昭和30年代

 終戦から10年後の昭和30年、日本の鉱工業生産は昭和10年の水準を超え、高度経済成長がまさに始まろうとしていた。昭和31年の経済白書で「もはや戦後ではない」と宣言したように、日本は急速に復興を遂げ、神武景気を皮切りに、岩戸景気、いざなぎ景気と経済成長を遂げ、輸出による外貨獲得、設備投資による生産の増大、インフラの整備、労働賃金の上昇、農業の近代化、これらが相乗的に購買力を高め日本の経済は拡大していった。

 昭和20年代の飢餓と極貧の時代から、人々はたくましく這い上がり、庶民の生活は向上した。工場の煙突は生活の豊かさを示し、原子力は鉄腕アトムのごとく科学の象徴と捉えられ、店頭には「三種の神器」と呼ばれたテレビ、洗濯機、冷蔵庫が並びはじめ、日常生活は落ち着きを取り戻した。極貧からつつましい生活へ、さらには消費生活へと次第に変わりはじめていった。昭和33年に東京タワーが建設され、昭和39年の東京オリンピックへ向け、高速道路や新幹線が整備され、新築ビルが街並みを競うように変えていった。

 昭和30年代は政治にも大きな変化があり、自由党と日本民主党が合併して自由民主党となり、社会党も左派と右派が合併して日本社会党となった。いわゆる55年体制が発足し、両者は対立しながら60年安保闘争を迎えることになる。

 昭和274月にサンフランシスコ講和条約が公布され、日本は独立国と認められたが、同時に日米安全保障条約により「アメリカ軍は、日本と東アジアの安全保障のため日本に駐留する」ことになった。60年安保はその条約をさらに踏み込んだもので、アメリカは日本に「基地の提供だけでなく、日米共同防衛」を求め、このことから日本がアメリカ側の一部として戦争に巻き込まれる可能性が出てきた。そのため非武装中立を主張する日本社会党、アメリカとの軍事同盟と批判する労働組合や学生が中心になり安保反対運動が高まった。一般国民も元A級戦犯だった岸信介首相の強硬なやり方への反発から、安保反対闘争は全国で吹き荒れ、安保阻止統一行動に560万人が参加し、国会議事堂は33万人のデモ隊に囲まれ、群衆は国会に突入しようとして警察と衝突、樺美智子さんが死亡した。

 日米安保条約で日本の民主主義を守れるのか、それとも日本が再び戦争に巻き込まれるのか、資本主義か社会主義か、あるいは永世中立国か、この選択は日本の主権、国益、将来に関わる重大事であった。世界の資本主義陣営と共産主義陣営に挟まれ、日本の主軸をどこに置くかの判断であった。しかし岸信介首相は「声なき声を聞け」と覚悟を示し、昭和35623日、安保条約は自然成立。この60年安保闘争が国民的規模の最後の政治闘争となり、その後、国民の関心は「政治から生活の豊かさ」に変わっていった。

 昭和35年に池田内閣は所得倍増計画を発表し、10年で達成するはずの所得倍増を7年で達成。戦後のベビーブームに生まれた団塊の世代は「金の卵」と呼ばれ、田舎から列車に乗り、都市部の中小企業に集団就職した。街は若い躍動感と活気に溢れ、彼らの労働力が日本経済を支えた。東京都内の自動車が100万台を突破、国民は政治から経済へ、政治から生活の豊かさに関心が移り、その象徴として消費ブーム、レジャーブームが到来した。

 昭和34年に皇太子殿下と正田美智子様がご結婚し、テレビが急速に普及。テレビの普及がそれまでの生活を大きく変えた。駄菓子屋に群がっていた子供は、「おばけのQ太郎」や「ひょこりひょうたん島」に興奮し、巨人、大鵬、玉子焼きで生き生きとしていた。若者は流行歌を口ずさみ、貧しくとも束縛されない自由があった。若い女性はロカビリーに夢中になり、「名犬ラッシー」にみる豊かな生活に憧れた。サラリーマンは植木等の「無責任時代」とパチンコで憂さを晴らし、それでいて真面目に働いた。戦前を忘れたように、国民の多くが家族に幸福を求め、家族のそれぞれがジャパン・ドリームを見ていた。

 

 

ノイローゼ 昭和30年(1955年)

 昭和31年の経済白書に「もはや戦後ではない」と記され、「三種の神器」と呼ばれたテレビ、洗濯機、冷蔵庫が家庭に目立ち始め、人々は生活の向上を実感するようになったが、それと平行するように昭和30年頃からノイローゼという言葉が流行(はや)りだした。

 ノイローゼとは、医学的には「心理的な要因による心身の異常で、脳の器質的変化を伴わない精神障害」のことであるが、このノイローゼが「ちょっと考えすぎ、ちょっと悩みすぎ」といった日常的な言葉として安易に使われるようになった。昭和30年7月24日、週刊朝日が「ノイローゼと現代人」の特集のなかで、「ノイローゼは現代人のアクセサリー」と書いたことがノイローゼ・ブームのきっかけとなった。当時は、著名人の自殺が相次ぎ、ノイローゼに関した本が多数出版された。

 終戦からの数年間は食糧難の時代で、人々はその日を生きることに必死で、ノイローゼになるゆとりはなかった。戦後10年を経て人々の生活が安定し、貧困という物質的な悩みが精神的な悩みに移行し、精神的な悩みが一種の知的ファッションになった。

 塩野義製薬は統合失調剤「ウインタミン」を発売したが、その広告のキャッチフレーズは「現代人の流行病ノイローゼ」であった。統合失調(分裂病)は精神の病気で、ノイローゼは心の病なので、「ウインタミン」の宣伝は、ノイローゼの言葉に便乗したといえる。

 敗戦で人生観や価値観が大きく変わり、田舎から都会に人々が移動し、企業では機械化による合理化が進められ、さらに家庭の不和や失恋、仕事の失敗や職場の人間関係などがノイローゼの要因となった。生活に余裕が出たため、自分の健康に関心が向き、そのことが健康不安を生じさせ、健康不安が身体の変調をもたらす悪循環となった。貧困による生活苦よりも、心の不安定がノイローゼをもたらした。

 昭和32年1月10日、第一製薬は国産第1号の精神安定剤「アトラキシン」を発売したが、そのときの宣伝文句は「文化人病、都会人病への新しい薬」であった。同年だけで不安神経症、不眠症、過度の緊張をとる精神安定剤(トランキライザー)が10社以上の製薬会社から次々に販売され、「トランキライザーの時代」と呼ばれるようになった。

 ノイローゼに似た言葉として不定愁訴がある。不定愁訴は原因がないのに多彩な症状を訴えることで、文字通り「なげきを訴えるところ定かならず」のことである。この不定愁訴という言葉は、昭和39年に第一製薬が発売したトランコパールの新聞広告で使用され、また昭和39年4月に日本経済新聞で有馬頼義の小説「不定愁訴」が連載され話題を呼んだことから流行語となった。不定愁訴は頭痛や肩こりから生理不順、不眠など多彩な訴えを含んでいたが、病気のようで病気ではないので、不定愁訴は患者がどれほどつらくても医師から相手にされず、そのため患者はさらに悩むことになった。

 昭和28年頃から自殺が増え、昭和33年6月1日の新聞には、日本の自殺率が世界第1位になったという不名誉な記録が掲載された。日本人の年間自殺率は10万人当たり24.2人で、2位はオーストリア、3位はフィンランド、4位はスイスの順であった。

 戦時中は空襲を受け、戦後は食糧難で日本人のストレスは極度に高まったが、ノイローゼや自殺は少なかった。戦時中は一億玉砕、挙国一致などが国民の一体感を高め、戦後の食糧難はストレスを覚えるほどの心に余裕がなかった。それが時間が経つにつれ、戦前の思いを捨てきれない人たちや職場や社会などに適応できない人たちが増え、さらに苦悩そのものが知的で純粋とする文学的な雰囲気があった。連帯観が崩壊し、孤独に耐えられない人たちが増加し、自殺、ノイローゼ、新興宗教が次々に生まれた。

 なお日本の自殺率は現在でも世界最高で、自殺率は欧米の約2倍になる。自殺者は平成10年から12年連続で年間3万人を超え、交通事故死の約3〜4倍、日本人死因の第6位、日本人30人に1人の死因になっている。また1人の自殺者の陰には30人の未遂者がいるとされ、自殺は大きな社会問題になっている。このように日本は自殺大国になっているが、自殺は個人的なものとされ、うつ病という医学的側面から、あるいは貧困、雇用、孤立、病苦などの社会面から取り上げられることは少ない。

 日本の自殺者の特徴は、働き盛りの中年男性に多いことである。日本の中年男性に自殺が多いのは、失業率と自殺が平行していることから不況の影響とされているが、そう単純ではない。物質的な豊かさが精神的脆弱をもたらし、貧困に対する忍耐力が低下し、自殺を禁じる宗教を持たず、自分を押し殺すことを美徳とする国民性。このように様々ことが、行き詰まりのなかで重なり、人間の弱さと閉塞した不安がその要因になっていると思われる。

 

 

 

アインシュタイン 昭和30年(1955年)

 昭和30年4月18日、アメリカのプリンストン病院で理論物理学者アインシュタインが胆嚢炎のため76歳で死去した。アインシュタインは時間や宇宙という大きな謎を解き明かし、それまでの物理学を根底から覆す発見を人類にもたらした。20世紀を代表する天才アインシュタインの名前は誰でも知っているだろうが、「単純なものこそ美しい」と表現した彼の宇宙と時空の理論を知れば、彼がいかに天才であったかが分かるはずである。

 アインシュタインは1879年にドイツの小都市ウルムでユダヤ人の子供として生まれた。3歳になってもしゃべれず、両親は知恵遅れの子供と思い失望していた。この子供がまさか天才と呼ばれようになるとは想像もしていなかった。少年時代のアインシュタインは学校が嫌いでクラスでは孤立していた。学校にはあまり行かず、独学で好きな自然科学の本を読んでいた。成績は悪くはなかったが、頭の悪い子供とされていた。

 ある日、5歳のアインシュタインに父親がコンパス(羅針盤)を見せた。アインシュタインはコンパスの針が常に一定の方角を指すのを見て、「物事の背後には目に見えない隠された何かがある」と直感した。針が一定の方向を向くのは地球の磁場によるものであるが、5歳のときから自然現象への洞察が鋭かったのである。また6歳頃からバイオリンの指導を受け、バイオリンは彼の生涯において心を和ませる大好きな楽器となった。

 アインシュタインは数学、物理学、哲学が好きであった。訪ねてくる叔父や知り合いの医学生に科学や物理学の指導を受け、彼らと議論を交わすことを楽しみにしていた。11歳で中等教育学校に入学するが、当時は軍国主義教育である。権威主義が幅を利かし、団体行動を強いられていた。学生は寄宿舎での生活であったが、それを嫌ったアインシュタインは知り合いの医師に、「学校生活に耐えられない精神状態である」と診断書を書いてもらい、勝手に家族のもとへ帰った。

 16歳の時、チューリッヒのスイス連邦工科大学を受験するが不合格であった。数学の成績は優秀だったが、現代語、動物、植物が合格点に達していなかった。しかし翌年には合格し、スイス連邦工科大学で数学と物理学を学ぶことになった。当時の物理学はニュートン力学が中心であったが、アインシュタインはニュートン力学に批判的であった物理学者エルンスト・マッハの影響を受け、最先端の学問である電磁気学にのめり込んだ。

 大学での彼の成績は優秀とはいえず、そのため博士号はもらえずに大学を卒業。卒業後の2年間は無職に近い生活で、高校教師、家庭教師などをしていたが、友人の紹介でスイス連邦特許局に就職することになった。特許局は申請された特許内容を審査する仕事であるが、その仕事は彼の科学的興味を満足させ、また決められた時間に仕事が終わるので、自由に研究ができた。仕事のかたわら自由な発想で独自の物理学の世界を作り上げていった。

 アインシュタインは実験室を持たない公務員だったが、彼には実験室は必要なかった。彼の頭の中が実験室で、頭で考えたことをノートに書きながら思考を繰り返していた。物理学者は実験結果から法則を見出したが、アインシュタインは「思考実験を繰り返して物理学の理論を見つける」という理論物理学の先駆者であった。宇宙という壮大な世界をどのように説明するのか、それが彼の理論思考のすべてだった。

 1905年、アインシュタインが26歳のときである。彼はそれまで「波」とされていた光が「粒子」であるという画期的論文を発表した。さらに数カ月後には、特殊相対性理論を発表、この年は彼にとって奇跡の年と呼ばれている。

 アインシュタインは「光とは何か」を常に考えていた。それまでの物理学者は光の速度の変化を測定しようとしたが、実験はことごとく失敗していた。地球は公転しているのだから、公転している方向に進む光の速度と、逆の方向に進む光の速度は違うはずである、がどの実験でも光の速度は同じだった。

 なぜ光の速度が一定なのか、このことは当時の物理学の大きな謎であった。この疑問にアインシュタインは「光の速度は絶対で、他の何かが変化している」と考え、「光の速度は一定で、時間の流れが変化する」という理論にたどりつくのである。

 時間が変化する理論は、それまでの物理学を根本から覆すものだった。宇宙の誕生から今日に至るまで、時間は正確に刻まれ絶対不変と誰もが信じていた。時間が伸びたり縮んだりするという発想はなかった。ところが特殊相対性理論は「速く動けば速く動くほど、時間の流れは遅くなる」というもので、もし光に乗って動くことができれば、時間は停止するはずであった。

 例えば時速100キロで走っている自動車を、時速96キロで走っている自動車の運転手がみれば、時速4キロのスピードに見えるはずである。ところが、光の速度は静止している人が測定しても、猛スピードで走っているロケットの中で測定しても同じなのである。この矛盾は静止している人の時間と、猛スピードで走っているロケットの中の時間の長さが違っていることで説明できた。この常識を覆す特殊相対性理論は難解で、理解できる物理学者は世界に数人もいないといわれたほどであった。だが彼の理論は、後の実験で確かめられることになる。

 地球の極点と赤道では、地球の自転によって速度に差がある。地球の極点と赤道に置かれた時計を比較した実験で、赤道に置かれた時計の時間がわずかに遅くなったのである。また飛行機に乗せたわずかな時計の遅れが特殊相対性理論と一致したのだった。この論文によってアインシュタインは新進気鋭の物理学者として世界の注目を集めた。特許局に勤め、研究室を持たない26歳の若者が、宇宙に関する認識を完全に変えたのである。彼はこの特殊相対性理論によって「速度と時間の関係」を証明した。

 1916年、次にアインシュタインは「一般相対性理論」を完成させ重力の問題を解決した。この一般相対性理論は「重力は空間のくぼみで、重力は光を含めたあらゆるものを引き寄せる」というもので、ニュートン力学を全面的に書き換えるものだった。

 それまで光は直進するとされてきたが、一般相対性理論は光も重力によって曲がるという考えであった。光が曲がるということは、直進するよりも長い距離を移動することになる。光のスピードは一定であるから、重力が大きければ大きいほど時間の流れが遅くなる。この「光は重力によって曲げられる」という彼の理論は、1919年の皆既日食の観測で見事に証明された。英国の観測隊が、本来なら見えるはずがない太陽の裏側の星を皆既日食の際に観測したのである。これは星の光が太陽の重力によって曲げられたことを証明する観測であった。彼の理論からブラック・ホールが予言され、後にその存在が証明されることになる。ブラック・ホールとは強力な重力によって、光さえも外に出ることができず、時間が止まるというものであった。

 また、「化学反応によって物質の重さが減少すると、減少した分だけ運動エネルギーが増加する」という理論を打ち立て、この論文は特殊相対性理論を発表した4カ月後に発表された。質量とエネルギーの関係を示したE=mc2という有名な公式の登場である。Eはエネルギー、mは質量、cは光の速さを示し、あらゆる物体にはエネルギーが含まれ、「エネルギーは質量×光の速度の2乗」とする公式であった。つまり1gの物質には、莫大(ばくだい)なエネルギーが秘められていることを示していた。物質には莫大なエネルギーが閉じ込められ、核分裂によって計り知れないエネルギーが出ることを数値で示したのである。この公式がなければ、原子力の実用化、原子爆弾の開発は大幅に遅れたとされている。

 アインシュタインは理論物理学者と呼ばれている。理論物理学とは頭の中で実験を繰り返し、普遍的な理論を組み立てる学問である。それまでの物理学は実験や観測データから定理を導くものであったが、理論物理学は理論があって、その理論を実験で証明するのである。宇宙の仕組みや物質の振る舞いをうまく説明できる仮説を作り、普遍的な理論に組み立て、それを証明するのであった。

 アインシュタインは、「自然界において絶対なのは光の速度で、相対的なのは時間と空間である」という概念を誕生させた。300年にわたって信じられてきたニュートン物理学を変え、新しい物理学の時代を切り開いた。アインシュタインは宇宙や自然界には偶然はあり得ず、すべては何らかの法則によって成り立っていると考えていた。「神がサイコロを振ることはあり得ない」とした。

 1917年にアインシュタインは一般相対性理論をもとに「宇宙モデル」を発表する。宇宙における時間、空間、エネルギーを方程式で示したのであるが、この方程式によると宇宙はいつか縮んでしまうことになった。この彼の宇宙理論以降、多くの理論物理学者が宇宙の存在を数値で示そうとしたがまだ完成されていない。

 アインシュタインは日本にも来ている。1922年の10月8日、マルセーユから日本郵船の北野丸に乗り、北野丸が上海に向かっている途中の1110日、スウェーデン科学アカデミーのノーベル賞委員会はアインシュタインにノーベル物理学賞を与えると発表した。

 アインシュタインは1117日に神戸で下船、1229日まで日本に滞在し、日本各地で熱狂的な歓迎を受けた。各地の講演会には数千人が集まり、話を理解できなくても聴衆は催眠術にかかったように身動きもせずに静聴した。

 アインシュタインは世界的な有名人となったが、ドイツでは「第1次世界大戦で負けたのは、ユダヤ人が協力しなかったから」とする反ユダヤ主義が意図的に広められていた。そのため、193310月、アインシュタインはナチスの迫害から逃れるためアメリカに渡った。

 アインシュタインは「暴力は何の解決をも生み出さない」とする平和主義であったが、多くのユダヤ人が殺害されているのに怒りを覚え、ナチスを倒すためには暴力しかないと次第に考えるようになった。1939年、原子爆弾開発を促す手紙をルーズベルト大統領に提出し、マンハッタン計画が開始されることになった。

 第二次世界大戦が終わると原爆の悲劇を知り、平和運動、世界連邦運動、核兵器根絶運動に尽くすことになる。1948年、プリンストン高級研究所を訪れた湯川秀樹博士に、原爆が日本に投下されたことを謝罪したほどであった。

 アインシュタインの業績は華々しいものであったが、それ以上にユーモアあふれた表情や言動、親しみやすい風貌で人々の心を魅了した。相対性理論について、「男の子が可愛い女の子と1時間並んで座っていたとすれば、その1時間は1分のように感じるでしょう。もし熱いストーブのそばに1分間座っていたら、その1分間は1時間のように感じるでしょう。これが相対性理論です」とユーモアで答えてくれた。

 1955年4月18日午前1時15分、アルバート・アインシュタインは息を引き取った。享年76。葬儀はわずか12人の参列だけの簡素なものだった。彼の遺志により、灰となった遺体は近くのデラウェア川に流された。アインシュタインの墓はないが、彼の名前は永遠に残るであろう。

 

 

 

人工腎臓と腎移植 昭和30年(1955年)

 昭和30年、第14回日本医学会総会で、群馬大学医学部第二外科の渋沢喜守雄教授と丹後淳平が「犬の腎臓を摘出し、人工腎臓を用いた実験成績」を発表した。この人工腎臓を用いた動物実験は日本で初のことであった。

 腎臓は体内の老廃物を尿として体外に排泄するため、腎臓が障害を受けると体内に老廃物が蓄積し、腎不全から尿毒症になり死に至る。人工腎臓とは血液中の老廃物を腎臓に代わって取り除く装置で、いわゆる血液透析(人工透析)のことである。

 世界で初めて人工腎臓の動物実験が行われたのは大正13年のことで、人間の腎不全の治療に応用されたのは、昭和20年にオランダのウイレム・コルフ教授が人工腎臓を完成させてからである。コルフ教授の人工腎臓は、セロハンのチューブを回転ドラムに巻き付け透析液に浸したものであった。患者の血液をチューブに流し、老廃物を透析液にしみ出させ、きれいになった血液をチューブの末端から静脈に戻る仕組みであった。

 人工透析が進歩したのは朝鮮戦争のときである。負傷したアメリカ兵がクラッシュ・シンドローム(挫滅症候群)を引き起こした際に、その治療として用いられた。クラッシュ・シンドロームとは筋肉が長時間圧迫されると筋肉細胞が壊死を起こし、筋肉からミオグロビンが大量に遊離して、腎臓の尿細管を詰まらせ一過性に急性腎不全をきたすことである。第二次世界大戦のロンドン空襲の際、クラッシュ・シンドロームによる多数の犠牲者を出し、一過性の急性腎不全を脱すれば回復することが分かっていたため、人工透析の実用化が急がれたが、当時の人工透析は急性腎不全の一時的な救命的治療であった。

 その後、人工透析の改良は進み、慢性の腎不全患者にも使われるようになり、日本では昭和42年に医療保険の適応になった。しかし、患者の負担が月30万円と高額だったため普及せず、また昭和45年の時点で人工透析は日本には666台しかなかった。人工透析はまだ一般的治療とはいえず、「金の切れ目が、命の切れ目」「先の患者が死ぬのを待って、治療を受ける」状態であった。

 昭和47年6月、川澄化学工業が人工透析の国産化に成功。本体と血液回路はプラスチック製で、透析膜はセルロース系のセロハンを使用し、価格は1万5000円であった。翌48年に人工透析が全額公費負担となって、透析患者は飛躍的に増えることになる。昭和51年にはセロハンから安全性を高めたホロファイバー(中空糸)に変わり、このころから透析患者の長期生存例が多くなってきた。

 血液透析を必要とする患者は年々増え、最近では年間約1万人ずつ増え、平成22年の血液透析患者数は約29万人に達している。血液透析患者が増加したのは、糖尿病の合併症である糖尿病性腎症が増加したからで、血液透析を受けている患者の半数は糖尿病による腎不全患者である。血糖コントロールが悪いと、糖尿病の発病から10年で腎症が発症するとされている。

 透析患者の10年生存率は42.3%で、人工透析が血液透析の95%を占め、残り5%は腹膜透析である。腹膜透析は患者自身の腹膜を利用して、腹腔に一定時間透析液を入れ、過剰な水分や老廃物を透析液に移動させ、その透析液を体外に排出させる方法である。なお日本の透析患者は、世界の全透析患者の約3分の1を占めている。

 このように血液透析、腹膜透析療法が行われているが、それらは腎不全患者への対症療法であって、腎不全の根本療法ではない。腎不全の根本療法は腎臓移植であるが、残念ながら腎移植は平成元年の838人をピークに年々減少傾向にある。

 腎移植の成功第1例は、昭和291223日、アメリカのブリガム病院(ボストン)でマレーらによって行われ、腎提供者と腎受腎者は一卵性双生児だったため拒否反応が起こらなかった。この成功から一卵性双生児間の腎移植が欧米で次々と行われた。その後の腎移植の歴史は、免疫抑制剤の開発とともに歩んだといえる。昭和33年に全身放射線照射が応用され、翌年にはメルカプトプリン(免疫抑制剤)が開発され、昭和37年にはアザチオプリン(免疫抑制剤)がイギリスのマーレイらによって応用され、アザチオプリンとステロイドの使用が腎移植の標準的療薬となった。マーレイはこの功績により昭和38年にノーベル賞を受賞している。

 昭和33年、J・ドーセ(仏)、B・ベナセラフ(米)、G・スネル(米)は血液中の白血球の表面に存在する抗原が拒絶反応と強く関係することを発見し、主要組織適合抗原群(HLA)と命名した。昭和39年にテラサキ(米)、アンブルジェ(仏)らが腎移植にHLAを適合させると移植成績が良くなることを発見し、それ以来、HLA適合性検査は腎移植にとって重要な検査となった。この主要組織適合性抗原の遺伝子群は、ヒトでは第6染色体に存在することが分かっていて、J・ドーセら3人は「生体の免疫反応における遺伝学的研究」が高く評価され、昭和55年にノーベル生理学・医学賞を受賞している。

 昭和50年、スイスのサンド社が真菌から免疫抑制剤サイクロスポリンを開発し、腎移植だけでなく心臓、肝臓の移植においても応用され、臓器移植は飛躍的に進歩した。

 日本最初の腎移植は、昭和31年、新潟大学の楠隆光教授らによって行われた。急性腎不全の患者の大腿部に突発性腎出血で摘出した患者の腎臓を移植したもので、救命のための一時的な移植であった。慢性腎不全患者の永久生着を目指した腎移植は、昭和39年、東大の木本誠二教授が夫婦間で行っている。この移植は、日本で初めての本格的な腎移植となった。免疫抑制剤の改善、組織適合性検査の進歩により、腎移植の成功率は高まっている。

 昭和53年から腎移植は保険の適応となっているが、腎移植は年間500人程度と低迷している。これは腎臓の提供者が少ないせいである。腎移植は提供者の死後腎臓でも移植が可能なので、脳死の問題とは無関係であるが、それでも腎臓の提供者は少ない。腎臓は2つあるので生体移植も可能であるが、生体移植もあまり行われていない。

 腎移植が少ないのは、腎臓を提供しようとする善意ある日本人が少ないのではなく、善意ある者の善意を評価しないからであろう。金銭であれ、名誉であれ、善意を評価せずにボランティア精神に頼るだけでは腎臓移植は停滞するだけである。また移植のために努力をしても、医師に何ら評価がなく、問題が起きれば責任だけを追及されるのでは、医師の腎移植への熱意もそがれてしまうのも仕方ないことである。

 

 

 

森永ヒ素ミルク事件 昭和30年(1955年)

 昭和30年6月から8月にかけて、岡山県を中心とした西日本一帯で、発熱、下痢、腹部膨満、皮疹、貧血などの症状を示す乳児の奇病が相次いだ。赤ん坊は夜昼となく泣き続け、次第に皮膚が黒ずんでいった。肝臓が腫大し、腹部がパンパンにはれ上がり衰弱をきたした。このような症状を示す生後2カ月から2歳の乳児が続々と病院を受診したのだった。

 診察に当たった医師たちは、この奇妙な病気の原因が分からず、胃腸障害、夏ばて、貧血などの診断を下し保健所に届けなかった。

 日赤岡山病院小児科の矢吹暁民医師は、これまでに経験したことのない奇怪な症状を示す乳児が急に増えたことに驚き、その原因究明にいち早く奔走することになる。

 日赤岡山病院には同じような症状の子供が30人も入院していた。患者の母親から病歴を聞くと、この奇病を呈した乳幼児は母乳ではなく人工栄養で育てられていて、しかも特定の銘柄「森永乳業のMF印ドライミルク」を飲んでいた乳児ばかりだった。矢吹医師は岡山市内の開業医に協力を求め、乳児のミルクの実態調査を行った。その結果、日赤岡山病院だけでなく、岡山市内で異常を示した乳児全員が森永粉ミルクを飲んでいることが分かった。日赤ではこの奇病を森永の頭文字をとってM貧血と呼んだ。

 森永粉ミルクが奇病の原因と確信した矢吹医師は、8月13日に森永商事・岡山出張所に連絡を取り、被害防止のため森永粉ミルクの発売中止を求めた。しかし森永商事は販売を中止せずに出荷を続けた。

 矢吹医師は恩師である岡山大学医学部小児科・浜本英次教授にこれまでの調査結果を説明し、原因解明の協力を求めた。浜本教授は矢吹医師の報告を聞くまでは、この奇病の原因を細菌感染と考えていたが、矢吹医師の説明を受け、ミルク中毒、しかも症状から「ヒ素中毒」であろうと推測した。

 8月21日夜、岡山大学医学部に入院していた乳児が死亡、法医学教室で乳児の病理解剖が行われた。その結果、乳児の体内から灰白色のヒ素の結晶が検出された。2日後の8月23日、2例目の乳児の解剖が行われ、遺体の肝臓からヒ素を検出。さらに乳児が飲んでいた粉ミルクからも多量のヒ素を検出した。

 この事実を踏まえ、8月24日、浜本教授は「この奇病は、森永乳業が製造した乳児用粉ミルクによるヒ素中毒である」と発表。翌日の新聞やラジオにより全国にこの事件が大々的に報道された。乳児を持つ親たちは、顔をこわばらせて医療機関に殺到し、日本中がこの事件で大騒動となった。

 全国の母親を恐怖に陥れた森永ヒ素ミルク事件は、奇病発生から原因解明までの3カ月間に、犠牲者は1都2府25県に広がり、患者総数は13400人、133人が死亡する大惨事となった。世界でも類をみない大規模な集団中毒事件となった。

 昭和30年当時は戦後の食糧難が一段落し、明るい希望が見えてきた時期であった。電気がまが発売され、テレビ、洗濯機とともに「家庭電化時代」を迎えようとしていた。神武景気が始まり、石原慎太郎の「太陽の季節」が話題をよんでいたころである。

 森永乳業は「粉ミルクを飲ませれば、元気な赤ちゃんが育ちます。このミルクを飲みましょう」とラジオや新聞で粉ミルクを盛んに宣伝していた。当時の保健所も小児科の医師たちも、森永のドライミルクを薦めていた。終戦後の食糧難の影響を受けた母親の体格はまだ低下しており、母乳不足を訴えがちであった。さらに母乳ではなく人工ミルクで乳児を育てることが、生活の豊かさをイメージさせ、ある種のステータスの雰囲気があった。

 昭和25年4月に、戦時中から規制されていた「牛乳と乳製品の配給と価格に関する統制」が撤廃され、乳業業界は自由経済へと移行。牛乳の加工部門である乳業が次第に拡大し、牛乳が大量生産されるようになった。

 森永乳業は5年間に9つの工場を開設し、牛乳の集荷量は約3.1倍に増えていた。この森永乳業の猛烈な拡大路線が、ヒ素ミルク中毒事件を招くことになった。牛乳の集荷量の増大は、育児用粉ミルクの急増によるところが大きい。「母乳で育てると乳房の形が悪くなる」「母乳で育てた子供は背が伸びない」「母乳より牛乳のほうが栄養価が高い」と、間違った流言飛語が流され、多くの母親が育児用粉ミルクに走った。そのため粉ミルクの消費が急速に伸びた時期であった。

 森永ヒ素ミルク事件は、乳児の主食ともいうべきミルクが引き起こした大規模食品公害事件である。より健康的に、より丈夫にと願って与えた粉ミルクが、大切な乳幼児の身体をむしばんでいった。母親が悔やみ悲しんだのは、われとわが手で毒ミルクを愛児に飲ませたことだった。

 粉ミルクにヒ素が混入したのは、森永乳業・徳島工場が製造過程で使用した乳質安定剤(第二燐酸ソーダ)が原因であった。粉ミルクの製造は、牛乳の劣化を防ぐために、食品添加用の第二燐酸ソーダを0.01%添加することになっていた。ところが食品添加用の第二燐酸ソーダを使うはずが、間違って工業用の粗悪品を使ってしまったのである。

 工業用・第二燐酸ソーダには不純物として10%のヒ素化合物が含まれていた。そのため昭和30年4月から8月24日まで、森永乳業・徳島工場で製造された約84万缶の「森永MF印ドライミルク」にヒ素が混入したのである。

 ヒ素中毒を引き起こした工業用・第二燐酸ソーダは、日本軽金属・清水工場がボーキサイトからアルミナを製造するときに出た産業廃棄物だった。この産業廃棄用の第二燐酸ソーダは、陶器の色づけに使用されるはずであったが、数社の業者間で転売が繰り返され、徳島市内の協和産業から森永乳業・徳島工場に納入されたのである。徳島工場は第二燐酸ソーダをいつも協和産業から納入していたので、新たに納入した食品添加用の第二燐酸ソーダが工業廃棄物に変わったことに気づかなかった。

 森永乳業・徳島工場は故意に廃棄物を用いたわけではない。しかし食品を扱う企業としては、あまりに安全対策がずさんだった。この事件は、品質検査などのわずかな手間を惜しんだための人災であった。

 粉ミルクの製造には、ミルクを溶けやすくするため乳質安定剤(第二燐酸ソーダ)を加えるが、もともと原料に新鮮な牛乳を用いていれば、乳質安定剤は必要なかった。牛乳を放置すると、次第に乳酸菌が増えて酸性になり、牛乳が酸性化すると牛乳が固まりやすくなる。そのために乳質安定剤を加えていたのだった。つまり森永乳業は新鮮度の低下した牛乳を原料として粉ミルクをつくっていたのだった。

 森永乳業・徳島工場が乳質安定剤を使用するようになったのは、昭和28年以降のことで、それ以前は使用していなかった。またその当時、森永乳業は4つの粉ミルク工場を持っていたが、第二燐酸ソーダを使っていたのは徳島工場だけであった。

 昭和30年8月30日、森永乳業・徳島工場は営業停止3カ月の処分を受けることになった。このあまりに軽い行政処分に、被害者の批判と怒りが爆発した。事件を引き起こした同工場のずさんな安全対策、それを監督すべき厚生省に批判が集中した。営業停止3カ月の軽い処分は、工場側の過失が軽微と判断されたこと、工場に牛乳を納入している酪農業者の影響を考慮しての政治的な配慮であった。

 森永乳業はこのヒ素中毒事件を工場の過失とは考えず、そのため被害児への謝罪や補償の意思を示さなかった。このことから被害児の親たちは森永乳業の責任と補償を求めて団結することになる。親たちの団結は、この事件の惨状を訴え、この未曾有(みぞう)の不祥事件を風化させないことであった。

 日赤岡山病院の被害児の親たちが中心になって被害者同盟が結成された。9月3日には、日赤岡山病院、岡大付属病院、倉敷中央病院の被害児の家族が中心となり、「岡山県総決起集会」が開催された。岡山県全域から被害者が集まり、岡山県森永ミルク被害者同盟への加入者は700人を超えた。

 被害者同盟は、森永乳業に速やかな事件への対応を求めたが、森永乳業は被害者同盟を被害者の代表とは認めず、回答を出さなかった。被害者同盟は「死者250万円、重症者100万円」の要求書を手渡すが、森永乳業はこれを拒否。このため各県の被害者が結束を強め、9月18日に「森永ミルク被害者同盟全国協議会」が結成された。

 会社側は被害の深刻さと巨額の補償金を恐れ、厚生省に問題解決を依頼した。厚生省は森永に有利な「第三者委員会」をつくり解決を計ろうとした。

 厚生省は、10月6日、ヒ素ミルク被害児の診断と治療のための指針作成を日本医師会に依頼。日本医師会はこれを、小児保健学会会頭である大阪大学・西沢義人教授に委ねることにした。西沢教授は岡山大学・浜本英次教授、徳島大学・北村義男教授、兵庫医科大学・平田美稔教授、京都府立医科大学・中村恒夫教授、奈良医科大学・吉田邦夫教授らと第三者機関である「西沢委員会」をつくり、ヒ素ミルク被害児の診断と治療のための指針作成にあたった。

 この指針は、ヒ素ミルク被害児を特定するためのものであったが、西沢委員会が作成した診断基準は、色素沈着、肝臓肥大、貧血などのヒ素中毒の典型的症状を必須項目としたため、非典型例の多数の被害児を切り捨てることになった。またヒ素中毒の急性症状を重視し、慢性中毒の多様な症状を考慮しなかった。そのため、西沢委員会の診断基準でヒ素ミルク被害児と認定されなかった被害者が多数でることになった。

 さらに西沢委員会は、「ヒ素ミルク中毒患者はほとんどが治癒しており、治療中の被害児もいずれ完治する」と発表した。このためヒ素ミルク中毒患者の非典型例が除外されただけでなく、慢性あるいは遅発性の障害児が無視されることになった。

 補償交渉も補償総額が膨大となることが予想され難航した。1215日、厚生省から依頼された第三者機関である補償交渉斡旋委員会(「五人委員会」)が発足。厚生省は被害者の補償を、弁護士やマスコミ関係者から成るこの五人委員会の裁定に委ね、被害者同盟にその裁定に従うことを要請した。

 五人委員会が示した補償額は、「死者25万円、患者1万円の補償金」で、被害者が要求していた十分の一の金額であった。この五人委員会の運営資金は実は森永乳業から出ており、森永乳業は五人委員会を隠れみのにしていた。森永乳業はこの補償額の線を譲らず、被害者同盟全国協議会は、今後、精密検査を行うことを条件にこの補償を受け入れることになった。しかもこの補償金は認定患者に限られ、西沢委員会が作成した診断基準から外れた被害者は何の補償金を得ることはできなかった。さらに西沢委員会は「後遺症はない」と宣言したため、後遺症の補償はなかった。

 西沢委員会、五人委員会は中立を装っていたが、ともに森永乳業の立場を擁護していた。森永は死者25万円、患者1万円の補償金を現金書留で送り、これで一切終わりと宣言した。これに対し、森永乳業への怒りから、森永製品の不買運動が各地で始まることになる。だが昭和381025日、徳島地裁が「森永ミルク事件における会社側の責任はない」と無罪判決を下すと、世論も次第に沈黙するようになった。被害者の声は闇の中に閉じ込められ、この事件はいったん決着したかのようにみえた。

 この事件から14年目の昭和43年、森永ミルク中毒事件が世間から忘れられていたとき、この事件は急展開を迎えることになる。それまで後遺症はないとしていた五人委員会の報告が大きな間違いであったことが明らかになったのである。

 ヒ素ミルク中毒で命を取り留めた被害児の中に、脳性麻痺や知恵遅れなどで苦しむ患者が多数いることが確認されたのである。世間から忘れ去られ孤立無援の被害者を救ったのは大阪府・堺養護学校の1人の教員だった。

 事件発生から7年後の昭和37年、教員のクラスに脳性麻痺の男子が入学してきた。母親はかつての森永ミルク事件で脳性麻痺になったことを教員に話した。このことがきっかけになり、森永ミルク被害児の追跡調査が始まった。1人の教員が始めた追跡調査の実態が分かるにつれ、それを支援するグループが立ち上がることになる。大阪大学公衆衛生学・丸山博教授が中心となって、養護教論、保健婦、学生(阪大医学部)から成る22人の調査グループが結成された。

 昭和43年、調査員は大阪地区の被害児55人の家を一軒一軒訪問し、聞き取り調査を行い、その結果、67%の被害児に発育の遅れや脳波異常などの異常を認め、後遺症に苦しめられていることが明らかになった。被害者の家族たちは「この世に神さまがいるとしたら、それはあなたたちです」と感謝の気持ちを表した。

 わが手で毒入りミルクを飲ませてしまったことへの悲しみを抱えながら、乳が出なかった自分がいけなかった、嫌がって飲もうとしないのに、なぜ無理に飲ませ続けたのか。母親たちは重い十字架を背負っていた。手足が動かない子供、皿に注がれたお茶をなめるように飲む子供…。母親たちはヒ素入りミルクを販売した森永乳業ではなく、ミルクを飲ませた自分を責め、子供の世話をしていた。

 昭和4410月の第27回日本公衆衛生学会で、阪大の丸山教授は「14年目の訪問」と名付けた演題でこの調査結果を発表。中枢神経系の障害を残した子供たちが多数いることを明らかにした。この学会には、小児保健学会の会頭で、「西沢委員会」の委員長でもある阪大の西沢義人教授も出席していた。西沢義人教授は「森永ミルクヒ素中毒事件では後遺症は生じない。中枢神経系の障害はヒ素ミルク中毒とは関係がない、調査チームに医師が参加していない」と反論した。因果関係を否定して、報告の信頼性に難癖をつけた。もちろんこの西沢教授の発言は間違いであった。誤認のまま14年間もヒ素中毒の権威者のトップに座り、西沢教授は被害者を無視する態度を取り続けていたのだった。

 丸山教授の報告は、全国に大きな衝撃を与え、厚生省も対策に乗り出すことになった。多くの公衆衛生学者、多くの小児科医が集まり、被害児の後遺症についての共同研究が始まった。広島大学、岡山大学でも同様な報告がなされ、被害児の後遺症が明らかになった。それまで被害者の苦しみを無視してきた医療機関や行政も、患者とともに14年のブランクを埋めるため努力することになった。

 丸山教授の報告を受けて、昭和441130日、全国の親たちは「森永ミルク中毒のこどもを守る会(渡辺祝一理事長)」を発足させた。「守る会」は賠償金の要求ではなく、子供たちの健康回復と社会的自立を求め、そのための医学的究明と恒久的対策を国と森永乳業に要求した。

 守る会は多くの専門家や世論の支持を受け、国(厚生省)と森永乳業を相手に民事訴訟などの運動を進めた。弁護団が結成され、その弁護団の団長を務めたのが、後に住宅金融債権管理機構の社長になった中坊公平弁護士である。

 守る会は独自の「恒久対策案」を作成し、その実現を迫った。14年のブランクを埋めるため多くの支援グループが誕生し、森永製品の不買運動が広がり、森永乳業もヒ素ミルク中毒の責任を認めるようになった。同年11月4日、森永乳業は被害者に補償金15億円の拠出金を提示し、患者への恒久的救済を発表したが、「森永ミルク中毒のこどもを守る会」はこれを不十分として受け取りを拒否することになった。

 事件から19年目の昭和481128日、差し戻された裁判の判決が徳島地裁で言い渡された。徳島地裁は森永乳業の刑事責任を認め、徳島工場の元工場長は無罪となったが、元製造課長に禁固3年の実刑判決を下した。「同工場が化学的検査などのわずかな手数を惜しんだための人災」と判決は述べた。

 森永側は協和産業が間違って産業廃棄物の第二燐酸ソーダを納入したことを盾に、自分たちに過失はないと主張していた。取引先を信用していたので注意義務はないと主張していた。だが工業用第二燐酸ソーダが、同じように間違って国鉄仙台鉄道管理局に納入されていたことが分かった。国鉄はボイラーの洗剤として第二燐酸ソーダを使用する予定だったが、事前に品質検査をしてヒ素の混入を発見して返品していた。この例からも、まして乳児の口に入るものを作っている食品会社が、注意義務がないなどの理屈が通るはずがなかった。

 昭和481223日、「森永ミルク中毒のこどもを守る会」と森永乳業・厚生省の間で、被害児の恒久救済実施の合意が成立することになる。恒久救済とは一定額の補償金ではなく、厚生省と森永乳業の両者が、被害者が存在する限り救済を続けることだった。森永乳業は被害児の健康管理、治療、介護などのために30億円を拠出することになった。

 翌49年5月12日、森永乳業が被害児の恒久救済を表明したことから、「森永ミルク中毒のこどもを守る会」は損害賠償請求の訴訟を終結することを決定。この結果、森永ヒ素ミルク中毒事件は19年ぶりに解決し、森永製品の不買運動は取りやめになった。12月には被害児の健康管理や生活保障を行う財団法人「ひかり協会」が設立された。

 昭和59年、当時の大野勇社長が亡くなり、社長の遺族が香典の全額を被害者の救済資金として寄付。「守る会」の提案で、ひかり協会主催の「大野社長に感謝する会」が開かれた。加害者と被害者の関係を超えた信頼関係が形成されたのだった。

 森永ヒ素ミルク事件は、世界最大級の食品公害事件であった。しかも最も安全性が求められるミルクにヒ素が混入した悲劇的な事件で、日本が高度経済成長に入ろうしていた日本の工業立国のゆがみがもたらした事件であった。さらに企業の論理に立った森永乳業だけでなく、それを助けた行政、医学界を含め大きな教訓を残すことになった。

 平成4年の段階で被害者数は1万3420人である。森永ヒ素ミルク被害者の医学的特徴は、脳性麻痺、知的発達障害、てんかん、脳波異常、精神障害等の中枢神経系の異常が多いことであった。皮膚症状としては、ヒ素中毒特有の点状白斑とヒ素角化症が2%から7%に存在すること、さらにさまざまな身体的不定愁訴をもつ被害者が多いことであった。

 ヒ素が食品に混入したことによるヒ素中毒は、歴史上多数の犠牲者を出している。1900年、イギリスではビール製造過程でヒ素が混入して70人が死亡、中毒患者6000人を出している。最近では和歌山カレー殺人事件(平成10年)が記憶に新しい。

 ヒ素は毒物として古くから知られていて、ヒ素中毒を有名にしたのは、1821年にナポレオンがヒ素によって毒殺されたことである。196110月の科学雑誌「ネィーチャー」で、ナポレオンの遺髪から平常の13倍量のヒ素が検出されたと発表された。セント・ヘレナ島へ流されたナポレオンは、少しずつヒ素を飲まされて死亡したのである。

 

 

 

船橋ヘルスセンター 昭和30年(1955年)

 昭和30年2月、東京近郊の千葉県船橋市の埋め立て地に船橋ヘルスセンターが誕生した。誕生のきっかけは、船橋市が手がけていた埋め立て地で,

偶然にも36℃の温泉が噴きでたことによる。

 埋め立て地は資金不足から中断となったが、その代わりに温泉を利用したレジャー構想が浮上し、1漁村にすぎなかった地域に巨大な温泉娯楽施設ができることになった。船橋ヘルスセンターは、直径30メートルの大ローマ風呂、ジャングル風呂、牛乳風呂、酵素風呂など50近い大小の浴場があって、風呂から上がると10以上の大広間が果てしなく続いていた。

 500畳敷きの大広間の中央には円形のステージがあって、歌謡ショー、演歌、漫才、落語などが演じられた。美空ひばり、三波春夫、村田英雄などの有名歌手がステージで歌を披露し、舞台が空いているときには、のど自慢大会、隠し芸大会が行われた。

 子供たちには巨大なプールが人気で、ウォーター・スライダーの先駆けとなった100メートルの大滝滑りは超人気であった。さらに遊園地、ボウリング場、アイススケート、ローラースケート、ダンスホール、遊覧飛行場、ホテル、結婚式場が備わり、遊びには事欠かなかった。

 船橋ヘルスセンターは当時としては国内最大級のレジャー施設で、風呂に入り、宴会場で持参の弁当を食べ、一日中ごろごろと過ごす家族連れが多かった。当時のコーヒー1杯が50円だったが、これだけの施設で入浴料は120円と安かった。風呂に入って、飲んで、食べて、歌って、演芸を見て、ゲームをして500円もあれは1日中遊ぶことができた。大広間は持参の弁当を広げた家族連れ、ビールやお酒で盛り上がる団体客で賑わっていた。当時の総武線沿線では、「嫁と姑のけんかが少なくなった」と言われたほどであった。

 船橋ヘルスセンターの誕生から数年後に旅行ブームが始まったが、日本はまだ貧しく、当時の旅行は団体旅行が主で家族旅行は少なく、安くて便利な場所に人々が集中した。船橋は東京から電車ですぐの場所にあり、熱海や箱根よりも近くて安いことから客が集まった。観光ブームに乗り、農村や中小企業の慰安旅行などの団体バスが全国から集まってきた。駐車場には長距離バスが列をなし、農協、婦人会、町内会の団体が娯楽を求めて船橋に集まってきた。

 開業当初は、温泉旅行に出かけることの少なかった主婦や老人が多かったが、次第に子供の入館が増え、若者や家族連れが増えるようになった。開館5年目には入場者数は年間300万人、年間売り上げ10億円となり、8年目には東京ドーム11個分の広さに拡大され、10年目の入場者数は年間450万人、年間売り上げ30億円に達した。正月には成田山新勝寺への参拝の帰りに立ち寄る団体客が1日6万人もいた。

 船橋ヘルスセンターには自動車レースのサーキットまでつくられていた。当時、日本でカーレースができるのは、鈴鹿サーキットだけで東名高速道路もまだ未完成だった。サーキットがオープンしたのはマイカーブームの直前で、開催されたレースは35戦ほどであった。サーキットは2年間だけであったが、平成5年にはサーキット跡地に巨大な屋内スキー場「ザウス」がオープンした(平成14年クローズ)。

 船橋ヘルスセンターは白亜の温泉デパートとして一世を風靡(ふうび)し、現在の東京ディズニーランド同様の人気だった。多くの人たちにとって印象深いのは、テレビコマーシャルである。「船橋ヘルスセンター 船橋ヘルスセンター、長生きしたけりゃ、ちょとおいで、チョチョンのパ、チョチョンのパ」。三木鶏郎が作曲、楠トシエが歌ったこのコマーシャルソングが全国で流れ盛んに宣伝された。また当時の人気番組・ドリフターズの「8時だよ!全員集合!」の公開放送がしばしば行われ、会場では観客がドリフターズに合わせ「オーッス」と言い、「ババンバ バン バン バン」をみんなで合唱した。

 船橋ヘルスセンターの成功をきっかけに全国でヘルスセンターが開設され、ヘルスセンターの看板を掲げた業者は全国で100カ所をこえた。厚生省は「保健所を意味するヘルスセンターの言葉を使用禁止」としたが、この通達に従う業者はいなかった。厚生省は公衆浴場とヘルスセンターを区別するため、ヘルスセンターを「一般公衆浴場とは異なる、保養または休養施設を有する施設」と定義することにした。公衆浴場は都道府県ごとに料金が決められていたので、このような定義が必要だった。

 船橋ヘルスセンターは、昭和40年頃にピークを迎え、経済成長とともに客足が遠のいていった。最盛期には年間450万人に達していた入場者は、レジャーの多様化、国内旅行から海外旅行への移動などから次第に減少し、さらに温泉のくみ上げによる地盤沈下から、温泉のくみ上げが規制されたことが致命的となった。昭和52年5月5日、船橋ヘルスセンターは22年にわたる歴史に幕を閉じることになった。

 昭和58年に、千葉の浦安に東京ディズニーランドが誕生するが、東京ディズニーランドは船橋ヘルスセンターの成功を参考に建てられたとされている。現在、船橋ヘルスセンターの跡地は巨大ショッピングセンター「ららぽーと」になっている。

 

 

 

弥彦神社事件  昭和31年(1956年)

 昭和31年1月1日午前零時過ぎ、新年の参拝客でひしめく弥彦神社で大惨事が起きた。新潟県西蒲原郡弥彦村にある弥彦神社は豊作の神として農民の信仰が厚く、その日の初詣には臨時列車や貸し切りバスで3万人が集まった。その年は雪が少なく、バスなどの交通機関が整備されたころで、例年のおよそ2倍の参拝客が集まっていた。

 新年の花火が上がったとき、弥彦神社では拝殿に向かう者と、参拝を終えて戻る者とが中央石段付近でぶつかった。さらにそのとき、新年のモチまきが始まり、そのモチの幸運にあやかろうとする参拝客が、拝殿前で大きな渦を巻いた。群集がモチに殺到し、モチの奪い合いが惨事を招いた。

 押し寄せる人並みは15段の石段上の玉カギを崩し、支えを失った参拝客が将棋倒しになって、次々に2メートル下に落ち、124人(男86人、女38人)が下敷きになって圧死、94人が重傷を負った。亡くなられた犠牲者たちは、弥彦神社の拝観所に安置された。

 事故のきかっけとなったモチまきは初めての試みであった。警察官の過失責任が問われたが、3万人の参拝客に警察官は16人だけで、ほとんどが交通整理に割り振られていた。そのため事故は予測できなかったとして不起訴処分となった。後日、この無謀なモチまきを行った弥彦神社の神官は全員入れ替えになった。

 124人が死亡した弥彦神社の惨事は、正月のおめでたい日に、最もおめでたい場所で起きた。当時の弥彦神社には照明がなく、境内は暗かった。参拝客のなかには飲酒者が混じっていて、自制心を失った群集がこの惨事を引き起こした。この大惨事にもかかわらず、弥彦神社の参詣者は翌年以降も増え続け、正月の参詣者数は毎年約30万人となっている。

 弥彦神社の祭神は、天照大神(あまてらすおおみかみ)のひ孫にあたる天香山命(あめのかぐやまのみこと)とされ、1300年以上の歴史を持つ日本でも有数の神社である。新潟県では最も格式が高く、最も参拝客が多い神社で、源義経、親鸞、芭蕉、良寛なども参拝し、上杉謙信は川中島出陣に際して願文を奉納している。このように由緒ある神社での大惨事だった。

 神社での圧死事件は、この弥彦神社だけであるが、正月というおめでたい日の圧死事件はほかにもある。弥彦神社事件の2年前の昭和29年1月2日、好天に恵まれた皇居に一般参賀38万人が詰めかけ、警察がロープ規制を解除すると、参賀の人たちは狭い二重橋の上で身動きが取れなくなり、将棋倒しになって16人が死亡、65人が重軽傷を負う惨事となった。警察の整理の不手際、警備態勢が問題になったが、警視庁と皇居警察本部は9人を行政処分にしただけだった。

 また昭和36年の元日、岩手県の松尾鉱山小学校で1800人の学童が集まり、新年祝賀式が行われた。学校の裏にある校舎で映画会が行われることになり、学童が入り口に殺到、1人の学童が転んだことから将棋倒しとなり10人の学童が死亡、10人が負傷している。これらはおめでたい正月の日の悲しい事故である。

 最近では、同様の圧死事件が明石花火大会で起きている。平成13721日、明石市大蔵海岸にて第32回明石市民夏まつり花火大会が行われた。午後8時半頃、朝霧駅南側の歩道橋で、駅からの見物客と会場から帰る見物客がぶつかり異常な混雑となった。そのため歩道橋で群衆雪崩が発生、死者11人、重軽傷者247人を出す惨事となった。

 

 

 

ペニシリン・ショック 昭和31年(1956年)

 昭和31年5月15日の夜、東大法学部長・尾高朝尾(おだか・ともお)教授(57)が、虫歯の治療のためペニシリンの注射を受け、ショック死する事件が起きた。尾高教授は自宅近くの歯科医院で抜歯を受け、化膿止めとしてペニシリンの注射を受けた。

 尾高教授は注射を受けた直後、注射から5分もたたないうちに胸苦しさを訴え、顔面蒼白となり、全身の痙攣を起こして意識を失った。教授の血圧は低下しショック状態になった。歯科医師はすぐに人工呼吸や酸素吸入などの応急処置を行い、救急車で都立駒込病院に搬送。駒込病院では内科医長らが治療に当たったが、注射から2時間後に死亡。あっという間の出来事だった。

 尾高教授は、昭和19年から東大法学部の教授を務め、日本学術会議の副会長を兼任、法曹界の重鎮として知られていた。尾高教授は法哲学の第一人者で、尾高教授の死亡を新聞は大々的に取り上げた。

 毎日新聞は「ペニシリン乱用に警鐘、ショック死100件に迫る、尾高朝尾博士急死す」の見出しをつけ、朝刊のトップ記事として報道。同紙は、「歯痛など何もなかった。ペニシリンを打つ必要はなかった」という弟の尾高邦雄・東大教授のコメントを載せた。死亡した尾高教授は、尾高邦雄氏のほかに尾高尚忠氏(日響常任指揮者)の弟がいて、尾高三兄弟として有名だった。この著名人の死により、ペニシリンのショック死が社会に与えた影響は大きかった。

 尾高教授の死去から20日後の6月6日、北海道空知郡砂川町の町立社会病院・小笠原康雄内科医長がペニシリンの皮内テストを自分の左腕に行い、わずか0.05ccの注射によって50分後に死亡した。朝日新聞はこの事故を「ペニシリン・死の実験台」と大きく報道した。ペニシリンによるショック死が相次ぎ、この年だけで40人以上が犠牲になった。

 昭和25年5月、東大の学生が野球の練習中のけがでペニシリンの投与を受けショック死したのが日本初例とされている。昭和25年頃から、ペニシリンの生産量に比例するようにショック死が相次ぎ問題になり始めていた。昭和28年には日本抗生物質学術協議会が設立され、ペニシリン・ショックについての研究が行われていた。

 昭和30年までにペニシリン・ショックによる死亡例は年間100人を超えていたが、「ペニシリンのショック死」はまだ一般的にの認識されていなかった。多くの国民はその恐ろしい副作用を知らず、ショック死は異常体質によるで、医師に責任はないとしていた。しかし尾高教授の死亡によってペニシリン禍がいっきに社会問題となり、初めて行政が対策に乗り出すことになった。

 戦後に登場したペニシリンは感染症に驚異的な効果を示し、そのため「奇跡のクスリ」「魔法の弾丸」「霊薬」などと呼ばれていた。ペニシリンの登場により感染症の恐怖は少なくなり、肺炎、丹毒、敗血症などの死亡率は1年で半分以下に激減した。この奇跡的な効果によって、ペニシリンは国内生産を急速に伸ばした。

 ペニシリンを生産する製薬会社は急増し、ペニシリンは街中に氾濫した。昭和30年当時、ペニシリンの製造会社は51社で、5年間で生産量は8倍に増え、3000円だった値段が125円に下落した。新聞や週刊誌でもペニシリンが盛んに宣伝され、薬局で誰でも買うことができた。また錠剤、注射だけでなく、結膜炎になればペニシリン入り目薬、けがにはペニシリン入り軟膏、さらには歯磨き粉にまでペニシリンが配合され、街の薬局で販売されていた。ペニシリンは万能薬とされ、現在に当てはめれば「ビタミン剤の感覚」で市販されていた。

 米国ではペニシリン・ショックはすでに問題視され、「ペニシリン、殺人剤となる」と表現されていた。ペニシリンはその劇的な効果とは裏腹に、激烈な副作用を隠し持っていたのである。尾高教授の死をきっかけに、ペニシリンの出荷量は激減し、1か月に800万本製造されていたペニシリンが、事件の1カ月後の6月には出荷量が5月の半分になり、7月には出荷量はゼロになった。製薬会社は大打撃を受け、厚生省は「使用する場合は、患者のペニシリンに対するアレルギーやアレルギー疾患の既往の有無について問診を行うこと。患者には事前に皮内テストを実施すること」の注意事項を各医療機関に通達した。また薬局の店頭で売られていたペニシリンは、医師の指示がなければ買えない指示薬品になった。

 一般人のペニシリン・アレルギーの頻度は約5%で、薬剤師は6%、ペニシリン工場で働く者は18%とされていた。このようにペニシリンに接触する機会が多い人ほどアレルギー体質が多い。ペニシリン・アレルギーは、軽度のものは蕁麻疹程度だが、重篤な場合には死に至る。当時のデータでは、ペニシリン・ショックの1割が死亡するとされている。

 昭和30年代にペニシリン・ショックが多発したが、それはペニシリンに含まれる不純物によるものである。当時のペニシリンの純度は75%程度で、多くの不純物を含んでいたが、現在のペニシリンの純度は99%以上となっている。なおアナフィラキシー・ショック、アレルギー反応の即時型、I型アレルギー、この3つの単語は同じ意味の言葉である。

 ペニシリン・ショックのメカニズムは、他の薬剤によるショックと同じである。まず薬剤(ペニシリン)が体内に入ると、薬剤(ペニシリン)に血液のタンパクが結合し、人体にとって異種のタンパクとなる。生体側はこの異種タンパクを非自己タンパクと認識して抗体をつくる。次に再度薬剤(ペニシリン)が体内に入ると、抗体と結合した異種タンパクが肥満細胞を刺激してヒスタミン、ヘパリン、セロトニン、アセチルコリンなどを遊離し、これが心臓、血管に作用してショックを起こす。

 この生命を脅かす反応は、本来は自己を守るための免疫反応が過剰に反応したためである。1回目に異物が体内に入った時には、抗体を作って防衛態勢を整える。そのため最初は激しい反応は起こらない。これが2度目以降になると、準備された免疫機能がすぐに動員され、激しい反応を引き起こす。

 ペニシリンによるショックは、注射の場合には投与後15分以内に起き、内服では30分以内がほとんどである。症状は四肢のしびれ感、冷汗、皮膚蒼白、呼吸困難で、この自覚症状に引き続き、急性循環不全による血圧の低下、気道狭窄による呼吸困難が出現する。発症すれば経過は急速に進展し、そのため秒単位の救命処置が必要となる。生命予後は救急処置の対応によって左右され、死に直結するのは主に喉頭浮腫と気管支痙攣による呼吸困難である。そのため喉頭浮腫を軽減し、気管支痙攣を抑えることが治療となる。具体的には、即効性のあるエピネフリンを投与することで、次ぎにアミノフィリン、ステロイドの順に投与することである。

 ペニシリン・ショックが問題になり、問診の強化、予備テストの実施、さらには安全な抗生剤の開発が求められた。経口ペニシリンは比較的安全とされていたが、昭和3110月2日、経口ペニシリンによるショック死が関東逓信病院で起きている。現在では安全な抗生剤の開発により、抗生剤のショック死は非常に少なくなっている。

 ショック予防のために皮内テストが行われているが、皮内テストは皮膚に局在するIgE抗体を検出する試験なのでIgE抗体が関与しない場合には意味がない。また皮内テストによってすべてが予測できるものではなく、皮内テスト陰性でショックを起こした例もある。さらに皮内テストだけでショックを起こす例も報告され、アメリカでは抗生剤の皮内反応は一般に実施していない。皮内反応はあくまで目安であって、問診はもちろんのこと、ショックが起きた際の緊急処置を行えるようにしておくことである。一度使用した薬剤を数カ月後に使用する場合、以前使用したから安全と考えやすいが、前回使用したことで感作が成立しており、危険な状態とも考えられる。

 平成16年から、薬剤の添付文書から皮内テストは削除されているが、クスリの副作用として、「医薬品副作用被害救済・研究振興調査機構」に申請された人数をみると、現在でも抗生剤によるショック死は少数ではあるが起きている。抗生剤によるショック死の頻度は激減しているが、問題となるのはショックが起きた場合の救命救急処置で、適切な処置の有無よって病院側の責任が問われることになる。

 ペニシリンは日本人にクスリ神話をつくったが、同時にクスリの恐怖神話も作った。尾高朝尾教授のペニシリン・ショック死は、ペニシリン至上主義者に赤信号を示し、何でもペニシリンという時代は終わったのである。

 

 

 

新潟大ツツガ虫病人体実験事件 昭和31年(1956年)

 昭和31年9月2日、新潟大学医学部内科・桂重鴻教授がツツガ虫病の病原菌を精神病患者に注射し、人体実験を行っていたことを読売新聞が5段抜きの見出しで大きく報道した。

 桂教授はかねてからツツガ虫病の研究を行っていたが、昭和27年から30年にかけ、内科医局員を総動員して、私立新潟精神病院に入院している149人の患者にツツガ虫病の病原菌の注射を行っていた。この人体実験で患者8人が死亡、1人が自殺していた。さらに8人の患者から注射部位の皮膚を切り取り研究材料にしていた。

 この事件が発覚したのは、新潟精神病院の賃金引き上げ闘争に端を発したストがきっかけであった。病院ストを扇動したとして労働組合の看護人3人が責任を問われ、病院を解雇されることになった。そのため看護人は地位保全の仮処分を新潟地裁に申請し、不当解雇に関する諮問が地方労働委員会で開かれた。この席上、病院側は懲戒免職にした看護人は患者の人権を無視して病院ストを行い、そのため患者が亡くなったことを懲戒免職の理由として挙げた。解雇された看護人は病院側のこの発言に反発、「新潟精神病院では、精神病の治療と称してツツガ虫病の病原菌を患者に注射している」と暴露したのだった。

 新潟精神病院は入院患者450人の新潟県では最大の精神病院であったが、職員数は128人で、法令で定められた基準人員に達していなかった。このような人手不足のなかで看護人を悩ましたのは、精神科とは関係のない新潟大学内科の医師たちであった。内科医が治療をすると、患者は高熱を出し、苦しみだした。高熱で苦しむ患者を前に、看護人が指示を仰いでも内科医たちは無視するだけであった。そのため看護人は苦しむ患者を慰めるしかなかった。

 この人体実験を知った弁護士が中心になり、調査が行われた。昭和32年3月2日、日本弁護士連合会はその調査結果を法務、文部、厚生省に提出し、基本的人権を侵した人体実験と警告した。

 新潟精神病院は、新潟大学の桂内科の依頼でツツガ虫病の病因菌を患者に注射したことを認め、精神病の治療のひとつであったと説明したが、149人のカルテには注射についての記載はなかった。またこの研究は米軍の援助金による実験であったとされている。

 桂教授は「ツツガ虫病の病因菌の注射は、精神病患者の発熱療法のためで、今さら人体実験などする必要はない」とコメントし、厚生省は「梅毒性の精神病患者にツツガ虫病の病原菌を植え、高熱によって梅毒菌を殺すという高熱療法の可能性」を述べた。しかし皮膚を切り取られた患者は、高熱療法を要する梅毒患者ではなく、統合失調症(精神分裂病)の患者だったことが後に判明した。厚生省や桂教授の説明は、多くを納得させるものではなかった。桂教授はそれ以上述べず、権威主義的な態度で事態を押し切ろうとした。

 しかし1129日、この人体実験を追及された桂教授は読売新聞紙上で、「注射の目的はツツガ虫病の研究のためで、皮膚を切り取ったのは患者の血液を採って検査をするのと同じ行為で、医療にはある程度の犠牲が必要で、犠牲がなければ医学は進歩しない」と述べた。桂教授は人体実験を認めたが、当時のことである、何の処罰も受けなかった。

 ツツガ虫病は、かつて日本に広く分布していた風土病である。そのため、「つつがなし」という言葉が無病息災をたとえる言葉として使われていた。607年、聖徳太子が小野妹子を遣隋使として隋に送る際、「日いずる処の天子、書を日の没する処の天子に致す、恙(つつが)なきや…」という国書を送っている。このことから分かるように、ツツガ虫病は日本だけでなく中国においても古くから重篤な疾患であった。

 ツツガ虫病は日本では、秋田、山形、新潟などの河川流域でよく見られ、かつては致死率50%という恐ろしい疾患であった。戦後、抗生剤の使用、河川の整備、農薬の使用などにより患者は減少し、昭和40年代には全国で患者は年間10人以下となった。しかしながら昭和50年代から増え始め、現在では年間800人近い患者が発生し、数人が死亡している。。

 ツツガ虫は体長0.3ミリ前後の微小なダニ類に属し、肉眼でどうにか見える程度の大きさである。このツツガ虫に刺されると、ツツガ虫に寄生している病原体リケッチアがヒトに浸入し、ツツガ虫病を引き起こすのである。

 ツツガ虫病はツツガ虫に刺された後、約10日前後の潜伏期を経て、全身倦怠感、食欲不振、頭痛、3940℃の発熱などがみられる。また皮膚にツツガ虫の刺口を認め、所属リンパ節の腫脹がみられる。重篤化した場合には、悪寒戦慄を伴った高熱の後に、意識障害を引き起こして死に至ることになる。その診断はツツガ虫に特徴的な刺し口を探すことで、刺し口は無痛性で発赤、水疱を形成し、黒色のかさぶたへと変化していく。刺されてから発症まで10日前後で、刺された部位に痒みも痛みもないことから、診断を見逃すことが多い。

 ツツガ虫病は致死率の高い疾患で、有効な治療を受けた者でも死亡率は1%、無治療の場合の死亡率は2030%とされている。このように診断が遅れると、生命にかかわる恐ろしい病気である。ツツガ虫病の治療上の特徴は一般的抗生剤・抗生剤β-ラクタム剤が無効なことで、安易にβ-ラクタム剤を続けると予後不良となる。このことからβ-ラクタム剤を使用しても高熱が持続し、皮疹があれば、それだけで本症を疑うべきである。治療はテトラサイクリン系抗生剤が第1選択薬となる(ミノマイシン 100mg×2/14日間)。投与開始一両日中に解熱し、臨床症状も劇的に好転する。テトラサイクリンを投与し、3日経っても解熱しなければ、ツツガ虫病は逆に否定的となる。

 現在では、ツツガ虫病はまれではあるが、山菜、タケノコ採り、釣り、花火大会などに行く場合は注意が必要である。その予防は、素肌をさらさないように長袖のシャツを着て、帽子、首にはタオル、靴下など着用することである。川や山歩きをした後は、風呂に入ってツツガ虫をよく洗い落とすことである。ツツガ虫は身体についてからすぐに刺すわけではない、身体の中で刺しやすい部位を探すので、風呂が有効なのである。

 

 

 

水俣病・有機水銀中毒 昭和31年(1956年)

 熊本県・水俣市は熊本市から90キロ、鹿児島県との県境に近い人口約5万人の小都市である。不知火海(しらぬいかい)に面したこの水俣市が、公害の中で最も大規模で、最も悲惨な患者を生んだ水俣病の舞台となった。

 昭和31年5月1日、水俣市の新日本窒素(現、チッソ)水俣工場付属病院の細川一院長が、「水俣市の漁村一帯に、これまでに見たことのない奇病が多発している」と水俣保健所に報告。細川院長が保健所に報告した奇病とは、歩行障害、言語障害、狂躁状態などの中枢神経障害をきたした小児患者で、チッソ水俣工場付属病院に入院していた姉妹(5歳の姉と2歳の妹)に関する報告で、水俣病が公になった初めての症例であった。

 この姉妹は水俣市内月浦に住む田中義光さんの子供で、姉妹の症状は進行性で日本脳炎に似ていたが、日本脳炎の特徴である発熱、頭痛、嘔吐はみられず、これまでに経験したことのない悲惨な症状を示した。さらに医師たちを驚かせたのは、同じ症状の患者が近所にもいるという家族の話だった。そのため内月浦地区周辺を調査すると、田中姉妹と同じように四肢の筋肉を硬直させ、狂声を発する患者8人が見つかり入院とになった。

 昭和31年5月16日、熊本日日新聞は「水俣に子供の奇病、ネコにも発生」との見出しで水俣病を報じた。この水俣の奇病は人間に限らず、他の動物にもみられていた。

 海岸周辺の住民の話から、10年以上も前から水俣湾の魚介類が大量に死んでいることが確認された。また数年前から、「ネコが痙攣を起こし、よろけながら歩き、狂ったように急に走り、壁にぶつかり、あるいは海に落ち死んでしまう」という不気味な現象が知られていた。さらにふらふらと飛んでいたカラスが急に落下するのを住民が目撃していた。

 その2年前の昭和29年7月31日、熊本日日新聞は、「ネコがてんかんで全滅」の見出しの記事を掲載していた。漁村では、ネズミに網をかじられないようにネコを飼う家庭が多かったが、そのネコが全滅したため、ネズミが増えて、網がかじられる被害が多発していた。

 その当時は、ネコの病気は問題にされず、住民たちはこれを「ネコ踊り病」「ネコの自殺」と呼んでいた。さらに飼いネコが「ネコ踊り病」で死んだ家では、その後、同様の症状の患者が発症していた。

 5月28日、水俣市役所、市立病院、市医師会、保健所、チッソ水俣工場付属病院の5者が集まり、「水俣奇病対策委員会」が組織され、対策に乗り出すことになった。周辺地区の調査が行われ、この奇病は3年前から広がっていて、この奇病に取りつかれた患者は30人で、11人が死亡していることがわかった。急性発症の激症型はほとんどが死亡し、慢性型は重症例が多く、この悲惨な奇病の致死率は37%に達していた。原因は全く分からず、治療法もなく、患者は廃人となり狂気のまま死を待つだけであった。

 患者の家はすべて漁業を営んでいて、水俣湾の入り江の漁村に住まいが集中していた。特に月の浦、湯堂地区に患者が多く、しかも同じ家族に同じ患者がいることが特徴であった。狭い地域に集団で発生し、患者の家のネコも「ネコ踊り病」で死んでいたことから、この奇病は新種の伝染病とされた。そのため、白衣を着た保健所職員が患者の家を真っ白になるまで消毒し、患者は疑似日本脳炎として隔離された。

 この伝染病のうわさから、患者たちはさまざまな差別を受けることになる。患者の家の前を通る人たちは、手で口をふさぎ、足早に過ぎていった。患者が街を歩けば、住民は汚いものを見るように、遠くから見つめていた。患者がバスに乗ると、乗客は席を立ち離れようとした。このように患者や家族は病苦だけでなく、周囲からの差別を受け、孤独の中で苦しみ、村八分と同じ扱いを受けた。

 6月に、水俣工場付属病院の細川院長は熊本大学医学部付属病院の勝木司馬之助院長を訪ね、12人の患者を熊大へ学用患者として入院できるように依頼した。この日から熊大医学部は水俣病の解明に乗り出すことになる。8月には熊大医学部に「水俣奇病研究班(班長、尾崎正道医学部長)」が設置され、臨床、病理、疫学など多角的に研究がなされた。その結果、最初は子供の病気とされていたが、成人にも多発していること、患者は熊本県南部の水俣市一帯に限定していること、水俣湾の魚介類を多く食べていること、患者は64人で、21人が死亡していることが分かった。

 この奇病は、細川院長の公式届け出(昭和31年5月)以前から多発していた。昭和281215日、5歳の少女がチッソ工場付属病院に原因不明の脳障害と診断されて入院したが、後にこの少女が水俣病認定第1号の患者となった。

 水俣病は、想像を絶する悲惨な症状で、初期症状は視野が狭くなり、舌の運動障害による言語障害や手足のしびれ、運動障害などを示した。症状が進行すると、四肢の運動障害が強くなり、手足が硬直して立てなくなった。患者は面会にくる家族や知人を、誰なのか判別できずに後ずさりした。さらに痙攣や精神障害をきたし、廃人同様の状態から死に至った。

 同年11月4日、熊大水俣奇病研究班は、「水俣病はある種の重金属による中毒で、人体への侵入は魚介類による疑いが濃い」と発表したが、この重金属が何であるのかは不明であった。第1内科は手足の震えや運動障害からマンガン中毒を、精神神経科は多発性の神経症状からタリウム中毒を、公衆衛生教室は視力障害からセレン中毒を疑ったが、いずれも決め手がなかった。

 昭和32年3月、水俣保健所の伊藤蓮雄所長は「ネコ踊り病」が水俣病と似ていることに注目し、水俣湾の魚をネコに与える実験を行った。実験開始から10日目、ネコに水俣病同様の「ネコ踊り病」を発症させることに成功。水俣病は何かに汚染された魚を食べたことによって起きたと考えた。もし魚介類が原因ならば食中毒になる。熊本県は魚中毒の報告を受け、食品衛生法の適応を考え、厚生省に見解を求めた。厚生省は食品衛生調査会のなかに「水俣食中毒特別部会」を設けて検討することになった。

 一方、熊本県水産課は、因果関係は明確ではないが、工場排水による魚介類汚染によると考え、食品衛生法に基づき工場排水の停止、漁獲禁止を行おうとした。しかしチッソと日本化学工業協会は政府に圧力をかけ、厚生省は熊本県の処置を認めなかった。漁業の補償問題を懸念した行政は、すべての魚介類が有毒化している証拠がないとして、漁獲禁止の措置をとらなかった。

 水俣の漁民は病気を恐れ、また水俣湾の魚は売れずに水揚げは激減した。昭和31年に45万トンだった水俣湾の水揚げは、翌32年には1万トンまでに激減。漁民は生活の補償を受けられず、どん底の生活に追い込まれた。一方、この水揚げの激減により、32年には新たな患者の発症はみられていない。

 熊大水俣奇病研究班は第2回研究報告会で、「水俣湾の漁獲を禁止する必要がある」と結論を出し、汚染源として水俣湾に排水を流しているチッソ水俣工場を疑った。チッソ水俣工場以外に海を汚染するような工場はなかったが、確証がないため名指しはできなかった。

 水俣市はチッソ工場を中心に商店街が連なり、「チッソ城下町」とよばれていた。市民の多くがチッソ工場で働き、チッソは水俣市のドル箱と言われていた。地元の人たちはチッソが奇病の原因と疑ってはいたが、チッソで成り立っている水俣市では、チッソ水俣工場の存在はあまりにも大きく、市当局や市議会は常にチッソに逃げ腰だった。

 チッソは工場内の立ち入り調査を執拗(しつよう)に拒否、そのため工場内の調査は不可能であった。工場排液が怪しいと疑っていたが、水俣市の財政の半分以上を占めているチッソ水俣工場に立ち入る勇気がなかった。「チッソ城下町」と呼ばれていた水俣市は、会社の責任を追及せず、そのため原因究明は大きな遅れをとった。

 貧しい漁民たちは生活苦に耐えかね、漁業を再開することになる。そのため時間が経つとともに犠牲者が再び増えていった。昭和34年までの患者数は79人、そのうち32人が死亡する事態に至った。

 患者が増え、死亡者も続出しているのに原因は明確にされなかった。少なくても汚染された魚が原因で、伝染病でないことは明らかであった。伝染病は否定されたが、患者たちはかつての癩病や結核などの伝染病患者が受けたのと同じような差別と偏見を受け、周囲の目を気にしながら、発病を隠しながら死んでいった。

 昭和33年9月、それまで水俣湾へ直接流していた排水経路を、チッソ水俣工場は突然反対側の水俣川河口へと変更した。それまで狭い水俣湾に停留していた廃液が不知火海へ直接流されることになった。なぜ排水経路を変更したのか、この点について会社側の説明はなかった。チッソ水俣工場は工場排液を水俣病の原因と認めていなかった。しかし、多分、狭く限局した水俣湾に廃液を流すよりは、広い不知火海へ流すほうが希釈され、被害が少なくなると予測したのであろう。

 この排水路の変更によって決定的なことが起きた。水俣湾周辺に限局していた水俣病患者が、不知火海全域に広まったのである。それまで患者がいなかった不知火海沿岸各地、さらに離島にも患者が続出する事態になり、不知火海沿岸はパニックに陥った。この工場排水路の変更が被害を拡大させ、工場排水が水俣病の原因である可能性を高めていった。

 昭和34年7月22日、熊大医学部の水俣病研究班が「チッソ水俣工場の排水中に含まれるメチル水銀が魚貝の体内に入り、これを多食した者が発病する」という有機水銀中毒説を発表した。これは水俣病が有機水銀中毒(ハンター・ラッセル症候群)の症状と似ていることからの推測であった。

 熊大医学部は「水俣病の有機水銀中毒説」を発表。病理学的所見を武内忠男教授が、臨床の立場から徳臣晴比古助教授が、公衆衛生の立場から喜田村正次教授が有機水銀中毒説を説明した。熊大医学部が水俣奇病研究班を発足させてから3年目に、やっと水俣病の本体が見えてきた。

 チッソ水俣工場が排水経路を変更して、不知火海沿岸全体に被害が広がると、沿岸の住民たちは水俣病への不安、魚が売れない生活苦からチッソ水俣工場と直接交渉しようとした。チッソ水俣工場が水俣病の原因とする確証はなかったが、誰もが確信していた。

 昭和34年7月31日、水俣市の鮮魚小売商組合は、水俣湾およびその近海で捕れた魚を買わないことを決議。水俣湾周辺の漁民たちは仕事を奪われ死活問題となった。

 昭和3410月、チッソ水俣工場付属病院の細川一院長は工場の排水をネコのえさに混ぜ、ネコに水俣病と同じ症状が出ることを確認した。さらに解剖の結果、人間の水俣病と同じ所見であることを突き止めた。この「ネコ400号の実験」によって水俣病の原因は工場の排水であることが確実となったが、工場長はこの結果を握りつぶし、公表を禁止して実験の中止を求めた。このようにチッソ水俣工場は、同年10月の時点で水俣病の原因が自社の排液であることを知っていたが、この重大な事実について箝口令(かんこうれい)を敷いた。

 昭和3410月以降、工場幹部は水俣病の原因を廃液と知りながら、うやむやにする工作にでた。まず患者や漁民にわずかばかりの見舞金、補償金の支払いを約束。その条件として、「将来、水俣病が工場排水によるものと判明しても、新たな補償金の要求は一切しない」という項目を入れた。さらにこの補償金は会社側の責任を示したものではなく、あくまでも「隣人愛による行為」とした。

 このような説明と、わずかばかりの補償金に漁民たちは納得しなかった。同年11月2日、不知火海沿岸36の漁業協同組合の漁民1500人が、漁船に幟(のぼり)を立て水俣に集結、地元漁民300人と合流した。漁民たちは水俣工場の排水中止を叫び、水俣市内をデモ行進、水俣駅前で決起集会を開いた。漁民たちは決議文をチッソ水俣工場に渡そうと工場へ向かったが、チッソ水俣工場は話し合いに応じず、漁民が求める操業中止、補償金の要求を拒否した。

 この工場側の態度に漁民たちの怒りが爆発。数百人が工場に乱入し、事務所を手当たり次第に破壊していった。チッソ水俣工場は警官隊を要請し、警官隊と漁民たちが衝突、警察官80人が負傷し、漁民35人が逮捕された。

 水俣病は、それまでは九州地方のローカルニュースに限られていたが、この漁民の乱入が全国ニュースとなり、国民が水俣病の存在を知るきっかけになった。しかしこのニュースは暴力反対の世相を引き起こし、漁民は孤立することになった。

 水俣市長、農協、労働組合は、工場排水の停止は水俣市の死活問題につながるとして、排水停止に反対する声明を出した。そのため水俣病患者、漁民たちは孤立感をますます深めることになった。そのなかで同年1217日、チッソは自分たちの非を認めないまま、熊本県漁連と補償調停案に調印した。

 チッソ水俣工場は、最初は水俣病の解明に協力的であったが、原因がチッソ水俣工場の廃液の可能性が高くなるにつれ、熊大医学部と対立を深めていった。チッソ水俣工場は、水俣病の原因を工場排液とする説を絶対に認めず、メチル水銀を水俣病の原因とする説も認めなかった。工場の技術者幹部は、工場では無機水銀は使用しているが、有機水銀は使用していないと反論。無機水銀がメチル水銀を生み出すはずがないと主張した。また工場の生産量が増加しているのに患者が減少していると反論した。

 患者が減ったのは事実であったが、それは住民が水俣湾の魚を食べなくなったからである。しかし、魚の安全を示唆する工場の発表により、水俣病患者が再び増加することになった。沿岸の人たちにとって、沿岸で捕れる魚介類は主食に近いものだった。

 熊大の有機水銀説を否定するかのように、昭和35年4月12日、東京工業大学の清浦雷作教授が「水俣病の原因は腐った魚介類の毒(アミン説)による」と新聞紙上で大きく発表した。清浦教授は水俣湾の魚介類を分析し、魚肉が分解したときに出る4種類のアミンを検出。これをネコに注射すると水俣病と同様の症状がおきることから、魚介類のアミンが何らかの反応によって有毒化したことが原因と発表した。

 翌36年には、東邦大学の戸木田菊次教授がこのアミン説を支持する論文を書いた。このように水俣病について、熊大の有機水銀説と清浦教授のアミン説の2つが対立したが、当時のことである、田舎の熊大より東工大の清浦教授の方が多くの支持を得ていた。

 さらに日本化学工業協会・大島竹治理事は、戦時中水俣にあった日本海軍施設の爆薬が海中に投棄され、その爆薬が溶けだしたとする「爆薬投棄説」を持ち出した。チッソ工場を守ろうとする諸説について、メチル水銀説の熊大教授らはただちに反論したが、メチル水銀の出所を明らかにできなかった。チッソ水俣工場が廃液の検査を拒否したため、決め手に欠けていた。

 しかし昭和38年2月16日、水俣病は急展開することになる。熊大水俣病研究班が以前にチッソ水俣工場から偶然採取していた泥土から有機水銀を抽出したのだった。このことから熊大・入鹿山且郎教授は「水俣病の原因はチッソ水俣工場の排水である」と発表。チッソ水俣工場が製造していたアセトアルデヒドの生産過程で有機水銀が発生し、その有機水銀中毒が水俣病の原因だったのである。

 昭和40年になって、通産省はチッソ水俣工場に廃液をリサイクルして、外に出さない閉鎖循環方式にすることを命じたが、この方法では水俣湾の魚介類の水銀値は減少するものの不完全であった。そのため生産停止が命じられ、魚介類の水銀値は確実に低下した。

 水俣病は他の公害病とは異なっていた。海水によって希釈されたメチル水銀が食物連鎖を経て魚貝類に濃縮され、この魚貝類を摂取した人々から中毒者が出たのだった。

 チッソ水俣工場の技術者は、一貫して有機水銀発生の可能性を化学的にあり得ないと否定していたが、アセトアルデヒドの生産過程で有機水銀が発生することは、昭和5年にスイスのザンガーが論文で指摘しており、昭和15年にはハンター・ラッセルが有機水銀による中毒症状として水俣病と同様の症状を発表していた。

 水俣病は多くの犠牲者を出したが、より悲劇的なのは汚染された魚を食べた母親だけでなく、胎児にも障害を及ぼしたことである。メチル水銀が胎盤を通して胎児に蓄積し、生まれた子供に脳性小児麻痺の症状を引き起こした。妊娠中や出産時には異常がなく、出生後に精神運動遅延がくることから、気付くのが遅れてしまうのであった。この胎児性水俣病は、しばらくの間、水俣病とは関係のない脳性小児麻痺として扱われていた。水俣病の原則は汚染された魚を食べることで、胎児性水俣病の子供は魚を食べていないので、他の原因による脳性小児麻痺と区別できなかったのである。

 水俣病の妊婦から産まれた子供に脳性小児麻痺が多発したが、胎児性水俣病の証明は難しかった。ネコを用いた動物実験を行っても、気まぐれなネコはなかなか交尾をせず、胎児性水俣病は証明できなかった。結局、脳性小児麻痺の子供が死んで、その脳の病理所見から胎児性水俣病が証明された。これまで40例以上の胎児水俣病が確認され、多くの人たちの涙を誘った。

 水俣病が問題となった昭和30年代は、日本の経済が復興し、高度経済成長の牽引役として工場側を擁護する雰囲気があった。政府も工業立国を目指す政策から工場側に有利な立場を取っていた。明治41年にチッソ水俣工場が操業を開始して以来、チッソは日本の化学工業をリードし、水俣市の政財にも大きな影響を及ぼしていた。

 経済成長を最優先した時代、工場排水が原因と疑っていても、国や市は工場の操業停止を求めず、このことが水俣病の解明を遅らせ、被害を大きくした。水俣病は被害の大きさと悲惨さから公害の原点といわれている。

 水俣病患者は、チッソ水俣工場を相手に裁判に踏み切った。チッソ水俣工場は、「メチル水銀による水俣病の発生は予想できなかった」「アセトアルデヒドの生産過程で有機水銀が発生することを知らなかった」「熊本大学医学部の水俣病研究班が3年かかって原因を明らかにしたが、医学専門家でない技術者に原因がわかるはずはない」、などと弁明した。

 水俣病の患者や家族たち138人がチッソ株式会社に損害賠償を求めた裁判で、熊本地裁は「被告チッソは工場廃液を放流する際に安全を確認せず、その後の対策や措置も極めて適切を欠いていた」として患者側の主張を全面的に認め、死者と重症患者1人当たり最高1800万円、生存者には1600万円から1800万円、総額約9億3000万円の支払いを命じた。

 第2次訴訟が提訴され、昭和54年3月に熊本で14人が第2次水俣病訴訟を提起し12人が勝訴、昭和60年8月の控訴審判決でも4人が勝訴判決を得た。

 さらに国と熊本県およびチッソを相手に第3次訴訟が提起され、関西や東京在住の被害者もそれぞれ大阪地裁、京都地裁、東京地裁に訴訟を提起し、昭和62年3月30日、初めて国と熊本県の責任が認められた。

 一方、水俣病患者同盟は民事訴訟とは別に、当時の新日窒の吉岡喜一社長とチッソ水俣工場の西田栄一工場長が「未必の故意」による殺人、傷害罪で告訴され、熊本地裁と福岡高裁で有罪の判決が出て、昭和63年2月、最高裁は上告を棄却して有罪が確定した。

 被害者は裁判で勝ったが、「銭は1銭もいらない、そのかわり会社のえらか衆の上から順々に水銀母乳を飲んでもらいたい」と言う患者の言葉を、作家の石牟礼道子は「苦海浄土」のなかで紹介している。

 行政の責任を問う水俣病の訴訟は、平成6年7月の大阪地裁の判決までに6件の判決が下され、3件が国、熊本県に行政責任があるとして和解勧告が出された。国は和解を拒否してきたが、平成7年になって未認定患者の救済を中心とした与党合意が自社さ連立政権でまとまり、水俣病被害者・弁護団全国連絡会は訴訟の取り下げを条件に政府案を受け入れた。同年7月、村山富市首相が水俣病患者に謝罪し、これをきっかけに患者団体との話し合いがもたれ、翌8年5月、熊本水俣病訴訟は正式に和解した。

 水俣病の発生から決着まで約40年の歳月が流れていた。最終的な患者数は、平成5年末までに2946人が水俣病と認定され1394人が死亡していた。

 水俣病患者の補償金はチッソの支払い能力を超えるもので、チッソそのものが経営に行き詰まった。もしチッソが倒産すれば、水俣病患者の救済補償は行き詰まることになる。このため熊本県は県債を発行してチッソに融資することになった。県債の総額は平成9年に3218億円に達し、チッソは年間70億円を熊本県に返さなくてはいけない。平成10年のチッソの赤字は47億円で、累積赤字は2029億円に達している。環境庁は、被害を出さないように対策を施した場合、その費用は被害額の100分の1に過ぎなかったと試算している。

 チッソは昭和7年から昭和43年まで約100トンの水銀を水俣湾に排出したとされている。水俣湾汚染海域は485億円をかけて埋め立てられ、平成2年には埋め立て地が公園に生まれ変わった。水俣湾には、汚染魚の湾外への拡散を防ぐために網が設置されていたが、平成9年8月、23年ぶりに仕切り網が撤去された。湾内の魚介類の水銀値が国の規制値を3年連続で下回り、熊本県知事が安全宣言を出したのである。水俣病は公害の原点とされ、世界的にも「ミナマタ」の名前で知られている。  

 

 

 

日本医師会長に武見太郎 昭和31年(1956年)

 昭和32年4月14日、日本医師会の会長に武見太郎が選出された。武見太郎は昭和25年から田宮猛雄・日本医師会長の下で副会長の役職についていたが、役員選挙で第6代の会長に選任された。「喧嘩太郎」の異名を持つ武見太郎は、以後13期、25年間にわたり日本医師会長として厚生省を含めた日本の医療全体に大きな影響を及ぼした。

 日本の医療、日本医師会は、良くも悪しくもこの強い個性の武見太郎によって築き上げられた。日本のあらゆる組織において25年間という長期間にわたりトップの座に居続けた人物は、武見太郎、池田大作、笹川良一くらいである。もちろん選挙という洗礼を受けながらトップの座にいたのは武見太郎ただひとりである。

 喧嘩太郎の異名は、日本医師会長として常に厚生省に難題を吹きかけ、けんかを売っていたからである。このあだ名について、武見太郎は「日本医師会の主張は決して難題ではなく、日本医師会が正しい針路を示しているのに厚生官僚が無能だったから」といっている。喧嘩太郎の異名の通り、武見の言動には常に凄みがあった。それは官僚だけでなく、マスコミへも同様であった。武見は自分の医療観を持ち、他人の力を借りず、自力で日本の医療問題を解決しようとした。医療について信念を持つ者による正面突破戦術であった。

 明治37年3月7日、武見太郎は京都で生まれている。生後間もなく東京に移り、開成中学から慶応普通部を経て慶応医学部に進学する。昭和5年に慶応大学医学部を卒業すると内科を専攻。武見太郎は学問が好きであったが、古い封建的な医局制度に反発し、西野忠次郎・主任教授と対立した。

 医学部長が仲裁に入ったが、武見太郎の意志は固く、昭和12年に「学問上の見解を異にする」と辞表を書き医局を飛び出した。武見太郎は慶応医学部の8回生だったが、それをもじって「厄介生」と言った教授がいた。このように武見太郎は、日本医師会長になる前から反骨精神を持ち合わせていた。そのため当時としては、博士号を持たない珍しい医師であった。武見は博士号取得をあきらめていたが、学問への探求心は強く、慶応を飛び出すと仁科芳雄が所長を務める理化学研究所に入所している。

 仁科芳雄は世界的な原子物理学者である。武見太郎は封建的な性格と誤解されやすいが、むしろ学究的で封建制に対立する性格を持っていた。理化学研究所では湯川秀樹、朝永振一郎など一流の学者が最先端の研究を行い、武見太郎は科学者として一流の雰囲気を味わうことになる。理化学研究所では原子物理学の医学応用について基礎研究を行った。

 その後、昭和14年4月、銀座・教文館ビルの3階に武見診療所を開設し、開業医としての生活を送りながら理化学研究所で研究を続けた。理化学研究所での研究は、敗戦によってGHQが原子物理学の研究を禁止するまで続けられた。

 開業医としての武見太郎は一貫して自由診療を貫き、診療収入は患者の自由意思に任せていた。待合室には「謝礼はご随意、お志しでけっこうです」「現役の大将、大臣と老人、急患の方はすぐに診察します」と書かれた張り紙が掲げられていた。日本のほとんどの医師は、国が決めた診療報酬で診察料を取っていたが、日本医師会長である武見太郎は最後まで自由診療を貫いた。

 武見太郎の特徴は、人望により幅広い文化人や政治家との交流を持っていたことである。慶応大学時代、岩波書店の創始者・岩波茂雄の病気を治してから、岩波ルートで文化人との交流があった。幸田露伴の最後を看取ったのも武見であった。

 政治家との交流としては、大久保利通の息子・大久保利賢の夫人を診察したことから、当時の内務大臣・牧野伸顕の主治医となり、牧野の引き合いで多くの政治家と交流を深めた。武見診療所には、近衛文麿首相も診察を受けにきていた。このように人脈を広げることができたのは、有能な医師としての資質だけでなく、武見特有の人間的魅力があったからである。

 武見太郎が37歳の時、牧野伸顕との交流から伸顕の孫娘・秋月英子と結婚。秋月英子が吉田茂夫人の姪にあたることから、武見太郎は吉田の親族となり、吉田との関係を深めることになる。吉田と武見は互いに気が合うらしく、吉田が総理大臣になると、武見は吉田の密使となって組閣の舞台裏で活躍した。

 昭和25年に東大教授・柿沼昊作の推薦により、武見太郎と榊原亨が日本医師会の副会長に推挙された。その時の日本医師会長は田宮猛雄で、田宮は東大医学部長を退職したばかりの有名な学者で、榊原は日本で最初に心臓の手術をした医師である。そのため会長の田宮は日本医師会長として象徴的な役をこなし、政治、行政などの実務交渉は武見が中心に行うことになった。

 武見太郎はまず、日本の医療の実情を知らないGHQとしばしば対立した。サムス準将は「日本は戦勝国の医療政策を受け入れるべき」と日本医師会に脅しをかけたが、武見は「日本が負けたのは軍人が負けたからで、医者が負けたわけではない」と言い、これに激しく抵抗した。そのためGHQは、意に添わない日本医師会執行部を代えるように厚生大臣に要求、武見を初めとした執行部は総辞職となった。

 昭和32年4月、武見太郎は52歳で日本医師会長に選出されると、喧嘩太郎の本領を十分に発揮した。武見太郎は、「自由社会に生きる医師集団が官僚に統制されてはいけない」と考えていたが、国民皆保険制度は避けられない流れとして受け止めていた。そのため彼の手腕は、医師として古き良き時代の自由診療を理想としながらも、現実には国家による統制医療のなかで、いかに医師の地位を高めるかに向けられていた。武見が果たした役割は、一貫して開業医の利権を守るための診療報酬の引き上げだった。

 喧嘩太郎のあだ名の通り、攻撃的な態度で厚生行政に日本医師会の意見を反映させた。強烈な個性を持った武見太郎の異名は喧嘩太郎ばかりではなく、「ワンマン」「厚相殺し」「日本医師会のドン」などさまざまであった。武見太郎は吉田茂などの政治家との交流が深く、また人脈が広いことから、日本医師会長に選出された後も、厚生省や厚生大臣を交渉相手とせず、その頭越しに自民党のトップと交渉して政治力を発揮した。

 厚生大臣を「医療の何たるかを知らない輩(やから)」と決めつけ、厚生官僚などは眼中になかった。武見太郎は政治家以上の政治力を持ち、日本医師会の主張を貫いた。当時の自民党、厚生省は明確な医療政策を持っていなかったため、武見は自分の考えで日本の医療をリードできたのである。武見太郎が日本医師会長として登場した昭和32年は、まさにそのような時代だった。武見太郎のポリシーは常に反官僚で、官僚は秀才集団であるが、この秀才集団に武見は具体的医療政策を挙げて戦った。

 自民党の渡辺美智雄厚生大臣は、就任の際に「よろしくご教示願います」と武見太郎にあいさつに行った。しかし武見太郎は「大学教授はやったが、幼稚園の先生はやったことがない。お断りします」と言った。このように厚生大臣でさえ相手にしなかった。

 武見太郎は25年の間、保険医総辞退、一斉休診、飛行機からのビラまきなど、さまざまな戦術で、日本医師会の主張を政府に認めさせた。健康保険診療における制限医療の撤廃、医療報酬の値上げ、医療保健行政における日本医師会主導の確立に努めた。

 厚生省は日本の医療を「開業医中心から、病院を中心」にしようとしていた。武見太郎はこの考えを持つ厚生省と渡り合い、開業医の地位と利益を守った。また医師そのものの地位を高め、医師会の政治力を強いものにした。当時の医師の政治力は強く、選挙では医師会の存在を無視できなかった。往診かばんには200票が入っていると言われたほど、当時の医師には政治力があった。

 日本医師会の基礎づくりから、日本の医療政策の根幹部分まで、武見太郎がつくったと言っても過言ではない。武見は日本の医療について高い理想を持ち、医療のあり方、将来の医療へのビジョンを持っていた。学問や研究に生きるのが医師の姿であって、医師性善説、医師聖職説、医師の学究説が基本的考えであった。

 しかし理想はそうであっても、日本医師会という巨大な組織をまとめるには、自分の本意とは違う行動も必要だった。金儲けに走る医師もいれば、向上心の欠落した医師もいたからである。武見太郎は「日本医師会で自分を理解しているのは3分の1、ノンポリの先生が3分の1、あとの3分の1はどうにもならない欲張り村の村長さん」と称した。

 欲張り村の村長さんが3分の1含まれる医師の集団をまとめるには、理想ばかりを求めることはできない。不良な医師でも選挙権を持っていたので、あからさまに欲張り村の村長さんを非難することはできなかった。武見太郎が最も苦労したのはこの三者をまとめることであったが、結果的に武見の闘争は開業医の賃上げ闘争であり、晩年には武見の独善性が批判されることになる。

 昭和50年、武見太郎はアジア初の世界医師会長となり東京総会を主宰。昭和55年4月、日本医師会の会長選挙が行われ、武見太郎133票、花岡堅而82票であった。花岡の82票はこれまでの選挙において最も多い批判票であった。

 その直後の55年5月、武見太郎は腰痛を訴え、東京・青山の前田外科で胃がんのため開腹手術を受けることになった。本人には出血性ポリープ(良性潰瘍)と伝えられ、その後、東京・築地の国立がんセンターで再手術を受けたが、がんは総胆管に転移していた。

 病魔に襲われた武見太郎は、昭和57年に引退を決意する。武見太郎の引退を受け、同年4月1日、日本医師会の選挙が行われ、反武見派の長野県医師会長・花岡堅而が武見派の宮城県医師会長・亀掛川守を121103票で破り、日本医師会における武見体制は終わりを告げた。

 日本医師会にとって不幸なことは、武見太郎の政治力で成り立っていた日本の医療が、あたかも日本医師会の政治力によるものと誤解していたことである。武見太郎の後にも先にも、彼以上の人物は存在せず、日本医師会の政治力は次第に低下していった。

 武見太郎が日本医師会長として25年間の長期政権を可能にしたのは、武見太郎の巨大な政治力ばかりではなく、武見の個人的魅力、医学への明確な哲学があったからである。武見太郎は4回にわたる手術を行い、昭和581218日、容体悪化により慶応病院に入院。2日後の1220日、午前零時50分に死去した。解剖の結果、がんは肝臓から背骨まで転移していた。享年79

 武見太郎は勲一等旭日大綬章を得て、二男である武見敬三は東海大助教授から参議院議員(自民党)になった。武見太郎の死によって、日本の医療は日本医師会主導から次第に厚生省主導に移行していった。

 

 

 

美空ひばり塩酸事件 昭和32年(1957年)

 昭和32年1月13日午後9時40分頃、正月公演中の東京・浅草の国際劇場で事件が起きた。当時、人気絶頂の美空ひばり(19、本名・加藤和枝)が舞台の袖で、「花吹雪おしどり絵巻」に出るために出番を待っていると、突然、客席からポニーテールの女性ファンが舞台にかけ上がり、美空ひばりの顔をめがけて塩酸の入った瓶を投げつけた。

 近くにいた人が、すぐに防火用水の水を美空ひばりに浴びせ、順天堂医院にかつぎこんだ。美空ひばりは顔の右半分、ドレスの上から胸、背中に塩酸をかけられ、全治3週間の火傷を負った。付添人も全治1週間の火傷を負ったが、美空ひばりは、とっさに水をかける周囲の機転、舞台用の厚化粧のため顔面の火傷は軽症ですんだ。

 近くにいたカメラマンが塩酸をかけた女性をその場で取り押さえ、女性は浅草署に連行された。犯人の女性は口も利けないほど興奮していたが、山形県米沢市の出身で、美空ひばりと同じ19歳であった。女性の家は貧しく、中学を卒業すると地元の繊維工場で女子工員をしていたが、華やかな都会にあこがれて上京、板橋区の会社重役の女中として働いていた。事件の2か月前に奉公先を飛び出し、都内を点々としていた。

 女性は美空ひばりの大ファンで、映画は何度も見ていて、劇場にも通うほどであった。美空ひばりに何度も面会を申し込んだが相手にされず、募った思いが恨みに変わったのである。華やかな美空ひばりに、自分とあまりにも違う境遇に嫉妬心が重なったのであった。

 バッグに塩酸2合の入った薬瓶を忍ばせ、「美空ひばりちゃんに夢中になっている。あの美しい顔、にくらしいほど醜い顔にしてみたい」と書かれたメモが入っていた。被害者となった美空ひばりは、記者会見で、この犯人の女性をかばう発言をしている。

 この年は、芸能界で同じような事件が頻発した。2月27日には、東京都世田谷区の京マチ子宅に「135000円を持ってこい。警察に知らせると硫酸をぶっかけ、ダイナマイトで自動車ごと吹っ飛ばす」という脅迫状が届いた。京マチ子に似た女優が現金を持って指定場所で待っていると、法政大学1年生(19)と店員(19)が現れ、その場で逮捕された。

 さらに3月1日には、神奈川県横須賀市の無職少年(16)が東京・品川駅で無賃乗車で捕まった。所持品を調べるとナイフを持っていて、少年は島倉千代子を殺すつもりだったと自供した。少年は島倉千代子に何度も面会を求めたが断られ、この恨みから殺害を計画して上京したのだった。昭和29年にデビューした島倉千代子は「この世の花」の歌で人気を得ていた。

 それまでの芸能人は、庶民とはかけはなれた存在であった。スターは映画館で見るもので、庶民にとって別世界の人だった。それがテレビの普及によって芸能人が身近になったことがこのような事件を生んだ。芸能人が一般人から障害を受けた事件は、戦後では山口組組員による鶴田浩二殴打事件(昭和28年1月6日)、こまどり姉妹刺傷事件(昭和41年5月5日)がある。

 美空ひばりは、いうまでもなく戦後最大のスーパースターである。幼時から歌が大好きで、並外れた歌唱力から天才少女歌手といわれた。NHK素人のど自慢大会に出場、「悲しき竹笛」を歌うが、鐘が鳴らず落選となる。歌がうますぎて子供らしくないというのが落選の理由だった。

 昭和21年9月、地元の横浜市磯子区の映画館「アテネ劇場」を借り切って3日間の興行を行う。これが美空ひばり9歳の初舞台で、これが評判となり横浜国際劇場でのデビューとなった。わずか10歳の少女は、岡晴夫の「港シャンソン」、並木路子の「リンゴの唄」などを大人顔負けの歌唱力で歌い、2000人の観衆を驚かした。13歳のときに出演した初映画「悲しい口笛」は、主題歌とともに爆発的なヒットとなった。

 戦後の混乱と暗い世相の中で大衆は娯楽を求めていた。国民は失意のなかで美空ひばりの歌に元気づけられ勇気をもらった。横浜の魚屋の娘からスターになった美空ひばりは、自分たち庶民の代表で、打ちひしがれた日本に夢と希望を与えてくれた。出演した映画「悲しき口笛」「東京キッド」「リンゴ園の少女」「あの丘越えて」は大ヒットし、主題歌もヒットした。さらに江利チエミ、雪村いづみとともに三人娘と呼ばれ活躍した。

 美空ひばりは大スターとなり、映画、舞台に活躍、歌謡界の女王として君臨することになった。比類ない歌唱力で、戦後の歌謡界に大きな足跡を残した。美空ひばりのヒット曲は多数あるが、代表的な曲として「柔(昭和40年)」「悲しい酒(昭和41年)」「川の流れのように(平成元年)」などがある。

 美空ひばりの人生は栄光に満ちていたが、その私生活は苦悩の連続だった。小林旭との離婚、身内の不祥事と死別、これらを暗示したのが最初に襲われた塩酸事件であった。塩酸事件をきっかけに、美空ひばりと山口組・田岡一雄組長との結びつきが強くなり、田岡組長は地方公演でのトラブル防止や護衛などで尽力することになった。

 昭和62年4月、美空ひばりは全国ツアーをスタートするが、両側大腿骨骨頭壊死と肝硬変の悪化のため、済生会福岡総合病院に入院。マスコミは再起不能と報じたが、翌63年4月11日、新装となった東京ドームのこけら落としで「不死鳥コンサート」を成功させ、奇跡のカムバックを果たした。5万人の観客が見守るなか、「不死鳥・美空ひばり」は歌い続けた。さらに全国13カ所で公演を行い、いずれも満員御礼であったが、病魔が美空ひばりを蝕んでいた。

 平成元年2月の小倉公演での「さようならの向こうに」が最後の歌となった。平成元年3月頃から呼吸困難が強くなり歌えなくなった。病名は間質性肺炎で、病状が悪化し同年6月24日、順天堂大学病院で美空ひばりは52歳の若さで帰らぬ人となった。

 戦後の何もなかった時代、日本人の心を歌い続けた美空ひばりはその名前の通り、青空を高く飛び、心の太陽として多くの人々とともに歩んできた。多くの国民は永遠の歌姫の死去に涙を流した。歌謡界の女王といわれた美空ひばりは、昭和という時代を駆け抜けるように歌い続け、自分の人生だけでなく昭和という時代の幕を引いた。20本以上の追悼番組が放映され、日本政府はその死を悼み、女性として初めての国民栄誉賞を追贈した。

 

 

 

姥捨て山伝説 昭和32年(1957年)

 作家・深沢七郎のデビュー作「楢山節考」は、昭和32年のベストセラーとなった作品で、かつて日本各地にあった「姥捨て山伝説」を小説にしたものである。小説の舞台となった信州の山村では、70歳になった老人を人里離れた楢山に連れてゆき、置き去りにして老人を死に追いやる掟があった。それは貧しい村を救うための掟であったが、その残酷な掟は山の神を敬う村人の信仰心に置き換えられていた。

 晩秋となり楢山参りの日が近づくと、おりん婆さんはみずから山にゆく用意を淡々と始め、しぶる息子の辰平をせかして楢山へ向う。辰平は村の掟に違和感を抱きながら、おりん婆さんを背負い、無言のまま険しい山道を登って行く。楢山の頂上に近づくと、あたりには死体や白骨が見えはじめた。おりん婆さんは岩陰に降り立つと、岩陰にムシロを敷いてすわり、辰平に山からおりるように手で合図した。降りかかる雪、老婆の周囲に群がる黒いカラス、悲しみをこらえながら山を下る辰平。山道を下る辰平は、村の掟を破り、きびすを返して山頂へ駈け登った。そして念仏を称えているおりん婆さんに「雪が降ってきて、運がいいなあ」と呼びかけた。おりん婆さんはうなずくと、早く帰れと追い立てるように手を振った。村に帰った辰平は楢山をのぞみながら、「わしも70になったら山へ行くんだ」とつぶやき合掌した。

 姥捨てという行為は非人道的で、残酷な村の掟であったが、小説・楢山節考にはその残酷さが感じられず、むしろ生死を温かく包みこむ日本人の死生観が伝わってくる。死を草木が枯れる自然なものとと捉える老婆の心情が伝わってくる。死に対して恐れも悲しみもない老婆の心情、老婆を死に追いやる息子の葛藤、これらの感情が素直にしかも淡々と書かれていた。

 昭和32年頃の日本は豊になったが、数年前までの日本は貧しく、冷害となれば娘を身売りに出していた。生産能力を失った老人は家族の負担となり、老人を抱えることは家族にとって脅威であった。このような貧しい時代の記憶が残っている人たちにとって、楢山節考は大きな衝撃であった。日本人が忘れかけていた最も人間的なものを、深沢七郎は楢山節考で表現したのだった。人間の死について書かれた小説は無数にあるが、楢山節考は死について偽りの感情がなく、非人間的でありながら、人間らしい温かみを感じさせた。

正宗白鳥は楢山節考について、「私はこの小説を面白くて、娯楽として読んだのではない。人生永遠の書のひとつとして心読したつもりである」と絶賛した。昭和33年、楢山節考は松竹・木下啓介監督によって映画化され、老婆役を演じた田中絹代は実際に何本かの前歯を抜いて撮影に臨み話題になった。また昭和58年にも今村昌平監督によって映画化され、坂本スミコが主役を演じ、第36 回のカンヌ国際映画祭でグランプリを受賞した。

 深沢七郎は山梨県の石和町(現笛吹市)で生まれた。石和町は、昭和36年にブドウ畑から突然温泉が湧き温泉街として有名になったが、深沢七郎は温泉のない時代の石和町で育った。少年時代からギターが好きで、日劇ミュージックホールのギタリストをしていた。それがどうしたことか楽屋で楢山節考を書き、第1回中央公論新人賞を受賞した。新人賞の審査員は伊藤整、武田泰淳、三島由紀夫の3人で、3人ともこの作品にショックをうけた。

 深沢七郎は楢山節考によって異色の作家として注目され、さらに昭和33年には、戦国時代の甲州を舞台にした「笛吹川」を書き上げている。このように楢山節考、笛吹川で名をあげた深沢七郎であったが、昭和3512月号の中央公論に掲載された「風流無譚」が大問題を引き起こした。

 風流夢譚は文字通り夢の中の出来事を描いた一種の風刺小説である。その内容は「日本で左欲による革命が起こり、天皇、皇后、皇太子ら皇族が捕まり、皇居前広場で処刑されることになる。マサカリが振り下ろされ、皇太子殿下、皇太子妃殿下の首がスッテンコロリンと転がり、見物していた自分も殺されそうになった時に目を覚ました」という天皇を侮辱するものであった。この風流無譚は夢物語に仕立てられていたが、皇室を侮辱するものとして問題になった。あの悪名高い「不敬罪」は戦後廃止されていたが、宮内庁はこの小説を皇室への名誉棄損と受け止め中央公論社に抗議した。

 中央公論社は「表現の自由」の議論を避け、配慮が足りなかったと宮内庁に陳謝し、1月号に謝罪文を掲載した。また中央公論社は編集長・竹森清を解任し、嶋中社長が編集長を兼任することになり、この事件は一件落着したかのようにみえた。

 「表現の自由」は当時のマスコミが最も大切にしていたもので、宮内庁も「表現の自由」の議論を避け、中央公論社の謝罪を誠意あるものと受け止めた。しかし、この流れの中で右翼が激怒し、赤尾敏がひきいる大日本愛国党員8人が中央公論社に押しかけ謝罪を求めた。さらに国粋会、松葉会などの右翼団体が中央公論社に押しかけて乱入した。

 当時は、安保闘争により左翼勢力が増し、それに対抗するように右翼の勢力もピークに達し、革命前夜のような緊張が張りつめていた。このような背景の中で、この事件の数ヶ月前に浅沼委員長刺殺事件が起きている。

 浅沼委員長刺殺事件とは、日比谷公会堂で開かれた与野党党首演説会の壇上で、社会党委員長・浅沼稲次郎が右翼少年に短刀で刺殺された事件である。演説していた浅沼稲次郎に、突然壇上に上がってきた青年が、短刀を脇に抱え体当たりして、その瞬間がテレビで放映され、国民の目を釘付けにした。浅沼稲次郎は日比谷病院に運ばれたが絶命した。安保反対運動の先頭に立っていた野党第一党の党首が、壇上で公然と刺殺されたのである。民主主義の時代に、この右翼テロは国民に戦慄をもたらした。犯人の山口ニ矢(おとや)は「浅沼は売国思想だから殺した」と自供、その後、山口は練馬の鑑別所で首つり自殺した。壁には練り歯磨きで「七生報国 天皇陛下万歳」と書かれていた。

 この浅沼委員長刺殺事件の数ヶ月後に風流夢譚事件が起き、右翼団体は新聞への陳謝文の掲載と深沢七郎の海外追放を要求した。右翼の抗議は止まらず、帝都日日新聞社が「赤色革命から国民を守る国民大会」を日比谷公会堂で開き、中央公論社の解散要求などを訴えた。このように騒然とした中で、この風流夢譚は思わぬ事件を起こした。

 昭和3621日午後9時15分頃、東京新宿区市ヶ谷の住宅街にある中論公論社長・嶋中鵬二(37)宅に17歳の愛国党党員・小森一孝が無断で応接室に上がり、「右翼だ、主人はいないか。風流夢譚はなんだ。ふざけるな!」と叫んだ。家事手伝いの丸山かね(50)さんが「嶋中社長は不在」と告げると、小森一孝は奥の部屋に行き、社長夫人の嶋中雅子(35)さんの胸を刺し、全治2ヵ月の重傷を負わせ、止めようとした丸山かねさんの脇腹を刺し、丸山かねさんは同夜に死亡した。

 犯人の小森一孝は長崎県諫早市の出身で、長崎地検諫早支部の副検事の長男だった。東大を目指して勉強していたが、安保などの社会問題に悩み、赤尾敏が率いる大日本愛国党に入党していた。小森一孝は事件前日に大日本愛国党を脱党して、この殺傷事件に及んだ。小森一孝は犯行翌日、浅草山谷のマンモス交番に自首。小森のポケットのハンカチには「君オモヒ国ヲオモヘバ世ノ人ゾ、イカデ惜シマン露ノ命ヲ」、と辞世めいた句が書かれていた。

 小森一孝は3ヵ月前に起きた、浅沼委員長刺殺事件の山口ニ矢と同じ17歳で、未成年であったが朝日新聞が実名で報道し、その名が知られることになった。浅沼稲次郎を刺殺させ自決した山口ニ矢は右翼から英雄視され、無抵抗の女性を死傷させた小森一孝は誰からも評価されなかった。

 昭和372月、東京地裁は小森一孝に懲役15年の判決を下した。丸山かねさん殺害は小森の単独犯であったが、警視庁は背後に大日本愛国党党首の赤尾総裁が関与しているとして、殺人教唆容疑で赤尾を逮捕。赤尾は殺人教唆については証拠不十分で不起訴処分となったが、暴力行為等処罰法違反で懲役8月の判決が下された。小森一孝、山口ニ矢による殺害動機はかつての暗殺事件と同じであるが、この事件以来、このような暗殺事件は日本では起きていない。

 中論公論社長の嶋中鵬二は、事件後に中央公論編集長を辞任、記者会見で風流無譚を掲載したことは間違いだったと謝罪した。また同時に「失礼は失礼として、年端もいかない者を殺人行為におもむかせるような風潮と言動を激しく憎む」と述べた。

 この事件は少年による突発的犯罪であったが、それまで比較的自由であった天皇や皇室に関する言動がこの事件によってタブーとなった。さらに国民の生命を守る治安行政のあり方、言論の自由が問題になり、その意味ではこの事件は歴史的に重要な事件であった。当時の日本は、GHQにより価値観が解体されたが、まだ旧日本の体制と価値観を持つ者がいて、この混迷がこのような事件を引き起こした。

 風流夢譚は右翼を怒らせ発禁となったが、当時の三島由紀夫は「これは面白い、いい小説だ」と評価した。三島由は天皇崇拝者であるが、風流夢譚を文芸上のユーモアと捉えていた。そのため三島は連日、右翼からの抗議を受けることになる。憂国という小説を書いた三島は右翼とされがちであるが、この事件によって三島は右翼ぎらいになった。なお昭和36年には大江健三郎が浅沼稲次郎暗殺をモチーフにした「政治少年死す」を発表したが、右翼の抗議から発禁となっている。

 深沢七郎は「皇室への不敬罪がなくなったのだから、何を書いてもよいという友人の言葉を信じたのだが、人を侮辱するような小説を書いたのは間違いであった。私がいけなかった。失敗だった」と述べている。この事件以降、深沢七郎は3年間にわたり日本国内を転々として世間から身を隠す生活を送った。

 昭和40年になって、深沢七郎は埼玉県・菖蒲町に「ララミー牧場」を作り、長い流浪の生活に終りをつげた。昭和56年に「みちのくの人形たち」を書き、谷崎潤一郎賞を受賞している。昭和62年、深沢七郎は心不全で死去(享年73)、波瀾万丈の人生を終えた。なおこの事件がおきた昭和36年、深沢七郎の生まれ故郷である山梨県・石和町の果樹園で温泉が湧きだし、石和町はそれ以降、有名な温泉街に変身している。

 

 

 

サユリスト 昭和32年(1957年)

 昭和32年、吉永小百合は11歳のときに、赤胴鈴之助の子役オーデションに応募し、千葉秀作の娘役に選ばれた。これが芸能界入りの第一歩で、高校在学中に「キューポラのある街」にヒロインで出演、それ以降、清純派女優として今日まで多くの映画に出演している。昭和37には「寒い朝」で歌手デビューし20万枚のヒット。また橋幸夫とのデュエットで「いつでも夢を」を歌い30万枚の大ヒットとなり「第4回日本レコード大賞」を受賞している。

 その後、早稲田大学文学部進学し、可憐さ、知性、奥ゆかしい庶民性から、学生ばかりでなく幅広いファンを引きつけた。大学生に小百合ファンが多いことから、小百合ファンの大学生をいつしかサユリストと呼ぶようになった。

 ほぼ同時期、このサユリストとは別に、さゆりストという言葉がある。さゆりストとはさまざまな職業を経てストリッパーに転じ、関西ストリップ界の女王となった一条さゆりのファンのことである。一条さゆりはワイセツ罪で9回逮捕されたが、有罪判決を受けても違法な特出しストリップを止めようとしなかった。当時は学園紛争の時代である。「反権力の象徴」としてさゆりの意気込みに、女性に恵まれないおじさん・さゆりストは涙を浮かべて応援した。老人の客は一条の股間を見つめ、一条さゆりのストリップに涙ぐみながら拍手を送った。客の喝采とさゆりの一体感が、性風俗という世俗が反権力の象徴となり、さらには人間の裏の真実をみせていた。駒田信二が小説「一条さゆりの性」を書き、多くの”さゆりスト”を生んだ。7年間、11PM(よみうりテレビ)にレギュラー出演していた。さらに日活ロマンポルノ「一条さゆり濡れた欲情」として映画化され、本人も映画に出演している。

 一条さゆりは特出しの女王と呼ばれ一世を風靡(ふうび)していたが、執行猶予中でも大胆な露出を続け、司法当局の神経を逆なですることになる。権力への挑戦と受け止められ、大阪・吉野ミュージックに出演中に公然ワイセツ罪で10回目の逮捕となり、最高裁まで争ったが、昭和50年に1ヶ月の実刑に服して引退することになった。

 刑務所を出所すると、労務者の多い大阪・西成区のあいりん地区でスナックを経営していたが、しだいに酒におぼれ破滅的な生活を送るようになった。自殺未遂とも思える交通事故をおこし、別れ話から男性にガソリンをかけられ大やけどを負い、あいりん地区では一時期路上生活をしていた。

 平成58月、大阪市西成区の杏林記念病院で肝不全のためひっそりと息をひきとった。看取る者のいない60歳の寂しい人生であったが、葬儀には往年のおじさん・さゆりストが多数集まり懐かしげに旅立ちを見送った。一条さゆりについては加藤詩子が「一条さゆりの真実 虚実のはざまを生きた女」の題名で新潮社から出版している。著者の加藤詩子は、カメラマンとしてストリッパーを撮影するうち、引退していた一条さゆりに興味を持ち、共同生活を送りながら彼女の人生を書いたのであった。

 サユリストとさゆりスト、このふたりのさゆりは、男性にとっては、女性のサガの表と裏の真実、演技と表現、幸福と不幸、華やかさと寂しさ、幸運と悲運、このようにふたりのさゆりは正反対のさゆりであったが、どちらのさゆりも、男性にとって愛すべきさゆりであった。

 

 

 

売春防止法 昭和33年(1958年)

 日本には、江戸時代の以前から公娼制度が存在していたが、明治5年に明治政府は外国への体裁から娼妓解放令を行い、女性の人身売買を建前上禁止した。しかし実効性に乏しかったことから、遊郭に集まってくる女性たちは何ら変わらず、親の借金を背負った娘たちは年季奉公を強いられ身体を犠牲にして働いた。人類史上最古の職業と言われている売春は、江戸時代から、明治、大正、昭和と年号が変わっても、公娼制度は戦後まで残されていた。

 しかし昭和21年1月、GHQは日本政府にそれまでの公娼制度の廃止を命令。昭和22年1月15日に、「婦人に売淫をさせた者の処罰に関する勅令」が発令され、公娼、私娼を問わず、婦人に売淫をさせることを禁じた。このことで日本の長い遊郭の歴史は幕を閉じるばずであったが、公娼制度は廃止されたが、売春が野放しになったため性風俗は乱れていった。そのため昭和221114日、吉田内閣は性風俗の混乱を防ぐために、かつての遊郭地域を特殊飲食街に指定し、その区域に限り売春を黙認することにした。つまり風紀上支障のない地域に限って売春を認めることにし、これが赤線と呼ばれる区域である。

 赤線の理屈は「性風俗の悪化防止と、良家の子女を守ること」であって、特殊飲食街の指定という形で、実質的に公娼制度は残された。赤線はかつての遊郭と同じで、警察が地図上に赤い線で囲んだことから赤線と呼ばれるようになった。東京の赤線は、吉原、州崎、新宿、立川、小岩、向島など25カ所で、この地域はそれまでの遊郭の場所と同じで、経営者もほとんど同じだった。この赤線として公認された地域以外での売春は禁止された。

 しかしこの赤線に指定されていない地域で、隠れて客をとる「もぐりの売春街」が現れるようになり、その地区を青線と呼ぶようになった。青線は、表面上はキャバレー、バー、飲食店であるが、実際にはホステスによる売春行為が行われていた。1階の飲食店で飲み食いをして、2階で客を取る形態が多く、新宿のゴールデン街は昔の青線の名残である。このようにして戦後の性風俗を飾るものとして、黙認された売春地区ができた。

 昭和29年、労働省の調べによると、全国の集娼地区、つまり赤線、青線、駐留軍基地などは1921カ所、売春業者3万7112軒、売春婦は129008人であった。さらにもぐりの街娼などを含めると、売春にかかわる人たちの総数は50万人とされた。

 こうした売春制度への反対運動も熱心に進められ、婦人団体による赤線や青線反対運動が次第に広がりをみせていった。昭和31年までに、女性議員らによって売春を禁じる法案は5回、国会に提出されたが、いずれも保守党議員の抵抗で廃案となった。廃案の背景には売春業者からの多額の運動資金があった。

 昭和30年5月、鹿児島市の旅館・松元荘の少女売春が売春防止法のきっかけをつくった。松元荘事件とは、15歳の中学生をはじめとした高校生ら未成年9人を含む23人が、建設会社社長夫妻によって売春を強要された事件である。

 「玄人の女はもう飽きた。高校生のような初々しい娘と遊びたい」という客の要求から、女子高校生らを誘い、売春をさせていたのである。高校生たちには「学費を稼がせてやる」と誘い、制服姿のまま客席に出させて1500円で売春をさせていた。客の中に会社社長や病院長、公務員、マスコミ関係者ら県内の名士が多数いて、さらに県議、町長、県庁の土木担当課長らによる指名入札に絡む贈収賄事件発覚の糸口になった。また事件発覚後16歳の女子高校生が自殺するという痛ましい展開になった。

 全国紙が「松元荘事件の真相を探る、知名人多数が関係」と大きく報道し、松元荘事件は全国的に知られるようになった。この「松元荘事件」によって、売春を非難する世論が盛り上がった。まず鹿児島で売春禁止運動が始まり、婦人、学生が立ち上がり、鹿児島県売春禁止法制定促進委員会が結成され、次ぎに国会の婦人議員も動き出し、市川房枝、神近市子、藤原道子らの婦人議員による超党派運動が行われた。

 昭和30年5月13日、藤原議員が参院本会議で緊急質問。鳩山一郎首相から「売春禁止法は必要」とする発言を得るが、衆院法務委員会に提出された「売春等処罰法案」は19票対11票で否決された。しかしその後、大逆転が起きる。神近市子議員が法務委員会で、「法案成立を阻止した赤線温存派議員たちは、売春業者から金を受け取っている。そのような意図からの法案反対は納得できない。政治的陰謀によってつぶされた」と発言したのだった。この発言は新聞で報道され、赤線温存派に決定的な打撃を与え、いわゆる「売春汚職」が摘発されることになった。

 全国の赤線業者の団体である全国性病予防自治会(全性連)が、全国5万5000人の売春婦から1人200円を巻き上げ、売春防止法の国会通過阻止のため20数人の国会議員に金を配っていたのだった。このため鈴木明理事ら赤線業者4人が贈賄で、国会議員3人(真鍋儀十、椎名隆、首藤新八)が収賄で逮捕された。また元警視総監も取り調べを受け、この「最も汚らわしい汚職」への世間の反発は大きく、売春防止法は6回目の国会提出でやっと成立した。「売春追放こそが女性解放の第一歩」。明治時代に始まった廃娼運動から80年目にしてようやく日の目を見ることになった。

 成立から2年後の昭和33年4月1日から施行が決定。そして施行前日の3月31日の午前零時、全国の赤線の灯が消えた。東京・新宿では街中に「蛍の光」が流れ、時代が変わったことが告げられた。しかし売春防止法で重要なことは、「客をとった女性、客となった男性は罪に問われない」ことである。売春防止法は管理売春、つまり売春業者を罰する法律で、売春行為そのものを処罰する法律ではないのだった。

 売春防止法の条文は、「なにびとも売春を行い、又はその相手となってはならない」と規定しているが、それは法の理念であって、売春行為や売春婦は処罰の対象にはならなかった。売春防止法の目的はあくまでも「売春行為を助長する斡旋を禁じること」で、つまり少女たちが一家の犠牲となり、現金と引き換えに人身売買されていた悲劇を防止することが目的で、売春行為それ自体への罰則規定はなかった。売春防止法は悪質な管理売春の撲滅のためで、この法律の名前も「売春防止法であって売春取締法」ではなかった。

 売春の斡旋とは客引きや勧誘、売春の場所や資金を提供することで、違反すれば最高懲役10年、または罰金30万円に処するという厳しい内容であった。罰金30万円は当時の大学初任給の23倍の値段であった。このように売春防止法の対象は管理売春で、個人売春や単純売春は処罰されなかった。売春防止法は売春婦の環境を清める法律で、売春婦たちの保護に重点が置かれた。

 そのため売春防止法は成立したが、ひも付きの売春婦や個人営業の「散娼」が増える結果となった。手頃なアパートに売春婦を住まわせ、稼いだ金をピンハネする新手の売春が生まれ、警察はこれを「白線」と呼んだ。警察はこの「白線」を摘発しようとしたが、「白線」は野放し状態となった。このように売春防止法は成立当初からザル法と批判されたが、売春の悲劇に大きなくいを打ち込んだ意義は大きかった。

 売春防止法により失業した売春婦たちの保護を目的に、新たに保護更生規定が追加され、売春婦は補導指導が行われた。しかし全国で12万人とされる女性たちの生活が変わるはずはなかった。赤線区域の売春施設は消滅したが、形を変えた売春や性サービスは以前に増して盛んになった。警視庁は、売春防止法が施行されて1年後には、6割の売春婦が舞い戻り、多くが街娼となっていると公表している。売春防止法施行による性病の調査では、売春防止法施行後の性病罹患率は2倍に増え、検挙された売春婦の55%が性病に侵されていた。

 売春防止法が実施され、全国の赤線の灯は消え、夜の街から女性が消えたが、それは数カ月だけの現象であった。売春防止法が施行されて3カ月後には都内に37軒のトルコ風呂が開店した。トルコ風呂は新しい売春の形態で、公衆浴場法で規定されることより売春の抜け穴となった。このように表面上消滅した売春は地下に潜行、形を変えて存続した。

 売春防止法は管理売春を罰するザル法であるが、子供への性的搾取や虐待を防止するため、平成1111月1日、児童買春禁止法が制定された。この児童買春禁止法は買う側の処罰を盛り込んだ法律で、対象となるのは18歳未満の児童である。子供の年齢が18歳未満であることを知らなくても、知らないことを理由に処罰を免れることはできない。

 児童買春をした者は3年以下の懲役または100万円以下の罰金に処せられる。被害者である子供の告訴を必要とせず、海外での行為も処罰の対象となる。また児童買春を斡旋した者は、3年以下の懲役または300万円以下の罰金となる。

 当時の売春は、生活苦が動機であったが、最近では好奇心や小遣い稼ぎが売春の動機になっている。金銭による商取引が中心である現代社会において、ボランティアを除き、人間のあらゆる行為は金銭と関係している。売春を犯罪と呼ぶべきか、少なくても売春をしている女性は売春を犯罪とは思っていない。女性は金銭目的の身体を張った商売と受け止めており、売春は被害者なき犯罪といえる。

 金銭を介した不特定多数との性行為は売春で、金銭を介した特定愛人との性行為は売春ではないが、これらは性の道徳概念、倫理の問題になるのではないだろうか。現在、ソープランド、愛人バンク、テレクラ、デリバリーヘルス、海外での売春、このように法の網の目をくぐった性産業は多様化している。売春を行う女性のほとんどは自分の意志で行っていて、ピンハネはあるものの管理売春は地下に潜伏した売春紹介業となっているのが現状である。

 なお最近、買春という言葉が使われるようになった。売春を行う女性よりも、女性を買う男性に問題があるとするもので、特に海外における、「買春ツアー」「買春観光」が問題になった。買春という言葉は、昭和49年、朝日新聞記者・松井やよりが使った言葉がもとになっている。

 

 

 

インスタントラーメン 昭和33年(1958年)

 昭和33年は、長嶋茂雄がプロデビューした年である。ちょうどその年の825日、世界初の即席ラーメン「チキンラーメン」が日清食品から発売された。お湯を注ぐだけで気楽に空腹を満たしてくれる即席ラーメンは爆発的に売れ、戦後の日本人の食生活を変えた。「お湯をかけ,

2分間でできる魔法のラーメン」、これがチンラーメンのキャッチフレーズであった。チキンラーメンは即席ラーメン、後にインスタントラーメンとよばれ、庶民の生活に定着した。

 このチキンラーメンを開発したのは、大阪府池田市に住んでいた日清食品の会長・安藤百福(ももふく)だった。安藤百福はそれまで多くの事業を手がけているが、不幸なことに2度の獄中生活を送っている。1回目は軍の支給物質を横流した嫌疑で、2回目は税金の滞納疑惑である。この2つの事件はいずれも冤罪であったが、競売された財産は戻らず無一文になっていた。その後、安藤百福は信用組合の理事長を務めるが、その信用組合は倒産し、倒産によって再び全財産を失ってしまった。このような波瀾万丈の人生のなかで、安藤百福は「どのような不幸な環境にあっても、食文化は残る」という確信があった。安藤百福は終戦直後の焼土の街で、着の身、着のままの人たちが、ラーメンの屋台に長い列を作っている光景がいつも頭から離れず、日本人が麺好きの民族であることを実感していた。

 安藤百福は借金をして、池田市の自宅裏庭に粗末な研究小屋を建て、長期間保存ができ、気楽に食べられる即席ラーメンの開発に取り組んだ。安藤百福のそれまでの人生はラーメンとは無縁だったが、お湯をかけるだけで食べられるラーメンを開発すれば必ず売れると確信していた。

 ラーメンは生麺をゆでる以外に調理法はないが、その時代にお湯をかけるだけで、ただ待つだけで食べられる手軽なラーメンをつくろうとした。古道具屋から製麺機を買い、実験を繰り返したが、実験は失敗の連続であった。

 まず麺をいかに乾燥させるかが問題になった。そしてたどりついたのは、スープの味をしみこませた麺を油で揚げて乾燥させることだった。麺を天ぷらのように油で揚げると、麺の水分が抜け麺に無数の穴ができる。そこにお湯をかけると、穴からお湯が麺全体にゆきわたり、柔らかい麺ができるのだった。チキンラーメンの麺をよく見ると、麺の11本は扁平な形をしているが、この扁平な形が湯の吸収を良くするのであった。

 さらにおいしいこと、保存できること、調理が簡単なこと、価格が適正なこと、安全なこと、量産できること、これらを目標に開発が進められ、麺1本の長さが50センチ、1袋に120本入れることになった。麺を揚げる油はコレステロールが少ない植物性パーム油を使用し、健康志向とした。

 チキンラーメンは、味のついた麺に熱湯を注ぎ2分間待つだけで、麺はやわらかくなり、麺にしみこんでいた味がスープとなった。このお湯を注ぐだけの手軽さが若い人たちに受け、さらにチキンラーメンという名前が覚えやすく栄養満点のイメージをもたらした。その当時、うどん1玉の値段が6円に対し、チキンラーメン1袋は35円だった。このチキンラーメンの販売価格は、店で中華そばを食べるのと変わらない値段だった。問屋はその値段の高さに顔をしかめたが、チキンラーメンは販売と同時に爆発的に売れ、品不足で悩むほどであった。

 チキンラーメンの袋は黄色い線が入り、袋の卵型の透明な窓から中のラーメンが見えるデザインであった。チキンラーメンは、テレビコマーシャル「お湯をかけて2分間待つだけ」の宣伝が人気を呼び、135円の値段は30円に値下げされ、さらに当時台頭したスーパーマーケットが大衆消費者をつくり、チキンラーメンは驚異的な売り上げを示した。

 当時、ラーメンという呼び名は一般的ではなく、中華そば、支那そばと呼ばれていた。しかしチキンラーメンの登場によって、ラーメンという言葉が日本に定着した。チキンラーメンはインスタント食品の先駆けとなり、新しい大衆消費文化を築き上げた。

 昭和34年にチキンラーメンは年間1万食をこえ、昭和35年には120万食を売り上げた。他社もこの即席ラーメンブームに乗り遅れまいと、次々にラーメン工場をつくり、昭和36年には200のメーカーが乱立した。

 一方、主婦のあいだから、「肉や野菜を入れて食べたい」、「栄養のバランスを考えて調理したい」という声が上がった。この市場調査の声に答えるように、昭和376月、後発メーカーである明星ラーメンが「支那筍入り明星ラーメン」を発売した。それまでの即席ラーメンは「お湯をかけ味付け麺」であったが、明星ラーメンは「ナベで煮て、後で味を加える」というスープ別添えのインスタントラーメンを作ったのである。次いで東洋水産が「マルちゃんハイラーメン」を発売。スープ別添えの新製品は、昭和37年だけで日清食品の「日清焼きそば」、エースコックの「即席ワンタンメン」、東洋水産の「マルちゃんたぬきそば」と次々に新製品が登場した。麺をナベで煮る手間がかかったが、野菜や卵などを自由に入れることができ、具を入れることで味わいを加えることができた。

 スープ別添えタイプは都市部の主婦たちに好感を持たれ、インスタントラーメンは味付け麺からスープ別添え麺に変わった。この技術が他の麺類に応用され、うどん、やきそば、スパゲッティなどのインスタント麺が次々に発売された。インスタントラーメンは、昭和37年には年間10億食、昭和38年には20億食、昭和40年には25億食、昭和45年には36億食に達した。

 これまでに多くのインスタントラーメンが発売されてきたが、ベストセラーは「明星チャルメラ(明星食品)」、「ワンタンメン(エース食品)」、「出前一丁(日清食品)」、「マルちゃんのタヌキそば(東洋食品)」、「サッポロ一番(サンヨー食品)」、「長崎タンメン(サンヨー食品)」などである。明星チャルメラはホタテ味をベースに木の実のスパイスが添付され、麺に使われた小麦粉も上質のものであった。サッポロ一番はガーリックのきいた味で乾燥ねぎが入っていた。出前一丁は胡麻ラー油が付いていた。インスタントラーメンはテレビ・コマーシャルで何度も放映され、各社は競い合いながら売り上げを伸ばしていった。

 昭和469月、日清食品が「カップヌードル」を発売した。開発したのは安藤百福で、安藤百福は即席ラーメンだけでなく、「カップヌードル」も開発したのだった。カップヌードルは発泡スチロール容器に入った味付け麺で、お湯を注ぐだけの商品だった。

 「おいしさに国境はない」、このことを信じていた安藤百福が、チキンラーメンの売り込みのため欧米へ視察旅行にいった。ロサンゼルスのスーパーで何人かのバイヤーに試食を頼んだが、アメリカには麺を入れるどんぶりがなかった。すると彼らは紙コップにチキンラーメンを砕いて入れ、熱湯を入れてフォークで食べ始めたのである。そして食べ終わったコップをそのままゴミ箱に捨てたのだった。安藤百福は「おいしさに国境はないが、文化圏の違う国でもインスタントラーメンが食べられるようにする」と決意した。そして安藤百福が注目したのが自販機の紙コップとフォークであった。この使い捨ての光景が「カップヌードル」の原点になった。

 カップの材料は身体に害を与えない発泡スチロールを採用した。発泡スチロールのお湯は冷めにくく、手に持っても熱くないのが特徴で、カップヌードルの開発に大きな前進をもたらした。カップヌードルは構想から5年後に発売され、いつでも食べたいところで食べられる新しいラーメンの誕生となった。カップヌードルの登場は、インスタントラーメン市場にインパクトをあたえ、市場は再び活気づき生産量が急増した。

 カップヌードルが最初に注目されたのは、昭和472月の連合赤軍による「浅間山荘事件」であった。開発されたばかりのカップヌードルはまだ店頭には並ばず、日清食品は販売ルートを検討中であった。そして最初に納入されたのが警視庁の機動隊であった。浅間山荘事件で、寒空の下で機動隊員が湯気の上がるカップヌードルをすする姿が何度もテレビで放映され、日本の茶の間にカップヌードルの存在を強烈に印象づけることになった。インスタントラーメンが30円の時代に、カップヌードルの値段は100円であったが、お湯さえあればいつでも食べられるカップヌードルは飛ぶように売れた。

 高度経済成長のもと、カップヌードルは寸暇を惜しんで働く日本人の胃袋を満たした。さらに世界中の飢餓や災害の現場に欠かせない貴重な食料となった。カップ麺の総生産量は昭和47年に1億食、昭和48年に4億食、昭和49年に7億食、昭和50年には11億食と驚異的に伸び、平成元年に袋麺を抜いた。

 世界中で食べられている即席麺は、現在1年間で約500億食になっている。日清食品の工場はアメリカ、中国、インドなど世界8か国25か所で、それぞれの国に合わせた味の即席麺を作っている。

 平成7117日に阪神大震災がおきると、安藤百福はすぐに援助隊を結成し、給湯器付きのライトバン3台と即席麺15千食を震災地に送りこんだ。そして即席麺は寒さと空腹に苦しむ被災者の胃袋だけでなく心までも温めた。さらに震災で肉親を失った学生に安藤百福は奨学金を提供した。

 現在、大阪府池田市に「インスタントラーメン発明記念館」が建てられ、年間10万人が来館している。その1階展示ホールには安藤百福が「チキンラーメン」の開発に没頭した研究小屋が再現されている。安藤百福は勲二等旭日重光章を受賞し、「人間にとって一番大切なことは創造力で、発明、発見が歴史を動かす」という言葉を残している。

 平成1915日、急性心筋梗塞のため大阪府池田市の市立池田病院で死去、享年96。ニューヨークタイムズは「ミスターヌードルに感謝」という見出で訃報を伝えた。

 

 

 

博士号謝礼事件 昭和33年(1958年)

 博士号(学位)は医学部だけでなく、文学部、工学部など大学の各学部でも、一定の研究を行い、研究論文が評価されれば授与されることになっている。大学には医学部以外に多くの学部があるが、博士号を取得している者は医学部が圧倒的に多かった。医学博士の数は、それ以外の博士の合計数よりも数倍多いのである。

 このように医学部で博士号がもてはやされるのは、博士号を持つことによって一人前の医師と見なされる風潮があったからで、博士号があれば開業したときに箔(はく)がつき、博士号がなければ病院の勤務医は出世が遅く、部長などの管理職になれないなどの制約があった。そのため医学部を卒業すると医局に入り、博士号を目指して研究するのが当たり前になっていた。

 大学で研究することは、本来は学問を究めることであるが、医学部においては紙切れ1枚にすぎない博士号を取得することが目的となった。そのため博士号を取得すると、教授を目指して大学に残る者は少なく、それまでの研究をやめて開業医や勤務医となる者が多かった。

 博士号を取るには、大学院に進学して博士号を取る過程博士と、論文を書いて博士号を取る論文博士の2つがあるが、どちらであっても担当教授が研究や論文の指導を行い、担当教授が博士号を与えることになっている。そのため学位の授与には、学問を離れた金銭がつきまとうことがあった。

 博士号を目指す者にとって、教授に便宜を図ってもらい、早く学位を取りたいと思うのは当然のことで、教授の機嫌を損なえば学位取得は困難になるのも現実であった。教授は絶対で、学問上の対立、あるいは教授の気まぐれな意地悪は珍しいことではなかった。

 そもそも研究を指導する教授と、学位を与える教授が同じであることが問題で、そのため金銭の授受について多くの疑惑を生じることになる。学問の世界といえども、金銭については医学部も世俗同様、あるいは世俗以下であった。

 昭和33年、医学博士の学位論文審査で、三重県立大学(三重大学)医学部の教授6人が警察の取り調べを受けた。論文提出者から謝礼金を受け取ったことが警察に内部告発されたのである。三重県立大医学部の今村豊医学部長をはじめとして、解剖学、産婦人科、口腔外科、公衆衛生、病理の各教授が次々に警察に出頭を命じられた。

 この事件は、取り調べを受けた医学部教授だけでなく、医学界の事情を知る多くの医師を驚かせた。それはどの医学部でも、学位審査には多少の謝礼は当たり前とされていたからで、学位の謝礼金はお中元、お歳暮と同じような社会的常識と思われていた。

 謝礼金の相場は決まっていて、もし学位をもらいながら謝礼をしなければ、それこそ非常識とされていた。警察は学位の謝礼を賄賂として取り締まったが、もしこれを犯罪とするならば、日本の博士号の肩書きを持つほとんどの医師が贈賄で、大部分の教授が収賄で捕まっても不思議ではなかった。

 事実、取り締まりを受けた今村医学部長は、「ぼくは昭和3年に母校の京大で学位を取ったが、その時、教授に当時の金で100円のお礼をした。それと同じことをぼくの弟子がしただけではないか」と公言。さらに「伝統に従ってやったことが、どうして法に触れるのかわからん」「窃盗は悪いが、人間の90%が窃盗だったら罪にはならない」「調べるならば学内の全教授、いや全国の教授を調べてくれ」と発言した。この今村医学部長の発言には、罪悪感もなければ反省もなかったが、むしろこの発言が日本の医学部の実態を示していた。

 三重県立大医学部の博士号謝礼事件の根底には学内の派閥問題が絡んでいた。同学部の教授は、昭和19年の設立当時からほとんどが京大出身者で占められ、そのため今村医学部長を中心とする京大今村学閥と、反今村学閥の権力闘争が水面下で激しく行われていた。

 衛生学教授、細菌学教授の後任問題で三重県立大出身者と今村派が対立、この内部抗争がこの謝礼事件に飛び火したのである。学内では三重県立大出身者が力を増し、三重学閥による民族独立運動のひとつとして、今村派が刺されたとうわさされた。

 三重県立大の博士号謝礼事件は、40年以上も昔の話である。では博士号の謝礼は、現在どのようになっているのだろうか。このような悪習は改善されたと思いたいが、実際にはこの悪習は、お中元、お歳暮と同じように日本ではまだ生きている。医学部教授の収入は、学位の謝礼金と結婚式の礼金が大きなウエイトを占めているのである。

 このことを示す事件が、平成13年2月に発覚している。奈良県立医科大第1内科の土肥和紘教授(58)が医局の医師派遣で便宜を図った見返りとして、医療法人理事長・平井純容疑者(52)から現金574万円を受け取った疑いで大阪地検特捜部に逮捕された。

 この事件の捜査の過程で、土肥教授は医局員から学位論文の謝礼として1人当たり現金50万円を受け取っていたことが分かった。教授就任から8年間で20人以上の医局員から計1000万円以上の謝礼を集めていた。このように現代版博士号謝礼事件が明らかになった。

 学位論文の審査は通常3人の教授によって行われる。申請者の教授が「主査」で、別の教授2人が「副査」を務める。教授3人で論文の内容を審査するが、審査によって落ちることはない。主査が認めた研究に、副査が文句をいえないからである。学位審査はこのように形式だけで、担当教授が学位の申請を許可した時点で学位は得られることなる。

 奈良県立医科大第1内科の医局員の話では、博士号を取得すると土肥教授に50万円、副査の2人に各10万円を渡したとされている。教授への現金提供は、慣例として医局の先輩が指導し、ほとんどの医局員が謝礼を出していた。

 謝礼は服の生地や商品券とともに渡すのが礼儀であった。副査を務めた教授が受け取りを拒否する場合もあるが、それはまれであった。もちろん奈良県立医科大ばかりではなく、他の医学部でも同様に行われていた。平成14年4月30日、大阪地裁・傳田喜久裁判長は、医師派遣をめぐる汚職事件で収賄罪に問われた土肥教授に懲役3年、執行猶予5年、追徴金約2200万円の判決を下した。

 平成21年には、東京医科大で医学博士審査にかかわった教授33人が大学院生47人から現金を受け取っていたことがわかっている。

 このように博士号取得にかかわる謝礼は、医学部の歴史とともに最近まで存在していた。神聖な学問の世界にはふさわしくない行為であるが、医学部そのものが神聖な学問の世界とは限らないのである。

 

 

 

最強の発がん物質 昭和35年(1960年)

 昭和35年、イギリスで10万羽の七面鳥が数カ月のうちに肝臓がんで急死した。肝臓がんがなぜ集団で起きたのか、この謎に包まれた事件は七面鳥X(エックス)事件と呼ばれた。

 その後の調査で、死んだ七面鳥は同じ工場で作られた飼料を食べていて、飼料のピーナツが原因とする論文が科学雑誌「ネイチャー」に発表された。同じころ、ケニアでもピーナツによる家禽(かきん)の大量死が発生して注目を集めた。

 その後の研究で、死因はピーナツではなく、ピーナツに寄生しているアスペルギルス・フラブス(Aspergillus flavus)というコウジカビの一種であることが分かった。さらにカビを殺菌したピーナツを七面鳥に食べさせても肝臓がんが発生することから、カビそのものではなく、カビが産生する何らかの物質によるものとされた。そして数年後にカビが産生する「アフラトキシン」が強力な発がん物質であることが判明した。このカビはそれほど珍しいカビではなく、米、麦、ライ麦、トウモロコシ、ピーナツ、大豆などで繁殖するコウジカビの一種であった。

 アフラトキシンは数種類知られているが、なかでもアフラトキシンB1は天然物質の中で、最も強力な発ガン物質として知られている。ネズミの実験では、アフラトキシンB1を15ppb(1ppb10億分の1)混ぜるだけで100%肝臓がんを発生させることができ、地上最強の発がん物質といえた。アフラトキシンは人間が作った化学物質と誤解されがちだが、カビが生産する天然の毒である。

 アフラトキシンB1による発がんのメカニズムは、アフラトキシンB1が肝臓の酵素(チトクロームP450)によって代謝され、その代謝産物が遺伝子の構成物質とよく似ているため、DNAに代謝産物が結合し、遺伝子の正しい情報を変えて細胞をがん化させるのであった。

 アフラトキシンの人間への被害は、インド、タイ、アフリカ、北米南部などの熱帯地方で報告され、1974年のインドではトウモロコシを食べて994人が発病し160人以上が死亡している。また1982年には、ケニアで12人が死亡している。いずれもアフラトキシンに汚染されたトウモロコシを食べ、肝臓がんで死亡している。

 日本は高温多湿で、多くのカビが生息しているが、幸いなことにアフラトキシンを産生するカビは常在しない。日本人にとってコウジカビは身近なもので、みそ、しょうゆ、酒などの発酵食品にはアスペルギルス属のコウジカビが使われている。このことからアフラトキシンの毒性が発見された当時、日本は一時パニック状態になった。しかし日本のコウジカビは、アフラトキシンを産生しないことが分かりパニックは沈静化した。日本で発酵に使われているのはアフラトキシンを産生しないアスペルギルス・オリザ菌であった。

 日本はみそ、しょうゆ、酒などのカビによる発酵文明の国である。もし日本にアフラトキシンを産生するアスペルギルスが常在していたら、日本人そのものが存在していなかったであろう。日本に常在しているのがアスペルギルス・オリザ菌であったことは、幸いというほかない。

 なおアフラトキシン以外のカビ毒としては、アルカロイドによる麦角中毒、ペニシリウム属の産生するいわゆる黄変米毒による肝障害、キノコ中毒などがある。

 昭和46年から食品衛生法によりアフラトキシンを含んだ食品を違反食品とすることが決められている。これまでアフラトキシンが日本で検出されたのは、木のナッツ、ピーナツ、およびトウモロコシなどである。発見された例はすべて輸入食品で、国産品からは検出されていない。またアフラトキシンを家畜に与えるとミルク、肉、卵などに移行することから、家畜用飼料についても監視がなされている。しかし全国20カ所の港や空港の検疫所の食品衛生監視員は75人にすぎず、検査率の低さから不安をぬぐい去ることはできない。

 またアフラトキシンが生物兵器のひとつとして使用される可能性が高い。平成9年の米誌「タイム」は、国連大量破壊兵器廃棄特別委員会の調査で、イラクはボツリヌス菌1万9000リットル、炭疽菌8500リットル、アフラトキシン2500リットルを保有していると報じている。この報道が正しければ、イラクは地球上のすべての人を抹殺できるほどの大量の細菌兵器を保有していたことになる。

 

 

 

性生活の知恵 昭和35年(1960年)

 昭和356月、日米安全保障条約改定をめぐり15万人のデモ隊が国会議事堂を取り囲み、連日のように「安保反対」の声が日本中に響き渡っていた。日米安保条約阻止闘争は全国で580万人が参加し、6月15日には全学連・学生8000人が国会突入を図り、完全武装の警視庁機動隊と激しく衝突した。この衝突による負傷者は双方で510人に達し、東大文学部4年生・樺(かんば)美智子(22)さんが死亡した。樺さんの追悼式には全国190カ所で2万人が参加した。

 安保闘争は激しさを増し、過激派が火炎びんや投石で交番を襲い、全国45の大学でストが決行され、まさに革命前夜のような雰囲気に包まれていた。JRの前身である国労と動労も安保反対のストを行い、全国1345カ所の集会に77万人が参加した。このような安保条約阻止の抵抗にもかかわらず、6月23日、安保条約は自動延長となった。昭和35年は新しい時代を生み出す難産の年であった。

 また一方では、池田内閣は所得倍増計画を発表し、個人所得は毎年十数%ずつ伸びていき、日本はまさに高度経済成長の入り口にあった。昭和35年は戦後の日本社会にとって大きな節目の年であった。

 この年は大きな節目の年であったが、「性」に関する戦後の人々の意識も大きく変わった年でもあった。それはひとりの産婦人科医師によって性の解放がなされたからである。

 昭和35年6月25日、安保条約が自動延長になった2日後のことである。日赤本部産院(現、日赤広尾病院産科)医局長・謝国権(しゃ・こくけん)博士が書いた「性生活の知恵」が定価320円で本屋の店頭に並んだ。

 発売された時には、「性生活の知恵」がまさかこの年のベストセラー第1位になるとは、誰も想像していなかった。むしろ発禁になったら元も子もなくなると心配していた。「性生活の知恵」は、がけから飛び降りる想いの発売だったが、何のおとがめもなく次々に売れていった。

 これほど売れるとは、著者の謝国権でさえも予想していなかった。謝は「この本がたとえ初版で終わっても、読者の幸福のために少しでも貢献したい」と本の序文に書いたほどであった。

 この本が店頭に並ぶと、それこそ飛ぶように売れていった。初刷3000部だけだった「性生活の知恵」は重版に重版を重ね、年末までに40万部、1年間で152万部を売り上げる史上空前のベストセラーになった。この売り上げにより、版元の池田書店が自社ビルを持つことができたほどであった。

 「性生活の知恵」が発売されるまで、「性」に関する本は数多く出版されていたが、それらは人前で読むことのできない淫乱なものが多く、暗がりで密かに読むような本ばかりであった。学者がまじめに書いた性の解説書もあったが、専門すぎて一般人には難解過ぎた。それまでの出版界は「性交における体位は禁物」という不文律があったため、一般人が最も知りたいことが書かれていなかった。

 「性生活の知恵」が出版される前に、ヴァン・デ・ヴェルデが書いた「完全なる結婚」の翻訳本が昭和21年に出版され、ベストセラーになっていた。しかしその内容は一般人には理解難解であった。その意味で、「性生活の知恵」は一般人向けに性生活を解説した最初の本といえる。読者は男性ばかりでなく、多くの女性も熱心に読んでいた。

 謝がこの本を書いたのは、女性の性に対する啓蒙が目的であった。産婦人科医師である謝は、それまで中絶した女性たちに避妊の指導を行ってきたが、自分たちの性生活が異常ではないかと悩んでいる女性が多いことを知っていた。

 正常位以外の体位はすべて異常とされ、時には変態と受け止められていた。性に積極的な女性は異常と思われていた。「性生活の知恵」は秘められたもの、後ろめたいものとする性意識を変え、ライフスタイルそのものを変えることになった。謝はこのような性生活のタブーを取り払い、産婦人科医師として「性」の指導を行った。「性の営みは、美しいもの」という基本的姿勢が多くの女性の支持を得た。

 「性生活の知恵」がこれほどまでに読者を引きつけたのは、性生活を誰にでも分かりやすく解説し、女性でも買えるように猥褻感をなくしたからである。当時は「性」をあからさまに語ることはタブーとされていた。

 「性生活の知恵」が発売される2年前、イギリスの作家・ロレンスの小説「チャタレイ夫人の恋人」を訳した作家・伊藤整が、最高裁で猥褻文書頒布罪により10万円の罰金刑が下されていた。伊藤整は「性は罪や汚れを伴わないもので、この作品を猥褻とする者は、その者自体が性を汚している」と主張したが、その主張は裁判で否定された。裁判官は伊藤整に、「春本とは異なるが、猥褻文書であることは否定できない」と判決理由を述べた。文壇において、芸術か猥褻かの大論争が引き起こされたが、「チャタレイ夫人の恋人」は猥褻文書として発禁となった。

 このような社会背景の中で、暮らしに余裕のできた人々は「性」を渇望していた。「性の営みは2人の愛情から」が謝国権の基本理念で、性行為の技巧の啓蒙ではなく、性行為を前提とした夫婦の精神的愛情を重要視していた。「四十八手」のような性の技巧を解説はしていたが、性の技巧はお互いの愛情をより豊かなものにする手段としていた。

 この本の特徴は、著者の謝国権が独自に考案した木製人形を使ったラーゲ(体位)の解説である。性がまだタブーの時代に、男女の体位を写真であれ、絵であれ掲載することは不可能と思われていた。このような時代にピノキオのような人体模型を用い、正常位や横臥位など、男女のからみを分かりやすく、しかも清潔に見せた。

 男性を表す黒い人形、女性を表す白い人形、この2つの人形を別々に撮影し、撮った写真を別々に紙面に載せ、性交の猥褻を感じさせずに、読者は体位を知ることができた。人形を使い100に近いラーゲ(体位)を具体的に示していた。

 女性でも抵抗なく読める「性生活の知恵」は、性の営みが明るく表現され、知的な雰囲気で書かれていた。性を美しいものとする著者の思いが読者に伝わり、読者カードによると読者の3割が女性であった。書店ではあらかじめ題名が分からないようにカバーをかけ、女性が買いやすいようにした。

 「性生活の知恵」がベストセラーになったのは、それだけの条件が備わっていた。もともと日本人は性については大らかな民族であったが、明治以降、性は子供を産むため、生殖のためとされ、快楽としての情報はなくなっていた。戦争前後の教育と禁欲を美徳とする中で、性を楽しむという概念は少なかった。一夫一婦制が強化され、売春防止法が施行され、性は個人の中に閉じ込められていた。

 農村から都市へ人口が移動し、農村共同体の崩壊は性を語る若者宿などの場所を失い、若者から若者へ言い伝えられた性文化が断絶し、夜ばいの風習も否定され、活字による性文化が始まるはざまの時期であった。

 戦争時の若者たちは、性に関する教育はなされず、子供をつくるための性行為は知っていても、性生活を楽しむことを知らなかった。知らないが故に、性欲が性生活の楽しみを求めていた。戦後の生活もようやく落ち着きを取り戻し、人々の関心が「性」に向かい始めていた時代が「性生活の知恵」を待ち望んでいた。どのような社会でも食欲と性欲は残るものである。当時の人たちはセックスの知識は少なく、無知なるが故に渇望していた。

 「性生活の知恵」には正常位という言葉は用いずに「女性仰臥(ぎょうが)位」と書かれている。男性が上になるのを正常位とすれば、女性は常に受け身で、男性が主動権を持つ社会を反映させることになる。謝が女性仰臥位と表現したのはセックスにおいては、男女は平等でむしろ受け身の女性を重要視したからである。「性生活の知恵」は性を家庭のなかで充実させ、夫婦の絆を強めるという役割を果たした。

 性への意識は、生めよ増やせよから、避妊による産児抑制に変わり、さらに性生活を楽しむ時代へと移行していった。時代が性のタブーを取り払い、秘められた性という隠微なふたを「性生活の知恵」が取り払ってくれた。多くの書籍を押しのけ、性の解説本が昭和35年のベストセラー第1位になったのは、いかにこの本の存在が偉大だったかを示している。

 「性生活の知恵」は日本のみならず、アメリカ、フランス、スウェーデン、デンマーク、オランダ、中国など各国で翻訳がなされ、世界中の人々も「性生活の知恵」を読むことになった。売り上げは総計で400万部に達し、翻訳された英語版の題名は「ア・ハッピー・セックス・ライフ」であった。

 ちなみに、この年のベストセラー第1位は「性生活の知恵」、第2位は林髞(はやし・たかし)の「 頭のよくなる本」、第3位は精神科医師・北杜夫が書いた「どくとるマンボウ航海記」、第4位は井上 靖の「敦煌」であった。

 謝は「性生活の知恵」に続いて、「続・性生活の知恵」「結婚前後の知恵」の「知恵三部作」を出版した。「性生活の知恵」は映画にもなり、映画はある団地に住む4組の夫婦の性生活の不調和問題に回答編をつけたオムニバスで、それぞれが啓蒙的役割を果たした。監督は水野洽であった。

 謝国権は月給1万円弱、6畳1間5000円の下宿生活で、本が売れ出した直後に肺結核で入院となった。謝は入院中に読者カードを丹念に読み、性は男女の愛情からという持論を変えず、興味本位の企画には応じなかった。病床では、著書の検印を押し続け、手が麻痺するほどだった。

 謝国権は大正14年に東京で生まれ、昭和24年、東京慈恵会医科大学を卒業し、昭和25年から日赤本部産院に入局していた。日赤本部産院では菅井正朝博士、長橋千代博士とともに精神予防性無痛分娩法の普及に努めていた。昭和37年に日赤本部産院を退職した後、東京世田谷区上馬で産婦人科を開業、診療に追われる毎日であったが、平成1511月他界、78歳だった。

 

 

 

病院スト 昭和35年(1960年)

 昭和3511月1日、東京女子医大病院、東邦医大病院、北里研究所病院など東京医労連に属する7つの病院が第1波の病院ストをおこなった。病院の正門には鉢巻きをした看護婦たちがピケを張り、生活の困窮を訴えた。東京都は事態収拾のため斡旋にのりだすも失敗、11月8日には第2波の病院スト突入となった。

 東京17カ所の病院が最低賃金1万円などの要求を掲げてのストであった。さらに1125日には全日赤労連が参加し、病院ストは全国31の病院に波及していった。

 病院ストの中心は看護婦たちであった。この人命を預かる病院の闘争は、国民の強い関心を引いた。病院ではストをしている看護婦の代わりに、院長や事務長などの管理者が食事の配膳に走り回る風景が見られた。1227日には、日本医療労協に賛同して全国約130の病院がストを決行した。

 この病院ストは、「白衣の天使たちの人権スト」といわれた。生活の困窮を訴える単純な経済ストで、看護婦の給料が安過ぎることが原因であった。看護婦たちは看護婦寮に押し込められ、何の贅沢もしていないのに給料が残らない状態であった。看護婦の給料は他の女性の職業に比べ安く、低賃金に加え重労働を強いられていた。国立病院の看護婦は国家公務員なので、ある程度の給料をもらえたが、日赤病院の看護婦は国立病院の看護婦より初任給で2割安く、10年目の看護婦で3割安の給料であった。私立病院の看護婦の給料はさらに安かった。

 看護婦の低賃金は、看護婦にナイチンゲール精神や博愛の精神を楯に押しつけ、生活苦を強いらせてきたからである。看護婦の多くは概して家が貧しかったが、向学心に燃え、奉仕の精神を持っていたが、それでも我慢には限界があった。

 病院の壁や柱には赤や黄色のビラが張られ、ビラには低賃金と最悪の労働条件を押し付けられた看護婦の怒りが書かれていた。ビラには、「12時間連続勤務を1度やってみなさい」「ナイチンゲールもかすみを食っては生きて行けない」「全寮制反対、格子なきロウゴク」「私たちも人間です」など、怒りに満ちた文面で埋まっていた。平均月収1万4000円の看護婦は、3000円から7000円のベースアップと看護婦の増員を求めて立ち上がったのである。

 病院の前に白衣の天使たちが集まり、労働歌を合唱し、要求貫徹を誓って気勢を上げた。病院ストは、看護婦ばかりでなく、薬剤師やレントゲン技師などの職員も立ち上がった。彼らは国家試験に合格し、特殊技術者としての誇りを持っていたが、病院のわき役に置かれている不満があった。

 白衣を着た職員が宣伝カーを先頭にデモ行進を行った。ストに参加した主な組合は東京地方医労連(51組合、5500人)、全日赤(50支部、7000人)、全労災(21病院、4000人)、健保労連(24病院、2300人)、全医労(195支部、2万5000人)であった。昭和35年は安保闘争の年で組合の団結は強かった。

 一方、病院に勤務する医師の給料も低賃金で、国家公務員の給料よりも安かったが、医師はアルバイトで生活費を稼ぐことができ、不満はあったが爆発するほどではなかった。病院から給料の出ない無給医師でも、病院で患者を診て勉強させてもらっている意識が強かった。医師の多くは経営者側の立場で、看護婦たちの病院ストに参加する者は少なかった。

 病院ストの矢面に立たされた病院経営者は、看護婦の給料が安いことを十分に承知していたが、国レベルで医療費を値上げしない限り改善は望めなかった。看護婦の給料を上げたくても、病院の人件費は40%を超え、看護婦の給料を上げるだけの財源がなかった。

 日本病院協会は、「病院争議は現行の医療報酬が適正を欠くため、病院財政に未曾有の赤字が生じていることが原因で、当面の危機を克服するため診療報酬の値上げを講じられたい」と中山マサ厚生大臣に訴えた。

 同じ医療団体である日本医師会は、最初は病院ストには「我関せず」の第三者的立場を取っていた。日本医師会は開業医の利害を代表する団体で、そのため日本病院協会と対立する立場にあった。同じ医療行為でも、診療報酬は開業医と病院では異なり、病院には甲表、開業医向けには乙表、この二本立ての診療報酬で医療費が支払われていた。そのため日本医師会と日本病院協会には感情的な対立があった。

 病院ストが深刻化すると、日本医師会は傍観的な立場から一転して、大幅な医療費値上げ、保険制度の抜本的検討が必要と主張するようになった。一方、医療費を支払う側の健康保険組合や日経連は医療費値上げに反対した。それは医療費の値上げは被保険者の負担を増大させ、保険財政を悪化させるからである。労働省は「病院という公益事業でのストは許されない」と述べるだけであった。

 このように各団体の利害が入り乱れ、病院ストは政治問題へと発展していった。厚生省は戦後から一貫した医療政策がなく、この問題を解決できるほどの政治力はなかった。厚生大臣は伴食大臣と呼ばれ、大臣のポストのなかで最も軽いものであった。厚生大臣が代わるたびに武見太郎医師会長の政治力に振り回されていたが、当時の中山マサ厚生大臣も同様であった。池田内閣の紅一点である中山厚生大臣は、「病院ストと医療費値上げは直接関係ない」と逃げの声明を出し責任回避に終始した。厚生事務次官は「ほかの産業でストが起きたら、すぐに国庫補助をよこせ、というのと同じようにおかしな話である」と述べた。

 政府は、医療費を値上げすれば国家財政が苦しくなることを十分に承知していた。しかも選挙を控え、容易に医療費値上げの結論を出せないでいた。結局、大平正芳官房長官と高田正巳厚生事務次官が協議し、次年度の医療費引き上げを決め、病院ストは中止された。病院ストは日本の医療行政、病院経営の不合理、医療関係者の労働条件などの問題を残したまま表面上解決した。

 

 

 

アンネの日 昭和36年(1961年)

 「40年間、お待たせしました」。昭和361026日、このキャッチフレーズが新聞広告に掲載され人々を驚かせた。それまで日陰者であった女性生理用品「アンネ・ナプキン」(アンネ社)がこのキャッチフレーズで衝撃的なデビューを果たしたのである。アンネ・ナプキンはそれまで吸収綿だった生理用品を紙製に変え、使い勝手が改良されていた。この大胆な宣伝によって、アンネ・ナプキンは驚異的な売り上げを記録することになった。

 「40年間、お待たせしました」というのは、アメリカでは40年前から紙製のナプキン「コーテックス」が販売されていたからである。第一次世界大戦の従軍看護婦が患者の手当に用いていた紙綿を月経の手当に利用し、これをヒントに紙製の生理用品「コーテックス」が開発されたのだった。

 アメリカでは紙製の生理用品が普及していたが、日本では「アンネ・ナプキン」が発売されるまでは、カット綿と呼ばれる脱脂綿を用いられていた。脱脂綿を使用する際には、その上からゴム製の月経帯を当てるが、それは「もれる、ずれる、むれる、かぶれる、ただれる」の5重苦であった。アンネ・ナプキンは生理による不快感を少なくし、より活動的に行動できるように工夫されていた。

 アンネ・ナプキンは12個が1セットで100円であった。当時の100円は米1キロの値段に相当していたが、働く女性を中心に爆発的な人気で迎えられた。逆に言えば、アンネ・ナプキンが女性の社会進出を助け、日本の高度経済成長を支えたといえる。日本初の紙製生理用品がこのように華々しくデビューした。

 アンネ・ナプキンの発売により、女性の生理時の不快感が軽減されたが、それ以上に、生理が持つ暗いジメジメとした日本人の不浄観を大きく変えた。アンネ・ナプキンが発売されるまでは、生理は「隠すべきもの、不浄なもの、恥ずかしいもの」で、生理用品は日陰商品とされていた。生理用品は避妊具と同様、表だって売られる商品ではなかった。アンネ・ナプキンの登場はこの暗いイメージを吹き飛ばし、生理用品に市民権を与えた。日陰の商品が明るいイメージで売り出され、日本人の生理に対する意識を大きく変えた。

 それまでの日本は、月経中の女性は汚らわしいものとしていた。月経中は仏間に入ることや神社への参拝は禁じられ、明治初期までは月経小屋まで存在していた。月経小屋は古い写真で見ることができるが、たいていは村はずれの汚れた掘っ建て小屋で、月経中の女性たちは家族と離れて月経小屋で生活していた。月経中の女性がその小屋で暮らすのであるが、そこでは肉体労働から解放される特権があった。これは男性社会における女性文化のひとつといえる。

 月経を不浄とするのは現在でも残っていて、女性トイレにある生理用品用のゴミ箱が「汚物入れ」という名称のままである。このような月経の暗いイメージを変えたのは「アンネ・ナプキン」というネーミングであった。アンネという名前はもちろんアンネ・フランクの「アンネの日記」から引用したもので、文学少女趣味的な発想で、少女のもつ清純さ、無邪気な明るさを連想させた。

 このネーミングによって「月経」「メンス」と呼んでいた女性の生理の生々しいイメージが一掃され、またアレ、ナニといった代名詞で呼んでいた月経を、言葉の規制から解放した。アンネという言葉は生理の苦痛を喜びに、陰鬱(いんうつ)を明朗に、閉鎖を開放に変えるネーミングであった。アンネは生理用品の代名詞となり、またアンネ・ナプキンの発売以降、女性の生理日を意味する言葉として「アンネの日」という可愛い言葉が定着した。

 アンネ・ナプキンは若干27歳のアンネ社長・坂井泰子が製品化したもので、ネーミングも彼女によるものである。アンネ・ナプキンは女性の意識と生活を変えただけでなく、女性の地位の向上、男性からの女性解放に役立つことになった。

 坂井泰子はナプキンの先駆者であるが、この坂井を除くと生理用品の研究、改良、販売に携わったのはすべて男性であった。坂井はナプキンの先駆者であったが、その95%の資本金を出資してスポンサーとなったのはミツミ電機の社長・森部一であった。

 なおアメリカでは生理用品のことをサニタリー・ナプキンと呼んでいた。そのため、アンネの後ろにナプキンという言葉をつけたのである。現在のナプキンの基本型となるアンネ・ナプキンが誕生して数年後には、生理用品はスーパーマーケットで気軽に買えるようになった。ナプキン市場には約300社が参入し、激しい競売の時代を迎え、平成4年、アンネ社はライオンに吸収合併され社名は消滅した。

 生理用品としてアンネ・ナプキンの発売から2年後の昭和38年にタンポンが発売されている。タンポンは膣にモノを入れることへの抵抗感や不潔感、痛みや違和感、使用方法が分からない、漏れの心配から普及は低迷している。昭和49年にアメリカでタンポンによる重篤な感染症TSSToxic Shoch Syndorome)が指摘され、決定的なダメージとなった。普及率はナプキンの94%に対しタンポンは6%にすぎない。

 脱脂綿は血液を吸収するだけだが、ナプキンは血液を吸収する吸収材、血液を漏らさない防漏材、肌に触れる表面材の3種類の材料が使われている。肌に接する表面には親水性のレーヨンを採用し、防水紙にはポリエチレン薄膜を採用して、生理処理用品は薄型になり、使用感は向上した。

 昭和39年には吸収材に100%綿状パルプを利用した製品が登場して、大幅なコストダウンをもたらした。昭和48年のオイルショックによる紙不足をきっかけに、多くの製品がナプキンの吸収材を綿状パルプに切り替え、この切り替えによって厚みが約半分のスリムタイプが誕生した。高度経済成長に伴う人手不足から女性の社会進出が活発化し、さらにミニスカートやGパンの流行から、薄形ナプキンが求められるようになった。アンネの発売から10年目にはチャームナップ(ユニチャーム)が市場のトップを占めるようになった。

 昭和48年のオイルショックの年にはトイレットペーパー、洗剤とともに生理用品もスーパーから姿を消したが、その後次々と新製品が売り出された。高分子吸収体を利用したロリエ(花王)、ウィスパー(P&G)が発売され、ナプキンの吸収力が格段に向上した。

 ナプキンの開発目標はいずれも、ずれない、漏れない、肌触りが良いことである。さらに個人の生活に合わせ、「ふつう用」「長時間用」「夜間用」といったナプキンが発売された。

 ファッションの流れ、女性の社会進出によって、生理用品は多様性を増し、さらに女性の心理を重視した商品開発も始まり、表面の肌触りも好みで選べるようになった。昭和から平成になると多様化はさらに進み、厚さ2〜3ミリの「スリムタイプ」が登場。さらにギャザータイプの立体形、吸収構造を工夫した製品などが相次いで発売された。

 現在はユニ・チャームが市場の4割を占めている。ユニ・チャームを創立させたのは高原慶一朗であった。高原は生理用品とは無関係の防火建材を製造する会社の経営者だった。昭和37年に高原はアメリカへ工場視察に行くが、そこで見たのは、日本では薬局で客がこっそり買っている生理用品がスーパーの棚に堂々と並んでいる光景であった。アメリカの女性がナプキンを気軽に買うのを見て、ナプキン市場に乗り出したのである。ユニ・チャームがシェア・トップとなったのは、高原のアメリカ視察から8年目のことであった。

 高原慶一朗はナプキンの製造販売を開始、使いやすさの追求、スーパーなどへの販路開拓に力を注ぎ、昭和49年に大成化工から現在の社名に変更して、「チャームナップミニ」などヒット商品を連発した。昭和53年、高分子吸収材を使った生理処理用品が発売された。高分子吸収材は50100倍の血液を吸収し、吸収した血液は圧力がかかっても漏れない性質を持っていた。このことから、従来の製品より薄型で十分な吸収力を持ったナプキンを作ることができた。さらに紙おむつ、大人用おむつなどへの事業を拡大している。

 生理用品についての歴史を振り振り返るとその資料は極めて少ないが、生理用品はどの時代、どの国でも局所に「当てる」か「詰める」かで、つまりナプキン式あるいはタンポン式であった。

 エジプトの女性のミイラの腟からパピルスが発見され、古代エジプトの生理用品はタンポン式であったとされている。ナプキンはそれを身体に固定する「当てもの」が必要だったので遅れて普及した。当てものの形はどの国でもT字帯かフンドシ状である。

 日本の生理用品は、古い時代は軟らかくした植物か海綿をタンポンとして利用していた。あるいは軟らかくした草の葉を敷いていた。平安時代の医師・丹波康頼が円融天皇に献上した日本最古の医学書である「医心方」に月経帯の記載がなされている。「医心方」には漢字で月経帯と書かれているが、月経帯はケガレヌノと読まれていた。

 江戸時代には和紙や古布が用いられ、手製の月経帯はひもで締めるものであった。明治21年に発行された婦人衛生雑誌「婦人衛生会雑誌」の第1号には、「月経時に用いる布片は必ず新鮮清潔の布にて作るべし、古布を用いるならば必ず洗濯したものを用いるべし」と書かれている。一般庶民は手ぬぐいでT字帯を作り使用していた。

 日清戦争で従軍看護婦が兵士の傷の手当てに用いる脱脂綿を転用したことから、脱脂綿が生理用品として普及するようになった。それまで肌に当てていた紙や古布に代わり、脱脂綿が使われるようになった。

 大正2年にゴムを用いた和製月経帯「ビクトリヤ月経帯」が発売され、当時としては高級品であったが、デパート、薬店、小間物店で売り出された。高額であったが看護婦や車掌、デパートガールなどの職業婦人を中心に売り上げを伸ばしていった。さらに脱脂綿をガーゼでくるんだ生理用品が登場したが、多くはT字帯と脱脂綿の組み合わせだった。

 昭和13年には、消毒綿の和製タンポン「さんぽん」が桜か岡研究所(現エーザイ)より既婚者用に発売された。当時は貞操が重視されていたので、処女膜が破れる心配から、タンポンは既婚者用であった。しかし戦争の激化とともに綿花が不足し、脱脂綿は貴重品となり、多くの女性たちは脱脂綿の代りにチリ紙(京花紙など)を用いることになった。

 戦後しばらくの間は、ガーゼ、脱脂綿、チリ紙が用いられていたが、昭和26年8月に脱脂綿が統制解除され、脱脂綿が生理処理用品の主役となった。次に脱脂綿を生理に適した大きさにしたカット綿が登場、それまで自分で適当な大きさにちぎって使用していた平綿に比べ便利になった。

 昭和36年にアンネ・ナプキンが発売となるが、月経は恥ずかしいもの、隠すものとする常識をアンネ・ナプキンが打ち砕き、わが国の生理用品に革命をもたらした。昭和37年の生理用品に関する調査では、脱脂綿が最も多く全体の67%、紙製の生理処理用品は26%だった。これが7年後の昭和44年には、脱脂綿5%、ナプキンが89%と大逆転している。

 なお1人の女性が一生の間に使用するナプキンは1万4000個と計算される。生理用品は年間約100億枚売れ、2兆円産業となっている。日本のナプキンは世界一の品質を誇り、欧米やアジアに輸出されている。

 

 

 

一斉休診と保険医辞退 昭和36年(1961年)

 昭和36年、この年は日本の医療史の中で、最も激しい医療闘争が行われた年である。同年4月に国民皆保険が開始されることがすでに決定し、日本の医師全員が新しい保険医療体制に組み込まれることになっていた。明治以来、自由診療を基本としていた開業医は、この新しい保険診療体制を前に最低条件を勝ち取ろうしていた。

 日本医師会は政府に4項目の要望書を提示し、その回答を求めていた。政府に要望した4項目は、診療報酬の値上げ、制限診療の撤廃、事務の簡素化、地域格差の改善であった。ところが日本医師会が求めた4項目について、政府はことごとく拒否してきたので、そのため日本医師会は実力行使に出たのだった。

 4項目のひとつである「制限診療の撤廃」について説明を加える。医師の立場からすれば、患者に最良の治療を行いたいと思うが、医療費を払う国は、最良の治療は医療費を増大させ、保険財政そのものを破綻させると捉えていた。そのため政府は最高の医療ではなく、「最低レベルで、画一的な医療」を求めていた。制限医療とは疾患によって薬剤の使用基準、治療方針が決められ、医師はその範囲内の治療しかできないというものであった。例えば肺炎で抗生物質が使えるのは5日まで、虫垂炎の入院は5日までという制限をつけるものであった。

 この制限診療への医師の不満、反発は大きかった。「制限診療は国家統制のもとで、医療の国営化をつくるもの」と医師たちは憤慨し、日本医師会は「あれもするな、これもするなの保険医療を改めよう」をスローガンに掲げた。日本医師会は自分たちの利得のためではなく、医師としての独立性を求め、患者の治療を最優先する人道的な立場から反発した。政府への抗議行動は、日本医師会会員だけでなく、勤務医、大学に所属する医師を含め、日本の医師のほとんどが行動をともにした。

 国民皆保険が始まると自由な診療ができなくなり、医師としての医療行為が脅かされる不安が強かった。また収入減につながる不安も重なり医師の団結は強かった。医師たちの抗議に対しても政府は態度を変えなかったため、日本医師会は理事会を開き、「医療危機突破闘争本部」を設置し、全国一斉の休診を申し合わせた。

 抗議行動は、日本医師会よりも一足早く東京都医師会が先頭を切った。東京都医師会(渡辺真言会長)は昭和36年1月31日の日曜日に一斉休診を強行、8000人の医師が東京・日比谷の野外音楽堂に集まり、「東京都医師会医療危機突破抗議集会」を開催した。

 集会で厚生省への抗議文を読み終えると、眼鏡をかけネクタイを締めた医師たちが、タスキを掛けて2.5キロにわたるデモ行進を行った。デモ行進には大学病院の医師たちも参加し、「東大医師会」「慶応医師会」「慈恵医師会」などのプラカードを立て、厚生省へデモ行進を行った。医師の抗議行動は東京だけでなく、大阪では5000人の医師が抗議集会とデモ行進を行い、この抗議行動は日本各地に広がっていった。

 日本医師会長・武見太郎と日本歯科医師会長・河村弘は本格的な抗議として、2月19日の日曜日に全国一斉の休診に踏み切ることを決定。同日、全国一斉休診が実行された。この一斉休診には日本のほとんどの開業医が参加し、各地で開かれた集会には開業医の4割、約2万人が参加した。

 全国一斉休診という無謀にちかい抗議であったが、その日は日曜日で、急病患者に備え指定病院や待機する医師を事前に決めていたので大きな混乱は起きなかった。一方、この一斉休診が国民や政治家に与えた影響は大きかった。病気になった場合の不安が、心理的な圧迫をもたらした。

 日本医師会は診療費の引き上げを要求、さらなる闘争に入った。全国一斉の休診に加え、3月1日には全国で保険医の総辞退を決定。また4月1日から始まる国民皆保険に一切協力しないことを表明し、全国の8割の医師が地区医師会に保険医の辞退願いを提出、その対応を地区医師会に一任した。日本医師会の号令があれば、いつでも保険医の総辞退が可能になった。

 自民党三役はこの日本医師会の強硬な事態に驚き、事態収集のため日本医師会へ会談を求めてきた。この会談の結果、2月28日、自民党は制限医療の撤廃を認めることになった。さらに3月3日には、日本医師会長・武見太郎と日本歯科医師会長・河村弘は、自民党政調会長・福田赳夫と会談し、自民党が示した医療費値上げ案を承諾。この妥協案により日本医師会が予定していた保険医総辞退は回避された。

 昭和36年のこの一連の医療闘争は、厚生行政をめぐる日本医師会と政治家との戦いであった。日本医師会は一斉休診と保険医辞退という戦略によって完全に勝利した。制限医療反対の旗を掲げ、診療報酬の値上げを勝ち取ったのである。武見太郎が指導したこの闘争により、日本医師会は巨大な政治力を示すことになる。

 武見太郎は国民への理解を求めようとしなかった。記者会見で「一斉休診日に病気になるやつが悪い」と発言し、この自分の正当性を主張する発言に、武見太郎は国民から傲慢な医師のイメージを持たれることになる。

 武見太郎はマスコミ嫌いだった。「吉田茂のほかに、カメラマンに水をかける者がいるとすれば、それは武見太郎だろう」といわれていた。そのため医師と国民の間に溝を作り、医師が尊敬される立場から、権威を振りかざす者として、次第に国民の悪感情を買うことになった。

 国民感情は別として、世界で類をみない国民皆保険制度を目前に控え、医師たちが全国一斉休診、保険医総辞退を行ったことは、医師たちの最大の闘争として日本医師会史上に明記すべき出来事である。武見は「喧嘩太郎」と呼ばれていたが、喧嘩太郎がいなければこの事態は収拾されなかったであろう。

 

 

 

国民皆保険制度 昭和36年(1961年)

 昭和36年、国民皆保険制度が発足した。この制度により国民全員は何らかの医療保険に強制的に加入させられることになった。国民皆保険制度の発足により、日本人は日本のどこにいても、どんな時でも適切な医療が受けられるようになった。国民皆保険制度は世界に類をみない世界最高の医療制度である。国民皆保険制度を説明する前に、日本の医療制度の経緯について歴史をたどってみたい。

 江戸時代までは病気の治療費はすべて自費であった。医療に保険という概念はなく、医療費は診察をした医師が自由に設定できた。そのため医療を受けられるのは裕福な者に限られ、日本人の多くは医師の診察を受けられずに、「野垂れ死」の状態に近かった。

 もちろん医療には昔から「人道的な施し」という面があったので、医師は裕福な家から多額の治療費を取り、貧しい患者からは治療費を取らない傾向にあった。とは言うものの、実際には貧困層の人々は医師の診察を受けられずに死んでいった。

 江戸時代の医療は漢方医学が中心だったので、医療を受けられたとしてもその恩恵は少なく、むしろ医師の診察を受けたという心理的な効果が大きかった。当時の医師の仕事はクスリの調合が主だったので、医師は薬師(くすし)と呼ばれていた。医師には免許制度はなかったので誰でも医師になれた。逆に言えば、医師は沢山いたがヤブ医者も多かった。

 医師のほとんどは個人開業で、病院という施設はなかった。赤ひげ(山本周五郎作)で有名な小石川養生所が江戸時代に建設されたが、それは例外中の例外であった。歴史的に日本の医療は個人営業の開業医が全体をリードし、病院の役割が増したのは明治以降のことである。

 江戸時代から明治時代になると、明治政府は富国強兵を国策に掲げ、国の基盤を強化して欧米に追いつくことを目標にした。医学も欧米の影響を受け、漢方医学から西洋医学へと大きく移行した。

 明治になって医学は漢方医学から西洋医学へと大きく変化したが、明治前後の日本人の平均寿命はほとんどの変化がないことから、明治時代の医学が国民へ果たした貢献度はそれほど大きなものではなかった。しかし明治政府の医学や医療への取り組みは熱心だった。国家の礎である軍人や労働者の生活を安定させるために、保険医療制度を導入したのである。また当時盛んだった労働運動を弱体化させるために、労働者を中心に医療保険制度の育成政策が図られた。このように軍人や労働者に国家が行った政策を、民間が追従することになった。

 医療保険制度は病気になった場合に互いに助け合う制度で、大企業から中小企業へと保険制度が広がっていった。大正11年には工場労働者用に健康保険制度が創設され、昭和2年に健康保険法が施行された。このようにわが国の医療保険の土台が次第に作られていった。

 当初の健康保険制度は、各保険組合が医師会と契約を結び、診療報酬を1人につき一定の額を支払う人頭割請負方式であった。しかしこの医療保険制度は普及せず、多くの開業医は自費診療が中心で、保険診療はごく一部にすぎなかった。昭和13年に自営業者、農業者を対象に国民健康保険制度が創設されたが、わが国の医療保険制度はまだ十分ではなかった。

 当時の医療は開業医中心の医療で、医師の8割は開業医であった。各家庭にはかかりつけの医師がいて往診をしていた。開業医は世襲が多く、医師には地元住民の尊敬と信頼があった。そのため医療ミスという言葉は存在せず、すべては寿命とあきらめ、先生に診てもらって死んだのだから仕方がないとの気持ちがあった。

 この医師と患者の関係を示すように、医師に払う医療費は「支払い」とはいわずに「謝礼」といった。開業医には裕福な者が多かったが、それは開業医が儲かったこともあるが、開業医は地主、山林主、家主などを兼ね、豊かな者が開業医となっていたこともあった。

 昭和20年、敗戦と共に日本の医療も大きく変化することになる。ひとつは農地改革で、地主を兼ねていた医師が没落。さらに爆発的なインフレによって医療はほとんど壊滅状態に陥った。医薬品の極度の不足、価格の高騰のため、安い保険診療による開業医の生活は苦しくなった。

 医薬品はヤミ相場で暴騰し、安い保険診療での診療は開業医の死活問題となり、そのため自由診療を行う医療機関が多く、開業医は「保険診療は扱いません」と表示し、患者も保険診療を「貧乏人のシンボル」として羞恥心から使う患者は少なかった。

 昭和20年に1点35銭だった保険標準単価が、23年に一挙に10円に引き上げられ、ようやく保険診療を行う医師が増え、健康保険制度も機能するようになった。昭和24年には医薬分業問題が起こり、日本薬剤師会と日本医師会の対立が始まった。

 明治7年の医制では「医師タル者ハ自ラ薬ヲヒサグコトヲ禁ズ。医師ハ処方書ヲ病家ニ付与シ相当ノ診察料ヲ受クベシ」と定められ、医薬分業は明確に規定されていた。しかし明治22年の薬品営業並びに薬品取扱規則付則には「医師ハ自ラ診療スル患者ノ処方ニ限リ自宅ニ於イテ薬剤ヲ調合シ、販売投与スルコトヲ得」と骨抜き規定が入れられていた。

 戦後のGHQの指導により、昭和24年に医薬分業の法的な強制導入が持ち上がり、日本薬剤師協会と日本医師会、日本歯科医師会との間で激しい論争があった。国会で医薬分業が成立したが、昭和26年にGHQのサムス準将が帰国することになり、日本医師会の猛烈な巻き返し運動が始まった。日本医師会は、法案成立の最終段階で「患者や看護人が特にその医師から薬剤をもらいたいと申し出た場合には医師が調剤できる」という付帯項目を追加し、実質的に医薬分業は阻止された。

 昭和25年頃から保険診療はようやく国民の間に広がり、普及とともに巨額な赤字を抱え込むことになる。そのため厚生省は保険料の引き上げ、乱診乱療の抑制などを講じることになった。保険診療は赤字続きとなったが、昭和25年の朝鮮戦争をきっかけに日本経済が好転し、黒字に転じることになる。その後、保険診療は日本経済の景気に左右されながら、開業医の診療収入に占める保険診療の比重が高まっていった。物価上昇に見合う診療報酬単価の値上げが当然とされ、それが成されない場合には医師の不満が膨らむことになった。

 昭和26年、悪質なインフレにより医師の診療報酬は目減りして医薬品は高騰。そのため診療報酬の値上げを求めて医師会側が全国一斉の保険医総辞退を表明した。一方、財源のない厚生省は「単価引き上げの要求には応じられないが、課税所得率を25%から30%までの間にすること」を条件に総辞退回避を医師会に求めてきた。

 つまり医療報酬を上げない代わりに税金をまけるという政策だった。当時の吉田茂首相と親しい関係にあった日本医師会の武見太郎によって、第1回目の保険医総辞退の動きは収拾した。昭和29年には、この医師優遇税制が法制化され、課税所得率は28%になった。つまり収入の72%が必要経費とみなされたのである。

 昭和30年の時点では、農業や零細企業に勤める人たちは保険に加入しておらず、国民の約3分の1に当たる3000万人が医療保険に未加入であった。また医療保険に加入していても、保険は本人に限定され、家族は保険の恩恵を受けられなかった。このため家族が病気になると、路頭に迷うことになった。

 当時の保険行政の目標は、国民皆保険に基づく新しい医療体制の確立であった。昭和31年1月、当時の鳩山一郎首相は施政方針演説の中で、「国民皆保険構想」を明らかにし、昭和33年に診療報酬点数が8.5%引き上げられ、1点単価は10円に固定された。

 昭和34年には医療金融公庫が創設され、開業医や民間病院への特別融資法案が成立。保険未加入の職場では強制加入が進んでいった。このように国民皆保険制度の環境作りが行われたが、当時はまだ貧困層が多く、医療費が払えないために、盲腸の手術を受けられずに死んでいった者が多くいた。

 昭和30年ころから日本の輸出が伸び、景気はよくなり物価は高騰したが、医療費は据え置かれたままであった。そのため医師会の不満が蓄積され、昭和36年に日本医師会の不満が爆発、保険医総辞退へと進んでいった。36年2月19日に一斉休診が行われたが、政府と日本医師会とのトップ会談で保険医総辞退は回避された。強烈な個性と政治力を持つ武見日本医師会長は保険医総辞退、全国一斉休診をちらつかせ行政側との交渉に当たった。

 紆余曲折を経て、すべての国民の医療費を保険で賄う国民皆保険制度が36年に設定され、以後、日本の医療は保険医療が基盤となった。しかし国民皆保険制度の歴史は「医療負担の押しつけ合いの歴史」でもあり、医療財源によって医療が変わる時代となった。

 国民皆保険制度は保険証1枚で、必要とされる医療を、いつでもどこでも、わずかな負担で誰もが平等に受けられることを保証しており、この制度は患者にとってまさに理想的な医療制度であった。病院にとっても、必要な治療費を保険組合が保障してくれるので理想的なシステムであったが、このシステムの最大の欠点は、医療費増大をきたすことである。医療費を保証する「出来高払い方式」は、医師の裁量で適切な治療ができるが、コスト意識が働かず医療費の増大をもたらした。

 昭和43年には国民健康保険の7割給付が実現し、48年には70歳以上の老人の医療費無料化が実施された。また同年から家族の7割給付が実現し、さらに自己負担額に一定額の上限を設ける高額療養費制度が創設された。このように安い費用で医療機関を利用できるようになった。患者の負担は減り、窓口負担が少なくなり、患者は医療のコストを実感せずに、医療はタダとする意識をつくっていった。

 医療の進歩とともに国民医療費は次第に増大し、昭和53年まで国民医療費は2けた成長を続けることになる。このように医療費は増大したが、当時の高度経済成長期と重なり、日本は医療費の伸びを吸収するだけの経済力を持っていた。日本が若々しい国力に支えられ、個人所得の伸びは医療費の伸びを上回っていた。

 昭和48年の第一次オイルショックを機に、日本経済は安定成長期へと入ってゆくが、同年の老人医療の無料化により、老人医療費は急激に増大し、国庫財政を圧迫するようになった。厚生省はその対応策として、医療費の総枠抑制、治療から予防への移動、医師数などの供給の見直しをあげた。

 高度経済成長終わると、サラリーマンの給料に連動していた保険料は伸び悩み、高齢化社会を迎えると、医学の進歩も加わり、医療費が増大することになった。そのため50年代前半から次第に医療費抑制政策が始まり、医療費は5%前後の緩やかな伸びになった。

 昭和53年に医師優遇税は廃止され、58年から薬価基準が引き下げられ、59年には健康保険法が改正され、健保本人は1割負担となった。老人医療費が増大して国の財政が苦しくなり、老人医療費を国が支えきれなくなり、そのため各保険組合から老人医療費の拠出金をとるようになった。

 昭和58年に老人保健法が改正になり、老人医療の3割を国と自治体が、7割を各保険組合の拠出金から支払うようになった。そのため老人医療費の負担が少なかった各保険組合は、日本の老人医療費の7割を負担することになり、保険組合は大打撃を受けることになった。

 この老人保健法の改正により、黒字だった保険組合も赤字に転落し、保険診療も財政的な制約を受けることになった。保険組合が黒字だったころは、余剰金で保健体育施設、保養所、旅館などを次々に建設して批判を受けるほどであったが、拠出金の支払いにより慢性的な赤字になった。

 平成6年の改正では、入院時の食事サービスに患者負担が導入され、家族負担であった付き添い看護制度が廃止された。医療機関を受診した場合には、患者は医療費の1から3割の自己負担分を払い、また1カ月に6万3600円を超えた医療費は、高額療養費として全額還元される仕組みになった。

 平成9年、医療財政を放置すれば、国民皆保険体制が崩壊しかねないとして、医療保険審議会は、制度改革と制度安定運営のための対策を小泉純一郎厚生大臣に提出。改革の焦点は診療報酬体系、薬価制度、高齢者医療制度の3点で、患者負担と保険料率の引き上げが提言され、国会審議と並行して医療保険制度改革協議会(座長・丹羽雄哉元厚相)を設けて法案修正の話し合いが進められた。

 厚生省は若者世代の患者負担を3割とし、大病院の外来では5割負担とする制度改革案を発表。また与党三党の改革協議会は、さまざまな改革案をまとめたが、各利害のため具体的改革案は先送りされた。

 日本は高齢者が増加し、それを支える若年層が減少し、医療財政が困窮してきた。高齢者は病院に行く頻度が高く、1人当たりの診療費は若い世代の7倍に達していた。生涯の医療費の約半分が70歳以上で使われ、高齢化社会が医療財源を圧迫させた。医療費を抑制しなければ、国民保険制度は破綻するため、保険制度は2年ごとに改正され、自己負担増加となった。医療費抑制が医療改定の目標となった。

 平成14年の医療改正で医療機関の診療報酬が初めて引き下げられることになった。また月に2回以上通院すると再診料が減額、医療安全対策、院内感染対策、褥瘡対策を実施していない病院は減額、一定の手術件数を満たさない医療機関の手術料が3割カットとになった。さらに患者の自己負担が2割から3割へ増額、保険料の自己負担分を増額(月収レベルから年収レベル)、6カ月以上入院している患者の自己負担増となった。

 国民皆保険制度の歴史は、厚生省、日本医師会、健保連の対立の歴史といっても過言ではない。高度経済成長が終わり、少子高齢化、高度医療により、必然的に医療費は増え続け、医療財源の不足が深刻となった。診療報酬の減額、患者の自己負担増となった背景には、日本の国の借金が約800兆円あるため、国が支出している国民医療費を減額する必要があったからである。

 医療保険制度が財政的な行き詰まりを見せ、社会保障としての医療が揺らいでいる。その原因として、国民皆保険の発足した昭和36年と現在とでは、疾患の内容が変化し、医療が格段に進歩したことである。昭和36年頃は疾患の多くは感染症で、感染症は治るか治らないか数日勝負の疾患で、医療費は高くなかった。しかし今日では、がん、心臓病、脳血管障害というように加齢が関与した疾患が大部分を占めている。

 がんは遺伝子の老化に伴う疾患で、心臓病、脳血管障害は動脈硬化という老化がつくる疾患といえる。このように医療の進歩が高齢者を増加させ、老化という不可抗力の疾患に膨大な医療費が必要となったことが、保険診療を支える医療財政を悪化させた。日本は長寿を望みながら、長寿による医療費増に苦しむことになる。

 

 

小児麻痺ワクチン  昭和36年(1961年)

 小児麻痺は19世紀後半から世界各地で流行したウイルス性疾患である。この病気はポリオウイルスの感染によるもので、欧米では「ポリオ」(急性灰白髄炎)と呼ばれ、人々から恐れられていた。ポリオとはギリシャ語で灰色を意味する言葉で、ウイルスが脊髄の灰白質を冒すために名付けられた病名である。

 日本では手足が麻痺することから、文字通り小児麻痺と呼ばれていた。ポリオウイルスはどの年齢層にも感染するが、乳幼児が感染した場合に重篤な麻痺を残した。

 小児麻痺ワクチンができるまでは、当時の人々にとってポリオは脅威そのものであった。1916年に起きたアメリカのポリオの流行では6000人が死亡し、2万7000人が後遺症として麻痺を残した。流行の中心になったのはニューヨーク市で、そのためニューヨーク市から5万人もの裕福な家庭が郊外に逃げだそうとして自動車がハイウエーに殺到。このパニックを沈静化させるため、ニューヨーク市当局は16歳以下の小児の市外への移動を禁止し、自家用車や列車でニューヨークから脱出しようとする家族を警備員が実力で阻止した。この例が示すように、当時の人々にとって、特に子供を持つ親にとってポリオは恐怖の的であった。

 アメリカ32代大統領ルーズベルトも40歳の時に小児麻痺に罹患し両足に麻痺を残したが、この後遺症を克服して大統領になっている。このように小児麻痺は世界的な問題になり、ポリオ撲滅のためにワクチンの開発が急がれていた。アメリカではマーチ・オブ・ダイムという運動が盛り上がり、人々はワクチン開発の資金として1ダイム(10セント)を出し合った。

 小児麻痺の症状は発熱、嘔吐など風邪に似た症状から始まり、解熱して家族が安心した時期に下肢の麻痺が出現するのが特徴である。ポリオウイルスの感染性は極めて強いが、感染しても90%以上の人は無症状か風邪程度の軽い症状で終わる。いわゆる不顕性感染がほとんどで、手足の麻痺を残すのは0.10.5%とされている。つまりポリオウイルスの感染を受け何らかの症状が出ても、麻痺が出るのは1〜2%であった。

 小児麻痺の感染は便から排出されたポリオウイルスが飲食物から経口感染、あるいは飛沫感染により伝染する。体内に入り、増殖したポリオウイルスが脊髄の灰白質に浸入すると、四肢の麻痺を生じさせる。いったん麻痺が生じると回復は見込めず、後遺症として麻痺を残すことになる。麻痺を残す患者のほとんどは幼い子供たちで、障害児、装具、松葉杖、鉄の肺のイメージが母親たちを恐怖に陥れていた。また呼吸筋の麻痺により死に至る子供も多かった。

 昭和28年、初めての小児麻痺のワクチンがアメリカで開発され、このワクチンはピッツバーグ大学のソーク博士がサル腎臓組織培養法を用いて開発したため、ソークワクチンと名付けられた。ソークワクチンは、ポリオウイルスをホルマリンで処理し、病原性をなくして生体に免疫反応だけを起こさせる不活性ワクチンである。世界で初めての小児麻痺ワクチンで、ソークワクチンはアメリカの期待が込められていた。このソークワクチンの完成を祝って、アメリカ中の教会の鐘が一斉に鳴らされたと記録されている。

 ソークワクチンは、米国で44万人の子供に接種され小児麻痺に有効とされた。アメリカでは、年間3万人以上の小児麻痺患者と2000人前後の死亡患者が発生していたが、ソークワクチンの投与により患者数は年間5000人、死者数は200人程度に激減した。ソークワクチンは世界中で用いられるようになった。しかしこのソークワクチンに安全性の問題があった。ワクチン接種によって小児麻痺が引き起こされる事件が散発的に発生した。ワクチンに野生ウイルスが混入していたため、ワクチンにより小児麻痺を発生させたのだった。特に「カッター事件」では、ワクチン接種により大量の患者と死者を出すことになった。

 日本では、戦争前には小児麻痺の流行はみられていない。そのため小児麻痺の研究、ワクチンの開発は日本ではなされていなかった。このように無防備な日本に、終戦直後から小児麻痺が次第に増加していった。昭和34年6月、厚生省はポリオを指定伝染病に指定するが、その1か月後の7月に、小児麻痺の大規模な流行が青森県八戸市から始まった。同時期、アメリカでも小児麻痺が流行していたため、アメリカは日本にワクチンを提供できず、日本の小児は無防備のままポリオウイルスにさらされることになった。青森県でも小児麻痺が大流行し、患者は141人に達した。

 このような状況のなかで、八戸市の開業医がソ連でポリオワクチンが普及していることを偶然にモスクワ放送を聞いて知り、同市の医師・津川武一と岩淵謙一はポリオワクチンを得るために奔走した。ソ連大使館を通じてワクチンを寄贈してもらうことに成功し、同年9月2日、約2万人分のポリオワクチンが日本に届くことになった。

 しかし薬事法上の問題、さらには「赤い国」からの寄贈ということもあって厚生省の許可が下りず、ワクチンの有効期限が迫ってきた。厚生省はアメリカ製ワクチンを優先することにこだわり、そのためソ連製ワクチンが国内で使用されたのは、小児麻痺の流行が去った10月からであった。

 子供たちを守るために奔走した岩淵は夜も眠れないほどの焦燥に駆られ、ワクチン接種の実現をみないまま心臓マヒで死去、その生涯を閉じた。結局、この年の小児麻痺患者は2917人に達した。

 昭和35年、今度は北海道から小児麻痺が流行し始め、瞬く間に日本全土に広がっていった。厚生省はソークワクチンでこの流行を食い止めようとしたが、ソークワクチンの効果は低下しており、流行を食い止めることはできなかった。感染者は5606人に達し、319人が死亡する惨事となった。小児麻痺に有効な治療法はなく、ワクチンによる予防だけであったが、日本には国産のワクチンはなく、欧米のワクチンに頼るしかなかった。

 ワクチンは「病原性を弱めたウイルスを、事前に身体に注入して免疫を獲得させ、野生のウイルスが感染したときに発病を抑える方法」である。このワクチンが病気を引き起こす野生ウイルスの構造に近ければ免疫は強くなり予防効果は高くなる。しかし構造が似すぎると、ワクチンそのものが感染を起こすことになる。毒性の弱いウイルスで毒性の強いウイルスを予防することで、この毒性のバランスを図りながらワクチンは開発されている。

 ソークワクチンは小児麻痺根絶の期待を担っていたが、その安全性と有効性に改良の余地があった。そのため世界の態勢は不活性ワクチンである生ワクチンへと移行していった。生ワクチンとは、ウイルスを何代にもわたり培養を繰り返し、その病原性をなくした生きたウイルスを用いたワクチンである。ソークワクチンは死滅させたポリオウイルスを用いたため、小児麻痺への予防効果が弱かったのである。

 昭和33年、アメリカのセービンが経口生ワクチンの開発に成功。欧米では35年からソークワクチンに代わり、安全で予防効果の高い生ワクチンが用いられるようになった。日本では生ワクチンと呼んでいるが、セービンが開発した生ワクチンは通称セービンワクチンと呼ばれている。欧米では生ワクチンが小児麻痺ワクチンの主流となったが、日本ではまだソークワクチンが用いられていた。このソークワクチンが、35年の大流行時に無効だった。そのため翌36年の流行時には、日本中の母親は小児麻痺の脅威の前にパニック状態に陥った。

 昭和36年の小児麻痺は九州から発生し、次第に日本を北上していった。同年の半年だけで患者は1700人、100人近くが死亡する大流行となった。この流行を前に、多くの母親はソークワクチンの効果が低下していることをが知っていたので、全国の母親は恐怖に陥った。ちょうどそのころ、ソ連ではポリオウイルスを弱毒化した「経口生ワクチン」の投与が始まっていた。このことを知った母親たちは、ソ連製の生ワクチンを輸入するための運動を始めた。

 昭和36年5月13日、「子供を小児麻痺から守る中央協議会」を初めとした13団体の代表者300人が東京で集会を開き、生ワクチンの緊急輸入を厚生省に要請した。また、全国の母親が連日のように厚生省に押しかけ生ワクチンの輸入を迫った。

 しかし開発されたばかりの生ワクチンは、その安全性、副作用が十分に分かっていなかった。生ワクチンは生きているウイルスを体内に入れるため、ウイルスが体内で増殖し、他人に感染させる可能性が懸念された。つまり弱毒化したウイルスによる小児麻痺の二次感染が心配された。厚生省は薬事法を盾に、安全性が確認できるまでソ連製生ワクチンを輸入しない方針を立てていた。効果や安全性が確認されない以上、ワクチンといえども生きたウイルスを使うことは流行に火を注ぐことになりかねないとした。

 このとき古井喜実・厚生大臣は「事態の緊急性を考えると、専門化の意見は意見として、非常の対策を決行しなければならない。責任はすべて私にある」との談話を発表し、厚生省幹部の慎重論を押し切って緊急輸入を決断した。昭和36年6月21日、小児麻痺の生ワクチン1300万人分がソ連から緊急輸入されることになった。このスピーディな輸入は古井厚生大臣の英断であった。

 同年7月20日、全国の小学校で1年生から4年生までを対象に生ワクチンの一斉投与が開始された。母親の心配をよそに、ボンボン型のワクチンは甘くておいしいと児童たちに好評であった。この生ワクチンの効果は絶大で、小児麻痺の大流行はピタリと収まり、同年11月には小児麻痺の発生はゼロになった。翌年にはカナダからシロップ状の小児麻痺生ワクチン1700万人分が輸入され、乳幼児から小学生まで投与された。

 このように母親たちの運動、厚生大臣の決断により、小児麻痺の大流行を水際で食い止めることができた。以後4年間の患者発生率はそれまでの60分の1に激減し、昭和55年の長野県での報告を最後に小児麻痺はゼロになった。日本の小児麻痺の累積患者数は2万人以上とされている。

 小児麻痺生ワクチンは、ウイルスを弱毒化させた安全なワクチンであるが、生ワクチンの欠点として、50万人に1人の確率で弱毒ウイルスが脳脊髄に浸入して麻痺を起こすことがある。またワクチン投与を受けた場合、平均26日間にわたってウイルスが便中に排泄されるため、ワクチンを受けていない子に感染して麻痺をきたすことが極めてまれに発生する(確率は500万分の1)。このような生ワクチンによる小児麻痺の二次感染はいずれも軽症例であるが、これまで6例が報告されている。

 世界保健機関(WHO)は南北アメリカでポリオの根絶宣言を行った。平成12年、日本を含む西太平洋地域においてもポリオの根絶宣言が出され、母親を恐怖のどん底に陥れた小児麻痺は日本では過去の疾患になった。ポリオは一度感染すれば二度と感染することはない。つまり、天然痘と同じようにワクチンによって撲滅されたのである。

 小児麻痺はすでに日本から姿を消しているが、「小児麻痺は、子供を持つ母親が厚生省と交渉し、自分たちの力で子供を守った疾患」として長く記憶に残すべきである。

 

 

 

名張毒ぶどう酒大量殺人事件 昭和36年(1961年)

 昭和36年3月28日の夜7時頃、三重県名張市の郊外にある葛尾(くずお)で、大量殺人事件が起きた。葛尾は三重県と奈良県の県境にあり、25戸の農家が一本道に沿って点在している小さな集落である。葛尾の小高い丘にポツンと寺が建っていて、村人たちはこの無住の寺を公民館として利用していた。人口101人の集落から5人の葬式が出るという大量殺人は、この無住の寺が舞台となった。

 事件の日、この公民館で、「三奈の会」(三重県と奈良県の頭文字)という生活改善と向上をかねた総会が開催されていた。三奈の会には32人(女性20人)が参加し、年に1度の総会を終えると、夜の8時頃から懇親会に移った。

 村人にとって、この懇親会は数少ない楽しみのひとつであった。机の上に折詰が並べられ、男性には清酒が、女性にはぶどう酒が用意され、前会長の音頭で乾杯が交わされた。異変が起きたのは、乾杯から10分ぐらい経ってからである。ぶどう酒を飲んだ女性たちが突然もがき苦しみ、嘔吐しながら腹痛を訴えた。驚いた男性たちは医師を呼びに走ったが、あいにく医師は往診中だった。

 医師が駆けつけたときには、ぶどう酒を飲んだ女性17人のうち5人が死亡していて、12人が重体になっていた。医師はかつて有機リン系農薬中毒の患者を経験していたので、すぐに有機リン系中毒と診断。アトロピンとパムによる治療を行い12人が入院となった。会場は騒然となり、通報を受けた警察が現場検証を行った。ぶどう酒を飲まなかった女性3人は全く異常がなかったことから、ぶどう酒に農薬が混入されていたと容易に想像できた。飲み残しのぶどう酒や嘔吐物から有機リン製剤の農薬が検出され、有機リン製剤は日本化学工業株式会社の「ニッカリン・T」とされた。

 この小さな集落で起きた大量殺人事件は、村人をパニックに陥れ、世間を驚かした。多くの人たちはこの事件を「第2の帝銀事件」と呼んだが、帝銀事件と大きく違うのは、犯人は村人の中にいることであった。

 警察はぶどう酒に接触した者を調べれば犯人逮捕は容易と見込んでいたが、予想とは反対に犯人は特定できず、物的証拠も発見できずに捜査は難航した。静かな集落に、多くの報道機関が乗り込み、報道合戦が加熱した。当初は死亡した奥西千恵子のエプロンのポケットに農薬を入れたと思われる小ビンが入っていたので、千恵子が犯人とされた。さらに夫の奥西勝(34)が、「死亡した愛人(36)に妻の千恵子が嫉妬して、無理心中を企てた」と証言した。新聞はこの無理心中説を報道し、事件は解決したかに見えた。ところが千恵子がぶどう酒を飲む前に、「今夜、あまり酒を飲んだらあかんと父ちゃんが言っていた」と証言する者が出てきた。

 毒殺事件の犯人は誰なのか。警察は村人の中に犯人がいると断定、ぶどう酒の購入や運搬に関与した3人を重要参考人として取り調べた。3人はいずれも犯行を否認したが、千恵子の先ほどの証言から、三奈の会の元会長である奥西勝が警察から激しい取り調べを受けた。

 奥西勝は狭い村の中で、妻以外の愛人と2年前から情交を結んでいた。未亡人である愛人のことが妻に知られ、夫婦仲は険悪になり、妻との言い争いが頻発していた。愛人は千恵子に責められ、そのため奥西に別れたいと言っていた。妻への不満と憎しみ、愛人の心変わりからやけ気味になり、「三角関係を清算して、すっきりした気持ちになりたい」。このことが奥西勝の殺人の動機とされた。

 奧西勝は妻と愛人が酒好きであることを知っていた。千恵子と愛人はすでに死亡しており、奧西は警察から連日激しい取り調べを受けた。任意の取り調べであったが、奧西は事件直後から連日ジープで警察に連行され、長時間にわたって追及され、自宅に帰っても警察官が泊まり込んで監視した。就寝から排便に至るまで警察官に監視され、ついに奥西勝は殺人を自白した。

 奥西勝は妻と愛人を殺すため、公民館で誰もいなくなったすきに、用意していたニッカリン・Tをぶどう酒に混入したと自白した。自白は事件から6日後の、4月3日午前3時40分であった。この自白した時間から分かるように、警察は深夜まで奧西を取り調べていた。さらに自白直後に警察で記者会見を行い、奧西勝本人に記者の前で犯行を告白させた。この記者会見は自白の任意性を世間に知らしめる警察の演出であった。奧西勝はこの自白について、犯人とされた妻の千恵子の「濡れ衣を晴らすためだった」と後に語っている。

 この事件は奥西勝による「妻と愛人の三角関係の清算」が犯行動機とされた。しかし小さな村落の葛尾では、既婚の男女が他の男女と自由な性的関係を持っていた。この村落では三角関係や四角関係は珍しくはなく、25戸の農家のうち7組が三角関係にあった。そのため自白した動機は、殺人の動機としては希薄だった。奥西勝は愛人のほかにも数人の女性がいて、死亡した妻の千恵子や愛人にも付き合っている男性がいた。

 田舎ののどかな村落では、全員が仲むつまじく暮らすイメージがある。ところがこの事件によって、性的に開放的な村落の内情が暴露され、平和に見える農村にも、世間の目から隠れた暗部があることを示すことになった。その意味でも、この事件が世間に与えたインパクトは大きかった。

 奥西勝はお茶を栽培していて、その消毒薬として「ニッカリン・T」を買い、この農薬をぶどう酒に入れたとされている。しかしその後の捜査で、ぶどう酒に混入されていたのはニッカリン・Tではなく、三共株式会社の「三共テップ」または富山化学工業株式会社の「トックス40」と分析された。これらの農薬は広く販売されており、「ニッカリン・T」を買った奥西勝が必ずしも犯人ではなく、ここに冤罪の可能性が出てきた。

 裁判では、奥西勝は一貫して無罪を訴え続けた。この事件は物的証拠がなく、村での男女関係は日常茶飯事だったことから、三角関係の清算という動機は弱いものであった。しかも「奥西と妻、愛人の3人はいつも連れだって仕事や映画に行っており、殺人を起こすような三角関係の苦悩という深刻さがなかった」、と村人たちが証言したのである。また事件2日前に奥西は、妻や愛人との情事に使うため、市内の薬局でコンドームを買っており、このことからも殺害の動機は希薄に思えた。

 昭和391223日、津地裁の小川潤裁判長は「証拠不十分で奥西勝は無罪」とする判決を出した。犯人はぶどう酒の王冠を歯でこじ開けているが、王冠に残された歯型は奥西のものと断定できないこと。村人の証言が次々に変わったことを、「検察の並々ならぬ努力の所産」とした。奥西の自白は信用できず、犯行動機も納得できないとした。間接証拠だけでは奥西勝の犯行とは認定し難いとし、「疑わしきは罰せず」の常識に立った無罪判決であった。

 ところが昭和44年9月10日の第二審・名古屋高裁は、一転して奥西勝を死刑とする判決を出した。無罪から死刑へ判決は大きく変わったのである。名古屋高裁は、王冠の歯形は奥西のものと一致し、毒物を混入できるのは奥西だけで、自白は信用でき、動機も納得できるとして有罪となった。昭和47年6月15日の最高裁で死刑が確定した。

 この事件には物的証拠はなく、多くの疑問が残されている。まず死刑判決の最大の根拠となったぶどう酒の王冠について、奥西勝はぶどう酒の王冠を歯で開けたと自白し、その王冠が公民館の火鉢から発見されている。王冠の歯痕を鑑定した大阪大学教授と名古屋大学教授は、残された王冠は奥西がかんだ歯痕と一致するとして、この鑑定が有罪の決め手となった。

 これに対し弁護側が新たに鑑定を依頼した日大歯学部助教授は、歯痕の間隔を計測し直した結果、10カ所のうち9カ所が一致せず、最大で2.6ミリのずれがあると指摘。さらに学生10人に10個ずつの王冠を歯で開けさせる実験を行い、同一人が同じ歯で噛んでも歯痕の間隔が常に一致するとは限らないとした。つまり歯型は一致しても、一致しなくても、物証にならないとしたのだった。

 死刑判決では「奥西勝が公民館で1人になった10分間以外に、毒物を混入する機会はなかった」としている。しかしぶどう酒や弁当の購入を決めたのは当日の朝で、それを決めたのは三奈の会・会長のNであった。Nは農協職員Rに購入を命じ、Rは酒店で清酒2本とぶどう酒1本を買ってN宅に運び、Nの妻F子(事件で死亡)が受け取った。その後に、隣家の奥西がN宅にきて、夕方の5時20分頃、公民館に運んだ。

 事件直後の供述では、ぶどう酒がN宅に届いたのは夕方の4時前で、ぶどう酒はN宅に1時間以上も置かれていたのであれば、N宅でも毒を入れる機会があったことになる。ところが事件から2週間後、ぶどう酒が届いた時間について三奈の会・会長N、農協職員のR、酒店の店員の証言が4時前から5時に供述がいっせいに変わった。夕方の5時であれば、奥西がN宅に来た直前にぶどう酒が届いたことになった。そしてこの証言によって奥西犯人説が導かれた。

 津地裁の小川潤裁判長は「検察の意図的な供述操作と痛烈に批判し、奥西以外にも犯行機会はあった」とした。しかし二審では奥西以外に犯行の機会はなかったとした。弁護団は「奥西勝以外にも犯行の機会があった」と主張したが退けられた。弁護団は第6次まで再審請求を行い、奥西以外にも犯行の機会があったこと、ぶどう酒の栓は公民館に運んでくる前に開けられていた可能性があると主張したが、裁判所はそれを認めなかった。

 奥西勝はぶどう酒を運んだ公民館で10分間だけ1人になったとされ、5時10分から20分の間にぶどう酒に毒を入れたとされている。この10分間の証言は公民館とN宅を往復していたS子の証言に基づいている。奥西は公民館にぶどう酒を運ぶときS子と一緒だった。そのS子が公民館にぞうきんがないのに気づき、N宅に取りに戻り、また公民館に引き返した。このS子がぞうきんを取りにいっていた10分間が、奥西が公民館に1人でいた根拠であった。

 ところがN宅にいたY子は、「S子が最初に公民館に行ったあと、奥西を道で見た。奥西は牛に運動をさせていた」と証言、この10分間が本当なのか疑問が残った。Y子の証言が本当だとすると、S子の10分間の証言に疑念が生じることになる。また会の集合時間は5時となっていた。誰が入ってくるか分からない5時10分過ぎに、毒を入れたとするのは不自然であった。

 名古屋高裁での第6次再審請求において、名張署長の捜査ノート(中西ノート)が提出された。このノートは、当時の捜査会議の内容を克明にメモしたものであるが、事件4日後の記述で、「奥西勝は公民館でS子さんや別の主婦と一緒にいた」とS子が供述しており、もしそうならば「奥西の公民館で1人になったことはない」という主張が裏付けられることになる。S子は事件直後の新聞記者の取材でも同様の証言をしている。S子の供述が奥西の「空白の10分間」をつくり、それが奥西に死刑をもたらしたが、S子の供述が正しいのかどうか疑問であった。

 奥西勝は犯行前夜、竹を切って竹筒を作り、農薬ニッカリン・Tを竹筒に入れ、丸めた新聞紙で竹筒に栓をして、農薬のビンを当日の朝に名張川に捨てたとされている。公民館にぶどう酒を運び、1人になった10分間に竹筒に入れたニッカリン・Tをぶどう酒に混入し、竹筒は公民館のいろりで焼いたと自供している。

 もし竹筒を焼いたのならば、必ず有機リンが検出されるはずであるが、いろりの灰からは竹筒の燃えかすも、農薬の残留物も見つかっていない。ニッカリン・Tを燃やすと猛烈な悪臭が出るが、それに気付いた者はいない。また事件直後に名張川を大々的に捜索したが農薬のビンは見つかず、志摩の海女を総動員して名張川を再度捜索したが見つからなかった。投棄実験ではビンはすぐに沈むので、必ず見つかるはずであった。つまり自白を裏付ける物的証拠は何もないのである。

 懇親会でぶどう酒が出ることが決まったのは当日の朝で、それまでは予算の関係でぶどう酒は出ないことになっていた。事件当日になって農協から助成金が出ることになり、ぶどう酒が出ることになった。それなのに前日から犯行の準備をしていたという自白は奇妙であった。

 また懇親会で出されたのは白ぶどう酒だった。いっぽうのニッカリン・Tは赤色で、赤いニッカリン・Tを白ぶどう酒に入れれば、色の変化に皆が気付くはずである。ぶどう酒は包装されておらず、外から液体の色が見える状態であった。しかし生き残った者は、ぶどう酒は白かったと証言している。

 この事件は一審で無罪、二審で死刑という極めて異例の経過をとっている。日弁連は全面支援して再審請求を続けているが、再審への道は厳しい。奥西勝はいまも名古屋拘置所から無実を訴えている。奥西勝は葛尾のためのいけにえになったのか、この事件の犯人は必ずいるはずであるが、もし犯人が自殺目的で死亡した女性であったならば、犯人は永久に分からない。

 

 

 

サリドマイド事件 昭和36年(1961年)

 サリドマイドは、昭和3210月に西ドイツのグリュネンタール社が開発した催眠薬で、ドイツでは「コンテルガン」の商品名で市販されていた。その薬理作用上、催眠のみならず胃腸薬としての効能も加わり、世界各地で広く販売されていた。

 日本では大日本製薬が厚生省の承認を得て、昭和33年1月から「イソミン」の商品名で発売していた。大日本製薬以外にも国内では10社を超える製薬会社がサリドマイドを販売していたが、9割以上は大日本製薬のイソミンが占めていた。

 サリドマイドは安らかな眠りをもたらし、胃腸にも良いと宣伝され、医家向けだけでなく、大衆向けの胃腸薬としても「プロバンM」の商品名で自由に誰でも薬局で買うことができた。

 それまでの睡眠薬バルビタールは、連用により危険を伴う副作用が出現するのに対し、非バルビツール系であるサリドマイドは副作用がなく、気軽に使える新薬として「夢の睡眠薬」、「クセにならない安全なイソミン錠」と宣伝された。イソミン錠は大量に服用しても死亡することはなく、睡眠薬による自殺も防止できるともてはやされ、安全性を誇示するように「妊婦のつわり予防薬」として盛んに宣伝された。この根拠のない安全性の宣伝がサリドマイドの被害を大きく、かつ悲惨なものにした。

 製薬会社は、サリドマイドの長期投与によって末梢神経炎の副作用が生じることを事前に知っていた。そのため服用期間の短い妊婦ならば末梢神経炎の恐れはないとして、つわり防止として宣伝したのだった。販売戦略として妊婦がターゲットにされ、このつわり予防薬が奇形児を生じさせた。

 サリドマイドによる奇形は、手足が対称性に欠損することで、腕があっても短い、あるいは小さな手が肩甲骨から直接出ているようになるのが特徴であった。この奇形がアザラシに似ていることから「アザラシ肢症(フォコメリア)」と呼ばれていた。さらに難聴、心臓、消化器などに異常を生じさせた。

 昭和36年9月、西ドイツでこのアザラシ肢症が多発していることが発表され、この報告がサリドマイド事件の始まりとなった。アザラシ肢症は自然界ではまず見られない奇形で、ハンブルグ大学でも過去20年間、アザラシ肢症の発生を認めていなかった。ところが昭和35年の1年間だけで33例のアザラシ肢症が発症したのだった。

 さらにハンブルグ市内の新生児が調査され、手足のない子供が1000人に2人の割合で出産していたことがわかった。この発表から2か月後の11月、西ドイツで開催された小児科学会で、バンブルグ大学講師W・レンツ博士は異常発症しているアザラシ肢症の原因としてサリドマイドの可能性を報告した。妊娠初期にサリドマイドを服用すると、高頻度でアザラシ肢症の奇形児が生まれると警告した。

 レンツ博士はサリドマイドとアザラシ肢症との因果関係を完全に証明したわけではなかった。医学的な根拠はなかったが、自然界ではほとんど見られないアザラシ肢症が多発し、母親からの聞き取り調査からサリドマイドと何らかの関係があると警告したのである。

 レンツ博士はグリュネンタール社に対し、科学的証明を待つのではなく、無関係であることが証明できるまで薬を回収すべきと主張した。レンツ博士の仮説に反対する研究者も多かったが、レンツ博士の警告が新聞で報道されると西ドイツ政府の反応は早かった。レンツ博士の警告から2週間後には、グリュネンタール社は西ドイツ市場からサリドマイドを回収するにした。

 イギリス、スウェーデンなどの欧米各国も西ドイツの対応を知り、直ちに販売中止、製品の回収を行った。この中止処置でアザラシ肢症は消失したが、サリドマイドの販売を中止しなかったのはブラジルと日本だけであった。

 サリドマイドが日本で多くの悲惨な犠牲者を出したのは、日本の製薬会社、厚生省の対応の遅さであった。サリドマイドが西ドイツで販売中止、回収された経緯は大日本製薬にも報告されていたが、日本の市場からサリドマイドが回収されたのは翌年9月のことだった。

 レンツ博士の警告を受けた西ドイツ政府は、即時にサリドマイドの回収を始めたが、日本では回収決定までに10か月を要した。ドイツは「疑わしきものは罰する」との態度であったが、日本は「疑わしきものは罰せず」の態度をとった。

 欧米での対応を、日本の製薬会社が知らないはずはなかった。大日本製薬は少なくても昭和3612月5日の時点で、レンツ博士の警告、グリュネンタール社からの副作用の情報を入手していた。大日本製薬は126日にこの情報を厚生省に報告したが、厚生省から販売の停止や回収の指示はなかった。

 大日本製薬と厚生省はサリドマイドの危険性を医師や薬局に連絡せず、副作用の事実を隠していた。大日本製薬の学術課長は、昭和37年1月に西ドイツに調査に行き、「グリュネンタール社がサリドマイドを回収したのは新聞が騒いだからで、レンツ学説は根拠がない」とする報告を大日本製薬と厚生省にしていた。

 厚生省は学問的な裏付けがないことを理由に、薬害との因果関係を隠蔽することに努めた。そのためレンツ警告後に適切な処置がなされず、被害を拡大させることになる。何の情報もない一般の妊婦は、何も知らないまま妊娠中の不快な症状を和らげる安全な薬剤と信じてサリドマイドを飲み続けた。

 昭和37年2月22日、タイム紙がサリドマイド被害の記事を掲載した。また3月および4月には、販売を継続している大日本製薬にグリュネンタール社が警告を出していた。同年5月17日、朝日新聞が夕刊でサリドマイド事件について日本で初めての特ダネ報道を行った。その記事はサリドマイドが奇形児出産の可能性があるため、西ドイツでは販売が中止されたというボン支局からの報告であった。

 この報道をきっかけに、日本のジャーナリズムが一斉に動き出し、大日本製薬の宮武徳次郎社長は「サリドマイドが奇形児を出産するという学問的な裏付けはないが、イソミンの製造を自主的に中止する」と発表した。大日本製薬は新聞紙上に意見広告を出し、西ドイツでは奇形児の報告があるが、日本ではそのような事実はない。そのような副作用がサリドマイドにあるかどうか現在実験中で、とりあえず妊娠中の服用は避けてほしいと述べた。この時点で大日本製薬はイソミンの製造を中止したが、市場から製剤の回収をしていない。回収をしなかったため、市場ではサリドマイドの在庫が一掃されるまで販売体制がとられていた。製薬会社のドル箱になっていたサリドマイドを販売停止にせず、とにかく売りまくろうという企業側の営利主義が被害を拡大させた。

 この朝日新聞の記事に、厚生省製薬課長は「学問的根拠はないが、大日本製薬の措置に深く敬意を表したい」との談話を発表した。一度承認した薬をたやすく引っ込められない、という厚生省のメンツが働いていた。また新聞の続報には、医学、薬学の専門家たちが登場し、「サリドマイドを妊娠中に使用しても問題ない」というコメントを述べ、安全性が強調された。日赤産院長の三谷茂、産婦人科学会の重鎮森山豊は「サリドマイドは引き金かもしれないが、主たる原因ではない」と述べ、大阪大学教授の杉山博は「レンツの調査は間違いである」と強調した。

 日本の医学界では、薬の製造を取りやめた製薬会社の英断を評価するコメントが多かったが、この時点で、レンツ博士の警告からすでに半年が経過していた。大日本製薬社長は「この処置はあくまでも自社の良心に基づくもので、出荷を停止するが、在庫が薬局で売られることに問題はない」と述べている。

 大日本製薬や御用達学者は「日本にはアザラシ肢症の発症がない」と強調したが、実は北海道大学医学部小児科・梶井正医師がサリドマイドによるアザラシ肢症を小児学会で報告していた。このことを読売新聞が昭和37年8月28日の朝刊でスクープし、さらに日本小児学会などでアザラシ肢症が次々に報告された。

 大日本製薬はイソミン販売以来、日本ではアザラシ肢症の報告がないと主張していたが、その主張は通用しなくなった。問題は次第に大きくなり、9月12日、大日本製薬はサリドマイドと奇形児との因果関係を否定しながら、サリドマイドを市場から回収することになった。この回収によりアザラシ肢症の患者が急速に減少することになった。

 西ドイツがサリドマイドを中止した時点で、日本でもサリドマイドを回収していれば、日本のサリドマイド被害者の半数以上は救えたとされている。レンツ博士の警告があった後に、日本でサリドマイド障害児が急増し、サリドマイドの販売中止により発症がゼロになった事実からもうなずけることである。

 日本におけるサリドマイド障害児は推定約1200人。世界全体では7000人である。もちろん病院から処方されたサリドマイドだけでなく、薬局で市販されているサリドマイドの内服によって生じた奇形児も多くいた。薬局で市販されたサリドマイドについては、患者の母親が内服した事実を証明することができず、また因果関係を認められなかった軽症例が多数いたとされている。さらにサリドマイド児の大半が胎児期に死亡し死産となったので、実際には統計の数倍以上の被害だったとされている。

 サリドマイドはレンツ博士によって薬害と警告されたが、レンツ博士と時を同じくして日本においてもその薬害に気づいていた医師たちがいた。都立築地産院で昭和34年から2年間に111人の妊婦に、妊娠悪阻、不眠の治療としてイソミンを投与し、3人のアザラシ肢症奇形が発生していたことが報告されている。この報告は、日本産婦人科学会雑誌(昭和38年、15巻、9号)に内海捨三郎ら5人の連名で論文になっている。内海医師は「アザラシ肢症は大変珍しい奇形なので3例続いたのはおかしいと考え、それ以降イソミンを投与しなかった」と新聞記者のインタビューに答えている。さらに奇形発生の事実を製薬会社へ報告していたと証言している。

 被害者たちは法務省に人権侵害の申し立てを行い、製薬会社に直接補償を求めたが、いずれも受け入れられなかった。そのため昭和38年、サリドマイド被害児の家族は、厚生省と大日本製薬を相手に損害賠償を求める民事訴訟を起こした。この訴訟事件は、日本初の薬害訴訟として注目された。

 製薬会社と国は、因果関係について争う姿勢を見せていたが、西ドイツでグリュネンタール社が被害補償を提示したことから、厚生省と大日本製薬は「安全性の確認とレンツ警告の対応に落ち度があったことを認め」和解が成立した。昭和4710月、日本の薬害訴訟としては過去最高額である、1人当り2800万から4000万円の賠償金の支払いが確認された。

 この国の過失責任を明確化し、恒久的福祉対策が明記されたサリドマイド訴訟は薬害訴訟の先駆的役割を果たすことになる。この和解にあたって特記すべきことは、原告被害者だけでなく、裁判に参加しなかったサリドマイド児にも損害賠償がなされたことである。サリドマイド児の認定患者は309人であった。

 サリドマイド事件は裁判という闘争を避け、和解によって救済が早期に解決したことは喜ばしいことである。しかしこれは和解であって、薬害訴訟として責任ある判決でなかったことが、その後に続く薬害を根絶できなかった要因になった。

 当時の厚生省で、患者との和解交渉に当たったのが薬務局長の松下廉蔵であった。松下廉蔵は和解時に「二度とこのような間違いは起こしません」とコメントを述べたが、その後、松下廉蔵はミドリ十字の社長に天下り、「薬害エイズ事件」を引き起こした張本人として被告の席に座ることになる。松下廉蔵はサリドマイド事件から12年後に日本最大の薬害である「薬害エイズ事件」を引き起こしたのであった。サリドマイド事件は彼にとって何の教訓にもならなかった。国民の健康を守るべき厚生官僚といえども、製薬会社の営利主義に毒されていた。

 この厚生省の松下薬務局長と対照的に比較されたのが、アメリカの食品医薬品局(FDA)の審査官だったF・C・ケルシー女史である。アメリカでも大手製薬会社からサリドマイドの販売承認の申請が14回出されていたが、ケルシー女史は製薬会社や上司からの圧力に屈せず、毒性、副作用の疑問のあるサリドマイドに製造承認を与えなかった。ケルシー女史はサリドマイドの長期投与によって多発性神経炎を起こす副作用を知っていて、妊婦が服用した際の安全性のデータがないことから承認しなかったのである。

 サリドマイドは世界各国にアザラシ肢症の薬害をもたらしたが、アメリカだけはその被害を免れた。このことからケネディー大統領はケルシー女史に「大統領市民勲章」を与えている。このニュースが伝わると、「日本には1人のレンツ博士、1人のケルシー女史もいなかったのか」と厚生省への風当たりが強まった。

 さらに厚生省の薬事審議会がイソミンの製造承認をわずか1時間半の審議で決定していたことが暴露された。また製薬会社はサリドマイドはすでに欧米で発売され、安全で効果的な薬剤と強調したが、日本で承認された時点では、サリドマイドはまだ世界では発売されていなかった。日本の新薬の承認がいかにいい加減であったのか想像できる。人間の命、健康を守るべき厚生省が、利潤追求の企業の論理に荷担したと言われても反論できないであろう。

 その当時は、国際的にも国内的にも、医薬品の審査基準には胎児への安全性の確認は義務付けられていなかった。このサリドマイド事件の教訓から、新薬の開発時には医薬品の胎児への影響、特に催奇性についての動物実験が昭和38年から法律で義務づけられることになった。

 サリドマイドはその後の研究でハンセン病に効果があることが偶然に発見され、平成10年、FDAの諮問委員会がハンセン病の癩性結節性紅斑の治療薬としてサリドマイドを制限付きで承認した。この使用制限は厳しいもので、指定された医師のみが用いること。女性患者には信頼性の高い避妊法を2種類実施し、妊娠していないことを文書で証明すること。治療期間を通して妊娠検査をすることが義務付けられた。男性患者にも妊娠可能な女性と性交渉を持つ場合にはコンドームの使用が求められた。また多発性骨髄腫を初めとした悪性疾患、エイズなどの消耗疾患、治療法のない難病にも効果があることが分かった。

 日本でもブラジルからサリドマイドを輸入し、限られた医療機関で用いられるようになった。平成12年以降、多発性骨髄腫の治療薬としてサリドマイドが投与された患者は1300人を超え、個人輸入は約378000錠以上であることが患者団体の集計から分かっている。個人輸入による服用は可能であるが未承認薬であるため、患者はおよそ月4万円の出費を強いられた。平成20年、厚労省はサリドマイドを多発性骨髄腫の治療薬として、安全管理の徹底を条件に承認することになった。

 

 

 

アイバンク開業 昭和38年(1963年)

 日本全国で視力に障害のある者は35万人で、その中で角膜が原因とされている患者は4万6000人とされている。アイバンク(目の銀行)とは角膜の障害により視力が低下した患者に、死亡した患者の角膜を提供するための公的機関である。

 ヒトが物を見るには、眼球の一番手前にある角膜を光が通過し、レンズを通り、次ぎに網膜に達して、初めて物が見える仕組みになっている。角膜とは黒目の表面を覆う直径約12ミリの透明な膜で、この角膜が病気やけがで混濁すると、光は透過できずに視力が低下する。

 このような視力障害を取り戻すには透明な角膜が必要になるが、この角膜は人工的に作ることができないので、ヒトの角膜を移植する以外に方法はない。

 角膜移植とは「角膜の混濁、外傷による角膜変形のために視力を失った患者が、他人の透明な角膜を移植すること」で網膜や視神経の病気で失明した場合には移植の適応にはならない。

 角膜移植の歴史を振り返ると、1789年にフランスのペリエ・ド・ケンシーがガラスを使って試みたのが初めとされている。その後、動物の角膜やプラスチックなどの人工角膜を使っての実験が試みられたが、いずれも失敗している。ヒトにはヒトの角膜のみが移植可能で、昭和3年にソ連のオデッサ大学のフィラトフ教授が遺体から採取した角膜を移植、以後角膜移植は世界的に普及し、昭和5年にアメリカでアイバンクが発足した。

 日本の角膜移植は、昭和2411月、岩手医科大学の今泉亀撤教授によって初めて行われた。角膜移植は遺体からの眼球摘出が必要であるが、死体から眼球を摘出することは、当時は法的に認められていなかった。今泉教授は違法を知りながら、眼科医としての使命を果たすことを優先させたのである。今泉教授は多くの失明者を救うため、 昭和31年3月に非公式の「目の銀行」を岩手医科大学に発足させ、これが全国的なアイバンクにつながった。

 昭和33年に「角膜移植に関する法律」が公布され、角膜移植のために死体から眼球を摘出することが可能になり、昭和38年に厚生省は「眼球斡旋業許可基準」を公示した。このようにアイバンクの法律的な名称は「眼球斡旋業」である。

 昭和331010日の「目の愛護デー」に日本初のアイバンクが、慶応大学と順天堂大学に開業した。アイバンクという名称から、眼球を貯蔵して分配するように誤解されやすいが、それは間違いで、角膜移植を希望する患者が安全に、円滑に公平に手術を受けられるように調整するのがアイバンクである。名称が誤解されやすいことから、角膜移植センターと呼ぶ場合がある。

 アイバンクは眼球を提供してくれる篤志家を生前に登録し、登録者が死亡した場合に遺族の同意を得て眼球を取り、移植希望者に角膜を斡旋する。移植用の角膜は、死亡後に提供されるが、角膜が透明ならば、ほとんどの角膜は移植可能である。白内障で手術を受けた者、コンタクト常用者、近視、遠視、乱視であっても移植可能である。角膜の寿命は200年とされ、親子三代にわたって使用されるほどで、提供者の年齢に制限はない。もちろんウイルス性肝炎などの感染症を持った患者は除外される。

 アイバンクに登録した人が死亡すると、医師が自宅か病院へ出向き6時間以内に眼球を摘出し、眼球が移植される病院へ運ばれる。この間、順番待ちの患者に入院してもらい、摘出後24時間以内に角膜移植手術が行われる。心臓が停止してから角膜が摘出されるので、脳死とは無関係で、角膜移植が法的に問題になったことはない。平成11年度の献眼者数は1070人、移植件数は1716件で、献眼された提供者はこれまで約2万5000人にのぼっている。

 現在、角膜移植を希望する患者は5700人とされている。角膜移植も臓器移植も、提供するかしないかは個人の意思によるもので、普段は万が一のことを考えない。しかし、海の青さや花の美しさを知らず、光のプレゼントを待っている人たちが多くいる。角膜移植を受けた人は、別世界の視力に感激している。それまでの白黒テレビがカラーテレビに変わった以上の感動である。角膜移植は比較的簡単なことから、献眼の普及が待たれている。手術の成功率は90%以上とされている。

 角膜移植は脳死問題には抵触しないが、脳死移植の影響から提供者が少なくなっている。また残念なことに、提供者が登録カードを所持しているとは限らず、登録者かどうかの確認が困難なことがある。さらに摘出された眼球のうち3割が受け入れ条件の不備や疾患を理由に移植されず、善意が無駄になっている。眼球の提供があっても、病院側の都合がつかなかったり、移植手術を受ける予定の患者の体調が悪かったり、患者が急に手術を取りやめたり、さまざまな理由がある。患者の善意に応えるため、アイバンクの機能をさらに向上させ、全国のアイバンク連絡網の確立が望まれている。日本では待機患者の3分の1しか角膜を賄えないが、アメリカでは待機患者の7倍以上の献眼者がいる。日本の献眼者が少ないことから、輸入された角膜が利用されている。角膜移植は善意の提供者に支えられており金銭の授受は一切ない。現在、各都道府県にアイバンクがあるので、献眼を希望する場合は最寄りのアイバンクに電話をすれば必要書類を送付してくれる。

 

 

 

ケネディー大統領暗殺 昭和38年(1963年)

 昭和381122日、ちょうどその日は、日米間で初めてのリレー衛星によるテレビ中継が始まる日であった。宇宙中継では史上最年少の43歳でアメリカ第35代大統領になったジョン・F・ケネディーの放映が予定されていた。当時は衛星中継とはいわず、宇宙中継と呼んでいた。

 この記念すべき日を前に、各マスコミは取材に追われていた。そこに飛び込んできたのがケネディー大統領暗殺という悲報だった。テレビはケネディー大統領を失ったアメリカ国民の悲痛ともいえる悲しみを放映した。

 大統領の座に就いて約2年半のケネディー大統領は、翌年に大統領選挙を控え、テキサス州ダラスを遊説中であった。ダラスの飛行場からジャクリーヌ夫人らとともにオープンカーに乗り、沿道の歓迎に応じながらパレードを行っていた。

 ケネディー大統領はオープンカーの後部座席に座り、熱狂的な観衆に手を振っていた。ヒューストン通りを徐行しながら左折、エルム通りに入った時に暗殺が起きた。午後0時30分、ケネディー大統領は3発の銃弾を受け、観衆の目の前で崩れ落ちた。

 1発目の弾丸はケネディーの後部から首を貫き、前席に同乗していたテキサス州知事・コナリーも重傷を負った。2発目の弾丸は右前方から頭部に命中、3発目の弾丸はケネディー大統領の頭蓋骨を吹き飛ばした。ジャクリーン夫人が車から乗り出し、散らばった脳を拾い集めようとするシーンが映し出された。自動車は全速力でパークランド病院へ向かった。

 この映像は、衝撃的ニュースとなって全世界に伝えられた。ケネディー大統領はパークランド病院で救命処置を受けたが、即死に近い状態であった。パークランド病院の6人の医師団は病理解剖を申し出るが、シークレット・サービスはこれを拒否、ワシントンの海軍病院で解剖が行われた。

 FBIと地元警察は、暗殺事件からわずか80分後に容疑者として元海兵隊員のリー・オズワルド(24)を映画館で逮捕した。オズワルドは教科書倉庫6階の角部屋から狙撃したとされているが、逮捕されたオズワルドは犯行を否認した。

 事件から2日後、郡刑務所へ移送される途中の警察の地下駐車場で、オズワルドはジャック・ルビー(52)にピストルで下腹部を撃たれて死亡した。ルビーはストリップ酒場のクラブ経営者で、そのルビーも1967年に死去、死因はがんとされているが詳細は不明である。

 アメリカ政府はアール・ウォーレン最高裁首席判事をトップとする7人委員会(ウォーレン委員会)を設置して真相の究明にあたった。1年間に及ぶウォーレン委員会の調査結果は、「オズワルドという共産主義者が、教科書倉庫ビルの6階から3発のライフル弾を撃ち込んで大統領を射殺し、またルビーには背後関係はなく、この暗殺事件はいかなる陰謀とも無関係である」というものであった。

 このケネディー大統領暗殺事件は多くの謎を含んでいた。それはパレード直前に道順を変えた警備体制、角度の違う不自然な弾道、教科書倉庫6階に2人の男性がいたという目撃証言、逮捕されたオズワルドから硝煙反応が出なかったことなどである。

 このようにオズワルドの単独犯には疑問点が多すぎた。オズワルドが射殺されて迷宮入りとなったが、この暗殺事件はFBI、CIA、軍部、政敵などによる国家機関関与の犯罪とうわさされた。

 自動車パレードの前方の陸橋付近から複数犯によって大統領が狙撃され、ライフルの発射音も背後からではなく前方から聞こえたという複数の証言があった。ビデオに映された暗殺の映像では、1発目の弾丸でケネディーの身体は前に傾き、3発目の弾丸によって後方に身体がのけぞった。このことから後方と前方の2カ所から撃たれた説が有力である。偶然と思われるが、前方から発射音が聞こえたと証言した18人が次々に変死または怪死し、このことが謎を深めた。容疑者オズワルドは共産主義者で、ソ連に住んでいたことは事実であったが、FBIまたはCIAの手先、あるいはマフィアの情報屋という状況証拠もあった。

 ケネディー暗殺の真相は不明のまま多くの陰謀説があるが、その中で最も信憑性が高いのは、ベトナム戦争の拡大を望んでいた軍需産業と石油資本による暗殺説である。ケネディー大統領の最優先政策は戦争回避で、ベトナム戦争から撤退する政策を出していた。

 ケネディー大統領の後任に、副大統領であるリンドン・ジョンソンが就任したが、このジョンソン大統領を犯人とする説が根強く残っている。ジョンソン大統領の顧問弁護士エドワード・クラークが事件後にオーストラリアの大使に任命され、さらに200万ドルを受け取っていたことが税務調査で判明。このクラークの部下であるウォレスの指紋が教科書倉庫に残されていた。ウォレスは事件直後に警察官に職務質問を受けたが、ウォレスはシークレット・サービスと答え、シークレット・サービスのバッジを見せている。このバッジは副大統領が管理しており、副大統領でなければ入手できないものであった。ジョンソン大統領陰謀説の傍証として、ケネディー大統領暗殺後のジョンソン大統領、ニクソン大統領がいずれもベトナム戦線を拡大させ、アメリカの夢を壊し、ベトナム戦争を泥沼状態に陥れたことが挙げられる。世界から尊敬されていたアメリカは、アメリカのヒーローであるケネディー大統領の死とともに消えたのである。

 ケネディー大統領の暗殺は共産主義陣営説、キューバ説、白人優越主義を唱えるKKK説など、さまざまいわれている。ウォーレン委員会が収集した膨大な資料は80年間非公開とされ、現在も国立公文書館に保管されている。ケネディー大統領暗殺の真相はアメリカの情報公開法により2029年に明らかになる予定である。

 ケネディー家はアイルランドからの移民であった。アイルランドでは100万人が餓死するほどのジャガイモの大飢饉に襲われ、飢餓のため100万人が祖国を捨て新天地アメリカへ移住し、ケネディー大統領の曽祖父も、他のアイルランド人たちとともに1849年に移住した。

 当時のケネディー家は食事に困るほど貧困な生活であった。祖父のパトリック・J・ケネディーの代になって、暮らしは良くなるが財産を築くほどではなかった。ケネディー大統領の父親ジョセフ・P・ケネディー・シニアはハーバード大学を卒業、苦労しながら銀行、映画産業で成功していた。1929年の株式市場の大暴落前に株を売り抜け、禁酒法時代に薬用アルコールの名目でウイスキーをイギリスから輸入して世界有数の富を築いた。その富は1兆円を超えていた。また政治にも関心が強く、ルーズベルト大統領を当選させるために資金を提供し、その見返りとして駐英大使に任命されている。

 1917年5月29日、ケネディー大統領はマサチューセッツ州ブルックリンで誕生。少年時代はアジソン病に侵され、ベッドの上で本を読みあさっていた。また学生時代にフットボールで背骨を痛め、この痛みに生涯悩まされることになる。1940年にハーバード大学を卒業、卒業論文ではイギリスの第二次世界大戦の準備不足を指摘した「イギリスはなぜ眠っていたか」を書き、英米で8万部を売るベストセラーとなった。

 大学を卒業すると海軍を志願し、海軍情報部に配属され、アジア太平洋戦争が始まると魚雷艇の艇長になった。ソロモン諸島沖海戦で日本の駆逐艦「天霧」に体当たりを受け撃沈するが、部下を抱きかかえながら16時間漂流して救助された。このことがアメリカで報道されると、ケネディーは一躍英雄となった。

 太平洋戦争が終わると民主党に入党、1946年マサチューセッツ州から下院議員選挙に出馬し、29歳の若さで当選する。3年後には上院議員に当選し、大統領の階段を着実に上っていった。 1953年には新聞社のカメラ記者であるジャクリーンと結婚。1957年に英雄的政治家の伝記「勇気ある人々」を執筆し、ピューリッツァー賞を受賞した。

 1960年の大統領選挙に民主党から立候補し、ケネディーはニュー・フロンティア精神をスローガンに、大衆や進歩的知識人の関心を呼んだ。歴代のアメリカの大統領は、白人のアングロ・サクソンでプロテスタントであった。ケネディーはアイルランド系でカトリック教徒であったが、このハンディをはね返すほど若くてハンサムな候補者だった。ケネディーの登場はアメリカ人を魅了し、国民に夢と希望を与えた。

 共和党大統領候補ニクソン副大統領とのテレビ討論では、防衛、経済問題が取り上げられ、ケネディーは落ち着いた若々しい身振りを交えながら新政治体制の必要性を訴えた。最優先すべき課題は戦争回避で、安全を守るためには忍耐が必要と訴えた。

 ケネディーは11万票というわずかの差でニクソン副大統領を破り大統領となった。この勝敗は、テレビ討論における演出の差だったとされている。テレビに映るニクソンはケネディーとは対照的に選挙で疲れ果てた表情であった。この討論会をラジオで聞いていた人たちのアンケート調査では、ニクソンの方が勝っていたのだった。

 ケネディー大統領は就任式で、「アメリカ国民諸君、国が諸君のために何をしてくれるかではなく、諸君が国のために何ができるかを考えなさい。世界の諸君、アメリカが何をしてくれるかではなく、人類のため、何ができるのかをみんなで考えてもらいたい」、という有名な演説を残している。大統領任期中にはキューバ危機、有人衛星打ち上げ成功、アポロ計画の立案、人種問題などがあったが、何よりもアメリカに夢をもたらした功績は大きい。ケネディー大統領は自分のためではなく、他人のため、人類のために何をすべきかを考える偉大な大統領であった。

 1963年、ワシントン大学でソ連を念頭に置いて次のような演説を行っている。「お互いの考えに違いがあることは認めよう。もし今、その違いを克服できないとしても、少なくとも多様性を認める世界をつくる努力をすることはできる。なぜなら、私たちは皆、この小さな惑星に住み、同じ空気を吸い、子供たちの未来を大切に思っているから。そして皆、やがては、死んでいく身なのだから」。この演説はソ連でも放映された。

 ケネディー大統領は46歳の若さで死去したが、ケネディー家はまるでのろわれたように多くの悲運に見舞われている。ケネディー大統領の兄ジョセフ・ケネディーは、第二次世界大戦で自ら操縦する爆撃機が墜落して29歳で死亡している。弟のロバート・ケネディーは大統領まであと一歩のところで44歳で暗殺された。末弟のエドワード・ケネディは自動車事故で秘書のコペクニー嬢を溺死させ(チャパキディック事件)、警察への連絡が遅れたことが政治家としての資質を問われ失脚。ケネディー大統領の1人息子のジョン・F・ケネディー・ジュニアは大統領が暗殺されたときまだ2歳だったが、葬儀で父親のひつぎに向かって敬礼する姿が世界中の涙を誘い、ケネディー家のシンボルになっていた。このケネディー・ジュニアは結婚式に向かう途中、小型飛行機が墜落して死亡している。

 ケネディー夫人のジャクリーヌは、アメリカ大統領夫人という栄光と地位を捨て、世界有数の大富豪オナシスと結婚した。故ケネディー大統領とは似ても似つかぬ短身肥満、高齢のギリシャ人富豪と再婚したことに世界中が驚いた。ジャクリーヌはケネディー大統領と表面上は理想的な夫婦を演じていたが、実際にはケネディー大統領との仲はうまくいってなかった。ケネディー大統領は浮気性で、何人もの愛人がいた。特にマリリン・モンローとは恋仲にあったとされ、モンローの自殺は、自殺ではなくアメリカの機密を知りすぎたために暗殺されたという説が信じられている。

 ケネディー大統領暗殺時、ジャクリーン夫人が散らばった脳を自動車から身を乗り出し拾い集めるシーンは人々の涙を誘った。しかし実際には、車から逃げ出そうと身を乗り出したのが真相とされている。そのジャクリーヌ夫人も1994年5月20日、がんにより64歳で死去している。いずれにしてもケネディー大統領が現職中のアメリカは、古き良きアメリカの時代であった。

 

 

 

三井三池炭鉱爆発事故 昭和38年(1963年)

 福岡県の大牟田市は日本最大の炭坑の街である。終戦後、日本の石炭産業が華やかに発展し、人口20万を超える大牟田市は三池炭鉱から掘り出される石炭を原料とした石炭化学コンビナートとして繁栄していた。

 「月が出た出た、月が出た、三池炭鉱の屋根に出た。あんまり煙突が高いので、さぞやお月さん煙たかろう、サノ ヨイヨイ」。この炭鉱節に唄われた大牟田市は炭坑の街であった。

 昭和3811月9日3時15分頃、大牟田市に突然、大爆発音が響きわたった。三井三池炭鉱で大爆発事故が起きたのである。三井三池炭鉱の三川鉱第1斜坑の坑口から約500メートルの坑道地点で爆発が起こり、坑口からは20メートルを超える火炎と100メートルに及ぶ黒煙が噴き出した。第1斜坑に並行して掘られている第2斜坑も爆風は吹き抜け、坑外の建物の窓枠は吹き飛ばされ、建物の鉄柱がアメのように折れ曲がった。

 坑内では落盤や出水が起こり、坑内の電気、電話、排水ポンプ、通気用の扇風機が止まった。坑内には1220人が入坑していて、一瞬の爆発により死者458人(焼死者20余人)、重軽傷者830人の大惨事となった。熊本大学、久留米大学、九州大学の救護班が現地にかけつけたが負傷者の多くは一酸化炭素(CO)中毒に罹患していた。

 三井三池炭鉱爆発事故は戦後最大の炭坑災害となった。何らかの火花が炭塵(たんじん)に引火し爆発したのである。炭塵とは石炭を掘る際に生じる石炭のちりのことで、炭車の連結器が外れて炭車が暴走し、それが高圧線に触れて火花が生じたのか、あるいは炭車とレールの間に生じた火花が炭塵に引火し爆発を引き起こしたとされている。いずれにせよ炭鉱内にたまった炭塵を取り除いていれば、あるいは水をまいて湿らせておけば、この事故は防げたはずであった。なお爆発事故と同じ日、神奈川県の国鉄東海道線鶴見付近で死者161人、負傷者120人を出す列車事故が起き、この日は「血に塗られた土曜日」と呼ばれている。

 戦後の日本経済に石炭が果たした役割は大きく、石炭は「黒いダイヤ」と呼ばれ、貴重なエネルギー源となっていた。三井三池炭鉱は良質の炭層を持ち、日本の石炭の1割弱を占め、日本のエネルギー供給源として貴重な存在であった。

 ところが事故の3年前の昭和35年、日本の「産業エネルギーは石炭から石油へ」と大きく転換、値段の安い石油が石炭不況を招いた。石油から石炭への転換に伴い、三井三池炭鉱は生き残りをかけ6000人を解雇する合理化計画を発表。組合活動家1471人を指名解雇、炭坑のロックアウトを行った。これに対し三池労組は無期限ストに入り激突した。

 従業員1万5000人、282日に及ぶ労働争議は全国から注目され、労働組合は「従来の第1組合」と「会社に協力する第2組合」に分裂、ピケを張る第1組合に第2組合員1600人が襲いかかり200人以上の重軽傷者が出る惨事となった。さらに200人の暴力団が第1組合員に襲いかかり久保清さんが刺殺され、数十人の重軽傷者を出した。

 三池闘争は「総資本と総労働の対決」とされ、さらに安保闘争と結びつき、史上最大規模の労働闘争となった。全国から労働者は応援に駆けつけ、その数は延べ35万人に達した。

 当時の池田内閣は流血の惨事を防止するため、石田博英労働大臣を事態収拾にあたらせ、中央労働委員会の斡旋により終結したが、解決までに282日に及ぶ流血状態になっていた。結局は労働者側の敗北となり合理化計画を受諾することになった。

 1万5000人だった作業員は1万人に減らされ、逆に生産量は日産8000トンから1万5000トンへと増大させた。会社側は炭塵の取り除き作業を11人から1人にしたが、この会社側の合理化が大災害をもたらしたといえる。炭鉱爆発は、「起るべくして起きた炭坑災害」とされたが、国の事故調査委員会は「企業側の責任はなし」とした。

 死者の多くは落盤と一酸化炭素中毒によるものであった。また助かった者や救助隊員にも一酸化炭素中毒の苦しみが待っていた。一酸化炭素は血液中のヘモグロビンと結合すると離れにくいため、体内の酸素供給に支障が生じ、死を免れても脳の機能障害を残すのであった。一酸化炭素中毒による意識不明者23人、意識混乱者42人、極度の記憶障害者126人であった。

 平成9年3月30日、三井石炭鉱業三池鉱業所は閉山となり、100年余にわたる歴史に幕を閉じた。石炭の国内需要はあったが、また石炭が掘り尽くされたわけではないが、海外炭坑の露天堀のコストに太刀打ちできなくなったのである。三井炭坑の労働災害は、明治26年から平成9年まで軽傷以上で37万人に達している。年に3000人以上がけがをするか死亡しており、これほど危険な職業はないのであった。

 現在、日本の炭坑のすべては廃坑になっている。大牟田市では炭鉱なき街の振興のため、テーマパーク「ネイブルランド」を作るが、これが3年で閉鎖している。三井三池炭鉱爆発事故は忘れられようとしているが、一酸化炭素中毒患者30人は現在でも大牟田労災病院に入院している。入院中の中毒患者の平均年齢は77歳で、牟田労災病院は廃院が予定されている。

 三井三池炭鉱爆発事故は、戦後の炭鉱事故で最大の被害者を出したが、これまでに最も大きな炭鉱事故は、大正3年の福岡・方城鉱のガス爆発事故で687人の犠牲者を出している。

 戦後の炭鉱事故で被害者の多い順に記すと、昭和40年6月、 福岡・山野鉱業所のガス爆発で237人が死亡。同5610月、北海道の夕張・北炭夕張新鉱坑内でガスが噴出、窒息と火災で93人が死亡▽同59年1月、三井三池坑内で火災が発生して83人が死亡▽同36年3月、 福岡・上清の坑内火災で71人が死亡▽同35年9月、福岡・豊州で元寺川が増水し、坑内に水が流入して67人が水死▽同23年6月、福岡・三菱勝田竪のガス爆で62人が死亡▽同3111月1日、北海道の赤平・雄別茂尻のガス爆発で60人が死亡▽同505月、夕張三菱南大夕張のガス爆発で62人が死亡している。

 このように炭鉱災害は犠牲者が多いこと、さらに生存しても一酸化炭素中毒という重篤な後遺症を残すことがより悲惨にしている。

 

 

 

 ヘレン・ケラー 昭和38年(1963年)

 目が見えず、耳が聞こえず、しゃべれない、この三重苦を想像できるだろうか。ヘレン・ケラーはこの三重苦を乗り越え、障害者の人権擁護、障害者の教育、社会福祉に立ち上がった女性であった。

 昭和38年、このヘレン・ケラーを描いた米国映画「奇跡の人」(アーサー・ペン監督)が日本で封切られ人々の感動をよんだ。映画は家庭教師アン・サリヴァンによってヘレン・ケラーがすべての物には名前があることを知り、それらを結びつけて人間らしい思考を得るまでを描いている。

 1880年6月27日、ヘレン・ケラーはアメリカ南部のアラバマ州タスカンビヤで生まれた。ケラー家は代々地主で裕福な家庭で、父親のアーサー・ケラーは南北戦争に大尉として従軍、後に地方紙のオーナーになっている。母のケイト・アダムスは父親より20歳若く、この夫婦の間に生まれた長女ヘレン・ケラーは、美しい田園のなかでスクスクと育ち、生後6カ月目には、「こんにちは」「お茶」などの言葉をしゃべり、1歳の誕生日には走り出すほどであった。

 しかし1歳7カ月の時、原因不明の高熱と腹痛に襲われ、一命を取り留めたが耳と目を侵され、さらにしゃべれないという3重苦を背負ってしまった。ヘレンを襲った病気は不明であるが、その症状から猩紅熱によるものとされている。

 ヘレン・ケラーはひとり闇に閉ざされ、原始的な身振りで自分の欲求を表すだけとなった。自分の気持ちを伝えられず、そのためにフラストレーションがたまり、それが怒りとなって感情を爆発させた。ケラー家の人たちは精神病院に入れることを勧めるが、両親はそれを許さなかった。各地の名医を訪ね、ヘレン・ケラーの障害を少しでも治そうとした。

 父親は教育によって人間らしい生活に戻そうとして、適任者を求めアレキサンダー・グラハム・ベルを訪ねた。ベルは電話を発明した偉人であるが、聾唖者教育の活動もしていた。ベルはパーキンス盲学校の校長に家庭教師を依頼、そこで推薦されたのが優秀な成績で卒業したばかりのアン・サリヴァンであった。

 アン・サリヴァンはアイルランドの貧しい移民の娘で、9歳の時に両親に捨てられ、孤児となって社会の底辺の人たちと救貧院で暮らしていた。またトラコーマに罹患して目が見えなくなったが、何度かの手術を受けて弱いながらも視力を回復させていた。

 1887年3月3日、アン・サリヴァンがタスカンビアの駅に降り立った。20歳のサリヴァンが7歳のヘレンに会った時、ヘレンは予想以上に怒りっぽくて乱暴だった。サリヴァンは、ヘレンに人形を抱かせ、指文字でDOLL(人形)という文字を手のひらに書いた。ヘレンは何のことか分からなかったが、繰り返しているうちにDOLLが自分の抱いている人形を意味していることを知った。このようにヘレンは3カ月で300の言葉を覚えたが、これは物を文字で表すだけで、それ以上の進歩はなかった。

 ある日、ヘレンがコップとコップに入っている水の区別ができず、サリヴァンとけんかになった。サリヴァンはヘレンをポンプ小屋に連れて行き、冷たい水にヘレンの手を当てた。そして「ウォーター」と指文字で書くと、ヘレンはじっと考え込み自分の誤りに気づいたのだった。頑固だったヘレンは心を開き、サリヴァンの教えを素直に受け入れるようになった。

 映画「奇跡の人」はヘレンが「ウォーター」と叫ぶクライマックスで終わっていて、ヘレンを奇跡の人と思い込みやすいが、原作「奇跡の人」の題名は「The Miracle Worker」つまり「奇跡をもたらした人」で、ヘレンに献身的に尽くしたサリヴァンを意味しているのである。

 サリヴァンはヘレンに読む力を与えるため、一つひとつの文字を紙に凸文字で表示し、それらを順序よく並べ、紙凸文字によって読書力を培った。ヘレンは知りたいことに興味を持ち、サリヴァンは知り得るすべてを教えた。ヘレンの思考はだんだん整理され、次に点字による学習に移った。点字は浮き出した点の組み合わせを使ってアルファベットの文字を表したものである。

 ヘレンは言葉をしゃべれなかった。ヘレンはしゃべりたいという気持ちから、サリヴァンの口の中に指を入れ、話す時の舌の位置を知ろうとした。そのためサリヴァンは何度も吐いた。

 ヘレンはボストンのホレースマン聾学校、ニューヨークのライトヒューメーソン聾唖学校でしゃべるための発音法を学ぶことになる。サリヴァンののどに手を当て、のどの振動で発音をまねた。そして11歳の春、ヘレンは It is warm today(今日は暖かです)としゃべったのである。

 ヘレンの向学心は旺盛となり、ラドクリフ大学への受験を希望した。ラドクリフ大学はハーバード大学の付属女子大学で、その卒業者はハーバードの卒業者と同等とみなされるほどの名門であった。

 大学の入学試験科目は英語、歴史、フランス語、ドイツ語、ラテン語、ギリシャ古典、代数、幾何学で、ヘレンは入学準備のためケンブリッジ市の女学校に入学。女学校ではサリヴァンも一緒に授業を受け、教師が教えることを指文字でヘレンに伝え、ヘレンは指文字で質問をサリヴァンに伝え、サリヴァンが教師に質問をする毎日となった。

 ヘレンはラテン語が得意で、数学は苦手だった。大学入学のため睡眠時間を割き、何度も指で点字を読むために指先から血が出るほどであった。

 入学試験は他の受験者と同じ問題で、違うのは彼女の問題が点字で書かれていることであった。2回にわたる入学試験の結果、ヘレンは優秀な成績でラドクリフ大学に合格した。しかし試験の合格がイコール入学許可ではなかった。入学には大学の理事会の許可が必要だった。ラドクリフ大学は保守的で、学生部長はこれまでの慣例を変えたくなかった。障害を持つヘレンは大学生活を送れないとして、ヘレンにラドクリフ大学で学問を学ぶよりもひとりで勉強したほうがよいと忠告した。

 ラドクリフ大学が受け入れを迷っているうちに、コーネル大学とシカゴ大学から奨学金の申し出があったが、ヘレンはその申し出を辞退した。ヘレンには成績で合格したのに入学を渋るラドクリフ大学に対しプライドがあった。障害者の地位を守るために、引き下がることはできなかった。結局、ラドクリフ大学の新入生の名簿にヘレン・ケラーの名前がのったのである。ヘレン21歳、大学の歴史始まって以来のことと新聞は賞賛した。

 大学生活でサリバンはいつもヘレンに付き添い、大学の講義、友人の会話をヘレンの手のひらでせわしく指を動かした。190410月にヘレンは極めて優秀な成績でラドクリフ大学を卒業、視聴覚障害者として優等文学士の学位を取得した。

 卒業時、ちょうどセントルイス博覧会が開催されており、ヘレンの卒業を祝して「ヘレン・ケラー・デー」を設けヘレンの講演会が予定された。聴覚障害者がものをしゃべる「奇跡の人ヘレン」、この演説を聞こうと聴衆は詰めかけた。大講堂に入りきれない聴衆は、折り重なるように会場の窓から中をのぞき込んだ。ヘレンは生まれて初めて、力一杯声を張り上げた。

 だが自分で自分の声が聞こえないため、壇上の声は弱く、そばにいた人が辛うじて聞こえる程度だった。博覧会会長のフランシスがヘレンの声を大声で復唱して聴衆に伝えた。大講堂にあふれた聴衆は目の前の奇跡に驚き感激した。演説が終わると聴衆はヘレンのもとに殺到し、この騒ぎで警察官が出動したほどである。「トム・ソーヤの冒険」の小説で有名な作家、マーク・トウェインはヘレン・ケラーを「19世紀の奇跡」とたたえた。

 ヘレンはその後40数年間、アメリカ国内ばかりでなく世界各国で講演を行った。1000回以上の講演を行い、視聴覚障害者の教育と福祉を訴えた。ヘレンの社会活動は、講演にとどまらず、訪問した国々に大きな影響を与えた。訪問を受けた国ではヘレンの来訪を記念し、視聴覚障害者のために福祉事業を実現していった。ヘレンはアメリカ盲財団に協力し、盲人救済のための資金援助を行った。

 ヘレンは講演だけでなく多くの本を書いている。ヘレンの著書は大学在学中に執筆した「楽天主義」、「私の生涯の物語」をはじめ読者に多くの感動を与えた。1905年の随筆「暗黒より出でて」のほか、1908年「私の住む世界」、1910年自由詩「石壁の歌」、1913年「暗闇を抜けて」、1927年「私の宗教」、1930年「中流」、「私の近頃の生活」、1933年「夕暮の平和」、1938年「日誌」、1940年「われら信仰を持たん」などがある。いずれも出版と同時に多くの人から愛読された。

 ヘレンは世界的に有名な女性となった。詩人、作家、思想家、講演家として世界中の目や耳や口の不自由な人に大きな励ましと勇気を与えた。たとえ重度の障害を背負っても、障害を諦めるのではなく、人生を投げ出すのではなく、人生に希望と勇気を持つことを教えてくれた。それは人生そのものに夢と希望を与えてくれるものであった。ヘレンは三重苦を克服した経験を通して、世界に支援を訴え続けたのである。

 ヘレンはフィラデルフィアのテンプル大学から人文学博士号を、英国グラスゴー大学から法学博士号の称号を受けた。サリヴァンも同じ学位を贈られたが、サリヴァンは自分にはその資格がないとして辞退し、再三の薦めによって翌年になって博士号を受理した。

 ヘレンは平和論者として有名であった。戦争に反対し、福祉事業を唱え、恵まれない人達のために献身的に行動した。しかしアメリカの大戦参加に反対したため、一部の人たちから中傷を受けたが、ひるまずに平和主義を訴え続けた。さらに人種差別に反対し、婦人参政権を主張した。

 ヘレン・ケラーの生涯は幾多の苦難に満ちていたが、サリヴァンに助けられながら希望と努力によって乗り越えた。苦悩や困難に遭遇しても希望を捨てなかったのは、正しいと思ったことを曲げない強い信念からであであった。また彼女特有の楽天主義が困難を軽く受け止めていたのである。

 このヘレンにも心を悩ますことがあった。ヘレンが37歳の夏、秘書を務めていた年下の青年から愛の告白を受けた時のことである。その青年は社会主義的な思想を持ち、ヘレンは青年の考えに同調したが、母親の猛反対で恋愛感情を捨てなければいけなかった。

 昭和111020日、ヘレンを「世紀の奇跡」に育て上げたサリヴァンがその生涯を70歳で閉じた。ヘレンはサリヴァンの手を握りながら泣き崩れた。楽天主義を唱えるヘレンもこの痛手は大きかった。

 昭和23年8月、ヘレンはマッカーサーの賓客として日本を訪れ、日本各地で講演旅行を行った。ヘレンは3度来日して、日本に身体障害者更生事業である「東京ヘレン・ケラー協会やヘレン財団」を立ち上げている。昭和43年6月1日、ヘレンは87歳で死去するが、その慈愛に満ちた勇気は私たちの心の中で生きている。ヘレンの出生の地はヘレン・ケラー記念公園になっている。

 

 

 

街頭テレビと力道山刺殺事件 昭和38年(1963年)

 戦後の荒廃した日本に、日本人としての誇りと勇気を与えてくれた人物として、ノーベル賞を受賞した湯川秀樹、全米水泳選手権大会で優勝した古橋廣之進(フジヤマのトビウオ)、リンゴの唄の並木路子、天才少女歌手の美空ひばり、そしてプロレスの力道山を挙げることができる。

 彼らは敗戦で打ちひしがれた日本人に、日本人としての誇りとアイデンティティーをもたらした。湯川秀樹を除き、彼らの功績は決して教科書に載るようなものではないが、精神的な面での功績は計り知れず、戦後の日本における精神的功労者といえる。また戦後史において、民衆を熱狂させた彼らの存在を忘れることはできない。その中で力道山はまさに国民的英雄であった。力道山はテレビの時代の始まりと重なり、プロレス興行はテレビによって発展し、テレビもまたプロレスによって普及した。

 昭和28年2月1日、NHKがテレビ放送を開始し、同年8月には日本テレビ放送網(NTV)が初の民間テレビ局として誕生した。早川電機(現・シャープ)から白黒テレビ第1号が発売されたが、テレビの値段は14インチ型で175000円だった。当時の大卒の初任給が5000円だったことから、テレビは庶民にとってまさに高嶺の花であった。

 放送開始時のテレビ契約数は全国で866台、受信料は月200円だった。このようにまだテレビが普及する前に、NTVの正力松太郎が考えたのが街頭テレビの設置だった。関東を中心に駅前や広場などの高い柱の上に278台のテレビを設置し、人々は1台のテレビに群がるように集まった。

 新宿の街頭テレビの前には黒山の群衆が集まり、そのため都電が止まるほどであった。1027日の白井義男のボクシング・フライ級世界タイトルマッチでは、「街頭のみなさん、押し合わないでください」とテレビのアナウンサーが注意するほどであった。

 テレビ中継では、相撲、プロ野球、プロボクシングなどのスポーツ中継が人気を得ていたが、最も人々を熱狂させたのが力道山のプロレス中継であった。東京・有楽町の日本劇場前に設置された1台の街頭テレビに1万人近くが集まり、プロレスのヒーロー力道山の中継に群衆はくぎ付けになった。

 昭和29年2月19日、NHKと日本テレビは「力道山・木村政彦 対 シャープ兄弟」のNWA世界タッグ選手権を東京・蔵前国技館から中継。力道山は柔道から転身した木村政彦7段と組み、米国のシャープ兄弟が持つ世界タッグ選手権に挑戦した。この世界タッグ選手権に数万人の群集が各地の街頭テレビを取り巻いた。なにしろ世界選手権である。人々は歓声を上げて力道山を応援した。

 敗戦で打ちひしがれた民衆、アメリカ占領下に置かれた民衆は、リングでのプロレスをかつての戦争と重ね合わせて声援した。外人レスラーを空手チョップで倒す力道山に人気が集まり、プロレスの大ブームとなった。

 力道山は悪党アメリカ人レスラーの反則を何度も受けながら、反則に動じる様子を見せず、最後に得意の空手チョップで巨漢のアメリカ人レスラーを倒していった。それは悪を退治する正義の味方、勧善懲悪のシナリオであった。鬼畜米英の記憶が残っている民衆にとって、悪役のアメリカ人レスラーをたたきのめす力道山に敗戦の憂さを晴らし、また外人コンプレックスを跳ね返してくれる演出に熱狂した。まさに敗戦のショックからの解放であった。

 力道山はブラウン管の英雄となり、プロレス中継は加熱した。同年1222日、蔵前国技館で実力日本一をかけた日本選手権試合が行われた。力道山と木村政彦の試合は巌流島の決闘と呼ばれ、「相撲の力道山が勝つか、柔道の木村が勝つか」と日本中が試合に注目した。スポーツ紙だけでなく一般紙もあおり立て、蔵前国技館は1万5000人の観衆で埋まった。

 力道山は怪力で木村を投げ、終始優勢のうちに試合が進められた。ところが13分過ぎ、木村が急所蹴りの反則をしたことから流れが急展した。怒った力道山は容赦なく空手チョップを連発して木村を倒したのだった。木村はテン・カウントでも動くことができず、勝者となった力道山は名実ともに日本のプロレスラーのトップに立った。

 昭和30年は神武景気が始まった年である。プロレスの人気とともにテレビも普及し、街頭テレビの時代は、テレビのある裕福な家に近所の人々が集まる「近隣テレビ時代」となった。3210月7日、力道山はNWA認定世界ヘビー級チャンピオン・鉄人ルー・テーズと試合を行い、時間切れで引き分けたが、翌年8月27日の世界ヘビー級選手権試合ではルー・テーズを倒している。

 テレビの受像機は値段が下がり、昭和34年4月10日の皇太子明仁親王(現天皇陛下)と正田美智子さま(同皇后陛下)の御成婚パレードのときにはテレビは一気に普及し、どの家にもテレビがある「お茶の間テレビ時代」になった。御成婚パレードにおける沿道の観衆は50万人、テレビの視聴者は1500万人となった。折からのミッチー(美智子さま)ブームと重なり、御成婚パレードを自宅で見ようと、この年の1年だけでテレビ受信契約は200万台となった。

 昭和35年9月10日にはカラーテレビ放送が始まり、テレビの黄金時代を迎えた。テレビが新しい文化、新しい時代をつくろうとしていた。37年3月28日、力道山と吸血鬼ブラッシーの試合が行われ、試合は流血戦となり、テレビを見ていた6人の老人がショック死したほどである。またプロレスは大人だけでなく子供も夢中にさせ、子供たちの間でプロレスごっこが流行した。

 昭和38年5月24日、日本テレビで「WWA世界選手権、ザ・デストロイヤー 対 力道山」が放送された。この試合は日本初のテキサス・デスマッチ・ルール(時間無制限一本勝負)で、歴代5位(64.0%)の視聴率を記録した。試合はデストロイヤーが持つWWA世界ヘビー級選手権がかけられ、2815秒にわたる大流血死闘の末レフェリーストップで引き分けとなった。

 昭和38年6月5日、プロレスという新しい分野を日本に導入した力道山は東京・赤坂のホテル・オークラで元日航国際線スチュワーデスの田中敬子さん(21)と豪華な結婚式を挙げた。結婚式には有名人のほとんどが出席したほどの豪華さであった。この結婚式が力道山の幸せの頂点であった。結婚式からわずか半年後のことである。絶頂期にあった力道山に突然の悲劇が待っていた。

 昭和3812月8日午後1110分頃のことである。力道山は赤坂のナイトクラブ「ニュー・ラテン・クォーター」の洗面所前の通路で、住吉連合系暴力団の大日本興業組員・村田勝志(24)に刃渡り13センチの登山ナイフで腹を刺されたのである。村田はトイレに立った力道山に足を踏まれ口論となり、腹を刺したとされている。

 力道山はニュー・ラテン・クォーターの常連で、ナイトクラブでは傍若無人に振る舞っていた。力道山は酒癖が悪く、他の客にけんかを吹っかけたりしていた。村田は力道山にからまれ殴られたので、必死で刺したと述べている。腹を刺された力道山は、タオルで傷を押さえながら赤坂の山王病院に運ばれた。山王病院に向かったのは山王病院の院長と以前から知り合いだったからであるが、山王病院には外科の医師がいなかった。

 そのため聖路加病院の外科医長が呼ばれ手術が行われた。力道山は一時は新聞を読むまでに回復したが、1週間後の15日、腹膜炎から腸閉塞を併発し再手術、手術中にショック状態になり帰らぬ人となった。享年39、無敵の英雄のあっけない最後だった。

 国民的英雄となった力道山は、大正131114日、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)で生まれ、本名を金信洛、日本名を百田光浩といった。力道山が朝鮮人であることは力道山の死後に分かったことで、日本人のほとんどは力道山を日本人と思っていた。

 力道山は子供の時から力が強く、体格もよく朝鮮相撲(シルム)の勇者として知られていた。近くに住む日本人警察官にスカウトされ、昭和14年に日本に渡り、二所ノ関部屋に入門し、新入幕から3年で関脇に昇進し、大関間違いなしといわれていた。

 ところが昭和25年、力道山は自宅で突然まげを切り落とし、大相撲の世界と決別した。二所ノ関部屋との意見の対立、朝鮮人としての差別が決別の理由とされている。関脇で相撲を辞めるまでの通算成績は1358215休で、幕内在位は11場所であった。

 相撲界を去った力道山はタニマチの新田建設会社・新田新作社長の元に身を寄せることになる。ちょうどそのころ、朝鮮国連軍慰問のため東京・両国で米国人プロレスの興行があった。力道山はそれを見てすぐにプロレスラーを目指すことになる。

 プロレス入りを決意すると、新田新作社長の支援を受け、昭和27年にプロレス修行のために渡米。米国では名レフェリーである沖識名(おき・しきな)についてトレーニングと技を学んだ。米国を転戦して300295勝5敗という堂々たる成績を残し、さらに空手チョップの技を生み出し、翌年3月6日に帰国した。力道山は「日本プロレス協会」を発足させ、日本人によるプロレス興行のシステムを確立させた。力道山はプロレスの興行師としてらつ腕を振るった。

 プロレスはいわゆる純粋なスポーツではなく、ショー的要素が大きかった。そのためアメリカではマット・ショー(mat show)と呼ばれ、プロレスは勝敗だけでなく、演技力が評価されるビジネスとなっていた。力道山は世界から商売になるレスラーを日本に招待し、興行を成功させていった。

 力道山を刺殺した村田勝志は1審で12年、2審で8年、最高裁で懲役7年の判決を言い渡され刑に服した。事件当日、村田の所属する住吉連合系のトップと、力道山に近い東声会の兄貴分である山口組の田岡一雄との間で話し合いが持たれ事なきを得ている。

 村田は服役後、村田組の組長として都内に事務所を構えたが、毎年、力道山の命日の翌日に人目を避け、力道山が眠る大田区・池上本門寺に参っている。村田は世界一強い力道山を殺害したとする周囲のおだてに乗らず、国民的英雄を殺傷した後悔の念がより強かった。

 力道山刺殺事件の裁判で、力道山を手術したという医師と麻酔を担当した医師が証人として出廷している。手術した医師は、手術中に麻酔薬を投与したら血圧が下がってショック状態になり死亡したと証言した。麻酔医は麻酔薬を通常の倍くらい使ったと証言したが、その証拠であるカルテは提出されなかった。

 平成5年、岐阜大学医学部の土肥修司教授が著書「麻酔と蘇生」(中央公論社)を出版。この中で力道山の死因について、「力道山の死は出血でもショックでもなく、麻酔を担当した外科医が気管内挿管に失敗したから」と書いている。

 麻酔医は気管内挿管のときに筋弛緩薬を用いるが、「麻酔医が気管内挿管に失敗したため力道山は呼吸ができず、無酸素状態となり死亡した」としている。筋弛緩剤は気管内挿管時に、身体の筋肉を弛緩させる薬剤である。全身麻酔を必要とする手術の場合、筋弛緩剤を投与して挿管チューブを気道に入れ、人工呼吸を行うのが一般的である。土肥教授によれば、力道山は筋弛緩剤によって筋肉は弛緩したが、首が太いため気道が広がらずチューブの挿入に失敗したとしている。土肥教授は力道山の手術について当時の関係者から事情を聴き、専門医として調査結果を発表したのだった。

 平成15年7月、力道山夫人の田中敬子が「夫・力道山の慟哭(双葉社)」を出版している。力道山は日本プロレスの父であり、世界の16文・ジャイアント馬場、燃える闘魂・アントニオ猪木の師匠としても有名である。

 

 

 

キセナラミン事件 昭和38年(1963年)

 名古屋市に本社を置く興和が、風邪の新薬・キセナラミンを社員に内服させ、その副作用で17人が入院、1人が死亡していたことが発覚した。人体実験ともいえるこの事件は、女性社員の内部告発で明らかになった。

 昭和40年3月24日、興和の社員だった薬剤師の中村晴子さん(24)は、興和が自社の社員に、新薬の人体実験をしたとして東京法務局・人権擁護部に内部告発を行った。共立薬科大学を卒業し入社2年目の中村さんは、同社の東京薬品部の企画課に勤務、そこで今回の新薬の人体実験を知ったのである。

 中村晴子さんの告発により、昭和38年に興和が187人の社員に、新薬キセナラミンを強制的に内服させ、副作用により多数の被害者を出していたことが明らかになった。興和は新薬の効果を調べるため、ひそかに社内で臨床試験を行っていたのだった。

 この事件は中村晴子さんの告発が新聞に載り表ざたになったが、企業内で行われる臨床試験はよほどのことがない限り外部に漏れることはない。今回、もしこれほどの副作用がなかったら告発は免れていたであろう。ここで問題になるのは、副作用とは関係なしに自社社員を使って新薬の臨床試験を行っていたことである。

 新薬の開発に自社社員を用いることは当時の製薬会社では日常的に行われていたが、社員を用いた臨床試験では、新薬の効果が証明されたとしてもその効果は信用できなかった。また薬剤による副作用が出た場合には、副作用そのものがもみ消される可能性があった。社員にとって治験への参加は断りにくく、断れば冷遇や左遷が待っていた。社員の愛社精神を利用した非人道的行為であった。興和はキセナラミンの臨床試験で死者まで出していたのである。人体実験、人間モルモットと非難されても反論はできないであろう。

 社員の弱点を利用した会社の態度に卑劣さを感じるが、キセナラミンはイタリアの研究者・マグラッシュが昭和34年に開発した薬品である。インフルエンザ、水痘、麻疹などのウイルス性疾患に効果があるとされ、それまでに製薬会社数社がキセナラミンの開発、販売を試みたが、毒性が強いことから断念していた。しかし興和はこのキセナラミンの合成法を独自に開発し、抗ウイルス剤として開発に着手していた。興和は風邪薬であるコルゲンコーワで有名な会社だが、これまでの風邪薬は、風邪の症状を緩和させるだけで、ウイルスに直接効果のある薬剤は存在していなかった。もし興和が抗ウイルス剤を完成すれば、それこそ画期的な薬剤になるはずだった。キセナラミンの開発に興和首脳陣が色めき立ったのは当然のことであった。

 興和はこの新薬開発に意欲を示し、キセナラミンの臨床研究を東北大学内科の中村隆教授を中心とする著名なウイルス研究者に依頼した。中村教授を班長としたウイルス病化学療法研究班20人が結成され、興和から研究費を受けて臨床試験に踏み切った。

 中村教授は東北大学病院内科に入院している22人の患者にキセナラミンを投与し、1人に肝障害を認めたが、ほかには特別な副作用は認められなかったと公表している。さらに61人の患者にキセナラミンの投与し、ウイルス性疾患に有効としていた。そこでキセナラミンの安全性を確実にするため、興和は自社社員を用いてキセナラミンを投与することになった。

 昭和381015日、興和は名古屋本社と東京支社薬品部に男女207人の社員を集め、キセナラミン服用の説明を行った。勅使川厚学術部長、佐々木信元課長が責任者となり207人の社員はシート14枚、124錠のキセナラミンが渡され、2週間の内服が言い渡された。臨床実験は上司により強制的に人選が行われ、参加するかどうかの選択権はなかった。事前の身体検査は行われず、医師の立ち会いはなく、投与は上司の監視下で行われた。さらにお粗末なことに、キセナラミンの内服量は1日1グラムであったが、間違って倍量の2グラムが投与された。

 社員には「キセナラミンはすでにイタリアで市販されている安全な風邪薬で、副作用はこれまで認められていない」と佐々木課長が説明した。なお胎児への副作用は調べられていないので、結婚直後の女性、妊娠予定の女性は除かれることになった。

 この臨床試験は実薬(キセナラミン)と偽薬(プラシーボ)を無作為に投与する二重盲検法と呼ばれる方法で行われた。207人の社員のうち実際に実薬のキセナラミンが投与されたのは半数の104人で残り103人には偽薬が投与された。この二重盲検法による臨床試験では、薬剤を内服した者も、また薬剤を投与した試験者も、その錠剤が実薬か偽薬か分からないようになっていた。臨床試験が終了した時点で、投与したのが実薬だったのか偽薬だったのかを調べ、薬剤の効果と副作用を調べる方法であった。二重盲検法は薬剤の効果と副作用を調べる上で最も優れた臨床試験であった。

 佐々木課長は社員に「キセナラミンには副作用はない」と断言したが、投薬数日後から頭痛、食欲不振、全身倦怠感などを訴える社員が出てきた。それでも上司の命令によって治験は中止されず、症状を訴える社員には胃腸薬などを飲ませながら治験は続行された。

 キセナラミンを内服した104人のうち76人(73%)が副作用を訴え、17人が入院、1人が死亡する事態に至った。東大伝研付属病院に入院していた東京薬品部宣伝課の内田美穂子さん(24)が服用後4カ月後に骨硬化症と急性肺炎で死亡した。この死因とキセナラミンとの関連性は不明であるが、何らかの因果関係があったのではないかとされている。

 入院した17人の社員のほとんどが肝障害をきたし、17人全員が1カ月以上、最長では1年半にわたる長期入院を余儀なくされた。社員たちは安全な風邪薬と説明され、気楽な気持ちで臨床実験に参加したのに、まさか副作用があるとは思いもしなかったことである。

 女性社員の中村晴子さんが東京法務局・人権擁護部に内部告発したのは事件から1年半後のことである。告発したのは、厚生省がこの事件に何ら対応せず、同様の事件の再発が予想されたからであった。中村さんは新薬開発の名目で行われた治験を人権侵害と訴えたが、別の反応を示す社員もいた。

 当時の製薬会社では、新薬を社員が試すことは慣例になっていた。また強制されなくても、会社との信頼関係で「新薬を内服するのは当然」とする社員が多かった。「お菓子屋が新しいお菓子を試作する際に、店員が試食するのと同じ感覚で参加した」と述べる社員もいた。

 この事件に先立ち、東北大学の中村隆教授が中心となって設立した「ウイルス病化学療法研究班」が入院患者61例に行った臨床実験では、特別な副作用は出現していない。同じキセナラミンなのに、なぜ73%の社員に副作用が出たのかは解明されていない。投与量が倍量だったことが関係しているのかもしれないが、原因解明の猶予もなくキセナラミンの開発は中止となった。

 この事件は中村晴子さんの内部告発で明るみに出たが、営利企業である製薬会社にとって社員への人権の意識は薄かった。社員にすれば治験を断ることは愛社精神を疑われ、副作用や事故が起きたとしても自社を訴えることは会社を敵に回すことになった。

 法務局はこの事件について、臨床試験前の検討が不十分であったこと、被験者が強制的であったこと、医師による管理が不十分であったことを問題にした。昭和40年5月、被害者の入院費などの治療費を会社が全額支払うことなどを明記した念書が、会社と被害者社員の間で交わされた。

 このように被害者社員の治療費については解決したが、この事件の責任の所在があやふやのままとなった。薬事法によると厚生省が薬剤に責任を持つのは「薬剤として承認され、発売された後の薬剤」についてである。承認以前の開発中の薬剤については厚生省への報告の義務はなく、法律上厚生省に責任はなかった。厚生省は会社から事件の報告を受けておらず、新聞で初めて知ったのである。

 薬剤として発売されていれば使用した医師の責任も問われるが、開発段階の薬剤の責任は明確にされていない。新薬開発における薬事行政の盲点であった。新薬を開発するためには何らかの人体実験が必要である。動物実験で安全性が確保されたとしても、人間と動物では薬剤効果が異なることが多い。人体実験が新薬開発に不可避ならば、なおのこと新薬の開発には人権を尊重することに徹することが必須となる。

 キセナラミン事件は製薬会社の利潤追求と人間軽視が根底にあった。被験者側の人権が軽視されれば、新薬開発のために人間がモルモットとなってしまう。新薬開発において最も尊重すべきは危険を伴う被験者の人権であった。会社から安全な薬剤と説明を受け、キセナラミンを内服した社員に、興和の道義的責任が強く問われる事件であった。

 興和の人体実験はこの事件によって表ざたになったが、社員を対象にした新薬の開発の実験は、他の製薬企業でも日常的に行われていた。厚生省はこの事件後に通達を出し、強制的な人体実験はできなくなったが、逆に社員の承諾書があれば社内で堂々と行われるようになった。

 この事件は被害者が多かったこと、企業が威圧的に事件を隠蔽しようとしたことから中村晴子さんが内部告発をしたのである。なお中村晴子さんは退社後、薬事関係専門の弁護士になった。

 

 

 

スモン(慢性キノホルム剤中毒) 昭和39年(1964年)

 昭和33年頃から、原因不明の「奇妙なしびれ病」が全国各地で見られるようになった。この奇妙な疾患は、下痢や激しい腹痛などが2週間ぐらい続き、さらに足の裏からピリピリするような異常知覚が出現。このしびれが両下肢の先端から次第に上行し、腹部、胸部へ広がり、さらに進行すると患者は筋肉の脱力から歩行困難となった。やや遅れて視力障害、膀胱直腸障害、中枢神経などの障害をきたして死に至った。

 「奇妙なしびれ病」は、昭和36年に国民皆保険制度が実施されると、急カーブで増加した。昭和36年の患者総数は153人であったが、40年の年間患者発生数は450人を超え、さらに4年後の44年には年間患者発生数が2300人で、累計患者数は7300人に達するほどであった。昭和47年まで患者は発生し、登録された患者総数は9249人となった。

 この疾患の最初の報告は、昭和33年に和歌山県立医大・楠井賢造教授が近畿精神神経学会総会で発表した症例である。その演題名は「多発性神経炎様症状を伴った頑固な出血性下痢の治癒した1症例」であった。

 この腹部症状、末梢神経症状、視力障害を特徴とする疾患は、当時はまだ独立した疾患とは認められず、「非特異性脳脊髄炎」「神経症状を伴った大腸炎」などさまざまな病名で呼ばれていた。この楠井教授の報告以降、同様の症状患者が内科学会などで次々に発表され、病気の輪郭が次第に明らかになった。

 昭和39年5月、日本内科学会総会でこの奇病がシンポジウムとして取り上げられ、臨床所見と病理所見から独立した新たの疾患と認められたが、全く謎に包まれていた。患者の症状に基づき亜急性脊髄視神経神経症(subacute myelo-optico-neuropathy)と名付けられ、ラテン語の頭文字をつなぎスモン(SMON)と呼ぶようになった。この「奇妙なしびれ病」の特徴は、特定の地域で集団発生することであった。昭和32年に山形市で、34年に大牟田、津の両市で、38年に釧路、室蘭、札幌、米沢、徳島の各市で、39年に埼玉県・戸田ボート場周辺で、44年には岡山県井原市で、このように日本各地で集団発生した。地域による集団発生からマスコミは風土病の一種と報道、釧路病などの名前で呼ばれた。

 スモンが日本中の関心を集めたのは、昭和39年に埼玉県・戸田ボート場付近で46人の患者が集団発症したことを朝日新聞がセンセーショナルに報道したことである。この報道は東京オリンピック開幕前の7月24日で、このしびれ病がオリンピックのボートコース周辺で多発していると報じたのである。この集団発症は「戸田の奇病」と呼ばれた。

 スモンは限られた地区に発生したことから風土病とされていたが、日本各地で患者が増加するにつれ感染説が有力となった。その他、ビタミン欠乏説、鉱毒説、農薬説、アレルギー説、代謝障害説などがあったが、多くの研究者はスモンをウイルス感染と考えていた。伝染病を思わせる地域集積性と家族集積性がそろっていたからである。

 そのため昭和39年に結成されたスモン研究班の班員は、感染症の専門家で占められ、研究者たちはスモンの病原菌を発見しようと躍起になった。翌40年、久留米大学・新宮助教授は患者の血液、髄液からウイルスを分離したと発表。また神経学会会長である京都大学・前川孫次郎教授は神経学会の特別講演で、スモンは伝染病であることは明確で、スモンを伝染性索脊髄炎あるいは伝染性白質脊髄炎と呼ぶことを提案した。

 昭和44年の公衆衛生学会でスモン感染説が発表され、人から人への感染によりスモンは今後増加するだろうと警告された。スモン・ウイルス説は確定には至らなかったが、医学界の大多数が支持していた。岡山大学医学部は、岡山県井原市のスモン集団発生の状況を調査しウイルス感染を住民に警告した。

 このような医学界の動きにより、地方自治体の中には感染予防を住民に警告するところが現れ、市の広報でスモン感染への注意が呼びかけられた。そのためスモン患者は社会から差別と排除を受けることになった。スモン患者は失業、離婚、破談、隔離され、周囲の冷たい視線を浴びながら孤独と絶望の中で心の支えを失っていた。

 スモン研究班は、スモン・ウイルス説を疑わず、原因ウイルスを誰が最初に発見するかが関心の的になっていた。このような時、昭和45年2月6日の朝日新聞は、「スモン病ウイルス感染説」を朝刊のトップ記事で報道した。京都大学医学部・井上幸重助教授がスモン患者の便から新型ウイルスを分離し、分離したウイルスをハムスターに接種してスモン様の変化を起こすことに成功したと報じたのである。

 この報道によりスモン・ウイルス説は揺るぎないものとなり、原因ウイルスの発見はスモンの治療に朗報をもたらすと新聞は書いた。井上助教授の発表から4カ月後、ウイルスの電子顕微鏡写真が報道され、厚生省はスモンに伝染病予防法を適応すると発表した。

 これらの報道がスモン患者や家族に与えた影響は大きかった。スモンは治療法のない難病で、しかも他人に感染させることが絶望へと導いた。スモンで亡くなった患者の葬儀には手伝いに行く者がいなくなり、スモンを抱えた家族の縁談は破談となり、患者が買い物に行っても店は現金を受け取ろうとしなかった。

 患者の家には誰も寄りつかず、医療機関も患者を避けるようになった。スモン患者は病気の苦難に加え、周囲の差別、さらには一家離散に苦しむことになった。患者の苦悩は極限に達し、絶望の中で500人以上の患者が自殺している。

 根拠のない医学者のコメントにより、一般人までがウイルス感染説を信じ、スモン患者への偏見を強めることになった。しかしこのウイルス発見は、その後、急展開を迎え、スモン感染説は誰もが予想しなかった展開で否定されることになった。

 田村善蔵・東大薬学部教授はウイルス説に懐疑的で、スモン病患者に特徴的な症状である緑色舌苔、緑色便、緑色尿に注目していた。東大グループはスモン患者から分離した舌の緑色色素を分析し、その色素の本体がキノホルムと鉄イオンの結合体であることを明らかにした。田村教授は舌の緑色変化がキノホルムによるものとスモン調査研究協議会に報告するが、ウイルス説が大勢を占めていた研究会では、スモンとは関係ないとされた。

 新たな難題が待ち受けていた。腹痛、下痢が主な症状であるスモンの治療薬として、ほとんどの患者がキノホルムを内服していたからである。このため患者の舌からキノホルムが検出されても当然とされた。緑色舌苔はスモン患者が整腸剤であるキノホルムを用いた偶然の結果で、原因ではないとの考えが支配的であった。

 キノホルムは水に溶けにくく、体内にはほとんど吸収されない安全な薬とされていた。そのため病院、医院だけでなく大衆薬の整腸剤にもキノホルムが含まれ、下痢の患者に使われていた。しかしこの発見により、スモンのキノホルム説が急上昇することになる。入院中のスモン患者はすべてキノホルムを毎日1.2g以上服用していた。

 新潟大学・椿忠雄教授はスモンとキノホルムとの因果関係を重視し、直ちに新潟、長野両県でキノホルム患者の服用歴の調査を行った。

 その結果、<1>スモン病のほとんどの患者が、発症前にキノホルムを大量に内服していた<2>キノホルムの服用量が多い者ほど、服用期間が長い者ほどスモンの重症例が多い<3>キノホルムを中止すると改善に向かう患者が多い<4>キノホルムの服用によりスモンと同様の発症例が戦前に報告されている。このことから、昭和45年8月、椿教授はスモン病の原因はキノホルムであると厚生省に報告した。同月7日の朝日新聞に「スモン病の症状悪化に整腸剤が一役」との見出しで報道された。

 昭和45年9月5日、椿教授は日本神経学会でスモンのキノホルム説を発表。同7日、厚生省は「結論が出るまでは、同剤の使用を見合わせるべき」とし、同時にキノホルム剤の販売を一時中止するように通達を出した。患者の緑舌に注目し、スモンの原因が急速に進んだことから、「緑舌はスモン解明のみどりの窓口」とたたえられた。

 急上昇を続けていたスモン患者の発生は、この日を境に激減した。昭和45年の1月から8月までの患者発生数は1276人であったが、9月7日の販売中止から4カ月間に新たに発症した患者数は23人に激減し、翌46年以降の患者数はゼロになった。

 このことから医学界もスモン・キノホルム説に傾くようになった。またサル、イヌ、ネコの動物実験でもスモン様の神経症状をつくることができた。昭和47年3月12日、厚生省スモン調査協議会は、スモンをキノホルム中毒が原因と正式に認める発表を行った。椿教授は疫学調査だけでスモンの原因を突き止めたが、もしキノホルム説が間違っていれば学者生命を断たれていたであろう。よほどの自信と患者を救いたいという決意があったのだろう。

 キノホルムは1889年、コールタールに含まれるキノリンが殺菌効果を持つことにスイスのバーゼル社が注目、傷口に塗る外用の消毒薬として開発された。日本では、昭和5年頃からアメーバ赤痢の治療薬として市販され、投与疾患はアメーバ赤痢に限られ、投与量は1日0.75gが極量で、使用は厳しく制限されていた。アメーバ赤痢の症例は国内では少なかったため、太平洋戦争で日本軍が南方に進出した際に使用された例がほとんどであった。戦前は劇薬の指定を受けていたが、戦後も売り続けられた。しかしアメーバ赤痢の患者は少なく、内服期間も短かったため、副作用は極めて少ないとされ、そのため薬事審議会にかけられることなく劇薬指定が解除されることになった。

 製薬会社はキノホルムの売り上げを伸ばすため、アメーバ赤痢だけでなく下痢止め、整腸剤として販売した。キノホルムが普通の下痢にも効くと宣伝され、薬局でも販売されるようになった。キノホルムは副作用のない安全な胃腸薬と宣伝され、普通の下痢には1日4.5g投与することが推奨された。かつてアメーバ赤痢に投与された5倍の量のキノホルムが連日処方されることになった。

 スモンの被害を深めたのは、製薬会社が何の根拠もなく利潤追求のためキノホルムを安全な薬剤と宣伝したことである。またキノホルムにより胃腸障害が出現すると、その治療としてキノホルムを増量して処方したことである。また一部の研究者によってスモンにキノホルムが有効との宣伝がなされたことが被害を大きくした。スモンはキノホルムによる副作用であったが、同時に薬の乱用が招いた薬害事件であった。

 日本各地でスモンの集団発生をみたが、スモン多発地区は特定の病院がキノホルムを過剰に処方していたからである。昭和39年の埼玉県・戸田ボート場周辺での集団発生は、オリンピック施設周辺での赤痢予防のために、保健所が周辺住民にキノホルムを予防内服させていたからである。岡山県井原市の集団発生は、天皇の視察に際し、赤痢予防のため住民たちにキノホルムを予防投与したからであった。住民たちは赤痢になる前に、キノホルムの猛毒に倒れたのである。

 欧米ではキノホルムの使用はアメーバ赤痢に限定されていので、スモンは日本だけに発生した日本特有の疾患である。厚生省が確認したスモン患者は1万1000人、死者は600人以上とされているが、実際にはその3倍以上と推測されている。

 アメリカでも、キノホルムをアメーバ赤痢以外の一般下痢症にも適応を広げようとする製薬会社があったが、FDA(食品医薬品局)はそれを許可しなかった。現在でもスモンとの病名が使われているが、スモンは「キノホルム内服による中毒性神経障害」と呼ぶべき疾患である。

 スモンは製薬会社と厚生省の安全認識の欠如が引き起こした薬害事件であった。新しい患者の発生はなくなったが、後遺症に悩む多くの患者への補償と治療、患者の社会復帰が大きな問題になった。

 昭和47年3月、スモンの原因はキノホルム剤服用によるものと結論され、厚生省は難病のひとつとして対策を講じることになった。治療としてはビタミンB12やB1の大量投与、副腎皮質ステロイドなどが試みられたが、効果はほとんどなかった。リハビリも効果は不十分で、回復は困難であった。

 キノホルムの被害者は被害者団体を結成し、責任の明確化と被害者の救済を求め各地裁に提訴した。患者団体は全国組織を結成し、救済のみならず薬害の根絶を求める裁判闘争を展開し、国民の共感を集めた。

 昭和46年5月28日、スモン病患者、相良よしみつと志方サキ子の2人が日本チバガイギー、田辺製薬、武田薬品工業などの製薬会社などを相手取って一律5000万円を要求する損害賠償請求の初の訴訟を起こした(一次訴訟)。原告2人で始まったこの訴訟は、二次、三次訴訟となるにつれ原告数が増え、最終的に全国22地域3900人となった。各製薬会社は和解に応じようとしたが、田辺製薬だけは最後までウイルス説にこだわり、和解に応じようとしなかった。

 田辺製薬は社内で行っていた動物実験でキノホルムがスモンの原因であることを知っていたが、その事実を隠してウイルス説を曲げなかった。この会社の姿勢に憤慨した田辺製薬の研究員白木博次医師が裁判でそのことを証言し、この白木証言で裁判の流れが大きく変わった。

 スモン裁判はかつてない大規模な薬害裁判で、訴訟は全国33地裁、8高裁で争われ、原告数の合計は7561人となった。

 昭和53年3月1日、金沢地裁で原告勝利の初めての判決が下った。最大の焦点だった国の責任については、「キノホルム製造の許可承認は違法とは認められないが、昭和42年以降は承認を取り消し得たのにその権限を行使しなかった不作為の違法がある」とした。そのため昭和42年以降に発症した患者や悪化した患者について国は損害賠償の義務を負うことになり、国の負担分は3分の1の範囲とされた。製薬3社に対しては「キノホルムの副作用について多くの警告を受けながら何ら措置をせず、大量販売、大量消費の風潮を助長した」と厳しく批判した。同様の判決が各地の地裁で下されるようになった。

 昭和54年4月から「スモンの会全国連絡協議会」を中心に、弁護団、労働組合、消費者団体などによって「スモン被害者の恒久救済と薬害根絶をめざす全国実行委員会」が結成され、スモン全面解決要求大行動が展開された。さらに勝訴判決をテコに厚生省、法務省、大蔵省および製薬3社に向けての抗議行動が行われた。

 各政党・議員への要請などが行われ、厚生省前に座り込み、泊まり込みの抗議行動が行われた。参加した人数は延べ3万人を超え、行動期間中に都内各駅頭でまかれたビラは約50種類120万枚以上に及び、この大行動を通じて患者らは大きな成果を獲得した。

 昭和54年9月15日、東京スモン訴訟で、当時の橋本龍太郎厚生大臣と製薬3社(田辺製薬、武田薬品、日本チバガイギー)がその責任を認め謝罪、和解確認書に調印した。また橋本厚生大臣は薬害根絶の努力を約束した。和解によって補償を受けた被害者は6470人、和解総額は約1430億円に達した。

 このスモン病をきっかけに、昭和54年に薬事法が大改正になり、医薬品の有効性、安全性の確保が追加された。さらに患者を薬剤の副作用から救済する「医薬品副作用被害救済基本法」が国会で成立した。

 

 

 

ライシャワー大使刺傷事件 昭和39年(1964年)

 昭和39年3月24日正午頃、エドウィン・ライシャワー駐日アメリカ大使(53)が東京・赤坂の大使館の裏玄関から車に乗ろうとした時、刃渡り16センチのナイフを持った工員風の少年に襲われ、右大腿を刺され負傷した。少年はその場にいた書記官や海兵隊らに取り押さえられ、駆けつけた赤坂署員に引き渡された。この殺傷事件は外国の要人が襲われた戦後初の事件であった。

 書記官がネクタイで止血の応急処置を行い、直ちに虎ノ門共済病院に運ばれた。刺された大腿部の傷口は2.8センチ、深さ10センチで出血量は3000ccを超え、1000ccの輸血が行われた。虎ノ門共済病院医師団と横須賀米軍病院医師団による手術は4時間に及んだ。

 このような突然の事態となったが、ライシャワー大使はあくまで冷静だった。手術室に運ばれる途中、駆けつけたハル夫人に親指と人さし指で「OK」のサインを送るほどの余裕をみせた。手術の翌日、「わたしは日本で生まれたが、日本人の血はない。日本人の血液を多量に輸血してもらい、これで私は本当の日本人と血を分けた兄弟になれた」と言って周囲を笑わせた。「この小さな事件が日米間の友好関係を傷つけないように」と何度も繰り返した。この日本国民を慰める言葉に、日本国民はライシャワー大使にいっそうの親しみを覚えた。

 刺傷事件が起きたのは東京オリンピックが開催される7カ月前のことである。日本が世界を意識していた時期に事件は起き、日米間の重大な国際問題へ発展する可能性が危惧された。

 駐日アメリカ大使が治外法権の大使館内で危害を加えられたことで、この不祥事への対応に注目が集まった。日本政府はこの事件を重要視し、池田勇人首相はアメリカのジョンソン大統領に遺憾の意を表明し、早川崇国家公安委員長は引責辞任し、天皇、皇后、皇太子夫妻が見舞い品を贈った。

 犯人の少年は、静岡県沼津市に住む精神に障害を持つ少年(19)であった。少年は高校生の時から統合失調症を患い、沼津の病院で治療を受けており、犯行は精神障害によるもので思想的背景はないとされた。

 少年は「世間を騒がせるために大使を襲ってやろうと思った」と自白したが、その動機の詳細は支離滅裂であった。少年はこれまでアメリカ大使館に2回侵入し、事件前にも米国大使館への放火の疑いで警察から尋問を受けていていた。犯行時は心神喪失状態だったとして不起訴処分となり、精神病院で治療を受けていたが、事件から7年後に少年は自殺している。

 ライシャワー大使は順調に回復し、4月15日に虎ノ門共済病院を退院すると、リハビリのためハワイの陸軍病院に3カ月入院することになった。生命に別条はなかったが、輸血による血清肝炎を併発し、長い闘病生活を強いられることになった。

 輸血にはさまざまなウイルスが混入している可能性があり、輸血や血液製剤の投与によってさまざまな悲劇が生まれている。B型肝炎ウイルス、C型肝炎ウイルスの検査法が確立するまでは、輸血後肝炎は避けられないことであり、ライシャワー大使はその犠牲者となった。大使はこの血清肝炎について後々まで多くを語らなかった。

 この大使刺傷事件は、日本に3つの教訓を残した。

 ひとつは当時の輸血の98%が売血によって行われていたことである。血液銀行が売血者と呼ばれる半職業的血液提供者の血液を買い上げるシステムになっていて、この売血制度がライシャワー大使の血清肝炎を引き起こした。この事件をきっかけに、朝日新聞は「黄色い血」として血清肝炎を取り上げ、売血廃止のキャンペーンを行った。「黄色い血」とは売血常習者が輸血を繰り返すことによって血球成分が少なくなり、血液が黄色く見えたからである。さらに黄色い血は肝臓病患者の黄疸をイメージさせ、かつて梅毒を「黒い血」と呼んでいたのに対比させた言葉でもあった。

 日本政府と国民は大使が日本人の血液によって血清肝炎になったことを日本の恥と受け止めた。そのため売血制度を是正する献血運動が盛り上がることになる。マスコミは売血制度批判のキャンペーンを行い、献血運動が広がり、献血率は急速に上昇した。政府は事件から3カ月後、輸血の売血制度廃止を閣議決定した。このように大使は期せずして日本の輸血制度に大きな貢献をしたのである。

 ふたつ目の教訓は、日本の病院は施設の面で世界最低のレベルであることが認識されたことである。虎ノ門共済病院は日本では有数の病院であるが、その虎ノ門共済病院でさえ外国人の目から見れば最低レベルの病院に映った。建物の汚れ、ゴキブリが出るような不衛生、このような日本の病院はアメリカ人から見れば貧民窟の病院と映ったらしい。日本の医療事情を知る大使は、外国要人の面会を断り、日本の恥を世界に見せなかった。

 最後の教訓は、統合失調症などの精神障害者への対策が強化されたことである。アメリカの対日感情の悪化を懸念した政府は、精神医療法を改正し、緊急措置入院制度などを新設することになった。保健所は精神相談員を増員し、精神障害患者が引き起こす犯罪への対策を図った。つまり危険性のある精神病患者を治安対象にしたのだった。

 精神医療法の改正は、それまでの精神病治療の流れに逆行していた。それまでは向精神薬の開発により精神病患者の社会復帰を促進し、入院治療から通院治療へと変換を目指していた。しかしこの流れが変わり、患者の人権は軽視され、精神病患者を隔離する傾向が強まった。この流れを示すように、昭和35年に9万床だった精神病院は、昭和45年には25万床へと急増している。

 親日家で知られるライシャワーが駐日アメリカ大使に任命されたのは、60年安保闘争の嵐が吹き荒れていた昭和35年の翌年のことである。当時のジョン・F・ケネディ大統領が、親日家であるライシャワー・ハーバード大学教授を駐日大使に任命したのである。

 ライシャワー大使は36年から5年間にわたり駐日大使を務め、日米安保条約などの難問を解決していった。日本はまだ敗戦の痛手を残していたが、ちょうど高度経済成長と相まって、次第に日米蜜月の時代を築き上げた。日米関係が「イコール・パートナー」と呼べるようになったのはライシャワー大使の功績であった。

 ライシャワー大使は歴代の駐日大使の中で、最も日本人に名前が知られていた。またマスメディアに取り上げられた回数も一番多かった。任期中には多くの大学や地方を回り、首相から農民までの対話を実践していた。

 当時、日本政府は「核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず」という非核三原則の堅持を政策としていたが、実際には核の持ち込みは行われていた。この矛盾した政策はライシャワー大使が筋書きをつくったとされている。昭和38年4月、当時の大平正芳外相とライシャワー大使が会談した際、大平外相が「核搭載艦が日本に寄港、通過することは核の持ち込みには当てはまらない」と認めたことが米国立公文書館で見つかっている。ライシャワー大使は日米のパートナーシップを力説し、安保闘争後の新たな日米関係を築き上げた。

 ライシャワー大使は明治43年(1910年)10月東京で生まれ、16歳まで東京で育っている。父親はキリスト教の宣教師で、明治学院で神学と英語を教え、大正7年に新渡戸稲造とともに東京女子大学を設立している。

 ライシャワーはハーバード大学で中国と日本の歴史を学んだ。昭和10年に8年ぶりに日本に戻ってきたが、日本はそれまでの自由な雰囲気は消え、軍国主義とファシズムの空気に包まれていた。ライシャワーは東京帝国大学に通い、博士論文に全力を注いだ。研究のテーマは円仁(天台宗の僧)に関することであった。

 昭和13年、アメリカに帰国すると、国務省の極東課に勤め、日米間の戦争を回避するための提案を行った。提案の中には、日本が開戦を決意するきっかけとなった 「対日石油禁輸」に反対する意見が含まれていた。ライシャワーは日米の開戦を阻止しようとしたが、太平洋戦争が勃発すると、日本の専門家として国務省、陸軍省で対日情報戦に従事した。さらに日本軍向けの降伏ビラなどを作った。

 ライシャワーはアメリカ人の誰よりも日本を理解し、日本人を愛し、日本の軍部を非難した。彼は日本人を愛したがゆえに、日本の軍部を憎んでいた。青年時代に味わった日本の民主主義を愛していたのである。

 昭和31年、ライシャワーは明治の元勲・松方正義の孫・ハルと結婚する。結婚時ハルは40歳、5歳年上のライシャワーは再婚だったので、ハル夫人は1度に3児の母親になった。ハル夫人はプリンシピア大学を卒業し、外国人記者クラブで日本女性初の役員になっていた。ハル夫人は社交界が嫌いだったため、ライシャワーに駐日大使の要請があったときには猛反対した。

 ライシャワーがケネディ大統領の要請で駐日大使に起用されると、日本は日本人の妻を持つライシャワー大使を歓迎した。大使は日本語を流ちょうにしゃべり、「江戸っ子大使」と呼ばれた。日本を愛し、日本のために助言を述べ、鋭い批評をして日本のために尽くした。

 大使は日本の歴史に造詣が深く、特に戦後の急速な近代化に視点を置いた研究を行い、帰米後はハーバード大学教授に復帰している。現在の天皇、皇后両陛下が訪米された際、ボストン郊外の博士宅に2泊したほどである。

 日本に関した著書も多く出版している。「ライシャワーの見た日本・日米関係の歴史と展望」(昭和42年)、日本研究の総まとめといわれる「ザ・ジャパニーズ」(昭和54年)、日米関係を含めた自叙伝「日本への自叙伝」(昭和57年)など多数にわたっている。

 ライシャワー大使はこの事件以降、血清肝炎に悩まされた。晩年には何度か血を吐き、救急車で運ばれるようになった。平成2年6月、慢性肝炎が悪化したが、延命治療を拒否する書類に署名。同年9月1日、尊厳死を選択して79歳で最後の日を静かに迎えた。「私の灰を、日米を結ぶ海に」と遺言を書き、葬儀は行われず、遺骨はカリフォルニア州沖の太平洋にまかれた。

 その後、ハル夫人はサンディエゴ郊外のラホヤで日米学生交換の研修を支援したほか、ライシャワー日本研究所主催の日本研究シンポジウムに参加するなど活動を続けた。ハル夫人は心臓発作のため平成10年9月25日にアメリカで亡くなっている。享年83であった。

 

 

 

先天性風疹症候群 昭和39年(1964年)

 昭和39年は、東京オリンピックで日本中が沸いた年である。この39年の12月から翌40年末までの1年間に、沖縄で生まれた赤ちゃんに白内障などの眼の異常、心臓奇形、難聴などのさまざまな先天異常が見つかったのである。

 当時の沖縄は本土復帰前であったが、沖縄県衛生部と九州大学小児科が中心になり、この先天異常の原因究明がなされた。その結果、先天異常の赤ちゃんから風疹ウイルスが分離され、血液中の風疹抗体価が異常に高いことがわかった。つまり奇形は風疹ウイルスによるものだった。

 沖縄ではこの1年間に408人の先天異常児が出生していた。この数値は人口10万人当たり44人に相当し、赤ちゃん50人に1人と異常に高い数値であった。すなわち、沖縄では大規模な風疹の流行により、風疹(rubella)に罹患した妊婦が奇形児(先天性風疹症候群:CRS)を多数出産していたのだった。

 風疹は飛沫感染によるウイルス性疾患で、麻疹に似た症状を引き起こす。春から初夏に流行し、発熱と発疹が主な症状で、軽度の微熱や頭痛で始まることが多い。発熱は風疹患者の約半数にみられる程度で、発熱に続いて全身に発疹が出現し、また後頸部のリンパ節腫脹が特徴的である。

 これらは軽症で2から3日で軽快する。そのため欧米では風疹を「3日はしか(three-day measles)」と呼び、麻疹を「9日はしか(nine-day measles)」と呼んでいるが、風疹ウイルスと麻疹ウイルスは全く別種のウイルスである。

 風疹ウイルスの伝染力は、患者が症状を出す前が最も強く、発病した時にはすでに隣人にウイルスを振りまいた後となる。風疹の合併症としては関節痛が比較的多く、血小板減少性紫斑病が患者3000人に1人、脳炎が患者6000人に1人の頻度で合併する。

 風疹の好発年齢は学童期で、そのため風疹は小児科領域の疾患といえる。風疹は第二種の伝染病に定められていて、紅斑性の発疹が消失するまで出席停止が基準になっている。大人ほど重症になりやすく、3日では治らないことが多い。治療は安静と対症療法だけで特別な治療法はなく、ほとんどが自然治癒する。

 風疹が問題になるのは妊娠している女性が感染した場合で、胎児が子宮内で感染を受けると奇形児になる可能性が高い。特に妊娠初期に感染すると危険性は高く、約2割の胎児に先天異常をきたすとされている。

 昭和39年、沖縄で先天性風疹症候群が大流行したが、先天性風疹症候群の発症は沖縄が初めてではない。昭和16年、オーストラリアの眼科医ノーマン・グレッグが風疹にかかった母親と先天性白内障の子供との関係を報告したのが初めてである。そのため先天性風疹症候群をグレッグ症候群と呼ぶことがあるが、弱毒ウイルスは奇形をつくらないとの先入観が強かったため、彼の学説が医学界で認められるのに10年以上かかっている。昭和19年の英国の医学雑誌「ランセット」に、グレッグの学説を否定する論説が掲載されたが、疫学から次第に先天性風疹症候群が立証され、先天性風疹症候群はCRS(congenital rubella syndrome)と略されるようになった。

 先天性風疹症候群は、「風疹ウイルスが胎盤を通過して胎児へ感染し、白内障、難聴、心臓奇形などの多彩な奇形を生じさせる疾患」と定義される。この先天奇形は妊娠1カ月から4カ月の間に感染した場合に限られ、それ以外の妊娠時期では奇形児となる可能性は低い。つまり胎児の臓器が形成され時期に感染を受けると奇形をきたすのである。受精卵が着床するまでの妊娠1カ月、臓器が形成された妊娠4カ月以降では奇形児の可能性は少ない。

 先天性風疹症候群は、さまざまな臓器に奇形を生じさせる。その頻度は難聴が80%、先天性心疾患60%、精神発達遅延50%、白内障40%である。これら奇形の頻度は感染した時期によって異なり、妊娠2カ月では白内障や心疾患、妊娠第3カ月以降では聴力障害や網膜症が多くみられる。なお妊婦が風疹に感染すると流産、早産、死産を起こしやすく、生まれた子供は発育や発達障害を伴うことが知られている。また出生1週間以内に低出生体重、血小板減少性紫斑、肝脾腫、肝炎、溶血性貧血、泉門膨隆などがみられることがあり、これを新生児急性先天性風疹と呼び、先天性風疹症候群と区別されている。

 先天性風疹症候群が奇形を起こすことより、風疹の流行が注目を集めた。風疹の予防接種がなされていなかった時代には、風疹の流行は2年から3年の周期で10年ごとに大流行がみられた。ところが沖縄の流行以降、しばらくは国内での流行はみられず、次に風疹が流行したのは、昭和51年の2月から7月にかけてである。全国で105万人が風疹に感染したが、この時の先天性風疹症候群の発生は49人と少なかった。それは風疹を理由に2500人以上の妊婦が人工中絶したせいとされている。

 風疹は症状が軽いため、感染しても問題にならないが、先天性風疹症候群は治療法がないため風疹の予防が何よりも重要である。国は妊婦の感染を防ぐため、昭和52年から中学3年生の女子中学生を対象に風疹の予防接種を義務付けた。ところが昭和64年にMMRワクチン(はしか、おたふく風邪、風疹)の予防接種が導入され、20万人に1人とされていた副作用が、実際には統一株で約930人に1人、その後導入された3種類の株でも約1980人に1人と極めて高い頻度であることが分かった。そのため平成5年4月に学校での集団接種が中止され、ワクチンは「受けなければいけない義務接種」から、「受けるように努めるべき勧奨接種」に変わった。つまり予防接種は保護者の判断に任されることになった。そのため風疹ワクチンの接種率が低下し、抗体陽性率は約30%まで低下した。沖縄の悲劇が繰り返される可能性が危惧され、接種率向上のためのキャンペーンが行われた。

 アメリカでは、昭和40年に2万人の先天性風疹症候群が発生し、それを教訓に、昭和44年から男女の別なく幼児に接種している。日本では昭和52年から思春期女子に限定した英国方式を採用している。この方式の違いにより、アメリカでは風疹の流行がほぼ終息しているが、女性に限定した英国方式の国では流行にはほとんど変化がみられていない。そのため平成7年から、男女ともに乳幼児に接種されることになった。

 現在では妊娠可能な女性の9割は抗体を持っていて、風疹ワクチンの接種を希望する場合は、保健所や医療機関を受診することになっている。なお、年少時に予防接種を受けても免疫が次第に低下することが分かっている。

 14歳で予防接種を受け、1回目の妊娠時に免疫を確認して赤ちゃんを産んだ女性が、2回目の妊娠の際に先天性風疹症候群の子供を出産した例も報告されている。このように予防接種を受けていても、妊娠初期に風疹に感染し、生まれた子供に障害が出た症例が国内で31例あることが分かっている。

 このことから女性の場合は、年少時に加え、成人初期にも予防接種が必要である。現在は、風疹の流行防止を目的に幼児への接種がされているが、抗体のない女性を対象に妊娠前に1回接種するのが最良とされている。成人となった女性は妊娠する前に風疹抗体の検査を行い、陰性の場合、あるいは抗体価が低値の場合には、妊娠前にワクチンの接種を受けることが望ましい。ワクチン接種後2カ月間は避妊しなければいけない。また風疹ワクチンは生ワクチンなので、妊娠が分かってからのワクチンは接種できない。

 最近まで、妊娠5カ月以内に風疹の感染が証明された場合には中絶が勧められてきた。しかし母親が風疹にかかっていても胎児に感染しているかどうかがウイルスの遺伝子診断によって可能になった。この遺伝子診断は信頼性の高い検査であるが、まだ普及はしていない。いずれにしても、沖縄の悲劇を繰り返さないため、妊娠前のワクチンの心構えが必要である。なお風疹ワクチンは米国のハリー・マイヤー、ポール・パークマン博士が5年がかりで開発し、昭和41年から実用化されている。

 風疹ウイルス以外に胎児に影響をきたすウイルスとして、妊娠初期に水痘あるいは帯状疱疹のウイルスに感染すると5〜10%に先天性水痘症候群(眼異常、中枢神経異常子宮内胎児発育遅延)を起こし、妊娠後期では重症の新生児水痘となり致命率は30%である。

 単純ヘルペスウイルス感染が原因で発症する性器ヘルペスでは奇形児は生じないが、分娩時の新生児ヘルペス感染が問題になる。経膣分娩で新生児が単純ヘルペスウイルスに感染すると重症化することがある。そのため妊娠中でも薬物による治療、帝王切開で分娩させる場合がある。小児の伝染性紅斑(りんご病)の原因ウイルスであるヒトパルボウイルス感染症は、成人には関節炎を起こすが、妊婦が感染するとウイルスが胎児骨髄を破壊するために胎児貧血、胎児水腫、死産を引き起こすことがある。このように風疹に限らず妊娠中にウイルス疾患に罹患すると、子供に影響を及ぼす可能性がある。

 

 

 

東京オリンピックの光と陰 昭和39年(1964年)

 昭和39年9月5日に名神高速道が全線開通、10月1日には東海道新幹線が営業、国民は戦後最大のスポーツの祭典「東京オリンピック」の開催を待ち望んでいた。1010日、75000人の大観衆が国立競技場を埋め尽くし、全国民の熱き想いとともに東京オリンピックが華々しく開幕した。世界中から人種を越えた7500人が集まり、1024日の閉会式までの15日間、163種目の戦いに多くの日本人は胸を熱くした。

 日本に初の金メダルをもたらしたのは、重量挙げフェザー級の三宅義信だった。152センチの「小さな巨人」三宅義信が表彰台で金メダルを高く差し上げた。次に施設の子として育った遠藤幸夫が男子体操で総合優勝を果たした。女子バレーボールでは「東洋の魔女」が宿敵ソ連を破り、その瞬間、魔女たちは抱き合い涙を流した。大松監督の「黙ってオレについてこい」は流行語となった。

 外人選手の活躍も感動的だった。女子体操の女王・チャスラフスカ(チェコスロバキア)の華麗な演技は世界を魅了し、柔道の無差別級で優勝したヘーシンク(オランダ)の勇姿も思い起こすことができる。

 日本の355人の選手たちは感動的なドラマを作りあげ、日本は金メダル16、銀メダル5、銅メダル8を獲得、日本の力を世界に示す成績を上げた。東京オリンピックはスポーツの祭典であったが、戦後復興の集大成でもあった。

 東京オリンピックの最終日の1021日、最期を飾る男子マラソンが行われた。前回のローマオリンピックで圧倒的な強さで優勝したアベベ(エチオピア)が優勝候補であった。イタリアはかつてエチオピアを侵略したことから、ローマでの優勝を「アベベが宿怨を晴らした」とマスコミは興奮した。アベベは裸足で走ったことから「裸足の王者」と呼ばれ、また黙々と走る姿は「走る哲人」とも呼ばれた。アベベをはじめとした強豪を迎え撃つ日本選手は円谷(つぶらや)幸吉、君原健二、寺沢徹の3人であった。国立競技場には7万4500人が集まり、コースとなった甲州街道では190万人が声援を送った。

 午後1時に国立競技場からランナーが一斉にスタート、レースは驚異的なハイペースで展開された。日本の作戦は円谷幸吉が飛ばし、優勝候補の君原を引っ張ることであった。折り返し地点ではアベベが先頭で通過し、円谷は5位の通過だった。

 テレビでは圧倒的強さで黙々と走るアベベを映すばかりで、日本人入賞の期待は薄れていた。観衆の関心は2位以下の選手は誰なのかだった。しかしゼッケン77の円谷幸吉は30キロでクラーク(オーストラリア)を抜き、40キロでホーガンを抜き、国立競技場の南門から2位で走り込んできた。円谷幸吉の登場にスタンドの6万人の観衆は大歓声を上げた。

 だがこの大歓声はすぐに悲鳴に近い声援に変わった。円谷の15メートル後ろからヒートリー(イギリス)が迫ってきたからである。誰もが祈り、叫び、もどかしさの渦となった。円谷は苦しそうに首を振りながら逃げ切ろうとするが限界だった。ゴール200メートル手前でヒートリーに抜かれ、円谷は惜しくも3位でゴール。全力を出しきった円谷はよろめくように芝生に倒れ込んだ。

 アベベの優勝タイムは2時間1122秒8で世界新記録だった。円谷幸吉は無念にもゴール前で逆転されたが、自己記録を2分短縮する堂々の銅メダルであった。日本陸上で唯一の「日の丸」を国立競技場に揚げ、体調を崩した君原健二は屈辱の8位であった。

 円谷幸吉は昭和15年に福島県で生まれ、須賀川高校では陸上部に所属していた。高校時代は平凡なランナーだったが、高校を卒業して陸上自衛隊に入隊すると、長距離ランナーとして頭角を現してきた。

 昭和37年、円谷幸吉はニュージーランドで開催された2万メートルで世界新記録を樹立。不振にあえぐ日本陸上界にとって久しぶりの快挙だった。円谷は一躍天才ランナーと期待された。円谷幸吉には東北人特有の粘りと闘志があった。合宿中は誰よりも早く起きて練習を行った。

 東京オリンピックが終わり、次のメキシコオリンピックが近づいてきた。円谷幸吉には以前から交際していた地元の恋人がいた。結婚の日取りまで決まっていたが、自衛隊体育学校の校長はマラソンの練習に支障をきたすと結婚に反対した。円谷は次回のオリンピックを目指す自衛隊の宝だった。円谷は恋人に結婚の延期を告げたが、恋人は円谷の自宅を訪れ、円谷が贈ったプレゼントが詰まった段ボール箱を玄関先に置いて去っていった。恋人は翌42年の暮れに、別人のもとに嫁いでいった。

 昭和43年1月、久しぶりに郷里で正月を迎えた円谷幸吉は、兄に「もう走れない」と言葉を残し、同月9日、東京の自衛隊体育学校の宿舎に戻ると、頸動脈をカミソリで切って自殺した。享年27であった。遺体の側にそばに置かれた両親への遺書には、まじめな青年の心情が書かれていた。

 「父上様、母上様。幸吉はもうすつかり疲れ切って走れません。何卒お許し下さい。気が休まることもなく御苦労、御心配をお掛け致し申しわけありません。幸吉は父母上様の側で暮らしとうございました」

 円谷幸吉は競技者の心臓ともいえるアキレス腱を傷めていた。マラソンは孤独な戦いである。円谷ほどの粘りと闘志があっても、国民の期待がプレッシャーとなり、自衛隊の金メダル至上主義の重圧に勝てなかったのである。ひたむきな性格が、オリンピックという栄光の陰で悲劇をつくった。銅メダル獲得という英雄的な行為、逆転負けという悲劇的な敗北、これらが円谷幸吉の人生を変えたのである。もし円谷がもっと平凡な成績であったならばこの悲劇は起きなかったであろう。

 東京オリンピックで屈辱の8位に終わった君原健二は引退を決意していたが、円谷の死を知ると、再び陸上のトラックに舞い戻ってきた。円谷のいないメキシコオリンピックで、「円谷のために走る」と心に誓い、銀メダルを獲得したのである。

 現在、須賀川市の生家は円谷幸吉記念館として公開されている。また須賀川市では毎年11月第2日曜日に円谷幸吉メモリアルマラソン大会を開催し、君原健二は毎年参加している。一方、マラソンの帝王アベベは交通事故で半身不随になり、昭和48年に死亡している。

 東京オリンピックの陸上競技の入賞者は、円谷と女子80メートルハードル5位の依田郁子の2人だけだった。はちまき姿の依田郁子は優勝の期待を背負っていたが、期待が重すぎたのか5位に終わっている。その依田郁子も昭和581014日に茨城県豊里町の自宅で自殺している。また柔道重量級で金メダルを取った猪熊功は、後に建設会社の社長になるも、経営不振から平成13年に自らの生涯を閉じている。

 

 

 

吉田富三 昭和39年(1964年)

 吉田富三といえば医師ならば誰でも知っている世界的な病理学者である。昭和39年4月、国際的ながんの権威である吉田富三(東大名誉教授)が日本医師会の会長選挙に立候補した。吉田富三の立候補により、日本医師会の会長選は現職の武見太郎との一騎打ちになり、選挙の結果は、武見157票、吉田21票の圧倒的大差で、武見が会長に再選された。選挙戦では武見が勝つと予想されてはいたが、これほどの大差がつくとは誰も予想していなかった。

 吉田富三は落選を覚悟して会長選に立候補したのは、昭和36年9月に日本医師会の一斉スト宣言があり、病院ストなどから医療界そのものが大きく揺れ動いていたからである。吉田富三は実利主義の医学界に、医師のあるべき姿や理想を求めていたのである。

 吉田富三は出馬前の厚生大臣の医療懇談会で次のような発言をしている。棚を吊ることを命じられた大工が旦那(だんな)の前に出て、「旦那のお指図書きには、釘は5本まで許すと書いているが、7本使うことを許してください」といった。旦那は「なぜ7本必要か。その理由を申してみよ」という。大工はその理由を説明するが、旦那は「いや釘は5本に決まっている」と言い切ってしまう。

 吉田はこの大工の姿が今の医師の姿ではないかと述べている。つまり現在の医師は行政の奴隷になり下がっていると言いたかったのである。また全体主義の国ならともかく、自由主義の国で医療費がタダというのは間違っている。さらに医療問題の枝葉ばかりを議論していれば、心や血の通らない医療になってしまうと発言している。吉田は医療の本質に迫る議論を公行い、医療そのものを抜本的に改めたかったのである。

 この吉田の姿勢は、自分たちの考えを代弁しているとして、全国の医師会員たちに熱狂的に受け入れられた。しかし病理学者で、臨床の場を知らない吉田に開業医の実質的賛同は少なかった。

 武見と吉田の医療への考えは本質的には似ていた。吉田は医師の立場を「官僚による統制医療から、古き時代の自由な医療に戻したかった」が、武見は「官僚を利用しながら、医療をよい方向に向けよう」としていた。この医師会長の選挙によって、武見は長期会長の座を確実にした。

 病理学は組織標本から病気を診断する分野と思われがちであるが、かつての病理学は実験病理学が主であり、動物実験から病気解明を求める学問であった。大正4年に山極勝三郎(日本の病理学の父)がウサギの耳にコールタールを塗り、世界で初めて扁平上皮癌を作ることに成功。昭和7年に吉田富三がアゾ化合物をラットに食べさせ,世界で初めて人工癌(肝癌)を作った。昭和13年に長崎医科大学に赴任、地道に研究を続けて、昭和18年には移植可能な「吉田肉腫」を発見している。吉田肉腫とはラットの腹水中に浮遊するがん細胞で、このがん細胞を次のラットの腹に注射すると、そのラットの腹にもがん細胞が浮遊して増殖しすることで、吉田富三はがん細胞の移植に世界で初めて成功したのである。吉田肉腫より研究者たちは同じがん細胞だけを自由に扱えるようになり、吉田肉腫はがんの研究にとって欠かせない材料となった。吉田富三は国内外の研究者の要望に応え、吉田肉腫を惜しみなく分与した。

 さらに吉田はがんの本質を明らかにして日本初の制がん剤(ナイトロミン)を開発している。このように吉田富三は世界の癌研究の最先端の病理学者で、文化勲章、日本癌学会会長という輝かしい業績の持ち主である。明治36年に福島県浅川町で生まれた吉田富三は、北里柴三郎、野口英世に匹敵するほどの国際的医学者であった。昭和48年に70歳で死去するが、故郷の福島県石川郡浅川町に吉田富三記念館が建てられている。

 

 

 

宝組勝島倉庫で火災 昭和39年(1964年)

 昭和39年7月14日午後9時55分頃、東京品川区勝島にある宝組勝島倉庫で塗料の原料となるニトロセルロースが爆発、火災が発生した。宝組勝島倉庫にはドラム缶入りのニトロセルロースが放置され、空地にもドラム缶入りのニトロセルロースが野積みされていた。

 最初の爆発が倉庫内のドラム缶だったのか、空地に野積みにされていたドラム缶だったのかは不明であるが、1回目の爆発からわずかな時間をおいて2回、3回と爆発が連続し、巨大な火柱が100メートル上空をこがした。出火の原因は自然発火か、たばこの火によるものとされたが、最終的には不明であった。

 宝組勝島倉庫は、割増し料金を取って収容能力を超える危険物を倉庫に預かり、野積みの危険物にはシートをかけてごまかしていた。火災の起きる5日前、大井消防署の査察を受け、野積みにされている無許可のニトロセルロース入りのドラム缶(2万リットル)を発見され、安全な倉庫に移すように指導されていたが、宝組勝島倉庫はドラム缶を撤去せず、さらに大量のニトロセルロースを無許可で入手し、爆発時には20万リットルが野積みにされていた。さらに隣接する倉庫にはアセトン、アルコール、シンナーなどが貯蔵されていた。

 東京消防庁は最大規模の第4出動を指令、化学消防車20台、ポンプ車713台、救急車18台、消防艇7隻を出動させ、戦後最大の消防体制をとった。

 現場は火の海であったが、ホースを握り締めた消防隊の必死の消火活動で、灼熱地獄の現場はいったん下火に向かった。ところが第1次爆発から1時間後の午後1055分頃、最初の爆発現場から30メートル離れた倉庫に貯蔵されていたメチルエチルケトンパーオキサイド(商品名パーメックN)が2回目の大爆発を起こした。鉄筋モルタルの屋根から火柱が噴き上がり、原子爆弾を思わせるような不気味なキノコ雲が東京の空を覆った。爆風で建物が崩れ、火の付いた木片、鉄片、コンクリートが消防隊員の頭上から降り注いだ。

 この2回目の爆発火災によって、火活動に従事していた消防職員19人が外壁の下敷きになって一瞬にして殉職。道路を挟んだ現場指揮本部も吹き飛び、指揮を執っていた蒲田消防署長ほか158人が重軽傷を負い、わが国の消火史上最大の惨事となった。首都高速は通行止めになり約3時間半後の138分に鎮火した。

 負傷者は京浜中央病院、安田病院、外山外科に運ばれ、病院は負傷者で戦場と化した。このように多数の消防隊員が犠牲になったのは、関東大震災で22人、昭和20年3月10日の東京空襲での119人を除けば、前例のない惨事であった。

 火災の原因は、危険物の貯蔵違反によるもので、東京消防庁はすぐに関係者を東京地方検察庁に告発した。東京地裁では火災は予知可能な自然発火とされたが、東京高裁は放火の可能性もありとした。12年の歳月を経て、昭和511017日、最高裁判所の上告棄却により会社には5万円の罰金、宝組関係者には執行猶予付きの刑が科せられた。消防職員19人が犠牲になった事故にしては軽い刑罰であった。

 「危険物安全の日」はそれまでは6月20日であったが、宝組勝島倉庫爆発火災の発生から7月14日に改められた。

 

 

 

前がん状態 昭和39年(1964年)

 昭和39年9月25日、東京・築地の国立がんセンターに「慢性咽頭炎」で入院していた池田勇人首相の病名が国立がんセンターの久留勝院長によって発表された。池田首相の病名は下咽頭がんであったが、院長が行った記者会見では、「乳頭腫という腫瘍で、がんではない」と述べられた。

 記者団の追及に、「病理学的にはがんではないが、前がん症状で、放っておくとがんに発展する可能性が高い」と説明した。この前がん状態という言葉は、それまで聞き慣れない言葉であった。それもそのはずである。前がん状態という言葉は、当時池田首相の側近だった鈴木善幸の造語だった。鈴木善幸は、がんというわけにはいかないし、何も発表しないわけにもいかない、そのため医師団と相談し、鈴木善幸が「前がん状態ではどうか」と頼んだことを後に語っている。当時は、がんの告知は行わないのが普通であった。しかしテレビでこの記者会見が報道され、病室のテレビで院長の会見を見ていた池田首相にとっては告知以上の結果となった。

 この前がん状態という造語は非常に便利な言葉であった。正常な細胞であってもいずれがんになるのだから前がん状態と言える、また本物のがん細胞でも患者の不安を取るために前がん状態と説明することも理にかなっていた。そのため前がん状態という言葉は今でも使われている。

 池田首相は東京オリンピックの開会式を病院から出席、がんセンターで放射線療法を受けながら東京オリンピックの閉幕を見届け、これを花道に昭和391025日に辞意を表明した。119日に佐藤栄作を後継総裁に指名して12月にがんセンターを退院。首相のがんは食道、肺に転移していて、翌40年7月29日に東大病院に再入院となった。8月4日に切替一郎教授によって喉頭がんの手術が行われたが、突然、胃から大出血を起こし、昭和40年8月13日午前零時25分に死去、65歳であった。

 池田首相は広島県の造り酒屋の生まれで、豪放で率直な性格であった。吉田茂門下の吉田学校の優等生で、所得倍増政策を唱え日本に高度経済成長をもたらした功労者である。昭和25年3月の通産大臣のとき、「中小企業の1つや2つの倒産もやむを得ない」と発言して問題となった。昭和24年2月16日、1年生代議士でありながら、第3次吉田内閣の大蔵大臣に抜擢され、第4次吉田内閣では通産大臣を務めた。

 その間、「貧乏人は麦を食え」と発言し、波紋を引き起こした。実際には参議院法務委員会で「所得に応じて、所得の少ない人は麦を食う。所得の多い人は米を食うというような経済原則にそったほうに持って行きたい」と述べたのであるが、「貧乏人は麦を食え、は失礼だ」と朝日新聞の投書欄に載り問題になった。池田首相の発言は極めて正論であるが、この発言で辞意に追い込まれた。ほかに「正常ならざることで倒産し、自殺があっても気の毒だがやむを得ない」などのマスコミが喜びそうな発言があった。

 昭和35年7月に首相になると、それまでの岸政治のイメージを一転させ、庶民派を全面に出し、国民の関心を引き寄せた。「社会保障の充実、1000億円以上の減税、経済繁栄政策、この3つを必ず実行します。わたくしはウソを申しません」とテレビCMで演説。「わたくしはウソを申しません」が流行語となった。さらに、「経済のことは、この池田にお任せ下さい」などの名言がある。池田首相特有のダミ声は、国民に親しみを与えていた。

 池田首相が誕生するまで、国民は終戦による経済再生、安保闘争で疲れ切っていた。そのような時、「日本の国民所得はアメリカの8分の1、ドイツの5分の1、この国民所得を10年で倍にします」と池田首相は大見得を切ったのである。この所得倍増計画は分かりやすく、ウソかも知れないと思いながらも国民に夢を与えてくれた。

 10年での所得倍増計画であったが、実際には5年間で国民所得を倍増させた。フランスのド・ゴール大統領に「池田はトランジスタラジオのセールスマン」と言われるほど経済成長に尽くし、「池田財政」といわれる一時代を築いた。池田首相は官僚出身であったが、庶民的政治家として国民に人気があった。池田首相は、日本を欧米先進国と並ぶほどの経済大国の基盤をつくった。

 

 

 

昭和30年代小事件史

 

【赤痢ワクチン禍】昭和30年(1955年)

 昭和30年5月24日、東京都北多摩郡砂川町(現・立川市)の砂川小学校(生徒数823人)と、同郡村山町(現・武蔵村山市)の村山小学校第1分校(生徒数361人)で赤痢ワクチンの注射が行われた。

 このワクチンの接種から数時間後の夕方から、500人の生徒たちが発熱、嘔吐、ひきつけなどの副作用を訴えた。翌25日、砂川小学校では欠席者102人、早退者109人、村山小学校第1分校では欠席者76人、早退者213人が出た。学童たちは発熱などの症状を示したが、症状は軽度で全員が軽快した。

 立川保健所が両校で行った赤痢ワクチンは、東京都が初めて採用したクローム・ワクチンであった。赤痢ワクチンはかつて日本陸軍で使用されたことがあったが、副作用が強いため中止されていた。しかし昭和27年、国立予防研究所の安東博士によって赤痢ワクチンの改良がなされ、クローム・ワクチンとして再登場となった。

 クローム・ワクチンとは、赤痢菌をクローム塩類で処理し、酸性の状態にしたワクチンのことで、このクローム・ワクチンはそれまで約10万人に投与され、副作用のないワクチンとして知られていた。もちろん今回のワクチンは国家検定をパスしたものであった。

 今回、問題を引き起こしたワクチンは、ワクチンの製造は同じであったが、投与法が従来とは違っていた。厚生省の指導で、それまでの皮内注射から皮下注射に変更したのであった。東京都衛生局は投与法が変更されたので、安全性を考慮して従来の半分の量を接種したが、それでもこの被害を出したのである。

 このワクチンによる被害は、ワクチンの投与法の変更が原因であったのか、あるいはワクチンの品質が悪かったのか明らかではない。本当の原因は不明だが、赤痢ワクチンは中止され、製造されていた30万人のクローム・ワクチンは破棄されることになった。この事件以降、赤痢ワクチンの接種は行われていない。

 

【病院火災】昭和30年(1955年)

 昭和30年6月18日午前1時20分頃、千葉県市川市国府台の式場精神病院で火災が発生。男子第1監禁病舎のトイレから出火した火事は瞬く間に燃え広がり、式場精神病院の監禁病舎など5棟を全焼した。

 第1監禁病舎には重度の精神病患者が多数入院していて、鍵のかかった鉄格子の監禁部屋の患者は鍵を開けることができずに焼死した。入院患者158人のうち19人が焼死し、遺体の多くは監禁室に閉じこめられたまま鉄格子にすがるように倒れていた。狭い監禁部屋には便座のないトイレがあるだけで、机もなければ洗面台もなかった。牢獄以下の様子が精神病院の痛々しい現実を物語っていた。

 式場精神病院は幹線道路から3キロ離れていて、病院への道は狭く消防車は身動きがとれなかった。水の便も悪く、約1時間40分で建物は原形を残さないほどに焼き尽くされてしまった。火事の原因は漏電とされている。

 同年6月26日には、東京都練馬区にある慈雲堂病院(精神病院)から出火、医局や診察室、薬局などを焼く火災があった。入院患者800人は、避難訓練が功を奏して全員無事であった。病気を治すための病院における火災は悲惨であるが、そのほか多くの犠牲者を出した病院火災を列挙すると。

 昭和221127日午前3時45分、新潟県高田市の高田脳病院から出火4棟が全焼。67人の患者のうち8人が死亡、13人が不明となった。火災の原因は患者による放火であった。

 昭和35年1月6日午後9時5分頃、神奈川県横須賀市小矢部町の社会福祉法人・日本医療伝道会・衣笠病院から出火。火元は木造2階建ての本館1階の産婦人科室付近で、本館、病舎など3棟を全焼、さらに裏山にも延焼。この火災で入院していた新生児や看護婦など16人が死亡、10人が負傷した。原因は助産師が石油ストーブの芯を上げたまま部屋を出て、ストーブの火が周囲に燃え移ったことだった。衣笠病院は昭和18年に海軍病院として建てられ、昭和22年に払い下げられて衣笠病院と名前を変えていた。内科、外科、小児科、などの科を有するベッド数131の総合病院で、被害を大きくしたのは建物が老朽化していたこと、廊下に油を塗り込んでいたため燃えやすかったこと、防火壁がなかったことなどが重なったためであった。

 昭和35年3月19日には、福岡県久留米市の国立療養所精神科から出火し3棟が焼失、11人が死亡している。昭和45年6月29日、栃木県佐野市の秋山会両毛病院で放火により17人が死亡。昭和48年3月8日未明、北九州市の福岡県済生会八幡病院で鉄筋5階建ての1階から出火し、13人が死亡60人が負傷している。原因は蚊取り線香の不始末とされている。さらに、昭和52年5月13日には、山口県岩国市の岩国病院で7人が焼死する火災が起きている。

 

【トラコーマ】昭和31年(1956年)

 昭和31年6月3日、虫歯、寄生虫、トラコーマの3大病・撲滅5カ年計画が学校を中心に開始された。トラコーマは伝染性の慢性角結膜炎で、撲滅運動が必要なほど感染力が強く、当時の人たちを悩ましていた。汚れた手やタオルなどによって感染者から接触感染した。

 大半は1歳から2歳の幼児期に感染し、長い潜伏期間を経て6歳から7歳頃に発症した。その症状は目やにや充血といった通常の結膜炎の症状で、多くは自然回復するが、1眼から他眼に伝染して失明する危険性もあった。

 眼瞼結膜にブツブツができるトラコーマは当時、「はやり目」の代表とされていた。トラコーマは最近ではほとんどみられないが、感染が減ったのは抗生剤の点眼ができたこと、国民の衛生状態が良くなったことによる。

 トラコーマはクラミジアによって生じる疾患である。現在、トラコーマは日本ではほとんど姿を消しているが、クラミジアは住む場所を変え、新たな問題を起こしている。それは性器クラミジア症で「性器のトラコーマ」となってひそかに流行している。

 何らかの理由で産婦人科を受診した10代女性の4人に1人がクラミジアに感染しているとされ、性感染症の半数近くを占めている。症状は極めて軽度で女性では8割、男性では5割が症状を示さない。しかし放置すると、女性の場合はクラミジアが子宮の奥に侵入して子宮内膜炎や卵管炎を起こすことがある。

 さらに、下腹部痛や不正出血、卵管内の癒着による不妊症、子宮外妊娠、腹痛の原因になる。女性の場合は自覚症状がなくても、出産時に赤ちゃんがクラミジアに感染し、新生児結膜炎やクラミジア肺炎を引き起こすことがある。

 

【広島原爆病院開院】昭和31年(1956年)

 昭和31年9月11日、広島市千田町の広島赤十字病院の構内に日本赤十字広島原爆病院が建設され開院式が行われた。広島原爆病院は被爆者の健康管理、診断と治療のために設立され、原爆被爆者のための拠点病院となった。

 当時は原爆被爆者に対応できる専門の診療機関がなかった。広島原爆病院は鉄筋コンクリート3階建て120床の病院で、内科、外科、皮膚科、レントゲン科が設置された。10日間で301人が受診し、37人の患者が白血球減少を指摘され要注意観察となった。

 広島原爆病院は、昭和2930年度の「お年玉付き年賀はがきの分配金」で建設され、その後、広島赤十字病院と合併し、広島赤十字・原爆病院と名称を変えたが、現在でも広島市南部の中核病院として多様化する被爆者の需要に応じている。

 お年玉付き年賀はがきの寄付金がどのように使用されているかを知る人は少ないだろうが、このように原爆病院設立の役に立っていたのである。

 

【遺体丸焼き販売事件】昭和31年(1956年)

 昭和31年9月12日、秋田県十和田町で死産児を焼いて粉末状にしたものを強壮剤として販売していた男性(69)が花巻署員に逮捕された。

 この男性は、最初は犬の肉を販売していたが、売れ残った犬を丸焼きにして、その粉末を強壮剤として売っていた。それを死産児に変えたのは、犬よりは人間の方が強壮剤として効果が大きいだろうと考えたからである。

 当時はまだ土葬の習慣が残っていた。男性は死産した赤ん坊の埋葬を頼まれると、赤ん坊の内臓を取り除き、炭火で丸焼きにして粉末状にして売っていた。この強壮剤は1袋10円で売られ1300円の売り上げだった。強壮剤としてその中身を人骨と宣伝していたとは思えないが、精力剤として粉末は好評だった。

 男性は元々裕福な家庭生活を送っていたが、愛人を囲うようになって田畑を手放し、生活費に困り犯行におよんだ。この事件はまだ医学が進歩していない時代に起きたが、その当時は人骨を特効薬と信じていた人たちがいた。

 医学、薬学が進歩した昭和55年にも同様の事件が起きている。昭和55年6月4日、岡山県金光町で72歳の男性が逮捕された。男性は深夜、自転車で近くの火葬場に行き、無断で人骨を持ち帰り、粉末状に砕き、それをオブラートに包み、あるいはカプセルに入れ販売していた。人骨が肝臓病や万病の特効薬と宣伝して売買していた。

 男性は過去にも同様の人骨販売で3回逮捕され、刑務所を出所したばかりだった。男性は薬事法違反で逮捕された。人骨を売る方も売る方であるが、それを買う方も買う方である。

 現在ではこのようなことは起こり得ないと思うが、昭和39年の厚生省の国民健康調査では、病気になった場合、医師にかかるのは48%、売薬が40%、はり、きゅうが3.3%、祈とう師が0.8%であった。当時は呪術療法がまだ生きていたのである。

 

【志賀潔】昭和32年(1957年)

 昭和32年1月25日、世界的細菌学者である志賀潔が郷里の宮城県で死去、享年86であった。志賀潔は、明治3年1218日、仙台藩藩士・佐藤信の4男として生まれ、幼名を直吉といった。明治19年に大学予備門(第1高等学校)に入学、翌20年に母の生家である藩医・志賀家を継ぎ、名前を「志賀潔」と変えた。

 明治29年、東京大学医学部を卒業すると北里柴三郎の伝染病研究所に勤務し、細菌学の研究に従事した。翌30年、日清戦争の直後に下痢を主症状とする赤痢が日本全国で大流行し、患者数9万人、死者2万人以上を出した。赤痢は伝染病であったが、その病原菌はまだ同定されていなかった。

 新入りの助手であった志賀潔は、患者の便を集め、便中の無数の細菌の中から赤痢菌を探しだそうとした。そして赤痢患者の血清を加えると、特異的に凝集する菌を発見したのである。動物実験を重ね、この細菌を赤痢の病原菌として明治3012月に発表した。

 当時、日本人の医学研究はいくつかの業績をあげていたが、その多くは海外の研究所で行われたもので、国内でなされた世界的業績はこの赤痢菌の発見が最初といえる。志賀潔はドイツの雑誌に赤痢菌の発見を発表し、世界にその名前が知られるようになった。

 赤痢菌は志賀の名をとってシゲラ:Shigellaと学名がつけられ、赤痢菌が出す毒素は「志賀毒素」と名付けられた。志賀潔の赤痢菌発見は、北里柴三郎の指導によるものであったが、赤痢菌の論文には北里の名前は記載されていない。北里は志賀潔の名前を高めるため、自ら陰に隠れのである。

 赤痢は赤痢菌の感染により、高熱、激しい下痢や血便を出し、死に至る病気である。赤痢菌を発見した志賀潔の名前は世界的に広まり、明治34年、志賀はドイツへ留学して、免疫学の創始者エールリヒに細菌学と化学療法を学ぶことになる。

 明治37年、志賀潔はエールリヒとともにアフリカの睡眠病(トリパノソーマ)の治療法を確立する。大正3年に伝染病研究所を辞職すると、新設された北里研究所に入った。大正9年に慶応義塾大学医学部教授、大正14年には京城帝国大学の初代医学部長、後に学長になる。昭和19年に文化勲章、26年に文化功労賞、32年には勲一等瑞宝章を受賞している。戦災により郷里の宮城県で老後を送り、後に仙台市の名誉市民となる。北里柴三郎、野口英世、志賀潔はこの時代の世界的医学者として名前を残している。

 

【スズメ退治】昭和33年(1958年)

 農家にとって群れを成して穀物を食い荒らすスズメは、カ、ハエ、ネズミと同じ害鳥であった。昭和33年3月5日の早朝、鳥取市周辺の農家で、アルコールにひたした穀物をスズメに食べさせ、酔ったところを捕獲する方法が試された。スズメたちはコロコロと倒れ、倒れたスズメはほうきで集められた。

 この捕獲作戦は大成功であった。アルコールにひたした穀物は前日のうちに農家に配給され、朝になってスズメの来そうな所にばらまかれていた。このニュースが伝わると、日本の各地で利用されることになる。

 スズメは穀物を食べることから害鳥と受け止められていたが、穀物以外の雑草の実を食べ、害虫を食べることから益鳥としての役割も大きい。中国では国をあげての大規模なスズメ退治が行われ、成鳥はもちろんヒナ、卵、巣までもことごとく潰してしまった。そして翌年、天敵のスズメがいなくなったため害虫が増え、穀物収益が減ってしまったのである。そのため中国は大飢饉に見舞われ、多くの餓死者を出すことになった。スズメは稲を食べる害鳥ではなく、害虫を食べてくれる鳥なので殺してはいけないのである。

 かつてスズメは日本国中どこにでもいたが、この20年で80%減少している。農薬などによる昆虫の減少、落ちモミの減少、気密性の高い住宅などのせいであろうが、あのさえずりが聞こえないのは寂しい。日本人にとって身近なスズメ、電柱に止まり、地面のえさをついばんでいたスズメはどこに行ってしまったのだろうか。

 

【人工肝臓の手術に成功】昭和33年(1958年)

 昭和331115日、日本医師会館で開催された日本外科学会で、東京大学医学部外科・木本誠二教授が人工肝臓の手術に成功したと報告した。肝硬変で肝性昏睡に陥った患者の血液と4頭の犬の血液をセロファン膜で接触させ、患者の肝機能の回復を図ったのである。

 患者の血液中のアンモニア値は半分になり、意識が回復、患者は1週間後に死亡するが、現在においても肝臓機能を代用できる人工肝臓は完成していないことから、一時的な補助肝臓と考えられる。

 昭和39年、同じ木本教授が慢性腎不全患者に生体腎移植を行った。永久生着を目指した本格的な腎臓移植の幕開けであった。同年、千葉大学の中山恒明教授らによって肝臓移植が行われたが5日目に死亡している。スターツルによって世界初の肝臓移植が行われた翌年のことであった。肝臓移植の第2例目は昭和44年に行われ、以後、平成5年まで遺体からの肝臓移植は行われていない。

 

【犯罪と精神障害】昭和34年(1959年)

 昭和34年1月31日、毎日新聞は少年院に収容されている少年の3割が精神異常者であると報道した。この報道は法務省矯正局が公表したもので、全国61カ所の少年院に収容されている9887人について調査結果であった。非行少年の3割が精神障害者で、1割が正常少年、残りの6割は異常と正常の間で準正常と分類された。

 犯罪と精神障害は極めて難しい問題である。それは精神障害の診断が確立されていないこと、精神障害者の犯罪という偏見を生みだすこと、さらに精神障害者は罪を犯しても刑罰が軽くなる減刑措置があったからである。

 平成11年の刑法犯検挙人員(交通関係業過失を除く)のうち、精神障害者は636人、その疑いのある者は1361人で、刑法犯検挙人員に占める比率は両者を合わせると0.6%である。この数値から精神障害者の犯罪率が高いとはいえないが、罪名別に比率を見ると、放火は14.4%、殺人9.4%が精神障害者で、重罪ほど割合が高いことがわかる。

 平成7年から11年までの5年間に、検察庁で不起訴処分とされた被疑者のうち、精神障害のため無罪となった者、心神耗弱を理由として刑を減軽された者は合計3629人となっている。罪名別では、殺人が726人(総数の20.0%)で最も多く、精神障害名では統合失調症(2134人、58.8)が最も多くなっている。しかしこれらは、あくまで統計上の数値で、精神障害と犯罪についてはまだ明確でないとするのが正しいと思われる。

 

【ベンゾール中毒】昭和34年(1959年)

 昭和34年9月6日、東京・葛飾区の主婦・笹川峯子さん(38)がベンゾール中毒により浅草寺病院で死亡した。ベンゾールの蒸気には有毒性物質が含まれ、死亡した主婦は内職で20年間ベンゾールを用い、再生不良性貧血を起こした。当時は国民皆保険制度が発足していない時代で、医療費は全額自己負担であった。内職者の笹川さんは3月に三楽病院で再生不良性貧血の診断を受けたが、医療費が払えずに退院していた。

 ベンゾールは石油から作られる有機溶剤で、ビニール製のサンダルを作る際に、のりの原料として使われていた。ビニール製品の接着作業が零細企業や内職者の間で盛んに行われるにつれ、特殊ゴムのりに含まれるベンゾール中毒が表面化してきた。ベンゾール中毒は以前から注目され、それまでベンゾール中毒で7人が死亡していたのである。

 労働基準法によるとベンゾールの危険度は高く、取り扱う者の25%に異常をきたすとされ、婦人や年少者のベンゾール使用は禁止されていた。しかし生活が苦しい内職者は、労働基準法の枠外で多用していた。

 今回の事件で、ベンゾール禍は大きく報道され、そのためベンゾールのりは製造が禁止になった。ベンゾール中毒は最も危険な職業病で、この事件は内職者の厳しい実態を表していた。

 

【長崎大入試問題漏えい事件】昭和34年(1959年)

 長崎大学医学部で、数年前から不正入学者が相当いるとうわさされていた。このうわさを確かめるため、同学部教授が新入生に英語の試験をしてみると、成績の非常に悪い者が4人いることが分かった。

 この4人の入学試験の成績はいずれも優秀であったが、英作文の答えはほぼ同じであった。この4人を集め、入学試験と同じ問題をやらせてみると、全く悪い成績であった。このことを4人に問い詰めると不正入学の事実を告白したのだった。彼らは英語の入試委員である学芸学部教授から模範解答を教えてもらっていた。4人は退学となったが、4人のうちの1人は学芸学部教授の次男だった。

 

【高嶋象山殺害事件】昭和34年(1959年)

 昭和341124日午後9時頃、東京都千代田区神田鍛治町にある高嶋易断本部に若い男性が訪ねてきた。高嶋象山さん(71)の長男の璋さん(40)が応接室で話をしているうちに口論となり、男性はセーターの下に隠し持った刃渡り17cmの出刃包丁を振りかざし、璋さんの右胸を切りつけた。

 悲鳴を聞いて高嶋象山さんが飛び出してくると、男性は象山さんの腹部を刺した。すぐにお手伝いさんが110番して警察が駆けつけ、男性は傷害の現行犯で逮捕された。被害者の璋さんは負傷を負って順天堂大学病院に収容され、3週間のけがと診断された。一方、腹部を刺された高嶋象山さんはお茶の水日大病院で手術を受けたが、翌未明に出血多量で死亡した。

 犯人は兵庫県西宮市の男性(24)で、高嶋易断の理論を研究していたが、易断と心霊術を混同して心霊術ノイローゼになっていた。

 殺害された高嶋象山さんは占い師として有名で、高嶋易断を創始した人物である。高嶋易断は、戦時中は出兵兵士の安否の判断、戦後は景気予想などで信者を増やしていた。高嶋象山さんという易者のトップが、自分を殺しにくる者を予想できなかったとして話題になった。

 

【肝油ドロップ】昭和35年(1960年)

 肝油とはタラやサメなどの魚の肝臓を搾り、その油を凝縮したものである。肝油にはビタミンA、ビタミンDが豊富に含まれ、栄養学的に非常に優れているが、強烈な魚の生臭さと服用しにくい欠点があった。

 薬学博士・河合亀太郎は「服用しやすい肝油」の研究を重ね、固形乳剤の形でビタミンの安定を保つ技術を開発し、これを肝油ドロップと名付け、明治44年から販売を開始した。カワイ肝油ドロップは全国の小中学校へ出荷され、戦後は海外にも輸出された。

 肝油ドロップは改良され、昭和35年から缶入りの肝油ドロップが発売された。味や安定性などの改良が重ねられ、現在では魚油からの凝縮ではなく、ビタミンAはレモングラスというイネ科の植物から、ビタミンD2はビール酵母やシイタケなどから抽出されている。

 かつては学校に行けば、肝油ドロップをもらえるという楽しみがあった。肝油ドロップは現在でも薬局で買うことができる。

 

【障害者雇用促進法】昭和35年(1960年)

 企業や公的機関に、一定の身体障害者および知的障害者を雇わせる法律が設定された。高度経済成長の中で立ち遅れていた身体障害者の雇用を促進し、障害者の生活を安定させることが目的であった。また障害の程度に応じて、職業訓練や職業の斡旋も行うことになった。

 この法律が設定された当初は、事業主の障害者雇用義務が明示されていたが、これは努力義務であって罰則は設けられていなかった。現在、法律は改定され、民間企業では1.8%、公的機関では2.1%の障害者を雇うことが義務づけられている。この数値を達成できない企業は1人当たり月5万円の納付金を国に支払うことが課せられているが、障害者を雇うより罰則金を払っている企業のほうが多い。

 障害者は年々増え続け、平成11年では就職を希望する障害者は12万人であるが、景気の低迷も重なり就職出来たのは3万人程度で、就職できる障害者は希望者の3分の1となっている。

 現在、公的機関では法定雇用率をほぼ満たしているが、民間企業では法定雇用率を達成していないのが55.7%となっている。障害者の雇用は生産性を考えれば、企業にとってマイナスとなるが、企業の社会的責任として障害者雇用が義務化されている。

 なお平成20年の統計では、カジュアル衣料のユニクロは従業員1541人のうち障害者雇用率7.43%(783人)で、2位のすかいらーくが2.9%である。ユニクロはダントツの第1位で、このことを宣伝していませんが、このような社会貢献は素晴らしいことである。

 

【BCG誤接種】昭和35年(1960年)

 昭和35年5月29日、大阪府堺市で行われたツベルクリンの集団接種で、誤ってBCGを接種し、接種を受けた児童102人が化膿したことが判明した。患部のウミから結核菌を含む抗酸菌が検出され、異常を訴えた児童を対象に、抗結核剤を投与する治療が始められた。

 同じようなBCG誤接種は昭和62年6月24日、福岡県久留米市立日吉小学校でも起きている。注射を受けた児童32人のうち22人が腕のはれ、痛み、ただれを訴え、うち1人が発熱して入院した。ツベルクリン注射を担当した医師(45)がBCG接種と間違えて接種したのである。また平成5年5月29日、奈良県十津川村でも同様の事件が起きている。村営上野地診療所の医師(48)がツベルクリン液と間違ってBCG液を注射し、幼児と中学生計5人の腕がはれ上がり入院となった。

 BCGに用いられる牛型結核菌は毒性を弱めており、局部的な症状で終わるのが普通である。まれではあるが全身に結核菌が広がり、潰瘍ができたり、リンパ節がはれたりすることがある。

【国民休暇村】昭和35年(1960年)

 国民休暇村は宿泊施設を中心としたレクリエーション総合施設を持つ保養地である。昭和35年8月、厚生省は国民休暇村の建設計画を発表し、「民間より安い料金で休暇村の施設を利用でき、健康で明るい国民生活に寄与すること」を目的に、国立公園・国定公園の自然環境の優れた景勝地に開村する計画がたてられた。

 国民休暇村の特徴は、日本の風景を代表する海岸や高原などの自然に恵まれた地域に位置し、宿舎を中心に広大な面積を持つことである。敷地にはプール、海水浴場、スキー場、児童遊園地、ゴルフ練習場、テニスコート、自然遊歩道、サイクリング施設などが完備され、家族ぐるみの健全な休暇を楽しむことができる。

 国民休暇村のうち遊園地、歩道、野営場などの公共施設については国や地方公共団体が整備し、宿舎、ロッジ、スキーリフトなどの有料施設については国民休暇村協会が運営している。宿泊料は民間の半分程度で、料金が安いため国民休暇村の経営は苦しくなっている。現在、全国に35カ所の国民休暇村があり所轄は環境庁である。

 

【トキソプラズマ症】昭和35年(1960年)

 ネコなどから感染するトキソプラズマ原虫が問題になった。トキソプラズマ原虫の本来の宿主はネコで、ネコの糞便中から排泄され、それが手指を介して口から感染する。当時のトキソプラズマ感染率は日本人全体の2割と高率であったが、健康人であればたとえ感染しても病気として発症するのはごくまれである。

 感染しているネコは無症状で、一般人でもほとんど問題にされないが、エイズなどの免疫不全の患者ではトキソプラズマ脳症を起こすことがある。また女性では、妊娠時に初感染すると、胎盤移行性のため、胎児に先天性トキソプラズマ症をきたすことがある。

 先天性トキソプラズマ症は、妊娠の数カ月前あるいは妊娠中に初めてトキソプラズマに感染した時に起こりやすい。いずれにしても胎児への感染はまれであるが、感染すれば胎児は重症になり流産することがある。

 先天性トキソプラズマ症では、脳症、痙攣、水頭症、頭蓋内石灰化、黄疸、肝脾腫などが見られることがある。母親を治療することによって、先天性トキソプラズマ症の発生を減らすことができる。一般的診断としては血清抗体の測定が行われ、最近ではPCRによる遺伝子解析も実用化され、治療はスピラマイシンであるが予防接種(ワクチン)はない。

 先天性トキソプラズマ症を治療しなかった場合、出産時には症状を示さなくても、子供が成長すると目や脳に徴候が出現することがある。乳児の発育不全、精神発達遅滞の原因となることもある。このようにトキソプラズマは胎児に影響を及ぼすことから妊娠時の感染が問題になるが、実際にはその頻度はきわめて少ない。

 トキソプラズマはネコに多い原虫なので、妊娠前後はネコに触らないことで、またネコはしばしば庭をトイレ代わりにするので、庭いじりで土や砂に触れて感染することがある。手洗いなどの予防に努めることである。

 

【鼻クソ発言】昭和35年(1960年)

 昭和3512月の日本癌学会で、牛山篤夫博士ががん治療薬「SIC」の効果を発表する予定だった。SICは特殊な細菌から作られたがん治療薬である。これについて癌学会会長・田崎勇三はSICを「科学的根拠のない鼻クソみたいなもの」と発言し、牛山博士の学会発表を差し止めた。このため学会ばかりでなく一般の人たちまで鼻クソ論争が広まり、マスコミは興味本位で内容を報道した。

 田崎はSICの学会発表を中止させた理由について、学問的に価値がないこと、学会に発表した場合、それがSICの宣伝に利用される可能性があること、鼻クソみたいなものをがんの薬として発表させては癌学会の威厳にかかわると説明した。

 この鼻クソ発言に牛山博士は公開討論会を要求したが、田崎は混乱を招くだけだとしてこれを拒否。SICはその後、国会でも問題になり、東京慈恵会医科大学が中心になってSIC研究会をつくり、その臨床効果などが調べられたが、がんの特効薬としてのデータを示す前に自然消滅した。

 牛山博士が細菌から作ったSICは、がんの特効薬として世間を騒がせたが、結果的にはがんの治療薬としては効果を示せなかった。薬剤にはプラシーボ効果があり、暗示による効果だったのではないだろうか。「きっと良くなる。必ず良くなる」といわれると、それを信じた人たちに多少の効果をもたらすのである。

 

【饅頭毒殺事件】昭和36年(1961年)

 広島県の因島(いんのしま)は瀬戸内海に浮かぶ静かな島である。この因島で、近親者7人の毒殺を謀った饅頭毒殺事件が起きた。この怪奇事件が発覚したのは、昭和36年1月8日のことである。

 この事件は農業を営む三沢家で、饅頭を食べた芳子(4)ちゃんが急死したことに端を発している。芳子ちゃんは饅頭を食べた直後に苦しみだし、近くの医院に運ばれたが死亡した。医師は変死としたが、結局、芳子ちゃんの死因は心臓麻痺とされ葬式の準備が行われた。ところが弔問客より先に現れたのは警察官であった。病死ではなく変死の疑いとされたのである。出棺は中止になり、芳子ちゃんの遺体は警察の霊安室へ運ばれ家宅捜査が行われた。

 警察が動いたのは、因島区検察庁に「おかしいと評判だ、調べてくれ」と密告の電話が入ったからである。電話は「芳子は病死ではなく毒殺で、数年前から4人の家族が同じように相次いで死亡している」と伝えたのであった。

 芳子ちゃんの死亡は毒殺事件へ発展、芳子ちゃんは司法解剖がなされ、有機リン系薬剤による中毒死であることがわかった。さらに有機リン系の農薬であるパラチオンが検出され、瞳孔の縮瞳、血液中のコリンエステラーゼ低下の所見もパラチオン中毒死の特徴と一致していた。芳子ちゃんの父親M男(32)が同年2月2日に逮捕された。

 M男は逮捕直後に5人を毒殺したことを自供した。M男の二女、三女、M男の兄夫婦、芳子の5人を殺害したと自白したのだった。捜査本部は三沢家の墓を掘り起こし、白骨化した遺体を調べたが、毒物反応は検出できなかった。M男は5人殺しを自白したが、捜査本部が起訴できたのは芳子ちゃん殺しと3人の女性への殺人未遂のみであった。

 昭和43年7月、広島地裁尾道支部はM男に懲役15年の判決を下した。しかし饅頭の入手経路、農薬の仕掛け方、指紋などの物的証拠がなく、自白も矛盾点が多かった。1審から6年後の昭和491210日、広島高裁は自白の信用性を否定し、M男に対し「疑わしきは被告人の利益に」の原則を適用して無罪を言い渡した。

 この事件が起きたのは、まだ封建制の残滓(ざんし)が残っていた昭和30年代のことである。昔の農村にはよくあることで、因島でも近親者同士の内婚がみられていた。道路に沿って長々と続く家並みの中に、濃密な血を分けた複雑な親族関係が営まれていた。M男が親族を次々に殺害した動機は財産目的だったと噂されていた。

 昭和22年に相続法が改正されるまでは、長男が相続する家督相続だった。財産の相続権はそれまでは男子優先、嫡出子優先、年長優先の三原則で、長男がすべてを相続することになっていた。法律が変わっても、農家は田畑の分散をおそれ、事実上長男がすべてを相続する家督相続が行われていた。

 狭い田畑を子供たちに細分化することは、財産を減らし共倒れになりかねなかった。次男としての地位をのろったM男は、兄を殺し財産を独占し、さらに口減らしのために娘たちを次々に毒殺したと噂された。M男は無罪となったが、ではこの狭い因島で饅頭に毒を入れたのは果たして誰なのだろうか。

 

【ハイシー発売】昭和36年(1961年)

 昭和36年、武田薬品工業は新しいタイプのビタミン剤「ハイシー」を発売した。ハイシーはビタミンC(1錠に50ミリグラム)を含み、しみやそばかすなどの色素沈着を抑制すると宣伝された。しみ、そばかすの原因になるのはメラニン色素である。紫外線を浴びた時に、体内のチロシンというアミノ酸が黒色メラニンに変化し皮膚を黒くするとされている。

 ビタミンCは黒色メラニンをつくる酵素の働きを抑え、また黒色メラニンを無色のメラニンに変化させ、しみ、そばかすを緩和するとされている。ハイシーは若い女性をターゲットに15錠入り400円で発売された。女性の肌への関心は強く、ハイシーは売り上げを急増させた。

 皮膚をきれいにする薬剤としては、ハイシーよりもエーザイの「チョコラBB」の方が歴史は古い。昭和27年に発売されたチョコラBBは皮膚の代謝をよくするビタミンB2を主成分に現在でも販売されている。

 また薬剤ではなく、果物に含まれるポリフェノール、野菜に含まれるベータカロチンにもメラニン合成を抑える働きがあることが注目されている。これらの薬剤の効果はあるのだろうが、お肌のためには、ストレスや不規則な生活を避けることがより必要であろう。

 

【バナナコレラ騒動】昭和36年(1961年)

 バナナは、明治36年頃から日本領であった台湾から輸入されていた。しかし台湾ではバナナよりもコメの生産を優先させる政策がとられ、日本への輸入はわずかばかりであった。昭和25年に日本・台湾間で通商協定が結ばれ、バナナは再び日本に輸入されるようになった。しかしサラリーマンの平均月収が約1万円の時代に、バナナは卸値1キロが約1000円で、超高級品となっていた。

 その後、バナナは急速に値段を下げたが、昭和36年から37年にかけて台湾の雲南、高雄でコレラが発生。台湾から横浜港に入港した「イサルコ号」の船員からコレラ菌が検出され、神戸港で陸揚げされたバナナ1億6000万円分が自衛隊の火炎放射器によって焼却処分にされた。また台湾バナナからコレラが感染するとうわさが広がり、台湾バナナは輸入禁止となった。ところが翌38年に台湾バナナは解禁となり、また南太平洋のバナナも輸入され、次第に輸入量を増やしていった。現在、日本のバナナの輸入先はフィリピンが70.6%、エクアドルが20.3%、台湾が6.9%となっている。バナナ輸入量は増加傾向にあり、平成12年のバナナ輸入量は107.9万トンに達している。

 日本産バナナは、鹿児島と沖縄両県を合わせて約340トンである。また最近では遺伝子工学が農作物に応用され、コレラワクチンとなる遺伝子を組み込んだ作物がすでに栽培されている。コレラ予防バナナ、コレラ予防ジャガイモなどが作られ、これも科学の進歩である。

 

【中性洗剤有毒説】昭和36年(1961年)

 中性洗剤は水に溶けると中性を示す合成洗剤で、それまでの石けんに比べて洗浄力が強いことから売り上げを伸ばしていた。洗剤業界は「無味無臭で毒性なし」「放射能も洗い流せる」とのキャッチ・フレーズを使い、中性洗剤は洗濯用に、次いで台所用に商品化された。また食器だけでなく、野菜についた寄生卵の洗浄にも効果があると宣伝された。

 ところが昭和36年頃から、中性洗剤有毒説がささやかれるようになる。東京医科歯科大学・柳沢文徳教授が「中性洗剤を使い続けると、肝臓や皮膚が冒される」と警告したのだった。

 柳沢教授の警告が社会的反響を引き起こし、もし有毒説が正しければ、月産1万トンの洗剤業界にとって死活問題になった。この警告は国会でも問題になり、厚生省が調査に乗り出すことになった。厚生省は通常の使用法では無害としたが、中性洗剤有毒説はさまざまな波紋を引き起こした。

 西岡武夫・文部省政務次官は、「中性洗剤のシャボン玉が体内に入った場合に有害」と教育委員会に通達を出した。また東京都教育庁は学校給食では野菜、果物は水洗いだけで、中性洗剤は使わないように指示を出した。中性洗剤と、がん、奇形、肝障害との関連性を示す発表が相次ぎ、当時の水俣病も中性洗剤説が言われたほどである。

 この論争は10年以上にわたり繰り返されたが、中性洗剤有毒説は次第に否定されるようになった。この問題を検討していた厚生大臣の諮問機関である食品衛生調査会は中性洗剤有毒説を否定、三木武夫首相が国会で中性洗剤に毒性のないことを述べて決着がついた。

 

【ベン・ケーシー】昭和37年(1962年)

 若き脳神経外科医の活躍を描くアメリカABCテレビの連続ドラマ「ベン・ケーシー」が日本でも放映され爆発的人気となった。昭和3711月からTBSで放送されたベン・ケーシーは、たちまちのうちに熱狂的なファンをつかみ、昭和38年1月11日には視聴率50.8%を記録した。

 ドラマはロサンゼルスのカウンティ病院に勤務する脳神経外科医ベン・ケーシーの物語で、チーフレジデント(医局長)のベン・ケーシーは正義感にあふれ妥協を許さない熱血感であった。医師でありながら決して科学主義者ではなく、むしろヒューマニスト、ロマンティストだった。また謙虚でありながら、患者をしかりつける強さを持ち、インテリなのに女性を口説けない不器用さがあった。

 ベン・ケーシーの誠実さと人間味が、視聴者の好感を得たのである。無愛想でぶっきらぼうであるが、それが魅力的であった。相手が患者であろうが同僚であろうが、患者のことや医学のことになるとズケズケとものを言った。人間の尊厳を重んじ、医学的良心に従い妥協をしない。そのため社会的なくだらない習慣を無視して失敗してしまう。

 たとえば他の医師が間違った治療を患者にしていれば文句をいった。そこには医局閉鎖性は見られず、ヒューマニズムの行動、患者本位の考えがあった、医師としての技術を最大に活用しようとする態度、医師としての情熱と正義漢が人気を呼んだのである。

 ベン・ケーシー旋風に、東大の外科医・清水健太郎が「私の周囲にもベン・ケーシーはたくさんいる」と雑誌に書いたところ、ベン・ケーシーのような医師が日本にいるのか、いないのかが論争になったほどである。

 ベン・ケーシーを演じたのは、当時35歳の米人俳優ビンセント・エドーワーズであった。彼の男性的なマスクも人気の一因であったが、西部劇にみられる強いアメリカ、レディーファーストが示す優しいアメリカを象徴する役柄であった。善玉のベン・ケーシーが最後に勝つというストリーが人生の理想像を示していた。

 現在、医師の多くが長袖の白衣の代わりに、半袖の「ケーシースタイルの白衣」を着ている。これはケーシーが着ていた手術着をまねたもので、ケーシースタイルの白衣は現在では定着している。当時はこれに目をつけたメーカーがケーシー・ブラウスを一般人向けに売り出し女性の人気を得ていた。

 ベン・ケーシーの成功以来、「ドクター・キルデア」「ER」「シカゴ・ホープ」など、医者もののドラマが流行することになる。ビンセント・エドワーズは膵臓がんのため平成8年3月11日に亡くなっている。享年67であった。

 

【キーパンチャー病】昭和37年(1962年)

 昭和37年2月26日、東京都中央区日本橋の野村証券本社ビル5階から女性社員(22)が飛び降り自殺した。この女性は機械計算課に所属し、電気計算機のキーパンチャーをしていた。この事件により職業病としてのキーパンチャー病が世間に知られるようになった。

 当時のコンピューターの性能は、今日のものに比べればけた違いに劣っていて、パンチカードという穴の開いたカードを機械に入れ、その穴を読み取って計算していた。キーパンチャーの仕事はその穴を穿孔機で開けることで、穿孔機の英数字のキーを押してパンチカードに入力していた。

 毎秒3.4回のキータッチが必要で、1日数万タッチないし10万タッチもの重いキーを打っていた。その結果、手指のしびれや痛みを訴え、重度の肩こりを生じさせ、キーパンチャー病を発症させた。

 当時の日本は高度成長期を迎え、金融機関を中心に次々と大型コンピューターが導入されていった。キーパンチャーやタイピストは若い女性のあこがれの職業であったが、キーパンチャーの仕事は肉体疲労だけでなく精神的負担を強いるものであった。

 昭和30年頃からキーパンチャー病が激増し、女性社員の自殺で社会的注目を集めることになった。キーパンチャー病は新しい職業病で、後に頸肩腕症候群と呼ばれるようになった。女性労働者は「むかし紡績、いま金融」といわれ、キーパンチャー病は職業病の花形となった。

 

【プラスチック製注射器の販売】昭和38年(1963年)

 昭和38年1月18日、仁丹体温計(現テルモ)からプラスチック製注射器が発売された。それまでの注射器はガラス製であったが、プラスチック製注射器が可能になった。注射器はガラス製から使い捨て(ディスポーザブル)になり、感染の恐れがなくなった。仁丹体温計は第一次世界大戦で体温計が輸入できなくなったことから、北里柴三郎が中心となり体温計の国産化のために創立された会社である。

 仁丹体温計は医療の安全性を高めるために国産初の使い捨て注射器を発売、以後使い捨てのカテーテルや輸液器機などの開発を行っている。現在、テルモは人工臓器などの先駆的開発を行い、医療を通じて社会に貢献することを会社の理念にしている。

【米軍機、病院に墜落】昭和38年(1963年)

 昭和38年5月16日午後3時半頃、米空軍のマーチンB57爆撃機が、埼玉県南部の毛呂山町にある毛呂山病院(丸木清美院長)にごう音とともに墜落炎上した。墜落したマーチンB57爆撃機は横田基地所属の双発ジェット爆撃機で、搭乗していた2人の乗務員はパラシュートで脱出、病院の近くに降下して顔などに軽いけがをしただけだった。

 毛呂山病院は八高線毛呂山駅から100メートルの町はずれにあり、毛呂山病院と看護寄宿舎の間にマーチンB57爆撃機が墜落したのである。爆風により木造2階建ての看護寄宿舎の一部は壊れ、病棟、看護寄宿舎、院長宅は一瞬のうちに火炎に包まれ燃え広がった。

 駆けつけた同病院職員や消防隊が懸命に消火に努めたが、夕方まで燃え続け、病院は全半焼した。毛呂山病院は精神、内科、外科、結核などの病棟があり、入院患者1100人で職員500人が勤務していた。墜落した時の爆風で、入院患者・太幡吉之助さん(46)が吹き飛ばされて死亡、火災により看護婦ら14人が重軽傷を負った。

 

【帝国ホテルで集団赤痢】昭和38年(1963年)

 昭和38年5月25日、東京・帝国ホテルの従業員2人が真性赤痢に罹患していることが判明。ホテルの従業員の検査が行われ、27日には赤痢患者は27人となり、赤痢の集団発生であることがわかった。

 患者は従業員だけで宿泊者に感染者はいなかった。そのため従業員の食堂に納入されている食材が原因とされ、食材を納入している業者を調べた結果、納入業者2人から赤痢菌が検出された。しかし納入業者2人は納入時にホテルで食事をしており、赤痢菌を持ち込んだのか、赤痢菌に感染したのかは不明であった。

 帝国ホテルは日本を代表するホテルである。ホテルにおける集団赤痢は、帝国ホテルが日本で初めてのことであった。宿泊者の1割は外国人で、その中にはインドネシアのスカルノ大統領もいたが、大統領は「わしはここを動かない」といって、ホテル関係者を感動させた。宿泊者600人は他のホテルに移動した。

 帝国ホテルは、国鉄の食堂も担当していたが、列車で食事を取った2人が疑似赤痢で入院となった。また帝国ホテルの従業員の家族も二次感染で入院となった。そのため国鉄の食堂は日本食堂と新大阪ホテルに振り替えられた。

 昭和38年6月3日の時点で集団赤痢患者は保菌者を含め214人に達した。最後まで宿泊していたスカルノ大統領も帝国ホテルが営業停止になったので、他のホテルに移ることになった。その当時、日本は世界で最も清潔な国として知られていた。最高級のホテルである帝国ホテルの集団赤痢事件は、東京オリンピックを翌年に控え関係者をあわてさせた。

 

【やせたソクラテス】昭和39年(1964年)

 昭和39年3月28日、東京大学の卒業式で2000人の卒業生を前に大河内一男総長が式辞で、「太ったブタよりも、やせたソクラテスになれ」と述べ、その日の各紙夕刊で大きく取り上げられた。

 ブタは私利私欲に走る者を意味し、ソクラテスは幸福、正義、人間の生き方を追及し、その信念ゆえに処刑されたギリシャの哲学者である。昭和39年は60年安保闘争が終わり、高度経済成長の時期であった。総長の言葉は経済優先の考えを警告したのだった。

 やせたソクラテスは有名な言葉となったが、実際には、大河内総長は式辞で原稿を読み飛ばし、この言葉を述べていない。この報道は誤報であったが、あらかじめ用意された予定原稿が報道各社に渡されていたため記事になった。

 この「太ったブタよりも、やせたソクラテスになれ」は大河内総長の創作した言葉ではない。「太ったブタになるより、やせたソクラテスになりたい」というJ・S・ミルの言葉の引用で、ちなみにソクラテスは実際には太っていたらしい。また、「やせたブタよりも、太ったソクラテスになれ」でどこが悪いのか、などの議論があった。大河内総長は今の学生はよく勉強をするが、必要な本しか読まない。勉強に遊びがないと指摘していた。

 

【愛と死を見つめて】昭和39年(1964年)

 昭和39年は東京オリンピックの年である。この年に出版界を席けんしたのは東京オリンピック関連のものではなく、1冊の純愛本「愛と死を見つめて」であった。この純愛本は若者の心をとらえ、年末までに132万部を売り上げる記録的ベストセラーになった。

 オリンピック同様の感動をもたらしたこの本は、実話にもとづいたもので、難病と闘う同志社大の女子学生と同じ病院で知り合った青年との書簡集をもとにしていた。

 軟骨肉腫という難病に冒され入院を余儀なくされた大島みち子(ミコ)と、恋人の河野実(マコ)とが交わした往復書簡は3年の間で400通を超えていた。手紙には死を意識しながらも精一杯生きようとするミコの気持ち、ミコとマコとの一体感の中で、苦しみと優しさが伝わってきた。死を前にしながらもひたむきに生きようとする純粋な姿に読者は涙を流した。重なる手術によって顔が変形し、死を意識しながらも生きようとする思いが込められた手紙は、純粋で悲しいながらも胸が詰まる暖かさがあった。

 「愛と死を見つめて」は河野実がみち子との400通余りの手紙を大和書房に持ち込んで出版された。難病の彼女を励まし、医学の無力さ、両親の傍観、このような不満から、河野実が手紙を出版社に持ち込んだのであった。この本を週刊誌「女性自身」が取り上げ、話題に火がついた。テレビの東芝劇場では山本学と大空真弓が主演し、1年に4回再放送された。

 さらに当時の青春スター、吉永小百合と浜田光夫を主演に日活が映画化し大ヒットとなった。映画の主題歌を青山和子が歌い、第6回レコード大賞を受賞している。「マコ甘えてばかりでごめんね、ミコはとっても幸せなの…」で始まる愛と悲しみの歌であった。

 愛と死を見つめては、いわゆる「難病の若い女性をめぐる恋物語」という難病ものドラマのはしりであった。

 

【ニセ死亡診断書事件】昭和39年(1964年)

 死亡診断書の虚偽作成事件を捜査していた警視庁捜査二課は、昭和39年2月24日、千葉大医学部第二外科・中山恒明教授を虚偽私文書作成違反容疑で警視庁に任意出頭を求め事情聴取を行った。中山教授は付属病院で死亡した中国人の死亡診断書の死亡時間を18時間遅らせた罪に問われたのだった。

 この事件は、千葉大医学部付属病院に入院していた東京都杉並区の中国人・林葆郷さん(45)が食道がんで死亡。林さんと内縁関係にあった米子さんが千葉市役所に火葬許可書の申請書を提出したが、火葬許可書と死亡診断書に書かれた死亡時間が食い違っていたのである。米子さんが火葬を申請した時には、林さんはまだ生きているという奇妙な死亡診断書だった。

 林さんが死亡した日の午後、米子さんは林さんとの婚姻届と子供の認知届を杉並区役所に提出した。つまり米子さんは林さんが死亡してから、死亡診断書に記載された18時間の間に正式な妻となっていた。警視庁は林さんの5億円の遺産相続に関係するとして捜査を始めた。

 死亡診断書を書いた柳沢医師は虚偽の経過を全く知らず、中山教授が家族から頼まれて当直の柳沢医師に書かせたものだった。中山教授は取り調べに「死亡診断書を虚偽作成したのはすべて自分の責任」と事実を認め、「家族の事情を考慮した善意によるもの」と説明した。

 米子さんが後日、中山教授に50万円を渡していたことが明らかになったが、これについては偽装の謝礼ではなくがん研究のための寄付金とされ、贈収賄は成立しないことで一件落着となった。

 中山恒明教授は食道がん、胃がんの名医として世界的に知られていて、また日本で初めて肝臓移植を行ったことでも知られている。食道外科の世界的権威で、国際外科学会会長でもあった。昭和40年、中山教授は東京女子医大に赴任し、消化器病センターを設立し、「世界の中山」として活躍、多くの弟子を育てている。平成22720日に老衰で死去、94歳であった。

 

【赤チン】昭和39年(1964年)

 当時の子供たちは、近所の路地や原っぱで夕日が沈むまで遊んでいた。半ズボンの子供たちははしゃぎ回り、よく転んだが、転んでひざ小僧を擦りむいたりしたときに活躍したのが赤チンであった。

 赤チンはガキ大将のシンボルで、また子供が転べば近所の誰かが赤チン持ってきてくれた。赤チンを塗った後、傷口にフーフーと息を吹きかけ、乾かしたものだった。「赤チンをつけて飛び出す風の中」、「赤チンがキラキラ光るひざ小僧」という川柳があった。

 赤チンは、「赤色のヨードチンキ」の略で、家庭の救急箱や小学校の保健室にも「赤チン」だけは置いてあった。宝くじの景品として赤チンが出された時代もあった。最盛期には、全国で80社余りのメーカーが赤チンを製造していたが、あの赤チンはいつしか姿を消してしまった。

 赤チンの成分はマーキュロクロム(有機水銀化合物)液を精製水に溶かしたもので、大正8年、W・ヤングによって開発された殺菌・消毒薬で、日本では昭和14年に「日本薬局方」に掲載され、戦後になって急速に普及した。

 この赤チンが大打撃を受けたのは水俣病であった。赤チンは無害であったが、有機水銀による水俣病が問題になると、製造過程で水銀を出す悪いイメージがつくられてしまい、マキロンなどの新しい殺菌消毒薬が大々的に宣伝され、赤チンは日本から消えていった。

 最近では、擦り傷にはスプレータイプの「マキロン」、「バンドエイド」が家庭の必需品となっている。「赤チン」は現在でも「マーキュロクロム液」として売られているが、生産量はごくわずかである。赤チンは懐かしい昭和の遺産といえる。

 

【黄害】昭和39年(1964年)

 JRが国鉄と呼ばれていた時代、列車の便器から下をのぞくと、地面が間近に見え、枕木が飛ぶように過ぎ去っていった。当時の列車のトイレは、糞尿をそのまま列車外に落下させる開放式だった。糞尿を風圧によって粉砕する方法で、そのため列車が停車している間、列車が都市部を走行中は、トイレは使用禁止とされた。列車が動き出すまで脂汗をにじませながらトイレの前でじっと待っていた人も多かった。この走行中に落下飛散した糞尿が周辺に飛び散り、住民、乗客、保安要員の健康への影響が懸念され、「黄害」として問題となった。

 開放式トイレからタンクにためる閉鎖式のトイレが登場したのは、昭和39年の東京オリンピックと同時に開業した東海道新幹線だった。列車の床下にタンクを設けて糞尿をため、列車が車両基地に戻ったときに抜き取る方式である。このタンク方式は、抜き取り処理が煩雑だったため、在来線の長距離列車には採用されなかった。

 在来線では、消毒液と糞尿を一緒に流す循環方式に徐々に切り替えられていった。この循環方式は、洗浄した汚物だけをためる方式で、洗浄水は殺菌処理後に再び使用された。あのペダルを踏んで青い液体が流れる方式である。国鉄からJRになった後もこの方式はローカル線で採用された。そして最後まで残っていたJR北海道の開放式トイレも、平成13年にタンク方式になった。

 東海道新幹線から40年近くなって垂れ流し方式は完全に廃止となり、平成9年頃からはバキューム方式が採用された。これは少量の水とともに汚物をにおいもろとも真空で吸引する方法で、タンクの容量が少なくて済むのが特徴である。それまでの列車のトイレは狭くて不安定だったが、最近では車いすでも利用できるようにスペースが広がり、内装もきれいになり、列車トイレのイメージは大きく変わった。かつての列車のトイレが懐かしく思えるほどである。