昭和20年代

 昭和20814日、日本はポツダム宣言を受諾し、翌15日の玉音放送によって長かった戦争は終結した。敗戦による失望と落胆、悲哀と絶望、国民はこの虚脱感の中で呆然と立ちつくすしかなかった。そして我に返れば、都市住宅の3分の1が空爆で焼失し、国内のインフラは破壊され、物量は寸断されたまま日本は壊滅的打撃を受けていた。復員兵や引き揚げ者が狭い日本に戻り、食糧難からエンゲル係数は戦前の32.5%から67.8%へ上がり、人々は極貧の中で「食うため、生きるため」の苦難の日々を送った。

 空腹、貧困、ノミシラミ、不衛生、伝染病、国民生活は最悪の事態になった。しかし戦争が終わった安堵感、空襲のない安心感、軍国主義からの解放、新たな民主主義への期待が人心を支えていた。終戦から5日目には、3年8ヶ月ぶりに外燈がともり、2ヶ月後にはリンゴの歌が焼け野原に流れ、希望に満ちた映画が日本を明るく照らした。鬼畜米英のアメリカ兵は映画俳優のようで、天皇陛下万歳がマッカーサー万歳に変わっていた。

 既存の価値観は崩壊したが、同時に「新生日本の風」が息詰まる心を晴れやかにした。昭和21年にはプロ野球が再開し、昭和22年の「東京ブギブギ(笹置シヅ子)」が地に落ちた神州日本を元気にした。昭和23年に湯川秀樹博士がノーベル賞を受賞し、昭和26年に白井義男が世界フライ級チャンピオンになり、力道山が日本に自信を与えてくれた。日本が初めて経験する国家的敗北のなかで、没落した軍人や華族が密かに嘆いていただろうが、多くの庶民にとって終戦はまさに民主主義の始まりであった。

 連合国軍総司令部(GHQ)は日本の軍国主義を全面否定し、日本が再びアメリカの脅威とならないように、東京裁判で平和に対する罪人として戦犯者を裁き、戦争に協力した者を公職から追放し、戦争の温床となった15の財閥を解体させた。さらに農地改革を行い、自由で民主的な日本を誕生させようとした。しかし米ソの対立が深まると、GHQは日本をソ連共産主義の防波堤とするため、労働組合を取り締まり、警察予備隊を設立させた。このGHQの政策は、日本に史上最大の転換をもたらし、今日の日本の出発点といえる。しかし日本人は故意に忘れようとしているのか、戦国時代や明治維新の激動は語っても、民衆にそれ以上の変化をもたらしたGHQについては語ろうとしない。

 日本経済は統制経済から、闇経済、預金封鎖、新円切り替え、ハイパーインフレを経て、池田蔵相が「中小企業の倒産やむなし」、と発言した2か月後の昭和256月、朝鮮戦争が勃発。繊維や金属を中心とした軍需景気から日本経済は息を吹き返し、政府は電力、鉄鋼、海運、石炭などの基幹産業を優遇する政策をとり、日本経済は急速に復活した。昭和26年4月にマッカーサー元帥が解任され、昭和27年にサンフランシスコ平和条約が発効されると、GHQの占領統治は終結し、日本は独立国として輝かしいスタートとなった。もちろんこの講和条約は共産主義国を除く自由主義陣営との単独講和であり、同時に日米安全保障条約も調印され、日本は共産主義陣営と対立することになった。

 昭和20年前後は、薬もなければ医療器具もなく、人々は栄養失調に倒れ、伝染病に命を奪われていた。国民はその日を生きることに精一杯で、医療を考える余裕すらなかった。しかしGHQによる衛生環境の整備、DDT散布による公衆衛生の改善、ペニシリンやストレプトマイシンの普及によって、日本の公衆衛生と医療は、終戦後の数年間で飛躍的な改善をとげた。

 大正10年から14年までの日本人の平均寿命は男性44.8歳、女性53.2歳だったが、昭和20年の日本人の平均寿命は、男性23.9歳、女性39.5歳とされている。戦争によって日本人の平均寿命がいかに低下したかが分かる。しかし昭和26年の平均寿命は、男性60.8歳、女性64.9歳。昭和30年には男性63.6歳、女性67.8歳と急速に延び、戦後10年間で平均寿命が20歳以上延びるという驚異的な時代となった。この平均寿命の延びが、国民生活の向上をそのものを表している。

 

 


終戦の詔書 昭和20年(1945年)

 昭和20年8月15日の正午、昭和天皇による「堪え難きを堪え、忍び難きを忍び…」の玉音放送が伝えられた。この玉音放送によって、3年8カ月にわたり300万人以上の戦死者を出した太平洋戦争に終止符が打たれた。それは昭和6年の満州事変から15年にわたる長い戦争であった。

 昭和天皇が読み上げる「終戦の詔書」は、時折入る真空管ラジオの雑音に加え、漢文混じりの難解なお言葉だったため、終戦を伝える内容としては不明瞭であった。初めて聞く天皇陛下の肉声を、激励の言葉と勘違いして万歳をする者もいた。しかし放送同日に「終戦の詔書」の全文が新聞に掲載され、国民は終戦を知ることになる。

 玉音放送の前日、宮中の防空壕で御前会議が開かれ、昭和天皇はポツダム宣言を受諾し、無条件降伏を受け入れる聖断を下した。「終戦の詔書」は、内閣書記官長の迫水久常が昭和天皇の言葉を再現して草案を作り、その後、漢学者、閣僚などが推敲を重ねて作られた。この「終戦の詔書」は、天皇が国民に終戦の事実を伝えただけでなく、日本が太平洋戦争に至った事情、終戦に至るまでの経過を、国民に理解してもらうための謝罪文であった。さらに今後予想される終戦後の混乱を防ぎ、日本民族の再起に向けての悲願を含めての文章であった。そこには不戦の誓いもなければ、対戦国への謝罪や自虐的史観もない。終戦に臨んだ天皇の本心が素直に述べられている。

 「堪え難きを堪え、忍び難きを忍び…」。この一節はこれまで何度か耳にし、また日本人の胸に何度もよみがえった言葉であるが、「終戦の詔書」の全文を読んだ人は極めて少ないであろう。多くの国民は玉音放送を知っていても、詔書の全文を読んでいないと思う。それは詔書が難解な文章で、また天皇の言葉に注釈を加えることへの抵抗感があったからである。しかし戦後の日本を再考するには、日本の原点である「終戦の詔書」を読むことが出発点になる。

 難解な文章を分かりやすくするために訳文を試みた。この詔書の意味を知り、次ぎに記載した原文をかみしめて読んでほしい。「終戦の詔書」は今日読み返しても感慨深く、また名文中の名文である。昭和天皇の苦悩に満ちたご聖断のお言葉、日本の原点がここに書かれている。

 

≪終戦の詔書≫(私的訳文)

 世界の体制と日本の現状を深く考えると、私は非常の措置をもってこの時局を収集しなければいけない。そこで忠良なる国民に報告したい。私は日本国政府に、米国、英国、中国、ソ連からのポツダム宣言を受諾し、終戦とすることを通告させた。

 そもそも日本国民の平和と平穏を願い、また世界の万国と共に栄え、万国と楽しみを共にすることが、これまでの歴代天皇が残した教えであった。私も常に心にとどめてきたことである。

 米国、英国の2国に宣戦したのは、日本の存続と東アジアの安定を願ったからで、ポツダム宣言に書かれてあるような他国の主権を排し、領土を侵すようなことは、もとより私の考えていたことではない。しかしながら戦争はすでに4年を経過し、わが国の陸海軍の将兵の勇戦、多数の官吏の努力、一億国民の奉公、国民各層の人々が最善をつくしたにもかかわらず、戦局は必ずしも好転していない。

 また世界の大勢も日本に有利とはいえない。さらに敵国は新たに残虐な原子爆弾を使用し、何の罪のない国民を殺傷し、その惨害は測り知れない。もしこれ以上戦争を継続すれば、わが日本民族の滅亡を招くばかりでなく、ひいては人類の文明をも破壊されてしまう。そうなれば天皇として億兆の国民を預かっている私は、どのように歴代天皇の神霊に謝罪すればよいのだろうか。このことが、私が日本国政府にポツダム宣言を受諾するように命じた経緯である。

 日本国とともに東アジアの植民地解放に協力した同盟国に、遺憾の意を表明せざるを得ない。戦場で死んだ軍人、職場で殉職した官吏、戦火に倒れた国民やその遺族を思えば、わが身を引き裂かれるほどの痛切な思いである。

 また、戦傷を負い、災禍を被り、職を失った人々の再起については、深く心にかけるところである。今後、日本国が受ける苦難はもちろんのこと、国民の非常な無念と悲しみを私はよく理解している。しかし時運の赴くところ、堪え難きを堪え、忍び難きを忍び、日本の将来のために戦争の終結を決断した。

 ここに国体を護持し、忠良なあなたがた国民の心を信じていたい。私は常にあなたがた国民と共にいたい。激情の赴くまま無用の混乱を起こし、あるいは同胞が互いに分裂して時局を混乱させれば、国家はさらなる危機に陥り、世界からの信義を失うことになる。これは最も戒むべきことである。

 国民皆が一致団結し、子孫に至るまで、固く神州日本の不滅を信じ、個々に課された責務の重さと今後の道程の厳しさを自覚し、総力を将来の建設に傾けてほしい。信義をあつくし、志操を固くして、国体の精華を発揮し、日本が世界の趨勢に後れることのないことを願っている。あなたがた国民はこの私の考えをよく理解して従ってほしい。

 

 ≪終戦の詔書≫(原文)

 朕深ク世界ノ体勢ト帝国ノ現状トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ収集セムト欲シ茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク

 朕ハ帝国政府ヲシテ米英支蘇四国ニ対シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ

 抑々帝国臣民ノ康寧ヲ図リ万邦共栄ノ楽ヲ階ニスルハ皇祖皇宗ノ遺範ニシテ朕ノ挙々惜カサル所サキニ米英二国ニ宣戦セル所以モ亦実ニ帝国ノ自存ト東亜ノ安定トヲ庶幾スルニ出テ他国ノ主権ヲ排シ領土ヲ侵スカ如キハ固ヨリ朕カ志ニアラス

 然ルニ交戦巳ニ四歳ヲ閲シ朕カ陸海将兵ノ勇戦朕カ百僚有司ノ励精朕カ一億衆庶ノ奉公各々最善ヲ尽セルニ拘ラス戦局必スシモ好転セス世界ノ大勢亦我ニ利アラス加之敵ハ新ニ残虐ナル爆弾ヲ使用シテ頻ニ無ヲ殺傷シ惨害ノ及ブ所真ニ測ルヘカラサルニ至ル而モ尚交戦ヲ継続セムカ終ニ我ガ民族ノ滅亡ヲ招来スルノミナラス延テ人類ノ文明ヲモ破却スへシ斯ノ如クムハ朕何ヲ以テカ億兆ノ赤子ヲ保シ皇祖皇宗ノ神霊ニ謝センヤ是レ朕カ帝国政府ヲシテ共同宣言ニ応セシムルニ至レル所以ナリ

 朕ハ帝国ト共ニ終始東亜ノ解放ニ協力セル諸盟邦ニ対シ遺憾ノ意ヲ表セザルヲ得ス帝国臣民ニシテ戦陣ニ死シ職域ニ殉シ非命ニ斃レタル者及ビ其ノ遺族ニ想ヲ致セバ五内為ニ裂ク且戦傷ヲ負ヒ災禍ヲ蒙リ家業ヲ失ヒタル者ノ厚生ニ至リテハ朕ノ深ク軫念スル所ナリ惟フニ今後帝国ノ受クヘキ苦難ハ固ヨリ尋常ニアラス爾臣民ノ衷情モ朕善ク之ヲ知ル然レトモ朕ハ時運ノ赴ク所堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ビ難キヲ忍ビ以テ万世ノ為ニ太平ヲ開カント欲ス

 朕ハ茲ニ国体ヲ護持シ得テ忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ常ニ爾臣民ト共ニ在リモシ夫レ情ノ激スル所濫ニ事端ヲ滋クシ或ハ同胞排擠互ニ時局ヲ乱リ為ニ大道ヲ誤リ信義ヲ世界ニ失ウカ如キハ朕最モ之ヲ戒ム宜シク挙国一家子孫相伝ヘ確ク神州ノ不滅ヲ信シ任重クシテ道遠キヲ念ヒ総力ヲ将来ノ建設ニ傾ケ道義ヲ篤クシ志操ヲ鞏クシ誓テ国体ノ精華ヲ発揚シ世界ノ進運ニ後レサラムコトヲ期スへシ爾臣民其レ克ク朕カ意ヲ体セヨ

 

 国民はこの玉音放送で日本の終戦を知ることになる。それは長い歴史の中で初めて経験する国家的敗北の瞬間であった。日本の戦傷病死者260万人、戦争未亡人28万人、民間戦災傷死行方不明者80万人弱。このように戦争は多くの犠牲者を出した。また終戦時に勤労動員に従事していた者は学徒動員1927379人(農林業出動含む)、女子挺身隊472573人であった。

 玉音放送の天皇陛下のお言葉は、終戦の宣言と同時に、大元帥陛下としての武器解除の命令でもあった。昨日まで「鬼畜米英、一億玉砕」と叫んでいたのに、反乱らしい反乱はなく、225万人の陸軍、125万人の海軍が武器を解除したのは玉音放送があったからである。

 日本に無条件降伏を勧告したポツダム宣言が726日に発表されたが、政府は議論の末これを黙殺。814日にポツダム宣言の受諾を決めたが、残念なことは受け入れる時期が遅すぎたことである。ポツダム宣言を即座に受け入れていれば、86日の広島の原爆、89日の長崎の原爆、88日のソ連の宣戦布告はなかったはずである。戦争遂行はすでに困難だったのに、受諾が遅れたのは「軍部の本土徹底抗戦」を抑えきれず、「国体の護持の保証」を前に決断までの時間がかかったからである。欧米によるアジアの植民地政策をみれば、日本が植民地になることを政府が案じていたことは当然のことであるが、敗戦への責任追及もあったことと思われる。いずれにしてもポツダム宣言受諾の遅れが、国民のさらなる犠牲者を出したことは残念なことである。

 あの終戦の日からすでに65年が過ぎ、悲惨な戦争を知る者は80歳以上の老人ばかりとなった。現在の政治家も官僚もあの戦争を知らず、学校の教師や評論家もあの当時を知る者は少ない。戦争の悲惨さを知る老人は、心の奥に秘めた貴重な体験を押し殺し、彼らの体験が次世代に語り継がれることは少ない。老人たちは社会の隅に追いやられ、同朋を亡くした精神的トラウマの中で生きてきた。

 太平洋戦争を語る者、戦争の悲惨を口にする者は、その多くが戦争を体験していない。あの戦争が生んだ多くの教訓が歴史の中で忘れ去られ、あるいは歪曲されて後世に伝わるならば、わたしたちは最大の教訓を失うことになる。

 

 

 

終戦と自決  昭和20年(1945年)

 昭和20年8月15日の終戦とともに、500人以上の軍人が自らの命を絶った。阿南惟幾陸軍大臣(享年58)から無名の二等兵に至るまで、自決した軍人の階級はさまざまであった。軍の上層部の自決は天皇の軍隊を敗北に導いた責任を感じ、さらに多くの部下を死なせた責任、降伏の屈辱に駆られてのことであった。終戦によって多数の殉国の士を出したことは、有史以来、初めてのことである。

 終戦のあの暑い日からすでに65年が過ぎ、今日では国に殉じた尊い人たちについて語られることは少なくなった。終戦によって日本は新しい国に生まれ変わったが、平和な日本を願いながら、国の運命をかけて自らの命を絶った人たちがいた。戦争責任は別として、日本を想い死んでいった多くの英霊たちがいたことを忘れてはならない。私たちは彼らの至高至純の精神を永遠に伝えるべきなのに、多くの英霊たちをあまりに粗末に扱っているのではないだろうか。現状をわびたい気持ちになる。

 8月15530分、玉音放送が始まる日の早朝、最後まで本土決戦を主張していた阿南陸相は「一死以て大罪を謝し奉る。神州不滅を確信しつつ、大君の深き恵に浴みし身は、言い遺すべき片言もなし」との遺書を残し、東京・三宅坂の陸相官邸で割腹を遂げた。阿南陸相は陸軍将校の間で進められていた終戦阻止のクーデターを前日に阻止、昼に予定されていた天皇陛下の玉音放送を、「拝聴するに忍びない」と玉音放送の前に自決した。帝国陸軍の最後の大臣となった阿南陸相はポツダム宣言以降、徹底抗戦、本土決戦を主張したが、日本の終戦に強い自責の念をもっていた。陸相に就任して4カ月であったが、終戦の難局に際しての阿南陸相の自決は陸軍の強硬派を沈静化させた。

 玉音放送と同時に、軍部は米軍への攻撃中止命令を出した。8月15日午後5時、この中止命令にもかかわらず、宇垣纒中将(58)ら17人は大分の海軍飛行場から11機の爆撃機「彗星」に分乗し、沖縄の米艦隊に向けて特攻攻撃を決行した。宇垣中将は「部下隊員が桜花と散りし沖縄に進攻」と打電して太平洋に散華した。816日には、海軍特攻隊の生みの親である大西滝治郎海軍中将(50)が「吾が死を以て旧部下の英霊とその遺族に謝せんとす」との遺書を残し、官邸で自決している。

 終戦時の陸海軍の自決者については、書籍「終戦時自決烈士芳名録」に記録が残されている。将官以上の自決者37人の内訳は陸軍が32人、海軍が5人となっている。海軍に比べて陸軍将官に自決者が多いのは、本土決戦、一億総玉砕を陸軍が号令し、それを真剣に受け止めていた証拠といえる。自決烈士芳名録に526人の名前が記されているが、名を残さず自決した軍人はその数倍に達していた。

 軍人のみならず、右翼を初めとした民間団体でも集団自決が相次いだ。8月22日には、日本の降伏に不満を持つ尊攘同志会員12人が東京・愛宕山で割腹自決している。翌23日には、右翼団体である明朗会(日比和一会長)13人が宮城広場に集合し、青酸カリをあおって自決。翌24日には大東塾生14人が降伏に反対して代々木練兵場で一斉に切腹している。彼らの自決は軍指導部が導いた終戦への抗議、天皇の臣としての責任、神国の復活を唱えてのみそぎの意味が含まれていた。彼らの壮絶な死は、神国日本の崩壊に虚無を感じ、虚脱感の中で日本の国に殉じたのである。

 人知れず自決した者は数多くいるが、その中に橋田邦彦がいる。橋田邦彦は近衛、東条両内閣の文部大臣で、同年9月14日、戦争犯罪人に指名され、出頭を求められ荻窪の自宅で自決した。橋田邦彦は東京帝国大医学部を卒業、医学部生理学教室からドイツへ留学、帰国後に東京帝大医学部教授となり、第一高等学校長を経て文部大臣になった。戦時中に流行した「科学する心」という言葉は彼の造語である。橋田邦彦の遺書には「戦争責任者として指名されしこと光栄の到なり、さりながら勝者の裁きにより責任の所在軽重を決せられんことは、臣子の分として堪得ざる所なり。皇国国体の本義に則り茲に自決す」と書かれていた。橋田は自分の生き方に筋道をたて、自らを処する方法として自決を選んだのである。

 終戦を信じず、一億総玉砕を信じていた時代である。辱めを受けるより、潔い死を当然とする人たちが多くいた。自らの命を国にささげた4000人以上の特攻隊員、降伏を潔しとせず玉砕攻撃で死んでいった軍人、聖戦の勝利を疑わなかった人たち、彼らの愛国心あるいは武士道の精神に基づく死が自決であった。

 自決と自殺とは、その潔癖性と決然性において大きな違いがある。昔から日本人が桜を好むのは、その散り際が潔いからで、武士道による「死を美徳と捉える」のが当時の日本人の根底にあった。自決と自殺とは、ともに自らの生命を絶つ行為であるが、動機の純粋性において両者は大きく異なっている。

  自決に至ったのは軍人や右翼ばかりではなく、むしろ沖縄や満州では非戦闘員、すなわち民間人の自決の方が圧倒的に多かった。民間人の自決は軍人の自決とは、その意味合いが異なっていた。逃げ場を失った民間人は捕虜となって生き恥をさらすことになる。この行き場のない絶望感が自決の動機だった。

 鬼畜のごとき敵兵が男性を殺し、女性を辱しめる絶望感が自決の根底にあった。自決を「みずから決断した責任ある自殺」と定義するならば、民間人の自決は軍国主義に強要された自決、あるいは洗脳された死であって、その意味では最も悲惨な戦争犠牲者といえる。

 昭和19年7月8日、真珠湾奇襲を成功させた南雲忠一中将はサイパンの洞窟で自決。米軍は投降勧告を行ったが、日本兵は「バンザイ突撃」で玉砕した。残された民間人にはさらなる悲劇が待っていた。老人、婦人、子供たちは島の北端までたどり着くと逃げ場を失い、手榴弾を爆発させ、毒薬をあおって死んでいった。マッピ岬(バンザイクリフ)の断崖から多くの女性が海へ身を投じた。

 昭和20年4月1日、沖縄の中部にある読谷村(よみたんそん)の海から米軍が上陸。村民140人は村から500メートル離れたチビチリガマに隠れ、140人のうち83人が集団自決、その6割が18歳未満であった。沖縄では数多くの集団自決が相次いだ。沖縄師範学校、県立第1女子高校などの女子生徒と教師で結成された「ひめゆり部隊」は、看護要員として動員され443人が戦争に参加し249人が戦死。そのなかには青酸カリを配られ自決を命じられていた者が多くいた。逃げ場を失った女学徒たちは、青酸カリを飲み、あるいは崖から身を投じて命を絶った。

 8月9日、満州ではソ連が日ソ中立条約を一方的に破棄し、突然、攻撃してきた。逃げ遅れた1万人以上の民間人が、生きて辱めを受けまいと各地で自決した。満州の開拓団では、成人男性のほとんどが軍に動員され、開拓団に残された者は、病弱者、女性、子供ばかりであった。8月15日、日本は無条件降伏を表明したが、ソ連軍は無抵抗な民間人を殺戮していった。ソ連軍の攻撃に蹂躙され、住民の攻撃を受け、日本へ帰る道を絶たれた女性たちは自決の道を選んだ。ソ連軍の圧倒的な戦力により、軍人には民間人を助ける余裕がなかった。自決の方法は縊死、溺死のほか、塩酸モルヒネ、亜砒酸、青酸カリなどによるものが多かった。

 8月12日、哈達河(ハタホ)開拓団421人が集団自決。8月17日には272人の来民開拓団が集団自決するなど、開拓団の集団自決が相次いだ。石川県鳥越村の出身者を中心とした白山郷開拓団は、8月27日に「集団焼身自決」の悲惨な最期をとげ100人以上が亡くなった。満州長安の病院では、最後まで現地に残っていた22人の看護婦がソ連軍の辱めを受け、あるいは受けまいとして集団自決している。

 「満州開拓史」によると、全滅あるいは自決した者は1万1500人。病没と行方不明者を合わせると、開拓団の死者は7万8500人で、全開拓団の3人に1人が死んでいる。国から見捨てられた満州開拓団の悲劇は残留孤児、残留婦人の現実を残すことになった。

 サハリンでも病院に残った看護婦23人が集団自決を図り6人が死亡。同じサハリンの真岡郵便局では若き電話交換手9人が集団自決を図り死亡している。戦火に包まれたサハリンで最後まで仕事を全うし、ソ連軍が迫ってきたことを知ると、まだ通じる電話で「皆さんこれが最後です。さようなら、さようなら」の言葉を残し、青酸カリで集団自決した。サハリンを望む北海道・稚内公園の丘の一角には、彼女たちの死を悼んで「9人の乙女の碑」が建っている。

 このように民間人の絶望による自決が相次ぐなかで、昭和12年以降3度の総理大臣を勤めた近衛文麿(公爵)は、公家にありがちな優柔不断の態度であった。戦犯容疑でGHQから出頭を命じられると、出頭当日の1216日の朝、杉並・荻窪の自宅で青酸カリを飲み自殺した。近衛は日本最後の華族で、罪人になって縄をかけられる屈辱に耐えられなかったのである。

 一方、東条英機元首相はGHQに逮捕される直前の、9月11日午後3時半すぎ、自宅でピストル自殺を図った。しかし自殺は失敗に終わり、米軍の手で病院に運ばれ、一命を取りとめた。東条英機は極東軍事裁判で死刑となり、昭和23年に巣鴨刑務所で絞首刑となったが、国民はこの自殺の失敗を単なる醜態と受け止めた。

 東条英機は軍人や民間人に「捕虜となるなら、潔く自決せよ」と命じながら、逮捕の日まで未練げに生き、外人のようにピストルを用い、取り乱して自殺に失敗したことへの国民の反応は冷ややかだった。東条英機は戦勝国に裁かれることを拒み自殺を図ったが、それは自決ではない。恥の上塗りであった。

 終戦と敗戦、退却と転進、占領軍と進駐軍、このように言葉の言い換えがあるが、自決は自決であって、自殺とは明らかに違う行為である。

 終戦により、日本は新しい国に生まれ変わったが、その陰には平和国家の実現を願いながら、国の運命とともに自らの命を絶った人たちが多くいたことを忘れてはならない。至高至純の精神を持った日本人の殉国の事実を歴史にとどめるべきであるが、忘却の彼方に埋没している。

 

 

 

ノーモア・ヒロシマ  昭和20年(1945年)

 昭和20年8月6日午前8時15分、アメリカのB29爆撃機「エノラ・ゲイ」に搭載された原子爆弾が広島市上空9600メートルから投下された。この1個の原子爆弾「リトルボーイ」が広島市600メートル上空で炸裂、一瞬の熱線、爆風、放射線により広島市民40万人のうち14万人(誤差1万人)が死亡し10万人が負傷した。

 3日後の8月9日午前11時2分、長崎市にも原爆が投下され、28万人が被爆し7万人(誤差1万人)の死者と多数の負傷者を出した。この広島と長崎を一瞬にして焦土と化した原爆により、真珠湾攻撃から始まった太平洋戦争は終わりを迎えた。

 原子爆弾の投下は、ポツダム宣言の受諾を拒否した日本政府を無条件降伏に追い込むためとされている。原爆投下は戦争の早期終結に必要だったとアメリカは主張している。このアメリカの主張の正当性は別として、原子爆弾は20世紀最大の惨禍をもたらし、ノーモア・ヒロシマは核兵器廃絶のスローガンとして、人類の歴史に深く刻まれることになった。

 広島の原爆投下は、大本営発表として投下翌々日の新聞紙上で報道されている。新聞に掲載されたが、その記事はごく目立たない小さな扱いであった。広島がB29爆撃機の攻撃により相当の被害を受けたこと、アメリカが新型爆弾を使用したらしいことを簡単に述べたにすぎなかった。

 原子爆弾による被害状況は軍部の規制により報道されず、原子爆弾であることは秘密にされ、新聞では「新型爆弾」と表現されていた。日本人科学者が原爆投下直後に現地調査を行ったが、その資料は占領軍によって没収され広島の惨状は報道されなかった。

 この悲惨極まりない原子爆弾の悲劇を、いち早く世界に報道したのは、イギリスの新聞「デイリー・エキスプレス」紙の記者であったウィルフレッド・バーチェット(191183)であった。バーチェットは9月2日に行われる「戦艦ミズーリ号での日本降伏の調印式」の取材に行く予定であったが、調印式当日、バーチェットは病気と偽り、ひそかに広島への列車に飛び乗った。焦土と化した東京から広島までおよそ20時間の道のりである。バーチェットが広島に到着したのは、終戦から1カ月後の9月3日早朝のことであった。

 列車から降りたバーチェットは、広島の惨状を目にした。原爆投下から1カ月が過ぎているのに、日々、多くの人たちが死んでいった。バーチェットはアメリカ軍が秘密にしていた放射能障害、ケロイド状の火傷、脱毛、発熱、内出血など痛々しい状況を目にした。

 9月5日のデイリー・エクスプレス紙の1面をバーチェットの記事が飾った。それは原爆の悲劇を世界に向けての初めての報道だった。バーチェットの文章は「私はこれを世界への警告として書く」に始まり、最後を「ノーモア・ヒロシマ」の言葉で締めくくった。

 「私はこれを世界への警告として書く。最初の原子爆弾が街を破壊し、また世界を震駭(しんがい)させ、投下30日後の広島では、人はなおも死んでゆく。それは神秘的な恐ろしい死である。あのときは無傷であったのに、原爆がもたらした何ものかによって人々はさらに死んでゆく。爆撃を受けた広島は都市の様相を呈していない。怪物大の蒸気ローラーが通り過ぎ、木端微塵に抹殺壊滅したようだ。……広島に着くと、ほとんど建物らしいものが見えない。これほどひどい人間の破壊を見ると、身体が空っぽになるような気分になる。……原爆が落ちたとき、幸いにも傷を負わなかった者が、今や気味悪い後遺症で死んでゆく。はっきりとした原因もなく衰弱し、食欲もなく、髪が抜け、青い皮疹が現れ、口から出血していった。注射を刺した針穴から皮膚が腐りはじめ、いずれの患者も死亡した……ノーモア・ヒロシマ」

 バーチェットは広島の惨状を世界に発信したが、占領軍は猛烈な口調でバーチェットのレポートを否定した。「広島の犠牲者は原爆直後に死んだだけで、広島の廃墟から放射能は検出されていない」との記事が、9月13日の「ニューヨーク・タイムズ」紙に掲載された。

 バーチェットは記者登録を抹消され、日本から退去処分となった。その後、バーチェットは中国革命、朝鮮戦争、ベトナム戦争などの取材を行い、さらにポルトガル、アンゴラ、アフガニスタンなどの革命や紛争を精力的に報道した。著書として「広島・板門店・ハノイ」(昭和47年・河出書房新社)がある。

 このバーチェットに数時間遅れて、ニューヨーク・タイムズなどの取材団20人が広島に入った。その一員だったUP通信の従軍カメラマン「スタンレー・トラウトマン」は広島の惨状を撮影している。トラウトマンが撮影したと確認されている原爆写真は広島が10枚、長崎が9枚の計19枚が残されている。原爆の惨状は日米両国ともに極秘事項で、取材団は米軍の厳しい監視下に置かれていた。ところがトラウトマンが撮影した広島の原爆写真が9月7日、長崎の原爆写真は9月17日にアメリカで公表された。

 アメリカ政府は、原爆投下を真珠湾攻撃への報復、若いアメリカ軍兵士の生命を救うため、ソ連の参戦を防ぎ、無条件降伏をさせるための手段とした。しかし、アメリカの人々はトラウトマンの写真に驚き、原爆反対の国際世論が沸き上がった

 日本人が原爆被害の写真を見られるようになったのは、日本から占領軍が引き揚げた昭和27年のことである。同年8月6日、雑誌「アサヒグラフ」は原爆被害の写真を初めて公開。写真で見る原爆の悲劇はまさに地獄絵だった。黒く焼けた遺体、被害者のケロイドの惨状、破壊された街並が掲載された。原爆特集への読者の反響はすさまじく、26ページのアサヒグラフは52万部を即日完売、増刷分も含め70万部を売り上げた。

 広島、長崎に投下された原子爆弾は20万人以上の死者だけでなく、残された生存者にも後遺症をもたらした。発がんや遺伝的影響の恐れ、精神的苦痛や不安など、その被害は生活全般に及んだ。ケロイドなどの後遺症のため婚期を逸した若い女性は、「原爆乙女」「原爆娘」と呼ばれ多くの同情を集めた。

 昭和50年の被爆者手帳所持者数は357000余人となっているが、他人に知られることを恐れ、被爆の申請をしない者が多くいた。広島市、長崎市は被害の調査や検診、専門病院の建設などに取り組んだが、「被爆者と一般戦災者とは区別できない」との理由から国からの保護はなかった。

 原爆が投下されてから12年後の昭和32年、やっと「原子爆弾被爆者の医療等に関する法律」が施行された。この法律は、原爆投下時に爆心から4キロ以内にいた者、投下から2週間以内に爆心近くにいた者が対象となり、年2回の健康診断と必要な治療の無料化がうたわれていた。昭和43年からは、被爆者の福祉を重要視した「原子爆弾被爆者に対する特別措置に関する法律」が制定された。

 被爆10年目の昭和30年8月6日、広島市で平和記念式典が行われ、平和記念公園に広島平和記念資料館が完成した。資料館では被爆によって焼けただれた衣類や食器などが展示され、被爆の恐ろしさを後世に残すことになった。昭和30年8月8日には、長崎市の平和記念公園に平和記念像が完成し除幕式が行われている。また世界各地で平和にちなんだ行事が行われた。

 広島、長崎の原爆投下は人類の歴史上最大の惨事である。このことを裏付けるように、AP通信が西暦2000年を記念して行った「報道機関による20世紀10大ニュース」では、原爆投下はどの報道機関でも上位を占めた。

 AP通信の20世紀20大ニュースでは、第1位は米軍による広島、長崎への原爆投下(1945年)、第2位がロシア革命(1917年)、第3位がナチス・ドイツのポーランド侵攻による第二次大戦開戦(1939年)となっている。この20大ニュースは、世界の各報道機関が1位(10点)から10位(1点)まで順位をつけて投票した結果で、71社のうち15社が原爆投下を、10社がロシア革命を、12社が第二次世界大戦開戦を1位に選んでいる。

 参考までに、20世紀の20大ニュースの4位以下は次の通りである。4位=米国宇宙飛行士の月面歩行(1969年)▽5位=ベルリンの壁崩壊(89年)▽6位=ナチス・ドイツの敗北(45年)▽7位=オーストリア皇太子暗殺で第一次大戦開戦(14年)▽8位=ライト兄弟の飛行機発明(03年)▽9位=ペニシリンの発見(28年)▽10位=コンピューターの発明(46年)▽11位=アインシュタインの特殊相対性理論(05年)▽12位=ケネディ米大統領暗殺(63年)▽13位=エイズウイルス出現(81年)▽14位=ウォール街の株暴落(29年)▽15位=ソ連崩壊(91年)▽16位=国際連合の設立(45年)▽17位=ソ連の人工衛星打ち上げで米ソ宇宙開発競争(57年)▽18位=日本の真珠湾攻撃(41年)▽19位=共産党の中国支配(49年)▽20位=イスラエル建国(48年)。

 アメリカは広島、長崎に原子爆弾を投下したが、原子爆弾はドイツや日本でも研究されていた。ドイツでは物理学者ハイゼンベルグが中心となり、日本では理化学研究所の仁科研究室が軍の命令で研究を行っていた。日本では理論上の研究は進んでいたが、ウランがなかったために開発が遅れた。このことから広島、長崎に原爆が投下されたのは、「ドイツや日本よりもアメリカの核開発のほうが早かっただけ」と冷静に分析することもできる。

 アメリカが日本に原爆を投下したのは、日本人が黄色人種だったとする説があるが、日本人が黄色人種であろうがなかろうが、もしドイツや日本の核開発がアメリカより進んでいれば、当然アメリカが最初の被爆国になったはずである。このように原爆の開発は歴史の流れによるもので、「アメリカが原爆を投下し、日本が被害を受けた」とする一方的な加害者、被害者の立場ではなく、原爆を人類共通の過ちと認識すべきである。アメリカの原爆投下に刺激を受け、昭和24年にはソ連が、27年にはイギリスが、35年にはフランスが、39年には中国が核実験に成功している。

 「ノーモア・ヒロシマ」は日本人のみならず、世界の人々の関心事となり、核戦争の禁止は世界共通の願いとなった。「ノーモア・ヒロシマ」の言葉は平和と核兵器の廃止を願う人類の象徴となった。米ソの冷戦がソ連崩壊によって終結したあとも、インド、パキスタンなどで核実験が繰り返され、その度にノーモア・ヒロシマの平和を願うスローガンが世界に響きわたった。

 原子爆弾への国際情勢は変わったが、核兵器が存在する以上、核兵器の脅威はなくならない。平成7年8月、広島に原爆を投下したB29米軍爆撃機「エノラ・ゲイ」がスミソニアン航空宇宙博物館で一般公開されたが、この時、「ノーモア・ヒロシマ」と書いた垂れ幕を掲げ、抗議行動を行った反核活動家ら約20人が逮捕されている。

 ノーモア・ヒロシマは日本だけでなく、それ以上に重要な言葉として世界の人々に知られている。「ノーモア・ヒロシマ」は日本での言い方で、欧米では当然のこととして「ノーモア・ヒロシマズ」と長崎を含めた複数形で用いられている。

 

 

 

マルセル・ジュノー博士 昭和20年(1945年)

 昭和20年8月9日、国際赤十字委員会から駐日主席代表に任命されたスイス人医師、マルセル・ジュノー博士(190461)が、戦火を避けながら満州から飛行機で羽田に到着した。この日は日本が無条件降伏する6日前のことで、ちょうど2発目の原爆が長崎に投下された当日のことである。

 エチオピア戦争、スペイン内乱などを経験しているジュノー博士の任務は、日本における連合国捕虜の待遇を視察し調査することであった。ジュノー博士は東京で終戦を迎えると、ただちに連合軍捕虜3万4000人の解放に奔走した。米軍捕虜の待遇が彼の仕事であったが、最大の関心事は、むしろ原爆を受けた広島、長崎の惨状についてであった。

 原爆については厳重な箝口令が敷かれ、米軍から情報は得られなかった。しかし広島から東京に逃げてきた人たちの話しから、原爆被害の惨状を知ることができた。外務省から被爆地の写真を得たジュノー博士は、その写真をマッカーサーに突き付け、緊急援助を申し出て、医療物質の取り付けに成功しすると広島に向かった。

 9月7日、ジュノー博士は飛行機に15トンの救急医薬品を携え岩国飛行場に降り立ち、翌日、壊滅状態の広島に到着した。ジュノー博士はこれまで戦争の惨状を各地で見てきたが、原爆がもたらした広島の惨禍に大きな衝撃を受け、広島の原爆を「悪魔の仕業」と表現した。

 ジュノー博士は広島に救護所をつくり、外国人として初めて被爆者の治療に乗り出した。しかしジュノー博士の人道支援を遮るように、GHQ(連合軍総司令部)は原爆の機密保持と残虐性を隠すため、わずか4日間の滞在許可しか与えなかった。

 ジュノー博士は4日間の短い滞在中、被害調査という当初の目的を越え、救援作業に奔走し献身的に治療に当たった。15トンの救急医薬品にはペニシリン、サルファ剤、DDT、乾燥血漿など大量の医薬品や医療材料が含まれ、苦しみの極限にあった広島市民の命を救った。

 広島市内の病院や救護所では、生き残った医師や看護婦が被爆者の治療に全力を尽くしていが、医薬品が絶対的に不足し底をついていた。当時の広島には包帯もなく、浴衣を裂いて包帯代わりに使っていた。そのときジュノー博士が真っ白な包帯や乾燥血漿などの医薬品15トンを届けてくれたのである。これは1万人が1か月間治療できる量であった。まさに「干天の慈雨」である。地獄絵のごとき広島に一明の光を投げかけてくれた。

 ジュノー博士は昭和21年2月にジュネーブの赤十字本部に帰ると、直ちにアメリカ軍の原爆投下を糾弾するアピールを発表した。原爆の非人道性を告発し、核戦争防止の重要性を唱えた。ジュノー博士は、昭和34年に北朝鮮帰還問題で再来日したが、翌々年の36年6月16日、スイスで心臓発作のため急死、57歳であった。

 日本ではジュノー博士が広島の恩人であることを知るものは少なく、彼の功績は歴史の中に埋もれていた。昭和54年になって、広島県医師会が埋もれていたジュノー博士の人道的な業績を掘り起こし、広島市平和記念公園に記念碑を建立することになった。

 ジュノー博士の記念碑には、「1945年8月9日、赤十字国際委員会の駐日首席代表として来日。広島の原爆被災の惨状を聞くや、直ちに占領軍総司令部へ行き、ヒロシマ救援を強く要請。9月8日、調達した15トンの医薬品と共に廃墟の市街へ入り惨禍の実状を踏査、自らも被爆市民の治療に当る。博士の尽力でもたらされた医薬品は市内各救護所に配布され数知れぬ被爆者を救う。博士の人道的行為に感謝し、国際赤十字のヒューマニズムをたたえ永く記念してこれを建てる。ジュノー博士記念碑建立会」との献辞が彫られている。

 碑の裏面にはジュノー博士の著作「第三の兵士」の一文「無数の叫びが、あなたたちの助けを求めている」、が刻まれている。

 ジュノー博士記念碑が建てられた後、博士の遺徳を慕う人々は記念行事を企画。平成2年よりジュノー博士の命日に合わせ、 毎年6月16日に広島県医師会は「ジュノー記念祭」を行っている。

 ジュノー博士の記念碑は、博士の人道的行為に感謝して広島赤十字・原爆病院の玄関入り口にも建立されている。またジュノー博士の功績は、「世界の平和を求めて生きたドクター・ジュノー」の題名で、日本の中学3年の国語の教科書にも取り上げられた。広島の人たちにとってジュノー博士は忘れることのできない命の恩人である。ジュノー博士の持ち込んだ医薬品のケースなどは、広島平和記念資料館で見ることができる。

 ジュノー博士の半生は、回想録「ドクター・ジュノーの戦い」(昭和56年・勁草書房)、「ドクター・ジュノー武器なき勇者」(昭和54年・新潮社)につづられている。さらにジュノー博士を主人公とした映画「第三の兵士」が平成6年に完成している。

 

 

 

九大医学部アメリカ兵生体解剖事件 昭和20年(1945年)

 日本が終戦を迎える数カ月前にこの怪事件が起きた。アメリカ軍の捕虜8人が九州帝国大学医学部解剖学教室で生きたまま解剖され、これが世にいう「九大生体解剖事件」である。

 戦争が激化し、日本全土が連日B29爆撃機による空襲を受けていた。この事件で犠牲になったB29爆撃機の飛行士は、昭和20年5月5日に大分県・竹田市上空に飛来、日本海軍の戦闘機・紫電改の体当たりを受け撃墜された8人の搭乗員であった。搭乗たちはパラシュートで着地し、捕らえられ捕虜となった。翌6日に、竹田市から汽車で福岡市の西部軍司令部に送られた。

 まだ童顔の若い兵士たちは、しばらくの間、捕虜収容所にいたが、5月17日から6月2日にかけて九大医学部解剖学教室に連行され、生きたまま解剖が行われた。実験材料として生体解剖が行われたこの事件は、中国大陸における731部隊(石井部隊)とともに日本医学史上最大の汚点である。

 終戦により、この事件の発覚を恐れた軍司令部と九大関係者は、8人の捕虜を広島の原爆で死亡したように隠蔽工作を行っていた。しかしながらGHQに1通の英文の匿名投書が届き、この生体解剖事件が暴かれることになる。昭和21年7月13日、突然GHQが九大医学部に車で乗りつけ、岩山福次郎第1外科教授を戦犯容疑で逮捕。さらに九大関係者5人が逮捕され、姑息な隠蔽(いんぺい)工作は通用しなかった。

 昭和21年5月に極東国際軍事裁判が始まったが、この事件は昭和23年3月から5カ月間にわたって横浜地裁で審議された。「生体解剖事件」にかかわった軍司令部16人、九大医学部関係者14人は軍事裁判にかけられ、罪状は生体解剖で搭乗員を死亡させたこと、死体を冒涜(ぼうとく)して丁寧に埋葬しなかったこと、虚偽の報告と情報妨害であった。

 昭和23年8月27日、横浜軍事裁判所第1号法廷において判決が下された。ジョイス裁判長は軍司令官・横山勇中将(59)、軍参謀・佐藤吉真大佐(49)、鳥巣太郎教授(39)、平尾健一助教授(39)、森良雄講師(年齢不明)の計5人に絞首刑を言い渡し、4人を終身刑、14人を3年から25年の重労働とした。6人は無罪になったが判決は厳しい内容だった。

 この「生体解剖事件」は、九大医学部第1外科の岩山福次郎教授が中心となって行われた。同第1外科出身の笹川拓・軍医見習い士官が生体解剖を発案、これを西部軍司令部が許可したとされている。しかしこの事件の真相は、笹川見習い士官が20年6月の空襲で死亡、首謀格の岩山福次郎教授が逮捕翌日に土手町刑務所で自殺したことから定かではない。

 岩山教授の遺書には「いっさいは軍の命令、責任は余にあり。鳥巣、森、森本、仙波、筒井、余の命令にて動く。願わくば速やかに釈放されたし、12時、平光君すまぬ」と書かれていた。生体解剖が軍部の命令だったのか、軍部からの依頼だったのか、岩山教授の意志がどの程度だったのかはわからないが、生体解剖は人道上決して許されるものではない。

 この事件が起きた終戦4カ月前の戦局は、米軍が沖縄を占領し、福岡はB29の空襲により連日甚大な被害を受けていた。食料は乏しく、大本営は「捕虜を適当に処理せよ」と指令していた。この「適当に処理せよ」の言葉が生体解剖の引き金になった。米軍捕虜の対処に困っていた西部軍は、九大医学部出身の笹川見習い士官が立案した生体解剖に同意した。破滅寸前の日本、焦土化した福岡、この末期的な戦局の中で、米軍爆撃機の飛行士を戦争捕虜としてではなく、無差別爆撃を行った戦争犯罪者として扱ったのである。

 岩山福次郎教授に「平光君すまぬ」といわれた解剖学の平光吾一教授はこの事件を振り返り、「日本国土を無差別爆撃し無辜(むこ)の市民を殺害したのだから、捕獲された敵国軍人が国土防衛を任ずる軍隊から殺されるのは当然と思った」と文藝春秋(昭和5212月号)で当時の社会背景を述べている。

 しかし、たとえ生体解剖が軍部の命令であったとしても、「生きたまま解剖する」非人道的犯罪が、人間の生命を守るべき医学部構内で行われたことに戦慄を覚える。それは法律以前の罪、道徳、宗教、倫理上の罪であった。

 裁判で処罰された者が29人、生体解剖に動員された医師が延べ40人、この犯罪は医学部の中で組織的に行われた。人命を預かる医師集団による犯行がなぜ組織的に行われたのか、事件にかかわった人たちを非人道的と非難し、糾弾するだけではこの事件の本質には届かない。

 戦時体制下の大学は、軍部に協力することが国家総動員法で義務づけられ、軍部に協力しない教官は罰せられた。九大は西部軍司令部の指揮下に置かれ、九大総長は海軍大将・百武源吾で、医学部教授は陸軍の嘱託の立場にあった。もちろん研究のテーマは軍用医学で、大学職員は軍隊同様に3階級が定められ、各階級に応じて挙手礼が行われていた。

 大学医学部は教授を頂点とする封建組織で、上下関係は軍隊と同じであった。この事件を理解するには、軍司令部や教授の命令は絶対で、彼らに逆らえない状況下で否応なく組み込まれたものと考えたい。戦争という異常な渦の中で、医師たちは医学のため、日本のためと自分に言い聞かせて解剖に応じたのであろう。

 逮捕後に自殺した第1外科の岩山福次郎教授は、生体解剖についての記録を残していない。そのため解剖の目的、解剖の内容は関係者の口供書から推測するだけである。岩山教授の目的は何だったのか。生体実験によって、医学の可能性を探りたい気持ちが強かったのだろうか。

 戦時中の医学研究は軍用医学で、戦争に役立つ研究を行うのが医学部の任務であった。そのため「戦争に傷ついた日本国民、民間人を救うという大義名分」が動機だったのであろう。日本は連日空襲を受け、外傷治療に必要な輸血が極端に不足していた。輸血に代わる代用血液が、当時の軍用医学の重要な課題になっていた。岩山教授の専門は代用血液で、彼の関心も当然そこにあったと思われる。捕虜に行った生体実験も、血液の代用として海水を体内に注入する実験が主であった。

 人間の血液の代わりに食塩水が使用できるのか、肺はどの程度切除できるのか、てんかん療法として脳切開の効果はどうなのか。これらの実験が若いアメリカ兵捕虜を相手に解剖学教室で行われ、その有効性が調べられた。

 解剖は計4回行われ、1回目は全肺摘出と海水の代用血液、2回目は心臓摘出と肝左葉切除、3回目はてんかんの脳手術、4回目は代用血液と縦隔手術、肝臓摘出であった。アメリカ兵の生体解剖は麻酔下で行われたが、解剖は病院の手術室ではなく、解剖学教室の解剖台の上で行われた。アメリカ兵は手術中、もしくは手術直後に死亡した。

 この岩山教授が行った実験が、医学的にどの程度意義があったのかは不明であるが、捕虜を実験動物と同様に扱ったことは事実である。岩山教授は731部隊が中国で行った人体実験の資料を入手しており、731部隊と同じ考えが教授の根底にあったと思われる。

 当時、医学部第1外科の助教授だった鳥巣太郎(判決時は教授)は、第1回目の生体解剖の後、岩山教授に解剖の中止を進言している。この進退をかけた鳥巣助教授の進言は受け入れられず、鳥巣助教授は教授に逆らい3例目以降の解剖には参加していない。しかし皮肉なことに、岩山教授の自殺により、裁判では鳥巣太郎がこの事件の責任者として絞首刑の判決を受けることになった。

 この事件には多くの医師たちが関与していた。生きたまま解剖台に乗せられたアメリカ兵を前に、医師たちは何を思いメスを手にしたのだろうか。生々しく脈打つ心臓を見つめながら、血液を抜き、食塩水を注入し、肺を切除し、医師たちはどのような思いだったのだろうか。

 進駐軍は生体解剖事件に加え、解剖された捕虜の肝臓を宴会で試食した疑惑についても、激しい取り調べを行った。偕行社病院長ら5人が米軍検察官の拷問に近い取り調べを受け、自白の口供書にサインをしたが、この人肉試食疑惑は証拠不十分で5人とも無罪になっている。人肉試食事件は功を急いだ米軍調査官のでっちあげとされている。

 生体解剖事件は、日本の医学史上最大の猟奇事件である。医師の良心さえも軍国主義の渦に飲み込まれたのである。軍部、医学部教授といった権威主義のなかで、医師たちは最大の恥部をさらした。

 生体解剖事件の判決から2年後の昭和2510月に朝鮮戦争が勃発。マッカーサーは政治的配慮からこの事件の関係者全員を減刑とした。その結果、絞首刑も減刑され、死刑囚はいなくなった。さらに講和恩赦により、なし崩し的に釈放となった。鳥巣教授も絞首刑を免れ、昭和29年1月に出所している。鳥巣教授は平成2年に85歳で他界したが、人間としての罪を負い、自責の念から逃れることはなかった。

 この事件は岩山教授を中心とした非人道的犯罪と言えるが、むしろ恐ろしいのは学問の場である大学が、「人間は状況によって、どのような行為をも行い得る存在であること」を証明していることである。普段は上品そうなことを口にしていても、その時代の状況、集団の雰囲気に容易に流されるのが人間の恐ろしさである。

 現在、現役で働いている医師たちはこの事件を知らないでいる。この事件について当時の関係者を責める気持ちにはなれない。むしろこの事件が、生命を扱う多くの医師たちの記憶から薄れ、この事件が残した教訓が忘れ去られることを恐れる。

 生体解剖事件と同様、日本の医学界が残した大汚点のひとつが旧関東軍の731部隊である。石井四郎軍医を中心とした731部隊は、戦後その存在は闇の中に隠されていたが、人体実験で3000人の生命を奪ったとされている。アメリカは731部隊の軍医たちを、実験データと引き換えに不問としたが、731部隊の犯罪は生体解剖事件同様に罪深いものである。

 生体解剖事件は遠藤周作が小説「海と毒薬」として昭和32年に「文学界」に発表。翌年4月に文芸春秋新社から刊行された。ちなみに「海と毒薬」のタイトルは、遠藤が見舞客を装って九大病院の屋上に行き、そこから海を眺めながら思いついたとされている。

 「海と毒薬」は熊井啓監督により映画化され、昭和62年にベルリン映画祭銀熊賞審査員特別賞を受賞している。この事件の詳細については、上坂冬子の著書「生体解剖」(中央公論社、昭和54年)が最も詳しく信頼性が高い。上坂冬子はアメリカ国立公文書館からこの事件の公判記録を入手して本を書いたとされている。

 

 

 

飢餓の時代  昭和20年(1945年)

 終戦からの約3年間は国民が飢餓に苦しみ、飢餓に耐えた時代であった。この餓死寸前の食糧不足がなぜ起きたのか、その分析は曖昧のまま、終戦による混乱によると思われがちである。もちろん終戦による混乱もあるが、食糧危機を引き起こしたのは、偶然にも悪天候による凶作が災いしていたのである。

 昭和20年8月15日の終戦の日、あの暑い夏の情景から、その年が凶作だったと想像できる者は少ないであろう。だが同年9月17日には、死者3756人の犠牲者を出した枕崎台風によって農作物は壊滅状態となり、さらに暴風雨や冷害が重なり、同年の農作物の生産高は前年比35%減となっていた。昭和20年は36年ぶりの未曾有の大凶作の年で、さらに朝鮮や台湾からの食糧はストップし、代わりに600万人もの引揚者が帰国したため食糧事情はますます悪化し、人々はサツマイモのしっぽで飢えをしのいでいた。

 昭和2010月、当時の渋沢敬三・大蔵大臣は、現状のままだと来年度の餓死者は1000万人を超えるとUP記者に語っている。食糧事情の深刻さはこの大蔵大臣の言葉から伺い知ることができる。まさに「瑞穂(みずほ)の国」日本は飢餓列島と化していた。

 昭和201215日、東京・上野の地下道で浮浪者の一斉狩り込みが行われた。浮浪者の多くは戦災によって住居を失った人たちで、親を失った戦争孤児、引揚者、復員軍人が大勢含まれていた。この日の一斉狩り込みで、帰る家を失った2500人が保護収容された。

 日本の都市のほとんどが空襲で破壊され、廃墟の街は膝上ほどに雑草が伸びていた。住む家を失った人たちは雨風の防げる地下道へ集まり、上野だけではなく、横浜、名古屋、大阪などの都市部はいずれも同じような状況になっていた。

 昭和21年の冬は、厳しい寒波が日本を襲い、救援を待てず凍死する者が続出していた。上野駅だけで毎日6人の浮浪者が亡くなっていた。明らかな統計はないが、終戦当時の日本人の死因は結核よりも餓死の方が多かったとされている。東京都衛生局は浮浪者たちの一時収容所を設け、狩り込みで集めた彼らを厚生施設に収容し、自立更正の指導を行った。

 浮浪者たちは戸籍や住民票がないので食料の配給が受けられず、最悪の状況にあった。彼らのほとんどは餓死に近い栄養失調に陥り、伝染病が流行し、病気で倒れる人、飢え死にする人たちが多数いた。内務省の発表では、戦時中に米軍の空襲で消失した家屋が246万戸、防災上の理由から強制的に取り壊された家屋が55万戸。さらに数十万人の子供たちが戦争で身寄りを失っていた。

 同じころ、作家の野坂昭如は幼い妹と神戸の街をさまよっていた。養子に行った先の家が空襲で焼け、野坂昭如は養親を失い、妹をも失うことになる。20余年後、このことを「火垂るの墓」の題名で小説に書き、野坂昭如は焼跡闇市派として、昭和42年に直木賞を受賞している。

 昭和21年の国民1人当たりの栄養摂取量は1日1400キロカロリーであった。このうちの1000キロカロリーが国による配給で、残り400キロカロリーがヤミ市などによる不法なものだった。現在の1人当たりの栄養摂取量は1日2600キロカロリーなので、終戦当時は現在の約半分の摂取量であった。成人男性が身体を維持できる限界は1400キロカロリーとされ、国民全体が餓死寸前の栄養状態にあった。しかも、この栄養摂取量は国民1人当たりの数値であって、食糧事情の悪い都市部の人たちの摂取カロリーはさらに低いものであった。

 都市部では国の配給だけでは生きていけず、しかも配給は遅配、欠配が繰り返され、実際には必要とされる54%の摂取カロリーにすぎなかった。昭和21年6月の東京都の調査では、東京都民のうち米飯を日に3度食べている者は14%、1度しか食べていない者は71%、1度も食べていない者は15%となっている。

 昭和21年5月31日にNHKのラジオ番組「街頭録音」が始まったが、第1回目のテーマは「あなたはどうして食べていますか」であった。東京の小売物価指数は、戦前を100とすると、昭和20年末には308と3倍に上昇し、この物価上昇に給料はとても追いつけなかった。

  終戦のショックが日本中を覆っていたが、新しい日本の息吹が焼け跡から生まれてきた。焼け跡にはバラックが建てられ、終戦5日目の8月20日には、闇市第1号が東京新宿で産声を上げた。開店したのは新宿マーケット(新宿区新宿1-26付近)で、「光は新宿から」をキャッチフレーズに、闇市が日本再建の先端を担ったのである。

 この新宿マーケットを皮切りに、日本各地で闇市が次々に出現した。政府は米、砂糖、木炭などの日常品を配給制度、あるいは価格統制によって厳しく取り締まったが、これに違反する闇市が焼け跡に建てられていった。闇市には食料品から衣料品、盗品から密輸品まで何でもそろっていた。戦争中には見ることもできなかった日常品があふれ、旧日本軍の隠匿品、米軍の横流し品など、闇市にはさまざまな仕入先から商品が集まり、闇市は「自由広場」「青空市場」などと気取った名前で呼ばれていた。復員してきた若者が担ぎ屋となって、農村から食糧を買い求め、闇市でそれを売っていた。

 配給物資だけでは生活ができない国民は闇市に群がったが、闇市の値段は公定価格の数10倍以上で、何でもそろっていたが、誰でもが買える値段ではなかった。金さえあれば何でも手に入れることができたが、闇市の米や砂糖の値段は公定価格の100倍以上だった。配給だけでは生きていけず、国民はヤミ買いを余儀なくされた。国家公務員の月給が40円の時代に、ヤミ値は白米1升70円(基準価格53銭)、みそ1貫目40円(基準価格2円)だった。

 現金を持たない多くの市民は安い食糧を求め、近郊の農家へ買い出しに行くしかなかった。都会に住む人たちは食べ物を求め、殺人的に混雑する鉄道に乗り、農村へ買い出しに行った。農家を訪ねては、手に持った衣類をコメやイモなどと交換してもらった。嫁入り衣装などの愛着のある着物が、1枚、1枚と食糧に換えられ、都会のたんすから農村のたんすへと移動していった。

 タケノコの皮を1枚ずつ剥いでいくように衣類が食糧と交換されたことから、このような生活を「タケノコ生活」と呼んだ。また一皮剥くたびに涙が出ることから「タマネギ生活」とも呼ばれた。人々は生きるために必死の思いで格闘していた。

 食糧を抱え込んだ農家は都市部の食糧事情につけこみ、「今度は3枚でなければ売ってやらない。晴れ着でなければ駄目だ」などと難題を吹きかけた。このことから、都会人は近郊農家に悪感情を持つことになる。食べ物の恨みは恐ろしいのである。当時は配給制であったが、政府の公定価格よりヤミ価格の方が高かったので、農家は農産物を政府に出さず、高い値段でヤミ業者に売っていた。都市部は空襲を受けたが農村部の被害はわずかだったので、農村の食糧は豊富だった。昭和22年3月1日、警視庁は都内16の主要駅で買出しの人数を調査、その結果、買出しは4万1750人、買込みは2万4910人であった。買出しは千葉県、埼玉県、静岡県などで、その7割がさつまいもであった。

 深刻な食糧事情を反映して、日本各地で「餓死対策国民大会」が頻繁に開催された。この餓死対策国民大会の名称は単なるスローガンではなく、実際に餓死者が続出していたからである。それはやむにやまれぬ自発的な集会であった。昭和21年5月12日、東京・世田谷の住民は「米よこせ区民大会」を開催、隠匿物質を探そうと赤旗を先頭にデモ隊が皇居の台所に進入、天皇の献立を見せろと迫った。

 昭和21年5月19日には、五月晴れの皇居前広場に25万人が集まり、「食糧危機突破人民大会(食糧メーデー)」が行われ、3台のトラックを並べた演壇を前に、労働組員、学生、主婦などが集まった。大会では欠配米の即時配給など15の要求を採択、街頭へ出て「飢餓のデモ行進」を行った。食糧メーデーでは赤旗が振られ、メーデーの歌が合唱された。

 この日のデモで、「憲法よりも米よこせ」のスローガンが掲げられた。このことからマッカーサー元帥は、翌日「暴民デモ許さず」と厳重な警告を発した。さらにマッカーサー元帥は、輸入小麦の放出を決定し、大衆運動の鎮圧に乗り出した。このデモ鎮圧宣言は連合国軍総司令部(GHQ)の民主化政策の転換となった。

 またこの会場で「朕(ちん)はたらふく食っているぞ、なんじ人民は飢えて死ね」と書かれたプラカードの文面が問題になり、プラカードを持っていた共産党員・松島松太郎が不敬罪で起訴された。裁判では「不敬罪の存続の妥当性」そのものが争点となり、松島松太郎はGHQの意向により罪状は不敬罪ではなく、天皇への名誉棄損に変更され、懲役8カ月の実刑となった。

 人々は飢えていたが、ヤミで生きられた人たちはまだ幸せだった。精神病院に入院している患者、結核療養所に入所している患者は悲劇的であった。配給だけの患者は栄養失調で次々に亡くなっていった。また住居を持たない浮浪者は配給を受けられず餓死していった。

 このように国民が飢餓で苦しんでいる時、食糧で儲けようとする犯罪が多発した。陸海軍が本土決戦に備えて備蓄していた食糧、ガソリン、木材など当時500億円とも1000億円ともいわれていた物資が隠匿され、軍人や軍需商人の手で闇市へ売られていった。千葉県流山で、陸軍の隠匿銀塊62トンが発見された事件をはじめとして、軍が隠匿した日用品が日本各地で大量に発見され、隠匿物質の横流し、買いだめ、不正分配などが数多く報道された。闇市にはやくざ、復員軍人、予科練くずれ、戦争孤児などがうろつき、所場代をめぐって暴力団同士のけんかや発砲騒ぎが日常茶飯事のごとく頻発した。

 昭和20年末、東京の露天商は3000人以上とされ、彼らは新宿、浅草、新橋、銀座、上野などに大規模な闇市をつくっていた。日本は戦争に負けて打ちひしがれていたが、闇市から戦後の活力が芽生えてきた。この混乱期に、金の亡者となり、ひと財産を成すバイタリティーにあふれた者が多くいた。

 焼け跡に建つバラック、買い出しの人々で混雑する列車、闇市の喧噪…、これらは飢餓の時代を象徴する風景であった。人々は空腹に苦しめられ、食糧のみに欲望を集中させた。食べることが何よりも優先していた。

 長い戦争を経て、人は人を殺すこと、人が死ぬことに不感症になってしまったか、この殺人的な食糧難により、今日では想像もできないような事件が頻発した。次に飢餓の時代を象徴する事件を示すが、下記の事件以外にも飢餓がもたらした事件は数多く起きている。

【乳児圧死事件】

 誰もが生きていくのに精いっぱいだった時代、昭和201219日、東京・山手線の超満員の電車のなかで、母親に背負われた生後29日の乳児が圧死する事故が起きた。母親は長男の手を引き、赤ん坊を背負い、山手線で新橋から目黒までスシ詰めの電車に押し込まれ、帰宅した時には赤ん坊はすでに死んでいた。

 警察は「注意していれば死なせずにすんだはず」と、乳児の死を母親の過失として東京地検に送検した。このことが朝日新聞で報じられると、大きな社会問題として国民の関心を呼んだ。

 たとえ電車が満員であっても、託児所もない現実を問わずに母親の責任を問うことはできないとする意見。むしろ過失は鉄道当局にあるとする意見、母親の非常識を責める発言、このようにさまざまな意見が新聞社に寄せられた。

 この母親は、病人の世話をしながら2人の子供と借家住まいであった。借家からの立ち退きを迫られ、そのことを父親に相談するため、乳児を背負い山手線に乗ったのである。

 同様に、電車の混雑のなかで圧死する事件が日本各地で起きている。2012月9日、高崎発上野行きの列車の中で駅員が人波に押され圧死。22年5月16日には、大阪の天王寺と東和歌山間の超満員の電車で10数人が負傷、1人が圧死している。

 終戦直後の交通事情は最悪の状態であった。空襲で車両は焼かれ、燃料となる石炭は不足し、レールは空爆による破壊と老朽化がひどかった。東海道本線ですら1日2往復しかなく、明治初期のダイヤに逆戻りしていた。このため列車が出発する数時間前から人々は改札口に並び、列車の網棚や屋根にまで人があふれ、殺人的な混雑であった。電車に乗る人たちの多くは買い出しが目的であった。

 誰のせいでもない、あの飢餓の時代が生んだ事件であった。結局、母親は情状酌量のうえ不起訴処分となった。

 

【歌舞伎俳優一家殺害事件】

 昭和21年3月16日、東京都渋谷区に住む歌舞伎俳優、12代片岡仁左衛門(65)と元女優の妻(26)、3男(2)、女中(69)、子守(12)の5人がまき割り用の斧で惨殺される事件が起きた。警視庁捜査一課は、同居人で作家見習いの飯田利明(22)が事件後に姿を消しており、現場に血の付いた飯田の靴下が見つかったことから、飯田を容疑者として指名手配することになった。事件発生から4日後、飯田利明は宮城県の川渡温泉に潜んでいるところを逮捕された。

 取り調べに飯田は次のように自供した。殺人の直接の動機は、自分が書いた顧客に配るあいさつ状の出来を、「これでも作家か」と仁左衛門になじられ、「今夜中に台本を書けば、その料金を払うから、それを持って出ていけ」と言われたことであった。この言葉に逆上したことがきっかけであったが、飯田はそれ以前から仁左衛門を恨んでいた。それは居候である自分の食事が、あまりに少なすぎたからであった。

 仁左衛門一家は1日3食のおかず付きの米飯を食べていたが、飯田は2食しか許されず、しかも食事は天井が反射して映るほど中身の薄い小麦粉のかゆであった。飯田は空腹にたまりかね、「つまみ食い」をしているところを片岡夫人に見つかり、手ひどくしかられた。このことから夫人にも強い反感を抱いていた。

 飯田利明は不満を募らせながら眠ることができず、夜明け前に便所に行くと、偶然にも廊下にあった斧につまずいた。その斧を見ているうちに殺意が起こり、夫人を殺害しようと夫人の寝室に入った。飯田は夫人を殺害するとさらに逆上し、次々に殺害していった。殺害された12歳の子守は飯田の実の妹であった。妹を殺したのは、妹が告げ口をしたと思っていたからである。

 飯田利明は東京・浅草の生まれで、商業高校を卒業すると大阪に養子にいき、岸本姓から飯田姓になった。戦時中は北海道の軍需工場に動員され、終戦と同時に東京に帰ってきたが、浅草の実家は妹を除いて家族全員が死亡しており、大阪の養子の家も跡形もなく破壊されていた。そこで妹が子守として働いている仁左衛門宅に作家見習い兼居候として住まわせてもらっていた。だが家の者からは、ことごとくつらく当たられていた。

 食糧難の時代に食事の恨みが殺意に結びついた悲惨な事件であった。犯人の飯田利明は5人を殺害したが、種々の情状を考慮され無期懲役となった。

 

【小平事件】

 終戦から1年後の昭和21年8月17日の朝、東京・芝公園の道上寺の裏山で、死後10日ほどたった若い女性の腐乱した死体が発見された。全裸の遺体は首に手ぬぐいが巻かれたままであった。当時、この一帯は「闇の銀座」と呼ばれるほどのデートコースだったので、最初は単なる痴情による殺害と思われた。ところが遺体から少し離れた草むらからも、白骨化した女性の死体が発見され、連続殺人の可能性が出てきた。

 最初に発見された被害者の身元は意外に早く判明した。遺体発見から3日後の8月20日、被害者は捜索願が出されていた大相撲の行司・式守伊三郎の娘(17)であることがわかった。母親の話では、娘は8月4日に「就職口を探しに行く」と言って家を出たまま行方不明になっていた。

 娘の日記には、その日に小平義男(42)という人物と会うことになっていて、小平の住所も書かれていた。小平の容疑が濃厚になり、8月20日、小平は渋谷区の自宅で逮捕された。取り調べが始まると、小平は道上寺の2件の殺人をあっさりと自供、さらに驚くことに過去の暴行殺人事件を次々に得意げに自白した。小平は40人の女性を暴行し、抵抗した10人の女性を暴行後に殺害していたのだった。

 小平義男はリュックを背負った買い出しの若い女性に目をつけると、「闇米を安く売ってくれる農家を世話してあげる」と親切に声をかけ、言葉巧みに山林に誘い込んで暴行を加えていた。いきなり女性の首を絞め、無抵抗となったところを強姦。自分の欲望を満足させると、証拠隠滅のため絞め殺すという残忍な手口であった。小平は食糧難に便乗し、食べ物を餌に1年4カ月の間に10人の女性の生命を奪っていた。

 殺人鬼小平義男は、明治38年に栃木県日光で生まれている。店員や工員などをしていたが長続きせず、19歳の時に志願兵として横須賀海兵隊に入隊。中国大陸へ出兵したことが犯行への道を決定させた。中国の先々で売春婦と接し、上海事変では6人の中国兵を刺殺、さらに民家に入って強盗と強姦を繰り返していた。日本軍隊の風紀は乱れていて、小平は戦争によって殺人と強姦に快楽を覚えていた。

 小平義男は除隊後に結婚したが、小平に私生児がいることが発覚して離婚話となり、離婚させようとした義父を殺害して15年の懲役刑を受けた。しかし2度の恩赦により6年半で出所し、その後、第一海軍衣糧廠でボイラーマンとして働き、同じ職場の女性に食べ物を与え、20年5月25日に強姦、その後発覚を恐れて女性を殺害している。このとき味わった快楽がその後の殺人を生んでいくことになる。

 昭和21年より進駐軍の洗濯夫として働いていたが、若い買い出しの女性を見ると、「安い米がある、一緒に行こう」と甘い言葉をかけ、若い女性たちを簡単にだましては毒牙にかけていた。犯罪史上最も凶悪なこの事件は、当時の食糧難を象徴する犯罪であった。

 殺人鬼・小平義男は精神鑑定を受けたが、「性格異常者であるが、責任能力はある」とされ、裁判では10件の殺害のうち3件は証拠不十分で無罪となったが、7件について死刑判決がでた。昭和2311月、小平義男は最高裁で死刑が確定し、翌年105日、宮城刑務所で刑が執行された。小平義男はまんじゅうを3つ食べ、たばこを一服し、「この期におよんで何も言い残すことはありません」と念仏を唱えながら絞首台に立った。享年44

 

【東京慈恵医大生殺害事件】

 昭和21年7月10日の深夜零時頃、長野県北アルプス連峰の烏帽子岳登山口の山小屋で、宿泊中の東京慈恵医大予科3年生のパーティー4人が何者かに襲われた。学生たちは北アルプスの山開きに参加するため山小屋に泊まり込んでいた。寝込みを襲われた4人のうち原震治君(25)と助川佐君(22)が死亡、下城正雄君と関根栄三郎君が重傷を負った。

 犯人は熟睡している学生たちをこん棒で殴りつけたのだった。関根栄三郎君が血まみれになりながら、山小屋から50メートル離れた発電所の番小屋に転がり込むように助けを求め、発電所の職員が大町警察署に電話で連絡。非常線が張られ、事件発生から3時間後に犯人は現場から8キロ離れた笹平国有林で逮捕された。

 犯人は兵庫県の造船工・神川義春(24)と無職・斉藤和一(21)の2人で、東京慈恵医大パーティーの食糧を奪うための計画的犯行であることを自供。犯人たちは、事件の前日から登山をしている4人のパーティーに目をつけて後を追っていた。山小屋で学生たちと同宿、深夜になってこん棒で襲撃したのだった。米1斗と缶詰、学生らがリュックサックに入れていた食糧を狙っての犯行であった。犯人2人は長野地裁で死刑の判決を受け、昭和23年7月13日処刑された。

 

【欠糖病】

 終戦から昭和21年の秋にかけて日本の食糧事情は最悪となっていた。飢餓の時代には糖尿病の患者はほとんど見られず、それとは逆に糖不足からくる欠糖病患者が続発して話題になった。欠糖病は栄養失調の一種で、身体のだるさが主症状で、症状が進行すると意識を失う患者までいた。欠糖病の治療は簡単で、ひと塊の砂糖を与えるとすぐに回復した。この治療への反応性が良いことが欠糖病の大きな特徴であった。

 患者の多くは中年の男性であった。家族のために自分は食べ物を食べずに、妻子への食費を捻出するために働いていたからである。当時の医学の教科書には欠糖病の記載はあったが、欠糖病患者を診察した医師は少なかった。この欠糖病患者が多発していることを京大医学部・家森秀次郎助教授が朝日新聞に書いて話題となった。糖尿病に悩む現代社会では想像もつかない病気である。

 

【教授餓死事件】

 配給だけでは栄養失調となってしまう時代、国民のほとんどは闇市や買い出しで飢えをしのいでいた。配給以外のヤミ買いで食糧を得ることは食糧統制法に違反する犯罪行為であったが、この食糧不足を前に、政府が命じる配給のみの生活を行い、餓死する事件が起きている。国家を信じ、正しく生きようとする精神が食糧難の現実の前に挫折したのである。

 昭和201011日、東京高等学校ドイツ語教授・亀尾英四郎が栄養失調で死亡した。亀尾教授はまじめすぎるほどの学究肌で、同僚や学生からの評判はよかった。教授はかねてより国の食糧政策を信じ、また教育者として裏表があってはいけないとの信念を持ち、配給のみの生活を送っていた。どんなに苦しくても、国策を守っていく固い信念があった。しかし育ち盛りの6人の子供を抱えた生活は日々困窮するばかりだった。庭に造った2坪あまりの農園は焼け石に水で、子供たちに少しでも多く食べさせたいとする親心から、自分の食事をさらに切り詰めていた。

 亀尾教授の残された日記には、「国家のやり方がわからなくなってきた。限られた収入とこの食糧配給では、今日の生活はやっていけそうにもない」と書かれてあった。亀尾教授はまさしく国策に殉じた犠牲者であった。

 昭和25年9月1日には東大法学部の原田慶吉教授(47)が生活苦から首吊り自殺をしている。原田教授はローマ法制史の権威で、給料のほとんどが書籍代に消えていた。原田教授は闇米を買わず、6畳1間に家族5人の間借り生活をしていた。清く貧しい生活を清貧と言うが、清貧では物理的にも精神的にも生きてゆけなかったのである。

 

【山口良忠判事「餓死」事件】

 昭和221011日、国民のほとんどがヤミ米でやっと生き延びていたとき、東京地裁の山口良忠判事(33)の餓死事件は大きな衝撃となった。山口判事はヤミ米を口にすることを拒否、配給だけの生活を行い、栄養失調により衰弱死したのである。法を守る立場の裁判官としてヤミ米を拒否していた。

 山口良忠判事はヤミ売買を中心とする経済統制違反を担当していた。ヤミ米を買った人たちに刑を言い渡す立場上、「法の番人としてヤミ米を買わない」と山口判事は決意していた。ヤミ米を裁く裁判官がヤミ米を食べては、それを裁く資格がないとした。

 山口判事は妻と幼児2人を抱え、しかも安い給与では食べていけなかった。妻は衣服などを売って食いつなごうとしたが、山口判事はこれを叱りつけ、妻にヤミ買いを固く禁じていた。このため夫婦の毎日は汁をすするだけの生活で、わずかに配給される食糧の大部分は2人の子供にあてがっていた。

 見かねた知人や同僚たちが食料を送ったが、判事はそれをも拒み続けた。栄養失調による体調の不良を感じながら出勤し、100件以上の事件を片付けていた。8月27日、山口判事は東京地裁で仕事中に極度の栄養失調から倒れてしまった。

 山口判事が病床でつづった日記には次のように書かれている。

 「食糧統制法は悪法だ。しかし法律としてある以上、国民はこれに服従しなければいけない。自分はどれほど苦しくてもヤミ買いはやらない。自分は平素から、『ソクラテスが悪法だと知りつつも、その法律のために潔く刑に服した精神』に敬服している。今日、法治国家の国民は特にこの精神が必要だ。自分はソクラテスではないが、食糧統制法の下、敢然ヤミと闘って餓死するつもりである。自分の毎日は全く死への行進である」。このように悲壮なまでの決意が書かれていた。

 山口判事は餓死を覚悟し、自分の意志で死を選んだ。判事は九州に帰郷し、結核の療養をしていたが病床でも態度を変えず、「判事という職業が恨めしい」と涙する妻と2児を残して亡くなった。病名は肺結核であったが、朝日新聞が「食料統制に死の抗議、われ判事の職にあり、ヤミ買い出来ず」の見出しで山口判事の死を報じた。

 当時、配給される米は1日2合5勺であったが、実際に配給されるのは麦やカボチャばかりで、しかも配給の遅れは日常的で、配給のない欠配も続いていた。

 配給が遅れる毎日では死を待つしかない。誰もが生きるために違法と知りながらヤミに手を出すことが常識になっていた。その意味では国民全員が犯罪者であった。山口判事のように勤勉でまじめであっても、法を尊守し正しい生活を貫こうとしても、それでは生きていけない時代であった。山口判事の行為を「法の威信を守るソクラテス」と評価すべきか、あるいは「融通の利かない時代遅れの判事」と評価すべきか、いずれにしても自分の信念を貫いたことは、すさんだ当時の人たちに感動を与えた。

 終戦によりすべての価値観が崩壊した中で、山口判事の死は「法の権威を守り、死をもって国家に抗議した」として当時の人たちに高く評価された。彼の精神の純粋性が国民の共感を呼び、忘れかけていた日本人の美学を思い起こさせた。

 

【日本人の飢餓を救ったララ物資】

 終戦当時、日本は深刻な食糧不足とインフレに苦しめられていた。日本政府はアメリカに食糧援助を要請するが、「日本の破綻は日本国の責任である」としてアメリカは食糧援助を拒否していた。この状況を知ったアメリカの日系人たちは、日本の窮状を助けるために資金集めに奔走した。日系人はやっとの思いで援助物資を集め、日本へ輸送しようとしたが、アメリカ政府は日系人が日本に援助物資を送ることを許可しなかった。そのため日系人たちは救世軍などの宗教団体や労働団体に頼み、彼らの名前を借りて日本へ援助物資を送ることにした。

 日系人たちの努力によってアメリカの各団体が結集し、ララ(LARA : Licensed Agencies for Relief of Asia、アジア救済連盟)が組織されることになる。このララの呼び名から、またアメリカの宗教団体の名前で援助されたことから、ララ物資が日系アメリカ人からの贈り物であることを知る人は少ない。現在でもほとんどの歴史書はララを日系アメリカ人からの贈り物とは記載していないが、ララ物資は日系人が中心になってなされたのである。

 食糧難の日本にとってララ物資は天の助けだった。文字通り干天の慈雨で、当時の金額にして400億円に及ぶ食糧、衣料品、衣服などが日本に送られてきた。昭和211130日に第1船が横浜に入港、それ以後、援助は27年6月まで続けられた。

 ララ物資は生活に困っている人たちに配分され、ミルク、穀物、バター、ジャム、缶詰などの食料は、戦災孤児、結核患者、老人施設、国立病院、保育所、学校などに優先的に配布された。ララ物資は国民の15%に行き渡り、ララ物資が日本の食糧危機を救った。

 昭和21年の東京都の調査では、1日に1度も米を食べていない学童は43%に達していた。育ち盛りの学童にとってララ物資の恩恵は大きかった。昭和22年に学校給食が始まったが、学校給食の脱脂粉乳もララ物資によるものであった。ララ物資が日本人の飢餓を救ったが、同時に、日本人の対米感情を大きく好転させた。ララ物資が「日本を愛する日系アメリカ人」の努力によってなされたことを重ねて強調したい。

 

 

 

国営売春施設 昭和20年(1945年)

 終戦からわずか3日後の昭和20年8月18日、日本政府は占領軍を受け入れるに際し、「性の防波堤」として国営売春施設(特殊慰安施設協会)を設置することを決めた。国営売春施設は予想される占領軍兵士の性欲を満たすことが目的であった。

 米軍が日本に上陸する前日の8月27日、東京・大森の料亭「小町園」に日本初の国営売春施設が開場、小町園の英語名は「sex house」であった。この占領軍用の性的慰安施設についての政府決定は、内務省警保局長の橋本政美から全国の各警察署に秘密裏に無電で指令が出された。売春を取り締まるはずの警察が、売春施設に奔走したのである。その内容については「外国駐屯軍慰安施設等整備要領」として記録されている。

 国営売春施設は警視総監・坂信弥が中心になり、東京都内の芸子置屋同盟、貸座敷組合、慰安所連合会などの売春関連業者の協力で進められた。この設立を認めたのは後の総理大臣で、当時の大蔵省主税局長だった池田勇人である。

 池田は1億円の政府出資金を用意し、「特殊慰安婦協会、RAA:Recreation and Amusement Association」を設立。「1億円で日本の良家の子女の純潔が守れるならば安いもの」との認識であった。いずれにしても、戦後すぐに売春施設をつくったのは、日本国政府だった。

 政府の肝いりでつくられた国営売春施設の慰安婦募集が始まった。8月31日の朝日新聞に、慰安婦募集の広告が掲載され、その日以降、各新聞に同様の募集広告が次々に出されていった。「新日本女性に告ぐ! 進駐軍慰安婦の大事業に参加する新日本女性の協力を求む。年齢18歳以上25歳まで。宿舎、被服、食糧など完全支給」。このパンフレットは街頭でもまかれ、募集内容は若い女性に国土防衛を意識させるまじめな文章であった。

 慰安婦は押し寄せる進駐軍の毒牙から良家の女性を守るための防波堤とされた。終戦により、占領軍兵が日本の婦女子を強姦するという流言飛語が飛び交い、慰安婦を志望した女性たちは、「昭和の唐人お吉、日本民族の血統を守る人柱」と訓辞された。このように国営売春施設は政策として極めてまじめなものであった。

 特殊慰安婦協会には、モンペ姿からセーラー服の少女まで、東京だけで1000人の募集に4000人の女性が応募してきた。そのなかには食糧支給の言葉につられて集まってきた女性が多く、1360人の女性が慰安婦として働くことになった。

 女性のなかには、戦争によって配偶者を失った未亡人もいたが、応募者の半数近くは処女だったとされている。焼け野原の東京で餓死しないため、生きるためには恥も外聞もなかった。「国営売春施設に応募すれば衣食住が満たされる」、この条件に彼女たちは誘われた。応募した女性の多くが素足のままで、それは生きるための手段であった。

 内務省は、この国営売春施設の設置を決定すると同時に、進駐軍を迎えるための国民の心得についての通達を出し、その内容は新聞に掲載された。「日本女性の心構えとして、日本の女子は日本婦人の自覚をもち外国軍に隙(すき)を見せてはいけない、ふしだらな服装は禁物である」、「駐屯地付近の婦女子は、夜はもちろんのこと、昼間でも人通りの少ない場所の一人歩きをしないように」と書かれていた。

 政府は国営売春施設をつくる一方、一般女性には進駐軍についてこのような警告を発していた。この国営売春施設、国民の心構えは、いずれも日本の婦女子を守るためであったが、どれだけの効果があったのかは分からない。それは進駐軍の報道規制によって、進駐軍の犯罪が報道されなかったからである。

 米兵による婦女暴行、強奪事件などは進駐軍の報道規制によって揉み消されていたが、米兵による婦女暴行の噂は少なかった。米兵が礼儀正しかったのか、国営売春施設が米兵に効果的だったのか、いずれにせよ占領された日本の女性は守られることになった。

 日本政府が「性の防波堤、純潔の防波堤」として国営売春施設を作り上げた発想、衣食住を満たすため慰安婦に応募してきた女性たち。終戦という当時の状況を考慮すれば、国の政策も彼女らの心情も理解できないことはない。そうは言うものの、3日前まで連合軍を鬼畜米英と呼んでいた政府が、民間人に「辱めを受けるよりは自決」を強要していた政府が、米兵に国営売春施設を設けるという、手のひらを返した政策が何の抵抗もなく進められたことに戸惑いを覚える。それは民族としての潔癖性を、これほど無節操に変え得たことへの疑問である。この終戦前後の豹変は何だったのだろうか。

 終戦からわずか1カ月後の9月15日、ポケットサイズの「日米会話手帳」が誠文堂新光社から出版され、3カ月で400万部を売り上げる大ベストセラーとなった。日本人の16人に1人がこの本を買ったことになる。なお戦後において400万部以上を売り上げた本は、昭和56年の窓ぎわのトットちゃん(黒柳徹子 570万部)、昭和63年のノルウェイの森上・下(村上春樹 計449万部)だけである。このことからも「日米会話手帳」がいかにすざましい売り上げだったのかが分かる。それだけ日本人は英語を必要とし、英語に飢えていたのである。

 一億玉砕、本土決戦を唱えながら戦う者はなく、敵性語とされていた英語がギブミー・チョコレート変わり、天皇陛下万歳がマッカーサー万歳となり、貞操観念の強いはずの日本女性が、「日米会話手帳」を頼りに米兵の腕にぶら下がった。大和撫子が何の抵抗もなく豹変したように映るが、この変わり身の早さが日本人の順応性の高さと分析するのは単純すぎる。「日本人は信念を堅持しながらも、古い信念を躊躇なく捨て去る民族」と解釈しがちであるが、実際には、「鬼畜米英」は昭和16年からの戦争遂行のためのスローガンであって、それまでの日本人は欧米の文化や外国人へあこがれていて、人々は昭和15年の庶民感覚に戻っただけである。昭和15年まではアメリカの野球は新聞で報じられ、映画館ではハリウッド映画が次々に上演され、ラジオではジャズが流れていた。「鬼畜米英」は昭和16128日から、昭和20815日までの4年弱のことで、変わり身が早いのではなく、自然に昭和15年以前に戻ったと考えるべきである。

 しかしながら、数カ月前の沖縄のひめゆり部隊の最後、満州での民間人の自決、サイパンでの女性の投身自決などの悲劇と対比させると、慰安婦に応募した彼女らの心情に戸惑いを覚えることも確かである。

 ところで、日本女性の貞操観念について説明を加えると、日本女性の貞操観念は強いと想像しがちであるが、日本女性は性について本来は大らかだった。その証拠に、戦国時代のヨーロッパの宣教師は、日本女性の貞操観念があまりに欠如していることを本国への手紙に書いている。日本女性の貞操観念が堅固となったのは、儒教が導入された江戸時代以降のことで、封建時代あるいは銃後を守る軍国時代の産物といえる。いずれにしても、終戦から数日後に国営売春施設が設立された歴史的事実を直視しなければいけない。

 国営売春施設は、日本政府の予想通り米兵が列をつくるほどの大繁盛となった。最盛期には都内だけで20カ所以上、全国では7万人の慰安婦が働いていた。この女性たちは消耗品とみなされ、90%の女性が次々に性病に冒されていった。

 米兵の衛生を管理するGHQにとって、施設内での性病の蔓延は頭痛の種であった。国営売春施設の一角には「かまぼこ型の消毒所」が設けられ、事前の予防と事後の消毒が奨励された。さらに性病予防のためコンドームが108万個放出され、大量のペニシリンが日本に提供された。売春婦ばかりでなくセックスを商売としないダンサーたちも強制検診が義務づけられたが、性病予防の効果は低かった。

 米国に帰国した兵隊たちの妻や母親から「性病に冒されている」との抗議がGHQに殺到し、さらに売春行為そのものを反民主主義、反人道主義とする米国の世論が高まり、設立からわずか半年後の昭和21年3月27日、GHQは「公娼(こうしょう)廃止に関する覚書」を出し、すべての国営売春施設を廃止することになった。

 国営売春施設の廃止により、建前上日本の社会から売春は消失した。ところが売春は消失するどころか、潜伏した形で勢いを増すことになる。国家管理の売春が自由意思の売春に変わっただけであった。街頭に放り出された慰安婦たちは、手に職もなくもぐりの売春婦となった。国営売春施設の廃止により職を失った女性たちが街に立ち、街娼の全盛期がやってきた。雇い主から自由になった娼婦が街に溢れた。

 日本の性の防波堤とされていた慰安婦たちは、「パンパン」「パン助」「オンリー」「夜の女」「闇の女」など、軽蔑と羨望の混じった俗称で呼ばれた。女性たちは東京では有楽町、上野、池袋を主な仕事場として、売春相手は米兵から日本人へと移行していった。

 国営売春施設の廃止により、性風俗の悪化を恐れた政府は、2111月4日、「接待所慰安所等の転換措置に関する通達」を出した。特殊飲食店などを、風紀上支障のない地域に設け、やむを得ない社会悪として売春を黙認する政策をとったのである。

 娼家は特殊飲食店(カフェー)と名前を変え、娼婦は女給と形式上名前が変わり、売春が公然と行われるようになった。この売春地域が警察の地図上に赤い線で囲まれていたことより「赤線」と呼ばれるようになった。「赤線」は黙認された売春地区であった。

 昭和229月の時点で、東京では吉原、州崎、新宿、立川、小岩、向島など16カ所が赤線になり、全国では662カ所が赤線に指定され、娼婦は4万9000人とされている。この黙認の「赤線」に対して、非公式に売春行為を行う場所がいわゆる「青線」と呼ばれた。

 昭和30年の「売春白書」にその当時の売春の実態が報告されている。それによると、全国の売春地区は1921カ所で、売春婦は約50万人に達していた。このように売春婦の数が急増し、1人の売春婦が1晩にとる客は平均3人、5人に1人が性病にかかっていたとされている。

 この売春白書の数字は組織売春に限られた統計なので、フリーの売春を含めれば、売春婦の数は相当数に達していた。女性たちが売春を始めた動機は生活苦であるが、組織売春で働く女性たちは、収入の7割を搾取され、手元には3割しか残らなかった。

 終戦直後の風俗を象徴するかのように、菊池章子が歌う「星の流れに」が大ヒットした。赤い口紅でたばこをふかし、ガード下に立つスカーフ姿の女性たち。「星の流れに身を占って、何処をねぐらの 今日の宿、……こんな女に誰がした」、この歌詞は、当時の彼女たちの退廃的雰囲気を表現している。「生きるために体を売る女性の悲しみ」と表現すればもっともらしいが、むしろ貞操観念を非現実的とする女性の力強さを感じてしまう。この赤線による売春は、売春防止法が施行される昭和33年4月1日まで続いた。

 

 

 

メチルアルコール中毒 昭和21年(1946年)

 戦時中と戦後の数年間は、嗜好品であるアルコールの配給はほとんどなかった。日本酒の原料である米が何よりも貴重品だったので、醸造にまわせる米が絶対的に不足していたからである。たとえ酒の配給があっても、アルコール濃度は極端に低く、金魚を入れても泳げるほど薄かったことから、配給酒のことを「金魚酒」と揶揄(やゆ)されていた。

 飲酒が可能なアルコールはエチルアルコール(エチル)であるが、エチルの代わりに値段の安い工業用メチルアルコール(メチル)が闇市に出回り、多くの酒飲みがメチルの犠牲になった。

 戦時中の事件としては、昭和18年4月、川崎市で工業用メチルに香料を入れて造られたウイスキーで6人が死亡。20年7月1日には神奈川県横須賀市浦郷町の住民たちが輸送中のブタノールアルコールを盗んで飲み17人が死亡、8人が重体となっている。

 終戦からの数年間は、メチル中毒が多発した時期であった。2011月には東京都八王子市で闇市のアルコールを飲んだ4人が死亡し売人が検挙されている。占領軍の米軍将兵からも犠牲者が出たため、GHQは米軍将兵にメチルを販売した者は死刑にすると発表した。

 メチル中毒による死者は、20年には403人、21年には1841人と犠牲者は増大し、たとえ一命を取り留めても失明に至る者が多くいた。失明に関する統計は明らかではないが、その犠牲者は相当数にのぼっていた。

 メチルは量が多ければ死に至るが、少量でも失明する。当時の眼科医の記録に、メチルによる失明者を多数診察したことが残されている。また当時の眼科医で、メチルによる失明者を診たことのない医師はいないと言われている。眼が散る意味から「眼散るアルコール」という言葉が流行した。

 メチル中毒が日本で蔓延したのは、飲食店がメチルと知りながら客に飲ませていたからである。盛り場にはメチル鑑定所が設置され、多くの売人や飲食店主が逮捕された。東京都内では、メチルを大量に含んだウイスキーが「ダイヤモンド」の名前で売られていた。

 メチルのほかにも、ベンゾールやナフタリンなどの変成アルコールを用いた酒が売られていた。アルコール不足の時代に、酒は危険と分かっていても、飲む者が後を絶たなかった。そのため「メチルは命散酒」とも呼ばれていた。歌手の鬼俊英や女優の山田五十鈴の夫である俳優の月田一郎もメチルで命を落としている。

 絶対的なアルコール不足がメチルによる犠牲者を多く出した。一方、体に害をもたらさない薬品用エチルは堂々と飲み屋でだされ、当時の人々は日常的に薬品用エチルを飲んでいた。薬品用エチルにカルメラなどの添加物で味をつけ、あるいは水で薄めただけの酒が闇市に広く出回った。この薬用エチルはアルコール度数が高いため、飲むと一気に酔いが回ったため「バクダン」と呼ばれていた。また大衆酒場では、酒を造ったあとのカス(粕)をさらに発酵させ、それを蒸留した「カストリ」や、密造された「どぶろく」が庶民のアルコールとなっていた。

 戦後の混乱期から世の中が落ち着きを取り戻し、それまでのカストリやどぶろくに代わって安価になった焼酎(しょうちゅう)の全盛期を迎え、日本の酒飲みが清酒を飲めるようになったのは、昭和25年以降のことである。一方、メチル中毒は23年がピークであったが、生活が戦前の状態に復興する27年頃まで、メチルによる中毒は散発的に発生していた。

 メチルは酩酊をもたらすが、酒の味や酩酊状態からメチルとエチルを区別することはできない。副作用が出て初めて分かることになる。犠牲者の多くは、飲酒から半日ぐらいで、頭痛、嘔吐などの症状が出現し、眼がかすみ、激しい腹痛に襲われ、「ヤミ酒にやられた」と自覚して死んでいった。

 視力障害や死亡はメチルの直接の毒性ではなく、メチルが体内で分解された代謝産物ホルムアルデヒドとギ酸によるものである。これらが血液を酸性に傾け、代謝性アシドーシスを引き起こすことが死因とされている。また眼のかすみ、物が二重に見え、失明などの視力障害はギ酸による視神経障害とされ、病理学的には両側性視神経萎縮、視野狭窄の所見がみられる。この視力障害は治療によって回復しないのが特徴である。

 メチル中毒は現在では見ることはできないが、特異的な事件はまれに散発する。昭和57年4月15日、アルコールが禁止されている精神病院で、入院患者2人が燃料用アルコールを用いて宴会を行い死亡している。

 時代が豊かになっても、旧ソ連では貧しい人々の間でメチル中毒が多発した。飲酒追放運動によりウオッカを入手できない労働者が、昭和62年の1年間だけで1万人以上が死亡したと報道されている。アルコール規制の強いスウェーデンでは、エチルにも飲酒ができないようにメチルが混入されている。しかしこのことが逆効果となり、メチル中毒者を増加させた。さらに寒冷地用のウインドーウォッシャー液にはメチルが含まれているため、ウインドーウォッシャー液を誤飲した子供の事故が報告されている。

 メチル中毒の治療は、メチルアルコールの分解を抑制させるためにエチルを飲ませることである。エチルを摂取させ、メチルと競合させメチルの分解を防ぐことが治療とされている。もちろんその治療効果は事例が少ないため明らかではない。

 アルコールを飲む者も、アルコールを売っても儲ける者も、すべては終戦後の貧しい生活の犠牲者であった。貧しい生活、荒廃した社会状況、その環境の中で庶民のアルコールへの渇望がいかに強かったかが分かる。

 

 

 

DDT散布とシラミ 昭和21年(1946年)

 終戦直後、日本の衛生状態は極度に悪化し、伝染病が蔓延する最悪の状態にあった。外地からの引き揚げ者や復員兵が伝染病を国内に持ち込み、国民の栄養状態は極端に悪化し、空襲で下水道は破壊され、医薬品はないに等しい状態であった。そのため終戦直後の日本では、各地で伝染病が流行し、その猛威にさらされた。

 昭和21年の発疹チフスの患者は3万2366人、死者は3351人に達していた。同年の天然痘による死者は3029人であった。その他の伝染病による死亡者数は、赤痢が1万3409人、腸チフスが5446人、日本脳炎が590人となっている。また大正時代以降鳴りをひそめていたコレラも流行し560人が死亡している。まさに伝染病が日本中で暴れ回っていた。

 大阪府は発疹チフスの流行を阻止するため、次の広告を出している。この大阪府の文面が当時の伝染病の脅威を示す例として参考になる。

 「愛すべき大阪は、恐ろしい悪疫の猛威下にある。このまま放置すれば、都市隔離の非常手段をとらなくてはいけない。大阪、堺、布施の住民は一人残らずDDTの散布を受けなければいけない。これを受けない者はこの三市から一歩も出ることを禁じる」。この文章を読めば、いかに伝染病が脅威であったかが理解できる。

 当時は薬剤も医療器機も不足し、抗生剤も輸液も普及していなかった。伝染病に苦しむ患者を前に医師は何もできず、患者の自然治癒力に頼るだけであった。

 人々は風呂に入れず、着替える衣服もなかった。衣服や頭髪にはノミやシラミが寄生し、著しい掻痒(そうよう)が人々を悩ませていた。

 現在では、ヒトに寄生するノミやシラミを見ることはないが、当時は日常生活の中で普通に見ることができた。シラミは人に寄生し、皮膚を刺し、吸血による不快な掻痒をもたらしたが、それ以上に人々を恐れさせたのは、シラミが発疹チフスなどの伝染病を媒介したからである。昭和20年からの1年間だけで、発疹チフスによる死者は日本全体で4万人に達するほどであった。発疹チフスは、戦争や飢饉などの不潔な状態が続いた時に流行することから、欧米では「戦争チフス」の別名で呼ばれていた。

 発疹チフスはリケッチアによる病気で、感染者の血液を吸ったシラミの消化管でリケッチアが増殖し、このシラミが他のヒトに飛びつき、シラミの糞中のリケッチアがかき傷から皮膚に侵入して、ヒトからヒトへと感染した。

 発疹チフスの症状は、40℃を超える高熱と全身の皮疹で、腸チフスに似ているが、ワイル・フェリックス反応と呼ばれる血清反応が陽性になるため鑑別は可能であった。治療はクロラムフェニコールなどの抗生物質であるが、その当時はまだ治療薬はなかった。治療よりも予防の時代であった。

 昭和20年8月30日、米軍は横須賀に上陸する直前に、飛行機からDDTの空中散布を行った。米軍は感染症対策には神経質といえるほど気を使った。それは日本国民のためではなく、上陸する米国の将兵を発疹チフスなどの伝染病から守るためで、米軍は立川に駐留するに際にも立川基地上空からDDTを散布している。

 DDTの空中散布はすでに沖縄上陸時に試され、沖縄では蚊帳をつらずに寝られるようになっていた。米軍は亜熱帯地方ではマラリアの予防、日本においてはシラミによる伝染病の予防のため、DDTの大量散布を行った。

 米軍は、日本がポツダム宣言を受諾する前から占領政策を計画。日本で発疹チフスが流行していることから、発疹チフス予防のため大量のDDTを用意していた。もちろんDDTはシラミのほかにノミ、ハエ、カなどにも殺虫効果があった。

 昭和21年3月7日、GHQは、日本人全員にDDTを散布する計画を発表。以後、全国の学校、職場、街頭、駅、港などで強制的に散布された。DDTの散布はノミ、シラミの駆逐のためであるが、頭から白い粉を浴びせられることに終戦の屈辱を感じた者がいた。

 うどん粉をかけられたように頭髪が真っ白になり、さらに袖口や襟の奧まで噴霧機を差し込まれ、全身にDDTが噴霧された。DDTのシラミへの殺虫効果は絶大で、散布によりシラミは急速に姿を消すことになる。昭和21年に東京だけで9864人の発疹チフス患者がいたが、昭和22年には217人に激減するほど劇的効果があった。

 このDDT散布は30年頃まで全国各地で日常的に続けられ、日本では32年以降、発疹チフスの発生はみられていない。DDT散布は「DDT改革」と呼ばれるほど、日本の公衆衛生に飛躍的な進歩をもたらし、頭から白い粉をかけられることを「DDT洗礼」と表現したほどである。

 GHQが行った公衆衛生の政策は、DDT散布のほかに、結核へのBCGの強制接種、寄生虫予防のため人糞から化学肥料への切り替え、保健所の設置など多岐にわたっていた。これらが日本の環境衛生の改善に絶大な貢献をもたらした。

 DDTは殺虫剤として人体に散布されただけではなく、稲作などの農作物にも大量に用いられ生産性を向上させた。昭和31年8月にはフィラリア症が続出した八丈島にも散布された。

 DDTはジクロロジフェニルクロロエタンの略名で、殺虫剤として先駆的な薬剤であったが、その歴史は古く、明治7年にドイツの学生が卒業実験でDDTを合成させたのが最初である。昭和14年にスイスのガイギー社の研究員ミュラーがDDTの殺虫効果を発見、一躍注目を集めることになる。ガイギー社は英米と日独の両方にDDTを売り込んだが、その重要性に気がついたのは英米側であった。第二次世界大戦で英米が軍用防疫薬剤としてDDTを用いマラリア退治に威力を示したが、日本軍は使用せずに多くのマラリア感染者を出した。

 DDTは農作物の害虫に広く用いられ、農作物の生産性は向上し、農村の衛生環境の改善に貢献した。DDTは世界中で大量に使われ、「奇跡の化学物質」と呼ばれた。DDTは人間が殺虫剤として大量に使用した最初の薬剤で、その後の農薬はすべてDDTからスタートしたといえる。

 DDTの殺虫効果は神経毒によるもので、昆虫などの冷血動物に強い毒性を示すが、哺乳類などの温血動物への毒性が弱いのが特徴である。さらに殺虫スペクトルの幅が広かったため、虫の種類にかかわらず効果的であった。また簡単に合成でき値段が安かったことから、農薬殺虫剤として長期にわたり大量に使用されてきた。昭和23年、DDTの殺虫効果を発見したミュラーはノーベル生理学医学賞を受賞している。

 しかし昭和37年、レイチェル・カーソンが農薬の空中散布や殺虫剤の危険性を告発した「沈黙の春」を出版、アメリカで1日に4万部が売れるほどのベストセラーとなった。DDTを用いて害虫との戦いに勝った思っていたとき、DDTは鳥や益虫を殺し、さらに人間の命まで脅かす恐ろしい毒物であるとカーソンは警告したのである。ケネディ大統領が彼女の本を話題にすると、世論も彼女を支持することになる。

 DDTの殺虫性は抜群であったが、一般の昆虫にも効果が及ぶことから、DDTはトンボも飛ばない、セミも鳴かない自然界をもたらし、昆虫がいなくなれば鳥や魚もいなくなった。つまり「ドミノ連鎖により自然生態系のバランスが崩れること」を彼女は指摘したのである。

 DDTは化学的に安定した化合物で、自然界では分解されないため食物連鎖によって人間の体内に蓄積され、思わぬ害を招くことが指摘された。DDTは油に溶けるが水には溶けないため、プランクトン、原生動物、魚から人間へと食物連鎖によって、人間の体内の脂肪に蓄積され、特に母乳に多く含まれることもわかった。

 日本でも「沈黙の春」は話題になり、農薬の安全性に関する議論が沸騰した。さらに発がん性も言われだし、そのため昭和4412月、日本BHC工業会(三菱化成など6社)はDDTの製造を中止することになった。欧米のほとんどの国ではDDTをはじめとした有機塩素系の農薬は禁止されたが、発展途上国ではマラリア防除から現在でも使用されている。DDTの半減期は100年とされ、この分解されにくいDDTの汚染が問題になっている。発展途上国で使用されているDDTが世界の海を汚染し、生物濃縮や食物連鎖によって、全世界の人々に害を及ぼす危険性があった。慢性的に人体に影響を及ぼしている可能性があった。

 しかし意外なことに、日本人は頭から浴びるようにDDTの洗礼を受けたのに、DDTによる死亡例はこれまで報告されていない。DDT以降に開発された多くの殺虫剤は、理論上毒性は低いはずであるが、皮肉なこと毎年数百人の中毒死亡者を出している。

 DDTによる死亡例はこれまで報告されていないが、目には見えない環境ホルモンとして子供や子孫に影響を与えていることは否定できない。南極圏のペンギンの脂肪にもDDTの蓄積が確認され、この事実は生物濃縮、食物連鎖の恐ろしさを示している。

 発疹チフスはDDTにより昭和32年以降日本では発生していない。このように発疹チフスを媒介するコロモジラミは全滅したが、昭和50年頃から全国的にアタマジラミと毛ジラミが流行している。

 コロモジラミは衣服の縫い目に寄生し、アタマジラミは頭髪に寄生する。衛生状態が格段に改善しているのにアタマジラミが流行しているのは、海外との交流が増えて感染の機会が増えたこと、シラミへの知識不足によるとされている。

 平成9年の国立感染症研究所の報告では、アタマジラミ患者数は8600人となっている。アタマジラミの感染は報告の義務がないため、実際の患者はこの報告数よりもはるかに多いとされている。アタマジラミは、保育園やプールの更衣室から子供が感染する場合が多い。

 シラミ駆除剤は住友製薬からフェノトリンを成分とするスミスリン(商品名)が発売されている。スミスリンの年間出荷量が33万個であることから、アタマシラミ感染者は予想以上に多いと推測される。治療はスミスリンを使用すれば比較的容易であるが、枕カバーやタオルなどの頭に触れる物の洗濯やアイロンをかけることも重要である。

 シラミの感染として毛ジラミがある、毛ジラミは陰部に生息し、陰部の接触によって伝染する。伝染病には関与しないが、毛ジラミはコンドームでは予防できない性感染症である。毛ジラミは性行為によって感染するが、人間の体から離れても2日間は生存するため、公衆浴場や家族間で感染する例が報告されている。アポクリン汗腺を好むことより、陰毛や腋窩に寄生する。治療は剃毛(ていもう)が有効とされているが、それ以上にスミスリンによる治療が有効である。

 

 

 

奇跡のクスリ、ペニシリン 昭和22年(1947年)

 抗生物質ペニシリンの発見は、感染症への人々の脅威を激減させた。ペニシリンが発見されるまでは、肺炎、中耳炎、破傷風などの感染症の治療法はなく、感染を受けた多くの人たちの生命が奪われていた。昭和3年にペニシリンを発見し、人類に大きな貢献をもたらしたのが、イギリスの細菌学者アレキサンダー・フレミング(18811955)である。この20世紀最大の発見は「偶然と同時に、フレミングの鋭い観察力」が導き出したものである。

 セント・メアリー病院に勤めていたフレミングは、第一次世界大戦時に、フランス戦線に派遣され、次々に運ばれてくる戦傷者の傷の洗浄を繰り返す毎日であった。大戦が終わりセント・メアリー病院に戻ってきたフレミングは、細菌と生体防御機構の研究に没頭する。

 フレミングはペニシリンを発見する前に、唾液中の殺菌物質リゾチームを大正10年に発見している。このリゾチームの発見は、フレミングの鼻水が培養皿上の細菌に変化をもたらしたことがきっかけであった。後の研究で、リゾチームは鼻汁だけでなく、唾液、涙、痰、粘液などに含まれる殺菌物質であることがわかった。リゾチームの殺菌作用は弱く、病原性のある細菌には効果は弱かったが、当時としては医学上の大発見であった。リゾチームは現在でも風邪薬の成分として含まれている。

 昭和3年、ブドウ球菌の培養実験を行っていた当時47歳のフレミングは、ガラス皿の中に混入した青カビが周囲のブドウ球菌を溶かしているのに目を奪われた。フレミングが普通の研究者であったならば、単に実験の失敗で終わっていたであろう。だがフレミングの鋭い観察力は、この奇妙な現象を「細菌を殺す何らかの代謝産物を青カビが出している」と推測したのだった。青カビを培養して調べてみると、青カビの培養液が細菌の発育を阻止し、溶菌する作用を持っていることがわかった。カビの培養液を1000倍に希釈しても殺菌効果を持っていたのだった。

 微生物間の拮抗(きっこう)作用はペニシリンの発見以前から知られていたが、当時の細菌学者は、「細菌に毒性のあるものは、人体にも毒性がある」との先入観にとらわれていた。フレミングは青カビの培養を繰り返し、人間の細胞に無害であることを証明し、この青カビ(ペニシリウム)が産生する殺菌物質をペニシリンと命名した。翌4年、「ペニシリウム培養液の抗菌作用、とくにインフルエンザ菌への応用について」という論文を発表している。

 フレミングの鋭い観察力がペニシリンの発見を生むことになったが、ペニシリンを精製することができなかった。ペニシリンは化学的に不安定で精製するのが困難だった。そのため動物実験には至らず、研究は約10年もの間放置されていた。彼の研究は英国実験病理学雑誌に掲載されたままとなった。

 昭和15年になって、英オクスフォード大学の病理学者フローリーと生化学者チェーンがこのペニシリンの作用に着目した。彼らはフレミングが発見したリゾチームの研究をしていたが、フレミングの論文を読み、ペニシリンの実用へと研究を変えたのであった。

 2人はペニシリンの酸性溶液が低温エーテルで抽出できること、濃縮乾燥させても安定していることを見いだした。このような特性を利用してペニシリンを分離精製し、化学的に安定した粉末にすることに成功した。

 さらに連鎖球菌、ブドウ球菌、ガス壊疽菌などをマウスに感染させ、ペニシリンの投与によって、マウスが死なずに生存することがわかった。このようにペニシリンの感染症への効果が証明され、この成果は「化学療法剤としてのペニシリン」の論文名で、雑誌「ランセット」昭和15年(1940年)8月24日号に掲載された。彼らは分離精製の技術に引き続き、クスリとして大量に生産する方法も開発した。

 翌年2月にオクスフォードのラドクリフ病院でペニシリンが人類に初めて使用された。投与されたのは黄色ブドウ球菌に感染した重症患者で、ペニシリンの劇的な効果が確かめられた。ペニシリンは猛威を振るっていた肺炎、淋菌、敗血症など、多くの化膿菌感染症に劇的な効果を示した。このフローリー、チェーンによる臨床への応用は「ペニシリンの再発見」とよばれ、フレミング同様の高い評価がなされている。

 抗生物質は自然界に存在する微生物の拮抗作用を利用したもので、人間には害を及ぼさず、病原菌のみに毒性を示す物質である。このペニシリンの成功をきっかけに、世界中の科学者たちは、無数に近いカビの中から、人体に投与可能な物質を手当たり次第に探し求めることになる。

 彼らが最初に取り組んだのは、科学者としての研究ではなくカビの収集であった。ペニシリンの成功により、抗生物質の黄金時代が始まることになる。なおフレミングが発見したペニシリンを産生する青カビは非常に珍しいカビで、この珍しい青カビが、フレミングが実験していたガラス皿の上に偶然にも迷い込んできたのだった。

 イギリスはペニシリンの生産を目指していたが、イギリスはドイツから連日のように空襲をうけていた。フローリーはペニシリンの大量生産のためアメリカに渡り、農務省の協力を得て生産を始めることになった。ビンによる培養がタンク培養に代わり大量生産が可能になった。

 このペニシリンが世界で使用されたのは、アメリカで大量生産が可能になった太平洋戦争末期の昭和18年頃である。ペニシリンは感染症に罹患した多くの連合軍兵士に投与され、若い兵士たちの命を救った。戦病者の95%がペニシリンによって命を救われたとされている。

 昭和18年暮れ、ペニシリンの劇的効果がドイツの医学雑誌によって日本にも伝わり、翌年1月27日、「肺炎にかかったチャーチルの命をペニシリンが2日で治した」、このブエノスアイレスの外電をきっかけに、ペニシリンが注目されることになった。

 朝日新聞がこの記事を伝えると、これに刺激を受けた軍部はその日のうちにペニシリンの研究を命令、陸軍軍医学校の稲垣少佐が中心になって研究が進められた。このようにペニシリンはチャーチルの命を救ったことが大きな宣伝になり世界中に報道されたが、チャーチルに用いられた薬剤は実はサルフア剤だったとされている。いずれにしても、この報道が日本の軍部を動かすことになった。

 昭和19年2月1日、医学、薬学、農学などの科学者が動員され、陸軍医学校に第1回ペニシリン委員会(碧素研究会)が発足した。陸軍省医務局は15万円(現在の金額で30億円)の予算を組み、国家プロジェクトとしてペニシリンの研究が開始された。

 日本全国から、食品、土壌、植物などに生えている2000株以上のカビが集められ、その中から殺菌力のある3種類のカビを見つけることに成功。次いで患者への臨床試験が行われ、抗生剤としての殺菌効果が確かめられた。日本は、ペニシリンの研究からわずか9カ月で自前の国産ペニシリンを完成させた。ペニシリンの和名は碧素(ヘキソ)であった。

 国産ペニシリンは森永の三島工場、萬有製薬の岡崎工場で生産され、一部は軍に納入されたが、終戦間際の混乱のため一般には普及しなかった。このように「夢のくすり」、「魔法の弾丸」と呼ばれたペニシリンは日本でもつくられていた。

 太平洋戦争が終わり、GHQとともにアメリカからペニシリンが輸入され、その劇的効果によって数多くの日本人が救われた。しかしアメリカからのペニシリンだけでは国内の需要は満たせず、国産ペニシリンの生産が国家的急務となった。

 厚生省は昭和21年1月にペニシリン生産対策協議会を開催し、7月にはメーカー39社が集まって日本ペニシリン協会が設立された。アメリカからテキサス大学教授フォスターが招かれ、彼の指導により各製薬会社はタンク培養によるペニシリンの大量生産を開始した。

 昭和22年2月、国産ペニシリンが病院へ配布され、翌年には日本各地に行き渡るようになった。ペニシリンは単一物質とされていたが、天然ペニシリンにはP、G、X、Kの4種類あることがわかり、医薬品として実用化されたのはペニシリンGであった。

 ペニシリンは配給統制品から解除され、高価だったペニシリンは2年間で2割まで値段が下がり、魔法の弾丸は庶民の手に届くまでになった。その結果、22年に国民の死亡率第2位で10万人以上が命を落とした肺炎は、翌年には第6位とわずか1年で死者を半減させた。

 日本において短期間にペニシリンが普及したのは、ペニシリンを「人類共通の財産」として欧米が特許の対象にしなかったからである。さらに日本政府はペニシリンを生産する製薬会社に融資などの優遇措置を与え、またカビでひと儲けを狙う人たちが多かったことも普及の要因となった。そのため医薬品メーカーだけでなく、製菓業、乳業、酒造業、ビール業、化学工業までがペニシリン製造に乗り出した。

 ペニシリンは感染症の治療だけでなく、戦後の産業復興の牽引の役割を果たした。廃墟の中にあった日本経済をペニシリンが再生させたのだった。またアメリカ軍が「性病から兵士を守るためペニシリンの製造を奨励したこと」もペニシリン特需に拍車をかけた。

 昭和25年に朝鮮戦争が勃発すると、アメリカ軍は日本のペニシリンを大量に買い取ることになった。そのため抗生剤の生産は飛躍的に伸び、昭和30年には51の製薬会社がペニシリンを生産し、日本はアメリカ、イギリスに次ぐ世界第3位のペニシリン生産国になった。日本はペニシリンの輸入国から一転して輸出国へ、抗生物質大国、医薬品大国の道を歩むことになった。

 ペニシリンを発見したフレミングは、フローリー、チェインとともに、昭和20年にノーベル生理学医学賞を受賞した。昭和30年5月11日、フレミングはロンドンの自宅で心臓発作のため他界。彼が発見したペニシリンの原料となった青カビは現在ロンドンの大英博物館に展示されている。

 

 

 

日本医師会の発足 昭和22年(1947年)

 慶応3年(1867年)10月に大政奉還がなられ、明治政府が誕生。明治7年、明治政府はそれまでの漢方医学から西洋医学へと変換する方針を決めた。明治政府が西洋医学を導入してからも、医学会社などの医師の親睦団体はあったものの、大規模な組織はつくられていない。

 明治23年4月に第1回日本医学会が開催されるころになると、医師の数も増え、自分たちの資質の向上と医業権益ため、医師会設立の気運が高まった。医師会発足は、明治26年に全国の薬剤師が医薬分業を求め、日本薬剤師会をつくったことが大きな起爆剤となった。同年、全国の医師有志が集まり、大日本医会が小さいながらも創設されることになった。

 日本医師会の歴史の中で興味深いのは、日本医師会の設立は医薬分業を主張する日本薬剤師会に対抗することが目的だったことである。設立後の日本医師会の活動も、常に医薬分業を阻止することであった。このように医薬分業は医師会の団結を維持するための刺激剤になっていた。

 明治39年、日本薬剤師会が医薬分業を定める法案を再度政府に提出、これに対抗するため県単位の医師会が相次いで誕生。同43年に関東、東北、関西、九州などのブロック別に医師大会が開かれるようになった。

 大正3年、日本薬剤師会が再び医薬分業を政府に要求したことから、日本医師会設立の機運が高まり日本連合医師会が設立された。しかし参加した都道府県は少なく、本格的な活動には至っていない。この流れの中で、「薬律改正案」が再三議会に提出された。この動きに医師たちの危機感が高まり、大正5年1110日、ついに大日本医師会が誕生した。

 大日本医師会に参加した医師数は4万3000人で、設立の理念は日本の医療を良くするための情報交換と医師の社会的地位の確保であった。大日本医師会の会長には、破傷風とジフテリアの血清療法を発見した伝染病研究所所長・北里柴三郎が選任された。北里は慶應大学医学部の初代部長で医学界の重鎮であったため、その名声によって全国規模の大日本医師会が結成されることになった。

 大日本医師会の開会のあいさつに立った北里柴三郎は、「3万有余のわが会員は、国民に直接接する開業医のみでございます」と述べている。この言葉から大日本医師会は開業医の組織として設立されたことが分かる。会員の大部分が開業医で占められ、大日本医師会は反帝国大学、反官僚的な雰囲気に満ちていた。北里の在野精神が多くの医師の賛同を得ていた。

 大日本医師会は薬剤師会の政治力に対抗するため、衆議院に議員を送ることを決議。総選挙で14人の医師出身議員を当選させる実力を示した。大日本医師会の入会は任意であったが、大正8年に医師法が改正され郡市区医師会、道府県医師会が強制的に設立され、医師会の加入が任意から強制になり、公立病院の勤務医も加入が義務付けられた。

 また医師会の法人化が図られ、大正1211月に大日本医師会は日本医師会と名称を変え、任意法人の認可を受けることになった。その定款第3条には「本会は医道の昂揚(こうよう)、医学、医術の発展普及および公衆衛生の向上を図り、社会福祉を増進することを目的とする」と記載されている。このように日本医師会は医道の昂揚という精神面と、医学や医術という学問技術の向上を基本とした学術団体であることが分かる。

 北里柴三郎は昭和6年6月13日に脳溢血で死去(享年78)するまで日本医師会長を務め、2代目の会長は北里の弟子である北島多一が昭和18年1月まで務めた。満州事変から太平洋戦争へと続く戦時体制のなかで、日本医師会は国家総動員体制に組み込まれ、戦争遂行のために国に協力することが義務付けられた。日本医師会は管制医師会になり、医師会の役員は国の任命する官選となった。

 昭和18年2月、小泉親彦厚相は3代目の日本医師会長に稲田龍吉、副会長に中山寿彦を任命。日本医師会と並列した組織として日本医療団が設立された。日本医療団は国家総動員体制における病院や診療所の運営、医療関係者の指導錬成にあたることを務めとし、医療団総裁には医師会会長・稲田龍吉が兼任することになった。医師会は戦争遂行のための国家組織のひとつとして終戦を迎えることになる。

 第二次世界大戦が終了すると、連合国総司令部(GHQ)は日本のあらゆる分野の民主化を指示。アメリカ自由主義の理念を基本に、日本医師会も国家統制の医療を改めるように命じられた。

 昭和2011月、GHQは医師会の役員を選挙で選ぶように指示、翌21年2月の役員選挙で中山寿彦が会長に選ばれることになった。さらに同年9月30日、GHQは日本医師会を強制加入から任意加入とすることを指示。22年8月13日に日本医師会設立委員会が発足し、委員長には榊原亨、副委員長には黒沢潤三が選ばれた。しかしそのとき、GHQは管制医師会に協力した者の排除を通告、そのため設立委員会のメンバーは医師会執行部に入れないことになった。

 昭和221031日「医師会、歯科医師会及び日本医療団の解散等に関する法律」が公布され、111日に「日本医師会」が認可され新たな出発となった。新生「日本医師会」の会長には東大教授・高橋明が選任された。

 新生日本医師会は新憲法の精神にのっとり、会員はそれまでの強制から任意加入となり、日本医師会は自主運営を行う法人となった。また都道府県医師会、郡市区医師会への加入が日本医師会加入の前提となった。

 日本医師会の目的は、「医道の高揚、医学の発展、医療の普及と公衆衛生の向上、医師の補習教育、会員間の相互扶助を図ること」とされている。だが実際には、開業医の利益擁護が活動の中心で、特に昭和32年から25年続いた武見体制下の日本医師会は、強力な圧力団体として政治力を発揮することになる。

 この武見太郎の政治力は日本医師会の政治力ではなく、武見個人の政治力であった。武見太郎は昭和21年から首相を務めた吉田茂の甥にあたり、厚生省ではなく政治家を相手に医療制度を変えていった。それまでの日本医師会長は役員が変わるたびに厚生省にあいさつに出かけたが、武見は厚生省にあいさつに行かず、厚生省が武見にあいさつにくるようになった。

 日本医師会は、同会員で組織された「日本医師政治連盟」によって、豊富な資金力でロビー活動を行った。支持政党である自民党に多額な献金を行い、関連官庁へも絶大な力をふるった。とくに社会保険診療報酬をめぐっては、厚生省や健康保険組合連合会と常に対立し、強力な圧力団体となって開業医の利益を守った。

 医師を代表する有力団体が他にないため、日本医師会の賛成がなければ日常の医療行為、医療政策が遂行できなかった。また日本医師会は開業医をほぼ組織化し、いざという時にはスト(保険診療の拒否)を武器に、あるいは政府の各種委員会からの総引き上げという手段によって、日本の医療と保険行政に大きな影響力を持った。

 だがこの日本医師会の強さは、昭和50年頃までであった。武見太郎が引退すると、その政治力は急速に低下し、現在ではかつての政治力はみられない。日本医師会は厚生労働省(平成13年1月の省庁再編で厚生省と労働省が合併)関係の審議会や協議会に多くの代表を送り込んでいるが、医療保健行政への影響力はかつてほどではない。それとは逆に、日本医師会との長い対立の結果、厚労省の団結が強くなり、医療行政の主導権は日本医師会から厚労省に代わってきている。

 厚労省の医療は「医療を国民に平等に安く提供すること」で、日本医師会の医療は「医師が持つ技術を、自由で平等に提供すること」である。統制医療と自由主義医療の違いが常に対立することになった。つまり医療報酬を下げようとする厚労省、医療報酬を上げようとする日本医師会の対立であって、いずれにせよ医療費を誰がどのように負担するかで常に対立している。

 日本医師会長は武見太郎(1325年)のあと、花岡堅而(1期2年)、羽田春兔(4期8年)、村瀬敏郎(2期4年)、坪井栄孝(4期8年)、植松治雄(1期2年)、唐澤祥人(2期4年)、そして平成22年より原中勝征となっている。日本医師会の政治組織である日本医師政治連盟は、政治家に寄付をしており寄付金は年間約15億円に達している。

 一般には知られていないが、日本医師会は日本医学会を傘下に持ち、日本医師会の主催で4年ごとに日本医学会を開催している。大学病院の医師や勤務医は日本医師会と各学会は無関係と思っているが、医学関係の各学会は日本医師会の下部組織になっていて、日本医師会は日本の医学会をも牛耳っている。

 そのため各学会は政府に直接働きかけることはできず、国への要望は常に日本医師会を介することになっている。このように日本医師会は医学研究の総括も行い、対外的にも、対内的にも、構造的に強固な組織をつくっている。

 日本医師会は医師の集団であるが、同じエリート集団である日本弁護士会(日弁連)ほどの拘束力はない。日弁連は強制加入で、日弁連から除名された弁護士は失業同様になるが、日本医師会会員は医師会を除名されても医業を行うことができる。そのため職業集団としてのインパクトは、日弁連の方が日本医師会より強い。そのため勤務医の半数は日本医師会に入会せず、加入しないで開業医となるケースも増えている。

 日本医師会は、47都道府県医師会の会員により構成され、都道府県医師会はそれぞれが独立した法人になっている。日本医師会は各都道府県単位に会員500人に1人の割合で代議員を出すシステムになっている。現在の会員数は開業医8万2000人、勤務医7万4000人の計156000人で、その組織率は全医師の約6割である。勤務医の比率は以前に比べ高くなっているが、勤務医は準会員で、まだ開業医が主体の組織といえる。

 

 

 

ストリップとトルコ風呂  昭和22年(1947年)

 戦後の風俗の代表はストリップであった。昭和22年1月15日、新宿の帝都座での「額縁ショー」が第一号で、「額縁ショー」とは胸と腰を薄い布で隠した半裸の女性が、舞台の中央に置かれた額縁の中でポーズを取るものであった。額縁の中で名画そっくりのポーズを再現するだけのもので、しかも数秒間スポットライトが当たるだけの演出であったが、禁欲状態の庶民にとっては十分な刺激があった。「額縁ショー」はたちまち話題となり、帝都座5階入口から路上まで「押すな、押すな」の列が出来るほどであった。

 昭和25年ころから、ストリップ嬢が本格的に服を脱ぐようになり、浅草の公園劇場のジプシー・ローズが名を売るようになった。ジプシー・ローズは版画家・棟方志功が「神のような肉体」と絶賛したほどで、ストリップは黄金時代を迎えた。昭和39年には特出の関西流のストリップが大阪から東京へ進出。全裸ストリップは大変な話題を呼んだが、大阪では逮捕されなかったのに、東京では逮捕となった。かつてストリップといえば浅草であったが、浅草は関西流に押され下火になった。全裸ストリップは昭和41年7月の風営法の改正で禁止になったが、昭和45年に大阪万博が終わると取り締まりが緩和され、大阪では事実上解禁され、東京でもしだいに過激になった。

 昭和40年代を代表するストリップ嬢といえば一条さゆりである。過激な露出で映画化されるほどの爆発的な人気があった。昭和46年3月には大阪地裁で懲役4ヶ月、執行猶予2ヶ月となったが、権力に挑戦するかのように、その後も9回検挙されている。一条さゆりは逮捕の度にその名を上げていった。なお「さゆりスト」とは一条さゆりのシンパのことで、吉永小百合ファンの「サユリスト」と区別されていた。昭和50年代には客がダンサーと舞台上で本番を行う生板ショーなるストリップが流行した。戦後から今日まで、多くのストリップ嬢が生まれたが、ストリップ劇場の幕間で行われた漫才やショーからもスターとなったお笑い芸人が多い。その代表がビートたけしである。

 戦後の風俗としてトルコ風呂があるが、日本初のトルコ風呂「東京温泉」が、昭和26年4月1日に東京・銀座東1丁目松坂屋の裏で開業した。トルコ風呂の名前はトルコのターキッシュバスにヒントを得たもので、地上4階地下1階のビルには、食堂、バー、小劇場など高級ホテル並みの設備を備え、紳士にとっての社交の場、歓楽のデパートであった。

 「東京温泉」ではミストルコと呼ばれる女性がブラジャーとショートパンツ姿で客のマッサージを行ったが、サービスそのものは健全で、後に一般化する性的サービスは行われていない。入浴料は大衆浴場が100円、個室は600円だった。当時の銭湯が12円だったことから、決して安い値段ではなかったが超人気となった。「憲政の神様・尾崎行雄」がにこやかにサービスを受けている写真が毎日新聞に掲載されている。

 このようにトルコ風呂は健全なサービス業であったが、昭和33年に売春防止法が施行されると、トルコ風呂は赤線に代わって性的サービスを行うようになる。トルコ風呂は性風俗の主流となり、昭和58年の統計では日本全国で1695軒となった。トルコ風呂では堂々と売春を行っていたが、銭湯と同じ公衆浴場法よって風俗ではないとされ、警察はその実態を調べることも取り締まることしなかった。

 昭和59年、東京大学地震研究所にトルコ共和国から留学してきた青年(30)が、「トルコ人というと、日本人はスケベそうな顔をする」、「トルコ風呂はトルコ国家の名を汚す名前である」と渡部恒三厚生大臣に直訴し、名称の変更を求めた。トルコ風呂業界は公募した2200通のなかにはスペシャルバス、ボディーランドリー、湯郭(ゆーかく)、浮世風呂などの名前があったが、最終的にはソープランドと名称を変えた。もちろん名前が変わっても実態は変わっていない。

 

 

 

寿産院もらい子殺し事件 昭和23年(1948年)

 昭和23年1月12日夜、東京都新宿弁天町の路上で自転車に乗っていた葬儀屋・長崎竜太郎(54)がパトロール中の警察の尋問を受けた。自転車の荷台に、かさばったミカン箱を4箱乗せていたのを不審に思っての尋問であった。木箱を調べると乳児の遺体が5体見つかり、これが「寿産院もらい子殺し事件」の発端となった。

 早稲田署で取り調べを受けた長崎竜太郎は、新宿区の寿産院から遺体1人につき500円の埋葬料をもらっていたと自白した。寿産院院長の産婆・石川ミユキ(52)と夫の元警官・石川猛(42)に頼まれ、これまで30体以上の赤ん坊の遺体を埋葬していたと自白したのだった。

 赤ん坊の遺体は国立第一病院に運び込まれ、浅野小児科部長の診断では3人は肺炎と栄養失調、2人は凍死とされた。午後には慶応大学で解剖となったが、乳児の胃の中には食べ物の形跡すら残っていなかった。

 警察が新宿区柳町の寿産院を捜査すると、狭い竹製のベッドに7人の赤ん坊が寝かされていた。赤ん坊が次々に栄養失調で死亡しているのに、産院には配給の粉ミルクや砂糖が大量に隠されていた。

 産婆であるミユキは、昭和19年から23年の約4年間に、新聞や雑誌に乳幼児保育の宣伝を行い、生活苦にあえぐ母親から乳幼児1人につき5000円から9000円の保育費を受け取り、食べ物やミルクを与えずに餓死させていた。さらに産院に特配される粉ミルクや産着などを着服し、闇市で売りさばき100万円以上の利益をあげていた。戦後の混乱に紛れ、幼い命を奪う残忍な犯罪であった。産院には配給の粉ミルクや砂糖が大量に隠されていたが、石川夫妻は、赤ちゃんの死亡届を出すと葬儀用に酒2升が配給されることから、それで毎晩、晩酌を楽しんでいた。

 事件発覚から3日後の1月15日、早稲田署はミユキと夫の猛を「もらい子殺人容疑」で逮捕した。昭和23年はまだ戦後の混乱が続いていた時期である。事情があって家庭で育てられない乳幼児が寿産院に預けられていた。そのため事件が報道されても、子供を引き取りにくる母親はほとんどいなかった。犠牲となった乳児の多くは、戦争未亡人、街の娼婦、水商売の女性など戦後の生活難の中で、頼る相手のいなかった女性が生んだ私生児であった。多くの赤ちゃんが犠牲となったが、母親のほとんどが偽名を使っていたので捜査は難航した。

 昭和19年からの約4年間、産院の預かり子台帳に書かれた子供の数は204人で、区役所の埋葬確認証は103枚となっていた。ところが預けた母親の住所や名前のほとんどが偽名で、寿産院から里子に出された98人の落ち着き先も不明であった。実際には何人が死亡して何人が無事だったのかは正確にはわからなかった。 

 逮捕された石川ミユキは、東大病院付属産婆講習所を卒業。東京都産婆会牛込支部長の肩書きをもち、22年には自由党から新宿区議員選挙に出て落選していた。夫の猛は憲兵軍曹で、除隊後警視庁巡査を8年間務めていた。

 昭和27年、東京地裁は殺人罪については証拠不十分として、石川ミユキに懲役8年、猛に懲役4年という極めて軽い刑を言い渡した。偽りの死亡診断書を書いた医師の中山四郎は禁固4年、共犯とされた寿産院助手の貴志正子は無罪、葬儀屋の長崎は不起訴処分になった。なおミユキは判決のあった昭和27年に恩赦で出所し、警察の悪口を言いながら不動産事業で億単位の資産を残したことが昭和44年の週刊新潮に書かれている。

 石川ミユキは「他の産院でもやっていること」と証言、昭和23年2月10日、朝日新聞は「第二の寿産院事件」として新宿区戸塚町の淀橋産院の荒稼ぎを報道した。赤ん坊の死亡が多い新宿区の産院を調べ、淀橋産院が発覚したのだった。淀橋産院では約2年間に赤ん坊62人が死亡、死因の多くが消化不良や栄養失調であった。また死んでいるのに生きていると偽って不正配給を受けていた。淀橋産院事件でも、寿産院院長と同様に赤ん坊の死亡診断書を出していた医師が警察に拘留された。事件とは無関係であるが、同年713日、厚生省は「産婆」を「助産婦」に変え、助産婦になるには専門分野を学び、国家試験が課せられることになった。

 

 

 

日本脳炎の流行 昭和23年(1948年)

 数ある疾患の中で、病名に日本の国名が付いているのは日本脳炎と日本住血吸虫だけである。このように日本脳炎は日本を代表する疾患であるが、日本だけに限られた疾患ではない。日本脳炎は東南アジアに広く存在しているが、日本脳炎と命名されたのは日本で最初にウイルスが同定され、それまでに知られていた他の脳炎とは別種の脳炎と認められたからである。

 日本脳炎の記録は、江戸時代までさかのぼることができるが、日本脳炎が流行するようになったのは、農家でブタを飼うようになってからである。

 大正13年に日本脳炎が大流行し、その流行をきっかけに日本脳炎の本格的研究がなされるようになった。昭和9年、林道倫(はやし・みちとも)が日本脳炎で死んだ患者の脳をすりつぶしてサルに接種、日本脳炎をサルに感染させることに成功している。昭和11年には谷口・笠原らがマウスを用いて日本脳炎ウイルスの分離に成功。13年には東京帝国大学伝染病研究所(現在の東京大学医科学研究所)の三田村篤志郎が、日本脳炎が蚊(コガタアカイエカ)によって媒介されることを証明した。

 日本脳炎を引き起こすウイルスは、アルボウイルスB群に属するRNAウイルスで、セントルイス脳炎、ベネズエラ脳炎、西ナイル脳炎のウイルスに類似した構造を持っている。

 現在、日本脳炎はごくまれな疾患となっているが、かつては「はやり病」として西日本を中心に猛威を振るっていた。発症は蚊の発生する夏の7月から9月までの間に限られ、日本脳炎の名称がつくまでは、夏季脳炎、流行性脳炎B型などと呼ばれていた。

 日本脳炎のほかに、日本には眠り病との異名を持つ「エコノモ型脳炎」が流行していたが、現在ではエコノモ型脳炎を見ることはなく、過去の疾患となっている。このように日本脳炎は似た疾患があったため、統計上日本脳炎の患者数が記載されたのは昭和21年からである。

 この日本脳炎が、昭和23年8月に大流行した。日本脳炎は重篤な急性脳炎で、後遺症や致死率が高いことから社会問題になった。日本脳炎の患者数は、23年の1年間だけで 4757人、死者は2620人に達した。流行は北海道を除く西日本が中心で、その中でも熊本県が最も多くの犠牲者を出している。東京でも患者数926人、死者数124人(死亡率13.4%)に達し、都会においても日本脳炎は猛威を振るっていた。厚生省は流行の兆しがみえた昭和21年に日本脳炎を法定伝染病に指定したが、日本脳炎は23年をピークに流行を続け、28年までの累計死亡者は9335人に達した。毎年7月になると九州地方から流行が始まり、日本列島を北上し、北限である岩手県まで流行した。青森県や北海道での発症は報告されていない。

 日本脳炎に感染しても、実際に発症するのは1000人に1人程度とされ、感染しても大多数は無症状のまま抗体をつくるだけであった。しかし感染者が発症すると恐ろしい疾患になる。潜伏期間は1から2週間で、症状は夏風邪程度のものから、死に至る劇症型まで幅広い症状を示した。初発症状のうち最も多いのが発熱と頭痛で、前触れもなく突然の高熱を出し、興奮、意識混濁、顔面や手足のけいれんなどの精神神経症状が出る。いったん重症化すると、意識障害や精神症状が顕著になり死に至ることになる。発病後4日から7日が病状のピークで、この時期を過ぎると熱も次第に下がり回復に向かう。重症患者の約30%が死亡し、約30%に重い後遺症がみられ、完全に治癒するのは40%とされている。この治療成績は高度医療がなかった当時の統計であるが、医療や医学の進歩した現在でも、死亡率はそれほどの改善をみせていない。

 41℃以上の高熱をきたした場合、高齢者が発症した場合に死亡率が高いとされ、後遺症として、健忘、性格の変調、手足の強直性麻痺、性格異常、痴呆などの精神障害を残すことが多い。ワクチンが唯一の予防薬で特効薬はない。日本脳炎は症状が現れた時点では、すでにウイルスが脳内に達して脳細胞を破壊しているので、将来ウイルスに効果的な薬剤が開発されたとしても、破壊された脳細胞の修復は困難とされている。

 昭和20年代の日本では、日本脳炎が猛威を振るっていた。しかし農薬散布によるコガタアカイエカの駆除、養豚場の郊外への移転、ワクチンの普及などが効果をみせ、患者数は昭和28年から徐々に低下し、昭和52年には患者数全国で4人までに減少した。58年以降はわずかに増加したが、現在では全国で年間10人程度である。

 日本脳炎には有効な薬剤がないことから、予防接種、コガタアカイエカの駆除などの予防が重要である。現行の日本脳炎ワクチンは7〜14日間隔で2回皮下注射を行い、流行前に1回皮下注射を追加する。免疫効果は2年から3年持続するので、追加免疫は2〜3年間隔でよいとされている。このようにして基礎免疫があれば感染の心配はない。この予防接種は昭和51年から臨時接種となり、流行地域の小児や学童を中心に実施されている。

 コガタアカイエカが日本脳炎ウイルスの運び屋となるが、その伝搬にはブタの介在が重要である。つまりコガタアカイエカによって日本脳炎ウイルスがブタに持ち込まれ、ブタの体内で何百万倍に増幅したウイルスが蚊によってブタからヒトに伝染する。1匹のブタが感染すると1万匹のコガタアカイエカが感染するとされ、感染したブタが再度蚊に刺され、ウイルスを持つ蚊が人を刺すことにより感染する。ブタは生後数カ月で母体からの移行抗体が消失するので、流行期のほとんどのブタはウイルスに感染可能な状態にある。

 ヒトの血液中のウイルス量は少ないため、ヒトからヒトへの感染はみられない。自然界では人間が終末宿主となるので、患者の血液を吸った蚊に刺されても感染は起きない。日本脳炎は蚊の発生する7月から9月に限られ、また流行の地域も限定されている。

 日本脳炎が流行する前には、必ずブタの間で流行する。ブタの感染が人間への感染よりも先行するため、ブタの血液中の抗体価を調べれば、日本脳炎ウイルスの流行を事前に知ることができる。現在では、都道府県ごとに畜場からブタの血液が集められ、日本脳炎の流行を予測する体制が整っている。

 ブタの抗体保有率が50%以上になると、ブタに日本脳炎の流行が始まったとされ、2〜3週後にヒトに日本脳炎が発生することが予測される。ブタの流行が分かると、保健所を中心に蚊の駆除などの予防対策、臨時予防接種の実施が検討される。日本脳炎の流行予測は昭和40年から行われ、ブタでは多くの地域で流行がみられ、伝染が南から北へと日本を北上していくのがわかる。

 日本脳炎の患者数は激減し、日本脳炎は過去の病気と思われがちであるが、自然界の日本脳炎ウイルスが減少しているわけではない。今後、農薬に抵抗性のあるコガタアカイエカの増加、ウイルスの変化、ワクチンの有効性の低下、ワクチンが強制から任意に変わった(平成7年)ことから、再び日本脳炎が増加することは否定できない。平成7年に伝染病予防法が感染症新法に変わり、日本脳炎は法定伝染病から届け出疾患4類に格下げされている。

 生物学的興味であるが、日本脳炎ウイルスを媒介するコガタアカイエカは冬を越せない。そのためどのように日本脳炎ウイルスが冬を越すのかが大きな疑問になっている。蚊によって日本脳炎が媒介されることを発見した三田村篤志郎も、この難問に取り組んだが、現在に至るまで謎のままである。

 日本ではワクチンにより日本脳炎はほとんど見られないが、ベトナム、タイなどの東南アジア、さらにはインド、ネパール、スリランカなど南アジアの諸国では、現在でもしばしば日本脳炎が流行している。水稲の水田栽培(蚊の発生場所)、ブタの飼育(増幅動物)が盛んになったことが流行の要因とされている。中国では年間1万人を超える発症がみられ、コガタアカイエカ以外の蚊が日本脳炎を媒介することが知られている。

 日本脳炎は人間だけでなく家畜伝染病でもある。つまりウマ、ウシ、ブタ、ヤギなどの大型哺乳類にも脳炎を起こす。発病率はヒトとウマが最も高く、ブタは死産や流産の原因となる。そのためアジアにおいては農業経営の視点から問題になっている。

 日本脳炎は過去の疾患になったことは確かである。そのため、もし脳炎症状を示す患者を診た場合は、日本脳炎である可能性は極めて低い。日本脳炎の検査は中小病院でも簡単に調べられるが、脳炎患者を診た場合、それが7月から9月の夏季であれば日本脳炎を疑うべきで、夏季以外に日本脳炎の検査が依頼された場合は、医師の常識が疑われることになる。もし夏季以外に感染を思わせる患者を診たら、日本脳炎よりもヘルペス脳炎やインフルエンザ脳症を疑うのが一般的である。

 

 

  

優生保護法の成立 昭和23年(1948年)

 昭和23年7月13日、優生保護法が公布され、妊娠中絶の条件が緩和された。当時の優生保護法は中絶によって終戦後の人口増加を抑制することで、さらに危険なヤミ堕胎を減らして妊婦の健康を守ることであった。

 それまでの国民優生法(昭和15年)は、富国強兵政策のため、産めよ増やせよの時代につくられた法律で、妊娠した女性は国家によって出産が義務付けられていた。女性は国のため、あるいは家系制度のため、子供を産むことが当然とされていた。遺伝子疾患などの例外を除けば、中絶は堕胎罪によって禁じられ、取り締まりも強化されていた。「堕胎を罰することは不条理」と訴えた女性雑誌「青踏」は発禁処分になり、女優の志賀暁子が見せしめのため堕胎罪で逮捕され懲役2年、執行猶予3年の判決を受けている。堕胎罪は女性だけが罰せられ、男性は処罰されない法律であった。

 終戦により爆発的なベビーブームとなり、日本の国土は6割に減少したのに、年間160万人もの赤ん坊が生まれたのである。当時は食糧難の時代で、日本の経済や食糧事情に見合う人口に抑制が急務だった。そのため産児制限が必要だったが、当時の一般成人は性行為を楽しむという概念は薄く、避妊という言葉を知らなかった。性行為は子供をつくるための行為としていた。

 昭和24年の朝日新聞の世論調査では、日本の人口が多すぎるとする者が全体の80%で、避妊をしている夫婦はわずか9%にすぎなかった。このように避妊を実行している夫婦は少なく、それでいて中絶は法律で禁止されていたため、ヤミの中絶に頼らざるを得なかった。生活苦、父親の蒸発などの理由で「望まない妊娠をした場合」には、ヤミの人工中絶が公然と行われていた。ヤミ中絶はもうかることもあって、産婦人科医ばかりでなく内科、外科、獣医などの畑違いの医師までも中絶に手を出した。

 その結果、妊婦の子宮を傷つけ、細菌感染で死亡させる事故が多発し、このような事情から中絶を緩和し、安全な中絶によって妊婦を保護する政策が必要になった。優生保護法の原案は、産児調節運動家の太田典礼が中心になって作成された。太田典礼は、議員の加藤シズエや福田昌子(医師)らとともに優生保護法を成立させるために奔走した。

 太田典礼がめざした優生保護法は、法律で人工中絶を緩和することで、女性の立場から中絶の条件を緩和し、女性が自分の意思で中絶できる法案を考えていた。つまり堕胎罪をなくしたかったのであるが、「障害者や精神病患者などが増えると困る」という優生思想がまだ一般的だったため、太田らは堕胎罪を残したまま中絶条件の例外を緩和する方針を出した。

 太田らは優生保護法を「食糧難と人口増加、ヤミの人工中絶をやめさせるため」として、GHQの承諾を得ることに成功した。当時はまだ国会審議よりGHQの方が優先されていた時代であった。このように優生保護法は成立したが、人工中絶は本人、配偶者の同意だけでなく、優生保護委員会による審査が必要だった。また中絶を行う医師の資格を厳しくしたため、指定医不足が生じた。

 優生保護法は何回かの改正を受け、昭和24年の改正では「経済的理由による中絶」が追加され、これで中絶件数は急増することになる。昭和27年の改正では、優生保護委員会による審査が廃止された。刑法では堕胎罪はまだ残っていていたが、優生保護法の「経済的理由による中絶」の規定により、事実上、女性は逮捕されずに中絶できるようになった。

 優生保護法は避妊具の販売、避妊の指導についても定められていた。そのため避妊の啓蒙運動も次第に浸透していった。医師以外でも、保健婦、助産婦、看護婦などによって避妊器具を用いた受胎調節の指導が行われるようになった。避妊器具としては、ペッサリー、避妊用スポンジ類、避妊リングなどが指定され、避妊によって性生活を楽しむという概念が一般化した。製薬会社も避妊薬を続々と開発し、産児制限の国策に協力した。

 昭和24年4月29日、多数の避妊薬が新薬として厚生省の認可を受けた。エーザイから発売された避妊薬「サンプーン」は「イチ、ニ、サンプーン、3分で溶ける」のキャッチフレーズで発売された。サンプーンは膣に入ると泡が出て精子を殺す避妊薬である。また、「1姫、2太郎、サンシーゼリ」の宣伝で「サンシーゼリ」が発売された。

 このように同年だけで避妊薬ゼリー3品目、避妊錠剤4品目が発売され、多くの避妊薬が薬局の棚に並ぶことになった。薬剤の発売は厚生省の認可が必要であるが、終戦から24年までに申請された新薬のすべてが避妊薬であった。このことからも、いかに産児制限が重要な国策であったかが分かる。

 優生保護法の目的は「母体の生命健康の保護と人口抑制」であったが、優生保護法は優生上の見地から不良な子孫の出生を防止すること、つまり悪い遺伝子を持つ子供の出生を防止する意味が含まれていた。実際には人工中絶の99.9%までが「経済的理由」であったが、条項にある「不良な子孫の出生の防止」が障害者差別と非難されるようになった。

 優生保護法には障害者の出生は家族と社会に負担をもたらし、本人の不幸にもつながるという偏見が含まれていた。

 つまり戦前の国民優生法は遺伝性疾患を持つ女性の不妊手術を認めていたが、戦後の優生保護法は優生手術の対象を遺伝性疾患だけでなく、ハンセン病、精神病、総合失調症にも拡大解釈し、本人の同意なしに手術できるようになっていた。そのため優生保護法は「女性の生殖を支配し、障害者と女性の人権を侵害している」と非難されるようになった。事実、精神病院や収容施設に入所している女性患者に、本人の同意を得ずに子宮摘出が行われた例があった。この優生保護法による本人の同意のない優生手術は、昭和24年から平成6年までに、統計上だけでも約1万6500件実施されていた。優生保護法が大きな変化をきたすのは平成の時代に入ってからである。

 平成8年、優生保護法は49年ぶりに改正され、母体保護法と名前が変わり、優生思想に関する旧条文が全部削除された。この改正は優生思想の排除が目的で、人工妊娠中絶は母体の生命健康に限定され、胎児に関するものは認められなくなった。

 中絶方法は妊娠12週までは頚管拡張後、吸引あるいは掻爬術が行われる。12週以降はラミナリアやメトロイリンテルにより頚管を拡張させ、プロスタグランジン製剤(腟剤、静脈内点滴)により人工的に陣痛を誘発させるのが一般的である。実施には本人と配偶者の同意書が必要で、指定医は毎月都道府県知事に実施報告書を提出する義務がある。人工妊娠中絶が可能なのは妊娠満22週未満となっている。

 現在では出産は本人の意思に基づいて行われるが、戦前までは出産の意思は国家が決定していた。それが戦後成立した優生保護法により、出産における国家の影響力は薄れ、代わりに医師の関与が加わった。現在では、出産する女性の自由な意思によって出産を決めるべきとの考えが強くなっている。つまり配偶者である男性の意思を考慮せず、女性の意思による出産である。

 母体保護法の指定医は妊娠中絶を届け出る義務がある。届け出件数は、昭和35年に106万件であったが、平成2年には456797件、平成9年には337799件と減少している。年齢分布では20代から30代の中絶が最も多く、10代の人工中絶も徐々に増加し、平成9年には全体の7.9%に達している。

 医学の進歩は著しく、出産についても例えば多胎児出産における胎児減数手術、不妊症における凍結受精卵、障害児の出生前診断など多くの難題が投げかけられている。生殖技術の進歩に伴い、人間がどこまで生命を操ってよいのかという倫理、法律、宗教、哲学がついて行けないのが現状である。

 

 

 

帝銀事件 昭和23年(1948年) 

 昭和23126日の午後3時半すぎのことである。東京都豊島区長崎町の帝国銀行(現在の三井住友銀行)椎名町支店が閉店した直後、厚生省技官兼都防疫課員と名乗る45歳ぐらいの中年男性が通用門から入ってきた。グレーのコートを着た中年男性は東京都の「防疫消毒班、消毒班長」の腕章をつけ、名刺を行員に差し出し支店長に面会を求めてきた。当日、支店長は腹痛を訴え帰宅していたため、吉田武次郎支店長代理(44)が男性を事務室に招いた。

 目鼻立ちの整ったやせ型の中年男性が差し出した名刺には「厚生省厚生部員 医学博士某」と書かれていた。男性は吉田支店長代理に「行員全員を集めるように」と威圧的な口調で言った。全員が集まると、男性は「実は長崎2丁目の共同井戸で4人の集団赤痢が発生し、その井戸水を使った1人がこの銀行に来て預金をしていた。これからGHQが消毒にくるが、GHQのホーネット中尉の指示により、赤痢の予防薬を飲んでもらうことになった」と落ち着いた口調で言った。

 長崎2丁目の赤痢発生の話はもちろんウソである。またその当時、赤痢の予防薬など存在しなかった。しかし戦後間もない日本人は、上からの命令には従順で、威圧的な言葉、名刺の肩書き、それらしい腕章をつけた中年男性に行員たちは不信感を抱かなかった。さらにGHQの命令となれば有無を言わせぬ絶対的なものだった。当時の日本は赤痢をはじめとした伝染病が猛威を振るっていたので、銀行員は中年男性を東京都の防疫員、消毒員と思い込んでいた。

 男性は16人の行員とその家族を前に、自分の分も含め17人分の湯飲み茶碗を用意させた。その中には用務員の8歳の子供も含まれていた。男性はカバンから医者が持っているような金属製のケースを取り出し、手慣れた手つきで金属製のケースから赤痢の予防剤を取りだした。ビンに入った薬剤は2種類で、第1の薬は無色透明の予防薬本体、第2の薬は濁った液体で、第1の薬の中和剤と説明された。「この予防薬はGHQのくすりなので、非常に効果があるが、飲む時に歯にふれると歯のホーロー質をいためるので、舌を出して液体を丸めるように飲んでほしい」と言い、さらに「第1の予防薬を飲んだら、1分ぐらい我慢してから第2の中和剤を飲むように」と説明した。男性はピペットで予防薬を茶碗に入れると、みずから無色透明のビンを初めに飲み、続いて白く濁ったビンを飲んで手本をみせた。この男性の実演に、行員は安心して何の疑いも持たなかった。

 行員たちは男性に言われたようにいっせいに第1薬の予防薬を飲みほした。第1薬を飲み終えると、ウィスキーを飲んだときのような胸が焼けつく強い刺激を覚えた。1分後、第2の中和薬が分配されると行員たちは競ってそれを飲んだ。その直後である。行員たちは嘔吐と苦悶におそわれ次々に倒れていった。床をかきむしり、まさに疑獄絵のごとく死んでいった。

 5人の男性行員と5人の女子行員がその場で死亡。若い女子行員(22)が、なんとか這うように外に出て通行人に助けを求めた。交番の巡査がかけつけたときには、銀行の中は地獄のような有様であった。苦しんでいる6人を救急車で下落合の聖母病院に搬送し、病院に運ばれた6人のうち2人が死亡、4 人が命をとりとめた。死亡者の中に用務員夫婦と用務員の子供2人が含まれていた。用務員夫婦は赤痢を恐れ、子供を呼び毒薬を飲ませてしまったのである。

 このように帝銀事件は12人が毒殺される日本最大の毒物犯罪事件となった。生き残った4人の行員の証言によると、犯人は年齢45から50歳ぐらい、左の頬にアザがあって、目鼻立ちの整った物腰の柔らかな好男子だった。毒薬については遅効性のものが推測されたが、後に青酸カリと判明した。犯人は差し出した名刺を持ち帰り、茶碗の指紋を消し、何の証拠も残さなかった。

 犯人は混乱に乗じて店内にあった現金163410円と額面1745円の小切手を強奪して逃走した。その年の大卒の初任給が約5000円であったので、奪われた現金はそれほどの大金ではなかった。物盗りの犯行が強かったが、行員の机の上の48万円が手づかずのまま残されていた。周到に準備された殺人の割には、金への執着心は少なく感じられた。

 事件翌日の午後、犯人は大胆にも盗んだ小切手を安田銀行板橋支店で換金していた。換金に訪れた男性は小切手に不慣れなようで、小切手の裏に住所を書かず行員から注意を受けながら、男性は偽りの住所を書いて換金した。小切手の裏書に、ニセの名前と住所(後藤豊治、板橋33661)が犯人の直筆で残されていた。その男性は帝銀事件犯人と年恰好は同じだったが、太い黒ぶちのメガネをかけていた。

 警察の聞き込み調査によって、帝銀事件が発生する前に、帝銀事件に類似した未遂事件が2件発生していることがわかった。それは安田銀行荏原支店と三菱銀行中井支店で、その手口は帝国銀行と同じであった。昭和221014日午後3時頃、男性は安田銀行荏原支店で行員に付近に赤痢が発生したことを告げ、行員を集め予防薬を飲ませたが、その時の予防薬には毒物は入っていなかった。犯人は「厚生省技官松井蔚(しげる)」と書かれた名刺を銀行に残していた。昭和23年1月19日、閉店直後に男性は新宿区下落合の三菱銀行中井支店を訪れ、帝銀毒殺事件とそっくりの行動に出たが、この時は行員に怪しまれ成功しなかった。その時、「厚生省技官医博山口二郎兼東京都防疫課」の名刺を渡していたが、この名刺は偽物だった。

 山口二郎は架空の人物だったが、松井蔚は厚生省東北地区駐在防疫官で宮城県仙台市に実在していた。そのため松井氏と名刺を交換した人物が捜査の対象になった。松井博士に確認すると100枚作った名刺の1枚であると証言。名刺は博士の手元に6枚、他から62枚が回収され、8枚が不明だった。

 警察は大規模な捜査網をしき、延べ25000人が捜査にあたり5000人あまりの容疑者が調べられた。多くの目撃情報が寄せられ、犯人が偽装した衛生局員も厳しく取り調べられた。2月2日には警察発表による犯人の似顔絵が公開された。新聞は連日、この事件をトップ記事で取り上げた。東京での白昼の大量殺人、大胆な手口、あたかも推理小説のような事件であった。捜査は難航し、功を焦った新聞はスクープを書いたが容疑者は次々に浮かんでは消えていった。

 この事件の特徴は16人の行員を前に冷静に毒物を飲ませたことで、飲めば即死に近い青酸カリを用いながら、数分後に死亡させる特殊な使い方をしていた。このような犯罪は薬物のプロにしかできないと思われた。

 捜査本部は、犯人は毒薬に詳しい者と考えていた。そのため中国で細菌兵器や毒物の研究を行っていた関東軍731部隊(旧日本軍細菌部隊)の関係者に的が絞られた。731部隊とは石井軍医中将が指揮をとっていたことから石井部隊とも呼ばれていたが、その存在を知る者はごくわずかだった。石井部隊は中国人を使って青酸毒物の人体実験を秘密裏におこない、終戦後、隊員たちはこの事実を墓場まで持って行くように命令され、捕虜になったら自殺するようにと青酸カリを渡されていた。犯人が持っていた薬剤のケースやピペットは軍医が野戦携帯用に使うもので、一般人は入所しにくいものであった。そのため731部隊の捜査を進められ、陸軍第9研究所に所属していた伴繁雄から有力な情報を入手し、捜査方針を軍関係者に移すことになり、元中佐である医師Sが全国に指名手配された。

 犠牲者の胃や血液から高濃度の青酸化合物が検出され、犯行に青酸カリが用いられたことは間違いなかったのである。ところが不思議なことに、被害者が飲んだ茶碗からは青酸化合物が検出されなかった。青酸カリは10数秒で死亡するほどの猛毒で、もし第1の予防薬が青酸化合物だとすれば1分間我慢できるはずはなかった。第2の中和薬が青酸化合物であれば茶碗から青酸化合物が検出されないことが謎であった。青酸カリよりも遅効性の青酸ニトリルを用いたことも推測されたが、それでは胃や血液中に残された高濃度の青酸化合物の説明がつかなかった。

 用いられた毒薬に謎を残したのは、初期捜査のミスに起因していた。近くの交番の警察官が帝国銀行に駆けつけたとき、この事件を集団食中毒とみなし、警官は湯呑み茶碗に残されていた毒物を醤油の空き瓶に入れて保存したのだった。醤油の中にはカリウムやナトリウムが含まれていたので、毒物が青酸カリウムなのか青酸ナトリウムなのか区別がつかなかった。このように毒物は特定できなかったが、いずれにしてもこの事件は毒物に詳しい者の犯行であった。

 これまでに起きた青酸カリ毒殺事件は、飲んだ直後に死亡している。帝銀の犯人は何らかの方法を用いて1分間は絶命しないようにした。ここに犯人の毒物への知識の深さがあった。また被害者たちに青酸中毒特有のアーモンド臭がなかったこと、青酸中毒ではみられない嘔吐があったことが青酸化合物としては妙であった。死亡の状況と解剖の結果、この矛盾点を説明することはできなかった。

 青酸化合物は第1薬にも第2薬にも含まれず、第1薬と第2薬が胃の中で反応して青酸化合物が作られたという説、犯行に使われたのは青酸化合物でなかったという説、青酸化合物の古いものが使われたという説などがあった。鑑定が多くの冤罪事件を作った古畑種基教授の東大法医学教室で行われたことから、毒物鑑定そのものに疑問を持つ者もいた。

 犯人は行員を前にして手本として予防薬を飲んだのに、犯人が生き延びたのは薬品に油を入れ、油の部分だけを飲んだと推定された。

 事件発生から7ヶ月後の821日、捜査は予想もしない展開を迎えた。犯人として毒物の知識も経験もないテンペラ画家の平沢貞通(さだみち、56)が小樽市の親戚の家で逮捕された。犯人が残した名刺に書かれた松井蔚は、几帳面な性格で名刺を渡した相手をすべてメモしていた。平沢貞通と名刺を交換したのは青函連絡船の中で、平沢貞通は松井蔚の名刺を三河島駅で財布ごと盗まれたと説明した。

 警視庁の主任警部補は小樽市にいた平沢貞通にアリバイを聞くと、126日の行動を「終日、三越の画展にいた」と7か月前の行動を準備していたかのように即座に答えたが、後でそのアリバイは崩れることになる。北海道から東京に護送された平沢貞通を見ようと上野駅のホームに群衆が殺到、平沢の乗った列車の到着ホームを変更するほどであった。犯人と断じた主任警部補は人権無視と批判され、法務総裁がこのことを謝罪している。

 明治25年に東京で生まれた平沢貞通は、10代後半から横山大観に師事し、22歳でニ科展に入選、25歳のときに上京して東京美術学院の講師になっていた。ペンテラは西洋画の一種で、油絵と水彩画の中間の画法であった。

 帝銀事件の生き残りと、模擬犯10人を混じえた面通しが行われたが、平沢貞通を犯人と言った者はひとりもなく、似ていると言った者が5人、違うと言った者が6人であった。平沢貞通が不利だったのは、事件発生後に平沢の銀行預金に12万円が入金されていたことである。当時の平沢貞通は友人に借金をして断られるほど金に困っていた。平沢は事件2日後に妻に6万円渡し、銀行預金に12万円を入金していた。この金額は、ちょうど帝銀事件で奪われた金額に相当していた。平沢貞通はこの金の出所を言えず、犯行当日のアリバイはなく、さらに銀行を舞台に4件の詐欺事件を過去に起こしていたことが印象を悪くした。

 平沢貞通を冤罪とする者は次の見方をしている。平沢貞通は狂犬病の予防注射の後遺症でコルサコフ病にかかっていた。コルサコフ病とは、平気でウソをつき、自分でさえもそのウソが嘘か本当かの区別がつかないのが特徴であった。平沢の4件の詐欺事件は病気のせいで、平沢の自白も誘導されたものとしている。出所不明の18万円については春画を売った金で、日本画の大家としてのプライドが、春画で稼いでいたことを白状できなかった理由としている。この春画説は松本清張が唱えたものであるが、春画のプライドより殺人犯の汚名の方が重いととらえるのが常識と思われていた。謎の18万円が春画によるものかは分からないが、平成1269日号の週刊「フライデー」に平沢が描いた春画が発見されたことが書かれている。また小切手に残された名前の筆跡鑑定では、平沢貞道は別人とされている。

 平沢貞道は留置所で、隠し持ったガラスペンを左手の静脈に突き刺し自殺をはかった。看守に発見され一命をとりとめたが、その後、壁に頭をぶつけ、痔のクスリを大量に飲み、自殺を繰り返したがいずれも未遂に終わっている。

 平沢貞道は警察、検察の過酷な取り調べで犯行を自白したが、起訴後は一貫して無罪を主張した。平沢にとって不運だったのは、この帝銀事件の裁判が旧刑事訴訟法による最後の事件で、逮捕された時点で自白は重要な証拠となっていた。旧刑事訴訟法は昭和24年に改正されたが、改正前までは「自白は証拠の女王」とされていたのである。警察による取り調べでは拷問に近いもので、自白の強要が行なわれていた。平沢貞通は1審の第1回公判から無実を訴えたが、地裁、高裁ともに有罪となり、昭和30年5月7日の最高裁で上告が棄却され死刑判決が確定した。

 平沢貞通の冤罪を信じる人は「平沢貞通を救う会」を発足させ、17度の再審請求をおこなったがすべて却下された。また5度の恩赦願が出されたが、それも受け入れられなかった。作家松本清張、弁護士正木ひろし、評論家鶴見俊介、その他大勢の人たちが平沢の冤罪をはらすために論陣を張った。昭和36年熊井啓監督により「帝銀事件・死刑囚」が映画化され、この映画によってこの事件は注目度をさらに高めた。

 平沢貞通は死刑になったが、代々の法務大臣は死刑執行命令を出さず、約32年間にわたり死刑は執行されなかった。32年間死刑が執行されなかったのは世界最長記録である。30数人におよぶ歴代の法務大臣が、死刑執行を見送ったのはそれなりの理由があったからで、23人の死刑執行に署名した田中伊三次法務大臣でさえ、平沢の書類になると「こいつは無実じゃないか。はんこは押せん」と言った話は有名である。法務省は最後まで死刑執行にこだわったが、歴代の法務大臣は平沢を犯人と断定しなかった。死刑確定から30年が経ち、釈放の気運が高まったが、法務省はガンとして釈放を認めなかった。

 昭和62510日、39年間を獄中ですごした平沢貞通は肺炎のため八王子医療刑務所で95年の生涯を終えた。平沢は支援者らの手によって杉並区今川に用意されてあったマンションに運ばれた。

 帝銀事件の真犯人は、事件発生当時から元関東軍731部隊の化学兵器開発の担当者と推測されていた。GHQ(連合軍総司令部)は731部隊に対し、極東国際軍事裁判での免責を条件に731部隊の生体実験データを入手していた。GHQは731部隊の研究資料を押収した事実が暴露されないように警視庁が圧力をかけとされている。同部隊の中に犯人がいるとして追及していた読売新聞がGHQから圧力を受け、追及を断念したことが後で明らかにされている。

 この事件の捜査主任をしていた元警視庁捜査2課の成智英雄が平沢貞通の無実を証言した。成智英雄は公務員の規程により、捜査中の秘密を漏らすことはできなかったが、平沢の無実を証言したのである。証言内容は当時731部隊では青酸カリを用いた生体実験が行なわれ、隊員たちは致死量すれすれの青酸カリを投与した場合に、中毒症状が現れるまで1分を要することを知っていたこと。用いられていたピペットが軍の特殊部隊でのみ使用されたものであると述べた。731部隊のS中佐を最有力容疑者として全国手配していたが、平沢の逮捕によって捜査が打ち切られたのだった。医師であるS中佐は昭和29年に死亡していることが、S中佐の犯人説が公表されたのはS中佐が死亡してから10年後のことであった。

 昭和20815日から昭和27年4月28日まで、日本の国家権力はGHQの支配下にあった。GHQの下に日本政府があり、警察や検察も同様であった。このような時代を考慮すれば、軍関係者に向けられた捜査がGHQの壁にぶつかり頓挫したと推測される。もしアメリカが731部隊の人体実験の研究を入手していることが判明したら大問題になっていたからである。国際的な犯罪を隠すため、平沢貞通がスケープ ゴートにされたのではないだろうか。帝銀事件はGHQ支配下の時代に起きた謎と疑惑に包まれた奇怪な事件であった。

 青酸カリは白色の粉末で、きわめて毒性が強いことから毒物及び劇物取締法に指定されている。青酸カリは毒物の王者と呼ばれているが、それは毒物事件の中で青酸カリを用いた犯罪が最も多いからである。戦争時は兵士の多くが自決用に青酸カリを持ち、復員後も隠し持っていた。終戦となっても、青酸カリは比較的入手しやすく、メッキ工場などでは30kgの缶に入れられた青酸カリが無造作に置かれていた。青酸カリは年間3万トン生産され、メッキ工場の従業員ならば簡単に持ち出すことができた。また頼まれて青酸カリをゆずることもあった。このように入手が簡単であったため、多くの事故や事件を引き起こした。

 青酸カリ自体は強いアルカリ性で、飲んで胃に達すると胃酸と反応しシアン化水素(青酸ガス)を発生する。そのため青酸カリを飲むとアーモンド臭がする。呼吸困難、呼吸停止、意識喪失などで数分以内に死亡する。 0.150.2gが致死量で、小さじ1杯の砂糖が3gであるから、その20分の1が致死量となる。

 

 

 

ヒロポン中毒 昭和24年(1949年)

 今日では想像できないことであるが、終戦から数年間、覚醒剤である「ヒロポン」は街の薬局で自由に買うことができた。今日ではヒロポンの名前を知る人は少ないだろうが、ヒロポンは覚醒剤の代名詞として合法的に乱用されていた。厚生省がヒロポンの有害性を認めて劇薬に指定したのは、昭和24年になってからである。

 覚醒剤はアンフェタミンとメタアンフェタミンの2種類に分類され、両者は喘息や風邪薬に含まれるエフェドリンと類似した構造を持ち、エフェドリンの合成過程で生成される。明治11年、日本近代薬学の開祖である長井長義が、喘息に効果のある漢方薬・麻黄(マオウ)からエフェドリンを世界で初めて抽出。このように覚醒剤のもとになるエフェドリンは、世界に先駆け日本で研究がなされた。ところが長井長義の長年にわたる研究でも、長井はアンフェタミンやメタアンフェタミンの覚醒作用には気づいていない。昭和10年になって、アメリカで初めてその覚醒作用が認識されたのである。

 昭和10年にメタアンフェタミンが喘息薬としてアメリカで発売されたことが、覚醒剤としての作用を知るきっかけになった。メタアンフェタミンが「ベンセドリン」の商品名で発売されると、ベンセドリンに興奮作用があることがクチコミで広まり、「スーパーマンの薬」として学生や長距離トッラクの運転手の間で流行、また女性もやせ薬としてひそかにベンセドリンを愛用した。

 メタアンフェタミンより覚醒作用の強いアンフェタミンは、主にドイツで研究された。ロンドン空襲に出撃するドイツ軍パイロットの眠気覚ましとして、士気高揚のためアンフェタミンは積極的に用いられた。アンフェタミンの覚醒効果はドイツ軍と友好関係にあった日本にも伝えられ、昭和16年に長井長義が創立した大日本製薬から「ヒロポン」の商品名で発売された。アンフェタミンは長井が世界で初めて合成したことから、覚醒剤が日本で独自に開発されたと誤解されているが、ヒロポンはドイツの製造方法をまねて商品化されたのである。

 ヒロポンの名前は「疲労をポンと取る」というイメージで広まった。当時は、覚醒剤としての副作用や中毒に関する認識はまったくなく、ヒロポンは軍部を中心に用いられ、内服剤だけでなく即効性のある注射用ヒロポンも使用された。

 特に特攻隊の飛行士の間では、眠気や恐怖心を取るクスリとして盛んに用いられ、また徹夜作業を続ける軍需産業の工員の間でも士気を鼓舞する目的で半強制的に服用された。ヒロポンは「突撃錠」「はっきり薬」と呼ばれ、軍部を中心に使用されていたが、終戦と同時に民間に流れ込むことになる。在庫を抱えた製薬会社が、街の薬局で大々的に宣伝して販売した。

 ヒロポンの爆発的な流行は、終戦によって退廃に陥った自暴自棄の人々をとらえ、虚無と刹那(せつな)的心情を反映していた。神国日本を信じていた人たちが、すべての価値を崩壊させ、虚脱の中でヒロポンに救いを求めたのである。まさにヒロポンは戦後の落とし子だった。

 ヒロポンは大日本製薬が製造していたが、市場に出回っていた大部分は密造によるもので、ヒロポンの値段は1本12円と、酒よりも安かったので乱用を招くことになった。当時の警察も、張り込みの警官が眠気覚ましにヒロポンを使用していた。

 ヒロポンを密造する者にとって、原価が販売価格の10分の1だったので、何度検挙されてもボロ儲けが忘れられず、密造を止めることはできなかった。当時の映画館の入場料が100円だったことから、ヒロポンの値段がいかに安かったかがわかる。

 昭和28年、大日本製薬大阪工場は14万アンプルを出荷していたが、大阪府警に押収されたアンプルは2170万本であった。いかに膨大な覚醒剤がヤミルートで出回っていたかがわかる。この反社会的ヒロポンの副作用に気づいた大日本製薬の労働者が会社に抗議したが、会社は「生産阻害者」として首切りで応じた。昭和28年の全医薬品の生産高は約740億円であったが、覚醒剤の売り上げは220億円に達していた。

 ヒロポンは中枢神経の興奮作用が強く、ヒロポンを打つと頭がさえて疲労がとれ、多幸感と活動性を得ることができた。自信と性欲増進をもたらし、長時間にわたる性交を可能にした。一度ヒロポンの快楽を味わうと多くがその虜(とりこ)になった。

 夜遅くまで働く人たち、流行作家や芸能人の間でヒロポンの乱用が広まった。坂口安吾、織田作之助など当時の無頼派と呼ばれた作家たちが、ヒロポンを打ちながら原稿を書き、中毒に陥った。高見順の「高見順日記」に、ヒロポンについての記載が詳しく書かれている。

 芸能界では文壇以上にヒロポンが広まり、楽屋でヒロポンを注射する光景が日常的となっていた。徹夜で勉強する学生、内職の主婦たちの間にもヒロポンは浸透し、昭和24年頃から、青少年の間にもヒロポンは広がりをみせた。当時の浮浪者や愚連隊の6割がヒロポンを常用し、銭湯の客の1割に注射痕があった。

 しかしヒロポンが切れれば、その反動として虚脱感が全身を襲い、不眠、興奮、不整脈などの副作用が常用者を苦しめた。さらに幻覚、妄想、混迷、人格障害など統合失調症に似た症状を引き起こした。これがいわゆるヒロポン中毒である。

 さらに薬が切れるとヒロポンを求める衝動に襲われ、ヒロポンの入手のために犯罪に走った。中毒者は1日何本も注射を打たなければ我慢ができなくなり、中毒による幻覚、妄想による殺人、暴行、自殺などの反社会的犯罪が引き起こされた。ヒロポンの被害は黙視できないほどになり、「亡国の魔手」と表現されるに至った。ヒロポンはこのように多くの青少年の心身をむしばみ、常用3カ月から1年半でヒロポン依存症となった。

 文頭に述べたように、昭和24年までは誰でもが薬局でヒロポンを買うことができ、新聞にもヒロポンの広告が堂々と掲載されていた。このようにヒロポンは、風邪薬と同じ感覚で一般人が容易に買えたのであった。

 ヒロポンの害が次第に社会問題となり、昭和24年3月にヒロポンは劇薬に指定されたが、その制限は緩やかで、14歳以上ならば薬局で住所や氏名を明記すれば買うことができた。昭和26年に覚醒剤取締法が公布され、製造や使用に制限が設けられたが沈静化には至らず、最盛期の昭和29年には約5万6000人が覚醒剤取締法違反で摘発され、全国の常用者は285万人(うち28%が中毒者)となった。

 ヒロポン中毒者は多くの凶悪犯罪を引き起こした。昭和294月、東京文京区の小学生が学校のトイレで暴行を受け死亡、大阪では3人の幼児が運河に突き落とされて死亡する事件が起きている。精神病院ではヒロポン中毒者が多すぎて収容できない状態であった。東京都立松沢病院では、入院しているヒロポン中毒患者どうしのけんかで死亡する事件が起きている。

 政府はこれら凶悪犯罪にショックを受け、昭和30年に覚醒剤の取り締まりを強化した。それまでの取り締まりは、中毒者の保護が中心であったが、製造した者や販売した者を摘発する方針に変えたのである。その結果、ようやくヒロポンは沈静化へ向かった。この昭和29年をピークとする「ヒロポン蔓延期」が覚醒剤の第1次乱用期である。

 以後、取り締まりの強化や経済復興によりヒロポンは下火になるが、20年後の昭和59年頃から暴力団の資金源確保のため覚醒剤乱用の流行を再び迎えることになる。次ぎに第3次乱用期は平成10年頃で、中国・福建省などから覚醒剤が大量に流入した。外国人が街頭で販売するようになり、末端価格が低下し高校生も一種のファッション感覚で乱用が広がった。さらに最近では北朝鮮からの密輸が増えている。覚醒剤ではないが、覚醒剤に構造が似ているエフェドリンを大量に常用し、幻聴や幻覚に浸ることも一時流行した。市販の風邪薬にエフェドリンが含まれていたからである。

 覚醒剤が恐ろしいのは、覚醒剤中毒による死亡、あるいは幻覚による殺人である。この覚醒剤の恐怖を決定的にしたのは、昭和56年6月に起きた川俣軍司による通り魔殺人事件である。覚醒剤常用者の川俣軍司が東京・深川の商店街で通りかかった主婦2人、乳児2人をナイフで刺殺、女性を人質に中華料理店に立てこもった。7時間後にパンツ姿の川俣軍司が逮捕されたが、このテレビ中継で世間は覚醒剤の恐ろしさを見せつけられた。また平成5年には、新幹線の乗客が覚醒剤常用者から理由もなくナイフで刺殺され、この事件はいつ自分が被害者になっても不思議でないことを示した。

 覚醒剤はその名前が示すように眠気を吹き飛ばす作用があり、1週間寝なくても平気であった。そのため不眠が脳に変調をきたすことが症状の一部である可能性がある。覚醒剤で次ぎに問題となるのは、覚醒剤をやめても後遺症が持続し、廃人状態になることである。

 さらに覚醒剤をやめて一見治ったように見えても、アルコールや精神安定剤の投与をきっかけに、あるいは少量の覚醒剤の再使用で、激しい幻聴・幻覚を引き起こすフラッシュバック現象(flashback phenomenon;再燃現象)が起きる。このフラッシュバック現象は統合失調症の症状に似ており、覚醒剤をやめて5年、10年経っても後遺症として突然現れ、しかも日常生活のなかでいつ出現するのか分からなかった。

 現在、覚醒剤使用者は年齢が低下して青少年が増えている。始めた動機は興味本位で、みんながやっているからと罪悪感に乏しい。また女子生徒も肥満解消を理由に安易に使用する傾向がある。若者の間では、「スピード」「エクスタシー」などの洒落(しゃれ)た名前でよぼれることがある。しかし当然のことであるが、覚醒剤は将来性のある青少年の身も心もボロボロにするので、若気の至りでは片づけられない。

 覚醒剤の使用を後悔しても、その後遺症から一生逃れられずに苦しみ続ける患者が多い。また、覚醒剤の服用をやめても、半数がまた覚醒剤を使用するようになる。「覚醒剤やめますか、それとも人間やめますか」。まさに、その言葉通りである。

 

 

 

血痕鑑定事件 昭和24年(1949年)

 事件のあるところに法医学がある。これまで法医学者は数え切れないほどの鑑定書を作成し、鑑定書が判決を左右させてきたが、もし法医学者による鑑定書が間違いだったら、被告にとってこれほど恐ろしい証人はいない。しかもその法医学者が権威者であれば、それだけ被告人にとって不利になった。

 東大医学部法医学教室の古畑種基教授は、日本の法医学の権威で、法医学の中興の祖と呼ばれ、昭和31年に文化勲章を受賞したほどの人物である。しかし弘前大教授夫人事件、財田川事件、松山事件、島田事件では、古畑教授の鑑定が冤罪という悲劇をつくることになった。

【弘前大教授夫人殺害事件】

 昭和24年8月6日の深夜、弘前大学医学部・松永藤雄教授の夫人すずさん(30)が、縁側から忍び込んだ何者かによってノドを刺されて死亡した。一緒の部屋で寝していた義母と長女は無事であった。夫の松永藤雄教授は主張中で、かねてからうわさのあった医大生が容疑者として逮捕された。

 この事件は医大生の痴情による犯罪として容易に解決するかにみえた。だが医大生にはアリバイがあり、警察は世間に恥をさらすことになった。焦りを覚えた弘前署は事件発生から2週間後、近くに住む那須隆さんを別件で逮捕。那須さんは殺害を否認したが、長い拘留のすえ殺人容疑で起訴となった。一審の青森地裁では証拠不十分で無罪になったが、二審の仙台高裁では有罪になり、那須さんは懲役15年の判決が言い渡された。

 二審で逆転有罪になったのは、那須さんが着ていた開襟シャツ(海軍シャツ)に付着していた血痕が被害者のものと鑑定されたからである。那須さんの自宅から押収された開襟シャツに付着した血液が、事件現場に残された被害者の血痕と同一人物のものと古畑種基教授が鑑定したのである。古畑教授が、シャツに付着した血痕を「被害者と同じ血液型と言わず、98.5%の確率で被害者と同一人物の血液」としたことが有罪の決め手となった。

 また那須隆さんの白ズックに残された血痕も被害者の血液であると鑑定し、この古畑鑑定により、那須さんは冤罪を訴えながら、殺人の罪で懲役刑に伏することになる。古畑教授はこの事件の鑑定結果を雑誌や単行本で発表し、血液型鑑定の有用性を強調した。

 昭和38年、11年間の服役を終えて仮出所した那須隆さんは、周囲の冷たい目に耐えながら、自分が那須与一の子孫であることを心の支えに、真犯人を探し続けることになる。それから8年後、殺人の時効が成立した後に、事件当時、容疑者の1人だったTが、自分が真犯人と名乗り出たのである。

 Tは那須隆さんの友達で容疑者の1人だったが、うそのアリバイを証言してくれた者がいて、罪を免れていた。Tが真犯人と名乗り出たのは、三島由紀夫の割腹にショックを受け、良心の呵責から男らしい行動をとろうとしてのことだった。

 このため事件の再審請求が出されたが裁判所はそれを棄却。昭和52年に再度請求がなされ、仙台高裁は那須隆さんに無罪の判決を下し、那須隆さんは27年ぶりに無罪となった。判決では「開襟シャツに付いていた血痕は捏造」としたが、真犯人が名乗り出たのだから、那須隆さんは完全な冤罪であった。那須隆さんは国家賠償を求めて訴訟するが、最高裁は上告を棄却して訴えを認めなかった。那須隆さんは真犯人を恨まず、名乗り出た勇気に感謝しながら、平成20124日、84歳で死去している。

 この冤罪事件は、古畑教授は数学者とともに作った「98.5%の確率で被害者と同一人物の血液」と鑑定したことが間違いであった。この確率論では「100%正しくなければゼロではないか」との批判があって、法医学の信用を失墜させることとなった。なお那須隆さんの2度目の国家賠償請求が認められたのは古畑教授が死亡した翌年のことであった。

【財田川事件】

 昭和25年2月28日午後2時すぎ、香川県三豊郡財田川村(現・三豊市)で闇米ブローカーの香川重雄さん(63)が殺害される強盗殺人事件が起きた。刺身包丁でめった突きに刺され現場は血の海であった。警察は闇米の関係者など100人以上を重点的に調べたが、犯人は捕まらなかった。焦りを覚えた警察は、事件から1カ月後に別件の強盗事件で谷口繁義さん(19)ともう1人を逮捕。もう1人にはアリバイがあったが、弟と寝ていた谷口さんのアリバイは親族ゆえに成立せず、4カ月にわたる過酷な取り調べによって谷口さんは殺害を自白。強盗殺人罪で起訴されたが、公判開始から自白は拷問によるものと無罪を訴えた。しかしながら谷口繁義さんは自白と血液鑑定が有力な証拠となり死刑の判決を受けた。

 この「財田川事件」で血痕鑑定を行ったのは古畑教授で、谷口繁義さんのズボンに付いた血液を被害者の血液型と一致すると鑑定した。だがこの古畑鑑定そのものに疑惑があった。血痕そのものが当初の捜査では記載されておらず、血痕があったとしても微量な血液から血液型の判定は不可能とする疑惑であった。古畑鑑定そのものが鑑定されることになり、北里大学法医学教授・船尾忠孝は古畑鑑定を否定する鑑定書を提出している。

 また逮捕されたときに書いたとされる谷口繁義さんの手記が証拠とされていたが、小学校しか出ていない谷口さんは漢字が書けなかった。そのため漢字混じりの手帳が捏造された可能性があった。

 昭和32年、最高裁は谷口繁義さんの上告を棄却し死刑が確定した。しかしその後も、谷口さんは高松地裁に「ズボンに付着した血液の再鑑定をおこなってほしい」と手紙を出した。その手紙を読んだ矢野伊吉裁判長は再審の手続きをしようとしたが、反対運動が起こり、そのため矢野伊吉は裁判長を辞め、谷口さんの弁護士となった。矢野弁護士は自白の内容と殺人現場の矛盾を指摘、そのため谷口さんは逮捕から34年後、死刑確定から27年後に無罪となった。なお裁判長を辞めて谷口さんの弁護人となった矢野伊吉は、谷口繁義さんの無罪判決を聞くことなく昭和58年に死亡している。

【松山事件】

 昭和301018日未明、宮城県志田郡松山町の小原忠兵衛(54)さん宅で火災が発生し、全焼した焼け跡から一家4人の焼死体が発見された。司法解剖の結果、4人の遺体には刀器による傷が認められ殺人放火事件へと発展した。

 宮城県警と古川警察署の捜査本部は怨恨、痴情、無理心中、強盗の線から捜査を進めたが、捜査は難航し11月には捜査本部を解散した。ところが同年12月2日、牛豚内蔵卸業・斉藤幸夫さん(24)が別件で逮捕された。

 斉藤幸夫さんが裁判で有罪になったのは、斉藤さんの枕カバーや寝具に付着していた多数の血痕であった。この血痕の血液型が被害者の血液型と一致し、検察は斉藤さんの頭髪に付いた被害者の返り血が枕カバーに付着したと主張した。

 斉藤幸夫さんは殺人放火をいったんは自白するが、起訴前に自白を否認。裁判でも無罪を主張したが、一審、二審ともに有罪となり死刑が確定した。

 斉藤幸夫さんは獄中から無罪を訴え続け、やっと再審請求が認められて、昭和59年に無罪の判決がなされた。投獄されて29年後、釈放された斉藤さんは、雨にぬれながら息子のアリバイを主張し続けた母親と抱き合った。

 無罪となったのは、寝具についていた血痕が押収後に捏造されていた可能性があったからである。斉藤幸夫さんが逮捕され、押収された時に撮影された枕カバーには、血痕らしいものが1カ所だけだったが、公判時に提出された枕カバーには無数の血痕が付着していた。

 さらに齋藤幸夫さんは留置場で前科5犯の男から「やってなくても警察で犯行を認め、裁判で本当のことを言えばいい」とだまされ、斉藤さんはうその自白をした。この男は警察のスパイだったことが後に判明している。この事件も古畑種基教授の血液鑑定が直接関与していた。

 

【下山事件】

 前述した3つの冤罪事件とは内容を異にするが、国鉄総裁が東京の常磐線の線路上で死体となって発見された「下山事件」の鑑定において、古畑教授は死後轢断の他殺説をとり、慶応大学医学部・中館久平教授は生体轢断の自殺説を主張し、その科学的論争が法医学の非科学性を暴露することになった。

 下山事件とは昭和24年7月5日、下山定則・初代国鉄総裁(49)が登庁途中に立ち寄った東京・日本橋三越本店から消息を断ち、翌6日午前零時25分頃、足立区五反野の常磐線の線路上で貨物列車にひかれ、バラバラの礫死体で発見された事件である。

 当時はGHQ経済顧問のジョセフ・ドッジが提案したドッジ・ラインの強行によって、国鉄当局は第1次人員整理として3万700人の首切りを前日に発表していた。下山総裁の死が、他殺なのか自殺なのかが注目の的になった。

 検察と警視庁捜査2課(知能犯を扱うが、当時は公安事件も担当)は他殺説、捜査1課(強盗、殺人を扱う)は自殺説をとり、新聞も他殺(朝日)、自殺(毎日)と分かれて注目を集めた。自殺ならばその動機は何なのか、他殺ならば犯人は誰なのか。他殺か自殺かは大きな政治的問題を含んでいた。東大の「死後轢断の解剖所見」を根拠とする他殺説は、犯人の濡れ衣をかけられた共産党や労働組合に大きな打撃を与えることになった。

 下山総裁が死体で発見された9日後に無人電車が暴走する「三鷹事件」、さらに1カ月後には旅客列車が脱線転覆する「松川事件」と怪事件が相次いだ。この3つの事件が当時の労働運動に与えた影響は大きかった。吉田内閣の増田甲子七(かねしち)官房長官は「三鷹事件、松川事件は共産党の陰謀である」と談話を発表。この事件により国鉄労働組合の大量解雇に反対する運動は力をそがれることになった。

       * * *

 古畑鑑定は、昭和29年に静岡県島田市で起きた「島田事件」でも、再審裁判で死刑判決が覆される際の、判定根拠のひとつになっている。

 古畑教授は日本法医学会の第一人者で、血液型の研究では世界的な権威者として知られている。ヒトの血液型はランドシュタイナーによって発見されたが、3つの対立遺伝子による血液型の遺伝形式を確立したのは古畑教授であった。またQ式血液型などの新血液形質を発見し、指紋学や親子鑑別などの分野においても業績を残している。そのため、昭和19年に帝国学士院恩賜賞を受賞、22年に日本学士院会員になり、31年には文化勲章を受賞している。

 このようにあまりに偉くなりすぎたため、古畑教授の血液鑑定に異を唱える者はいなかった。法医学の関係者の多くが古畑教授の教え子で、たとえ妥当性を欠いた鑑定であっても逆らうことはできなかった。多くの法医学者や司法関係者は、文化勲章を授与された古畑教授の権威の前に沈黙したのであった。

 日本の司法において、血液鑑定に疑問をもたれて無罪になったのは、古畑教授が関与した4つの事件(島田事件を含む)だけである。これらの事件が冤罪と確定したのは、古畑教授が昭和50年に死去してからのことである。犯人とされた人たちにとって、古畑教授の文化勲章はどのように映ったのであろうか。法医学の汚点、医学界の権威主義を示す例として医学史に残すべき事件である。

 医学が学問の純粋性から逸脱し、権威主義を作ったことが冤罪事件を引き起こした。これらの冤罪事件により古畑神話は崩壊し、岩波書店は古畑教授の著書「法医学の話」を絶版にした。

 

 

 

シラス食中毒事件 昭和25年(1950年)

 昭和251021日、大阪市南部、堺市、岸和田市、泉佐野市を中心とした泉南地方で、大規模な食中毒事件が発生した。患者は激しい腹痛、下痢を繰り返し、症状のあった318人のうち2日間で20人が死亡する凄惨(せいさん)なものとなった。

 患者はいずれも行商人から買ったシラス干しを食べていたので、シラスが原因であることはすぐに想像できた。シラスとは「カタクチイワシの稚魚を塩ゆでにして日干しにしたもの」で、酒のさかなやご飯のおかずとして好まれていた。問題となったシラスは、1020日に泉佐野市近海で獲れたカタクチイワシの稚魚45Kgを加工業者が塩ゆでにしたものであった。

 この事件の犠牲者があまりに多かったこと、その前年に三鷹事件、山下事件、松川事件などの社会不安をあおる怪事件が連続していたことから、当初は毒物混入事件としてシラス製造工場が調べられ、製造業者夫妻が逮捕され連行された。

 大阪大学法医学教室が捜査に協力して毒物を調べたが、シラスから毒物は検出されず、何らかの化学変化も推測されたが、集団食中毒の可能性が浮かび上がってきた。幸いにも発症した家の台所には、シラスが悪臭を放ちながら残っていた。そのため阪大微生物病研究所の藤野恒三郎教授が中心に、細菌検査の調査に当たることになった。

 藤野教授はシラスを食塩水につけ、モルモットの腹腔内に注射した。するとモルモットは翌日に死亡。患者の遺体からも同じ細菌が検出された。ところが奇妙なことに、検出された細菌はどの教科書にも記載されていない奇妙な細菌だった。この細菌は2つの特徴をもっていて、ひとつは丸い棒状の桿菌で長い鞭毛を持っていること、もうひとつは塩分がないと増殖できないことであった。

 事件発生から1カ月後、阪大微生物病研究所はペストに似た細菌の毒素がシラス食中毒事件の原因と発表した。この菌は後に「腸炎ビブリオ」(学名:ビブリオ・パラヘモリティカス)と名付けられ、現在では多くの人たちがその名前を知っているが、その当時は世界の誰も知らない未知の細菌だった。この腸炎ビブリオが新種の細菌として国際的に認知されるのは、藤野教授の発見から10年後のことである。腸炎ビブリオはこの事件で初めてその姿を現したのである。

 感染症を引き起こす病原菌のほとんどはパスツールやコッホの時代に発見されていたと誰もが思っていた。パスツールやコッホの時代から50年以上も経っているのに、腸炎ビブリオは細菌学の黄金時代をすり抜けていたのだった。

 この事件以前の食中毒事件を丹念に調べても、腸炎ビブリオを思わせる食中毒は報告されていない。腸炎ビブリオは突如として現れたのである。藤野教授が発見した腸炎ビブリオは、細菌学において日本が誇る大きな業績となった。

 腸炎ビブリオが一般に知られるようになったのはこの事件以降であるが、腸炎ビブリオによる食中毒は決してまれではない。むしろ現在では、わが国の食中毒の約半数を占めるほどになっている。昭和25年の事件から今日に至るまで年間1万人以上の人たちが腸炎ビブリオによる食中毒に罹患し、腸炎ビブリオは食中毒の第1位か2位を常に占めている。

 腸炎ビブリオはコレラ菌と同じ仲間であるビブリオ属に分類され、このことから想像できるように、その症状は激しい腹痛と下痢である。腸炎ビブリオはヒトに感染して症状を起こす病原株と非病原株に区別され、海水や魚介類から検出される腸炎ビブリオの99%は非病原株であるが、食中毒患者から検出される腸炎ビブリオのほとんどが病原株である。すなわち海産魚や貝類にはたくさんの腸炎ビブリオが付いているが、そのうち病原性のあるのはごくわずかで、このわずかな腸炎ビブリオが食品中で増殖して食中毒を発生させるのである。

 腸炎ビブリオには「赤血球の膜に穴を開けて溶血させる菌」と「溶血させない菌」の2種類があり、「溶血させる菌」が食中毒を起こす。この溶血させるビブリオ菌が、耐熱性溶血毒(TDH)と耐熱性溶血毒類似毒素(TRH)という2つの毒素を産生し、食中毒を引き起こすのだった。これらの毒素は下痢を引き起こすが、TDHは心筋細胞に直接作用して心拍動を停止させること(心臓毒)が証明されている。他の食中毒の場合と比較して腸炎ビブリオの死亡例が比較的多いのは、TDHの作用による。

 昭和25年の当時を想像すると、医療環境は遅れていて点滴すら一般的ではなかった。そのためシラス食中毒事件で多数の犠牲者を出したと想像されるが、なぜ20人もの死者が出たのか、その理由は長い間分からなかった。ところが最近になって、シラス食中毒事件で分離保存されていた腸炎ビブリオ菌(菌株番号EB101)を調べた結果、TDH陽性菌であることが明らかになった。つまり「シラス食中毒事件」にはTDHの心毒性が関与していたのだった。

 腸炎ビブリオに汚染された食物を食べると小腸で増殖する。食中毒としては感染型に分類されるが、腸炎ビブリオは毒素を分泌し、摂取後8時間から20時間の間に初発症状としての胃痙攣のような猛烈な腹痛が現れ、少し遅れて悪心、嘔吐、水様性あるいは粘血便を伴った下痢が出現する。症状のピークは当日で、翌日には改善傾向を示し、翌々日には大部分が回復をみせる。この症状は他の細菌性食中毒でもみられるため、症状から腸炎ビブリオと診断することは難しい。

 一般的な治療は抗生剤の投与、脱水が激しい時には点滴で脱水を改善させる程度である。重症例は脱水により血圧低下や意識混濁をきたすが、シラス食中毒事件で20人の死者を出したような重症例は最近では極めてまれである。

 腸炎ビブリオが検出されるのは、海水温度が15℃以上になる5月から10月にかけてで、冬季の海水から検出されることはない。腸炎ビブリオは海底で越冬し、海水温度の上昇に伴って海水に出て、プランクトン、貝などの体内で増殖して排泄される。そのため腸炎ビブリオによる食中毒は夏季に多発し冬にはみられない。また通常の細菌は塩水中ではほとんど繁殖しないが、腸炎ビブリオは例外で、塩分があると逆に繁殖しやすくなる。このため腸炎ビブリオは好塩菌と呼ばれ、塩水が消毒の役目を果たすという通常の考えは通用しない。

 腸炎ビブリオの食中毒は、カキなどの海産物や魚介類が原因となる。そのため魚介類を多く食べる日本人に多いことが特徴である。また卵焼きや漬け物といった海産物とは無縁の食品のこともあり、これはまな板や包丁などの調理器具を介しての二次汚染によるものである。

 腸炎ビブリオが海水中に常在する以上、魚介類における腸炎ビブリオの一次汚染を避けることはできない。従って腸炎ビブリオの食中毒にかからないためには、調理後に腸炎ビブリオを増殖さないことである。腸炎ビブリオは10℃以下の低温では増殖できないが、逆に適温(2537℃)での増殖スピ−ドは他の病原細菌と比べて極めて早い。つまり食品の温度管理が防止の鍵となる。腸炎ビブリオは塩分濃度、温度の条件がそろえば、他の細菌とは比較にならないほどの短時間で増殖する。35℃の温度と塩水があれば、1個のビブリオ菌が3時間後には100万から1000万個に増えるとされている。

 水揚げされた魚介類はすでに腸炎ビブリオに汚染されていると受け止めるべきで、食中毒の予防には魚介類をすぐに冷蔵庫に保存し、冷蔵庫から出したら2時間以内に食べることである。また塩水を好み、真水では生存できないので、魚の表面を真水でよく洗うことである。腸炎ビブリオによる集団食中毒が発生しているが、これはレストランや寿司屋などで宴会が開かれる際に、大量の料理が室温に長時間並べられるためである。

 特異な事例として、昭和30年に国立横浜病院で病院給食による腸炎ビブリオの集団食中毒が起きている。海外では、昭和41年にアメリカで報告されたのが最初で、海産物をあまり摂取しない海外での発生は少ないが、アメリカ・テキサス州では名物の生ガキを食べ400人が食中毒を起こし話題となった。

 

 

 

東大助教授毒殺事件  昭和25年(1950年)

 昭和25年1月8日、正月を郷里の福井で過ごした東大医学部の渡辺巌・助教授(39)が、上京ため北陸線の上野行き急行列車に乗り込んだ。しばらくして渡辺助教授は車内でポケット型の角瓶ウイスキーを取り出して一口飲むと、急に苦しみだした。同行していた医局員・西輝夫がすぐに救命処置をとったが、急遽下車した小松駅(石川県小松市)の駅長室で絶命した。このとき、西輝夫には犯人の心当たりがあった。

 金沢医大で司法解剖が行われ遺体から青酸カリが検出され、石川県警鑑識課の検査でもウイスキーから青酸カリが検出された。警察は他殺事件として捜査を開始、ウイスキーのノシ紙に八洲化学工業の名前が書いてあったことから、八洲化学会社を調べたが、会社にはウイスキーを贈った記録はなかった。

 警察は周囲の人物から事情聴取を行い、かねてから噂さがあった東大・小石川分院歯科医員の蓮見敏(25)を怪しいとにらみ連行した。取り調べで蓮見敏の供述があいまいだったため、さらに追求すると犯行を自供した。犯行の動機は「渡辺助教授に看護婦との恋仲を裂かれたことへの恨み」によるもので、蓮見敏は1月15日に逮捕となった。渡辺助教授に同行していた医局員・西輝夫の想像していた通りになった。

 蓮見敏は東大付属病院に勤めていた昭和21年5月頃、看護婦M子(19)と深い関係になり、病院にいづらくなり、21年9月から小石川分院に勤務を変えていた。しかしそこでも素行が悪く、複数の看護婦とたびたび問題を起こしていた。

 蓮見の父親は、当時、福井赤十字病院に勤務していた渡辺巌医師に相談、渡辺医師のもとに蓮見を預ける形をとった。ところが渡辺医師が東大助教授に迎えられることになり、渡辺医師とともに蓮見も小石川分院に勤務することになった。

 蓮見の品行を心配した渡辺助教授は、蓮見とM子の関係を遠ざけるため、M子を助教授つきの看護婦として身近に置いた。このことが皮肉にも、この痴情事件を引き起こすことになった。昭和24年8月22日、渡辺助教授が胃潰瘍で入院すると、M子が徹夜で看護にあたり、それ以来、蓮見との仲を監視するはずだった渡辺助教授とM子が恋仲になり、2人の醜聞が病院で噂された。このため渡辺助教授、M子、蓮見の3人は醜い三角関係に発展していった。

 蓮見は他の女性と24年に結婚していたが、M子との関係も続けていた。さらにはS看護婦ともアパートで同棲を始め、男女をめぐる関係は泥沼化していった。複雑に絡み合う痴情関係の中で、渡辺助教授は蓮見の論文を指導することを拒否、M子への慰謝料として20万円を出すように執拗に求めるようになった。給料5000円で妻と愛人を養っている蓮見に、慰謝料を払う余裕はなかった。

 決定的だったのは、医局の忘年会で、蓮見は大勢の前で渡辺助教授からひどく罵倒されたことだった。「おまえのような人間は学位を受ける資格がない」「素行の悪いことを父に告げる」と言われ、蓮見は積もる恨みが爆発し、殺害を決意した。

 蓮見はポッケトウイスキーを買い上手に栓を外した。復員の時に持ち帰った自決用青酸カリをウイスキーに入れ、同棲していたS看護婦のアパートで業者のニセのノシ紙を付け、S看護婦の手を経て東大・小石川分院に届けさせた。何も知らない渡辺助教授は、ウイスキーを福井に持参し、東京に帰る汽車で封を切り、蓮見の思惑通りにウイスキーを飲み絶命したのだった。

 蓮見敏は浦和中学から日本歯科医専を経て、東大病院に勤務していた。女性関係は常にだらしなく、同時に多数の女性と付き合っていた。この事件は戦後の道徳を失った廃退的な事件だった。

 蓮見敏は第1審では無期懲役となったが、控訴審で懲役15年の刑が確定し、7年半の刑期で出所すると名前を変え歯科医として再出発している。当時は殺人事件を犯しても歯科医師免許は剥奪されなかった。

 いつの世にも、痴情による殺人事件はあるが、痴情により男性医師が男性医師を毒殺したのはこの事件が唯一のものである。次ぎに女医による殺人事件についても追加する。

【女医モルヒネ殺人事件】(昭和26年)

 昭和2611月9日、東京都西多摩郡の医師・三田剛文(36)の自宅で、妻の八重子さん(33)が口から血を吐いて死んでいるのを家人に発見された。一見、病死を思わせる遺体であったが、検死の結果、毒殺であることが判明した。

 警察は同日夜、夫の三田さんの愛人で東京都・小金井町立第二診療所の医師・倉山桃子(27)を八重子さん殺害の参考人として連行しようとした。しかし倉山桃子は連行直前に服毒自殺を図り、福生病院にかつぎこまれたが、生命を取り留め、犯行を自供するに至った。

 倉山桃子は、かつて西多摩郡西秋留村(現あきる野市)の阿伎留病院に勤めていて、そこで外科医・三田剛文と親しくなった。殺された妻の八重子さんは結核で、倉山と三田は2年前から八重子さんの目を盗んで恋仲になっていた。八重子さんが肺の手術で入院したときには2人は三田の留守宅で生活を楽しんでいた。

 ところが妻の八重子さんの病気が回復して夫婦仲が良くなり、それにつれて三田の態度が冷たくなった。三田剛文にとっては遊びだったが、倉山桃子にとっては重大事であった。

 医師である倉山桃子は八重子さんの殺害を計画した。犯行当日、倉山桃子は三田宅に電話をして、福生駅に荷物が届いていると偽の話を持ち出し、三田の母親を外出させることに成功。自宅に1人でいる八重子さんを訪ね、雑談の後、「ストレプトマイシンの治療を受けている患者の血液について研究をしているので、あなたの血液をいただきたい」と申し込んだ。倉山桃子は採血すると見せかけ、塩酸モルヒネ0.4グラムを左腕静脈に注射して殺害した。

 モルヒネは鎮静、催眠作用があるが、大量投与は延髄の呼吸中枢を麻痺させ死に至らしめる。八重子さんに打ったモルヒネは通常の40倍の量であった。さらに犯行を隠すため、持参した輸血用血液を八重子さんの口に塗り、吐血による病死を装った。

 倉山桃子は茨城県生まれで、水海道女子高から、帝国女子医専(東邦医大)に進んだ。昭和19年に卒業すると西秋留村の阿伎留病院に勤め、小金井町立第二診療所に転勤していた。派手好みの女医であったが、八王子刑務所で服役することになった。

 

 

 

ハンセン病患者殺人事件 昭和25年(1950年)

 かつてハンセン病はらい病と呼ばれ、伝染性の不治の病とされていた。明治40年に「らい予防法」が設定され、平成8年に同法が廃止されるまで、患者たちは90年以上にわたり強制的に隔離されていた。

 このハンセン病患者の隔離政策は、ハンセン病の伝染予防を目的としたもので、ハンセン病と診断された患者は一生涯隔離されることになった。熊本県菊池郡水源村(現菊池市)で起きたハンセン病患者殺人事件は、ハンセン病患者への差別と偏見が生んだ悲劇であった。

 昭和25年の暮れ、農業を営む藤本松夫(29)あてに役所から1通の通知書が届いた。通知書には、「藤本松夫は、らい病患者として翌年2月7日より国立療養所菊池恵楓園に収容する」と書かれていて、それは通知書というよりは命令書だった。

 自覚症状のない松夫はその通知に驚き、福岡や熊本の大きな病院で診察を受けたが、ハンセン病の診断はつかなかった。このようにハンセン病の診断が不明確なまま松夫は療養所に収容されることになった。当時は、らい病の宣告を受けることは刑務所に入所するに等しいことであった。

 松夫がらい病の烙印を押されると、叔父、叔母は世間をはばかり藤本に自殺を迫った。妻は「山に行って来る」と言って家を出たまま二度と戻ってこなかった。家族でさえこうである。ハンセン病とされた松夫には周囲の差別と偏見が待っていた。松夫は世間から隔離されることになった。

 熊本県は、国策であるハンセン病患者の発見と隔離によるハンセン病根絶運動に力を入れていた。そのため県は菊池恵楓園のベッド数を1000床に増床したが、ベッドはなかなか埋まらなかった。せっかくのベッドを空のままにしておくわけにはいかない。そのため、国と県は国立療養所に収容する患者の掘り起こしを行った。そのため県は各村から1人ずつ患者を提供するように通達を出していた。

 水源村も患者掘り起こしの協力を求められ、そのため村役場衛生係の藤本算(はかる、49)は、最近体調が悪いといっていた藤本松夫をハンセン病とする虚偽の報告書を県衛生課に出したのである。

 水源村には、実は1人の重傷ハンセン病患者がいた。症状はハンセン病として確実であったが、患者は村の有力者の家族だったため、その患者の代わりに指名されたのが松夫であった。算は収容する患者として松夫を県衛生課に申告した。後にこの経過を知った松夫は、自分の人生と家族を破壊した算の悪意と密告を恨むことになる。

 昭和26年8月1日深夜2時頃、窓を開けて寝ていた算の家にダイナマイトが投げ込まれ、ダイナマイトは完全に爆発しなかったため、算と次男が1週間から10日のけがを負うにとどまった。このとき算は松夫の恨みを気にしていたので、警察の調べで松夫が犯人であると訴えた。

 ちょうどその日は、松夫は菊池恵楓園から外出の許可がでていた。松夫はアリバイを主張したが、それを立証するのは家族だけであった。近親者のアリバイは認められず、松夫は殺人未遂、火薬取締法違反の容疑で逮捕された。

 松夫はそれまでダイナマイトを扱ったことがなかった。またダイナマイトの入手経路も不明だった。しかも事件直後の家宅捜査では見つからなかった導火線や布きれが、経過不明のまま押収物として裁判所に提出された。この物的証拠が松夫の犯行の決め手となった。

 昭和27年6月9日、熊本地裁判事は菊池恵楓園に出張し、松夫に懲役10年の判決を言い渡した。判決では「算が松夫を患者として県衛生課に報告したことへの逆恨み」を犯行動機とした。これに対し、松夫は無実を主張し、福岡高等裁判所に控訴したが棄却された。物的証拠は家宅捜査で見つかった導火線と布きれのみであったが、偽装された疑いが強かった。ダイナマイトが完全に爆破しなかったことから、算による自作自演がうわさされた。

 松夫は刑務所ではなく、菊池恵楓園内に設けられた「熊本刑務所菊池特別拘置所」に身柄を拘束された。だが判決から1週間後、松夫は拘置所から脱走した。脱走の動機は、「ひとり娘に会ってから死のうと思った」ということで、もし自分が死ねば、娘も家族も、ハンセン病の家族とは言われないと思ったからである。懲役10年よりも、ハンセン病の偏見のほうが恐ろしかった。

 しかし地元ではハンセン病患者の脱走報道で、大騒ぎとなった。延べ300人の警察官が連日動員され、捜査網が敷かれた。松夫は家族と会って自殺しようとしたが、実家の周囲には捜査網が張られ近づけなかった。脱走から3週間が経過した7月7日、厳戒態勢のさなか、村の路上で藤本算の刺殺死体が発見された。算は鋭利な刃物で刺され、「藤本松夫が逆恨みから藤本算を殺した」という筋書きができ上がった。遺体発見直後から、松夫の犯人説に異を唱える者はいなかった。警察は松夫の恨みによる犯行と断定した。

 7月13日、警察は松夫を発見。逃げる松夫にピストルを発射、松夫は単純逃走と殺人の容疑で逮捕された。ハンセン病の感染を恐れた捜査員は、松夫のピストルによるけがを治療しないままでいた。松夫は釈明の機会を与えられず、捜査員は一方的に自白を迫った。逮捕から7時間後、松夫は苦痛のうちに殺人を自白した。医師もハンセン病の感染を恐れて傷の治療をしなかった。

 ところが取り調べが進むうちに、算を刺殺した凶器が鎌から刺身包丁、短刀へと二転、三転し、決め手となる凶器は発見されなかった。また松夫の着衣からも血液は検出されなかった。鑑定者は「水で洗い落とした場合、血痕は水に溶けて消えてしまうので、血痕が検出されなくても不思議ではない」と意見を述べた。また「着衣は不潔で、何らかの物理学的な、あるいは雑菌繁殖の影響によって血痕が付かなかった」との理由をつけた。

 もちろん鑑定は、松夫を犯人に仕立てるために無理にこじつけたものである。厳戒態勢の村の山道で、松夫が人を殺せるほど余裕があったかどうかは問題にされなかった。

 裁判は「国立療養所菊池恵楓園」の中の特別法廷で開かれたが、裁判が始まると松夫は一貫して無罪を主張した。十分な証拠がないことから冤罪の可能性があった。裁判官はハンセン病の感染を恐れ、ゴム手袋をして1mの長さのハシを使って証拠物件を調べた。法廷で松夫が検察側の提出した証拠物件を確認しようとしても、感染の恐怖から検事はその機会を与えなかった。昭和28年8月29日、傍聴人のいない特別法廷で松夫の死刑判決が言い渡された。昭和291229日に福岡高裁で控訴が棄却され、昭和32年8月23日には最高裁への上告も棄却され死刑が確定した。

 この裁判の経過を知った菊池恵楓園の患者から不当判決の声が上がった。松夫が有罪か無罪かは別として、正当な裁判を受けられなかったことへの抗議であった。菊池恵楓園の患者にすれば、この差別捜査、差別裁判は他人事ではなかった。この事件を知った多くの人たちが再審を求めて活動を行い、支援の輪が全国に広がっていった。

 自民党から共産党まで、多くの文化人、宗教人、学者が集合し、「藤本松夫を死刑から救う会」が結成された。当時、松川事件や八海事件、菅生事件など冤罪や誤判が相次いでいたことから、この事件も「ハンセン病患者への差別と偏見が産んだでっち上げ事件」とみなされ、国民の関心を呼んだ。

 再審請求は第3次請求までなされたが、松夫の期待は裏切られ続けた。当時は死刑反対運動が盛り上がっていた時期で、法務省はこの動きを封じ込めるため、死刑執行の書類を次々に法務大臣に提出して執行命令のサインを迫った。特に再審活動の激しかった帝銀事件の平沢死刑囚と藤本死刑囚のどちらかを早く執行しようとした。

 松夫は恵楓園につくられた特設拘置所で日々を過ごしていた。ところが昭和37年9月14日、松夫は恵楓園から福岡刑務所に移されることになった。松夫は喜んだ。恵楓園から福岡刑務所に移されることは、ハンセン病の病原菌が無くなったことを意味していたからである。自分が長年夢みてきた一般処遇への昇格と捉えたのである。

 藤本松夫は同日午前7時10分、4人の看守とともに福岡刑務所に向かった。福岡拘置所に到着したのは午前11時ちょっと前だった。ホットしていた松夫を待っていたのは突然の死刑執行であった。

 松夫は処刑の直前まで、処刑されるとは思っていなかった。福岡拘置所で背広を着た教育部長が入ってきて、「お別れですね」と手を握られた。松夫は何のことか分からず、「先生は転勤されるのですか?」と言った。ようやく事態を知った松夫は、「先生、ひどい。これはだまし討ちだ」と言って死刑台に向かった。同日午後1時17分、遺書を書く時間も与えられずに死刑が執行された。

 この突然の死刑執行は、まさにだまし討ちといえた。後にわかることだが、松夫の死刑執行命令書に法務大臣が判を押したのは執行3日前のことで、第3次再審請求は執行前日にひそかに却下されていた。

 死刑から3時間後、熊本県に住む弟のもとに、「14日、松夫死す、1512時までおいでこう。印鑑持参のこと、福岡刑務所」との電報が届いた。藤本松夫、享年40。ハンセン病への偏見と差別が生んだ悲劇であった。

 

 

 

医薬分業 昭和25年(1950年)

 GHQは戦後の医療政策として、「日本医師会の改革」「インターン制度の導入」を行い、次の改革として「医薬分業」を目指した。GHQのサムス准将は薬剤師会や製薬会社からの働きを受け、日本政府に医薬分業を強く迫った。医薬分業とは、病院が病院内の薬局から患者に薬を出さず、医師が書いた処方箋を患者が院外薬局へ持って行って薬を出してもらうことである。

 医薬分業の歴史をたどると、ヨーロッパでは13世紀のローマ時代から行われていた。神聖ローマ帝国の皇帝フリードリヒ2世が、「医師が調剤室を持つことを禁じる法律」を1240年に公布し、これによって医薬分業が確立した。フリードリヒ2世が医薬分業を設定したのは毒殺防止が目的であった。つまり「病気を診断し、処方箋を書く医師」と「処方箋を見て、薬を調剤する薬剤師」を分離させ、皇位継承者の毒殺防止を図ったのである。この伝統から、欧米では医薬分業が行われている。

 一方、漢方の歴史が長い日本では、医師は古くから薬師(くすし)と呼ばれ、医師と薬は切っても切れない関係にあった。日本には「医師が患者を診察して、医師が患者に薬を直接手渡す文化」があり、医学に薬学が従属していた。戦前の日本では治療費と言う代わりに、「薬代」という言葉を用いていた。このように日本と欧米との医療文化は根本から違っていた。

 サムス准将は「医薬分業が、日本の医療を近代化させる」と信じ、医師の仕事は病気を診断して処方箋を書くことで、薬剤を出すのは薬剤師の仕事としたのだった。日本の医師たちはアメリカ占領下で、アメリカ並みの医薬分業を押しつけられることになった。

 もし医薬分業が実施されれば、医師は患者に薬を直接手渡すことが禁じられ、日本の医療システムは根本から変わることになる。このGHQの医薬分業政策に対し、日本医師会は「投薬は医療行為で、治療は医師の全責任である」との声明を出し、医薬分業に反対の決意を示した。当時の医師の収入の多くは薬によるもので、「医師の技術料は薬の値段に含まれる」とする伝統があった。

 この医薬分業を実施しようとするサムス准将と直接交渉に当たったのが、第6代目の日本医師会会長・田宮猛雄の下で副会長に就任したばかりの武見太郎であった。サムス准将は、「敗戦国である日本は、勝者であるGHQの医療政策を受け入れるべき」と強硬な姿勢をみせた。ところが武見太郎は、「日本が負けたのは軍人が負けたからで、医者が負けたからではない」と言って激しく抵抗した。しかし当時、サムス准将はサムス天皇と呼ばれていた時代である。GHQの権力は絶大で、GHQは意に添わない医師会執行部を変えるように厚生大臣に要求。GHQの圧力によって、武見太郎をはじめとした日本医師会執行部は辞任することになった。

 昭和26年の国会で医薬分業法案が可決され、昭和30年1月1日から実施することが決定した。だがここで歴史の流れが大きく変わることになる。国会で医薬分業が可決された翌年、マッカーサー元帥が「朝鮮戦争で原爆を使用すべき」と主張し、トルーマン大統領に解任され、サムス准将も辞任して帰国することになった。

 GHQの圧力が消失した情勢の中で、日本医師会はさまざまな戦略を用い、国会で実施が決定している医薬分業の阻止を図った。日本医師会は保険医辞退の決意を示し、厚生省に揺さぶりをかけた。昭和291125日、日本医師会全国大会で医薬分業に反対する決議がなされ、東京都・神田で7200人の医師が厚生省へデモ行進を行った。このように日本医師会を中心に医薬分業反対の運動は日本各地に広がっていった。

 この状況の中、実施直前の医薬分業法案は土壇場で大どんでん返しとなった。GHQが日本を去った最初の国会で、医薬分業法案に8項目の付帯条件が付けられた。「患者が医者から薬をもらいたい場合、医師が診療上、薬を出す必要がある場合には薬局で薬を買わなくてもよい」。この付帯条件によって、GHQと薬剤師会が意図した医薬分業は廃案同然となった。

 日本医師会は設立時から医薬分業に反対し、デモ行進まで行って医薬分業を阻止してきた。医師の技術料は低く抑えられ、医師の技術料を補うのが薬の薬価差益だったからである。例えば定価100円の薬を40円で仕入れ、患者に薬を処方すれば60円が病院の収入になった。薬価差益は病院に大きな利益をもたらし、病院の薬の購入価格が公定価格の10%で、病院の利益が90%の意味で「薬九層倍」(くすりくそうばい)と揶揄されるほど、医療機関は薬で利益を得ていた。

 このような事情から日本医師会は医薬分業に反対であったが、医薬分業の流れは昭和50年頃から次第に変化し、あれほど反対していた日本医師会が医薬分業を容認するようになった。「薬価差益が薬漬け医療の根源」と非難され、薬価差益が2年ごとに圧縮され利幅が小さくなったからである。10年間で薬価差益は3分の1以下になり、さらに薬価差益は減少し、薬剤の在庫や管理を考えると、薬価差益という言葉は死語になっている。厚生省は薬価差益を少なくする代わりに、医師の技術料を正当に評価すると日本医師会に約束したが、もちろんその約束は反故(ほご)にされている。病院の院内薬局は赤字部門になり、経営効率化のために薬剤部門を縮小し、院外薬局に処方箋を発行するようになった。このように薬で病院がもうかる時代は終わり、医薬分業が進むようになった。

 厚生省は「病院の薬局では利益が出ない仕組み」を作り、同時に「院外薬局へ処方箋を発行すれば利益が出る仕組み」を作って医薬分業を図った。診療所も同様で、薬を出していた診療所は減収となり、診療所も院外薬局への流れとなった。もちろん院外薬局の経営を支えるため、院外薬局を利用すれば医療費は高くなった。このように損得による診療報酬によって医薬分業を上手に誘導したのである。

 医薬分業では患者は直接病院から薬をもらえず、院外薬局に行くため二度手間になった。病院と同じ薬でも院外薬局の薬の値段は高く設定され、患者の負担金が増え、国民医療費も高くなった。利点としては処方内容が明らかになること、薬の待ち時間が短縮されること、専門家である薬剤師が薬を管理し、患者が安全に薬を飲めるように指導されることである。このような指摘は理解できるが、院外薬局の薬剤師は「病名を知らずに処方箋を受け取り、処方箋の内容を変更できない」のである。病名を知らない薬剤師がどれだけのことを患者に指導できるのか疑問が残る。

 医薬分業の利点や欠点は導入時に盛んに議論され、導入賛成派、反対派はそれぞれ自分たちが正しいと主張した。しかし実際には、患者の利便性よりも自分たちの損得計算による綱引きの議論であった。平成9年の厚生省のアンケート調査では、国民の52.6%が医薬分業に反対していた。国民医療費を増大させる医薬分業の導入は、患者のためではなく、医師の政治力を低下させるための厚生省の戦略だったと考えられる。

 国民の過半数が反対している医薬分業は、すでに50%を超えている。このように医薬分業が進んだのは日本医師会が医薬分業に傾いたからで、それは単に「病院が薬で儲からないシステム」を厚生省が作り上げたからである。

 日本と欧米の医薬分業の違いは、日本は医師に調薬権(薬剤を調合する権利)を残していることである。医師は処方箋を書くが、薬剤師は医師の書いた薬剤を勝手に変えることができない。つまり薬剤師は医師が書いた処方箋を別の薬剤に変更することができないのである。アメリカやフランスなど多くの国では、医師が指定した薬剤以外の代替調剤は認められているが日本では禁止されている。

 平成12年、この代替調剤を容認する医薬分業に反対し、韓国の90%の医療機関が一斉に1週間のストライキを行った。医師がデモ行進をして、激しい闘いが繰り広げられ、大韓医師会はストライキで医薬分業を認める代わりに9%の診療報酬の値上げを勝ち取った。

 平成8年に行われた厚生省の調査では、医薬分業は26.4%に過ぎなかったが、現在は5割以上の診療所が医薬分業を行っている。5割を超えた医薬分業を逆戻りさせることは不可能である。すべては欧米の医療体制を良しとする雰囲気の中で、厚生省の政策により医薬分業が誘導されたのである。もちろん患者の利益を念頭に置かない医薬分業に患者のメリットは少ないと思う。

 

 

 

胃カメラの開発 昭和25年(1950年)

 胃カメラは胃潰瘍や胃がんなどの診断に欠くことのできない医療機器であるが、胃カメラを発明したのが日本人であることは意外に知られていない。

 胃カメラの実用化は、東大医学部外科医の宇治達郎(30)、オリンパス光学工業の杉浦睦夫(32)、深海正治(29)によってなされた。彼らによる胃カメラの発明は、胃がんの早期発見に大きな貢献をもたらし、日本が内視鏡先進国となったのも、彼らの先進的な発想と努力による。

 宇治達郎は軍医として戦場で多くの人を救うことができなかったことを悔やんでいた。生き残って帰ってきた自分に対し、ひとりでも多くの命を救うことが使命としていた。病院では数多くの胃がん患者が命を落としており、宇治達郎は何とか胃がんを早期発見できないかと考えていた。このことが胃カメラ開発への情熱と執念となった。

 日本人は欧米人に比べ、胃がんの頻度が高いことが知られており、胃がんは日本人の人種的特徴とされていた。昭和25年頃まで、がん死の約半数が胃がんによるもので、胃がんの死亡率は90%以上であった。この胃がんの死亡率が、昭和25年以降ゆるやかに減少し、平成10年にはがん死の第1位を肺がんに譲るまでになった。

 誤解のないように説明を補足するが、胃がんによる死亡が減少したのは、胃がんの発生頻度が減少したからではない。胃がんの早期発見が可能になり、早期治療が行われるようになったからである。胃カメラの発明以来、胃がんの死亡率は低下するが、これは胃カメラによる早期発見、早期治療の功績といえる。

 かつて胃を直接のぞく「胃鏡」という胃カメラの原型があった。胃鏡は長さ70センチの金属製の固い管を口から胃に入れ、直接肉眼で胃をのぞく方法である。この胃鏡は大道芸人が長い刀を飲み込むのをヒントに作られたもので、患者に与える苦痛が大きく、食道や胃を破る危険があった。また胃管を扱う技術習得が困難で、視野が狭いため盲点が多いことから普及しなかった。

 当時から、バリウムを飲んで胃を撮影する方法はあったが、レントゲン写真では胃潰瘍と胃がんの鑑別には精度が不十分だった。ときには切らなくても済む胃潰瘍まで手術をすることがあった。胃の内部を超小型カメラで撮影しようとする発想は以前からあったが、真っ暗な胃の中をどのように撮影するのか、また径14ミリの食道の中をどのようにカメラを通すのか、胃カメラの開発には多くの難問があった。

 宇治達郎は胃カメラ開発の話を高千穂光学工業(現、オリンパス光学工業)に持ち込んだ。東京にあった高千穂光学工業は東京大空襲で焼け、拠点を長野県岡谷市に移していた。当時の高千穂光学工業は、戦後復興の社運を位相差顕微鏡の製品化にかけ開発を急いでいた。

 昭和24年8月31日、宇治達郎は高千穂光学工業の常務から主任技師長の杉浦睦夫を紹介され諏訪の工場を訪ねた。杉浦睦夫は宇治達郎の話を聞き、「人間の体内をのぞくことで、胃がんの早期発見をしたい」という宇治の話しに熱意を感じた。

 杉浦睦夫は研究所長に胃カメラ開発の話を持ち込んだが、厳しい口調で反対された。所長は光のない胃の中を写すことは不可能と判断、「胃カメラを考える時間があるなら、社運をかけた位相差顕微鏡を早く完成させろ」と命じた。

 宇治達郎が諏訪から東京へ帰る日、偶然にも、杉浦睦夫も東京に行く日であった。杉浦と宇治は、下諏訪発の準急列車に乗って一緒に東京へ行くことになった。ちょうどその日、死者132人を出したキティー台風が関東地方を直撃。そのため2人が乗った東京行きの列車は暴風雨の中で停止してしまった。胃カメラの開発は不可能と告げられていた2人は気まずい思いをしていた。ところが列車が動かないことを知ると、どちらからともなく胃カメラの話になり、2人の議論は次第に熱を帯びていった。キティー台風が車内での徹夜の議論を生み、杉浦は超小型カメラの開発を決意した。

 高千穂光学工業は宇治達郎が持ちかけた胃カメラの開発は不可能と判断し、杉浦睦夫に研究の時間を与えなかった。だが胃カメラ開発の魅力に取りつかれた杉浦は会社に内緒で胃カメラの研究に乗り出した。昼の勤務時間は位相差顕微鏡の研究を行い、会社に誰もいなくなる夜を待ち胃カメラの研究に没頭した。

 宇治達郎に会った日から2カ月が過ぎた1012日、その日は会社創立30周年の記念日で、社名が高千穂光学工業からオリンパス光学工業に変わった日であった。杉浦睦夫が開発した位相差顕微鏡が、オリンパス製品第1号として華々しく発表された。杉浦睦夫の人生において最も輝かしい日になるはずだった。

 ところが発表会の会場で、「位相差顕微鏡も所詮はアメリカの模倣」という社員のヒソヒソ声が杉浦の耳に入った。杉浦はこの言葉にがくぜんとした。オリンパス幹部は杉浦に「より高性能で使い勝手のよい位相差顕微鏡の改良」を命じたが、「アメリカの模倣」という言葉に、杉浦の頭の中は世界初の胃カメラの開発だけになった。

 欧米の物真似でない独創的な研究、多くの人たちに貢献できる研究、杉浦睦夫は寝食を惜しんで開発に専念した。会社は胃カメラの開発には反対であったが、会社の反対が皮肉にも杉浦の研究者魂に火をともした。杉浦睦夫は会社の承諾のないまま公然と胃カメラの研究を行うようになった。取りつかれたように、不可能を可能にしようと研究を進めた。終戦間もないころである。不可能であっても挑戦する技術者魂があった。

 胃カメラ開発で最も困難だったのは、胃の中にどのように光を持ち込むかであった。光源の小型化には限度があった。たとえ小型化に成功しても照度が不足した。杉浦は部下の深海正治に「フラッシュの研究」を名目に胃カメラの研究に専念させた。杉浦はフラッシュの光で胃壁を写せると信じていた。

 胃カメラは先端部分(カメラ、ランプ、フィルム)、連結部分(操作のひもや導線)、操作部分(シャッター、フィルムの巻き上げ)、電源と送気部分(胃に空気を送る)から成り立っている。このうち先端のカメラ部分と連結部分が口から体内に入ることになる。

 宇治達郎は東大病院の診療を終えると、毎日のように杉浦の研究室を訪ね、論議を交わした。議論の結果、人間の食道の口径が14ミリなので、胃カメラの管の直径は12ミリ、内径は8ミリに決まった。管の先端に小型レンズ、ランプ、フィルムを内蔵させ、それを手元で遠隔操作をすることにした。

 接写レンズは顕微鏡磨きの名人に依頼し1カ月後に完成した。直径5ミリのランプは職人が改良を繰り返し完成させた。フィルムはASA20の市販の35ミリのフィルムを6ミリ幅に切って利用した。フィルムのコマ送りはフィルムの先端に三味線の弦をつけ、手元で引っ張る方法を生み出した。手元のボタンを押すとランプが点灯し、胃の中を撮影できる仕組みだった。

 最も苦労したのは、胃の中を照らす直径5ミリの豆電球の開発であった。豆電球は電球職人の丸山政人(23)が担当し、丸山はフィラメントを2重にした電球を作った。だが電球は4回の発光で切れてしまった。胃カメラの電球は20回以上発光しないと使い物にならない。丸山はさらに改良を重ね、20回以上発光する電球を完成させた。水を入れたフラスコに方眼紙を張り、それを胃袋に見立てて暗室で写真を撮る実験が進められた。

 昭和2412月、東大病院で犬を用いて胃カメラの実験が宇治達郎と新人医師・今井光之助(23)によって始められた。胃の写真を撮るには胃を膨らませる必要があった。そのため胃の中に水を入れての実験が繰り返された。実験には10匹以上の犬を用いたが、水中写真は失敗の連続であった。注入した水と胃の分泌物が混濁し、視野を遮ったのである。次に胃に空気を送り、胃を膨らませる実験が行われた。この空気の送入によって、犬の胃の内部写真の撮影に成功した。

 胃の内部を撮る実験は、病院勤務を終えた夕方以降に行われていた。ある日、実験に没頭して部屋の電気を付け忘れていた。その時、薄暗い研究室の中で胃カメラのシャッターを切るたびに犬の腹が電球の光で内部から透けて見えるのに気がついた。その当時の胃カメラは直接肉眼で胃をのぞけないので、胃のどの部分を撮影しているのか分からなかった。ところが腹壁の光の位置で、胃のどこを撮影しているのか分かったのである。

 腹壁を通して見えるフラッシュの光の位置を参考に、胃の中を想定しながら手元でシャッターを切った。また胃壁にレンズが近づき過ぎると像の焦点がぼやけてしまったが、管の先に透明なコンドームをつけて膨らませ、胃壁とレンズの間に5センチの距離を取る工夫がなされた。

 腹壁から見えるランプの光を参考にフラッシュの方向、操作部の目盛りを見ながらの撮影で、フィルムを現像して初めて胃の内部を読影できるものであった。昭和25年9月、人を使っての実験が行われた。薄暗い手術室で患者の腹が21回光った。祈る気持ちで写真を現像すると胃潰瘍が写っていた。世界で初めて人間の胃の内部写真が撮影されたのである。手術が行われ取り出された病変は、写真に写っていたのと同じだった。

 試行錯誤を繰り返した末、宇治達郎と杉浦睦夫は、出会いからわずか1年で胃カメラを世界で初めて完成させた。英語で胃のことをガストロ(Gastro)と呼ぶため、語呂もよくわかりやすいことから「ガストロ・カメラ(Gastro-camera)」、通称「胃カメラ」と命名した。この胃カメラの完成は若い医師の熱意と、若い職人たちの努力の結晶であった。

 昭和2511月3日の日本臨床外科学会で、宇治達郎は胃カメラを用いた臨床例を世界で初めて発表した。胃の内部を撮影した30枚の写真が提示された。この胃カメラは全国発明協会から発明賞を受け、その後、オリンパスは宇治達郎、杉浦睦夫、深海正治の連名で胃カメラの特許を申請し、日本、イギリス、アメリカ、フランス、ドイツで特許を得た。オリンパスはこの特許により、内視鏡の世界シェア8割を占めるまでに成長することになった。

 現在、胃内視鏡検査には胃カメラは用いられていないが、胃カメラは光ファイバーを利用した胃ファイバースコープ、モニターテレビとして映し出す電子内視鏡に受け継がれ、今日の内視鏡診断に大きな役割を果たした。胃カメラという言葉は親しみやすいため、現在でも胃内視鏡検査の通称として用いられている。このことからも胃カメラの存在がいかに偉大であったかが分かる。

 日本の医学はあらゆる分野において欧米追従で、独創的な研究はほとんどなされていない。しかし胃や食道などの消化管疾患については、現在でも日本は世界最先端の研究がなされている。日本で作られた早期胃がんの分類は世界の標準として用いられているが、これも彼らが発明した胃カメラの功績といえる。

 宇治達郎は学位論文「腹腔内臓撮影用写真機を用いた診断法」により博士号を得ている。宇治達郎は胃カメラを開発した後、東大医学部の肩書きを捨て開業医になった。自分が胃カメラを開発したことを患者に話さず、町医者として地域医療に貢献していたが、昭和551127日に死去。大宮市より市民栄誉賞が贈られ、現在さいたま市大宮区大成町の普門院にある宇治家の墓所に顕彰碑が建っている。

 杉浦睦夫は胃カメラを発明して間もなくオリンパスを退社。昭和33年に杉浦研究所を設立し、医療機器の発明に挑戦し続けたが、昭和61年8月、心筋梗塞で死去。

 深海正治は世界初の心臓ファイバースコープや大腸ファイバースコープを開発。現役時代は「仕事の鬼」と呼ばれ、取締役時代に内視鏡医学振興財団を設立した。退職時「技術は日進月歩。進歩についていけない技術屋は一切口を出すべきでない」と膨大な資料や蔵書をすべて破棄して引退した。

 平成2年、「胃がん・胃潰瘍の早期発見に著しい成果を上げ、世界の医学発展に大きく貢献した功績」により故宇治達郎、故杉浦睦夫、深海正治の3人は吉川英治文化賞を受賞している。

この胃カメラ開発の経過は、吉村昭の小説「光る壁画」として新潮文庫に納められている。

 

 

 

安楽死事件 昭和25年(1950年)

 安楽死は森鴎外の「高瀬舟」をはじめとして、多くの小説で扱われている。安楽死は死の生理的苦痛を解決するための方法であるが、非常にデリケートな問題を含んでいる。

 昭和24531日、脳梗塞で寝たきりの母親から「楽にしてくれ」と懇願され、病床で苦しむ母親に青酸カリを飲ませた成吉某(33)が逮捕された。子供が親を殺害した場合、通常の殺人より罪の重い尊属殺人になるが、成吉はこの尊属殺人の罪で起訴されることになった。当時は、欧米においても安楽死の判例はなく、この裁判が日本のテストケースとして各方面から注目を集めた。

 昭和25年4月14日、裁判官は成吉に懲役1年、執行猶予2年の温情判決を言い渡たした。成吉が母親を殺害したのは母親を楽にすることが目的で、尊属殺人ではなく嘱託殺人との判決であった。この裁判は注目を集めたが、安楽死の明確な定義は示されなかった。

 安楽死を扱った裁判はそれほど多いものではない。安楽死はそれぞれの事例が複雑な事情を含んでいて、法律上、宗教上、倫理上、人道上、さらに医療上の問題を含み、単純に割り切れないものがあった。

 まず相手を楽にさせようとする行為を殺人として法律で罰することの是非である。悪意なき安楽死、命じた被害者と命じられた加害者、この構図が法律になじまないとする見方がある。

 昭和3110月頃、愛知県中島郡祖父江町で農業を営む青年山内某(24)の父親(52)が脳溢血で倒れ、一時は小康状態を保っていたが、昭和34年に再び脳溢血で倒れて半身不随になった。父親の上下肢は屈曲位のまま動かず、動かそうとすると激痛が走るようになった。父親は食欲がなく衰弱していった。息も絶えそうで、しゃっくりの発作も起こり、父親は「苦しい。早く死にたい。殺してほしい」と訴えるようになった。息子の山内某は父親の苦悶の叫び声に耐えられずにいた。

 昭和36年8月20日、家族は診察を受けた主治医から「おそらくあと7日か、よくもって10日くらいの命だろう」と告げられた。父親の苦しむ様子を見て、息子はこの苦痛から解放することが最後の親孝行になると決意。8月25日、息子は自宅に配達された牛乳ビンに有機リン殺虫剤を混入し、栓を元通りにしてそのままにしていた。事情を知らない母親がその牛乳を父親に飲ませ、父親は有機リン中毒で死亡した。

 息子の山内某は起訴され、一審判決では尊属殺人の罪に問われたが控訴。弁護士は「本件は父親に頼まれて病苦を救うために行ったのであるから、嘱託殺人であって尊属殺人は成立しない」と主張した。

 昭和37年2月、名古屋高裁は判決で、「間もなく死ぬ病人が、死にたいと希望した場合、一定の要件に従って死なせる安楽死は法的に認められる」とした。安楽死を認めるかどうかは、人為的に人命を断つのであるから厳しい条件が必要として、安楽死が違法とならないための6条件を示した。

 (1)病者が不治の病に冒され、しかも死が目前に迫っていること。

 (2)病者の苦痛が甚だしく、何人もこれを見るに忍びない程度のものであること。

 (3)病者の死苦の緩和が目的であること。

 (4)病者が意思を表明できる場合には、本人の真摯(しんし)な嘱託、または承諾があること。

 (5)医師の手によることを本則とし、これができない場合には、それに足る特別な事情があること。

 (6)その方法が倫理的にも妥当なものとして認容し得るものであること。

 この安楽死の条件を、本件でみてみると、(1)(3)(4)の用件は満たしているが、(5)は満たさず、(6)の有機リン殺虫剤を飲ませたことは倫理的に容認できないとされ、結局、懲役1年(執行猶予3年)の刑が言い渡された。

 この事件で裁判所は安楽死の定義を述べたが、その定義に照らし合わせて安楽死を行う医師などいるはずがない。このように現実的に安楽死は厄介な問題を含んでいる。

 平成3年4月4日、東海大付属病院で塩化カリウムによる安楽死事件が起きている。「苦しまずに死を選択できる権利としての安楽死」は、法律と医療の間に大きな課題を残している。

 

 

 

狂犬病予防法 昭和25年(1950年)

 狂犬病は古代エジプトの時代から知られており、日本では984年の丹波康頼の「医心方」に狂犬病の記載がある。狂犬病は海外から持ち込まれた輸入感染症で、狂犬病ウイルスに感染した犬にかまれて発症する人獣共通感染症である。

 狂犬病が恐ろしいのは、発症すれば犬も人間も100%死亡することである。パスツールによってワクチンが開発され、感染してから発症するまでの予防法は確立しているが、発症すれば100%死亡する最も恐ろしい疾患である。

 江戸時代の徳川吉宗の時代に大流行があったが、これは将軍綱吉の出した「生類憐(あわ)れみの令」によって犬とのかかわりを人々に強制した結果、煩わしさから捨て犬が増加したことによる。明治5年に、犬の首輪に飼い主の住所氏名を記した木札をつけさせ、狂犬を見つけたら打殺することが定められ、明治14年には犬の登録制度が始まり、明治29年には犬の狂犬病を法定伝染病にした。しかし狂犬病は撲滅できず、大正時代は毎年500件から3000件の発症があった。昭和19年には狂犬788頭と患者46人が発生している。また昭和25年にも狂犬病が流行し、犬320頭が発症して21人が死亡した。

 昭和25年、狂犬病撲滅のために狂犬病予防法が設定され、それまで放し飼いの野犬が多かったが、飼い主は登録が義務づけられ、飼い犬には強制的にワクチンの接種が行われた。保健所は野犬狩りを繰り返し、輸入犬の検疫が施行され、これらの予防体制によって日本から狂犬病が駆逐されていった。

 昭和45年7月19日、ネパールを旅行していた日本大学の学生が首都のカトマンズで犬にふくらはぎをかまれた。青年は犬にかまれたこを忘れていたが、8月5日に帰国、同月16日になって急に呼吸困難をきたし、東京大学医科学研究所付属病院に入院となったが翌日死亡した。

 青年の話を聞いた主治医は、狂犬病特有の上行性脊髄炎の症状から、都立衛生研究所に狂犬病ウイルスの検査を依頼、その結果、狂犬病による死亡であることが確認された。日本では昭和32年に狂犬病の最後の患者が報告されて以降、今日に至るまで狂犬病患者はこの学生を含む3例だけで、いずれも海外で犬に噛まれての感染である。日本国内ではかつて恐れられていた狂犬病はすでに過去の疾患になっている。

 世界保健機関(WHO)によると、現在でも全世界で毎年6万人から7万人が狂犬病で死亡している。日本の狂犬病は撲滅しているが、世界的には狂犬病はまだ蔓延しており、特にインドや北朝鮮などのアジア、ロシア、アフリカでは狂犬病が多く、インドでは年間4万人近くが狂犬病で死亡している。

 狂犬病が存在しない国は日本の他、オーストラリア、台湾、ハワイなどの海に囲まれた10カ国程度しかない。日本で撲滅されたのは、犬へのワクチン接種や検疫制度によるが、わが国が島国という地域的要因が大きい。

 世界から狂犬病が撲滅できないのは、狂犬病ウイルスを媒介するのは犬だけでなく、猫、コウモリ、リスなど多くの哺乳類が関与しているからである。狂犬病ウイルスが犬だけに限られていれば、全部の犬にワクチン投与すれば撲滅は可能であるが、媒介する動物が多すぎるために撲滅できないのである。イギリスではコウモリが、フランスではキツネが感染源となっている。フランスでは国土の3分の1が汚染地区とされ、ワクチンを注入した鶏肉を森に置き、キツネの感染を予防しようとしている。

 メキシコでは、洞窟に入って霧状になったコウモリの唾液を吸入して、狂犬病を発症した例が報告されている。ラブドウイルスに属する狂犬病ウイルスは唾液腺で増殖するので、狂犬病に罹患した動物にかまれると、唾液中の狂犬病ウイルスが傷口から浸入して発症する。ウイルスが体内に潜伏すると、潜伏期間は通常1カ月から2カ月だが、早い場合は10日間で、1年以上の例も6%ほどある。

 潜伏期間に個人差があるが、潜伏期間は咬傷の程度、かまれた時の洗浄の有無、かまれた場所が関係している。発病率は頭頚部や顔面の咬傷では50%、手足等の露出部の咬傷では30%、衣服の上からの咬傷では10%とされている。

 全体では、かまれても発症するのは2割程度であるが、いったん発症すると100%死亡する。発症時にはウイルスはすでに脳を侵しており、脳におけるウイルスの増殖を阻止する方法はない。

 ヒトからヒトへの狂犬病の感染例は、患者が狂犬病に罹患していることを知らずに角膜を提供し、提供を受けた患者が発病した角膜移植の1例だけである。しかし患者に直接接触する医師、看護婦等の医療従事者は感染予防に十分注意すべきである。

 狂犬病の前駆症状として発熱、頭痛、不快感、かゆみ、手足のしびれ、全身倦怠感などの風邪に似た症状がみられる。次に異常行動、見当識障害、幻覚、痙攣発作、麻痺などで、狂犬病に特有の症状として「恐水発作」が有名である。

 恐水発作は水を飲もうとすると、あるいは水を見ただけで、のどに有痛性の痙攣が起きることである。これは咽頭麻痺によって水が飲めず、むせによって水に恐怖心を持つためとされている。また顔面や声帯が麻痺することから犬が叫ぶような声を出し、恐怖心から狂乱状態となるが、意識は最後まで残されている。精神錯乱、麻痺、呼吸障害、昏睡状態から突然死する。検査所見としては白血球が3万から4万に増加するが、死亡するまで診断がつかないことがある。発症から死亡までの期間は1週間以内である。

 狂犬病の予防としては、流行地に行く場合にはワクチンの接種が有効だが、ワクチンの効果のない狂犬病ウイルスが知られているので万全ではない。ワクチンが効かないことがあるのは、狂犬病ウイルスは1種類だけでなく数種類あるからである。

 日本では狂犬病の発生がみられないので、海外に出かけてもその危険性を認識していない人が多い。そのため海外で不用意に犬に近づき、かまれる例が後を絶たない。むやみに犬や野生動物に接触しないことである。

 ワクチンの接種が勧められているが、狂犬病が疑われた犬などの野生動物にかまれた場合には、傷口を石鹸と水でよく洗うことである。このことでウイルスを不活性化することができる。また早期に狂犬病ワクチンと抗狂犬病ガンマグロブリンを投与することであるが、それでも死亡例が報告されている。かまれてから7日を経過した場合は予防効果はないとされ、もちろん発症した場合には治療法はない。死を待つだけである。

 1992年、フランスを旅行していた日本人男性が、野犬に靴下の上から足をかまれた。男性はそのまま旅行を続けたが、かんだ犬が狂犬病と分かって現地でワクチンと狂犬病免疫グロブリンを注射し、さらに帰国後、都内の病院で5回ワクチンを接種して発病を免れた例がある。

 狂犬病の犬にかまれればその対応は早いが、リスなどにかまれた場合はやっかいになる。リスが狂犬病に感染していないと確認されない限り、現地の医療機関を受診し、狂犬病ウイルスを含めた感染症予防策をとるべきである。

 なお日本では狂犬病ワクチンは製造されているが、常備している医療機関は少ない。また抗狂犬病ガンマグロブリンは製造も輸入もしていない。このように日本の狂犬病への医療体制は不十分で、WHOの勧告通りの治療が受けられないのが実情である。

 平成15年の犬の輸入頭数は約1万7000頭になっている。日本では狂犬病予防法に基づき輸入動物を検疫所で調べ、狂犬病の上陸を水際で防いでいる。また狂犬病予防法では飼い主が市町村に犬を登録し、年に1回予防注射を受けることを義務づけている。

 日本国内では狂犬病の発症はみられないが、ペットブームにより世界中から動物が輸入されていることから、狂犬病が日本に上陸する可能性は残されている。また狂犬病の恐怖が薄れたことで、義務化されている予防接種を受けていない犬が5割以上に達している。厚生労働省は狂犬病の予防には7割以上の犬への接種が必要としている。

 さらに犬以外の哺乳類は検疫を通らずに輸入されていて、いつ狂犬病が侵入してきても不思議ではない。例えばアライグマ、プレリードック、シマリスなどは、犬よりも狂犬病を感染しやすいとされている。事実、1992年アメリカでは8545頭のアライグマが狂犬病によって死亡している。ペットショップで売られている動物は人工繁殖された動物が多いが、狂犬病に感染していないという証拠はない。

 WHOの調査では、人への感染源は犬82%、猫10%、牛1%、キツネ2%、その他5%となっている。なおアメリカでは3年間有効のワクチンが当たり前で、日本でも3年間有効のワクチンが可能であるが、狂犬病予防法が毎年の接種を義務づけているため、年1回の予防注射は獣医師たちへのボーナスとなっている。

 中国などアジア各国で狂犬病が多発していることから、平成16年、農林水産省は狂犬病発生国から生後10カ月未満の子犬の輸入を禁止している。また輸入犬の皮下にマイクロチップを埋め込み、個体識別をすることを決めている。このような対策を立てているが、輸入動物の検疫は農水省で、予防注射や発病時の対策は厚労省の担当となっていて、この縦割り行政が狂犬病の予防と対策の問題となっている。

 ところで疫病神と恐れられていた狂犬病のワクチンは、1880年、パスツールによって開発されたことは有名である。狂犬病のワクチンは、パスツールの偉大な業績のひとつで、当時はウイルスの概念はなかったが、犬の唾液によって狂犬病が伝染することが分かっていた。パスツールは狂犬病に感染させたウサギの脊髄液を処理してワクチンの研究を重ねていた。ある日、狂犬病のオオカミにかまれた少年がアルザスからパリのパスツールのところに連れてこられ、母親がパスツールに息子を治してくれるように懇願した。

 パスツールの狂犬病ワクチンは弱毒化した生ワクチンで、有効性と安全性がまだ未確認だった。パスツールはもしワクチンで少年が死んだら殺人罪になると躊躇したが、ワクチンでこの少年を助けることになる。人類史上初めての狂犬病ワクチンの接種だった。

 メイステル少年はパスツールの恩に報いるため、パスツール研究所の門衛として働くことになる。第二次世界大戦でドイツ軍がパリに侵攻し、パスツールのひつぎが納められている「パスツール廟」を開くよう命じるが、扉の前に立った門衛メイステルは、「これより先にはドイツ兵は誰一人として入れない、入りたければ私を殺してからにしろ」といって自殺した。今もパスツール研究所の地下に「パスツール廟」があり、かつての少年、門衛メイステルの話はいまも語り継がれている。

 

 

 

長崎の鐘、聖人永井の死 昭和27年(1952年)

 昭和2089112分、長崎に投下された原爆は、すさまじい暴風と超高熱で一瞬にして長崎の街を破壊し、美しい街を廃墟にした。長崎医大の物理療法科(放射線科)永井隆助教授(41歳)は爆心地から700mの長崎医科大学の二階で被爆した。永井隆は自室でレントゲンフィルムを分けているときに、原爆による猛烈な爆風で飛ばされ、割れたカラスで右側頭動脈を切り、右半身は多数の硝子片で切創を負いっていた。

 永井隆は大けがを負いながらも、直ちに救護所を開設すると、被爆者の救護活動を始めた。長崎医大11医療隊の隊長となって、次々に運ばれる被爆者の救護に尽くし、医局の部下たちを励まし、側頭動脈から流れる血を包帯で巻き、血まみれとなって被災者の治療に当たった。自宅に帰らず身体を酷使し、自らの被爆を省みず出血多量で倒れるまで 200人以上の人たちの命を救ったとされている。

 家族の安否を心配しながらも、自らも危篤状態におちいり、無念にも救護活動を打ち切らざるを得なくなった。永井隆には妻の緑と幼い二人の子供がいた。子供は原爆の2日前に郊外の祖母の家に疎開していたが、妻の永井緑は爆心地から700メートルの自宅の台所で被爆死していた。永井隆が妻の遺骨を拾ったのは被爆から3日目のことである。妻はロザリオの鎖を残してこの世を去っていた。

 原爆は東洋一の天主堂を瞬時に全壊した。永井隆は天主堂の復興に務め、瓦礫(がれき)となった天主堂跡から聖鐘が奇跡的に掘り出された。昭和20年のクリスマスの夜、三本の丸太を組み合わせて作った土台の下で、聖鐘が浦上の町に鳴り響いた。戦時中は決して鳴ることがなかった、平和と復興を告げる希望の鐘の音であった。

 永井博士はレントゲンの被曝による白血病に罹患し、診療の無理がたたってしだいに悪化していった。そして昭和216月ついに長崎駅で倒れ、以後病床につくことになる。かつて永井博士の世話になったカトリック信者たちは、昭和23年春、博士のために爆心地から北約1キロの所に小さなバラック小屋を建ててくれた。それはわずか2畳1間だけのバラック小屋であった。永井博士はバラック小屋を如己堂(にょこどう)と名付け、そこで闘病生活を送ることになる。如己堂とは「おのれのごとく隣人を愛せよ」というキリストの言葉からとったものであった。「神の御栄のために私はうれしくこの家に入った。故里遠く、旅に病むものにとって、この浦上の里人が皆己のごとくに私を愛してくださるのがありがたく、この家を如己堂と名付け、絶えず感謝の祈りをささげている」と述べている。

 如己堂からは瓦礫と化した浦上天主堂を望むことができた。寝たきりとなった永井博士は、浦上天主堂を望みながら自分のなすべき事を考えていた。そして身動きもできない身体にむちを打ち、原稿を書き始めたのである。この長崎の惨禍を後人に伝えるため、原爆の恐ろしさ多くの人たちに知ってもらうため、筆を進めていった。原爆の悲劇を二度と繰り返してはいけないとの思いが込められていた。

 二畳一間の部屋で、誠一(まこと)と芽乃(かやの)の2人の子供をかかえながら執筆に励んだ。自分が横たわる隣の1畳で誠一と芽乃が生活していた。寝たきりの闘病生活の中でひたむきに物を書き、「長崎の鐘」「亡びぬものを」「ロザリオの鎖」「この子を残して」「生命の河」「花咲く丘」を矢継ぎ早に出版した。そして永井博士が書いた本はいずれも当時のベストセラーとなった。彼の清らかな文章は、原爆と敗戦に打ちひしがれた当時の人々の心を奮い立たせた。畳二畳の如己堂から発表される作品や言葉は、世界中の人々の胸を打ち、国内外に広く知られるようになった。

 昭和24130日に日比谷出版社から出版された原爆体験の記録「長崎の鐘」は医師としての科学的な観察に加え、愛に満ちた詩的な文章が全体を包みこんでいた。永井博士の人間味に溢れた記載により、長崎の鐘は130円で10万部を売り、昭和24年のベストセラー第1位を占めた。当時の日本人は永井博士の本を競って買い求めた。

 「長崎の鐘」は次の文章から始まる。

「昭和2089日の太陽が、いつもの通り平凡に金比羅山から顔を出し、美しい浦山は、その最後の朝を迎えていたのであった。東洋一の天主堂では、白いベールをかむった信者の群が、人の世の罪を懺悔していた」

 永井隆の作品全体に言えることは、彼は敬虔なカトリック信者の目をとおして原爆の惨状を捉えていたことである。戦争や原爆について誰も恨まず、神が与えた摂理、天主の恩恵としていた。この博士の考えは、戦争犯罪という後ろめたい気持ちを持っていた人々にとって、過去を清める上で都合のよいものであった。また原子爆弾を投下したアメリカにとっても、彼の作品は原爆の大義名分を与える上で都合がよかった。当時は進駐軍が出版物への検閲をおこない、都合の悪い書物は出版を止められていた。だが原爆の惨状を描いた彼の作品は、進駐軍にとがめられることなく出版することができた。もちろん永井隆の本がベストセラーとなったのは、政治とは関係なく国民に感動をもたらし、その時代を生きた人々の心に響いたからである。

 昭和25年、「長崎の鐘」は新藤兼人らの脚本によって映画化され、主題歌はサトウハチローが作詞、古関裕而が作曲し、藤山一郎が歌い大ヒットとなった。

作詞・サトウハチロー

作曲・古関裕而(こせき・ゆうじ)

 こよなく晴れた青空を

 悲しと思うせつなさよ

 うねりの波の人の世に

 はかなく生きる野の花よ

 なぐさめ はげまし 長崎の

 ああ 長崎の鐘が鳴る

 

 召されて妻は天国へ

 別れて一人旅立ちぬ

 かたみに残るロザリオの

 鎖に白きわが涙

 なぐさめ はげまし 長崎の

 ああ 長崎の鐘が鳴る

 

 永井隆の作品のうちで最も売れたのは、「この子を残して」であった。自分が死んだ後に残されてしまう、二人の子供の行く末を案じて書いた本である。この死を待つだけの父親が、孤児として残されてゆく子供のために書いた本は30万部をこえるベストセラーになった。

 父性愛の切なさと暖かさに溢れている、「この子を残して」は次の書き出しで始まっている。

 「うとうととしていたら、いつの間にか遊びから帰ってきたのか、茅乃(かやの)が冷たいほおを私におしつけ、しばらくしてから。「ああ、・・・・お父さんのにおい・・・」と言った。この子を残して・・・この世をやがて私は去らねばならないのか。」「私が眠ったふりしていると、カヤノは落ち着いて、ほほをくっつけている。ほほは段々あたたかくなった。何か人に知られたくない小さな宝物をこっそり楽しむようにカヤノは小声で、『お父さん』といった。それは私を呼んでいるのではなく、この子の小さな胸の奥におしこめられていた思いがかすかに漏れたのであった。」「一日でも一時間でも長く生きてこの子の孤児となる時をさきに延ばさねばならぬ。一分でも一秒でも死期を遅らしていただいて、この子のさみしがる時間を縮めてやらねばならない。」

「この子を残して」は講談社から出版され読者の涙をさそったが、昭和23年に出版されたこの本が永井博士の遺作となった。「この子を残して」は映画化されている。

 彼の著書はいずれも大いに売れ、一流作家が束になっても及ばないほどの人気であった。二畳一間の如己堂には読者からの手紙の束が山のように積まれていた。永井は著書の印税のほとんどを天主堂の修復や奨学金のために使い、収入のほとんどはまずしい子供たちや原爆症に苦しむ人々のために消えた。原爆の混乱と貧困の中、浦上には孤児になった子や、家がまずしく学校に行くことができない子が多かった。

  鉄筋コンクリート三階建の山里国民学校は、校舎の三階の部分が崩壊し、北側の一、二階を残して全焼した。校長以下職員26人、用務員2人が死亡、生者はわずか4人であった。児童は登校していなかったが、学区が爆心だったので、自宅で被爆死あるいは火傷死し、在校児童数1581人のち、およそ1300人が死亡した。建物も全焼または倒壊をまぬがれた家屋は一戸もなかった。

 学区内に立て札や張り紙を出して児童を呼び集めたが、9月20日に登校したのは、100余人だった。児童が着ている衣服は汚れてみすぼらしく、栄養失調気味で顔色は青白く、裸足の者もいた。その日は、「教科書も鉛筆も帳面も、みんな焼けてしもうた」と泣きながら訴える児童とともに、先生たちも泣くしかなかった。施設も教材も消失し、授業を再開することはできず、師範学校の3室を借りて授業らしいものを始めたのは11月9日であった。

 病床にあった永井博士の発案で、被爆から4年目の春、生き残った本校の児童たちが体験し、目で見た原爆の悲惨さを広く社会に知ってもらうため、その体験を作文にまとめた。この体験記が講談社から「原子雲の下に生きて」として出版された。この本には、表紙扉、カットは永井博士の自画で、児童37名と教師の2名の体験が載せられていた。この本の印税によって「あの子らの碑」が作られ、昭和24年11月3日に除幕式が行われた。以来、本校では毎年この時期に、全校をあげて碑の前で「平和祈念式」を行い、平和の誓いを新たにしている。校門下の坂道には、永井博士から寄贈された50本の桜が植えられており、「永井桜」として児童や地域の人々に親しまれ、毎年春にはきれいな花を咲かせている。

 永井隆は明治4123日に鳥取県松江市で生を受け、医師である父親・永井寛の影響を受け、恵まれた家庭で幼少年期を過ごした。昭和3年に松江高校を卒業し、医学をこころざし旧制長崎医科大学(現長崎大学医学部)に入学、卒業後は24歳で放射線医学を専攻した。1年間、軍医として満州事変で出征、このとき慰問袋の中にあったカトリックの宗教書を読み、感銘を受け彼の生き方に大きな影響を受ける。帰還後、引き続き医大の助手として研究に専念した。博士は敬虔なカトリック信者で、浦上天主堂で洗礼を受け、パウロという洗礼名を得ている。昭和9年に最愛の妻、森山緑と結婚し、昭和15年に物理療法科助教授となったが、終戦の前年の昭和19年、長年の放射線の研究により白血病に罹患した。浴び続けた放射線に永井博士の身体は白血病に犯され、原爆は彼の病気に追い打ちをかけた。

 昭和2310月、永井隆助教授が闘病生活を送る如己堂にヘレンケラー女史がお見舞いに伺っている。翌年5月には、天皇陛下自らが入院先の長崎医大付属病院に見舞っている。天皇陛下は永井隆博士の病床で、「どうか早く回復することを祈っています。筆書は読みました」とねぎらいのお言葉をかけた。また敬虔なカトリック信者である永井博士に対しローマ法王の特使派遣も激励に訪れている。永井隆は昭和2412月長崎名誉市民第一号に選ばれ、昭和256月、国会はこの生きる聖者を湯川秀樹博士と一緒に表彰した。

 昭和2651950分、永井隆は手にロザリオと十字架を持ち、二人の子供たちが看取る中、長崎大学附属病院でこの世を去った。43歳であった、514日に長崎市公葬が行われ、永井博士との別れをおしむ2万人もの市民が集まった。長崎市全部の寺院や船、工場の鐘、汽笛、サイレンが鳴らされ、長崎市民は1分間の黙祷をささげ永井博士の死を悲しんだ。長崎の人々は永井隆を「浦上の聖人」と今も呼び続けている。

 

 

 

シュバイツァーのノーベル平和賞 昭和27年(1962年)

 現在の医学生のなかでアルベルト・シュバイツァー(Albert Schweitzer)の名前を知る者は少ないだろうが、シュバイツァーはかつての小学生の教科書に「原始林の聖者」「アフリカの光明」として紹介され、当時の医学生や医師たちはシュバイツァーに強いあこがれを抱いていた。白いひげを蓄えた彼の写真を机上に置き勉学に励んだ者も多かった。

 生涯をかけて熱帯アフリカの原住民のために医療活動を行ったシュバイツァーは「医療の本質は人間愛に基づく奉仕である。医療は自己犠牲であって、身分や性別によって患者を差別してはいけない」との言葉を残し、医師としての理念を教えてくれた。

 シュバイツァーはルター派の牧師の子として、ドイツの支配下にあったアルザス地方(フランス)に生まれた。恵まれた少年時代を過ごし、5歳からピアノを習い、8歳からオルガンを弾き、9歳の時にオルガニストとしてデビューするほどであった。このようにシュバイツァーは多才で、優れたオルガンの演奏家として国際的に有名であった。

 音楽への造詣(ぞうけい)が深く、彼の著書「J・S・バッハ」(1905年)はバッハの古典的研究本となっている。さらにパリにバッハ協会を設立している。

 シュバイツァーが8歳の時、彼の人生を方向づける逸話が残されている。それはある日曜日、友人と小鳥を撃ちにブドウ畑へ行ったときのことである。友人がパチンコで鳥を撃ち落とそうとした時、小鳥のさえずり中で突然教会の鐘が鳴った。その鐘の音がシュバイツァーの心を動かし、声を張り上げ小鳥を追い払ったのである。この少年時代の話は、かつての小学校の教科書に掲載されていた。

 シュバイツァーは10歳から18歳まで親戚に身を寄せ、厳しい道徳教育を受けた。シュトラスブルグ大学に進学すると、神学、哲学を学び、カント哲学の研究で学位を取った。聖ニコライ教会の副牧師となり、日曜ごとに説教をしながら神学と哲学を学び、27歳でシュトラスブルグ大学の講師となった。神学部の教授候補になるほど優秀であったが、愛と同情を信条とするトルストイにひかれ、さらにイエスの生涯に強い影響を受けた。

 シュバイツァーはイエスの言葉、救世主としてのイエスの研究に没頭し、「イエス、その歴史的考察(1905年)」を書き高い評価を受けた。また哲学者、宗教家として、「メシアと受難の秘密(1901)」「ライマールスよりウレーデまで、イエス伝研究史(1906)」「パウロ研究史(1911)」などを刊行し、世界的な神学者として名声を得ている。

 シュバイツァーはオルガン演奏家、神学者、哲学者として有名になるが、それらの肩書きを捨て、190510月、医学を学ぶことを決意する。周囲はこの決意に驚くが、シュバイツァー自身は30歳までは芸術と学問を身につけ、それ以後の人生は人類に直接奉仕する仕事に捧げようとしていた。

 彼の決意は、「私に従いなさい」とのイエスの言葉に霊的衝撃を感じたからで、信仰からくる真摯(しんし)なものであった。具体的には、自分の人生を医師として赤道アフリカの無医村地区に捧げることであった。30歳で医学部に入学。若者に混じりながら生物学、物理学、化学などの教養、さらには解剖学、生理学、生化学、病理学などの基礎医学を学んだ。また学費とアフリカへの医療活動の資金を得るためにオルガン演奏会を開き、毎日2時間の睡眠時間の日々を送った。

 多忙な彼を助けたのが後に妻となるヘレーヌ・ブレスラウであった。彼女はアフリカで医療を行うために医学部に入学したことをシュバイツァーから打ち明けられると、自分も看護学校に入って勉強を始めた。シュバイツァーは医師資格を得ると、看護婦になったブレスラウと結婚し、1913年3月、ふたりは赤道アフリカのフランス領コンゴ(現ガボン共和国)のランバレネに向かった。

 医薬品、医療器具、手術用具、運営資金として約1000万円の費用がかかったが、資産家でない彼が集めた資金は、オルガンの演奏資金、著書の印税によるものだった。このようにシュバイツァーの偉大さは、アフリカでの医療活動に私財を投げ打ったことである。

 ランバレネでは、カトリック教会の敷地にある鶏小屋を改造して診療所をつくり、医療活動を開始した。アフリカの地で医師として治療にあたるだけでなく、伝道師としてキリスト教の普及に尽くした。

 活動から1年後に第一次世界大戦が始まり、フランス領土ガボンで働いていたシュバイツァーはフランス軍の捕虜となり診療所も閉鎖となった。シュバイツァーはフランスのボルドーで1年間の収容所生活を送ることになった。彼には2万フランを超える借金が残こったまま、収容所でアメーバ赤痢に罹患し、アメーバ性肝膿瘍で2度の手術を受けている。

 まさに苦難の時期であったが、この窮地を救ったのがオルガニストとしての腕前だった。ヨーロッパで演奏ツアーを行い、演奏ツアーによって資金を得ると再びアフリカに向かった。1923年にランバレネに戻り、病院を再建して原住民のために献身的に働いた。アフリカでの医療活動は、いかなる境遇の人たちにも、人間らしさを培わせようとする彼の宗教的哲学によるものであった。医療活動をとおして、「生命への畏敬(いけい)」を見いだすことになる。それは人間だけでなく生きるものすべてへの限りない感動を意味していた。この「生命への畏敬」はシュバイツァーが見いだした哲学で、国境を越え全世界の人々の心に大きな希望を与えた。

 昭和27年、シュバイツァーはノーベル平和賞を受賞。シュバイツァーの偉大さは、人間としての生きる思想、哲学を具体的な生活を通して私たちに示したことである。世界の平和、人類愛は私たちにとって最大の課題であるが、彼が示した生命への畏敬こそが、それを成し得る最も大きな思想といえる。

 昭和40年9月4日、神学者、思想家、音楽家、医師として有名なシュバイツァーがアフリカのガボンで死去し、90年の人生を閉じた。彼の50年にわたるアフリカでの奉仕の精神と生命への畏敬の哲学は、ランバレネの病院とともに今も生き続けている。「生命への畏敬」という言葉は、人類を正しい方向へと導く灯火として灯(とも)り続けている。

 

 

 

結核死亡率半減記念式典 昭和27年(1952年)

 新石器時代のヒトの骨格から結核の病巣が発見されたことからも、結核は太古の時代から人類を苦しめてきたことが分かる。世界各地の古代文献にも結核の記載が残されていて、ヒポクラテスは結核を「消耗病」と名付けていた。

 この結核が急増したのは、18世紀にイギリスで始まった産業革命がきっかけであった。産業革命により産業構造が農業から工業へ変わり、人々の生活が農村から都市へ移ったことが、結核の蔓延する環境をつくった。産業革命の時代、イギリス人の1%が結核を発症したとされ、日本では明治初期から結核が増加することになる。

 昭和10年、それまで死亡率第1位であった肺炎・気管支炎に代わって結核が第1位となった。以後昭和25年まで、結核は日本人の死因の第1位の座を守り続け、毎年10万人以上の日本人が結核で死亡した。その当時、結核は若者の命を奪う不治の病として恐れられていた。

 欧米に追い着くことが日本の目標であった時代、国の宝である若い労働者や兵隊の命を奪う結核は「亡国の病」と呼ばれていた。富国強兵が叫ばれていた時代、国家的損失をもたらす最大の敵が結核だった。

 横山源之助の「日本之下層社会」、細井和喜蔵の「女工哀史」、石原修の「女工と結核」に当時の底辺の人々の生活が詳しく書かれている。それらの本を読めば、富国強兵政策を担う若者がその政策に圧迫され、若い娘たちが最悪の環境の中で結核になっていたことが分かる。農村から都会に出てきた若い労働者は、長時間労働、低賃金、低栄養という過酷な条件下で、次々に結核に罹患していった。特に紡績工場で働く女子労働者は、「女工哀史」から想像できるように劣悪な労働条件で働いていた。

 当時、日本の主産業は繊維業で、女子労働者40万人が繊維工場で働いていた。年齢は15歳から19歳で、彼女たちはタコ部屋同然の寮に入れられ、全寮制度が結核を蔓延させた。結核は咳やくしゃみにより空気感染するため、不衛生の集団生活を強いられた労働者の間で容易に蔓延していった。しかも健康管理の概念が乏しかったので、結核が進行して喀血するまで働かされた。結核が進行して働けなくなると労働者は農村に追い帰され、そのため結核は農村に持ち込まれ、日本中で流行することになった。

 患者の多くが若者であったことが、より悲劇的なものにした。さらにヒトからヒトへ感染することが周囲の偏見と差別をよんだ。青白い顔をした青年たちは洗面器に鮮血を吐き、孤独の中で死んでいった。当時の人たちが結核を恐れたのは、治療法がなかったからである。

 結核への本格的な対策がとられたのは、多くの若者が結核に冒され、徴兵検査で不合格者が増えたからである。新鮮な空気を吸うこと、日光浴がよいとされ、サナトリウムが各地に建設された。患者はサナトリウムのベッドの上で長時間を過ごしたが、治療の効果はなかった。

 戦争が長引くにつれ、栄養状態の悪化がさらに結核を蔓延させた。結核の罹患率の増加に加え、死亡率も高まっていった。終戦後の昭和22年の統計によると、結核による死亡数は年間146000人に達していた。日露戦争の戦死者が12万人であったことから、いかに多くの人たちが結核で亡くなったかが分かる。まさに結核は「亡国病、国民病」であった。

 終戦時の食糧難の時代に、体力のない結核患者が食糧を確保することは困難であった。結核療養所の患者たちは配給が少ないうえに、療養所の職員による配給食糧の横流しが横行し、満足な栄養をとることはできなかった。

 結核の治療には栄養補給が最も大切であるが、その食糧が不足していた。療養所の患者たちはこの状況を打開するため、「日本患者同盟」を組織して抗議するに至った。全国規模の結核患者が結束して行政に抗議する世界でもまれな組織ができた。

 しかし結核療養所に入所している患者はまだ恵まれていた。結核療養所に入所している結核患者は全体のわずか5%で、残り95%の患者は自宅で療養していた。自宅で療養を強いられた患者は何らの保護も受けられず、栄養失調により症状を悪化させていった。

 現在の人たちが、がんを恐れるように、当時の人たちは結核を恐れていた。結核に取り付かれることは死を意味していた。当時の医師は、結核患者に肺浸潤、肋膜炎、肺尖カタル、カリエスなどの病名を告げることがあった。これらの病名はすべて結核と同じ意味であるが、結核そのものが伝染性、不治の病とする暗いイメージを持っていたので、医師は結核という直接的な病名を避けていたのである。ちょうど今の医師たちががんと言わず腫瘍と告げるのと似ている。

 国民病、亡国病と呼ばれていた結核の厚い壁を破ったのは、昭和18年に米国の細菌学者ワクスマンが発見したストレプトマイシンであった。ストレプトマイシンは土壌中の放線菌から発見された抗生物質で、ワクスマンの発見以降は製薬会社メルクが後を継ぎ、大量生産に成功、商品化に乗り出した。

 当時、青かびから精製されたペニシリンが開発されていたが、ペニシリンはブドウ球菌などの化膿菌には劇的効果があったが結核菌には無効だった。ストレプトマイシンは、ペニシリンでは効果のなかった野兎病、ブルセラ菌などのグラム陰性菌に効果があり、特に結核菌には驚異的な治療効果を示した。このストレプトマイシンの発見は、イギリスの医学雑誌「ランセット」に論文が掲載され、その内容は「医学のあゆみ」誌の昭和201110日号に紹介されている。

 昭和24年4月、ストレプトマイシンが日本に登場。しかしアメリカから輸入されたストレプトマイシンは、研究用としてわずか5000人分だけであった。そのため厚生省はストレプトマイシンを各地の病院に厳重に配分し、結核への治療効果を各病院に報告するように義務づけた。ストレプトマイシンの効果は驚異的であったが、米国から輸入された量では、200万人を超える日本の結核患者には焼け石に水であった。そのため結核患者はストレプトマイシンを手に入れるため闇市に殺到したが、闇市では1本3000円の公定価格が3倍以上の1万円で売られていた。そのためヤミのストレプトマイシンを買えたのは裕福な家庭だけで、一般庶民にとっては高嶺の花であった。

 だが昭和25年になると、ストレプトマイシンの国内生産が開始され、健康保険も使用できるようになり、多くの人たちがその恩恵を受けることになった。ストレプトマイシンの登場により、結核は徐々に減少することになる。間もなく、パス、ヒドラジドとの3剤併用が始まり、結核は目に見えて減っていった。

 昭和25年を境に不治の病とされていた結核の予後が大きく変わった。わずか数年の違いによって、結核患者の生死が大きく分かれることになった。

 昭和21年9月から結核予防運動が始まり、レントゲン自動車による街頭検診が行われるようになり、翌22年には予防接種法が公布され、30歳未満の国民は年1回ツベルクリン反応の検査を受け、陰性者はBCGを接種することになった。

 昭和26年4月には新結核予防法が施行され、「結核患者の登録」「医療費の公費負担」「BCG強制接種」が設定され、誰でも結核の治療を受けられるようになった。それまでの結核対策に比べ、新結核予防法は画期的な前進をもたらした。

 昭和26年、結核は日本人の死因第1位を脱して2位になった。昭和22年のピーク時に比べ、5年後の昭和27年には結核死亡率が半減、昭和27年5月27日、厚生省主催による「結核死亡半減記念式典」が日比谷公会堂で行われた。

 結核の死亡数は半減し、結核の脅威は減ったが、昭和28年の調査では結核患者数は553万人、全人口の6.4%がまだ結核に罹患していた。このように結核の脅威は薄れたが、まだ多くの患者が結核の治療を受けていた。

 昭和32年1月20日、結核予防のための健康診断が全額公費負担になり、結核の死亡率はピークの昭和22年に比べ、昭和37年には4分の1、昭和42年には10分の1に低下した。

 現在、結核は過去の病気とされがちであるが、アメリカではホームレスの増加、エイズ患者の増加により昭和60年頃から増加している。日本ではそれまで減少し続けていた結核患者が頭打ちの状態になっている。

 かつて結核は青年の病気であったが、現在では老人の発症率が高くなっている。高齢化に伴う老人の増加と、以前結核に罹患した者が老人になって再発するためである。また生活困窮者、零細企業、出稼ぎ労働者、外国人労働者など健康管理が行き届かない階層での結核増加が注目されている。あいりん地区を含む大阪市西成区では罹患率(人口10万対)が570(日本の平均34)を超えるなど、際だった発病状況になっている。

 現在、日本の結核患者は約4万人、結核死亡者数は年間約2000人である。結核は以前ほどの脅威はなくなったが、感染症の中では現在でも患者数の多い疾患である。

 結核患者が減少したため、結核患者を診察したことのない医師が増えている。そのため結核の診断が遅れるという新たな課題が起きている。また患者の発見の遅れが集団感染を引き起こすことが多い。特に医師、看護師、学校の教師が集団感染の感染源になることがあるため、注意が必要である。

 

 

 

ツベルクリン反応とBCG 昭和27年(1952年)

 1882年に、ドイツの偉大な細菌学者で、細菌学の父と呼ばれるロベルト・コッホが結核菌を発見。コッホは次の目標として、結核の治療としてワクチン開発に乗り出した。

 コッホは結核菌を大量に培養し、その上液を何回も濾過し、加熱濃縮を繰り返して結核菌の毒素を抽出。この結核菌から精製した毒素をツベルクリン液と命名した。コッホは第10回国際医学会議で、結核の治療薬としてツベルクリン液を発表。このニュースは世界中に広まった。

 現在では「ツベルクリン反応(ツ反)」は結核の診断に欠かせない検査法であるが、ツ反に用いるツベルクリン液は、結核の治療ワクチンとして開発されたのである。当時のヨーロッパの人々は結核を「白いペスト」と恐れていた。ツベルクリン液は結核の特効薬と宣伝され、世界中の結核患者が期待を抱きベルリンのコッホのもとに集まった。しかし患者の期待とは逆に、ツベルクリンの治療効果は全く認められず、発熱や悪心、注射部位の発赤や水胞、喀血などの副作用ばかりが出現した。

 結核患者の皮膚に発赤をきたすツ反は、現在ではアレルギー反応であることが知られている。つまり結核患者にツベルクリン液を投与すると、アレルギー反応による副作用だけが出現したのである。ツベルクリン液は結核の治療薬として大失敗に終わり、コッホの業績に大きな汚点を残したが、偉大なるコッホ先生は「結核に関する研究業績」によって1905年ノーベル賞を受賞している。

 ツベルクリン液による結核の治療は惨憺(さんたん)たるものであったが、1907年、オーストリアの小児科医ピルケがツ反によって結核感染を知り得ることを発見。さらにフランスの医師マントーがツ反を一般化した。

 日本では小林義雄がツ反陽転者から胸膜炎が発生することを報告。千葉保之らが国鉄職員のツ反陽転者を追跡調査し、結核の初感染発病説をつくった。昭和15年には国立公衆衛生院の野辺地慶三らによってツ反の判定基準が提案された。

 ツベルクリン液は結核菌から抽出された成分であるが、結核菌を構成する多成分が含まれている。アメリカの生化学者サイバートは結核患者に特異的な皮膚反応を起こす物質を抽出して、精製ツベルクリンpurified protein derivative(PPD)と名付けた。日本でも昭和43年から旧ツベルクリン液の代わりにPPDがツ反に用いられている。

 ツ反は、ツベルクリン液0.1 mlを皮内に注入し、48時間後に発赤の長径を計測する検査法で、皮膚の硬結、二重発赤、水疱の有無を同時に観察する。発赤の径が4ミリ以下を陰性、5〜9ミリを疑陽性、10ミリ以上を陽性としている。ツベルクリン液を皮内に注射すると、結核に感染している場合は2日目に発赤を示し、陽性となる。

 皮膚の壊死や水胞をともなう場合は結核感染の可能性が高いが、BCGを接種していれば長期にわたりツ反が陽性になる。そのためBCG接種を受けた者が陽性の場合、BCG接種によるものなのか結核感染によるものなのかの区別が困難になる。

 ツ反には例外が多く含まれ、結核の絶対的な診断法ではない。ウイルス感染時、栄養状態の悪い時、ステロイド剤および免疫抑制剤投与時、結核感染の初期では結核に罹患していてもツ反陰性になることがある。また結核菌と似た非定型抗酸菌に感染した場合、交叉反応のために弱い反応が起こる。このような例外はあるが、「ツ反陽性者は必ずしも結核感染とはいえないが、その反応が強ければ結核の可能性が高くなること。ツ反陰性者は結核をほぼ否定できること」、このことは覚えておきたい。

 BCGは結核の予防のためのワクチンで、パスツール研究所のカルメットとゲランによって開発された。BCGの名前は彼らの功績をたたえ、2人の頭文字をとって命名された(Bacille de Calmette et Guerinの略語)。

 カルメットとゲランは、1908年から13年間ウシの結核菌の連続培養を行い、230世代の連続培養で人間に無毒な結核菌種を作ることに成功した。人間への感染力をなくし、免疫のみを獲得させる変種菌の開発に成功したのである。

 1921年、結核の妊婦患者から生まれた新生児にBCG接種が行われ、それ以降、BCGの安全性と有効性が調べられ、結核の予防としてBCGが急速に普及することになる。

 日本では、大正14年にパスツール研究所からBCGの菌株を譲り受け、国立予防衛生研究所で継代保管され、昭和13年から5年間、BCGの安全性と有効性が検討され、BCGの接種により結核の発症率が半分以下に、死亡率が8分の1になった。さらにBCGの大量生産にも成功して集団接種の体制が整った。

 BCGは結核の予防に絶大な効果を示し、昭和24年以来、法律によってBCGは強制接種となった。BCGの副作用である皮膚の難治性潰瘍と瘢痕を補うため、昭和42年から多刺法接種が用いられている。多刺法接種とはBCGを皮膚に塗り、その上から9本の針の付いた管針を押しつける方法で、この方法により接種後に赤い小斑点ができるが、その後はかさぶたを生じる程度になった。

 結核予防法によってBCG接種が義務付けられ、4歳未満のツ反陰性の乳幼児が接種することになっている。その他の年齢でも、希望者は保健所でツ反とBCG接種を受けることができる。BCGの結核への予防効果は10年とされ、中学生時にBCGを接種しても20歳を過ぎるとその効果は低下するとされている。

 BCGの効果に水を差すようであるが、最近になりBCGの評価が大きく変わってきた。日本ではBCGの有効性への思い込みが強いが、その有効性は確実とはいえないのである。BCGが有効なのは乳幼児の結核性髄膜炎の場合で、幼児以外の結核の予防にBCGが本当に有効かどうか疑問視されている。そのため欧米ではBCG接種をやめており、世界保健機関(WHO)もBCGの廃止を勧告している。

 日本ではツ反陽性が正常者とされ、ツ反陰性の場合にBCGが接種されていた。一方、BCG接種をしていない欧米ではツ反陰性が正常者で、ツ反陽性が「結核の疑い」となる。このように日本は世界と大きく異なっている。

 BCGの有効性については興味があるが、むしろ日本人の多くがBCGを信じ、世界で日本だけがBCGを接種しているという事実の方が、日本人の国民性を知る上で興味深い。医学が一筋縄でないことのよい例である。

 この世界の流れから、平成14年、厚生労働省は小中学校でのBCG再接種を廃止する方針を決めた。それまでの結核予防法では、0歳から4歳までに保健所でBCG接種を受け、その後小学校1年、中学校1年でツ反を調べ、陰性の児童に2度目の接種をしていた。再接種を受けた児童は年間約125万人(平成12年度)で、1人当たり数千円の費用を自治体が負担していた。

 これを厚労省は平成15年4月から、生後6カ月から4歳未満の乳幼児にツ反を行い、陰性者のみにBCGの接種を行い、小中学生のBCG接種を廃止したのである。

 ツ反とBCG接種が学校から消えたのは、結核患者が減ったからであった。平成12年の小児結核患者は220人で、学校健診を受けた小学1年生と中学1年生の総数は約230万人で、その中で結核が発見されたのは17人であった。再接種を中止した欧米で結核患者が増加していないことから、ツ反とBCG接種が学校から消えることになった。

 また16歳以上のほぼ全国民に義務づけていたエックス線撮影による年1回の結核検診を、就職などの節目検診に変更することになった。年1回の結核検診に約2500万人が受診して、見つかった結核患者は約2000人であった。つまり受診者1万人に1人以下の患者では、結核の早期発見によりもエックス線被爆が心配されたのである。

 これまで「BCG接種によって結核の脅威がなくなった」と多くが信じてきたが、「結核患者の激減はBCGの効果もあるだろうが、むしろ環境衛生の改善、栄養状態の改善が大きかった」と思われる。

 

 

 

村八分事件 昭和27年(1952年)

 昭和2756日、静岡県参議院補欠選挙の投票日、静岡県富士郡上野村(現、富士宮市)で組織的な替え玉投票が行われた。富士山の麓の上野村では、以前から村の役員が選挙の投票を取りまとめ、投票日になると隣組役員が半強制的に投票券を回収して替え玉投票をしていた。同一人物が何度も会場で投票したが、村役場や選挙管理者はそれを黙認していた。

 富士宮高校2年の石川皐月さん(17)は以前からこの替え玉投票に憤りを覚えていた。石川さんは「上野中学新聞」に告発文を書いたが、学校側が新聞を回収して焼却した。悩んだ石川さんは、選挙当日、この不正を朝日新聞静岡支局に投書したのである。朝日新聞が調査に乗り出すと、替え玉投票は事実であった。そのため朝日新聞は「替え玉投票」の記事を新聞に掲載し、村の関係者は警察に出頭を命じられた。
 これで一件落着のはずであったが、事態は思わぬ方向へ発展した。石川さんは村人から苦情を言われ、脅された。「他人を罪におとして喜んでいる。警察から帰ったらお礼に行く」、「自分の村に恥をかかせた」などと言われ、村八分が始まったのである。石川家は周囲から無視され、隣人の挨拶もなくなった。彼女の妹は学校で「スパイ、赤だ」といじめられた。

 6月23日、朝日新聞がこの「村八分」を全国版で掲載すると、上野村は一気に全国に知れ渡ることになった。法務府人権擁護局による現地調査が行われたが、集落の実力者(62)は「個人の人権と、村の名誉のどちらが大事か」と怒鳴り込み、巡査の仲介で引き下がる一幕があった。

 「村八分」とは、集落住民が結束して10ある交際のうち「葬式と火事」の2つ以外はつきあいを絶つことで、つまり8つの付き合い(冠、婚礼、出産、病気、建築、水害、年忌、旅行)を絶つことであった。村の掟を破った者への絶交であり、共同体による仲間はずれであった。当時の上野村のような地方では、「村八分」は珍しい話しではなく、表沙汰にならないだけで、共同体の合意にそむけばそれだけで「村八分」であった。

 昭和31年の神奈川県中郡のある地方では、強姦した男と強姦された女性を集落ぐるみでの結婚を薦め、それを断った女性を村八分にした事例もあった。また最近でも村八分事件はおきている。

 平成16年、新潟県関川村の36戸の沼集落で「村八分事件」がおきている。集落の有力者が「お盆のイワナつかみ取り大会」を企画したが、準備と後片づけを命じられた村人11人は「お盆をゆっくり過ごせない。村の補助金を不正にもらっている」と不参加を申し出た。すると憤慨した有力者は不参加の11戸に回覧板を回さず、ゴミ収集箱に鍵をかけ、山での山菜採りを禁止した。集落は2分され、11人が「村八分」の停止を求めて有力者らを提訴。新潟地裁新発田支部は「生活上の不便を感じたのみならず、精神的苦痛を被った」として有力者に村八分の禁止と計220万円の賠償を命じた。しかし有力者は「集落の総会で決めたことで、一人ひとりのわがままを認めたら集落を維持できない」と東京高裁に控訴した。平成1910月、東京高裁は一審判決を全面支持、すなわち村八分を受けた側の勝訴となった。

 田舎の集落の日常生活は、限られた人たちによって成り立っている。毎日顔を合わせ、プライベートなうわさ話で、自分の主張は表だって言えないことが多い。すべての物事に対して同じ価値観であれば問題はないが、そのようなことは有り得ず、利害関係もからみながら、共同体の和のもとで誰かが我慢しなければいけない。

 このことはかつての集落文化、と他人事のように受け止めてはいけない。村八分は集団における排除の原理によるもので、学校、会社においても村八分に似た「いじめ現象」が起きている。閉鎖性、ねたみ、無知、わがまま、このような陰湿な感情に基づく行為は集団であれば、常に起き得るのである。

 

 

 

黄変米 昭和27年(1952年)

 昭和45年にコメの過剰生産が社会問題になり、そのころから日本は飽食の時代を迎えることになった。しかし昭和20年代の日本は食糧難に苦しみ、主食であるコメの一部を輸入に頼っていた。アジアやアメリカはもとより世界各地からコメが集められ、ヨーロッパ、アフリカからも商社によって買われたコメが、日本に送られてきた。

 当時の日本の人口は8900万人で国産米は1240万トン、現在の日本の人口は1億2400万人で国産米は1060万トンである。現在の私たちに比べ、当時の日本人は2倍以上のコメを食べ、毎年100万トンのコメを輸入していた。コメはまさに日本人の主食であった。

 コメは世界中から集められたが、それでもコメは不足し、ヤミ米の値段が跳ね上がっていった。農協の倉庫を狙うコメ泥棒も頻発していた。一方、外国からの輸入米は現地での保管状態が悪く、船倉で赤道を越える間にカビが生え、カビの繁殖によってコメ粒の表面が黄色に変色した黄変米(おうへんまい)が社会問題となった。

 昭和271212日、神戸港に陸揚げされたビルマ米5000トンを神戸検疫所が検査したところ、3分の1が肝臓や腎臓に悪影響を及ぼす黄変米であったと発表された。この発表と同時にビルマからの輸入米は配給停止になった。さらに同月18日には、清水港に陸揚げられたタイ米にも黄変米が大量に混入していることが分かった。

 カビが寄生した黄変米は、昭和22年頃からすでに問題になっていて、カビの毒素が肝機能障害、神経障害、腎障害、貧血などの障害を起こすことが、ネズミの実験で明らかになっていた。毒素を出すのはペニシリウムに属する3種類のカビであった。東南アジアに従軍していた兵隊たちが、このカビに汚染されたコメを食べ、肝臓や腎臓の障害をきたしたことが知られていた。

 政府にとって、この汚染された6万トンの黄変米をどのように処理するかが問題になった。現在では食品に含まれる有害物質の許容濃度は、その基準が厳しく定められているが、当時はそのような概念はなかった。

 厚生省と農林省は、黄変米を日本産のコメに2.5%の割合で混入させ、1カ月に1日程度で配給すれば人体に害もなく無駄にならないと説明した。厚生大臣・草葉隆円は記者会見で黄変米入りのカレーライスを食べ、その安全性を国民に訴えた。

 政府はこのようにして黄変米を強引に販売しようとしたが、黄変米騒動は厚生大臣が試食した程度ではおさまらず、さらに世論を刺激した。婦団連、主婦連などの婦人団体は、政府の不手際を国民の犠牲でごまかすものと黄変米反対運動を開始し、黄変米は国会で追及されることになった。

 学者たちは黄変米の有害性を警告し、婦人団体は反対運動を繰り返し、黄変米の安全性についての議論が5年間も続いた。しかし昭和29年、政府は138000トンに及ぶ黄変米を廃棄処分にすることを決定。この決定により、5年にわたる黄変米騒動に決着がついた。決定された前年は、戦後最悪の大凶作で、輸入米は約30年ぶりに100万トンを超えていた。それにもかかわらず政府の黄変米廃棄処分の決定は素晴らしい決断であった。

 

 

 

寄生虫予防運動  昭和28年(1953年)

 昭和281116日、厚生省は戦後初めての寄生虫予防運動を実施した。全国各地で寄生虫の街頭検診や薬剤の配布が行われ、寄生虫の予防が訴えられた。終戦当時の東京では住民の3割、農村では8割が寄生虫を保有していた。このことから日本は「寄生虫王国」とまでいわれていた。この寄生虫予防運動をきっかけに、立ち遅れていた寄生虫の駆除が本格的に始まった。

 当時の日本人にとって、「寄生虫は疾患と呼ぶよりも共生」と呼ぶにふさわしいほど日常生活にありふれていた。昭和24年以降、学校では春秋の2回検便検査が行われ、検便が学校の年間行事になっていた。検査の結果、ほとんどの児童から回虫卵が見いだされ、定期的に虫下しを飲ませる学校が多かった。寄生虫の種類としては回虫が圧倒的に多く、次いで蟯虫(ぎょうちゅう)、十二指腸虫の順であった。

 寄生虫の駆虫剤「サントニン」が発売されたのは昭和231019日のことである。日本新薬が東北大学と共同でサントニンの工業化に成功したのだった。このサントニンはソ連の専売品で、原料である植物の種の持ち出しが厳重に禁じられていた。日本新薬は昭和2年にサントニンを含有する植物の種を入手。昭和15年にサントニンを抽出、昭和23年に製品として発売したのである。ミブヨモギから抽出されたサントニンは回虫駆除の有力な武器となった。昭和28年に行われた統計では寄生虫の保有率は低下したが、それでも保有率は国民全体で36.7%と高い数値であった。

 昭和31年6月3日から、学校を中心に、虫歯、寄生虫、トラコーマの3大病撲滅運動の5カ年計画が開始された。寄生虫は昭和30年ころから激減していくが、この激減は治療薬の効果よりも、農家が肥料として人糞を用いていた習慣が改められ、化学肥料が普及したことが大きい。それまでの農家は「肥料として人糞を用い、野菜に付いた寄生虫卵がヒトの口から体内に入り、便から排出される」という寄生サイクルが繰り返されていた。また上水道や下水道の整備、水洗式トイレの普及などにより、寄生虫を取り込む機会が少なくなったことが減少に寄与していた。現在では寄生虫の保有率は3%前後で、その内訳は回虫や鉤虫は激減しているが、蟯虫はそれほど低下していない。

 多くの日本人を悩ましてきた回虫、蟯虫、鉤虫について振り返ってみる。

 回虫は線虫に属する寄生虫で、ミミズに似た形をしている。野菜などに付着した卵が口から入り、小腸で孵化し小腸に寄生する。小児の有病率が高く、ときに迷入により重篤な症状を引き起こす。通常は軽い下痢や腹痛程度の軽い症状であるが、回虫が胃に迷入すると胃けいれん様の激しい痛みを引き起こす。胆管に侵入した場合には肝炎や胆石様発作を起こし、膵管に入れば膵炎、虫垂に迷入すれば虫垂炎を起こす。駆虫剤はサントニンやカイニン酸などである。

 蟯虫は体長1センチ前後の盲腸に寄生する白色の糸状の寄生虫で、特に小児で多い。雌は口から進入し、3カ月後に夜間に肛門からはい出し肛門周辺に産卵する。産卵後に雌は死ぬが、かゆみが激しいため、かいた手に付いた卵をなめることで、再び口から体内へ入ることになる。肛門のかゆみにより、不眠症、精神的不安定、学力低下などをきたすことがある。蟯虫は、まれに虫垂炎や卵管炎を引き起こすことがある。蟯虫の検査は肛門部にテープをはり付けて虫卵の有無を調べることである。駆虫剤はピルビニウム・パモエートである。

 鉤虫はかつて十二指腸虫といわれていた寄生虫で、十二指腸虫の命名は鉤虫が初めて発見された時にたまたま十二指腸にいたためで、本来の寄生部位は小腸(上部空腸)である。症状は軽度の貧血などである。

 回虫、蟯虫、鉤虫は日本人の3大寄生虫であるが、飢餓の時代から飽食の時代へと変わり、最近では新たな寄生虫が問題になっている。

 グルメ嗜好となった現在では、食生活の多様化により新たな寄生虫が登場してきた。その中で最も多いのはサバやイカの刺身から感染するアニサキスである。

 アニサキスはオキアミが第1中間宿主で、それを食べたサバやイカなどが第2中間宿主となる。サバ寿司やイカソーメンなどを生で食べると、アニサキスは人の胃壁や腸壁に進入し、激烈な痛みを引き起こす。このため胃潰瘍や虫垂炎と間違えられることが多い。アニサキス症は、俳優の森繁久弥が公演地の名古屋で発症し緊急入院となったことから有名になった。アニサキスの予防は、熱を通して食べる、あるいは凍結解凍してから食べることである。アニサキスの治療法は、内視鏡で胃壁にはり付いたアニサキスを摘出することである。

 その他の寄生虫として、アユから感染する横川吸虫、淡水産のカニから感染する肺吸虫、サクラマスから感染する日本海裂頭条虫、クマ肉の生食による旋毛虫症、ドジョウのおどり食いによる顎口虫症などがあるが、心配するほど多いものではない。

 またペットブームによりネコの糞便から感染するトキソプラズマ症、幼犬に由来するイヌ回虫症などがまれに報告されている。海外旅行が日常的となり、東南アジアやアフリカなどでマラリア、アメーバ赤痢、ランブル鞭毛虫、有鉤条虫、無鉤条虫、顎口虫などの感染が増えている。いずれにしても現在では寄生虫はごくまれな疾患となっている。

 

 

 

売血制度 昭和28年(1953年)

 現在、日本の輸血システムは、個人の善意による献血制度で支えられている。献血は輸血を必要とする患者のために報酬を期待せず、自分の自由な意思で血液を供給することである。しかし昭和42年までの輸血システムは現在の献血制度ではなく、「売血制度」であった。「売血制度」とは自分の血液をお金に換えることで、当時は生活のために血液を売る者が大勢いたのであった。

 昭和26年2月26日、日本初の血液銀行「日本ブラッドバンク」が大阪で営業を開始した。血液銀行とは健康な人から血液を集め、その血液を病院などの医療機関に卸す民間会社のことである。血液銀行の名前から公的機関との印象を受けるが、それは間違いで血液銀行は利益を目的とした民間会社である。

 日本ブラッドバンクは中国で人体実験を行った731部隊の幹部が創立した会社で、日本ブラッドバンクは後にミドリ十字と社名を変え、戦後最大の薬害事件である「薬害エイズ」を引き起こすことになる。日本ブラッドバンクと同じように、厚生省が認可した血液の売買業者は都内だけで70団体に達し、血液売買は立派な商売になっていた。医学の進歩に伴って手術件数が増え、手術の需要増が売血の供給増をつくった。

 昭和28年の学徒援護会よると、都内の学生22万人うち、供血業者に登録している学生は約2万人であった。つまり大学生の約1割が売血によって生活費を得ていたことになる。また登録学生のうちの1割が高校生だった。このように多くの学生が血液を売って生計を立てていたのである。

 採血量は1回200cc、3カ月以上の間隔を置くことが決められていた。しかしそうであっても1カ月に10回、15回と血液を売る者が多かった。もちろんそれを承知で採血を繰り返す業者がほとんどであった。血液の値段は200cc1100円で、3割が業者にピンハネされ、7割が学生に渡されていた。失業者や学生たちにとって、売血が手っ取り早い収入になっていた。お金が必要な人たちにとって売血ほど安易な方法はなかった。大学病院前の血液銀行は登録者が多く、順番がまわらないほどの人気だった。新宿区淀橋の東京医大病院の血液銀行では1日20人の需要に100人が押しかけていた。輸血と売血は、需要と供給のバランスがあり、登録しても順番のこない地区もあった。

 昭和28年当時は、インフレと企業の人員整理が重なり、職を求める労働者が街にあふれていた。経済はどん底の状態で、学生のほとんどがアルバイトで学費や生活費を稼いでいた。東大生の8割が生活のためにアルバイトを希望し、希望した学生のうち職を得たのはその4割であった。アルバイトの内容もピーナツ売り、代筆屋、ホステス、サーカスの会場係などで、その中には病原菌の人体実験のために体を売る危険なものもあった。伝染病研究所が募集したアルバイトは3食付きで、赤痢菌を食べうまく発症すれば1000円の手当金が与えられるもので、この人間モルモットの日給は150円だった。

 不況と就職難が重なったこの時代に、アルバイトを見つけるのは困難であった。事務系アルバイトが日給80円であったが、自分の血液を売ればその10倍の収入になった。血液を取り過ぎて貧血で倒れる者、顔に頬紅を塗って貧血を誤魔化して採血を受る者もいた。このように学生たちは自分の血液を売って卒業証書を手にしていた。まさに苦学の時代であった。

 昭和281211日、東京葛飾区の供血斡旋業・日本製薬工業で従業員のストが行われた。その際、日本製薬工業に血液を売って生活していた500人の学生たちが血液を買えと工場前に座り込む事件が起きている。このように売血は貧しい人たちの生活を支えていた。しかも血液を売る人たちは常連がほとんどで、そのため血液の濃度が薄く、さらに血清肝炎の発症率が高かった。

 売血制度は多くの怪事件を引き起こしている。昭和2712月、仙台市北署は窃盗容疑で中高生9人を逮捕。貧血症状が強く顔色が悪いため中高生を追及すると、中高生たちは週に3回自分たちの血液を売り、交遊や飲食に当てていた。少年たちは窃盗罪で送検されたが、青少年の健康状態を無視したまま採血する業者の存在が明るみになった。売血が犯罪に結び付く事件も起きている。金を持たない学生が恐喝され、血液銀行に連れて行かれ、血液を採られる事件が福岡を始めとして各地で起きている。

 昭和39年3月24日、米国大使ライシャワーが精神障害の少年に右大腿を刺され、その際の輸血から血清肝炎になり、売血制度は一気に社会問題になった。いわゆる売血による「黄色い血(輸血後肝炎)問題」である。ライシャワー事件から2カ月後の5月18日に、輸血に用いられる血液の97%が売血によることが新聞社の調査で判明、売血制度そのものが問われることになった。

 昭和39年6月、読売新聞・本田記者が労務者になりすまし、どや街に侵入して売血の実態を「黄色い血の恐怖」という題名で新聞に連載した。その中で血液銀行が暴力団がらみであること、特定のアパートや置き屋に売血者を住ませている業者がいることを指摘した。

 「黄色い血」とは売血常習者が何度も血液を売るため、血球成分が少なく血漿部分が多くなり、血液が黄色く見えることから名づけられた。また「黄色い血」という言葉は輸血後肝炎による黄疸のイメージと結びつくことから多用された。

 大学生を中心とした売血追放運動が各地で起こり、昭和39年8月、政府はそれまでの「売血」から「献血」へと転換することを閣議決定。全国的な献血組織が整備され、赤十字血液センターが各地に開設され、移動採血車の普及などの推進がなされた。

 それまで採血車は全国に3台しかなかったが、一気に27台に増やし全国に配置された。日本赤十字社の各病院も全面協力し、昭和39年の献血者は約1万5000人であったが、翌40年には20万人を超えるまでになった。

 各都道府県に赤十字血液センターが設置され、昭和44年に献血率は80%となり、昭和48年にはすべてが献血となった。これでようやく先進国並みの状態となり、以後現在に至るまで、輸血のすべては日本赤十字社が扱うことになっている。

 輸血の歴史を簡単に説明すると、オーストリアの医師ランドシュタイナーが人間どうしの血液を混ぜ合わせると血球が凝集することを見出し、1900年(明治33)にこの現象は人間の血液型ABOによることを発見した。この血液型の発見が輸血の歴史の始まりである。1914年、血液は採血するとすぐに凝固するが、抗凝固剤(クエン酸ナトリウム)を混入すると凝血しないことが分かり、血液保存が可能になった。

 日本で初めて輸血が行われたのは大正8年であった。昭和5年に、浜口雄幸首相が東京駅で暴漢にピストルで撃たれる事件が起き、この時、東大の塩田広重教授らが東京駅に駆けつけ、駅長室で輸血を行って浜口首相を助けたことが大きな話題となった。このころから医療の進歩に伴い輸血が一般的に行われるようになった。

 当時の輸血は病院で血液を採取し、そのまま輸血する方法がとられていた。患者の寝ているベッドの隣に血液の提供者を寝かせ、注射器で採血してすぐに輸血する方法である。このことから「まくら元輸血」といわれていた。いわゆる新鮮血輸血であった。

 輸血が行われて以来、わが国における輸血の歴史はまさに輸血後肝炎との戦いの歴史であった。昭和36年に献血制度が導入されるまでは、輸血を受けた者の半数以上が肝炎に感染したとされている。

 昭和44年に完全献血が実施されると、輸血後肝炎は16.2%に低下し、昭和61年には8.7%に低下した。平成元年にC型肝炎ウイルスの検査が行われるようになり、平成4年には輸血後肝炎は0.48%にまで低下した。それでもまだ輸血後肝炎が完全に撲滅できないのは、感染を受けてから抗体ができるまでのウインドウ期(感染しているが検査は陰性の時期)があるためである。現在では、ウイルスを核酸増幅させる検査によってさらに安全性が高められている。

 現在、献血対象者は年齢が16歳から64歳で、体重は男性が45キロ以上、女性は40キロ以上の者で、そのほか血圧、血液比重、既往症、服薬などの条件が設けられている。また献血者の安全と血液の品質が配慮され、献血者には血液型、肝機能、コレステロール、総タンパクなど7種類の生化学的検査の結果が知らされ、健康管理の役割を合わせ持つようになっている。

 輸血による感染防止対策として、従来からの梅毒検査、B型肝炎(HBs抗原)検査に加え、昭和61年からエイズ検査、成人T細胞白血病、平成元年からC型肝炎のスクリーニングが行われている。平成6年からは、輸血による重篤な合併症である移植片対宿主病(GVHD)を予防するため、輸血される血液には放射線照射が行われるようになった。また最近では、他人の血液を輸血せずに、自分の血液を輸血する自己血輸血という方法も行われるようになった。自己血輸血は手術が予定されている場合に、あらかじめ自分の血液を採血し、備蓄しておく方法である。

 昭和60年、献血者は年間約870万人に達し、献血率は7.3%で、スイス、フィンランドに次いで世界第3位になった。しかし血液のなかの血漿成分からつくる血漿分画製剤(アルブミン製剤、免疫グロブリン製剤、血液凝固因子製剤)の自給率は低く、WHO(世界保健機関)から「自国で必要とする血液は自国で確保すべし」と勧告を受けることになった。

 そのため昭和61年から献血量を1回200cc400ccの2本立てにしたが、皮肉なことに61年以降、献血者は減り続け、平成12年の献血者は588万人となっている。献血については日本赤十字社の血液センターに電話をすれば詳しい説明を受けることができる。

【東大梅毒事件】

 昭和231122日、東京大学付属病院で子宮筋腫の手術のために輸血を受けた婦人Aが、輸血によって梅毒をうつされたと東大総長を告訴した。婦人Aは同年2月5日、東大付属病院に入院して手術の前後に計4回の輸血を受けた。

 当時の輸血は、売血を職業とする者から血液を買い上げるシステムであった。売血を希望する職業的売血者が輸血を必要とする患者の病院に出向き、採血する方法(枕元輸血)であった。

 輸血によって梅毒をうつした男性Bは、血液斡旋所が発行した2月12日付のワッセルマン陰性の梅毒陰性証明書を持っていた。医師は「身体は大丈夫か」と簡単な問診をおこない、2月27日、男性Bの血液を婦人Aに輸血をした。ところが男性Bは、2月25日頃に売春婦と性交渉を持ち、梅毒をうつされていたのである。

 梅毒は感染から梅毒反応が陽性になるまでに2週間を要した。証明書発行後に性交渉を持つようなケースでは、梅毒陰性の証明書は何の意味もなさなかった。婦人Aは、売血者Bへの医師の問診が不十分だったとして訴えたのである。婦人Aは梅毒に感染したため、20年間続いた夫との家庭生活が維持できなくなり離婚することになった。そのために損害賠償を東大総長に求めたのだった。

 裁判では、医師が男性Bから採血する際の問診に過失があったかどうかが争点になり、最高裁で結審するまで13年間にわたり争われることになる。医師側は、「売春婦と交渉を持ったか」などと露骨な質問をしないのが慣例であること、職業的供血者に「女と遊んだことはないか」と質問しても、正確な答えが返ってこないと反論した。公判で売血者Bは「売春婦の性的交渉については、尋ねられなかったので言わなかった」と答えている。

 最高裁は梅毒の可能性を問診しなかった医師の過失を認める判決を下し、病院の敗訴となった。裁判長は「いやしくも人の生命、および健康を管理すべき業務に従事する者は、その業務の性質にてらし、危険防止のため最善の注意義務が要求される。相当の問診をしていれば、結果の発生を予見し得た」と判決理由を述べた。

 この判決は医師側にとって厳しいものであった。医療上の慣例であっても、法律がそれを許さないのであった。このようなケースは非常にまれではあるが、では医師はどうすればよかったのか。

 医師が男性Bから採血した時期は、ワッセルマン反応を調べたとしてもまだ抗体は作られず、梅毒反応は陰性の時期であった。また十分な診察を行ったとしても、梅毒の潜伏期なので症状はでていない。やはり「女と遊んだことはないか」と尋ねるべきであった。供血者が「遊んでない」と答えていれば、責任は供血者になっていたからである。

 現在の輸血は、日本赤十字社が血液業務を一括して行い、梅毒、肝炎、エイズなどの検査で安全が確認された血液だけが用いられる。しかし抗体検査によるチェックだけでは、確率は極めて低いものの輸血で絶対に感染しないという保証はない。

 しかしこの東大梅毒事件判決をきっかけに、輸血は枕元輸血ではなく保存血が主流になった。梅毒は3日で死滅するため、保存血輸血で梅毒は感染しないからであった。

 

 

 

人間ドック 昭和29年(1954年)

 医療の目的は病気を治すことであるが、人間ドックの目的は病気を早期に見出し、軽症のうちに対策を講じ、重症化する前に病気を予防して治療することである。そのため人間ドックを受けるのは自覚症状のない者がほとんどである。人間ドックの名称は、船舶が定期的に船体をチェックする「船舶ドック」から転用したもので、人間も船舶と同じように「自覚症状をきたす前に病気をチェックする」という考えに基づいている。

 昭和29年7月12日に、国立東京第一病院(現、国立国際医療センター)院長・坂口康蔵の発案により人間ドックが始められた。人間ドック利用者の第1号は代議士の首藤新八夫妻で、身長、体重、血圧測定、尿、血液が調べられ、医師の総合的診断と指導が行われた。期間は5泊6日で料金は1万2000円、当時としては高額であった。

 このように人間ドックは社会的に地位のある者が、安心して仕事を行えるように体調を整える目的から始まった。戦後の混乱が落ち着き、生活にゆとりができ、国民の関心が自分の健康に向いてきたのである。ペニシリンにより感染症の脅威が薄らぎ、心筋梗塞、脳卒中、糖尿病、高脂血症、がんなどの予防可能な成人病が注目されるようになった。医学の進歩とともに、疾患への関心も予防医学へと変化したのだった。

 それまでの検査は医師が顕微鏡をのぞき、試験管を振って結果を出していたが、検査の自動化と簡素化が人間ドックの普及に貢献した。検査の進歩とともに人間ドックの入院期間は短くなり、値段も安くなり、全国の病院に普及していった。人間ドックの費用は自己負担であるが、病気の早期発見、早期治療になることが宣伝されて普及することになる。

 また人間ドックは自由診療なので、自由に値段を設定することができた。病気を発見すれば、その患者を病院で囲い込むことができ、高額な医療機器をフル回転させ、医療機器を効率よく利用することができた。このように人間ドックの普及は、病院経営上の動機もあった。

 多くの人たちが人間ドックに期待するのは当然であるが、実際にはそう単純ではないことが昭和60年ころから言われている。人間ドックの早期発見、早期治療のメリットが疑問視されるようになったのである。つまり「人間ドックを受けて健康に留意している人たちが、健康で長生きをしている」との科学的証拠がなかったからである。また人間ドックを受診した3人に1人が異常と診断され、人間ドックが健康な患者を増やしているとされた。

 人間ドックの効果は「費用に見合うだけの医療効果」があるかどうかである。この費用対効果が議論され、特にがん検診が疑問視されるようになった。アメリカで肺がん検診の有効性について大規模な追跡調査が行われ、肺がん検診の受診者と非受診者を比較すると、肺がんの死亡率に差がないことが報告されたのである。

 肺がん検診が無効となったのは、肺がんと早期に診断されたても、肺がんの治療成績が悪いためであった。また乳がん検診でも、検診で見つかった患者と、病院の外来で見つかった患者の10年生存率を比較すると、両者ともに生存率は約80%で検診の有効性はないとされたのである。

 人間ドックや検診で病気を早期に発見しても、死亡するまでの時間が同じならば、早期診断患者は病気で悩み、闘病生活が長くなるだけである。早期発見が早期治療に結びつき、早期治療が患者に利点をもたらさなければ意味がないのである。検診の効果を否定するアメリカの報告から、日本でもがん検診の有効性が再検討することになった。

 平成6年4月21日、厚生省は「がん検診の有効性に関する情報提供のための手引き」を発表。この手引きを個別に見ると、胃がん、子宮頚がん、大腸がんは有効としているが、子宮体がん、肺がん、乳がんは有効性を示す根拠は十分でないとしている。

 それまで厚生省は「がん検診」を推奨し、年間2200万人が受診して約600億円の公費を投入してきたが、平成10年、厚生省は「市町村に義務付けていたがん検診の補助金」を打ち切る決定を下した。では人間ドックはどの程度有効なのか興味があるが、この疑問に答えるのは難しいことである。現在、人間ドックの検査項目は膨大で、各検査が受診者にどれだけ有効なのか不明の部分が多いのである。

 例えば、新しい医療機器であるMRIによる脳ドックが流行しているが、脳ドックについてもその有効性に疑問が投げかけられている。MRIを脳梗塞の予防に役立てようとしても、どのように予防するのか。さらに「くも膜下出血の原因として脳の動脈瘤の発見のため」とされても、MRIで動脈瘤を発見されても、手術を受けずに余命を全うする者もいれば、予防的手術を受けて死亡する患者もいるわけで、その有効性についてまだ明確ではなく、また病院間に技術の差があることも問題になっている。

 現在、検診や人間ドックで確実にメリットがあるのは、胃がん、大腸がん、子宮がん、糖尿病の診断のための血糖値の測定、血圧ぐらいである。人間ドックは検診とは違い、検査項目を選択することができ、肺がんのヘリカルCT検査、胃がんの内視鏡検査は有効である。

 病院経営からすれば、人間ドックは医療機械をフル回転させ、投資した資金を回収するうえで利点は大きい。このような病院の事情があるため、人間ドックの利点が過剰に宣伝されがちであるが、「受診する者の期待と人間ドックがもたらす利点」に大きな隔たりがある。

 「肺がん検診は、結核の減少で仕事の減った医師を救済するため」などとかつて悪口が陰で言われていた。今後、人間ドックや検診の科学的有効性を証明することが大きな課題になるが、いずれにしても年間300万人近い健康人が検査を受けているのが現状である。

 ところで人間ドックや検診により寿命が延びたとする報告はないが、その逆の報告がある。それはフィンランド症候群、あるいはフィンランド・パラドックスといわれる報告である。この研究はフィンランドの保険局が行ったもので、40歳から45歳の管理職1200人を2つのグループに分け、1つのグループ600人には定期検診、栄養学的チェック、運動、禁煙、禁酒、塩分制限などの健康管理を厳格に実施。もう1つの600人グループには目的を説明せずに健康調査のみを行い放置した。この調査開始から15年後、予想とは全く逆の結果となった。健康管理をしなかった放置群のほうが心臓血管系の病気、高血圧、がんの発症、死亡率、自殺率、これらすべてが管理群より少なかったのである。

 このことは何を意味しているのか。健康を求めることがストレスとなり、健康に無頓着な人間のほうが長生きすることを示唆している。人間の健康を管理しようとすると、その逆の現象が起きる。これが健康管理のパラドックスである。健康管理がストレスを生み、そのストレスが健康に悪影響を及ぼすと推測されている。

 健康のためには厳格な健康管理が良いとする思い込みがあるが、フランス人はヨーロッパ人の中で飲酒もたばこの本数も多いが、ヨーロッパ人の中では長生きの方である。またモルモン教徒はキリスト教徒の中で最も厳格な生活を行い、禁酒、禁煙は当たり前であるが、モルモン教徒の平均寿命が一般人より有意に長いというデータはない。

 国民が健康を願うのは当たり前であるが、「健康ばかりを気にする不健康な人間」が増えることになる。健康はまじめに考えず、ある程度いい加減な部分がないと、健康不安病が増えるのである。「テレビの健康番組が健康狂騒曲を奏でる」ように、健康を求めることが悪い結果をもたらす可能性がある。

 かつて短命国だった日本は、健康を気にかけないまま世界一の長寿国となった。真に健康的な生活を目指すならば、酒、たばこに重税を課し、体重にも重加算税を設けるのがよいと思われる。

 

 

 

第五福竜丸事件 昭和29年(1954年)

 静岡県焼津港を母港とするマグロ延縄漁船「第五福竜丸」(156トン)が、マーシャル諸島のビキニ環礁北西168キロの海上でアメリカの水爆実験に遭遇し、筒井久吉船長以下23人の船員が放射能を含む「死の灰」を浴びた。

 昭和29年3月1日、午前4時12分のことである。夜明け前の南太平洋の星空の下で延縄作業をしていた第五福竜丸の船員たちは不思議な光景を目にした。突然、南西の水平線から巨大な閃光が上空に向けて一斉に昇ったのだった。火の玉は暗闇の海を真昼のように明るく照らし出し、「太陽が西から上がった」と第五福竜丸の船員はあっけにとられた。

 閃光から6〜7分後、ドーンという爆発音が周囲にとどろき、爆風によって船体は激しく揺れた。やがて暗黒のキノコ雲が空全体を暗く覆い、閃光から約3時間後には白い灰が第五福竜丸の甲板に降り注いだ。

 白い灰は、水爆実験で破壊されたビキニ環礁の珊瑚(さんご)が上空に舞い上がったもので、粉々になった珊瑚には大量の放射性物質が含まれていた。第五福竜丸はビキニ環礁から168キロ離れていたが、甲板には足跡が残るほど灰が降り積もった。

 船員たちはこれが水爆による「死の灰」とは知らなかった。頭上から灰を浴び、船員の中には灰をなめてみる者もいた。得体の知れない白い灰に不安を抱き、この海域から逃げ出そうと延縄を引き上げようとしたが、数キロにも及ぶ延縄を引き上げ終えたのは、午前10時半をすぎていた。

 引き上げ作業の間、船員たちはこの奇妙な現象が原爆実験によるとの疑念を抱き始めていた。アメリカが設定した「立ち入り禁止区域で原爆実験が行われている」とうわさがあったからである。第五福竜丸はその危険区域のはるか遠くで操業していたが、核実験の可能性は否定できなかった。

 無線長の久保山愛吉はこの奇怪な事件を沼津母港に報告せず、帰港の無線も入れなかった。もし無線がアメリカに傍受されたら、第五福竜丸が米軍によって沈められることを危惧したからである。放射線の恐ろしさよりも、アメリカの軍事秘密を知ってしまったことへの恐怖感が大きかった。第五福竜丸はひたすら焼津を目指し、全速力で帰路を急いだ。

 被爆から数時間が経つと、頭痛、嘔吐、めまい、食欲不振を訴える船員が出始めた。翌日には激しい下痢と倦怠感が全員を襲った。3日目になると、灰に触れた皮膚が赤くただれ、10日目ぐらいから水疱を形成し、頭髪に触れると髪がごっそりと抜けた。これは急性放射線障害の症状であった。

 第五福竜丸はアメリカが設定していた立ち入り禁止区域のはるか遠くで操業していた。しかし水爆の威力が、アメリカ軍の予想をはるかに上回っていた。ビキニ環礁の地上46メートルで炸裂した水素爆弾「ブラボー」は、広島型原爆の750から1150倍の威力を持っていた。

 第五福竜丸は、被爆から2週間後の3月14日の早朝、焼津に帰港した。彼らを出迎えた家族たちが見たのは、異様に日焼けした船員の顔であった。船員たちは黒く汚れた顔を隠すようにマグロの水揚げをすませると、焼津協立病院(現焼津市立総合病院)で診察を受けることになった。

 その日はちょうど日曜であったが、診察にあたった大井俊亮外科部長は、船員たちの鼻や耳、手などの露出部の水疱を見て、また脱毛、結膜炎などから原爆症を疑った。もちろん大井外科部長にとって原爆症は専門外なので、体調の悪い2人を翌日東大病院へ移すことにした。さらに保健所に連絡し、放射線測定器で第五福竜丸を調べてほしいと願い出た。

 静岡県から依頼された塩川孝信・静岡大学教授は調査のために焼津に向かった。塩川教授が福竜丸に近づくにつれ、手にしたガイガー・カウンター(放射線測定器)が次第にカン高く鳴り出し、その音に塩川教授は緊張の度を深めていった。

 船内に入ると、カウンターの針は毎時110ミリレントゲンの数値を示した。人体への放射線の許容量は24時間で2ミリレントゲンだったので、船内の放射能は殺人的な数値だった。船員にガイガー・カウンターを当てると、カウンターは激しく反応し船員たちは「急性放射能症」と診断された。

 第五福竜丸が焼津に帰港した翌日の3月15日、読売新聞静岡支局の安部光恭(みつやす)記者は殺人事件の取材で島田警察署に詰めていた。安部記者は下宿からの電話で、第五福竜丸の事件を知った。

「第五福竜丸がピカドンにやられたらしい。みんなヤケドを負っている」。下宿からの知らせに安部は驚き、他の記者たちに気づかれないように警察署を飛び出し、急きょ船員の自宅へ向かった。しかし船員の家族はスパイと誤解されることを恐れ、安部記者の取材に口を閉ざした。安部記者は被爆の事実を確かめるため、焼津協立病院を取材し被爆を確信した。翌3月16日、読売新聞全国版の社会面トップ記事として、第五福竜丸事件がスクープ報道されることになった。

 「邦人漁夫、ビキニ原爆実験に遭遇、23人が原子病、1人は東大で重症と診断」。昭和29年3月16日、読売新聞のこの大スクープに国民は目を奪われ、日本中に衝撃が走った。記事に書かれた原爆の文字に日本中がパニックに陥った。国内だけでなく、第五福竜丸事件は国際問題へと発展していった。

 翌17日、第五福竜丸の被爆はアメリカの水爆実験による可能性が高いことが報じられた。アメリカはビキニ環礁で原爆実験を繰り返していたが、今回の実験は原爆ではなくその数百倍の威力をもつ水爆であったことが次第に明らかになった。

 日本は広島・長崎の被爆から9年後に、再び核兵器による被爆を受けた。原爆の洗礼を受けた日本が、また水爆によって世界で初めての犠牲者を出したのである。水爆の爆発力は科学者の予想をはるかに超え、放射雲は32キロの高さまで噴き上げ、粉々となった珊瑚は空気の希薄な成層圏まで広がり、立ち入り禁止区域のはるか外にまで死の灰を降らせた。

 アメリカの対応は威圧的であった。アメリカは「第五福竜丸がスパイ行為を働いていた」と主張し、「日本側の被害は誇張によるもの」と繰り返した。さらに第五福竜丸がアメリカの設定した危険水域で操業していたと責任を転嫁した。

 アメリカにとって自国の間違いを認めるわけにはいかない。アイゼンハワー大統領は「侵犯されれば、即時大規模な報復措置をとる」と威圧的な会見を行い、3月26日には再度水爆実験を行い、日本政府の補償請求を相手にしなかった。

 中泉正徳・東大医学部教授は、第五福竜丸の乗員の治療方針を立てるため、核分裂の種類と半減期を公表するように米軍関係者に迫った。米軍はいったんは公表を約束したが、結局その約束は守られなかった。元気だった乗員は次第に肝障害を起こし、3月28日、第五福竜丸の重症者7人が東大病院へ、残り16人が東京第1病院に入院することになった。

 東大病院医師・三好和夫が乗員23人の治療方針を決めることになり、被爆による骨髄抑制には抗生剤と輸血で対応することになった。船員のほとんどが白血球の低下と骨髄障害を起こしていた。

 アメリカの医療調査団が来日したが、日本医療団はアメリカの協力を拒否することにした。アメリカの医療調査団は患者のデータに興味を持つだけで、治療に非協力的であったからである。また放射能医学については、日本の方がアメリカよりも上との自信があった。さらに被曝患者をスパイ扱いにしたアメリカへの日本の悪感情があった。外務省はアメリカの医療調査団に協力を要請したが、日本の医師団はかたくなに拒否した。

 昭和29年9月23日、午後6時56分、重症だった無線長・久保山愛吉さんが肝不全から意識混濁をきたし、東京第1病院で亡くなった。久保山さんは「おれのような苦しみは、おれひとりでたくさんだ」の言葉を残し、40歳の若さで他界した。

 世界的な注目の中で遺体解剖が行われた。7時間に及ぶ解剖の結果、皮下には無数の火傷跡が認められ、肝障害を裏付けるように肝臓から放射能が検出された。病名は栗山副院長により「放射能症」と発表された。

 国民的な悲しみの中で、久保山さんの死は遺族のみならず全国民に大きな衝撃と怒りをもたらした。湯川秀樹博士は、「ひとりの犠牲が、原爆・水爆を製造している大きな国々の人たちに、人間らしい気持ちを蘇(よみがえ)らせるだろう」と語った。それまで静観していた米大使館も「遺族に深い同情を寄せている」と声明を出し、久保山さんの未亡人に香典として100万円を送った。

 翌30年5月20日、第五福竜丸船員22人が1年2カ月ぶりに退院、帰郷することになった。このような恐ろしい事態になるとは、船員の誰も想像しなかったことであった。

 第五福竜丸が積んでいたマグロはすでに東京・築地に出荷されていたが、焼津港からの連絡でマグロは隔離された。東京都衛生局の職員がマグロにガイガー・カウンターを近づけると激しい反応を示した。マグロから強い放射能が検出され、原爆マグロはすべて市場の隅に深さ3メートルの穴を掘り、地中深く埋められることになった。

 この死の灰による被害は、第五福竜丸ばかりではなかった。三崎港のマグロ船「第13栄光丸」、石巻港の「第五明神丸」も同様に被爆して、放射線に汚染された大量のマグロは赤ペンキを塗られ房総半島沖に破棄された。その後の調査で、原爆マグロを持ち込んだ漁船は855隻に達し、破棄されたマグロは500トンに及んだ。そのため全国各地でマグロの値段が暴落し、マグロの値段は半値以下になった。マグロは売れ残り、魚全体の売り上げも極度に低下し、漁業関係者は大きな打撃を受けた。

 マグロ漁業協同組合は国会議員にマグロを試食させ、マグロの安全性を宣伝したが効果はまるでなかった。国民が受けた不安は大きく、魚を食べて具合が悪くなったと病院を受診する者が相次いだ。

 第五福竜丸の被爆をきっかけに、雨、水道水、農作物などが調べられ、それらが放射能に汚染されていることが報道された。米ソの核実験によって大気汚染、海洋汚染は地球全体に広がっていた。

 伊豆大島の天然飲料水から95カント、静岡の緑茶から75カント、東京都のキュウリから84カントの放射能が検出され、農作物の放射能汚染が深刻となった。厚生省は「野菜はよく洗って食べるように」と指示を出した。

 このため国民の「死の灰」への恐怖は増大し、目に見えない放射能におびえ、それでいてなすすべがなかった。外出は控えられ、放射能不安が日本を覆った。子供たちは、放射能の雨に当たるとハゲるとうわさしたが、放射能不安はハゲるどころではなかった。

 ビキニの水爆実験に続いて、昭和30年1月にはソ連の水爆実験も始まり、放射能に汚染された放射能雪が裏日本一帯に降り注いだ。雪片は水滴より大きいため放射能が付着しやすく、雨に比べ汚染度が数倍高かった。

 久保山愛吉さんの死、被爆マグロ、放射能雨、放射能雪などにより国民の核実験への恐怖は増大していった。このような流れの中で、全国的な核実験禁止運動が高まることになる。さまざまな団体が超党派的に結集し、全国規模で原水爆禁止運動が始まった。この原水爆禁止運動で注目されたのが原水爆禁止の署名運動であった。

 

【原水爆禁止運動】

 水爆実験で第五福竜丸乗組員が被爆したことは、原爆の唯一の被爆国である日本国民に大きなショックを与えた。国民はマグロ、飲料水、野菜などの放射能汚染におびえ、雨季に入ると学齢児童をもつ母親を不安にさせた。

 これを機に原水爆禁止要求は激しく盛り上がり、全国民的運動となった。特に婦人の活動は目覚ましいものがあった。

 昭和29年4月、東京・梅ガ丘主婦会は署名運動を行い、埼玉婦人大会では原水爆禁止決議がなされた。杉並区の主婦らは、読書サークル「杉の子会」などによる杉並区婦人団体協議会を結成。公民館長の安井郁を中心に原水爆禁止署名運動を行った。主婦たちが呼びかけた「杉並アピール」が全国に広がり、原水爆禁止の署名運動が全国規模で行われた。

 「杉並アピール」は、<1>原水爆禁止のために全国民が署名しましょう<2>世界各国の政府と国民に訴えましょう<3>人類の生命と幸福を守りましょう。この3つのスローガンを掲げ、「全日本国民の署名運動で、原水爆禁止を真剣に訴えれば、私たちの声は全世界の人々の良心をゆりうごかし、人類の生命と幸福を守る方向へ一歩を進めることができると信じます」との言葉で結ばれていた。

 この杉並アピールは人々の心を深くとらえ、署名者数は50日間で27万人に達し、12月には2000万人、最終的には3300万人に及んだ。署名運動は日本から世界へと広がり、世界各国での署名は1億6000万人を超えた。

 世界的に水爆反対の声が高まり、赤十字社連盟理事会、ユネスコ執行委員会など数々の団体が核実験反対の決議を行った。原爆が投下されてから10年後の昭和30年8月に平和記念式典とともに第1回原水爆禁止世界大会が広島で開催された。「原爆を許すまじ」の歌は、このころから広まっていった。

 原水爆禁世界大会は、それ以降、被爆地の広島と長崎、東京で毎年開催された。しかし第9回大会からは運営の基本方針をめぐり社会党・総評系と共産党が対立し大会は分裂した。社会党・総評系が昭和40年に結成した「原水爆禁止日本国民会議」(原水禁)と共産党系の「原水爆禁止日本協議会」(日本原水協)、これに民社党・同盟系がつくった「核兵器禁止平和国民会議」(核禁会議)が加わり、原水爆禁運動はこの3団体によって統一と分離を繰り返えし、原水爆禁止運動は政治の垢(あか)に染まっていくことになる。

 

【その後の第五福竜丸】

 被爆から2年後の昭和31年、「第五福竜丸」は東京水産大学の練習船「はやぶさ丸」として生まれ変わり、昭和40年まで学生の練習船として大海を走っていた。

 しかし第五福竜丸は老朽化により故障が頻繁になり、利用できる部品はすべて抜き取られ、ディーゼルエンジンは木造貨物船「第三千代川丸」に搭載された。第五福竜丸は東京・夢の島に廃船として遺棄され、ゴミにまみれながら朽ち果てるところであった。この第五福竜丸を救ったのは、1人の青年が朝日新聞「声」欄へ投書したことがきっかけであった。「沈めてよいか、第五福竜丸」、「原爆ドームを守った私たちの力でこの船を守ろう」。この言葉が新聞の投書欄に載ると大きな反響を呼び、保存運動が始まった。

 一方、第五福竜丸のエンジンを積んだ「第三千代川丸」は、昭和43年7月21日に横浜港から潤滑油のドラム缶717本を満載して神戸へ向かう途中、濃霧のため三重県御浜町沖で坐礁沈没した。「第五福竜丸と離れてしまったエンジンを引き上げたい」、この市民の熱意が盛り上がり、御浜町沖に沈んだままのエンジンは引き上げられ、第五福竜丸はエンジンと再会することになった。

 昭和51年、市民の粘り強い保存運動によってビキニ水爆実験被害の「証人」として、第五福竜丸は東京・夢の島で余生を過ごすことになった。第五福竜丸は現在、夢の島公園の「都立・第五福竜丸展示館」に展示され、ビキニ環礁の悲劇を無言のまま語り続けている。

 

 

  

被爆周辺事件 昭和29年(1954年)

【ゴジラ】

 水爆実験への国民的な怒りと恐怖が日本を覆う中、東宝映画「ゴジラ」(本多猪四郎監督)が昭和2911月3日の「文化の日」に封切られた。この異色の映画は、水爆実験とは直接関係はないが、第五福竜丸事件にヒントを得て製作された。ゴジラは単なる怪獣映画ではなく、水爆実験に反対する強いメッセージが含まれていた。ゴジラの名前は、ゴリラとクジラを組み合わせたものである。

 映画は、アメリカの水爆実験によって原始恐竜が太古以来の眠りから目を覚まし、東京を襲う設定であった。ゴジラは口から放射能を噴出し、国会議事堂を踏みつぶし、放射能を含んだ火炎で東京を破壊した。ケロイド状のゴジラの皮膚は水爆実験への恐怖と抗議の気持ちが含まれていた。

 ゴジラが去った東京の風景は、まさに原爆で破壊された広島、長崎のようであった。この映画のラストシーンで、「もし水爆実験が続いて行われたら、ゴジラの同類が世界のどこかに現れるかもしれません」と述べられている。このことから反原水爆映画であることが分かる。

 当時は日本の映画界が最も繁栄していた時期である。巨匠といわれる監督の作品が次々に発表され、黒沢明監督の「七人の侍」、木下恵介監督の「二十四の瞳」が、同じ昭和29年に封切られている。その前年には、衣笠貞之助監督の「地獄門」がカンヌ国際映画祭でグランプリ、ベネチア国際映画祭では溝口健二監督の「山椒大夫」が銀賞を受賞している。その中で「ゴジラ」は観客動員数961万人で、動員数では邦画での最高記録を達成している。

 ゴジラは特殊プラスチックの縫いぐるみで、縫いぐるみの中に人が入って操作していた。この特撮撮影を担当していた円谷英二はゴジラによって名声を高め、ゴジラはシリーズものとなった。モスラやラドンなどの対戦相手が次々と現れ、観客を楽しませた。最終的に20作以上の「ゴジラもの」がつくられ、多くの怪獣映画ファンを生んだ。円谷は独立し、ウルトラマンなどのヒット作品を生みだした。

 

【ロンゲラップ島の悲劇】

 原水爆禁止運動のきっかけとなった「第五福竜丸」は世界的によく知られているが、水爆はミクロネシアの住民にも甚大な被害をもたらしていた。このことは長い間秘密にされていたが、忘れてはいけない事実である。

 昭和29年3月1日、ビキニ環礁で水爆実験が行われ、広島型原爆の7501150倍もの水爆の威力がミクロネシアの住民を襲った。ビキニ環礁から190キロ離れたロンゲラップ島とウトリック島に、6時間にわたり死の灰が降り注いだ。子供たちは初めてみる雪のような白い粉をかけあって遊んでいたが、やがて激しい嘔吐、皮膚の炎症、脱毛などの急性放射能障害が島民を襲った。そのため島の住民243人、米兵観測隊員28人が甲状腺疾患などの放射能障害で苦しむことになる。島民18人が甲状腺がんで死亡したことが後に公表されている。

 ロンゲラップ島の住民たちは被爆の事実を一切知らされず、アメリカは40年間にわたり住民の健康を追跡調査するだけで、住民の健康被害を研究対象にしていたのである。このアメリカの行為は人体実験に等しいことで、少数民族への人権抑圧として厳しく批判されることになった。

 昭和60年になって、ロンゲラップの島の住民は汚染された故郷を捨て、200キロ離れたクエゼリン環礁メジャト島に移住することになった。しかし、新しい島に移住しても、奇形児の誕生など島民の不安は尽きることはなかった。島の住民全員が、原水爆実験のモルモットにされたのである。

 

【C型肝炎】

 第五福竜丸の無線長、久保山愛吉さんが被爆から半年後に死亡。残りの乗組員は放射能障害から回復して1年2か月後に退院した。だが大量の輸血を受けた乗務員は放射能障害に加え、輸血による肝障害に苦しめられることになる。輸血の際に混入したC型肝炎ウイルスが乗組員の肝臓に潜伏し、30年を経過したころから肝硬変、肝がんという致命的なダメージを与えたのである。

 その後、死亡した乗組員は、久保山さんを除いた10人で、肝硬変、肝がんを発症しての死亡だった。残る12人のうち半数以上が肝機能障害を抱え、肝がんの恐怖と対峙(たいじ)している。乗組員のなかで肝機能が正常だったのは1人だけであった。

 

【ビキニの水着】

 ビキニ環礁の水爆実験の衝撃が世界中を駆けめぐるなか、フランス人のルイ・レアールが「ビキニの水爆のように衝撃的な水着」を考案した。ビキニはパンツやブラジャーに似た水着で、肌の露出があまりに派手だったので当初はほとんど着用されていなかった。昭和35年に「ビキニスタイルのお嬢さん」の曲がビルボードで1位になり、ビキニはしだいに普及、昭和42年になって日本でも流行し、多くの女性がビキニに飛びつき、男性の目を楽しませてくれた。日本の一般の女性が着用するようになったのは、ミニスカートの流行と重なったころで、アグネス・ラムのポスターが決定打となった。昭和55年頃になると体型を気にせずに着られるワンピース型が再び主流になったが、最近では若い女性を中心に復活をみせている。ところでビキニに限らず、ファッションはメーカーが作り上げ、それを時代が受け入れるかどうかによる。

 

 

  

昭和20年代小事件史

【生活保護法公布】昭和21年(1946年)

 昭和21年9月9日、生活困窮者の救済を目的とした生活保護法が公布された。この法律は憲法第25条に規定された理念に基づき、生活に困窮するすべての国民に対して国家が最低の生活を保障するもので、当時としては画期的な法律であった。

 生活保護法は、すべての国民が人種、信条、身分、性別、門地によって差別されないこと、健康で文化的な生活を維持することを目的にしていた。保護する金額は「自己の能力で充たすことのできない範囲」が原則で、扶養義務者による救済を優先させ、困窮者の資産や能力などを活用しても足りないときに適応された。

 生活保護法が公布されるまでは、生活困窮者への法律は、救護法、母子保護法、軍事扶助法、戦災保護法、医療保護法といった個々の法律によって構成されていた。これらが生活保護法に一本化され、国家が国民に対し生活の責任を持ち、差別のない平等な最低生活を保障することになっている。

 財源は国と地方自治体が負担し、補助金額は5人家族で250円とされた。飢えに苦しんでいた家族にとって生活保護法は大きな福音となった。昭和21年から57年まで、最低生活費は毎年、賃金や物価の上昇率を上回る率で改訂された。しかし昭和58年の中央社会福祉審議会で、「妥当な水準に達した」として、以後、一般消費の伸びを基に算定されるようになった。

 生活保護には、生活扶助、教育扶助、住宅扶助、医療扶助、出産扶助、生業扶助、および葬祭扶助の7つがあって、医療扶助は現物支給であるが、その他は現金支給である。また生活保護の担当は福祉事務所となった。

 この生活保護法をめぐって、裁判で争われた「朝日訴訟」について説明を加える。朝日訴訟とは昭和32年8月、「現在の生活保護法は、健康で文化的な最低限度の生活を定めた憲法25条に違反する」と朝日茂さんが国を相手に東京地裁に提訴した事件である。

 朝日茂さんは結核のため、岡山の結核療養所に十数年間入居し、無収入のため生活保護を受けていた。ところが昭和31年に、35年間音信のなかった実兄の所在がわかり、実兄から送金を受けることになり、そのため朝日さんの生活保護費が減額されることになった。

 朝日茂さんは「月600円では生活ができない」と訴え、裁判では生活保護法による支給金額が妥当かどうかが争点になり全国の注目を集めた。一審の東京地裁では朝日さんの訴えが認められたが、二審の東京高裁は「保護基準は低額であるが、憲法違反ではない」との判決を下した。裁判所は「最低限度の生活の判断は厚生大臣の裁量権」としたのだった。

 この裁判は「人間裁判」と呼ばれ、多くの支援者が朝日さんを支え上告したが、昭和39年2月14日、朝日茂さんが50歳で死亡。死亡直前に小林健二、君子夫妻が養子縁組を成立させ裁判を継続しようとしたが、裁判所は原告死亡のため審議終了として、10年にわたる裁判は結論を出さないまま幕を閉じることになった。

 

【命売ります】昭和23年(1948年)

 昭和23年2月21日、「5万円で命売ります」と書かれた広告が名古屋市内の松坂屋など18カ所に張り出された。この広告は22歳の青年が書いたもので、父親が病気になり、その医療費5万円を必要としたことによる。戦争により生命の価値が低下したとはいえ、この広告は多くの人たちの関心を呼んだ。

 最初の買い手は兵庫県の宝塚で現れたが、面接での折り合いがつかず、買い手は1000円の破綻金を出しで取り止めになった。その他にも命の買い手が何人か現れたが、値段の折り合いがつかず、商談はいずれも失敗に終わった。そうこうしているうちに、父親の病状が悪化して死亡したため、この売買は中止となった。青年は「命売りは止め」との声明文を張り出し、近くの工場で働くことになった。

 この青年をまねた「命売ります」の広告は新潟、東京など数カ所で張り出され、その中には「純日本人娘の方に命売ります」というものもあった。

 戦争は人間の生命を軽く扱い、第二次世界大戦では300万人の日本人が犠牲となり、戦争が終われば帰る家もなく、現金も貯金もなく、生活の保障もなかった。「命売ります」はこのような時代を象徴するような、決して笑えない事件であった。

 

【母子手帳】昭和23年(1948年)

 母子手帳は、妊娠した女性に地方自治体が交付する手帳である。昭和17年、妊婦の健康管理を目的に妊産婦手帳が発行され、昭和2212月の児童福祉法の制定により、翌23年に「妊産婦手帳は母子手帳」と改名された。また40年からは「母子手帳は母子健康手帳」と名称を変え、母親が手帳に子供の生活記録を記入できるようになった。

 母子手帳は妊娠中の母体と胎児、出産後の乳幼児の健康を管理することを目的として、手帳には医師、助産婦、保健婦による保健指導のほかに、妊娠経過や出産状況、満6歳までの子供の成長、予防接種の状況などが記入された。

 母子健康手帳は妊娠がわかった時点で、住んでいる市町村役場に妊娠届を出すと交付される。妊娠中の健康管理を含んでいるので、妊娠届はなるべく早く出すことが推奨され、母子健康手帳には赤ちゃんの出生から小学校就学までの成長過程、養育に必要な健康診査や予防接種を記録できるようになっている。母子健康手帳は母子の健康の記録とともに個人の健康管理の資料となった。

 

【性病予防法】昭和23年(1948年)

 進駐軍(GHQ)は日本を占領するにあたり、自国の兵士たちの健康を最も留意した。特に梅毒を中心とした性病については強い懸念を持っていた。そのため昭和2011月に花柳病予防法が公布された。

 花柳病予防法は医師が性病と診断した場合、売春婦だけでなく一般国民についても、医師が保健所に届け出ることを義務づけていた。戦後ペニシリンが急速に出回ったが、これは梅毒の早期治療のためのGHQの政策であった。

 GHQは警察の協力で「街の女」の検挙と強制治療を行った。乱暴な話であるが、路上に立っている女性は「街の女」の嫌疑をかけられ、証拠がないまま検挙された。検挙された女性の中には売春とは無関係の女性が多く含まれていたが、無関係であっても病院に連行され、強制的に検査が行われた。性病の診断は女性の性器を見て判断することから、間違えられて検挙された女性たちの屈辱感は大きかった。

 東京の池袋では、売春婦と誤認された労働組合の女性2人が、吉原病院で強制診察を強いられ、そのため女性組合員1000人が警視庁へ抗議のデモを行っている。この事件は国会でも取り上げられ、日労組婦人部、社共各婦人部、婦人民主クラブなど2000人の婦人が抗議集会を開いた。

 名古屋では強制検査を拒んだ若い銀行員が抗議ための自殺を図った。死亡した銀行員の司法解剖が行われ、銀行員は女性として純白であることが証明された。米兵を性病から守るため、このような仕打ちが一般女性に加えられた。同じような事件が頻発し、強制検査への批判が高まった。

 昭和23年7月15日、性病予防法が公布され、婚約者は結婚前に健康診断書を取り交わし、母親が妊娠した場合には血液検査をすることになった。性病予防法は性行為によって引き起こされる疾患が対象で、わが国では梅毒(syphilis)、淋病(gonorrhea)、軟性下疳(chancroid)、第四性病(鼠径リンパ肉芽腫症:lymphogranuloma venereum)の4疾患が性病に含まれた。欧米ではこれに鼡径部肉芽腫(granuloma inguinale)が含められている。平成11年に感染症新法が成立し、性病予防法は感染症新法に吸収され廃止されることになった。

 

【ジフテリア予防接種で死亡者続出】昭和23年(1948年)

 昭和2311月4日、京都市でジフテリアの予防接種を受けた幼児が、高熱などの症状を示し次々に入院した。患者数は935人、そのうち68人が死亡する壮絶な惨事となった。同月11日には島根県御津村でも248の幼児が発熱を訴え18人が死亡した。

 厚生省と京都市が調査した結果、ワクチンを製造した大阪日赤医薬学研究所が、ワクチンの製造過程でジフテリアの毒素を混入させていたことが判明した。ジフテリアの予防接種でジフテリアを引き起こしたのである。ジフテリア毒素は心臓、腎臓、神経系を障害するとされている。

 1130日、GHQは予防接種の停止を指示。厚生省はすべての予防接種を取りやめ、厳格な製造規則を設定し、同種の事故の根絶に乗り出すことになった。当時の予防接種は強制接種で、拒否した場合は親に3000円の罰金が科せられていた。この国家による強制接種が被害をより悲劇的なものにした。

 ジフテリアは、かつては咽頭ジフテリア、喉頭ジフテリア、鼻ジフテリアなどがあり、咽頭に偽膜を形成するため、息を吸うたびにゼーゼーと呼吸苦を訴え、窒息によって死亡し、あるいは心筋障害から死に至る恐ろしい疾患であった。現在では、破傷風、百日咳、ジフテリアの三種混合ワクチンによりジフテリアの発症はほとんどみられない。

 

【アドルム禍】昭和23年(1948年)

 昭和23年、「平和の眠り」というキャッチフレーズで、睡眠薬アドルムの宣伝が新聞に掲載された。アドルムは戦前から市販されていたが、戦後の急激な社会変化に順応できない人たちは、この宣伝によりアドルムに救いを求めた。アドルム、ヒロポン、カストリ、これらは戦後の退廃した世相を象徴する言葉だった。

 戦後の文壇で流行した無頼派作家の間で、アドルムを昼間から常用する者が多くいた。昭和24年8月7日、小説家坂口安吾がアドルム中毒で錯乱状態となり警察に保護されている。また同年11月3日には、「オリンポスの果実」の小説で有名になった田中秀光が太宰治の自殺に衝撃を受け、太宰治の墓前でアドルムを飲んで自殺している。

 このようにアドルムを飲んで自殺を図る者が続出し、特に問題になったのは、アドルムをかみくだきながら酒をあおる者がいたことである。また乙女心の感傷から女子高生の間でアドルムによる自殺が流行した。東京都江東区の高校では、アドルム自殺が連鎖反応のごとく流行し、「汚れた世の中がいやになった」、「肉体は滅びても魂は生きている」、…。このような遺書を残し、高校生たちが自殺を図った。当時の女子高生は死を賛美する傾向があり、アドルムをひそかに忍ばせておくことが女子高生の間で流行した。

 昭和35年1月23日、小説家火野葦平は「死にます。芥川龍之介とはちがふかも知れないが、或る漠然とした不安のために。すみません。おゆるし下さい。さようなら」の遺書を残して死んでいった。昭和48年、平和の眠りをもたらすはずだったアドルムは、批判の的となり発売中止になった。

 

【主婦連の結成】昭和23年(1948年)

 昭和23年9月15日、東京・原宿の社会事業会館で、「不良マッチ退治主婦大会」が行われた。現在では信じられないことであるが、当時のマッチは1日1人何本と決められた配給品で、それでいて配給されるマッチは火のつかない粗悪品ばかりだった。業者が優良マッチをヤミに流して儲けていたからである。

 「不良マッチ退治主婦大会」は不良マッチに怒った主婦たちが開いた大会で、会場には主婦たちが集めた不良マッチの箱が山のように積まれていた。この大会は昭和22年の参議院選挙で当選した奥むめおが主催し、主婦たちに現状を訴えた。

 会場の壇上には役人やマッチ業者が並び、主婦たちは火のつかないマッチの配給を鋭く追及。その結果、不良マッチを配給しないこと、マッチの配給制を解除することを役人に約束させた。主婦たちの団結により大会は大成功に終わり、この大会をきっかけに奥むめおを会長とする主婦連合会(主婦連)が結成された。

 主婦連の活動は身近な生活上の問題をとらえ、主婦の声を政治に反映させることであった。設立当時の活動として、配給物質の遅れ、物価高、ヤミ物資への抗議がなされた。主婦連の結成により生活を守ろうとする主婦の発言が政治に反映されていった。その意味で、主婦連の結成は消費者運動のはしりだった。

 主婦連を有名にしたのが「おしゃもじデモ」であった。白いかっぽう着を着た主婦たちがプラカードの代わりに大きなしゃもじを先頭にデモ行進することから「おしゃもじデモ」と愛称された。おしゃもじは主婦連のシンボルとなり、主婦連を「おしゃもじ会」と呼ぶこともあった。

 おしゃもじを先頭に主婦たちは官公庁や企業に押しかけ、米価、電気料金、牛乳、銭湯などの値上げ反対、有害着色料の使用禁止、商品の品質向上など、生活改善のためのさまざまな運動を行った。それは台所と政治を直結させる運動であった。昭和30年に「暮らしを守る消費者大会」を開き、消費者という概念をつくった。

 生活を守る主婦パワーが炸裂して主婦連が創設されたが、主婦が立ち上がることは戦前には想像できないことであった。この主婦連に先立ち、大阪では昭和2010月に比嘉正子ら主婦15人が「米よこせデモ」を契機に「主婦の会」を発足させている。また日本婦人有権者同盟、日本婦人団体連合会、婦人民主クラブ、新日本婦人の会などが日本各地で誕生した。このように婦人の自主的活動が高まったのは、婦人の参政権が実現し、昭和21年の総選挙で女性代議士39人が当選、女性の地位が向上したことによる。

 日本最大の婦人団体である主婦連は、無党派の主婦たちで構成され、現在でも、身近な生活上の問題から社会問題まで地道な活動を行っている。商品テストに基づき、不良商品追放運動も行っている。

 東京・四谷駅前に主婦会館が建ち、主婦連の活動の中心になっている。主婦会館には独自の日用品試験室が備わり、科学データを重視した消費者活動が行われている。さらに核兵器禁止や軍縮などの平和活動も行っている。

 

【ベビーブーム】昭和23年(1948年)

 徴兵されていた男性が外地から日本に復員し、昭和22年頃から出生率が驚異的に上昇してピークに達した。この3年間に生まれた国民は800万人に達し、年間260万人から270万人の赤ちゃんが誕生した。

 この時期は後に第一次ベビーブームと呼ばれ、作家の堺屋太一はこの世代を「団塊の世代」と名付けた。その当時の合計特殊出生率(1人の女性が一生の間に産む子供の数)は4.54であったが、10年後には2.22、平成11年には1.34に低下している。

 当時の出生率が現在の3倍以上であったことから、いかにベビーブームがすさましいものであったかが想像できる。また合計特殊出生率が2.1以下になれば人口が減少することから、いかに現在の合計特殊出生率が低値であるかが分かる。

 団塊の世代は、その巨大な人口構造により戦後65年の間、さまざまな形で社会に変化をもたらした。青年期には激しい受験戦争と学園紛争を引き起こし、企業戦士として高度経済成長をつくり、次ぎに老齢化社会をつくった。

 このように団塊の世代は、時代の流れとともに日本社会に大きな社会現象を引き起こし、また日本の社会構造そのものを変えていった。団塊の世代の女性が母親となった昭和47年前後が第二次ベビーブームである。

 

【淋病感染事件】昭和24年(1949年)

 昭和24年2月、山形県の上山温泉二日町の共同浴場を使っていた3歳から15歳までの少女84人が淋病に感染し1人が風眼に罹患した。風眼とは、淋菌が目に入り盲目になることである。この共同浴場は低温であったため、淋菌が繁殖し以前から問題になっていた。本来衛生的であるべき浴場で、少女たちが性病にかかったのであった。

 昭和22年の淋病患者は、届け出数だけでも20万人を超え、当時は女の子が銭湯で淋病にかかる例があった。そのため親たちは銭湯の入り方を子供たちに注意するのが普通であった。女の子は洗い場でお尻をつけてはいけない。タオルを床に置いてはいけない。身体は下から洗うのではなく上から洗いなさいと事細かく注意していた。

 昭和32年に売春防止法が施行され、またペニシリンの登場により淋病は少なくなり、性交以外で感染することはまれとなった。しかし注意するに越したことはない。淋病に感染している男性が性交で相手に感染させる確率は50%で、この病気がやっかいなのは、女性が感染した場合、ほとんどが無症状であるにも関わらず、約30%が不妊症になることである。男性の場合は不快感や痛みなどの自覚症状があるので、これらが治療のきっかけとなる。自然に改善する軽症例もあるが、多くは抗生剤によって治療された。

 

【ビタミンブーム】昭和25年(1950年)

 昭和2512月、武田薬品工業から日本初の総合ビタミン「パンビタン」が発売された。終戦後の食糧難が次第に改善し、栄養のバランスや健康維持に関心が向くようになった。医薬品メーカーはビタミン剤を相次いで発売、戦後の経済復興を象徴するかのようにビタミン剤が売れていった。

 当時の栄養学会は、食物からビタミンをバランスよくとるのは困難としていた。そのためビタミン剤は国民から歓迎されビタミンブームをつくった。武田薬品工業が発売したパンビタンは疲労回復に効果があるとされ、昭和28年には1億3000万錠を売り上げ、武田のトップ商品となった。

 昭和26年に東京田辺製薬がビタプレックス、大正製薬がビタコリン、27年には塩野義製薬がポポン、28年には三共がミネビタールを販売した。同じ28年に中外製薬が解毒と肝機能改善薬「グロンサン」を発売し、キャッチフレーズは「二日酔いにグロンサン」であった。各製薬会社は新聞、ラジオ、テレビを利用して大々的に宣伝を行い、売り上げを伸ばしていった。

 これらのビタミン剤は多数のビタミンを混合した総合ビタミン剤であったが、29年3月には武田薬品工業がビタミンB1誘導体である「アリナミン」を発売した。アリナミンは京都大学医学部衛生学教室・藤原元典の研究を製品化したもので、藤原はビタミンB1とニンニクの成分を結合させると、人間の胃腸から効率的に吸収されることを発見し、これを製品化して糖衣錠タイプのアリナミンとして発売した。

 アリナミンはビタミンブームを決定的なものとし、このブームは昭和40年の「アリナミンA」の販売につながっていく。武田薬品工業はアリナミンAの宣伝に三船敏郎を起用し、「飲んでますか?」のコマーシャルでブームをつくった。

 また医薬品ではないが、29年にはビタミンB1を米に染み込ませた強化米ビタライスが武田、三共、塩野義から発売され、日本人の栄養の改善に大きく寄与した。そのせいかどうかは不明であるが、25年以降、日本には脚気はほとんど見られない疾患となった。

 

【日本医大遺体紛失事件】昭和25年(1950年)

 昭和23年1月28日、東京都渋谷区の火葬場で男性の遺体が火葬にされた。間もなく焼け具合を見るため、火葬係が穴からカマをのぞくと、男性の腹から胎児が飛び出しているのが見えた。驚いた火葬係は火を止めて代々木警察署に通報。警察の調べにより次の事実が判明した。

 火葬された男性は東京逓信病院に入院して死亡した胃がんの患者だった。患者の主治医である東京大学医学部の外科医Aは、家族の反対で遺体を解剖できなかったが、研究熱心なあまり遺体を家族に無断で解剖。抜き取った内臓の代わりに、不用になっていた胎児の遺体を男性の腹に縫い込んでごまかそうとした。

 A医師は死体損壊罪に問われ、裁判では有罪になったが執行猶予がついた。また、この事件とは関係ないが、翌24年7月には東京警察病院で解剖死体の一部をドブに流す事件が起きている。昭和25年2月18日、東京都荒川区町屋の火葬場に運び込まれた4つの棺が軽すぎると荒川署に密告があった。19日朝、警察が調べたところ棺に遺体はなく、1個には腫瘍の塊、他の棺には毛髪やボロ切れなどが詰められていた。

 この4つの棺は日本医大から運ばれたもので、遺体を棺に入れなかったのは、戦災で焼失した標本を作るため、また遺体を解剖実習に使うためであった。日本医大に火葬にされるはずだった4体の遺体が残されていたが、3体はバラバラになっていた。また1体は家族に渡されていたが、それは他人の遺体だった。尊重されるべき遺体をズサンに扱った病院の事件であった。

 

【水虫のレントゲン治療】昭和25年(1950年)

 茨城県土浦市の会社員・長谷川一郎さんは、京大法学部の学生だった昭和24年春頃から、難治性の水虫に悩まされていた。そのため25年4月、東京第1病院の皮膚科を受診し、レントゲン照射による水虫の治療を受けることになった。レントゲン照射は1週間から10日置きで、1回100から120γのレントゲンの照射を受け、2年3カ月で総量5040γのレントゲン照射を受けていた。

 昭和27年4月、レントゲン照射部位に黒色の斑点が出現したが、東京第1病院の医師は治療を続行。不安になった長谷川さんは東大付属病院を受診、教授の診察により黒色の斑点がレントゲンによる放射線障害と診断された。

 レントゲン照射は中止され、温泉療法などの治療が試みられた。しかし昭和31年頃から照射した皮膚の部位に潰瘍が生じ、昭和33年5月、東大付属病院で潰瘍部位が皮膚がんと診断され、右大腿部切断の手術を受けることになった。さらに同年11月には左の皮膚にもがんが見つかり、大腿部からの切断を余儀なくされた。

 長谷川さんはレントゲン照射を続けた東京第1病院の医師の過失を裁判で訴えた。東京第1病院は国立病院なので、国を相手に損害賠償提訴を起こした。

 この裁判ではレントゲンと皮膚がんとの因果関係が争点となった。当時の教科書的知見としてはがんの発生を伴わない線量は600から1000γとされていた。長谷川さんに照射された量はこの安全値をはるかに超える線量であった。昭和39年5月29日、東京地裁は長谷川さんの言い分を認める判決を下し、第二審でも同様の判決が下された。東京第1病院はミスを認め460万円の慰謝料を支払うことで和解した。

 水虫の治療としてのレントゲン照射は、現在では想像もつかない治療法であるが、当時は一般に行われていた。現在では水虫の薬は薬局の店頭にあふれているが、当時は水虫の特効薬を発見したらノーベル賞といわれていた。この裁判では、治療としてのレントゲン療法の是非は争点とはならず、必要以上のレントゲン量を照射したことが医師の注意義務違反とされたのである。

 

【赤痢患者強盗事件】昭和26年(1951年)

 昭和26年、日本中で赤痢が大流行し、患者数9万3039人、死亡数は1万4836人に達していた。赤痢は強力な感染症のため、患者は専門病院に隔離されていた。同年1112日、東京都文京区の酒屋に3人組の強盗が入り、ナイフで家人を脅し、現金を奪って逃走する事件が発生した。現場には、犯人が覆面代わりに使ったオシメが残されていた。

 警察の捜査により、このオシメは現場近くの都立駒込病院で使われていたものと判明。犯人は同病院に入院している患者とされ、3人の入院患者が逮捕された。3人は赤痢で入院していたが、病院の食事だけでは空腹に耐えられず、看護婦のすきを見て窓から抜け出して犯行に及んだのである。病院に干してあったオシメを覆面に使ったことから足がついた。

 駒込病院は都立病院のなかで最も大きい病院で、伝染病科と普通科を併設していた。その駒込病院で、職員の集団赤痢感染事件があった。昭和31年8月30日、同病院で10人の看護婦が赤痢になった。その後、病院が職員、医師、看護婦、患者の便検査を行ったところ、41人の看護婦から赤痢菌が検出され、先の10人の看護婦を含め計51人が隔離された。駒込病院の看護婦の総数は91人だったので、看護婦の半数以上が隔離されることになった。同病院は他の都立病院から応援を求め、新たに雇用するなど看護婦集めに大騒ぎとなった。

 赤痢は、「赤痢菌の感染により血液を混じた下血症」を上品に言い換えた病名である。赤痢は有史以来からの疾患で、食物や水によって感染した。赤痢はわが国の代表的な法定伝染病で、赤痢菌(Shigell)の経口感染によるものである。糞便が汚染源で、飲食物、水を介して感染した。

 赤痢の致死率は高く、ときに爆発的な集団感染を起こした。戦後は環境衛生や国民の栄養が向上し、抗生剤が進歩したために急速に減少し、最近の患者発生数は全国で年間1000人程度に減っている。最近では、旅行者が東南アジア諸国で罹患するケースが増えている。

 赤痢菌は糞便培養で容易に検出され、4亜群(A群S.dysenteriae、B群S.flexneri、C群S.boydii、D群S.sonnei)に分類される。近年わが国の主な流行菌型はB群とD群で、A、C群の多くは外国由来である。2〜7日の潜伏期ののちに発熱、激しい下痢、血便、しぶり腹を呈する。最近は軽症例が多く、血便を欠くものや下痢の回数の少ないものが多い。死亡例はまれである。

 

【保険医総辞退】昭和26年(1951年)

 昭和24年から25年にかけ、極度のインフレと失業が日本を襲った。税収は落ち込み、国家財政は極端に悪化していた。医療に関する診療報酬は23年から据え置かれ、保険組合からの支払いも遅延していた。

 開業医の生活も他の職業の人たちと同様に苦しいものになっていた。さらにレセプトの審査や課税が厳しくなり、医師会会員の不満が高まっていた。物価は急上昇し、据え置かれた保険診療では医薬品の高騰に追いつけなかった。

 各地の医師会では不満を訴える大会が開かれ、医師会員たちは3年間据え置かれていた診療報酬単価の引き上げ、制限診療の撤廃、収入への免税を訴えた。この日本医師会の闘争は、後の昭和36年に行われた保険医総辞退とは異なっていた。日本医師会の主張はいわゆる労働闘争であり、当時吹き荒れていた左翼的労働運動のひとつであった。

 日本医師会は、昭和261019日、総評、総同盟、全国農業組合、日本生協連など16団体の支援を受け、この問題の突破集会を開いた。日本医師会は集会で社会保険単価引き上げを目指し、12月3日から全国一斉に保険医総辞退を実施することを決議した。

 国会では日本医師会の主張が認められ、保健医療費に国庫負担を講ずる決議が採択された。これを受け、厚生省は診療単価を1円50銭(15%)引き上げることで一応の決着がみられた。しかし15%の引き上げでは少なすぎると医師会内部の不満は大きく、この日本医師会の混乱を収拾するため、谷口弥三朗会長は辞任することになった。

 日本医師会の医療費引き上げ交渉と並行して、当時の武見太郎は医師会執行部ではなかったが、池田勇人蔵相(後の首相)と会い独自の交渉を行った。国家財政が苦しく国に医療費を払う財源がないならば、開業医の税金を安くする、いわゆる医師優遇税の交渉を行った。武見太郎は、開業医の収入の72%を必要経費とする医師優遇税に成功し、谷口会長の辞任によって、田宮猛雄会長、武見副会長のコンビが復活することになった。

 

【乳児人体実験】昭和27年(1952年)

 この事件の発端は、名古屋市立大学医学会雑誌第5巻4号に掲載された「乳児院保育の概要」という論文であった。この論文で小児科医・奥田赳(32)が、名古屋市立乳児院で乳児を利用した人体実験が行われていると暴露したのだった。

 児童福祉法によって開設された名古屋市立乳児院は、両親のいない乳児や、親の事情で子育てができない乳児など21人が収容されていた。ほとんどが2歳以下の健康な乳児で、小川次郎病院長らは医学研究のためと称して乳児たちに人体実験を行っていた。小児科医長・奥田赳は病院長・小川次郎のやり方にかねてから反対して病院で対立していた。

 日本弁護士会の人権擁護委員会が調査に乗り出し、院長ら関係者の事情聴取が行われた。その結果、乳幼児に特殊大腸菌を飲ませる実験で乳児1人が死亡していたこと、胸腺の研究のため乳幼児の胸腔に空気を入れてレントゲン撮影を行っていたこと、乳児の直腸に大腸バルーンを入れ腸の運動を長時間観察していたことが明らかとなった。これらの実験結果は、それぞれ日本細菌学雑誌第8巻1号、名古屋市立大学医学会雑誌第3巻、日本小児科学雑誌第65巻に論文として発表されていた。

 小川病院長は「乳児は肺炎で死亡したのであって、特殊大腸菌を飲ませていなかった」と主張したが、解剖の結果、特殊大腸菌が腸内から検出された。この死亡した乳児の母親は、名古屋大学で手術を行うため乳児院に子供を預けていたのだった。

 たとえ生命の危険が少ないとしても、健康な乳児を実験に用いたことは、児童福祉、人権擁護の点から問題になった。小川院長らは、実験の結果を医学専門誌に発表しているが、このことは、周囲が騒ぐまで自分の行為の間違いに気づいていなかったことを示している。

 ジェンナーを気取っての実験だったのだろうが、医師として、あるいは人間としての良心に帰する事件であった。なお昭和26年、東京国立第1病院で乳児に致死性大腸菌を感染させる人体実験が行われたとする報告もある。

 

【美容整形医師脅迫事件】昭和27年(1952年)

 昭和27年1月17日、東京・新宿の美容整形外科医院・山口洋二さん宅に、「手術によってかえって醜くなった、俺の一生は台なしだ。250万円を持って小田原城址公園までこい。こない場合は貴殿の命にかかわる」という脅迫文が届いた。

 神楽坂署は警官数人を神奈川県小田原市に派遣し、格闘のすえ犯人を逮捕した。犯人は同市に住む東京写真工芸専門学校の1年生で、同医院で鼻の美容整形を受けた患者だった。

 このように昭和20年代の後半になると、美容整形が一般的になった。当時の値段は二重まぶたが5000円、隆鼻術が1万円で、そのほかにもわき毛の脱毛が流行していた。美容整形には成功例もあるが失敗例もある。また成功例でも自分のイメージと違っていれば失敗として恨まれることになった。

 

【健康優良児】昭和28年(1953年)

 昭和5年から全国で健康優良児の表彰が行われた。この健康優良児の表彰は、東京朝日新聞が文部省の後援を得て始めたもので、戦後の欠食児童が多い時代に、各学校で盛んに競われていた。身体の発育や健康状態がよく、学習成績、運動能力に優れている児童が選ばれた。

 体格が平均よりも大きく、目も良く、虫歯のないことが絶対条件であった。さらに成績も優秀でなければいけなかった。各小学校がこの条件をみたす男女児童各ひとりを推薦し、各郡市に集められた児童は運動能力テスト、医師による健康診断、教師による面接によって審査された。

 この大会は全国大会まであって、総合成績で優秀な児童が表彰された。健全な青少年を育てようとする企画なのだろうが、この制度は子供心には嫌な気分であった。優れた児童の表彰は、それ以外の大多数の児童への差別であった。振り返ると健康優良児とされた児童は、「先生の言うことに従順な肥満児に近い児童」が多かった。この制度はすでに廃止されている。

 

【人工心肺による心臓手術に成功】昭和28年(1953年)

 昭和28年5月6日、アメリカ・フィラデルフィアのジェファーソン医大病院で、ジョン・ギボン博士が人工心肺を使った初めての心臓手術に成功した。

 心臓手術は、心臓をいったん患者から取り出し、心臓の鼓動を止め肉眼で確かめながら行うため、心臓の代わりに全身に血液を送り出す装置が必要だった。そのために開発されたのが人工心肺装置である。人工心肺とは心臓の代わりに全身に血液を送り、肺の代わりに血液を酸素で満たしてくれる装置である。

 この人工心肺は、心臓は止まっていても身体は死なない装置で、他の臓器に大きく遅れをとっていた心臓の手術が可能になった。人工心肺を用いた世界第1例は先天性心房中隔欠損症の17歳の男性患者で、術後は順調に経過し、手術8日後に退院となっている。

【無痛分娩第1号】昭和28年(1953年)

 昭和28年6月8日、東京・麻布の日本赤十字病院で無痛分娩による出産が日本で初めて行われた。同病院の菅井正朝医師による指導で、大田区の富永和重が男子を無事出産した。通常は麻酔を用いての分娩であったが、日本赤十字病院では薬剤によらない無痛分娩が行われた。

 薬剤を用いない分娩とは、妊娠・出産の仕組みを妊婦に理解させ、事前に恐怖心を取り去ることで、精神予防性分娩と呼ばれているものである。後にフランスの産婦人科医ラマーズ(18901957)が考案した「ラマーズ法」と類似した方法である。

 妊婦は出産の不安や恐怖から産痛がひどくなり、産痛が恐怖と不安をさらに高めるという悪循環に陥りがちで、この出産の悪循環を断つことが必要であった。

 無痛分娩は「不安なき分娩法」とも言われ、妊娠中に分娩教育が行われ、出産への恐怖心を取り除き、妊婦に呼吸法や弛緩法を収得させる方法であった。中心となるのは弛緩法と陣痛の強さに合わせた呼吸法の習得で、それによって安全で産痛の少ない自然な分娩がもたらされた。この方法は菅井正朝が中国の北京鉄路総医院の産婦人科に勤務中に修得したものである。

 日本赤十字病院は無痛分娩の成功以来、1年間で千数百人が無痛分娩で出産を行い98%の成功を収めた。無痛分娩は各地の病院で広く採用され、昭和291115日には最初に無痛分娩で出産した富永和重を中心に「無痛分娩母の会」が結成され、患者サイドからも無痛分娩の普及に協力することになった。

 

【茂原下痢症】昭和28年(1953年)

 昭和28年6月、千葉県茂原市で約6000人に及ぶ伝染性下痢症の大流行が発生し、茂原下痢症(Mobara diarrhea)と名付けられた。伝染性下痢症は実験によってウイルスであることは確認されたが、特定のウイルスは検出されず、本当の原因は不明のままである。

 伝染性下痢症は第二次大戦後、わが国で全国的に流行し、致死率は2〜5%と高いものであった。全国で毎年3000人を超す患者が発症したが、昭和36年頃から減少し、昭和38年以降ほとんど患者は発症せず、死亡例は昭和41年が最後である。

 茂原下痢症は成人に多くみられ、患者の糞便、あるいは糞便に汚染された食品により経口感染。2〜8日の潜伏期を経て頻回の水様下痢が突然起こり、通常は無熱である。当時は点滴が不足していたので犠牲者を多く出したが、脱水に注意すれば予後はよいとされている。

 当時、3〜5歳の小児に猛威を振るっていた疾患として疫痢があった。便から赤痢菌が検出されることが多かったため、疫痢は赤痢の1病型とされていたが、本当のところは分からない。赤痢菌の毒素説、ヒスタミン中毒説など多くの説があるが、現在まで解明されていない。

 疫痢の初期症状は、高熱、嘔吐、頻繁な下痢で、次いで四肢冷感、脈圧低下などの末梢循環障害を起こす。重症化すると意識障害、痙攣などの脳障害をきたし短時間で死亡する。赤痢の激減とともに疫痢は過去の疾患となった。

 明治30年に設定された伝染病予防法では、疫痢は法定伝染病、伝染性下痢症は届け出伝染病に指定されていたが、平成11年の感染症法改正により両疾患は削除された。

 

【お化粧の時代】昭和28年(1953年)

 日本人は生きること、食べることに必死で、戦後数年間、日本の女性は化粧をする余裕がなかった。しかし戦争からの開放にあふれた女性は、もんぺを捨てワンピースに着替え、女性のファッションは和服から洋装へと変わり始めた。特に夏の猛暑によってノースリーブが流行し、実用的で健康的なノースリーブが女性ファッションを変えた。耐乏生活を余儀なくされていた若い女性たちは、化粧の方法を知らなかったが、おしゃれは女性の本能である。若い女性は心を躍らせながら口紅やリボンをつけて街に出た。

 昭和24年には初のファッションショウが開催され、昭和26年、第1回ミス日本で、後に俳優となる山本富士子が優勝した。昭和28年にアメリカのマイアミで行われたミス・ユニバース世界大会で伊東絹子さん(19)が3位に入賞し、この突然の快挙に日本中が沸きあがった。日本人ばなれした伊東絹子の体型から8頭身美人という言葉が流行し、男性ばかりではなく日本全体が明るいムードに包まれた。日本人の体型が欧米並みになったと新聞は報じたが、当時20歳の日本人女性の平均身長は153.9cm、平均体重は49.6kg、バストが平均80.7cmで、身長164cm、体重52kgの伊東絹子さんは当時としてはかなりのプロポーションであった。なお8頭身とは頭が身長の8分の1という意味である。

 いずれにしても伊東絹子さんのシンデレラ・ストーリーによって、日本の若い女性はお洒落やファッションへ目を向け、また映画で見る外人女優の化粧や服装を意識するようになった。

 昭和30年頃から化粧品が店頭に出回るようになり、日本の女性も化粧をするゆとりができてきて、日本の女性はきれいになっていった。昭和32年には東京・渋谷東急会館に資生堂美容室がオープンし、美容室に行くことが山の手女性のステータスとなった。化粧品メーカーも宣伝が激しくなり、ミツワは有馬稲子、コーセーは南田洋子、黒龍は原節子を専属に起用した。 

 昭和30年の11月にマンボダンスが流行、同時に細身のズボンにリーゼントのマンボスタイルが流行した。翌31年には石原慎太郎原作の映画「太陽の季節」が放映され、アロハシャツと慎太郎刈りのヘアスタイルが流行し、若い男性もファッションを意識するようになった。

 化粧とファション、お洒落は贅沢とされていたが、お洒落は自由な意志の表現で、自由と民主主義のバロメーターである。昭和34年にはアメリカのロングビーチで行われた第8回ミス・ユニバース世界大会で児島明子さん(22)がアジア人として初めて優勝。高知県出身の児島明子さんは帰国後、日本各地でパレードを行い、日本に希望と活力を与えてくれた。その後、児島明子さんは人気俳優・宝田明さんと結婚している。現在のミスコンテストは女性差別の声から下火になっているが、当時のミスコンテストは日本が世界に追いつくひとつの象徴であった。

 

【パラチオン中毒】昭和29年(1954年)

 パラチオンは有機リン系の農薬で、商品名はホリドールである。この農薬は、第二次世界大戦中にドイツがユダヤ人を殺戮(さつりく)するために用いた毒ガスと同じで、「神経毒ガス」と呼ばれていた。殺虫剤の効果は農作物に害を及ぼさずに昆虫の神経をマヒさせることで、パラチオンは昆虫だけでなく人間にも害を及ぼした。

 日本では害虫であるニカメイチュウ(蛾)の特効薬として、昭和26年からパラチオンが普及した。パラチオンの殺虫力は極めて強く、イネを食い荒らすニカメイチュウの幼虫に絶大の効果を示し、食糧増産と農業近代化の役に立った。しかしパラチオンの散布に伴い、大量の農薬を吸入しての急性中毒患者が続出し、人体への毒性が表面化した。パラチオン中毒者は、昭和29年がピークで患者数18817人、死者は70人と報告されている。

 パラチオン中毒の本態は、体内のアセチルコリンを分解する酵素コリンエステラーゼの活性を阻害することで、そのためアセチルコリンが体内に蓄積し、コリン作働性神経を過剰に刺激することによる。パラチオン中毒の症状は、軽症例では全身倦怠、頭痛、めまい、発汗、嘔吐などであるが、中症例ではよだれ、瞳孔の縮瞳、言語障害、視力減退などで、重症例では意識障害、全身のけいれんを起こして死亡する。

 このためパラチオンは昭和44年に製造が中止され、46年に使用禁止となった。しかし自殺目的で使用する者が絶えず、使用禁止となった46年だけでも72人が死亡している。

 日本では使用されていないが、外国ではまだパラチオンを使用している国がある。平成111022日、ペルー・クスコ郡の村で、朝食を食べた子供たちが突然、嘔吐と痙攣を伴う症状を示し24人が死亡している。給食に出された穀物にパラチオンが混入していたのだった。

 パラチオン中毒の治療は、特効的治療薬であるPAM(パム)の静脈注射である。

 

【女子ヤリ投げ選手が性転換手術】昭和29年(1954年)

 昭和29年2月11日、女子ヤリ投げ選手・堤妙子さんが性転換手術を受け男性となった。堤さんは尿道の下方が裂け、女性性器のように見える尿道下裂という奇形で、もともとは男性だった。堤さんを取り上げた助産師が女の子と言ったことから女性として育てられてきた。

 堤さんは福岡県・大川高校時代陸上競技で優勝し、社会人となってからも競技を続け、3年連続で女子ヤリ投げ大会で優勝した。本人にとっては優勝の名誉が重荷となり、我慢できずに手術に踏み切ることになった。

 尿道下裂の頻度は軽度例を含めると1000人から1500人に1人とされている。オチンチンの先端にある尿の出口(尿道口)が正常な位置より後方にあるため、外見から男女児の判断できない場合があるのである。今では染色体検査で性別を判定できるが、当時はそのような検査はなかった。尿道下裂は1歳を過ぎた時点で手術するのが一般的である。

【結核患者座り込み事件】昭和29年(1954年)

 

 昭和29年7月27日、東京都内の約2300人の結核患者が入退院基準の廃止を訴え、都議会議事堂の廊下で2昼夜にわたり座り込みを行った。座り込んだ結核患者は日本患者同盟に所属する生活保護患者が大部分で、入退院基準の廃止のほかに付添看護制限の廃止、生活保護法の基準の値上げなど6項目を都知事に訴えてストに入った。炎天下の座り込みによって1人の患者が心臓発作で死亡した。

 29年当時、結核で入院が必要とする患者は137万人で、一方、入院できるベッド数は178000しかなかった。また結核療養所に入院している患者の3割が自費、3割が社会保険、3割が生活保護の患者だった。ベッド数が絶対的に不足していた。

 厚生省はベッドの回転数を上げ、多くの患者が公平に医療を受けられるように、生活保護を受けている患者の入退院基準を作り、病院から生活保護者を追い出すことを各都道府県に通達していた。

 生活保護患者にとっては、入院していれば食費を含め毎月1200円の入院費が支給されるが、退院すれば生活費は8000円程度に抑えられる。そのため生活保護患者が猛反対して座り込みのストとなった。生活保護患者にとって、入院と退院では生活に大きな格差が生じた。

 厚生省の狙いは「生活保護患者を病院から追い出せば、生活保護費が節約できる」ということで、このことから厚生省は入退院の基準を設けて生活保護患者を追い出そうとした。昭和29年の国家予算で、生活保護の予算を大幅に削減する予定だった。

 

【原爆乙女】昭和29年(1954年)

 広島市、長崎市に投下された原子爆弾は20万人以上の死者だけでなく、生存者にも後遺症などの被害をもたらした。被害は発がんや遺伝的影響だけでなく、精神的な悩みや不安など生活全般に及んでいた。火傷によるケロイドの後遺症のため婚期を逸してしまった女性は、「原爆乙女」「原爆娘」の名前で呼ばれ、多くの同情が集まった。

 昭和27年6月、広島の「原爆乙女」9人が皮膚のケロイド治療のため東京へ向かった。これが広島での本格的な被爆者医療再開のきっかけとなった。まず、市内の外科医が同年7月から診察と治療に乗り出し、翌28年1月には医師会を中心に広島市原爆障害者治療対策協議会が結成された。

 このような医師の努力のなかで、昭和30年5月、最新の治療を受けるため25人の原爆乙女がアメリカから招かれ渡米することになった。作家パール・バックらが資金援助を行ったのである。ここで興味あるエピソードがある。原爆乙女がアメリカから招かれる前年の昭和29年に、ビキニ環礁での第五福竜丸の水爆被害があり、アメリカ内外で反核運動が盛り上がりをみせようとしていた。アメリカ国務省は、原爆乙女による反核運動の影響を心配して、少女たちが岩国飛行場の輸送機に乗り込もうとしたちょうどその時に、「少女たちのアメリカ行き飛行を即刻中止せよ」との電報が極東アメリカ・ハル司令官に届いた。しかしハル司令官は飛行を中止せず、老眼鏡がないので読めないと言って国務省の命令を無視したのである。

 原爆乙女25人が岩国飛行場からニューヨークへ向かい、マウントシナイ病院で1年近くケロイドの治療を受けた。ハル司令官の行動は、後にアメリカ国内で高く評価されている。

 

【死の人体実験】昭和29年(1954年)

 昭和29年4月15日、京大病院第一内科で2人の若い医師、三上治助手(29)と山本俊夫無給副手(28)がある人体実験を行った。それは輸血後肝炎の患者から採血した血液1ccを自分たちの腕に注射する実験であった。

 その当時は、血清肝炎の概念は確立しておらず「肝炎が血液から感染するとしても軽い黄疸程度」との軽い気持ちだった。ところが注射から42日目の5月26日、三上助手は悪寒、戦慄、倦怠を覚え、3日後には意識障害から昏睡状態となり、翌30日に死亡した。三上助手は病理解剖によって劇症肝炎と診断された。山本無給副手も肝炎を発症したが、軽い倦怠感だけであった。

 当時は、肝炎ウイルスの正体は全く不明で、A型肝炎、B型肝炎、C型肝炎の区別さえなかった。肝臓の病理所見からも区別はできず、肝炎の感染経路、潜伏期などから、肝炎には2種類あるらしいことが推測されていた。

 三上助手の研究テーマは肝炎ウイルスで、ウイルスを分離するためマウスに患者血清を注射する実験を繰り返していた。血清肝炎は現在ではB型肝炎ウイルス、C型肝炎ウイルスなどが原因と分かっているが、肝炎ウイルスは人間とサル以外の動物には感染しないことが特徴であった。そのためマウスの実験では感染は成功しなかった。三上助手は患者の血液から肝炎がうつるかどうか疑問を持っていた。もし感染するとしたら、どのような症状がどのような経過で出現するかを自分の目で確かめたかった。

 この詳細については、山本無給副手が内科宝函(第四巻第五号)に論文として記録を残している。山本無給副手はその後、近畿大学医学部教授になっている。

 

【鉄の肺のクリスマスプレゼント】昭和29年(1954年)

 昭和291219日、米軍・大津病院の下士官クラブ員30人が「鉄の肺」を京都市に寄付、中央市立病院に納入された。米軍下士官たちが「鉄の肺」を本国から買い付け、クリスマスプレゼントとして贈ってきたのだった。「鉄の肺」は呼吸筋麻痺で自ら呼吸ができなくなった患者に用いる人工呼吸器で、当時流行していた小児麻痺患者に用いられた。

 鉄の肺は、患者の首から下を気密した鉄のタンクに入れ、タンクの気圧をポンプで上下させ、空気の圧力で呼吸をさせる装置である。すなわちタンク内を陰圧にすると胸郭が広がり吸気となり、大気圧に戻すと胸郭の弾性から息をはき出す仕組みであった。「鉄の肺」は昭和27年に東京第1病院で使用されたのが日本初例で、8年後の昭和35年の時点でも、日本には数台だけだった。鉄の肺があれば助かった呼吸不全の患者の多くは、その恩恵を受けることができなかった。

 現在はもちろん鉄の肺は使われていない。今では骨董品の部類で、古い写真でしか見ることはできない。現在の人工呼吸器は気管内挿管と呼ばれるもので、口からプラスチックの管を気管内に挿入し、その管に圧を加えて空気を送り込み、吸気、呼気を行わせるものである。