昭和20年代

 昭和20814日、日本はポツダム宣言を受諾し、翌15日の玉音放送によって長かった戦争は終結した。敗戦による失望と落胆、悲哀と絶望、国民はこの虚脱感の中で呆然と立ちつくすしかなかった。そして我に返れば、都市住宅の3分の1が空爆で焼失し、国内のインフラは破壊され、物量は寸断されたまま日本は壊滅的打撃を受けていた。復員兵や引き揚げ者が狭い日本に戻り、食糧難からエンゲル係数は戦前の32.5%から67.8%へ上がり、人々は極貧の中で「食うため、生きるため」の苦難の日々を送った。

 空腹、貧困、ノミシラミ、不衛生、伝染病、国民生活は最悪の事態になった。しかし戦争が終わった安堵感、空襲のない安心感、軍国主義からの解放、新たな民主主義への期待が人心を支えていた。終戦から5日目には、3年8ヶ月ぶりに外燈がともり、2ヶ月後にはリンゴの歌が焼け野原に流れ、希望に満ちた映画が日本を明るく照らした。鬼畜米英のアメリカ兵は映画俳優のようで、天皇陛下万歳がマッカーサー万歳に変わっていた。

 既存の価値観は崩壊したが、同時に「新生日本の風」が息詰まる心を晴れやかにした。昭和21年にはプロ野球が再開し、昭和22年の「東京ブギブギ(笹置シヅ子)」が地に落ちた神州日本を元気にした。昭和23年に湯川秀樹博士がノーベル賞を受賞し、昭和26年に白井義男が世界フライ級チャンピオンになり、力道山が日本に自信を与えてくれた。日本が初めて経験する国家的敗北のなかで、没落した軍人や華族が密かに嘆いていただろうが、多くの庶民にとって終戦はまさに民主主義の始まりであった。

 連合国軍総司令部(GHQ)は日本の軍国主義を全面否定し、日本が再びアメリカの脅威とならないように、東京裁判で平和に対する罪人として戦犯者を裁き、戦争に協力した者を公職から追放し、戦争の温床となった15の財閥を解体させた。さらに農地改革を行い、自由で民主的な日本を誕生させようとした。しかし米ソの対立が深まると、GHQは日本をソ連共産主義の防波堤とするため、労働組合を取り締まり、警察予備隊を設立させた。このGHQの政策は、日本に史上最大の転換をもたらし、今日の日本の出発点といえる。しかし日本人は故意に忘れようとしているのか、戦国時代や明治維新の激動は語っても、民衆にそれ以上の変化をもたらしたGHQについては語ろうとしない。

 日本経済は統制経済から、闇経済、預金封鎖、新円切り替え、ハイパーインフレを経て、池田蔵相が「中小企業の倒産やむなし」、と発言した2か月後の昭和256月、朝鮮戦争が勃発。繊維や金属を中心とした軍需景気から日本経済は息を吹き返し、政府は電力、鉄鋼、海運、石炭などの基幹産業を優遇する政策をとり、日本経済は急速に復活した。昭和26年4月にマッカーサー元帥が解任され、昭和27年にサンフランシスコ平和条約が発効されると、GHQの占領統治は終結し、日本は独立国として輝かしいスタートとなった。もちろんこの講和条約は共産主義国を除く自由主義陣営との単独講和であり、同時に日米安全保障条約も調印され、日本は共産主義陣営と対立することになった。

 昭和20年前後は、薬もなければ医療器具もなく、人々は栄養失調に倒れ、伝染病に命を奪われていた。国民はその日を生きることに精一杯で、医療を考える余裕すらなかった。しかしGHQによる衛生環境の整備、DDT散布による公衆衛生の改善、ペニシリンやストレプトマイシンの普及によって、日本の公衆衛生と医療は、終戦後の数年間で飛躍的な改善をとげた。

 大正10年から14年までの日本人の平均寿命は男性44.8歳、女性53.2歳だったが、昭和20年の日本人の平均寿命は、男性23.9歳、女性39.5歳とされている。戦争によって日本人の平均寿命がいかに低下したかが分かる。しかし昭和26年の平均寿命は、男性60.8歳、女性64.9歳。昭和30年には男性63.6歳、女性67.8歳と急速に延び、戦後10年間で平均寿命が20歳以上延びるという驚異的な時代となった。この平均寿命の延びが、国民生活の向上をそのものを表している。

 

 


終戦の詔書 昭和20年(1945年)

 昭和20年8月15日の正午、昭和天皇による「堪え難きを堪え、忍び難きを忍び…」の玉音放送が伝えられた。この玉音放送によって、3年8カ月にわたり300万人以上の戦死者を出した太平洋戦争に終止符が打たれた。それは昭和6年の満州事変から15年にわたる長い戦争であった。

 昭和天皇が読み上げる「終戦の詔書」は、時折入る真空管ラジオの雑音に加え、漢文混じりの難解なお言葉だったため、終戦を伝える内容としては不明瞭であった。初めて聞く天皇陛下の肉声を、激励の言葉と勘違いして万歳をする者もいた。しかし放送同日に「終戦の詔書」の全文が新聞に掲載され、国民は終戦を知ることになる。

 玉音放送の前日、宮中の防空壕で御前会議が開かれ、昭和天皇はポツダム宣言を受諾し、無条件降伏を受け入れる聖断を下した。「終戦の詔書」は、内閣書記官長の迫水久常が昭和天皇の言葉を再現して草案を作り、その後、漢学者、閣僚などが推敲を重ねて作られた。この「終戦の詔書」は、天皇が国民に終戦の事実を伝えただけでなく、日本が太平洋戦争に至った事情、終戦に至るまでの経過を、国民に理解してもらうための謝罪文であった。さらに今後予想される終戦後の混乱を防ぎ、日本民族の再起に向けての悲願を含めての文章であった。そこには不戦の誓いもなければ、対戦国への謝罪や自虐的史観もない。終戦に臨んだ天皇の本心が素直に述べられている。

 「堪え難きを堪え、忍び難きを忍び…」。この一節はこれまで何度か耳にし、また日本人の胸に何度もよみがえった言葉であるが、「終戦の詔書」の全文を読んだ人は極めて少ないであろう。多くの国民は玉音放送を知っていても、詔書の全文を読んでいないと思う。それは詔書が難解な文章で、また天皇の言葉に注釈を加えることへの抵抗感があったからである。しかし戦後の日本を再考するには、日本の原点である「終戦の詔書」を読むことが出発点になる。

 難解な文章を分かりやすくするために訳文を試みた。この詔書の意味を知り、次ぎに記載した原文をかみしめて読んでほしい。「終戦の詔書」は今日読み返しても感慨深く、また名文中の名文である。昭和天皇の苦悩に満ちたご聖断のお言葉、日本の原点がここに書かれている。

 

≪終戦の詔書≫(私的訳文)

 世界の体制と日本の現状を深く考えると、私は非常の措置をもってこの時局を収集しなければいけない。そこで忠良なる国民に報告したい。私は日本国政府に、米国、英国、中国、ソ連からのポツダム宣言を受諾し、終戦とすることを通告させた。

 そもそも日本国民の平和と平穏を願い、また世界の万国と共に栄え、万国と楽しみを共にすることが、これまでの歴代天皇が残した教えであった。私も常に心にとどめてきたことである。

 米国、英国の2国に宣戦したのは、日本の存続と東アジアの安定を願ったからで、ポツダム宣言に書かれてあるような他国の主権を排し、領土を侵すようなことは、もとより私の考えていたことではない。しかしながら戦争はすでに4年を経過し、わが国の陸海軍の将兵の勇戦、多数の官吏の努力、一億国民の奉公、国民各層の人々が最善をつくしたにもかかわらず、戦局は必ずしも好転していない。

 また世界の大勢も日本に有利とはいえない。さらに敵国は新たに残虐な原子爆弾を使用し、何の罪のない国民を殺傷し、その惨害は測り知れない。もしこれ以上戦争を継続すれば、わが日本民族の滅亡を招くばかりでなく、ひいては人類の文明をも破壊されてしまう。そうなれば天皇として億兆の国民を預かっている私は、どのように歴代天皇の神霊に謝罪すればよいのだろうか。このことが、私が日本国政府にポツダム宣言を受諾するように命じた経緯である。

 日本国とともに東アジアの植民地解放に協力した同盟国に、遺憾の意を表明せざるを得ない。戦場で死んだ軍人、職場で殉職した官吏、戦火に倒れた国民やその遺族を思えば、わが身を引き裂かれるほどの痛切な思いである。

 また、戦傷を負い、災禍を被り、職を失った人々の再起については、深く心にかけるところである。今後、日本国が受ける苦難はもちろんのこと、国民の非常な無念と悲しみを私はよく理解している。しかし時運の赴くところ、堪え難きを堪え、忍び難きを忍び、日本の将来のために戦争の終結を決断した。

 ここに国体を護持し、忠良なあなたがた国民の心を信じていたい。私は常にあなたがた国民と共にいたい。激情の赴くまま無用の混乱を起こし、あるいは同胞が互いに分裂して時局を混乱させれば、国家はさらなる危機に陥り、世界からの信義を失うことになる。これは最も戒むべきことである。

 国民皆が一致団結し、子孫に至るまで、固く神州日本の不滅を信じ、個々に課された責務の重さと今後の道程の厳しさを自覚し、総力を将来の建設に傾けてほしい。信義をあつくし、志操を固くして、国体の精華を発揮し、日本が世界の趨勢に後れることのないことを願っている。あなたがた国民はこの私の考えをよく理解して従ってほしい。

 

 ≪終戦の詔書≫(原文)

 朕深ク世界ノ体勢ト帝国ノ現状トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ収集セムト欲シ茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク

 朕ハ帝国政府ヲシテ米英支蘇四国ニ対シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ

 抑々帝国臣民ノ康寧ヲ図リ万邦共栄ノ楽ヲ階ニスルハ皇祖皇宗ノ遺範ニシテ朕ノ挙々惜カサル所サキニ米英二国ニ宣戦セル所以モ亦実ニ帝国ノ自存ト東亜ノ安定トヲ庶幾スルニ出テ他国ノ主権ヲ排シ領土ヲ侵スカ如キハ固ヨリ朕カ志ニアラス

 然ルニ交戦巳ニ四歳ヲ閲シ朕カ陸海将兵ノ勇戦朕カ百僚有司ノ励精朕カ一億衆庶ノ奉公各々最善ヲ尽セルニ拘ラス戦局必スシモ好転セス世界ノ大勢亦我ニ利アラス加之敵ハ新ニ残虐ナル爆弾ヲ使用シテ頻ニ無ヲ殺傷シ惨害ノ及ブ所真ニ測ルヘカラサルニ至ル而モ尚交戦ヲ継続セムカ終ニ我ガ民族ノ滅亡ヲ招来スルノミナラス延テ人類ノ文明ヲモ破却スへシ斯ノ如クムハ朕何ヲ以テカ億兆ノ赤子ヲ保シ皇祖皇宗ノ神霊ニ謝センヤ是レ朕カ帝国政府ヲシテ共同宣言ニ応セシムルニ至レル所以ナリ

 朕ハ帝国ト共ニ終始東亜ノ解放ニ協力セル諸盟邦ニ対シ遺憾ノ意ヲ表セザルヲ得ス帝国臣民ニシテ戦陣ニ死シ職域ニ殉シ非命ニ斃レタル者及ビ其ノ遺族ニ想ヲ致セバ五内為ニ裂ク且戦傷ヲ負ヒ災禍ヲ蒙リ家業ヲ失ヒタル者ノ厚生ニ至リテハ朕ノ深ク軫念スル所ナリ惟フニ今後帝国ノ受クヘキ苦難ハ固ヨリ尋常ニアラス爾臣民ノ衷情モ朕善ク之ヲ知ル然レトモ朕ハ時運ノ赴ク所堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ビ難キヲ忍ビ以テ万世ノ為ニ太平ヲ開カント欲ス

 朕ハ茲ニ国体ヲ護持シ得テ忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ常ニ爾臣民ト共ニ在リモシ夫レ情ノ激スル所濫ニ事端ヲ滋クシ或ハ同胞排擠互ニ時局ヲ乱リ為ニ大道ヲ誤リ信義ヲ世界ニ失ウカ如キハ朕最モ之ヲ戒ム宜シク挙国一家子孫相伝ヘ確ク神州ノ不滅ヲ信シ任重クシテ道遠キヲ念ヒ総力ヲ将来ノ建設ニ傾ケ道義ヲ篤クシ志操ヲ鞏クシ誓テ国体ノ精華ヲ発揚シ世界ノ進運ニ後レサラムコトヲ期スへシ爾臣民其レ克ク朕カ意ヲ体セヨ

 

 国民はこの玉音放送で日本の終戦を知ることになる。それは長い歴史の中で初めて経験する国家的敗北の瞬間であった。日本の戦傷病死者260万人、戦争未亡人28万人、民間戦災傷死行方不明者80万人弱。このように戦争は多くの犠牲者を出した。また終戦時に勤労動員に従事していた者は学徒動員1927379人(農林業出動含む)、女子挺身隊472573人であった。

 玉音放送の天皇陛下のお言葉は、終戦の宣言と同時に、大元帥陛下としての武器解除の命令でもあった。昨日まで「鬼畜米英、一億玉砕」と叫んでいたのに、反乱らしい反乱はなく、225万人の陸軍、125万人の海軍が武器を解除したのは玉音放送があったからである。

 日本に無条件降伏を勧告したポツダム宣言が726日に発表されたが、政府は議論の末これを黙殺。814日にポツダム宣言の受諾を決めたが、残念なことは受け入れる時期が遅すぎたことである。ポツダム宣言を即座に受け入れていれば、86日の広島の原爆、89日の長崎の原爆、88日のソ連の宣戦布告はなかったはずである。戦争遂行はすでに困難だったのに、受諾が遅れたのは「軍部の本土徹底抗戦」を抑えきれず、「国体の護持の保証」を前に決断までの時間がかかったからである。欧米によるアジアの植民地政策をみれば、日本が植民地になることを政府が案じていたことは当然のことであるが、敗戦への責任追及もあったことと思われる。いずれにしてもポツダム宣言受諾の遅れが、国民のさらなる犠牲者を出したことは残念なことである。

 あの終戦の日からすでに65年が過ぎ、悲惨な戦争を知る者は80歳以上の老人ばかりとなった。現在の政治家も官僚もあの戦争を知らず、学校の教師や評論家もあの当時を知る者は少ない。戦争の悲惨さを知る老人は、心の奥に秘めた貴重な体験を押し殺し、彼らの体験が次世代に語り継がれることは少ない。老人たちは社会の隅に追いやられ、同朋を亡くした精神的トラウマの中で生きてきた。

 太平洋戦争を語る者、戦争の悲惨を口にする者は、その多くが戦争を体験していない。あの戦争が生んだ多くの教訓が歴史の中で忘れ去られ、あるいは歪曲されて後世に伝わるならば、わたしたちは最大の教訓を失うことになる。

 

 

 

終戦と自決  昭和20年(1945年)

 昭和20年8月15日の終戦とともに、500人以上の軍人が自らの命を絶った。阿南惟幾陸軍大臣(享年58)から無名の二等兵に至るまで、自決した軍人の階級はさまざまであった。軍の上層部の自決は天皇の軍隊を敗北に導いた責任を感じ、さらに多くの部下を死なせた責任、降伏の屈辱に駆られてのことであった。終戦によって多数の殉国の士を出したことは、有史以来、初めてのことである。

 終戦のあの暑い日からすでに65年が過ぎ、今日では国に殉じた尊い人たちについて語られることは少なくなった。終戦によって日本は新しい国に生まれ変わったが、平和な日本を願いながら、国の運命をかけて自らの命を絶った人たちがいた。戦争責任は別として、日本を想い死んでいった多くの英霊たちがいたことを忘れてはならない。私たちは彼らの至高至純の精神を永遠に伝えるべきなのに、多くの英霊たちをあまりに粗末に扱っているのではないだろうか。現状をわびたい気持ちになる。

 8月15530分、玉音放送が始まる日の早朝、最後まで本土決戦を主張していた阿南陸相は「一死以て大罪を謝し奉る。神州不滅を確信しつつ、大君の深き恵に浴みし身は、言い遺すべき片言もなし」との遺書を残し、東京・三宅坂の陸相官邸で割腹を遂げた。阿南陸相は陸軍将校の間で進められていた終戦阻止のクーデターを前日に阻止、昼に予定されていた天皇陛下の玉音放送を、「拝聴するに忍びない」と玉音放送の前に自決した。帝国陸軍の最後の大臣となった阿南陸相はポツダム宣言以降、徹底抗戦、本土決戦を主張したが、日本の終戦に強い自責の念をもっていた。陸相に就任して4カ月であったが、終戦の難局に際しての阿南陸相の自決は陸軍の強硬派を沈静化させた。

 玉音放送と同時に、軍部は米軍への攻撃中止命令を出した。8月15日午後5時、この中止命令にもかかわらず、宇垣纒中将(58)ら17人は大分の海軍飛行場から11機の爆撃機「彗星」に分乗し、沖縄の米艦隊に向けて特攻攻撃を決行した。宇垣中将は「部下隊員が桜花と散りし沖縄に進攻」と打電して太平洋に散華した。816日には、海軍特攻隊の生みの親である大西滝治郎海軍中将(50)が「吾が死を以て旧部下の英霊とその遺族に謝せんとす」との遺書を残し、官邸で自決している。

 終戦時の陸海軍の自決者については、書籍「終戦時自決烈士芳名録」に記録が残されている。将官以上の自決者37人の内訳は陸軍が32人、海軍が5人となっている。海軍に比べて陸軍将官に自決者が多いのは、本土決戦、一億総玉砕を陸軍が号令し、それを真剣に受け止めていた証拠といえる。自決烈士芳名録に526人の名前が記されているが、名を残さず自決した軍人はその数倍に達していた。

 軍人のみならず、右翼を初めとした民間団体でも集団自決が相次いだ。8月22日には、日本の降伏に不満を持つ尊攘同志会員12人が東京・愛宕山で割腹自決している。翌23日には、右翼団体である明朗会(日比和一会長)13人が宮城広場に集合し、青酸カリをあおって自決。翌24日には大東塾生14人が降伏に反対して代々木練兵場で一斉に切腹している。彼らの自決は軍指導部が導いた終戦への抗議、天皇の臣としての責任、神国の復活を唱えてのみそぎの意味が含まれていた。彼らの壮絶な死は、神国日本の崩壊に虚無を感じ、虚脱感の中で日本の国に殉じたのである。

 人知れず自決した者は数多くいるが、その中に橋田邦彦がいる。橋田邦彦は近衛、東条両内閣の文部大臣で、同年9月14日、戦争犯罪人に指名され、出頭を求められ荻窪の自宅で自決した。橋田邦彦は東京帝国大医学部を卒業、医学部生理学教室からドイツへ留学、帰国後に東京帝大医学部教授となり、第一高等学校長を経て文部大臣になった。戦時中に流行した「科学する心」という言葉は彼の造語である。橋田邦彦の遺書には「戦争責任者として指名されしこと光栄の到なり、さりながら勝者の裁きにより責任の所在軽重を決せられんことは、臣子の分として堪得ざる所なり。皇国国体の本義に則り茲に自決す」と書かれていた。橋田は自分の生き方に筋道をたて、自らを処する方法として自決を選んだのである。

 終戦を信じず、一億総玉砕を信じていた時代である。辱めを受けるより、潔い死を当然とする人たちが多くいた。自らの命を国にささげた4000人以上の特攻隊員、降伏を潔しとせず玉砕攻撃で死んでいった軍人、聖戦の勝利を疑わなかった人たち、彼らの愛国心あるいは武士道の精神に基づく死が自決であった。

 自決と自殺とは、その潔癖性と決然性において大きな違いがある。昔から日本人が桜を好むのは、その散り際が潔いからで、武士道による「死を美徳と捉える」のが当時の日本人の根底にあった。自決と自殺とは、ともに自らの生命を絶つ行為であるが、動機の純粋性において両者は大きく異なっている。

  自決に至ったのは軍人や右翼ばかりではなく、むしろ沖縄や満州では非戦闘員、すなわち民間人の自決の方が圧倒的に多かった。民間人の自決は軍人の自決とは、その意味合いが異なっていた。逃げ場を失った民間人は捕虜となって生き恥をさらすことになる。この行き場のない絶望感が自決の動機だった。

 鬼畜のごとき敵兵が男性を殺し、女性を辱しめる絶望感が自決の根底にあった。自決を「みずから決断した責任ある自殺」と定義するならば、民間人の自決は軍国主義に強要された自決、あるいは洗脳された死であって、その意味では最も悲惨な戦争犠牲者といえる。

 昭和19年7月8日、真珠湾奇襲を成功させた南雲忠一中将はサイパンの洞窟で自決。米軍は投降勧告を行ったが、日本兵は「バンザイ突撃」で玉砕した。残された民間人にはさらなる悲劇が待っていた。老人、婦人、子供たちは島の北端までたどり着くと逃げ場を失い、手榴弾を爆発させ、毒薬をあおって死んでいった。マッピ岬(バンザイクリフ)の断崖から多くの女性が海へ身を投じた。

 昭和20年4月1日、沖縄の中部にある読谷村(よみたんそん)の海から米軍が上陸。村民140人は村から500メートル離れたチビチリガマに隠れ、140人のうち83人が集団自決、その6割が18歳未満であった。沖縄では数多くの集団自決が相次いだ。沖縄師範学校、県立第1女子高校などの女子生徒と教師で結成された「ひめゆり部隊」は、看護要員として動員され443人が戦争に参加し249人が戦死。そのなかには青酸カリを配られ自決を命じられていた者が多くいた。逃げ場を失った女学徒たちは、青酸カリを飲み、あるいは崖から身を投じて命を絶った。

 8月9日、満州ではソ連が日ソ中立条約を一方的に破棄し、突然、攻撃してきた。逃げ遅れた1万人以上の民間人が、生きて辱めを受けまいと各地で自決した。満州の開拓団では、成人男性のほとんどが軍に動員され、開拓団に残された者は、病弱者、女性、子供ばかりであった。8月15日、日本は無条件降伏を表明したが、ソ連軍は無抵抗な民間人を殺戮していった。ソ連軍の攻撃に蹂躙され、住民の攻撃を受け、日本へ帰る道を絶たれた女性たちは自決の道を選んだ。ソ連軍の圧倒的な戦力により、軍人には民間人を助ける余裕がなかった。自決の方法は縊死、溺死のほか、塩酸モルヒネ、亜砒酸、青酸カリなどによるものが多かった。

 8月12日、哈達河(ハタホ)開拓団421人が集団自決。8月17日には272人の来民開拓団が集団自決するなど、開拓団の集団自決が相次いだ。石川県鳥越村の出身者を中心とした白山郷開拓団は、8月27日に「集団焼身自決」の悲惨な最期をとげ100人以上が亡くなった。満州長安の病院では、最後まで現地に残っていた22人の看護婦がソ連軍の辱めを受け、あるいは受けまいとして集団自決している。

 「満州開拓史」によると、全滅あるいは自決した者は1万1500人。病没と行方不明者を合わせると、開拓団の死者は7万8500人で、全開拓団の3人に1人が死んでいる。国から見捨てられた満州開拓団の悲劇は残留孤児、残留婦人の現実を残すことになった。

 サハリンでも病院に残った看護婦23人が集団自決を図り6人が死亡。同じサハリンの真岡郵便局では若き電話交換手9人が集団自決を図り死亡している。戦火に包まれたサハリンで最後まで仕事を全うし、ソ連軍が迫ってきたことを知ると、まだ通じる電話で「皆さんこれが最後です。さようなら、さようなら」の言葉を残し、青酸カリで集団自決した。サハリンを望む北海道・稚内公園の丘の一角には、彼女たちの死を悼んで「9人の乙女の碑」が建っている。

 このように民間人の絶望による自決が相次ぐなかで、昭和12年以降3度の総理大臣を勤めた近衛文麿(公爵)は、公家にありがちな優柔不断の態度であった。戦犯容疑でGHQから出頭を命じられると、出頭当日の1216日の朝、杉並・荻窪の自宅で青酸カリを飲み自殺した。近衛は日本最後の華族で、罪人になって縄をかけられる屈辱に耐えられなかったのである。

 一方、東条英機元首相はGHQに逮捕される直前の、9月11日午後3時半すぎ、自宅でピストル自殺を図った。しかし自殺は失敗に終わり、米軍の手で病院に運ばれ、一命を取りとめた。東条英機は極東軍事裁判で死刑となり、昭和23年に巣鴨刑務所で絞首刑となったが、国民はこの自殺の失敗を単なる醜態と受け止めた。

 東条英機は軍人や民間人に「捕虜となるなら、潔く自決せよ」と命じながら、逮捕の日まで未練げに生き、外人のようにピストルを用い、取り乱して自殺に失敗したことへの国民の反応は冷ややかだった。東条英機は戦勝国に裁かれることを拒み自殺を図ったが、それは自決ではない。恥の上塗りであった。

 終戦と敗戦、退却と転進、占領軍と進駐軍、このように言葉の言い換えがあるが、自決は自決であって、自殺とは明らかに違う行為である。

 終戦により、日本は新しい国に生まれ変わったが、その陰には平和国家の実現を願いながら、国の運命とともに自らの命を絶った人たちが多くいたことを忘れてはならない。至高至純の精神を持った日本人の殉国の事実を歴史にとどめるべきであるが、忘却の彼方に埋没している。

 

 

 

ノーモア・ヒロシマ  昭和20年(1945年)

 昭和20年8月6日午前8時15分、アメリカのB29爆撃機「エノラ・ゲイ」に搭載された原子爆弾が広島市上空9600メートルから投下された。この1個の原子爆弾「リトルボーイ」が広島市600メートル上空で炸裂、一瞬の熱線、爆風、放射線により広島市民40万人のうち14万人(誤差1万人)が死亡し10万人が負傷した。

 3日後の8月9日午前11時2分、長崎市にも原爆が投下され、28万人が被爆し7万人(誤差1万人)の死者と多数の負傷者を出した。この広島と長崎を一瞬にして焦土と化した原爆により、真珠湾攻撃から始まった太平洋戦争は終わりを迎えた。

 原子爆弾の投下は、ポツダム宣言の受諾を拒否した日本政府を無条件降伏に追い込むためとされている。原爆投下は戦争の早期終結に必要だったとアメリカは主張している。このアメリカの主張の正当性は別として、原子爆弾は20世紀最大の惨禍をもたらし、ノーモア・ヒロシマは核兵器廃絶のスローガンとして、人類の歴史に深く刻まれることになった。

 広島の原爆投下は、大本営発表として投下翌々日の新聞紙上で報道されている。新聞に掲載されたが、その記事はごく目立たない小さな扱いであった。広島がB29爆撃機の攻撃により相当の被害を受けたこと、アメリカが新型爆弾を使用したらしいことを簡単に述べたにすぎなかった。

 原子爆弾による被害状況は軍部の規制により報道されず、原子爆弾であることは秘密にされ、新聞では「新型爆弾」と表現されていた。日本人科学者が原爆投下直後に現地調査を行ったが、その資料は占領軍によって没収され広島の惨状は報道されなかった。

 この悲惨極まりない原子爆弾の悲劇を、いち早く世界に報道したのは、イギリスの新聞「デイリー・エキスプレス」紙の記者であったウィルフレッド・バーチェット(191183)であった。バーチェットは9月2日に行われる「戦艦ミズーリ号での日本降伏の調印式」の取材に行く予定であったが、調印式当日、バーチェットは病気と偽り、ひそかに広島への列車に飛び乗った。焦土と化した東京から広島までおよそ20時間の道のりである。バーチェットが広島に到着したのは、終戦から1カ月後の9月3日早朝のことであった。

 列車から降りたバーチェットは、広島の惨状を目にした。原爆投下から1カ月が過ぎているのに、日々、多くの人たちが死んでいった。バーチェットはアメリカ軍が秘密にしていた放射能障害、ケロイド状の火傷、脱毛、発熱、内出血など痛々しい状況を目にした。

 9月5日のデイリー・エクスプレス紙の1面をバーチェットの記事が飾った。それは原爆の悲劇を世界に向けての初めての報道だった。バーチェットの文章は「私はこれを世界への警告として書く」に始まり、最後を「ノーモア・ヒロシマ」の言葉で締めくくった。

 「私はこれを世界への警告として書く。最初の原子爆弾が街を破壊し、また世界を震駭(しんがい)させ、投下30日後の広島では、人はなおも死んでゆく。それは神秘的な恐ろしい死である。あのときは無傷であったのに、原爆がもたらした何ものかによって人々はさらに死んでゆく。爆撃を受けた広島は都市の様相を呈していない。怪物大の蒸気ローラーが通り過ぎ、木端微塵に抹殺壊滅したようだ。……広島に着くと、ほとんど建物らしいものが見えない。これほどひどい人間の破壊を見ると、身体が空っぽになるような気分になる。……原爆が落ちたとき、幸いにも傷を負わなかった者が、今や気味悪い後遺症で死んでゆく。はっきりとした原因もなく衰弱し、食欲もなく、髪が抜け、青い皮疹が現れ、口から出血していった。注射を刺した針穴から皮膚が腐りはじめ、いずれの患者も死亡した……ノーモア・ヒロシマ」

 バーチェットは広島の惨状を世界に発信したが、占領軍は猛烈な口調でバーチェットのレポートを否定した。「広島の犠牲者は原爆直後に死んだだけで、広島の廃墟から放射能は検出されていない」との記事が、9月13日の「ニューヨーク・タイムズ」紙に掲載された。

 バーチェットは記者登録を抹消され、日本から退去処分となった。その後、バーチェットは中国革命、朝鮮戦争、ベトナム戦争などの取材を行い、さらにポルトガル、アンゴラ、アフガニスタンなどの革命や紛争を精力的に報道した。著書として「広島・板門店・ハノイ」(昭和47年・河出書房新社)がある。

 このバーチェットに数時間遅れて、ニューヨーク・タイムズなどの取材団20人が広島に入った。その一員だったUP通信の従軍カメラマン「スタンレー・トラウトマン」は広島の惨状を撮影している。トラウトマンが撮影したと確認されている原爆写真は広島が10枚、長崎が9枚の計19枚が残されている。原爆の惨状は日米両国ともに極秘事項で、取材団は米軍の厳しい監視下に置かれていた。ところがトラウトマンが撮影した広島の原爆写真が9月7日、長崎の原爆写真は9月17日にアメリカで公表された。

 アメリカ政府は、原爆投下を真珠湾攻撃への報復、若いアメリカ軍兵士の生命を救うため、ソ連の参戦を防ぎ、無条件降伏をさせるための手段とした。しかし、アメリカの人々はトラウトマンの写真に驚き、原爆反対の国際世論が沸き上がった

 日本人が原爆被害の写真を見られるようになったのは、日本から占領軍が引き揚げた昭和27年のことである。同年8月6日、雑誌「アサヒグラフ」は原爆被害の写真を初めて公開。写真で見る原爆の悲劇はまさに地獄絵だった。黒く焼けた遺体、被害者のケロイドの惨状、破壊された街並が掲載された。原爆特集への読者の反響はすさまじく、26ページのアサヒグラフは52万部を即日完売、増刷分も含め70万部を売り上げた。

 広島、長崎に投下された原子爆弾は20万人以上の死者だけでなく、残された生存者にも後遺症をもたらした。発がんや遺伝的影響の恐れ、精神的苦痛や不安など、その被害は生活全般に及んだ。ケロイドなどの後遺症のため婚期を逸した若い女性は、「原爆乙女」「原爆娘」と呼ばれ多くの同情を集めた。

 昭和50年の被爆者手帳所持者数は357000余人となっているが、他人に知られることを恐れ、被爆の申請をしない者が多くいた。広島市、長崎市は被害の調査や検診、専門病院の建設などに取り組んだが、「被爆者と一般戦災者とは区別できない」との理由から国からの保護はなかった。

 原爆が投下されてから12年後の昭和32年、やっと「原子爆弾被爆者の医療等に関する法律」が施行された。この法律は、原爆投下時に爆心から4キロ以内にいた者、投下から2週間以内に爆心近くにいた者が対象となり、年2回の健康診断と必要な治療の無料化がうたわれていた。昭和43年からは、被爆者の福祉を重要視した「原子爆弾被爆者に対する特別措置に関する法律」が制定された。

 被爆10年目の昭和30年8月6日、広島市で平和記念式典が行われ、平和記念公園に広島平和記念資料館が完成した。資料館では被爆によって焼けただれた衣類や食器などが展示され、被爆の恐ろしさを後世に残すことになった。昭和30年8月8日には、長崎市の平和記念公園に平和記念像が完成し除幕式が行われている。また世界各地で平和にちなんだ行事が行われた。

 広島、長崎の原爆投下は人類の歴史上最大の惨事である。このことを裏付けるように、AP通信が西暦2000年を記念して行った「報道機関による20世紀10大ニュース」では、原爆投下はどの報道機関でも上位を占めた。

 AP通信の20世紀20大ニュースでは、第1位は米軍による広島、長崎への原爆投下(1945年)、第2位がロシア革命(1917年)、第3位がナチス・ドイツのポーランド侵攻による第二次大戦開戦(1939年)となっている。この20大ニュースは、世界の各報道機関が1位(10点)から10位(1点)まで順位をつけて投票した結果で、71社のうち15社が原爆投下を、10社がロシア革命を、12社が第二次世界大戦開戦を1位に選んでいる。

 参考までに、20世紀の20大ニュースの4位以下は次の通りである。4位=米国宇宙飛行士の月面歩行(1969年)▽5位=ベルリンの壁崩壊(89年)▽6位=ナチス・ドイツの敗北(45年)▽7位=オーストリア皇太子暗殺で第一次大戦開戦(14年)▽8位=ライト兄弟の飛行機発明(03年)▽9位=ペニシリンの発見(28年)▽10位=コンピューターの発明(46年)▽11位=アインシュタインの特殊相対性理論(05年)▽12位=ケネディ米大統領暗殺(63年)▽13位=エイズウイルス出現(81年)▽14位=ウォール街の株暴落(29年)▽15位=ソ連崩壊(91年)▽16位=国際連合の設立(45年)▽17位=ソ連の人工衛星打ち上げで米ソ宇宙開発競争(57年)▽18位=日本の真珠湾攻撃(41年)▽19位=共産党の中国支配(49年)▽20位=イスラエル建国(48年)。

 アメリカは広島、長崎に原子爆弾を投下したが、原子爆弾はドイツや日本でも研究されていた。ドイツでは物理学者ハイゼンベルグが中心となり、日本では理化学研究所の仁科研究室が軍の命令で研究を行っていた。日本では理論上の研究は進んでいたが、ウランがなかったために開発が遅れた。このことから広島、長崎に原爆が投下されたのは、「ドイツや日本よりもアメリカの核開発のほうが早かっただけ」と冷静に分析することもできる。

 アメリカが日本に原爆を投下したのは、日本人が黄色人種だったとする説があるが、日本人が黄色人種であろうがなかろうが、もしドイツや日本の核開発がアメリカより進んでいれば、当然アメリカが最初の被爆国になったはずである。このように原爆の開発は歴史の流れによるもので、「アメリカが原爆を投下し、日本が被害を受けた」とする一方的な加害者、被害者の立場ではなく、原爆を人類共通の過ちと認識すべきである。アメリカの原爆投下に刺激を受け、昭和24年にはソ連が、27年にはイギリスが、35年にはフランスが、39年には中国が核実験に成功している。

 「ノーモア・ヒロシマ」は日本人のみならず、世界の人々の関心事となり、核戦争の禁止は世界共通の願いとなった。「ノーモア・ヒロシマ」の言葉は平和と核兵器の廃止を願う人類の象徴となった。米ソの冷戦がソ連崩壊によって終結したあとも、インド、パキスタンなどで核実験が繰り返され、その度にノーモア・ヒロシマの平和を願うスローガンが世界に響きわたった。

 原子爆弾への国際情勢は変わったが、核兵器が存在する以上、核兵器の脅威はなくならない。平成7年8月、広島に原爆を投下したB29米軍爆撃機「エノラ・ゲイ」がスミソニアン航空宇宙博物館で一般公開されたが、この時、「ノーモア・ヒロシマ」と書いた垂れ幕を掲げ、抗議行動を行った反核活動家ら約20人が逮捕されている。

 ノーモア・ヒロシマは日本だけでなく、それ以上に重要な言葉として世界の人々に知られている。「ノーモア・ヒロシマ」は日本での言い方で、欧米では当然のこととして「ノーモア・ヒロシマズ」と長崎を含めた複数形で用いられている。

 

 

 

マルセル・ジュノー博士 昭和20年(1945年)

 昭和20年8月9日、国際赤十字委員会から駐日主席代表に任命されたスイス人医師、マルセル・ジュノー博士(190461)が、戦火を避けながら満州から飛行機で羽田に到着した。この日は日本が無条件降伏する6日前のことで、ちょうど2発目の原爆が長崎に投下された当日のことである。

 エチオピア戦争、スペイン内乱などを経験しているジュノー博士の任務は、日本における連合国捕虜の待遇を視察し調査することであった。ジュノー博士は東京で終戦を迎えると、ただちに連合軍捕虜3万4000人の解放に奔走した。米軍捕虜の待遇が彼の仕事であったが、最大の関心事は、むしろ原爆を受けた広島、長崎の惨状についてであった。

 原爆については厳重な箝口令が敷かれ、米軍から情報は得られなかった。しかし広島から東京に逃げてきた人たちの話しから、原爆被害の惨状を知ることができた。外務省から被爆地の写真を得たジュノー博士は、その写真をマッカーサーに突き付け、緊急援助を申し出て、医療物質の取り付けに成功しすると広島に向かった。

 9月7日、ジュノー博士は飛行機に15トンの救急医薬品を携え岩国飛行場に降り立ち、翌日、壊滅状態の広島に到着した。ジュノー博士はこれまで戦争の惨状を各地で見てきたが、原爆がもたらした広島の惨禍に大きな衝撃を受け、広島の原爆を「悪魔の仕業」と表現した。

 ジュノー博士は広島に救護所をつくり、外国人として初めて被爆者の治療に乗り出した。しかしジュノー博士の人道支援を遮るように、GHQ(連合軍総司令部)は原爆の機密保持と残虐性を隠すため、わずか4日間の滞在許可しか与えなかった。

 ジュノー博士は4日間の短い滞在中、被害調査という当初の目的を越え、救援作業に奔走し献身的に治療に当たった。15トンの救急医薬品にはペニシリン、サルファ剤、DDT、乾燥血漿など大量の医薬品や医療材料が含まれ、苦しみの極限にあった広島市民の命を救った。

 広島市内の病院や救護所では、生き残った医師や看護婦が被爆者の治療に全力を尽くしていが、医薬品が絶対的に不足し底をついていた。当時の広島には包帯もなく、浴衣を裂いて包帯代わりに使っていた。そのときジュノー博士が真っ白な包帯や乾燥血漿などの医薬品15トンを届けてくれたのである。これは1万人が1か月間治療できる量であった。まさに「干天の慈雨」である。地獄絵のごとき広島に一明の光を投げかけてくれた。

 ジュノー博士は昭和21年2月にジュネーブの赤十字本部に帰ると、直ちにアメリカ軍の原爆投下を糾弾するアピールを発表した。原爆の非人道性を告発し、核戦争防止の重要性を唱えた。ジュノー博士は、昭和34年に北朝鮮帰還問題で再来日したが、翌々年の36年6月16日、スイスで心臓発作のため急死、57歳であった。

 日本ではジュノー博士が広島の恩人であることを知るものは少なく、彼の功績は歴史の中に埋もれていた。昭和54年になって、広島県医師会が埋もれていたジュノー博士の人道的な業績を掘り起こし、広島市平和記念公園に記念碑を建立することになった。

 ジュノー博士の記念碑には、「1945年8月9日、赤十字国際委員会の駐日首席代表として来日。広島の原爆被災の惨状を聞くや、直ちに占領軍総司令部へ行き、ヒロシマ救援を強く要請。9月8日、調達した15トンの医薬品と共に廃墟の市街へ入り惨禍の実状を踏査、自らも被爆市民の治療に当る。博士の尽力でもたらされた医薬品は市内各救護所に配布され数知れぬ被爆者を救う。博士の人道的行為に感謝し、国際赤十字のヒューマニズムをたたえ永く記念してこれを建てる。ジュノー博士記念碑建立会」との献辞が彫られている。

 碑の裏面にはジュノー博士の著作「第三の兵士」の一文「無数の叫びが、あなたたちの助けを求めている」、が刻まれている。

 ジュノー博士記念碑が建てられた後、博士の遺徳を慕う人々は記念行事を企画。平成2年よりジュノー博士の命日に合わせ、 毎年6月16日に広島県医師会は「ジュノー記念祭」を行っている。

 ジュノー博士の記念碑は、博士の人道的行為に感謝して広島赤十字・原爆病院の玄関入り口にも建立されている。またジュノー博士の功績は、「世界の平和を求めて生きたドクター・ジュノー」の題名で、日本の中学3年の国語の教科書にも取り上げられた。広島の人たちにとってジュノー博士は忘れることのできない命の恩人である。ジュノー博士の持ち込んだ医薬品のケースなどは、広島平和記念資料館で見ることができる。

 ジュノー博士の半生は、回想録「ドクター・ジュノーの戦い」(昭和56年・勁草書房)、「ドクター・ジュノー武器なき勇者」(昭和54年・新潮社)につづられている。さらにジュノー博士を主人公とした映画「第三の兵士」が平成6年に完成している。

 

 

 

九大医学部アメリカ兵生体解剖事件 昭和20年(1945年)

 日本が終戦を迎える数カ月前にこの怪事件が起きた。アメリカ軍の捕虜8人が九州帝国大学医学部解剖学教室で生きたまま解剖され、これが世にいう「九大生体解剖事件」である。

 戦争が激化し、日本全土が連日B29爆撃機による空襲を受けていた。この事件で犠牲になったB29爆撃機の飛行士は、昭和20年5月5日に大分県・竹田市上空に飛来、日本海軍の戦闘機・紫電改の体当たりを受け撃墜された8人の搭乗員であった。搭乗たちはパラシュートで着地し、捕らえられ捕虜となった。翌6日に、竹田市から汽車で福岡市の西部軍司令部に送られた。

 まだ童顔の若い兵士たちは、しばらくの間、捕虜収容所にいたが、5月17日から6月2日にかけて九大医学部解剖学教室に連行され、生きたまま解剖が行われた。実験材料として生体解剖が行われたこの事件は、中国大陸における731部隊(石井部隊)とともに日本医学史上最大の汚点である。

 終戦により、この事件の発覚を恐れた軍司令部と九大関係者は、8人の捕虜を広島の原爆で死亡したように隠蔽工作を行っていた。しかしながらGHQに1通の英文の匿名投書が届き、この生体解剖事件が暴かれることになる。昭和21年7月13日、突然GHQが九大医学部に車で乗りつけ、岩山福次郎第1外科教授を戦犯容疑で逮捕。さらに九大関係者5人が逮捕され、姑息な隠蔽(いんぺい)工作は通用しなかった。

 昭和21年5月に極東国際軍事裁判が始まったが、この事件は昭和23年3月から5カ月間にわたって横浜地裁で審議された。「生体解剖事件」にかかわった軍司令部16人、九大医学部関係者14人は軍事裁判にかけられ、罪状は生体解剖で搭乗員を死亡させたこと、死体を冒涜(ぼうとく)して丁寧に埋葬しなかったこと、虚偽の報告と情報妨害であった。

 昭和23年8月27日、横浜軍事裁判所第1号法廷において判決が下された。ジョイス裁判長は軍司令官・横山勇中将(59)、軍参謀・佐藤吉真大佐(49)、鳥巣太郎教授(39)、平尾健一助教授(39)、森良雄講師(年齢不明)の計5人に絞首刑を言い渡し、4人を終身刑、14人を3年から25年の重労働とした。6人は無罪になったが判決は厳しい内容だった。

 この「生体解剖事件」は、九大医学部第1外科の岩山福次郎教授が中心となって行われた。同第1外科出身の笹川拓・軍医見習い士官が生体解剖を発案、これを西部軍司令部が許可したとされている。しかしこの事件の真相は、笹川見習い士官が20年6月の空襲で死亡、首謀格の岩山福次郎教授が逮捕翌日に土手町刑務所で自殺したことから定かではない。

 岩山教授の遺書には「いっさいは軍の命令、責任は余にあり。鳥巣、森、森本、仙波、筒井、余の命令にて動く。願わくば速やかに釈放されたし、12時、平光君すまぬ」と書かれていた。生体解剖が軍部の命令だったのか、軍部からの依頼だったのか、岩山教授の意志がどの程度だったのかはわからないが、生体解剖は人道上決して許されるものではない。

 この事件が起きた終戦4カ月前の戦局は、米軍が沖縄を占領し、福岡はB29の空襲により連日甚大な被害を受けていた。食料は乏しく、大本営は「捕虜を適当に処理せよ」と指令していた。この「適当に処理せよ」の言葉が生体解剖の引き金になった。米軍捕虜の対処に困っていた西部軍は、九大医学部出身の笹川見習い士官が立案した生体解剖に同意した。破滅寸前の日本、焦土化した福岡、この末期的な戦局の中で、米軍爆撃機の飛行士を戦争捕虜としてではなく、無差別爆撃を行った戦争犯罪者として扱ったのである。

 岩山福次郎教授に「平光君すまぬ」といわれた解剖学の平光吾一教授はこの事件を振り返り、「日本国土を無差別爆撃し無辜(むこ)の市民を殺害したのだから、捕獲された敵国軍人が国土防衛を任ずる軍隊から殺されるのは当然と思った」と文藝春秋(昭和5212月号)で当時の社会背景を述べている。

 しかし、たとえ生体解剖が軍部の命令であったとしても、「生きたまま解剖する」非人道的犯罪が、人間の生命を守るべき医学部構内で行われたことに戦慄を覚える。それは法律以前の罪、道徳、宗教、倫理上の罪であった。

 裁判で処罰された者が29人、生体解剖に動員された医師が延べ40人、この犯罪は医学部の中で組織的に行われた。人命を預かる医師集団による犯行がなぜ組織的に行われたのか、事件にかかわった人たちを非人道的と非難し、糾弾するだけではこの事件の本質には届かない。

 戦時体制下の大学は、軍部に協力することが国家総動員法で義務づけられ、軍部に協力しない教官は罰せられた。九大は西部軍司令部の指揮下に置かれ、九大総長は海軍大将・百武源吾で、医学部教授は陸軍の嘱託の立場にあった。もちろん研究のテーマは軍用医学で、大学職員は軍隊同様に3階級が定められ、各階級に応じて挙手礼が行われていた。

 大学医学部は教授を頂点とする封建組織で、上下関係は軍隊と同じであった。この事件を理解するには、軍司令部や教授の命令は絶対で、彼らに逆らえない状況下で否応なく組み込まれたものと考えたい。戦争という異常な渦の中で、医師たちは医学のため、日本のためと自分に言い聞かせて解剖に応じたのであろう。

 逮捕後に自殺した第1外科の岩山福次郎教授は、生体解剖についての記録を残していない。そのため解剖の目的、解剖の内容は関係者の口供書から推測するだけである。岩山教授の目的は何だったのか。生体実験によって、医学の可能性を探りたい気持ちが強かったのだろうか。

 戦時中の医学研究は軍用医学で、戦争に役立つ研究を行うのが医学部の任務であった。そのため「戦争に傷ついた日本国民、民間人を救うという大義名分」が動機だったのであろう。日本は連日空襲を受け、外傷治療に必要な輸血が極端に不足していた。輸血に代わる代用血液が、当時の軍用医学の重要な課題になっていた。岩山教授の専門は代用血液で、彼の関心も当然そこにあったと思われる。捕虜に行った生体実験も、血液の代用として海水を体内に注入する実験が主であった。

 人間の血液の代わりに食塩水が使用できるのか、肺はどの程度切除できるのか、てんかん療法として脳切開の効果はどうなのか。これらの実験が若いアメリカ兵捕虜を相手に解剖学教室で行われ、その有効性が調べられた。

 解剖は計4回行われ、1回目は全肺摘出と海水の代用血液、2回目は心臓摘出と肝左葉切除、3回目はてんかんの脳手術、4回目は代用血液と縦隔手術、肝臓摘出であった。アメリカ兵の生体解剖は麻酔下で行われたが、解剖は病院の手術室ではなく、解剖学教室の解剖台の上で行われた。アメリカ兵は手術中、もしくは手術直後に死亡した。

 この岩山教授が行った実験が、医学的にどの程度意義があったのかは不明であるが、捕虜を実験動物と同様に扱ったことは事実である。岩山教授は731部隊が中国で行った人体実験の資料を入手しており、731部隊と同じ考えが教授の根底にあったと思われる。

 当時、医学部第1外科の助教授だった鳥巣太郎(判決時は教授)は、第1回目の生体解剖の後、岩山教授に解剖の中止を進言している。この進退をかけた鳥巣助教授の進言は受け入れられず、鳥巣助教授は教授に逆らい3例目以降の解剖には参加していない。しかし皮肉なことに、岩山教授の自殺により、裁判では鳥巣太郎がこの事件の責任者として絞首刑の判決を受けることになった。

 この事件には多くの医師たちが関与していた。生きたまま解剖台に乗せられたアメリカ兵を前に、医師たちは何を思いメスを手にしたのだろうか。生々しく脈打つ心臓を見つめながら、血液を抜き、食塩水を注入し、肺を切除し、医師たちはどのような思いだったのだろうか。

 進駐軍は生体解剖事件に加え、解剖された捕虜の肝臓を宴会で試食した疑惑についても、激しい取り調べを行った。偕行社病院長ら5人が米軍検察官の拷問に近い取り調べを受け、自白の口供書にサインをしたが、この人肉試食疑惑は証拠不十分で5人とも無罪になっている。人肉試食事件は功を急いだ米軍調査官のでっちあげとされている。

 生体解剖事件は、日本の医学史上最大の猟奇事件である。医師の良心さえも軍国主義の渦に飲み込まれたのである。軍部、医学部教授といった権威主義のなかで、医師たちは最大の恥部をさらした。

 生体解剖事件の判決から2年後の昭和2510月に朝鮮戦争が勃発。マッカーサーは政治的配慮からこの事件の関係者全員を減刑とした。その結果、絞首刑も減刑され、死刑囚はいなくなった。さらに講和恩赦により、なし崩し的に釈放となった。鳥巣教授も絞首刑を免れ、昭和29年1月に出所している。鳥巣教授は平成2年に85歳で他界したが、人間としての罪を負い、自責の念から逃れることはなかった。

 この事件は岩山教授を中心とした非人道的犯罪と言えるが、むしろ恐ろしいのは学問の場である大学が、「人間は状況によって、どのような行為をも行い得る存在であること」を証明していることである。普段は上品そうなことを口にしていても、その時代の状況、集団の雰囲気に容易に流されるのが人間の恐ろしさである。

 現在、現役で働いている医師たちはこの事件を知らないでいる。この事件について当時の関係者を責める気持ちにはなれない。むしろこの事件が、生命を扱う多くの医師たちの記憶から薄れ、この事件が残した教訓が忘れ去られることを恐れる。

 生体解剖事件と同様、日本の医学界が残した大汚点のひとつが旧関東軍の731部隊である。石井四郎軍医を中心とした731部隊は、戦後その存在は闇の中に隠されていたが、人体実験で3000人の生命を奪ったとされている。アメリカは731部隊の軍医たちを、実験データと引き換えに不問としたが、731部隊の犯罪は生体解剖事件同様に罪深いものである。

 生体解剖事件は遠藤周作が小説「海と毒薬」として昭和32年に「文学界」に発表。翌年4月に文芸春秋新社から刊行された。ちなみに「海と毒薬」のタイトルは、遠藤が見舞客を装って九大病院の屋上に行き、そこから海を眺めながら思いついたとされている。

 「海と毒薬」は熊井啓監督により映画化され、昭和62年にベルリン映画祭銀熊賞審査員特別賞を受賞している。この事件の詳細については、上坂冬子の著書「生体解剖」(中央公論社、昭和54年)が最も詳しく信頼性が高い。上坂冬子はアメリカ国立公文書館からこの事件の公判記録を入手して本を書いたとされている。

 

 

 

飢餓の時代  昭和20年(1945年)

 終戦からの約3年間は国民が飢餓に苦しみ、飢餓に耐えた時代であった。この餓死寸前の食糧不足がなぜ起きたのか、その分析は曖昧のまま、終戦による混乱によると思われがちである。もちろん終戦による混乱もあるが、食糧危機を引き起こしたのは、偶然にも悪天候による凶作が災いしていたのである。

 昭和20年8月15日の終戦の日、あの暑い夏の情景から、その年が凶作だったと想像できる者は少ないであろう。だが同年9月17日には、死者3756人の犠牲者を出した枕崎台風によって農作物は壊滅状態となり、さらに暴風雨や冷害が重なり、同年の農作物の生産高は前年比35%減となっていた。昭和20年は36年ぶりの未曾有の大凶作の年で、さらに朝鮮や台湾からの食糧はストップし、代わりに600万人もの引揚者が帰国したため食糧事情はますます悪化し、人々はサツマイモのしっぽで飢えをしのいでいた。

 昭和2010月、当時の渋沢敬三・大蔵大臣は、現状のままだと来年度の餓死者は1000万人を超えるとUP記者に語っている。食糧事情の深刻さはこの大蔵大臣の言葉から伺い知ることができる。まさに「瑞穂(みずほ)の国」日本は飢餓列島と化していた。

 昭和201215日、東京・上野の地下道で浮浪者の一斉狩り込みが行われた。浮浪者の多くは戦災によって住居を失った人たちで、親を失った戦争孤児、引揚者、復員軍人が大勢含まれていた。この日の一斉狩り込みで、帰る家を失った2500人が保護収容された。

 日本の都市のほとんどが空襲で破壊され、廃墟の街は膝上ほどに雑草が伸びていた。住む家を失った人たちは雨風の防げる地下道へ集まり、上野だけではなく、横浜、名古屋、大阪などの都市部はいずれも同じような状況になっていた。

 昭和21年の冬は、厳しい寒波が日本を襲い、救援を待てず凍死する者が続出していた。上野駅だけで毎日6人の浮浪者が亡くなっていた。明らかな統計はないが、終戦当時の日本人の死因は結核よりも餓死の方が多かったとされている。東京都衛生局は浮浪者たちの一時収容所を設け、狩り込みで集めた彼らを厚生施設に収容し、自立更正の指導を行った。

 浮浪者たちは戸籍や住民票がないので食料の配給が受けられず、最悪の状況にあった。彼らのほとんどは餓死に近い栄養失調に陥り、伝染病が流行し、病気で倒れる人、飢え死にする人たちが多数いた。内務省の発表では、戦時中に米軍の空襲で消失した家屋が246万戸、防災上の理由から強制的に取り壊された家屋が55万戸。さらに数十万人の子供たちが戦争で身寄りを失っていた。

 同じころ、作家の野坂昭如は幼い妹と神戸の街をさまよっていた。養子に行った先の家が空襲で焼け、野坂昭如は養親を失い、妹をも失うことになる。20余年後、このことを「火垂るの墓」の題名で小説に書き、野坂昭如は焼跡闇市派として、昭和42年に直木賞を受賞している。

 昭和21年の国民1人当たりの栄養摂取量は1日1400キロカロリーであった。このうちの1000キロカロリーが国による配給で、残り400キロカロリーがヤミ市などによる不法なものだった。現在の1人当たりの栄養摂取量は1日2600キロカロリーなので、終戦当時は現在の約半分の摂取量であった。成人男性が身体を維持できる限界は1400キロカロリーとされ、国民全体が餓死寸前の栄養状態にあった。しかも、この栄養摂取量は国民1人当たりの数値であって、食糧事情の悪い都市部の人たちの摂取カロリーはさらに低いものであった。

 都市部では国の配給だけでは生きていけず、しかも配給は遅配、欠配が繰り返され、実際には必要とされる54%の摂取カロリーにすぎなかった。昭和21年6月の東京都の調査では、東京都民のうち米飯を日に3度食べている者は14%、1度しか食べていない者は71%、1度も食べていない者は15%となっている。

 昭和21年5月31日にNHKのラジオ番組「街頭録音」が始まったが、第1回目のテーマは「あなたはどうして食べていますか」であった。東京の小売物価指数は、戦前を100とすると、昭和20年末には308と3倍に上昇し、この物価上昇に給料はとても追いつけなかった。

  終戦のショックが日本中を覆っていたが、新しい日本の息吹が焼け跡から生まれてきた。焼け跡にはバラックが建てられ、終戦5日目の8月20日には、闇市第1号が東京新宿で産声を上げた。開店したのは新宿マーケット(新宿区新宿1-26付近)で、「光は新宿から」をキャッチフレーズに、闇市が日本再建の先端を担ったのである。