平成10年から19年

 平成9年、バブルの後遺症にアジアの通貨危機が加わり、日産生命、山一証券、北海道拓殖銀行、日本長期信用銀行などが破綻し、銀行は合併を繰り返して日本経済の雲行きは一段と暗くなった。企業は終身雇用制度を見直し、リストラと非正社員採用で人件費を抑制し、正社員には過労を、非正社員には低賃金と不安定な生活を強いらせた。小渕内閣は総額40兆円を超える経済対策を実施し、大量の国債を発行して「世界の借金王」を自称したが、将来への悲壮感はなかった。

 小渕首相が脳梗塞で死去し、森喜朗首相が失言で失脚し、平成13年に「自民党をぶっ壊す」と叫んだ小泉純一郎が圧倒的国民的支持を得て総理大臣に就任した。小泉内閣は日本再生のため「聖域なき構造改革」を掲げ、市場原理主義と規制改革、スクラップとビルドによる経済活性化を図った。小泉内閣は一時的に個人消費を拡大させたが、市場原理主義が弱肉強食の格差社会を生み、拝金主義のヒルズ族がもてはやされ、その一方で、非正規雇用のワーキングプアーをつくった。小泉内閣は三位一体改革で7兆円の地方財政を減らし、平成の大合併で由緒ある地名の半分を記号同然の地名に変えた。また一方では、平壌に乗り込み30年間放置していた日本人拉致問題に着手し、北朝鮮から5人の帰国解放を実現させた。

 平成13911日、イスラム過激派アルカイダにより同時多発テロが発生、アメリカはイラク戦争でフセイン政権を打破するが、イラクの秩序を維持できず、世界の警察を自認しているアメリカは、宗教の自由と宗教テロという難問を抱えることになる。

 平成14年、政府は「いざなみ景気」を超えたと自慢し、大企業は設備投資、日銀は量的緩和、中小企業は労働力不足を訴えるたが、それは一時的な景気の回復であって、国民にとっては実感なき景気回復、幻想的景気回復であった。むしろ人材派遣業法の成立、人件費削減のため正規雇用の縮小、金融機関の貸し渋りが、日本社会を締め付けることになった。

 国民の多くは「日本を経済大国」と思い込んでいたが、平成12年に世界第2位であった一人当たり国内総生産が、平成20年には19位に急落していた。失われた10年と自嘲的に言っている間に経済は低迷し、地方活性化を言う度に地方の商店街はシャッターを閉じていった。

 世界各国の個人所得は倍増していたが、平成209月のアメリカ発のリーマン・ショックで景気は一気に悪化した。数年前まで見下していた中国経済は急成長し、10年前に国家破産となった韓国は蘇り、さらにアジア諸国の台頭により日本製品のシェアは低下し、日本の経済は中国経済に依存するようになった。

 日本経済の凋落は政治の無策によるものと思いがちであるが、賃金の安い国に製造業が海外に移動したこと、高齢化により扶養人口が増えたこと、資源のない日本が技術と学問をおろそかにしたこと、競争社会を否定した教育が若者と企業の活力を奪ったことなど、これらが複合的に重なったせいであろう。

 平成12年に介護保険制度が実施され、介護の問題は解決したかにみえたが、実際には財政難から介護保険は危機的状態に陥っている。日本の人口構造は、かつては年齢とともに人口が減少していく「ピラミット型」であったが、中高齢者が多く年少者が少なくなり「つぼ型」となり、さらに少子高齢化が進み、現在では「逆ピラミット型」になっている。

 生産者人口が半分になれば労働者の負担は倍になり、高齢者が倍になれば労働者の負担は倍になる。つまり少子高齢化は倍かける倍、4倍の社会保障費(養うための必要経費)を労働者に課すことになるが、4倍の負担など出来るはずもないし、また負担しようにも雇用がない。このような構造を抱えながら、大衆は不満のやり場を政治に向け、小泉純一郎内閣から安倍晋三、福田赳夫、麻生太郎と自民党政権は次々に変わり、さらに平成218月の衆議院選挙で「政治主導、国民の生活が第1」を掲げた民主党が308議席を得て大勝し、自由民主党は議席を300から119議席に減らして結党以来初めて第1党の座を失い、民主党政権が誕生した。鳩山内閣の友愛政治は高い支持を受けたが、政治資金と沖縄米軍基地の問題から9か月で崩れ去った。管内閣に交代したが、政治は混迷したままである。

 国民は民主党政権に大きな期待を抱いていた。しかし負担を嫌っては何も解決しない。医療、介護、年金などの社会保障の財源を、誰がどのように負担するのかを決めなければいけない。沖縄米軍基地についても「少なくても県外」と公言しながら、沖縄県民の気持ちを踏みにじることになった。

 政治家は耳に心地よい言葉を並べ、官僚は意味不明の言葉を並べ、評論家は職業病の空論を述べるだけでは何も解決しない。国民は政治不信、生活不安に陥り、政治の貧困は人心の貧困を招き、動機なき無差別通り魔事件、弱者を犠牲にする事件が多発するようになった。かつての犯罪には貧困、金銭、欲望、怨恨などの動機があり、犯人には苦悩、後悔、改悛の気持ちがあった。しかし平成10年以降の犯罪は、人間としての感情や精神が壊れているような非人間的かつ短絡的である。事件が世相を反映するのなら、日本そのものが壊れているのかもしれない。

 日本の労働時間はアメリカより少なく、温室育ちの若者にたくましさは見られない。小学生の勉強時間は江戸時代の寺小屋より少なく、学力は国際的にも低いレベルである。また拝金主義がモラルの低下を生み、共通一次試験が思考力を奪い、学校から競争を排除したことがやる気を削ぎ、貧困が貧困な心を生んだとも分析できる。

 人口構成が「ピラミット型」から「逆ピラミット型」に変わったのは時代の流れである。しかし恐ろしいのは、「逆ピラミット型」でもひとり1人がしっかりしてれば問題はないが、ピラミットの土台がシロアリに食われ、「逆ピラミットシロアリ型」構造になり、日本が根本から崩れることである。このシロアリを駆除するには、シロアリの生態を点検し、適切な駆除によって、建設的に改革を行うことである。日本はこのまま衰退するのか、再生するのか、これまでの歴史において衰退時に悲劇を味わうのは、常に弱者と若者であることを忘れてはいけない。

 

 

 

前橋市5人殺傷事件 平成10年(1998年) 

 平成10年4月24日の夕方4時頃のことである。前橋市内に住む47歳の無職の男が、約40分の間に親類宅、前橋赤十字病院、歯科医院の3カ所を回り、親類や看護師ら5人を次々と包丁で刺し1人を死亡させた。

 男は午後4時過ぎ、前橋市の自宅にいた叔母の吉田いし子さん(75)をステンレス製の包丁で刺し、屋根に逃げた吉田さんの長女が助けを求め110番通報。次ぎに男は500m離れたいとこの不動秀子さん(47)宅に押し入り、逃げようとした不動さんを包丁でめった刺しにした。

 さらに約25分後、男は約4km離れた前橋赤十字病院にレンタカーで移動。新病棟のナースステーションで看護師に「母親の主治医はいるか」と言い、看護師が「ここにいないので呼んでくる」と答えた直後、看護師の高野よしえさん(38)と大沢忠さん(32)に包丁で襲いかかった。その約10分後、男は病院から約800m離れた林歯科医院へ行くと、診察中だった林栄世院長(50)を、背後から「先生」と声を掛け包丁で2度刺した。

 通報を受けた前橋東署は、緊急配備を敷いて男の行方を追い、同日午後4時55分、林歯科医院から約4km離れた路上で男の身柄を確保した。殺人容疑で逮捕されたのは吉田幸男(47)で、首や腹に軽いけがをしていたが、それは自殺を図ったためらい傷であった。

 胸と腹を刺された不動秀子さんは出血性ショックで死亡。叔母のいし子さんは軽傷だったが、看護師の高野さんと大沢さんは胸を刺され重傷を負った。背中など2カ所を刺された林院長は重体となった。

 吉田が親戚の2人を殺傷したのは、相続をめぐるトラブルからであった。母親の病死は、養父の遺産を相続できなかったことによる生活苦と思い込んでいたが、養父にはもともと財産はなかった。死亡した不動さんの遺族は、約3900人から極刑嘆願書を集め死刑を訴えた。

 前橋赤十字病院が狙われたのは、吉田の被害妄想からであった。吉田と同居していた母親が糖尿病を患い、同年2月に前橋赤十字病院に入院、吉田は病院で母親の点滴を引き抜くなどして暴れたため母親は一時退院となった。その後、母親の容態が悪化。そのため民生委員が仲立ちになって、前橋赤十字病院は吉田が病院を訪ねないことを条件に、再入院を受け入れた。ところが4月9日に母親が心不全で死亡すると、吉田は「病院で間違った注射を打たれ、母親が死亡した」と邪推し、病院に何度も出向いては暴れていた。その都度、警察が駆け付けていた。このように吉田の犯行動機には典型的なマザーコンプレックスがあった。林歯科医院には、差し歯の治療で通院していたが、吉田は歯がガタガタになったと林院長を恨んでいた。

 前橋地裁で検察側は「残虐で計画的な犯行で、犯行を正当化する主張に酌量の余地はない」として無期懲役を求刑。弁護側は「人格障害が犯行の大きな原因になった」として情状酌量を求めたが、精神鑑定では「妄想性人格障害だが、自分の行動を制御できない状態ではなく、責任能力がある」と診断された。

 平成11年3月16日、前橋地裁の広瀬健二裁判長は、「地域住民の受けた衝撃や恐怖感は大きく、結果の重大性から極刑に値する大罪である」と述べ無期懲役の判決を下した。吉田被告は同日控訴したが、上告は棄却され刑が確定した。

 

 

 

体外受精問題 平成10年(1998年)

 平成1066日、長野県下諏訪町の諏訪マタニティークリニックの根津八紘(やひろ)院長が、不妊に悩む夫婦に、第三者(妻の妹)から卵子の提供受け、夫の精子と体外受精をおこない、受精卵を妻の子宮に戻してで双子の男児を出産させたことを明らかにした。妻以外の卵子を用いて、遺伝的には母子関係にない子を妊娠させたのは日本で始めてのことであった。

 日本には「夫婦以外からの卵子の提供を禁止する」という法律もなければ、国のガイドラインもなかった。あるのは日本産科婦人科学会が決めた「体外受精の対象者は夫婦に限る」という会則だけである。日本産科婦人科学会は、根津八紘院長の確信犯的行為に対応を迫られ、臨時評議会を開いて評議員369人中358が除名に賛成、反対3,白票1で根津八紘院長を除名にした。

 今回出産したのは30歳代の夫婦で、早期卵巣不全にて妊娠できず、夫婦の希望で妻の妹から卵子を提供してもらったのだった。排卵誘発剤を妹に投与し、卵巣から複数の卵子を採取し、夫の精子と体外受精させ、受精卵3個を妻の子宮にいれ、妻は双子の男児を帝王切開で出産した。

 欧米では夫婦以外からの卵子提供は法律で認められていたが、日本では、昭和58年、日本産科婦人科学会が卵子の提供を会則で禁止していた。しかし一方、夫以外の精子を用いる人工授精は認められていて、男性が不妊の場合には第三者からの精子提供は許されていた。他人の精子で出産した子供は1万人以上とされ、「精子バンク」さえ作られていた。根津院長は「精子の提供は認められているのに、卵子の提供を認めないのは矛盾している」と述べたが、それは当然の理屈であった。

 医学が進歩し、海外では卵子提供が行われているのに、日本では法的整備はなされず、学会がつくった会則にしばられていた。学会は根津八紘院長を除名にして決着を図ろうとしたが、時代の流れに合わせて、他人からの卵子提供を可とするか、実施するにはどのような倫理基準が必要かを検討すべきとの声が出てきた。

 不妊に悩む夫婦が約1割いることは事実で、不妊治療を受けても妊娠できない夫婦がいることも確かである。今回、根津院長が問題提起を含めて事実を公表したが、実際には非夫婦間の体外受精は秘密裏に行われていた。

 根津八紘院長があえて非夫婦間の体外受精を公表したのは、「倫理的、社会的問題を日本産科婦人科学会にゆだねていることが問題で、法的整備をしてもらうため、幅広く議論してほしい」との気持ちからだった。

 日本産科婦人科学会の内規を簡単に破られてしまった学会の面子(めんつ)から、学会側は「ガイドラインを守っている会員は怒っている」などと批難したが、根津院長は学会からの除名処分について「学会の会則は、同好会の内規のようなもの。私を処分している場合ではないだろうと」と、平然としていた。

 学会側が、体外受精のガイドラインの見直しについては議論せず、不妊治療の議論を先送りして感情的除名処分を行ったことに批判もあった。日本では法的整備が遅れていた。そのため、不妊患者を海外に斡旋する業者が存在していた。

 代理母出産については、学会でも認めず、厚生労働省の審議会でも認めず、法は未整備のまま日本では実施されないことになっている。そのためタレントの向井亜紀さんが海外での代理母出産を依頼することを公表。しかし向井亜紀・高田延彦夫妻が代理母出産によって得た子供の戸籍上の扱いが問題になった。

 さらに平成18年、根津八紘医師が、母親が女性ホルモンを投与して、娘のために代理母になったことを発表した。さらに根津医師は15例の代理母出産をさせていたことも発表した。また平成205月に、野田聖子議員らが代理出産を条件付で認める法案提出を決めたが、実現には成立していない。

 日本において、子宮の疾患などによる不妊女性は20万人とされ、自らの子を授かるには代理出産以外に方法がない。代理母出産には様々な問題があることは事実である。しかし例外的問題はあくまで例外であり、問題を列挙すればそれだけ代理母出産が遠のいてしまう。

 平成22年9月、野田聖子議員は米国で卵子の提供を受け、受精卵を子宮に移植して、妊娠したことを発表した。野田聖子議員が米国で代理出産を行ったのは日本での法律の未整備からであろうが、合法とも違法ともいえる日本の代理出産の法的整備を願うものである。

 

 

 

ドクター・キリコ事件 平成10年(1998年)

 平成101212日午後1時頃、東京都杉並区の無職の女性(24)に宅配便が届いた。女性は母親に「友人からクスリが送られてきた」と言って、自分の部屋にこもった。午後3時頃、女性が倒れて痙攣しているのを母親が発見。女性は「宅配便で届いたカプセル6錠を全部飲んだ」と言って意識を失った。母親はすぐに119番通報し、女性は救急車で杏林大病院救命救急センターに運ばれた。この女性の自殺がドクター・キリコ事件のきっかけであった。

 この女性は精神的に不安定な状態で、精神科への入退院を繰り返していた。それまで何回か薬物による自殺未遂を図っていた。遺書はなかったが、家族には死にたいと漏らしていた。宅配便には「草壁竜次」という送り主の名前と携帯電話の番号が書かれていた。救命救急センターの担当医が宅配便に書かれていた電話番号に連絡すると、男性が「青酸カリ入りのカプセル6錠を送った。純度の高い青酸カリなので確実に死にます。もし彼女が死んだら自分も死にます」と答えた。

 その後、草壁と名乗る男性から、女性の安否についての問い合わせの電話が、何度か病院にかかってきた。女性は危篤状態のまま、1215日午前2時に死亡した。警視庁捜査1課と高井戸署は、青酸カリの送り主である草壁を調べようとしたが、草壁の名前、携帯電話、銀行口座は偽名だった。1226日になって草壁が札幌市に住む27歳の男性であることが判明したが、その男性は女性が死亡した当日に自宅の2階で自殺していた。

 男性も青酸カリによる自殺だったが、男性の遺体を診た医師は、持病の喘息による病死と判断して警察に届けなかった。男性は荼毘(だび)に付されていたが、病院に残されていた男性の血液から青酸カリが検出された。男性は死亡した女性と面識はなく、インターネット上だけの関係であった。

 警察は草壁竜次と名乗る男性の自宅からパソコンとフロッピーを押収。分析の結果、男性はインターネットを通じて自殺志願者に青酸カリを売っていたことがわかった。銀行口座の入金状況から、平成10年3月から12月までに7人に青酸カリを送っていた。青酸カリを売った7人の相手先を調べると、その1人である東京都足立区の主婦(21)が平成10年7月3日に自殺していた。この主婦は亡くなる1カ月前に3万円で男性から青酸カリを買ったが、主婦が自殺に用いたのは青酸カリではなく睡眠薬だった。

 草壁竜次と名乗る男性は、東京都千代田区の私立大理工学部化学科を卒業した後、札幌市内の医薬品開発研究会社に務めていた。薬剤師の資格はなかったが薬剤には詳しかった。勤務ぶりはまじめだったが、給料が安いことを理由に退職。その後、男性は学習塾の講師をしていた。

 男性は、偽造した身分証明書を用いて薬局から5g660円で青酸カリを買い、5gを約3万円で自殺願望者に販売していた。薬局で「水の成分分析に用いる研究用」と偽って購入した青酸カリは3000人の致死量に相当していた。

 この事件が世間を驚かせたのは、匿名性の高いインターネットで、青酸カリという毒物を自由に売買していたことである。当時、インターネット上に「安楽死狂会」というホームページがあった。このホームページの「ドクター・キリコの診察室」という掲示板で、男性は青酸カリを販売していた。このホームページは、東京都練馬区の主婦(29)が開設したもので、ドクター・キリコの診察室は自殺や精神病に関すること、さらに心中相手の募集、薬物相談などの投稿欄があった。男性はこの掲示板で専属医師を気取っていた。

 ドクター・キリコとは、手塚治虫の人気マンガ「ブラックジャック」に登場する安楽死専門の医師「ドクター・キリコ」から取った名前だった。ブラックジャックは、患者の命を救う医師が主人公であるが、ドクター・キリコは患者の安楽死を手掛ける死神の化身として登場する医師であった。草壁竜次はその医師になり切っていたが、別のホームページ「完全自殺マニアル研究所」で青酸カリを販売しようとして非難され、「ドクター・キリコの診察室」へ移ったのであった。

 自殺願望者に青酸カリを売ることは自殺幇助(ほうじょ)になるが、男性の理屈は違っていた。男性は「青酸カリを、自殺という衝動から自分を守るためのお守り」としていた。「青酸カリがあれば、いつでも死ねるという安心感を持てる」というのがその理屈だった。インターネットの掲示板で「自分にはお守りがある。いつでも死ねると思うと生きていける。お守りが欲しければ連絡ください」と書き、自殺志願者らに販売していた。

 しかし杉並区の女性が青酸カリで自殺したことで、男性の理論は崩れ去った。彼女の死は男性の理屈を裏切り、幻想を現実化させた。妄想に裏切られ、男性は責任を取って自殺したのである。男性は自殺志願者の悩みを聞くドクターを気取り、その心地良さが妄想を走らせていた。警視庁捜査1課と高井戸署は、この男性を自殺幇助容疑で被疑者死亡のまま書類送検とした。

 ドクター・キリコ事件へのマスコミの反応は大きかった。インターネット社会では、顔も声も知らない相手から容易に毒物を買えるのだった。この事件は、新聞やテレビで話題を独占し、ホームページの管理者は「ドクター・キリコの診察室」を非公開とした。

 しかし同様のホームページが次々につくられ、草壁竜次を殺人者扱いにする世間を批判し、彼の行為を擁護する声が数多く書き込まれた。当時、自殺をキーワードで検索すると、2万4000件以上のホームページがヒットし、自殺の仕方を具体的に紹介していた。この事件はインターネット情報が新たな犯罪につながる恐怖を知らしめた。現実社会の裏に隠れた人々の勝手な心情をインターネットが醜くあぶり出した。

 平成10年、インターネットを利用した事件が頻発した。1220日には、東京都板橋区の男性がインターネットで購入したクロロホルムで女性(28)を乱暴。男性は自宅で寝ていた女性にクロロホルムを染み込ませた布を押しつけたが、抵抗されたため逃走した。男性は逮捕されたが、女性の上司だった。この男性にインターネットでクロロホルムを売っていた京都大大学院生・加藤栄一(32)が逮捕され、加藤の銀行口座には10数人からの送金があった。加藤は研究室からクロロホルムを持ち出して販売していた。

 平成11年8月、静岡市の女性(38)が、兵庫県尼崎市の女性が開設した自殺や安楽死をテーマにしたホームページに「死ねる薬ください」とメールを送ると、メールを受けとった女性は、筋弛緩系薬品100錠を郵送した。静岡市の女性は、豊橋市内のビジネスホテルで内服、翌日応答がなかったため救急隊員が室内に入り、倒れている女性を発見。女性は一時重体となったが軽快した。「薬はホームページで知り合った女性から入手した」と話したことから、メールの交信記録から薬品を郵送した女性(32)が突き止められ、自殺幇助未遂の疑いで逮捕された。自殺そのものは処罰されないが、自殺を容易に援助する自殺幇助は刑法202条によって、6カ月以上7年以下の懲役または禁固に処されことになる。

 

 

 

宇多野病院の毒物混入事件 平成10年(1998年)

 平成101028日の朝、京都市右京区の国立療養所宇多野病院(現・独立行政法人国立病院機構宇多野病院)で、コーヒーを飲んだ医師8人が嘔吐などの症状を訴えた。男性医師11人が、病院管理棟2階の医師集談室でコーヒーを飲み、8人が嘔吐やめまいなどを訴えたのである。

 医師の1人は点滴による治療を受けたが、他の医師の症状は軽度で数時間で回復した。連絡を受けた京都府警は、毒物混入事件として捜査を開始した。翌29日、京都府警は電気ポットの湯、飲み残したコーヒーからアジ化ナトリウムを検出。症状がなかった医師が最後にポットの湯を使ったのが8時35分で、最初に症状が出た医師は8時45分に使用していた。つまり犯行はこの10分間に行われたのである。また8時半ころに女性職員がポットに水道水を足していたことが分かった。混入されたアジ化ナトリウムの両は不明であるが、症状が軽度だったことから少量と推定された。

 医師集談室は医師34人が利用しており、医師であれば自由に出入りができた。アジ化ナトリウムは、病院の数カ所の研究室の戸棚や薬品用冷蔵庫に保管されていて、研究用あるいは防腐剤として用いられていた。そのため内部事情に詳しい者の犯行とされた。

 使用されたアジ化ナトリウムには、使用日や使用量の記録はなかった。当時、アジ化ナトリウムは「毒物及び劇物取締法」の規制対象外の試薬で、宇多野病院だけでなく、他の研究施設でも使用記録はなかった。アジ化ナトリウムは単なる防腐剤として気楽に扱われていたのだった。

 平成11年3月7日、京都府警捜査本部は内科医長・石田博(43)を傷害と浄水毒物等混入の疑いで逮捕した。石田博は嘔吐などの症状を訴えていたが、その症状を目撃した者がいなかった。また犯行時間帯のアリバイがなかった。さらに決定的だったのは、尿検査で石田から致死量を超える反応が出たのである。しかも尿検査を提案したのは石田本人であった。致死量を超えるアジ化ナトリウムが尿から検出されたのは、故意に自分の尿に試薬を混入したと考えられた。

 この隠蔽(いんぺい)工作が墓穴を掘ったことになる。石田博は東京医科歯科大を卒業後、京都大大学院を修了し、平成6年4月から宇多野病院に勤務していた。犯行の動機は院内での人間関係や院長との反目とされている。石田は犯行を自白したが、裁判では犯行を全面的に否認し、警察での取り調べが不当だったと主張した。平成15年2月28日、京都地裁の古川博裁判長は、「石田博が混入した可能性は高いものの、第三者による犯行の疑いを完全に排除できない。また警察の脅迫的な自白調書は違法であり信用できない」として、石田博に無罪とした。

 しかし控訴審の大阪高裁では「取調官による脅迫はなかった」として自白調書を証拠として認め、京都地裁の判決を破棄し、審理を京都地裁に差し戻した。差し戻し審議の結果、京都地裁の東尾龍一裁判長は「状況証拠から被告が犯人であることは明らかで、アジ化ナトリウムの毒性を認識しての悪質な犯行」として懲役1年4月の判決を下した。平成20年5月15日、大阪高裁は1審の判決を支持し石田の控訴を棄却した。

 この事件は、石田博が犯人でなければ他の医師が犯人であった。いずれにしても、生命に関わる医師が人命を狙ったことに、患者たちのショックは大きかった。さらに厳格なはずの裁判の判決が「自白調書を証拠とすれば有罪、証拠としなければ無罪」というように、第三者からみれば自白偏重に基づいた裁判官の判断が、無罪から有罪に一転させる裁判の恐ろしさを教えてくれた。

 この事件の被害者は、被害者と呼ぶにはあまりに軽症であったが、自白を証拠として採用するかどうかで裁判は10年近く長期化した。その長期化が刑罰以上の苦痛を石田に与えたのではないだろうか。

 アジ化ナトリウムは、ナトリウムと窒素の化合物で無色無臭である。水に溶けやすく、防腐剤として研究室や実験室に常備され、研究者にとっては身近な試薬であった。またかつては自動車のエアバッグのガス発生剤として用いられていた。

 アジ化ナトリウムを毒物とする認識は少なかったが、ヒトが飲むと中枢神経系に障害をきたし頭痛や吐き気、めまい、けいれん、血圧の低下などを起こすことが知られている。ネズミを使った実験から、ヒトの致死量は約 1.5gと推測されている。

 最初にアジ化ナトリウムが注目されたのは、この事件の数カ月前に新潟市で起きたアジ化ナトリウム混入事件であった。平成10年8月10日、木材防腐処理会社「ザイエンス」新潟支店で、お茶やコーヒーを飲んだ10人が薬物中毒症状を示し9人が入院となり、事件から半年後に、経理を担当していた男性社員(43)が逮捕された。男性は会社の金を横領し、東京本社の業務指導で横領が発覚することを恐れていた。そのため、業務指導を妨害する目的で23gのアジ化ナトリウムをポットのお湯に入れたのである。男性社員は、社内預金など約300万円を横領して遊興に使い込んでいた。平成111012日、新潟地裁は男性社員に対し懲役2年4月の実刑判決を下した。

 なお新潟市の事件で、被害者は新潟市民病院に搬送されたが、胃洗浄などの治療を行った医師や看護師6人が、胃の内容物から出た有毒ガスで目まいや吐き気などを訴えた。これは毒物を飲んだ患者の治療中に、患者からの有毒ガスを吸った症状であった。このように医療従事者は「中毒患者の治療の危険性を常に想定しなければならない」ことを教えてくれた。

 平成101015日には、三重大生物資源学部の研究室でアジ化ナトリウム中毒事件が起きている。助教授、事務員、学生ら4人が、休憩室でポットの湯を使いコーヒーや紅茶を飲んだ直後に、吐き気や目まいなどを訴えた。助教授はこれ以上被害が出ないようにポットを自室に持ち帰った。

 しかし同大の大学院生栢木奈生実さん(29)が、やかんで湯を沸かして紅茶を煎れ、砂糖を入れて飲んだところ、最も強い症状をおこし入院となった。アジ化ナトリウムは、ポットだけでなく砂糖にも混入されていたのだった。

 この事件の犯人は不明のまま、事件から約4カ月後の平成11年2月22日、奈生実さんが大学の屋上から飛び降り自殺をした。奈生実さんのコートのポケットから「私は絶対にやっていない」と書かれたメモが見つかった。奈生実さんが犯人だったのか、厳しい取り調べを苦にしての自殺だったのかは不明であるが、この事件は未解決のまま時効(7年)となった。

 平成101027日には、愛知県岡崎市にある国立共同研究機構(現・自然科学研究機構)の基礎生物学研究所の休憩室で、お茶を飲んだ助教授や大学院生、事務員ら4人が気分不快を訴え、市立岡崎病院に入院となった。岡崎署はポットの湯からアジ化ナトリウムを検出し、毒物混入事件として特捜本部を設置した。

 基礎生物学研究所は、警備員が出入りをチェックし、暗証番号を入力しないと入れないシステムであった。そのため内部事情に詳しい者の犯行と考えられた。この研究所では、この事件が起きるまでに、教授室や休憩室などで毒物が混入される事件が4件起きていて、そのうちの1件から微量の青酸カリが検出されていた。このことから、岡崎署はのべ1万3000人を超える捜査員を投入、約90人の関係者から事情聴取を行ったが、犯人は分からないままであった。

 このように平成10年の夏から秋にかけ、新潟、三重、愛知、京都でアジ化ナトリウム混入事件が連鎖的に発生した。これらの事件は、同年に起きた和歌山カレー事件後に起きており、和歌山カレー事件の影響によるものと考えられた。

 平成11年1月、厚生省は、アジ化ナトリウムを毒劇物に指定。そのため、平成11年以降の事件としては、アジ化ナトリウムを用いた故意的な犯罪は発生していないが、誤用による医療事故が病院現場では起きている。

 平成14年1月31日、京都府宇治市の宇治徳洲会病院に心筋梗塞で入院していた男性患者(66)に、アジ化ナトリウムを投与され翌日死亡した。尿の防腐剤アジ化ナトリウム1.5gを、検査室の技師が病棟で看護助手に渡し、看護助手は「アジ化ナトリウムです」と言って看護師に渡したが、看護師は臨時の鎮痛剤と思い患者に投与。30分後に容態が急変して翌日死亡した。この医療事故で看護師ら4人が業務上過失致死容疑で書類送検された。看護師長と看護師が業務上過失致死罪で略式起訴され、罰金50万円の略式命令が言い渡された。一方、検査技師と看護助手は不起訴処分となった。 

 平成16年7月、浦安市川市民病院(千葉県浦安市)で、尿検査のために医師が看護師に渡した防腐剤のアジ化ナトリウムを、別の看護師が内服薬と思い、入院していた千葉市の女性(56)に飲ませた。女性は低酸素脳症から重い脳症となり全面介護が必要な状態になった。平成20年2月18日、東京地裁の孝橋宏裁判長は病院側に約9880万円の賠償を命じた。このようにアジ化ナトリウムはありふれた防腐剤であるが、その管理には慎重な対応が必要である。

 

 

 

名古屋大医学部日高元教授事件 平成10年(1998年)

 平成10年8月28日、名古屋地検特捜部と愛知県警は、名古屋大医学部教授・日高弘義(60)とその妻の邦江(60)を収賄容疑で、富士薬品(本社・埼玉県大宮市)の取締役医薬品研究開発本部長・村松宏(57)を贈賄容疑で逮捕した。日高弘義は現金1億2400万円を受け取っていた容疑だった。

 調べによると日高弘義は、同大医学部の薬理学研究室に富士薬品の社員数人を研究員として受け入れ、実験データなどを同社に提供して、その見返りに、平成6年2月から平成10年4月頃までに、計13回にわたり現金1億2400万円を受け取っていた。また日高弘義は日本新薬(京都市)からも 6000万円を受け取っていた。

 現金は、日高弘義と親交がある三重県紀伊長島町の病院理事長(63)が設立した「基礎薬理研究所」(三重県紀伊長島町)や都内のダミー会社3社を通じて、コンサルタント料の名目で支払われていた。基礎薬理研究所では、日高弘義の長男や義母らが役員に就任していた。また銀行口座は実質的に妻の邦江が管理していた。日高弘義と邦江は容疑を否認したが、村松宏は容疑を認めた。

 日高弘義は、名古屋大医学部教授に就任する前の三重大の教授時代に、邦江が社長を務めていた医薬品販売会社をダミー会社として、「アイデア料」の名目で総額約490万円を受け取っていた過去があった。その金は医薬品メーカー4社から出ていたため、文部省から国家公務員法違反(無許可の兼業)で戒告処分を受けていた。

 昭和62年、名古屋大医学部の教授に就任したとき、薬理学教室の前教授は「戒告処分を受けたことのある人物は教授にふさわしくない」と強く反対した。しかし日高弘義は基礎薬理学、特に脳梗塞予防薬研究の権威として知られており、「カルシウムイオンの細胞レベルの研究」では世界的な業績があった。そのため、「世界に通じる研究業績は捨て難い」という声に押し切られたのだった。

 平成9年9月、日高弘義と医薬品メーカーとの癒着が再びささやかれた。名古屋大医学部の胸部外科教授が、愛知県警に収賄容疑で逮捕される事件が発生。そのときに医薬品メーカーから接待を受けた人物として、日高弘義の名前が浮上したのが今回の事件のきっかけであった。

 平成10年8月24日、日高弘義は教授会で、「米国デューク大の教授に就任する」と突然の辞意を表明。それは逮捕4日前のことで、逮捕を予期してのことであった。教授会に出席した教授たちは「日高教授の発言には逮捕されるような動揺は感じられなかった」と述べている。

 新薬の開発は地道で、経費のかかる基礎研究と臨床試験が必要である。そのため、産(企業)と学(大学)との産学協力が必要であるが、産学連携の金銭的な倫理観があいまいだった。

 国公立大の教員にとっては公務員としての職務、研究者としての企業への貢献、これらの兼ね合いが明確でなかったことが事件の下地にあったと思われる。

 名古屋大医学部教授・日高弘義とその妻の邦江が逮捕されが、それ以上の波紋が製薬業界にあった。それは1124日、業界大手の大塚製薬社長の大塚明彦(61)が、贈賄容疑で逮捕されたことである。大塚社長のほかに、常務取締役新薬開発本部長の薮内洋一(53)、元取締役法務部長の川口茂樹(60)の2人も逮捕された。

 大塚製薬は、日高弘義が三重大教授だったときから、社員を研究生として派遣。データを得る謝礼として、日高弘義への裏金として「基礎薬理研究所」(三重県紀伊長島町)を送金していた。さらに大塚明彦社長は日高弘義の都内のダミー会社にも「技術指導料」の名目で、「基礎薬理研究所」と合算して総額7200万円を送金していた。この7200万円がわいろに当たると判断されたのである。大塚明彦社長は、日高弘義と金額などについて直接交渉していた。

 昭和39年、オロナミンCなどで知られている大塚製薬は、祖父の大塚明彦社長が創立した「大塚製薬工場」(徳島県鳴門市)から分離して設立された。大塚明彦社長が昭和52年に38歳の若さで社長に就任すると、ポカリスエットやカロリーメイトをヒットさせ、自社開発の医薬品事業を大きく飛躍させようとしていた。

 大塚製薬は大企業であるが上場はしておらず、労働組合もなく、大塚明彦のワンマン体制を敷いていた。そのためこの企業体質が今回のような贈賄事件を起こしたと批判されたが、その一方で、むしろ大塚明彦自らが新薬開発のために陣頭指揮を執り、主導的に資金提供を行ったと好意的に受けとめる声もあった。新薬開発をめぐるこれまでの贈賄事件は、臨床試験で便宜を図るパターンが多かった。今回の事件のように基礎研究のための金銭授受が問題になったのは異例なことだった。

 平成11年3月、名古屋地裁は日高弘義が大塚製薬など3社から総額2億5600万円のわいろを受け取ったとして有罪の判決を下した。「産学協同制度では、教授個人の報酬は基本的に認められていないが、今回の事件の収賄額は極めて多額で、教育公務員職務の公正さを著しく侵害した」として、懲役2年、執行猶予5年、追徴金2億5600万円が言い渡された。大塚製薬の大塚明彦は、懲役1年8月、執行猶予3年の判決であった。

 製薬業界が、大学の研究者と協力しながら新薬の研究を進めることは、海外では当然のことである。大学の頭脳を活用したい企業側にとっても、資金不足の研究者にとっても、お互いに利点があった。この利点について、金銭授受を理由に有罪とされたのである。

 この事件は、研究者の道徳観の欠如、営利を求める企業の犯罪とされがちであるが、そのように捉えるのではなく、むしろ新たなルールをつくり、産学協同制度の構築のきっかけとすべきである。

 資源のない日本が科学技術創造立国を目指すには、産学の連携と協力は不可欠である。産学協同は、大学の社会的貢献を具体化させるものである。日本の基礎研究を停滞させないためにも、日本全体を低迷させないためにも、産学協同の透明性と法制度を明確にして、積極的に進めるべきである。

 なお日高元教授の兄はNHKのワシントン支局長、アメリカ総局長などを歴任した日高義樹氏である。約40年近く米国で報道に携わったことから、名前は知らなくても、その顔はテレビで多くの人たちが知っている。日高兄弟の人生は大きく違ってしまったが、テレビに映った兄弟の容貌がとても似ているのが印象的であった。

 

 

 

 いわき市の医師殺し 平成10年(1998年) 

 平成10年5月29日、午前10時5分頃、福島県いわき市常磐上湯長谷町上ノ台の市立常磐病院(萩原昇院長)の神経科外来で、診察中の精神神経科医師・鈴木裕樹さん(34)が、診察を受けに来た同市内矢吹町の無職大和田源二(42)に刃物で首を切られ死亡した。

 大和田源二は、ほかの医師ら3人にもけがを負わせ、刃物を持ったまま自動車で逃走した。大和田は、以前から統合失調症で同病院の神経科に通院していた。大和田は乗用車で逃走したが、東京都内の国道で千住署員に発見され、同日午後、いわき中央署は大和田源二を殺人未遂容疑で逮捕した。

 精神鑑定が2人の医師によって行われ、心神喪失と心神耗弱の2通りの鑑定に分かれたが、地検いわき支部は、責任能力を問えない心神喪失の鑑定を採用し、平成11年2月、大和田を不起訴処分にした。心神喪失とは是非善悪を判断できない状態のことである。一方、心神耗弱とは善悪の判断は可能であるが、判断に従って行動することが困難な状態で、有罪であるが減軽されることが多かった。

 この検察の不起訴処分に対し、鈴木裕樹さんの父親・通夫さん(66)がいわき検察審査会に不起訴不当の申し立てを行った。その理由は、大和田源二は病院に来る途中で刃物を購入して隠して持ち込んだこと、車を正面玄関に止めて逃走しやすいようにしたこと、犯行後も逃走するなど計画性が認められ、統合失調症の行動とは断定できない、としたからである。

 平成13年6月、いわき検察審査会は「刃物を準備し、犯行後に逃走するなど計画性が認められる」として、不起訴処分は不当として再度精神鑑定が行われ、責任能力ありと判断された。福島地検は大和田源二を殺人罪で起訴することになった。また医師の遺族はいわき市と男性患者、その両親を相手に総額2億2000万円の損害賠償を求めた。

 平成151213日、福島地裁の大沢広裁判長は大和田源二に懲役10年の刑を言い渡した。犯行は短絡的で酌量の余地に乏しく、刑事責任は極めて重いとした。争点となった責任能力については「心神耗弱状態」と認定し、心神喪失状態とする精神鑑定を退けた。発生から判決まで5年7カ月が経過したが、被告の責任能力を認める判断が下されたのである。

 平成16年5月18日、鈴木裕樹さんの両親が損害賠償を求めていた訴訟判決で、福島地裁の吉田徹裁判長は、いわき市と大和田、その母親に総額約1億6500万円の支払いを命じた。吉田裁判長は「いわき市は診察室に逃げる場所を確保するなど、医師の安全を確保する義務があった」と述べ、いわき市の管理責任の過失を認めた。なお鈴木裕樹さんの両親は損害賠償金の一部を日本司法精神医学会に寄付して、「鈴木裕樹研究基金」として若手の研究の運用になっている。

 精神障害者の凶行事件は、精神障害から不起訴になることが多かった。しかし最近では、大阪の大阪教育大付属池田小学校の児童殺傷事件、滋賀県草津市の母子殺害事件、沖縄県佐敷町の6人殺傷事件など、加害者の責任能力を認める傾向が強まっている。

 精神障害者は、日本の全人口の約1.7%であるが、犯罪に占める割合は0.6%にすぎない。精神障害者の犯罪率は0.09%で、国民全体の犯罪率(0.25%)に比べれば3分の1程度である。このことから「精神障害者が犯罪を犯しやすいのは間違っている」とする精神科医が多い。しかし殺人や放火などの凶悪犯罪に関しては、精神障害者の犯行頻度は高いとする統計もあり、精神障害者と犯罪に関する一般人のイメージが、単なる偏見かどうかについて議論の余地がある。

 

 

 

和歌山毒カレー殺人事件 平成10年(1998年)

 平成10年7月25日の夕方、和歌山市園部(そのべ)地区の空き地で、自治会主催による夏祭りが開催された。夏祭りは住民同士の親睦(しんぼく)を目的に、6年前から毎年行われていた。

 今年は、調理したカレーライスとおでんが振る舞われることになっていた。夏祭りは午後6時に始まったが、楽しいはずの夏祭りはすぐに悲鳴と苦痛の声に変わった。カレーライスを食べた人たちが、次々に激しい吐き気と腹痛に襲われた。すぐに、「カレーを食べるな」と怒号が飛び交った。救急車が次々に要請され、倒れている人たちを病院へ収容していった。

 住民たちは道路の所々にエビのようにうずくまり、会場近くの前田外科には苦痛に満ちた60人が押しかけた。前田院長は治療にあたりながら、重症患者を次々と救急車で病院へ送り出した。

 和歌山市内のすべての救急車が出動し、11台の救急車が2時間の間に病院との間を21回往復し、小学生を含む住民66人が13カ所の医療機関に運ばれた。けたたましいサイレンの音と回転する赤色灯が交錯し、平和なはずの夏祭りが地獄絵に変わった。この凄惨(せいさん)な事件が発生した当初は、多くが集団食中毒と思い込んだ。

 この事件の2年前、大阪府堺市でO157による大規模な集団食中毒が発生し、その後もO157による食中毒が相次いだからである。そのため事件から約6時間後の26日午前0時5分、和歌山市保健所長はこの事件を食中毒と記者会見で述べた。

 被害者は激しい嘔吐と下痢を示し、食中毒と同じ症状だった。そのため、病院関係者も食中毒として治療にあたった。しかし被害者はカレーを食べた直後に症状を出していたのである。食中毒にしては、食べてから発症までの時間があまりに短すぎた。もし食中毒ならば食べてから発症まで最低1時間はかかるが、まさか毒物混入とは誰も考えつかなかった。

 誠佑記念病院では、救急隊員が「集団食中毒が発生した」と報告したが、当直の小池良満医師(47)は「発症が早過ぎるし、症状も重すぎる。本当に食中毒か」と疑問を持ちながら、点滴などの対症療法を行った。

 翌26日の未明になって、自治会長の谷中孝寿さん(64)が誠佑記念病院で亡くなった。谷中さんは、住民を次々と救急車で送り出し、「わしは最後でいいから」と言って最後まで現場に残っていた。さらに副会長の田中孝昭さん(53)、高校1年生・鳥居幸さん(16)、小学4年生・林大貴君(10)の4人が相次いで死亡した。

 4人が死亡し42人が入院する惨事から、この事件は保健所長が発表した食中毒事件ではなく、何者かが毒物をカレーに混入させた無差別殺人事件の疑いが強くなってきた。

 カレーライスを食べたのは67人であったが、その生死を分けたのは、毒物量や個人差もあるが、むしろ嘔吐によって毒物をどれだけ吐いたかであった。また最初から毒物と診断していれば、医師は治療として胃洗浄を行うはずであった。しかし医師たちは食中毒と診断して、点滴による治療を行っていた。

 和歌山県警捜査一課と和歌山東署は、26日午前6時30分、患者の吐いた内容物から青酸化合物を検出したと発表。毒物事件として和歌山東署に捜査本部が設置された。青酸化合物は、炊き出しのカレーライスからも検出され、司法解剖された犠牲者の血液や胃の内容物からも検出された。青酸化合物が強烈な毒物であることは誰でも知っていた。すると「いったい誰が何の目的で不特定多数の人たちを殺害しようとしたのか」この疑問が浮かんできた。

 警察は用いられた毒物が青酸化合物と断定したが、事件から8日目の8月2日になって、用いられた毒物は、ヒ素(亜ヒ酸)であると発表した。この警察の間違いが、なぜ起きたのか明らかにはされていない。青酸化合物が原因であれば、被害者はほぼ即死状態のはずである。このことから、当初発表された青酸化合物には疑問があった。また下痢や皮膚の色素沈着などは、青酸化合物ではみられない症状であった。

 なぜ青酸化合物とヒ素を間違えたのか、その真相を警察は公表されていないが、おそらく、感度の悪い青酸予備試験(シェーンバイン・パーゲンステッヘル法)を安易に信じ、本試験(ベルリン青反応、ロダン反応)を怠ったせいであろう。青酸予備試験では、青酸カリ以外でも反応を示すことがあるからである。

 事件翌日、兵庫県尼崎市でシアン化金カリウム875gが紛失していることが判明。このシアン化合物が事件に使用された可能性が浮かび上がった。そのため、あらためて毒物を分析したところ、使用された毒物は青酸カリではなくヒ素であった。これは警察の大失態であるが、警察は青酸カリについては訂正せず、青酸カリが含まれていたかどうかについて言及しなかった。このことから2つの毒物がカレーに入れられていたとマスコミは思い込んだ。まさか警察が、青酸化合物とヒ素を間違えるはずはないとの先入観があったため、2種類の毒物が同時に混入されたと受け止めたのである。

 2種類の毒物を同時に入手できる人物は限られている。大学や企業の研究所の関係者が疑われ、捜査の方向もその関係者に向けられた。しかし8月25日になって、用いられた毒物は亜ヒ酸であって青酸カリではないことが公式に発表された。

 亜ヒ酸は農薬や防腐剤に用いられ、その致死量は体重1kg当たり1.4mgとされている。問題のカレーには約250gのヒ素が混入されていた。何者かがカレーに800人の致死量に相当する亜ヒ酸を入れたのである。

 夏祭りという多数の人々が出入りしている中で、不特定多数の人々を殺害するために亜ヒ酸を混入させたのである。いったい誰が、このような無差別テロを仕掛けたのか、国民の大きな不安と関心を呼んだ。亜ヒ酸は無色無臭で、かつては毒薬の王様と呼ばれていた。

 和歌山市園部地区は、JR和歌山駅から北へ約3km離れた田んぼに囲まれた新興住宅街で、祭りの会場は袋小路になっていた。祭りの参加者は165人で、その約7割が地元自治会の住人だった。カレーは自治会の主婦ら約20人によって朝から調理され、昼頃にカレーの味見がなされたが異常はなかった。つまり、昼から祭りの始まる午後6時までの間に亜ヒ酸が混入されたのである。カレーは、事前に配られていた無料引換券を持ってきた住民に配られた。

 この前例のない無差別殺人事件に大勢の報道陣が集まり、園部地区は日本中の注目を集めた。毒殺を恐れた住民たちは家の扉を閉め、うわさ話から隣人関係がぎくしゃくしていった。住民たちは互いに疑心暗鬼になり、次第にある夫婦に疑惑の目が向けられた。

 和歌山県警は犯人を園部地区の関係者に的を絞り捜査を進めていた。住民の聞き取り調査から、後に逮捕される元生命保険会社外務員・林眞須美(37)夫妻をめぐる多額の保険金詐欺疑惑が浮上した。

 和歌山毒カレー事件について、保険金詐欺との関連性を最初に報道したのは、8月25日の朝日新聞だった。この報道以降、マスコミは多額の保険金詐欺疑惑のある元生命保険会社外務員・林眞須美(37)と夫の健治(53)に集中した。マスコミはこの夫婦の名前は出さず、テレビでは顔にモザイクがかけられていた。しかし疑惑が強まるにつれ、夫婦の写真が雑誌に掲載され、空撮により夫婦の住居が映し出され、連日100人近い報道陣がこの疑惑の人物の家に詰めかけ、80近い脚立が夫婦宅を取り囲んだ。林眞須美とその夫の健治は、園部地区に7000万円の豪華な住居を構えていた。林健治は、定職もないのに外車を乗り回す豪華な生活を送っていた。

 しばらくして、林宅にたびたび通っていた元会社社長(46)と無職の男性(35)が、カレー事件以前に今回のヒ素中毒と同じ症状で入院していたことがわかった。中毒様の症状を訴えて入院した2人は、2人とも林宅で食事をご馳走(ちそう)になった直後のことであった。またこの2人には2億4000万円の保険が掛けられ、保険金の受け取りは健康食品販売会社になっていたが、事実上保険金は林夫妻に入る仕組みになっていた。眞須美は「保険料は自分が負担する」と言って彼らを保険に加入させていた。2人の爪からは通常の100倍に当たるヒ素が検出された。

 林夫妻は以前から住民とのトラブルが多かったことから、今回の事件について嫌疑がかけられていた。朝日新聞がこの嫌疑内容を報道すると、林健治、林眞須美へのマスコミの取材合戦が始まることになった。林健治は無職だったが、数年前までシロアリ駆除の会社を経営していた。シロアリ駆除業者は、シロアリの駆除に40年前まではヒ素を使用していた。ヒ素はすでに使用禁止になっていたが、林健治はヒ素を大量に持っていた。

 林夫妻からヒ素を預かった知人が、捜査当局にヒ素を任意提出したことから、マスコミ報道はいっそう過熱した。40日間にわたって、報道陣は豪華な林宅を包囲した。疑惑の夫婦は、マスコミを家に入れ、テレビや週刊誌を通して身の潔白を雄弁に主張した。しかしマスコミの関心は、この疑惑の夫婦がいつ逮捕されるかであった。

 これまでに林眞須美が関与していた保険は、生命保険、損害保険、共済保険など11130件であった。支払った保険料は1億5000万円、受け取った保険金は6億1000万円であった。捜査本部の調べでは、林夫妻が最初に他人の保険に関与して保険金を受け取ったのは13年前のことである。夫婦宅に住み込みでシロアリ駆除の仕事をしていた男性従業員(27)が体調を崩して入院、数日後に急死したのが最初であった。保険料を払っていた林夫妻が、死亡保険金2500万円全額を受け取り、遺族とトラブルになった。このトラブルは、和歌山地裁に提訴され1250万円ずつ折半することで和解していた。

 また別の元従業員の男性(36)が一時、下半身不随になったことがあった。昭和62年2月、夫婦宅でお好み焼きを食べた直後、体調を崩して入院。翌年秋に最重度(1級)の障害認定を受けた。このケースでも林夫妻が保険料を負担し、高度障害保険金約3000万円が支払われていた。男性は「原因不明の神経マヒ」とされたが、捜査本部から依頼を受けた専門医によりヒ素中毒の後遺症と診断された。

 眞須美の実母が死亡した際にも、1億4000万円の保険金を得ていた。実母は白血病と診断されたが、病理解剖はされていないので原因は不明であった。ヒ素中毒は、白血病と似た症状を示すことが知られている。

 林眞須美は、平成2年から6年半の間、大手保険会社の外交員をしていた。そのため保険に詳しかった。眞須美の実母と元従業員の死、さらに夫である健治のヒ素中毒症など多くの疑惑がもち上がった。これらすべてに林眞須美がかかわっており、逮捕前から、「平成の毒婦」と書いた週刊誌もあった。保険金詐欺疑惑が毒カレー事件解決の突破口になりそうな雰囲気になった。無職で豪邸に住む容疑者の逮捕を世間は待った。容疑者である林健治はシロアリ駆除業をすでに廃業しており、妻である林眞須美は保険外交員を平成8年に辞め、定期的な収入がないのに、年間1億円を超える生活をしていた。

 10月4日午前6時、和歌山県警の捜査官が林宅のドアを叩き、林眞須美に逮捕状を読み上げた。林眞須美は知人男性への殺人未遂容疑で逮捕された。また平成8年、自転車で故意にバーベキューの鍋に衝突し、重症の火傷を負い、交通傷害保険金を騙(だま)し取った詐欺容疑も追加されていた。林眞須美は、火傷で1種1級の障害者に認定されていた。1種1級は、終日寝たきりの重度の障害であるから、詐欺は明らかであった。

 林眞須美の逮捕と同時に、夫の健治も眞須美と共謀して、保険金詐欺を働いたとして別件逮捕された。健治はそれまで原因不明の病気で、入退院を繰り返していたが、彼の血液からもヒ素が検出された。不自由な足は、ヒ素中毒によるものとされた。健治は妻の眞須美からヒ素を飲まされ、それでいながら共犯にされていたのである。加害者でありながら被害者でもある健治の心境は複雑だったと想像される。

 眞須美被告は、夫の健治にも保険をかけ、生保3社から2億円の保険金を騙し取っていた。裁判で林健治は、自分を殺そうとした妻の眞須美を常にかばっていた。このかばう心理はどこからくるのか、やくざな男の美学なのだろうか。

 2人は厳しい取り調べを受けたが、否認と黙秘で応じた。和歌山県警は、再逮捕を重ねてカレー事件との関連を追及したが、自白はもちろん調書も取れず、そのため膨大な状況証拠を積み上げるほかなかった。現場検証を繰り返し、眞須美以外の第三者が関与した可能性を次々に消していった。

 事件当日のカレーは、アルミホイルでふたをされ、主婦が交代で見張りをしていた。正午から午後1時までの時間帯に眞須美が1人でガレージに残り鍋の番をしていて、紙コップを手にして料理場のガレージに入り、周囲を窺(うかが)うそぶりをしていたことが複数の住民に目撃されていた。

 眞須美が、自宅に隠匿していたヒ素を紙コップに入れ、ガレージでカレーに混入させた可能性が浮上した。朝から常に2人の主婦が交代で鍋の番をしていたが、眞須美だけが1人で番をしていた。

 祭り会場のごみ袋から発見された紙コップから、また林宅からも亜ヒ酸が検出された。物証については、カレーの鍋や林宅など8カ所から亜ヒ酸を採取し、兵庫県の大型放射光施設「スプリング8」という最先端装置によって、カレー、紙コップ、林宅のプラスチック容器に付着した亜ヒ酸が、健治がかつて使っていた亜ヒ酸と同一とする鑑定結果が出た。

 また眞須美被告の台所の排水管の汚泥からも高濃度のヒ素が検出され、ヒ素を台所で流したと推測された。部屋のほこりからも、さらに眞須美の前髪からもヒ素が検出され、それが事件発生時に付着したものと分かった。

 和歌山県警は12月9日、林眞須美を殺人と殺人未遂容疑で再逮捕したが、この毒カレー事件の最大の疑問は犯行動機であった。夏祭りの夜には、少なくても死亡時5億円を超える保険金が夫や知人に掛けられていた。しかし夏祭り当日になって、開催されるはずだったマージャン大会が中止されていた。このことから、保険金目当てではないことは確かであった。

 そこで、かねてからゴミの投棄や駐車のトラブルが周辺の住民とあったこと、さらに眞須美が近所の主婦から祭りの準備などで罵倒(ばとう)されことから、これに激怒したことが犯行動機とされ、いわゆる衝動的無差別殺人と推測された。

 和歌山地検は、眞須美の自宅やカレー鍋から検出された亜ヒ酸の成分が一致したこと、調理現場での目撃情報などの状況証拠から、同年1229日、容疑否認のまま殺人などの罪で和歌山地裁に起訴した。平成11年5月13日、いわゆる和歌山毒カレー殺人事件の初公判が開かれた。被告である林眞須美は、保険金詐欺についてはその一部を認めたが、殺人と殺人未遂については全面否認した。

 和歌山地裁は平成121020日、林健治に「妻である眞須美と共謀して保険金詐欺を行った」として懲役6年の刑を下した。検察、被告とも控訴しなかったため、林健治の刑が確定した。刑の決定後、健治は「何とも軽い刑だ」と雑誌にコメントを述べた。

 この事件で、医療従事者にとって問題になったのは、死亡した3人の遺族が和歌山市と2病院を提訴したことである。遺族は、保健所と病院が適切な指導や初期治療をしなかったため死亡したと訴えたのである。和歌山市、治療に当たった日赤和歌山医療センター(吉田修院長)、中江病院(中江遵義院長)に逸失利益など計7000万円の損害賠償を求める訴えを和歌山地裁に起こしたのである。

 カレー事件被害者支援弁護団(団長・大谷美都夫弁護士)は、和歌山市保健所が事件直後に食中毒と発表したため、この誤った情報が毒物治療に影響したと述べた。この種の訴訟で保健所が被告になるのは異例のことで、裁判では保健所の責任を問えるかどうかが最大の争点になった。病院側にとっても、まさに寝耳に水の訴訟であった。

 医療側のもう1つの問題は、医師が林夫妻の言いなりに診断書を書き、謝礼までもらっていたことである。保険金の支払いには診断書が必要であるが、その診断書が杜撰(ずさん)だった。さらに医師が謝礼として金銭を受け取っていた。保険金不正取得で、虚偽の診断書作成に関与したとして医師4人が和歌山県警に詐欺ほう助と虚偽診断書作成の容疑で書類送検され、起訴猶予処分になった。

 さらに林健治に保険金を支払った明治生命が、事件当時の主治医だった元近畿大付属病院の医師(38)に損害賠償を求める民事訴訟を起こした。大阪地裁堺支部は、明治生命の訴え通り約5000万円の支払いを医師に命じた。中路義彦裁判長は「医師は診察時に詐病だと認識し、診断書を作成した」と判断、明治生命の訴えを全面的に認めたのだった。

 林眞須美、林健治には後遺症障害1級の認定が下りていた。後遺症障害1級とは、症状が固定して回復が期待できない高度機能障害である。終日、他人の介助がなければ生活できない状態を意味していた。障害が手足の欠損であれば認定は簡単であるが、本人が動けない、見えないと最後まで主張すれば、認定せざるを得ない場合もあるだろう。しかし実際には、林眞須美と健治は日常生活を普通にできていたのである。

 主治医は敗訴したが、主治医が夫婦に騙されていた可能性もある。明治生命が、あるいは障害者認定を受理した行政がきちんと調査していれば、この不正事件は防げたはずである。はたして主治医だけの責任でよいのだろうか。

 平成141212日、和歌山地裁の小川育央裁判長は元保険外交員・林眞須美に死刑の判決を下した。被告以外にヒ素を混入できる者がいなかったと結論づけ、焦点となった動機については、「他の主婦に疎外され激高したこと」とした。眞須美被告は、自白なき1審判決を不服として大阪高裁へ控訴したが、大阪高裁も死刑の判決であった。

 この事件は、生命保険会社が6億円という多額の保険金を支払い、生命保険会社は被害者となった。しかし生命保険会社が不正を事前に防いでいれば、このカレー事件は起きなかったはずである。しかもカレー事件によって初めて一連の保険金詐欺事件が発覚したのである。保険会社の杜撰な審査が引き起こした事件といっても過言ではない。保険会社はいざというときのための共済を目的とした会社であるが、保険会社が悪人を犯罪に走らせたともいえる。

 

 

 

竜岡門クリニック事件 平成10年(1998年)

 平成101014日、警視庁薬物対策課と池袋署は東京都文京区湯島にある竜岡門クリニック所長の鈴木寛済(ひろなり)(64)ら7人を医師法違反(無免許医療)の疑いで逮捕した。逮捕されたのは鈴木寛済のほか鈴木寛済の長男と二男、さらに同診療所の女性検査技師(49)と女性栄養士(50)で、彼らは医師免許がないのに学生たちから血液を買い、「抽出したリンパ球液で免疫力を高める」と言ってがん患者に投与していた。

 竜岡門クリニックとクリニックを経営するシービーエス研究所などが家宅捜索を受けた。この事件は、警視庁薬物対策課が未承認の薬剤をがんに効くとして製造していた製薬会社役員らを薬事法違反容疑で書類送検し、その事件の捜査過程で鈴木寛済らのリンパ球液投与を知り、聞き込み捜査をしていたのだった。リンパ球液は医薬品と見なされ、製造と販売には厚生大臣の承認と許可が必要だった。

 警視庁の調べでは、売血していた学生らは延べ3000人以上であった。早稲田、慶応などの大学生が含まれ、主に体育会系の部員が集められ、投与された患者は1000人以上に及んでいた。

 昭和59年から平成10年4月まで、鈴木寛済らはアルバイトとして雇った男子大学生から血液400ccを2万円で採取、リンパ球液を抽出してパックに詰め、がん患者に1パック8万円で投与していた。竜岡門クリニックはリンパ球療法によってがんが消えた、若い人のリンパ球液を投与すれば免疫力が高まる、副作用はまったくないと宣伝していた。がん患者を集め、年間平均売り上げは約6500万円で、総額10億円を超す荒稼ぎだった。

 リンパ球は白血球の1種で、体内に入ったウイルスや細菌などを攻撃する免疫機能を持っている。リンパ球にはウイルスに感染した細胞を直接攻撃するT細胞、未知の異物と戦う抗体を分泌するB細胞の2種類に分けることができる。竜岡門クリニックで行っていたリンパ球療法は、買い上げた血液からリンパ球を抽出し、がん患者らに点滴をして、患者本人の免疫力を活性化して治すと説明していた。

 リンパ球療法として、「自己血のリンパ球を培養して抗原を認識させて体内に戻す治療」は今日でも行われているが、他人のリンパ球を患者の体内に入れるのは危険だった。他人のリンパ球が、患者の身体を異物として逆に攻撃する移植片対宿主病(GVHD)を引き起こして死に至らせる危険があったからである。竜岡門クリニックでは、血液提供者の梅毒、B型肝炎、C型肝炎などの検査が行われていなかった。そのためウイルス感染の危険性も高かった。

 鈴木寛済は医師ではなかったが、がんの治療法として「末期がん患者に他人のリンパ球を投与する新リンパ球療法」を唱え、3冊の本を出版して「がんが消えた」などと広く宣伝していた。自ら本を書いてそれを宣伝に利用することは、民間療法のよくやる手法である。本屋に行けば民間療法に関する本が並び、新聞の第1面の広告には怪しげな本の宣伝が掲載され、本や新聞といった権威を利用した宣伝は「バイブル療法」と呼ばれているが、鈴木寛済も同じ手法をとっていた。

 竜岡門クリニックは、95歳の寝たきりの医師の名義を無断で借り、末期がん患者に他人のリンパ球を投与していた。竜岡門クリニックは販売ルートを全国に広げ、小包や宅配便などでリンパ球を郵送し、約40の医療機関で患者に投与していた。それぞれの患者が持ち込んだリンパ球を各病院の主治医が投与していたのだが、いずれも安全性を考慮していなかった。副作用はなかったとされているが、危険性はきわめて高かったはずである。

 医療機関の中には5つの国立大付属病院が含まれ、富山医科薬科大付属病院は胃がんの患者に4回投与していた。山形大医学部付属病院は卵巣がん患者に25回投与、肺がん患者に2回投与していた。金沢大医学部付属病院、浜松医科大医学部付属病院、名古屋大医学部付属病院でもがん患者に投与していた。

 厚生省は「リンパ球液投与」の全国実態調査を行い、その結果、竜岡門クリニック以外にリンパ球療法を行っていた都道府県は29で、リンパ球液を投与していた医療機関は103カ所、投与患者数は1万1169人であったと発表した。リンパ球液の入手方法は、患者や家族が直接購入したものが82件、医師が仲介したものが15件、自院で調整投与したものが7件であった。

 投与された患者1万729人のがん患者のうち7091人はすでに死亡していたため、感染症や副作用の有無は不明のままであった。

 リンパ球液療法を行っていた医療機関が予想以上に多かったことから、厚生省は、「リンパ球液の投与について」の通知を各都道府県に送付した。その通知には、「有効性、安全性が確認されていない薬事法上の未承認薬の投与に当たっては、患者の病状、診療上の必要性、期待される効果、可能性のある副作用などすべての事情を十分考慮し、その取り扱いについて慎重に検討すべき」と指摘している。さらにリンパ球液を買い集めることを、買血行為として新たに禁止した。

 薬事法上無許可で製造されたものであっても、すがる思いの患者に懇願されれば、医師はむげに断るのは困難である。丸山ワクチンと同じ感覚だったのだろうが、根拠のない治療は無意味である以上に危険性を伴うのである。しかも他人のリンパ球を投与することは輸血と同じ行為で、投与した医師に責任がないとはいえない。

 平成1011月、東京地方検察庁は竜岡門クリニックの経営者らを医師法違反罪で起訴、さらに薬事法違反容疑で再逮捕した。東京地裁(今崎幸彦裁判長)で鈴木寛済ら4人は起訴事実を認め、鈴木寛済は懲役2年の実刑判決を受けた。鈴木寛済は控訴したが「患者の必死の思いに付け込み、治療の名のもとに高額な利益を上げた責任は重大」として控訴は棄却された。鈴木寛済以外の容疑者の判決は執行猶予の付く実刑であった。また法人としてのシービーエス研究所も罰金200万円、追徴金7080万円の判決を受けた。

 シービーエス研究所は後に東京国税局の税務調査を受け4年間で総額約1億3000万円の所得隠しを指摘されている。シービーエス研究所が隠していた所得の一部は、鈴木社長と親しい女性のマンション購入費に充てられていた。この竜岡門クリニック事件は患者の必死の思いに付け込んだ、金儲けを目的とした卑劣な犯行であった。

 この事件で考えさせられるのは、もし逮捕された鈴木寛済が医師であったならば、偽装した治療成績を三流医学雑誌に掲載していたら、どのような経過になっていたであろうか。他人のリンパ球を利用する治療法として、白血病への骨髄移植という治療法が認められていることから、金儲けのインチキ療法であっても、自由診療であれば万が一にも合法とされることを危惧するのである。

 

 

 

 バイアグラ発売 平成11年(1999年)

 平成10年3月、米国の製薬会社ファイザー社が開発した勃起不全治療薬バイアグラが米食品医薬品局(FDA)の認可を受け米国で販売された。性的不能(インポテンス)治療薬としてはバイアグラが初めての薬剤で、また実際に効果があったことから、発売とともに「夢の薬」として爆発的に売り上げを伸ばしていった。

 内服には医師の処方が必要で、性交1時間前に1錠飲むだけで効果があった。ファイザー社は1錠7ドル(約900円)の卸値、1錠10ドル(約1200円)の小売値で販売。3月から12月まで、米国内で300万人が服用するという大ヒット薬剤となった。バイアグラの命名は、活力(Vigor)とナイアガラの滝(Niagara Falls)の合成語で、売り上げを伸ばしたのは、このネーミングも関係していた。

 バイアグラがこれだけ売れたのは、それだけ効果があったからである。ファイザー社によるとインポテンス患者4000人を対象にした臨床試験で、約70%に性機能改善が認められたとしている。臨床試験を受けた性機能障害の疾患としては、糖尿病、脊髄障害、前立腺手術、心理的障害などであったが、どのグループでも効果が確認された。

 インポテンスの治療は、バイアグラが発売されるまでは、性器へ直接薬剤を注入したり、シリコンを埋め込んだり、補助器具の使用などがあった。そのため気楽に内服できるバイアグラは、爆発的に売り上げを伸ばしたのである。バイアグラを求める男性の中には高齢のため性機能が衰えた男性も多く含まれていた。

 バイアグラの副作用として頭痛、顔面の紅潮、消化不良などがあり、平成10年6月、FDAはバイアグラを服用した男性16人が死亡したことを発表した。この16人中7人が性交中あるいはその直後に死亡していたが、このような警告にもかかわらず売り上げを伸ばしていった。

 バイアグラはもともと心臓の栄養血管である冠状動脈を広げる狭心症の薬剤として開発されていた。臨床試験では狭心症への効果は期待ほどではなかったが、治験を受けた患者がバイアグラの隠れた性機能改善効果を指摘したのだった。このように性機能改善効果は偶然の産物であるが、もともとが狭心症の薬剤だったことから、心臓病の患者が使用すると冠状動脈を拡張させる危険性があった。そのためバイアグラは、ニトログリセリンなどの心臓病の薬剤を服用している患者には禁忌となっている。

 日本でバイアグラの報道がなされると、男性週刊誌やテレビなどが盛んにバイアグラを取り上げその話題で盛り上がった。セックスレスで離婚した夫婦がバイアグラによって復縁した話、大富豪が若い女性に走り妻から巨額の慰謝料を請求された話、このような事例が多数紹介された。男性にとって性的欲求や性的欲望は、高齢になっても変わらないのであった。

 バイアグラは日本では発売されていなかったため、バイアグラ人気に目を付けた旅行会社はバイアグラの買い出しツアーを企画した。この買い出しツアーは日本人が大挙してバイアグラを買いに行くもので、ロサンゼルス空港からタクシーで専門クリニックへ行き、診察を受け、処方せんを書いてもらいバイアグラを購入するものであった。

 またインターネットを通じて、バイアグラが日本国内市場に上陸し始めた。日本の薬事法では「未承認の薬剤であっても、個人の使用であれば輸入を規制できない」、このことを利用した輸入代行業者が急増したのである。輸入代行はインターネットを利用した典型的なすき間商売で、日本で承認されていないバイアグラが日本国内に出回る状況になった。合法的ではあったが、値段は1錠2000円から4000円と高額であった。

 平成10年5月29日に発売された「週刊現代」がバイアグラの購入方法を紹介、購入申し込み用のはがきを添付した。このような事態から翌6月に、厚生省は初めて「バイアグラ」対策に乗り出し、「未承認薬の広告を禁じた薬事法に違反する」として出版元の講談社に事情聴取を行った。

 週刊現代編集部は、本誌ではバイアグラの購入申し込み用のはがきを添付しただけで、読者から届いたはがきはそのまま業者に渡している。本誌は直接利益を得ているわけではないので問題ないと反論した。厚生省はこの事態を重視し、ファイザー社に日本でのバイアグラの販売申請を急がせた。

 そして申請から半年という異例のスピードで、日本でもバイアグラが認可され、平成11年3月、ついに日本でもバイアグラが発売されることになった。

 一般的には海外で発売されている薬剤であっても、人種間の薬効や副作用の違いを考慮し、発売には日本独自の治験が必要であった。しかしバイアグラは日本での臨床試験を行わず、米国での発売からわずか1年で日本でも承認されたのである。海外の薬剤が日本で認可されるには通常は数年を要するが、このバイアグラの認可は異例といえるスピードであった。バイアグラは日本人のデータを用いず、海外のデータを用いての新薬認可第1号となった。

 バイアグラは一般の薬剤とは違い病気を治すのではなく、生活の質を向上させる薬剤として、医師の処方せんを必要としながら、保険の適用とはならず全額自費であった。医師の処方せんを必要としながら、保険の適用を認めない初めての薬剤となった。値段は1錠1100円で、米国の値段とほぼ同じであった。

 バイアグラの一般名はクエン酸シルデナフィルで、その効果は血管平滑筋弛緩作用を増強させ、陰茎への血液流入を促すとされている。バイアグラが必要とされるのは、病気によって勃起不全をきたした男性であった。勃起不全をきたす基礎疾患としては糖尿病、事故による脊髄外傷、骨盤内の手術による後遺症などがある。しかしストレス、疲労、恐怖心、アルコール中毒などによって勃起不全を来した男性にも効果があった。バイアグラは媚薬(びやく)でも強壮剤でもないので健康な男性がバイアグラを飲んでも変化は起こらないとされているが、そのような製薬会社の説明は理屈だけであって、高齢とともに勃起不全をきたした男性にも効果があるため、正常男性もバイアグラを買い求めた。

 日本では1年間に2人の死亡例が報告されているが、副作用を来した例は個人輸入や知人から譲渡されたバイアグラを使用した人たちだった。バイアグラの国内販売が始まってからも個人輸入の注文は減らなかったが、それは病院に行くのが恥ずかし気持ちと、医師の処方を受ける手続きが煩雑だったからである。

 バイアグラはこれまでの薬剤とは違い生活改善薬と呼ばれた。生活改善薬とは、生命にかかわる疾病を治療するのではなく、「これが解決できたらもっと幸せなのに」という悩みを解決してくれる薬剤である。ライフスタイルから生じる障害を減衰してくれる薬剤で、肥満治療薬、禁煙補助剤、育毛促進剤などがバイアグラと同様に生活改善薬と呼ばれている。

 それまで性的不能はインポテンスと呼ばれ、バイアグラはインポテンスの薬剤とされたが、インポテンスは人として本来備わっている能力が失われているイメージがあった。そのためED(Erectile Dysfunction)という言葉が用いられ、新聞などで盛んに宣伝された。

 EDとはインポテンスと同義語で、「性交時に十分な勃起が得られず、十分な勃起が維持できないため満足な性交が行えない状態」と定義されている。日本人の疫学調査では、40歳から70歳の男性の半数以上がEDとされ、年齢とともにその頻度は増している。

 男性機能回復センター(東京都港区)によると、EDの男性は全国で950万人、早漏を含めると1500万人と推定されている。EDのうち糖尿病による人が約20%、高血圧が約11%、心臓病が約9%で、最も多いのが病歴なしの約40%である。

 またバイアグラを混入させ精力剤として販売したり、ニセのバイアグラが発売されたり、多くの逮捕者が出たことからも、バイアグラがいかにニーズの高い薬剤であるかが分かる。バイアグラの発売以降、レビトラ、シアリスなどより効果の高い薬剤が発売されているが、バイアグラのED神話は衰えていない。

 平成11年6月、生活改善薬である大正製薬の発毛剤「リアップ」が全国で発売された。リアップは育毛剤ではなく発毛剤で、育毛剤は「毛の根元の毛包という細胞の血行を促し、栄養分を供給して脱毛の予防効果」を狙ったものであるが、発毛剤は小さくなったあるいは休止した「毛包細胞を活性化し増殖させる直接作用」があった。臨床試験では6カ月の使用で72.8%に効果があった。

 リアップは米国のファルマシア・アンド・アップジョン社が開発した高血圧の治療薬だったが、高血圧の治療中の患者の頭に毛が生えるという副作用が分かり、米食品医薬品局(FDA)に脱毛症の治療薬として認めたのである。世界85カ国で年間2億ドル売れるヒット商品になっている。米国では昭和63年に発売されたが、日本では処方せんがなくても買える大衆薬を目指したため、慎重な審査が行われ認可申請から6年以上も経ってからの発売となった。日本では髪の薄さに悩んでいる人は1500万人とされ、育毛剤市場の潜在需要は1000万人といわれている。

 リアップは日本でもバイアグラに続く大ヒットとなり、数日で65万本を売り尽くし、在庫がなくなるほどであった。その後も毎月60万本前後のペースで出荷されている。大正製薬は当初、月間15万本、年商60億円を目標としていたがそれをはるかにしのぐ勢いだった。

 薬剤は病気の治療のために開発されるものであるが、生活の質を高める役割として、バイアグラ、リアップの発売は、薬剤の概念を大きく変えた。

 

 

 

結核緊急事態宣言 平成11年(1999年)

 平成11年7月26日、厚生大臣・宮下創平は、NHKのニュースで「結核患者数が再び増加していることから、結核対策の強化を求める」と緊急事態を宣言した。政府が緊急事態を宣言することは極めてまれで、過去には終戦直後にGHQが発動した1回だけであった。しかも特定疾患についての緊急事態宣言は異例中の異例で、隣国が攻めてきたかのような緊迫感があった。

 宮下厚生大臣が危機感に満ちた顔で「結核患者数が再び増加傾向に転じた」という言葉に国民は驚き、忘れかけていた結核が再び猛威を振るい始めたと思った。宮下厚生大臣は「せきが続く場合は、風邪と思い込まずに医療機関に受診するように」と呼び掛けた。また厚生省は同日、医療関係17団体と関係省庁の代表者らを集め「結核対策連絡協議会」を発足させ、結核対策の強化を求めた。 

 昭和20年代の結核の新規患者数は年間約50万人、死者約12万人であった。しかしかつて国民病と恐れられていた結核は、抗結核剤の開発、生活水準の向上、予防接種の効果などで急速に減少し、緊急事態宣言が出た平成9年の結核患者は4.2万人、結核による死亡者数は2700人であった。このように結核が減少しているのになぜ「結核緊急事態宣言」だったか。

 厚生省は「結核患者が急増しており、国民1人1人が結核を過去の病気としてとらえているのであれば、将来に大きな禍根を残すことになる。これまで減少を続けてきた結核の新規発生患者が38年ぶりに増加に転じた」と仰々しく述べた。「適切な対策を講じなければ、今度10年間に3000万人が死亡する」と誇大妄想を堂々とのべた。

 しかしこのことが緊急事態を宣言するほどの事態だったのだろうか。この結核患者急増に驚いた人たちが多かったが、実際には、急増といっても新規患者が前年より243人増加しただけで、その増加率はたった0.5%にすぎなかった。しかも増加したのは高齢者の人たちで、60歳以下の年齢ではむしろ減少していたのである。

 病院のロビーには「結核は過去の病気ではありません。年間新規発生患者数42715人、死亡者数2742人」「発病者1日120人、3時間に1人が死亡」と大きなポスターが張り出された。しかし当時を振り返れば、交通事故死は年間1万人、自殺者は年間3万2000人であった。交通事故死や自殺者に比べれば、結核死亡者は緊急事態に値するとは思えないが、大本営発表にマスコミも踊らされ、世の中は結核不安症の健康人だらけとなった。「くしゃみ3回、ルル3錠」という有名な宣伝文句があるが、この緊急事態宣言によりくしゃみ3回で、健康人が病院に列をなした。

 この厚生省の発表に異を唱える学者はいなかった。多剤耐性結核、集団結核、院内感染、高齢者の結核の増加、これらの脅し文句により科学者を自負する医師でさえ惑わされたのである。テレビでゴマが良いと言えば3食ゴマ尽くし、水道水が危ないと言えばガソリンより高い値段のミネラルウォーターを買い、太陽がカルシウム代謝に良いと言えば日光浴、皮膚がんが増えていると言えば外出禁止令。このように「結核緊急事態宣言」は例外的なものを脅しの材料に、国民に不安という病気をばらまいた典型例である。

 当たりもしない宝くじで1等が当たる確率は、東京と名古屋間に千円札を並べ、目をつぶってその中の1枚を取り出す確率と同じである。宝くじは夢を売る商売だからまだ許されるが、不安神経症を増やすだけの緊急事態宣言などは騒乱罪に値する愚行である。

 厚生省は各自治体の保健所を中心に結核対策の強化、医療関係者には結核の基本的知識の確認や院内感染の予防、老人施設に対しても、患者が発生した場合の適切な対応などを要請した。また、国立療養所を拠点とする専門医療体制を充実させる方針を表明した。

 この厚生省の緊急事態宣言の成果とは思えないが、翌年以降、結核死亡率、罹患率ともに減少している。結核の緊急事態宣言は、結核の減少により職を失うことを案じた結核専門家の緊急事態宣言だったといえる。

 

 

 

幼児割りばし死亡事件 平成11年(1999年)

 平成11年7月10日の土曜日、東京都杉並区内の福祉施設の盆踊りに参加していた杉野隼三(しゅんぞう)君(4)が、綿菓子の割りばしをくわえたまま転倒。割りばしがのどに突き刺さり、翌日に死亡するという不幸な事件が起きた。

 事故が起きたのは夕方の6時頃、母親が目を離したわずかな時間であった。杉野隼三君は綿あめの棒(割りばし)を口に入れたまま、何かの弾みで転倒し、割りばしが口腔を刺したのである。隼三君はすぐに救護室に運ばれ、救急車が到着した。この時点で割りばしは見つからず、「割りばしは本人が抜いた」と周囲にいた人が述べたとされている。隼三君は母親の文栄さん(42)と一緒に救急車で三鷹市の杏林大医学部付属病院に搬送された。隼三君は救急車の中でぐったりとしたまま1回嘔吐した。午後6時40分、救急車は杏林大病院に到着。耳鼻科の医師・根本英樹(31)が舌圧子を用いて診察を行った。口腔には小さな傷口はあったが出血はなく、そのため傷の消毒をして抗炎症剤と抗生剤の軟膏を傷口に塗った。診察時間は5〜10分間であったが、医師が「口を開けて」と言うと、口を開けたので、意識はあると判断した。そのため医師は頭部CT検査や入院は必要ないと判断した。

 隼三君はぐったりしていたが、担当医は母親に「疲れているから家で休ませて、必ず薬を飲ませること、2日後の月曜日に再診すること」を伝えた。母親は「この状態で家に連れて帰っても大丈夫ですか」と尋ねたが、医師は「疲れて寝ているだけだから心配ない」と説明した。

 連絡を受けた父親が迎えに来て、母親と隼三君は帰宅。母親は一晩中、隼三君に付き添って様子を見ていたが、翌朝の6時頃までは話し掛けるとうなずき、大きな変化は見られなかった。しかし7時30分頃、弟が異常に気付き、母親が様子を見に行くと隼三君の呼吸は止まっていた。すぐに救急車を要請、隼三君は再び杏林大病院に収容されたが、午前9時2分、死亡が確認された。死亡後、頭部CT検査が行われ、後頭蓋窩に硬膜外血腫と空気の混入が認められた。

 杉野隼三君は東京都杉並区井草に住む都立高教諭・杉野正雄さん(47)の三男で、区立井草保育園に通っていた。病院側は事故当日にCTを撮らなかったのは、「レントゲンの被曝の可能性があったから」と家族に説明した。杏林大病院は死亡後のCT検査で割りばしが死因に何らかの関連があると考えていたが、家族には昨日の事故との因果関係については曖昧な説明であった。むしろ、くも膜下出血や脳の先天性奇形などが原因ではないかと強調し、記者会見においても割りばしの関与については曖昧なものであった。

 警察が事件として捜査することになり、死亡翌日、慶応大病院で隼三君の司法解剖が行われた。その結果、のどから左小脳にかけて長さ7.6センチの割りばし片が頭蓋内に残っていたのだった。つまり隼三君の死因は、割りばしが軟口蓋から口蓋底を穿破し小脳を突き刺したことによる頭蓋内損傷だった。

 隼三君の死因が割りばしであったことを公表したのは、杏林大病院ではなく警察であった。警察の発表後、杏林大病院は記者会見を開き遺族に謝罪したが、病院側は「割りばしがのどの奥の硬い骨を突き破って、脳に達することなど想像できなかった。また医師の言葉に本人がうなずいていたので意識レベルは保たれ、入院やCTスキャンが必要な状況ではなかった」と述べ、病院側にミスがなかったことを強調した。

 隼三君を診察した耳鼻咽喉科医師は2年間の研修を終えたばかりだったが、病院側は「担当医師は、耳鼻咽喉科の専門教育を受けており、患者の診療にまったく支障はなかった」と説明した。

 この不幸な事件の最大の争点は、医療上のミスがあったかどうかだった。家族にとっては、最高の医療を備えている救急病院で大丈夫と言われ、その翌日に死亡したのだから納得できないのは当然であった。マスコミは杏林大病院側の医療ミスとの記事を書いた。

 しかしこの事故を知った医師からは、担当医を責める声は少なかった。多くの医師は、過去の経験に基づき診察するが、これまで割りばしが口に刺さった事故はあったとしても死亡例はなかった。死に至るような事態になるとは思ってもいなかった。もし100人の医師がいたとして、何人が適切な医療行為をしたであろうか。割りばしを病院に持参していれば、その短さから体内残留を考えただろうが、割りばしは持参されず、救急隊は「割りばしは抜けていた」と担当医に言っていた。隼三君を診察した医師は、隼三君が呼び掛けに反応し、呼吸や瞳孔に変化が見られず、割りばしが頭蓋内まで刺さっているとは思いもせず、異常なしと判断したのだった。

 死亡直後に行われたCT検査では血塊は映っていたが、割ばしは確認されていない。つまりたとえ来院時にCT検査を行っても割りばしが映っていない可能性があった。

 平成121012日、杉野隼三君の両親は適切な診断を怠りわが子を死亡させたとして、大病院と担当医に約8900万円の損害賠償を求める訴えを起こした。杉野さん夫婦は病院に誠意ある謝罪と説明、再発防止対策を求め、真実を明らかにするために東京地裁に提訴した。

 杉野さん夫婦は杏林大病院が詳細な診察をせず、CTやMRIなどの初歩的な検査が欠けていたと主張。また隼三君の死亡後、「先天的に異常があったのかもしれない」「助かっても植物状態」と配慮のない発言をしたことが精神的苦痛を与えたとした。平成14年8月3日、東京地検は治療を行った当時の耳鼻咽喉科医師・根本英樹容疑者(34)を業務上過失致死罪で在宅のまま起訴した。

 この事件は民事事件と刑事事件の両面から争われた。争点はファイバースコープやCT検査を施行すべきだったかどうか、もし検査を行っていたら救命できたかどうかであった。検察側は「ずさんな診察によって、救うことが可能だった命が失われた」として禁固1年を求刑。弁護側は「割りばしによる脳の損傷は予見できず、救命の可能性はなかった」と無罪を主張した。平成18年3月28日、東京地裁の川口政明裁判長は、根本英樹医師に無罪の判決を下した。ファイバースコープやCT検査を施行すべきであったが、それらの検査をして脳外科が担当しても治療は困難で、延命の可能性は極めて低いとしたのだった。

 平成20年2月12日、東京地裁は民事事件についても病院と医師の過失責任を否定し、両親の請求を棄却した。この事件は1審、2審ともに医師、病院側の過失を認めなかった。

 医療にはまさかと思う落とし穴がある。医師は常に最悪の事態を予想して診察に当たるべきである。しかしこの事件は極めてまれな例であった。担当の医師はこのような事態になるとは予想もしていなかった。医師の力量不足を言う者がいるが、この事件は不可抗力の部分が大きいと思われる。

 この不幸な事件は、子供を持つ親たちの強い関心を引いた。病院のミスを指摘する者、割りばしを持たせて歩かせた親の責任を言う者、救急医療の不備を指摘する者、綿あめ製造者の責任を言う者。このように多くの議論があるが、いずれにしても偶発的な事故であった。

 病院側にミスがあったかどうかは別として、歯ブラシを口にくわえて歩き回らない、はさみなど先の鋭いものを持って歩かない、もし持つ場合は先端を手で包んで持つなどのしつけが必要である。マスコミは医療事故が起きるとすぐに犯人を捜し、一種の判官びいきをおこなうが、このような事故が二度と起こらないようにするには、事故予防の啓蒙に努めるべきではないだろうか。

 

 

 

慶応大医学部・集団レイプ事件 平成11年(1999年) 

 平成11年7月31日、慶応大医学部の男子学生5人が集団レイプ事件により警視庁四谷署に逮捕されていたことが明らかになった。この事件は、同年5月6日、医学部ヨット部の学生を中心としたグループが、新宿でほかの大学の女子大生たちと合コンを行ったことがきっかけであった。合コンが終わると、新宿区内にある男子学生のマンションに女子大生2人を連れ込み、そのうちの1人の女子大生(20)を集団でレイプしたのだった。もう1人の女性はマンションから逃げ無事であった。

 暴行を受けた女子大生は翌日、警視庁四谷署に婦女暴行の被害届を提出。四谷署は7月5日に5人を逮捕した。逮捕されたのは医学部4年生(23)、医学部2年生(19)3人、医学部1年生(18)であった。この逮捕後に5人と女子大生の間で示談が成立し、女子大生が告訴を取り下げたため23歳の男子学生は不起訴処分で釈放され、残りの4人は未成年のため身柄を家庭裁判所に送られた。

 慶応大医学部は臨時教授会を開き、事件にかかわった5人全員を退学処分にすることにした。猿田享男医学部長は退学の理由として、「将来、患者を助ける立場にありながら不当な行為に及び、慶応大医学部という立場を無視し、非人間的、非倫理的なことを行った」と述べた。5人を人間性において、医師になる人間として不適格としたのだった。慶応大では、前年11月にセクシュアル・ハラスメント(性的嫌がらせ)防止を目的に「ハラスメント防止委員会」を発足させ、翌4月にはパンフレットを配布して学生を指導していた。

 この集団レイプ事件は、学生たちの蛮行もさることながら、子供にマンションを与えていた親の財力、男性のマンションに深夜ついて行った女子大生の非常識が話題になった。慶応大医学部という名門で起きた事件だけに、やっかみも加わり大きく報道された。

 集団レイプが起きたマンションは、信濃町駅から歩いて数分の場所にあった。慶応大医学部に近い新宿区の1等地で、群馬県の病院の院長であるA学生の叔父が1棟を所有しているマンションで、Aの家族は親子3代にわたる慶応出身の医師だった。

 主犯格とみられる4年生のB学生の父親は東大医学部教授で、母親も女医という家庭環境にあった。また2年生のC学生の父親は、人権派弁護士として知られていた。C学生はこの事件で退学後、千葉大医学部を受験して合格したが、過去を知った千葉大が再入学を拒否したという後日談がある。

 強姦(ごうかん)は親告罪なので、女性側の告訴がなければ起訴はできない。また起訴前に示談が成立して、告訴が取り下げられれば起訴はできない。しかし本件のような輪姦(りんかん)は親告罪ではないため、被害者の告訴がなくても起訴となった。

 今回、5人は退学という制裁以外に、刑事事件において輪姦の罪を問われることになった。慶応大医学部で起きたレイプ事件は、受験戦争で勝利した学生が、患者を診る医師としてふさわしいかどうかが問題となり、試験の成績と人間としての常識は必ずしも一致しないことを示していた。

 この慶応大医学部生の集団レイプ事件と前後するが、平成11年5月、三重大医学部でも学生によるセクハラ事件が起きている。三重大医学部の学生たちが津市内のカラオケボックスなどで数回にわたり「王様ゲーム」を行い、負けた女子大生たちの服を脱がせるセクハラ行為を繰り返していたことが発覚したのである。王様ゲームとは「割りばしに番号を書き、当たり番号を引いた者が王様となり、ほかのメンバーに好きな命令を下す」というもので、当時の若者の間で流行していた。

 被害を受けたのは女子学生が、医学部の人権問題委員の教官に相談したことから事件が発覚。男子学生らは女子大生を呼び出し、被害を受けた女子大生は4人であった。平成11年7月22日、三重大医学部はセクハラ行為があったとして男子学生5人に退学処分、4人に無期停学、4人に厳重注意の処分を下した。

 三重大医学部の珠玖洋学部長は「医学部という高い倫理観が求められる学部で起きた事件で、また患者という弱者を守るべき医学を目指す学生として許されない行為」として、重い処分にした。この事件の処分は学内にとどまり、刑事事件には発展していない。

 三重大医学部は医学部学生を対象に、事件の経緯について3時間に及ぶ説明会を開いた。学生からは事実関係や処分の妥当性について質問が相次いだ。退学処分となった1人は「あれはゲームの延長でセクハラではない。退学処分は事実誤認に基づいたもので不当である」として津地方裁判所に提訴した。

 セクハラや痴漢行為は女性の受ける印象によって決まるという曖昧(あいまい)さがある。女性の訴えが本当であっても、相手を陥れようとする作為的なものであっても、男性側の弁解が通用しないのである。医師を志す者はそれだけ高い倫理観が求められ、この心構えの欠如が事件を引き起こしたであるが、可能性は低いものの冤罪を否定することはできない。言えることは、くれぐれも注意することである。

 

 

 

和歌山県立医大ミルク点滴事件 平成11年(1999年)

 平成6年1011日、午後9時頃のことである。和歌山県立医大病院に入院していた女児の静脈にミルクが誤注入される医療事故が起きた。生後4カ月の女児は心臓疾患のために、同医大の高度集中治療センターに入院していた。看護師が女児の静脈のチューブにミルク約6ccを注入し、女児はミルク注入から約1カ月後に死亡した。

 女児の身体には数本のチューブが付けられており、看護師が鼻に入れていたミルク用チューブと、静脈につながっていた点滴用チューブを間違えたのである。看護師は医療ミスを上司に報告したが、病院側はミルク注入と死因との間に因果関係はないとして家族へ説明しないことにした。しかし平成9年2月になって、この医療事故が発覚した。

 事故当時、病院側が家族に医療事故を伝えない方針であったことが組織的な事故隠しと非難されたが、それに加えて看護記録を改竄(かいざん)していたのだった。誰が看護師にカルテの改竄(かいざん)を命じたのかは不明のままであった。

 和歌山県立医大は医療ミスを認め、女児の両親に慰謝料300万円を支払うことで示談が成立した。この医療事故は示談によって一件落着と思えたが、予想しない展開となった。平成11年6月、事故の詳細がホームページに掲載されたのである。

 ホームページの名称は「医療事故防止対策研究会」となっていて、手書きのカルテ、担当医の名前と顔写真、会議の録音音声、メモなどが掲載されていた。さらに女児の担当だった当時の助教授が看護師にカルテ改竄(かいざん)を命じたこと、助教授が事故の情報を漏らさないように関係者に脅迫状を送りつけたことが書かれていた。

 このホームページに掲載された手書きのカルテは、盗まれた光ディスクに保存されていたものだった。高度集中治療センターでは、入院患者約3000人分のデータを23枚の光ディスクに保存していたが、そのうちの13枚が盗まれていたのだった。

 平成12年3月1日、和歌山県警は事故当時助手として働いていた医師の小野知美(39)を私文書偽造、窃盗、名誉棄損容疑で逮捕した。小野知美は和歌山市内のインターネット喫茶から、「医療事故防止対策研究会」と名付けたホームページを匿名で送信していたのだった。さらに県警は、小野知美が借りていた銀行の貸金庫から光ディスク13枚を押収。罪名を名誉棄損としたのは、ホームページで看護記録の改竄(かいざん)を女児の担当助教授が命じたと実名で書いてあったからである。

 ミルクを誤注入した看護師は、業務上過失傷害で起訴猶予処分となっていたが、和歌山地裁に証人として出廷。法廷で看護師は「小野知美がカルテ偽造を執拗(しつよう)に命じた」と証言したのだった。一方、小野知美の弁護側は上司だった助教授が執拗に書き直しを迫ったこと、医療事故の公表は公益が目的だったこと、光ディスクは第三者から送られてきたもので窃盗ではないと無罪を主張した。

 平成15年2月14日、和歌山地裁の小川育央裁判長は、検察側の主張を全面的に認め、小野知美に懲役2年、執行猶予3年の有罪判決を言い渡した。小川裁判長は「看護師の証言は信用でき、ホームページでの公表は公益目的のように受け取れるが、助教授に言動を注意されたことへの報復的な犯行。小野知美と助教授は常に病院で対立しており、逆恨みによる悪質な行為」と述べた。

 ホームページに掲載された助教授のパスポート写真は、小野知美が深夜に病院に侵入して、助教授の机から盗んだとした。医療現場での上司と部下との対立、チーム医療が重要とされている医療現場において、ある意味では恐ろしい事件であった。

 

 

 

横浜市大患者取り違え手術 平成11年(1999年)

 平成11年1月11日、横浜市金沢区にある横浜市立大付属病院(腰野富久病院長)で、心臓手術予定の男性患者A(74)と肺手術予定の男性患者B(84)が取り違えられ、手術が行われる前代未聞の事件が起きた。この信じられない事件がどのように起きたのか、この事件を単なる初歩的なミスとして扱うのではなく、日本の医療が抱えているシステム上の問題として考えてみたい。

 横浜市大病院の第1外科病棟では、看護師は3つのグループに分かれて、グループごとに受け持つ患者を決める方式を採用していた。このグループ別による看護方式は米国の看護制度(モジュール)をまねたもので、患者と主治医の関係と同じように、なるべく看護師が特定の患者を担当できるようにするためであった。米国のモジュールを取り入れてのことであるが、患者1人当たりの看護師の数が、日本は米国の3分の1以下なので、ゆがみが生じないはずはない。

 朝8時20分、ちょうど病棟では看護師の申し送りの時間であった。そのため深夜から徹夜で働いていた看護師C(27)が心臓手術予定の患者Aと肺手術予定の患者Bが乗った2台のストレッチャー(担送車)を交互に動かし4階の手術室に向かった。患者A、患者Bは看護師Cのグループの患者でなかったため、看護師Cは患者A、患者Bと面識がなかった。

 手術室の入り口まで搬送すると、看護師Cは患者A、患者Bと一緒にカルテを手術室窓口の看護師Dに手渡した。患者の取り違えは、この時の氏名の確認に不備があった。それぞれの担送車の下のかごに患者Aと患者Bのカルテが入れてあったが、もしこのとき、カルテと患者を照合して確認していればこの取り違えは起きなかった。しかし看護師Dは患者Aに対し、「金曜日にお伺いしたDです。Bさんよく眠れましたか」と声をかけたところ、患者Aは「はい」と答えた。また看護師Dが「Bさんおはようございます」と声をかけると、患者Aはうなずいた。

 2人の患者は自分の名前とは違う名前にうなずいたが、これは手術前の緊張に加え、患者Aには麻酔前にモルヒネが投与されていて、患者Bは耳が遠かったために反射的にうなずいたのである。手術室のスタッフは患者確認のため、会話の最初に相手の名前を言うようにしていたが、術前の麻薬投与や難聴の患者は、その確認をすり抜けてしまうという落とし穴があった。看護師Dと2人の麻酔科医は、1月8日の金曜日に患者Aを病室に訪ねていたが、手術日が月曜日だったため、患者の取り違いに気付かなかった。

 患者Aについて手術室では次のような経過をたどった。麻酔科医Kが「Bさん、点滴をやりますよ」と声をかけて点滴を確保。患者の背中に狭心症治療薬フランドルテープが貼ってあったが、麻酔科医Kは疑問を持たずにはがして硬膜外麻酔を始めた。研修医T、術者である執刀医R(助手)、執刀医S(講師)が入室。手術は午前1005分に開始された。

 患者Bの手術は、肺の腫瘍が悪性かどうかの診断のためだった。開胸手術で悪性ならば肺を摘除する予定であったが、ここで偶然が働いた。患者Aにも患者Bの肺と同じ部位に嚢胞様病変(良性の変化)が認められたことから、肺の嚢胞切除術が行われ、午後1時50分に手術は無事に終了した。

 一方、患者Bは手術室で、手術担当看護師HとIが、心電図のシールを貼って血圧計を巻きながらAさんの名前を言うと、患者Bはハイと返事をした。その後、麻酔科医Mが手術室に入室。麻酔科医Mが「Aさんですか。おはようございます」と声をかけると患者Bはうなずいた。麻酔科医Mは患者の顔を見て何の疑問も持たず、次に麻酔科医L(助手)、麻酔科医V(教授)が手術室に入室してきた。

 麻酔科医Mは金曜日に病棟を訪ねたときには、入れ歯と聞いていたのに歯が全部そろっていたこと、患者の髪が短く白髪が多いことに気付いた。またカテーテルを挿入して肺動脈圧、肺動脈楔入圧を測定すると、術前の異常が見られなかった。食道から超音波検査で病変を確認しようとしたが、術前の所見と異なり左心房の拡張を認めず、また僧帽弁逆流も軽度であった。

 午前9時15分、執刀医グループの医師Q、N(助手)が入室。麻酔科医L、Mと執刀医N、Qは、もしかすると患者はAではないのかもしれないと思った。しかし患者の頭髪が短いのは、前日に散髪したと解釈。肺動脈圧、肺動脈楔入圧が正常なのは、麻酔によって末梢血管が拡張して一見正常に見えていると考えた。エコーの所見が前回と違っていたが、それは病状が変化したためと解釈した。麻酔科医Mは、念のため看護師Iに、患者Aが病棟から手術室に降りているかどうかを病棟に確認するように指示した。

 看護師Iは、「Aさんの手術をしている手術室のものです。医師がAさんの顔が違っていると言っているというのですが、Aさんは降りていますか」と病棟へ問い合わせた。病棟看護師は、「Aさんは確かに手術室におりています」と返事をしたため、Iは「Aさんは間違いなくおりています」と手術室内の全員に伝えた。

 午前9時35分、心臓血管外科グループの指導者外科医Y(講師)が、手術立ち会いのため手術室に入室。外科医Yは麻酔科医に、肺動脈圧および経食道エコーの所見が術前と異なること、患者Bの顔が、以前Yが外来で診察したときの患者Aと異なる印象を持ち、「違うのではないか」と言った。しかし手術担当看護師Iから「Aさんは病棟から降りている」との返事があったこと、ほかの医師から疑問が出なかったことから、Aさん本人と考えた。

 執刀医N、Qは、麻酔科医が外科医Yと話しているのを聞いていたが、外科医Yが特に指示を出さなかったため、手術は午前9時45分に開始された。胸骨と心膜を切開後に、執刀医グループの責任者であるX(教授)が、午前1040分頃に手術室に入室した。

 外科医Yと執刀医Xは、検査結果を再検討したが、肺動脈圧の低下、高度だった僧帽弁逆流が軽度なのは、麻酔薬による末梢血管拡張、人工呼吸により肺うっ血が軽快したためで、見かけ上心機能が改善していると解釈した。その後人工心肺を開始、左心房を切開して弁の逆流試験を行った。弁の逆流は予想よりも軽度であったが、僧帽弁前交連よりの逆流、前尖の肥厚・逸脱と腱索延長を認めた。同部が病変と考え僧帽弁形成術を施行した。再度逆流試験を行い、逆流の消失を確認して、午後3時45分、患者Bの心臓手術が終了した。

 手術後、患者Aは午後3時50分に、患者Bは午後4時20分に、それぞれICUに移動した。患者AはICU6番ベッド、患者BはICU5番ベッドに運ばれた。午後4時40分、ICUの看護師が5番ベッドの患者Bの体重を測定、その結果を見た患者Aの主治医O(助手)と麻酔科医Mは、患者Aの体重(60kg)と異なるため、この患者はAさんではないのではと疑った。午後4時45分、ICUの医師Z(患者Aの元主治医グループの1人)が、患者Bを診察し患者Aの主治医Oに「Aさんとは顔が違うのでは」と言った。主治医Oも「そういえば、もう少し眉毛と髪の色が濃かったような気がする」と答えた。

 ICUの医師Zはひょっとしたら2人が入れ替わったのかもしれないと思い、隣の6番ベッドに行き患者Aの心音を聴くと、10月に検査入院したときと同じ心雑音が聴かれた。そこで6番ベッドの患者Aに「Bさん」と呼びかけると、「はい」との答えがあったが、「お名前は何ですか?」と聞いたところ、「Aです」との答えが返ってきた。

 これが患者取り違い事件のあらましである。

 横浜市立大付属病院の説明によると、取り違えられた男性患者2人はいずれも高齢で体形も似ていた。病棟の看護師、手術室の看護師はそれぞれ本人の名前を呼んだが、それ以上本人の確認を取らなかった。手術室では本人確認はすでに終わっていると判断、髪の長さの違いは散髪をしたと思い込んでいた。さらに肺手術室では、心臓病患者特有のフランドルテープが背中に貼ってあったが、何の疑問もなくはがしてしまい、頭部と背中には以前に受けた手術の跡があったがチェックせず、結局30数人の専門家がかかわりながら、間違いに気付かなかったのであった。また自己血輸血を予定していた患者の血液を、そのまま別の患者に輸血していたが、偶然、血液型が同じだったため大事に至らなかった。

 この前代未聞の横浜市大患者取り違え事件は、日本中に大きな波紋を引き起こした。また日本中が医療不信となるきっかけをつくったが、この事件には多くの問題が含まれている。

 まず心臓や肺という重大な手術を行うのに、医療スタッフのほとんどが患者と面識がなかったことである。また患者の確認行為も名前を呼ぶだけのものであった。これは人間を相手にした医療ではなく、流れ作業による修理工場の姿であった。このことは巨大化し、複雑化した現在の病院全般に共通することであった。

 多くのマスコミがこの事件を単純ミス、犯罪的行為と解説しているが、最も大切な部分が欠落している。それは「1人で2台のベッドを運ぶことは、物理的にも困難なのに、なぜ1人の看護師が2人の患者を手術室に運んだのか」という点で、それは看護師が人手不足だったからである。不注意が重なって重大な結果を招いたことに弁護の余地はないが、ここで指摘したいのは、病院における人手不足が、医療事故を誘導したということである。

 例えば、米国では患者を搬送するのは救急救命士の資格を持つ搬送専門家がいて、看護師が患者を搬送することはない。米国では「1人の患者を数人の看護師が看る」のが常識であるが、わが国の大学病院では「1人の看護師が10人の患者を看る」のが通常で、今日でも改善していない。

 大学病院でさえ、このような人材不足である。医療従事者が少ないのは、先進医療がなかった古い時代の看護師定員を、増員していないからである。看護師増員を真剣に求めてこなかった大学関係者の怠慢、増員要求に応じなかった文部官僚と厚生官僚の責任である。また少ない人員で診療しなければ赤字を招くという診療報酬のなせるところであった。わが国の国民1人当たりの医療費は米国の半分にも及ばず、先進国では最下位である。すなわち日本の医療費を増やして、患者にリスクを負わせる医療を早急に改善すべきであるが、それがなされていないのである。「医療費を増やせば、医者を儲けさせる」というのは化石的発想で、患者取り違えの医療ミスの根底にある人材不足を改善させるべきである。

 医療情報の開示が流行語になっているが、わが国の病院の医療従事者は極めて少なく、国民がいかに大きなリスクを負い医療を受けている事実を国民に知らせなければいけない。

 日本の大学病院の病床当たりの看護師数は米国の3分の1、欧州の2分の1以下で、医療事故がいつ起きてもおかしくない環境にある。今回の事故は、この実態を垣間見させたが、医療人不足を指摘する声は極めて小さい。今回の不幸な事故を教訓に、病院医療の根本的な解決に向けての議論が高まることを期待したが、マスコミはいつものように犯人捜しに終始した。

 平成13年9月20日、横浜地裁で業務上過失傷害の罪に問われた横浜市大病院の医師と看護師の計6人への判決公判がであった。田中亮一裁判長は患者確認という医療行為で最も根本的かつ基本的行為を怠り、医療への信頼を大きく失墜させ、また社会的影響も大きいとして5人に有罪判決を言い渡した。

 取り違えの原因をつくった手術室看護師・河埜陽子(36)に禁固1年(執行猶予3年)の実刑判決。病棟看護師・山口昌子(28)は患者名をはっきり伝えずに引き渡したとして罰金30万円の判決であった。判決理由としては、河埜陽子は手術室前の通路で山口昌子に患者2人を続けて渡すように指示し、さらに患者名を確認せず、カルテを一緒に受け取らないミスを重ね、このことが今回の事件での過失が最も重いとした。

 心臓の執刀医の元第1外科部長・高梨吉則(57)は患者の心臓の状態が手術前の検診より良好だったのに取り違えに気付かずに手術したとして罰金50万円。肺の執刀医の冨山泉(37)は患者の肺に腫瘤が見つからなかったのに手術を続けたとして罰金30万円。麻酔科の宮原宏輔(30)は、患者の背中に心臓の病気の治療剤(フランドルテープ)が貼られていたのに、肺の患者と思い込んでテープをはがして麻酔をかけたとして罰金40万円。佐伯美奈子(32)は麻酔前の問診で患者の名前を呼び、疑問に思って電話で病棟に確認させ、周囲の医師にも相談するなど注意義務を尽くしたとして無罪になった。

 横浜市大病院は「患者取り違え事故」をきっかけに事故の防止策を検討、患者の手首にカルテ番号や名前を明記した識別バンドをつけ確認を徹底するようにした。それまでは医師や看護師は患者の顔を覚えておくべきとの原則論から、患者をモノ扱いする識別バンドは見送られていた。そのほか手術スタッフによる術前の患者訪問、患者に名前を名乗ってもらう方法、麻酔開始時の主治医の立ち会い、1病棟からの複数の手術は時間をずらすこと、などが挙げられた。

 患者2人はこの事件から1年以内に、取り違え手術とは無関係の病気で死亡している。このことは結果論とはいえ、2人の患者の手術はもともと不必要だったといえる。

 

 

 

都立広尾病院医療事故 平成11年(1999年)

 平成11年2月11日、東京都立広尾病院(東京都渋谷区恵比寿)でリウマチの手術を受けた女性患者に間違って消毒剤が点滴され死亡する医療事故が起きた。死亡したのは千葉県浦安市の主婦・永井悦子さん(58)で、関節リウマチを患っていた悦子さんは左手中指の関節の手術を前日に受け、その日は感染予防の抗生剤と、血液凝固を防止するためのヘパリン生理食塩水の点滴を受けるはずだった。しかし永井悦子さんに点滴されたのは別の患者に使用するはずだった消毒液ヒビテングルコネートだった。ヒビテングルコネートは外傷などで汚染された皮膚などを消毒するための薬剤で、点滴ではなく消毒剤であった。永井悦子さんはヒビテングルコネートの点滴を受けた直後の午前9時頃、胸が苦しいと訴え30分後に意識が低下し、救命処置がとられたが1044分に急死した。もちろん消毒剤の点滴による死亡であった。

 広尾病院によると、看護師・亀井晴子(29)がナースセンターの処置室で、悦子さんの点滴の準備と、別の患者に使う消毒液(ヒビテングルコネート)を同じタイプの注射器で吸い上げていた。悦子さんに投与される予定のヘパリン生理食塩水液が入った注射器は夜勤の看護師がすでに6本つくっていて、それぞれの注射器には「ヘパ生」(ヘパリン生理食塩水)とフェルトペンで書かれ、冷蔵庫に入れてあった。点滴の準備していた亀井看護師は、冷蔵庫からこのうちの1本を取り出し処置台の上に置いて、次ぎに消毒液を注射器に吸い上げる作業を行った。

 ヘパ生は静脈から点滴するもので、消毒液は外用として皮膚の創部を洗浄するものである。この無色透明の2つの薬剤が同じ10mlの注射器に詰められ、同じテーブルに並んでいた。2つの薬剤の外観はまったく同じで、取り違えが起きても不思議ではなかった。亀井看護師は消毒液を入れた注射器に「ヒビテン」と書いた紙を貼り、亀井看護師が病室に注射器を持ってゆき、別の看護師・丹内貴子(25)が注射を行った。注射した丹内看護師は注射器に「ヘパ生」の文字を確認したと証言している。

 しかし患者急変、点滴を準備した亀井看護師は驚き、処置室に残されていた1本の注射器を見たところ「ヘパ生」と書いてあり、さらに同じ注射器に「ヒビテン」と書いた紙が貼ってあった。亀井看護師は間違いがあってはいけないと動転し、この注射器をすぐにごみ箱に捨てたが、病院が捨てられた注射器の成分を調べたところヘパリンが検出された。つまり消毒液「ヒビテン」が患者に投与されたことになるが、ごみ箱に捨てられた注射器になぜ「ヘパ生」、「ヒビテン」の両方が表示してあったのかは不明のままであった。患者に直接投与した注射器は見つかっていない。

 この医療事故は看護師の不注意によるものであった。医療事故を防ぐために、薬剤の確認は看護師1人では行わず2人以上のダブルチェックとしているが、今回はそれを擦り抜けてしまった。悦子さんの病理解剖が行われ、死因は急性肺血栓塞栓症によるものであった。消毒液ヒビテン液を注入した場合、急性肺血栓塞栓症を引き起こすかどうかは、前例がないので分からないが、いずれにしてもヒビテン液の注入による死亡であった。

 医療の事故が起きた場合は、即座に警視庁に届ける義務があるが、広尾病院が警察に届けたのは事件発生から11日後の2月22日であった。届け出までに日数がかかったことを、病院側は解剖結果が出るのを待っていたためと説明したが、遺族が被害届を出したことを知り、仕方なく届けたというのが真相であった。

 遺族側は、病院が通報を意図的に遅らせたとして院長らを医師法違反などで告訴した。警視庁捜査1課と渋谷署は点滴を行った看護師や病院関係者から事情聴取を行った。患者の遺体はすでに火葬されていたため司法解剖はできず、注射器に入ったヘパ生とヒビテン液は事故直後に破棄されていたため、病院の診療経過や消毒液の保管状況などの捜査が進められた。

 警視庁捜査1課と渋谷署が残されていた女性患者の血液や臓器などを専門機関に鑑定を依頼、その結果、女性患者からヒビテンの生成物が検出され死因が確実となった。

 3月3日、警視庁捜査1課と渋谷署は、院長、医師、看護師、都衛生局副参事ら計9人を業務上過失致死と医師法違反の疑いで東京地検に書類送検した。業務上過失致死容疑で送検されたのは前院長・岡井清士(64)、主治医(41)、当直医(29)、30歳と26歳の看護師2人だった。医師法違反と虚偽有印公文書作成では岡井前院長、前副院長(59)、副院長(59)、主治医、病院事務局長(56)の5人が、医師法違反では都衛生局副参事(51)が、証拠隠滅では前院長、主治医、30歳の看護師の3人が送検された。

 この医療事故は病院側が間違った点滴で主婦を死亡させたことに加え、事故の通報を遅らせ、死因を偽るなどの悪質な事故隠しがあった。医師が変死であることを知りながら死亡証明書の死因欄に「病死及び自然死」と虚偽の記載をしていたのだった。医師法では医師が「異状死体」を取り扱った場合、24時間以内に警察に届け出ることを義務づけている。異状死体の定義はあいまいであるが、診療中または診察直後に急死し死因が不明の場合を含めることが、法医学会のガイドラインで定義されている。

 今回の医療事件は、事故直後に看護師が薬剤を取り違えたことを医師に報告。病院側が医療事故を早くから認知していた。警視庁は医師法違反での立件可能と判断した。また医師法違反に問われた都衛生局副参事は、病院側が警察に通報することを決めたのに、通報を見送らせたとされている。岡井前院長と主治医は、事故直後に点滴した注射器を捨てた疑いがあった。

 平成12年8月30日、医療ミスで患者を死なせたことを隠蔽したとして、医師法違反などに問われた岡井元院長(64)ら4人の初公判が東京地裁(小倉正三裁判長)で開かれた。岡井元院長と都衛生局副参事の秋山義和被告(52)は無罪を主張し、「医療ミス隠し」の刑事責任をめぐって検察側と被告側が対決することになった。

 岡井元院長は「医師を指揮監督する立場になかったことから、起訴事実をすべて否認します」と述べ、秋山課長も「警察への届け出を遅らせる行為をしていない」と否認した。業務上過失致死罪に問われた同病院看護師の亀井晴子(30)、丹内貴子(27)両被告は「間違いありません」と起訴事実を認めた。

 小倉正三裁判長は「薬剤の取り違えという通常では考えられない初歩的なミスをした責任は重大である。誤薬投与で苦しみに襲われ、命を落とした被害者の無念さは察するに余りある」として亀井晴子看護師には禁固1年(執行猶予3年)、丹内貴子看護師には禁固8月(執行猶予3年)を言い渡した。秋山義和・元都衛生局副参事については医師と共謀する認識があったとは考えにくいとして無罪とした。秋山義和は医師ではなく、医療ミスの内容も十分な情報を得ていなかったとした。 

 今回の事故で一番問題になったのは、無色無臭の点滴用薬剤と外用薬剤が同じ注射器で管理していたことである。またこの事件の背景には、看護師の慢性的な過労があった。医療現場では間違いは決して許されないのだから、看護師にはミスを犯さないような余裕のある勤務状態にすべきだった。今回の事故は看護師だけのミスというより、多忙な医療システムが生んだ事故と言える。

 届け出を遅らせた主治医(41)は医師法違反で罰金2万円、医業停止3カ月の処分となった。医師法違反などの罪を問われた岡井清士元院長は最高裁まで上告したが、平成16年4月13日、最高裁は懲役1年執行猶予3年の判決を下し、また医業停止1年の行政処分を受けた。この医療事件で注目すべきは、無罪を主張していた岡井清士元院長が最も重い罰を受けたことである。異状死をすぐ警察に届けなかった義務違反が問われたのである。

 医師法21条は「医師は、死体又は妊娠4月以上の死産児を検案して異状があると認めたときには、24時間以内に所轄警察署に届け出なければならない」と異状死体の届け出を義務付けている。この医師法21条は明治7年に設定された法律で、本来、犯罪捜査に協力する観点からつくられたものである。

 病院長にとっては、病院の名誉のため、部下を守るため、それまで医療ミスを隠くそうとする傾向があった。しかし今回の事故で、隠そうとした院長が最も重い刑罰を受けたため、この事故以来、病院長の保身的心理から、医療事故の可能性があればすぐに公表し、当事者を警察に通報するようになった。医療における不幸な結果が、医療ミスが確実ならば通報は当然であるが、正当な治療によるものなのか、医療ミスによるものかの判断は困難な例が多いのである。それにもかかわらず、24時間以内のしばりがあるため、灰色でも白の事例でも、院長は不明の時点で警察に届けるようになった。届けられた警察にとっては、それは自首と同じと捉え、灰色でも白でも、当事者を犯人と思い込み取り調べるようになった。

 

 

 

血液透析で劇症肝炎の集団発生 平成11年(1999年)

 平成11年5月27日、加古川市の福原泌尿器科医院で血液透析を受けていた腎不全患者8人がB型肝炎ウイルスに感染、2人が劇症肝炎で死亡、3人が入院中であると兵庫県が発表した。兵庫県は感染調査委員会を設置して、カルテなどから5人以外に劇症肝炎で死亡したと思われる患者が1人いること、さらにこの発表から2カ月後に2人の患者が劇症肝炎で死亡する事態となった(最終的に6人が死亡)とした。

 感染調査委員会は患者の血液検査から感染源と思われるB型肝炎ウイルス(HBV)キャリアー(保菌者)を特定した。当時、福原泌尿器科医院では123人の患者が透析治療を受けていて、死亡した患者とHBVキャリアーから検出したウイルスのDNAが一致したことから、院内感染と断定した。患者は「生理食塩水や注射器の使い回しがあった」と証言したが、感染調査委員会は感染経路不明とした。

 当医院で透析を受けている98人(80%)がC型肝炎ウイルスに感染していた。C型肝炎は血液によって感染するが、当時、人工透析患者のC型肝炎感染率は1520%とされており、当医院のC型肝炎80%の数値は、当医院の衛生管理がいかにずさんだったかを示唆していた。

 HBVは母親から乳児への垂直感染が有名である。しかし昭和61年からHBe抗原陽性の妊婦に対してワクチンを投与することになり、新たなHBV患者は激減した。しかし昭和61年以前に生まれた人たちは、無症候性キャリアーになるので、血液に接する機会の多い医療施設で感染する可能性が高かった。

 この事件の5年前の平成6年、東京・新宿の西新宿診療所で劇症肝炎の集団感染が起き、人工透析を受けていた慢性腎不全患者5人がB型肝炎ウイルスに集団感染し、4人が劇症肝炎で死亡していた。東京都の劇症肝炎調査班は「感染源は同じ時間帯に透析を受けていたB型肝炎のキャリアー患者で、透析時の管注や採血などの行為によって、ウイルスが体内に入った可能性が考えられる」としたが、実際の感染経路は不明だった。患者の透析の順番を分析しても分からず、注射器の使い捨ても守られていたので感染の証拠がつかめなかった。調査班は同診療所に感染予防の徹底を指示するだけであった。

 血液透析によるB型肝炎ウイルス感染については、平成9年2月に、金沢大医学部付属病院で集団院内感染が起き1人が劇症肝炎になっている。平成12年6月頃、宮城県塩竃市内の医院で透析中の5人の患者が感染し劇症肝炎で4人が死亡している。5人の患者のウイルス遺伝子が一致していたが、感染源、感染経路は不明であった。

 さらに平成18年8月には、京都市山科区の音羽病院で人工透析中の患者8人がほぼ同時期にB型肝炎ウイルスに感染し、5人が入院となった。また平成19年2月には、大阪府枚方市の佐藤病院で、人工透析中の入院患者2人がB型肝炎ウイルスに感染し、1人が劇症肝炎で死亡している。

 劇症肝炎の年間発生数は数千人とされ、A型、B型肝炎ウイルス、そのほかのウイルス感染、薬剤の副作用などが引き金になる。劇症肝炎は肝機能が短期間に低下して、意識障害や臓器不全が起きる。急性肝炎の1〜2%が劇症化して、劇症化した患者の約半数が死亡する。血液透析施設でのB型肝炎ウイルスの集団感染、劇症肝炎の発生頻度が高い理由については不明であるが、透析施設で高頻度に起きていること、ウイルスのDNAが一致していることから院内感染によるものとされている。

 日本に人工透析が導入された当時、透析施設でウイルス性肝炎の集団感染が多くみられていた。感染対策がなされている現在でも、C型肝炎の感染が散発している。透析室は大部屋で、多数の患者が、同時に週に数回の血液の体外循環を行っている。さらにHBVは室温において少なくとも7日生き続けることができるので、感染経路が不明であっても血液による院内感染があっても不思議ではない。このことからも、患者を手当てする度に手袋を替え、手を洗うなど細心の感染防止が必要である。なお血液透析スタッフのHBV感染のリスクは高くないことから、透析スタッフに対して定期的に検査を行う必要はない。

 

 

 

ライフスペース事件 平成11年(1999年) 

 平成111111日夕方、千葉県成田市のホテルから成田警察署に「4カ月以上も宿泊している異様な集団がいて様子がおかしい」と通報があった。警察署員が駆け付けて12階の部屋を捜査すると、ミイラ化した男性の遺体を発見した。その遺体は兵庫県川西市の小林晨一(66)さんであることが分かった。これだけでも異様な事件であるが、事情を聴かれた長男の健児(31)は「父親はまだ生きている」と主張したのだった。

 小林晨一さんは脳出血で兵庫県伊丹市の病院に入院していたが、長男の健児が「ライフスペース」の指導者・高橋弘二(61)に相談すると、「病院にいると、モルモットにされてしまう」と言われ、7月2日に小林晨一さんを病院から連れ出し、飛行機で成田市のホテルに連れてきた。しかし翌3日、痰を気道に詰まらせて窒息死したのだった。長男の健児は「ライフスペース」のメンバーだった。

 「ライフスペース」とはもともとは自己啓発セミナーで、バブル期には設立者の高橋弘二のセミナーにおよそ1万人が参加していた。それが次第に宗教色を帯び、高橋弘二はヒンズー教のシバ神を信じ、自分をグル(指導者)と名乗り、「前世のカルマを落として病気を治す。頭部を手で叩き続けると病気を治せる」と言うようになった。高橋弘二はマスコミに、「小林さんは病院で危険な状態にあったが、頭を叩く治療で順調に回復しミイラは生きている。司法解剖をすると死んでしまう」と語った。

 1124日、千葉県警は「ライフスペース」の関連団体の家宅捜索を行うと9人の子供が生活しており、ミイラ化した遺体をふく作業をさせられていた。施設には食料はなく、子供たちは学校に行っていなかった。ライフスペースは、「国の教育は信頼できず、子供たちには独自の教育をしていた」と主張した。

 平成12年2月22日、高橋弘二と小林晨一さんの長男の健児らが、保護責任者遺棄致死容疑で逮捕された。しかし高橋弘二は「司法解剖されるまで小林さんは生きていた」と主張を変えなかった。

 平成13年9月28日、高橋弘二は「ミイラは日本に存在しないのだから、ミイラ事件は起こり得ない」と起訴事実を否認したが、千葉地裁は保護責任者遺棄致死罪で長男の小林健児に懲役2年6カ月、執行猶予3年を言い渡した。翌14年2月5日、高橋弘二に懲役15年の実刑判決を言い渡した。高橋弘二は控訴したが、東京高裁は懲役7年の判決を下した。罪が半減されたのは「小林さんを病院から連れ出した時点で殺意はなく、悪質性が高いとはいえない」としたからである。高橋弘二は上告したが、最高裁は「医療を受けさせる義務があるのに、放置したのは殺人罪に当たる」と述べ、救命措置を怠った不作為を殺人と認め、上告を棄却した。

 この「ライフスペース」事件とほぼ同時期に、宮崎ミイラ事件が発覚している。平成12年1月20日、宮崎市の住宅地でミイラ化した男児(6)と乳児の遺体が発見された。遺体は、平成9年12月に会員の男性(35)が、ネフローゼ症候群の息子を加江田塾に預け、約1カ月後に死亡したが、そのまま放置していた。さらに平成11年2月には、女性が本部で未熟児を出産して、10日後に栄養失調で死亡させていた。この事件は加江田塾代表である東純一郎(56)が主導したものであった。東純一郎は平成7年に加江田塾を設立し、自分を「創造主の代理人」と称して、「病気の原因は先祖の因縁や人の恨みによるもので、病院は金儲けを目的とする悪である」とし、手かざし治療で信者を集めていた。加江田塾には約50人の塾生と、不登校やいじめに悩む子供たちが集団生活をしていた。

 平成14年3月26日、宮崎地裁は東純一郎と塾幹部の富樫明美に懲役7年を言い渡し、2人は上告するも最高裁は上告を棄却して懲役7年が確定した。

 日本には仏教、神道、キリスト教など多くの宗教がある。宗教を信じるのは自由であるが、カルトもまた宗教の1つである。宗教とカルトの線引きは難しいが、カルトとは「熱烈な信者がマインドコントロール(洗脳)によって独自の世界観を持ち、反社会行動を引き起こす聖なる集団」と呼べばよいだろうか。

 

 

 

 ジャガイモの恐怖 平成11年(1999年) 

 ジャガイモの原産地は、南米大陸アンデスの高原である。16世紀にインカ帝国を征服したスペイン人がジャガイモを欧州に持ち込んだが、欧州では食料として普及しなかった。それはエリザベス女王1世がジャガイモを食べ、若芽に含まれる有毒物質ソラニンによる中毒を起こしたからである。そのため欧州では、ジャガイモには毒が含まれていると広く信じられていた。

 しかしプロシャのフリードリッヒ大王がジャガイモの毒性を知りながら、生育期間が短く、冷害に強いため、凶作から人々を救う作物として栽培を奨励した。当時のプロシャは毎年のように飢饉に襲われ、フリードリッヒ大王はジャガイモを普及させるため、「栽培を拒否する農民は鼻を切り落とす」と命じた。ジャガイモによってプロシャは飢饉から救われ、やがてジャガイモはドイツの食卓に欠かせない穀物となった。

 1598年、オランダ船がインドネシア・ジャカルタ(ジャガタラ)から日本にジャガイモ持ち込み、ジャガタラからきたイモ、すなわちジャガイモと名付けた。ジャガイモは馬鈴薯ともいうが、これは馬に付ける鈴の形に似ていたことによる。

 ジャガイモはサツマイモよりも早く日本に伝来したが、日本人が肉食でないことからサツマイモの方が先に普及した。高野長英は著書「二物考」で、飢饉に備える食べ物としてジャガイモの利点を述べているが、日本で普及したのは明治政府が北海道の農民に種芋を無料で配ってからである。

 ジャガイモに毒が含まれていることは、エリザベス1世の例からも分かるように古くから知られていた。有毒物質ソラニンはジャガイモの中に0.02%含まれ、理論上、体重60kgのヒトが10kgのジャガイモを一度に食べれば死ぬことになるが、これまでこのような事例はない。ソラニンはジャガイモの緑の表皮部分、新芽の部分に多く含まれる。

 かつての人たちはこの常識を知っていたが、最近では忘れられ、昭和58年6月8日、埼玉県富士見市の小学校でジャガイモを食べた4年生273人のうち、99人がおう吐、腹痛などの症状を示した。食べたジャガイモは理科実習用に栽培されたもので、割れ目全体が緑色を呈していた。

 平成11年7月14日、福岡市玄洋小学校で理科の授業として校庭で栽培したジャガイモを皮のままゆでて食べ、6年生28人中19人がソラニン中毒となった。このときのジャガイモは直径約5センチと小さく、未成熟なためにソラニンを多く含んでいた。担当教官は芽を切り落とし、緑色の部分を捨てたが、小さなジャガイモが危険であることを知らなかった。

 平成12年7月15日、広島県廿日市の阿品台東小学校の理科の授業で、6年生34人がジャガイモをゆでて食べ、26人が吐き気や腹痛を訴えた。平成13年6月16日には、赤穂市内の幼稚園でジャガイモを食べた園児と職員33人が中毒症状を呈した。これもやはりソラニン中毒だった。

 平成13年9月21日、栃木県塩谷町立船生小学校で校内の畑で栽培したジャガイモを食べ12人が中毒症状を訴えた。食べたジャガイモは収穫から約2週間、教室のベランダに置いた後に、家庭科の授業でゆでて食べたのだった。日光を浴びたジャガイモは中身が緑色になっていて、担当教官はソラニンの存在さえ知らなかった。

 日本のソラニン中毒例のほとんどは、このように小学校の教育実習で起きている。生徒が栽培したものを食べる体験は貴重だが、自然界には有害なものがあることを知るべきである。

 日本では重症例はないが、海外では1969年(昭和44年)、英国ロンドンの小学校で放置されていたジャガイモが給食に出され、給食から6時間後に78人が症状を示し17人が入院、3人が重症となった。3人は低血圧、頻脈から昏睡状態となったが6〜11日後に回復した。

 1918年(大正7年)のスコットランド・グラスゴーでは、ジャガイモを食べた61人が頭痛、おう吐、下痢をきたし5歳の少年が死亡している。朝鮮戦争の時には、北朝鮮でくさったジャガイモを食べた住民382人が倒れ、52人が入院、22人が死亡する悲惨な事故も起きている。

 ソラニン中毒の症状は、頭痛、おう吐、腹痛、疲労感で、重症の場合には脳浮腫を生じる。小児の場合には意識の混濁、昏睡からけいれんを経て死亡することがある。ソラニンは神経末端のアセチルコリン分解酵素を阻害するため、副交感神経の刺激症状が出現する。

 ソラニンは、ジャガイモのすべての部分に含まれているが、茎、芽、皮下に多く存在する。またソラニンは太陽や紫外線で増加するので、収穫後は暗幕をかぶせることである。中毒の予防は、緑色の部分を取り除くのではなく、緑化したジャガイモを食べないことである。小学校の中毒例は、その多くが栽培での土寄せが不十分なため、光が当たり緑化したジャガイモを食べたことによる。

 ソラニン中毒には効果的な治療法ない。ソラニンは胃からの吸収が遅いため、摂取後4時間以内であれば、胃洗浄、吸着剤と下剤の投与が有効とされている。いずれにしても治療を必要としない軽症例がほとんどである。

 

 

 

感染症新法 平成11年(1999年) 

 これまでわが国の感染症対策は、100年前の明治30年に制定された「伝染病予防法」に基づいて行われてきた。この100年の間に医学や医療は飛躍的に進歩し、国民の衛生意識や衛生水準も向上し、さらに国際交流が活発化したことから新たな感染症対策が必要となった。感染症をめぐる状況は100年前とは大きく変化し、かつては治療法がなく、患者隔離によって社会を防衛する思想が根底にあった。

 新しい時代の感染症に対応できるように、さらには患者の人権尊重を含め、患者が適切な医療を受けられるように、また早期に社会復帰できるように法律が制定されることになった。感染症新法の正式名は「感染症の予防及び感染症の患者に対する医療に関する法律」で平成11年4月1日より施行された。

 感染症はそれまで「法定伝染病」「指定伝染病」に分類されていたが、感染症新法では再分類されることになった。感染の危険度により、感染症を1から4類に類型化し、分類に沿った対策が定められた。また国際化によって、対応がこれから必要になる新たな感染症を「新感染症」として、不測の事態に対応できるようにした。

 最も危険性が高い1類感染症に含まれるのは、日本での発症はまだないが、エボラ出血熱、クリミア・コンゴ出血熱、ペスト、マールブルグ病、ラッサ熱などの6疾患であった。

 これまでの伝染病予防法では赤痢、腸チフス、コレラなどは強制入院が必要だったが、感染症新法ではこれらの疾患は2類感染症に分類され、入院は強制ではなく状況に応じて入院となった。つまりこれまでの強制入院が解除されたのである。

 3類感染症は保菌者が飲食業などで働くことを制限し、腸管出血性大腸菌感染症(O-157)も含まれている。4類感染症にはインフルエンザ、エイズ、劇症型溶連菌感染症などが含まれ、国が発生動向調査を行い、医療従事者や一般に広く情報を公開すると明記している。なお天然痘はすでに根絶されていることから、感染症新法から除外され、患者が激減している日本脳炎は4類感染症になった。

 感染症新法の特徴として、患者の人権尊重が挙げられる。日本ではこれまで1類感染症の発生はないが、2類感染症の中で危険性が高い患者のみ入院の手続きが必要と規定された。しかも患者が入院に不服があるときは入院拒否の審査請求をすることが可能となった。新法には、制定の趣旨について次のような前文が付されている。

 「わが国において、過去にハンセン病、エイズ患者などに対するいわれのない差別や偏見が存在した事実を重く受け止め、これを教訓として今後に生かすことが必要である。感染症患者の人権を尊重しつつ、良質かつ適切な医療の提供を確保し、感染症に迅速かつ的確に対応することが求められており、これまでの感染症の予防施策を抜本的に見直す」

 この感染症新法によって、日本では事実上の強制入院はなくなったといえる。また感染症新法が成立したことから、「伝染病予防法」「性病予防法」「エイズ予防法」は廃止された。感染症新法は患者の人権を保障し、医療の充実という期待を抱かせた。感染症新法は、結核を除いた3つの法律を100年ぶりに改変統合した画期的なものであった。なお感染症新法は平成1511月に改訂され、4類感染症の類型が4類と5類感染症に再分類されている。

 

 

 

埼玉県本庄市連続保険金殺人事件 平成11年(1999年) 

 この事件の発端は、平成11年7月11日、産経新聞が「薬物?で保険金殺人、知人3人に10数億円。容疑の金融業者、あすにも家宅捜索」との見出しで記事を報じたことであった。それ以降、新聞、テレビ、週刊誌の記者たちが埼玉県の本庄市に殺到し、疑惑の人物・八木茂への取材合戦が行われた。

 八木茂は保険金殺人のために3人の愛人を利用していた。3人の女性とは自分の経営する酒場の店長・武まゆみ(32)、その店員・森田考子(38)、フィリピン国籍の元パブホステスのアナリエ・サトウ・カワムラ(34)であった。八木茂は狙った男性と愛人を偽装結婚させ、男性が死ねば法律上の妻である自分の愛人に多額の保険金がおりる仕組みを作ったのである。

 平成9年5月、元パチンコ店従業員・森田昭さん(61)と森田考子を結婚させ、平成10年7月には元塗装工・川村富士美さん(38)とアナリエ・サトウ・カワムラを結婚させた。男性2人は八木茂に多額の借金があり、結婚すれば借金を棒引きにすると説得されてのことだった。彼らが結婚してから、一緒に生活していなかったことからも偽装結婚は明確であった。

 平成11年5月29日、森田昭さんが八木茂と酒を飲んだ後、自宅で不審な死を遂げた。その翌日、川村富士美さんが薬物中毒で深谷市の病院に入院した。そして入院した川村富士美さんが病院から逃げだし、「毒を飲まされた」と警察に駆け込んだのである。このことが事件発覚のきっかけとなった。

 死亡した森田昭さんには2億円の生命保険がかけられ、受取人は妻の森田考子が1億円、八木茂が1億円であった。森田昭さんの死因は化膿性胸膜炎と肺炎であったが、長期間にわたり栄養剤と称して大量の風邪薬を服用させられていた。この情報をマスコミに流したのは建脇保さん(48)だった。建脇保さんは殺された森田昭さん、薬物中毒に陥った川村富士美さんと同じように、武まゆみと偽装結婚させられ、3億2300万円の生命保険に加入させられていた。建脇保さんは「私も八木に殺されそうになった。森田さんと川村さんには、いつか殺されるかもしれないと注意していた」とマスコミに話したのである。建脇さんは事件が起きる半年前に、身の危険を感じ本庄署に相談したが警察は動かなかった。

 薬物中毒に入院した川村富士美さんは17の保険会社と契約して10億円の保険をかけられ、受取人はアナリエ・サトウ・カワムラになっていた。川村富士美さんも長期間にわたり大量の風邪薬を飲まされ急性肝障害をおこしていた。埼玉県警は川村富士美さんの嘔吐物から風邪薬と思われる錠剤を発見した。

 さらに4年前の平成7年6月14日、アナリエ・サトウ・カワムラの前夫である佐藤修一さん(45)が行田市内の利根川で水死体で発見されていた。死後約1週間が経っていて遺書があったことから警察は自殺として扱っていた。佐藤修一さんには保険金2億8000万円がかけられていて、その大部分は八木茂に渡り、7000万円が株の購入に、300万円で金融会社「国友商事」を設立していた。アナリエ・サトウ・カワムラには約2000万円が渡され、約200万円をフィリピンの家族に送金、残りの大半は武まゆみの住宅購入に使われていた。このアナリエ・サトウ・カワムラが、その後、川村富士美さんと再婚したのであった。

 マスコミが騒いでから、八木茂逮捕までの8カ月間、八木茂は毎晩のように自分が経営するパブや居酒屋で疑惑を否定する「有料記者会見」を開いた。その会見回数は203回に及び、マスコミ相手に1000万円以上の収入を得ていた。八木茂は最後まで強気な態度で、自らの潔白を主張し、「やってないんだから、事件にならないよ」と何度も繰り返した。森田考子やアナリエ・サトウ・カワムラも八木茂に連れられて記者会見を行い、森田考子は「急死した森田昭さんと結婚したのは優しいところにひかれたから」、アナリエ・サトウ・カワムラは「川村さんが倒れた日は一緒に夕飯を食べた。薬を飲ませるわけがない」と疑惑を否定した。八木茂はマスコミの前で勝手放題の発言を繰り返していたが、警察は逮捕できずに内偵捜査を続けていた。

 この事件はお茶の間の劇場型犯罪といえた。八木茂はワイドショーに連日のように出演、観客である国民は、犯人の言い訳を聞きながら事件の経過を眺め、逮捕の瞬間を待つ構図だった。マスコミがリードしたこの事件の構図は、1年前に起きた和歌山県のカレー事件と似ていた。

 埼玉県警は100人態勢で捜査を進め、8人に総額約24億円の生命保険がかけられ、八木茂が月150万円を超える掛け金をすべて払っていたことが分かった。疑惑がマスコミで報じられてから8カ月間、捜査本部が逮捕できなかったのは毒物を立証できなかったからである。

 しかし武まゆみの父親が大量の風邪薬とアルコールの併用で急性肝炎を起こし約4カ月間入院していたことが分かった。このように市販の風邪薬に含まれている「アセトアミノフェン」とアルコールを大量に服用すると、死に至るほどの危険性があった。一般の風邪薬には1錠150mgのアセトアミノフェンが入っていて、アセトアミノフェン20.4gを服用して自殺した例があった。八木茂が武まゆみの父親の風邪薬中毒をヒントに、殺害目的で多量の風邪薬を飲ませていたのだった。しかし森田昭さんの司法解剖ではアセトアミノフェンは検出されず、記者会見でも「毒物は1000%出ない」と八木茂は強気の発言をしていた。しかし森田昭さんの毛髪から大量のアセトアミノフェンが検出されたのである。

 平成12年3月24日、埼玉県警捜査1課と本庄署は八木茂と女性3人を偽装結婚(公正証書原本不実記載容疑)で逮捕した。もちろんこれは殺人と保険金詐欺事件を立証するための別件逮捕だった。八木茂は逮捕される際に、マスコミにVサインを示し、笑顔をみせ、すぐに釈放されるような態度を見せた。

 八木茂ら4人は容疑を全面的に否認していたが、4月27日の浦和地裁での公判で武まゆみは「逮捕事実に間違いありません」と容疑を全面的に認めたのだった。さらに水死した佐藤修一さんの遺体からトリカブトに含まれる毒素アコニチンが検出され、佐藤修一さんの保険金にかかわる詐欺容疑と殺人容疑で4人は再逮捕となった。八木茂を除く女性3人は、トリカブト入りあんパンを食べさせて殺害したことを認めた。

 保険金殺人の中心人物である八木茂は、旧中山道の宿場町である埼玉県本庄市で生まれ育った。17歳から無免許で砂利運搬業を行い、砂利運搬トラックの会社を設立、会社は高度経済成長の波に乗って成功。22歳から金融業を始め、事業で儲けた金を知人に貸して儲けていた。昭和55年にカラオケスナックを始め、当時カラオケスナックは珍しかったこともあって、売り上げは月に1000万円を超えることもあった。

 八木茂の金への執着は強く、「金のためなら何でもする」が口癖だった。スナックの客の中で金に困っている男性を見つけると、住居を与え自由に飲み食いさせて、偽装結婚させると生命保険に加入させ、受取人を妻にしていた。男性たちには「いなくなったら親族から借金を取り立てる」と脅していた。

 金の魅力に取りつかれた八木茂は、いつも派手な身なりで、複数の外車を乗り回し、高価な貴金属を身に着けていた。女性関係も絶えることなく、逮捕された3人の女性以外にも愛人を何人か囲っていた。

 八木茂は、武まゆみの小料理店、アナリエ・サトウ・カワムラのスナックで男性たちにアルコールと風邪薬を毎日大量に飲ませ、風邪薬の成分「アセトアミノフェン」を凶器にしていた。アセトアミノフェンを大量に摂取すると肝機能障害を来し、アルコールと一緒に飲むと毒性が倍増するのだった。今回、症状が軽度だった川村富士美さんは、年齢が若く体力があっただけでなく、飲酒のたびにトイレで嘔吐を繰り返して風邪薬を吐き出していたのである。一方、死亡した森田昭さんは吐くことはなく、店で寝込んでも起こされては再び酒と薬を飲まされていた。

 八木茂は本庄市や花園町のドラッグストアで風邪薬を大量に買っていたが、「犯罪に使うのであれば、近くで買うはずがない」と主張し、検察側の主張を否定した。また武まゆみが「佐藤修一さん殺害にトリカブト入りのあんパンを食べさせた」と証言したのに対し、八木茂は「トリカブトを見たことも触れたこともない。武まゆみの証言はうそです」と否定した。

 八木茂と3人の女性は分離して裁判が行われ、平成14年2月28日、さいたま地裁は武まゆみに無期懲役の判決を下した。金山裁判長は「犯行実現のため不可欠の役割を果たし、八木茂に準じてその刑責は重い」とした。アナリエ・サトウ・カワムラは懲役15年、森田考子は懲役12年であった。平成1410月1日、さいたま地裁は八木茂に死刑を言い渡した。八木茂は上告したが、平成20年7月17日、最高裁(泉徳治裁判長)は上告を棄却し死刑が確定した。

 

 

 

所沢ダイオキシン汚染 平成11年(1999年)

 平成11年2月1日、報道番組・ニュースステーションで所沢産の野菜から高濃度のダイオキシンが検出されたことが報道された。「汚染地の苦悩・農作物は安全か?」と題した報道によって視聴者の不安があおられることになった。テレビ朝日は「所沢の野菜のダイオキシン濃度は非常に高い数値。40kgの子供がホウレンソウを20g食べると世界保健機関(WHO)が1日の摂取量として決めた基準値に達してしまう」と、焼却炉からの灰がホウレンソウに降りかかる画像を背景に解説した。この報道の翌日から所沢産のホウレンソウは暴落し、埼玉産の野菜までがスーパーの店頭から姿を消すことになった。所沢市産のホウレンソウが約4000万円の損害、埼玉県産の野菜全体では約3億円の損害となった。

 このダイオキシンのデータは民間調査機関である「環境総合研究所」(東京都品川区、青山貞一所長)が独自に調査したもので、所沢の野菜の葉っぱものから1グラム当たり最高3.8ピコグラム(1ピコは1兆分の1)のダイオキシンが検出されたという内容であった。この数値は、厚生省が全国調査した野菜類のダイオキシン最高濃度の9倍であった。

 この騒動で真っ先に疑惑の目が向けられたのは産業廃棄物業者だった。所沢市北部から狭山市、川越市、三芳町にまたがる「くぬぎ山」地区には、雑木林に30カ所以上の焼却炉の煙突が林立し、狭い道を次々に大型トラックが通り抜けていた。積み上げられた建築廃材、煙突からの黒い煙などから「くぬぎ山地区は産廃銀座」と呼ばれ、ダイオキシン汚染を想像させるに十分であった。ダイオキシンは猛毒で、2月15日、埼玉県は業者に産廃焼却炉の操業自粛を要請したほどであった。

 しかし2月18日、埼玉県が「テレビ朝日が報道したダイオキシン濃度の野菜はせん茶である」と発表。葉っぱものとテレビで報道されたのは、ホウレンソウではなく、乾燥加工されたお茶の葉だったのである。お茶の葉であれば、お湯を注いでもダイオキシンは最大限1.7%しか溶け出さないことから問題はなかった。テレビ朝日はこの事実を知らずに報道したのだった。

 環境総合研究所は「サンプルを提供してくれた農家に迷惑がかからないように葉っぱものと表現した」と弁解したが、「ホウレンソウの映像を背景に葉っぱもの」と放映すれば、ホウレンソウなどの野菜を連想するのが当然のことであった。「お茶の葉を、野菜の葉っぱもの」と表現したのは誰が考えても間違いである。

 2月18日、ニュースステーションの番組で、久米宏キャスターは「ホウレンソウの生産農家の方に大変な迷惑をおかけしました」と両手をついて頭を下げた。その一方で、テレビ朝日は誤報ではないとして訂正放送には応じず、風評被害には該当しないと見解を示した。この番組の背景には、所沢市農協(JA所沢)が2年前に市内の野菜のダイオキシン濃度を調査したのにそのデータを公開しなかったことがあった。公表しなかったことから、公表できないほど高濃度に汚染されていると誤解したのである。JA所沢への情報開示が、テレビ朝日の番組作成の趣旨であった。この騒動後、JA所沢は「ホウレンソウなどのダイオキシン濃度は、厚生省が全国調査した平均値とほぼ同じ程度だった」と述べ、それまで公表しなかったのは、国の安全基準がないことから風評被害を生むことを避けたかったと説明した。

 埼玉県は安全宣言を出し混乱も収拾に向かったが、野菜の価格は約2カ月以上も混乱することになった。中川昭一農林水産相は「国民を惑わす風評被害の最たるものだ」と述べ、番組での訂正を申し入れ、衆院逓信委員会はテレビ朝日の伊藤邦男社長を参考人として招致し、6月には野田聖子郵政相がテレビ朝日に厳重注意の行政指導を行った。

 9月2日、所沢市の農業生産者の有志376人が「野菜の汚染報道により野菜価格が暴落した」として、テレビ朝日と環境総合研究所に総額約2億円の損害賠償と謝罪を求める訴訟を浦和地裁に起こした。テレビ朝日は「JA所沢が情報開示しなかったので、問題を提起したのであって、補償は情報公開しなかったJA所沢と国の責任」と反論した。

 浦和地裁は、「一般視聴者がテレビ報道から受ける印象は千差万別で、テレビ局の報道による表現行為を著しく規制することになりかねない」として、農民側の請求を全面的に棄却した。1審、2審ともテレビ朝日が勝訴したが、上告審の最高裁(横尾和子裁判長)は、「放送内容が真実だったとは証明されない」と述べ、1審、2審判決を破棄して東京高裁に差し戻した。テレビ朝日は「最高裁の事実認定に誤りがある」と争う姿勢をみせたが、最終的に和解に応じ、「報道に不適切な部分があり、所沢産の野菜の安全性に疑いを生じさせ、農家に多大な迷惑をかけた」と農家側に謝罪し、和解金1000万円を支払うことになった。

 テレビ朝日が和解に応じた本音は分からないが、裁判で勝つことよりも世論を恐れたのではないだろうか。農家側は和解金の900万円を三宅島の農業再建のため、100万円を所沢市の子供の「食農教育」のために寄付をした。

 環境汚染による風評被害については、平成元年5月、敦賀湾の原子力発電所の「放射能漏れによる魚介類の売り上げ減」での名古屋高裁金沢支部判決がある。この裁判では原告の請求を棄却したが、「放射能の漏出数値が安全でも、消費者が魚介類を敬遠する心理は是認でき、事故と売り上げ減には因果関係がある」との見解を示した。今回の訴訟では、ダイオキシン汚染報道と野菜価格の暴落について裁判所は因果関係には触れず、名誉棄損として和解を勧めたのだった。

 当時、国民の健康や安全にかかわるダイオキシンについて、国の基準は決められていなかった。また焼却炉の立地規制や排ガス規制もなかった。環境問題の報道には十分な確認が必要であるが、農作物のダイオキシン汚染は国民の生命と健康に直接かかわることなので、報道を一方的に間違いと罰すれば、警鐘を鳴らすべき報道が萎縮してしまう恐れがあった。報道の使命は「事実の報道、あるいは問題提起」であるが、このダイオキシン騒動は環境問題の報道の難しさ、さらにテレビ報道の影響力の大きさを見せつけられた。

 今回のダイオキシン報道は、所沢市の野菜汚染が焦点になったが、汚染を作り出す可能性のある産業廃棄物焼却施設が所沢市に集中していること、農作物のダイオキシン濃度の安全基準を決めていない行政の不作為が本質的な問題であった。所沢市に集められた産業廃棄物の約半分は東京から運ばれたもので、所沢市は東京の産業廃棄物(年間約400万トン)の犠牲者であって、テレビ朝日は農家と争うより、農家を環境汚染の被害者として、食の安全基準を決めていなかった行政に対して問題提起すべきだったと思われる。

 

 

 

東海村の臨界事故 平成11年(1999年) 

 平成11年9月30日午前1035分、茨城県東海村の核燃料加工会社・JCO(ジェー・シー・オー)の東海事業所で臨界事故が発生し、作業員3人が大量の放射能を浴び2人が死亡、69人が被曝した。日本で初めての臨界事故で、しかも国内最大の原発事故となった。

 JCOは核燃料を加工する民間会社で、民家に隣接した工場でウラン濃縮を行っていた。天然ウランには0.7%のウランが含まれ、原発の燃料には5%、原子爆弾の原料には99%までウランを濃縮しなければいけない。JCO東海事業所は高速増殖実験炉「常陽」の燃料としてウランを19%に濃縮精製する作業を行っていた。

 濃縮ウランやプルトニウムは、一定の量以上になると原子炉と同じように核分裂を起こすことが知られている。この核分裂の連鎖反応をもたらす状態を臨界と呼び、臨界を超えると核燃料は爆発し、強い放射線を放出するのだった。東海村の臨界事故は、ウラン濃縮作業にしては、あまりにもずさんでお粗末なミスによるものであった。

 東海事業所では酸化ウランを精製するため、仮焼還元室と呼ばれる部屋で、3人の作業員が硝酸溶液にウランを溶かし、不純物を沈殿させる作業をしていた。正規のマニュアルでは臨界事故を防ぐため、溶解塔装置を使用し、沈殿槽に流し込むウランの流量は2.4キロに制限されていた。作業員が流入を間違わないように、流入するウランが一定量以上になると自動停止するように設計されていた。しかしこの安全装置が作動しなかったのである。

 信じられないことであるが、安全装置が作動しなかったのは、作業員が裏マニュアルをさらに簡素化し、ステンレス製のバケツを用いてウランの燃料を沈殿槽に直接注ぎ込んでいたからである。バケツを用いる手作業は、誰も想像もしないことであったが、作業員は放射能の危険を知らずにいたのだった。

 1035分、作業員が規定の約7倍量のウラン溶液(16キロ)を沈殿槽に入れると、突然、青い閃光(せんこう)とともに、中性子線などの放射線が大量に放出したのである。核燃料工場が突如として原子炉となり、放射線発生を知らせる警報が工場に鳴り響いた。

 事故直後の東海事業所の敷地では最高毎時0.84ミリシーベルト(通常は0.0002ミリシーベルト)の放射線量が検出され、1115分に臨界事故の第1報が科学技術庁にもたらされ、1134分、JCOは東海村役場に臨界事故の可能性があると連絡。1152分、大量被曝した3人の作業員が救急車で国立水戸病院に向けて出発した。

 通常の原子力発電所では1日当たり2から3kgのウランが消費されるが、この事故で核分裂を起こしたウラン燃料は1mgだった。1mgと少量であるが、裸の原子炉が瞬時に1mgを分裂させたのだからその被害は大きかった。

 東海村は、1230分、防災放送で「加工工場で事故、外出しないように」と呼び掛け、施設から350メートル以内の住民約160人(約50世帯)を公共施設に避難させ、周辺の道路を遮断した。

 一方、政府の対応は遅かった。1115分に科学技術庁に事故の第1報が入ったが、対策本部(本部長・小渕恵三首相)を設置したのは午後3時だった。夜の10時半になって、施設から半径10キロ以内の住民約31万人(10.7万世帯)に屋内退避が要請された。さらに半径10キロ以内の幼稚園、小・中・高校が休校。日立製作所工場などの工場が休業、農作物の収穫が中止、牛乳が出荷停止となった。住民たちは恐怖を感じながら、ひっそりと家の中にとどまった。

 10月1日、深夜2時35分、核の連鎖反応を止めるためJCO職員が内部に突入、沈殿槽の冷却水を抜き取る作業が始まった。被曝の恐れから1人当たりの作業時間は数分に制限され、18人が2人1組となって必死の作業となった。冷却水が出入りする水道管を外から壊せば冷却水を抜くことができた。

 午前4時頃、水道管をハンマーで壊し、事故から20時間後の朝6時半になって、中性子線の線量が基準値以下になった。この水抜き作業で18人全員が被曝した。10月2日の1830分になって、住民への退避が解除され、小渕内閣はこの事故のため組閣が4日延期されることになった。

 作業をしていた3人は大量被曝により、国立水戸病院からヘリコプターで放射線医学総合研究所(放医研)に搬送された。さらに放医研から2人が東京大病院に転院し、骨髄移植などの集中治療がなされた。3人の皮膚は赤く焼け、嘔吐や下痢の繰り返し重体となった。

 放射線による50%致死線量は4シーベルトで、100%致死線量は7シーベルトであった。7シーベルトは一般人の年間被曝許容量の7000倍に相当する線量である。短時間に大量被曝した場合、細胞の再生能が破壊されるので、最新の医療でも手の施しようがなかった。医師団は刻々変化する症状に必死の治療に当たったが、同年1221日、作業員・大内久さん(35)が死亡、翌年4月27日に篠原理人さんが死亡した。助かった横川豊さんは白血球数がゼロになったが、放医研で骨髄移植を受け、1220日に無事退院となった。この事故で、隣接したゴルフ練習場の作業員3人、住民4人、事故の内容を知らずに出動した救急隊員3人、JCO職員59人が被曝した。

 原発事故は日本では起こり得ないとされていた。高い技術と十分な安全対策がなされている、と誰もが思い込んでいた。ところが放射能の危険性を認識しているはずの作業員が、臨界の危険性を知らず、裏マニュアルをさらに簡素化して作業を行い、さらに放射線量を測るための線量計すらも使用していなかった。このようにずさんな管理体制によって、日本の原子力行政の安全神話は崩壊し、危機管理体制が問われることになった。

 平成1211月1日、越島建三所長ら6人が業務上過失致死罪、原子炉等規制法違反および労働安全衛生法違反で起訴され、平成15年3月3日、水戸地裁は、「臨界事故の背景には会社のずさんな安全管理体制があり、安全軽視の姿勢は厳しく責められなければならない。臨界に関する教育訓練はなされておらず極めて悪質」として、6人に執行猶予付きの有罪判決を下した。

 日本は電力の約3割以上を原子力発電に依存し、原子力発電を否定することはできない。原子力発電は危険性を内在しているが、何重もの安全装置を取り付け、十分すぎるほどの管理体制で危険性はないと誰もが信じていた。しかし今回の事故は、予想もできないほどの軽率なミスによるもので、科学技術の進歩を根底から揺るがすことになった。原子力発電の安全神話の中で、危険性を知らずに作業していた3人は最大の犠牲者であった。

 なお原子力発電所の事故の程度を示すものとして国際原子力事象評価尺度がある。評価尺度は危険性の高い順にレベル7から0の8段階に分類され、東海村の臨界事故はレベル4で、レベル4は「放射性物質の施設外への放出が少量で、従業員の致死量被曝があった場合」としている。過去の例としては旧ソ連のチェルノブイリ原発事故がレベル7、米スリーマイル島原発事故がレベル5であった。日本では平成9年の旧動燃東海事業所の施設火災爆発事故がレベル3となっている。

 

 

 

初の脳死臓器移植実施 平成11年(1999年)

 平成9年6月17日、国会で臓器移植法が成立し、脳死患者からの臓器移植への道が開かれることになった。臓器移植法案は、平成6年に国会に提出されたが審議が延々と継続され、いったんは廃案になるほどの紆余曲折があった。これは死の定義について、全員が納得できる解答が得られなかったからである。

 従来から、死の判定は呼吸や心臓の停止、瞳孔の拡大などを参考に判断されてきたが、法的な死の定義はなかった。そのため「脳死を死とするのか、心臓死を死とするのか」の議論が医療関係者を中心になされてきた。脳死を死と定義すれば、まだ動いている心臓を摘出して移植することが可能であった。脳死は全死亡者の1%以下であるが、これまで心臓死を死とみなしてきたことに加え、脳死の判定基準が絶対に正確とは言えないとの反対論があった。このように「ひとの死の定義をめぐる脳死、心臓死」については、死生論を含めた議論が平行線のまま続いていた。

 臓器移植法は「臓器提供の場合に限り、本人の意思と家族の同意を条件に、脳死を死とする」と、条件付きで成立したのであった。本人の意思とは「臓器を提供する意思を書面により表示している場合」で、具体的には臓器提供意思表示カード(ドナーカード)に記入していることが必要だった。また本人が承諾のドナーカードを持っていても、臓器提供には家族の同意が必要で、さらに15歳未満の小児の臓器提供は禁止されていたため、小児の心臓移植は日本では不可能であった。欧米では本人の意思が不明でも、家族の承諾があれば大人だけでなく小児でも脳死移植が可能で、この点が日本と欧米では違っていた。

 臓器移植法案が成立して1年が経過したが、脳死による臓器移植は行われず、欧米との差は広がる一方であった。2600万枚のドナーカードの配布、公共広告機構などによる宣伝もむなしく感じられていた。しかし法案施行から1年4カ月後、脳死臓器移植が初めて行われるというニュースが突然飛び込んできた。

 臓器の提供患者は高知県高知市に住む40代の女性だった。この女性患者はくも膜下出血のため2月22日に高知赤十字病院に運ばれ脳死状態になっていた。本人が臓器提供を示す意思表示カードを持っていたことから、臓器移植法に基づく脳死判定が行われた。

 脳死とは大脳と小脳だけでなく脳幹の機能も停止し、回復不可能で、呼吸ができないため人工呼吸器を必要とする状態である。これに対し植物人間とは大脳と小脳の機能は停止しているが、脳幹は生きており呼吸も自立している状態を示す。脳死の判定基準は<1>深い昏睡<2>自発呼吸の喪失<3>瞳孔固定<4>脳幹反射の消失<5>平たんな脳波の5項目を満たし、6時間以上の経過で変化がないことであった。

 臓器移植法に基づく日本初の臓器移植は、移植医療の新たなスタートを意味していたが、脳死判定の手順について国のマニュアルがなかった。また情報公開のあり方に問題があった。2月22日に高知赤十字病院に運ばれた患者は自発呼吸がなく、25日には臨床的に脳死と診断された。しかし同日に行われた1回目の脳死判定で「脳波が平坦でないことから脳死とはいえない」とされ、翌26日の再度の脳死の診断で、脳波の平坦が確認されたのであった。脳波が平坦と言葉で表現するのは簡単であるが、脳波はノイズを拾うため平坦と言い切るには勇気があった。さらに無呼吸テストを脳波測定前に行うなど、判定手順に混乱があった。

 高知赤十字病院には大勢のマスコミが津波のように押し寄せ、脳死移植第1号をめぐって激しい報道合戦が行われた。臓器提供者の家族構成などのプライバシーまでマスコミが報道したため、家族の希望により最終的な脳死判定は公表しないことになった。病院の会議室に80人の記者が待機していたが、病院側は沈黙を守ることにした。一方、臓器の摘出や搬送、臓器移植を受ける患者の選択は順調に行われ、受け入れる病院の準備は万全であった。

 高知赤十字病院で脳死判定後に心臓を摘出したのは大阪大医学部付属病院の福嶌教偉(ふくしまのりひで)医師で、同日中にクーラーボックスに入れられた心臓がヘリで大阪大病院に運ばれ、同医師を中心に心臓移植が行われた。大阪大は手術の一部始終をテレビモニターで報道陣に公開した。この公開は患者の了解を得て、移植手術の透明性を高めるためのものだった。心臓の提供を受けた患者は、「臓器を提供いただいた本人および家族の善意に、大変感謝しています」と述べた。

 さらに同日、提供された肝臓が信州大医学部付属病院で移植され、翌3月1日には東北大医学部付属病院と国立長崎中央病院で腎臓移植が、高知医科大で角膜が移植された。心臓移植は31年前の昭和43年に札幌医科大で行われて以来、日本で2例目であった。心臓移植の経過は良好と公表され、足踏みしていた移植医療が新たな一歩を踏み出すことになった。

 高知県の臓器移植を契機に、慶応大病院(同年5月12日)、宮城県の古川市立病院(同年6月13日)、大阪府吹田市の府立千里救命救急センター(同年6月24日)と、脳死からの臓器提供が相次いだ。しかし臓器移植法が成立してから11年間で脳死移植は81例にすぎず、年間2000人以上の患者が待機中に亡くなっている。臓器移植を希望する患者は1万2000人で、これまで500人以上が海外で臓器移植を受けている。国際移植学会は「外国人が地元国民の移植の機会を奪うことは不公平で、正義に反している」と声明を出し、英国、ドイツ、オーストラリアは日本人への臓器移植を中止し、米国では外国人の臓器移植を5%以内とした。

 人口100万人当たりの臓器移植は、スペイン34.3人、米国26.6人に対し日本はわずか0.8人である。脳死移植を希望する患者は、脳死の患者を待つという悲しい現実があるが、心臓移植の5年生存率は9割を超え保険も適用されている。

 日本人の臓器移植は極端に少ないが、国民の44%が「脳死になったら臓器を提供したい」と希望している。しかしドナーカードの普及率は8%と低いのは、ドナーカードの入手方法を知らないからで、これでは脳死移植のシステムが機能していないと言われても反論はできない。臓器提供はドナーカードより、本人の意思を健康保険証に記載すればすむことで、臓器提供を遺言ととらえれば、自己決定権に家族が反対するのはおかしなことである。また医師不足の病院にとっては、外来や手術の業務の中断、マスコミへの対策、許されない脳死判定ミスなどが大きな負担となっている。

 しかし平成217月に臓器移植法が改正され、臓器提供の条件が緩和された。この改正法は平成22717日から施行され、本人が「事前に書面で拒否の意思表示」をしていない限り、親族の同意があれば臓器提供を行うことができるようになった。また提供年齢の制限は撤廃され子供でも臓器を提供でき、親族に臓器を優先的に提供できるようになった。この改正案についてのマスコミ報道はなぜか少なく、そのため国民的合意を素通りして法案が成立した印象が強い。法案改正までの過程は別として、それまで13年間で86例だった臓器移植は、改正臓器移植法によって2か月で8例行われ、臓器移植は飛躍的に伸びることになった。

 

ニッソー事件 平成11年(1999年) 

 平成1112月、フィリピンのマニラ南港で大量の医療廃棄物が混入した危険なゴミが入ったコンテナが見つかった。この事件の発見者は、港湾視察中のエストラダ大統領だった。エストラダ大統領は積み置かれた大量のコンテナを見つけ、コンテナの中身を調査するように指示、すると詰め込まれていたのは1メートル角に圧縮され、黒いビニールに包まれたサイコロ状のものだった。サイコロには木くずや建設廃材とともに、プラスチック、注射器、酸素ボンベ、紙おむつ、包帯など病院から出された医療廃棄物が入っていた。日本での輸出前の積荷報告書にはリサイクル用古紙と書かれていたが、医療廃棄物を含んでいた。

 コンテナが放置されていたのは、現地の輸入業者と税関との関税のトラブルによるものだった。業者は税関幹部から高額なわいろを要求され、それに応じなかったためコンテナが数カ月放置されていた。フィリピン社会ではリベートが慣習化していて、この失敗がなければこの事件は闇に消えていた。

 医療廃棄物とは医療機関から出された廃棄物のことで、血液で汚染された注射針、脱脂綿、ガーゼなどが含まれて、B型肝炎やエイズ感染の恐れがあった。日本で医療廃棄物が注目されたのは、清掃関係者や子供が注射針で手を刺す事件があったからであるが、環境問題として大きく取り上げられたのは、このニッソー事件がきっかけであった。

 フィリピンにゴミを輸出していたのは、栃木県小山市の産業廃棄物処理業者「ニッソー」(伊東廣美社長)であった。フィリピンの新聞は「フィリピンは日本のゴミ捨て場じゃない」と大見出しで報道し、反日感情をあおることになった。さらにコンテナが輸出された時期が、東海村のウラン加工施設で起きた臨界事故から2週間後だったため、放射性廃棄物との憶測から放射能測定まで行われた。コンテナは計122個、2200トンで、この量はマニラ首都圏(人口約1000万人)が1日に出すゴミの半分に相当していた。この悪質な事件によって日本は国際的に恥をさらすことになった。

 ちょうどこの事件が発覚したとき、スイスのバーゼルで「第5回バーゼル条約締約国会議」が開催されていて、有害廃棄物の輸出入に伴う損害賠償が議論されていた。そして1213日、フィリピン政府はバーゼル条約に違反するとして、日本にゴミの回収を要求。そのため日本政府は国費でゴミを持ち帰ることになり、マニラ南港から日本へ「ゴミの強制送還」となった。平成12年1月11日、船に乗せられた廃棄物コンテナ122個が東京港の大井ふ頭に陸揚げされた。ニッソーは倒産していたので、政府がゴミを処分することになり、運送費など2億8000万円の税金が使われた。輸出されたゴミの中には、東邦大大森病院の名前が書かれたものが混入していた。

 平成12年5月15日、栃木と長野両県警の合同捜査本部は、産業廃棄物処理業者「ニッソー」の伊東廣美社長(50)を外為法違反(無承認輸出)の疑いで逮捕した。しかし伊東社長は「ゴミではなく有価物」「国内では多くの業者がやっている」と罪の意識はなかった。さらに長野、岩手、茨城、千葉、栃木県の山中に計3万4000トンのゴミを放置していた。「ニッソー」は1都7県の22業者から約4万トンのゴミを買い集め、圧縮、こん包して不法投棄していて、ニッソーの伊東社長は懲役4年、罰金500万円の実刑判決を受けた。

 当時、医療廃棄物を排出する医療機関は約14万カ所で、医療廃棄物は「特別管理廃棄物」として、免許を持つ産廃業者が医療機関からの委託を受けて焼却処分にしていたが、その実態は把握されていなかった。そのため厚生労働省は、廃棄物の処理及び清掃に関する法律を改正し、医療廃棄物の管理を強化した。改正法により使用後の注射針、脱脂綿、ガーゼなどの感染の恐れのあるものは「特別管理廃棄物」に指定され、マニフェスト(管理票)の記載が義務付けられた(現在はすべての産業廃棄物に適用されている)。

 

エコノミークラス症候群 平成12年(2000年) 

 平成1210月、28歳の英国女性がシドニーオリンピックの観戦を終え帰国後に肺梗塞で急死する事件が起きた。この女性はシドニーから約20時間の飛行機の旅を終え、ヒースロー空港に到着した直後に倒れたのだった。この事件はマスコミが「エコノミークラス症候群」という名称で取り上げたため注目を浴びることになった。女性が急死したのは、同じ姿勢のまま狭い飛行機の中で長時間座っていたからであった。長時間同じ姿勢で座っていると下肢の血流が悪くなり、下肢の静脈に血液の固まり(血栓)ができ、血栓が心臓から肺に流れ、肺動脈を詰まらせるのであった。

 ヒースロー空港のアシュフォード緊急病院は、英国の空港利用客のうち、平成11年の1年間で推定2000人以上がエコノミークラス症候群で死亡した疑いがあると発表。さらに空港や機内での突然死の18%が同疾患によると発表したため騒動となった。

 エコノミークラス症候群の正式病名は肺動脈血栓塞栓症で、肺動脈血栓塞栓症は決して珍しい疾患ではない。長時間下肢を動かさないことが原因で、長時間座ったままのデスクワーク、長距離のドライブ、長時間の観劇でも起こり得る。また病院で手術を受けた患者を長時間安静にさせた場合にも発症することから、術後の患者、出産後の妊婦などは痛みがあっても早期に身体を動かすように病院は指導している。

 マスコミがエコノミークラス症候群と騒いだことから、あたかも飛行機のエコノミークラスがこの疾患の原因と誤解を招くことになり、訴訟社会の欧米では航空会社を訴える動きが見られた。そのため航空業界は「エコノミークラス症候群は座席のクラスとは関係がない」と繰り返し述べ、エコノミークラスのイメージ改善を重ねることになった。

 本疾患は飛行機で起こしやすいが、その発症は長時間の飛行に限られている。つまり国内線では発症せず、飛行時間が6時間以上の国際線で発症の可能性が出てくる。もちろんファーストクラスでも発症するが、エコノミークラスの座席は狭く、足元に荷物を置いて脚を動かさない場合に血栓ができやすいのである。平成14年3月29日、サッカー日本代表の高原直泰選手(22)がポーランド遠征からの帰国時に同疾患で入院。もちろん高原直泰選手はビジネスクラスで、このようにビジネスクラスでも発症するのである。

 飛行機の機内は予想以上に乾燥しているため、本疾患の予防は多めに水分を摂取し、飲酒は脱水を起こしやすいので控え、ゆったりとした服装で足を組まず、定期的に下肢の運動をすることである。窓際の席では通路側の人に遠慮しがちであるが、2時間に1度は機内を歩くことが予防になる。

 深部静脈血栓症による肺塞栓は、日本ではなじみが薄かったが、欧米では比較的多い疾患で、元気だった人が突然死することから恐れられていた。リスクファクターとしては肥満、喫煙、経口避妊薬の服用、深部静脈血栓症の既往、悪性疾患などが挙げられ、米国のニクソン大統領も罹患していた。成田空港の新東京国際航空クリニックの調査では、成田空港では過去8年間で25人がエコノミークラス症候群で死亡したとしている。また平成16年の新潟県中越地震で車内生活を余儀なくされた被災者の中で、エコノミークラス症候群で突然死が相次いだことが記憶されている。

 肺動脈血栓塞栓症はいかに早く診断し、治療するかである。下肢全体にむくみと痛みがある場合、さらに胸痛、呼吸苦があれば本疾患の可能性が高くなる。肺の血流シンチが確定診断になるが、疑いがあれば検査結果を待たずに血栓溶解療法を行うべきである。エコノミークラス症候群とマスコミが騒ぐまでは、肺動脈血栓塞栓症はなじみの薄い疾患であったが、現在では胸痛、呼吸苦があれば鑑別すべき疾患として常識になっている。特に寝たきりの老人では本疾患を常に念頭に置くべきである。

 

 

埼玉医大投薬ミス事件 平成12年(2000年)

 平成121011日、埼玉県川越市にある埼玉医科大総合医療センター(安倍達所長)で医師が過って大量の抗がん剤を入院中の高校2年生・古館友理さん(16)に投与、10月7日に死亡していたことが明らかになった。川越署では投薬ミスによる業務上過失致死として、主治医らから事情を聞くとともに、司法解剖を行い、投薬と死亡との因果関係を調べることになった。

 平成12年4月、古館友理さんは下あごの腫瘍に気付き、近医の耳鼻咽喉科を受診。埼玉医大から派遣されていた墨一郎医師(30)の診察を受け、8月22日に埼玉医大総合医療センターに入院。8月23日に腫瘍摘出術が行われ、病理組織で滑膜肉腫と診断された。

 9月25日、古館友理さんは化学療法のため同センターに再入院。病理診断では滑膜肉腫だったが、墨医師は滑膜肉腫に対し横紋筋肉腫の治療(VAC療法)を予定した。墨医師は教授回診でVAC療法を行うと述べ、上級医師と教授はこの治療法を確認せずに了承した。しかし滑膜肉腫と横紋筋肉腫の治療はまったく違うもので、この治療そのものが大きな間違いであった。9月27日から抗がん剤「ビンクリスチン」が投与された。ビンクリスチンは副作用の強い薬剤で、1週間に1回の投与であったが、墨医師は12日間の連日投与の治療計画を立てた。小児科に勤務したことのある主任看護師はビンクリスチンの連日投与に疑問をもち、使用説明書を墨医師に手渡したが、墨医師はこれを無視した。

 古館友理さんは毎朝、同剤を投与され、同月30日から高熱きたし、10月1日には全身の痛みのため歩けなくなった。その後も症状は悪化し、10月6日に意識障害をきたしたが、家族には睡眠薬を飲んでいるためと説明され、翌10月7日午後1時35分、多臓器不全で死亡した。墨医師がビンクリスチンの投与法を間違え、過剰投与により血小板減少、多臓器不全を引き起こしたのである。

 古館友理さんの死亡時、墨医師は遺族に投薬ミスを説明せず、同センターの耳鼻咽喉科では緊急医局会を開き隠蔽工作を謀ろうとした。耳鼻咽喉科教授・川端五十鈴は投薬ミスを口外しないように墨医師に指示。遺族には病死と告げるようにさせたとされている。墨医師は両親から「抗がん剤の副作用で死亡したのではないか」と質問されたが、「がんが転移して、検査データに問題はなかった。がんがはじけたせい」と説明した。耳鼻咽喉科医局員全員が霊安室に行き、川端教授は父親に「頑張ったが、助けてあげられなかった」と霊安室横の部屋で話した。

 しかし死亡から約6時間後の同日夜7時、同センターの安倍達所長らが「説明不足だった」として女子高生宅を訪れ、「カルテを見たら、抗がん剤を投与する間隔が短すぎた」と説明した。所長は死亡前日に投薬ミスの報告を教授から受けていて、家族に投薬ミスを告げるように指示していたとされている。さらに埼玉医大は記者会見を行い、「当初は混乱しており、説明が不十分だったので、あらためて自宅に伺い説明した。医療事故の可能性は当初から説明している」と述べた。

 1024日、墨医師は弁護士とともに両親宅を訪れ謝罪。経過を詳しく説明した。墨医師は「女子高生が死亡した直後に開かれた検討会で、川端教授から死亡診断書の書き換えを指示され口止めされた。自分は医局の人間なので、自分の意思ではどうしようもなかった」と述べた。しかし川端教授は「口止めや死亡診断書の書き換えの指示はしていない。医局内の口裏合わせや死亡診断書の書き換えは不可能なこと」と弁護士を通して声明を出した。

 古館友理さんの両親は、同医大に対し治療法や投与ミスの状況について説明を求めた。しかし埼玉医大は「刑事事件として警察が捜査中なので、当事者が連絡を取り合うことは証拠隠滅が疑われてしまう」として説明拒否の文書を送付した。同医大は「要望に沿えないことは申し訳ない」とし、耳鼻咽喉科教授ら医師団に弔意を示してほしいという両親の要請にも「差し控えます」と回答した。両親は「担当医はミスの口止めを認めているのに、大学側はなぜ認めないのか。さらに回答書の娘の名前が誤っていて、誠意が感じられない」と述べた。

 今回の医療ミスは「ビンクリスチン」という抗がん剤の説明書に書かれた「パー・ウイーク(毎週)」を「パー・デイ(毎日)」と読み違え連日投与したことによる。墨医師が作成した指示簿には、治療6週目から投与すべき抗がん剤「シクロホスファミド」を治療6日目に、12週間隔で投与するべき抗がん剤「アクチノマイシンD」を12日間隔で投与する計画が書かれていた。墨医師はビンクリスチン以外の2種についても説明書を読み違え、実際にシクロホスファミドを6日目に飲ませていた。墨医師は卒後5年目の医師で、この抗がん剤を使用するのは初めてであった。そこにチーム医療としての体制の不備、上級医師、教授、薬剤師らのチェック機能の不備が重なっていた。

 墨医師は滑膜肉腫の治療として、「ビンクリスチン」「アクチノマイシンD」「シクロホスファミド」の3種類の抗がん剤を投与する「VAC療法」を選択したが、VAC療法は「横紋筋肉腫」の治療法で滑膜肉腫への効果は不明だった。主治医が引用した手引書にもVAC療法は横紋筋肉腫の治療法として記載されていた。滑膜肉腫と診断された友理さんの治療そのものが間違っていたのである。

 平成121231日、埼玉医大は墨医師を懲戒解雇とし、耳鼻咽喉科川端教授を減給としたが、同教授は依願退職することになった。さらに平成13年1月5日、埼玉医大は安倍達所長、院長、副所長、副院長、所長補佐ら5人を解任し、「医療事故が起きたため人事を刷新した」と説明した。

 平成13年5月18日、古館友理さんの両親は同医大と墨医師、耳鼻咽喉科川端教授ら6人を相手に約2億3000万円の損害賠償を求める訴訟をさいたま地裁に起こした。訴訟時の記者会見で、父親は「言葉では言い表せない。わずか16歳で、友理は夢と希望を持っていた」と怒りを込め、母親は「殺されるために入院したようなもの」と涙を流した。

 平成15年3月20日、さいたま地裁の金山薫裁判長は「医師として弁明の余地はない」として、墨医師に禁固2年(執行猶予3年)の判決を下し有罪が確定。耳鼻咽喉科教授・川端五十鈴に罰金20万円、指導医の本間利生に罰金30万円を言い渡したが、検察側が軽すぎると控訴。2審の東京高裁は川端五十鈴を禁固1年(執行猶予3年)、指導医の本間利生を禁固1年6月(執行猶予3年)とした。

 中川武隆裁判長は「川端医師は治療の最終責任者であり、指導医の本間医師は抗がん剤の副作用を的確に把握すべき注意義務があったとした。なお墨医師ら6人と同大学に約2億3000万円の損害賠償を求めた訴訟では、東京高裁は約8370万円の支払いを命じた。

 

 

聖マリアンナ医科大麻酔薬乱用事件 平成12年(2000年)

 神奈川県川崎市の聖マリアンナ医科大病院で、3人の麻酔科医が麻酔薬中毒で死亡していたことが公表された。3人は手術に使うべき麻酔薬を自分に用いて死亡したのである。

 最初に死亡したのは外科医(大学院1年生、28歳)Aであった。Aは平成4年の医師国家試験に合格した後、研修医として第2内科に勤務、平成6年より第3外科の大学院生となり、4月から麻酔科で研修を始めていた。

 平成6年5月14日の日曜日、当直明けで午前中に帰宅したが、午後に出席するはずの友人の結婚式に欠席。翌日になっても出勤していないことを友人が心配し、16日午前10時頃Aの自宅を友人が訪問、死亡しているAを発見した。Aの口元には血液約100mlを吐いたビニール袋があり、部屋には麻酔薬フォーレンの空瓶1本、イソゾール、セボフレン、注射器などがあった。発見時の状況から吸入麻酔薬による中毒死とされた。麻酔薬の入手経路は不明だが、手術室から持ち出したと考えられた。

 Aは死亡する1カ月前、自宅の風呂場で意識を失っているのを家人に発見され、呼ばれた友人医師が腕に駆血帯を巻いて朦朧(もうろう)としているAを見ている。そばにはイソゾールと書かれた注射器が落ちていたことから、使用した麻酔残薬を持ち帰って注射したと考えた。意識が回復したAは同僚らに不眠のため麻酔薬を静注したと告白した。Aは以前にも手術室で麻酔中に朦朧としていたことがあり、吸入麻酔薬らしい瓶をかいでいるのを目撃されていた。麻酔科医であるAが、病院から麻酔薬を持ち出すことは簡単なことで、Aは麻酔薬を常用していたのだった。

 2番目の事故はその5年後の平成11年4月3日に起きた。同病院中央手術部の男子トイレで麻酔科医師B(大学院3年生、29歳)が心肺停止の状態で発見され、心肺蘇生が開始されたが回復せずに死亡が確認された。Bの白衣のポケットからドルミカムと書かれた注射器が見つかった。聖マリアンナ医科大法医学教室で死体検案が行われ、尿の検査でベンゾジアゼピン系薬物、バルビツール酸系薬物による中毒死とされた。Bが使用した麻酔剤ドルミカムは、事故2日前にBが麻酔をかけた患者に使用しており、麻酔後の残量を自分に使用したとされている。

 聖マリアンナ医科大東横病院麻酔科に勤務していたBは、平成8年11月頃、病院内の男子用トイレで点滴を腕に付けたまま意識喪失しているのを発見され、同病院麻酔科医師の手当てを受けていた。平成9年10月にも同様なことがあり、麻酔科の青木正教授が事情を聴取したがBは薬物使用を否定。Bは出向したN病院で、平成11年3月28日、トイレの個室に長時間閉じ込もることがあった。友人の医師が青木教授にこのことを報告、青木教授はBの事情聴取を予定していたが、その直前の死亡であった。Bの遺体検案で左肘窩、左手背部、左手根部に陳旧性の注射痕を認めたことから、以前から薬物を使用していたと推測された。

 平成12年6月23日、聖マリアンナ医科大病院の麻酔科医師C(大学院4年生、29歳)が出勤しないことから、友人医師がC宅に電話をすると、C宅の家政婦が寝室で意識を失っているCを発見。医師がC宅に急行、心肺蘇生を施行しながら同病院救命救急センターに搬送したが午後1時46分に死亡した。Cの尿からベンゾジアゼピン系薬物が検出され、部屋には全身吸入麻酔薬セボフレンの空瓶4本が置かれてあった。東海大医学部で司法解剖が行われ、麻酔薬の吸入による中毒死とされた。Cの自宅から発見された吸入麻酔薬のセボフレンは、ロット番号から同病院に納品されたものではなかった。

 平成1112月頃から、Cは病院から注射器、注射針、点滴セットを持ち出し、医局で自己注射をしているのを、また机の周りに使用済みの注射器があったことが目撃されている。同病院麻酔科医師が青木教授に報告、青木教授はCから事情を聴取したが、Cは全面的にこれを否定。さらに「薬物乱用の疑いをかけた出張病院に対し訴訟も辞さない」と述べた。青木教授はCのX病院での勤務をやめさせ研究業務に当たらせ、医療業務に従事することを禁止した。平成12年5月8日、青木教授はCに精神科医のカウンセリングを受けるよう説得し、Cは週2回精神科を受診していた。

 この3件の麻酔科医師中毒死事件が発生してから、聖マリアンナ医科大は事件を公表し、その対策を発表した。まず使用済みのアンプル数を看護師が1日2回数えること。薬品庫に監視カメラを設置し管理体制を厳重にすること。注射痕を隠すために夏でも長袖の白衣を着る医師に注意すること。麻酔科医22人全員の薬物検査を実施することであった。この事件はアルコールや覚醒剤と同じような視点で論じられたが、この事件の背景には麻酔科医の過重労働があった。

 死亡した3人の麻酔科医に共通することは、ほとんど寝る時間もなく働いていたことである。中には当直が月に17回の医師がいた。当直ではほとんど寝ることはできず、手術中はその場を離れられず、手術がなくても麻酔科医は手術室で待機していなければいけなかった。このことから拘束によるストレスが大きかったといえる。さらに3人は無給の大学院生で、大学の激務に加え、アルバイトで生活費を得なければいけなかった。

 麻酔科医が自分に麻酔をかけるという奇異な事件は、聖マリアンナ医科大だけの問題ではなかった。以前から各地の麻酔科で指摘されていたが、事故が起きても個人的な問題として片付けられ、表沙汰にならなかった。

 日本の人口10万人当たりの麻酔科医の数は欧米の3割程度で、麻酔科医の絶対数不足が麻酔科医の過重労働をまねいている。ストレスから逃れるため、不満や不安などから、手元にある麻酔薬を使用し薬物依存になったのである。さらに少しでも時間があれば眠りたい心理的圧迫が麻酔薬中毒を引き起こしたといえる。

 聖マリアンナ医科大は3人目の死者が出て、ようやく本格的な調査委員会を設置。この3人がかかわっていた手術は計1053件で医療事故は起きていないと発表した。聖マリアンナ医科大、日本麻酔科学会は3人の麻酔科医を麻酔薬乱用者として犯罪者のように扱った。3人の死はあくまでもモラルの欠如によるものとした。

 確かにそうであろうが、3人の麻酔科医を死亡させた過重労働、無給での勤務という大学病院の現状の中で、3人の麻酔科医への哀悼の気持ちがまったく伝わってこなかったのが残念である。もちろん過重労働をまねいた管理者としての謝罪の言葉はなかった。

 

 

 

京都大エタノール事件 平成12年(2000年) 

 平成12年3月2日、京都大医学部付属病院(京都市左京区、本田孔士病院長)で人工呼吸器の加温加湿器に誤ってエタノールが注入され、藤井沙織さん(17)が死亡する医療事故が起きた。藤井沙織さんは生後9カ月の健診で発育遅延が分かり、京都大病院でミトコンドリア脳症と診断を受けていた。

 ミトコンドリアは糖分をエネルギーに変える作用があり、ミトコンドリア脳症はミトコンドリアのDNAに変異をきたし、エネルギー需要の多い脳、筋肉、心筋に障害を引き起こす難病で、手足の運動低下、知的障害、けいれん、意識障害、呼吸障害などを引き起こす。沙織さんの家族は岡山県倉敷市に住んでいたが、治療のため乳児期から京都大病院の近くに引っ越していた。沙織さんは入退院を繰り返し、7歳のときに気管切開を受けていた。

 平成1110月、沙織さんは誤嚥性肺炎で12回目の入院となり、呼吸困難から人工呼吸器を着けることになった。人工呼吸器を用いる場合、気管や肺を保護するため、肺に送る空気を加温加湿する必要があった。そのため数時間おきに約50mLの蒸留水を加湿器に補充することになっていた。

 平成12年2月28日午後5時30分頃、卒後1年目のA看護師が空になった加湿器に蒸留水を補充しようとして、倉庫にある消毒用のエタノール入りのポリタンクをラベルの確認をしないで蒸留水のポリタンクと思い込み、沙織さんの病室に運び込んだ。京都大病院では、それまで蒸留水は500mLの容器を使用していたが、500mLの容器では蒸留水の補充のため頻回に倉庫に行かなければならなかった。また病棟での蒸留水の使用量が増えたことから、看護師の手間を省くため蒸留水を4Lの大容器に替えていた。ところが4Lの蒸留水の容器は5Lのエタノール容器とほぼ同じ形状で、倉庫に並んで置かれていた。容器のラベルも注意しなければ区別がつかなかった。

 加湿器にエタノールが入れられてから数時間後、沙織さんは突然嘔吐し、心拍数が急に増え顔が赤くなった。その症状は急性アルコール中毒によるものだったが、医師は原因が分からず「炎症を示すCRPが2なので、感染症による敗血症性ショック」と家族に説明した。

 3月1日午後11時頃、B看護師が加湿器に注入する蒸留水を取ろうとして、タンクを傾けたところエタノールのラベルが貼ってあることに気付いた。それまで複数の看護師が10数回にわたりベッドの下のポリタンクからエタノールを加湿器に注入していたが、エタノールのラベルはベッド側の見えない片面に貼られていた。そのため53時間にわたり、計1100mLのエタノールが気化した状態で肺に送り込まれていた。藤井沙織さんは3月2日、午後7時54分、息を引き取った。

 主治医(46)は死亡診断書の「病死および自然死」に○を付け、直接死因には急性心不全、その原因をミトコンドリア脳症と書いて家族に渡した。ご遺体が病院を出る際、多くの医師や看護師がずらりと並んで見送った。患者が死亡した場合、主治医と看護師が見送るのは通常であるが、医師や看護師がずらりと並んだことは、この時点で医療ミスを知っており、隠蔽(いんぺい)するかどうか判断がつかず、単に誠意を見せるための偽装と推測される。

 死亡翌日の3月3日午後4時、主治医と婦長が遺族宅を訪れミスであったことを告げた。しかし主治医は、ミスが起きる前から沙織さんは重篤な状態で、死因はあくまで難病による敗血症性ショックであると説明した。主治医が家族と話をしているちょうどその時、京都府警の刑事が突然訪ねてきた。家族が医療ミスの重大性を知ったのは、刑事が司法解剖を強く迫ったからである。

 家族は世話になった京都大病院、主治医、看護師に感謝しており、主治医の病死という言葉を信じていたので司法解剖を拒否したが、刑事は「令状を取ってでも連れて行く。お嬢さんは無念だったろう」と言ったため、その強い口調に同意したのだった。

 京都大病院は3月3日の午後3時頃、川端署に藤井沙織さん(17)死亡の経過概要を届けていた。その日の昼のニュースで、前年に東京都立広尾病院で起きた医療事故で病院長が書類送検されたことが報道され、このニュースが何らかの影響を与えたと思われる。遺体は京都府立医科大で司法解剖が行われ、血中エタノール濃度は5.5mg/mLで致死量に達していた。

 蒸留水とエタノールを間違えたのは、看護師のミスであるが、蒸留水とエタノールが倉庫の中で、同じ形の容器で、並んで置いてあったからである。蒸留水がそれまでの500mL容器であったならば間違えるはずはなかった。また500mLの容器ならば人工呼吸器のそばに置けるので、付き添いの家族も確認できたはずである。しかし4Lの大型の容器をベッドの下に置いていたため、看護師は2日以上も気付かずにいたのである。蒸留水の容器500mLを4Lの大型容器に替え、省力化したことが今回の最大のミスであった。

 京都大病院では輸液や輸血の際は、2人以上の看護師が互いにチェックする体制をとっていた。だが蒸留水や消毒用エタノールは、1人で倉庫から持ち出すシステムになっていて、これが安全管理の盲点となった。

 京都府警川端署は人為的ミスが重なったことが死因として、管理責任の面からも事情聴取を進めた。平成13年1月16日、京都府警川端署は看護師7人を業務上過失致死容疑で、死亡診断書の直接死因に「急性心不全」と書いた主治医を虚偽有印公文書作成容疑で書類送検した。婦長(54)と副婦長(42)は部下の指導監督と薬品の適正管理を怠った疑いであった。

 平成131015日、沙織さんの両親は「基本的な注意義務を怠り、重大な過失があった」として、国、医師、看護師ら9人を相手に慰謝料など1億1400万円の賠償を求める民事訴訟を起こした。両親は「病院の組織的な事故隠しを明らかにすることが訴訟の最大の目的」として、看護師らの刑事処分を待たずに民事訴訟に踏み切った。

 急性アルコール中毒で沙織さんが死亡したが、看護記録や死亡診断書にもアルコールの文字はなかった。沙織さんの父親(45)と母親(45)は「ミスに気付いたとき、すぐに知らせてくれたらこれほど傷つきはしなかった。病院側から納得できる説明はなかった」と話した。

 平成1410月4日、京都地検はA看護師(26)を起訴し、ほかの看護師、医師らを嫌疑不十分で不起訴とした。A看護師の弁護士は、事故当時は超過勤務で慢性的過労があったこと、A看護師は卒後1年目で十分な教育を受けていなかったこと、容器が似ているのに蒸留水とエタノールについて事前に注意を受けていなかったことから病院側に過失誘発があったとした。しかし平成151110日、京都地裁の古川博裁判長はA看護師に禁固10月、執行猶予3年(求刑・禁固10月)を言い渡した。A看護師は控訴したが、大阪高裁は控訴を棄却したため有罪が確定した。

 また大阪高裁は、京都大と医師ら9人に1億1400万円の損害賠償を求めた裁判で、小田耕治裁判長は「隠蔽の意図や行動は認められない」とし、看護師4人の過失だけを認め2800万円の賠償を命じた京都地裁判決を支持して両親の控訴を棄却した。

 この医療事故は、法律上は薬品を取り違えた看護師のミスであるが、ミスを導いた病院の薬剤管理が生み出した事件ととらえるべきである。ミスをした看護師も病院システムの犠牲者だったといえる。両親が裁判で訴えたのは「病院ぐるみの事故隠しを容認できない」ことであったが、判決は両親の目的とは違うものになった。

 

 

 

介護保険制度の問題 平成12年(2000年)

 平成1241日、新たな社会保障制度として介護保険制度が始まった。介護保険の理念は、介護が必要な高齢者を社会全体で支えることで、発足当時は、高齢者が安心できる介護、家族の介護地獄からの解放という大きな期待があった。

 高齢者が増え、1割の利用者負担で9割が保険で運用される介護保険制度は、まさに国が儲けを保証するビジネスチャンスだった。企業が続々と参入し、福祉関係の大学や専門学校が次々に創設され、若者は希望をもって介護士を目指した。しかし介護保険制度には大きな欠陥が隠れていた。

 まず介護保険は健康保険と同様に、「保険証1枚で必要な介護を十分に受けられる」と多くの国民は思い込んでいたが、それは幻想にすぎなかった。国民皆保険制度は、「必要な医療を、必要な時に十分に受けられる制度」であるが、介護保険は、介護サービスに上限が設けられ、上限を超えた部分は、我慢するか全額自己負担になっていた。しかも必要なサービスを決めるのは本人ではなく、サービスを認定する市町村で、国の指導で市町村がサービスをカットできる仕組みになっていた。しかも認定されるサービスだけでは不十分で、カットされた部分は全額自己負担になることから、多くの利用者は限られた介護になった。また必要と認定されても1割の自己負担があるため、低所得者はそれが重荷となり利用しづらくなった。

 介護保険制度はそれまで市町村が行っていた福祉からの撤退であった。それまでは市町村が特別養護老人ホームやデイサービスなどを福祉として運営し、利用者は公費で安く利用していた。貧困や高齢者救済という福祉の考えが基礎にあったが、介護保険制度になってサービスが同じなのに料金が跳ね上がった。特別養護老人ホームや老人福祉施設の建設は、それまでは国が建設費の半分を補助していたが、平成16年に補助金が廃止され、新たな建設が困難になった。運営補助金が削減され、介護報酬が下げられ、介護事務所は経営難になり、介護士を確保できなくなった。

 約40万人が入所している特別養護老人ホームの待機者が40万人になり、老人福祉施設(約35万人)も同様で、入所するには入所している老人の死を待つことになった」。また入所できれはよいほうで、待機者の多くが入所を前に死亡していた。介護保険制度は老後をバラ色とするイメージとは間違っていた。

 発足当時、病院の社会的入院が大きな問題になっていた。介護保険は増大する高齢者医療費の財源対策という大きな目的があり、入院患者を病院から介護施設、あるいは自宅へと促す意図があった。つまり介護保険制度は老人福祉が目的ではなく、財政削減のため患者を病院から在宅へ移せば費用が安くなる、施設より在宅のほうがより安くなる、このような動機によるものだった。しかし、介護保険制度が発足した平成12年の国民医療費は前年度より5%減少したが、翌年から増加し、国民医療費プラス国民介護費は予想以上に増大し、当初の目論見がはずれたのである。

 発足当時、お年寄りにとって「介護保険制度を利用しないと損」とする雰囲気があった。取りあえず介護資格を取って、必要がないのにヘルパーを家政婦代わりに利用しようとする者、保険料を払っているのだからサービスは当然とする心理があった。また利用者の介護度が改善すれば介護報酬が減るため、事業所に介護改善の動機が生じず、介護する者が初心者でもベテランでも介護報酬は同じなので介護の質が低下した。

 求められる介護は人それぞれで違っている。100人の利用者がいれば100通りの介護が必要であるが、介護度区分によって介護サービスが杓子定規に決められ、利用者に不公平感が出てきた。市町村の裁量で決められる介護度区分は地域差、個人差を生じさせ、介護する家族の有無、家族が80歳の場合、病気がちの場合など、支える家族の評価がまちまちであった。

 徘徊などの問題行動の多い認知症は、24時間の介護が必要なのに身体機能が保たれているので軽く認定され、症状にむらがある認知症は適切な認定は困難だった。このように介護度の認定区分が利用者の実情を反映しないケースが出てきた。利用者や家族にとってどれだけの介護を受けられるのか分からず、安心から不安の介護になった。

 介護保険の背後にあるのは、官から民への流れだった。介護に市場原理を導入して、サービスを充実させることだった。しかし介護サービスをビジネスとしたため、儲けがなければ介護は成り立たない構図になった。介護事務所の経営が悪化すればサービスを提供できず、介護事務所は経営のためには人件費を減らす以外に方法がなく、そのためヘルパーは安い給料と過酷な労働を強いられ逃げだしたのである。介護をビジネスと捉える介護事務所は、架空請求、虚偽申請、人員基準違反などにより、8年間に500カ所以上の事務所が取消処分を受けている。

 政府は世論の反発を避けるため、保険料を半年間凍結し、次の1年を半額にして、1年半後から全額徴収とした。この行政テクニックにより政府は新制度の導入に成功したが、増大する高齢者に対応する財源を先送りにした。そのため介護財源が不足し、保険料は改定ごとに増え、利用者のサービスは削減され、利用者は自己負担増に耐えられず、利用を控えるようになった。介護報酬を増やせば利用者の負担増を招き、介護報酬を減らせば介護事務所の経営難からヘルパーの給料が減る、この介護保険制度の欠陥が表面化した。

 発足当時、介護保険財源にまだ余裕があった。しかし利用者が増えたため、平成15年、18年に介護報酬がそれぞれ2.3%、2.4%引き下げられ、そのため介護事務所は赤字になった。介護報酬と介護財源は連動していて、利用者が増えれば介護財源を増やさなければいけない。しかし逆に介護財源を抑制したので、介護制度が危機的状態になったのであった。介護認定と介護区分のハードルを高くて、利用者のサービスを少なくし、介護人の給料を減らしたため、介護保険制度は機能不全に陥った。

 社会全体で高齢者を支える、この介護理念を堅持するには、介護財源を確保すれば解決するが、財源を出し惜しんだことが介護を悪くした。80歳の妻が80歳の夫を介護する老老介護、70歳の病弱な娘が90歳の親の面倒をみる病病介護、24時間目が離せない認知症介護。仕事や結婚をやめてしまう家族たち、独り暮らしの老人の孤独死、このような悲惨な状況が現実になっている。介護保険は「保険あって介護なし」、「負担あって介護なし」の状態といえるが、これを言い換えれば、介護負担をケチっての介護危機であり、財政難の国が介護負担から逃げ出した結果といえる。

 

 

 

雪印乳業集団食中毒事件 平成12年(2000年)

 平成12年6月26日の朝、雪印乳業の低脂肪乳を飲んだ大阪市天王寺区の子供たちが嘔吐や下痢などの症状を訴えた。翌27日になると雪印乳業大阪工場に食中毒を訴える苦情の電話が頻繁に入るようになり、低脂肪乳を飲んだ5歳の男児を診察した医師から食中毒の可能性があると大阪市に連絡が入った。

 大阪市は28日に雪印乳業大阪工場の立ち入り検査を行い、食中毒事件の拡大を防止するため、低脂肪乳商品の回収と社告掲載を出すように求めた。しかし雪印乳業大阪工場はそれに応じず、いたずらに状況を見るだけであった。雪印乳業大阪工場が社告掲載を躊躇(ちゅうちょ)したのは、連絡を受けた雪印本社が決断を遅らせたからである。この時点では、食中毒の被害者が13420人に達する戦後最大規模の事件に発展するとは予想していなかった。

 ちょうどその日、雪印乳業の株主総会が札幌市で行われていた。石川哲郎社長や会社の幹部たちは株主総会に追われ、石川社長に食中毒発生の連絡が入ったのは6月29日午前10時半のことであった。

 雪印乳業は大阪工場で作られた低脂肪乳の自主回収を指示、社告掲載を決定したが、その日の深夜までに患者は200人を超える勢いとなった。30日の全国紙におわびと回収の社告が掲載されたが、1日の差で被害者は大幅に増えてしまった。雪印乳業大阪工場は約298000本の牛乳を回収しようとしたが、それはあまりに遅い対応であった。追いすがる報道陣に「私は寝ていないんだ」と石川哲郎社長は言い放ち、マスコミのさらなる攻撃を受けることになる。

 大阪市の調べでは、被害を受けた者は乳児から90歳まで、2629日にかけて低脂肪乳を飲んだ者がほとんどで、低脂肪乳を飲んで3〜5時間後に嘔気や下痢などの症状をだした。被害者のほとんどは軽症であったが、大阪府と和歌山県では6人が入院、奈良県の女性(84)1人が死亡するという事態になった。

 雪印乳業大阪工場は「製造工程のバルブから黄色ブドウ球菌を検出した」と発表。工場の作業基準で定められた洗浄作業を怠ったため、バルブ内に付着した乳固形物に黄色ブドウ球菌が増殖し、黄色ブドウ球菌が産生した毒素によって食中毒が起きたと述べた。この発表によりこの食中毒事件は黄色ブドウ球菌が原因と断定された。

 黄色ブドウ球菌が増殖したバルブは、余った材料を再利用するための調整タンクと仮設パイプを連結させていた。つまり返品された牛乳を再利用していた実態が浮き彫りになったのである。雪印乳業というトップ企業が「返品された牛乳を日常的に再利用」していたのだった。

 大阪市は雪印乳業大阪工場を無期営業禁止処分として工場は閉鎖された。ずさんな管理体制が被害を引き起こしたとされたが、事件発生から1カ月半が過ぎた8月18日、雪印乳業食中毒事件は大阪工場の製造過程ではなく、北海道大樹町にある雪印乳業大樹工場で作られた脱脂粉乳が原因であることがわかった。

 つまり、雪印乳業大阪工場が集団食中毒事件の舞台になったが、その原因となった黄色ブドウ球菌の毒素「エンテロトキシンA型」は北海道の大樹工場で作られた脱脂粉乳の中に潜んでいたのだった。

 集団食中毒事件の半年前の平成12年3月31日、北海道の雪印乳業大樹工場で電気室へ氷柱(つらら)が落下して約3時間停電。復旧作業のためさらに1時間稼働が中断され、600リットルの牛乳が高温の状態で放置された。この間、冷却装置に送られるはずの牛乳内で黄色ブドウ球菌が繁殖し、黄色ブドウ球菌由来の「エンテロトキシンA型毒素」が産生されたのである。高温のままパイプ内に滞留していた牛乳は廃棄されず、貯乳タンクに貯乳され、脱脂粉乳の製造に使用された。工場側は殺菌装置にかけたことから安全と判断したが、殺菌装置は黄色ブドウ球菌を死滅させるが、エンテロトキシンは熱に強いため影響を受けないのである。大樹工場に残されていた脱脂粉乳の保存サンプルから1g当たり3.320.0ngのエンテロトキシンAが検出された。

 事件発生時、大阪工場のずさんな衛生管理が指摘されたが、食中毒事件と大阪工場の衛生管理には因果関係はなく、北海道の大樹工場でエンテロトキシンを含んだ脱脂粉乳をそのまま出荷したことが原因であった。

 石川哲郎前社長(67)と相馬弘前専務(62)は回収の遅れが被害を拡大させたとして業務上過失傷害容疑で書類送検された。企業のトップが被害の公表の遅れで刑事責任を問われるのは初めてのケースだったが、大阪地検は被害拡大の予測は困難だったとして不起訴処分とした。大阪地検は汚染製品を製造した久保田修・元大樹工場長(51)ら3人を業務上過失致死傷罪などで起訴し、雪印乳業を食品衛生法違反罪で略式起訴とした。

 この事件とは別に、事件の過程で「牛乳と乳飲料の区別が分かりにくい」という消費者の苦情が相次いだ。「低脂肪乳とされている牛乳」は脱脂粉乳などを加えて乳脂肪分を少なくした加工乳で、「のむヨーグルト毎日骨太」「のむヨーグルトナチュレ」は単にカルシウムなどを添加した乳飲料であった。

 このようなことから表示規約の改正が行われた。新規約では牛乳とは生乳100%のものと定義され、濃厚牛乳などと表示していた加工乳、コーヒー、果汁、カルシウムなどを配合した「コーヒー牛乳」「いちご牛乳」「バナナ牛乳」「カルシウムの多い牛乳」などの乳飲料は「牛乳」の文字を使えないようになった。

 昭和32年から、雪印乳業は業界トップの売上高を守ってきたが、集団食中毒事件の直撃を受け3位に転落。明治乳業と森永乳業は2けたの増益となり、売上高、経常利益とも過去最高を記録した。また雪印乳業は医薬品事業を手掛け、20年間で総額600億円をつぎ込んでいたが、今回の事件で医薬品事業を第一製薬に譲渡することになった。また雪印本社はアイスホッケー部を廃部した。

 雪印乳業は日本の集団食中毒事件として過去最多の被害者を出したが、雪印乳業はこの事件以前にも脱脂粉乳による同様の食中毒事件を起こしていた。昭和30年3月、雪印乳業八雲工場(北海道)が製造した脱脂粉乳を給食で飲んだ東京都内の小学校9校の約2000人の児童らが、下痢や腹痛などの症状を訴えた事件がそれである。

 食品を扱う業者は、食中毒には慎重すぎるくらいの安全意識が必要である。今回の食中毒事件の舞台は大阪であったが、そのエンテロトキシンは北海道の大樹工場で産生されたもので、大樹工場長にエンテロトキシンの知識がなかったことが最大の原因であった。振り返れば危機感の希薄な、何ともお粗末な事件であった。

 

 

 

喘息薬殺人事件 平成12年(2000年)

 平成12年7月16日、奈良市に住む看護師・坂中由紀子(43)が長女Aへの薬殺容疑で奈良県警に逮捕された。事件のきっかけは同年3月8日の夜のことであった。

 高校1年生の坂中由紀子の長女A(17)が入浴中に動悸を訴え、天理よろづ相談所病院を受診。症状は軽度であったが経過を見るため入院となった。しかし入院翌日、長女Aは急性肺水腫を起こし、38℃の高熱、意識障害をきたすほどの重篤な状態になった。病気の原因は不明であったが、自然に改善したため3月22日に退院となった。

 同年5月8日、長女Aは動悸と手の震えを訴え2回目の入院となり、入院4日目の11日午前7時頃、突然、前回同様に肺水腫を起こした。

 肺水腫とは肺に水がたまる重篤な状態であるが、前回同様、次第に症状は改善し5月30日退院となった。さらに6月16日、長女Aは学校で手足の震えと動悸を訴え3回目の入院となった。長女Aが入院している間、母親の坂中由紀子はいつも付き添い、優しい母親を演じていた。長女の看病をしながらお茶やスポーツ飲料などの差し入れをしていた。

 主治医の新宅教顕医師は、長女Aの動悸、手の震え、血液中のカリウム低値などの所見が医学的に説明できず、何らかの毒物ではないかと考えた。そのため食事や飲み物などに異常がないかと質問すると、長女Aは「飲み物の味がおかしい」と答えたのだった。新宅医師は長女Aが飲んでいたお茶などを冷凍保存、奥村秀弘院長に鑑定の必要性を訴えた。

 3度目の入院時より、病院は長女Aの母親の行動を監視、母親と長女が2人だけにならないように看護師をガードにつけた。6月27日、院長は弁護士と相談してお茶などを奈良県警に提出した。そして奈良県警科学捜査研究所の鑑定で、気管支喘息の薬剤・硫酸サルブタモールがお茶と尿から検出されたのである。奈良県警は長女Aの安全を最優先とし、長女Aの退院日に母親を逮捕した。

 硫酸サルブタモールの商品名はベネトリンで、喘息の治療に用いられる気管支拡張薬である。ベネトリンを多量に使用すれば、心機能が増強し、呼吸困難、筋肉の痙攣、不整脈などを引き起こし心停止に至る副作用があった。坂中由紀子の自宅と乗用車から硫酸サルブタモールが見つかり、この硫酸サルブタモールが入ったお茶を飲ませ、わが子を殺害しようとしたことが確実となった。

 異変を察知した医師の機転により長女Aの命は救われたが、坂中由紀子は警察の取り調べに対し、殺意を認めたが動機や方法については語らなかった。長女Aには約3000万円の保険金が掛けられていた。

 この事件はさらに別の殺害事件を発覚させることになった。事件の3年前に小児喘息を病んでいた二女(9)が急性肺水腫で死亡、30万円の保険金が坂中由紀子に支払われていた。さらにその7カ月後、長男(15)も急性肺水腫で死亡していた。長男には2000万円の生命保険金が掛けられていた。保険会社は契約から1年以内の急死なので、保険金の支払いを当初は見合わせていたが、拒否する理由がないことから保険金が支払われていた。さらに同居していた祖父母も急性肺水腫で緊急入院していて、保存されていた尿から硫酸サルブタモールが検出された。

 坂中由紀子は昭和56年に結婚したが、平成5年に離婚し、両親と長女との4人暮らしだった。平成7年から坂中由紀子は、京都府木津町の公立山城病院に勤務し、公立山城病院は硫酸サルブタモールを常備していた。勤務態度はまじめで欠勤などはほとんどなかったが、平成10年6月頃から、うつ状態で入退院を繰り返していた。同僚たちは子供を相次いで亡くしたため、精神的に不安定になったと思っていた。坂中由紀子は看護師という立場から薬品への知識があった。

 この事件は証拠の残りにくい薬剤を用いた生命保険金殺人だった。何らかの動機がなければ実子を殺すことはないが、公判で坂中由紀子は「長女さえいなければ、家事の負担が減り、テレクラで知り合った男性と一緒になれた」と動機を述べた。

 平成14年3月14日、奈良地裁は殺人未遂罪に問われた坂中由紀子に懲役3年(求刑懲役6年)を言い渡した。東尾龍一裁判長は「犯行は巧妙かつ計画的であるが、長女が処罰を望んでいない」として刑を軽くしたのだった。長女は判決に先立ち「判決がどうなろうと母をずっと待ちます」と述べ、この長女の健気(けなげ)な言葉が坂中由紀子の減刑になった。

 保険金目的で母親が実子を殺害する事件は、平成11年8月に発覚した佐賀県の看護助手・山口礼子(44)の前例があった。母親の山口礼子が愛人の古美術商・外尾計夫(55)と共謀し、平成10年、高校1年生の次男(16)に睡眠薬を飲ませ、岸壁から海に投げ落として水死させ逮捕されている。次男には3500万円の保険金が掛けられていた。さらにその6年前の平成4年に、夫に睡眠薬を混ぜた夕食で眠らせ、佐賀県の海岸の岸壁から落として9900万円の死亡保険金をだまし取っていた。母親が愛人におぼれ、保険金目的のため夫と16歳の息子を殺したのである。週刊誌は母親を「鬼母」「鬼畜母」と書いて報道し、雑誌「FOCUS」(フォーカス)が礼子のヌード写真を掲載した。それは夫を殺害する前の愛人に撮らせた写真であった。

 このようなことは、マスコミによる私的制裁、報道倫理にかかわると思われるが、それを指摘する声はなかった。長崎地裁の山本恵三裁判長は「保険金をだまし取る目的で綿密に計画されており、犯行の残忍さ、冷酷さは言うべき言葉もない」と述べ、さらに「母子の情愛という人類普遍の、かつ最も根源的な倫理すら脅かす犯行」と両被告に求刑通り死刑を言い渡した。

 薬剤による殺害の多くは、これまで劇薬が用いられてきたが、奈良県の事件は気管支喘息薬、佐賀県の事件は睡眠薬を用いていて、病院勤務の看護師ならば簡単に手に入る一般薬による犯行であった。人の生命を救う看護師が起こした事件であるが、看護師であるが故にこのような巧妙な手口が可能だった。

 

 

 

パソコン操作ミス事件 平成12年(2000年) 

 平成121122日、富山県の高岡市民病院(藤田秀春院長)で、医師がパソコンの入力ミスから男性患者(48)が死亡する医療事故が起きた。男性は1117日に外来で風邪と診断され、1120日に再来、40度の発熱があり肺炎疑いで入院した。

 この患者に内科医がパソコン画面から炎症を抑える副腎皮質ホルモン剤「サクシゾン」を出そうとして、筋弛緩剤「サクシン」をクリックしたのである。パソコンの画面は薬剤名が50音順に並んでいて、サクシゾンとサクシンは1行違いだった。サクシンの成分は塩化スキサメトニウムで、手術時や気管内挿管時に患者の呼吸を停止させる薬剤で、通常の患者に用いることはない。

 高岡市民病院では、それまで医師は薬品名を手書きにしていたが、同年春から医師がパソコンで薬剤を入力し、薬剤師が薬剤を出し、看護師が注射するシステムになっていた。医師がパソコン画面に「サク」の2文字を打ち込むと、5種類の薬剤が表示され、サクシゾンを選択すべきを1行違いのサクシンをクリックしたのだった。

 画面には一般薬と劇薬の区別はなく、さらに通常より多い量が入力されたが、薬剤師も看護師も間違いに気付かなかった。1122日、看護師は疑問に思いながらもサクシンを男性に注射、その直後に患者は苦しみだし呼吸停止となった。すぐに人工呼吸器がつけられ回復したが、患者は肺機能を悪化させ1130日に死亡した。担当医は事故当日「命に別条はない」と家族に事情を説明して謝罪した。死亡後、担当医と院長は「死因は肺炎で、投薬ミスから死亡まで8日経っており、ミスと死亡に直接の因果関係はない」と述べた。しかし遺族は「原因不明の肺炎では納得できない、誠意が感じられない」と不信を募らせた。

 富山県警高岡署は男性の遺体を司法解剖し、医師(38)を業務上過失傷害の疑いで富山地検高岡支部に書類送検とした。富山地検高岡支部は患者が救命措置後に回復していることから、死亡との因果関係はないと判断、罰金50万円の略式命令を出し、医師は即日納付した。

 パソコンのオーダリングは画面を見ながらクリックするだけの操作なので、過ちが起きても不思議ではない。しかも病棟では普段使用しない薬剤が何のチェックもなく投与された。この数年、パソコンによる投薬システムは500床以上の病院では半数以上に導入されていたが、このシステムに盲点があった。

 サクシゾンとサクシンを間違えて投与し患者が死亡する医療事故は、平成201118日、徳島県鳴門市の健康保険鳴門病院でも起きている。また降圧剤「アルマール」と血糖降下剤「アマリール」の間違いは、北海道門別町の町立国民健康保険病院(平成1211月、患者死亡)、琉球大医学部付属病院(平成1212月)、北海道の興部町国民健康保険病院(平成13年2月、患者死亡)、愛知県の半田市立半田病院(平成14年3月)、山形県立河北病院(平成1511月)、山形県立中央病院(平成17年7月)などで起きている。

 このように名前が似た薬剤としては、気管支拡張剤「テオドール」と抗てんかん剤「テグレトール」、抗精神病薬「セレネース」と抗不安薬「セレナール」、胃薬「アルサルミン」と抗がん剤「アルケラン」、造血剤「フェルム・カプセル」と消炎鎮痛剤「フルカムカプセル」、さらにタキソールとタキソテール、ノルバスクとノルバデックス、アロテックとアレロック、ウテメリンとメテナリンなどがある。

 日本で承認されている薬剤は約1万8000で、1字違いの薬剤は1520とされている。また同じ製剤の薬剤でも製薬会社によって商品名が違う。若い医師は数年で病院を変わるが、同じ製剤の薬剤でも病院によって薬剤名が違うという問題があった。

 コンピュータの導入は国の政策であるが、入力を間違えれば重大事故になる。薬剤の入力ミスを防止するには、病名と薬剤が一致しない場合や、過剰投与時に「警告」の表示が出る仕組み、危険な薬剤は画面を変えて表示する仕組みなどが提案されている。

 医療事故には人為的ミスもあるが、このようにシステムで防止可能なものもある。人による多重チェックは重要であるが、入力ミス防止ソフトは導入されず、また類似した名前の薬剤もそのままである。何のためのコンピュータの導入なのか、厚生労働省は医療事故防止を本気で考えているのだろうか。

 

 

 

豊島産廃公害事件 平成12年(2000年)

 香川県小豆郡土庄町に属する豊島(てしま)は、瀬戸内海の小豆島の西方に浮かぶ人口1500人ほどの小さな島で、昔から稲作が盛んで、豊かな島であることから豊島と名付けられていた。

 瀬戸内海国立公園内に浮かぶこの美しい豊島に、昭和53年から12年間、50万トンもの産業廃棄物が不法に投棄されていた。不法投棄は豊島開発によるもので、島の西側に公害に匹敵するほどの大量の産業廃棄物を持ち込んでいたのだった。豊島総合豊島開発はその会社名とはイメージがまったく違う産業廃棄物の処理を行う会社会社名である(以下豊島開発と略)。

 平成2年に兵庫県警が豊島開発を廃棄物処理法違反で摘発し、平成3年1月23日、豊島開発の経営者が逮捕され、同年7月に神戸地裁姫路支部は経営者に有罪判決を下した。しかし、大量の産業廃棄物はその場に放置されたままとなった。

 昭和50年代初頭、豊島開発が有害産廃物を島に持ち込もうとしたとき、豊島の住民は反対運動を行い、香川県に事業を認めないように働き掛けた。住民は「豊島住民会議」を結成し、住民の大部分(1425人)が処置場建設中止を訴え、署名簿を香川県議会に提出し、さらに515人の住民が香川県庁にデモを行った。

 しかし香川県は「ゴミ処分場は必要であり、法の要件に従えば安全である。豊島開発にも生きる権利があり、反対するのは事業者いじめである」として豊島開発の事業を許可したのだった。当時の前川忠夫知事は、「反対住民の心は灰色だ」と、住民の気持ちを逆なでする発言をしていた。

 豊島開発は無害な製紙汚泥、木くず、家畜の糞をミミズに食べさせ、土を土壌改良して販売する「ミミズ養殖業」を名目にしていた。しかしミミズ養殖は偽装であり、最初からシュレッダーダストに廃油をかけて燃やしていた。シュレッダーダストとは、廃棄された自動車や電化製品などを粉々にして、鉄などを回収した後に残るプラスチック、ガラス、ゴムなどの破片のことである。

 その結果、国内最大級の産業廃棄物(50万トン)が豊島に不法投棄されることになった。多くがシュレッダーダストで、プラスチック、ゴム、コンピュータの基盤などが運び込まれ、野焼きの煙は悪臭を放った。シュレッダーダストには、水銀、鉛、カドミウムなどの重金属や有機溶剤が含まれ、放置された有毒物質はそのまま土壌を汚染した。さらに廃油などさまざまな有害廃棄物が運び込まれ、豊島の住民の間では喘息様の症状が蔓延し、海水は汚染されていった。

 住民はそれまで豊島開発の処理場に入ることができなかったが、不法投棄から13年後の兵庫県警の摘発によって、豊島開発の実態が明らかになった。捜査員が処理場に入ると、廃棄物が山積みにされ、ドス黒い廃液が大きな水たまりになっていた。浜辺は黒く変色し、黒い水が瀬戸内海に流れていた。その量は1日120トン、3日でプール1杯分に相当した。

 豊島開発は摘発される日まで、兵庫県・姫路港からシュレッダーダストを同社所有の第三豊松丸(460t)で豊島に運び、廃油をかけて燃やしていた。最盛期には、関西圏の廃車シュレッダーダストの3分の2が豊島へ運ばれていた。保管と称して積み上げられた廃棄物は、豊島開発の焼却処理能力の30年から100年分に相当していた。

 豊島の産業廃棄物の不法投棄は、兵庫県警に摘発され中止になったが、豊島開発は産廃物を撤去する費用を負担できなかった。そのため廃棄物はそのまま放置された。当初、香川県は廃棄物の量を17万トンと公表し、そのうちの1000tを撤去し、「残された廃棄物は、周辺環境に影響はない」として、残りの産廃物撤去の必要性を否定した。

 しかしこの残された産業廃棄物の撤去求めて、平成5年1111日、島民の98%に当たる549世帯が、公害紛争処理法に基づく調停を総理府に申し立てた。民事上の時効は摘発から3年である。調停申請は時効5日前のことだった。

 公害調停申請を受け19年間の記録が詳細に調査された。豊島開発は香川県に、豊島で行っているのは「有価金属の回収業であって、廃棄物の処理ではない」と申請し、香川県も「廃棄物ではなく有価物」としていた。しかしこの悪知恵は、香川県の豊島開発への助言によるものであった。「シュレッダーダストそのものは廃棄物だが、豊島開発が有償で買い取れば廃棄物に該当しない。シュレッダーダストを金属回収の原料として買い取ったことにすればよい」と香川県はアドバイスしていたのである。

 豊島開発はシュレッダーダストを1トン当たり300円で買い取り、運搬費として2000円を受け取っていた。つまり差額の1700円が利益になっていた。香川県は118回に及ぶ立ち入り調査をしていたが、豊島開発の実態を知りながら、それを黙認して住民の訴えを圧殺していたのだった。

 香川県は豊島開発の実態を知りながら、偽装のためのミミズ養殖の許可を与え、さらに不法処理を金属回収業の名目で許可していた。このような極めて悪質な不法投棄が、香川県のお墨付きで行われていた。さらに、昭和63年に姫路海上保安署が豊島開発を摘発したとき、参考人として呼ばれた香川県の担当者は、高松地方検察庁に「シュレッダーダストは廃棄物とは言い難い」と述べていたことが分かった。

 豊島事件の判決は、「香川県は立ち入り調査で、違法を認識しながら不適切な指導にとどまり、犯行を助長せしめた責任がある」とした。豊島事件は、いわば香川県が関与した事件だった。事件発覚当初、香川県は豊島開発の営業内容について徹底的に解明すると約束したが、不法行為に県が関与していたことが分かると、一変して香川県に法的責任はないと主張するようになった。県職員は単に豊島開発が怖くて指導ができなかったとしている。

 平成7年、公害等調整委員会は、以下の結果を明らかにした。

 <1>残された産廃物は、香川県が当初説明していた17万トンの3倍に相当する51万トンである。

 <2>その大部分が産廃物埋め立ての有害基準を大きく超過している。

 <3>野焼きが原因と思われる高濃度ダイオキシンの存在が確認された。

 <4>汚染は直下の土壌や地下水にまで及んでいた。

 このように公害調停が進む中、平成9年に住民と香川県との間で「中間合意案」が交わされた。その中で香川県は、「適切な指導監督を怠ったことが深刻な事態を招いた。廃棄物が搬入される前の状態に戻す」ことを約束した。しかし香川県知事からの謝罪はなく、それどころか平成10年に新しく就任した真鍋武紀知事は、豊島の住民運動を「カネ欲しさの運動」と批判した。

 平成11年8月、香川県は豊島への不法産業廃棄物投棄問題に当たって、産廃物を隣の「直島」へ移して処理すると突然提案してきた。直島町も処理プラントを建設し、総額300億円を超える処理案に同意した。香川県は、廃棄物と汚染土壌を平成28年度末までに豊島から搬出し、直島に建設する施設で焼却すると説明した。

 平成12年4月、公害調停が再開され、6月6日に豊島小学校体育館で公害調停が開かれ、「香川県による産廃物の撤去」と「豊島住民への香川県知事の謝罪」で合意をみた。調停の席には、中央に公害等調整委員会、右に香川県、左に豊島住民が座わり、会場には豊島住民600人とマスコミ関係者約100人が集まった。その中で真鍋武紀知事が涙ながらに謝罪、次ぎに住民会議の安岐登志一議長と、真鍋知事が握手を交わした。

 全国最大の産業廃棄物事件は、香川県が処理業者に許可を与えてから22年ぶりに、住民が香川県を相手取って公害調停を申請してから6年半後に、やっと解決へ向かった。真鍋知事の謝罪はあったが、処理に必要な300億円には公費が使われ、ツケは国民に回されたのである。豊島の不法投棄事件は、豊かな社会の裏側で進む環境破壊の実態、自治体の無責任な官僚体質を露呈させた。

 人間の生活や産業活動では必ず廃棄物が出るが、廃棄物の処理対策は遅れていた。豊島産廃公害事件は、ごみをいかに減らすか、ごみ処理の監視、被害の補償について大きな教訓を残した。工場や建設現場などから出る廃棄物は、昭和60年は2億トンで処分地は不足していた。廃棄物を出す方は「引き取ってくれれば、どこでもいい」というのが実情で、廃棄物業者は「引き受ければもうかる」との計算があった。

 警察白書によると、昭和63年に不法投棄で摘発された件数は1255件で、その多くが山野に捨てられていた。今回の豊島の事件を受けて、平成3年に廃棄物処理法が改正され、罰則が強化されたが、それでも不法投棄の罰金は最高で50万円である。これでは不法投棄で利益を上げる違法な業者が減るはずはい。

 豊島の不法投棄事件は、産業廃棄物が環境を破壊し、その対策には膨大な費用を要することを国民に教えてくれた。豊島の不法投棄事件で住民とともに戦った中坊弁護士は、それまでにも森永ヒ素ミルク中毒事件、豊田商事事件などで活躍し、市民派弁護士として日本弁護士連合会会長にもなった。「平成の鬼平」の異名を持ち、旧住宅金融債権管理機構(整理回収機構)の社長となり、バブル期の不良債権処理でマスコミにもてはやされた。

 しかし平成13年、住宅金融債権管理機構の社長時に行った大阪府堺市の土地売却をめぐり、詐欺容疑で東京地検特捜部に告発され、本来ならば立件されるはずだが、中坊公平が弁護士を廃業したため、東京地検特捜部は情状酌量から起訴猶予になった。末路を汚した中坊公平の弁護士人生も教訓として記憶すべきである。

 

 

 

北陵クリニック筋弛緩剤事件 平成13年(2001年)

 平成13年1月6日、宮城県警は仙台市泉区高森の北陵クリニック(二階堂昇院長)に勤務していた准看護師・守大助(29)を殺人未遂容疑で逮捕した。守大助の逮捕は、平成121031日、腹痛で入院していた小学6年の少女A(11)に筋弛緩剤を混入させた点滴を行い殺害しようとした容疑であった。少女Aは点滴を受けている最中に顔色が悪くなり、容体が急変、すぐに蘇生が行われたが、低酸素脳症で意識不明の重体となっていた。

 北陵クリニックは少女Aの急変の原因が分からず、半田郁子副院長が法医学の専門家に相談、筋弛緩剤が使用された可能性を指摘され、北陵クリニックが宮城県警に連絡したのだった。守大助の逮捕は、少女Aから筋弛緩剤(マスキュラックス)の主成分が検出されたことが決め手となった。

 1月6日、守大助は「病院への不満から殺意を持って筋弛緩剤を投与した」と犯行を認め、さらに北陵クリニックに入院していた別の患者にも筋弛緩剤を混入していたことを認めた。このためマスコミは一斉に守大助を犯人とする報道を行った。

 1月7日、二階堂院長が記者会見で、筋弛緩剤の保管場所にカギはなく、管理者もいなかったと謝罪した。二階堂院長は「自分は事件を、昨日知った」と他人事のようであったが、二階堂院長は雇われ院長で、半田郁子副院長が実質的責任者であった。後の記者会見で半田郁子副院長は守大助が点滴を行った直後に急変した患者が過去にもいたと説明、守大助が勤めてから筋弛緩剤が不自然に減っていたと述べた。

 薬剤の管理体制の不備以上に、なぜ人命を救うべき准看護師がこのような連続殺人を行ったのか、多くの国民は不気味な戦慄を覚えた。

 守大助が勤務していた過去2年間だけで、約20人が守大助から筋弛緩剤の混入した点滴を受け10人が死亡したとされている。死亡した患者はいずれも火葬されていたため、立証の関係から殺人1件、殺人未遂4件について守大助は起訴された。起訴となったのは、少女A(11)のほかに、平成12年2月2日に急変した1歳の女児(仙台市立病院に転院後に回復)、平成121113日に急変した4歳の男児(気管内挿管後に回復)、平成121124日に急変した89歳の女性(死亡)、平成121124日に急変した45歳の男性(酸素投与にて回復)であった。

 この事件をめぐりマスコミ報道が連日のように騒ぎだし、守大助の悪魔のイメージが先行した。マスコミは守大助が当直のときに急変する患者が多かったことから「急変の守と呼ばれていた」と報道したが、北陵クリニックには既婚者の看護師が多かったので、独身男性の守大助の夜勤が多いのは自然のことだった。また守大助は給料が安いことに不満があり、半田郁子副院長を困らせようとしたと報道されたが、北陵クリニックは全体に給料が安く、守大助だけが不満だったわけではなかった。守大助は月20万円以上の給料をもらっていて、北陵クリニックの看護師の中では多い方だった。犯行の動機として、急変対応のできない半田郁子副院長の腕を試そうとしたという噂も流れた。

 北陵クリニックは平成3年、機能的電気刺激(FES)治療の権威である半田康延・東北大教授が実質的な経営者として、その妻である半田郁子医師を副院長として開業。開業の目的は最先端技術を応用した治療と研究で、東北大医学部のサテライト研究室とされた。国から20億円、宮城県などから30億円以上が研究に投入され、著名な地元の名士たちが協力をした。守大助は半田郁子副院長の夫である半田康延・東北大教授に引き抜かれて北陵クリニックに就職し、半田郁子副院長にも気に入られていた。

 北陵クリニックには2つの疑問があった。1つは巨額な資金がありながら、赤字経営だったこと。さらに半田郁子医師が医師として未熟だったことである。気道確保ができず、救急車を呼び、救急救命士が蘇生させていたことが明らかになっている。

 守大助が逮捕直後に犯行を自白したのは、少女Aが死亡したとき、部屋にいたのは守大助と、彼の恋人の看護師2人だけだったので、恋人の看護婦を守るためだったと解釈できた。守大助は犯行を自白したが、自白から数日後から一貫して容疑を否認している。守大助は7月11日から始まった仙台地裁の公判でも無罪を主張した。

 弁護団はうそ発見器を用いて誘導尋問をしたこと。具体的な筋弛緩剤混入の量、日時、場所、方法が特定されていないこと。筋弛緩剤の成分を検出した鑑定方法に科学的根拠がないこと。殺害の動機がないことを指摘した。さらに守大助を犯人としたのは見込み捜査で、医療事故などの病院のミスを隠す意図があったと主張した。一方、検察側はカルテや看護記録、職員の証言などを積み上げ、守大助以外に筋弛緩剤の混入はできないとした。弁護団は冤罪を主張し、検察側と激しくぶつかった。

 守大助は500mlの点滴へ筋弛緩剤を混入したと自白したが、筋弛緩剤は静注で使用するもので、短時間で血中から排泄される(排泄半減期は11分)。そのため点滴への筋弛緩剤混入では、筋弛緩剤は希釈され患者急変はあり得ないことであった。

 点滴開始後5分で急変したとされているが、三方活栓からの注入では薬剤の即効性から5分後の急変では遅すぎ、筋弛緩剤を三方活栓から上方のチューブに逆流させて点滴をしなければ説明がつかなかった。しかしこのような方法を守大助が思い付くのか疑問であった。

 平成151128日、仙台地裁で検察側は守大助に無期懲役を求刑。犯行動機については守大助が患者を急変させ、得意な救急措置を生かして活躍したかったこと。あるいは医師や看護師が対応に追われ、慌てる様子を見たかったとした。

 守大助と弁護団は患者に筋弛緩剤が投与された事実はないと冤罪を主張した。しかし平成16年3月30日、仙台地裁は、「故意に筋弛緩剤を注入した」として、立証された5件すべてを守大助の犯行と断定し、求刑通りの無期懲役の判決を下した。これに対して弁護側は「守被告は公私ともに幸福で、患者とも親しかった。犯行に及ぶ動機は一切ない」として即日控訴した。

 平成18年3月22日、仙台高裁は守大助の控訴を棄却して一審の無期懲役を支持。守大助は法廷で「絶対に私はしていません」と発言し、裁判長から退廷を命じられた。守大助は即日最高裁に上告したが、平成20年2月25日、最高裁は上告棄却の決定を下し無期懲役が確定した。

 この事件は医療行為を装った前代未聞の凶悪犯罪といえる。もし守大助が10人以上の死亡に関与しているならば、日本犯罪史上最大級の凶悪犯になる。しかし守大助が本当に犯人だったのか、冤罪ではなかったのか。その真実は本人にしか分からないが、なぜかすっきりしない。 平成14年3月31日、事件の舞台となった北陵クリニックは多額の負債を抱えて閉鎖。事件発覚のきっかけとなった少女Aは意識不明の状態が続いている。かつての恋人は、急変の現場にいた自分を助けるための自白だったと今も信じ、守大助は獄中で無罪を訴えている。

 

 

 

集団発生したオウム病 平成13年(2001年) 

 平成13年7月、島根県松江市の宍道湖畔に観光施設「松江フォーゲルパーク」が開園した。松江フォーゲルパークは季節や天気に左右されない満開の花に囲まれ、鳥約1300羽が飼育され、自然の中での別世界を売り物にしていた。

 松江フォーゲルパークで、同年12月の上旬から中旬にかけて、施設を訪れた観光客12人、飼育係5人がオウム病に感染していることが分かった。感染した職員は20から54歳で、すべて鳥の飼育を担当していた。観光客12人は島根県が6人、広島県が4人、大阪府が2人であった。オウム病の症状は発熱が主で、幸いにも死者は出なかった。

 松江フォーゲルパークは、屋内外の施設に鳥が展示され、来園者が自由に鳥へ餌を与えることができた。施設は平成14年1月16日に閉鎖されたが、入場者は1日平均1600人、開園から閉鎖までの入場者は約285000人であった。

 集団オウム病騒動のきっかけは、平成131228日、松江市内の医療機関から施設の職員がオウム病の疑いがあると保健所に連絡があったことである。松江フォーゲルパークへ立ち入り調査が行われ、国立感染症研究所が疫学調査を行い、松江市はオウム病の専門家10人によるオウム病調査委員会を設置して調査が行われた。

 オウム病はクラミジアが病原体で、主としてオウムなどの鳥から感染する人獣共通感染症であった。クラミジアは真核細胞内でのみ増殖する寄生性の原核生物で、オウム病クラミジアはオウムのみならず、ハト、鶏、文鳥などにも感染する。鳥類はオウム病クラミジアの自然宿主で、症状の出ない不顕性感染がほとんどである。

 ヒトへの感染は、鳥の排泄物や羽毛などを吸入することによる。ヒトが感染すると1から2週間の潜伏期間の後に発病する。平成11年4月に施行された新感染症法では4類感染症に分類され、届け出が義務化され、日本では年間およそ30人前後の患者が報告されている。オウム病の集団発生はきわめて珍しく、今回の集団発生は、平成13年6月、神奈川県内の動物園においてシベリアヘラジカから職員5人が感染した例に続いて国内2例目であった。

 松江フォーゲルパークでは開園当初から獣医師が不在で、鳥の健康管理や検疫が不十分であった。また熱帯鳥を展示しているため、11月中旬以降から施設内の窓を閉め切っていた。このように施設側のオウム病への認識の甘さがあったが、健康な鳥のクラミジア保有率はおよそ10%とされ、起きるべくして起きた感染ともいえた。

 松江フォーゲルパークでは感染源を調べるため、施設内の鳥の糞便、土や水などを集め、クラミジア遺伝子の検出を試みた。その結果、鳥9検体からクラミジア遺伝子が検出され、遺伝子の塩基配列がほぼ一致した。

 松江フォーゲルパークは、施設の全鳥にテトラサイクリン系抗生物質を投与し、クラミジア遺伝子の陰性化を確認。さらに施設内を塩素で消毒し、土壌からもクラミジア遺伝子の陰性を確認して、平成14年4月に全面再園とした。

 日本では動物園のみならず、学校や家庭でもオウムやインコ類が飼われており、また野鳥もクラミジアを保有している。これらすべての鳥からクラミジアを排除することは不可能で、またこれらがすべてヒトへ感染するわけではない。鳥類はクラミジアを保有しているのが自然と認識し、鳥の健康管理や適切な飼育方法、さらに過度の接触をしなければ感染予防は可能である。注意すべきことは、鳥かごの中を清掃するときに、乾燥した排泄物、羽毛などを吸い込まないことである。また食べ物を口移しで与えるのは、感染の危険性を高めることになる。診断する医師にとって必要なことは、発熱患者には鳥との接触の有無を確認し、オウム病を常に念頭におくことである。

 臨床的にはセフェム系の抗生物質が無効なことで、第1選択薬はミノマイシンなどのテトラサイクリン系で、次いでマクロライド系、ニューキノロン系の抗生物質の投与である。なお病院には鳩の群れる風景が似合うが、病院での鳥類は衛生上きわめて良くない。

 

 

 

重信房子をかくまった医師 平成13年(2001年)

 平成13年3月25日、警視庁と大阪府警の合同捜査本部は山形県余目町の前病院長・村田恒有(55)を犯人蔵匿の疑いで逮捕した。村田恒有が犯人蔵匿罪とされたのは、国際指名手配中の日本赤軍最高幹部・重信房子(55、殺人未遂罪などで起訴)を、かつて千葉県内のマンションにかくまったからである。

 村田恒有が重信房子をかくまったのは、村田恒有が千葉県船橋市の千葉徳洲会病院の院長職にあった時期で、かくまったといっても、平成10年8月25日から5日間、病院が借り上げていた船橋市の分譲マンションに宿泊させただけであった。その後2人は、東京・お茶の水の居酒屋などで3回接触し、長野県の軽井沢に1泊2日でドライブをしていた。平成1211月8日に重信房子が関西で逮捕され、押収したメモに村田の携帯電話番号と村田の部屋の鍵が見つかったため犯人蔵匿とされた。

 かつての村田恒有は東京医科歯科大在学中に社会主義学生同盟に参加し、副委員長を務め公務執行妨害で懲役10月、執行猶予2年の判決を受けていた。当時の医学部の学生はインターン制度、日韓条約、原子力潜水艦寄港などについて熱い議論を交わすことが日課のようであった。村田恒有は在学中に明大闘争を支援し、明治大学の学生会館に泊り込み、そのときに明治大学の学生だった重信房子と知り合った。重信房子はキッコーマン醤油に務めていたが、教師を目指して明大第二文学部に在籍し、重信房子はその後、赤軍派に加わることになる。

 村田恒有は、昭和46年3月に大学を卒業すると外科医として都立病院などに勤務。平成3年1月から平成1012月まで千葉徳洲会病院長を務め、平成11年1月から山形県余目町の病院長をしていた。平成13年3月9日に退職し、妻と子供が3人いた。平成10年7月の参院選で千葉選挙区から、平成18年6月の衆院選では比例代表東北ブロックから自由連合の候補として立候補したがいずれも落選している。

 かつて過激派といわれていた赤軍派は、首相官邸占拠を狙って武装蜂起を計画していたが、事前に訓練中のメンバーが大量に逮捕され(大菩薩峠事件)、そのため「日本では革命を起こせない」と活動の場を海外に求めた。昭和46年、重信はレバノンへ出国して日本赤軍を創設、パレスチナ解放人民戦線と連携することになった。同じように北朝鮮に根拠地を求めたのが、よど号をハイジャックした田宮グループだった。

 その後、日本赤軍は国際テロ組織として多くの事件にかかわることになる。昭和47年にテルアビブ空港襲撃事件で100人以上の死傷者を出し、昭和50年のクアラルンプール米大使館占拠事件では、日本政府に三菱重工業爆破事件、あさま山荘事件の殺人犯の釈放を要求、日本政府は要求に屈し板東國男ら5人を超法規的措置で釈放させていた。昭和52年には日航ハイジャック事件を起こし、当時の福田赳夫首相が「人命は地球よりも重い」として、爆破犯の大道寺あや子ら6人を釈放、身代金600万ドル(約16億円)を出した。さらに昭和61年にはジャカルタ事件、昭和62年にはローマ事件、昭和63年にはナポリ事件など次々とテロ事件を起こしていた。

 レバノンを拠点とした重信房子と、よど号ハイジャックの犯人たちは、欧州でしばしば会っていた。しかし世界の情勢が変わる中で、日本赤軍やハイジャック犯は次第に行き場を失い、日本赤軍の残党は密かに帰国しようとした。

 日本赤軍のメンバーは世界各地で次々と逮捕され、平成1211月8日、極秘に帰国していた重信房子も大阪府高槻市で逮捕された。かつて「テロリストの女王」「全共闘のマドンナ」と呼ばれ、どこか神秘的な美人闘士として、名をなしていた。その重信房子の突然の逮捕に、あるいは年月を経た重信の容貌の変化に多くの国民は驚いた。

 東京地検は村田恒有を犯人蔵匿、犯人隠避の罪で東京地裁に起訴。東京地裁の福士利博裁判長は数々の国際テロ事件へ主導的に関与した重信被告をかくまい、刑事司法手続きを妨害したとして、村田恒有に懲役1年6月、執行猶予5年の有罪判決を言い渡した。

 この事件で村田恒有は執行猶予がつく軽微な判決で、村田恒有は院長を辞めており、社会的制裁を受けていて、適切な判決だったといえる。村田恒有は「1日も早く新しく病院に就職し、地域、患者のために専念したい」と述べていた。しかし平成14年、厚生労働省の医道審議会は村田恒有に最高刑である医師免許取り消し処分を行った。

 その年に医師免許を取り消されたのは6人で、他の5人は殺人、放火、女性患者への強制わいせつ行為であった。裁判所が執行猶予付きの軽微な刑罰を与えたのに、医道審議会は医師免許剥奪という裁判所以上の刑罰を与えたのである。犯人をかくまうのは犯罪であるが、「帰れ」と旧友に言えなかった村田の心情も十分に理解できる。少なくても医師免許を取り消されるほど医道に外れた行為、医師にあるまじき行為とは思えないが、この医道審議会の判断をどのように受け止めればよいのだろうか。なお重信房子には懲役20年が確定している。

 

 

 

都立豊島病院の麻酔器具事故 平成13年(2001年) 

 平成13年3月24日、東京都立豊島病院の関口令安院長は人工呼吸に用いる医療機器の接続の不具合により2人の乳児が死亡していたことを明らかにした。死亡事故を引き起こしたのは、気管切開チューブ(マリンクロットジャパン、現在はタイコヘルスケアジャパンが輸入販売)と小児用麻酔吸入器(ジャクソンリース小児用麻酔回路。製造販売はアコマ医科工業)の組み合わせであった。

 平成12年8月、生後10カ月の男児にこの両器具を用いて酸素を与えたところ肺が損傷し、同年11月に死亡したのが最初の事故であった。当初は原因不明のまま、死亡当日まで男児に両器具を使い続けていた。2度目の事故は、平成1212月に生まれた低出生体重児で、気管狭窄による呼吸微弱のため、埼玉県の病院から豊島病院に転院になり、1213日に気管切開術を行い、人工呼吸のため両医療機器をつないだところ呼吸状態が悪化して死亡した。

 この2度目の事故で豊島病院が2つの医療機器の接続不具合を疑い、調べてみると2つの医療機器の組み合わせでは息を吐き出せないことが分かった。両医療機器は個々には何の問題もなかったが、2つの器具の組み合わせでは、接続部が密着して吸気はできても呼気ができなくなるのだった。

 アコマ医科工業は「人工呼吸器として使用されていることを知っていたが、あくまでも麻酔用で、人工呼吸への転用は想定外だった」と弁解し、本来とは違う目的で使用したことによると暗に強調した。しかし関口院長は「問題の器具は子供の外科手術に使用する麻酔吸入器だが、人工呼吸用にも広く使用されていて、構造上の欠陥が事故の原因となった」と述べ、両医療機器会社は自主回収を行った。 

 豊島病院で2人の未熟児が死亡した事故は、「アコマ医科工業製の麻酔器具とマリンクロットジャパン製のチューブ」を同時に使った際に起きたもので、東京都衛生局は豊島病院の2例以外にこの組み合わせの使用はなかったとする調査結果を公表した。

 しかし豊島病院の事故以前にも、平成11年7月に神戸大医学部付属病院で、豊島病院と同じ医療機器の組み合わせで乳児が死亡していた。死亡したのは先天性気管支異常のために気管切開術を受けた生後6カ月の女児であった。また平成9年、愛媛大医学部付属病院で乳児2人が一時呼吸困難になる事故が起きていた。

 警視庁は医療機器の組み合わせで事故が起きる可能性を知りながら、適切な対応を取らなかったとして、業務上過失致死容疑でタイコヘルスケアジャパンを捜索。また新たな事実として、平成9年の日本臨床麻酔学会で、愛媛大医学部付属病院が「小児用麻酔回路と他社製のチューブの組み合わせで、換気不能になること」を発表し、アコマ医科工業はそのデータを入手していたが厚生省へ報告していなかった。そのためアコマ医科工業は薬事法違反で35日間の業務停止となった。

 この乳児2人の死亡事故で、警視庁捜査1課は両医療機器販売会社幹部4人を危険性の周知を怠ったとして、医師3人と看護師2人を使用時の安全確認を怠ったとして業務上過失致死容疑で書類送検した。医療機器会社が刑事責任を問われたのは、日本では初めてのケースであったが、平成17年3月25日、東京地検は書類送検されていた9人について嫌疑不十分で全員を不起訴処分にした。

 一方、豊島病院で死亡した生後3カ月の男児の両親が、東京都と医療機器会社2社に約8300万円の賠償を求めた訴訟では、東京地裁は医療機器の欠陥に製造物責任法を初適用し5062万円の支払いを命じた。山名学裁判長は「両器具の組み合わせの使用は危険との警告が不十分だった」と業者の責任を指摘、病院側にも「安全確認を怠った過失がある」と述べた。第2審の東京高裁(原田和徳裁判長)では、東京都と医療機器会社側が両親に5300万円を払うことで和解した。

 医療機器の少なかった時代は、器具の組み合わせによる危険性はほとんどなかった。しかし事件当時は、小児用気管切開チューブは11社が販売、ジャクソンリース小児用麻酔回路は16社が販売していた。多種多様な医療機器の組み合わせによって不具合が生じるという盲点が、この事件によって表面化したのだった。厚生労働省が承認している医療機器は約5万点で、このような医療機器の組み合わせによる不具合を、厚生労働省も病院も予期していなかった。

 

 

 

炭疽菌事件 平成13年(2001年) 

 平成13年9月11日、米国で同時多発テロが起きた。4機の飛行機がアラブ系のグループに乗っ取られ、2機がニューヨーク世界貿易センターの超高層ツインタワー(110階)に突入、1機は米国防総省本庁舎(ペンタゴン)に激突、1機はホワイトハウスを狙ったらしいが、ペンシルバニア州のシャンクスヴィルに墜落した。世界貿易センタービルは崩壊し、消防士を含む約1700人が犠牲になった。

 この同時多発テロから数週間後の10月2日、米国フロリダ州の病院に63歳の男性が発熱と倦怠感を訴え入院した。感冒を思わせる頭痛や咳などの症状はなかったが、入院2日目に意識障害をきたし、医師は髄膜炎を疑い、髄液検査を行った。採取された髄液は白血球が増多、タンパクは高値、糖は低値で、この髄液所見は細菌性髄膜炎を示していた。髄液からグラム陽性の大型桿菌が検出され髄膜炎と診断されたが、グラム陽性桿菌による髄膜炎はまれで、また奇妙なことに髄液に少量の血液が混入していた。髄膜炎を引き起こすグラム陽性桿菌としてはリステリア菌が有名であるが、検出された菌はリステリア菌にしては形が大きすぎた。主治医が困惑しているうちに、血液培養から炭疽菌であることが判明、患者は入院から4日目に死亡した。

 炭疽菌の発生は極めてまれで、米国では25年ぶりの発生であった。男性は大衆紙サンなどの新聞社が入居するビルに勤務していて、男性が使っていたコンピュータのキーボードから炭疽菌が検出された。10月8日になり、米国のアシュクロフト司法長官は「男性と同じビルに勤務している73歳の男性の鼻腔から炭疽菌が検出され、抗生物質の治療をしている」と発表した。炭疽菌はヒトからヒトへ感染しないことから、同じ事務所で2人が感染したことは、意図的な感染を思わせた。

 炭疽菌は生物兵器として知られており、多くの人たちは細菌テロを心配し、抗生物質「シプロ」を買い求める騒動となった。ビルは閉鎖され、米連邦捜査局(FBI)が捜査に着手し、12日には3人目の患者が確認された。感染した3人は郵便物を扱っていたため、感染源として粉入りの郵便物の可能性が報道された。さらに10月から11月にかけ、米議会、メディア関係者に炭疽菌の付着した手紙が次々と送り付けられ、19人が感染し、郵便局員など5人が死亡した。封書の文面はいずれも「アメリカに死を」「イスラエルに死を」「アラーは偉大なり」と書かれていた。そのため多くの人々は「イスラムの過激派がやった」と思い込み、米国内のみならず、世界各国でも「白い粉」パニックを引き起こした。人々は炭疽菌の特効薬シプロキサシンを買い求め、防毒マスクも売れたほどであった。日本でも郵便物の配達や開封の際には厳重に注意するように呼び掛けられた。

 炭疽菌(Bacillus anthracis)は炭疽(炭疽症)を引き起こす細菌で、細菌学者コッホが人類史上初めて病原細菌として発見した菌である。またパスツールが最初にワクチンを開発した菌でもあった。このように炭疽菌は歴史的に有名な菌であるが、それは当時のヨーロッパで、炭疽菌が羊や牛の間で流行していたため研究対象になっていたからであって、人への感染はまれであった。

 しかし第2次世界大戦以降、炭疽菌は生物兵器として各国で研究されていた。炭疽菌は培養が簡単で安価なこと、短期間で致命的感染症を起こすこと、散布しやすくヒトからヒトに感染しないことから、細菌兵器として研究されていた。昭和54年に旧ソ連の軍事施設から炭疽菌が漏れ、68人が死亡する事故があった。100kgの炭疽菌を大都市上空からばらまけば、数百万人の死者が出ると推計されていた。

 FBIは科学者や生物兵器専門家への大規模な捜査を展開したが、12月になり、使用された炭疽菌が1g中1兆個という高濃度の胞子であることが判明。旧ソ連で炭疽菌開発に携わっていた専門家ケン・アリベクが「米軍以外に、このように高純度の炭疽菌はつくれない」と発言。犯行は、米軍の炭疽菌を誰かが盗んだのか、米軍の専門家が炭疽菌のつくり方を教えたのか、米軍の組織的犯罪の可能性が高いことになった。米国は生物兵器禁止条約を世界に呼び掛け、米国の炭疽菌の研究は表面上禁止されていた。しかし実際には、クリントン大統領に報告もしないで、米国防総省は秘密裏に炭疽菌を研究していた。

 事件から7年後の平成20年3月28日、米国のニュース専門テレビ「フォックス・ニュース」が、FBIが容疑者を絞り込んだと報道した。封書の筆跡から犯人が浮上したのであった。しかし平成20年7月29日、容疑者とされていたブルース・アイビンス(62)が薬物(アスピリン)の大量摂取で死亡した。アイビンスは生物化学兵器の研究施設(メリーランド州)の関係者で、盗んだ炭疽菌を封筒に入れて送付したとされている。アイビンスが犯行に使われたのと同じ特殊な炭疽菌を保管していたことから、捜査当局はアイビンスの単独犯行と断定した。アイビンスは炭疽菌のワクチン研究者で、FBIの捜査にも協力しており、ワクチンの効果を試すことが動機だったとされている。アイビンスが本当に犯人なのか、疑惑を苦にしての自殺なのか、真相は不明のまま捜査は終結となった。

 

 

 

セラチア菌による院内感染 平成14年(2002年) 

 平成14年1月15日、東京都世田谷区の伊藤脳神経外科病院(伊藤誠康院長、33床)から、頭部外傷や脳梗塞などで入院していた男女7人が、38.5℃以上の発熱後に相次いで死亡したと新宿区保健所に届けられた。7人の患者全員が発熱から5日以内に死亡し死亡した6人の血液からセラチア菌が検出された。発熱があった他の患者6人からもセラチア菌が検出された。死亡した1人からはセラチア菌は検出されなかったが、セラチア菌による集団院内感染と考えられた。東京都はセラチア菌の遺伝子鑑定を行い、同一菌と確定され、集団院内感染が確実となった。

 セラチア菌(Serratia marces-cens)は本来弱毒菌で、水や土壌などの湿った場所に広く存在している。ヒトの腸内にも常在し、健常人に病気を引き起こすことはまれである。常在菌なのでセラチア菌が検出されても病気とはいえないが、免疫能が低下している患者で発症することが知られている。セラチア菌は日和見感染として知られていたが、黄色ブドウ球菌のMRSA、腸球菌のVREのように、セラチア菌の約4%は薬剤耐性とされ注目されていた。

 今回の感染は短期間に多数の患者が発症したことから、感染は点滴を介して患者の血管内に菌が直接侵入したとされた。セラチア菌が検出された12人全員が点滴を受けており、またヘパロックと呼ばれる処置を受けていた。

 ヘパロックとは、点滴を中断する場合、注射針を皮膚に残したまま再利用するための方法で、血液抗凝固剤ヘパリンを混ぜた食塩水を留置針の管に注入しておくことである。このヘパリン生理食塩水を、看護師がナースステーションの調整台で作り室温で保存していた。ヘパリン生理食塩水は、以前は100mLの容器を用いて作っていたが、調合の手間を省くため500mLの容器に替えており、使い終わるまで2日以上も放置されていた。

 実験ではセラチア菌はヘパリン生理食塩水では死滅せず、増殖することが確認され、この容器に菌が混入して感染したとされた。患者らに使用されたヘパリン生理食塩水は残されていなかったが、調整台の流し場に敷かれたタオルからセラチア菌が検出され、患者のセラチア菌のDNAと一致した。このことから、セラチア菌に汚染されたヘパリン生理食塩水が、患者の留置針を通じて血管から感染し、敗血症を起こしたとされた。

 セラチア菌による集団感染は比較的まれで、平成11年7月、東京都の墨田中央病院で13人がセラチア菌に感染して5人が死亡。平成12年7月には、大阪の耳原総合病院で入院患者15人がセラチア菌に感染して7人が死亡、伊藤脳神経外科病院は国内3件目の集団感染であった。

 平成15年8月29日、警視庁捜査1課と北沢署は、伊藤誠康院長と看護師長を業務上過失致死傷容疑で書類送検。東京区検はずさんな衛生管理が集団感染を招いたとして伊藤誠康院長を略式起訴。看護師長は管理責任が小さいことから起訴猶予処分とした。

 平成16年4月16日、東京簡裁は院長の伊藤誠康に対し罰金50万円の略式命令を出し、厚労省は伊藤誠康院長に医業停止1年の行政処分を下した。病院は死亡した患者7人のうち3人の遺族に、1人当たり最高約4000万円を支払うことで示談が成立した。

 今回のセラチア菌の集団感染は大きく報道されたが、この事件以降、平成14年4月には、群馬県太田市の総合太田病院で入院患者2人がセラチア菌の感染で死亡。平成15年3月、札幌市白石区の東札幌病院ではセラチア菌の院内感染で入院患者4人が発熱などの症状を示した。平成16年4月、横浜市戸塚区の国立病院機構横浜医療センターで男性患者2人がセラチア菌に感染、うち1人が死亡している。

 平成20年6月には、三重県伊賀市の整形外科医院「谷本整形(谷本広道院長)」で点滴を受けた23人が体調不良を訴え、18人が入院し1人が死亡している。この集団感染は大きく報道されたが、報道のきっかけは伊賀市立上野総合市民病院に4人の患者が発熱で入院、岡波総合病院に1人が入院、全員が谷本整形で点滴を受けていてセラチア菌が検出されたのだった。さらに女性患者(73)が自宅で死亡していたことが確認された。作り置きをしていたのは、鎮痛薬「ノイロトロピン」とビタミン剤の「メチコバール」を混注した生理食塩水で、点滴からセラチアが検出された。

 セラチア菌は、病院の洗面台などの湿潤な場所に生息しやすく、栄養源の乏しい水の中でも増殖する。セラチア菌の集団感染は、調合した点滴の作り置きによるものが大部分で、増殖した菌が大量に体内に入り敗血症を起こすのである。点滴は開封後すぐに使用するのが原則で、面倒でも点滴の作り置きはしてはいけない。

 

 

 

 ダイエット漢方死亡事件 平成14年(2002年) 

 平成14年7月12日、厚生労働省は中国製ダイエット食品で肝障害患者が多発していると発表した。問題となったのは「御芝堂減肥膠嚢(おんしどうげんぴこうのう)」(発売元・広州御芝堂保健制品有限公司)と「繊之素膠嚢(せんのもとこうのう)」(発売元・広東恵州市恵宝医薬保健品有限公司)の2種類の中国製ダイエット食品で、厚労省は製品名を公表して注意を呼び掛けた。

 平成13年頃から、厚労省は両食品によって肝機能障害をきたした例を、全国の医療機関から報告を受けていた。報告には、平成14年2月から約1カ月間、御芝堂減肥膠嚢を服用していた東京都内の60代の女性2人が慶応大病院に入院し、1人が急性重症肝障害に陥り、1人が同年5月に死亡していた例が含まれていた。ダイエット食品の危険性を最初に指摘したのは慶応大医学部の足立雅之医師であった。さらに劇症肝炎から意識障害に陥った19歳の女性、さらには生体肝移植が行われた44歳の女性の例もあった。

 平成14年8月30日、厚労省は「御芝堂減肥膠嚢」による被害者は418人、入院53人、死亡1人と発表。さらに「繊之素膠嚢」の被害者は192人、入院70人、死亡2人と発表した。この2種類以外に112種類の中国製の健康食品が、美麗痩身、軽身美人、茶素減肥麗、やせチャイナ、スーパースレンダー、スリム10、ボディーパーフェクト、健美などの名前で売られ、中国製のダイエット健康食品の被害者は最終的に865人で4人が死亡していた。

 御芝堂減肥膠嚢は容器に「減肥」の効能が書かれており、繊之素膠嚢には「甲状腺ホルモン」や食欲抑制剤「フェンフルラミン」が含まれていた。甲状腺ホルモンは健康人が飲むと心筋に悪影響があることから医薬品以外では使用禁止になっていた。フェンフルラミンは心弁膜症や肺高血圧症の副作用があることから日本では医薬品としても認可されていなかった。中国製ダイエット健康食品にはこのような危険な薬剤を含んでいたが、漢方薬は原料が天然成分なので安全との思い込みがあった。この漢方という言葉に便乗し、イメージが先行して健康食品が売られていたが、健康食品の有効性や安全性は不明で、さらに国が認めていない食品なので、被害を受けても補償は得られず、誰も責任を取らないことになっている。

 医薬品を含む食品は薬事法で販売は禁止されているが、薬剤を含んだ健康食品が流通したのは、インターネットや輸入代行業者が増え、個人輸入は薬事法の規制外だったため気楽に注文できたからである。中国では医薬品や健康食品の規制は緩やかで、同じ名前の漢方薬でも内容が違っていることもあり、輸入業者は成分を検査することもなく、まさに野放し状態であった。

 中国製のダイエット食品による死亡例は日本だけでなく、シンガポールやマレーシアでも相次いでいた。シンガポールでは「スリム10」という商品が、テレビCMで大々的に宣伝され、女性タレント(43)が肝不全で死亡。また人気テレビ司会者のアンドレア・デクルスさん(27)が劇症肝炎になり、婚約者の俳優から生体肝移植を受けたことが話題になっていた。 

 「御芝堂減肥膠嚢」を日本に輸出している上海の貿易会社社長(49)は、 2000から3000箱が日本に出回っていると述べ、健康被害が拡大する可能性を示唆した。また中国でも「御芝堂清脂素」を服用していた女性2人が死亡しており、中国政府は健康食品としての認可を取り消すことになった。

 中国製ダイエット食品による健康被害が問題になったが、国産のダイエット食品でもラベルの表示と実際の中身が大幅に違っている商品が出回っていた。商品のラベルには栄養改善法により、タンパク質、脂質、炭水化物などの含有量の表示が義務付けられているが、ダイエット食品の多くは商品が売れるようにと、糖分や脂質の量を少なく表示していた。

 中国製のダイエット食品による被害は一時沈静化するが、平成17年5月、東京都でダイエット健康食品「天天素」を服用した10代の女性が死亡した。「天天素」には向精神薬「マジンドール」や未承認の医薬成分「シブトラミン」が含まれ、その被害者は33都道府県で123人となっている。平成17年8月18日、「天天素」を販売したとして、東京都新宿区新宿の健康食品販売業・山崎義章容疑者(52)が薬事法違反容疑で逮捕された。山崎容疑者は「天天素」を中国から仕入れ、ホームページに「おなか回りからお尻にかけてやせ始める」と広告を出して販売していた。さらに同様の容疑で8人が逮捕されている。

 健康神話に便乗した健康食品ほど怖いものはないが、健康食品は儲かることから、同じような事件が起きるのである。

 

 

 

久留米市看護師連続殺人事件 平成14年(2002年) 

 平成14年4月28日、看護師4人による保険金目的の殺人事件が発覚した。この事件は医学知識を悪用した計画的な犯行であった。福岡県警に逮捕されたのは元看護師吉田純子(42)、治験コーディネーター堤美由紀(42)、看護師池上和子(41)、元看護師石井ヒト美(43)の4人で、4人は久留米市内の聖マリア看護専門学校の同窓生だった。

 この事件が発覚したのは、平成13年8月に、犯人の1人である石井ヒト美が「吉田純子から、金を出せと脅されている」と久留米署に相談したことだった。脅迫の内容ははっきりせず、相談から数カ月後に、石井ヒト美は泣きながら夫殺害を供述したのだった。つまり殺害を後悔して警察へ出頭したのではなく、内輪もめによる脅迫に困っての相談だった。

 この一連の事件の主犯は吉田純子で、殺害されたのは北九州市小倉北区に住む会社員、久門剛さん(44)だった。久門さんは20年前に吉田純子の紹介で石井ヒト美と結婚。その後別居していたが、吉田は久門さんの保険金を狙い、殺害計画を石井に持ち掛けた。

 平成11年3月27日の夕方、石井ヒト美は「子供のことで話がある」と久門さんを自宅に呼び出し、睡眠薬が入ったカレーライスを食べさせ酒を飲ませた。翌28日の深夜、外で待たせていた吉田ら3人を勝手口から呼び入れ、泥酔している久門さんの鼻に医療用チューブを差し込み、注射器でウイスキーボトル1.5本分を胃に流し込んだ。石井ヒト美は、「夫がアルコールを飲み過ぎて倒れた」と119番通報、久門さんは近くの病院に搬送されたが、同日午前1020分、誤嚥性肺炎で死亡が確認された。

 死亡した状態で救急車を呼べば、救急隊は警察に通報することから、病院到着後に死亡するように計画したのだった。原因がアルコールならば、薬物とは違い発覚する可能性は少なかった。チューブで大量のウイスキーを胃に注入すれば、傷を残さないという計算があった。石井ヒト美は保険金3257万円を受け取り吉田に渡した。

 取り調べが進むと、さらなる殺人が発覚した。平成10年1月23日深夜、池上和子の夫である平田栄治さん(39)が飲酒して帰宅。帰宅後、池上和子は睡眠薬入りのビールを飲ませ、平田さん宅に集まった3人が、翌午前2時頃、平田さんの静脈に空気を注射した。平田栄治さんは救急車で久留米市内の病院に運ばれ死亡が確認された。静脈に空気を注射して、心筋梗塞を装ったのである。

 池上和子は「寝ていたら冷たくなっていた」と説明。搬送先の病院の当直医は急性心不全による突然死を考えたが、頭部CTスキャンを撮ってみると脳内血管に空気が入っていたので、不自然死として久留米署に届け出た。しかし福岡県警の検視では病死とされ、司法解剖は行われなかった。池上和子は平田さんの葬儀で職場の同僚が集めた230万円を受け取り、さらに平田さんの生命保険金3500万円を吉田純子に渡した。

 平成12年5月29日、堤美由紀の実母が探偵を名乗る女性に自宅で襲われ、インスリンを注射され絞殺されそうになった。母親が大声で騒いだため、この事件は未遂に終わったが、後に池上和子による犯行であることが分かった。

 主犯格である吉田純子は死亡診断書を書く医師は、家族が看護師であれば、その証言を素直に聞くことを知っていた。また犯行はいずれも土曜日で、医師の手薄な当直帯を狙っていた。

 吉田純子は石井ヒト美、池上和子に、「あなたの夫は仕事のトラブルで多額の借金があり、私が立て替えている」と言ってニセの領収書を見せていた。さらに夫が浮気していると嘘をつき、「金を返せないなら、生命保険で払ってほしい」と要求していた。また吉田純子は注射ミスをした同僚に「患者の家族が賠償金を請求している」と嘘を言って500万円をだまし取っていた。

 平成1212月、吉田純子ら4人は久留米市の同じ新築マンションをそれぞれ購入。吉田純子は最上階の最も高額な部屋に娘と住み、女王のように3人を従えていた。吉田純子は3人を奴隷のように扱い、「殺したのはあんただ」と言っては多額の金を要求していた。度重なる脅迫に石井ヒト美は耐えかね、数カ月後に久留米署に相談したのだった。この連続事件は医学的知識を駆使した完全犯罪であったが、仲間割れから発覚した。

 平成16年8月2日、福岡地裁は吉田純子に死刑の判決を下し、2審も同様の判決で、最高裁に上告したが死刑が確定している。堤美由紀は無期懲役、石井ヒト美は自首が認定され懲役17年の刑に服している。池上和子は1審で死刑であったが、判決を前に卵巣がんで死亡したため、控訴は棄却されている。

 夫の殺害、実母の殺人未遂はまさに悪女の名に値するが、この事件は吉田純子がいなければ起きなかった。吉田純子は、「人間は嘘をつくが、金は裏切らない」が口癖で、異常なほどに金に執着があった。平凡な生活を送るはずの3人の看護師は吉田純子にだまされ、利用され、翻弄(ほんろう)された。殺害された男性2人、暴行を受けた母親は、まさか人命を守る「白衣の天使」が、「信頼していた女性や娘」が、自分を殺害しようとは思いもしなかったことであろう。この事件は看護師4人のどろどろとした不気味な関係の中で、夫や母親が生命保険の標的にされた。お金のためなら殺害も構わない。バレなければ生命保険がお金になる。このような短絡思考が背景にあった。

 

 

 

宮崎県の温泉でレジオネラ集団感染 平成14年(2002年)

 温泉は地中から湧き出た自然のお湯なので、温泉のお湯で感染することはないと信じられてきたが、その温泉神話が脆くも崩れてしまった。

 宮崎県日向市の日向サンパーク温泉(社長=山本孫春市長)が経営する「お舟出の湯」でレジオネラ菌による集団感染が発生し、死者7人、確定感染者34人、感染の疑い295人、さらに担当職員が自殺するという惨事になった。

 日向サンパーク温泉は大浴場、露天風呂、サウナなどを備えた最新の温泉レジャー施設である。日向市が事業費132000万円をかけ、平成14年7月1日に開業したばかりだった。開業前の6月13日に試運転、6月20日に竣工式、20日と21日に体験入浴が行われ、原水タンクに約25トンの温泉水を貯めたまま7月1日オープンとなった。

 温泉は地下からくみ上げた源泉をいったんタンクの中に貯めるが、このタンク内でレジオネラ菌が繁殖したのだった。タンク内のお湯の温度は、国の基準によりレジオネラ菌が死滅する60度以上と決められていたが、保健所が開館前に原水の温度を測定したときは55度になっていた。そのため保健所は60度以上に上げるように指導したが、日向サンパーク温泉は日豊海岸国定公園内にあるため、環境への配慮からボイラーは重油ではなく電気加熱機を導入していたため、電気加熱機では最高58度までしか温度は上がらなかった。日向サンパーク温泉はオープン前に水質検査をしておらず、消毒用の塩素も入れていなかった。

 日向サンパーク温泉は、オープン当日からレジオネラ菌に汚染されたお湯が使われていた。宮崎県高岡町の70代の男性が7月4日に入浴、9日から腹痛や発熱などの症状を訴えて入院、15日に死亡した。宮崎県保健所職員が、入浴者に感染の疑いがあることを日向サンパーク温泉に通知したが、サンパークはそれを無視して営業していた。7月18日になって、日向市内の病院から日向保健所に、日向サンパーク温泉で入浴していた3人がレジオネラ感染症の疑いで入院したと連絡があった。翌19日、日向保健所は日向サンパーク温泉に立ち入り、浴槽の湯から基準値の15万倍以上のレジオネラ菌を検出。患者からもレジオネラ菌を検出し、両者のレジオネラ菌のDNAが一致したため、日向サンパーク温泉でのレジオネラ感染が確実となった。日向サンパーク温泉は7月24日に閉鎖となったが、オープンから閉鎖まで約2万人が利用していた。感染者は日を追うごとに増え、最終的に295人が発症した。

 レジオネラ症は、レジオネラ菌に汚染されたエアロゾルを吸い込むことで発症する。菌に汚染された水を飲んでも感染しないが、ジャグジーや打たせ湯で霧状になった粒子を吸い込んで感染するのである。

 日向サンパーク温泉は、日向保健所から国のレジオネラ症防止対策マニュアルを受け取っていた。マニュアルには循環式浴槽の問題点や浴槽の消毒方法などが詳細に書かれてあったが、レジオネラ菌への認識が欠けていた。温度の設定が低く、塩素消毒をしていなかったことから基準値の15万倍以上の菌が増殖したのだった。

 レジオネラが人類の歴史に姿を現したのは、1976年の米国フィラデルフィアのホテルで開催された在郷軍人会での集団感染であった。在郷軍人会の参加者やホテル周辺の通行人などに原因不明の肺炎が発生し、罹患者221人のうち29人が死亡した。この在郷軍人病と称された感染症はそれまでに報告のなかった細菌によるもので、後に在郷軍人会(レジオネラ)にちなんでレジオネラ菌と命名された。

 レジオネラ菌は土壌中に生息し、粉塵とともに空調用の冷却塔水などの水環境に混入して増殖する。空調用冷却塔水から飛散したエアロゾルによって感染するのだった。

 レジオネラ症は臨床症状から肺炎型とポンティアック熱型に大別されるが、フィラデルフィアで起こった在郷軍人病は肺炎型のレジオネラ症で、これまでの重症報告例のほとんどが肺炎型である。

 レジオネラ症の潜伏期間は1週間前後で、初発症状は全身倦怠、易疲労感、頭痛、食欲不振、筋肉痛などが主で、咽頭痛や鼻炎などの感冒様症状は見られない。喀痰はほとんど出ないが、しだいに膿性痰が見られるようになり、発病3日以内に悪寒を伴った高熱をきたす。逆行性健忘症、言語磋趺、傾眠、昏睡、幻覚、記憶力低下、四肢の振戦、頸部硬直、小脳失調などの精神神経症状が見られることがある。胸部レントゲンで肺炎の診断がつけば重篤で、致死率は10%とされている。肺炎から播種性血管内凝固症候群(DIC)や成人呼吸窮迫症候群(ARDS)を引き起こし、適切な治療が行われなければ数日以内に死亡する。

 レジオネラ症の軽症型であるポンティアック熱型は、最初にその詳細が調べられた米国ミシガン州ポンティアックの地名に由来している。潜伏期は1から2日と短く、発熱が主症状で、その他に悪寒、筋肉痛、倦怠感、頭痛などの感冒様症状を伴い、7日以内に自然治癒する。

 1985年4月にイギリスのスタフォードで最大規模の集団発生が起きている。感染したのは高齢者がほとんどで、10kmの範囲内で肺炎のため158人が入院し、36人が死亡している。そのほか世界各地でレジオネラ症の集団発生が報告されている。

 厚生省のレジオネラ症研究班の全国調査によると、昭和54年からの14年間で、日本のレジオネラ症の発症は86例で、いずれも散発例で大規模な発生はなかった。しかし平成6年8月、東京都内の民間研修施設で、空調用冷却塔水が感染源で患者45人を出すポンティアック熱型の集団感染が発生している。肺炎型のレジオネラ症の集団感染としては、平成8年7月、慶応大学病院で新生児3人がレジオネラの院内感染で女児1人が死亡している。当時、家庭用の24時間ぶろが流行していたが、浴槽の中での菌の繁殖が問題になり下火になった。

 平成12年3月には、静岡県内のレジャー施設「つま恋」にある温泉「森林乃湯」を利用した23人がレジオネラ菌に感染して2人が死亡。平成12年6月、茨城県石岡市の福祉施設で45人が感染して3人が死亡している。石岡市の福祉施設では経費を抑えるため浴槽のお湯を交換せず、塩素の量も少なかった。平成14年8月には、鹿児島県東郷市の「東郷温泉ゆったり館」で4人が感染して1人が死亡している。

 最近、町おこしを目的に日帰り温泉が各地に造られているが、その多くは循環式の温泉である。レジオネラ感染を防ぐには「原泉かけ流しの温泉」に入ることであるが、残念なことに歴史ある温泉旅館でも、かけ流し温泉は少なくなっている。

 

 

 

川崎安楽死事件 平成14年(2002年) 

 平成14年4月19日、川崎市川崎区桜本の川崎協同病院で、3年半前に内科の須田セツ子医師が男性患者の気管内チューブを外し、筋弛緩剤を投与して死亡させていたことが公表された。死亡したのは川崎公害病の認定を受けていた58歳の男性患者で、平成1011月2日、友人の車で帰宅途中に気管支喘息の発作を起こして川崎協同病院に入院。入院時は心肺停止の状態で、蘇生によっても意識は戻らず、人工呼吸器管理になっていた。11月8日、須田セツ子医師は家族に脳死状態と説明。1111日、家族は覚悟を決めている、と須田医師は判断して気管内チューブを抜いたが、不安定な呼吸となったため再び挿管。1114日、須田医師は家族に「チューブを抜くので親族に連絡して来てほしい」と言い、1116日の午後5時30分に気管内チューブを抜いた。しかし患者は苦しそうな様子を見せたため、鎮静剤(セルシン)を投与、さらに筋弛緩剤(ミオブロック)を注射し、その数分後に患者は死亡した。事件から4日後、看護師から相談を受けた他の医師が当時の院長に報告したが、当時の院長はそのことを公表しない方針を取った。

 3年後の平成1310月になって、病院職員から院長に指摘があって調査が開始され、病院は須田医師に「倫理的にも法的にも重大な問題である」と辞職を勧告。平成14年2月に須田医師は病院を依願退職することになった。病院は殺人事件の可能性があるとして、須田医師に警察に出頭するように勧めたが応じず、須田医師は横浜市港北区で開業することになった。

 平成14年4月19日、病院は記者会見を開き安楽死の内部調査結果を公表した。病院は「患者は意識不明の状態であったが、自発呼吸があり安定していた」と説明したが、須田医師は「患者の妻からチューブを抜いてほしいと頼まれた」と回答した。家族の長男は「須田医師にチューブを抜くと言われたが、チューブを外すとどうなるかの説明はなかった。チューブを抜くとは依頼していない」と述べた。当時、病室にいた看護師は、「本当に抜くのですか」と質問したが、須田医師はそれには答えず、チューブを抜いた途端に患者が苦しみだし、この直後に鎮静剤と筋弛緩剤が投与されたと証言した。医師の常識からすれば、筋弛緩剤を投与すれば呼吸筋が麻痺するので死は確実であった。

 事件の発生から発覚まで約3年半がたっており、神奈川県警は当時のカルテや看護記録を分析、看護師や患者家族から事情を聴取した。その結果「気管内チューブを抜けば危険な状態に陥るのは明らかで、抜管は殺害行為の着手に相当する。抜管から約1時間後に投与した筋弛緩剤で患者は死亡した」として、12月4日、神奈川県警は筋弛緩剤投与による殺人容疑で須田セツ子医師(48)を逮捕した。

 横浜地裁の公判では、須田セツ子医師は気管内チューブを抜き、筋弛緩剤を投与した事実を認めたが、それは家族の要請によるもので、自然な死を迎えさせるための治療行為の中断であると主張。筋弛緩剤は薄めて点滴で投与したので、死亡との因果関係はないとした。

 平成17年3月25日、横浜地裁の広瀬健二裁判長は「医師として許される一線を逸脱したが、ある程度の社会的制裁を受けているとして、懲役3年、執行猶予5年の判決を言い渡した。平成19年2月25日、東京高裁で控訴審判決があり、須田セツ子医師に懲役1年6月、執行猶予3年が言い渡された。須田セツ子医師は判決を不服として違法性はないと上告したが、最高裁は上告を棄却し刑が確定した。最高裁は「医師は脳波などの検査をしておらず、余命の判断を下せる状況になく、チューブを抜いた行為は患者の意思に基づくとは言えず、法律上許される治療中止には相当しない」とした。

 この川崎安楽死事件は、延命治療中止が医師の独断的行為として罰せられたが、裁判では尊厳死や安楽死は医療チームで判断すべきと提示した。ほぼ同じ時期に、富山県の射水市民病院や北海道立羽幌病院などで人工呼吸器を外された患者が死亡した事件が明らかになったが、刑事事件となったのはこの事件だけであった。それにしても事件の発生から発覚までなぜ3年半もがかかったのか。組織ぐるみの隠蔽(いんぺい)があったのは確かであるが、3年半後に隠蔽(いんぺい)のふたが開いたのは、どのような理由だったのだろうか。

 

 

 

慈恵医大青戸病院事件 平成14年(2002年)

 千葉県松戸市に住むAさん(男性60)は、4年前から前立腺を患い東京慈恵会医大付属青戸病院(東京都葛飾区)に通院していた。平成14年9月に前立腺がんが見つかり、治療法として放射線療法、内分泌療法、手術療法があることを主治医から説明を受け、Aさんは主治医が勧める腹腔鏡下前立腺摘出術を選んだ。腹腔鏡下前立腺摘出術は開腹手術とは異なり、お腹に数カ所の穴を開け、そこから内視鏡を入れ、テレビモニターを見ながら器具を操作して患部を摘出する手術であった。切らずに治す腹腔鏡手術は、胆嚢摘出ではすでに一般的になっていたが、前立腺摘出術は先進医療のひとつで熟練した技術が必要だった。

 平成1411月5日、Aさんは入院。Aさんと家族は主治医から腹腔鏡による手術の説明を受けた。困難な手術との説明はなく、手術の痕が小さく回復が早いなどの利点が強調され、腹腔鏡手術がうまくいかない場合は、開腹手術に切り替えると説明を受けた。

 11月8日の午前9時41分、腹腔鏡による前立腺がん摘出が始まった。医師3人がAさんの腹部に1センチ大の穴を5カ所開け、内視鏡と鉗子を挿入、モニターを見ながら手術が進められた。しかし手術は困難を伴い、前立腺表面の毛細血管からの止血に時間がかかった。午後7時15分、前立腺は摘出したが、尿道の縫合に手間取り、午後9時に開腹手術に切り替えられた。午後1035分に手術は終了したが、出血による貧血が進行し、血圧が急速に低下した。麻酔科医が心臓マッサージを行い、輸血によってAさんの血圧は回復したが、Aさんの意識は戻らず、脳死状態のまま約1カ月後の12月8日に死亡した。Aさんが亡くなったことは病院から警察に連絡され、Aさんは都内の大学病院で司法解剖となった。Aさんの死亡について、病院側は開腹手術への変更の遅れと輸血の遅れを家族に述べたが、詳細な説明を避けていた。死因に不信を抱いていた家族は、警察の勧めもあって被害届を出した。

 平成15年9月25日、警視庁は執刀した泌尿器科医師・斑目旬(まだらめじゅん)(38)、長谷川太郎(34)、前田重孝(32)の3人を業務上過失致死容疑で逮捕。手術の許可を出した同大助教授大西哲郎(52)と2人の麻酔科医を書類送検とした。この事件の詳細が報道されると、日本中に大きな衝撃が走った。それは3人の医師はそれまで腹腔鏡下前立腺摘出術の経験がなく、指導医が不在の状態で、業者から器具の使用方法を聞き、マニュアルを見ながら手術を行っていたことが明らかになったからである。このことは術前に本人や家族には告げられず、大学の倫理委員会の承認なしに手術が行われていた。マスコミは医師が未熟だったため、開腹手術へのタイミングが遅れ、患者が失血死したと報道した。

 平成16年3月18日、厚生労働省の医道審議会医道分科会は逮捕された医師3人について、刑事事件の有罪判決が確定する前に、斑目旬、長谷川太郎に医業停止2年、診療部長だった大西哲郎には、未熟な医師による手術を認めたとして医業停止3カ月の行政処分を下した。医師の行政処分は、裁判の結果を踏まえて行われるのが通例であったが、今回は極めて異例のことであった。

 公判では、斑目旬、長谷川太郎は起訴事実を認めたが、前田重孝は無罪を主張した。弁護側は、「輸血が間に合えば死亡しなかった。追加の輸血の注文を怠った麻酔科医の過失が直接の死因」と主張した。患者の血液型はAB型であったが、青戸病院にはAB型の輸血用赤血球がなく、日赤に注文してから手術室に届くまで時間がかかっていた。緊急時にはAB型の代わりにO型の赤血球が輸血可能だったがそれをしていなかった。このことから弁護側の主張には、それなりの説得力があった。

 しかし手術で前田重孝が前立腺を摘出したとき、「赤ちゃんが産まれました。元気な男の子です」と言ったテープの声がテレビで流され、極めて印象を悪くした。

 平成18年6月15日、東京地裁の栃木力裁判長は、「医師の基本を忘れた無謀な行為」と述べ、長谷川太郎に禁固2年6月(執行猶予5年)、斑目旬と前田重孝に禁固2年(執行猶予4年)を言い渡した。患者の利益を考えず、経験を積みたいとする自己中心的な考えで手術を行い、止血処理を怠り、開腹手術への変更が遅れ、患者を死亡させたとした。輸血の遅れについては、麻酔科医の過失が3人の罪を否定することにはならないとした。

 これまで医療事故が社会問題となり、その根底にある医師の独善性や倫理感の欠如は大部改善されてきた。しかし青戸事件は医療従事者の努力を無にするような医療事故であった。患者や家族に十分な説明が行われていれば、経験ある医師が立ち会っていれば、輸血の不手際がなければ、この事件は起きなかった。糾弾されるのは当然であるが、まことに残念なことであった。

 

 

 

研修医過労死判決 平成14年(2002年) 

 平成10年8月16日、大阪府守口市にある関西医科大付属病院の研修医・森大仁(ひろひと)さん(26)が急死した。森大仁さんは同年6月1日から耳鼻咽喉科の研修医として勤務していた。森大仁さんはマンションで1人暮らしをしていたが、病院から「森君が出勤していない」と連絡を受けた父親(57)がマンションに駆け付け、死亡しているのを発見。検視の結果、急性心筋梗塞による死亡とされた。

 森研修医は大学生のときは陸上部に所属し持病もなかったが、死亡する1週間前から「食事が取れない、時々胸が痛むが、診てもらう時間がない」と社会保険労務士である父親に話していた。このこともあり、父親が病院に息子の勤務実態を問い合わせると、「病院と研修医には雇用関係はなく、勤務時間は自主管理で、支払っているのは給与ではなく奨学金。病院に責任はない」と勤務実態を教えようとしなかった。

 父親は息子の同僚を訪ね、聞き取り調査を行った。その結果、森研修医は連日15時間の勤務で、休日は2カ月半の間に2日だけだった。毎朝7時30分頃に出勤して、入院患者への点滴や採血、回診など深夜まで働いていた。法定労働時間は週40時間であるが、森研修医は週114時間働き、給与は講義手当名目の月6万円で、健康保険にも入っていなかった。もちろん病院との雇用関係はないので、就業規則、雇用保険、年金もなかった。

 父親は「労働基準法に違反している」として労災の申請を出そうとしたが、同医大は「研修は教育だから、研修医は労働者ではない」と反論したのだった。父親は北大阪労働基準監督署に労災の申請書を提出したが、書類には事業主である大学の印鑑は押してもらえず、提出すべき出勤簿もなかった。

 森大仁さんの父親は「研修医が労働者」であることを認めさせるため3つの裁判で争った。まず平成11年5月、両親は関西医科大を相手取り、約1億7000万円の損害賠償を求める訴えを大阪地裁に起こした。研修医の業務は責任が重く、従事している時間は異常に長いのだから「過重労働による過労死である」と主張したのだった。平成14年2月25日、大阪地裁は、「研修医は労働者であって、大学は健康管理に注意を払うべきなのに、安全配慮義務を怠っていた」として約1億3500万円の支払いを命じた。大学は控訴したが、平成16年7月15日、大阪高裁は「本人も健康管理の配慮を欠いていた」として賠償額を約8400万円に減額した。同医大側が上告しなかったため賠償命令が確定した。

 次ぎに平成14年5月10日、大阪高裁で「労働者として私学教職員共済に加入させるべき義務を怠った」として遺族年金分の損害賠償金約1000万円の支払いを求める判決があった。武田多喜子裁判長は、研修医を労働者と認定、約870万円の支払いを命じた1審の大阪地裁堺支部判決を支持し、同医大の控訴を棄却した。

 そして平成17年6月3日、最低賃金に満たない給料で働かされた、として3カ月間の勤務の未払い賃金約59万円の支払いを求めていた控訴審判決が最高裁で下った。最高裁の福田博裁判長は1審、2審の判決を支持し、同大に約42万円の支払いを命じた。

 このように「研修医は労働者である」ことが裁判で認められたのである。この判決が出るまでは、研修医は過酷な労働、わずかばかりの給料、不十分な指導の中で医療現場を任されていた。研修医の2年間は肉体的、精神的、経済的にも限界に近い生活で、寝る時間もないのに薄給を補うため民間病院で当直のアルバイトをする毎日だった。

 大学病院にとって研修医は安価な労働力と伝統的にとらえられていた。「医師は聖職であって、労働者ではない」という考えが根底にあったが、裁判で研修医は労働者であることが認定されたのである。

 平成16年度から新研修医制度が始まり、研修は義務化されたが、制度発足前に判決が出たことから、この判決は新研修医制度に大きな影響を与えた。労働基準法では労働は原則1日8時間、1週40時間以内となっている。研修医は法的にこの労働時間が守られることになり、給料もおおよそ30万円以上となり、研修医の労働環境は大きく改善した。

 しかし研修医を指導する勤務医は、労働基準法は事実上無視されたままである。労働基準法を守れば日本の医療は成り立たないことは分かっているが、医師の犠牲的精神に甘え、医師の待遇改善を怠ったことが、後に続く医師の過重労働、さらには医療崩壊を招いたといえる。

 

 

 

薬害肝炎 平成14年(2002年)

 平成14年、血液製剤によるC型肝炎ウイルス(HCV)感染が大きな社会問題となった。問題になったのは主としてミドリ十字(現田辺三菱製薬)の血液凝固製剤「フィブリノゲン製剤」で、約6000の医療機関に納入され、約30万人に投与され、約1万人がHCVに感染したと推定されている。HCV感染と肝炎との因果関係は明らかであるが、血液凝固製剤がC型肝炎の原因であるとの証明、薬害肝炎をもたらした責任を含めると極めて複雑になる。

 昭和39年3月にライシャワー駐日米国大使が暴漢に襲われ、輸血を受けたライシャワー大使が輸血後肝炎となった。この事件がきっかけに同年8月、民間の血液銀行が行っていた輸血を日本赤十字社に一本化し、輸血は売血から献血へと大きく変更された。この輸血行政の変換によって、昭和39年までの輸血後肝炎の発症率は50.9%であったが、昭和42年には16.2%になり、輸血の安全性は飛躍的に高まった。しかし献血としたのは輸血用の血液だけで、血液製剤は対象外だった。

 血液銀行の大手だった「日本ブラッド・バンク」は、昭和39年8月に社名を「ミドリ十字」に変え、血液製剤部門の強化をはかった。血液製剤は国内外で数千人から集めた血漿を濃縮して製造していたため、通常の輸血より感染の危険性が高く、このことが後の薬害エイズ、薬害肝炎を引き起こす下地になった。

 昭和39年、ミドリ十字はフィブリノゲン製剤を製造販売、主に出産時の異常出血の止血剤として使用されていた。ちょうどその頃、出産時の大量出血で妊婦が死亡した裁判で、「フィブリノゲン製剤を投与するなど、適切な止血措置をとらなかった」として、産婦人科医に高額な損害賠償を命じた判決(東京地裁、昭和50年2月13日)があった。このことから出産時の出血や、外傷や手術の止血用にフィブリノゲン製剤は安易に使用されていた。当時はフィブリノゲン製剤の投与による肝炎発症の副作用は少なかった。

 いっぽう米国では、昭和5212月に米食品医薬品局(FDA)がフィブリノゲン製剤の投与により肝炎が多数発生したことから製造承認を取り消していた。昭和54年9月、旧国立予防衛生研究所(現国立感染症研究所)血液製剤部長の安田純一が著書の中でFDAによる製造承認取り消しの事実を指摘、フィブリノゲン製剤の危険性を知りながら厚生省には報告していなかった。ミドリ十字もFDAの承認取り消しの資料を社内で回覧していたが販売を続けていた。

 ここで混乱しやすいのは、米国のフィブリノゲン製剤は日本とは製造法が違っていたのだった。日本で販売されていたフィブリノゲン製剤は不活化処理(BPL処理法)により、B型肝炎ウイルス(HBV)のみならずHCVも不活化されていた。この不活化処理(BPL処理法)は偶然の選択であった。しかし昭和60年、この不活化の処理を米国と同じ方法に変更したためHCVは不活化されなくなり感染を拡大させた。

 一方のB型肝炎は、昭和43年にHBVが発見され、昭和47年には輸血からB型肝炎が排去されたが、依然として輸血の約10%に輸血後肝炎が発症し、輸血後肝炎は非A非B型肝炎と呼ばれていた。しかし平成元年に米国のカイロン社がHCVを発見、HCVが非A非B型肝炎を引き起こすことが初めて解明された。HCVの発見により輸血後肝炎の全貌がほぼ明らかになり、C型肝炎は輸血以外に、集団予防接種などでの注射器の回し打ち、あるいは自然感染によるものとされていた。フィブリノゲン製剤によるC型肝炎は予想外のことだった。

 さらに混乱しやすいのは、フィブリノゲン製剤は止血剤であることから、同時に輸血を受けていた患者が多かったことである。C型肝炎がフィブリノゲン製剤によるものなのか、輸血によるものなのか、あるいは別のルートによるのか、断言できなかった。また当時のカルテを保存している医療機関は少なく、解明をより困難にした。

 薬害肝炎が社会問題となったきっかけは、昭和62年4月18日の新聞報道だった。それは青森県三沢市の産婦人科医院で、昭和61年9月から翌62年4月にかけて、フィブリノゲン製剤「フィブリノゲン−ミドリ」を投与された産婦8人が非A非B型肝炎に集団感染したことだった。

 この感染は、肝炎ウイルスの不活化処理法であるBPL処理法が別の方法に変更されてから出荷された製剤によるもので、同医院は厚生省に報告するとともに、ミドリ十字にフィブリノゲン製剤によって集団感染が起きたと抗議した。しかしミドリ十字は「フィブリノゲン−ミドリ」の添付文書に「血清肝炎等の肝障害があらわれることがある」と記載してあることから、感染は不可抗力として患者に陳謝しなかった。

 医院側とミドリ十字との話し合いは平行線をたどったが、医院側が患者救済のため、「投与した医師の責任」として患者に陳謝。医院が患者1人に約100万円ずつ計約800万円を支払うことになった。しかし実際には、救済金の半分の400万円はミドリ十字から医院へ研究費名目で支払われていて、ミドリ十字はこのことを公言しないように病院に約束させていた。つまりミドリ十字は薬害肝炎が広がった場合、補償問題の防止策をはかっていたのである。

 この青森県の産婦人科医院をきっかけに、ミドリ十字は厚生省の指示で感染実態を調査し、同年7月までに同製剤で74人が肝炎を発症していると報告。ミドリ十字は非加熱の「フィブリノゲン−ミドリ」を自主回収し、事実上使用しなくなった。しかし同時に、感染の証拠となる「フィブリノゲン−ミドリ」をすべて破棄したため、薬害肝炎は隠蔽されてしまった。

 平成13年頃からC型肝炎の感染ルートが重視されるようになったが、この事態を一転させたのが、平成14年3月のフジテレビ「ニュースJAPAN」の報道であった。日本初の集団感染を報告した三沢市の産婦人科医院が、当時の「フィブリノゲン−ミドリ」を保管していたことを明らかにした。保管されていた「フィブリノゲン−ミドリ」は製造から15年以上も経過していたが、分析の結果、C型肝炎ウイルス(HCV)の活性を持っていたのである。さらにDNA鑑定で「フィブリノゲン−ミドリ」と、かつて製剤によって肝炎を発症した患者のウイルスが一致し、また米国の麻薬患者のウイルスとも一致したのだった。

 このことから血液製剤「フィブリノゲン−ミドリ」は、原料血漿を米国で買い付け、原料血漿にHCVが含まれていたことが明らかになった。薬害エイズと同じように、原料血漿は刑務所内の売血、麻薬中毒者や売春婦を対象とした極めてハイリスクなものだった。このことからフィブリノゲン製剤によってC型肝炎が引き起こされた可能性が高くなった。

 平成14年8月、厚生労働省が作成したフィブリノゲン製剤によるHCV感染に関する調査報告書には、製薬会社の「三菱ウェルファーマ」(旧ミドリ十字、現田辺三菱製薬)から提出されたHCVに感染した418人分のリストが含まれていた。しかし厚生労働省は製薬会社から患者リストをもらいながら患者に連絡をせず、フィブリノゲン製剤を使用した納入先の医療機関を公表して、C型肝炎の検査を受けるように呼び掛けただけであった。

 平成1910月、この患者リストが厚労省の倉庫から発見され、厳しい批判を浴びることになった。平成191130日現在、418人のうち265人が特定されたが、そのうちの51人が死亡していた。医療機関を通して感染の事実や感染原因を告知されたのは92人。死亡した9人の遺族に対して感染原因などが伝えられた。

 平成141021日、東京で13人、大阪で3人が東京地裁および大阪地裁に損害賠償を求めて提訴。さらに翌15年には患者原告は福岡地裁、名古屋地裁、仙台地裁において次々と提訴した。大阪と福岡の訴訟判決(平成18年)、名古屋の訴訟判決(平成19年)では、C型肝炎ウイルスを不活化していた期間においても感染の危険性が排除できないとして、一部の原告に対してHCV感染とフィブリノゲン製剤の因果関係を認定した。しかしそれ以外は国、製薬会社に責任はなしとの判断を示した。

 裁判所はこのように判断を下したが、この司法判断とは別に、政府は議員立法で一律救済の法案を成立させることになり、平成211130日に肝炎対策基本法が成立した。肝炎対策基本法はすべてのB型、C型肝炎患者の救済を目的とし、肝炎患者への治療負担の軽減を盛り込んでいる。さらに過去の薬害肝炎事件に関する国の責任も明記しており、肝炎患者救済の第一歩と期待されている。

 

 

 

SARS 平成15年(2003年) 

 SARSは重症急性呼吸器症候群(Severe Acute Respiratory Syndrome)の略である。当初、SARSのウイルスは不明のまま、感染力が強く、急速に重症化し、しかも致死率が高いことから世界中が注目していた。

 SARSの世界的感染は、中国広東省広州市の病院で肺炎の治療に当たっていた医師(64)からであった。医師は自分がSARSに感染していることを知らず、親戚の結婚式のため2月21日に香港のメトロ・ポール・ホテルの9階に宿泊。この医師の痰や嘔吐物などがトイレや部屋の床に飛散し、部屋を清掃したホテル従業員が同じ器具で別室を清掃し、別室の宿泊者が感染し世界に広がったとされている。

 ホテルで症状を悪化させた広東省の医師はプリンス・オブ・ウェールズ病院に搬送されたが、3月4日に死亡。その後、同病院から50人以上の院内感染者が出た。特に同病院で人工透析を受けていた男性がSARSに感染し、この男性が親族のマンションに宿泊し、そのマンションでSARSが集団発生して41人が死亡した。また医師と同じホテルの9階に宿泊していたシンガポールの女性が帰国して100人以上が感染した。

 SARSが世界で最も早く注目されたのはベトナムのハノイであった。香港のメトロ・ポール・ホテルの9階に宿泊していた中国系アメリカ人男性が、香港からハノイに飛行機で向かい、2月26日に高熱と呼吸苦をきたしハノイのフレンチ病院に入院。男性の胸部レントゲンはすりガラス様で、それは肺全体の炎症を意味していた。呼吸状態が悪化したことから気管内挿管、気管切開による呼吸器管理となった。

 主治医は世界保健機構(WHO)の感染症専門医師カルロ・ウルバニ(46)に相談、カルロ・ウルバニ医師は従来のものとは違う新しい感染症の可能性が高いとWHOに報告した。男性患者は家族の希望で、3月5日にハノイから香港の病院の感染症科へ転院となったが死亡した。

 男性患者が香港へ移送された翌日、フレンチ病院では男性と接触のあった20人以上の医師や看護師が次々に発熱を訴え10人が入院した。カルロ・ウルバニ医師はWHOにSARSの名称で報告、さらにSARSが飛沫感染によるものと判断して病棟を隔離した。しかしカルロ・ウルバニ医師もSARSに感染し、3月11日に死亡。翌12日、WHOが世界へSARSの警報を出した。これが初めてSARSを世界に知らせることになった。SARSの症状は38度以上の発熱、呼吸困難などであった。

 WHOの感染症専門家たちは、中国からSARSが広がったとした。中国政府はそれを指摘されるまでSARSの流行を隠していたが、平成1411月頃から中国広東省でSARSは流行していた。この中国のSARSの情報隠しについて、中国政府は謝罪とともに保健相と北京市長などを解任した。

 平成15年4月、台湾でSARS治療にたずさわっていた医師(26)が観光目的で日本に来ていたことが判明。帰国後にSARSだったことが明らかとなり、厚生労働省は日本の立ち寄り先を発表、それらの施設を消毒するなどの事態へ発展したが、幸いにも日本でのSARS発症はなかった。

 平成15年7月11日、台湾で最後の症例が隔離され、潜伏期の2倍に当たる20日が過ぎても新たな症例の発生がなかった。そのためWHOは世界的な流行は終息したと宣言。また同日、WHOは全世界のSARS発症者は8069人、死者は775人、その半数以上が中国での感染であったことを発表した。

 平成17年から現在に至るまで、新たなSARS感染者の報告はない。SARSはウイルス感染であることから有効な予防法も治療法もない。SARSが自然に沈静化してくれたのは、人類にとって最大の幸運であった。

 

 

 

エキノコックス症 平成16年(2004年)

 作家の畑正憲さんが北海道の中標津にムツゴロウ動物王国をつくり、テレビ番組「ムツゴロウとゆかいな仲間たち」が人気を集めていた。しかし平成16年、資金難から犬84匹、猫25匹を連れ、北海道から東京サマーランド(あきる野市)に移転することになった。この際、エキノコックスの感染が大問題となり、あきる野市はエキノコックス安全委員会を設置し、すべての動物を検査することになった。

 エキノコックス症の患者が初めて報告されたのは北海道の礼文島で、昭和11年のことであった。明治時代に野ネズミを駆除するたに、千島列島からキタキツネを持ち込んだことが原因であった。エキノコックス症は、昭和39年までは礼文島に限局した風土病とされていたが、昭和40年頃から北海道のほぼ全域に広がり、札幌市内でも患者が発見された。エキノコックスの成虫はキタキツネにに寄生し、キタキツネが増えたことから北海道全土に拡大した。

 エキノコックスは寄生虫の1種で、世界的に分布している単包条虫と、北方圏諸国に分布する多包条虫の2種類に大別することができる。世界的には単包条虫による被害のほうが多いが、北海道で問題になったのは多包条虫である。

 エキノコックスを媒介するキタキツネは感染を受けても症状はなく、キタキツネの小腸に寄生した成虫が卵を生み、便から排泄された卵が、水、食物を介してヒトに経口感染する。エキノコックスの幼虫はヒトの肝臓に移行し、致死的な肝機能障害をもたらす。

 エキノコックスの幼虫はネズミやヒトに感染しても、ネズミからヒト、ヒトからヒトへの感染はあり得ない。あくまでもキタキツネあるいは犬の便からの虫卵がヒトに感染をもたらすのである。

 ヒトのエキノコックスは主に肝臓に寄生して腫瘤を形成する。感染から肝臓の腫大、黄疸、腹水貯留、全身倦怠などの症状が出るまで小児で5年、成人で10年以上かかる。肝臓のほか、肺、骨、腎臓、脳などにも寄生するが、問題になるのは肝臓である。

 エキノコックスの治療としてアルベンダゾールを用いる薬物療法があるが、ほとんどの患者は肝病巣の切除が必要となる。昭和23年、北大医学部第1外科教授・三上二郎がこの肝臓切除術をわが国で初めて行った。

 エキノコックス症の初期症状はほとんどなく、無症状ならば大半の患者は病巣を切除できるが、発症が出ると2割くらいの患者しか手術で腫瘤を取り切れない。このように自覚症状に乏しいことから早期発見、早期治療が必要になる。

 エキノコックスは、放置すればがんと同じように全身状態が悪化し、悪液質に陥り死亡する。北海道では毎年約10人程度の新患が報告されているが、キタキツネの感染率は約4割なので、キタキツネの生息地では感染の可能性は大きい。

 新規患者は毎年10人前後であるが、これは10年前に初感染を受けた患者で、今後、増加する可能性がある。感染予防のためにはエキノコックスの卵を口から入れないことで、そのためには人家にキツネを近づけない、山菜や果実は良く洗い加熱することである。自然にあふれた北海道で湧き水、井戸水、沢水を飲めないのは残念であるが、それほど恐ろしいのである。エキノコックスの卵は沸騰すれば死滅することが分かっている。

 北海道では毎年10万人以上の住民が定期検診を行い、エキノコックス認定患者は平成10年の時点で累計383人(多包条虫が組織学的に確認された症例のみ)となっている。ELISA法による住民のスクリーニング検査では陽性者は約0.3%である。

 エキノコックス症は北海道だけでなく本州からも70例以上報告され、特に青森では22例の患者がいる。本州の患者の中には、北海道に行った経験のない16例(青森8例、宮城、東京が各2例、秋田、長野、福井、京都が各1例)が含まれ、その感染経路は不明である。北海道のキタキツネが青函トンネル経由で本州に移動、あるいはゴルフ場の芝や牧草に紛れこんだ虫卵が移動したものと考えられる。このようにエキノコックス症が本州へ広がることが憂慮される。

 エキノコックスの発症の地である礼文島では、現在ではエキノコックスの発症は見られていない。それは感染源となるキタキツネや犬を殺し、島からエキノコックスを駆除したからである。キタキツネは北海道の観光の象徴でもあり、その対策に頭を痛めているのが現状である。なおエキノコックス症は、平成11年の感染症新法では4類に分類されている。

 

 

 

日歯連闇献金事件 平成16年(2004年) 

 日本歯科医師会(日歯)の政治団体である日本歯科医師連盟(日歯連)による政治資金不正処理が明らかになった。そのきっかけは、平成1511月9日の衆院総選挙で日歯が推薦していた吉田幸弘議員が落選したことである。

 歯科医師である吉田議員は、平成8年に新進党から出馬して初当選。平成12年には自民党から出馬し、日歯の臼田貞夫会長は吉田議員を比例名簿の上位に掲載するように働き掛け、その結果、吉田議員は比例東海ブロック3位で当選した。ところが平成15年の衆院総選挙で吉田議員が落選、吉田議員の政治資金収支報告書からその不正が暴かれることになった。吉田議員の収支報告書と日歯連の報告書の金額に食い違いがあったからである。

 このことから様々な不正が暴かれることになった。それは日歯会長選挙でのキックバック事件、中央社会保険医療協議会(中医協)汚職事件、日歯連の政治資金の不正処理、日歯会長・臼田貞夫の業務上横領などであるが、この事件の背景は平成12年3月の日歯会長選挙にさかのぼる。日歯会長選挙で臼田貞夫が4選を目指していた前会長の中原爽を破ると、臼田会長と内田裕丈常務理事が政治献金の決定権を独占するようになった。臼田会長が吉田議員の政治資金を全面的に支援したが、吉田議員が選挙で落選すると、吉田議員の政治資金報告書から臼田会長を取り巻く不正事件が芋づる式に引きずり出されることになった。

 中医協は2年に1度の診療報酬の改定を決める諮問機関である。日歯は長年にわたる診療報酬抑制に対し、平成14年4月の診療報酬改定で「かかりつけ歯科医初診料」を設け、歯科診療報酬を上げてもらおうと画策した。平成13年、臼田会長ら5人は、対立する立場の下村健(元社会保険庁長官)ら2人に約330万円のわいろを渡し、下村健は歯科医師に有利な発言をするようになる。

 下村健委員は、厚生省保険局長から社会保険庁長官、健保連副会長と渡り歩き、9年間中医協の委員を務め、医療界ではボス的な存在であった。平成16年4月、東京地検は関係者を贈収賄容疑で逮捕したが、医療界の超大物である下村健の逮捕に医療関係者は驚いた。

 日歯連闇献金事件とは、平成13年7月2日、東京都港区の料亭で臼田会長が、橋本派会長の橋本龍太郎元総理、野中広務元自民党幹事長、青木幹雄自民党元参院幹事長ら3人に1億円の小切手を渡した事件である。それは日歯会長選挙の対立候補だった中原爽が参院選挙に出馬することになり、選挙を有利に運ぶための献金であった。

 1億円の献金自体には違法性はないが、政治資金規制法違反(不記載)とされ、臼田貞夫と橋本派の会計責任者滝川俊行が逮捕され、臼田貞夫は懲役3年、執行猶予5年の有罪判決を受け、滝川俊行は禁固10月、執行猶予4年の判決が下った。

 橋本龍太郎元総理と青木幹雄は証拠不十分で不起訴となり、野中広務は関与が消極的として起訴猶予となった。そして橋本派から小切手授受の料亭にいなかった村岡兼造が起訴された。村岡兼造は料亭現場にはいなかったが、平成14年3月13日の橋本派幹部会で、日歯からの1億円の領収書発行の要請を断ったことが起訴理由となった。

 村岡兼造は「幹部会で闇献金の話が出たことはなく、1億円については報道で初めて知った」と無罪を主張。一審の東京地裁は橋本龍太郎、野中広務、青木幹雄が証人として出廷し、村岡兼造と対峙することになった。村岡兼造は橋本龍太郎が首相の時の官房長官である。

 この構造は、リクルート事件で竹下登首相をはじめとした数十人の国会議員や経済人が関与しながら、政治家では藤波孝生官房長官だけが起訴された経緯と似ていた。

 平成18年3月30日、東京地裁の川口政明裁判長は村岡兼造に無罪判決を言い渡した。無罪となったのは橋本龍太郎元首相や自民党全体に累が及ばないように虚偽の証言をしたと判断したからである。しかし検察は控訴し、平成19年5月10日、東京高裁の須田賢裁判長は村岡兼造に禁固10月、執行猶予3年の逆転有罪判決を下した。平成20年7月14日、最高裁は上告を棄却し、村岡兼造の有罪が確定した。

 この一連の事件は臼田貞夫会長が診療報酬を上げるため、歯科系議員を増やすことが動機だった。しかし吉田議員に5000万円を現金で渡し、そのうちの3000万円をキックバックさせ、自分の日歯会長選挙の工作に使っていた。全国の歯科医師から集めた会費を自分の会長選挙に使っていたのだから、歯科診療報酬の引き上げが動機だったとしても、臼田貞夫会長に同情の声は少なかった。なお臼田貞夫会長は歯科医師免許を取り消され、吉田幸弘元議員は歯科医業停止3年の行政処分を受けた。

 

 

 

鳥インフルエンザ 平成16年(2004年) 

 平成16年1月12日、国内では79年ぶりとなる鳥インフルエンザの発生が確認された。確認されたのは山口県の養鶏場「ウインウインファーム山口農場」で、同農場では前年1228日から鶏が次々と死亡し、その数は約6000羽に達した。

 ウインウインファーム山口農場の周辺は立ち入り禁止になり、半径30キロ以内の約30の農場では鶏や卵の移動が禁止された。山口農場のすべての鶏は処分され地中深く埋められた。白い防護服に身を固めた作業員が農園を消毒する姿が何度もテレビで放映されたが、この消毒はインフルエンザウイルスの表面が次亜塩素酸ナトリウム液、アルカリ液、ホルムアルデヒド液などで壊れやすいことを利用した消毒法であった。

 これらの対応によって鳥インフルエンザは封じ込んだと思われたが、2月17日に大分県の農場で鳥インフルエンザが発生。さらに京都府丹波町の浅田農産でも発生した。浅田農産では2.8万羽の鶏が死んでいたが、保健所に通報せずに鶏を出荷していた。この鳥インフルエンザの隠蔽(いんぺい)がマスコミで非難され、浅田農産の社長が騒動のさなかに自殺する事態に至っている。

 動物衛生研究所(茨城県つくば市)の調べで、これらの鳥インフルエンザは、前年12月から韓国で猛威を振るっていた「H5型」に属する高病原性鳥インフルエンザであることが分かった。韓国の感染地区は15カ所で、鶏76万羽、アヒル104万羽、卵1000万個が廃棄処分にされていた。このウイルスが野鳥とともに日本海を越えてきたのである。

 ヒトが感染するインフルエンザウイルスはA型、B型、C型の3種類であるが、鳥に感染するのはA型のみである。インフルエンザウイルスはウイルス表面の粒子タンパクであるヘマグルチニン(赤血球凝集素 HAhaemagglutinin)とノイラミニダーゼ(NAneuraminidase)の違いによって、ヘマグルチニンはH1からH1616種、ノイラミニダーゼはN1からN9の9種類に分類され、その2つの組み合わせの数だけ亜型が存在する。この亜型によってインフルエンザウイルスはH1N1、H169と略称で分類されるが、ヘマグルチニンとノイラミニダーゼに亜型が多いこと、さらに変異しやすいことから、インフルエンザウイルスは毎年のように姿を変えて流行を繰り返す。

 カモなどの野生の水鳥は、鳥インフルエンザウイルスを無症状のまま保持している。鳥インフルエンザウイルスは野生の水鳥にとっては自然宿主であるが、頻繁に遺伝子の変異を繰り返すため、まれに鶏やアヒルなどの家禽類に高い病原性を発揮することがある。このタイプが高病原性鳥インフルエンザで、感染すると家禽類の大半が死亡する。このため養鶏産業の脅威となっている。

 鳥インフルエンザは鳥類の感染症で、ヒトが感染する季節性のインフルエンザとは別である。鳥インフルエンザがヒトに感染する可能性はきわめて低く、感染してもヒトからヒトへの感染はないとされている。

 生きた鶏との接触でヒトが感染することはまれで、また鶏肉や卵をヒトが食べて感染した例はない。ところが平成9年、香港の鶏市場で18人が感染し6人が死亡(H5N1)、平成15年にはオランダ防疫従事者80人が感染し1人が死亡(H7N7)する例外があった。

 日本国内での高病原性鳥インフルエンザの発生は、これまで大正14年に1度だけであったが、今後日本で発生しない保証はない。海外での高病原性鳥インフルエンザの報告は多く、香港、中国、米国、ドイツなどで鳥インフルエンザが発生している。日本での発生が少ないのは、日本が島国で、野生の水鳥が大陸から渡ってくる頻度が少ないためとされている。

 鳥インフルエンザが恐ろしいのは、香港の例が示すようにヒトに感染した場合の致死率が50%と高いことで、この強毒変異ウイルスによる世界的な大流行(パンデミック)が起きる可能性が否定できない。また弱毒であっても遺伝子変異によって新型インフルエンザが出現する可能性がある。平成21年に新型インフルエンザ(豚インフルエンザ)が世界的に流行したが、専門家は豚よりも鳥インフルエンザの脅威を想定している。

 

 

 

パロマ工業湯沸かし器死亡事故 平成18年(2006年) 

 平成8年3月18日、東京都港区南麻布のワンルームマンションに住む若い男性(当時21歳)が自室で死亡しているのを友人が発見した。死後1カ月が経過していたが、行政解剖の結果、死因は心不全とされた。島根県松江市に住む父親が遺体を確認、母親は精神的ショックから息子の遺体を見ないまま葬儀が行われた。

 最愛の息子を亡くした母親は、息子の最後の姿を見なかったことを長い間悔やんでいた。そのため死亡から10年後の平成18年2月、母親は赤坂署に当時の写真が残っていないかと電話で尋ねた。赤坂署には写真は残っていなかったが、赤坂署は「監察医務院に写真があるかもしれない」と教えてくれた。母親が監察医務院に問い合わせると、「写真は残っていないが、遺体検案書を送る」と約束してくれた。

 数日後、送られてきた遺体検案書を見て母親は驚いた。遺体検案書の直接死因に「一酸化炭素中毒」と書いてあったからである。心不全で死亡したと思い込んでいたが、本当の死因は一酸化炭素中毒だった。一酸化炭素中毒ならば、一酸化炭素を発生させた原因があるはずである。母親はすぐに上京すると、赤坂署と監察医務院を訪ねたが、監察医務院は一酸化炭素中毒を認めたものの、その発生原因は分からないと述べた。母親は赤坂署に「なぜ死亡したのか、死因を突き止めてほしい」と何度も訴えた。業務上過失致死罪の時効(5年)は過ぎていたが、赤坂署は母親の熱意に再捜査を約束し、警視庁捜査一課に相談した。

 警視庁捜査一課は、保存してあった湯沸かし器を鑑定したところ、湯沸かし器は改造されていて、電気が止まると排気ファンが停止して不完全燃焼が起きることが分かった。不完全燃焼によって高濃度の一酸化炭素が発生したのだった。東京電力に問い合わせると、平成8年2月7日に停電があったことがわかった。同種の湯沸かし器は国内外で広く使われていたので、同様の事故が起きている懸念があった。警視庁は経済産業省に連絡、全国的な調査が始まった。

 平成18年7月14日、経済産業省はパロマ工業製の湯沸かし器による一酸化炭素中毒で、これまで15人が死亡していると発表した。問題となった湯沸かし器は、昭和55年4月から平成元年7月にかけてパロマ工業が製造した屋内設置型のもので、最初の事故は、昭和60年1月に札幌市で起き28歳の男性が死亡していた。平成4年4月にはアパートの風呂にお湯を入れていた男性2人が死亡していた。最終的に、昭和60年からの20年間で事故は28件(死亡21人、重軽症19人)発生していた。

 この事件が発覚すると、パロマ工業の小林弘明社長は「製品自体に問題はなく、修理業者による不正な改造が原因」と修理業者を厳しく批判。さらに「パロマ工業に責任はなく、サービス業者による不正改造や製品自体の安全装置劣化によるもの」として謝罪しなかった。

 この湯沸かし器による死亡事故を、パロマ工業がいつ認識したのかは明確ではない。しかし昭和63年に、パロマ工業の担当部門は全国の営業所に改造禁止の文書を配布していた。また遅くとも平成4年には、当時のパロマ社長小林敏宏は事故の報告を受け、社内やサービス業者向けに注意を呼び掛けていた。またパロマ工業は通商産業省に事故を報告したが、通商産業省は必要な行政措置や消費者への警告をしていなかった。

 不正改造は簡単に見分けることができる。湯沸かし器を燃焼させ、排気ファンのコンセントを抜いて燃焼が続くなら不正改造の製品だった。このように簡単に見分けがつくのに、死に至る製品を一般に公開しなかったため、事故を続発させていた。平成4年から平成17年まで、同様の事故による一酸化炭素中毒で5人が死亡し、また売り上げの8割が海外だったことから同機種による外国での死亡例も報告されていた。

 パロマ工業がすぐに対策をとっていれば、多くの犠牲者を出さずに済んだはずである。事故後の経過から、パロマ工業の事故対策がいかにずさんだったかが分かる。また最愛なる息子を亡くした母親が10年後に真相を確かめなかったら、さらに犠牲者は増えていたであろう。パロマ工業が社会的責任を忘れ、多数の犠牲者を出したことは間違いない事実であった。

 パロマ工業は21人の犠牲者を出したが、業務上過失致死罪の時効は5年なので、刑事事件となったのは、平成17年に東京都の18歳の大学生が死亡した事件だけであった。

 平成1912月、東京地検は小林敏宏前会長らを業務上過失致死傷容疑で在宅起訴、平成22年5月11日に東京地裁で、「自主回収などの抜本的な対策を取るべき義務を怠った」として、小林敏宏に禁固1年6月、執行猶予3年、元品質管理部長鎌塚被告に禁固1年、執行猶予3年(求刑・同1年6月)を言い渡した。両被告は控訴せずに刑が確定。平成21年9月1日に消費者庁が発足したが、消費者庁はパロマ工業の湯沸かし器死亡事故などの消費者被害に対応するために設置されたのである。

 

 

 

JR福知山線脱線事故 平成17  (2005)

 平成17425日の午前918分頃、JR西日本の福知山線で快速電車が塚口駅を通過直後、半径304mのカーブを曲がりきれずに脱線し、猛烈な速度で線路横のマンション1階に激突した。12両目は原型をとどめないほどに大破し、3から5両目が脱線、死者107人、負傷者562人の大惨事となった。

 事故までの経過を振り返ると、午前94分、高見隆二郎運転手(23)と松下正俊車掌(44)は、宝塚駅で同志社前行き快速電車(7両編成)に乗務。定刻より15秒遅れで出発し、北伊丹駅を34秒遅れの913分に通過した。次の停車駅である伊丹駅の手前648mを時速112kmで走行し、ATSが「停車です、停車です」と警告音をだし、非常ブレーキを掛けたが間に合わず、伊丹駅の停止位置から72mオーバーランして停止した。

 高見運転士は、松下車掌に「バックする」と連絡し、制限速度を超える時速16kmでバック。その結果、停止位置を3m行き過ぎてしまった。このオーバーランで定刻より120秒遅れの91610秒に伊丹駅を発車。その直後に、高見運転士は「オーバーランの距離を実際より短く報告して欲しい」と松下車掌に連絡した。運転ミスの過少虚偽については、日勤教育の懲罰があったからで、このため松下車掌は指令室に8mのオーバーランと過少報告した。

 918分、高見運転士は遅れを取り戻そうと、時速122kmで塚口駅を通過。高見運転士は車掌と指令所との会話に気が取られながら、次の停車駅である尼崎駅手前の制限速度70kmの半径304mの右カーブを116kmで進入、乗客が床に倒れるほどの急ブレーキをかけたが、列車はカーブを曲がりきれず、遠心力で1両目の右側が大きく浮上し、左側の車輪が脱線、轟音とともにマンションに激突した。1両目は2両目につぶされ原型をとどめず、2両目は「くの字」になってマンションに張り付くように曲がり、5両目まで脱線した。

 この事故で高見運転士が死亡しているため真実は明確ではないが、カーブ手前のスピード超過、急ブレーキは明らかで、定刻時間の遅れ、オーバーラン、日勤教育による懲罰を恐れての焦りがあったのであろう。

 JR福知山線は、国鉄からの民営化後に、私鉄との熾烈な乗客獲得競争を繰り広げていた。大阪から宝塚間の所要時間はかつて41分だったが、事故当時は23分になっていて、それだけスピードを上げていた。さらに朝のラッシュ時には230秒に一本の割合で列車が通過していて、120秒のダイヤの遅れは心理的重圧を招いていた。

 JR福知山線には列車自動停止装置(ATSAutomatic Train Stop)がついていたが、このATSは旧国鉄時代のもので、信号が赤で列車が停車しない場合にブレーキをかけるもので、速度制限を超えた列車を減速させるものではなかった。新型の列車自動停止装置は、列車の追突防止、スピード制限の自動的制御をするので、新型装置が付いていれば今回の事故は防止できた。この新型ATSは昭和39年の新幹線で採用され、多くの私鉄で導入されたが、JR福知山線は旧型のものであった。

 事故発生後、現場に向かっていた対向列車や後続列車は、緊急時の「防護無線機」で、直ちに停止する筈であった。しかし事故車の車掌が狼狽して、発信スイッチを押し間違えたため作動せず、通りすがりの女性が踏み切りの非常ボタンを押し、対向してきた特急電車の運転士がこの信号に気付いて全列車に緊急停止を命じたのである。この女性の機転がなかったら、二重・三重の事故が起きていた可能性が強い。

 事故発生直後、日本スピンドル製造の全社員270人が救助に走った、社員たちは救急箱やカッターなどの道具をもち、フェンスを切り、バールでドアをこじ開け、負傷者を励ましながら次々に助けた。社員は2両目が先頭車両だと思っていたが、1両目が完全につぶれていることに気が付いた。1両目はマンションの駐車場に突っ込んでいて、ガソリンに引火する可能性があった。社員は消火栓を取りに会社に走った。

 救急車が来る前に、警察が来る前に、社員たちは自分たちのマイカーやトラックで病院に負傷者を搬送し130人以上を救助した。さらに尼崎中央市場から60人が大量の飲料水、タオル600枚を持って駆けつけ、現場近くの大成中学の教師たちは担架代わりの毛布を持って走った。突然の事故で、救急隊や警察の数は少なかったが、民間人の協力が大きな力を発揮した。負傷者を乗せたマイカーは病院へ向かったが、マイカーには救急隊員が乗り込み、白バイが先導した。

 午前926分、到着した救急隊と医療チームは「トリアージ」を開始した。トリアージとはフランス語で選別の意味である。災害現場に駆けつけた医師や救急救命士が、どの順番で患者に治療を施せば最も多くの命を救えるかを決めることで、治療の必要性の高い順に医療施設への搬送を決めた。尼崎市は集団救助出動を指令し、周囲の病院に受け入れを依頼した。

 兵庫県災害医療センター、兵庫医大、千里救命救急センター、逢坂医療センターの医師たちが駆けつけトリアージ、緊急治療、搬送を行った。救命チームは正式の出動命令を待たず、自主判断でドクターカーを出動させ、閉じ込められていた傷病者の治療に当たった。現場から60キロ離れた済生会滋賀県病院からも救急チームが駆けつけ、瓦礫の下の救命活動をおこなった。潰れた車両に閉じこめられた人たちに、医師は自分の名前を言って安心させ、挫滅症候群の予防のために点滴を行った。要請もないのに、自分たちの判断で救命活動に駆けつけた医師たちの行動を高く評価したい。

 民間人400人が現場に走り、救助活動を行った。隣人や弱者へのおもいやり、社会的正義感、健診と勇気、勤勉な性格と品格、敬意と感謝、このような心を持った日本人が多くいた。「助けなければいけない」この条件反射的な行動を持つ日本人が多かったのである。一方、マスコミは取材ヘリを現場に飛ばし、救助者の声や生体反応を轟音でかき消した。

 

 

 

iPS細胞 平成18年(2006年)

 再生医療が注目を集めているが、再生医療とは病気やけがで損傷を受けた臓器を細胞レベルで再生させることで、これまでの臓器移植に代わり得るものと期待されている。この再生医療を理解するには、幹細胞、ES細胞、iPS細胞の意味を理解しなければいけない。

 ヒトの身体は約60兆個の細胞からできているが、もとをたどれば1個の受精卵が細胞分裂を繰り返し、それぞれの組織や臓器をつくりあげたのである。このように受精卵はあらゆる細胞に分化できる全能性を持つが、一度分化した細胞はほかの細胞に変わることはできず、皮膚の細胞は皮膚細胞、肝臓の細胞は肝細胞のままである。例外として幹細胞があるが、幹細胞は限られた細胞に分化する能力のみで、造血系幹細胞は造血系細胞のみ、神経系幹細胞は神経系細胞のみの分化であって、受精卵が持つ全能性はない。

 一方、昭和56年に英国のエヴァンス、カウフマンらがマウスの胚からES細胞(Embryonic Stem cell)を作ることに成功。平成1011月、米国・ウィスコンシン大のトムソン教授らは人間のES細胞を取り出すことに成功。平成15年には京都大再生医科学研究所でもヒトのES細胞株を作ることに成功した。

 このES細胞は胚性幹細胞とも呼ばれ、受精卵と同様に、あらゆる細胞に分化できる全能性を持っている。ES細胞を母体に戻せば胎児に成長することから、倫理的な問題から臨床研究は遅れ、また韓国の黄教授によるES細胞捏造事件があって研究は一時期停滞した。このようにES細胞には常に倫理的問題がつきまとうが、平成16年7月23日の総合科学技術会議本会議で、「ヒトクローン胚研究」を条件付きで解禁することが決定され、パーキンソン病治療のためドーパミン産生細胞の移植、脊髄損傷で壊死した神経繊維の修復、心筋梗塞で壊死した心筋細胞の修復などの実験が試みられるようになった。

 iPS細胞(人工多能性幹細胞:Induced pluripotent stem cells)とは、ES細胞と同じように多くの細胞に分化できる全能性と、自己複製能を持つ体細胞由来の細胞のことである。iPS細胞が体細胞由来であることがES細胞との大きな違いである。

 平成18年8月、京都大の山中伸弥教授らのグループがマウスの皮膚細胞からiPS細胞を作ることに成功、米国科学誌「セル」の電子版に発表した。分化した皮膚の細胞がさまざまな組織に変化しうる全能性を持つことを世界で初めて示したのである。体細胞から全能性を持つiPS細胞が作れたことに世界は驚き、臓器移植の代わりとしての再生医療に大きな期待を持つようになった。

 山中教授らはES細胞に特異的なFbx15という遺伝子に着目、体細胞でこのFbx15遺伝子を発現させれば、ES細胞と同じように全能性を引き出せると考えた。Fbx15を発現させる遺伝子として24種類の遺伝子を想定したが、どの遺伝子も単独では全能性は誘導できず、最終的に4遺伝子の同時導入で誘導できたのである。皮膚のiPS細胞をマウスの体内に埋め込み、神経、消化管組織、軟骨、心筋、神経などの細胞に分化することが確かめられ、ヒトの皮膚細胞からもiPS細胞を作成することに成功した。

 iPS細胞は理論上、身体を構成するすべての組織や臓器に分化することができる。そのためiPS細胞から拒絶反応のない移植組織や臓器を作ることが期待され、患者のiPS細胞を用いての病気発症の研究、治療法の開発や薬剤効果などに利用できる可能性があり、これまでとは全く違う新しい医学の分野が広がった。このようにiPS細胞を用いた再生医療に世界中の注目が集まっている。

 

 

 

哀しき介護殺人事件 平成18年(2006年)

 平成1821日未明、京都市伏見区の桂川の河川敷の遊歩道から60メートルほど行ったところで、血まみれの男女が倒れているのを通行人が発見。車椅子に乗った老婆はすでに死亡しており、男性はわずかに息があった。京都府伏見署は母親(86)を絞殺したとして、無職の長男(54)を殺人容疑で逮捕した。長男は「母親を殺して、自分も死のうと思ったが、死にきれなかった」と容疑を認めた。長男は犯行前日、アパートを掃除して、テーブルに遺書を置くと、母親と思い出のある京都の繁華街で時間をつぶした。早朝、自宅近くの桂川河川敷で母親の首をしめて殺害。自分も包丁で首や腹を刺したが、自殺は未遂に終わった。

 母親の認知症は、平成7年に父親が80歳で亡くなったころからがはじまった。母親と長男は2人暮らしで、母親の認知症は次第に悪化し、深夜の徘徊を繰り返した。母親は真夜中に15分おきに起き出し、長男は介護のために昼夜逆転の生活が続き、仕事をやめて介護を続けた。自宅で介護しながら仕事を探したが見つからなかった。やがて失業保険の給付が終わり、アパートの家賃6万円が払えなくなり、カードローンも25万円の限界まで使い、経済的に行き詰まった。

 長男は生活苦を訴え京都市保険福祉局へ行ったが、働けるのに働いていない、親戚に援助を求めていないことを理由に、生活保護は受けられなかった。西陣織の職人の子として生まれた長男は、父親から「他人に迷惑をかけるな」と躾けられ、親戚に頼ることはしなかった。そのため母親と心中するしかなかった。認知症の母親を抱え、介護疲れと生活苦による殺害だった。当日の長男の所持金は7000円だった。

 母親はデイサービスを受けていたが、デイサービスは深夜の徘徊には対応していない。認知症対策は医療と介護の狭間に落ち込み、無策に近い状態だった。またデイサービスを受ければ1割の自己負担があるため、長男は経済的にも介護を受けることができなかった。終わりのない介護、介護による家計の圧迫、誰にも相談できず、責任感と絶望のなかで追い詰められていった。この事件は日本の生活保護行政、介護保険行政の欠陥が招いたといえる。

 親族による介護殺人、心中事件はこの10年間で350件以上発生している。介護を巡る殺人は新聞に掲載されないことが多いが、その背景には食事の世話、糞尿の処理、徘徊の保護などの過酷な介護疲れがある。そして介護殺人の半数以上が、殺害後に自分も死のうとしている。

 今回の事件は、長男は母親に対して献身的に介護を行っていて、殺人という罪名はあまりに酷である。長男が母親を思っての介護心中と呼ぶに相応しい事件であった。平成20年の犯罪統計では、茨城県土浦市のJR荒川沖駅での殺傷事件、秋葉原での殺傷事件などの通り魔事件が印象に残るが、通り魔事件は計13件、死傷者数42人、死亡11人である。一方、65歳以上の高齢者による親族間の殺人は108人で、21人が老老介護による殺害や心中であった。このように介護殺人は、通り魔事件の約2倍の犠牲者を出している。このことからも介護の深刻さが痛感される。

 日本には昭和48年まで尊属殺人という罪名があった。尊属殺人とは両親や祖父母などを殺害した場合、通常の殺人罪より罪が重くなる刑罰である。このように本来ならば親殺しは重罪であるが、この事件の判決は懲役26ヶ月、執行猶予3年であった。温情判決を下した東尾龍一裁判官は「結果は重大だが、母親は決して恨みを抱いておらず、被告が幸せな人生を歩むことを望んでいると推察される」として罪名を承諾殺人とした。認知症の母親が本当に殺害を承諾したのかは疑問はあるが、裁判では承諾の合法性には触れなかった。裁判長は長男の母親への献身的な介護、心身ともに疲労困憊の状況に、長男が母親を殺害したのではなく、行政の不備がこの事件を起こしたとしたのである。まさに人間の情を知る裁判長であった。

 介護の辛さを示す例として、タレント清水由貴子さん(49)の介護自殺がある。平成21421日、清水由貴子さんは母親を車いすに座らせ、父親の墓前で自殺した。母親の介護につかれ、あれほど明るかった清水さんが自殺したのだった。頑張っても先が見えず、追いつめられてのことであった。介護の辛さは本人にしか分からない。絶句するとともに、介護の辛さを改めて教えてくれた。清水由貴子さんのデビュー曲の歌詞は「お元気ですか、幸せですか」である。可哀想と思うと同時に涙が出てくる。

 

 

 

福島県立大野病院事件 平成18年 (2006年)

 平成18年2月18日、福島県警は福島県立大野病院で診察中だった産婦人科医・加藤克彦医師(38)を業務上過失致死、異状死体の届け出義務違反の疑いで突然逮捕した。逃げも隠れもせず、警察の取り調べに素直に応じていた医師を、まるで凶悪犯と同じように逮捕したのだった。この事件が起きたのは、逮捕の1年以上前の平成161217日のことである。帝王切開の手術を受けた経産婦(29)が前置胎盤、癒着胎盤による大量出血で死亡し、このことが刑事事件となったのである。

 この事件は従来の医療事故とは違う、日本の医療そのものに関わる大きな問題を含んでいた。前置胎盤とは「胎盤が子宮の出口を覆う状態」で、全分娩の0.2から1%の頻度でみられ、胎盤が子宮の出口をふさいでしまうので、500mlの濃厚赤血球を用意して帝王切開になった。手術は産婦人科医が執刀、外科医が助手、麻酔科医が麻酔をかけ、看護師4人がついて行われた。手術は順調に進み、帝王切開で胎児は無事に生まれたが、胎盤が子宮から剥離せず(癒着胎盤)、剥離しようとして大量の出血をきたしたのである。すぐに輸血を行い13分後に胎盤剥離に成功したが、その間、蛇口をひねるような大量の出血があった。追加の輸血が約40分後に到着、輸血を行いながら子宮全摘術を開始。1時間後に子宮摘出に成功したが、子宮摘出から30分後に心停止となった。

 平成20820日の裁判で、福島地裁は加藤医師に無罪判決を下し、検察は起訴を断念して無罪が確定した。第1審の裁判で無罪が確定したことは、逮捕、起訴そのものが間違っていたのである。

 癒着胎盤の確率は全分娩の0.02%と極めてまれで、しかも癒着胎盤のすべてが大量出血をきたすわけではない。癒着胎盤を予測することは不可能で、どれだけ出血するのかも予測できない。「出産時に大量の輸血を準備すべきだった」との意見があるが、それは不可能である。200mlの輸血の値段は6000円、今回の癒着胎盤による出血が12000mlならば輸血の値段は36万円になる。輸血を準備していても、使用しなければ輸血は破棄され、破棄された輸血の費用は病院のもち出しになる。万が一という言葉があるが、万が一に備え大量の輸血を準備することは物理的にも金額的にも不可能であった。

 癒着胎盤による大量出血を経験したことのある医師の話を聞いてみた。その医師が勤めていた病院では5人の産科医、10人の他科の医師が呼び出され、注射器で血液を押し込めるように輸血を繰り返し、手術でやっと救命したのだった。起訴された加藤医師は癒着胎盤で出血が続く血の海のなかで、子宮全摘の手術を行ったのである。多くの産婦人科医は加藤医師が逮捕されたことに驚いた。もし自分が同じ立場だったら、同じように逮捕されると思ったからである。多くの産婦人科医は加藤医師に同情的で、血の海のなかで子宮全摘の手術を行ったことを腕のよい医師と高く評価していた。この不幸な事故は、癒着胎盤による大量出血という不可抗力がまねいたといえる。同じ状況下で何人中何人の産婦人科医が救命できただろうか。

 加藤医師は逮捕されたが、加藤医師は罰を受けるほどの罪人だったのか。加藤医師に悪意はなく、患者を助けようと最善を尽くした。刑法35条には「正当な業務による行為は、罰しない」、刑法38条には「罪を犯す意思のない者は、罰しない」とある。医療過誤とは医療事故を起こした医師が、医師の平均的治療より明らかに劣っている場合をいう。加藤医師がそれに相当するとは思えない。

 欧米では医師が民事で訴えられても、刑事訴訟は極めてまれである。医療事故が起きた場合、欧米では医療事故を調査する第三者機関があり、専門家が調査し、医師免許取り消しなどの処分を行が、日本にはこのような第三者機関はない。医療に関して素人の警察が逮捕し、同じ素人である司法が判決を下す。また今回の加藤医師の逮捕は福島県の「事故報告書」によるものだった。福島県が加藤医師に責任を押しつけたのは、加藤医師や病院が加入している医賠責保険から賠償金を出すには、医療ミスであることが必要だったからである。しかし福島県の事故報告書はあまりにいい加減な内容なので、裁判の証拠としても採用されていない。

 医療は、医師が医学知識に従って最善の治療を尽くすことで、病気を治すことを約束していない。しかし患者は病院に行けば、それで治ると思っている。そのため症状が悪化すると医療ミスではないかと疑うことになる。医師が故意に患者を傷つけた場合は刑事訴訟も当然である。患者の承諾のない治療は独断的治療と非難されてもよい。しかし医師の法的責任は、患者の死そのものにあるのではなく、死に対する過失の程度である。大野病院の加藤医師は妊婦を助けようと必死で戦った。「血よ、止まってくれ」と泣きたい気持ちだったと思う。医師の使命は病人を助け、病気を治すことであるが、治療には不確実性、不可抗力の部分がある。病気をもつ患者の身体は、単純な機械の集合体ではなく、複雑で説明困難な生命体である。日本産科婦人科学会、日本医師会など100を超える医療団体や学会が加藤医師の逮捕、起訴に対し批判声明を出したが、このような批判声明は異例のことで、この逮捕の不当性を全国の医師が訴えたのと同じであった。

 起訴された加藤医師は福島県立医大から派遣され、大野病院で唯一の産婦人科医師として年間230件のお産を行い、10人の入院患者、30人の外来患者を毎日1人で診ていた。さらに出産後の新生児の治療まで行っていた。平成17年、日本全体で出産を扱う医療機関3056施設うち46%、1401施設が大野病院と同じように産婦人科医が1人である。お産には常に危険がともない、産婦人科医1人では医師は36524時間拘束され、患者が急変しても十分な対応はできない。

 県立大野病院に隣接した人口35万人のいわき市では年間3000件以上の分娩があるが、この事件後、3つの病院が産科を廃止、出産を扱う病院は1つになった。しかも正常分娩だけで異常分娩は扱わない。また分娩を扱う開業医は12医院から1医院になった。医療事故はあってはならないことであるが、理不尽な逮捕は医療を萎縮させるのである。

 医師法21条では、異状死体の届け出を医師に義務づけている。しかし今回の「異状死体の届け出義務違反」という罪状も納得できない。医師法21条は明治7年に設定された法律に遡るもので、本来、犯罪捜査に協力する観点からつくられたものである。今回の事故は癒着胎盤による出血死は明白で、このことは警察にも報告し、事情も説明している。正当な医療行為が不幸な結果を生んだとしても、因果関係が明確なものがなぜ異常死なのか。これでは「死亡のすべてを警察に報告しろ」というようなものである。

 福島地裁の裁判長は「診療中の患者が、診療を受けている疾病によって死亡した場合は、異状死の要件を欠く」と述べた。この解釈は、正当な診療行為に関連した死亡を「異状死」に含めないとする考えであった。

 福島県警は逮捕の情報を事前にマスコミに流し、犯人扱いにされた加藤医師が手錠をかけられ、連行される姿を大々的にテレビで放映させた。そして新聞には「医療過誤、手術ミスで医師逮捕」の大見出しの記事が掲載された。加藤医師は警察の主張を認めなかったため1ヶ月間拘留され、妊娠中の加藤医師の妻は、加藤医師の立ち会いもなく出産した。

 さらに保釈から無罪の判決が出るまで、加藤医師は接見禁止という処分を受けた。接見禁止とは事件の関係者、つまり福島医大の産婦人科教授や医局仲間、大野病院の関係者と電話もできず、自宅謹慎と同じ処分を受けたのである。有罪、無罪が確定していないのに、無罪判決が出るまで接見禁止としたのは、国家権力による不当な処分といえる。医師は人間であり、神に近づこうと努力しても、医療の限界の前には無力である。それを逮捕し、拘留し、起訴し、接見禁止という極悪人同様の扱いに日本の医師たちは強い怒りを覚えた。

 加藤医師を逮捕した富岡署は「職権乱用」に匹敵すると思うが、富岡署は医師逮捕の功績により福島県警から表彰を受けていた。刑事責任は明らかな犯罪行為や常識からかけ離れた医療行為に限定するべきで、懸命に救命を行った医師に手錠をかけることが社会正義とはいえないであろう。

 

 

 

宇和島腎移植事件(平成18年)

 平成182月、「知人に頼まれて腎臓移植で腎臓を提供したのに、500万円を返してくれない」と、女性から愛媛県警に電話がかかってきた。この妙な電話が、我が国初の臓器売買事件のきっかけになった。

 訴えられた男性は、平成16年から慢性腎不全で宇和島徳洲会病院の泌尿器科部長・万波誠の診察を受けて人工透析を受けていた。男性は、平成17年に万波誠医師から腎臓移植を持ち出され、内縁の妻が腎臓を提供する予定だった。しかし医学的理由から内縁の妻の腎臓は使用できず、腎臓移植は取りやめになった。すると男性は200万円を借りていた女性に「腎臓を提供してくれたら300万円を上乗せして返す」と提案し、女性は患者の妻の妹と偽って腎臓を提供することになった。

 平成189月、女性の腎臓が男性へ移植されが、男性患者と内縁の妻は現金30万円と150万円相当の新車を女性に渡しただけであった。女性は約束が違うとして、警察に相談したのだった。臓器移植での臓器売買は法律違反であり、この日本初の事例に愛媛県警幹部は慎重に対応することになった。

 女性は腎臓提供に金銭の約束があったと訴えたが、金銭の約束そのものが違法行為であることを知らなかった。移植を受けた男性は約束したのは謝礼としての車だけと主張した。平成18101日、宇和島徳洲会病院に愛媛県警の捜査員約20人が家宅捜索に入ったが、病院は「腎移植はすべて万波医師に任せていて無関係」と繰り返した。泌尿器科長・万波医師(66)は600件以上の腎移植手術を手掛けていたベテランで、男性、内縁の妻、ドナー女性との関係を知らず、「だまされた」と関与を否定した。

 臓器移植の施行規則によると、患者への同意と説明は文書で残すことになっていたが、万波医師は患者へ同意説明は口頭のみであった。万波医師は「患者との信頼関係が重要で、じっくり話し合えば十分で、形式的な文書に意味はない」と述べたが、それは国が決めた施行規則を無視する発言だった。また第三者が腎臓を提供することは、倫理委員会があれば可能であったが、宇和島徳洲会病院に倫理委員会はなかった。万波医師は「親族でも金銭の授受がないとは限らない。背後で何が起きているか、さっぱり分からない」と述べた。

 腎移植を希望する患者が多いが、腎臓の提供者は少なく、腎移植は低迷していた。腎移植の8割以上が健康人からの腎臓提供で、腎臓の生体移植は善意と倫理だけに任されていた。平成9年に施行された脳死にともなう臓器移植法では、その手続きは厳格であったが、腎臓の生体移植は法的拘束力のない倫理指針だけであった。そのため不正を見抜くことは出来なかった。

 この事件は謎が多いが、移植を受けた男性、内縁の妻は臓器売買が犯罪であることを知っていたが、提供した女性はそのことを知らなかった。犯罪の決め手は、提供した女性の「金銭授受の証言」の信用性にかかっていた。

 愛媛県警は男性と内縁の妻を臓器移植法違反(売買の禁止)で逮捕し、臓器を提供した女性を書類送検とした。臓器売買を万波医師が事前に知っていた疑惑はあったが、万波医師は全面的に否定した。平成1812月、愛媛地裁松山支部において、「移植医療に対する社会の信用性を揺るがした影響は大きい」として、男女ともに懲役1年、執行猶予3年(求刑・懲役1年)、腎臓を提供した女性は罰金100万円、追徴金30万円、乗用車没収となった。

 宇和島腎移植事件はこれで終結するはずであったが、さらなる展開を迎えた。万波医師が、平成16年から2年間、腎臓移植に病気のため摘出した腎臓を移植していたことが明らかになったのである。いわゆる病気腎は尿管狭窄が3件、腎臓がん3件、動脈瘤2件、良性腫瘍2件、ネフローゼ1件で、10人に移植されていた。

 万波医師が文書で病気腎移植を患者に説明したのは3件で、腎臓を提供する患者への説明はなかった。病気腎、特に腎臓がんで摘出した腎臓を移植したことについて、その是非が問われることになった。日本移植学会副理事長の大島伸一は「がんに侵された腎臓を移植することは論外、かなり高い確率で再発する」と断言した。厚生労働省の臓器移植法の運用指針では「がん患者は臓器提供者にしない」となっていた。がん以外の病気腎については、賛成する専門家が多かったが、「摘出する必要がない腎臓まで取ったのではないか」と述べる専門家もいた。万波医師が実験的に病気腎移植を行ったとする批判と、病気腎移植が臓器不足の現状を改善するとの擁護論があった。

 万波医師への批判は倫理指針違反が主であって、病気腎移植そのものについては医学的データが少なかったため、その是非については議論が空転するだけであった。病気腎移植は脳死、生体腎に次ぐ第3の臓器移植万波医師の行為を評価する医師もいた。このようの状況の中で万波医師を支援する患者たちが支持を訴えデモ行進を行うなどの擁護運動がなされた。

 万波医師を独善的と批判する者、腎移植の後退を心配する患者、万波医師の保険医登録を取り消そうとする行政、万波医師を批判した学会幹部への名誉棄損訴訟など、多くの混乱があった。厚生省は平成19年に病気腎移植を禁止としたが、臨床研究としては実施を認め、結局は万波医師が中心となってその後も病気腎移植は行われている。

 

 

 

お産難民と内診問題 平成18年 (2006年)

 平成18年、お産難民が問題になっているさなか、看護師の「内診」が新たな問題になった。内診は難しい技術と思いがちだが、妊婦の膣に指を入れ、胎児の位置や子宮口の開きを確かめ、お産の進み具合をみる方法である。出産が迫ると数時間おきに内診が必要なため、医師は眠ることができず、そのため昭和23年に保健師助産師看護師法が制定されてから、産婦人科の病院や医院では看護師の内診が当たり前になっていた。しかし看護協会と助産師会が、「内診は助産師だけができる行為」と主張、厚生労働省の看護課長が、看護師の内診を禁ずる通達を出した。しかも異例とも言える2度の課長通達によって看護師の内診が違法行為となった。

 横浜市の堀病院は年間出産数約3000人と国内有数の産科病院である。平成1811月、この堀病院が看護師に内診をさせたとして警察が家宅捜査に入った。このように堀病院が生け贄になり、多くの産科医院が分娩を止めたのである。

 多くの病院が産科医不足から産科を閉鎖しているのに、地域医療をささえていた産婦人科医院までも摘発を恐れ閉院が相次いだのである。現実的に、助産師を雇いたくても助産師の絶対数が足りないのに、お産難民の実情を知っていながら、厚労省は全ての産科診療所に通達を送りつけるという前代未聞の行動をとった。日本産婦人科医会、日本医師会は「医師の指示があれば、看護師の内診は助産行為にあたらない」と見解を述べたが、通達は撤回されなかった。看護師の内診禁止は、看護師の業務範囲を縮小させるが、看護協会、南野智恵子議員(元法務大臣)などの看護系国会議員と厚労省看護課が、助産師の権益拡大を実現しようと通達を出したのである。

 看護協会の活動の中心は看護職の地位向上であり、「看護師は医師の診療補助ではなく独立した専門職」とする考えを持っている。たしかにかつての看護師の社会的地位を考えれば、地位向上のための活動は理解できるが、あまりに時代錯誤であった。

 助産師は医師の指図を受けずにお産ができるというエリート意識があるため、看護師が医師の手足となって内診していることに不満があった。患者にとっては助産師、准看護師、看護師の区別がつかず、助産師にとっては、それがけしからんということであった。

 看護師が内診を行ってはならないという法律や条文はない。看護協会の顧問弁護士は、その著書のなかで看護師の内診は問題ないと書いてある(看護婦と医療行為、その法解釈1997年)。また看護師の地位の向上は医師の仕事を移譲することなのに、日本看護協会は何を考えているのか、看護師の内診が禁止されれば産科医療が成り立たないのに、また国民の生命を守るべき厚労省の通達がお産難民をつくったといえる。

 内診と同じようなものとして、静脈注射についての通達がある。かつて「看護師が静脈注射をするのは違反である」という厚生省の通達があった。もちろんそれを守ることは不可能で、最高裁判決でも「看護師の静脈注射は合法」とされた。しかし大学病院の看護師は、通達を盾に「静脈注射は医師の仕事である」として絶対に注射をしなかった。「看護師の本来の業務は看護であって、医者の手足として働いてはいけない」という考えだった。

 この例から分かるように、通達ほど恐ろしいものはない。通達は法律ではなく、また国会の審議も必要としない。しかし厚労官僚はこの通達という手段で、鉛筆1本で日本の医療を操ることが可能なのである。通達という巨大な権力が、日本の医療を細部にわたり支配し、医療を悪くしている。なお平成192月、横浜地検は「堀病院の内診」を不起訴処分にした。つまり看護師の内診に違法性がないと解釈したのである。

 

 

 

時津風部屋力士傷害致死事件(平成19年)

 平成19625日、大相撲時津風部屋の序ノ口力士斉藤俊さん(17)が愛知県犬山市の宿舎で稽古中に心肺停止となり、搬送先の犬山中央病院で死亡が確認された。斉藤俊さん(しこ名、時太山)は新潟県出身で、4月に入門して5月の夏場所を踏んだばかりだった。

 時津風親方(57)は「火葬や葬式を愛知県で行いたい」と新潟市に住む斉藤俊さんの父親へ伝えてきたが、愛知県まで親戚を行かせるのは大変と考え、葬式は新潟で行うことを決めた。同日夜の11時頃、斉藤俊さんの遺体は同行者もなく霊柩車で新潟市まで運ばれてきた。犬山中央病院の医師が書いた死亡診断書には急性心不全と書かれていたが、顔にかけられたタオルをとると、目の周囲は腫れあがり、身体はアザだらけだった。父親は「これは病死じゃない、リンチだ」と直感して新潟県警に電話を入れた。新潟県警は他県で死亡病名が書かれていることに戸惑いながら、遺体に残された外傷から新潟大学で解剖を行うことになった。

 犯罪に関与する解剖は司法解剖になるが、愛知県警が事件性なしと判断した事例だったことから行政解剖となった。新潟大学の出羽准教授が解剖することになり、解剖には新潟県警と愛知県警の警察官が立ち会った。斉藤俊さんの肋骨は折れていて、腹、大腿部、尻部には棒で叩いたと思われる痕があった。死因は診断書に書かれた急性心不全ではなく、多発性外傷によるショック死とされた。この外傷は稽古によるものか、暴行によるものかは愛知県警が調べることになった。

 6月28日、時津風親方(元小結双津竜)記者会見を行い、「斉藤俊さんは、師匠の見守る前でぶつかりげいこを終えると、急に息が荒くなった。無理はさせていないので、何がいけなかったのか、答えようがない」と涙をにじませていた。しかし愛知県警は、時津風親方らが暴行を加えたことが原因として、時津風親方と兄弟子数人を立件する方針を立てた。

 8月に時津風親方が「線香をあげたい」と斉藤俊さんの実家を訪れ、父親が息子の死について問いただすと、稽古の厳しさから部屋を脱走しようとしたので、ビール瓶で殴ったことを認めたが、それが死因とは関係のない話し方であった。

 926日、「力士急死で、時津風親方立件へ」と各新聞は報じて、マスコミ報道は過熱した。愛知県警の調べでは、死亡前日の6月25日午前、斉藤さんは時津風部屋の宿舎から脱走するところを兄弟子らに連れ戻され、親方がビール瓶で斉藤さんの頭部を殴り、兄弟子らに「かわいがってやれ」と言い、金属バットなどで殴るけるの暴行を与え、時津風親方はそれを見ていたが止めずにいた。26日昼から、通常は3分程度のぶつかり稽古30分ほど行った。長時間のぶつかりげいこは体力の消耗が激しく、斉藤さんが倒れて、病院に運ばれたが死亡したのだった。

 荒稽古で弟子をかわいがることは相撲界の常識と言えるが、稽古と暴力は明らかに異なる行為で、警察の捜査は別にしても人道的に許されないことであった。平成から20年間で、稽古中の力士の死亡は8例あったが、それまで警察が介入したことはなかった。

 平成19105日、日本相撲協会時津風親方を解雇することを決定。解雇は相撲協会の賞罰で最も重い処分であった。平成2027日、愛知県警は時津風親方と兄弟子3人を逮捕した。平成201218日、名古屋地裁の芦沢政治裁判長は暴行に関わった伊塚雄一郎(26)、木村正和(25)に懲役3年、執行猶予5年。藤居正憲被告(23)に懲役2年6月、執行猶予5年(同3年)の有罪判決を言い渡した。

 平成21529日、傷害致死罪に問われた15代時津風親方(山本順一)に懲役6年の実刑を言い渡した。相撲部屋では親方の指示は絶対で、弟子が逆らうのは困難であった。時津風親方は暴行を主導し、弟子に犯行を指示したとされ重く罰せられた。

 この事件は愛知県で起きた。もし時津風親方が遺族に「荼毘に付して遺骨をお持ちしたい」としていれば、今回の問題は闇から闇へと葬られていた。「異状死体」を行政解剖で究明する監察医制度は東京、大阪など全国5地域で、名古屋市での解剖の件数は、平成13年度はわずか2件であった。これでは犯罪を見逃す可能性があった。

 愛知県では10年前に、角界の腐敗を週刊ポストで告発した相撲部屋の元親方と元力士の2人が、記者会見直前に肺炎で同時に急死した事件があった。2人は同じ病院に入院して、同じ日に死亡したが、それは医師が肺炎との死亡診断書を交付したからで、斉藤俊さんと同じだったのかもしれない。
 病死と殺人、さらに自殺や事故死はくわしく調査しなければ真相はわからない。たとえ老人の孤独死であっても病死なのか殺人事件なのか分からない。このような変死には警察が介入して、監察医が検死を担当することになっているが、監察医制度は東京などの五大都市にあるだけで、五大都市以外では警察医が検死を行っている。警察医とは法医学の専門家ではなく、内科や外科医が嘱託されていることが多い。多くの殺人犯は、病死や事故死に見せかけて完全犯罪をたくらんでいる。そのため監察医や法医学者が検死をしなければいけないのである。

 

 

 

コムスン事件 平成19年(2007年) 

 平成1812月、東京都は訪問介護最大手のコムスンが介護報酬を過大請求しているとして、都内187カ所の事業所のうちの53カ所に立ち入り検査を行った。その結果、介護報酬約4320万円の過大請求が発覚し、さらに都内3事業所で事業所の指定基準を偽装していることが分かった。しかもこの3事業所は、不正が発覚した同日に廃業届を出して処分を逃れていた。

 コムスンの介護報酬過大請求や事業所指定の不正取得は、東京都だけでなく全国規模で行われていていた。不正が発覚すると、指定取り消し処分の前に、先手を打って事業所の廃業届を出す方法をとっていた。

 平成19年6月6日、厚生労働省はコムスンに対し、介護サービス事業所の新規および更新を認めないことを決めた。この処分は「介護事業の継続不可」を意味していたが、同日、親会社グッドウィル・グループは同グループの子会社「日本シルバーサービス」へコムスンの事業を譲渡すると発表した。日本シルバーサービスとコムスンは別法人であるが、運営は同じグループで、不正を行った会社の事業を同じグループの別の会社に移すことは、国民にとって納得し難いことだった。

 行政処分前の事業譲渡に違法性はないが、コムスンへの処分は無効となり、法の抜け穴を利用した方法であった。当初、厚労省は事業譲渡に法的問題はないとコメントしたが、態度を急に変え、事業譲渡の撤回をコムスンに求めた。しかしコムスンは厚労省の指導に従わず、ここに介護事業の倫理上の問題が持ち上がった。

 和歌山県の仁坂吉伸知事は、「法の制裁を逃れようとする者が、福祉事業に手を出しているのはおかしい」と批判。また宮崎県の東国原英夫知事、千葉県の堂本暁子知事も同様の発言を行った。さらにグッドウィル・グループの別系列の介護事業でも、障害者サービスの虚偽申請がされていたことが判明。このコムスンの不祥事をきっかけに、グッドウィル・グループの折口雅博会長への批判が高まり、グッドウィル・グループは介護事業から全面撤退することになった。

 平成12年に介護保険制度が始まると、これをビジネスチャンスとばかりに多くの民間事業者が介護業界に参入した。政府は「官から民へ」と唱え、市場競争原理主義導入を押し進め、介護への民間参入を歓迎した。

 グッドウィル・グループの折口社長は、バブル最盛期にディスコ「ジュリアナ東京」を立ち上げた人物である。その折口社長が従業員2万3413人、売上高141.6億円まで介護事業を拡大させ、コムスンを介護業界最大手にした。折口社長がディスコから介護に事業を転換したとき、多くの人たちはその変わり身に驚いたが、介護事業への参入目的はグッドウィル(よき意思)ではなく金儲けだった。

 介護事業をビジネスとすれば、経営優先は当然のことであるが、介護利用者が増大して介護報酬が引き下げられ、介護事業者は正当な手段では利益が出にくいシステムに変わっていた。不正請求は犯罪で、利益のための不正請求は許すことはできない。しかしコムスンは福祉であるべき介護事業をビジネスとし、ビジネスとする意識があまりにも露骨すぎたのである。その違法性よりも、むしろ道義的責任のバッシングを受けた。

 介護の最大手コムスンは、施設介護事業をニチイ学館に譲渡した。ニチイ学館は救世主のように思われがちであるが、ニチイ学館をはじめとした大手介護会社もコムスン同様に不正請求の返還をほぼ同時期に命じられていた。介護をビジネスとしていた介護業界は、構造的に儲からないシステムを押し付けられ、当初の予想とは違う道義的責任を追及され、複雑な気持ちだったであろう。

 折口社長は立身出世の人物とされ、バブル期のジュリアナ東京、高齢化社会のコムスンを設立したが、彼の会社はそれぞれの時代を象徴する名前となった。

 

 

 

患者置き去り事件 平成19年 (2007年)

 平成19921日、大阪府堺市のS総合病院の職員4人が入院中だった全盲の男性患者(63)を車で連れ出し、大阪市西成区の公園に放置する事件が起きた。置き去りにされた男性は、約7年前に糖尿病のため他の病院から転院し、病状は安定していたが退院を拒否、病院は転所先の施設を探したがそれも拒否。入院費185万円を滞納し、暴れては病室の備品を壊し、看護師に暴言をはき、大声をあげ6人部屋を1人で占有していた。病院職員は男性を退院させようと、大阪市住吉区内の前妻宅を訪ねたが、前妻は男性の引き取りを拒否。断られて頭が真っ白となった職員は、トラブルの絶えない男性を病院へ戻せないと判断、西成区の公園のベンチに男性を座らせた。公園の近くに病院があったので、職員はここなら大丈夫と思い、「公園で男性が倒れています。目が見えないようだ」と携帯電話で119番通報。数分後に救急隊員が駆けつけ、男性を搬送するのを確かめ、職員は公園を後にした。

 この事件が発覚すると、大阪府警西成署は職員4人を保護責任者遺棄容疑で書類送検にした。患者を置き去りにした職員が一方的に悪者にされたが、退院が可能でも行き場のない患者がいるのである。またモンスター患者という言葉が流行語になっているのに、実際には病院が批判されるのが現実で、このような複雑な問題をこの事件は提示している。

  身寄りがいない、受け入れる施設がないので退院できない。このような「社会的入院」は病院にとって大きな負担になっている。かつては「社会的入院は日本の医療の最大の無駄」とされ、その対策として長期入院患者の診療報酬を極端に安く設定し、長期入院患者がいれば病院が赤字になるようになった。つまり病院の経営上の理由から、社会的入院患者を病院の努力で排除するように誘導したのである。たとえば11万円のホテルに連泊すると宿泊費が安くなり、10泊目以降の宿泊費を半額、3ヶ月以降は1割にしたのと同じようなことである。厚労省がこの仕組みをつくったため、病院は患者に早期退院をせまるようになった。しかしこの診療報酬の仕組みを知らない患者は、「なぜこの状態で退院なのだ」と病院に不満をぶつけるようになった。

  入院日数が短ければ入院基本料が高く、入院が長ければ安くなる。この仕組みは急性期病院も同じで、そのため急性期病院の平均入院日数は16日前後になっている。病院はベッドを常に満床にして、ベッドの回転率を上げ、収益を上げるようになった。入院日数の短縮のため、検査、診断、治療が流れ作業のように行われ、患者は入院と同時に退院までの説明を受けるようになった。入院日数の短縮は、一見、効率的と思われるが、合併症を持った患者、回復の遅い高齢者には不向きである。自動車ならば数日の車検は可能であるが、20年以上使用した自動車が壊れた場合に、それを数日で直せないように、部品交換のでき人間を機械のように治すことはできない。

  医師の使命は患者の病気を治すだけでなく、治せない病気でも患者のために最善をつくし、退院後の生活まで責任をもつことである。しかし早期退院は国の命令で、中途半端でも退院をせまるようになった。脳梗塞で歩けなくても、癌で治療法がないことを理由に、強引に退院をせまるのである。また平均入院日数が長くなると、病院全体の収入が減る仕組みをつくったため、入院の長引きそうなお年寄りを入院させず、軽症患者を数日入院させる現象が生じた。入院が1ヶ月を超えると、主治医が呼び出され、患者を早く退院させるように注意を受けるほどである。医師が全人的医療を目指しても、効率化という言葉がそれを阻害した。

 患者をモノのように置き去りにした病院に批判が集中し、院長はマスコミの前で謝罪した。しかし入院費を払わない患者、病院が転院先を探してもそれを拒否する患者、問題行動の多い患者に、病院はどのように対応すればよいのか。行き場のない患者の退院は患者の生命に関わるが、長期入院は病院経営を悪化させ、病院が倒産になれば、職員は路頭に迷うことになる。この事件は、病院職員の悩んだ末の結果だった。入院の必要がなければ退院は当然なのに受け皿がない。社会的入院が悪としても、慢性期病院や介護施設の多くは満床で入れず、たとえ病院が受け皿を見つけても、患者が拒否すれば退院に至らない。平成103月、橋本元総理が母親を国立国際医療センターに3年間入院させていたことが発覚、マスコミは地位を利用した不公平と叩いたが、今回の患者は7年間入院していた。退院させたくても家族がいない、家族がいても受け入れを拒否すれば、病院は患者と心中になる。社会的入院は約28万人とされているが、その受け皿をつくって欲しい。

 今回の事件では、ソーシャルワーカーが解決のカギであった。ソーシャルワーカーは患者側に立ち、医療費や退院後の生活の相談に乗り、生活保護、年金、医療、介護などを探り、支援をしてくれる。しかし病院にソーシャルワーカーを配置する法的義務がないので、ソーシャルワーカーがいる病院は少ない。家族と連絡が取れず、連絡がとれても引き取りを拒否する家族。また自分で生活のできない独り住まいの患者が多くなっている。さらに看護師に暴言をはく、夜中に大声を出す、ナースコールを頻繁に押すなどは、病院が個別に対応しているのが現状である。医師や看護師は多くの患者を診ているが、1人の患者のために精神的に追いつめられている。行政は病院と患者の問題としているが、病院内に福祉事務所を設置し、地域とのネットワークを築くことが解決策である。またそれ以前のこととして、行政が中心になって医療、介護、さらにはその狭間を埋めてもらいたい。