺身包丁を持って押し掛け、診察室でカルテを書いていた丸毛博昭院長(41)の腹部をいきなり刺して自転車で逃走した。Aは次に、約100メートル離れた松崎診療所に上がり込み、松崎和郎院長(41)の左腹部を刺し、さらに約200メートル離れた成山医院で、診療中の成山院長の顔などを数回殴って逃げた。

 刺された丸毛院長と松崎院長の2人は死亡、成山院長は全治5日間のけがを負った。住吉署は血まみれのまま自宅に帰ったAを逮捕、犯行の動機を追及した。Aは犯行6カ月前に西成の旧飛田新地で女性と遊び、その後体調不良になり、大阪市立大付属病院を受診して淋病と診断された。驚いたAはすぐに治療を受け、淋病は治ったといわれたが、それでも患部の違和感が取れなかった。

 「もしかして、淋病が完治してないのかもしれない」「淋病ではなく梅毒かもしれない」、このように思い込んだAは、近くの病院や医院を次々に受診したが、どの病院も検査は正常で治っている、単なる思い込みと言われた。Aは医師たちが真剣に診察していないと誤解し、怒りを募らせていた。性病ノイローゼになったAは、医師たちに復讐を誓った。

 Aは金物屋から刃渡り22センチの刺身包丁を買い、住之江市民病院へ向かったが、病院は年末で休診だった。そこでAは丸毛医院、松崎診療所と次々に襲撃した。Aは「自分の命はあと1年。医者は何もしてくれない」と家族に話しており、極めて発作的な犯行だった。

【がんの人体実験】昭和44年(1969年)

 昭和441014日、金沢市で開催された第28回日本癌学会で、広島大原爆放射能医学研究所の岩森茂助教授が驚くべき研究内容を発表した。それは「がん患者のがん細胞を3人の特発性血小板減少症患者に注射して、注射から10日後に特発性血小板減少症患者の脾臓を摘出し、脾臓の細胞を生食水で処理して元のがん末期患者に注射した」という内容であった。このようなことは動物実験でも成果が報告されておらず、人体実験と批判が起きた。

 岩森助教授は「がん患者は免疫能が低下しているので、特発性血小板減少症患者にがんへの抗体を作らせ、それを元のがん患者に戻せば、がんは治るはず。脾臓は免疫抗体を作る力が強く、また特発性血小板減少症の治療として脾臓摘出は一般的な治療法で、脾臓摘出は予定していた手術なので問題ない」と説明した。理屈はそうであるが、患者を治療以外に使ったこと、がん細胞をがんでない患者に注射したことは、医師として常識を逸脱していた。

 他人のがん細胞を注射された患者は、幸いにも副作用は見られなかったが、「抵抗力のつく注射」とウソの説明を受けていた。一方、がん患者は一時的な回復が見られた程度であった。

 岩森助教授は、この研究は以前にも学会で報告したことがあり、自分の行為は間違ってはいないと強調した。しかしほとんどの医師は人体実験と非難し、このことがNHKニュースで流されたことから問題が大きくなった。

 他人のがん細胞の注射を受けた特発性血小板減少症患者は、このことを新聞やテレビで初めて知ったのである。日本弁護士連合会人権擁護委員会も医師のモラルを欠いた人体実験であると警告。広島大原爆放射能医学研究所の志水清所長は臨床実験を中止するように岩森助教授に勧告、同助教授は昭和46年1月、辞意を表明した。


【東大病院高圧酸素タンク爆発事故】昭和44年(1969年)

 昭和44年4月4日午後0時45分、東京大学付属病院の高圧酸素治療室内で高圧酸素タンクが爆発。タンク内で治療を受けていた東京都台東区の村松シズノさん(65)と静岡県富士宮市の岩田仲子さん(55)、それに治療に当たっていた同病院中央手術部の明石勝興助手(53)と台湾からの留学生で関東逓信病院脳神経外科所属の林昭義医師(34)の4人がタンク内で焼死した。

 村松シズノさんは外傷性中大脳動脈閉塞症で入院していたが、退院当日の朝、何の説明もなく明石助手から高圧酸素療法を行うことを知らされた。

 高圧酸素タンクは、密閉したタンクに純酸素を圧縮して送り込み、高濃度の酸素で障害部位の治療効果を上げる装置である。2〜3気圧に加圧された状態で酸素を吸うと、酸素が直接血液中に溶け込み、赤血球不足でも酸素が全身に行きわたる。高圧酸素療法はこれまで、一酸化炭素中毒、潜水病などの治療に効果を上げ、脳梗塞、麻痺性イレウスなどの治療にも応用され、特に脳梗塞後遺症のリハビリで多用されていた。

 犠牲者の合同葬儀で、東大付属病院の大島良雄院長は事故の原因解明に全力を挙げ、その成果を霊前に報告すると述べた。原因解明は進まなかったが、事故から半年後に本富士署は、明石助手がタンクに持ち込んだ眼底撮影用のカメラの電源がショートして、3気圧の純粋酸素が爆発したと発表した。

 高圧酸素療法では酸素濃度が高いため、ちょっとした火花でも爆発的に燃える危険性があった。米国では患者に木綿の下着を着せ、頭髪を布でくるみ、静電気が発生しないように配慮していた。明石助手は高圧酸素療法の権威者で、昭和42年に岐阜で患者がタンク内に携帯用のカイロを持ち込んで起きた爆発事故(患者は焼死)でも調査に参加していた。高圧酸素療法による爆発事故は、山梨市の山梨厚生病院でも起きていて、治療中の患者と付き添いの夫人が死亡している。


【老人医療費の無料化】昭和44年(1969年)

 昭和44121日、東京都は70歳以上の老人医療費(寝たきり患者は65歳以上)の無料化に踏み切った。老人医療費の無料化は美濃部都政の福祉政策のひとつで、老人の自己負担分を補助する制度だった。東京都に続いて他の自治体も老人医療費の無料化が導入されていった。

 当初、自民党は老人医療費の無料化に反対していた。しかし地方自治体が先行し、さらに世論に押される形で、昭和48年1月1日から国の主導で70歳以上の老人医療費の無料化が実施された。医療費は国が3分の2、自治体が3分の1を負担することになった。

 当時は、日本そのものが若く、高度経済成長の時代だった。国民医療費よりも国民総生産の伸び率の方が高かく、財政にも余裕があった。高齢者の人口は少なかったので、老人医療費の無料化は可能だった。

 この制度は老人の負担を軽減したが、老人医療費の急激な増大をもたらした。その結果、老人医療費は医療保険者間の負担格差を広げ、特に老人加入率の高い国民健康保険の財政を圧迫した。行政管理庁は、「老人医療費無料は不要な受診を助長している」と厚生省に見直しを勧告。昭和57年8月の老人保健法公布により、70歳以上の医療費無料制度は廃止され、医療費の一部有料化となった。

 高齢化社会は、高齢者を抱える国民健康保険を直撃し、財政悪化を引き起こした。このため、昭和611222日、改正老人保健法が公布され、この改正により老人医療費の自己負担分が引き上げられた。平成3年10月4日の改正老人保健法では、老人医療費の増大が予想されることから、老人の負担をさらに増やし、平成4年1月1日から施行された。平成9年には、寝たきりや認知症などの要介護者の増加に対応するため介護保険法が成立し、平成12年から施行された。


【コラルジル薬害】昭和45年(1970年)

 コラルジルは、昭和26年にイタリアのマジオニ社が開発した冠動脈拡張剤である。日本では鳥居薬品が輸入し、昭和38年から心臓病、狭心症の治療薬として多くの患者に投与されていた。このコラルジルを内服している患者の中に、微熱、コレステロールの顕著な上昇、血沈の亢進、脾腫、肝腫などの症状をきたす者が多くいることが分かった。

 この薬害について、大阪大医学部第2内科の西川光夫教授は、動物実験を含めた結果を学会で発表し、発売元の鳥居薬品に連絡、鳥居薬品はコラルジルの製造中止を決めた。ほぼ同時期に、新潟大医学部の内科医・佐々木博らは、コラルジルの副作用の可能性を日本消化器病学会関東甲信越地方会に報告、このことを昭和4511月の新聞紙上で発表した。

 大阪大医学部と新潟大学医学部の報告はともに正しいものであったが、薬害を社会的に警告した点では、新潟大医学部の行動の方がよりインパクトがあった。新聞報道によって、患者は自分に投与されている薬の副作用を知ることができたからである。

 コラルジル薬害は、病理的に2つの特徴があった。1つは血液中に泡状の細胞が出現することで、これは「泡状細胞症候群」と呼ばれ、通常の疾患では見られない珍しい所見であった。もう1つは肝臓にリン脂質が蓄積し、「リン脂質脂肪肝」を作ることで、リン脂質脂肪肝も珍しい所見だった。この病理所見から、血液学者や肝臓学者の注目を集めた。

 コラルジル薬害は、2000錠以上内服した患者に見られたことから、全国では2万人以上の被害者、500人以上の死者が出たと推定されていた。しかし薬害を訴えた被害者は28人で、裁判では被害者が勝訴し、賠償額は1000万円から2000万円で和解した。鳥居薬品は総額3億1605万円の賠償金を支払った。

 コラルジルは、米国で先行販売されたトリパラノールとほぼ同じ構造式の薬剤だった。このトリパラノールは肝障害を引き起こすことから、米国では昭和37年に販売中止になっていた。つまりもともと薬害が生じる可能性があった。

 コラルジルの発売前の基礎データでは、投薬された患者の中には血中コレステロールが数倍に上昇した患者がいたが、専門家はそれを問題ないと結論づけ、そのデータを意図的に除いた論文を書いていた。コレステロールが700mg/dLに上昇している生の治験データを見れば、素人でも危険な薬剤であることに気づくはずである。もちろんコラルジルは発売中止となったが、コレステロールのデータを意図的に隠して論文を書いた臨床専門医の責任は問われなかった。

 その後の研究報告によると、コラルジル薬害の特徴である泡状細胞症候群とリン脂質脂肪肝は、ヒトの20倍のコラルジルをラットやサルに投与しても、体内酵素によって分解され、同じ病像を示さなかった。実験動物で副作用が再現できないことは、動物実験だけではヒト特有の安全性は確保できないことを示していた。つまり薬の副作用には動物間の種差があり、臨床試験の重要性があらためて問われることになった。


【因島関節結核集団感染事件】昭和45年(1970年)

 昭和45年から46年にかけて、広島県因島市の奥医院を受診していた90数人の患者が、神経痛の治療などでステロイドの関節内注入を受け、関節結核に集団感染して14人が死亡していた。関節内に注射器で薬剤を注入する治療は特に珍しいものではないが、注射器の消毒が不十分だったことが集団感染の原因とされている。同院に勤めていた見習い看護師が当時結核に罹患しており、昭和45年に粟粒結核で死亡していた。このことから見習い看護師によって結核菌が蔓延ていたと考えられた。

 注射をした医師の責任が問われたが、その医師もまた死亡し、医院は閉鎖された。昭和50年、患者ら238人は総額38億円の損害賠償を国に請求する訴訟を起こした。国および県が予防措置や対策を講じなかったとして監督責任を追及した。しかし平成6年、広島高等裁判所は行政責任を否定し、原告の請求を退けた。知事、保健所長に結核予防法上および医療法上の作為義務違反は認められないと判断したのである。


【日照権訴訟】昭和47年(1972年)

 日照権とは「一定の期間、日照、通風を受けて快適で健康な生活を送れる権利」のことである。それまで日照権は、隣地の未利用に基づく恩恵にすぎないとされ、法律的には日陰者の権利と言われていた。騒音や振動は加害者の不法行為とされたが、日照権は自然にあるものがなくなることから違法行為とは認められなかった。しかし都市の密集化、違法増築、高層ビル建設をめぐり、周辺住民が「家に日光が差し込まなくなる」として、建設差し止めを求めて訴訟を起こすようになった。

 昭和47年6月27日、最高裁判所は日本で初めて「日照権は法的保護に値する」と判断を下した。しかしこの判決は、違法建築によって日当たりが悪くなったとして、損害賠償20万円を認めたにすぎなかった。違法建築が理由であって、日照権そのものを認めたのではなかった。

 わが国の法律には、建築基準法などの規制はあるが、日照権は明文化されていなかった。日照権を明文化した法律が求められたが、権利の保護と乱用が裏腹の関係にあったため、難しい問題であった。日照権は「社会生活上の我慢できる範囲であるか否か」によって判断され、我慢の範囲が常に議論になった。

 日照権が流行語になり、日照権の侵害と騒ぐケース、日照権を利用して失われた美観を訴えるケースが急増した。日照権は賠償金が絡むことから、新しい権利の乱用にもつながった。日照権争いの裏には、気に入らない隣人との感情のもつれがあった。

 昭和47年9月、札幌地裁は札幌市の住民が起こした日本住宅公団への日照権損害賠償訴訟で、住民勝訴の判決を下し、このことから日照権の社会的認知が急速に進んだ。


【ニセ医者事件】昭和47年(1972年)

 厚生省は、多発するニセ医者事件に対応するため、都道府県衛生部や保健所に配置している医療監視員3200人を動員して、病院や診療所で働く医師の医師免許証を1枚1枚確認することになった。昭和47年1月19日、この日の総点検で、ニセ医者109人が摘発された。ここで興味深いのは、摘発されたニセ医者の多くは評判がよく、患者に親切で優れた名医と思われていたことである。もちろん、怪しげな医療を施し、金儲けに専念するニセ医者もいたが、それはごく少数だった。本来ニセ医者ならば、診療上のミスで発覚するはずだが、そのようなケースはなかった。このようにニセ医者が多発したのは、医師不足と高収入が原因だった。

 ニセ医者は昭和44年頃から増え続け、昭和55年まで年間30人から140人前後が摘発されていた。ニセ医者の約7割が開業し、他人名義の医師免許証を利用していた。全国的な医師不足から、公立の診療所に就職していた者も少なくなかった。

 大阪府の現職歯科医師会長がニセ医師を雇っていたことが発覚。ニセ医師を雇っていた歯科医師も共同正犯として告発された。ニセ医者は医療関係者がに多かったが、全く医療とは関係のない職業の者もいた。それとは別に、医師の妻、放射線技師、検査技師などが、病院で働いているうちに資格の範囲を超えて診療行為を行うケースもあり、多くの逮捕者が出た。

 ニセ医者事件は、数年にわたりマスコミをにぎわした。大阪市大淀区(現北区)の斉藤病院では当時4人の医師がいたが、院長を含め3人がニセ医者であった。逮捕されるまで2万人以上の患者を診察していたニセ医者、帝王切開を行っていた産婦人科医、マスコミで有名になったセックス・カウンセラーなどが摘発され、多くの人たちを驚かした。


【看護師殺害事件】昭和47年(1972年)

 昭和47年5月16日朝、東京都足立区西新井にあるアヤメ病院(精神科病院、大石アヤメ院長)で当直をしていた看護師・常田志津ゑさんがベッドの上で死んでいるのが発見された。常田さんは両手両足を縛られ、タオルでさるぐつわをされ、呼吸困難による窒息死とされた。西新井署は統合失調症で入院していたA(36)とB(42)、アルコール中毒で入院していたC(36)の3人が前夜から行方不明だったことから、この3人が常田さんを殺害、出入り口の鍵を奪って逃走したとみて行方を追った。3人は同日中に発見され逮捕された。

 アヤメ病院は患者の社会復帰のため、軽症患者に小学生向け雑誌の付録の袋詰め作業をさせていた。3人の供述によると、Cは作業をサボることが多く、看護師によくしかられていた。犯行の動機は、その日作業をサボっていたCに、常田さんが「今度サボったら電気ショックをかけますよ」としかり、そのことに腹を立ててのことであった。Cは退院の近かったAとBを誘って看護師室に行き、Cが薬をもらっている間に、AとBがすきを見て常田さんの両手足を縛り、さるぐつわをして、結果的に死に至らしめた。


【鉗子置き忘れ事件】昭和48年(1973年)

 昭和48年4月27日、東京都町田市の町田中央病院で患者Aさん(69)が尿毒症で亡くなった。Aさんは胃潰瘍の持病があり、4月14日に吐血したため町田中央病院に入院、輸血を受けた。しかし吐血を繰り返したため、17日に胃潰瘍の手術を受け、手術は無事に終わったが、術後に尿が出ない尿毒症の症状が出現した。そのため血液透析が必要となり、20日に北里大病院に転院となった。しかし症状は改善しないまま、Aさんは尿毒症で27日に亡くなった。Aさんの遺体は29日、相模原の市営火葬場に運ばれ火葬にされたが、遺骨と一緒に長さ15センチの鉗子が出てきたのである。この事件は事事件にはならず、病院が300万円の示談金を遺族に払うことで決着がついた。

 鉗子置き忘れ事件は、町田中央病院以外でも起きている。昭和45年2月11日、北海道釧路市の釧路市立総合病院で、胃の手術を受けた女性患者(52)の体内に鉗子を置き忘れ、患者が死亡。同病院は同年4月にも鉗子の置き忘れにより患者を死亡させていた。昭和45年5月19日、愛知県新城市の今泉医院で、開腹手術を受けた男性患者(60)が鉗子の置き忘れで半月後に死亡している。

 手術に用いる鉗子類は、術後に本数を数えて確認することになっている。この常識的作業が抜けてしまい、事故が起きたのだった。このほか患者の腹部に止血用ガーゼを置き忘れる医療ミスも頻発している。ガーゼはレントゲンに写らないため、置き忘れても気づかない難点があった。この町田中央病院の鉗子置き忘れ事件の教訓として、手術後にレントゲン写真を撮ることが慣例となった。そのため鉗子を置き忘れても手術直後に発見され、事件として表面化しなくなった。それでも平成6年5月21日、大阪府池田の市立池田病院で鉗子置き忘れが起きている。

 このほか特別な例として、15年間鉗子を腹の中に入れたまま平気だった患者がいる。それは昭和62年6月、甲府市にある国立甲府病院で、15年前に胃潰瘍の手術を受けた甲府市内の女性(54)の腹部に、はさみのような手術器具が残されていた。この女性は子宮筋腫のため手術が必要とされ、甲府市内の県立中央病院の産婦人科を訪ね、腹部のレントゲン検査を受け、腹部の下方左側に長さ約14センチの止血鉗子が写っていたのである。異物が発見された女性は、これまで腹痛や違和感を訴えたことはなかった。取り出された鉗子は黒くさびていた。女性のカルテは廃棄されていて、正確なことは分からなかったが、病院側は女性に陳謝した。