昭和60年代

 

昭和60年代

 

 昭和60年代はまさにバブルの時代だった。昭和60922日に日米英独仏による「プラザ合意」がなされたが、プラザ合意は日本の貿易黒字と欧米の経済立て直しを解決するために、各国が協調介入いてドル安を誘導することであった。これにより1ドル240円が120円台へと予想を越えたの円高になった。貿易立国の日本が円高になれば輸出産業は大打撃を受けることになる。日本銀行は金利を低下させ、この金融緩和による金あまりがバブル経済の引き金となった。

 アメリカは日本に市場開放をせまり、630兆円の公共投資を約束させた。中曽根内閣は公共事業などの内需拡大路線をとり、法人税42%を30%へ、所得税最高税率70%を40%に引下げ、そのため余った金が土地や株式に向かい、株式相場と土地価格が高騰した。土地価格が高騰すると、それを担保にさらに投資が行われ、庶民は土地神話を信じ、企業は本業よりも土地の転売益に奔走した。

 安田火災は約57億円でゴッホの絵画「ひまわり」を購入。中流意識の会社員はゴルフ会員権を買い、小金持ちは高級車を買い(シーマ現象)、土地持ちは土地を担保に変額保険を購入し、すべてが金儲けのバスに乗り遅れまいとした。国もバブルに躍り、昭和62年にリゾート法が制定されると、日本各地でリゾート事業を展開させた。地価の高騰で「山手線内側の土地でアメリカ全土が買える」といわれ、三菱地所はロックフェラーセンタービルを買い、企業は事業を過度に拡大し、庶民は投資価格の高騰で自分が金持ちになったと錯覚した。一方、プラザ合意で急激な円高となった経済界は、為替損失の対抗から国内生産を海外生産へとシフトし、特に自動車産業は自己防衛のため海外生産を余儀なくされた。そのため日本の雇用がしだいに奪われることになった。

 資本主義と共産主義の冷戦は、経済という武器を持った資本主義が優勢になり、若者の感心は政治よりもテレビやゲームなどの個人的趣味へ移った。個性、個室が尊重され、真面目よりも面白さが優先され、フジテレビの「面白くなければテレビじゃない」が象徴するように、享楽的笑いが重視された。日本の経済や生活は好景気に沸いたが、投資にはババ抜きの危険性が潜んでいた。

 政府は行政改革として日本電信電話公社、日本専売公社、国鉄の三公社を民営化し、平成元年4月より消費税を導入されたが、この民営化と消費税が日本経済の転換期を示していた。それは時代の流れであったが、上手く行くはずの改革が、グローバル化する世界に飲み込まれ、株価は平成元年の大納会(1229日)に最高値38,915円を付けたのをピークに暴落し、翌年には20,000円を割り半値になった。バブルは単なる金融虚業に過ぎなかったが、虚業が実業の衰退を導き、昭和はバブルとともに終わりをつげた。そしてそれ以降、失われた10年、失われた20年と言われながら、泡沫の低迷期から脱出できないでいる。

 このバブルの数年間、国民の気持ちも浮き足立ち、「お金が何よりも優先する」という考えが日本人の精神構造を変えていった。テレビドラマ「金曜日の妻たち」が不倫願望を煽り、テレクラは繁盛し、その象徴的言葉が「援助交際」であった。そして性風俗に警鐘をうながしたのがエイズであったが、時代の流れを変えることはできなかった。

 

 

 

エホバの証人事件 昭和60年(1985年)

 昭和60年6月6日午後4時30分、川崎市高津区の県道の交差点で、ダンプカーが自転車に乗って信号待ちをしていた小学5年生・鈴木大ちゃん(10)に接触、大ちゃんは転倒して後輪に巻き込まれて両足を骨折する大けがを負い、救急車で川崎市宮前区の聖マリアンナ医大病院・救命救急センターに搬送された。両足の骨折は骨が露出するほどの大けがであったが、意識はしっかりしていて、輸血をしてから手術を行うことになった。

 しかし、駆けつけた大ちゃんの父親(44)は「エホバの証人」の信者で、信仰上の理由から輸血を拒否。大ちゃんは輸血を受けられず、出血性ショックで死亡した。大ちゃんが死亡したのは病院に到着してから5時間後のことであった。これがいわゆるエホバの証人による「大ちゃん事件」である。

 大ちゃんは大けがだったが、生命にかかわるほどではなかった。担当の医師(32)は「輸血をしないと死んでしまう」「輸血を受けて手術をするように」と、何回も両親に説得を繰り返した。輸血をすれば救命できたのに、信者たちに囲まれた両親は揺れる気持ちの中で輸血を拒否したのだった。両親は子供の生命よりも信仰を選んだのである。

 医師たちは大ちゃんの生命を守るために懸命に説得を続けたが、宗教の壁に遮られ、医師は、大ちゃんに「輸血してもらうようにお父さんに言いなさい」と呼び掛けた。大ちゃんは父親に「死にたくない、生きたい」と訴えたが、父親の輸血拒否は変わらなかった。両親が病院に提出した決意書には、「今回、私たちの息子がたとえ死に至ることがあっても、輸血なしで万全の治療をして下さるよう切にお願いします。輸血は聖書にのっとって受けることはできません」と書かれていた。

 冷静に考えれば、大ちゃんは信者ではなく、しかも手術を希望していたのである。手術をすべきかどうか、医師たちは「信教の自由」と「生命の尊重」の狭間の中で、緊張した時間が過ぎるばかりだった。両親にとっても、たとえ宗教上の理由であっても、針のムシロ状態であったろう。

 この事件が報道されると、マスコミは「鈴木大君が生きたいと願っていたのに輸血を拒否したのは親のエゴ」「愛児よりも信仰の方が重いのか」「宗教が子供の命を奪うとは何事か」などと報道し、エホバの証人を批判する論調が強かった。この事件は海外にも報道され、宗教界だけでなく社会的波紋をよんだ。

 エホバの証人はキリスト教の一宗派で、聖書の戒律を忠実に実践する教団である。エホバの証人の正式名は「ものみの塔聖書冊子協会」で、19世紀末に米ペンシルベニア州生まれのチャールス・T・ラッセルが「ものみの塔」誌を創刊したことから歴史が始まる。その教義はエホバの神を唯一の神とし、旧教、新教には属さず、キリスト教の一宗派ではあるが、キリストの神性を否定していた。ほかのキリスト教団からは批判的にみられ、マスコミはカルト教団のごとく扱うことが多かった。

 信者は世界に約225万人、日本の信者は約10万人で、エホバの証人は信仰する宗教の内容よりも、むしろ輸血を拒否する宗教集団として知られていた。エホバの証人が輸血を禁止しているのは、「神はノアにすべての生き物を食物として与えたが、血には命があるから、命のある血を食べてはならない」とする戒律(レビ記)を絶対的信条として守っていたからである。

 この事件は、「輸血をしなかったことと、少年の死との因果関係」が最大のポイントだった。因果関係があれば、両親の輸血拒否が「未必の故意の殺人罪」、自分たちの信仰を子供に押しつけた親権の乱用による「保護責任者遺棄罪」が適用されることになる。医師としては最善の治療を怠った「業務上過失致死罪」、輸血を行わなかった「不作為による殺人罪」、さらに「医師法違反」などが予想された。

 しかし警察は、<1>事故そのものによるけがが大きかった<2>急性腎不全を合併して容体が急変し、出血性ショック死につながった<3>従って輸血をしても命は助からなかったとした。つまり輸血拒否と死因に因果関係はないとして、両親や医師に刑事責任を問えないと判断、裁判には至らなかった。

 神奈川県警交通指導課と高津署は、ダンプカーの運転手を業務上過失致死容疑で書類送検としたが、信仰の自由と生命の尊厳をめぐる論争は、その入り口で閉ざされることになった。この「大ちゃん事件」は多くの教訓と検討課題を残しながら、単なる交通事故として処理されてしまったのである。

 この「大ちゃん事件」では、親の信仰を子供に押しつけることの是非をめぐり、信仰の自由、子供の人権、医の倫理が問題になった。少年の生きる権利と親の権利、子供への親の代諾権、信仰の自由と医師の裁量権などについて、法曹界、宗教界、医療界でさまざまな論争が展開された。

 エホバの証人をめぐる同種の事件は、昭和60年1月23日にも起きている。富山県で信者が交通事故で死亡。この際、加害者の運転手は輸血拒否の責任まで問えないと主張し、業務上過失致死ではなく業務上過失傷害罪として起訴されている。

 また大分県別府市では骨肉腫に冒されたエホバの証人の信者(35)に、信者ではない両親が輸血できるように大分地裁に医療行為委任の仮処分を申請したが、大分地裁は「本人は十分な判断能力がある」として両親の申請を却下して、患者本人の意思を尊重した。

 昭和6111月1日、静岡市で交通事故に遭った女性信者(54)が、輸血を拒否して死亡。その信者はバイクに乗ってトラックと衝突、同市の社会保険桜ヶ丘総合病院に運ばれた。肋骨が内臓に突き刺さって切開手術が必要だった。しかし本人が信仰上の理由から輸血を拒否、病院側と警察が輸血するよう説得したが、夫も応じなかったため4日後に死亡した。

 警察署は、「通常の医療行為を施せば死亡しなかった」として、運転手の業務上過失致死は問わず、業務上過失傷害容疑で静岡地検に書類送検するにとどめた。また夫と病院側の責任も問われなかった。このように日本各地でエホバの証人による輸血問題が散発した。

 エホバの証人の輸血拒否は、輸血を担当とする麻酔科医師にとっても大きな問題であった。大阪大医学部の吉矢生人麻酔科教授は全国80の大学病院と191の病院にアンケート調査を行い。その結果、輸血拒否の経験のある病院は56%、輸血なしの手術に応じたのが50%、輸血なしの手術には応じられないと断った病院が13%、承諾を得られなかったが輸血を前提に手術をしたのが27病院だった。この調査の時点で、病院として輸血を行うと事前に決めていたのは40病院と極めて少なかった。

 エホバの証人事件は、「医療は誰のためにあるのか」という根本的な問い掛けを提起していた。エホバの証人による「大ちゃん事件」は、裁判にはならなかったが、それまでくすぶっていた医療の根本的問題を問い直すきっかけになった。東京都内の病院では、心臓手術に際して両親から、「輸血をするならもう自分の子供ではない。病院で引き取ってくれ」と迫られたことがあった。宗教を理由に輸血を断る患者、医師の本分として輸血で命を助けようとする医師。生命の重みと信仰の自由、さらに法的責任が絡んだ複雑な問題であった。

 その当時は、ちょうど患者の権利意識が次第に高まっていた時期と重なっていた。「医療の決定権が医師にあるのか、患者にあるのか」が問われていた。しかし、患者に決定権があるとしても、子供の決定権は子供にあるのか、親にあるかが問題であった。「大ちゃん事件」以前は、「医療の決定権は医師にある」とするのが一般的であった。

 それは病気の治療については専門的な知識を持つ医師に任せするべきとの考えに基づくもので、医師の父権主義と呼ばれるものであった。医師と患者の関係は「医師は子供を指導する父親」に例えられていた。しかし、時代とともに患者の権利意識が高まり、「患者自身の医療は患者が決定権を持つ」とする考えに変わろうとしていた。

 しかし患者が小児の場合、子供が自己決定権を持てるかどうかが議論された。親が子供にとって最善の利益を選択決定するのは当然であるが、親の決定が子供の死を招くものであれば、それは親権の乱用と解釈することができた。子供の自己決定権は何歳からあるのか、親の信仰を子供に押しつけてもよいのか。この点に関しては、まだ一般的な合意は得られていない。また子供が意思決定できない場合、親と医師のどちらが医療を判断するかについてもまだ解決していない。

 米国、英国、西ドイツでは、信者が子供への輸血を拒否した場合、病院は直ちに少年法廷を開き、親に代わる監督権者が任命され、監督権者の同意があれば治療ができる。日本では「大ちゃん事件」により、一時的な親権剥奪を認めよとの主張がなされたが、具体的な事例はまだ出ていない。

 「大ちゃん事件」は裁判にならなかったので、法的判断はなされなかった。「大ちゃん事件」のように子供が生きたいという意思を示し、親が反対した場合にどうするかは未解決の問題となっている。中学生以上の子供の場合には、本人と親の意思を尊重するものの、生命に危険が迫った場合には、輸血もやむを得ないとするのが多くの病院の方針となっている。

 このエホバの証人に関する輸血の問題は、別の裁判で争われることになる。平成4年、悪性の肝腫瘍と診断された女性(63)が東京大医科学研究所付属病院(医科研、東京都港区)に転院。エホバの証人の女性は信仰上の理由から無輸血の手術を希望。「いかなる事態に至ろうとも、医師の責任は追及しない」との免責証書を病院へ提出した。

 医師は「説明すれば女性が手術を拒否する」と考え、輸血の可能性について説明しなかった。しかし手術では、予想以上の出血から医師は患者の生命を守るため600ccの輸血を行った。この事実は本人や家族には知らされなかったが、数カ月後マスコミに漏れ、医科研もその事実を認めた。

 本人と遺族は精神的な苦痛を受けたとして、手術を行った医師3人と国に対し1200万円の損害賠償を求める訴えを東京地裁に起こした。医師は輸血の説明をすれば女性が手術を拒否すると考え、輸血の可能性について説明しなかったと主張。女性側は「医師が輸血をすると明言すれば、手術を拒否した」と医師を追及した。この事件は、「患者の意思に反するが、必要に迫られて輸血した」ことの是非が問われる初めての裁判となった。

 東京地裁は、医師には救命義務があり、輸血は違法とする訴えを棄却したが、患者と家族はすぐに東京高裁に控訴。平成10年2月10日、東京高裁は原告の請求を部分的に認める逆転判決を言い渡した。この裁判は、生命の危険にさらされても、輸血を拒否している患者への輸血をめぐり、医師の責任を問う初めての事例として注目された。医科研はこの判決を不服として上告したが、最高裁は病院に損害賠償を命じた二審判決を支持、医科研に約55万円の損害賠償を命じた。千種秀夫裁判長は判決の中で「輸血の可能性の説明を怠ったのは、手術を受けるかどうかの意思決定をする信者の権利を奪うもので、人格権の侵害になる。医師は輸血もあり得ることを説明した上で信者自身の意思決定に委ねるべきだった」と述べた。さらに、「患者が自分の宗教的信念に反するとして輸血を拒否した場合、その意思は尊重しなければならない」と指摘した。この判決は4人の裁判官全員の一致した考えであった。

 つまり医師が患者に無断で輸血した場合は、患者の人格権侵害に当たると判断したのである。医療上の自己決定権が、憲法で保障する人格権に含まれるとした。このことは、尊厳死を選択する自由を含め、自己の生命を自らが決定することを認めた点で画期的な判決であった。

 この判決は大きな意味を持っていた。それはエホバの証人の輸血問題だけでなく、「医療の決定権のすべてが医師から患者に移った」ことを意味していたからである。医療を決定するのは患者本人であり、医師が本人の望まない医療を行うことは違法であることを示していた。裁判長はまた、「人はいずれ死ぬべきもので、死ぬまでの生きざまは自らが決定できる。尊厳死を選択する自由も認められるべきだ」と異例の発言を行った。

 患者中心の医療が長い間にわたり議論されてきた、しかし医療の新しい流れをエホバの証人がつくり上げたのである。現場の医師にとっては「生命の尊厳と信教の自由」のどちらかを選択するかは大きな問題であるが、患者を説得しても患者が受け入れられない場合は、患者本人が希望する医療をする以外に方法がないことを裁判所が命じたのである。

 つまりエホバの証人事件によって、「医療の決定権は医師から患者へ移行した」のである。エホバの証人が最高裁で勝訴したことより、それまでの長々と議論されてきた医療の自己決定権の論議に終止符が打たれた。議論によるコンセンサスではなく、裁判所の判断によって「医師は患者が希望しない治療を行ってはならない」という新しい原則が出来上がった。

 信仰上の理由で輸血を拒む「エホバの証人事件」は、医療における自己決定権が患者側にあることを明確にした。この裁判により輸血だけではなく、がんの告知、終末期医療、遺伝子診断の在り方、新薬治験への参加、臓器移植、カルテ開示などの医療のさまざまな分野で、患者の自己決定権が尊重されることになった。そのために、医師によるインフォームドコンセント(十分な説明と同意)が常識となった。

 

 

 

DNA鑑定 昭和60年(1985年)

 DNA鑑定法は、英国のアレック・ジェフリー博士が考案し、昭和60年の科学誌「ネイチャー」に初めて報告した方法である。DNAは、Deoxyribonucleic Acid の略で、「デオキシリボ核酸」のことである。遺伝情報の元であるDNAは、アデニン、グアニン、シトシン、チミンの4種類の塩基で構成され、この塩基の配列よって遺伝情報がつくられている。人間のタンパクをつくる遺伝子情報は同じであるが、DNAには各個人によって塩基配列が異なる部位がある。その異なる部位のDNAの違いを分析して、個人を鑑定するのがDNA鑑定法である。

 1卵性双生児を除けば、DNAの配列はすべての人間で違っていいて、個人のDNAは生涯変わることはない。このことからDNA配列を調べれば、完全な個人鑑別が可能だった。制限酵素という酵素を用いてDNAを切断し、制限酵素が認識するDNAの部位が個人で異なっていることから、その断片化したDNAを、電気泳動により画像化することによって、DNAの違いを観察できるのである。

 DNA鑑定法は毛髪、体液、皮膚などから採取するが、DNAがごく微量でもPCR法(合成酵素連続反応法)で増幅させ分析することができたのである。ジェフリー博士のDNA鑑定法が発表された翌年には、警察庁・科学警察研究所もDNA鑑定法の研究に着手している。

 平成3年1月22日夜、茨城県内の路上で、軽自動車を運転していた23歳の女性が、後からきた自動車のクラクションで停車させられた。自動車から降りてきた男性は、女性の軽自動車の運転席に乗り込むと、女性の衣服をはぎ取り後部座席で暴行を加えた。

 同月29日夜、同じ茨城県内で22歳の女性が運転する自動車が後からパッシングを受けて停車させられ、自動車から降りた男性は、女性を付近の農道に連れ込み、全裸にして暴行を加えた。埼玉県東村山市でも、同様の手口による婦女暴行事件が起きた。

 犯人は、盗んだ他人の自動車のナンバー・プレートを付け、次々と若い女性に暴行を加えていった。この事件から数週間後、茨城県三和町の酒屋に包丁を持った男が押し入り、強盗致死傷の現行犯で逮捕された。取り調べの結果、元造園業者の新井正男(42)が、連続婦女暴行事件にも関与していたことがわかった。

 新井正男は酒屋での強盗致死傷は認めたが、連続婦女暴行事件については否定していたが、暴行現場の目撃証言が信用できること、偽装したナンバー・プレートの自動車が目撃されていたことが有力な証拠となった。さらに自動車のシートカバー、自動車に残されたちり紙、被害者の体内に残された精液の血液型とDNA型が、新井正男の血液から採取されたものと同型であった。精液の血液型・DNA型は1600万人に1人の確率で新井正男のものとされた。この事件当時、DNA鑑定はあくまでも参考証拠で、物的証拠としては採用されなかったが、この事件でDNA鑑定が初めて日本の法廷に登場したのだった。

 この事件の1年前の平成2年5月12日、栃木県足利市の渡良瀬川河原で松田俊二さんの長女真実ちゃん(4)が殺害される事件があった。その日の午後6時頃、真実ちゃんは父親とパチンコ店へ出かけ、初めのうちは父親のパチンコを見ていたが、やがて退屈になり店の駐車場で遊んでいた。8時頃に父親が娘の姿が見えないことに気づき、店の周辺を探したが見つからなかった。父親は945分頃足利署に連絡、警察官や消防隊員100人が徹夜で探し回ったが発見できず、翌朝の1020分頃、パチンコ店から約500m離れた渡良瀬川の茂みの中で、真実ちゃんは全裸遺体となって発見された。

 死因は首を絞められての窒息死で、死亡推定時刻は前夜の7時半頃だった。現場付近は人通りが多かったが、有力な目撃情報はなかった。しかし間もなく、中年の男性が真実ちゃんらしい女児の手を引いて河原の土手を歩いていたという目撃情報が寄せられた。

 この事件で1日平均100人の捜査員が、1年7カ月にわたり動員され、必死の捜索が続けられたが捜査は困難を極めた。捜査員が必死になったのは、真実ちゃんの殺害のほかにも、似たような事件が連続していたからである。

 昭和54年と昭和59年に、いずれも5歳の少女が、昭和62年には8歳の少女が、足利市周辺で同じような手口で誘拐され殺害されていたのである。これらの事件は未解決のまま、真実ちゃんの殺害と同一犯によるものと考えられていた。

 捜査本部は市内の不審者や変質者4000人を絞り込み、アリバイを調べては1人1人消去していった。そして保育園の元バス運転手、菅家利和さん(45)が捜査線上に浮かんだ。菅家さんは、ビデオや雑誌を愛好し、事件当日のアリバイがなかった。

 捜査員は1年間にわたり菅家さんの内偵を行い、菅家さんが捨てたゴミ袋から体液のついたティッシュぺーパーを入手し、真実ちゃんの衣服に付着していた精液とDNA鑑定を行った。その結果、菅家さんのDNAが真実ちゃんの衣服に付いていたDNAと一致、同一人物と断定された。この鑑定結果を突き付けられ、菅家さんは犯行を自白するに至った。この事件でDNA鑑定が初めて犯人逮捕の決め手となった。

 しかし裁判になると菅家さんは一転して無罪を主張。そのため裁判では唯一の物的証拠であるDNA鑑定の信用性が焦点となった。弁護側は「DNA鑑定は個人を特定するものではない」と無罪を主張したが、平成5年7月、宇都宮地裁は「犯人と被告人の血液型およびDNA型が一致する確率は1000人に1〜2人程度」とする警察庁・科学警察研究所の鑑定結果を評価して、無期懲役とした。菅家さんは上告したが、事件発生から10年後の平成12年7月、最高裁の亀山継夫裁判長は「DNA鑑定は、科学的に信頼できる方法で証拠となり得る」として無期懲役が確定した。この足利事件は、日本で初めてDNA鑑定が逮捕の根拠となったもので、マスコミも大きく報道し、また裁判でも証拠として認められ、DNA鑑定が法的に認知された。

 それまでは血球型が個人の鑑別に用いられていた。しかし日本人はA型が40%、B型が20%、AB型は10%、O型は30%で、つまり犯罪現場の血液型がA型だったとしても、ABO式血液型だけでは犯人を特定できなかった。しかしDNA鑑定が導入され、鑑別の精度が飛躍的に向上し100万人に1人まで個人識別が可能になり、DNA鑑定は「血液の指紋」とまでいわれるようになった。このため足利事件以降、警察庁だけでなく各都道府県警にある科学捜査研究所や大学の法医学教室にもDNA鑑定が広く普及している。

 このようにDNA鑑定が絶対的に信頼できるものだとしても、落とし穴があった。足利事件で菅家さんは犯人とされ、宇都宮地裁で無期懲役となり、平成12年に最高裁で上告が破棄され無期懲役が確定した。菅谷さんは17年半の間、生活をうばわれたが、菅谷さんは冤罪だったのである。DNA鑑定を最新の方法で行ったところ、菅谷さんのDNAは犯人とは別人だったのである。この大きな間違いは、DNA鑑定の精度が向上したせいと思われていたが、逮捕当時の古い方法でDNA鑑定を行ってもDNAは別人だった。つまり当時の科学警察研究所の鑑定そのものが間違っていたのだった。つまり血液型A型をB型と間違ったのと同じ、単純な間違いだったのである。この間違いにより菅谷さんは17年半にわたり自由を奪われたが、やっと無罪になった。

 現在、DNA鑑定は個人識別として広く用いられるが、識別が正しくても、菅谷さんの例が示すように、鑑定を読み間違える人為的ミスの可能性がある。

 平成9年3月の、いわゆる東電OL殺人事件でもDNA鑑定が問題視されている。この事件は、慶応大を卒業して東京電力に勤めていた39歳の管理職の女性が、渋谷の安アパートで殺害され、ネパール国籍のゴビンダ・プラサド・マイナリ(30)が犯人として逮捕された。マイナリが犯人とされたのは、殺害された部屋に残されたコンドームの精液が、DNA鑑定でマイナリのものとされたからである。それ以外にも状況証拠はあるが、それらはあくまでも状況証拠で、決定的証拠はなかった。そのためDNA鑑定が裁判の争点となり、マイナリは精液を自分のものと認めたが、それは殺害前に同女性と関係した際に使用したもので、殺害時のものではないと主張したのである。

 この事件が多くの話題を呼んだのは、一流企業の管理職女性が昼と夜の顔を使い分け、行きずりの売春を行っていたことである。またこの事件は国際的な冤罪になる可能性があった。このような話題性から数冊の本が出版された。東京地裁はマイナリを無罪としたが、東京高裁は無期懲役と逆転判決を下し、最高裁は被告人の上告を認めずマイナリの無期懲役が確定した。

 DNA鑑定は犯罪捜査として進歩したが、親子鑑定にも用いられている。親子鑑定は、遺伝情報のDNAが母親と父親から子供へ半分ずつ受け継がれることを応用したものである。親子鑑定は、男性に認知を求める認知請求、父親(夫)が自分の子供ではないと訴える嫡出子否認請求の2つが大部分である。

 最近、日本では10社以上の民間業者が親子鑑定をやっている。検査は採血する必要はなく、口腔内の粘膜からぬぐい取った細胞を用いる。民間業者は試料を受け取り、検査は米国の企業で行う。民間業者の経営が成り立つのだから、それだけの需要があるのだろう。

 

 

 

スパイクタイヤ公害 昭和60年(1985年) 

 昭和38年にスパイクタイヤが発売されると、北海道や東北地方などの寒冷地で急速に使用されるようになった。スパイクタイヤとは、硬い特殊合金のピンをタイヤに埋め込んだもので、凍った道路を走るのに抜群の効果があった。

 それまでは、泥だらけになりながらタイヤににチェーンを巻いていたが、その面倒をスパイクタイヤが解決してくれた。スパイクタイヤは昭和40年代までは何ら問題なく使用されていたが、雪国での自動車の80%がスパイクタイヤを付けるようになると、粉塵公害という厄介な問題が生じた。

 寒冷地の冬の市街地をうっすらと覆うほこりは、それまで未経験のことで、当初はタイヤに付着した土砂を市街地に持ち込んだためとされていた。しかし舗装道路の表面が削られ、わだちができ、横断歩道の白線が消えてしまい、このことからスパイクタイヤが削られたアスファルトが空気中に舞い上がったことが原因と疑われた。道路に雪が積もっていれば粉塵は生じなかったが、雪のない日が続くと粉塵が舞い上がった。

 スパイクタイヤの粉塵には2種類あり、1つは削られたアスファルトで、もう1つはスパイクピンの特殊合金によるものであった。道路は摩耗し、ひと冬で3cmも削られることがあった。

札幌市では粉塵の量が1平方キロ当たり180立方メートルに達し、粉塵による人体への悪影響が心配された。

 スパイクタイヤを最初に問題としたのは仙台市だった。仙台市は寒冷地で道路が凍ることが多く、太平洋側のため雪は少なかった。そのため粉塵による被害が大きかった。仙台市は、市民、行政、学界、マスコミ、企業を巻き込んで粉塵被害について活発な論争が展開された。さまざまな調査により、 粉塵の原因がスパイクタイヤであること、健康への影響が無視できないことが明らかになり、粉塵公害は北海道、東北、北陸などの寒冷地に波及し、全国的な「脱スパイク運動」へと進展していった。

 昭和58年4月、札幌鉄道病院呼吸器内科の平賀洋明医師が「スパイクタイヤの粉塵が、野犬の肺に沈着している」と報告。肺に入った金属片などの周囲に異物性肉芽腫が生じることを示した。札幌市では30匹中7匹の犬に、仙台市では20匹中4匹の犬に異物性肉芽腫を見出された。肺内に沈着している金属片は、鉄、アルミニウム、ケイ素などで、スパイクピンの成分だった。

 北海道大学環境科学研究所チームは、地上30cmから180cmまで30cm刻みで空気中の粉塵の量を測定。その結果、高さによる粉塵量に差はなく、粉塵の45%は人間の肺に達する大きさだった。犬と同じように人間も粉塵を吸い込み、異物性肉芽腫をきたしていると警告した。

 環境庁はラットを用いた実験を行い、発がん性は確認されなかったが、アルミニウムやケイ素が肺に沈着すると肺組織が固くなり、線維形成をきたすことを報告した。

 仙台市医師会の森川利夫医師のグループは気管支喘息児童を調べ、粉塵量が増えた4日後に喘息発作が多発することを発表。さらに市中心部の作業員や商店従業員らの肺内に鉄性物質の沈着が多いこと、道路沿いの住民の多くが洗濯物の汚れに気づいており、髪のザラつきを自覚していると述べた。

 昭和60年8月22日、日本自動車タイヤ協会はスパイクの打ち込み本数を減らすことで世間の批判をかわそうとした。警視庁は交通事故防止のためスパイクタイヤの追放には消極的で、自治省は消防、救急車などの緊急自動車を特例にするように要望を出した。国の対策は進まず、健康被害のほか、削られた道路の補修、横断歩道の白線の塗り直しなどの費用が行政を圧迫した。札幌市では年間約36億円、宮城県では県道だけで約17億円が使われていた。

 宮城県議会は国の対策を待たず、スパイクタイヤ使用禁止条例を全国で初めて制定し、昭和61年4月より、違反者から反則金を取ることにした。ほかの地域でも、無雪期間の使用禁止が決められた。

 北海道、東北、長野県の弁護士や市民は、スパイクタイヤの使用禁止を国とタイヤメーカーに要望、これを受けて総理府の公害等調整委員会はタイヤメーカーに販売中止を提示した。通産省はスパイクタイヤの減産を指導し、環境庁はスパイクタイヤによる粉塵の発生防止法案を提出した。その結果、スパイクタイヤは平成3年3月31日で販売中止となり、翌日から使用が禁止となった。

 タイヤメーカーはスパイクタイヤに代わるスタッドレスタイヤの開発に全力をあげることになった。スタッドレスタイヤは、氷点下でも柔らかな特殊ゴムを使い、タイヤ表面の溝を大きくして、冬道でも滑りにくくしたタイヤであった。スタッドレスタイヤはタイヤが路面をしっかりとらえ、摩擦が大きく滑りにくくしていた。ブレーキから停止までの制動性能はスパイクタイヤの8割程度であったが、雪国のタイヤのほとんどを占めるようになった。なお、タッドとは「飾りびょう」の意味で、スタッドレスタイヤは文字通り「びょうなしタイヤ」を意味していた。

 雪道での安全確保と事故防止はスタッドレスタイヤによってほぼ解決した。スタッドレスは雪道の平たん地ではスパイクタイヤと同じ程度、凍結道路ではスパイクタイヤの約80%の制動能力で、7%の勾配の坂道でも走れることが確かめられている。さらに4輪駆動やアンチロックブレーキ(急ブレーキ時にもロックせず、最大限の制動効果を発揮できる)などの技術開発で、雪道での運転はより安全になった。

 

 

 

二酸化炭素中毒  昭和60年(1985年)

 人間は呼吸によって空気中の酸素を取り入れ、体内の二酸化炭素を吐き出して生きている。このことから、二酸化炭素は無害のように思われがちであるが、それが意外に危険なのである。二酸化炭素中毒による死亡例の多くは、自動消火装置の誤作動、火山ガス、さらにはドライアイスなどで起きている。これらの事故は、二酸化炭素が充満して酸素濃度が低下することによる酸欠が死因とされてきたが、二酸化炭素そのものに毒性があることが分かってきた。

 昭和60年6月23日、大阪府堺市の造船工場で外国人技術者が貨物船を点検しているときに、誤って消火用の二酸化炭素噴射装置を作動させ、船内38カ所から二酸化炭素が一斉に噴き出し、作業員11人のうち6人が死亡している。

 昭和62年6月9日には、東京都港区芝の臨海ビル地下1階で、作業員が消火用ボンベを点検中に作業を誤り、大量の二酸化炭素が噴出した。作業員、運転手、清掃員ら5人が酸欠状態で倒れた。芝消防署救急隊が地下室から5人を搬出したが3人が死亡した。 

 さらに平成5年1012日、東京都千代田区にある郵政省地下2階の電圧機械室で、空調整備の配管を換えるため、壁に穴を開けたところ、誤って消火設備の配線を切断、消火用の二酸化炭素ガスが噴出して1人が死亡している。

 平成7年12月1日、東京都豊島区のビルから警備会社「セコム」の指令室に異常信号が入った。警備員2人がビルに入ると、急に気分が悪くなり救急車を要請。救急隊員が駆けつけると、1階の駐車場で警備員2人と同ビルの女性職員(28)が倒れていた。近くの病院に搬送したが、警備員の2人は死亡、女性は重体となった。

 3人が倒れていたのは1階の裏側に面した駐車場で、女性職員は上司の忘れ物を取りにビルに入り、帰る時にビルの出口を間違え、外に出ようとして消火装置のボタンを押してしまったのだった。消火装置のボックスのふたが開いており、70キロの二酸化炭素の入ったガスボンベ41本が空になっていた。

 消火装置は、立体駐車場、ビルの電気室、船内など通常は人のいないところに設置されている。火が燃えるには酸素が必要なので、二酸化炭素を用いた消火装置は酸素を遮断して鎮火させるためであった。かつて飛行機の消火装置も二酸化炭素が用いられていたが、消火装置の誤作動で死者が出たことから、飛行機の消火装置はフッ素系消火剤に切り変わっている。

 二酸化炭素中毒として火山ガスも有名であるが、世界最大の事故は昭和61年8月21日に、カメルーンのニオス湖で起きている。湖水の深層水で過飽和になっていた二酸化炭素が浅水層に移動、気泡となって100%近い二酸化炭素が谷あいの村に流れ込み、住民1746人、家畜8000頭以上が死亡した。ニオス村では住民1200人のうち助かったのはわずか6人だった。

 平成9年7月12日、青森県・八甲田山で訓練中の自衛隊員12人が、青森市から20キロ離れた田代平の林の中にある通称ガス穴で、次々に意識を失って倒れ3人が死亡した。原因は二酸化炭素中毒で、穴の中の二酸化炭素濃度は1520%であった。火山ガスによる二酸化炭素中毒死亡例は日本では初めてのことだった。 

 ドライアイスによる二酸化炭素中毒例もある。平成6年8月7日、荷物室と運転席が仕切られていない送迎用の自動車で、ドライアイス300キロを紙に包んで運転していた従業員が二酸化炭素中毒で死亡する事故が起きている。平成9年9月29日、コンテナに保管しているドライアイスを取りに入った従業員が死亡する事故も起きている。そのほかドライアイスによる死亡事故はこれまでに数件の報告がある。ドライアイス2キロを自動車に放置すると致死量に達するとされている。

 二酸化炭素中毒の発生場所として地下貯蔵室、ワインセラー、サイロなどがある。これらは生物の呼吸や発酵が関与している。二酸化炭素は空気より重く、無色、無臭であるため気付かないうちに死亡する。昭和41年、青森県十和田市のしょうゆ工場のタンク内で2人が死亡。昭和60年、滋賀県のビール工場の貯蔵庫で1人が死亡。このようにこれまで20人以上が死亡している。これらの事故では、倒れた人を助けようとした人が犠牲者となることが多い。

 二酸化炭素に意識消失作用があることは18世紀から知られていた。人間が通常の空気(酸素濃度20.9%)を吸っている場合の動脈の酸素濃度を100とすれば、酸素濃度が半分になれば動脈の酸素濃度も半分になる。このことから二酸化炭素中毒は酸欠死で、法医学的には窒息死に分類されてきた。しかし二酸化炭素中毒は単純ではなかった。酸素濃度20%、二酸化炭素濃度80%の気体を犬に吸わせた実験で、犬は1分で呼吸が停止し数分で死亡した。このことは、酸素が十分にあっても二酸化炭素の濃度が高いと危険であることを示していた。

 空気中の二酸化炭素は0.03%であるが、0.1%を超えると呼吸器、循環器、大脳などに影響を及ぼす。人間の吐いた空気に含まれる二酸化炭素濃度は3%なので、閉め切った部屋にたくさんの人が長時間いると危険な状態になる。例えば、密閉された小型エレベーターに10人が4時間閉じ込められた場合、酸素濃度は13.4% 二酸化炭素濃度は6%となり、危険な状態になる。二酸化炭素濃度4%で耳鳴り、頭痛、血圧上昇などの症状が現れ、10%で意識混濁、けいれんを起こして呼吸が止まる。30%では即意識が消失して死亡する。

 

 

 

女優・夏目雅子の死 昭和60年(1985年)

 昭和524月、夏目雅子(19)がカネボウ化粧品の夏のキャンペーン・ガールになり、大ブレークした。芸名の夏目雅子には、「夏の目玉商品」という意味が込められていた。灼熱(しゃくねつ)の太陽と青い空、青い海を背景にした小麦色の素肌、はちきれんばかりの肢体、そして澄んだ瞳のポスターに多くの若者は引きつけられた。

 夏目雅子(本名=西山雅子)は昭和321217日、東京・六本木の輸入雑貨商の子として生まれた。小学校から短大まで東京女学館で学び、短大在学中に日本テレビのドラマ「愛が見えますか」のオーディションに応募、募集者486人の中から見事ヒロインに抜てきされてデビューした。その後、短大を中退して女優に専念することになった。

 昭和53年、日本テレビのドラマ「西遊記」に三蔵法師役で出演た。西遊記は孫悟空(堺正章)、沙悟浄(岸部シロー)、猪八戒(西田敏行)といった豪華キャストで、この番組は外国でも放映されて話題になった。テーマ曲を歌ったのはゴダイゴで、オープニングが「Monkey Magic」、エンディングが「ガンダーラ」でともにヒットした。

 昭和59年、五社英雄監督の映画「鬼龍院花子の生涯」で、彼女が言い放った「なめたら、いかんぜよ」という、火のような啖呵(たんか)が流行語になり、ブルーリボン賞主演女優賞を受賞した。夏目雅子の魅力は、洗練された都会的な雰囲気、柔らかな表情の中に隠された芯の強さ、屈託のない笑顔とスタイルの良さであった。

 テレビドラマでは、昭和53年のNHK大河ドラマ「黄金の日々」、56年の「おんな太閤記」で多くのファンをとらえ、「鉄道公安官」「騎馬奉行」「ザ・商社」「野々村病院物語」「徳川家康」などに出演した。

 映画は「俺の空」でデビュー、「二百三高地」「時代屋の女房」「南極物語」のほか、昭和59年には「瀬戸内少年野球団」に出演した。この「瀬戸内少年野球団」は、出演者の中から、夏目雅子、渡辺謙など大病を患う人が数人出たことから、後に「呪いの映画」と呼ばれた。

 夏目雅子はこの映画の後、甲状腺疾患で入院したが、昭和59年には作家の伊集院静と結婚。翌60年2月、東京・渋谷の西武劇場で「愚かな女」で主役を演じたが、極度の疲労を訴え慶応病院に運び込まれた。本人は「はってでも舞台に戻る」と泣き叫んだが、医師はそれを制して入院となった。

 本人には極度の貧血と告げられたが、病名は「急性骨髄性白血病」だった。 慶応病院での闘病生活で病状は回復に向かい、病院の廊下や屋上を散歩することもあった。ところが特ダネ写真を撮ろうと、カメラマンが白衣を着て医者に化けた潜入するなど、過激な報道にさらされた。そのため夏目雅子は病室にこもり、やがて病状は8月頃から悪化した。9月9日未明から危篤状態に陥り、9月11日併発していた肺炎によって午前1016分、27歳の若さで息を引き取った。夏目雅子のひつぎが帰ってきたとき、自宅前に押しかけた報道陣に、母親は「これであんたたちの思い通りになったでしょう」と叫んだとされている。

 白血病は白血球ががん化する病気で、悪性腫瘍全体の3%以下であるが、若年者では死因の上位を占めている。白血病は血液または骨髄の中でがん細胞が増殖する疾患で、急性白血病と慢性白血病に分類される。

 急性骨髄性白血病の有病率は人口10万人当たり2〜4人とされ、白血病全体の約6割を占めている。成人の場合40歳以下の発症は少なく、40歳以上では年齢とともに頻度が増加する。治療は多剤併用療法の進歩により改善し、最近の完全寛解率は約70%になっている。死亡例は少数派になっているが、腫瘍の増殖速度が速く、週日単位で病状が変化し改善しないケースもある。

 夏目雅子が亡くなる1年前に結婚した作家の伊集院静は、夏目雅子と209日にわたる闘病生活を共にし、その闘病生活を書いた「乳房」で直木賞を受賞している。書かれた文章には、「背後からパジャマを着させると、妻は私の手を両手でつかんで、その手を自分の乳房にあてた」との1節がある。死を前にした彼女の切ない心情が伝わってくる。

 女優・夏目雅子の若すぎる死は、急性骨髄性白血病の恐ろしさを教えてくれた。医学の進歩や新薬の開発により、治癒率は確実に上がっているが、抗がん剤の副作用である脱毛は精神的苦痛を与えるものである。

 夏目雅子の実兄小達一雄さんは、夏目さんが闘病中の頭髪を特に気にしていることを知っていた。女性の場合、脱毛による精神的ショックは大きい。そのため小達一雄さんは、夏目さんの遺志を継ぎ、「夏目雅子ひまわり基金」を設立した。ひまわり基金は、かつら300個を無償で貸与し、骨髄移植を啓発するとともにドナー登録を呼び掛けた。その他、エイズの正しい知識啓発などを続けている。

 夏目雅子のポスターは日本骨髄バンクのキャンペーンに使われている。骨髄バンクには10ccの献血で登録でき、16万人が登録している。1人の患者さんに適合する骨髄ドナーには30万人の登録が必要とされ、夏目雅子の悲しみを繰り返さないため登録に協力したい。

 白血病は不治の病のイメージがあるが、俳優の渡辺謙、女優の吉井怜らがこの病気を克服している。歌手の本田美奈子さんは残念ながら亡くなったが、本田美奈子さん、夏目雅子さんの明るい笑顔は私たちの心の中にいつまでも輝き続けている。

 

 

 

 ニセ医者偽装殺人事件 昭和60年(1985年) 

 昭和60年7月14日午後5時半のことである。福岡県浮羽町(現うきは市)高見にある石井内科医院の応接室で、石井正則院長(66)と訪ねてきた福岡市中央区西公園の茶こし製造販売会社・梶原春助社長(54)が口論となり、石井院長は梶原社長に包丁で胸を刺され出血多量で間もなく死亡した。前日に妻子と里帰りしていた石井院長の娘婿・栗原洋一医師(34)が医院の2階にいてこの騒動に気付き、自殺しようとする梶原社長ともみ合いになり、栗原医師は刃物を取り上げようとしたが、梶原社長は胸や腹を刺して自殺した。

 これが翌日の朝日新聞が報じた事件の内容だったが、福岡県警捜査一課と吉井署の合同捜査本部は、栗原洋一医師の供述に疑問を抱いていた。事件当日、栗原医師は妻子と院長夫人を太宰府にドライブに行かせていて、梶原社長と格闘した際に受けた傷があまりに軽症だった。そして決定的だったのは、梶原社長が逃げ込んだ近所の民家で、「栗原に刺された」と言ったことだった。

 捜査本部は、この点について栗原洋一医師を追及した。栗原医師は1週間後、それまでの供述を翻し、自分が殺害したことを自白した。

 栗山洋一は大分県中津市の生まれで、東京の高校を卒業、5浪の後に福岡大医学部に入学した。この浪人中に、福岡市内の予備校で石井院長の長男と友達になった。石井院長の長男は久留米大に入学したが病死、次男も医学部に進学するが交通事故で死亡した。石井院長は病院を増築して総合病院にすることを計画していたが、2人の息子を失い途方に暮れていた。後継者が欲しい院長は栗山洋一と長女を結婚させ、さらに次女も知り合いの医師と結婚させた。

 石井院長の栗山洋一への思い入れは強く、大学近くにマンションを借り、学費も生活費も出していた。しかし、成績の良くない栗山洋一は大学を7年で卒業したが、医師国家試験に合格できなかった。それでも妻や院長への見栄から、医師国家試験に合格して病院に勤務しているとウソをつき、義父から合格祝いに家を買ってもらい、石井医院で週3回の診療を行っていた。

 医師になれなかった栗山洋一は勤務医を装いながら、借金をして福岡市天神にスナックを購入した。実業家への転身を図ったのだろうが、スナックの経営は苦しく、借金がかさんでいった。1億円を超える借金ができてしまった栗山洋一は、さらに院長の名前を借りて院長の土地や建物を担保に借金して、殺害した梶原社長にも7000万円の借金があった。

 栗山洋一は医師免許を持っていないこと、多額の借金を抱えていることが、義父にばれることを恐れていた。借金の催促にも悩んでいた。そのため、一挙に清算しようとした。

 栗山洋一は梶原社長に金の工面ができたとウソをつき、石井医院に呼び出した。院長が席を外して台所へ行ったところを、追いかけていって包丁で殺害。さらに応接間に戻って梶原社長を刺したのである。腹を何度も刺された梶原社長は、近所の民家に逃げ込み、民家から119番で救急車を呼んだのであった。

 殺された石井院長は、九州医専(現久留米大)を卒業後、開業医となり、地元では温厚な人柄で通っていた。同県浮羽郡の内科医会長も務めていた。

 この事件は、国家試験に合格できなかった医学生の哀れな偽装殺人であった。

 

 

 

日本初のエイズ患者騒動 昭和60年(1985年)

 昭和60年3月21日、朝日新聞は「血友病患者2人が輸入血液製剤でエイズウイルスに感染し、死亡した」と1面のトップ記事で報道した。さらに記事には、日本の血友病患者の約半数がエイズウイルスに感染していると書かれていた。それは、後に「薬害エイズ事件」で逮捕される安部英(たけし)帝京大学教授が、医学専門誌に掲載する内容を事前に取材しての報道であった。事実、その詳細は、昭和60年4月号の医学雑誌「代謝」に発表された。

 安部教授がエイズと診断したのは、帝京大学で治療を受けていた2人の血友病患者だった。いずれも関東地方に住んでいて、昭和58年7月に1人(当時48)、昭和5911月に1人(当時62歳)が日和見感染症と全身衰弱で死亡していた。当時厚生省のエイズ研究班の班長であった安部教授はこの2人を臨床症状からエイズと診断していた。そしてその診断を確実にするため、米国の国立衛生研究所に患者の血液を送り、エイズの検査を依頼した。その結果、2人のエイズ感染が確認された。さらにこのとき、安部教授はエイズの症状を持たない血友病患者50人の血液検査も依頼していたが、その結果、50人の血友病患者のうち23人(46%)がエイズ抗体陽性という驚くべき事実が判明したのだった。

 朝日新聞は2人の患者をエイズによる死亡と報道したが、厚生省エイズ研究班はなぜかこの2人をエイズ患者と認定しなかった。後に来日した米国のエイズ専門家は、この2人の患者をエイズの典型例と診断しているにもかかわらずにである。

 厚生省エイズ研究班はこの2人をエイズと認定しなかったが、血液検査でエイズ感染が確定しているのであるから、血友病の治療のために輸入された血液製剤がエイズの感染源となったことは間違いなかった。米国で作られた血液製剤によって、エイズはすでに日本に上陸していたのだった。

 この時点で血友病患者へのエイズ対策が採られていれば、その後の薬害エイズはなかったはずである。しかし、この朝日新聞のスクープは不思議なことに1回だけの報道で終わってしまった。そしてその日以降、薬害エイズはあたかも間違いであったかのように、新聞紙面から姿を隠した。

 朝日新聞が血友病エイズをスクープした翌日の322日、奇妙なことが起きた。厚生省のエイズ調査検討委員会(班長=塩川優一・順天堂大学名誉教授)が男性アーティスト(36)を日本人エイズ患者第1号と公表したのである。この男性アーティストは米国在住のホモセクシャルで、多くの男性と性交渉を持っていた。この男性が日本に一時帰国した際、順天堂大学病院で診察を受け、エイズ患者と認定されたのである。読売新聞社をはじめとした各報道機関は、このアーティストを日本人エイズ第1号患者として大々的に報道した。その上で、この男性は米国に帰国したので、エイズの2次感染の心配はないと付け加えた。

 この日本人エイズ第1号患者の報道により、日本の報道はエイズ一色となった。米国で「流行していたエイズがついに日本へ上陸」「対岸の火事が日本に飛び火した」とマスコミは騒いだ。そしてエイズがホモセクシャルによって感染する疾患であることを強調した。この報道により、朝日新聞が前日にスクープした血友病エイズ感染はうやむやになってしまった。

 厚生省は同性愛による日本人エイズ患者第1号を作り上げ、血友病患者の約半数がエイズに感染している事実を隠蔽(いんぺい)することに成功。さらにエイズがホモセクシャルの疾患とする偏見を植え付けることにも成功した。厚生省、製薬会社、研究者たちは「薬害エイズ」の責任を回避しようとしたのである。マスコミも薬害エイズを直視せず、エイズをホモセクシャルの疾患として報道を繰り返した。

 信じられないことであるが、この時点でエイズの感染源である非加熱製剤はまだ血友病患者に投与されていた。厚生省がエイズ感染の心配のない加熱製剤を承認したのは昭和60年7月で、あまりにスローな対応であった。エイズの感染について、厚生省の松村明仁・元生物製剤課長が業務上過失致死傷で起訴されたが、松村元課長が起訴されたのは、非加熱製剤の危険性を知りながら、何もしなかった「不作為の罪」に問われたのである。

 この薬害エイズ事件で、松村元課長以上に責任があるのがマスコミである。エイズ患者第1号の発表時には、「日本の血友病患者5000人のうち千数百人がエイズに感染している」と朝日新聞が書いてあるのに、それを取り上げるマスコミはなぜか皆無だった。当事者の朝日新聞も沈黙を守っていた。血友病患者の半数がエイズに感染している事実を隠すように、厚生省は巧妙なトリックを次々に使ったのである。

 エイズサーベランス委員会が隔月ごとにエイズ感染者数を公表するが、昭和60年の発表から、なぜか血友病患者が統計から省かれた。日本のエイズの大部分を占める血友病患者が突然姿を消したのである。厚生省は「血友病患者は本来他人に感染を及ぼさないので、統計から除外し、記者クラブの了解事項」と述べたが、それは薬害エイズ隠しの高等戦術であった。

 日本では、男性ホモセクシャルから多発した米国のエイズとは異なり、血友病患者に多発していたのである。昭和62年の時点で、日本における全エイズ患者は59人であったが、そのうち血友病患者が34人と大部分を占めていた。

 エイズはホモの病気と報道されたが、日本では同性愛による患者はむしろ少数派であった。そのため、エイズ患者第1号の発表がなされて以降、マスコミの報道はエイズを予防するための方策として、コンドームの宣伝一色となった。街頭で女子高生がコンドームの使用を呼び掛ける様子がテレビで繰り返し報道された。

 マスコミはエイズに名を借りた性感染症の恐怖をあおるキャンペーンを展開した。エイズの広がりは、性道徳の低下が招いたものとしているが、エイズ予防のためのコンドームの宣伝は、性道徳をさらに低下させることになった。このコンドームの宣伝に、良識ある多くの人々は顔をしかめ、不快な気分を味わった。

 さらにエイズ感染と血友病との関連性を明確にしないで、エイズ感染ばかりをキャンペーンしたため、血友病患者はエイズという病気以上に、性の不道徳が生んだエイズという病気の偏見に苦しむことになった。社会は血友病患者に二重の苦しみを負わせたのである。

 当時、厚生省のエイズ調査検討委員会の塩川優一班長は、エイズ第1号患者に血友病患者を認定しなかったことについて、「安部先生に血友病患者の症例を報告するよう求めたが、残念ながら報告がなかった」と証言し、エイズを報告しなかった安部教授に責任があると強調した。真相はやぶの中であるが、エイズ患者の第1号が事実通り血友病患者だったならば、薬害エイズの対策が迅速に実行されたはずである。エイズを予防すべき専門家が、血友病患者にエイズを蔓延させた責任は重大である。

 エイズ、つまり後天性免疫不全症候群(AIDS=Acquired Immunodeficiency Syndrome)は、ヒト免疫不全ウイルス(HIV)によって起こる。このウイルスは、血液の中に入るとT4リンパ球を破壊し、全身の免疫機構が低下して抵抗力がなくなる。そのため病原性の弱い微生物(例えば、ニューモシスチス・カリニ)で肺炎を起こすようになる。

 HIVに感染してもすぐに症状は出ないが、数週間後にインフルエンザに似た症状、すなわち咽頭痛、筋肉痛、倦怠(けんたい)感などを起こす。この症状は一時的なもので3日から2週間で治る。本当の症状が現れるのは、感染して5年から10年後である。症状は微熱、寝汗、リンパ節腫脹、食欲減退、体重減少、疲れやすいさなどで、これらをエイズ関連症候群という。さらに日和見感染症、カリニ肺炎、カポジ肉腫などが出れば、エイズが発症したことになる。

 エイズ患者の約70%に何らかの中枢神経の障害が発症する。代表的なものはエイズ脳症と呼ばれるもので、症状は記憶力、集中力の障害、感情鈍磨、けいれん、知能低下など多彩である。エイズ患者は放置すれば約50%が1年以内に死亡する。

 HIVは、血液、精液、腟分泌物、母乳に含まれており、これが粘膜や皮膚の傷などから他人の血液の中に入ると感染が起きる。現在の感染経路は大別して3つに分けられる。汚染された血液または血液製剤を介するもの(血友病患者や同じ注射針による麻薬の回し打ちなど)、男性同性愛または異性間性行為によるもの、および母子感染である。

 男性同性愛では肛門性交で出血を起こしやすく、多量のウイルスを含んだ精液が血液中に入り感染する。キスや蚊による感染の事実はなく、患者の血液が針刺し事故で医療従事者に感染する危険は小さい。

 感染予防にはリスクの高い性交の際には、必ずコンドームを使用することである。米国や欧州では男性同性愛者に多かったが、知識の普及によりエイズの増加率は減少し、麻薬常用者間の感染と母子感染が問題になりつつある。タイでは売買春による異性間の感染が急増し、アフリカでも異性間の感染増加とともに、感染した母親から約30%の確率で生まれる子供のエイズが深刻な問題になっている。

 HIVに特効薬はないが、開発は進みエイズの予後は改善しつつある。現在国内で使用されているのは、逆転写酵素阻害剤と呼ばれるジドブジンなど、さらにプロテアーゼ阻害剤と呼ばれるサキナビルなどが大きな効果を上げ、薬剤の併用で多くの患者が救済されている。また、妊婦へのジドブジン投与による母子感染予防も特筆に値する。

 HIVの治療薬の進歩により、エイズの予後は改善されている。エイズ拠点病院も増え、国内の診療体制も整いつつある。日本ではHIV治療薬は国費負担で使用できるが、海外では高価なため使用できる患者は少ない。

 昭和59年7月7日、日本初のエイズ患者が新潟の病院で発症したとの小さな記事が新聞に掲載されている。日本初のエイズ患者騒動が世間を騒がす前のことであるが、なぜかこの記事は黙殺され話題にもならなかった。

 

 

 

脳死訴訟 昭和60年(1985年)

 和田寿朗教授(札幌医科大)によって、日本初の心臓移植が行われたのは昭和43年のことであった。当初のマスコミは心臓移植を称賛する記事を連日報道し、日本中が心臓移植の成功に沸いていた。しかし移植を受けた患者が死亡すると、マスコミの論調は一転して疑惑に変わり、和田教授を批判する報道になった。

 「心臓移植を受けた患者は、移植を必要とするほど悪くなかった」、「心臓を提供した青年は、死亡していない状態で心臓を摘出された」この疑惑が持ち上がったのである。和田寿朗教授は殺人罪で告発され、結局は不起訴処分になったが、和田教授の心臓移植は日本の臓器移植に大きな後遺症を残した。告発以降、日本の心臓移植は行われずにいた。

 臓器移植を議論する場合、最も大きな問題は、「何をもって人間の死」とするかである。臓器移植に「死の判定の合意」が必要なのは、人間の死には心臓死と脳死の2種類の死があったからで、この死の判定基準が未解決のままになっていた。

 心臓移植が可能なのは「脳死を人の死と認めた場合」だけであった。心臓移植には動いている心臓が必要なので、心臓死を人間の死とした場合、移植のための心臓摘出は殺人行為となった。昭和58年9月、厚生省は「脳死に関する研究班」を発足させたが、脳死判定基準をまとめることはできなかった。結局、移植をめぐる法の整備はなされず、日本の臓器移植は停滞した。

 この脳死判定基準について検討がなされている最中の、昭和59年9月25日、筑波大の岩崎洋治教授がわが国初の膵・腎同時移植を行った。岩崎教授は「脳死に関する研究班」の班員で、脳死の合意が未解決であることを承知の上での臓器移植だった。臓器移植には、多くの人々が納得する死の定義が必要であるが、岩崎教授はそれを知りながらの確信犯であった。

 臓器を提供したのは、48歳の主婦であった。主婦は過去に2回の脳出血を起こし入退院を繰り返していた。当日は、検査のために筑波大病院を受診する予定だったが、途中で発作を起こし緊急入院となった。病院に運ばれた時、主婦は再発性の脳出血により昏睡状態だった。

 主婦は、かねてから臓器を提供したいと夫に話しており、この家族の話を受けて臓器移植の準備が行われた。筑波大・岩崎教授のグループは、入院翌日に脳死と判定。主婦の膵臓と1つの腎臓が29歳の男性に、もう1つの腎臓が38歳の男性に、さらに2人の患者に角膜が移植された。

 移植から2カ月後の1124日、岩崎教授は日本移植学会でこの臓器移植について発表を行ったが、この臓器移植に東大グループが異議を唱えた。女性患者が脳死の状態で臓器提供の手術をしたこと、さらに患者が精神科に通院していることから臓器提供の同意の有効性を問題にしたのだった。また臓器提供を受けた患者が、本当に移植が必要だったかどうかも質問された。

 昭和60年2月12日、東大病院の医師らで組織する「患者の権利検討委員会(東大PRC)」や「脳死立法反対全国署名活動委員会」らのグループが、筑波大の岩崎洋治教授を殺人罪で東京地検に告発した。「脳死の判定が正しくても、心臓が拍動している患者から心臓を摘出し患者を死に至らしめた」としての告発だった。

 東大PRCは、臓器移植に脳死判定を認めないグループで、脳死状態で臓器を摘出したのは殺人罪に当たり、摘出の時点で死亡していたとしても、死体損壊罪に当たるとした。

 世界のほとんどの国が「脳死を人の死」としているが、日本ではまだ社会的合意はなされていなかった。脳死の段階では、心臓はまだ動いているので殺人の問題が出てくる。「死の判定基準」の合意がないまま臓器移植を行ったことが、この告発を招くことになった。しかし岩崎教授は一向に進まない日本の臓器移植に一石を投じたかったのである。

 岩崎教授は告発を受けたが、厚生省の「脳死に関する研究班」の委員を辞任しただけだった。この事件は告発されたが、裁判には至らなかった。臓器移植が行われたこと、また移植を行った医師が告発されたのは、和田教授以来17年ぶりのことであった。

 当時、移植において脳死判定が確立されていた欧米では、臓器移植は治療法の1つとして定着していた。また、臓器移植における拒否反応を防止する薬剤の開発が進み、臓器移植の成功率が急速に高まっていた。しかし日本では脳死の合意すらできず、臓器移植の議論はあったが、「脳死・心臓死」については17年も合意できずにいた。

 「脳死・心臓死」の議論は科学的な理論的対立ではなく、文化的、宗教観、人生観を含んだ感情的対立だった。そのため話し合いで結論など出るものではなかった。議論そのものが「水と油」で、両者が歩み寄ることは不可能に近いものであった。岩崎教授は、臓器移植に積極的な姿勢を示したが、臓器移植はこの1例だけで終わってしまった。

 

 

 

自動販売機パラコート事件 昭和60年(1985年)

 昭和60年夏から近畿地方を中心に、清涼飲料水の自動販売機の取り出し口に毒入りドリンクが置かれ、それを飲んだ人が死亡する事件が相次いだ。毒物の多くは除草剤パラコートであった。パラコートは猛毒であったが、当時は氏名、住所、職業を記入すれば農協や薬局で誰でも購入できた。濃度の低いパラコートならば園芸店でも購入できた。

 パラコートは入手しやすく値段が安くため、無差別殺人に使われたのである。結局、10人以上の犠牲を出した犯人は捕まらず、犯人が1人なのか複数なのかも分からず、すべて未解決になっている。

 昭和60年7月12日、最初の被害者は、大阪府東大阪市の呉嘉夫さん(48)だった。京都府福知山市の自動販売機でリアルゴールドを買った際に、入れたのは1本分の料金ないのに、取り出し口には2本あった。その2本を飲んで苦しみだし、翌月13日に死亡した。飲み残しの瓶からパラコートが検出された。

 次の事件は、9月10日早朝に起きた。大阪府富田林市に住む経理事務所の大津春夫さん(52)が、和歌山に釣りに行く途中、大阪府泉佐野市の国道26号線沿いの自動販売機で牛乳、缶コーヒー、オロナミンCを買った。硬貨を入れると、取り出し口にはオロナミンCが2本あり、2本とも持ち帰った。翌日、釣りから帰った大津さんは、自宅でオロナミンC1本を飲み、2本目のオロナミンCを半分ほど飲んだ。大津さんが苦しんでいるのを帰宅した妻が発見、病院に運ばれたが3日後の14日に呼吸不全で死亡した。

 翌911日、三重県松阪市の愛知学院大4年の山下義文さん(22)が、自宅近くの自動販売機でリアルゴールドを買った。1本買ったはずなのに、取り出し口には2本あった。山下さんは、自宅で2本目を飲んだところで吐き気と激痛に襲われ、病院に運ばれたたが14日に死亡した。

 大津さんと山下さんの事件は連続して起きていて、2つの自動販売機は100キロ離れていた。同一犯なのか、別人による偶然の事件なのか分からないまま未解決となった。この2つ事件をきっかけに、毒入り無差別殺人事件が全国に広がった。

 9月19日には、福井県今立郡今立町に住む木津三治さん(30)が、国道8号線沿いの自動販売機の下に置いてあった缶コーラを飲んで気分が悪くなり意識不明となり、福井赤十字病院で22日に呼吸困難で死亡した。

 9月20日、宮崎県都城市に住む恒吉道弘さん(45)が、国道269号線沿いの自動販売機でリアルゴールドを買い、車の中で2本目を飲んでいる途中で気分が悪くなった。宮崎医科大病院に入院したが、呼吸困難に陥り22日に死亡した。

 9月23日、大阪府羽曳野市のゴム加工業の男性(50)が、墓参りで実家の和歌山に行く途中、道沿いの自動販売機でオロナミンCを買うと、取り出し口にオロナミンCが2本あった。男性はその場で1本を飲み、車中でもう1本飲んだ。すると、腐ったような味がしたため吐き出し、その直後から体がだるくなり下痢を来したため、病院で治療を受けたが、2週間後の10月7日、呼吸困難に陥り死亡した。

  これらの事件はいずれも、自動販売機で1つ分のお金しか入れていないのに取り出し口に2この清涼水があったこと。呼吸不全で死亡し、パラコートが検出されたことであった。

 パラコート事件は個別に報じられていたが、同様の事件が連続していたことから、全国的な事件として大きく報道された。また同時に、石炭硫黄合剤、シンナー、青酸カリ入りの模倣犯が登場するようになった。さらに自殺を想わせる例も出てきた。9月30日には福井県今立郡今立町の織物会社の会社員男性(22)が自宅近くの自販機でオロナミンCを持ち帰り飲んだところ変な味がすると訴えたが、自分で殺虫剤を混入していたとわかり逮捕されている。

 その他、被害にはあっても死に至らなかった例も多くあった。25日、東京世田谷の都立大4年寺本達郎さん(22)が自動販売機のそばで拾った飲料水を飲んで入院したが回復。26日、静岡県磐田市の女性(40)自動販売機で買ったものを飲んだが、すぐに吐き出し大丈夫だった。27日、東京都北区の主婦(44)は自動販売機で買ったものを飲み入院したが回復した。

 パラコート中毒殺人事件は、10月に入っても同じパターンが繰り返された連続した。105日、埼玉県鴻巣市の酒井隆さん(44)が、前日に市内のドライブインの自動販売機でオロナミンCを買って死亡。

 1015日、奈良県橿原市の船具販売業の男性(69)が、自宅近くの自動販売機で買った栄養ドリンク剤を飲んで1カ月後に死亡。1028日、大阪府河内長野市で農業を営む男性(50)が、パラコート入りのオロナミンCを飲んで1カ月後に死亡。117日、埼玉県浦和市(当時)の建築会社社長・豊岡修司さん(43)が自動販売機で買ったオロナミンCを飲んで死亡した。 1117日、埼玉県児玉郡上里町の県立児玉高2年土屋八千代さん(17)が、自宅近くの自動販売機でコーラを口にして1週間後に死亡した。 

 10月以降の事件もそれ以前と同じパターンであった。警察はこの時点でパラコート入りジュースの事件は34件、死者は12人と発表している。全国に広がった毒入り連続殺人事件は、警察の大規模な捜査にもかかわらず犯人は逮捕されず、迷宮入りとなった。無差別殺人、理由なき殺人、ゲーム的殺人、このような言葉を連想させた。

 この一連のパラコートによる事件が発生した昭和60年は、警察白書によると清涼飲料水などに農薬など毒物が混入された事件が78件に達し、その範囲は1都2府22県に及び、17人が死亡している。犯人が捕まらないのは、被害者が不特定多数で、狙われる理由がなかったからである。たまたまそこに居合わせた者が被害者になった。もし自動販売機の取り出し口にドリンクが余分にあったら、軽い気持ちで持ち帰るだろう。犯人は、この心理につけこんだ無差別殺人であった。

 パラコートは日本で最も多く使われていた除草剤で、植物の葉緑素を枯れさせる作用があった。パラコートの毒性は強く、スプーン1杯で人間が24時間以内に死亡するほどであった。誤飲や自殺による死者が多かった。

 パラコートは、体内に入ると激しい嘔吐や下痢などの中毒症状が現れ、消化器系の粘膜がただれた。腎臓や肝臓などの機能障害が起き、肺線維症を併発して呼吸不全となり死亡した。パラコートが恐ろしいのは、飲んだ直後の急性期を乗り越えても、徐々に肺が硬化して呼吸できなくなる肺線維症を起こすことである。有効な治療法はなく、5ccの量で確実に死に至った。

 ちなみに、昭和60年の1年間で、パラコート中毒による死者は1021人、うち自殺とされたのは985人、残り36人のうち14人は誤飲による死亡、殺人や母子心中を含めた事件死は22人であった。パラコートによる悲劇が連続したのは、当時のパラコートが無臭だったからで、このことは国会でも問題となり、その後、においや苦い味が加えられ、すぐに毒物との判断がつくようになった。

 また、当時のオロナミンCはキャップを回して開けるタイプだったが、大塚製薬は一連の事件後に、細工ができないようにレバーキャップを引き抜いて開けるタイプに変えている。

 

 

 

昭和大替え玉入試事件 昭和60年(1985年) 

 昭和大替え玉入試事件はひょんなことから発覚した。昭和5911月、北九州市の医療機器販売会社社長で、入試ブローカー久保田哲夫(46)が、脱税容疑で福岡国税局に摘発された。脱税した3億円の出どころを聞かれた久保田は、昭和大教務部長の池谷信行(55)と共謀して「替え玉受験の謝礼として、1人に付き1000万円から3000万円をもらっていた」と供述したのだった。

 久保田哲夫は、医師になりたくて国公立大学を5回受験するが失敗。揚げ句の果てに無資格診療を行い、実刑判決を受けた前科があった。久保田は服役後も医師になりたくて、昭和大医学部を受験したが、またも不合格であった。この際、教務部長だった池谷信行(55)に受験の相談をしたことから、2人は付き合うようになった。

 久保田哲夫と池谷信行は、はじめは補欠入学者をだまして金を取っていた。しかしやがて、替え玉受験で謝礼金をもらったほうが、儲かることに気付いたのである。替え玉受験は、簡単にできるものではないが、内部に協力者がいればそれほど難しいものではない。久保田は「日刊アルバイトニュース」で、東大、東工大などの優秀な学生を集め、成績の悪い志願者に替え玉を斡旋していた。

 教務部長の池谷は受験票を2通つくり、筆記試験では受験票に替え玉の写真を張り、筆記試験の合格が決まると、受験票を本人のものとすりかえていた。受験票は大学の金庫に保管されていたが、鍵を持っている池谷にとって受験票のすりかえは簡単だった。

 福岡地検での久保田の供述を知った大学は驚き、またマスコミが騒ぎ始めた。大学は調査委員会を設置して調査を開始。池谷の事情聴取から10人の不正学生を特定した。

 福岡検察は、久保田が供述した不正入学者の氏名を、別件を理由に明かさなかった。そのため、昭和53年から59年までの約1000人の全学生のリストをつくり、高校の内申書、受験の選択科目、健康診断書、在学中の成績などを調べ、池谷の供述以外に新たに10人の替え玉受験生を特定した。そして大学は昭和54年と55年の受験者計20人(医学部14人、歯学部6人)が替え玉受験で不正に入学していたと公表した。

 昭和54年に入学した学生は、卒業したばかりであったが、不正入学者は4回の留年経験者を筆頭に、全員留年経験者だったので、まだ卒業していなかった。そのため20人全員が退学勧告を受け退学となった。

 昭和53年以前の受験生については、すでに卒業して国家試験を受けていた。もしその中に替え玉受験生がいたら、厚生省を巻き込む社会問題に発展しかねなかった。そのため、昭和53年以前の受験生についての追及は甘かった。

 教務部長の池谷信行は3月に依願退職し、約2600万円の退職金を大学に返上したが、昭和大は名誉棄損と調査活動に要した費用について損害賠償訴訟を起こした。

 この事件は、昭和大にとって大きな汚点を残した。さらにこの事件が忘れ去られようとしていた平成元年、昭和大は新たな事件を引き起こす。3月11日、昭和大歯学部で卒業試験問題の漏洩事件が発覚したのである。

 歯学部では、6年生を対象に卒1、卒2と呼ばれる卒業試験を行い、この卒業試験に合格した者が、国家試験を受験できるようになっていた。1月に行われた卒1と、2月に行われた卒2の成績を比べた結果、「口腔外科」など数教科の点数に大きな隔たりがあった。また前年の臨床実習試験成績とも大きな違いがあった。そのため、異例の最終試験を実施して、5人を留年処分とした。

 歯学部試験委員会が事情を聴取すると、学生が顔見知りの教務部次長(54)から5教科の問題用紙をもらっていたのだった。試験問題は担当教授が作成、教務部で印刷して保管していた。問題用紙を学生に渡した教務部次長は、学生に同情しただけで、金はもらっていないと説明したが真相は不明である。

 さらに藤田学園保健衛生大学で、平成元年4月の医師国家試験で替え玉受験が行われていたことが発覚した。医師国家試験の替え玉受験は初めてのことであった。警視庁保安二課は、替え玉受験に関与した受験生を含む4人を私文書偽造の疑いで逮捕した。逮捕されたのは、藤田学園保健衛生大大学院生千原秀則(33)と、仲介者の文在旭(56)、岡崎秀幸(57)、替え玉受験をしたパチンコ店店員で日本語学校生の韓国人申載官(30)の4人であった。

 千原秀則は、昭和49年に藤田学園保健衛生大医学部に入学。58年3月に卒業したが、6回連続して医師国家試験に落ちていた。そのため替え玉受験を計画。千原は、岡山県遊技協会理事長を務める父親(57)に替え玉受験を相談。父親は、岡崎秀幸に「自分が貸した600万円を帳消しにする」と文在旭に話を持ち掛けさせた。そして、文在旭が申載官に2万円の謝礼を払って身代わり受験をさせた。

 申載官は、パチンコ店でアルバイトをしながら日本語学校に通い、日本の大学受験を目指していたが、医学の知識はなかった。医学の知識のない者に、医師国家試験を受験させても合格の可能性はゼロに等しいが、それを実行させたことが偉いというかばかげている。

 受験写真用台紙に申の写真を張り、申が千原になりすまして受験、答案用紙に千原の氏名、受験番号を記入して試験を受けた。日本語も満足にしゃべれない申は試験の最中に怖くなり退席。このことを知った文は試験直後、自ら厚生省に電話をかけ、替え玉受験を告白、千原秀則の名前を通報した。文は岡崎がつかまれば、借金返済を待ってもらえると思ったらしい。厚生省は、前年の千原の受験票の顔写真と照合し別人を確認。その後、厚生省は試験方法の見直しなど改善策に乗り出した。あまりにおそまつな事件であった。

 

 

 

有毒マンズワイン事件 昭和60年(1985年) 

 欧米で売られるワインは水よりも値段が安い。この安いワインを高級ワインに化けさせる方法があった。それは、安物のワインに自動車の不凍液(ジエチレングリコール)を混入させることで、ラジエーターの不凍液をワインに加えると、高級ワインに似たコクと甘みが出ることから、欧州ではひそかに不凍液が混入されていた。

 世界ワイン見本市で金賞を取ったワインにも不凍液が混入され、貴腐ワインとして売られていたことが判明、有毒ワイン騒動が欧州で広がった。ジエチレングリコールは無色無臭で、わずかに甘みがあった。その致死量は体重1キロ当たり1グラムで、不凍液が混入されたワイン1本には致死量の10分の1に相当する量が入っていた。症状としては、腹痛、おう吐、めまい、それに意識障害などである。

 昭和60年7月10日、この不凍液が混入されたオーストリア産のワインが西ドイツで市販されていると、朝日新聞が夕刊で小さく報道した。この新聞報道は対岸の火事のように思われていた。しかし7月24日、日本にも西ドイツを経由して不凍液が混入された74種類のワインが輸入されていることが確認された。この報道で次第に人々の関心を呼び、日本にも有毒不凍液ワイン騒動が起こりはじめた。この報道でオーストリア産とドイツ産のワインの販売が自粛されたので大きな社会問題にはなかった。

 不凍液入りワインは欧州に限られた問題で、まさか自分たちが飲んでいる国産ワインに不凍液が混入しているとは誰も思っていなかった。日本のマスコミは「このワインは凍ります(不凍液が入っていないという意味)」「車のラジエーターには不向きなワインです」などのキャッチコピーで、笑いをつくることに専念していた。

 しかし、厚生省は国産ワインについても不凍液混入の有無を検査することを決定。国産ワイン工場のある山梨県を通して、タンクに保存されているワインを検査した。その結果、すべてのワインに不凍液の混入は認められず、厚生省は8月2日に「国産ワイン安全宣言」を出した。さらに8日、マンズワイン(本社・東京都、峰岸久三郎社長)は「自社のワインには不凍液の混入はなく安全である」という広告を全国紙に出した。

 だが、この安全宣言が全くのウソであった。マンズワインは不凍液騒動が起きる直前に有毒ワインの回収をひそかに行い、混入の事実を隠して安全宣言をうたっていたのである。このウソがばれたのは、ある消費者が国産ワインを検査機関に持ち込んだことがきっかけだった。検査の結果、安全宣言が出されていた国産マンズワイン7銘柄から不凍液が検出されたのである。

 マンズワイン工場の立ち入り検査でワインから不凍液が検出されなかったのに、なぜ市販のワインから不凍液が検出されたのか。このミステリーは全国の注目を集めることになった。厚生省はあわてて再検査を行ったが、やはりワインのタンクから不凍液は検出されなかった。

 9月11日になって、この謎が解明された。マンズワインが「有毒ワインの入った工場のタンクの中身を、検査の前日に徹夜で抜き取り、国産ワインにすり替えていた」と発表したのである。同社は、輸入業者から有毒ワインの連絡を受けたため、タンクにあった有毒ワインの原液を廃棄し、市中に出荷されているワインもひそかに回収しようとした。しかし、この隠蔽工作に漏れが生じたのである。会社ぐるみの隠蔽工作、消費者を欺く安全宣言、マンズワインの組織的犯罪が暴かれることになった。

 有毒不凍液が混入されていたマンズワインの7銘柄には、最高級ワイン「マンズエステート貴腐白磁1978」「マンズエステート氷果葡萄吟醸1981」が含まれていた。特にマンズエステート貴腐ワインは、それまで純国産との宣伝で販売されていた。しかしこの貴腐ワインはオーストリア産のワインをブレンドした製品で、国産ワインは4.7%しか含まれていなかった。ワイン通からもてはやされていたワインの王様である貴腐ワインは、安物の欧米ワインに有毒不凍液を入れた偽物だった。

 貴腐ワインは、表面にカビが付いたブドウを乾燥して干しブドウ状にしたものが原料である。糖度が高く、味はまろやかで、色や香りも優れていた。上等とされるものは1本10万円から20万円の値段が付けられていた。マンズワインは、この貴腐ワインそのものが偽物であること、国産と称していたワインが外国産ワインのまがいものであることが暴露されることを恐れ、姑息(こそく)な隠蔽(いんぺい)工作を行い、結局は致命的打撃を受けることになった。

 マンズワインは、故意に不凍液を混入させたわけではない。同社の隠蔽工作は、国産として売り出していたワインが、本当は外国産ワインであることを隠すことが目的だった。ワインの輸入量から計算すると、国産とされるワインの半数が、外国ワインとのブレンド品であった。

 この事件によってワインブームは冷水を浴びせられ、消費者のワイン離れを起こした。消費者の信頼を裏切ったマンズワインは社長ら役員全員が辞職した。

 市民グループ・マンズワイン被害者の会の会員25人が「有害ワインを飲まされ、精神的肉体的被害を被った」として、製造元のマンズワインと親会社のキッコーマン(本社・千葉県野田市、中野孝三郎社長)を相手取り、不当表示の禁止と総額458万円の損害賠償を求める訴訟を起こした。

 大阪地裁で、訴訟から2年6カ月後に和解が成立した。その内容は、両社が有害ワインの販売や不当表示を認めるとともに、原告以外の会員にも賠償するものであった。欠陥商品や不当表示商品については、健康被害などの立証が難しい。しかし、メーカー側が原告に精神的苦痛を償い、さらに原告以外の消費者にも賠償責任を認める異例の和解であった。

 マンズワイン訴訟で注目したいのは、原告側が米国の消費者運動による

クラスアクション(集団代表訴訟)方式を採り、その成果を上げたことである。クラスアクションとは、欠陥商品などで多くの人に同様の被害が生じたとき、代表者が訴えを起こせば、その判決の効力が被害者全員に適用されることである。多数の消費者の少額被害救済のため、代表者が提訴した裁判の効力が全体に及ぼす新しいタイプの消費者運動だった。今回の裁判では3000円で原告を募集し、25人の原告全員に購入代金と1人当たり10万から20万を慰謝料として払うものであった。さらに原告以外の被害者に対しても、購入の証明により同様に支払うものであった。

 昭和6011月、当時の専務ら3人が食品衛生法違反罪で略式起訴され、後に有罪が確定した。そのほか、同社は不当表示で公正取引委員会から警告を受けた。

 

 

 

日航ジャンボ機墜落惨事 昭和60年(1985年) 

 昭和60年8月12日午後6時12分、羽田発大阪行き日本航空123便(ボーイング747型機)が、乗員15人、乗客509人を乗せ、定刻をやや遅れて羽田空港を飛び立った。離陸から12分後の6時2435秒、伊豆半島上空を上昇中、機内で突然「ドーン」と爆発音が走った。操縦室では次々に警報音が鳴り、警告灯が点滅、客室内には酸素マスクが下りた。

 高浜雅己機長(49)は、とっさに緊急事態発生の信号「スコーク 77」を発し、東京航空交通管制部に通報。しかしこの時、すでに垂直尾翼の大半が破壊され、その後3分間で油圧はゼロとなった。油圧操縦4系統がすべて作動せず、油圧による操縦が不可能となった。

 羽田に引き返すには、右に旋回して陸側から迂回するか、左へ迂回して海側から向かう方法があった。右迂回では、陸上を通るため市街地に墜落する危険性がある。左迂回ならば、海上に着水して犠牲者の数を減らせる可能性があった。しかし機長は右迂回で羽田に帰ることを決断した。なぜ機長が右迂回を決めたのか、この疑問は今もって分からない。

 日航123便は富士山上空を横切り、操縦のコントロールを失ったまま秩父山系への迷走飛行となった。油圧操縦システムを失ったため、左右のエンジン出力の増減、着陸脚、主翼のフラップで機首をコントロールするしかなかった。さらに客室の気圧低下を回避するため、低空飛行をせざるを得なかった。123便は山梨県大月市上空を旋回し、着陸脚を下ろして飛行機を降下させた。

 123便と東京航空交通管制部の無線を傍受していた米軍の横田基地は、横田基地への緊急着陸許可を機長に伝え、機長もそれを了解。横田基地では不時着、墜落を想定してベテラン軍医やヘリ乗務員を緊急徴集、救難物資の準備を急いだ。

 しかし123便は、機首が左右に揺れるダッチロール状態となり、さらに機首が上下するフゴイド状態に陥り、極限状況でのフライトとなっていた。横田基地付近まで引き返したが、急に山側に左旋回。6時54分、機長は現在位置を見失い、管制センターに「位置を教えてほしい」と連絡を入れた。その約2分後の6時5630秒、機長の「プルアップ(引き起こせ)」の叫び声を最後に羽田のレーダーから機影が消えた。

 墜落直後、航空自衛隊の茨城県百里基地からF−4EJ戦闘機2機が緊急発進して現場へ向かった。正式な出動要請がない限り自衛隊は出動できないため、発進命令は訓練が名目であった。さらに基地にはMU−2救難機とV−107ヘリを待機させていた。

 午後7時19分、F−4EJ戦闘機は日航機の墜落現場を確認する。航空自衛隊は、何度も出動を要請したが返答はなく、午後7時54分、百里救難隊のV−107ヘリを見切り発進させた。V−107ヘリは夜間にもかかわらず墜落地点を群馬県多野郡上野村御巣鷹山の山頂上付近と詳細に報告した。なお災害派遣命令が下る前に独自の判断で出動を命じた空挺(くうてい)団司令部の幹部はその後左遷されている。

 日航機の状況は在日米軍も把握していた。墜落から約1時間後、米軍C−130輸送機が墜落現場上空に到着、詳細な現場の位置を特定した。米軍厚木基地は暗視カメラを搭載した海兵隊の救助ヘリを現場に急行させ、墜落からわずか2時間で救助体制を整えた。

 米軍の救助ヘリが、救助のために隊員を現場に降ろそうとした時、厚木基地から突然帰還命令が出た。日本の飛行機事故に対する米軍の救出活動は、日本政府の許可が必要だった。そのため米軍は政府に救援を打診したが、日本政府は援助不要とした。政府が米軍の協力を拒んだのは、米軍の救助活動の是非を決めていなかったからである。

 米軍が事故現場を特定し、日本にヘリでの救出を申し出たことは、事故当日のニュースになっていた。しかし翌日未明にはこれらがすべて誤報であったと訂正されている。それ以降、米軍からの救助協力の申し出の事実は隠蔽され、表に出ることはなかった。しかしその後、新潮社の週刊誌に詳細記事が掲載され、上智大文学部の英語の入試問題に、このC−130輸送機の副操縦士の手記が出題され、事故から10年後に在日米軍の現場特定と救助の申し出が事実であったことが明らかになった。

 生存者の4人が救助されたのは墜落から16時間後で、事故直後にはそのほかにも生存者がいた可能性があった。もし米軍のヘリが現場上空から救助していれば、生存者は増えた可能性が高かったのに、なぜ救助を断ったのか残念である。

 自衛隊のV−107ヘリや米軍機は墜落地点を正確に特定していた。しかし新聞社などのヘリは墜落現場に近づいたものの、山が連なる地形のため正確な位置を確認できず、当初、墜落現場を長野県北相木村付近と報道した。日航、報道、自衛隊、警察が慌ただしく動き出したが、防衛庁とNHKは「現場は長野県」と発表、この誤報によって救難活動が大きく遅れることになった。すでに事故現場を特定していたはずの防衛庁はこの誤報によって、後に「自衛隊の無人機との衝突の隠蔽工作」とうわさされた。

 警察は誤報に惑わされ、見当はずれな方向を捜索しようとしていたが、しびれを切らした地元の上野村消防団は、日の出とともに御巣鷹の尾根をめざして出発、消防団員たちが生存者を発見することになる。この事故を他局より先に知ったフジテレビは、事故直後の午後7時半からレギュラー番組をすべて中止し、報道特別番組を約10時間にわたり放送した。それが生存者救出の生中継につながった。

 墜落現場は目を覆うばかりの惨状であった。木々はなぎ倒され、機体は原形をとどめないまでに破壊されていた。小川は血で染まり、バラバラとなった遺体は広範囲に散らばり、荷物が散乱していた。夏の暑さが加わった厳しい状況の中で救出作業が続いた。現場では次々に遺体が収容されていった。鼻を突く異臭と破壊の激しさに、誰もが全員死亡と思っていた。

 8月13日午前11時ごろ、「生きてるぞ」との声が現場を走った。12歳の少女が(川上慶子さん)が救出され、救援隊員に抱えられてヘリコプターにつり上げられていった。この奇跡的な様子はテレビで流され、日本中に感動を呼んだ。

 生存者は、彼女のほかに私用で乗っていた日航のアシスタントパーサーの落合由美さん(26)、吉崎博子さん(34)、美紀子さん(8)親子の女性4人で、藤岡市の病院にヘリで搬送された。乗員乗客524人のうち生存者は4人だけで、航空機の単独事故としては航空史上最大のものになった。

 生存者の話では、後方でバーンと音がして周囲が白くなり、機体が激しく揺れ、ジェットコースターのように激しく上下した。機体の揺れは8の字を描くようなダッチロール状態が約30分も続き、乗員乗客は想像を絶する恐怖と闘っていた。多数の遺品の中には、飛行機内の写真、家族あてのメモもあった。迷走状態の飛行機の中で書かれた遺書がマスコミで報道され、深い悲しみをよんだ。

 事故当日は、お盆の帰省客などで事故機は満員であった。犠牲者の中には阪神タイガース球団の中埜肇社長(63)、ハウス食品工業の浦上郁夫社長(48)、「明日があるさ」「上を向いて歩こう」のヒット曲で有名な歌手の坂本九さん(43)、さらに女優の北原遥子さん、伊勢ヶ浜親方(元大関・清國)の妻子らが含まれていた。

 なお宝塚女優の麻実れいさんは車が遅れて飛行機に乗り遅れ、タレントの明石家さんまさんは搭乗便を1本早めに変更したため難を逃れていた。事故当日のほぼ同時刻の同区間に全日空機が飛んでいた。日航機に乗るのか、全日空機に乗るのかで生死を分けることになった。

 墜落時の猛烈な衝撃と火災によって、犠牲となった遺体の損傷は激しく、バラバラになった遺体の身元確認は困難を極めた。8月の猛暑の中では腐敗も早く、当時はDNA鑑定も確立していなかったため、身元の特定は困難だった。

 14日の朝7時、警察官、医師、歯科医師、日赤救護班の医師、看護婦ら約500人が、仮の遺体安置所となった藤岡市民体育館に集まった。群馬県警察医会理事の歯科医師・大国勉が検視の総括責任者となった。

 広い体育館の窓は黒いカーテンで閉ざされ、外部から完全に遮断された。次々と柩が運び込まれ、体育館は遺体でいっぱいになった。館内の温度は時間とともに上がり、最初の柩(ひつぎ)が市民体育館に運び込まれた時には35度を超えていた。検視総括員は、遺体を完全遺体と離断遺体に区分し、検視番号を付けていった。警察官5人、医師2人(内科系、外科系)、看護婦3人、歯のある遺体は歯科医師2人が1グループとなって検視に当たった。

 一同手を合わせ、一礼してから検視を始めた。遺体を清拭(せいしき)し、まず警察官によって遺体の計測、写真撮影が行われた。次に頭部から足の先まで、順を追って検視が行われた。損傷が激しく、壮絶な肉片に衝撃を受けない者はいなかった。検視はすべてを精密に記録し、顎骨、歯などが残っていればレントゲンを撮り、検視を終えると傷の縫合を行い、再び清拭して全身に包帯を巻いて納棺した。1遺体の検視に約1時間をかけ、検視が終わると、再び遺体に手を合わせた。

 館内の温度は3840度となり、死臭でむせ返り、ひたいから流れ落ちる汗が目にしみた。頭部を失った遺体、シートベルトで下腹部から離断された遺体、子供の遺体、炭化した肉塊、検視は汗と涙と悲しみの中で行われた。一刻も早く遺体を確認したい遺族の心情を考え、食事も取らず、徹夜を苦にせず、猛暑の中で必死の検視が続いた。県医師会、県歯科医師会の会員も参加して検視が続けられた。検視により520遺体中、518体の身元確認がなされ、確認できなかった部分遺体は、残念ながら合同荼毘(だび)にふされた。

 事故発生から27日後、ボーイング社はニューヨークタイムズ紙に事故原因を次のように発表した。「同機が7年前に伊丹空港において着陸に失敗、この「しりもち事故」の修理を行ったボーイング社の修理チームのミスが事故の原因につながった」としたのだった。

 ボーイング社の自主的声明は、航空関係者だけでなく、多くの国民を驚かせた。自分たちの恥である修理ミスを隠さずに公表した態度に好感を持った。運輸省の「日航123便に関する航空事故調査委員会」は、このボーイング社の発表を受け、この事故は「昭和53年6月2日に伊丹空港で同機が着陸に失敗してしりもち事故を起こし、その後のボーイング社の修理が不適切であったため圧力隔壁に金属疲労が起き、圧力隔壁が破壊されて航空機後部の4系統の油圧操縦システムのすべてが失われて操縦不能に陥ったことが原因」とした。

 しかしこの報告には疑問があった。もし圧力隔壁破壊があったならば、急減圧や室温低下などで乗員や乗客が失神する可能性が高かったからである。しかしこの事故では乗客は遺書を書き、機内を写真撮影していた乗客もいた。そのため急減圧はなかったとする専門家がいた。また生還した落合さんらは、圧力隔壁が壊れて尾翼を吹き飛ばした説には矛盾点が多いと証言している。

 ボーイング社は修理ミスを認めたが、もしこれが機体の構造的欠陥であったならば、世界を飛ぶ600機の飛行機も事故を引き起こす可能性がでてくる。多数の自社飛行機に影響を及ぼさないように、原因を修理ミスにしたのではないかとの疑惑が残された。

 また強固な垂直尾翼を破壊したのは、何らかの物体が垂直尾翼へ衝突したか、爆発したのではないかとする専門家がいた。垂直尾翼の方向舵ヒンジ部の破損が先で、その後に与圧隔壁が壊れたとする者もいた。操縦士、副操縦士、航空機関士はいずれもベテランで、操作ミスは考えられなかった。なおこの事故から数年後、伊丹空港でしりもち事故を起こした機長が自殺している。

 事故後、日本航空が支払った賠償金の総額は約600億円であった。現在、墜落現場の「御巣鷹の尾根」には慰霊碑が建てられ、毎年8月12日に慰霊登山が行われている。しかし事故発生から25年が経過し、遺族の高齢化が進み、慰霊登山を断念せざるを得ない遺族が増えている。

 前橋地検は修理ミスを確認できないとして、ボーイング社をはじめとする関係者を不起訴処分にした。事故で両親と妹を亡くした川上慶子さんは後に看護師となって、平成7年の阪神大震災で被害者救済のため活躍した。亡くなられた方々の冥福をお祈りするとともに、生き残った4人の方の幸せを祈りたい。

 

 

 

イッキ飲み 昭和60年(1985年) 

 昭和6012月5日、日本語新語流行語大賞で金賞を得たのは「イッキ!イッキ!」、であった。このようにお酒の「イッキ飲み」が流行していた。1月の成人式、4月の新人歓迎会、12月の忘年会、飲み会があるたびに、イッキ飲みによる急性アルコール中毒が多発した。イッキ飲みとは、学生たちがコンパなどで、ビールのジョッキや酎ハイなどを一気に飲み干すことで、仲間たちは「イッキ、イッキ」と遊び感覚ではやしたてた。

 「イッキ」の掛け声で酒をあおると、アルコールの血中濃度が急激に高まり、ほろ酔い気分を飛び越え、脳の麻痺が進み、昏睡状態から死に至る危険性があった。このイッキ飲みの元祖は慶応大学の学生とされているが、イッキ飲みは急性アルコール中毒を起こしやすく、イッキ飲みにより死亡した学生は過去20年間で70人以上とされている。この死亡した者には、急性アルコール中毒死のほかに、飲酒後の転落死、水死なども含まれているが、若い生命をつまらぬことで失うばかばかしさを感じてしまう。

 お酒はゆっくりと味わうのが人間の文化である。イッキ飲みは仲間意識を高めるためと受け止められるが、子供から大人への通過儀式としてはあまりに幼稚すぎた。お酒を面白半分に強要することは、小・中学校のいじめに似た感覚が根底にあった。また酒そのものを愚弄(ぐろう)する行為であった。

 ちょうどその当時は、「養老乃瀧」「村さ来」「北の家族」「天狗」などの居酒屋ブームと重なり、飲み口がよくて値段の安い酎ハイが流行し、イッキ飲みを加速させた。イッキ飲みの流行はその危険性にもかかわらず、長期間にわたって続き、各地で死者を出したが、医学部も例外ではなかった。

 平成11年6月6日早朝、熊本大学医学部1年生の吉田拓郎(20)さんが急性アルコール中毒で死亡した。死体検案時の血中アルコール濃度は8.1mg/mLだった。教科書には4.0mg/mL以上で死亡と書かれていることから、相当量のアルコールを飲まされたことになる。

 吉田拓郎さんは熊本市内の中華料理店で開かれたボート部新入生歓迎コンパに参加し、二次会の居酒屋で医学部の上級生やOB医師から焼酎のイッキ飲みを強いられた。このイッキ飲みは「バトル」方式と呼ばれるもので、1対1で焼酎を飲み、相手より飲み方が遅いと再度イッキをさせられるのであった。

 吉田拓郎さんは負け続け、25度の焼酎を8合以上飲まされた。上級生は水で薄めた焼酎を飲んでいたのだから勝てるはずはなかった。吉田さんは1時間ほどで酔いつぶれ、名前を呼んでも、ほおをたたいても反応はなかった。上級生たちは、下級生に泥酔状態の吉田さんを車で運び、病院に連れて行くように言いつけた。しかし、「病院に連れていかなくても、死にゃせん」とタクシーの運転手に言われ、別の学生のアパートに連れて行った。吉田拓郎さんは翌朝午前6時ごろ、吐しゃ物を詰まらせ窒息死した。

 熊本大学医学部Y教授、OB医師、上級生たちは、吉田拓郎さんが泥酔状態であることを知りながら、保護する責任があったにもかかわらず、ほかの新入生とともに部屋に放置した。Y教授は説明会で、「口から少量の血液が漏れていた」「死因は確定できていない」「その日は、吉田君の体調が著しく悪かった」などと発言し、死の原因が吉田さん自身にあるように説明した。吉田さんの両親は二次会の様子や死に至った経緯を聞きたいと申し出たが、Y教授はそれを断った。

 吉田拓郎さんの両親はコンパに参加した47人と直接面談、数カ月かけて独自の調査を行い、吉田さんの死から半年後の12月6日に、刑事告訴を起こした。急性アルコール中毒死としては全国で初めてことで、保護責任者遺棄致死罪、傷害致死として告訴したが嫌疑不十分で不起訴処分となった。

 このため吉田拓郎さんの両親はコンパを主催した漕艇部責任者など上級生15人、OB医師3人、教授1人に対し、賠償請求訴訟を起こした。第一審では敗訴し福岡高裁に控訴した。この裁判は最高裁まで争われ、平成19年に教授らが遺族に1300万円を支払う判決が出ている。

 イッキ飲みが裁判で争われるのは珍しいが、平成8年4月、三井物産の社員寮で行われた新入社員歓迎会でイッキ飲みをさせられた男性新入社員(24)が死亡する事故があり、三井物産は遺族に約9000万円を支払っている。遺族は社員寮でイッキ飲みを許した会社に管理責任があると訴え、会社側が責任を認めて損害賠償金を支払うことになった。企業が飲酒による死亡事故の責任を認めたのは初めてのことだった。

 イッキ飲みは、体内のアルコール代謝を知れば、その危険性を理解できる。胃腸から吸収されたアルコールは肝臓に運ばれ、悪酔いの原因物質であるアセトアルデヒドに分解される。アセトアルデヒドはアルデヒド脱水素酵素により酢酸に分解され、最後に二酸化炭素と水になって体外に排出される。お酒が強い人の場合、清酒1合に含まれるアルコールを完全に分解するのに3時間かかるとされている。通常の飲み方であれば、飲んで酩酊(めいてい)期になると寝てしまうので昏睡状態には至らない。しかし大量のアルコールを一気に飲むと、肝臓の分解能を超えてしまうので、アルコール濃度は高まり中枢神経の麻痺から死に至る。これがイッキ飲みの怖い点である。イッキ飲みで死亡する可能性のあるアルコール量は、ビール換算で3.4L、日本酒換算で6合、ウイスキー換算でボトル約半分とされている。このように意外に少ない量で死んでしまうのである。

 さらに飲酒によって血管が拡張するため放熱しやすく、低体温症で死ぬことがある。春の花見の季節でも気温は20度以下で、飲酒後は体が熱く感じるが保温が大切である。吐くことも多く、吐いたものが逆流して窒息死することがある。そのため、あお向けではなく横向きに寝かせなければならない。また絶対に1人にしてはいけない。イッキ飲みとは必ずしも関係はないが、急性アルコール中毒になったら、とにかく救急車を呼ぶことである。

 平成16年、東京消防庁が急性アルコール中毒で救急搬送した人数は1万4582人で、毎年増加している。全国の交通死亡事故の1割前後が飲酒運転により起きている。アルコールは楽しく、ほどほどに飲みたいものである。イッキ飲みの強要はアルコール・ハラスメントと呼ぶにふさわしい行為である。

 

 

 

スーパー西友中毒事件発覚 昭和61年(1986年) 

 昭和5710月9日の土曜日、札幌市清田区の大手スーパー「西友」清田店が華々しくオープンした。しかしオープンしたばかりの西友を利用した小学生たちが、下痢や腹痛などの食中毒症状で学校を欠席したことからこの事件が表面化した。市教育委員会が保健所に連絡、さらに調べてみると、西友の従業員や客らも同様の症状をおこしていた。

 この事件がこれまでのケースと違っているのは、その未曾有(みぞう)と言うべき被害者のの多さであった。患者は1012日から出始め、新聞が報道した16日には162人、19日には2100人を超え、最終的には7751人が下痢や発熱などの症状を示した。症状は軽く、だいたいが5日間で回復したが、国内最大規模の集団食中毒事件となった。西友は開店から1週間後の16日に自主休業とした。

 保健所、北海道大、札幌医科大の疫学専門家による原因究明委員会が設置され、調査の結果、飲料水として使用していた井戸水が感染源であることが判明した。患者の便や井戸水からキャンピロバクターと病原性大腸菌が検出され、札幌市公衆衛生部は食中毒をこの細菌による混合感染と発表した。

 西友清田店は水道水を使用することを条件に営業許可を受けていたが、保健所が飲料水として禁じていた井戸水を使用していた。同店の井戸水は鉄分が多く、飲み水には不適当とされていた。開店2日前の保健所の検査でも改善を求められたが、西友はその勧告を無視していた。

 問題となった井戸の取水装置のマンホールが地表より低く、また井戸のコンクリートに鉛筆大の穴が開いていて、そこから細菌が浸入したとされた。さらに井戸に取り付けた2台の塩素滅菌装置のうちの1台が故障していて、そのため細菌が繁殖したとされた。北海道警察は事故の予見は困難だったとして業務上過失致傷の立件を見送った。

 西友清田店は10日間の営業停止処分を受け、1215日に再オープンとなった。そして食中毒事件は決着したと思われていた。ところが、その記憶が風化しつつあった4年後の昭和61年4月、地元紙が新たな事実をスクープ、事件の真相を明らかにした。それは、下請け業者の配管工の内部告発によるものだった。

 配管工員の告発によると、「事件当時、排水管の清掃口7カ所のふたが開いていて、トイレの汚物がふたから溢れて、それが地中に浸透して井戸水に混入。その汚水を飲料水として使用したことが食中毒の原因」というショッキングな内容だった。つまり原因は排水管のふたの閉め忘れという初歩的ミスだった。床下に漏れたトイレの汚物は推定700トンとされ、この人為的ミスを西友が隠していたのだった。

 同店の1階床下で大量の汚物が発見されたのは、中毒事件が表面化した1015日だった。汚水は深いところで1.8mを超えていた。工事を担当していた東京三冷社は、3台のポンプで汚水をくみ上げるのに徹夜で2日も掛かったほどである。その後、隠蔽のため床下に土をかけ消毒液をまいた。

 西友は下請け業者がやったことを、全く知らなかったと釈明した。しかし西友は食中毒発生後、保健所の立ち入り検査前に井戸水をきれいに消毒し、「食中毒時に井戸水を使用していた」と保健所に報告していた。そのため井戸水からはわずかな菌が検出されただけで、事件は灰色のまま終わっていた。

 警察は捜査官20人による大がかりな捜査体制を敷き、関係者150人から事情を聴取し現場検証を行った。その結果、内部告白以外に井戸水の水質検査の記録が27日間にわたって捏造されていた事実が判明した。

 西友清田店の当時の店長と工事関係者の計9人が、業務上過失致傷で札幌地検に書類送検された。元店長は保健所に無断で井戸水を使用したこと、下請け会社は配水管の閉め忘れなどが問われた。この事件はそれぞれの過失が複合的に関与したが、札幌地検は時効の関係もあり、嫌疑不十分で全員を不起訴処分とした。刑事事件にはならなかったが、西友の社会的責任、道義的責任は重いと言える。

 

 

 

チェルノブイリ原発事故 昭和61年(1986年)

 昭和61年4月27日の朝、スウェーデンのフォルスマルク原子力発電所で、放射能漏れのアラームが鳴った。大気中から通常の100倍もの放射能が検出されたのだった。原発事故を起こしたと思った技術者は、すぐに原子炉の運転を中止し周辺の住民600人を避難させた。

 しかし調査の結果、フォルスマルクの原子炉はいずれも正常に稼働していた。この異常な放射能は、時間とともに隣国のフィンランドやノルウェー・ポーランド・東ドイツでも検出された。北欧各国の政府は外出を禁止し、飲料水や牛乳などを飲まないように注意を呼びかけた。

 この国境を越える放射線汚染がどこから来たのか、世界中が注目する中、欧州では不安と緊張が高まっていった。当初、この正体不明の放射能汚染について、ソ連の核実験が疑われた。しかしスウェーデンの地震計には、核実験を示す波動は見られなかった。そのため、風上にあるソ連での原子力発電所の事故疑惑が次第に高まってきた。やがて原発事故発生のうわさが世界中を駆け巡った。

 スウェーデン政府はソ連政府に原発事故の有無を問い合わせたが、ソ連政府はその事実を否定した。当時、ソ連共産党の書記長としてゴルバチョフが登場し、ペレストロイカ(建て直し)とグラスノスチ(情報公開)を掲げ、ソ連は旧体制からの脱皮をスローガンにしていたが、ソ連の首脳たちは5日後に控えたメーデーが終了するまで情報を公表しない方針でいた。

 ソ連政府は、チェルノブイリ原発事故を隠そうとしていたが、それは無理であった。米国のスパイ衛星が原発事故を明らかした。チェルノブイリ原発の爆発現場の鮮明な写真を、原子炉の屋根が無残にも吹き飛び、火災が発生している様子を、スパイ衛星が全世界に発信したのだった。

 この写真を突きつけられたソ連政府は、それまで隠していた原発事故を渋々認めることになった。スウェーデンから1500キロ離れたチェルノブイリで、史上最大の原発事故が起きていたのである。ソ連政府が原発事故の事実を認めたのは、事故から3日近くが過ぎた28日の夜になってからである。

 チェルノブイリは、旧ソ連ウクライナ共和国の首都キエフから北方130キロに位置している。この史上最大の原発事故は、昭和61年4月26日、午前1時23分に起きた。チェルノブイリ原子力発電所の4号炉(出力100万キロワット)では、事故前日の25日から停電を想定した実験が行われていた。

 実験は、原発を動かす電源が停電で止まった場合、原子炉を完全に冷却できるかどうかを確認するためのものであった。つまりタービンの回転慣性を利用して、非常時の電源とするための実験であった。原子炉を停止させるには、制御棒を原子炉に入れて核反応を抑える必要があった。実験は日付が変わっても続き、順調に進んでいた。しかし、原子炉を停止させるために「緊急用制御棒ボタン」を押した直後、原子炉が暴走した。

 突然、熱出力が急激に上昇し、警報機が鳴った。そして数秒後、核燃料が超高温となって炉心が融解し爆発を起こした。いったい何が起きたのか、技術者は誰も理解できなかった。自動車のブレーキを踏んだとたん、暴走したようなものだった。ウランが落下、冷却水が瞬時に沸騰して水蒸気爆発が起き、その直後に原子炉そのものが大爆発したのだった。

 原子炉を覆っていた1000トンの屋根が吹き飛び、落下したクレーンが炉心を破壊し、放射能を含んだ灰が上空に舞い上がった。原子炉の構造体である黒鉛200トンが燃えながら吹き出し、建物の30カ所で一斉に火柱が上がった。

 チェルノブイリ原子力発電所の4号炉爆発から数時間後、消防隊によって建物の火災は消火された。しかし暴走した原子炉の消火は困難を極めた。ヘリコプターが上空から5000トンの砂や2000トンの鉛を投下し、鎮火しようとしたが原子炉は燃え続けた。

 消防隊は放射能を浴びながら決死の消火活動を行った。それでも原子炉は燃え続け、上空からヘリコプターが砂や鉛を投下するたびに、原子炉から灰が舞い上がり、大量の放射能が大気中に放出していった。上空に舞い上がった放射性物質は北西への風に乗り拡散していった。

 原子炉の火災が鎮火したのは、事故発生から10日後の5月6日のことである。隣接する3号炉から穴を開け、そこから窒素を送り込み、原子炉を無酸素状態にして鎮火したのだった。しかし、それまでの10日間に原子炉から放出された放射能は、北半球のほぼ全域を汚染した。

 チェルノブイリ原発事故は、米国スリーマイル島の原発事故(昭和54年)をはるかに上回る史上最大の事故となった。消火作業に駆けつけた大勢の消防士や原発職員は、大量の放射能を浴び31人が死亡し300人が病院に収容された。

 チェルノブイリから4キロ離れたプリピャチ市からも、この火災事故を見ることができた。人口5万人のプリピャチ市は、原発関係者のためにつくられた街で、市民たちはチェルノブイリの事故をその当日から知っていたが、放射能の危険性を知らず、対策は打たれないままであった。

 多くのプリピャチ市民は、何もなかったように普段通りの土曜日の朝を迎え、子供たちはいつものように学校へ行った。彼らは、無防備のまま放射能にさらされていた。アパートの屋上で、煙を吐く4号炉を眺めながら日光浴をしていた人もいた。

 プリピャチ市民に避難命令が出たのは、事故翌日の27日になってからである。市民たちは1200台のバスに分乗して避難、プリピャチ市は無人の街となった。

 事故から10日が経った5月6日、チェルノブイリ原発を中心にした半径30キロの住民135000人が強制退去となった。住民はそれまで放射能にさらされたままであった。原発事故によって放出された放射性物質はセシウム137で、その量は広島原爆の350個分に相当していた。

 原発事故による放射能は、南風に乗り、ソ連はもとより北欧にまき散らされた。放射能汚染物質が大量にばらまかれ、北欧では農作物の放射線汚染が次々に明らかになった。市場に出回った食肉・牛乳・ワインなどが回収され、日本に輸入されていた食物も処分されることになった。

 さらに、上昇気流に乗った死の灰は、成層圏まで達し世界中を覆うことになった。事故から1週間後の5月2日には、8000キロ離れた日本でも通常量の数十倍の放射能を含んだ雨水が検出された。ジェット気流に乗って、死の灰が日本にも届いた。

 事故から4カ月後の8月、ソ連政府はチェルノブイリ原発事故の原因は「作業員の規則違反によるミス」と発表した。もちろんこれはソ連の事故隠しであった。ソ連政府は事故から4年後に、原発事故は原子炉の設計ミスで、原子炉を完全に停止させていれば事故は起きなかったと発表した。原子炉の自動停止装置を外し、安全装置を遮断し、制御棒を全部引き抜くと暴走状態する設計ミスで、作業員の捜査ミスではなかったのである。昭和50年に、同様の現象がレニングラード原発で起きており、制御棒の欠陥が指摘されていた。ソ連では同型の原子炉が数多く稼働していたにもかかわらず、原子炉の構造欠陥を知りながら対策を怠り、その危険性を現場に伝えていなかった。

 ソ連政府は、チェルノブイリ4号炉にコンクリートを流し込み、石棺(せきかん)にして閉じこめたと発表。さらに住民には放射障害は認められないとしたが、この発表を信じる者は少なかった。

 放出された死の灰の70%がウクライナ共和国の北に隣接するベラルーシに降り注ぎ、3分の1が放射能汚染地域となった。ベラルーシでは数十万の人々が移住を余儀なくされ、数百の村が廃村となった。このチェルノブイリの原発事故で最も厄介だったのは、セシウム137(半減期30年)による放射能汚染であった。セシウム137の汚染密度が、1平方キロ当たり15キュリー以上に達する高度汚染地域面積が1万平方キロに達し、汚染地域の面積は約13万平方キロであった。この面積は日本の国土の60%に相当していた。

 汚染地域には700万人が住んでいて、汚染除去に70万の人が従事するが、これだけの広い面積である。汚染除去は進まず被曝者を増やすことになった。市民団体「チェルノブイリ同盟」は、この汚染除去に従事した200人に1人が放射線障害を受けたと発表した。

 ソ連政府は死者61人、汚染の除去作業を行った5万人が重度の放射線障害を受け、被曝者総数は57万人以上と報告した。被曝地区の住民が受けた放射線量は、許容範囲の5〜6倍で、汚染地区の農作物や家畜を食べないように指導された。被害地に住む農民は食べることも売ることもできず、農作物を作れない生活を強いられた。被曝者のがんの死亡率は非被曝者の3倍以上であり、放射線障害は10年以上経ってから起きてくるので、被曝者のがんが急増している。さらに、がんや白血病となる不安は現在も尽きない。

 国連は、汚染地区の小児に甲状腺がんが多発し、発症頻度は世界平均の100倍を超えていると発表。事故当時2、3歳の子供たちが思春期を迎えるころになると、甲状腺がんが多発したのだった。

 信州大医学部外科助教授・菅谷昭は、放射線障害で甲状腺腫瘍になった子供がいることを、テレビ番組で偶然に知った。チェルノブイリ原発の風下に当たるベラルーシ共和国では大量の放射能を浴びた子供たちに甲状腺腫瘍が多発していた。

 菅谷は、現地の病院で手術を受けた子供たちの首筋に醜い傷跡が大きく残っているのを見て心を痛めた。彼は、甲状腺専門医として、ウクライナ共和国の北隣のベラルーシ共和国に渡ることを決意。信州大医学部を辞職し、平成8年から5年半にわたり高度な手術で子供たちを救い、現地の医師たちに傷口の目立たない手術法を教えた。彼の行動は日本人として立派な行動であり、帰国後、松本市民に推され松本市長になった。

 このチェルノブイリ原発事故は、原発への世界中の人々の意識を大きく変えた。原発事故を教訓に、スウェーデン・ドイツは原発を段階的に取りやめることを決定。日本の世論調査では、チェルノブイリ原発事故までは原発賛成派が6割を占めていたが、事故以降は反対派が6割を占めるようになった。エネルギーの需要から、世界的に原発への期待が膨らんでいたが、この原発事故が世界中の世論を変えてしまった。

 チェルノブイリ原発事故から、すでに20年以上が経過している。原発4号炉は、放射能が漏れないように石棺で封じられている。しかし急造された石棺は脆弱で、老朽化から所々にヒビが入っている。そのため原子炉の周辺はいまだに放射線濃度が高く、近づけない状態にある。この石棺が崩壊すれば、世界は再び放射能汚染にさらされることになる。

 

 

 

HBVワクチン 昭和61年(1986年)

 肝炎の多くはウイルスの感染によるもので、ウイルス性肝炎は主にA型、B型、C型に分類される。B型肝炎ウイルス(Hepatitis B virus:HBV)の感染によるものがB型肝炎である。

 昭和61年1月、 HBVの母子感染を防止するため、ワクチンの接種が公費負担で開始された。国と地方自治体が責任を持ち、HBVを持った母親から子供へのHBV感染を、ブロックするためであった。

 このワクチン接種で当時300万人、人口の2.7%とされていたHBVキャリアは激減することになった。現在、HBVキャリアは約110万人、人口の0.9%であるが、昭和61年以降に生まれた子供では0.04%と著しく低下している。

 HBVの感染は、感染から数カ月後に身体からウイルスが排除され、免疫ができる「一過性感染」と、長期にわたってウイルスが肝臓に住みついてしまう「持続性感染(HBVキャリア)」がある。B型肝炎が恐ろしいのは、成人になって感染する一過性の急性肝炎ではなく、乳児期に感染を受けた持続性感染である。

 成人がHBVに感染した場合、免疫機構が働きHBVを体内から排除する。多くは無症状のまま、数カ月の経過でHBVは体内から排除されて治癒する。倦怠(けんたい)感や食欲低下などの急性肝炎の症状が一過性に出現することがあるが、慢性化するのは少数で、成人はHBVに対し終生免疫を得るため問題を残さないことが多い。

 一方、免疫能が十分でない乳児がHBVに感染した場合、持続性感染となり問題を残すことになる。B型肝炎の母親から生まれた乳児が、産道内でウイルスに感染すると、HBVは免疫の未熟な乳児から排除されず、長期間にわたって肝細胞内に住み続けることになる。これがHBVの持続感染で、このような乳児がHBVのキャリアとなる。大部分のHBVキャリアは、自覚症状を示さないため、「無症候性キャリア」と呼ばれ、約1015%が慢性肝炎に移行し、その20%が肝硬変になる。さらに肝臓がんに移行する。

 肝臓は、「沈黙の臓器」といわれ、予備能力が高く、日常生活では全体の20%の能力を使っているだけである。そのため、重症化するまで自覚症状を示さないのが特徴である。

 かつてB型慢性肝炎が慢性肝炎の約3割を占めていた。そしてその多くがキャリアからの発症で、キャリアの大部分は4歳以下の乳幼児期に感染したものであった。

 母親がB型肝炎であっても、子供が必ずしも感染するわけではない。HBVの特殊な成分であるHBe抗原が陽性で、母親がこのHBe抗原への抗体を持っていない場合のみ感染する。HBe抗体を持っていれば、乳児への感染はないと考えてよい。

 胎児感染防止には、妊婦全員にHBVの検査を行うことである。HBe抗原が陽性であれば母親は肝炎キャリアである。さらにHBe抗体が陰性であれば、赤ちゃんへ感染する可能性が高い。

 この予防としてワクチンの接種が開始されたのである。赤ちゃんにB型肝炎ワクチンを打つことによって感染を予防できるからであった。このことにより、日本人のB型肝炎キャリアは急速に減少、結核に代わる第2の国民病といわれていたB型肝炎は、ワクチン接種により激減したのである。

 B型肝炎ウイルス(HBV)は、輸血によっても感染するが、輸血が行われる以前から日本に存在していた。その主な感染ルートが母子感染で、それは出産後のワクチン投与によって予防可能となった。

 当初のワクチンは、HBV患者の血液からウイルス抗原を分離してつくられていた。その後、遺伝子組み換え技術を用いて、HBVの表面抗原を酵母に入れて培養する方法が開発された。これは遺伝子工学の手法により、初めて製品化されたワクチンで、この方法によりワクチンの大量生産が可能になり、価格も比較的安く、効果が安定したワクチンの供給が可能となった。

 全国25の大学や国立病院で、約2300人を対象に行われた臨床試験では、新ワクチン接種により96%の高い抗体獲得率を得た。遺伝子組み換え技術によるB型肝炎ワクチンは、臨床試験でも従来のワクチンを上回る有効性が確認された。

 HBVキャリアは、全世界で約3億人と推定され、欧米に少なくアジアやアフリカに多い。HBVキャリアから肝硬変、肝がんとなって死亡する患者は、全世界で毎年100万人とされている。

 現在、HBVの母子感染、輸血による感染は、ほぼ100%防止されている。問題となっているのは性行為による感染である。B型肝炎は、母子感染(垂直感染)あるいは輸血によるイメージが強いが、性行為による感染(水平感染)が意外に多い。

 HBVは、C型肝炎ウイルス(HCV)やエイズウイルス(HIV)より感染力が強く、精液や体液、分泌物などに混入した微量の血液が感染源となるが、しかし、性行為によるHBV感染の予防策、その啓発はなされていない。エイズが、性行為による感染であることは知られているが、HBVが性行為によるとする認識は薄い。このため、若い年齢層を中心に、性行為に伴うHBV感染が拡大傾向にある。

 HBVに感染する可能性のある性行為を行った場合は、3カ月間は献血しないことである。感染から3カ月間は抗体がつくられないため、献血での検査をすり抜けてしまうからである。

 通常の生活では、B型肝炎患者から感染する可能性はほとんどない。しかし、医療現場では針刺し事故による感染の可能性があるので、B型肝炎への抗体を持たない医療従事者は、ワクチンの接種を受けるべきである。

 母子感染の件数は、昭和61年の年間約4000人から10年後には約400人に減少した。胎内での感染を除けば、ほぼ予防できるようになった。しかし最近、B型肝炎の恐怖が薄れたことから、母子感染を起こす例が意外にあることが分かった。

 厚生労働省の「ウイルス母子感染防止に関する研究班」が全国の272病院で行った調査によると、平成12年に判明したB型肝炎の母子感染は41例。この約3割が、ヒト免疫グロブリン製剤やB型肝炎ワクチンを投与されていなかった。本来行われるべき処置が行われず、あるいは投与時期を間違い、子供へ感染させたのである。これらは医療機関の怠慢といわれても仕方がない。

 

 

 

 ベトちゃん・ドクちゃん 昭和61年(1986年)

 昭和55年に誕生したベトナムの双生児、ベトちゃんとドクちゃんは、2つの身体がつながった結合体双生児として日本でも有名であった。1つの身体に2つの頭を持つ奇形は、ベトナム戦争で米軍が用いた「枯れ葉剤」によるもので、ベトナムでは結合体双生児が多く生まれていた。

 通常、結合体双生児は育たないとされる。そのため7歳を迎えたベトちゃんとドクちゃんは枯れ葉剤被害の象徴的存在となった。そのベトちゃんが、昭和61年5月下旬に脳炎に罹患し、そのためホーチミン市から日本赤十字に人道的立場から救助を求める連絡が入った。当時のベトナムは貧しく、病院には医療器具がそろっておらず、大がかりな手術や治療ができる状態ではなかった。

 ホーチミン市が日本に助けを求めたのは、ベトちゃんの治療だけでなく、もしベトちゃんが死亡したら、ドクちゃんの生命までも危ぶまれたからである。ベトちゃんの病状が悪化したときに備え、ベトちゃんとドクちゃんの分離手術を念頭に置いての要請であった。

 6月12日、日赤から4人の医療チームが薬品・医療機器を携えホーチミン市に向かった。ベトちゃんは、意識不明の昏睡状態であった。6月19日、日赤医療チームは日航特別機でベトちゃんとドクちゃんをベトナムから日本に搬送し、東京・広尾の日赤医療センターに入院させた。

 医師団による懸命な治療が功を奏し、7月14日、日赤医療センターは昏睡状態だったベトちゃんが、危篤状態から脱したと発表した。ベトちゃんは、集中治療室で食事が取れるまでに回復した。

 日赤医療センターとベトナムの医師団は記者会見を行い、「2人の生命を救う、という本来の使命は十分に達成された」と発表したが、焦点となっていた分離手術は見送られた。

 ベトちゃん・ドクちゃんの支援を続けていた全国保険医団体連合会など医療5団体の代表は、東京・渋谷区のベトナム大使館を訪れ、全国から集めた寄付金7084000円をゴック駐日大使に手渡した。

 日本の代表は、「日本全国の子供から大人まで、ベトちゃん、ドクちゃんがいつまでも元気でいることを祈っています」と述べ、ゴック駐日大使は「みなさんの厚いご支援に深く感謝しています」と答えて固い握手を交わした。

 日赤医療センターで治療を受けていたベトちゃんらは、見違えるほど元気になり、1029日、成田発の日航機で4カ月ぶりに帰国。退院時にはセンターの正面に100人近い報道陣が詰めかけ、各病棟の窓からも入院患者が手を振り別れを惜しんだ。

 ベトちゃんらが治療を受けていた8月2日、同行して来日していたベトナムの女医グエン・チ・ソン・ファットさん(49)が米国に亡命するハプニングが起きた。患者を残しての医師の亡命は、関係者に何ともいえない衝撃を与えた。

 結合双生児はベトナム戦争で米軍が使用した枯れ葉剤による先天性奇形とされている。ベトナム戦争で、解放戦線の執拗(しつよう)なゲリラ戦術に手を焼いた米軍は、飛行機から大量の「枯れ葉剤」をまく作戦に出た。ジャングルを枯れさせて、隠れているベトコンを暴き出そうとした。

 ばらまかれた枯れ葉剤の総量は、6690万リットルに達した。枯れ葉剤が散布された地区では、24時間以内に葉が枯れ落ち、6週間以内に木が枯れた。当時、米軍は枯れ葉剤の人体への影響はないと考えていた。そのため、米兵の頭上からも枯れ葉剤がまかれ、散布直後のジャングルでも米軍は作戦を遂行していた。

 しかし枯れ葉剤には、不純物として猛毒のダイオキシンが含まれていた。ダイオキシンは、細胞をがん化させる作用、胎児への催奇形作用があった。ベトちゃんとドクちゃんだけでなく、ベトナムでは枯れ葉剤による奇形児が数多く生まれていた。

 奇形としては無脳症・無眼球症・四肢奇形・唇裂口蓋裂などが多かった。当初、ダイオキシンは20年で消失するとされていたが、枯れ葉剤を浴びた者の孫の世代になっても、1%の頻度で奇形児が生まれている。

 また被害はベトナム人だけでなく、米軍の帰還兵にも皮膚病・神経症・がんなどの後遺症をもたらした。米政府は枯れ葉剤被害の事実を認め、ベトナム帰還兵の12%に当たる37万人に補償金を出した。一方、ベトナム人の被曝者については、謝罪や補償を行わず、損害賠償の訴えも却下している。

 昭和6310月4日、ホーチミン市のツーズー産婦人科病院でベトちゃんとドクちゃんの分離手術が行われた。手術を担当したのはグエン・チ・ゴク・フォン博士で、2人が共有している小腸・大腸部分などを切り離し、切り口を縫合する手術は16時間半に及んだ。右足はドクちゃんに、左足はベトちゃんに分離された。

 手術後、ドクちゃんは比較的元気だったが、ベトちゃんは不安定な状態が続いた。ツーズー産婦人科病院では、フォン博士を中心に術後の特別態勢が取られた。その結果、2人とも順調に回復し手術は成功した。この分離手術には、日本の荒木洋二医師が立ち合っていた。

 その後、2人は同病院の敷地内に母と姉と一緒に住むことになった。結局、ベトちゃんは寝たきりになってしまったが、ドクちゃんは2本の松葉づえを上手に使い、サッカーができるまでになり、現在は自立して元気に働いている。

 枯れ葉剤は、幾多の悲劇をベトナムにもたらした。この枯れ葉剤は太平洋戦争時に日本に対しても、使用されることになっていた。原爆投下時、枯れ葉剤はすでに量産されており、米国は原爆ではなく、枯れ葉剤を使用する選択もあった。もし、日本がポツダム宣言を受け入れず、本土決戦となっていたら、日本にも枯れ葉剤が大量に散布されていた。

 日本の支援者に、1通のうれしい手紙が届いた。それは、25歳となったドク青年の結婚式への招待状だった。同国の専門学校生(24)と結婚するという。

 

 

 

中野富士見中学生自殺事件 昭和61年(1986年) 

 昭和61年2月1日午後10時すぎ、岩手県盛岡市の盛岡駅に隣接するデパート「フェザン」の地下1階男子トイレで、少年が首を吊って死んでいるのをガードマンが見つけた。この少年は、東京都中野区の中野富士見中学2年生の鹿川裕史君(13)であった。

 トイレの床には遺書が残されていて、そこには「俺だってまだ死にたくない。だけどこのままじゃ「生きジゴク」になっちゃう。俺が死んだらからって、他のヤツが犠牲になったんじゃ意味ないじゃないか。だから、もう君達も、馬鹿なことをするのはやめてくれ、最後のお願いだ」と書かれていた。

 この遺書には同級生2人の名前が名指しで書かれてあった。少年の死は、いじめによる自殺だった。盛岡市は、鹿川君の父親の出身地で、祖父母の家があった

 中野富士見中学では緊急職員会議を開き、いじめの実態調査に乗りだした。その結果、鹿川君のいじめは2年生の春ごろから始まり、最初はクラスの不良グループの「使い走り」をさせられていた。いじめは次第に加速し、秋には顔にマジックでヒゲを書かれ、下級生を殴るように命令され、廊下で踊らされ、校庭の木に登って歌を歌うように命令されていた。

 厳格な父親(42)は、息子がいじめられていることを知ると、気弱な息子を叱り、その一方でいじめた子供の親たちに抗議をした。学校にも相談したが、教師は転校を勧め、転校で問題を解決しようとした。鹿川君の同級生が、いじめにより1年前に転校しており、学校はいじめの解決法として転校を勧めたのである。

 さらに信じられないような陰湿な実態が発覚した。それは生徒だけでなく、教師たちもいじめに加わり、「葬式ごっこ」が行われていたのだった。

 前年の1114日、いじめグループらは鹿川君が登校する前に、彼の机の上に飴玉、夏ミカン、花、線香を並べ、鹿川君の写真を飾った。写真の横には「追悼」の色紙まで置き、「さようなら」「安らかに眠ってください」などと書かれた色紙には、級友だけでなく担任を含む4人の教師の名前があった。署名したのは担任の男性教師(57)、音楽の男性教師(57)、英語の男性教師(59)、理科の男性教師(29)で、色紙に言葉を残していた。

 登校した鹿川君は、自分の葬式を知り黙り込んでしまった。葬式ごっこは、鹿川君にとってショックだった。鹿川君は、いじめグループから抜けようとしたが、いじめはさらにひどくなった。鹿川君は次第に学校を休むようになり、そして盛岡での自殺となった。

 葬式ごっこに4人の教師が加わっていたことは、国民に大きな衝撃と失望を与えた。4人の教師の行為は、教師以前の人間として、大人として明らかに間違っていた。しかし学校側は「葬式ごっこ」に加わった4人の教師の行為を「悪ふざけ」と主張した。

 鹿川君の両親は東京都、中野区、リーダー格の2人の両親を相手に、東京地裁に総額2200万円の損害賠償請求を起こした。平成3年3月27日、東京地裁は「葬式ごっこはいじめではなく、自殺と直結させて考えるべきではない。鹿川君の心理的、精神的反応を予見することは不可能だった」と判断を下した。さらに裁判官は「学校教育は、生徒がいじめを克服して主体的に自我を確立すること」とし、学校側と加害者の責任を認めなかった。両親の精神的苦痛への慰謝料として、弁護士費用100万円を含めた総額400万円の支払いだけを命じた。

 鹿川君の自殺は衝撃的であったが、この当時はいじめによる自殺がすでに全国でみられていた。前年の昭和60年9月には、福島県いわき市で小川中学3年生が首つり自殺、同年11月には東京都大田区の羽田中学2年生が飛び降り自殺、12月には青森県野辺地町で中2の男子生徒が自殺するなど、子供の自殺は昭和60年だけで9件を数えていた。

 中野区の中学生が自殺した事件から約7年後、今度はいじめによる自殺ではなく、いじめによる殺人事件が起きた。平成5年1月13日夜、山形県新庄市の明倫中学校の体育館で、1年の児玉有平君(13)が、体操用のマットに巻かれ死亡しているのが発見された。

 生徒たちは体育館で、児玉君に歌いながらの芸を強要し、児玉君が拒否すると体育館の用具室に連れ込み暴行、両足をつかみ逆さづりの状態にして、丸めて立てかけてあった運動用マットに頭から押し込め窒息死させたのだった。この事件で生徒3人が逮捕、4人が補導された。

 体育館には運動部の生徒50人がいたが、誰も止める者はいなかった。殺された児玉君は常に成績が上位でおとなしい性格であった。以前から「標準語を話し、生意気だ」などの理由でいじめられていたが、学校側は生徒どうしの悪ふざけとしていた。

 昭和50年ころより、生活が豊かになり、人々の生活が画一化してきた。子供たちも同様に、生活のパターンが平均化してきた。子供たちには与えられたレールが敷かれ、自由であるのに夢がなく、生きる目標を前ではなく後ろに向けるようなった。このような時代を反映したのが、学校でのいじめであった。

 いじめは昔からあったが、かつては「いじめを卑怯な行為」とする周囲の抑止力があった。弱い者を助ける伝統が生きていた。しかし現在のいじめは陰湿で、普段は仲間としてうまくやっていても、何らかのきっかけで自分がいじめの対象になった。特定の相手への陰湿ないじめ、際限のない執拗(しつよう)ないじめによって、自殺・登校拒否に陥る子供が増加した。

 日本の社会は、均一性・同質性が重んじられ、異文化や独特の個性が異質視される傾向にある。しかしかつては、偉い人物や努力する人間を尊敬する気持ちがあった。人間としての良識がいじめを抑制していた。このような気持ちと良識が崩れ、幼稚化し、愚衆化し、真剣に生きることを、真面目な行為を、からかうようになった。

 中野富士見中学生の事件が、いじめ問題を表面化させるきっかけになった。昭和61年、法務省は「いじめは、力が弱い、よい子ぶる、仲間に入らない、他より優れている、生意気、転校生、肉体的欠陥など、集団の平均から外れている者が対象となる」と分析した。このように、異質なものを認めない社会現象が、いじめの原因ととらえられることが多い。

 しかし、「人間の基本として、相手をいたわる気持ち」を、戦後教育が教えてこなかったことが、大きな間違いだったのではないだろうか。いじめに対し、さまざまな防止策が提唱されたが、それらは学校の責任逃れを形式化した対策にすぎず、いじめは増加するだけであった。

 さらに「加害者がいなければ、いじめは存在しない」はずである。このいじめる側への対策がなされていない。問題が起きると、学校の責任を追及しても、いじめた子供やその親の責任を忘れている。妙な人権意識から、いじめる側の指導がなされないため、問題が解決しないのだろう。

 平成8年、文部省はいじめに関する調査を行い、公立学校3万9849校のうち34.4%でいじめが発生しているとした。しかしこの数値は、作為的に低く抑えられた数字と考えられる。学校側がいじめの実態を把握していないのか、把握していても報告すれば学校の責任を追及されることを恐れてのことか、あるいはいじめが潜伏して表面に出てこないものと考えられる。さらに教師を無力と知って生徒が相談しないなことが考えられる。実感としては100%の学校でいじめがあると思われる。

 いじめで殺害された明倫中学校の児玉君は、「日本は今、世界1の経済大国です。でも何か、貧しくさびしいです。心が……」と文集に書いていた。

 

 

 

ユッコ・シンドローム 昭和61年(1986年) 

 昭和61年4月8日午後零時20分、18歳の人気アイドル歌手・岡田有希子(ゆきこ)が、東京・四谷4丁目のビルの屋上から身を投げた。飛び降りたビルは、有希子が所属するプロダクション・サンミュージックが入居している7階建ての建物で、有希子は地上20メートルから身を投げ、歩道にたたきつけられ死亡した。

 この人気アイドルの投身自殺は、思春期の衝動自殺として片付けられるはずであった。しかし、彼女の自殺は少年少女や学生たちに大きな衝撃を与えただけでなく、誰もが予想しなかった方向へ波紋を広げていった。彼女の自殺が、少年少女たちの連鎖的な「後追い自殺」「誘発自殺」を引き起こしたのである。

 同日の朝、飛び降り自殺の数時間前のことである。有希子は青山6丁目の自宅マンションで自殺未遂を起こしていた。有希子は台所のガス栓を開き、左手首を切った。しかし、マンションの住人がガスのにおいに気付き、駆けつけた警察官によって救出された。救急車は、茫然と立ちすくむ有希子をすぐに北青山病院へ搬送、診察した医師は左手首の裂傷が意外に深いことに気付いていた。通常のリストカットは、それほど深いものではない。

 すぐに消毒が行われ、縫合手術となった。裂傷の深さから神経切断が心配されたが、彼女の手は正常に動いた。医師は有希子に問診を行い、意識障害などの後遺症がないことを確かめ、帰宅可能とした。有希子は、マネジャーに付き添われて帰ることになった。幸いなことに一命を取りとめたが、涙の陰に隠された心の傷の深さを周囲は見逃していた。

 有希子は、病院から四谷のサンミュージックに行き、6階の社長室で泣きじゃくっていた。そしてマネジャーが目を離した瞬間、屋上へ駆け上がり金網を乗り越えた。それは何のためらいもない投身自殺であった。屋上にはスリッパがきちんと並べてあった。

 アイドル歌手・岡田有希子(本名:佐藤佳代)は、愛知県一宮市に生まれ、小学生時代は絵を描くのが好きで、東京芸術大学を目指していた。その有希子が、芸能界を意識したのは中学2年生のとき、フレッシュギャル・コンテストで準優勝したことであった。さらに、新人歌手の登竜門である日本テレビの「スター誕生!」に応募して地区予選で優勝した。松田聖子、中森明菜など、当時のアイドルは若者たちのあこがれだった。

 両親は有希子の芸能界入りに反対した。そのため「学校で1番の成績を取ること」「中部統一テストで5番以内に入ること」「進学校である名古屋市立向陽高校に合格すること」の難題を条件に、歌手への道を断念させようとした。

 しかし、もともとオール5の優等生だった有希子は、学校で1番の成績を取り、向陽高校に合格し、両親は有希子の芸能界入りを止めることはできなかった。有希子は、「スター誕生!」で第46回チャンピオンとなった。「スター誕生!」でチャンピオンになったことは、アイドルの道を約束されたようなものである。親からの3条件を満たした有希子は、上京してデビューするため向陽高校から堀越学園に転校した。

 昭和59年4月、16歳の有希子は「ファースト・デイト」の曲でデビュー。デビュー1年目で日本歌謡大賞、日本レコード大賞の新人賞を受賞し、そのほかの新人賞を総ナメにした。

 デビューから2年間の芸能活動で、8枚のシングルレコード、6枚のLPを出した。さらにグリコやカネボウ化粧品など7つテレビコマーシャルやNHK大河ドラマにも出演し、国民的アイドルにふさわしい人気者になっていた。ひたむきでかれんな印象は、ポスト松田聖子とされ、スター街道を邁進(まいしん)していった。

 人気絶頂のアイドル歌手の自殺は、有希子がトップアイドルへの地位を上り詰めていただけに、連日のようにワイドショーで取り上げられ、過激な報道が繰り返された。テレビは自殺現場を中継し、アスファルトに残された血痕、地面に額を押しつけて嗚咽(おえつ)する少年たちの映像を茶の間に流した。

 飛び降り現場には、300人ものファンが集まり、無言のまま立ち去ろうとしなかった。多くの報道陣が少年たちを取り囲こみ、道路には花束が添えられ、積み上げられた花束は高さ2メートルに達していた。繰り返されるテレビの映像は、彼女の異常な人気を示していた。そして彼女の悲劇を売り物にするように、写真週刊誌「フォーカス」「フライデー」は道路にうつぶせに横たわる遺体の写真を掲載した。

 自殺の3カ月前にヒット・チャート1位となり、アイドルとしてトップ・スターの座を確保した直後の自殺であった。有希子は、「ユッコ」の愛称で多くのファンの心をとらえていた。4月10日に、中野・宝仙寺で行われた葬儀には、3000人のファンが集まった。

 自殺の原因については、その後、マンションの自室から遺書が見つかったため、失恋による自殺とされた。遺書の中に、俳優・峰岸徹の名前が書かれてあったとうわさされ、「妻子ある中年俳優との恋愛の破綻」とマスコミはあおりたてた。

 マスコミにとって、恋に破れた18歳の清純派の少女と42歳の男優の組み合わせが、話題として好都合だった。テレビドラマで共演した年上の峰岸にあこがれて愛情を告白、交際を申し込んだが受け入れずに自殺と週刊誌は書いた。若い女性が事件を起こすと、必ず異性関係をうわさするのがマスコミである。

 彼女の自殺の理由には諸説があり、マスコミ報道が真実かどうかは分からない。峰岸氏との関係も明らかではない。18歳の少女が残したノートには、大人の関係を思わせる記載はなく、メルヘン的な純愛が書かれていたとされている。真実は永遠に闇の中であるが、彼女にはもっと彼女らしい自殺の理由があったのかもしれない。

 自殺は、極めて個人的な行為である。しかし岡田有希子の自殺は、彼女の個人的な死にとどまらなかった。日本各地で彼女をまねた自殺が相次いだのである。彼女の自殺をきっかけに、明らかな動機がないまま、少年少女の飛び降り自殺が全国レベルで連鎖反応を引き起こした。

 神戸では、「有希子ちゃんのようになりたい」と書き残して16歳の少女がマンションから飛び降りた。有希子のブロマイドを抱き締めながら飛び降りた22歳の若者もいた。

 自殺した10代の青少年の総数は、同年4月だけで前年の倍以上の114人、同年全体では前年の44%増の799人に達していた。自殺した少年少女の6割が女性で、しかもその多くが有希子と同じ高いビルからの飛び降り自殺だった。

 飛び降り自殺は、それまでは「男性の自殺法」とされていたが、少女たちの多くが飛び降り自殺を選んでいた。有希子の影響が、いかに大きかったかを物語っている。少女たちにとって、自殺という暗い悲壮感はなく、むしろ「運命をともにして飛翔(ひしょう)した」と表現するのが近いであろう。それだけ有希子の存在は大きくまた身近だった。

 有希子のファンにとっては、自分と同じ世界に彼女が住んでいるとの思い込みがあった。自分と有希子を同化し、有希子と見えない糸につながれ、自殺を深刻に考えず、生死を区別できずに死んでいった。少女らにとっては、親よりは友人、家族よりはテレビの方がより身近な存在だった。

 マスコミによる岡田有希子の自殺の美化、そのセンセーショナルな報道が、中・高校生の揺れる心に影響を与えた。自殺の報道にあおられ、自殺報道が次の自殺を誘った。死に対してぼんやりとした憧憬(どうけい)を抱く若者が多かった。深刻な問題を抱えての自殺ではなく、ただ「さよなら」といった簡単な気持ちからの自殺だった。

 マスコミのスキャンダラスな報道は常道を逸していた。外国では、自殺についての過激な報道がさらなる自殺を誘導するため、行きすぎた報道は禁止されている。しかし日本では有希子の自殺が自殺の連鎖反応を起こしているのに、自粛の動きは見られず、過剰な報道が繰り返された。マスコミが騒げば騒ぐほど、それに引き込まれるように自殺が続発した。

 日がたつにつれ、自殺の連鎖反応が社会問題になり、この現象を「ユッコ・シンドローム」と呼ぶようになった。マスコミは、中・高校生の連続自殺に説教的な報道をするようになるが、飛び降り自殺は加速度的に増えていった。そのため有希子の遺作となった「花のイマージュ」は、悪影響を懸念して発売中止となった。さらにマスコミは後追い自殺を防止するため、有希子の自殺報道だけでなく、彼女の音楽や出演したテレビの放映まで一切を中止することにした。

 このようなユッコ・シンドロームに近い現象が、昭和8年2月にもみられた。それは伊豆大島の「三原山行き」である。昭和8年212日、実践女子専門学校の生徒が三原山の火口で投身自殺。この新聞報道をきっかけに多くの人たちが三原山の火口に飛び込んだのである。三原山は一躍、自殺の名所となり、昭和8年だけで944人が自殺。そのため大島への汽船の片道切符は、販売が中止されたほどである。この「三原山行き」現象も連鎖自殺の1つといえる。

 芸能人の自殺は特に珍しいことではない。ただ、ニュースがあまりに突然なので、多くの人たちに強いインパクトを与えるのである。これまで自殺で亡くなった芸能人を列挙すると、昭和53年、最高の美男子とされた俳優の田宮二郎が猟銃で自殺。田宮二郎は躁鬱病だったとされ、米国製の散弾銃をベッドの中に入れ、足の指で引き金を引き、銃弾が心臓を貫いての即死であった。昭和60年には、「有楽町で逢いましょう」で有名な歌手・フランク永井が首つり自殺を図った。生命は取り留めたが、後遺症として脳に障害を残した。

 昭和58年6月28日、俳優・沖雅也が東京・新宿の50階の高層ホテルから飛び降り自殺。義父への遺書に、「オヤジ、涅槃(ねはん)で待っている」の言葉を残し話題を呼んだ。涅槃とは、仏教の言葉で悩みや苦しみのない悟りの世界を意味していた。2人は同性愛だったとされ、当時は涅槃という言葉を同性愛の意味で使った。

 そのほか、映画監督の伊丹十三(平成9年、飛び降り自殺)、女優の可愛かずみ(平成9年、飛び降り自殺)、網膜剥離に苦しんだブルーコメッツの井上忠夫(平成12年、首つり自殺)、落語家・桂三木助(平成13年、首つり自殺)が記憶に残っている。

 芸能人の死因として自殺が多いと思われるが、もともと自殺によって、日本では年間3.4万人が死亡している。自殺は50人に1人の死因で、意外に頻度の高い死因なのである。

 岡田有希子は愛知県愛西市の成満寺の墓で永遠の眠りについている。今でも手向けの花が絶えることはない。

 

 

 

トリカブト保険金殺人事件 昭和61年(1986年)

 昭和61年5月20日、沖縄旅行中だった神谷利佐子さん(33)が、宿泊先の石垣島のホテルで突然苦しみだした。利佐子さんは、神谷力(47)と2月に結婚したばかりで、石垣島旅行は神谷力から妻の利佐子さんへのプレゼントであった。神谷の3番目の妻となった利佐子さんは、池袋のクラブで神谷と知り合い、神谷の前妻が亡くなるとその5カ月後に2人は結婚したのだった。

 新婚夫婦は、前日の19日に那覇空港に到着すると、沖縄県南部を観光してホテルに1泊、翌日、那覇空港に利佐子さんのホステス仲間3人を迎えに行った。ホステス仲間3人の旅行費も神谷力が出していた。友人と利佐子さんは那覇空港から石垣島行きの飛行機に乗ったが、神谷は用があるといって那覇空港で別れた。

 石垣島のホテルにチェックインすると、利佐子さんは急にあえぎはじめ、嘔吐を繰り返し、激しい発汗とともに手足のしびれを訴えた。症状は急速に悪化しホテルが救急車を要請したが、利佐子さんの心臓は救急車内で停止。担ぎ込まれた八重山病院で心蘇生が行われたが、心臓は止まったままであった。

 若い女性の急死はめずらしいことである。たとえ心臓が原因であっても心蘇生に全く反応しないことは極めてまれであった。「単なる病死ではない」。八重山病院の医師たちは、死因に不審を抱き警察に連絡をとった。一方、那覇空港から飛行機で駆けつけた夫の神谷は、司法解剖に難色を示したが、警察の強い要望があり渋々承諾した。

 遺体の解剖は、琉球大医学部助教授の大野曜吉医師(31)によって行われた。琉球大医学部法医学部の永盛肇教授は多忙だったので、出張解剖の多くを大野医師が担当していた。大野医師が飛行機で石垣島へ行くと、八重山署には八重山病院副院長の大浜長照医師(後に石垣市長)が待っていて、大浜医師の立ち会いのもとで司法解剖が行われた。

 利佐子さんの遺体には外見上の異常はなく、内臓の肉眼所見にも異常はなかった。司法解剖が終わると、遺体検案書を書くことになる。大野医師は検案書に心筋梗塞と病名を書き、夫の神谷には心筋梗塞による不整脈死だろうと説明した。

 しかし実のところ、心筋梗塞による不整脈が死因であっても、死に至るまでの症状を説明できなかった。死因に疑問を抱いた大野医師は、利佐子さんの血液を法医学研究室の冷凍庫に保存することにした。

 旅行に同行した女友だちは、医師が下した「心筋梗塞による不整脈死」という診断に納得できなかった。彼女らは石垣島から戻ると、地元の池袋署に「利佐子さんの死は病死ではなく殺人」と訴えたが、池袋署はこの訴えを受けつけなかった。

 警察の対応に満足できなかった彼女らは、手当たり次第に生命保険会社に連絡すると、利佐子さんの保険加入の有無を問い合わせた。その結果、利佐子さんには保険会社4社に合計1億8500万円の生命保険が掛けられていたことが分かった。もちろん、保険金の受取人は夫の神谷力だった。2人は知り合って半年で結婚、結婚から1カ月後に生命保険に加入、利佐子さんの死は保険に加入してから2カ月後のことだった。

 神谷力は生命保険会社に保険金を請求したが、利佐子さんの友人から連絡を受けていた保険会社は保険金の支払いを保留とした。保険契約時に利佐子さんが自律神経失調症で治療を受けていたこと、つまり申告義務違反を理由に保留にしたのだった。

 当時の神谷力は、経営コンサルタントを自称していたが実は無職だった。無職の神谷が毎月40万円の保険料を払うのは不自然であった。さらに前妻の2人も利佐子さんと同様に急死していたのだった。最初の妻は昭和56年7月に心筋梗塞で、2人目の妻は昭和60年9月に心不全で急死していた。

 神谷力は生命保険会社を相手に保険請求訴訟を起こし、3年後の平成2年2月19日の1審判決で勝訴した。しかし平成2年10月の控訴審で、利佐子さんを司法解剖した大野曜吉医師が、「死因はトリカブトによる中毒死である」と衝撃的な証言をしたのだった。

 大野医師は琉球大助教授から日本医大の教授になっていたが、利佐子さんの司法解剖時に自らが下した死因に疑問を持ち続け、文献からトリカブト(鳥兜)中毒を疑い、保存していた利佐子さんの血液を母校の東北大に送り調べてもらっていた。

 すると予想通り、利佐子さんの血液から、毒草トリカブトに含まれるアコニチンが検出され、さらにフグ毒であるメサコニチンも検出されたのである。この大野医師の証言を不利と思ったのか、神谷力は突然保険請求訴訟を取り下げた。しかしこの大野証言以降、週刊誌をはじめとしたマスコミによる報道合戦となった。罪を犯しそうにもない紳士然とした神谷は、テレビに出演しては妻殺しを否定し、マスコミ批判の小冊子や手記も発表した。

 神谷力は那覇空港で別れてから3時間後に利佐子さんが死亡しており、自分にはアリバイがあると主張した。確かにトリカブトの毒であるアコニチンは即効性で、神谷の主張は正しいように思えた。警視庁は神谷が何らかの方法でアコニチンを飲ませたとして、総勢48人の捜査本部を南千住署に置き捜査に当たった。

 平成2年12月、神谷力は突然捜査員の前から姿を消した。しかし1カ月後、札幌のマンションにいることが突き止められ、警視庁南千住署の捜査本部は向かいのマンションを借りて監視を続けた。そして平成3年6月9日、捜査本部は札幌から飛行機で東京に向かう神谷を羽田空港で別件の横領罪容疑で逮捕したのだった。神谷力の逮捕容疑は、以前勤めていた自転車部品製造会社から3億4000万円を横領したことだったが、7月1日、妻の利佐子さん殺人容疑で再逮捕となった。

 トリカブト(鳥兜)は、北海道や本州の山野に美しい花を咲かせる植物であるが、その根の部分にアコニチンという猛毒を含んでいる。昭和5611月から60年秋にかけ、神谷はトリカブト62鉢、クサフグ1200匹を購入していること、さらに毒の抽出に用いるエタノールや濃縮用器具、カプセル、実験用マウス、実験器具などを買っていたことが分かった。

 神谷が利佐子さんにトリカブトをいつ与え、彼女がいつそれを飲んだのか、その目撃証言はなかった。利佐子さんが神谷と那覇空港で別れてから、3時間後に死亡するという時間のズレが裁判の大きな争点となった。

 検察は神谷が吸収を遅らせるためにカプセルを二重にした毒入りカプセルをつくり、それを飲ませて殺害したと推測した。しかし実際にはカプセルを二重にしても、吸収を3時間遅らせることは不可能だった。この検察の弱点に対し、日本医大の大野曜吉医師は「トリカブトとフグの毒を微妙に調合すれば、トリカブトの毒性を遅らせて発現させることができる」と証言したのである。

 この事件には直接的物証がなく、神谷は殺人について全面否認したままであった。しかし平成6年9月、東京地裁の川上拓一裁判長は求刑通り無期懲役の判決を下した。神谷が大量のトリカブトとフグを購入していたこと、支払い能力がないのに高額の死亡保険金を掛けていたこと、このような状況証拠から有罪としたのだった。

 川上裁判長は「犯行は計画的、冷酷、残忍で、欲望を満たすためには人命さえ一顧だにしない姿勢は非道の極み」として無期懲役を言い渡した。さらに昭和60年に死亡した前妻についても「トリカブトの投与にて死亡したものと推定される」と述べた。

 神谷は上告したが、東京高裁は一審を支持。平成14年2月21日、最高裁は神谷被告の上告を棄却して無期懲役が確定した。

 トリカブトは美しい花を咲かせる観賞植物であるが、根の部分にはアコニチンという猛毒がある。トリカブトは日本だけでなく、欧米にも広く分布し古くから暗殺に用いられてきた。sアコニチンは矢毒にも用いられていたほどの猛毒であった。

 保険金殺人は一獲千金を狙える成功率の高い犯罪である。保険金殺人は計画的犯罪であるため、衝動的殺人より捕まる可能性はきわめて低い。犯罪として表面化するのは失敗例のみで、成功例は表面化しないため、保険金殺人の実数は不明である。犯人が捕まるのは、その味をしめた犯人が保険金殺人を繰り返す場合で、初犯で捕まることはほとんどない。

 今回のトリカブト保険金殺人事件は神谷力が、準備に長期間をかけ、化学者以上の知識を学び、特殊な殺人技術を開発しての事件だった。わが国の犯罪史上まれにみる事件であった。

 

 

 

ゲルマニウム食品 昭和62年(1987年)

 これまで健康に効果があると証明された健康食品は皆無だが、健康に有害と証明された健康食品は数多く存在する。消費者の健康への関心、病気を持つ患者の弱みにつけ込み、効果のない健康食品で暴利だけでなく、有害な健康食品を堂々と売る悪徳商法が流行していた。

 百害あって一利もない健康食品が次々と商品化されたのは、宣伝さえすれば容易に暴利を得たからである。健康食品が身体に良いと宣伝するのは健康食品会社、あるいは会社に雇われたサクラや学者である。このように健康を売り物にした悪質商法の中で、ゲルマニウムは6人の死者を出すことになった。

 昭和55年ごろから「ゲルマニウムが、がんや糖尿病、高血圧や肝臓病などに効く」と盛んに宣伝され、そのためゲルマニウム健康食品がブームになった。ゲルマニウムは有機ゲルマニウムと無機ゲルマニウムに分類され、有機ゲルマニウムは朝鮮ニンジンやニンニクなどに含まれることから健康に良いだろうとされていた。一方、無機ゲルマニウムは半導体などに使われ健康とは全く無縁の物質であるが、ゲルマニウム人気にあやかり、多くの無機ゲルマニウム健康食品が販売されていた。有害な無機ゲルマニウムをがんや糖尿病、肝臓病に効くと宣伝して販売していたのである。

 昭和6210月、ゲルマニウム、オレンジの花粉を原料とした健康食品をがんや高血圧など万病に効くと宣伝、販売していた東京都渋谷区の健康食品販売会社「ビューラ」の丹羽芳男社長(54)が薬事法違反の疑いで警視庁保安二課に逮捕された。丹羽社長はゲルマニウムの効用を宣伝する本を書き、その中で自社のゲルマニウムを紹介していた。

 このような商法は「バイブル商法」と呼ばれ、ビューラは10億円を売り上げ、5億円の利益を上げていた。丹羽社長はオレンジの花粉を原料とした「ロイヤルミックス」、ゲルマニウム含有水「ジェム」など4種類の健康食品を製造し、がんや糖尿病、高血圧などの現代病に効くと薬効をうたっていた。

 丹羽社長はテレビ出演してゲルマニウムの効用を訴え、「ゲルマニウムで現代病は治る」など7冊の本を出版していた。「ロイヤルミックス」の原価は141円、「ジェム」は703円だったが、定価はそれぞれ3500円、9000円と原価の10倍以上の値段で売っていた。健康食品は、「値段が高ければ、それだけ効果がある」と消費者は思って買ってしまうのである。

 丹羽社長はこれらの商品を全国55の代理店で販売していた。代理店を募るため、通信教育学校「分子矯正理工学院」を設立し、講習料(約10万円)を取って受講者を集め、講習修了者に「健康相談士」「健康管理士」の肩書を与え代理店をさせていた。

 昭和54年にゲルマニウムによる最初の急性腎不全患者が発生して以来、ゲルマニウムによる中毒患者が相次ぐことになる。昭和61年までに6人が死亡、23人が中毒を起こし、死亡率は26%と高率だった。ビューラの女性社員(52)でさえ、ゲルマニウムによる腎臓病で死亡していた。

 昭和63年2月、日本小児科学会の鹿児島地方会で、鹿児島大小児科が発表した症例がゲルマニウム被害の典型例といえる。死亡したのは1歳時に糖尿病を患い、インスリン治療を受けていた5歳の男児である。この子供の父親が「糖尿病の80%は治る」と書かれた丹羽芳男の本を読み、子供に1年半にわたり35mgのゲルマニウム食品(商品名「ジェム」)を、インスリン治療と並行して内服させていた。

 子供は足のふらつきなどを呈したが、父親は糖尿病が悪化したと考え、ゲルマニウムの服用量を倍に増やした。そのため症状はさらに悪化、鹿児島大小児科に入院した。入院時には、腎不全、肝不全、呼吸不全の状態だった。男児が死亡して解剖によって、腎臓だけでなく各臓器に大量のゲルマニウムの蓄積が認められた。

 ゲルマニウムは腸管から吸収されると、腎臓の尿細管に蓄積する性質がある。この尿細管に蓄積したゲルマニウムが間質性腎炎を引き起こすのであるが、間質性腎炎は通常の腎臓病とは違い、尿検査で異常が見つからずに血液検査で初めて分かることが多かった。そのため患者の状態が悪くても発見が遅れてしまうのだった。

 日本人は、毎日1mgほどの有機ゲルマニウムを食品から摂取しているので、有機ゲルマニウムの毒性は少ないと考えられている。しかし、有機ではなく無機ゲルマニウムを大量に摂取すると慢性中毒を引き起こすのである。

 ゲルマニウム健康食品の製造量から推定すると、厚生省が発表した6人の死亡、23人の中毒者数は少なすぎ、原因不明のままの患者は相当数になると推定される。薬効を記載して売った場合は薬事法違反になるが、薬効を記載しない健康食品であれば取り締まる法律がなく野放し状態であった。

 九州大医学部第二内科で、ゲルマニウム健康食品による患者6人が見つかり佐内透医師が中心となって動物実験を行った。無機ゲルマニウムを高濃度、中濃度、低濃度の3つに分けてラットに投与すると、高濃度群の5匹のうち1匹が腎不全で死亡、残りの4匹も腎臓の遠位尿細管に変性が起きていた。国立大阪病院循環器科の松阪泰二医師らが、ラットに無機ゲルマニウムを10カ月間飲ませ、4匹中1匹が遠位尿細管障害による腎不全になり、ほかの1匹に尿の濃縮障害を認めている。両グループとも動物実験で無機ゲルマニウムがヒトと同じ腎臓障害を起こすことを示している。

 昭和62年だけで、健康食品に関する悪質商法の検挙は23件、その被害者は約7万7000人で、売上額は約183億円に達していた。利益の追求のためには、国民の生命や身体を危険にさらしてしまう業者の本質が浮き彫りになった。

 医薬品と健康食品は明らかに違うものである。医薬品は疾病の治療に用いるもので「その効果が証明され、副作用が調べられているもの」に限られている。一方、健康食品は健康増進が期待されるだけで、治療効果を証明する必要はなく、もちろん副作用は調べられていない。

 患者にとって、特に慢性の疾患に悩む患者にとっては、副作用がなく病気が治ればそれに勝るものはない。健康食品はその名前が「食品」なので、副作用がないと思いがちであるが、意味不明の健康食品は使用しない方が得策である。健康食品が安全とする先入観は大きな間違いである。

 米国では栄養補助食品には、「本製品はFDA(食品医薬品局)による評価を受けていないため、疾患の治療、予防には用いないこと」の文章を明記することが義務付けられている。ゲルマニウム中毒の報告は、日本だけで海外での報告例はない。

 

 

 

スギ花粉症 昭和62年(1987年)

 昭和62年3月9日、テレビで「スギ花粉の飛散予報」が初めて始まった。花粉症は他人ごとにようにとらえられていたが、患者は次第に増え続け、平成2年には患者数が1000万人を超えた。花粉症に悩む人は都市部で人口の2割とされ、花粉症は新たな国民病となった。日本の花粉症の多くがスギ花粉であった。

 日本で初めてスギ花粉症が報告されたのは、東京オリンピックで日本中が浮かれていた昭和39年のことである。栃木県日光の病院に赴任していた斎藤洋三医師(東京医科歯科大助教授)が、それまでの教科書に記載されていなかったスギ花粉症21例を報告した。

 斎藤医師はブタクサ花粉症に似た患者を診察、その当時はスギが花粉症を引き起こすことは知られていなかったが、斎藤医師は病院の周辺を観察してスギ以外に考えられないと直感したのである。スギ花粉症との命名も斎藤医師によるものであった。

 スギの花粉を吸い込むと、くしゃみ、鼻水、目のかゆみなどが出現する。つらい症状であるが、生命には関与せずに数ヶ月の我慢ですむため放置している患者が多かった。スギ花粉症のメカニズムは、花粉が粘膜に付着すると、免疫機構が働いてIgEと呼ばれる物質がつくられ、このIgEがアレルギー反応を引き起こすのである。身体を守るはずの防衛機能が過剰に反応してアレルギー症状を出すのであった。

 日本ではスギ花粉によるものが圧倒的に多いが、スギは植林後30年ほどで成木になって花粉を飛ばすことによる。太平洋戦争で荒れはてた山野に、林野庁の指導でスギが植林され、そのためにスギ花粉が増加したのだった。

 林業のためにスギを植えたが、安い木材が輸入されるようになり、スギの人気が落ち、そのため林業に携わる人が減り、杉の枝は伸び放題になり多くの花粉をまき散らしたのである。戦後に植えたスギが、花粉をまき散らしているのである。

 スギ花粉症は海外ではみられない疾患で、日本では北海道と沖縄を除き各地に患者が存在する。スギ花粉症が当時まで問題にならなかったのは、花粉がぬれた大地に吸収されていたからで、それが都会の舗装化によって花粉が何回も飛び散るようになったとの説がある。人間社会と自然とのバランスが崩れたことによるのだろうが、それまでスギ林に囲まれて生活していた人に、花粉症が発症しなかったことは不思議である。

 さらなる説として都市化現象による複合汚染、特にディーゼル車が排出する微粒子が関係しているとされている。花粉症は交通量の多い沿道の住民の方がスギ林の近くの住民より2倍以上も患者が多のであった。

 ある物質A(抗原)と物質Bを一緒に注射すると、物質Aに対する抗体の産生を物質Bが増加させることがある。この場合、物質Bをアジュバンドと呼ぶが、スギ花粉が抗原であり、ディーゼルの排出微粒子がアジュバンドとする説が動物実験で証明されている。

 スギ花粉症の対策として、花粉のほとんど出ない新種のスギが千葉県林業試験場(現千葉県森林研究センター)で開発され、平成10年春に8万本を植える計画が立てられた。年間30万本を目指し、毎年約100ヘクタールずつ増やしていく計画であるが、日本のスギ林の面積は450万ヘクタールであることから、気の遠くなるような対策である。

 さらにスギ花粉症の原因として寄生虫の駆除説が指摘されている。日本人は昔から寄生虫と共生し、寄生虫の感染率はかつて60%以上だったが、戦後30年間で数%までに低下した。この寄生虫との共生を断ち切ったことが、花粉症、アトピー、気管支喘息などのアレルギー疾患を引き起こしたとする学説である。寄生虫への免疫細胞が、寄生虫が少なくなり、その代わりにダニや花粉などを攻撃してアレルギー反応を誘発しているとしている。これは日陰者になった寄生虫学者のたわごと思われるが、もし本当ならば寄生虫は害だけではなく益をもたらすことになる。つまり寄生虫と人間との共生の不思議を示しているのかもしれない。

 花粉症の治療法としては、抗アレルギー剤服用による予防的治療、症状を軽くするための対症療法、長期的な減感作療法がある。花粉が飛び始める予想日の1〜2週前から薬を飲み続ける予防的治療が推賞されている。

 予防的治療で花粉によるへのアレルギー反応が抑えられるが、それでも花粉がピークになる3月に症状が出た場合には、即効性のある鼻用ステロイド噴霧薬や点眼薬などを併用する。鼻のアレルギー症状には点鼻薬、目のアレルギーには点眼薬である。

 根本治療とされているのが減感作療法である。スギ花粉症の季節が終わってから週に1回スギエキスを注射して、体を徐々にスギ花粉に慣れさせ、スギ花粉への過敏性を弱めていくのである。しかし長期通院の面倒に加え、改善率は約60%と成績が悪いためそれほど普及していない。

 東京都内のデパートでは、春先になるとスギ花粉症のコーナーが設けられ、眼鏡、マスク、洗眼器、鼻洗浄機、空気清浄機など、さまざまな商品が販売されている。製薬会社がスギ花粉に貢献していることは確かであるが、医薬品のスギ花粉市場は推定200億円とされ、何となく貢献よりも営業を感じてしまう。

 

 

 

三重大劇症肝炎感染事件 昭和62年(1987年)

 昭和62年7月26日、三重大医学部付属病院で記者会見が行われ、同病院の小児科医師2人と看護師1人がB型肝炎に感染し、医師2人が死亡していたことが発表された。亡くなったのは、谷本晃医師(28)と徳井亜弥子研修医(28)だった。女性看護師(36)は重症だったが一命を取り止め、回復に向かっていると説明された。

 病院内での感染事故はこれまでにもあったが、3人がほぼ同時期に感染し、しかも極めてまれな劇症肝炎になったのである。なぜこの劇症肝炎事件が連続して起きたのか、謎を含んだ怪事件として憶測が渦巻いた。

 三重大の説明によると、最初に劇症肝炎を発症したのは研修医の徳井亜弥子さんだった。徳井さんは前年春に同大医学部を卒業、国立津病院で1年間の研修を受け、同年4月から大学病院に勤めていた。徳井さんは7月6日ごろから高熱と倦怠感を訴え、小児科のベッドで点滴を受けていた。しかし体調が改善しないため同病院の内科を受診すると、GOT、GPTの数値が1万を超えていて、劇症肝炎と診断されて直ちに入院となった。入院しても症状は改善せず、入院翌日には昏睡状態に陥った。血漿交換の治療が行われたが、意識は戻らず同月17日に息を引き取った。

 医師の谷本晃さんが発熱とだるさを訴え、劇症肝炎と診断されたのは同月12日だった。入院したときには手遅れの状態で、昏睡状態のまま同月25日に死亡した。谷本晃さんは自治医科大出身で4年間の研修医生活を終え、徳井さんと同じように4月から大学病院で患者の治療に当たっていた。看護師もほぼ同時期に発症したが、GPTは5000程度にとどまり、肝機能は回復傾向を示した。彼女は看護学校で教官を務めた後、同じように4月から大学病院で働いていた。

 3人がほぼ同時期にB型肝炎に感染して劇症肝炎を発症させたのである。病院は谷本晃さんの死亡した翌日に記者会見を開いたが、報道陣への病院側の口は重かった。関係者への直接取材は禁止され、病棟への立ち入りも許されなかった。

 劇症肝炎とは肝細胞が急激かつ大量に壊れてしまう病気で、ウイルス感染が9割を占め、そのほか薬剤によっても誘発される。劇症肝炎の約40%はB型肝炎ウイルス(HBV)が原因であるが、B型急性肝炎から劇症肝炎へ移行するのは1%以下とされ非常にまれといえた。

 日本での劇症肝炎患者は年間1000人程度なのに、同じ病棟で働く3人が同時期に劇症肝炎を発病したことは、何らかの共通した感染経路があったと考えられた。しかし記者会見ではこの感染経路についてはあいまいな説明に終始した。

 集団感染が起きた場合、2次感染予防のために感染経路の把握は重要である。3人が同じ小児科に勤務していたので、B型肝炎の小児患者から感染したとされたが、感染源、感染経路は不明であった。

 B型肝炎は血液で感染した場合、潜伏期間は平均3カ月前後とされている。感染した3人は4月から同病院で勤務を始めたばかりで、ちょうど3カ月後に発症していることから、4月以降の小児科に入院した患者から感染したと考えられた。

 三重大付属病院小児科は、未熟児の専用ベッドを含め50床の規模で、研修医を含めた医師約20人と、看護師20数人が小児患者の治療に当たっていた。入院患者は白血病が多く、約1割の患者がB型肝炎ウイルス(HBV)を保有していた。そのため小児科病棟ではB型肝炎と分かっている患者の採血には十分に注意していた。

 HBVの感染力は強く、1ccの1億分の1ほどの血液が入っただけで感染する。入院患者の約1割がHBVの感染者だったので、感染源は入院患者と推測されたが、なぜ3人が同時期に発病したのか、なぜ劇症化したのか謎だった。3人は3人とも感染の心当たりはないと同僚に話していたのである。専門的な知識を持っている医師が、針刺し事故などの感染の自覚もなく発病したことも謎だった。もし針刺し事故で感染した場合には、48時間以内に免疫グロブリンを投与すれば発病は防げたはずであった。三重大付属病院は小児科に勤務する職員全員を検査したが、HBVについては全員が陰性だった。

 医師や看護師は採血や輸血のとき、あるいは手術やお産などの際に、注射針を指に刺すことがある。医療従事者のうち年間約5%が針刺し事故を経験している。しかし劇症肝炎の例はほとんどなく、感染後も通常の生活を送っているのがほとんどであった。

 劇症肝炎の死亡率は極めて高く、救命率は20%とされている。治療としては肝臓の働きを補うため、患者の血液から血球以外の成分(血漿)を取り除き、健康な人の血漿と交換する「血漿交換療法」と、血液透析を応用した「血液濾過透析療法」の併用療法が取られる。この治療で、肝臓機能の低下している期間を乗り切れば、肝臓が再生してくるので救命が可能であった。しかし劇症肝炎の致死率が高いのは、このような治療によっても肝臓の機能が回復しないことが多いからで、その際には肝移植の治療しかないのである。

 三重大肝炎感染事件は、その後の研究で原因が次第に分かってきた。同大医学部教授(臨床検査部)小坂義種らは死亡した2人医師の劇症肝炎は、変異したB型肝炎ウイルス(HBV)に感染したためとした。それまで劇症肝炎の原因は患者側の体質とされてきたが、HBVの変異によって劇症肝炎が生じたとしたのである。

 小坂義種教授らは各病院で発生した典型的な劇症肝炎患者10人の血液を分析、自治医科大グループらは血清からHBVを分離して遺伝子構造を解析した。その結果10人のうち9人から、ウイルスの遺伝子の塩基配列が1つだけ違う変異ウイルスを検出した。この変異を目印に三重大の感染源を調べたところ、2人の医師が出入りしていた小児科病棟から、ウイルス量が30倍多い小児患者が見つかった。この小児患者から何らかの経路で血液を介して感染したと判断され、この研究結果は米消化器学会雑誌に掲載された。

 この事件をきっかけに、東京女子医科大付属病院をはじめとした各地の病院から、医療従事者がB型肝炎に感染し死亡していたことが報告された。それまで散発的に死亡例が報告されていたが、B型肝炎は法定伝染病ではないので正確な患者調査は行われていなかった。労働省は医療従事者の業務上疾病による労災認定を再調査し、約2年間で73人の医療関係者がB型肝炎を発病し、8人が死亡していたことを明らかにした。73人の職種の内訳は、医師12人、看護師47人、臨床検査技師10人であった。そのほとんどは、患者の採血時に自分の指を刺して感染したものだった。

 主だった事故を列挙すると、東京女子医科大=看護師がB型肝炎に感染し死亡(昭和6112月)▽大宮日赤病院=医師が患者の吐血を浴び、B型劇症肝炎で死亡(62年7月)▽岸和田市民病院=看護師がB型劇症肝炎で死亡(62年7月)▽福岡大病院=医師3人がB型肝炎に感染し、2人が死亡(62年7月)▽清水厚生病院=看護師がB型劇症肝炎で死亡(62年7月)▽愛知県町立野村病院=看護師がB型劇症肝炎で死亡(62年9月)などである。

 B型肝炎ワクチンは約2万円で、自己負担になるため普及していなかった。ワクチンの予防効果は90%以上とされているが、その対策を病院は取っていなかったのである。もし三重大付属病院で感染した3人が予防ワクチンを受けていたら、発病しなかったと考えられるが、当時は接種していない医療従事者の方が圧倒的に多かったのである。

 厚生省は各医療機関に医師や看護師らのワクチン接種を指示していたが、費用を病院の負担としていたため一般化していなかった。三重大付属病院では、3年前にも外科の研修医がB型肝炎に感染し重症となったが、その教訓が生かされていなかった。医療従事者にとって、劇症肝炎はいつ自分の身に降り掛かってきても不思議ではない。厚生省はこの事故で、国立病院の医療従事者約3万人に国費でB型肝炎ワクチン接種を受けさせる方針を決め、民間病院でもB型肝炎ワクチン接種が普及するようになった。

 現在では、原則として30歳以下の医療従事者全員が肝炎ワクチンを接種している。以前のワクチンは、感染者の血液の表面に分布するタンパク質を分離・精製する方式で製造していたが、現在では遺伝子組み換え型のワクチンを使用するようになって、接種者の抗体陽性率はほぼ100%になっている。

 三重大医学部付属病院の3人は、いずれもB型肝炎ワクチンや免疫グロブリンを受けていなかった。ワクチンが約2万円と高価で、「自分だけはうつらない」とする安易な考えが悲劇のもとにあった。肝炎を防ぐ予防策がありながら、対策を講じていなかった医療側の無責任体質を浮き彫りにした。この点に関し、厚生省は「日本の健康保険は治療を目的としているため、予防を目的としたワクチンは適用されない」と、お役人らしいコメントを述べた。医療従事者全員がB型肝炎ワクチンを接種できるようになったのは、若くして世を去った勤務医・研修医・看護師らの犠牲があったからである。彼らへのご冥福を祈りたい。

 

 

 

乳児ボツリヌス症 昭和62年(1987年)

 昭和52年、従来のボツリヌス中毒とは発生機序の違う「乳児ボツリヌス症」が米国で初めて報告された。乳児ボツリヌス中毒の原因は、ボツリヌス菌に汚染された蜂蜜などを経口摂取することで、米国では年間約60例が報告されている。

 乳児ボツリヌス症が注目されたのは、乳児の突然死の原因ではないかとされたからで、カリフォルニアの調査では、乳児突然死症候群の乳児29人中9人の血清あるいは糞便からボツリヌス菌が検出されていたのであった。

 昭和62年、この乳児ボツリヌス症が日本で初めて確認され、以後、年間数例の報告がある。日本では、死亡例がないことから注目度は低いが、未確認例が多いのではないかとされている。乳児ボツリヌス症は糞便からボツリヌス菌が大量に分離されるが、成人の場合と違い血液中の毒素は少ない。

 ボツリヌス菌は土壌に広く分布していて、食品とともに口から入るが、ボツリヌス菌は耐熱性の芽胞を持つため通常の煮沸では滅菌できない。成人では経口からのボツリヌス菌感染はまったく問題にならないが、乳児の場合は腸内細菌叢が未熟なため問題を引き起こすのである。乳児ボツリヌス症は生後1年未満、特に生後8カ月未満の子供を中心に発症する。

 熊本のからし蓮根(れんこん)によるボツリヌス中毒事件は、ボツリヌス菌が体内で増殖したのではなく、真空パック内で増殖した菌が毒素を分泌し、その毒素が体内に入り多くの死者を出したのである。

 はちみつを買うと、瓶には「1歳未満の乳児には与えないでください」との注意書きが必ず張ってある。このことを不思議に思うかもしれないが、昭和62年に乳児ボツリヌス症が日本国内で発生し、はちみつに混入していたボツリヌス菌が原因だったことからである。乳児ボツリヌス症の原因は、はちみつだけではないが、関連性が証明されたのははちみつだけであった。

 乳児ボツリヌス症は、生後2週間から1歳未満の乳児に発生する。生後2週間までは、ボツリヌス菌が増殖するのに必要な栄養分が腸内にないため発症はしない。しかし2週以降では腸内に栄養分があり、腸内常在菌が十分でないため、ボツリヌス菌が腸管内で増殖し毒素を産生しやすくなるのであった。

 乳児ボツリヌス症は少量の毒素が徐々に出るため、症状の発現はゆっくりで、特有のものはない。顔面の無表情、哺乳力の低下、泣き声の脆弱(ぜいじゃく)、頑固な便秘、筋力の低下、そして呼吸困難へと続くのである。

 乳児ボツリヌス症の診断は、まず本症を疑うことから始まる。確定診断は乳児の血清からボツリヌス毒素を検出するか、糞便から毒素あるいは菌体を検出することである。生後12カ月を過ぎると腸内細菌が定着して、ボツリヌス菌の増殖を防止するため、乳児ボツリヌス症の発生はない。治療は対症療法が中心で、抗生剤による治療はまだ確立されていない。なお重症になると約25%の患者が呼吸困難に陥り、人工呼吸器による管理が必要となり、致死率は3%とされている。

 昭和6210月、厚生省は「1歳未満の乳児には、はちみつを与えるべきではない」との通達を出した。そのためはちみつメーカーは、「1歳未満に与えないように」との注意書きを入れることにした。日本では幸いにも死亡例はないが、大手メーカーの紀文は、通達が出されたその日に緊急役員会を開き、疑わしきは製造せず、販売しないことを決定した。おせち料理のだて巻きや卵などには数パーセントのはちみつが入っていたが、その使用を取りやめ、「ハニー入り」と表示していた商品はパッケージをつくり替えることになった。

 一方、「ハニーカステラ」を看板商品にしている文明堂、清涼飲料「はちみつ家族」を売り出しているカルピス食品は、はちみつを緊急に検査し、ボツリヌス陰性を確認して安全性を強調した。

 厚生省は「授乳の際に吸いつきをよくするため、乳首にはちみつを塗り乳児に与えるのは問題だが、生後8カ月を過ぎれば心配はない」と発表している。その後、はちみつを原因とする乳児ボツリヌス症はほとんど見られていない。

 

 

 

悪魔払い殺人事件 昭和62年(1987年)

 昭和62225日の朝、鈴木正人の知人が神奈川県藤沢市のアパートを訪ねドアを開けると、男女2人が振り向きもしないで、一心不乱に遺体をバラバラに切り刻んでいた。驚いた知人は110番通報して、駆けつけた藤沢北署員が男女2人を殺人の現行犯で逮捕した。

 殺されたのはロックバンド「スピッツ・ア・ロコ」のリーダー茂木政弘(32)さんで、逮捕されたのはバンド仲間の兄・鈴木正人(39)と茂木政弘の妻で看護師の茂木美幸(27)であった。茂木の遺体は骨が露出するほど刻まれていて、排水溝は肉片で詰まり、部屋には内臓や肉片が散らばっていた。

 殺された茂木政弘さんはライブハウスで活動するミュージシャンでレコードも出していた。逮捕された2人はバンド仲間で、3人はかつて横浜市内の新興宗教に入っていた。茂木政弘さんは音楽活動に行き詰まり、2人に悩みを打ち明けていた。鈴木と美幸は、茂木さんに「世の中は悪魔でいっぱいだ、世界平和を実現する曲は政弘しかできない」と作曲するように励まし、茂木さんはアパートに閉じこもったが、曲は作れなかった。

 鈴木と美幸は、茂木政弘さんが作曲できないのは、悪魔が取り憑いていると思いこんだ。そのため鈴木は「悪魔払い」のため茂木さんの瞳を見つめ悪魔を追い払おうとしが、悪魔は茂木さんの身体から出ていかなかった。鈴木と美幸は「肉体が死ななければ、取り憑いた悪魔も死なない」と思い込み、222日、2人で茂木さんを押さえつけ、鈴木が茂木さんの首を絞めて殺害したのである。さらに遺体を切り刻み、肉を荒塩でもみ清めていた。

 この殺害は本当に「悪魔払い信仰」だったのか、遺体を切り刻んだのは「悪魔払い」なのか、単なる遺体の処理だったのか、その判断しだいでは有罪にも無罪にも成り得る事件であった。しかし精神鑑定では「宗教的観念にとらわれているが、知的欠陥はなく責任能力あり」とされ、平成4513日、横浜地裁は鈴木正人に懲役14年、茂木美幸に懲役13年を言い渡した。坂井裁判長は「悪魔払い説」を否定し、善悪の判断のある一般の殺人事件としたのだった。

 この事件以外にも、悪魔払い殺人事件は、昭和62年だけで、3月に千葉県野田市で、4月に長崎県で、5月には北九州市で起きているが、精神異常による犯行としてマスコミは小さく扱っただけであった。

 平成7年には、福島県須賀川市で祈祷師の江藤幸子(47)が信者3人と共謀し、除霊と称して信者7人に暴行を加え6人を殺害し1人に重傷を負わせている。この事件は半年の間に、信者7人が「キツネが憑いている」として、信者から「悪魔払い」と称して暴行を受けていた。平成875日に重傷を負った女性信者(37)が入院したことから事件が発覚。警察が祈祷師宅を家宅捜査し、信者6人の腐乱遺体を発見した。遺体の一部はミイラ化していた。信者は「魂は死んでいない、遺体の悪臭が消えたら蘇生する」と信じていた。

 祈祷とは密教に由来する宗教的行事である。祈祷師は深山などで肉体と精神を修行で極限まで自分を追い込み、会得した真理を庶民救済に役立てることである。宗教がからんでいるため警察は捜査をためらったが、須賀川の祈祷師はニセ祈祷師だった。平成145月、福島地裁は「信者を次々殴り殺したのは宗教的行為とは言えず、責任はあまりに大きい」として、女性祈祷師江藤幸子に死刑、信者を無期懲役と懲役18年とする判決を下した。最高裁は女性祈祷師の上告を棄却し死刑が確定した。戦後日本では10人目の女性死刑囚となった。

 人間は死を恐れ、幸せを求め、生き方を求めて宗教に入る。しかし、宗教を利用した犯罪は絶えない。あるいは、これが本当に悪魔の仕業なのかもしれない。

 

 

 

利根川教授にノーベル医学生理学賞 昭和62年(1987年)

 昭和621012日、米国マサチューセッツ工科大(MIT)教授の利根川進博士(48)に、ノーベル医学生理学賞が授与されることになった。日本人のノーベル賞受賞は、物理学賞の湯川秀樹・朝永振一郎・江崎玲於奈、化学賞の福井謙一、文学賞の川端康成、平和賞の佐藤栄作に次いで7人目であった。

 日本人が医学生理学賞を受賞するのは利根川進が初めてで、「多様な抗体を生成する遺伝的原理の発見」が受賞の理由であった。賞金は2175000クローネ(約4900万円)で、1210日にスウェーデンのストックホルムで授賞式が行われた。

 利根川教授の業績は数多いが、受賞の対象となったのは、遺伝子レベルで免疫の仕組みを解明したことである。

 ヒトの体に病原菌やウイルスなどが侵入した場合、身を守るための免疫システムが作動する。これは抗体と呼ばれる免疫グロブリンが、病原菌やウイルスを攻撃するシステムであるが、このシステムには大きな謎があった。理論上100億個以上とされる異物に対し、人間の限られた数の遺伝子がどのように抗体をつくるのかである。ヒトの遺伝子は、当時は10万個(現在は3万個)と考えられていて、10万個の遺伝子がどのように100億個以上の抗体をつくるのかが謎であった。利根川教授は遺伝子工学の技術を駆使して、この謎を解明したのである。

 免疫反応を担うリンパ球にはT細胞とB細胞の2種類があるが、抗体をつくるB細胞の遺伝子が成熟の段階で短くなることを利根川教授はが証明したのである。つまり「B細胞の抗体を作る遺伝子が、いくつかの部分に分かれていて、それらが再結合して病原体に対する抗体をつくる」ことを証明したのだった。

 たとえば100万個の異物があっても、それに対する抗体の遺伝子が100万種あるわけではない。100の遺伝子が3組あれば、その組み合わせは100万種(100×100×100)になるのである。それまで遺伝子は固定して動かないもの、体細胞の遺伝子は常に同じと信じられてきた。しかし免疫グロブリンの遺伝子は、自ら再配列して、多様性に対応していたのである。

 さらに遺伝子には「エクソンという遺伝子本体の部分」と、「イントロンと呼ばれる一見無用な遺伝子の部分」があって、イントロンがエクソン遺伝子をつなぐ「のり」のような働きをしていることを発見している。この発見は遺伝子の常識を破るもので、生物学界に大きな影響を与えた。

 利根川教授は、リンパ球T細胞の研究でも大きな業績を上げている。免疫反応を制御するT細胞は体内の異物を直接攻撃すること以外に、抗体をつくるB細胞の働きを調節する作用を持っている。利根川教授はこのT細胞の異物を識別する受容体タンパク(レセプター)の構造を解明しして、受容体が抗体と同じように、どのような異物にも対応できる多様性を持っていることを証明した。

 利根川進教授は、昭和1495日に名古屋で生まれたが、父親の職業の都合で日本各地を転々とし、昭和344月に都立日比谷高校から、京大理学部化学科に入学している。利根川教授の学問へのスタンスは「ほかの人と同じことをしたくない」ということで、大学では教科書で習う化学に情熱を失っていた。ちょうどその当時、生物の基本的な現象を物理や化学の方法で解明する「分子生物学」が、欧米で盛んになっていた。英国のクリック博士と米国のワトソン博士が、DNAの二重螺旋構造を発見してノーベル賞を受賞したのもそのころである。

 昭和383月に京大理学部化学科を卒業すると、新しい学問である分子生物学を専攻し、京大ウイルス研究所の大学院生となった。そこでウイルス研究所の所長であった渡辺格(いたる)教授から米国留学を勧められ、9月から米国のカリフォルニア大サンディエゴ校に留学することになった。

 昭和436月、利根川教授はバクテリアに感染するウイルスの研究(バクテリオファージ)で博士号を取得し、その後、ソーク研究所のレナート・ダルベッコ博士(昭和50年度ノーベル賞受賞)のもとで、がんウイルスについて研究を行った。

 昭和46年にスイスのバーゼル免疫学研究所の主任研究員になり、抗体遺伝子の研究で次々に優れた成果を上げた。昭和569月からマサチューセッツ工科大(MIT)の教授となって、哺乳類の免疫現象を解明し、昭和57年に朝日賞、昭和58年に文化功労者の表彰を受けている。昭和59年には45歳で文化勲章を受章し、昭和60年にはNHKディレクター真由美さん(33)と再婚し、米マサチューセッツ州に在住した。

 利根川教授は、分子遺伝学の研究が微生物から高等生物へと進み始めた時期、いち早くその研究に没頭し、世界中を驚かすような成果をだした。彼の研究は「トネガワのエレガントな仕事」と賛辞されている。利根川教授はそれまでの免疫学から脳神経の研究に移り、平成6年にマサチューセッツ工科大の学習記憶センター所長になった。このように常に新たな分野に興味を持ち研究に邁進するタイプであった。

 ノーベル医学生理学賞は、最近ではグループで受賞することが多く、利根川教授のように単独での受賞は珍しいことであった。ノーベル賞100年の歴史の中で、医学生理学賞を受賞した日本人は利根川教授ただ1人で、日本では大騒ぎとなった。しかし利根川教授は外国での研究が評価されたのであって、日本では研究をしていない。日本の閉鎖的な大学の環境になじめず、頭脳流出の形で海外に移り住んでいたのである。

 和を重んじる日本人の研究は独創性に欠け、ノーベル賞には縁が遠いとされている。ノーベル賞の人材はいても、それを育てられないのが日本なのである。

 

 

 

エイズパニック 昭和62年(1987年)

 神戸に住む独身女性のA子さん(29)が体調不良を訴えたのは、昭和617月のことであった。下痢や全身のだるさに加え、体重が急激に減少し、9月になると咳や発熱が続くようになり、呼吸苦を訴えるようになった。

 A子さんは市内の病院に入院。入院時の胸部レントゲンで、両肺にびまん性の陰影が認められた。医師はA子さんの病気を肺炎と診断、抗生剤による治療を開始した。しかし抗生剤を投与しても改善せず、主治医は結核の可能性も考え結核の治療も行った。しかし病状は悪化するばかりだった。

 胸部レントゲンから肺炎の診断は確実であったが、A子さんは危険な状態に達したため、神戸市立中央市民病院に転院して治療を受けることになった。中央市民病院でも肺炎の原因が分からず、起因菌を調べるため肺の一部を採って調べる検査(肺生検)が行われた。その結果、A子さんの肺からニューモシスチス・カリニが検出されたのである。

 A子さんの肺炎はカリニ肺炎と呼ばれるもので、ニューモシスチス・カリニという原虫が肺に寄生して起きるものだった。カリニ肺炎は珍しい肺炎で、健康人が発病することはなく、身体の抵抗力が落ちた患者にのみ感染するとされていた。主治医はカリニ肺炎の治療薬バクターを投与したが効果はなく病気は進行していった。

 A子さんの主治医は、偶然にもエイズ治療の研修を受けていてその知識を持っていた。主治医はエイズを念頭に検査を行った。そしてカリニ肺炎とT4リンパ球の低下という2つの特徴から、エイズの可能性が浮かび上がったのである。A子さんの血液を鳥取大医学部ウイルス教室の栗村敬教授に送くり、検査の結果、1225日にエイズと診断された。A子さんの主治医が、エイズの研修を受けていたので、偶然にも診断できたのである。一般の医師であれば診断は困難であった。

 昭和62117日、厚生省(当時)エイズサーベランス委員会(委員長=塩川優一・順天堂大名誉教授)は、わが国初の日本人女性エイズ患者が神戸市で発生したと発表した。国内では26人目のエイズ患者であったが、異性から感染した女性は初めてだった。この発表は、いよいよエイズが日本へ上陸したと、全国に大きな衝撃を与えた。そしてこの発表から3日後の20日午前9時、A子さんは治療のかいもなく死亡した。直接の死因はくも膜下出血であった。

 A子さんがエイズと診断された日には、口も利けないほどの重症になっていた。そのため、医師が筆談で事情を聞いたが詳細は不明であった。それでも7年前の22歳の時に2年間ギリシャ人船員(37)と同棲していて、ギリシャで生活をしていたことが分かった。この船員に同性愛の疑いがあったため、船員からエイズが感染したと考えられた。エイズの潜伏期は5年から10年でで、同棲時の感染とすれば、発症までの期間は理屈に合っていた。

 A子さんは発病するまで神戸の繁華街のスナックでアルバイトをしており、三宮や元町の外国人バーに出入りしていた。週刊誌は、街で不特定多数の男性を相手に売春をしていたこと、外国人を含む100人以上の男性と性行為を続け、少なくとも4人の男性と同棲していたと書いた。身に覚えのある男性たちにとって、不治の病エイズの恐怖が降りかかってきた。エイズ汚染が自分だけでなく家庭にまで広がっている可能性があった。

 神戸の街はパニック状態に陥った。神戸市の「エイズ対策本部」は、兵庫県警に協力を求め、この女性と親しかった男性を特定し、血液検査を受けるように指導したが、ほとんどの男性は採血を拒否したのだった。兵庫県・神戸市の対策本部は、「速やかに検査を実施し、住民の不安を取り除くべし。なぜ採血をしないのか判断に苦しむ」と半強制的検査を示唆した。しかしA子さんと付き合っていた男性にとって、採血検査は恐ろしくて受けられなかったのである。

 エイズと診断されても治療法がないので、検査を受ける意味がなかった。また発症した場合、50%が1年以内、75%が2年以内、90%が3年以内に死亡するとされていて、検査は自らの死刑判決を聞きに行くようなものであった。

 その一方で、兵庫県・神戸市の「エイズ対策本部」は、保健所での血液検査を開始した。血液によるスクリーニングはELISA法、確認検査はウエスタンブロット法を用い、再確認は鳥取大医学部ウイルス教室の栗村敬教授が行うことになった。1カ月の相談人数は1771人(男7525人、女3246人)、血液検査件数4373人(男3343人、女1030人)、電話による問い合わせは108463件であった。

 エイズパニックは神戸にとどまらず、日本中に広がっていった。東京都のエイズ・テレフォンサービスには2週間で25万件の問い合わせがあり、その内容は「外国人とキスしたが大丈夫か」「子供が受験で神戸に行くが心配ないか」「外国人のよく来るプールで泳いでいるが、大丈夫か」「今まで通り理髪店に行ってよいか」「ホテルのトイレで外国人の使用した便座に触ったが、感染しないか」「主人がソープランドに行っていたらしいが大丈夫か」など多岐にわたっていた。それに対し職員は「感染が心配されるのは、性交渉や傷口からの感染だけ。日常生活でエイズ患者と接触しても、感染する心配はない」と説明に追われていた。

 A子さんはソープランドで働いていたわけではなかったが、神戸のソープ街である福原では1日1000人いた客が300人に激減し、100人のソープ嬢が店を辞めた。店の売り上げは落ち込み、風俗街はゴーストタウンとなった。ソープ経営者はソープ嬢全員を保健所に連れていき、血液検査を受けさせ、定期検査の結果を店の安全宣言として宣伝した。また札幌や川崎のソープ街では、「外国人お断り」の張り紙が出された。

 この神戸エイズパニック事件の約2カ月前の昭和6111月には、「松本エイズパニック事件」が起きている。松本エイズパニック事件は「エイズに感染しているフィリピン女性が、長野県松本市のクラブで働いている」とフィリピンの新聞が報道したことが発端であった。

 日本のマスコミがこれを受けて、長野県松本市のクラブで働いているジャパゆきさん(21)が感染者と特定し、その女性の実名が公表され、2カ月の滞在期中に50人ほどの客を取っていたと報道した。女性の働いていた店や彼女の客を捜しに、マスコミが松本市に押し寄せた。

 この報道で外国人女性が銭湯での入浴を拒否され、スーパーでの入店を断られた。もちろん、「彼女の客」とうわさされた男性は、村八分の扱いを受けた。長野県飯田市では「暴力団組員の知人がエイズにかかっている」という電話から、組員同士の発砲事件まで発生している。ただし、この松本エイズパニック事件は、女性がジャパゆきさんであり、店の名前もはっきりしていたため、パニックの震度は神戸に比べれば小さいものであった。

 厚生省エイズサーベイランス委員会は、異性間の性的接触で患者が出たことから、一般家庭にもエイズが広まる可能性があると述べ、62年を「エイズ元年」 と宣言した。

 当時の国民にとって、「エイズは乱れた性への天の裁き」との偏見があった。マスコミは競って神戸市のA子さんの身元を洗い、エイズの感染防止を名目にA子さんを「魔女狩り」の対象とした。A子さんの実名・写真・住所などが写真週刊誌などに掲載され、葬儀の様子や彼女の私生活も報道された。例えば、「女性セブン2月12日号」では、「初のエイズ死亡女性 見果てぬ夢」と題した7ページの記事で、A子さんの実名を挙げ、小・中学生時代の写真を掲載した。さらに同級生の話や、父は酒飲みで家庭不和であったこと、さらに偽名を使って夜の神戸で売春をしていたと書いた。

 この記事によってA子さんの両親は、「虚偽の内容に加え、興味本位に患者と家族の私生活を暴いたもので、プライバシーや肖像権、名誉を侵害された」として、「女性セブン」の発行元である小学館を相手取り慰謝料1000万円と謝罪広告を求める訴えを大阪地裁に起こしている。

 エイズパニックをきっかけに、エイズから社会を守ろうとする社会防衛論が議論されることになった。厚生省はA子さんが死亡した翌日に、エイズ対策を法制化する意向を発表した。それは、「2次感染防止のためにエイズ患者の届け出を義務化すること」であった。この法制化に対しマスコミも「1人のプライバシーより99人の命」と賛同した。

 しかし厚生省のエイズ対策本部は人権を重視し、プライバシーを守ることにこだわり、エイズ患者の人権とプライバシー優先させた。

 このエイズパニックで最も恐怖を味わったのが、血友病患者だった。血友病患者は、薬害エイズという病魔に加え、エイズ感染を周囲が知れば社会から抹殺されると感じたからである。

 

 

 

患者取り違え事故 昭和62年(1987年)

 昭和62年9月21日、福島県いわき市のいわき市立総合磐城共立病院で患者取り違え事故が起きた。会社員の妻で公務員のA子さん(28)が、妊娠しているのに、誤って中絶手術を受けたのである。

 A子さんは妊娠4カ月で「切迫流産」の診断を受けていた。同病院へ2週間入院し、1週間の自宅療養の後に、夫とともに産婦人科外来を受診していた。同じ外来に、人工中絶を予定していたBさんがいた。Bさんは妊娠2カ月で風疹に罹患したため、人工中絶を希望して通院していた。A子さんとBさんの2人は偶然にも同姓であった。

 事務員が窓口でBさんの名字を呼んだが、Bさんはトイレに行っていた。そのためA子さんは自分が呼ばれたと思い病室に入った。窓口では名字を呼ぶだけで、名前までは確認していなかった。また診察室の看護婦も名字だけで、カルテや氏名の確認をしていなかった。このことが悲劇の始まりだった。

 産婦人科の診察台は、患者の羞恥心を減らすため、上半身と下半身が、カーテンで仕切られている。診察台はどの病院でも同じで、医師から患者の顔が見えないようになっていた。医師(36)は子宮の大きさを触診で調べたが、患者の顔を見ていなかった。本人確認をないまま、局部麻酔をして中絶手術を行ったのである。

 手術中、いつもの診察と違うことに気付いたA子さんが異変を訴え、医師は初めて間違いに気付いた。A子さんは大声で「人殺し」と叫んだが、看護婦は思わずA子さんの口を手で押さえてしまった。産婦人科部長が、直ちに手当てをしたが、中絶は終わっていた。

 中絶され胎児はA子さん夫妻にとっては初めての子供になるはずで、出産予定日は翌年3月15日だった。病院側は手術後、A子さん夫妻に「流産したことにしてくれないか」と話したが、夫妻はこれに応じず、「誤診で中絶」との診断書となった。

 ミスを犯した医師は9年の経験があったが、「よく確認せず、漫然と手術をしてしまった。深く反省している」と過失を認めて謝罪した。阿部新平院長も「偶然と不注意によるミスで、誠に申しわけない。二度と起こさないので勘弁していただきたい」とひたすら陳謝した。

 医療事故が起きるたびに、医師の個人的資質が問われるが、同じ外来で手術と診察が流れ作業のように行われている。このように質よりも量をこなす医療そのものが、今回の事故の本質的な原因だったのではないだろうか。

 いわき市と担当医師は被害者の夫婦に慰謝料など1000万円を支払うことになった。1000万円の内訳は800万円が慰謝料、200万円が見舞金であった。いわき簡易裁判所は、業務上過失傷害の罪で産婦人科医師に罰金20万円の略式命令を出した。さらに医道審議会は担当医師に医業停止1カ月の処分を行った。

 いわき市立総合磐城共立病院と同じような中絶事故が、昭和63年2月6日、高松市のYマタニティクリニック(Y院長40)でも起きている。26歳の主婦が5カ月の定期検診に来たのに、切迫流産の患者と間違えられ、院長の妻であるR副院長(39)が中絶処置を行ったのである。この医療事故でクリニックは1500万円を支払うことで示談が成立している。

 産婦人科の患者取り違え事故としては、平成3年に石川県の産婦人科診療所で体外受精の治療を受けていた患者に、過って別の患者の受精卵を移植したことがあった。体外受精は高度医療の典型であり、信じがたい医療ミスであるが、体外受精は年間1万件を超えており、起こりえる事故といえた。この事件をきっかけに、日本産科婦人科学会倫理委員会は、精子や卵子を操作・培養する際には、器具に患者名や識別のIDナンバーを明記し、複数の精子や卵子を同時に扱うことを禁止した。また凍結胚などの保管場所の施錠を徹底し、管理者の責任体制を整え、事故のニアミスが発生した場合には報告する対策をつくった。

 しかし平成1411月、愛知県の小牧市民病院で不妊のため人工授精を受けていた県内の30代の女性に、誤って夫以外の男性の精液を注入する事故が起きている。医師が女性の順番を間違えて、別の女性の夫の精子を注入したのだった。

 女性が待合室で座っていると、治療が終わったのに、再び診察室から自分の名前を呼ばれ、不審に思って医師に確認すると、この女性に注入するはずの夫の精液が残っており、取り違えが分かった。医師がすぐに洗浄処置を取ったため、女性は妊娠しなかったが、結果が分かるまで精神的な苦痛を受けることになった。

 小牧市は医療ミスを認め、末永裕之院長が女性に謝罪した。病院側は「患者の氏名を確認しなかった初歩的なミス」としている。小牧市民病院では、患者に自分の名前を名乗らせて確認する「医療安全対策マニュアル」を作成していたが、現場では守られていなかった。

 小牧市民病院は、徹底した効率化と人件費の削減で17年連続の黒字を出していた。しかし一方では、看護師や医師は不足しており、そのことが取り違え事故の一因となったのではないだろうか。

 

 

 

国立がんセンター看護婦殺人事件 昭和62年(1987年)

 昭和62年7月5日の夕方のことである。東京都江東区有明の埋め立て地の波打ち際で、犬の散歩をしていた会社員が、奇妙な旅行バッグが打ち上げられているのを発見した。会社員が犬にせかされて近づいてみると、旅行バッグには人間の遺体らしきものが入っていた。

 通報により駆けつけた警察官が調べると、バッグに押し込められていたのは、若い女性の腐乱死体であることが分かった。遺体は全裸で、大腿部などがガムテープで縛られ、腐乱の状態から死後数週間とされた。

 この事件はその後、奇妙な展開をたどることになる。遺体の発見から2日後、東京都豊島区南大塚のマンションで、医師・森川映之(34)がベッドで自殺しているのが発見された。森川映之の遺書には、国立がんセンターの看護婦・富永松江さん(24)を殺害したと書かれていた。

 深川署の捜査本部は、森川映之の残した遺書を手がかりに、腐乱死体で発見された若い女性が富永さんかどうかを調べた。そして歯科医院に残されていた富永さんの歯の治療跡が、遺体と一致したため、女性の遺体を富永さんと断定した。検死によると、富永さんの死因は絞殺によるもので、海に捨てられたバッグにはスキューバダイビング用の重り十数個が入っていた。腐敗によるガスでバッグが浮上し、波の力で岸に打ち上げられたのである。

 森川映之と富永松江さんの2人は、約1カ月前から行方が分からず、両人の家族から捜索願が出されていた。富永さんは、遺体が発見される約1カ月前の5月31日未明、がんセンターの夜勤を終えて、自宅近くまでタクシーで帰ったまでは分かっていた。しかしその後、自宅には帰っておらず、足取りはそこでプッツリと消えていた。

 富永松江さんと交際していた同センターの研修医・森川映之が富永さん失踪の鍵を握るとされていた。しかし森川は、富永さんが失踪した翌日から病院を無断欠勤、6月2日に森川の妻から捜索願が出されていた。森川は7月2日付けで、無断欠勤を理由に国立がんセンターの研修医の地位を取り下げられた。

 やがて森川映之の失踪後の行動が判明する。森川は自殺するまで、医学雑誌の広告にあった豊島区の美容整形外科に月給100万円で勤務し、南大塚のマンション寿高ビルに入居していた。この新しいマンションで、森川映之は富永さんとは別の国立がんセンターの22歳の看護婦と同棲生活をしながら身を隠していた。

 富永松江さん(24)が遺体となって発見された翌7月6日、森川映之(34)は美容整形病院から勤務中に無断外出。次の日になっても森川が出勤しないため、不審に思った同僚が彼のマンションを訪ね遺体を発見したのである。

 森川映之はベッドの上にあお向けになり、コンセントから引いた電気コードの先端を胸と背中に張り、タイマーを用いて感電死していた。母親にあてた遺書には、「生まれてこのかた、迷惑ばかりかけたけど、許してくれとは言いません。今までの人生はしあわせだった。高橋和巳(京都大助教授、作家)にはなりきれなかった。誤解されて死んでゆくのは何とも思いません。忘れてください」と書かれていた。

 森川映之の女性関係がすさんでいた。離婚調停中の妻がいながら、別の女性と関係を持ち、何者かから3000万円を要求されていた。そのため築地署に被害届を出していたが、恐喝はその後も続き、事件直前まで勤務先などに現金を要求する電話がかかっていた。

 森川映之は恐喝事件の事情を知った富永さんに嫌われ焦っていた。その一方で、森川は富永さんとは別の看護婦と同棲をしていた。そして、その看護婦に「大変なことをしてしまった。もう一度やり直したい」と、富永さん殺しを打ち明けていた。また別居中の妻には、「人生がいやになった」と電話で自殺をほのめかしていた。

 森川映之は同棲していた看護婦にも遺書を残していた。遺書には「迷惑を二度もかけてしまった。心の支えになってくれて、ありがとう。きみは信頼そのものだった」と書かかれてあった。

 森川映之が、富永さんの遺体を詰めた同種の旅行バッグを持っていたこと、家宅捜索で部屋からバッグにあった潜水用のおもりと同じものが見つかったことから、捜査本部は森川が富永さんを殺して海に捨てたと断定。愛情関係のもつれが殺害の動機と発表した。

 国立がんセンターに研修医として勤めていた森川映之は、滋賀県の琵琶湖のほとりにある長浜市で生まれている。4人兄弟の二男で、中学生の時に父親(46歳)ががんで死亡。実家は魚屋だったが、教育熱心な母親に育てられ、成績は常にトップクラスであった。

 昭和46年、東大農学部に合格。東大在学中に、国家公務員上級試験を受験するが不合格となった。不合格となった理由は、革マル派に所属して学生運動を行っていたからとされている。しかし不合格が決まると、今度は東大法学部に入学。翌年には東京医科歯科大を受験して合格している。秀才ぶりを発揮する森川は、母親にとって自慢の息子だった。

 森川は東京医科歯科大4年(28)の時に、歯科医師の女性と結婚。結婚相手は鶴見大歯学部卒で、森川の1歳年下だった。森川は大学を卒業すると、東京医科歯科大の一般外科の研修医になり、昭和61年から国立がんセンターの研修医となった。

 森川映之は国立がんセンターで住み込みの医師として働き、妻子のいる品川区の自宅へはほとんど帰っていなかった。結婚していたが、次々に女性に手を出し10人以上の看護婦と付き合っていた。森川の私生活は荒れ、家庭は破局状態にあった。

 森川映之は、妻との離婚調停を進める一方で、国立がんセンターから姿を消し、新たに住み始めた豊島区のマンションで看護婦と同棲していた。この複雑な女性関係が、この事件の下地になっていた。

 一方、富永松江さんは新聞報道の写真から想像がつくように、かなりの美人だった。奈良県天理市の出身で、昭和59年に国立横須賀病院付属高等看護学校を卒業して、がんセンター胸部外科病棟で働き、そこで森川と知り合った。

 富永松江さんが、森川に別れ話を言い出したのかどうかは分からないが、痴情のもつれから殺害されたとされている。富永さんは叔母と一戸建てに同居していたが、近所では「おとなしく礼儀正しい女性だった」と評判であった。富永さんの自宅と森川の家は、大井町駅をはさんで約1kmしか離れていなかった。

 森川映之は富永さんを殺害後、遺体をバッグに入れスキューバダイビング用の重り十数個と一緒に現場近くの海に捨てた。森川はスキューバダイビングが趣味で、これをヒントに死体処理にダイビング用の重りを使ったのである。

 バッグの中には形を整えるため座布団、タオルケット、ボロ布などが入っていた。森川は富永さんの遺体を、海底深くに沈め、何食わぬ顔をするつもりであった。しかし、森川ほどのエリートでも、腐食した遺体が発酵したガスで浮かび上がることを知らなかった。スキューバダイビングの重りは1個2kgで、体重の10分の1の重りをつければ、身体が浮き上がらないと計算したのであろう。そのため森川は計算の4倍以上の十数個の重りをバッグに詰めたが、森川の計算違いであった。

 森川映之は富永さん殺害後、6月から同居している22歳の看護婦と国内旅行を楽しんでいた。しかし富永さんの遺体が発見されたため、捜査が及ぶことを察知しての自殺だった。

 国立がんセンターの末舛恵一副院長は7月8日の記者会見で、「われわれも2人がどこにいるのか分からず心配していた。2人が付き合っていたことを失踪(しっそう)前に知っていた者はいなかったと思う。このような結果になり大変残念だ」と語った。

 

 

 

治験ツアー 昭和62年(1987年)

 昭和611031日、デンマーク・コペンハーゲンの運河で、女性のバラバラ死体が発見された。コペンハーゲン港で昼食を取っていたタクシー運転手が、東洋人女性の上半身とみられる遺体の一部を発見したのだった。通報を受けたコペンハーゲン警察が捜査に乗り出したところ、11月7日までに最初の発見現場から1.5kmほど離れた海底3カ所から、頭や足などの遺体を見つけだした。

 コペンハーゲン警察は、バラバラ殺人事件として、歯型や血液型などを、国際刑事警察機構を通じてアジア各国に手配。日本の警察も捜査に乗り出し、現地から取り寄せた指紋などから、被害者を東京・葛飾区東新小岩に住む豊永和子さん(22)と確認したのである。身元が確認されたのは、遺体が発見されてから約半年後のことだった。

 豊永和子さんの生前の行動が明るみに出るにつれ、世間の関心はバラバラ殺人事件とは無関係の方向へと進んでいった。当初、豊永和子さんは観光旅行で欧州へ行っていたと思われていた。しかし実は、経口避妊薬(ピル)の臨床試験要員として西ドイツへ行っていたのだった。しかもこれは新薬開発のためのアルバイトだった。豊永さんが参加した西ドイツ治験ツアーは、日本のマスコミから人体実験ツアーと呼ばれ、世間の注目を集めることになった。

 薬剤の開発には、毒性、安全性、血中濃度、薬理効果などさまざまな試験が必要であった。動物実験の次には人間のデータが必要であり、そのため「人間モルモット」が募集された。西ドイツでは治験(薬剤の臨床試験)は学生たちのアルバイトとして一般的で、現地の大学生ばかりでなく、日本からの留学生も参加していた。

 治験の期間中は決められたホテルに缶詰めになり、薬剤を飲んだ後の副作用や、血液中の薬剤濃度などが調べられた。このアルバイトの報酬は高額で、保険に入っていても何が起きるか分からない不安があった。通常、日本ではこのような治験は、ボランティアにより無報酬で行われるが、西ドイツでは有償で行われ、さらに治験の募集が日本で行われていたのである。日本の業者は、昭和59年ごろから口コミで学生アルバイトを集め、ツアーを組んで定期的に西ドイツに学生を送っていたが、人体実験ツアーの規模は不明であった。

 今回、豊永和子さんが参加した治験ツアーは、西ドイツ・フライブルク市に本社を持つバイオデザインが企画したものであった。バイオデザインは臨床薬理試験の受託会社で、製薬会社の治験を代行していた。登録者は口コミで集めた大学生で200人を上っていた。この地検には薬事法の規制がないため、同一人物が何度も受けることもできた。また事故発生時の責任体制があいまいであった。今回、明るみに出た日本人の外国での臨床試験について、厚生省は「違法ではない」としながらも複雑な反応を示した。

 フライブルク市は人口18万人で治験は大学生にとっては都合の良いアルバイトであった。豊永さんは日当1万円でバイオデザインの日本代理店・ビオブリッジ(東京・千代田区)から募集を受けた。もちろん飛行機代やホテルの滞在費は会社持ちである。

 豊永さんは、このアルバイトのことを家族に内緒にしていた。また豊永さんのほかに、日本からは4人の女性が集められていた。治験期間は、6月9日からの3カ月で、新薬を飲み近くの病院で採血などを受ける簡単なものであった。新薬の副作用の危険性を考えなければ、ホテルで寝ているだけで、一般会社員以上の給料がもらえた。

 退屈なことだけが苦痛であるが、これほど楽なアルバイトはない。また、現地のドイツ語学校で勉強できる特典も付いていた。一緒に参加したほかの女性4人も、日本の大学の各種サークルの口コミで応募していて、成田空港に集合するまで、お互いに面識はなかった。

 治験ツアーを企画したビオブリッジは、豊永さんが参加した治験を西ドイツの製薬会社が依頼したものと説明した。しかし依頼した会社について「企業秘密に関すること」として公表しなかった。

 そのため、「日本人女性を募集したのは、日本で新薬を発売するため」と噂された。当初、厚生省も「西ドイツの避妊用ピルを日本で販売するための治験ツアー」とコメントしている。しかしその後、この治験ツアーが日本の製薬会社から依頼されていたことが、ビオブリッジから

公表されたのである。

 この事件が起きたのは、厚生省がピルの製造許可を予定していた半年前で、日本国内では実質的に臨床試験が認められていなかった。そのため「日本の製薬会社が国内の規制を逃れるため、西ドイツでの試験を依頼した」と予想された。

 日本でもピルが解禁される予定になっており、依頼した日本の製薬会社については、企業秘密の壁に閉ざされ不明であった。さらにバイオデザインは、これまでにも日本の製薬会社から依頼を受け、新薬の治験を頻繁に行っていた事実を公表した。日本で治験を行う場合の手続きの煩雑さを考慮すれば、製薬会社にとっては海外の治験業者に頼んだ方が楽であった。

 豊永和子さんの事件が起きるまで、日本の製薬会社が海外の会社に治験を委託していることは知られていなかった。しかし厚生省の新薬輸入承認申請の審査基準では、外国で日本人を対象にした臨床治験データは必要としていなかったのである。

 そのため様々な憶測が飛び交ったが、厚生省や業界関係者は、「なぜ、多額の費用をかけてまで、外国での治験ツアーを行ったのか、狙いがよく分からない」と治験の真意を測りかねるコメントを述べ、治験ツアーをめぐる謎は明確ではない。

 すでに外国でピルを市販している医薬品メーカーは、日本での申請に向けて準備を急いでいた。また国内メーカーも治験届を厚生省に提出していた。昭和60年6月、厚生省は「新薬の輸入申請に添付される臨床治験データは、外国で行われた臨床治験のうち数項目は、外国人を対象に外国で製作されたデータも審査の対象とする」と決めていた。しかし外国で市販されている医薬品であっても、日本人にそのまま安全で有効かどうか判断できないため、<1>吸収、分布、代謝、排泄<2>投与量<3>治験者同士の比較試験の3項目は、日本国内で日本人を対象にした治験のデータを必要としていた。つまり今回の「治験ツアー」のように、外国で行われた治験のデータだけでは、審査の対象とはなり得ず、なぜ治験ツアーが必要なのか、その必要性が理解できなかった。

 西ドイツ(当時)・フライブルク市で3カ月の治験を終えた豊永さんは、1人で欧州一周の旅に出た。ユーレルパスを使い、鉄道でイタリアからスウェーデン・ストックホルムへ行き、さらにデンマーク・コペンハーゲンへと旅を続けた。

 そして豊永さんはフィンランド・ヘルシンキから出した絵はがきを最後に消息をたっていた。豊永さんは異国の地で殺され、コペンハーゲンの運河でバラバラ死体となって発見されたが、あまりに悲しい事件であった。

 豊永さんは、殺される前年の昭和6012月から翌年1月まで、1人で韓国を旅行しており、帰国直後には家出同然に関西に旅に出ていた。そして今回、欧州に行く時も成田空港へのバスの中で「これからヨーロッパ旅行に行ってくる」と家族にはがきを書いていた。家族らは、「旅行費用がないのに」と心配していたが、まさかこのような事件に遭うとは、思ってもいなかったであろう。

 

 

 

腹腔鏡下手術 昭和62年(1987年) 

 腹腔鏡下での胆のう摘出手術(LClaparoscopic cholecystec-tomy)は、腹部に直径約1cmの穴を4カ所開け、カメラの付いた腹腔鏡と鉗子を挿入し、テレビのモニターを見ながら、胆のうを摘出する方法である。従来の開腹手術では、2025cmの皮膚切開を必要としたが、腹腔鏡下手術では患者の肉体的負担が軽くなった。

 この腹腔鏡下による胆のう摘出手術が保険適応となったのが平成4年のことである。腹腔鏡下術式は、出血量や術後の痛みが少ないことから、手術の翌日には歩行ができ、術後の腸の回復が早いため早期に食事を取ることができた。腸閉塞の合併は少なく、手術の傷跡が目立たず、入院期間が短く、早期に社会復帰ができた。このように大きな利点があった。腹腔鏡を用いた胆のう摘出手術は医学、特に外科の分野での画期的進歩といえた。

 それまでの内視鏡は、胃カメラや気管支鏡を口から入れ、あるいは尿道から膀胱鏡を入れ、つまり身体にある穴を利用していた。しかし腹腔鏡は、直接お腹に穴を開け、複数の術者がモニターの画面を見ながら手術を行った。

 腹部に小さな穴を開け、視野を確保するため炭酸ガスを腹部に入れ、腹部の穴から内視鏡や鉗子などを入れて手術を行う。腹部を膨らますため炭酸ガスを入れるが、炭酸ガスは無害であり、また炭酸ガスは不燃性なので電気メスを用いることができた。

 この腹腔鏡を用いた胆のう摘出手術は、昭和62年にフランスのムレ博士らが開発し、数年後には米国で爆発的に流行した。日本では、平成2年に初めて胆のう摘出手術が行われている。帝京大溝口病院の山川達郎医師が、日本初の術者とされているが、ほぼ同時期、あるいは数カ月遅れで日本の各病院で実施されるようになった。

 日本に導入された当初は、熟練した術者が少なかった。それぞれの医師が、ビデオや文献を頼りに行っていたので、胆管損傷などの合併症が少なからず起きた。しかし腹腔鏡下手術の急速な普及とともに安全性が高まり、現在では胆石手術の第1選択術になっている。

 トレーニングを積んだ医師が行えば、安全性は高く患者負担も軽いため、胆のう摘出術の8割が腹腔鏡下で行われ、腹腔鏡下の摘出手術は常識となっている。

 しかし平成2年当時、この腹腔鏡下手術は診療報酬では認められていなかった。診療報酬で認められていない医療行為は全額自己負担であった。そこで病院は腹腔鏡下手術を従来行われている「開腹による胆のう切除術」に相当するとして、開腹手術と同じ料金を請求していた。ところが平成3年10月、厚生省はこの腔鏡下手術を違法行為として、保険料の返還を病院に命じたのである。そのため全国で528人の医師が不正請求の疑いで監査を受けることになった。

 約200例の腹腔鏡下胆のう摘出手術を行っていた兵庫県宝塚市の公立病院は、6000万円の診療報酬を返還。他の多くの病院でも返還を命じられた。病院側は患者に「保険診療」と事前に説明していたので、全額を病院が負担することになった。患者のための手術が、全額病院負担となった。

 腹腔鏡下手術という医学の進歩に対し、厚生省はその進歩に対応できないでいた。厚生省は自らの無作為で生じた不都合を、権威で押さえ込もうとしたのである。患者のために手術を行った善意ある病院に、厚生省は患者の身体的負担など考慮せず、法律を盾に国家権力を見せつけた。

 この腹腔鏡下の胆のう摘出術は、平成4年4月の診療報酬改定でやっと保険適応となった。医学の進歩に保険診療が追いついたのであるが、保険適応になったのは、腹腔鏡下の胆のう摘出術だけだった。腹腔鏡下の手術の進歩は著しく、胆のう摘出だけでなく多くの疾患が腹腔鏡下での手術が可能となった。そのため平成6年に、腹腔鏡下の胃切除術、虫垂切除術、腎摘出術、子宮摘出術、大腸がんなどが健康保険で認められるようになり、自然気胸などの呼吸器疾患も胸腔鏡下で手術も行われるようになった。

 腹腔鏡下手術の最大のメリットは、傷跡が小さく、回復が早いことである。患者にやさしい標準的手術となったが、課題は胆管損傷などの合併症の頻度が、開腹手術よりわずかに高いことだった。

 平成8年の内視鏡下外科手術研究会のアンケート調査では、4万1595例中537例(1.29%)に胆管損傷が発生。開腹手術での胆管損傷率0.4%以下に比べると、頻度的には高いといわざるを得ない。ただしそれは当時のデータで、現在は改善している。また数値以上にメリットが大きいことは言うまでもない。

 腹腔鏡下手術は、2次元のモニターを見ながら行うので視野が狭く観察がしにくい。臓器を手指で触知できないことが、開腹手術と異なっている。また腹腔鏡下手術では胆のう内の結石が腹腔内に落ち、結石が膿瘍を形成する例がまれにある。このような合併症を防止し安全性を高めるため、腹腔鏡下手術を行う術者の要件として、「外科認定医であり、助手として10例以上、術者として10例以上の経験を積んでいること」というガイドラインが設定されている。

 当然のことではあるが、術者は2次元の腹腔鏡下手術のトレーニングを積むだけでなく、予測できない事態に備え、従来の開腹手術を習得していなければいけない。術中合併症が起きた場合、止血困難などが生じれば、すぐに開腹手術に移行しなければいけないからである。

 現在、腹腔鏡下手術はごく一般的に行われているが、3人以上の外科医がいない病院では行うことができない。さらに腹腔鏡下手術は機器の投資が大きい上に、使い捨ての機材が多いことから、最大の欠点は「原価割れするほど診療報酬が低い」ことである。

 

 

 

アニサキス症 昭和62年(1987年)

 日本人の食習慣からアニサキス症は古くからあったが、このアニサキス症を有名にしたのは俳優の森繁久弥さんであった。昭和6211月、名古屋の御園座で舞台公演中、森繁さんがさばの押しずし(ばってら)を食べ、腹部の激痛を訴えて腸閉塞の診断で緊急手術を受けた。あまりの激痛から開腹手術となったが、激痛は腸アニサキス症によるものであった。この森繁久弥事件を、NHKが特別報道番組として取り上げたことから、アニサキスが有名になった。

 アニサキス症は、名前の通りアニサキスという寄生虫の幼虫によって引き起こされる。アニサキスは、本来はクジラやイルカなどの海棲哺乳類(かいせいほにゅうるい)に寄生する回虫で、成虫が産んだ卵が便から海中に排泄され、サバやスルメイカなどの魚介類に取り込まれて幼虫となる。この幼虫のいる魚介類をクジラやイルカが食べることによってサイクルが形成されるのである。ヒトが感染するのは、アニサキスの第2中間宿主であるサバやスルメイカを食べたときで、魚を生で食べる習慣のある日本人に多く、海外の医学書の記載はまれである。

 アニサキスは大型のサバではほぼ100%が感染しており、サバを観察すると2〜3センチの白い糸クズのような幼虫を見ることができる。もちろんアニサキスはサバ以外の多くの魚類に寄生している。

 アニサキスは人体内では長期生育できず、1〜2週間で死滅する。人間はアニサキスの中間宿主なので、アニサキスは人間の体内では成虫になれず、排便時に肛門から出てくることがある。肛門から白い糸の様なものが出てきて、驚いて病院に駆け込むことがまれにある。

 アニサキス症で問題になるのは、アニサキスが胃や腸壁に穿入(せんにゅう)した場合である。アニサキスは人間の消化管では成長できないため、苦し紛れに粘膜に食らいつき、胃や腸に潜り込もうとする。そのため消化管粘膜に炎症が起き、はき気、おう吐、腹痛などの症状を引き起こす。七転八倒の激しい腹痛から病院を受診することがあり、壁の薄い小腸では小腸穿孔(せんこう)を来すこともまれにある。

 アニサキス症は食中毒とは異なり、下痢や発熱を来すことはない。最初の感染では症状が軽く、2回目以降の感染時に症状が強くなる。このことからアレルギーの関与がいわれている。

 アニサキス症の診断は、魚介類を食べたかどうかの問診が重要になる。また超音波検査で胃や小腸の壁の一部が腫れていれば、アニサキス症の可能性が高くなる。胃アニサキス症を疑った場合は胃内視鏡検査を行い、胃壁に食らいついている虫体を内視鏡で取れば痛みはすぐによくなる。小腸アニサキス症を疑った場合は小腸バリウム造影で診断すが、小腸アニサキスは発見しにくく、腸閉塞、急性虫垂炎、腹膜炎などの診断で開腹手術になることがある。

 小腸まで入り込んだ虫体は摘出できないが、激痛であっても死に至ることはない。有効な薬剤はないので、診断が確実であればアニサキスが衰弱死するのを待つことである。点滴を行い、2、3日の絶食で退院可能となる。

 アニサキス症は、内視鏡が普及するまでは診断が困難であった。かつて刺し身やすしを食べて腹痛を起こし、「あの刺し身は腐っていた」「サバに当たった」と言われていたケースに、アニサキス症が含まれていたと想像される。また、「サバの生腐れ」の言葉もアニサキスによるものと思われる。

 アニサキス症はかつては沿岸地域に見られたが、流通網の発達により長野県のような山間部でも発症がみられる。魚の鮮度が良くなり、アニサキス症は全国津々浦々まで広がっている。しかし本職の店や市販品は注意しているので感染はまれである。外国では日本食ブームで刺し身や寿司を食べて発症することがまれに起きている。平成7年、中国から輸入された養殖用のカンパチからアニサキスが見つかり、200万匹のカンパチが冷凍後に飼料や肥料として処分されたことがあった。

 アニサキスは魚類などの内臓に生息するが、水揚げ後には内臓から筋肉に移行する。アニサキスは冷凍によって死滅するので、一度冷凍した魚は安全で、また50℃以上でも死滅する。一方、酒、酢、塩、しょうゆ、ワサビなどでは死なない。生で食べる場合、よくかんで虫体を殺すのがよいとされているが現実的ではない。

 平成3年3月14日、長崎県福江市(現在の五島市)および周辺の住民が五島列島海域で捕れたカタクチイワシを生で食べ、数時間後に腹痛、はき気、おう吐などの症状を訴えた。そのため、28人(男性21人、女性7人)が病院で治療を受けた。福江保健所と県環境衛生課が食べ残したカタクチイワシを調べた結果、大部分のカタクチイワシからアニサキスを検出した。通常、アニサキス症は散発的で、このような集団発生は珍しいことだった。かつてはアニサキス症を食中毒とする認識がなかったため、正確な患者数は不明であるが、年間20003000件のアニサキス症が発生しているとされている。

 アニサキス症を世界で初めて報告したのはオランダの学者である。昭和35年に、ニシンの酢漬けを食べた後の腹痛例を、アニサキスの幼虫が原因として、「アニサキス症」と名付けた。このことから、昭和43年、オランダではアニサキス症予防のため、ニシンなどをマイナス20℃で24時間冷凍することが法律で義務付けられている。この法律によって、オランダではアニサキス症は消失したが、食文化の違う日本には応用されていない。

 アニサキス症を世界で初めて発見したのはオランダ人であるが、実は日本人がそれ以前からアニサキスを研究していた。昭和34年、北海道岩内町の開業医・石倉肇が急性虫垂炎に似た奇病としてアニサキス症を疑い、30例をまとめて報告していた。石倉医師は寄生虫を疑ったが確認には至らなかったことから、第1発見者の称号を受けることはできなかった。しかし石倉医師は札幌医科大非常勤講師となり、アニサキス症の第一人者として高い評価を得ている。石倉医師は、平成14年に86歳で死去するまで、アニサキスの研究を続け、多くの論文を残している。

 平成111228日、食品衛生法施行規則の一部が改正され、アニサキスも食中毒原因物質となった。つまりアニサキスによる食中毒が疑われる場合は、24時間以内に保健所に届け出ることになっている。

 

 

 

ドーピング 昭和63年(1988年)

 昭和63年にソウル・オリンピックが開催され、この大会で最も注目されたのは陸上男子100メートル決勝であった。カール・ルイス(米国)が勝つのか、ベン・ジョンソン(カナダ)が勝つのか世界中が注目した。

 レースが始まるとベン・ジョンソンは得意の「ロケット・スタート」で飛び出し、9秒79という驚異的な世界新記録で優勝。ところが優勝から3日後、世界中が国際オリンピック委員会(IOC)の発表に驚かされた。IOCはベン・ジョンソンからスタノゾロール(アナボリック・ステロイド=筋肉増強剤)が検出されため、優勝者ベン・ジョンソンの金メダルを剥奪するとしたのだった。この事件は、ドーピングという言葉を世界中に印象付けた。五輪史に残る大スキャンダルを起こしたベン・ジョンソンは、その5年後の競技会でも同じ筋肉増強剤を用いて陸上界から永久追放となった。IOC医事委員会はベン・ジョンソンの他にも薬剤を使用していた選手が約50人いたことを公表した。

 さらに平成6年の広島アジア大会で、中国の競泳選手による大量ドーピング事件が発覚し多くの人たちを驚かせた。ドーピングとは競技能力を高めるために薬物を使用することで、その目的は競争に勝つことである。フェアプレーに反しても、健康を害しても、勝ちたいという欲望がそれを打ち消してしまうのである。勝てば名声が残り、賞金やコマーシャル出演などの収入にも結びついた。

 ドーピングの歴史は人間の戦いの歴史と重なっている。戦いの時に勇気を鼓舞するために、さまざまな工夫がされてきた。ドーピングはこの戦うための工夫を、競技に勝つための手段に変えただけである。そのため、ドーピングには精力剤としてキノコや野草のエキス、さらに麻薬を使用していた歴史があった。

 昭和35年のローマ・オリンピック大会で、デンマークの自転車選手が、アンフェタミン(興奮剤)を乱用し1人が死亡、2人が入院した。これが、オリンピックで初めてのドーピングの犠牲者だった。8年後の昭和43年のグルノーブル冬季オリンピックから、ドーピング検査が導入され、当時の対象薬剤は、興奮剤や麻薬など30種類であった。

 その後、ドーピングの対象薬剤は増え、現在では150種類の薬剤が指定されている。検査によって使用が確認されると、3カ月の資格停止から永久追放までの処分を受けることになった。治療のために、薬物を服用している場合は、事前に申請すれば処分の対象外になるが、治療のためであっても本当かどうかの判別は難しい。

 例えば感冒薬を飲むと、その成分であるエフェドリンが検出されることがある。また、漢方薬の麻黄(マオウ)にもエフェドリンが含まれており、葛根湯(かっこんとう)を飲んだ選手が失格になった例がある。

 ドーピングで禁止されている薬剤として有名なのは、カナダのベン・ジョンソンが用いたアナボリックステロイドである。

 病気の治療として用いるステロイド剤は副腎皮質ホルモンであるが、アナボリックステロイドは「タンパクを筋肉に変える作用を強化するために合成されたホルモン」で男性ホルモンに似た物質である。

 ソウルオリンピックで初めてアナボリックステロイドが検出可能になったので、ベン・ジョンソンが失格となったのである。アナボリックステロイドには、肝機能障害・性ホルモン異常などの副作用が知られているが、多くの選手が使用していた。

 また利尿剤は一般に心不全、腎臓病などの治療に広く用いられているが、利尿剤もドーピングに相当し禁止薬剤となっている。利尿剤はレスリング、柔道、重量挙げなど、体重クラス別の競技において減量目的に用いられていた。ソウルオリンピックでは利尿剤を用いた柔道や重量挙げの選手4人が失格している。

 さらにドーピングとして頻脈性不整脈や高血圧症の治療に用いる、β遮断薬(ベータブロッカー)も使用されていた。β遮断薬はアドレナリンの心臓刺激作用を遮断し、交感神経の興奮を鎮める作用がある。そのためβ遮断薬は緊張からくる心臓のドキドキ感や手の震えを抑制する効果があり、射撃やアーチェリーなど集中力が要求される競技者に用いられていた。余談であるが、医師が学会などで発表する際に、「あがり防止」のためβ遮断薬や精神安定剤を用いることが流行したことがある。

 ドーピングの検査は、選手から採取した尿と血液をそれぞれ2つの容器に分け、片方の検体から禁止薬物が検出された場合、選手はもう片方の検体を使っての再検査を要求できる。両検体から同じ薬物が検出されれば、陽性とされる。

 現在ではドーピングでの使用禁止薬剤が知れ渡っているため、処分を受ける例は少なくなっているが、手段がより巧妙化していることも確かである。例えば、筋肉増強剤である合成ステロイドが検出されれば「不正行為」であるが、天然ホルモンを使用すれば不正を証明することは困難になる。

 このほかのドーピングとして「血液ドーピング」がある。これは競技の数カ月前に自分の血液を抜き、競技の直前に自己血を輸血して、赤血球を意図的に増やすことである。酸素運搬の役割をする赤血球を増加させれば、持久力が高まり、高地トレーニングと同じ効果を人為的にもたらすためである。

 さらに平成6年のツール・ド・フランスでは、エリスロポエチンの使用が発覚した。エリスロポエチンは腎臓でつくられるホルモンの一種で、赤血球を増加させる作用がある。エリスロポエチンは腎不全による貧血の改善薬として開発された。しかしこれを用いて血液濃度を高めると、血栓ができやすく、心筋梗塞などを引き起こす可能性が高くなるとされている。

 平成8年のシドニーオリンピックから、エリスロポエチンの使用を検出する血液検査が実施されるようになった。これまでのドーピングは、化学物質を用いていたが、スポーツ界では今後、遺伝子操作が問題になるであろう。ドーピングは使用する者と検査側のいたちごっこといえる。

 

C型肝炎ウイルスの発見 昭和63年(1988年) 

 昭和63年8月1日、C型肝炎ウイルス(HCV)が発見されたと新聞が大きく報じた。米国のバイオテクノロジーの企業カイロンが、HCVの抗原タンパクの遺伝子クローニングに成功したのである。

 昭和40年にB型肝炎ウイルスが、昭和49年にA型肝炎ウイルスが米国で発見されていたが、それら以外にも肝炎を引き起こすウイルスの存在が予想されていた。それは「非A非B型肝炎、輸血後肝炎」と呼ばれ、世界中のウイルスハンターの努力にもかかわらず、その正体はまったく分からずにいた。

 HCVは培養細胞で増殖しないこと、チンパンジー以外の動物では実験できなかったことが発見を遅らせていた。カイロンは、非A非B型肝炎を感染させたチンパンジーの血液から、HCVの遺伝子を取り出すことに成功。さらにHCVの抗体検査キットの開発にめどがついていることを明らかにした。

 このカイロンの突然の発表は世界中を驚かせた。しかもこれだけの発見でありながら、HCVの発見は肝臓の専門医の間でもうわさになっておらず、学会にも報告されていなかった。さらに発見した学者名も分からず、カイロンの特許申請によって初めて明らかにされたのだった。

 HCVが発見されるまでは、肝臓病の原因は酒の飲み過ぎとされていた。肝硬変患者は「酒飲みだから」、あるいは「酒も飲まないのに」などと言われてきた。肝臓病患者は、酒飲みのレッテルを張られていたが、酒のせいとされていた肝臓病の多くがC型肝炎だった。日本では、アルコールによる肝障害はまれで、HCVによる肝臓病が圧倒的に多かったのである。

 C型肝炎が検査で診断できるようになり、輸血後肝炎の95%以上、散発性肝炎の約40%が、HCVよるものであった。HCVは肝炎を引き起こすウイルスの中で、もっとも頻度の高いウイルスだった。

 C型肝炎は慢性肝炎から肝硬変になりやすく、慢性肝炎、肝硬変、肝がん患者の80%がC型肝炎によるものだった。そして残り約10%がB型肝炎、10%がアルコール性、薬剤性、自己免疫性などによるものであった。肝炎の大部分を占めるHCVの発見がいかに偉大であったかが分かる。平成元年1月、国立予防衛生研究所(現・国立感染症研究所)は世界で初めて電子顕微鏡でHCVの粒子の撮影に成功、動物実験でその病原性を確認した。

 日本ではC型肝炎ウイルス(HCV)の感染者が、全人口の約2%とされている。HCVは、B型のように母子感染や性行為によって感染することは少なく、通常の生活での感染はまれである。HCVに感染すると約3割は慢性化するが、約7割は自然に治癒する。感染のほとんどが血液を介してであるが、ではなぜ日本人にC型肝炎が多いのだろうか。

 日本にHCVが入ってきたのは、遺伝子解析から江戸時代末期とされている。C型肝炎は輸血によるものが3040%、入れ墨や覚せい剤の注射によるものが10%、そしておよそ50%が原因不明である。

 このように感染経路の約半数は不明だが、終戦直後に流行したヒロポンの回し打ち、売血による輸血の関与が高いとされている。また予防接種の注射針を替えずに使用したことも、有力な感染源とみられている。

 昭和36年に献血制度が導入されたが、それ以前の売血によって輸血を受けた患者の約半数に輸血後肝炎が発症していた。当時の輸血後肝炎は、黄疸のみで診断していたので約半数とされているが、実際には輸血を受けた8割程度の患者が、C型あるいはB型肝炎ウイルスに感染した。このように輸血を受けた多くの患者が輸血後肝炎となったが、輸血が売血から献血に変わり、B型肝炎が検査で排除され、さらにやC型肝炎抗体陽性者が排除され、現在では輸血後肝炎は極めてまれになっている。

 C型肝炎患者は60歳以上の人に多く、60歳以下には少ない。また注射針と注射筒の連続使用はすでに禁止され、輸血による感染の可能性がないことから、さらに治療の進歩を考えると、C型肝炎は今後激減して地球上から消滅することが期待されている。

 HCVの検査法は、EIA法(酵素抗体法)と呼ばれるもので、当初はC型肝炎患者の5080%が陽性と判定された。ただしこの陽性率はHCV抗体検査の第1世代による成績で、第2世代、第3世代とともに検査法が改良され、現在では100%近い陽性率になっている。

 HCV抗体検査は過去にHCVに感染したかどうかの既往をみる検査であって、抗体陽性者は過去に感染を受けたものの、現在、ウイルスを保有して持続感染しているか、排除されているのかは分からない。これを区別するのがHCV−RNA検査である。この検査はHCVの有無、ウイルス量、インターフェロンによる治療の適応を決めることができる。

 HCVは塩基配列の違いから1から6の遺伝子型に、さらに数十種類の亜型に分類される。米国で最初に発見された遺伝子型は1aで、1aは米国に多い。日本では1bが7割、2aが2割、2bが1割である。HCVの遺伝子型は、各国で大きく異なっており、日本の1aのほとんどは米国からの血液製剤による感染である。

 C型肝炎の治療薬はインターフェロン(IFN)であるが、遺伝子型によりIFNの効果は大きく違っている。日本で最も多い1b型はIFN抵抗性であるため、6カ月のIFN投与での排除率は18%。HCV−RNAの量が多い場合は6%にすぎなかった。IFNの効果はこの程度であり、しかも発熱などの副作用が高いにもかかわらず、その治療に期待し過ぎるきらいがあった。

 しかし最近の治療の進歩により、IFNを用いた抗ウイルス療法で感染者の3分の1はウイルスを排除でき、3分の1は肝炎の進行を遅らせることができるようになった。平成16年、ペグ・IFNとリバビリン併用療法が認可された。薬が効きにくい難治性肝炎にも治療の選択が広がり、その効果に大きな期待されている。

 C型肝炎から肝硬変、肝硬変から肝臓がんになるが、現在では肝臓がんの治療成績が良くなっているので、定期的な検査で肝臓がんを早期に発見して治療すべきである。

 医療関係者では針刺し事故が問題になるのが、C型肝炎患者に使用した針を間違って刺した場合、事故直後はB型肝炎のような有効な対策はない。また感染からC型肝炎ウイルス(HCV)抗体が陽性になるまでには約3カ月なので、受傷直後にHCV抗体を測っても、感染の有無は分からないのである。針刺し事故で感染する確率は、0.3〜2%であるが、不幸にも感染した場合はIFNの投与となる。なお、針刺し事故には労災保険が適用されている。

 薬害フィブリノゲンによるC型肝炎感染の根は深い。フィブリノゲンはヒトの血液成分を原料とした医薬品で、昭和39年に医薬品として承認され、昭和50年ごろから出産時の止血を目的に多くの医療機関で用いられていた。このフィブリノゲンを投与された患者の中で、肝炎を発症する患者が多くいることが分かり、その原因としてフィブリノゲンにHCVが混入していたことが判明したのである。これは薬害エイズと同じパターンであった。フィブリノゲンは、出産時の出血などに多用されたが、その有効性が低かったこと、国が認可していた薬剤であること、などが絡み問題を複雑にしている。昭和60年8月以降に用いられたフィブリノゲン薬害については、製薬会社の責任(大阪裁判)、昭和62年4月以降に用いられたフィブリノゲン薬害については、国と製薬会社の責任(福岡裁判)とされている。

 フィブリノゲンは、多くの患者に投与されていたが、C型肝炎は感染から発症するまで長時間がかかる。その上、カルテの保存期間が5年なので、裁判に持ち込めた患者は、フィブリノゲン薬害のほんの一部の人たちと考えられる。

 

 

 

ミルク断食療法 昭和63年(1988年)

 昭和63年2月17日、「粉ミルク断食とマッサージで末期がんを治す」とテレビなどで派手な宣伝をしていた民間健康団体代表らが医師法違反(無資格医業)の疑いで大阪府警に逮捕された。逮捕されたのは大阪市東区の健康再生会代表・加藤清(73)と主任の伊藤ミユキ(57)だった。

 加藤清のところにはワラにもすがる思いの患者約7000人が集まるほどであったが、治療中に患者が急死するケースが相次いだため府警は摘発に踏み切ったのである。

 加藤清は東京でマッサージの修業を行い、昭和39年に青森県八戸市で断食道場を開設したが、患者が集まらず死者が出たため5年で閉鎖。次にマッサージ師の免許を取った長男と、昭和45年に大阪で「健康再生会」を設立した。

 加藤清は「ガン革命、末期ガン患者社会復帰100人の記録」など6冊の本を出版、がんは必ず治ると断言し、がんを征服した患者とテレビのワイドショーに出演していた。テレビでは「私のところへ来る患者は、すべて医師から見放された人たち」と述べ、患者は日本だけでなく、米国や韓国、東南アジアからも来ていると宣伝した。このように著書やテレビ出演で患者を増やし事業を拡大していった。

 加藤清は患者に20日間の泊まり込みの研修を行い、そこでも「末期がん患者3万人を社会復帰させ、70%の患者を治した」と述べていた。逮捕時には従業員は36人で、年商は4億円、逮捕されるまでに22億円を稼いでいた。

 多くの患者が加藤の断食療法を信じたのは、がんの治療が現代医学をもってしても、完全ではなかったからである。病院では治せないがんを、不治の病と冷たく扱うため、行き場のない患者がすがる気持ちで加藤のもとに集まった。加藤らのやり方は患者の弱みを利用した卑劣な商売であった。

 加藤清は「抗がん剤の投与や切除手術は患者に苦痛を与え、体力を弱めるだけ」と説明していた。さらに「がんはうっ血や血液の汚れが原因だから、体質を改善すれば自然治癒力で回復する」と主張した。患者を診察し病院での治療内容を聞き、1人40万円で研修センターに泊まり込ませ、乳児用粉ミルクと生卵などを混ぜたものを取らせる「ミルク断食療法」を行い、がんの治療としてマッサージをしていた。

 研修センターで患者が急変して死亡したケースが少なくとも5件、自殺者も2人出ていた。一般的に、がん患者へのマッサージは、がん細胞を体内に散らすことから禁止されていた。しかも加藤清はマッサージ師の資格がないのにマッサージ治療を行っていた。断食療法でがんが治るのならば問題はないが、治るという証拠はなかった。断食で栄養が絶たれてもがんは進行し、断食療法は体力の消耗を早めるだけであった。

 日本人の3割はがんで死亡する。そのため親族や知り合いががんで死亡するという身近な経験を多くの日本人は持っている。このことから自分ががんになることを恐れ、またがんになったら副作用の強い抗がん剤によって、壮絶な死が待っていると思い込んでいた。

 今回の事件では、病院で治療法がないと言われ、「医師は冷たかったが、加藤さんは生きる希望を与えてくれた」という患者もいた。このような患者はまだ精神的な救いがあったといえる。しかし加藤にがんと診断された患者のうち3割以上はがんではなかったのである。

 この断食療法は、ベストセラー小説「氷点」で知られる作家、三浦綾子も直腸がんの手術後に加藤清の断食療法を試み、加藤の著書に推薦文を書いている。作家、遠藤周作も「私が見つけた名治療家32人」の著書の中で紹介していた。このように著名人の推薦もあり、末期がん患者の間で加藤清は有名人になっていた。

 冷たい病院から患者が逃げ出し、民間療法に救いを求める医療不信がこの事件の背景にあった。病院では最新の医療機器を用いて診断をするが、治らないと判断すれば患者を突き放すことが多かった。突き放された患者や家族は、民間療法に救いを求めることになる。当時、末期がん患者を受け入れるホスピスは数えるほどで、痛みを取る緩和ケアやホスピスの必要性をあらためて感じさせた。

 

 

 

スズメバチ集団刺傷事件 昭和63年(1988年)

 昭和6310月1日、東京八王子の山道でハイキングをしていた小学4年生16人と付き添いの父兄ら計30人が、スズメバチの大群に襲われた。児童9人、父兄7人の計16人が全身をハチに刺され、病院で手当てを受けることになった。また、同月20日にも東京都町田市で、幼稚園児の列がスズメバチの大群に襲われ、園児8人と教師1人の計9人が病院に搬送された。

 この2つのハチ刺傷事件は、幸いなことにいずれも軽症で入院せずに済んだ。しかし日本では、スズメバチに刺されて毎年40人前後が死亡しているのである。スズメバチの被害に遭うのは、主に8月から10月にかけてで、この時期はハチが巣をつくる時期で、興奮しやすいためとされている。

 日本には5000種類以上のハチがいるが、ヒトを刺すハチはミツバチ、アシナガバチ、スズメバチなど少数にすぎない。その中でも刺されて死に至るのは、ほとんどがスズメバチである。スズメバチはハチの中では世界最大級の大きさで、体長は約3センチから5センチである。国内に生息するのは3属16種で、その中でもオオスズメバチとキイロスズメバチは攻撃性が強く、集団被害は主にこの2種類によってである。

 スズメバチは、地方によっては熊蜂(くまんばち)とも呼ばれ、攻撃性が強く日本で最も危険な野生生物とされている。その一方で、スズメバチの巣は縁起物とされ、古い農家などに巣が飾られていることがある。スズメバチに襲われるのは、遠足中の小中学生や幼稚園児であることが多いが、これは大勢の子供たちがスズメバチに気付かず、ドタバタとスズメバチの巣の近くを歩くためである。

 スズメバチの巣は、家の軒先などにつくられることがあるが、地中につくられることが多く、そこで女王バチを中心とした社会生活をしている。そのため振動を感じたスズメバチが、巣を攻撃されたと思い、集団で反撃してくるのである。

 今回の事件は、長雨の影響で空腹となったハチがいら立っていたためとされている。ハチに刺されないためには、ハチを興奮させないことで、1匹でも興奮すると、周囲のハチのすべてが興奮してしまう。スズメバチの攻撃半径は、巣から50mとされているので、襲われそうになったら、かがんだ姿勢で静かに50m逃げることである。横に逃げると、動きに反応して刺されることが多い。また急な動きはハチを刺激するので、なるべくゆっくり移動するのがよい。大きなスズメバチが飛んでくると慌ててしまい、思わず振り払おうとしてしまうが、これは逆効果で、じっとしていれば刺されることはない。

 またハチは黒い部分を刺すので、髪の毛や目を覆うことである。ハチの天敵は熊であり、そのため黒い色を攻撃するとされている。アウトドアでは黒い色の服は避け、またニオイにも反応するので強い香水は危険である。

 ミツバチの針には逆向きのトゲがあり、刺すと針とともに自分の内臓もちぎれることになる。そのため刺すとミツバチはそのまま死んでしまう。もっともこの現象はミツバチだけのもので、ほかのハチにはみられない。「ハチの一刺し」はミツバチの話で、スズメバチの針にはトゲがないので、スズメバチは刺しても死ぬことはない。

 ハチに刺されると、熱を伴った激しい痛みを感じほど毒性は強いが、身体が小さいため毒の量は少なく、毒によってヒトが死ぬことはない。ハチに刺されて死ぬのは、毒ではなくアナフィラキシーショックによってである。

 アナフィラキシーショックとは急激なアレルギー反応で、重症の場合は刺されて15分以内に、意識低下、血圧低下、喉頭浮腫を来して死亡する。過去にハチに刺された経験のあるヒトが再度刺されると、アナフィラキシーショックを起こしやすい。そのため、何度もハチに刺されたことのある、林業や養蜂(ようほう)業で働く人たちの危険性は高い。

 症状が強い場合は、1秒でも早く病院で治療を受けることである。血圧の低下と喉頭浮腫が死因となるので、血圧の低下に対してはボスミン、喉頭浮腫や呼吸苦がある場合はステロイドの投与と気管内挿管を考慮しなければいけない。

 ハチに刺された場合、かつてはアンモニアが治療によいといわれていたが、実際には効果はなく迷信である。傷口を流水で洗い毒液を出すことは多少の効果が期待される。また刺された場合は、皮膚に抗ヒスタミン剤やステロイド剤の塗布を行うのがよい。

 通常、激しい痛みや不快感は1日程度で治まるが、オオスズメバチに刺された場合は、傷跡が何年も消えないことがある。なおハチの毒針は産卵管が変化したものなので、刺すのはメスだけである。

 ハチの巣の駆除をする場合は、市役所に頼めばやってくれる。具体的な駆除方法としては、殺虫剤などを使わずに掃除機で吸い込む方法がよいとされている。白い服で身を固め、帽子やゴーグルで全身を覆い、掃除機の吸い口を巣の入り口に近づけたままじっと待つ。

 飛んでいるハチを吸い込むことは不可能なので、巣から出てきたハチ、巣に戻ってきたハチを掃除機で吸い取る。巣には約500匹のハチがいるので、吸い込んだハチが500匹前後となったらハチ退治は完了である。

 

 

腎臓売買事件 昭和63年(1988年)

 昭和63年6月28日、日本の腎不全患者が、フィリピンで腎臓移植を受けていたことがマニラの日本大使館の調べで判明した。

 日本人が海外で腎臓移植を受けていることは、以前からうわさされていたが、このようなヤミ移植がついに明らかになったのである。腎移植を受けたのは岐阜県の20代の男性で、腎臓を提供したのは血縁関係のない日本人男性(37)であった。さらに大阪市のクリーニング店経営者(51)が、フィリピンの囚人から腎臓の提供を受け、移植していたこともわかった。この腎臓売買事件が衝撃的だったのは、人間の臓器が売買の対象になっていたことである。この報道により「腎臓ビジネス」の実態が一気に表面化した。さらにフィリピンの囚人だけでなく、スラム街に住む貧しい人たちからも、日本人が腎臓を買っていたことが明らかになった。

 腎臓売買仲介業者は、日本で腎臓移植を必要としている腎不全患者を集めていた。これは意外に簡単で、血液透析を行っている病院の周辺の電柱などに、「腎臓移植ができます」の張り紙を張ることで患者を集めることができた。透析患者は週に3回、病院で数時間の血液透析を受け、患者の多くは腎移植を望んでいたが日本では腎臓の提供者が圧倒的に少なかった。

 仲介業者は移植希望者を集めると、フィリピンで現地の人を雇い、腎臓提供者を探すことになる。手術はフィリピン腎臓センターなどの一流病院で行われていた。フィリピンの医療水準は高いので、医学や医療面での心配はなかった。

 仲介業者は日本人向けに「腎臓移植パックツアー」のパンフレットをつくっていて、そこには「腎臓売買は10年以上前から行っていて、20例以上の実績がある」と書かれていた。また手術代約370万円、免疫抑制剤約100万円、入院費約90万円、そして腎臓1つの値段が約28万円となっていた。

 この移植パックツアーの総額はおよそ1800万円で、手術代金が800万円、1000万円が渡航、宿泊費とされていたが、実際はその多くが斡旋業者に渡っていた。つまり腎臓斡旋業は腎移植の名を借りた「腎臓ビジネス」であった。それを裏付けるように、腎移植斡旋業者は千葉や京都など日本数カ所にあった。

 日本のマスコミがフィリピンでの腎臓売買を取り上げると、フィリピン国内でも腎臓ビジネスが問題になった。フィリピンの医師が、フィリピン上院公聴会で日本人相手に移植手術を行っていると証言して実態が明らかになった。地元の報道機関は、「腎臓を売り物として、日本人が購入」と報道した。

 腎臓を売ったフィリピン人には、報酬として約28万円が支払われていた。この金額はフィリピン人の平均年収の2倍以上で、貧困に苦しむ人たちにとって腎臓売買が収入源となっていた。腎臓売買に罪の意識はなく、腎不全患者を助けることで自分の生活も楽になると安易に受け止められていた。フィリピンでは腎臓移植に関する法律が整備されていなかったのである。

 フィリピンの刑務所でも腎臓売買が頻繁に行われていた。死刑囚や無期懲役囚を対象に、刑務所が腎臓提供者を募集していたのだった。希望者は事前に血液型やリンパ球の型が調べられ、移植リストが作られていた。

 服役囚たちは臓器を売るドナー予備群として、移植患者が見つかると移植リストから最適の者が選ばれるシステムになっていた。マニラ郊外のモンテンルパ刑務所では、30人以上の囚人がすでに腎臓を提供していた。死刑囚の腎臓提供は当初は慈善的なものであったが、移植の礼金を家族に送金するようになり、また囚人は腎臓提供で減刑を期待するようになった。

 フィリピンの刑務所では腎臓売買が頻繁に行われ、腎移植が組織的ビジネスになっていた。相手は日本人だけでなく、フィリピン人の金持ち、外国人であった。今回の事件はフィリピンで大きく取り上げられため、フィリピン政府は国内の臓器移植を一時停止する緊急措置をとった。このことで腎臓売買は一時的に決着がついた。

 このような腎臓売買事件の背景には、日本では腎臓移植を希望してもそれを期待できない事情があった。昭和50年ごろから日本で腎移植が普及したが、腎臓を提供する善意の人が少なかったのである。その一方では、いくら金を出しても腎臓を手に入れたいと願う患者が多くいた。腎移植をすれば、週3回の血液透析から解放されるので、腎臓を買いたい患者の気持ちは十分に理解できる。

 当時の日本では、血液透析患者は約16万人で、その4割近い患者が腎臓移植を希望していた。しかし腎移植が受けられるのはきわめてまれで、日本の腎移植件数は年間300500人にすぎず、しかもその約75%が親などの血縁者による提供であった。日本では善意による腎臓提供者が圧倒的に少なく、臓器の売買はもちろん禁止されている。日本の医療は保険診療なのでヤミの腎移植はありえないのである。

 日本で初めて腎臓移植が施行されて以来、臓器の売買は臓器移植法により禁止されていた。一方、腎移植を必要とする患者は、糖尿病の増加などから急増し、人工透析を受ける患者はこの10年で倍増している。透析患者が増えているが、血縁者からの生体腎移植件数はこの10年間ほとんど変化していない。善意者からの死体腎移植は年々減少し、平成元年には261件であったが、平成5年は159件、平成6年は149件に落ち込んでいる。

 死体腎臓移植は脳死とは無関係で、本人の臓器提供者の意思表示がなくても、心停止後であれば家族の承諾だけで移植ができる。しかしそれでも提供者は少ないのである。死体腎移植が増えないのは、腎移植が脳死とは関係のないことを知らないこと、医師が腎移植に対してやる気を失っていることが考えられる。

 平成9年に、「腎臓ビジネス」が再び問題になった。しばらく鳴りを潜めていた腎臓ビジネスが、深く潜伏していたのであった。そのきっかけは、海外で腎臓移植を希望する日本人患者に、東大医学部の講師が現地の医師に紹介状を書き、斡旋業者から約230万円の謝礼をもらっていたのが発覚したことであった。臓器売買と知りながら、手を貸していた東大医学部の講師は、腎臓ビジネスに手を貸していると非難された。腎臓ビジネスはフィリピンから、さらに貧しい国に場所を変え、インドやバングラデシュなどで行われていた。

 フィリピンでの腎臓売買が禁止されて以降、海外での腎臓移植は地下に潜行して行われるようになった。現在、どれだけの日本人が海外で移植を受けているかは不明である。平成10年にはタイで腎臓移植を受けた日本人が、帰国後に急死する事件が起きている。また斡旋業者が患者から数千万の金を集めて姿をくらます事件も起きている。

 平成11年、大阪府警は大阪市内の腎臓移植斡旋業「KSネットワーク」代表の安楽克義(41)を逮捕した。安楽克義は腎不全患者5人から移植費名目で計約6300万円を預かっていたが、そのまま事務所を閉鎖して姿をくらましたのである。これは安楽克義の計画的犯罪で、腎臓病患者から金をだまし取るため、移植手術を仲介するダイレクトメールを全国に郵送して希望者を募集していた。ダイレクトメールには、フィリピン医師との間で臓器提供者確保のための契約を結んでいると宣伝していた。安楽克義は「金を預かったのは事実であるが、手術を斡旋するつもりだった」と犯意を否認したが、患者は「最初から移植を仲介するつもりがないのに、金をだまし取られた」と訴えた。

 この事件の1年前の平成9年には、東京都文京区の医療器具販売会社のオーナーと社長など幹部社員ら計6人が、腎臓移植に絡む詐欺容疑で患者から訴えられている。会社オーナーと社長らは、患者4人から腎臓移植を名目に契約金約4800万円を受け取りながら、手術は行わず、金を戻さなかったことから患者が詐欺容疑で告訴。告訴したのは10001490万円を支払った3471歳の患者4人であった。同社は、オーナーがインドで移植手術を受けたことから、海外での腎移植の斡旋に乗り出していた。そして海外で腎移植を希望する患者と契約を結び、1人は実際にバングラデシュで移植手術を受けていたた。訴えた患者は「弱みにつけ込んだ、許せない行為」としているが、臓器移植法で臓器売買は禁じられていて、患者団体は「患者側もルールを守ってほしい」とコメントを出した。

 日本での臓器移植が停滞したまま、海外での移植を希望する患者たちが後を絶たない。平成12年には、プロレスラーのジャンボ鶴田がマニラの病院で肝臓移植を受け、大量出血で死亡している。現在でも外国で臓器移植を行う例が多く、患者の弱みにつけ込んだ事件やトラブルが少なくない。

 平成18年3月、厚生労働省の研究班(班長=小林英司・自治医科大教授)は、アジアで臓器移植手術を受ける日本人が増えていると公表。その内訳は心臓移植が103人(うち18人が死亡)、腎臓移植は151人で、地域としては中国が34施設で最も多く、フィリピンが16施設、米国が14施設などであった。肝臓移植は12カ国199人が受け手おり、米国、オーストラリアが15施設、中国が12施設であった。

 この調査は、帰国後に国内の医療機関で治療を受けている患者数を集計したもので、現在でも日本人の臓器移植は海外で行われている。渡航移植は、国内での臓器提供者不足が背景にあり、中国を中心にアジアでは、臓器の売買や死刑囚からの提供がまだまだ行われている。

 

 

 

堀江しのぶのがん死 昭和63年(1988年) 

 昭和63年9月13日、名古屋市南区の中京病院でアイドル歌手の堀江しのぶが、胃がんのため23歳の若さで死去した。堀江しのぶは、愛知県西春日井郡西枇杷島町(現・清須市)出身で、昭和59年に「ビキニ・バケーション」で歌手デビュー。翌60年には、クラリオンガールコンテストで平凡パンチ・アイドル賞を得ていた。

 また「毎度おさわがせします(TBS系列)」、「真田太平記(NHK)」などにも出演。そのほかバラエティー番組やクイズ番組などでも活躍していた。映画では「ザ・サムライ(昭和61年、東映)」、 「愛しのハーフ・ムーン(昭和62年、日活)」、「 クレージーボーイズ(昭和63年、松竹)」に出演する人気アイドルであった。

 明るく無邪気で愛くるしい顔、すがすがしい笑顔、当時のアイドルとしては異色のバスト90cmのはち切れんばかりの健康美が若者の心を引きつけていた。この健康の象徴ともいえる堀江しのぶの死去に、多くの若者は茫然となった。頭の中が真っ白になり、驚きとともに悲しみに包まれた。

 有名人ががんで死亡すると、自分もがんではないかと病院を受診する「がんノイローゼ」が増える。しかし23歳という彼女の年齢は、ファンの年齢層と重なっていたが、がんノイローゼをきたす若者は少なかった。

 若者たちは堀江しのぶが同じ年齢層であっても、堀江の死は彼女自身の特別な運命ととらえていたからである。彼らは「若者はがんとは無縁」、あるいは「胃がんは予後がよい」と、漠然と捉えていた。事実、早期胃がんの5年生存率は95%以上であり、胃がんよりも、肺がん、大腸がん、乳がんのほうが恐ろしいという認識が浸透していた。

 堀江しのぶは、亡くなる1年前からダイエットを行い、体重を5kg落としていた。初めのうちは体重減少以外にがんの症状はなく、やせたのはダイエットの効果なのか、がんによるものなのかの区別がつかなかったのである。

 彼女が体調不良を訴えたのは、3月になってからであった。腹が張ると訴えたが、それはがん性腹膜炎の症状であった。膨満感を訴え、初めて診察を受けた時には、手遅れの状態だった。

 がんは胃全体を侵し、レントゲン写真で胃は弾力性のない硬い皮のようであった。さらに、がんは卵巣にも転移していた。すぐに東京の病院で卵巣手術を受けると、名古屋の病院に転院となった。

 彼女の死に多くの若者は驚いたが、最も驚いたのは医師たちだった。若い女性が腹痛や体重減少を訴えた場合、胃がんを想定する医師が少なかったからである。23歳の女性が、胃がんで死亡することは、可能性としては考えられても、実際に経験したことのある医師は少なかった。

 「若い女性と胃がん」「若い女性と胃がん死」は、医師の頭の中にはなかった。若い女性が腹痛で来院すれば、胃薬を投与すればよいだろうと、多くの医師たちは簡単に考えていた。

 堀江しのぶの胃がんは「スキルスがん」で、それが胃がんの死角であることを新たに認識させられた。スキルス(ドイツ語で固いという意味)と呼ばれている胃がんは、胃がんの中で最も悪性度の高いがんで、5年生存率は10%以下と極めて悪性ながんであった。

 胃壁は内側から粘膜、粘膜下層、固有筋層、漿膜下層、漿膜の5層からできている。通常の胃がんは、胃壁のもっとも内側にある胃粘膜から発生する。早期胃がんは「がん細胞の浸潤が粘膜から粘膜下層まで」のもので、早期胃がんのほとんどは手術によって完治する。進行がんとは、がんが固有筋層から外側に広がっている場合で、ほかの臓器に転移していれば予後はさらに悪くなる。

 胃がんは、肉眼的に6型に分類され、0型は軽度の隆起や陥凹(かんおう)がみられるもの、1型は明らかに隆起しているが限局しているもの、2型は潰瘍を形成しているが正常部位との境界がはっきりしているものである。

 3型は、2型のうちで正常部との境界がはっきりしないもの。4型はがんが粘膜に顔を出さず、著明な潰瘍や隆起もなく、がんが胃壁の中をはうように広がっている進行性のタイプである。この4型がスキルスがんである。ちなみに5型は0から4型に分類し難いものである。

 胃がんの大部分は腺がんで、腺がんは発育とともに潰瘍や腫瘤をつくるため、上腹部痛、食欲低下、嘔吐などの症状がみられる。しかし胃は内空の大きな臓器であるため、食物が詰まることは少なく、また自覚症状がないまま進行がんとなる場合が多い。

 最近は、集団検診や人間ドックなどで、胃がんは早期のうちに偶然発見されることが多くなっている。粘膜下層までの早期胃がんであれば、5年生存率が95%以上とほぼ完治するので、胃がんの早期発見・早期治療は重要である。40歳を過ぎたら、胃がん検診を受けることを勧めたい。

 内視鏡診断の進歩は目覚ましく、内視鏡で胃の内部をのぞきながら、怪しい部分の組織を採取して、採取した組織を顕微鏡で調べがんの診断を下す。直径2cm以下の早期がんであれば、内視鏡下粘膜切除術(EMR: endoscopic mucosal resection)で、開腹せずに切除することができる。内視鏡で胃の内側からがん組織を剥離する方法である。

 しかしスキルスは胃壁の表面に顔を出さず、粘膜下に潜って進行するので、内視鏡では見逃してしまうことがある。そのため内視鏡とバリウムによる胃のエックス線検査の併用が診断には有効である。胃壁が硬く伸展が悪くなるので、エックス線検査で典型的画像が得られるからである。

 スキルス胃がんは、胃粘膜内へ深く潜り込んで表面に姿を現さないため症状の進行は早い。診断がついても、診断時には手遅れの状態のことが多い。手術は困難で、治療効果も期待できず5年生存率は10%以下である。

 胃がんの死亡率の低下は、健康診断などの早期発見が大きく貢献している。しかしスキルス胃がんの頻度は少ないが、進行が早いことから予後が悪い。スキルスがんは胃がん全体の10%前後を占め、特に若い年齢層にみられる。人気司会者・逸見政孝さん(48)、長野オリンピックのモーグル代表候補選手・森徹さん(25)の命を奪ったのもスキルスがんである。

 日本人にもっとも多いがんは胃がんで、40歳頃から増え始める。かつては胃がんの死亡率が全がんのうちでトップだったが、徐々に低下し、平成10年に肺がんがトップとなった。

 胃がんは、肺がんにトップの座を譲ったが、これは胃がんの早期発見・早期治療成績が良くなったためである。胃がんの罹病(りびょう)率は、相変わらず肺がんより高いが、治療成績が良くなったため、がん死のトップの座を肺がんに譲ったのである。胃がんそのものが減ったわけではなく、治るがんになったのである。

 

 

 

ニセ全盲事件 昭和63年(1988年)

 昭和631129日、千葉中央署は保険会社4社から7000万円の保険金をだまし取っていたとして千葉市大宮町の無職、安藤雄(41)と同市登戸の青果商、安藤喜吉(39)を詐欺の疑いで逮捕した。2人は60年3月11日の夕方、千葉市小倉台の路上で、安藤雄の乗用車に安藤喜吉の乗用車を追突させた。その後、安藤雄は「眼鏡が割れ、ガラスの破片が目に入って見えなくなった」と医師に診断書を書かせ、契約していた保険会社4社に保険金計1億3400万円を請求、約7000万円をだまし取った。狂言事故による保険金詐欺であった。

 安藤雄は近所の人にも失明を訴え、妻も子供もそれを信じていた。事故は物損事故として、警察は友人を軽い処分で済ませた。しかし安藤雄は、3年前の57年4月にもバスに足をひかれ転倒、顔を強く打ったとして左目を失明し、保険会社3社から約8000万円の保険金を受け取っていた。このため保険会社が不審を抱き、独自の調査を開始。2年半の調査の結果、事故で両目が失明したはずの安藤雄が競輪場に出掛け、タクシーでは小銭で料金を払っていることを突き止めた。

 保険会社は千葉中央署に相談、支払い済みの保険金の返還を求める民事訴訟を起こした。同署も捜査に乗り出し、失明はウソとなり逮捕となった。2人は容疑を否認し、安藤雄は民事訴訟の法廷に黒いサングラスを掛け、白いつえをついて出廷。裁判所では壁に手を当てながら歩き、宣誓書を書く際には「書き出しの場所が分からない」と手を誘導させて署名するなどの失明を装った。しかし失明はウソで、余罪を含めると2億3000万円の詐欺を働いていた。

 同様の事件が、愛媛県今治市でも起きている。ガソリンスタンドの経営者(54)が昭和53年に、車のはねた石が目に当たって失明したと松山赤十字病院に入院。医師は見えるはずと言ったが、本人は見えないと主張、医師は視力ゼロの診断書を書いた。男性は保険金3億円をせしめたが、金持ちになったことが近所で有名になり、3人組の強盗に5万円を強奪された。この時、われを忘れた男性は、警官に犯人の人相をしゃべったことからウソがばれ、5万円のために3億円を失ってしまった。

 昭和59年6月19日、東京都小平市に住む全盲の青山佳三(43)が傷害致死容疑で逮捕された。青山佳三は小平市の社会福祉協議会から200万円の融資を受け、陶器販売の会社を設立し、3人の従業員を雇っていた。その従業員の森山清司さん(47)がけいれんを起こして青山宅の2階から転落、救急車で病院に運ばれたが、頭蓋骨骨折で翌日死亡した。警察の調べによると、室内には多量の血痕が残されていて、頭部を棒状のような鈍器で殴打されていた。警察は青山佳三を殺人容疑で逮捕した。

 この事件前にも、青山佳三が関与したと思われる転落事件が起きていた。最初の事件は同年6月8日、従業員の文倉利明さん(52)が高田馬場駅のホームで後ろから押され線路に転倒、押す力が強かったためレールの反対側まで飛ばされて命拾いした。文倉さんの後ろには青山がいたが、突き落とした犯人は分からなかった。

 文倉利明さんには8000万円の保険が掛けられていて、文倉さんが会社を辞めた後に保険は解約され、森山清司さんに掛け替えられていた。さらにもう1人の従業員にも1億円の保険が掛けられ、電車のホームから突き落とされそうになった。もちろん保険金の受取人は青山であった。しかし、果たして全盲の青山に殺害が可能だったかが焦点になった。

 宮崎県日南市生まれの青山佳三は、昭和43年、脳腫瘍(下垂体腫瘍)に冒され、九州大学で手術を受けた。下垂体腫瘍は視神経を圧迫し、手術後、視力障害が残った。昭和56年、上京してきた青山は白いつえをつき、親戚に付き添われて小平市の福祉事務所を訪れ、昭和5610月、医師の診断書により東京都から身体障害者手帳1級1種の資格を得ていた。1級1種は両眼の視力が0.01以下で、日常生活で介助者が必要とされている。

 しかしこの青山佳三の全盲は全くのウソであった。全盲の診断書をもらって2カ月後に、運転免許書を更新していた。このほか、自宅近くで自転車に乗り、子供と遊んでいる姿が目撃されていた。青山には過去に2度の逮捕歴があり、罪名はいずれも詐欺罪であった。

 全盲と診断したのは都立府中病院のI眼科医長(55)だった。I医師がどのような根拠で1級と診断したかは不明であるが、青山にだまされたことは確かだった。視覚障害の認定には、視力検査、眼底検査、超音波検査など10種類以上の検査が必要であった。慣れた眼科医ならば歩く姿で障害の程度が分かるが、青山の演技力のせいだったのか、青山は全盲の診断を受け、障害者手当をもらい、融資を受けて保険金殺人を犯したのだった。

 

 

 

狂牛病 昭和63年(1988年)

 200年以上前から、羊の中枢神経系の疾患「スクレイピー」が知られていた。大正9年、ヒトにもスクレイピーと同じ病気があることが分かり、クロイツフェルト・ヤコブ病(CJD)と命名された。CJDとは、この疾患を最初に報告したドイツの2人の病理学者の名前に由来している。

 この疾患はタンパク質の一種であるプリオンが原因であった。つまりプリオンによる羊の病気がスクレイピーで、ヒトの病気がCJD、そして牛の病気が狂牛病である。このプリオンによる疾患の病態はほぼ共通していて、脳がスポンジ状になり、運動失調や痴呆などの症状を呈し、発症から1年以内に死亡することである。

 ヒトはスクレイピーが知られるようになる200年以上前から羊の肉を食べていたが、CJDになったヒトはいない。また羊を食べる国、食べない国でもCJDの発生率は同じで、どの国でも100万人に1人の頻度で自然に発生する。このことからプリオンを原因とする疾患は、羊と羊、牛と牛、ヒトとヒトならば感染するが、種を超えて感染することはないとされていた。

 プリオンはもともと健康な体内にあるが、病気を引き起こすのは、正常プリオンが立体構造の違う異常プリオンに変化するためである。体内に入った異常プリオンが、正常なプリオンを異常プリオンに変え、脳の神経組織に蓄積して細胞を破壊するのである。

 この異常プリオンは、通常の加熱では不活化されず、ホルマリンでも分解されない。さらに、発症すれば治療法はなく、死を待つだけであった。

 昭和61年、英国で原因不明のけいれん、歩行困難、異常行動を来して死亡する牛が発見され、牛がよろける様子を見た農民がMad Cow Diseaseと呼んだので、日本ではそれを直訳して「狂牛病」と名付けられた。狂牛病の牛の脳を顕微鏡で見ると、小さな空洞がたくさんあり、脳組織がスポンジ状になっていた。そのため狂牛病の正式名は牛海綿状脳症(BSE: Bovine Spongiform Encephalopathy)となっている。

 狂牛病は英国に多く(狂牛病全体の99%以上)、平成10年までに狂牛病に罹患した牛は約17万頭とされている。そのほかの欧州諸国でも狂牛病は見つかっているが、英国に比べればはるかに低い頻度であった。

 英国では羊の飼育頭数が牛の約2倍で、昭和50年頃から羊の肉を牛の餌として与えていた。そのためスクレイピーに罹患した羊の肉を牛が食べ、狂牛病を発生させたとする説が有力である。さらに潜伏期間中の狂牛病の牛の肉も、牛の飼料として加工され、急速に狂牛病の感染が広まったとされている。

 当初、英国政府は「牛の狂牛病はヒトへ感染しない」としていた。羊のスクレイピーがヒトに感染しないように、種の壁によってヒトが牛肉を食べてもCJDにはならないとしていた。そのため、昭和61年に英国で狂牛病が見つかっても厳しい対策は取らなかった。もちろん狂牛病を発症した牛はすぐ殺され、ヒトが食べることはなかったが、狂牛病の潜伏期間まで考慮した対策はとられていなかった。

 昭和63年、英国政府は羊を牛の人工飼料とすることを禁止。平成3年7月には健康な牛でも牛の餌にすることを禁止した。さらに平成4年末には、すべての牛の脳、脊髄、脾臓、胸腺、腸などの特定危険部位をヒトの食用にすることを禁止した。特定危険部位とは、牛が狂牛病に感染していた場合、異常プリオンが多く蓄積している臓器である。

 しかし平成8年3月20日、英国の海綿状脳症諮問委員会は、10人の新変異型クロイツフェルト・ヤコブ病(nvCJDnew variant CJD、現在はvCJDと呼称)患者がいることを発表。10人のvCJD患者は、牛の内臓を食べて発症した可能性が高いとした。狂牛病がヒトに感染することを英国政府が初めて認めたのである。この狂牛病がヒトに感染することを認めた英国海綿状脳症諮問委員会の発表は全世界に衝撃を走らせた。この発表は英医学誌「ランセット」に掲載された論文を根拠にしていた。

 「ランセット」の論文では、10人のvCJD患者が、平成6年2月から平成7年10月までに発症し、死亡した8人の平均年齢は29歳、生存する2人は18歳と31歳で、発症から死亡までの期間は平均12カ月であった。狂牛病がヒトに感染した場合には、変異型クロイツフェルト・ヤコブ病(vCJDvariant CJD)と呼び、ヒト従来のクロイツフェルト・ヤコブ病(CJD)と区別している。

 ヒト従来のCJD発症の平均年齢は65歳で、牛から感染したvCJDの発症年齢は若年という特徴があった。さらにCJDvCJDではその症状、MRI、脳波所見などに違いがあった。

 数年とされる10人の潜伏期間が、牛からヒトへの感染の危険性が最も高かった時期と一致し、論文では「10人の患者と狂牛病に関連性あり」と結論していた。しかし9人は過去10年間に牛肉を食べていたが、1人は平成3年から菜食主義で、全員が牛肉を食べていたわけではなかった。このようにランセットの論文は、牛からヒトへの感染にあいまいな点があったが、現在では牛からの感染は確実とされている。

 ランセットの論文が「牛からヒトへの感染を警告した」がvCJD患者は増え続けた。平成19年4月現在、vCJD患者は英国で165人、フランスで22人、アイルランドで4人、米国3人、イタリア、スペイン、カナダ、日本で各1人と報告されている。

 日本人の症例は、平成17年2月4日に厚生労働省が公表した例で、平成元年に1カ月間英国に滞在した男性で、その時に感染したとされている。この日本人の患者発生をきっかけに、平成17年6月より、厚労省は英国などの欧州諸国に通算6カ月以上滞在した人からの献血を禁止した。また狂牛病発生国の牛を原料としている医薬品や医薬部外品を使用禁止としたが、医薬品で問題になったのは医薬用カプセルであった。医薬用カプセルは、日本で年間約150億個使用されているが、その75%が外国産の牛由来のゼラチンを原料にしていたからである。

 狂牛病がヒトに感染することから、牛肉を日本に輸出している各国の対応が問題になった。日本は牛の特定危険部位(脳、脊髄、脾臓、胸腺、腸など牛が狂牛病に感染していた場合、異常プリオンが多く蓄積している臓器)をすべて除去しているが、英国は6カ月齢以上の牛で、EU諸国は12カ月齢以上、米国は30カ月齢以上で除去している。オーストラリアでは狂牛病が発生していないことから、特定危険部位の除去は行っていない。

 また日本では全頭検査であるが、米国では全頭検査をやっていない。そのため見た目は正常な牛でも、牛肉に異常プリオンが混入し、その牛肉を食べてしまう可能性があった。

 平成13年9月21日、英国で最初に狂牛病が報告されてから15年目、日本国内で初めて狂牛病に罹患した牛が1頭見つかった。以後、平成19年まで国内で33頭確認されているが、これらの牛はすべて焼却処分されている。

 狂牛病騒動で象徴的だったのは吉野家の牛丼だった。平成15年に米ワシントン州で狂牛病が確認され、米国からの牛肉輸入が停止となり、吉野家は牛肉を米国から輸入していたので、牛肉の調達が不可能になり、牛丼販売を中止することになった。販売が再開されたのは、平成18年9月になってからである。

 平成6年、狂牛病の発生数が月2000頭とピークになったが、それ以降減少している。英国では狂牛病の発症は終息に向かっていることからvCJDの発生も減少すると予想されている。

 牛はヒトの重要なタンパク源である。牛からヒトへの感染の可能性があること、感染すれば確実に死亡することから、狂牛病は食の安全性をめぐり世界的に大きな問題となった。

 

 

 

ピシバニールとクレスチン 昭和64年(1989年) 

 昭和50年にピシバニール(中外製薬)が、昭和51年にクレスチン(呉羽化学工業/現クレハ)が、厚生省から抗がん剤としての製造販売の認可を得た。この抗がん剤は、直接がん細胞をたたく化学療法剤ではなく、患者の免疫力を高め、それによってがんを排除しようとする免疫療法の薬剤である。そして発売と同時に、この抗がん剤は異常なほどの売り上げを伸ばしていった。

 ピシバニールは、溶血性連鎖球菌をペニシリンで処理した注射用の抗がん剤である。副作用として発熱などがあったが、重篤な副作用はまれであった。年間売り上げ340億円、抗がん剤として第3位であった。

 一方のクレスチンを開発した呉羽化学工業は、あのクレラップ(家庭用ラップフィルム)を販売している会社で、それまで医薬品開発の経験はなく、初めて開発した薬剤がクレスチンであった。クレスチンはカワラタケというキノコから抽出した糖タンパクで、深刻な副作用がほとんどないのが特徴であった。胃、大腸、乳がんなどに有効とされ、内服薬という便利さもあって、医薬品の中の超ベストセラーとなった。昭和63年にクレスチンの年間売り上げは全医薬品中の第2位(630億円)に下がったが、その前年までの6年間(昭和5762年)は、1位の座を守っていた。

 ピシバニールとクレスチンがこれほど売れたのは、他の抗がん剤には重篤な副作用があったのに、両剤にはほとんど副作用がなかったからである。末期がんと分かっても、治療法がないというのは残酷なことである。たとえわずかでも望みを持ちたいと思う患者に、医師は何らかの薬剤を投与して、少しでも安心させようとした。

 そのため副作用のほとんどない、しかも抗がん剤として国が認めたピシバニールとクレスチンは、医師にとって気楽に処方できる薬剤だった。手術でがんを100%切除しても、念のためとピシバニールやクレスチンを投与していた。もっとも当時、がんに有効な抗がん剤は、悪性リンパ腫などの血液疾患のがん、あるいは卵巣がんなどごく限られていた。

 これほど広く使用されたのだから、ピシバニールとクレスチンが、がん患者にとってそれ相応の効果があったはずである。しかし両剤とも抗がん作用はほとんどなかったのである。平成元年12月に、厚生省はこの2つの抗がん剤について効能性を限定する答申を出した。つまりピシバニールとクレスチンを単独で使用した場合、がんに効果なしとしたのである。そのため、両剤の使用をほかの化学療法剤との併用のみに限定したのだった。

 発売以来、両剤は累積1兆円を上回る売り上げを記録していた。本来、薬剤の売れ行きはその効果と比例するはずである。また人類への貢献度に比例して値段が設定されるはずである。かつて効果のあるとされた抗がん剤が、なぜ無効となったのか。効果のない薬剤が、なぜこれほどの売り上げを伸ばしたのだろうか。

 両剤は、がんに有効とする数十編の論文が販売認可の根拠となっていた。しかしいずれの論文も薄っぺらなもので、掲載されたのも三流の医学雑誌で、とても世界に通用するものではなかった。さらに論文は製薬会社がスポンサーになっている商業雑誌に掲載されたものが多かった。世界の一流医学雑誌に論文が掲載されていないことは、第三者の検証を受けていないことを意味していた。しかし三流誌であっても、論文に名を連ねていたのが日本のがんの権威者たちであった。

 もしこれらの薬剤ががんに有効ならば、世界中の医師が使用するはずであるが、ピシバニールとクレスチンは日本だけであった。両剤が承認された時から、その抗がん作用が疑問視されていたのである。

 薬剤の認可は中央薬事審議会の審議で決められるが、クレスチンを審議した委員の中には、クレスチンを有効とする論文を書いた医師2人が含まれていた。権威だけの学者の言葉を信じ、抗がん剤を認可した厚生省にも問題があった。がんの権威者は財団をつくり、製薬会社から億単位の寄付をもらっていた。

 がんは不治の病なので、抗がん剤が開発されれば製薬会社には、莫大(ばくだい)なカネが転がり込んだ。当時、抗がん剤は「がんには効かないが、株には抜群に効く」とされ、抗がん剤の開発が噂されるたびに株価が暴騰した。

 

 

 

天皇・裕仁の崩御 昭和64年(1989年)

 昭和62年4月29日、昭和天皇は皇居で行われた天皇誕生日の宴会の席で気分が悪くなり、途中で退席された。陛下が公式の席で退席されるのは、初めてのことであった。陛下は86歳という高齢に加え、当日は朝から分刻みのスケジュールで祝賀行事をこなしていた。侍医の星川光正は、退席の理由を過酷なスケジュールによる疲労と説明した。後で振り返ると、この時の症状が膵臓がんの最初の兆候だった。しかしその後、陛下の容体は回復し、通常どおり公務を続けられた。

 CTスキャンを含めた精密検査では何の異常も発見されず、嘔吐はその時かぎりのものと思われていた。ところが8月下旬になると、陛下は食べたものを嘔吐する症状を繰り返すようになった。体重は減り、衰弱が強くなった。

 9月13日、宮内庁病院でバリウム検査を受けられ、その結果、陛下の十二指腸に通過障害が見つかった。高木顕侍医長が中心になり、拡大侍医会議が行われ治療方針が検討された。その結果、通過障害を起こした病巣を残したまま、腸のバイパス手術を行うことになった。

 9月22日、森岡恭彦東大教授をトップとする医師団によって手術が実施された。宮内庁は「腸の通過障害」で天皇陛下が手術を受けられたことを発表。歴代天皇の中で初めて受けられる開腹手術であった。

 森岡教授は術後の記者会見で「経過は順調で、通過障害の原因は慢性膵炎の可能性が高い」と発表した。手術から1週間後、陛下の病名は「慢性膵炎」と正式に発表されたが、本当の病名は「膵臓がん」であった。

 慢性膵炎の病名が発表される3日前、執刀医である森岡教授、病理の浦野教授、森亘東大総長、高木侍医長が東大総長室に集まり、「陛下へのがんの告知」について話し合っていた。陛下にがんの告知はできないが、それでは陛下にうそをつくことになる。このジレンマの中で、慢性膵炎の病名は苦しい選択であった。

 陛下の容体を心配する多くの医師たちは、「慢性膵炎」の発表を信じなかった。嘔吐、膵臓、手術。この3つのキーワードをつなげれば、陛下のご病気が慢性膵炎ではなく、膵臓がんによる通過障害であった。慢性膵炎が通過障害を起こすはずはなく、また慢性膵炎で手術するはずはなかった。

 膵臓は十二指腸に接する位置にある。そのため膵臓がんが進行すると十二指腸を圧迫し、通過障害を起こすことがある。十二指腸が通過障害を起こせば、食べたものが胃から腸へ通過できなくなり、胃液などの消化液もせき止められ、嘔吐などの症状が出てくるのだった。

 昭和天皇が受けたのは、膵臓がんを取り除いて、十二指腸の通過障害を改善させる手術ではなかった。膵臓がんを残したまま、「十二指腸と小腸を吻合するバイパス手術」であった。

 陛下が亡くなるまで、病名は慢性膵炎とされていたが、医師の多くは膵臓がんの可能性を心に秘めていた。そして奇跡を願う気持ちで陛下の回復を祈った。医師たちは膵臓がんだろうと思っていたが、不治の病である膵臓がんという病名を口に出すことはできなかった。

 術後の経過は順調に経過し、昭和6210月7日に退院なされた。退院後、吹上御所を散歩される写真が公表され、9月の手術がうそであったかのように、陛下は元気を取り戻された。

 しかし翌昭和63年8月15日、東京・武道館での戦没者追悼式に出席された陛下は、かなりやせており、その痛々しい姿は国民に大きな不安を抱かせた。陛下は黙祷(もくとう)の後に追悼の言葉を述べられたが、言葉は弱々しくおぼつかない足取りであった。

 手術からほぼ1年後の9月18日、陛下は大相撲秋場所観戦の予定を当日にキャンセル。翌19日の午後10時すぎ、大量の血液を吐き重体になられた。意識が薄らぎ、血圧の低下がみられ宮内庁職員幹部らが非常招集を受けた。宮内庁から日赤に緊急電話が入り1400ccの輸血がなされた。

 9月20日、「天皇陛下ご重体」の報道がなされ、その日から111日に及ぶ天皇陛下の闘病生活が始まることになる。陛下は膵臓がんからの出血のため、大量の輸血が必要だった。それは十二指腸に浸潤した腫瘍からの出血と思われた。陛下への輸血のために自衛隊員が集められ、輸血が繰り返された。陛下に輸血された血液の総量は、3万1865ccに達した。この輸血量は、身体全部の血液を10回入れ替えられるほどの量であった。

 5人の侍医と8人の看護婦が、24時間体制で看病に当たった。陛下は111日の闘病生活の間、何度も重体に陥ったが、緊急輸血などで危篤状態を脱して小康状態を保っていた。国民のほとんどは不吉な時が次第に近づいているのを感じ、昭和の時代の終わりを予感していた。

 がんの末期状態で出血を繰り返す場合、延命のための大量輸血は行わないのが原則である。しかし国民が見守る中、陛下の輸血を中止することはできなかった。当時、尊厳死や安楽死などが、国民的話題になっていたが、まだ一般的議論には至っていなかった。延命治療の無意味さも社会問題になり始めていたが、それを天皇陛下に当てはめることはできなかった。陛下の病気は、それを議論するのによい機会であったが、誰もそれを口に出せなかった。輸血の中止は、陛下の死を意味していたからである。

 昭和天皇が重体になられてから、日本国内はすべてが「自粛ムード」に包まれた。タレントの結婚式やデパートのバーゲンセールが自粛され、商店街からはジングルベルの歌が消えた。政府は、閣僚の外遊を禁止し、自民党の議員には禁足令が出された。

 花火や祭りは中止となり、学校の記念祭・学園祭も取りやめになった。さらにテレビの下品なお笑い番組は中止となり、日産のCM「みなさん、お元気ですか」、ロッテのCM「ついにその日がやって来ました」が放送中止となった。

 宮内庁からは、記者会見で陛下の血圧・熱・脈拍などのバイタルサインが毎日発表され、輸血があれは輸血量が追加発表された。人々は、わずかな期待を持ちながら、陛下の回復を待った。しかしマスコミは最後の日をXデーと暗号で呼び、その日に備え報道体制を整えていた。

 昭和64年1月7日の未明、陛下は危篤状態に陥り、皇族関係者や竹下登首相らが次々に吹上御所に駆けつけ、そして陛下は同日午前6時33分に崩御なされた。

 午前7時55分、宮内庁長官・藤森昭一によって「天皇陛下におかせられましては、本日午前6時33分、吹上御所において崩御あらせられました」と崩御の発表であった。87年と8カ月の生涯で、実質的な在位期間は62年間であった。

 陛下が崩御なされて3時間ほどたった9時30分、高木顕侍医長は記者会見を行い、陛下の死因は十二指腸乳頭周囲腫瘍であると述べた。乳頭周囲とは、膵管が十二指腸に合流する部位で、十二指腸乳頭周囲腫瘍は膵臓がんの1つに分類されている。

 前年の手術の際、慢性膵炎と発表していたが、事実上、訂正したのであった。また高木侍医長は、科学者である陛下はかなり早い段階からがんであることに気付いていた可能性を述べた。陛下は、昭和62年に弟の高松宮宣仁殿下を肺がんで、昭和36年には長女・東久邇成子さまをがんで亡くされていた。陛下はご自分の病気の告知はなく、輸血を繰り返す対症療法だけであった。皇太子殿下には侍医長からがんの疑いが強いと説明があったが、皇太子殿下は「よろしく頼みます」とおっしゃっただけであった。

 当時、がんの告知や終末医療の在り方が、大きな社会的問題になっていた。しかし、陛下の病気を前にその問題は大きく後退し、陛下の最期の治療は医師任せとなった。もし陛下が、がんの告知を受け延命治療を拒否なされていたら、日本の終末医療、延命医療は違う方向を辿ったかもしれない。患者の意思による医療の選択権が飛躍的に高まったかもしれない。しかし実際には、がんの告知と終末医療の問題は数歩後退した。

 昭和天皇が崩御した日、20の記帳用テントが坂下門前に用意され、記帳者は1日で279407人に上った。民放は40数時間にわたりCMなしで追悼番組を流した。

 皇太子明仁親王は、昭和天皇の崩御に伴い皇位継承のための「剣璽等承継の儀」を行い、新天皇に即位なされた。「天皇は1日も空しくすべからず」という皇室の伝統に沿ったものであった。

 竹下登首相は「元号に関する懇談会」を招集。そこで「平成」「修文」「正化」の3案が検討され、午後2時35分に小渕恵三内閣官房長官が新元号を「平成」と発表した。目まぐるしい昭和最後の1日だった。昭和64年は1月1日から7日までの7日間となり、1月8日からは平成元年となった。

 昭和天皇の崩御は、海外でも大きく受け止められ、「第2次世界大戦指導者の最後の死」として、新聞1面で大々的に報道された。海外の有力雑誌、テレビなども、相次いで「天皇特集」「日本特集」を組み、空前の取材陣が海外から日本に押し寄せた。

 昭和から平成に年号が変わり、2月24日に昭和天皇をお送りするための「大喪の礼」が東京・新宿御苑で行われた。その日は、朝から雪交じりの冷たい雨が降り続いていた。

 天皇の葬儀が、戦後の日本国憲法下で行われるのは、初めてのことであった。天皇が崩じられたときは、大喪の礼を行うとされているが、大喪の礼をどのように行うかの法的な定めはなかった。そのため政府は、政教分離に配慮し国の儀式と皇室の儀式を分けることにした。新宿御苑での大喪の礼は、国の儀式としたが、「斂葬(れんそう)の議」のうち、同日同所での「葬場殿の儀」と東京都八王子市の武蔵陵墓地内での「陵所の儀」を中心とする昭和天皇大喪儀の儀式は、皇室の行事として行われた。

 大喪の礼に先立ち、昭和天皇の柩(ひつぎ)は竹下首相らの先導で皇居を出発。二重橋、桜田門、国会議事堂前を経て、葬場である新宿御苑まで厳かに進んでいった。大喪の礼には、海外からブッシュ米大統領、ミッテラン仏大統領、ベルギーのボードワン国王ら元首級の55人をはじめとした164カ国、約9800人が参列。英国ビクトリア女王以来の史上最大規模の葬儀となった。

 国会議員のうち日本社会党の大半は、皇室と政府の両儀式の区別が明確でないとして大喪の礼のみ参列した。また、日本共産党はすべての儀式に参列しなかった。

 大喪の礼では、今上天皇・皇后が葬場殿の前に進み出て、1分間の黙祷(もくとう)を行った。続いて竹下首相ら三権の長が弔辞を読み上げ、外国代表が拝礼した。国の儀式と皇室の儀式が分けて行われたが、全体としては1つの形にまとまっていた。その後、昭和天皇の柩は武蔵陵墓地に運ばれた。沿道で見送る一般市民は20万人に上り、昭和天皇との別れを惜しんだ。

 昭和天皇は87歳で崩御したが、神話上の天皇を除き歴代の中で最も長寿だった。昭和天皇が歩んだ激動の昭和も2万2660日で幕を閉じ、陛下は武蔵野陵で安らかな眠りにつかれた。

 昭和天皇は、明治34年4月29日に大正天皇の第1皇男子として誕生。大正1011月、大正天皇のご病気のため摂政となり、その2年後には関東大震災に遭遇。天皇即位後は、金融恐慌や満州事変を経験し、終戦までの20年間は「現人神」として日中戦争・太平洋戦争という激動の中心にいた。

 戦後は国民の象徴として、自ら「人間宣言」を発し、混乱の続く全国各地を回って国民を激励した。国家建設の努力を国民とともに体験し、戦後の復興と高度経済成長の繁栄を迎え、まさに激動の昭和史の中を生きてこられた。苦楽をともにした国民は、昭和天皇に自分の人生を重ね合わせ、特別な感情を持っていた。

 晩年の昭和天皇は、ひたむきな姿勢や独特な歩き方、話し方などから、一般国民の間ではかわいいお爺さんというイメージが強かった。昭和天皇の国民を思う優しい人柄は、現在も国民の間に生き続けている。4月29日の昭和天皇の誕生日は、祝日として残されている。

 

 

 

昭和60年代小事件史

【ピーターパン症候群】昭和60年(1985年)

 昭和60年当時、×××症候群(シンドローム)という言葉が流行した。ピーターパン症候群もその1つで、大人社会にいつまでも適応できない少年のような大人を意味していた。年齢は大人でも、責任ある行動を嫌う男性を、ピーターパン症候群と表現した。

 大人社会への参加を拒否する男性を、「子供たちだけの幻想的な世界にさまよう、永遠の少年ピーターパン」になぞらえ、社会という荒波を前に、学生のままでいたい若者の願望とされていた。ピーターパン症候群は、親の過保護が原因とされたが、親たちはそれに気付かず頭を抱えていた。子供の自立性は大切であるが、それを理解できない親が多かった。

 ピーターパンは、イギリスの劇作家J.M.バリーが書いた空想上の主人公で、大人のいない「ないない島(ネバーランド)」に住む永遠の少年の物語である。「ピーターパン・シンドローム」とは、アメリカの心理学者ダン・カイリーの著書から生まれた造語で、昭和59年の流行語となった。

 ピーターパン症候群は男性の場合であるが、女性には「シンデレラ・コンプレックス」がある。シンデレラ・コンプレックスとは、自立する自信のない女性が、自分の人生を一変させてくれる王子様の出現を待望し、その男性に頼って心の安定を保ちたいという心理によるものである。大人の社会で責任を果たすことへの恐怖、男性に救われたいと願う依存心が根底にある。「男性に支配されるのはイヤ」と言いながら、心のどこかで「男性に依存したほうがラク」と思っているのである。女性の心の中には、いつも王子様の登場を期待する気持ちがあり、キャリアウーマンでも、そのような心理になるらしい。男性依存の隠れた気持ちで、結婚など眼中にないと思われていた専門職の女性が、突然結婚するのもこの心理によるとしている。

 また「もっと自分に合った甘い生活があるはず」と思うことを「青い鳥症候群」と呼んだ。青い鳥症候群の根底には、現実と自分の思い描く状況とに落差があった。

 このような言葉の流行は、社会に夢を描ける時代だったからで、夢があるだけ幸せである。殺伐とした現在では、このような夢を持てない若者が増えている。

 

健康食品の誇大広告 昭和60年(1985年)

 少年少女向けの雑誌などに「1日、1粒飲むだけで背がぐんぐん伸びる」と宣伝して、カルシウム剤「ハイセボン」を販売していた業者が摘発された。ハイセボンはこのような詐欺まがいの広告で、それを信じた中学生や高校生約20万人に売りつけていた。牛骨を原料としたハイセボンの原価は1瓶150円だったが、業者は4800円で販売して12億円を荒稼ぎしていた。

 現在、日本人の平均身長は男性170.4cm、女性158.2cmだが、多くの若者は身長を少しでも伸ばしたいという欲求を持っている。もちろんカルシウムの摂取によって背が伸びるとは限らない。むしろカルシウムは骨の軟骨層の石灰化を促進することから、逆効果とする説もある。

 身長は遺伝と関係しているが、だからといってあきらめてはいけない。身長を伸ばすには、<1>しっかり運動し、軟骨へ栄養を行き渡らせる<2>タンパク質を多く取る<3>睡眠中に成長ホルモンが分泌されることから熟睡することが重要である。

 身長にはホルモンが大きく影響することから、思春期が早く来ると急に背が伸び、早い子供ほどすぐに身長が止まってしまう。背の順に並んだとき、小学校で後ろだったのに、中学生になると追い抜かれてしまう現象がそれに相当する。

 健康食品は、いつの時代でも雰囲気だけで儲かる。健康食品は、医薬品ではないので特定の病気に効くとは書けないが、それをにおわせる誇大広告で売りつけるのである。売り方の特徴は、即効性をうたうこと、使用者の体験談を載せること、有名人の名前を使うこと、そして値段を高く設定することである。この方法は今も昔も変わりはない。

 健康食品の定義は難しいが、「健康という弱点につけ込んだ金儲け」と表現するのが適切であろう。ところで最近のインターネットでは、健康食品だけでなく、成長ホルモンまでも堂々と販売されている。インターネットの恐ろしさを感じさせる。

 

勇気ある若者昭和60年(1985年)

 昭和60526日、横浜市南区で酔っぱらいの介護強盗を、国学院大4年の平野英司さん(22)と友人3人が目撃して犯人を追いかけた。平野英司さんは犯人を取り押さえたが、ナイフで刺され死亡。友人1人も重症を負った。友人は近くの交番に助けをもとめたが、警察官は検問に出ていて不在だった。神奈川県警は総力を挙げ捜査を行い、犯人の無職加藤文男(54)を逮捕し、東京高裁は加藤に無期懲役の判決を下した。神奈川県警は対策として空き交番を解消する方針をたて、国学院大は平野英司君記念奨学金を設けた。

 昭和601230日未明、東京都品川区蒲田一丁目のスーパーに刃物を持った男性が押し入り、レジにいた女性店員に刃物を突き付けた。女性の悲鳴に気付いた女性の息子の山田道晴さん(24)と男性がもみ合いとなり山田さんは左腕を刺された。男性はレジにあった7万7000円をわしづかみにして逃亡。偶然、通りかかった明治大工学部1年生の滝口邦彦君(20)が、山田さんの叫び声を聞いて強盗の追跡に加わった。滝口君は強盗に追いつき格闘となったが、滝口君は犯人に腹を刺された。救急車が要請され、救急隊員が大学生を収容。救急隊員は救急医療情報センターを通して、受け入れ先の病院を探したが、5つの病院に断られ、6番目の第三北品川病院が受け入れてくれたが、救急車到着から34分が経過していた。病院の努力にもかかわらず、勇気ある若者は出血多量で死亡。死亡したのは明治大工学部1年生の滝口邦彦君(20)であった。もしすぐに病院に搬送されていたら助かったかもしれないと多くの人が涙を流した。救急病院の受け入れ体制の不備が、勇気ある若者の生命を奪ったと思った。この勇気ある若者のニュースは、新聞やテレビで取り上げられ、正義感から犯人を追跡して凶刃に倒れた若者に同情の世論が沸き上がった。

 東京地裁の柴田孝夫裁判長は、「病院収容が20分程度遅れた事情はあるが、受傷後10分ぐらいで死亡にいたるほどの重傷だった」として、救急医療体制の不備が滝口さんの死につながったと主張する犯人の山内清孝の弁明を否定、山内清孝の行為と滝口さんの死の因果関係を認め、さらに「正義感から追跡に加わり、凶刃に倒れた被害者の義心と行動は称賛に値する」と滝口さんをたたえた。犯人の山内清孝には求刑とおりの無期懲役が言い渡された。

 裁判官は救急医療の不備を指摘しなかったが、この事件をきっかけに、東京都は都内13カ所の救命救急センターとの間に直通専用線(ホットライン)が設置することにした。厚生省は各救命救急センターに対し、「救急患者の受け入れの責任者を決めておくこと、当直医が対応できない場合には、ほかの医師が対応できるように体制を整えておくこと」などの通達を出した。

 当時、救急隊の医療行為は法律で禁じられていて、患者を助けたくても救命行為ができずに、患者の運び屋にすぎなかった。このことから、救命措置のできる救急救命士の法的整備が必要とされ、救急救命士法が平成3年4月に成立した。

 勇気ある若者の咄嗟の行動には頭が下がる。彼らの行動をとやかく言う者はいないであろう。しかし彼らが犯人を追わなければ、若い命を失うことはなかった。人命救助のための行動ならば彼らの死は報われるだろうが、奪われた数万円のために、人間のクズと引き替えに自分の貴い命を落としたことは残念である。このような世知辛い世相の中で、彼らの人間らしい正義感に賞賛を送りたいが悲しすぎる。

 

東大脳動静脈奇形事件昭和60年(1985年) 

  昭和60年2月、千葉県八千代市大和田新田の保険代理業・薮田政和さん(38)の妻悦子さん(29)が頭痛のためA病院を受診した。CT検査の結果、動静脈奇形が疑われたため、東大病院を紹介されて受診することになった。東大病院の放射線科で脳血管撮影を受け、動静脈奇形と診断され脳外科に入院となった。

 正常の脳の血管は、動脈と静脈が毛細血管を介して流れているが、動静脈奇形は脳の動脈と静脈が異常な血管を通して直接流れてしまう先天性の奇形である。血管内圧の高い動脈血が毛細血管を介さずに直接静脈に流入するため静脈内圧が高くなり、静脈の小さな血管がコブのように膨らみ、くも膜下出血や脳内出血を起こす可能性があった。

 この先天性の奇形は、20歳以降にけいれん発作や脳出血を来すことが多いとされている。担当の脳外科医は、これまで悦子さんがけいれん発作を2度起こしていること、29歳と年齢が若いことから、今後、脳出血を起こす可能性が高いと判断。家族と本人の承諾を得て、2月28日に異常血管の摘出術を行うことになった。

 手術は奇形部分を取り除き、動脈と静脈を結紮(けっさつ)するものだった。しかし悦子さんの動脈は脳の深部に、一方の静脈は脳の表面にあり、手術は予想以上に困難だった。手術は約24時間続き、その間8.6Lの出血があった。術後、悦子さんは徐々に意識を取り戻したが、一転して、急に意識低下に陥った。主治医は脳出血が原因と考え、血腫除去のため開頭術を再度行ったが2日後に死亡した。

 夫と遺族は、手術ミスが原因として総額4600万円の損害賠償を求め裁判となった。この裁判で争点になったのは、インフォームドコンセント(説明と同意)が十分になされていなかったことである。東大病院では、過去5年間で40例の手術経験があり、2例が死亡していた。東大病院に限らず、脳動静脈奇形の手術は困難とされているが、主治医は「難治性てんかんと将来の脳出血を予防するために手術が必要」と説得したのは正しいが、手術の危険性を「飛行機事故並みの安全な手術」と説明していたのであった。

 東京地裁の魚住庸夫裁判長は、「手術に過失はないが、担当医師が手術の危険性を患者に十分説明せず、手術を拒否する選択の機会を奪った」として、精神的慰謝料として国に総額660万円の支払いを命じた。手術の正当性、術後悪化時の対応には過失はないが、手術におけるインフォームドコンセントが欠けていたとしたのである。

 医師が手術の危険性を十分に説明していても、本人は手術を承諾したであろうが、しかし裁判では「手術をするかどうかの十分な情報を医師が本人へ与えなかったことを、医師の説明義務違反」としたのである。

 脳動静脈奇形の手術に関する裁判としては、平成7年、愛知県豊橋市民病院で手術を受けた男性(24)が医療ミスで左半身麻痺になったと訴え5272万円で和解している。平成12年、札幌医科大病院で脳動静脈奇形の手術で男性(48)が死亡、5000万円で和解などがある。

 当時の動静脈奇形の根本療法は開頭手術であったが、最近ではガンマナイフによる治療が一般的となっている。「ガンマナイフは見えないメス」といわれ、放射線のガンマ線を病巣に10分間集中照射して脳動静脈奇形を治療する方法である。これまでの開頭手術に比べ、痛みや患者の負担がほとんどなく、それまで手術困難であった深部の病巣も治療でき、数日の入院で退院できる大きな利点があった。まさに医学の進歩である。

 

 【褥瘡裁判昭和60年(1985年) 

 昭和601013日、毎日新聞は「床ずれは看護の怠慢」という見出しを付け、この褥瘡(じょくそう=床ずれ)裁判の結果を大きく取り上げた。この裁判は看護の質を問うもので、看護師の間でも大きな反響を呼んだ。看護雑誌の多くは特集を組み、この問題にスポットを当てた。

 裁判となったのは、昭和4912月7日にAさん(61)が脳出血で倒れ、救急車でY市立病院内科に搬送されて入院。入院時Aさんは意識不明の重症で、尿バルーン、胃チューブが挿入されたが、次第に意識は回復してしゃべれるようになった。

 入院1週間後の15日ごろから、Aさんの仙骨部の皮膚に発赤が見られ、20日ごろから表皮が剥離するようになった。約半月で皮膚は壊死をきたし、1月下旬には黒いカサブタ状態になった。褥瘡は日々増悪し、2月12日には褥瘡部(12cm×3cm)の壊死組織の除去手術が行われた。しかし褥瘡は良くならず、褥瘡部は感染症を引き起こし、化膿して発熱を繰り返した。そのためAさんはリハビリができず、病状の回復が大幅に遅れた。そして5年後の昭和5411月1日、Aさんは褥瘡を悪化させ、褥瘡部からの出血で死亡した。

 Aさんの家族は入院時から付き添い、看護師の口頭による指示で、朝夕の2回の清拭(せいしき)と体位交換を行っていた。看護師は体位交換を家族に言うだけで、実際には手を貸していなかった。

 Y市立病院の内科病棟は98床で、常に満床の状態であった。看護師数は約20人で基準看護師特1類(患者3対看護要員1人)の基準を満たしていなかった。そのため市立病院の看護師は多忙で、褥瘡予防に対応できなかったのである。多忙で手が回らなかったのに、新聞の見出しは「床ずれは看護の怠慢」であった。

 Aさんの家族は、Y市立病院の看護師や医師が褥瘡の治療に積極的ではなく、そのため5年間にわたって苦痛を受けたとして裁判を起こした。裁判では、病院側の褥瘡の予防および治療に過誤があったとして、病院側の損害賠償責任を認め慰謝料100万円での和解となった。法的には看護は看護師が行うもので、家族の付添は看護を補充するものではないとなっていたのである。

 現在、各病院では定期的な体位交換などの褥瘡防止がなされている。この事件の詳細は別として、5年間にわたり入院できたのは病院側の善意を感じるが、これはあくまでも個人的な感想である。

 

【新幹線公害訴訟和解】昭和61年(1986年)

 東京・大阪間を日帰り圏にした東海道新幹線は、国民に大きな利便性を与えたが、沿線住民には計り知れない苦しみをもたらした。昭和49年3月3日、東海道新幹線の沿線に住む名古屋市内の住民576人が国鉄を相手取って、新幹線列車の走行に伴う騒音と振動の差し止めと慰謝料を求めて名古屋地裁に提訴した。

 住民たちは、新幹線の高架橋の下で騒音と振動に悩まされていた。時速200キロ以上のスピードで重量1000トンの新幹線が、1日上下合わせて226本も高架橋を通過し、80ホンを超える騒音や振動を発生させていた。そのため名古屋市の沿線住民は、精神的被害、睡眠妨害、病気療養妨害を理由に訴えたのである。

 昭和55年9月11日、名古屋地裁は被害の存在を認め、慰謝料の支払いを国鉄に命じた。しかし減速の請求については、新幹線の公共性を理由に住民の被害が受忍限度を超えるものではないとして棄却した。この判決に住民、国鉄ともに控訴したが、昭和60年4月12日の名古屋高裁の判決でも結論は同じであった。さらに双方が最高裁へ上告したが、61年4月28日、国鉄と住民の直接交渉によって和解が成立した。

 和解の内容は、<1>新幹線の騒音を75ホン未満にし、振動の軽減を図る<2>国鉄は住民に4億8000万円の慰謝料(原告1人当たり50万〜100万円)を支払う<3>移転補償や家屋に対する防音・防振工事を誠実に実施する、であった。これを受けて原告側が訴えを取り下げ、提訴から12年ぶりに決着した。公共性が「錦の御旗」にならなかったことは、住民側の勝利といえる。

 この住民提訴がなされた翌年、新幹線公害訴訟をテーマにしたサスペンス小説「動脈列島」(清水一行著)が出版され、日本推理作家協会賞を受賞して映画化された。「動脈列島」は、新幹線による振動と騒音を改善しなければ新幹線を爆破するとのストーリーで、新幹線沿線に住む老婦人が新幹線公害により死亡し、怒った主治医(近藤正臣)と恋人の看護師(関根恵子)がダイナマイトで新幹線を破壊しようとする内容だった。

 

世界最高齢者の死 昭和61年(1986年)

 昭和61年2月21日、世界最高齢者である泉重千代さんが120歳と237日で死去した。肺炎と心臓衰弱が死因であったが、もちろん大往生であった。国内のマスコミはもちろんのこと、外電も「120歳、世界最高齢者の死」と世界に報じた。

 鹿児島県の徳之島で生まれた泉重千代さんは、昭和51年に113歳で死去した滋賀県の河本にわさんに代わり長寿日本一となった。昭和54年、114歳の時にギネスブックに長寿世界一と認められ、以後、昭和61年までの7年間にわたり長寿の王座に君臨した。昭和59年には、ギネスブックの表紙を飾っている。

 泉重千代さんが生まれたのは、江戸時代の慶応元年6月29日で、第2次長州征伐の勅許が出た年であった。徳之島は当時、薩摩島津藩領であったが、幕末維新の動乱とは関係なく、ゆっくりと時が流れていた。

 泉重千代さんの仕事は、太平洋と東シナ海を見下ろすサトウキビ畑が広がるなだらかな丘陵地で、サトウキビを栽培して黒砂糖を積み出すことであった。明治37年、39歳で結婚、2人の子供をもうけたが、いずれも若くして他界している。

 朝7時に起きて番茶を飲み散歩。昼寝をして、夜はテレビを見ながら黒糖酒を飲み、夜9時に寝る。たばこを欠かさず吸うのも日課だった。昭和55年には大阪まで飛行機で行き、昭和56年には鈴木善幸首相と対面している。

 昭和60年6月、120歳の誕生日を迎え、徳之島の伊仙小学校の体育館で「泉重千代の大還暦祝賀会」が行われた。大還暦とは還暦(60歳)を2度迎えるという驚異的な長寿をたたえる言葉である。泉重千代さんは有名人となり、本土からの観光客が徳之島へ押し寄せ、自宅前にはタクシーや観光バスが列をなした。

 長寿世界一になった時、報道陣の取材に対し、泉重千代さんは長寿の秘訣(ひけつ)を「酒と女」と答えた。お酒は黒糖焼酎を薄めて飲むのが習慣だった。リポーターが「どういうタイプの女性がお好きですか?」と質問すると、泉さんは「やっぱり、年上の女」と答えて話題になった。

 鹿児島県は、「長寿の秘訣」を徳之島の観光にしようと調査し、徳之島に長寿者が多いのは、冬でも気温が温暖で、特産の黒糖、海産物を食べているためと宣伝した。しかし長寿の秘訣について、泉さんは「人の命は天命で、くよくよせずにジャイアンツの応援をすること」と話していた。現在、海を見下ろす自宅前の丘に泉重千代翁の銅像が建っている。

 

 男女産み分け昭和61年(1986年)

 昭和61年5月31日、慶応大医学部・飯塚理八教授らのグループが、人工授精によって女児の産み分けに成功したと発表した。

 人間の性別は、1対の性染色体によって決定される。性染色体がXYであれば男性で、XXであれば女性である。受精する前の「卵子の性染色体は常に1個のX染色体を持ち、精子はX染色体を持つものと、Y染色体を持つものに分かれる」。つまり赤ん坊の性別は、受精した精子がY染色体であれば男性となり、精子がX染色体であれば女性になる。このように、赤ちゃんの性別を決定するのは精子の性染色体で、母親側の卵子は影響しない。そのため、精子のXあるいはY染色体を何らかの方法で分離できれば、男女の産み分けが可能となる。

 飯塚教授は、精子のわずかな重さの違いを利用して、男女の産み分けを可能にした。それはシリカゲルの一種であるパーコール液の中に精子を入れ、遠心分離器によって比重の重いX染色体を含んだ精子を取り出し、人工授精によって女児を産ませる方法であった。

 飯塚教授は、女児の産み分けの成功率は95%以上と発表した。さらにこの方法によって産み分けられた赤ちゃんが、すでに数十例に達していることを明らかにした。

 この方法は、もともと血友病などの伴性劣性遺伝病の妊娠を避けるために考案された方法であるが、女の子を欲しがる夫婦にも応用したのである。しかしこの男女産み分けは生命倫理の面での議論を呼んだ。生命倫理上の議論が煮詰まらないまま、臨床応用が先行したことに懸念が生じたのである。そのため何らかの歯止めが必要となり、日本産科婦人科学会の倫理委員会は「伴性劣性遺伝性疾患を回避する場合にのみ行われるべき」とした。

 どこまでが親のエゴで、どこまでが医療なのか。いずれにしても、学会は一般人を対象とした産み分けには応用しないことにした。かつては家の世襲制度から男の子を欲しがる相談が多かったが、現在では8割が女の子を希望している。男女産み分けは、生殖技術の人間への応用に歯止めをかけるため、現在でも全面的な自粛が続いている。

 

仮面の紳士昭和61年(1986年)

 昭和611213日、厚生省の医道審議会は福岡市の産婦人科医師・坂本英雄(58)の免許取り消し処分を決定した。坂本英雄は女子高校生らに現金を手渡し、小遣いに困っている可愛い友達がいたら紹介してくれるように頼み、みだらな行為を重ねていた。

 坂本医師は女子高校生と性的関係を持ち、医師として初めて児童福祉法違反教唆に問われ、懲役1年、執行猶予4年の刑を受けた。坂本医師は地元では名士として知られており、ライオンズクラブ会長、少年野球リーグの世話役、市医師会役員、看護学校教官などを務めていた。さらに自分の懐を肥やすため、巨額の脱税をはじめとした6つの罪状を重ねていた。青少年育成に大きな役割を果たしていただけに、その不祥事は地域社会に強い衝撃を与えた。

 同じ理由で沖縄県沖縄市の古波蔵昇医師(46)が医師免許取り消し処分となっている。古波蔵医師は、沖縄県立名護病院に勤務中の昭和6310月から平成元年までの間、当時11歳から13歳の少女4人に、海岸や車、モテルなどでいたずらしていた。そのため強制わいせつなどで懲役2年執行猶予3年の刑を言い渡されている。

 医師は全国で約26万人いるのだから、医師の中に犯罪者がいても不思議ではない。彼らは患者の前では紳士という仮面をかぶり、自分以外の人間を演じていたのだろうが、犯罪者に変わりはない。

 しかしながら、無職の者が罪を犯した場合は、裁判での刑罰に従うだけであるが、医師が罪を犯した場合、裁判での刑罰に加え、医師免許の取り消し、職場では懲戒免職となる。職業柄仕方がないと思いがちであるが、あまりに不公平ではないだろうか。

 

 じん肺訴訟昭和61年(1986年)

 じん肺とは炭坑、採石場、トンネル工事などで働いている労働者が、長期にわたり粉塵を吸うことによって生じる肺の疾患である。吸い込んだ粉塵により、肺は線維増殖性の変化を来し、息切れや呼吸困難などの症状を起こした。じん肺は、最古の職業病といわれ、被害者の数を考慮すれば人類最大の職業病といえる。

 じん肺の発生には、粉塵の化学的性状や粉塵の大きさなどが関連し、症状が出るまでに十数年から数十年を要する場合が多いため、初期には自覚症状はほとんどないが、やがて労作時の呼吸困難などが出てくる。じん肺は慢性に経過し、1度症状が出れば治ることがないことから、じん肺の責任をめぐり多くの訴訟がなされている。

 じん肺は粉塵の種類によって珪肺、炭肺、石綿肺、黒鉛肺などに区別され、その診断は胸部エックス線写真で散布状の粒状影を認めることである。また珪肺では肺結核を、石綿肺では肺がんを合併することがあがあり、年間およそ1000人の労災認定がなされ、訴訟が繰り返されている。

 昭和61年6月27日、長野市川中島の平和石綿工場の元従業員と遺族24人が、じん肺になったのは工場の石綿粉塵が原因として、2つの企業と国を相手に総額4億6200万円の損害賠償を求めた裁判の判決があった。長野地裁は元従業員を勝訴とし、企業に総額1億9029万円の支払いを命じ、国の責任については「監督権限の不行使は、裁量の範囲を逸脱していない」として請求を棄却した。同年6月30日、静岡地裁も遠州じん肺訴訟で3企業の責任を認定した。

 このようにじん肺訴訟では企業あるいは国に安全配慮義務違反があったかが争点になった。じん肺は長時間の経過後に発病することから、損害賠償の時効(10年)の起算点をいつにするのか、慰謝料の金額など法律上の難問があった。

 平成6年2月22日、最高裁はいわゆる「長崎じん肺訴訟」(旧北松炭鉱、現日鉄鉱業)で、使用者の義務違反を認定。時効の起算点について、「最終の行政認定を受けた時点」として労働者に有利な解釈を示した。長崎じん肺訴訟は、じん肺訴訟としては最初の最高裁判決であった。

 国が発注したトンネル工事では、「国がじん肺防止の規制措置を取らなかった」として、じん肺患者の勝訴が増えている。全国11カ所で、元作業員らが国に損害賠償を求めていたが、平成18年7月、東京地裁で原告団が国に勝訴した。判決は国の責任を厳しく問うもので、国に賠償が命じられた。しかし厚生労働省は上告し、係争中を理由にじん肺の国の責任を認めず謝罪もしていない。

 トンネル工事におけるじん肺訴訟は、今なお裁判継続中である。トンネル坑内での定期的な粉塵測定の義務化、坑内作業時間の管理、建設労働者の健康管理制度の創設などが急がれている。

 

 献血エイズ昭和61年(1986年)

 昭和61年9月11日、日本赤十字社は東京・大阪などの大都市を中心に370万人の献血者を対象にエイズ抗体の陽性率を調べ、3人のエイズ患者を見いだしたと発表した。この検査は、献血血液からエイズが国内に広がることを防止する目的で行われた。

 抗体陽性率は0.0007%で、厚生省は「献血者全体に占める陽性率は低いので、献血血液への影響は心配ない」としたが、「献血時の問診の強化と、献血された全血液で抗体検査を実施する」ことを決定した。

 エイズに感染した直後は、エイズ抗体が陰性の時期(ウインド・ピリオド=約22日間)があるため、抗体検査では感染を特定できない。そのため、エイズ感染を防止するには献血時に正しく申告してもらう以外に方法はない。

 献血者のエイズ抗体陽性者は増加し、平成8年には26人、平成16年には92人となった。平成1110月の段階で、輸血による感染が原因と思われるエイズ例が5件確認されている。平成11年からは、エイズ抗体が陰性であっても、より感度の高い核酸増幅検査が導入され、平成14年までに6例の献血血液が排除されている。

 献血という善意に隠れ、献血でエイズの検査を行うという不埒(ふらち)な者がいるが、たとえエイズ感染が判明しても感染者には告知しないことになっている。検査目的の献血やエイズの可能性のある人は、絶対献血を行ってはいけない。

 献血の検査ではエイズ感染の有無は本人に通知されないが、B型肝炎、C型肝炎、梅毒については本人に通知されている。このほか平成11年からは、成人型Tリンパ性白血病について抗体検査で異常があった場合、本人の希望があれば通知することになっている。

 

予防接種のミス昭和62年(1987年)

 昭和621127日、東京・品川の区立御殿山小学校(児童数約400人)で、インフルエンザの予防接種が行われた。予防接種は品川保健所からの委託で、同区医師会の3人の医師が希望者155人にインフルエンザの予防接種を実施した。その際、1人の開業医(47)が注射針を交換しないまま、20人の児童に次々と注射していたことが分かった。

 注射針を交換するのは、B型肝炎などの感染症予防のためで、予防接種では注射針の交換が義務付けられていた。予防接種は校医と開業医で行われたが、1人の開業医は注射針をアルコール綿でふいただけで6年生20人に接種していた。

 帰宅した児童から話を聞いた父母らが、学校に抗議して事件が表面化したのである。保健所と医師会は事態を重視し、父母を集めて緊急の説明会を開き謝罪した。さらに児童らの血液検査を約束して実施した。

 血液検査の項目はB型肝炎キャリアかどうかを調べるためのHBs抗原抗体検査、さらにはエイズ検査にまで広げることになった。幸いなことに全員がマイナスだった。

 昭和33年に改正された予防接種法では、注射針は被接種者ごとに取り換えなければならないとされている。今回ミスを犯した医師は、医師歴20年のベテランだったが「予防接種は今回が初めてだったので、針の交換を忘れてしまった」と謝罪した。注射針の交換は予防接種だけではなく、日常診療でも常識である。忘れてしまったというよりも、注射針を交換するという基本が念頭になかったのではないだろうか。

 

【老人相手の主婦売春】昭和62年(1987年)

 売春は世界最古の商売と言われているが、驚くような新手の売春クラブが摘発された。昭和62911 日、大阪府警は独り暮らしの高齢者を相手に売春目的で主婦を紹介していたデートクラブ「ファミリー青山」を摘発した。「ファミリー青山」の経営者・麻生敏子(39)は半年間で900万円を稼いでいて売春防止法違反の疑いで逮捕された。麻生敏子は大阪の繁華街十三で自ら売春を行っていたが、その後「ファミリー青山」を設立。客は60歳から70歳が中心で摘発までに延べ400人が利用し、最高齢は81歳であった。売春を行ったのは中年主婦約50人で、売春の経験のない離婚した女性が多かった、高齢化社会、増える離婚を背景にした新種の売春であった。新大阪駅近くのマンションにクラブを開き、1回(2時間)23千円で客を取り、このうち7千円をクラブに納めることで、主婦と契約をしていた。スポーツ紙に「熟女募集」の広告を出して主婦を集め、「熟女ご紹介します」で客を勧誘していた。

 客は妻に先立たれた独り暮らしの会社員が多く、利用老人は「特殊浴場に行っても若い娘は不親切で、ここを利用していた」と述べ、主婦らと交際するだけで満足していたお年寄りも多くいた。相手をした主婦は生活費や子供の学費のため、普通のパートより短時間で稼げるために応募してきた。顧客名簿には客の好みが書かれていて、麻生敏子はポケットベルを使って主婦と連絡を取っており、営業時間は主婦の外出しやすい昼から夕方であった、

 客は高齢者だけで、高齢者であれば口が固く、摘発さないだろうとの読みがあった。需要があるので供給があるのであるが、老人の性的機能は分からないが、老人といえども性的欲求はある。また性欲を満足させる権利は誰にでもあるはずで、この事件をシルバー売春と笑ってしまってはいけない。

 

【合成洗剤】昭和62年(1987年)

 昭和6212月、徳島県でフロ掃除に「塩素系洗剤と酸性洗剤を一緒に使い」、54歳の主婦が塩素ガスによって死亡する事故が起きた。2種類の合成洗剤を混ぜ合わせたため塩素ガスが発生したのだった。塩素ガスは戦争で毒ガスとして用いられたことがあるほどで、市販の洗剤で猛毒が発生したのだった。日本では初めての死亡事故で、厚生省や業界はこの事故を重視し、洗剤の容器には「併用不可」の表示を張るなどの改善策を設けた。

 しかし平成元年129日、長野市内でも、塩素系洗剤と酸性洗剤を一緒にふろ場を掃除に使っていた42歳の主婦が死亡する事件がおきた。「中毒情報センター」は、死亡に至らないまでも入院などの例は少なくても1年間に19件あったと報告し、この事件は世間に大きなショックを与えた。

 通常の洗剤は中性であるが、強力な汚れを落とすためには強力な洗剤が必要であった。漂白剤やカビ取り剤、排水パイプ用洗剤は塩素系で、トイレ用洗剤には酸性タイプとアルカリタイプがあった。そのためトイレやふろの掃除で塩素系と酸性系の家庭用洗剤を併用すると塩素ガスが発生し、ガスを吸い込んだ主婦が犠牲になった。塩素系漂白剤の主成分は次亜塩素酸ナトリウムで、この次亜塩素酸ナトリウムが酸性になると塩素ガスを発生したのだった。軽度の場合は、涙やが出たり、吐き気、目やのどの痛みなどであるが、重症になると失明、さらに死亡に至る。合成洗剤の危険性が大きくクローズアップされた。

 塩素系洗剤と酸性洗剤を一緒に使うと有毒な塩素ガスが発生すると容器に書いてあったが、意識して見ない限り目立たないうえ、使用者にとってどの程度危険なのかわからなかった。また消費者のほとんどは注意書きなどを読まず危険性の認識もなかった。

 日常生活の中で危険なものを売っている以上、小学生でもわかるようにするのが最低条件であった。通産省は表示の見直しを行い、平成23月からはすべての製品の表ラベルに、「まぜるな危険」の赤字の大書表示を義務付けた。もちろん混ぜるだけでなく、前後して使用した場合にも同じような危険性があった。

 

【がんの特効薬事件】昭和62年(1987年)

 昭和62年1月20日、警視庁保安二課と高井戸署は元日本獣医畜産大教授・原忠孝(68)を薬事法違反(医療品の無許可販売)の容疑で逮捕状を取った。

 原忠孝がコハク酸を「がんの特効薬」と称して末期がん患者らに販売、1億数千万円を荒稼ぎしていたからであった。事件発覚時、原は捜査を察知してニューヨークに逃亡していたが、警察は帰国を待って取り調べた。

 原忠孝は、昭和20年に東大農学部を卒業し、昭和37年にコハク酸に関する研究で博士号を取得。日本獣医畜産大の助教授になり、昭和44年から54年まで教授を務めていた。一方、昭和51年から、コハク酸に炭酸カルシウムを混ぜた錠剤840万錠を、佐賀県鹿島市の製薬工場で製造していた。そしてこの錠剤を「コハク酸錠」と名付け、厚生省の許可を受けずに「がんや肝臓病に効く」として、1袋(360錠)1万円で販売していた。首都圏で1万3000袋を売り、1億数千万円を稼いでいた。

 コハク酸には魚介類の脱臭作用があり、食品添加物として使われている。原忠孝は「動物実験で制がん効果を発見した」と称して販売していた。昭和52年に、薬事法違反で静岡県警に検挙されていたが、その後も販売を続けていたのである。

 派手な宣伝はしていなかったが、ワラにもすがりたい末期がん患者の間で、口コミで伝わっていた。ただコハク酸の制がん効果は疑問視され、患者からも「さっぱり効果がない」と苦情が出ていた。このため警視庁が内偵、製造工場や自宅など数カ所を家宅捜索していた。原忠孝と共謀してニセ制がん剤販売を行っていたとして、妻のフサエ(53)、二男の忠人(42)、秘書の松田省三(44)も薬事法違反で東京地検に書類送検された。

笑気ガス医療事故】昭和62年(1987年)

 昭和621222日から24日にかけて、佐賀県嬉野町(現嬉野市)の国立嬉野病院で、笑気ガス(麻酔ガス)を送る管と酸素を送る管が、逆につながれる配管ミスがあった。そのため手術を受けた女性(77)と小学4年生(9)が相次いで死亡した。患者は2人とも整形外科で簡単な手術を受けたが、麻酔を止めても意識は戻らずに死亡した。不審に思った病院が調べたところ、手術室の配管にミスがあり患者は酸欠で死亡したのだった。

 国立嬉野病院は病棟の改築で、第二手術室の横に機械室を移すため天井の酸素と笑気ガスの配管工事をしていた。この際、工事業者が2つの配管を間違えてつないだのであった。配管ミスはヒューマンエラーの典型であるが、病院側は完成後に義務付けられている検査をしていなかった。

 笑気ガスは麻酔薬で、酸素と混合して全身麻酔に使用する。「手術の初めは笑気ガスを多く酸素を少なくし、手術が終われば反対に酸素を多くする」。しかし配管を間違えたため、酸素を多くしたつもりが笑気ガスを多く流したのであった。この事故以降、笑気と酸素の「ボンベの差し込み口の形状を変え、ボンベも色分けする」ことになった。厚生省は、医療機関内に「医療ガス安全・管理委員会」を設置させ、ガス設備の保守点検や施工管理に責任を持つように通達を出した。

ホテル食中毒事件】昭和62年(1987年)

 昭和62年8月21日の早朝、午前5時ごろのことである。東京千代田区紀尾井町の赤坂プリンスホテルから宿泊者が嘔吐、下痢などの食中毒症状を呈しているとの通報があり、救急車の要請がなされた。

 当初、関係者は単なる急性胃腸炎の患者が発生したと軽くとらえていた。しかし、嘔吐、下痢を訴える宿泊者は、時間とともに加速度的に増加し、救急車の要請が頻繁になされた。午前7時には、ホテルの駐車場に仮設の救急本部が設置され、27台の救急車がホテルと病院をピストン輸送で患者を運んだ。

 症状の軽い人はホテルが用意した部屋で休憩を取り、治療が必要な人は救急車で次々と担架で病院に運ばれた。症状の急変に慌てて救急車に乗り込む人もいて、結局、152人が都立広尾病院、厚生年金病院、警察病院など32カ所の病院に搬送され95人が入院することになった。赤坂プリンスホテルは、新館の14階に救護所を設け、都内の病院から3人の医師の派遣を受け、診察に大わらわとなった。赤坂プリンスホテルは一流のホテルであるが、まさかこのような大規模な食中毒事件に発展するとは想像していなかった。

 食中毒の被害者は、前日からホテルに宿泊していた化粧品販売会社の女性マネジャーたちであった。彼女たちは、前日に会社が主催した研修会「サマーゼミナール」に参加し、年に1度の研修会が終わると、全員が夕方より催された新館2階のクリスタルパレスでの慰労会を兼ねた夕食会に出席した。

 都衛生局は、そこで出されたフランス料理のフルコース(8品目)が食中毒の原因とみて、調理場に残っていた料理などを調べた。ディナーのメニューは、魚介類のクレープ巻き、冷製ソラマメのクリームスープ、魚のスリ身、牛ヒレ肉包み焼き、マッシュルームサラダだった。

 都衛生局はそれらの料理を都立衛生研究所に持ち込み、さらに患者の検便などを行った。その結果、エビ・カニ・小柱などをマヨネーズであえた「海の幸クレープ包み」から腸炎ビブリオ菌を検出。また患者の検便からも同菌を検出した。腸炎ビブリオ菌がどの魚介類に含まれていたかは特定できなかったが、厨房(ちゅうぼう)で調理されて、テーブルに並べられた「海の幸クレープ包み」による食中毒であることは間違いなかった。

 腸炎ビブリオは、温度が10度以上になると8分で倍に増える。腸炎ビブリオによる食中毒を恐れていては刺し身も出せないが、腸炎ビブリオの食中毒は、調理後も低温保存すれば予防できるのである。

 なお腸炎ビブリオ菌は冷凍しても死なないため、死滅には63度で30分以上の加熱が必要である。今回の惨事は、海の幸クレープ包みが1時間以上も室内に放置されていたことが原因であった。8月25日、赤坂プリンスホテルは食品衛生法違反で10日間の営業停止処分を受けた。

 

エイズ妄想殺人事件昭和62年(1987年)

 東京都江東区内の主婦(37)は体調がすぐれず、体重減少と微熱が続くことから、自分がエイズ(後天性免疫不全症候群)にかかっていると思い込んでいた。この事件は、ちょうど神戸でエイズパニックが始まったころのことだった。

 病院で診察を受けたが検査は陰性であった。しかし病院が検査結果を隠していると思い込み、自分だけでなく家族の体調がすぐれないのも、自分がエイズをうつしたためと信じるようになった。

 昭和62年4月30日未明、無理心中を図ろうとして主婦は柳刃包丁を持ち出し、長女(13)、長男(9)を殺害、夫(37)にも重傷を負わせた。この主婦に対し、村上光鵄裁判長は、「身勝手で無残極まる犯行だが、当時被告はエイズに感染したという妄想に取りつかれ、心神耗弱状態にあった」と述べ、懲役8年の求刑に対し、懲役5年の実刑判決を言い渡した。

 

アスベスト昭和62年(1987年)

 昭和62年、アスベスト(石綿)を含んだベビーパウダーが販売されていることが判明、回収されることになった。この事件をきっかけに、アスベストが社会問題に発展してゆくことになる。

 当時、アスベストが石綿肺や悪性中皮腫(肺がんの一種)の原因になることは、研究者の間では常識であった。悪性中皮腫という疾患は、治療法がなく死に至ることから、欧米ではアスベストは「キラーダスト」と恐れられていた。

 昭和30年ごろから40年ごろまで、アスベストは学校の校舎、体育館、寄宿舎や集合住宅などの壁や天井に盛んに使用されていた。断熱効果、絶縁性、防音効果、加工性に優れ、値段が安かったため、年間35万トンのアスベストが輸入され使用されていた。またアスベストは建物だけでなく、ストーブのしん、魚を焼く網、自動車のブレーキなどにも使用されていた。

 アスベスト繊維は非常に軽く細いため、吹き付けられた天井からアスベストがはがれ落ち、空中を浮遊するアスベストを吸い込むと肺から排除されず、これが長期間にわたって肺細胞を傷つけ、肺がんを引き起こすのだった。

 このことが公表されると、「アスベストによる学校パニック」が起き、アスベストの撤去工事が始まった。しかし撤去工事のガイドラインがないため、作業者の安全や周辺地域への配慮がないまま工事が行われ、そのためアスベスト隠し、撤去工事隠しなどと非難された。

 吹き付けアスベストは、昭和50年に禁止されていたが、撤去までは行われていなかったのである。平成元年の大気汚染防止法でアスベストは特定粉塵に指定され、工場からの排出が規制され、自動車のブレーキに使用されていたアスベストも禁止され、ノンアスベストブレーキに代わっている。しかし規制が遅れたため、まだ大気汚染の原因となっている。

 平成7年の阪神・淡路大震災で、壊れたビルやがれきの解体によるアスベスト飛散が報告された。防じんマスクが使用されたが、その効果は明らかではなく、ビルの解体には十分に注意することが必要である。

 労働省はアスベスト規制を強化し、平成7年4月から毒性の強いクロシドライト(青石綿)、アモサイト(茶石綿)の製造、輸入、使用を禁止した。

 日本の中皮腫による死者は、平成7年に500件、8年に576件、9年に597件、10年に570件となっている。この中皮腫の原因の多くがアスベストが原因とされている。またアスベストは肺がんを引き起こすとされ、毎年数千人がアスベストによる肺がんで死亡していると推測されている。

 意外なことであるが、日本のアスベスト関連死は西欧諸国のデータと比較すると低い数値である。日本におけるアスベスト関連死が低いのは、アスベストの使用が欧米に比べ遅れていたので、アスベストの長期的な蓄積作用を考えると、日本でも今後増加する可能性がある。いずれ欧米に追いつき、追い越すことが予想され、日本の状況は深刻である。日本では、平成12年に肺がんが胃がんを抜いて男性死因のトップとなり、その原因はタバコとされているが、アスベストの関与も忘れてはいけない。

 

【過労死】 昭和63年(1988年)

 過労死とは、長時間の労働や仕事上のストレスが誘引となり、脳出血、くも膜下出血、脳梗塞、心筋梗塞などの疾患を発症して死亡した場合をいう。つまり働き過ぎによる突然死が過労死であるが、突然死の原因を過労に求めることを疑問視する医師もいる。過労死は医学用語ではなく、「使用者が使用人の死に責任を負う」とする労災補償の考えから生まれた行政用語である。

 バブル景気が崩壊するまで、「日本人は働き過ぎ」と国際的に批判され、そのため労働時間の短縮や、企業による従業員の健康管理が強化され、過労死が注目されるようになった。欧米では、過労死に相当する用語がないため、「KAROSI」と報道されている。このように過労死は日本特有の封建的労働によるものであった。

 労務中の事故を労災と呼ぶように、過労死は労災補償との関連から問題になった。死亡の原因が業務上の過労によって生じたのであれば過労死であるが、死亡の原因が過労に起因するかどうかの判定が難しいのである。発病する前の1週間に、過重な業務があれば過労死と認められる可能性が高い。

 昭和63年までは、過労死の認定は申請された全体の1割程度であった。そのため遺族が救済されないケースが多かったが、昭和63年に「過労死110番」が47都道府県に設置され、労災申請の無料相談などが行われるようになり、次第に認定される数が多くなってきた。

 しかしそれでも過労死の基準は厳しく、遺族が救済されないことが多い。そのため労働省は、平成7年2月に従来の認定基準を緩和した新認定基準を設定した。また不整脈による突然死を、新たに対象疾病に加えることにした。

 平成8年3月28日、東京地裁が社員の自殺を過労によるうつ病が原因として、会社に1億2000万円余りの損害賠償を命じる判決を出した。それまでは、主に心血管系の病気が過労死の対象とされていたが、この判決により自殺が過労によるものであれば、過労死として認定されることになった。

 

医師による殺傷事件 昭和63年(1988年)

 昭和63年4月24日、午後8時50分ごろ、仙台市台原の東北労災病院の駐車場で、男たちがケンカをしていると110番通報があった。仙台北署員が駆けつけると、同市の無職村山秀和さん(20)と金融業手伝い伊藤喜章さん(21)の2人が、血だらけになって倒れていた。2人は病院に収容されたが、村山さんは左胸をナイフで刺され死亡。伊藤さんも下腹部を刺されて重体であった。

 まもなく東北大医学部付属病院第三内科の医師Y(31)が現場に戻り、「私がやった」と名乗り出たため、殺人の疑いで緊急逮捕となった。ケンカの原因は、駐車場に入れようとしたYの乗用車と被害者らの車が接触しそうになったことから口論。Yが持っていたナイフで刺したのであった。

 Yは東北大医学部を卒業後、東北労災病院を経て、同大第三内科に入り、身分は医局員であった。Yはかつて暴走族に襲われたことがあり、そのために護身用にナイフを持っていたのである。Yは仙台高裁で懲役4年の刑が確定し、医師免許の取り消し処分となった。

 

ケフラール 昭和63年(1988年) 

 昭和63年6月26日、朝日新聞は第1面で医薬品の中でトップの売り上げを誇る内服薬の抗生剤セファクロル剤(塩野義製薬:商品名ケフラール)が、2000人に1人という高い頻度で、ショック症状を起こすと報道した。この報告は、大阪府松原市の阪南中央病院の浜六郎内科医長と森久美子薬剤課長が、英国の医学雑誌「ランセット」の6月1日号に発表したものである。この新聞記事を読んで、多くの医師たちは驚いた。

 ケフラールは当時、年間9360億円の売り上げを誇るベストセラーの抗生剤で、日常的に使用していたからである。医師の多くは、安全な薬品として患者に投与していたが、もし浜六郎らのデータが本当であれば、1年間に40006000人がショック症状を起こしていることになった。

 阪南中央病院では、昭和52年から患者に投与した薬剤の副作用をコンピューターに登録し、5年間で7972人にケフラールを投与し、4人がショック症状を起こしたとしていた。そのためケフラールの危険率は、ほかの抗生剤の10倍以上と警告したのである。

 またケフラールの副作用による死亡例が公表され、厚生省は医薬品副作用情報にこの症例を掲載、医療関係者に使用上の注意を促した。死亡したのは兵庫県の心房中隔欠損症の女性(44)で、入院中の昭和61年7月、感染予防のためケフラール2カプセルを服用したところ、10分後に全身に発赤が現れ、呼吸困難となった。その数分後に気管支けいれんを起こして心肺停止となり、心臓マッサージ後も意識不明の状態が続き、約2カ月後に他の抗生物質を使用した直後にショック死した。死亡した女性は、ペニシリン系やマクロライド系の薬剤にアレルギーの既往がある上、心臓に重篤な疾患があった。そのため患者遺族と担当医との間で和解が成立していた。

 ケフラールを製造販売している塩野義製薬は、添付文書の中でペニシリン系やセフェム系薬剤に対して過敏症の既往のある者、本人や両親、兄弟にアレルギー体質の人がいる患者には、慎重に投与するようにと注意を促した。また服用後にショック症状や過敏症の副作用が現れることがあると書き加えた。

 このケフラールの危険性を示すデータは、果たして本当なのだろうか。その後、塩野義製薬は1万647例(904施設)を対象に大規模調査を行ったが、ショック症状を起こしたのは1例(0.009%)だけで、ボスミンとステロイドの投与で、4時間後にはすべての症状が改善していた。英国の「ランセット」は権威ある医学雑誌で、この雑誌に掲載されることは医学部教授でさえまれであった。この阪南中央病院の報告が正しいのかどうかは読者の判断に任せたい。

 なおケフラールの危険性を指摘した浜六郎医師は、その後も医薬ビジランス研究所などで様々な薬剤の危険性を指摘している。高血圧は下げない方がよい、コレステロールを減らすと癌になりやすい、インフルエンザ治療薬タミフルの薬害などを警告している。

 現在の医療は科学的証拠に基づいて議論され、集めた科学的証拠をどのように解釈するかで意見が分かれる。多くの科学者や医師と、浜六郎医師の考えとは違っているだろうが、真実を知る上でも、浜六郎医師の意見を無下にすることはできない。むしろ浜六郎医師の意見を参考に薬剤の副作用を考えるべきである。

 

【ホパテのニセ薬事件】昭和63年(1988年)

  昭和58年に、田辺製薬が開発した脳代謝機能改善薬・ホパテが認知症の治療に用いられ、年間160億円を売り上げるまでになった。ホパテの薬効は別としても、いわゆるボケの治療薬として、昭和61年の売り上げは全医薬品中25位であった。

 昭和63年4月、この人気薬剤ホパテのニセ薬が、東京都内で出回っていることが分かった。東京神田の医薬品現金問屋から、厚生省と警視庁に「ホパテの500グラム缶70個を404万円で購入したが、偽物らしい」と通報があった。厚生省の調べでは、粉末の色が本物と比べやや黄色く、添付文書には透かしがなく、製造元の田辺製薬も偽物と断定した。

 通報した医薬品現金問屋は、福岡県宗像市内の薬卸売業者「宗像薬品」から、このホパテを市場価格の半値で購入していた。警視庁は、宗像薬品の佐々木義視(41)の事情聴取を行い、昭和63428日逮捕した。

 その後、このニセ薬事件の詳細が明らかになった。初めは、神田の医薬品現金問屋が全国の卸売業者に「ホパテがあれば買います」というダイレクトメールを送っているのを見た佐々木がニセ薬を売っていたとされた。しかし佐々木は単なる使い走りにすぎず、警視庁は、黒幕として医薬品ブローカー斉藤隆信(38)を薬事法違反の疑いで逮捕した。

 斉藤隆信は、福岡市内のレストランで佐々木にニセホパテの売り込みを依頼。その場で、神田の医薬品現金卸業者に電話をさせた。売上金のうちのほとんどが斉藤隆信に渡っていた。

 ニセホパテ缶の中に残されていた効能書から、斉藤隆信の指紋が見つかり、斉藤がニセ薬の中心人物であることが分かった。さらにニセ薬製造に関連し、福岡県の医薬品販売会社社長の諸永敦好(53)と土木作業員武谷宗浩(51)が薬事法違反で逮捕。また福岡市東区の薬剤師川辺亮(46)と同市中央区の医薬品ブローカー草井秀樹(56)も逮捕された。

 主犯の斉藤隆信と薬剤師の川辺亮が共謀してニセ薬の製造を指示。実際には、草井らが缶容器に小麦粉などを詰めニセホパテを製造していた。彼らは約2000缶のニセ薬を販売しようとして、医療機関にも流したが、患者に投薬されたケースはなかった。

 結局、犯行グループは小麦粉や白玉粉、かたくり粉などを詰めたニセホパテ約2000缶を製造して、うち70缶を販売、312缶を借金の担保として約2000万円を稼いでいた。斉藤はニセホパテを担保に、北九州市内の金融業者(40)から100万円を借りていたのだった。

 これまでに発生したニセ薬事件としては、昭和59年に抗がん剤のクレスチン、昭和60年には胃潰瘍剤のアスコンプなどがある。ニセ薬事件が露見するのは、多くは医薬品現金問屋においてである。現金問屋は取引価格が極端に安い医薬品に対して、自主規制、自主検査を行っていて、今回のニセホパテもそのために発覚した。

 最近では、バイアグラやリピトールなどのニセ薬が出回っているが、その多くが外国から輸入品である。特にインターネットで買うことが出来るバイアグラは半数が偽物とされ、それが暴力団の資金源になっている。

 ところで、医薬品現金問屋はなぜ存在するのだろうか。現金問屋に売る側としては不良在庫処理のため、現金で裏金をつくれるため、大量に安く仕入れた薬剤を高く売り利ざやを稼ぐなどの理由がある。一方、買う側としては、薬を安く仕入れるメリットがあった。

 かつてのバッタ屋のような医薬品現金問屋は少なくなったが、最近では外国で安く仕入れた薬剤を日本で高く売る方法が生まれている。いずれにしても、薬剤の流通を正す必要がある。そのため薬剤にICタグを付けようとする動きがある。