平成元年から9年

平成元年から10年
 昭和天皇の崩御により元号は昭和から平成になった。日本は高度経済成長から安定成長期を経て、バブルに浮かれながら経済のピークを迎え、平成2年にバブルが崩壊すると、経済は停滞から衰退へと向かった。経済は右肩上がりから右肩下がりになったが、平成6年までは、昭和からの継続の色合いが強く、世相にはまだ明るさがあった。バブルが崩壊しても、経済はいずれ回復すると楽観していた。ジュリアナ東京の「お立ち台」でボディコン女性が扇子を振り回して踊り狂う姿が、バブルの象徴と思われがちであるが、ジュリアナ東京が営業を始めたのはバブルが去った平成3年で、閉店したのが平成6年である。つまり平成6年の「ジュリアナ東京」の閉店が、バブル世相の崩壊を象徴していた。
 海外に目を向けると、世界は新たな時代に入ろうとしていた。平成元年6月に中国で天安門事件が起きると、眠れる獅子は古典的共産主義から経済重視の道を進むことになる。同年、ポーランドで共産党独裁主義が崩れ、これをきっかけに東欧諸国で民主化への動が始まり、11月にベルリンの壁が崩壊し、さらに平成3年には、ソビエト連邦が崩壊して冷戦の時代は終わりをつげた。
 一方、平成3年にイランがクウェートを侵略して湾岸戦争が勃発。冷戦の時代から宗教色を帯びた新たな宗教紛争の時代になった。日本は世界の激変を横目で眺めながら、足元のぐらつきに気づかず、政府開発援助で大盤振る舞いをしながら、自国の将来、国力の低下を案じる空気はなかった。生活苦の実感はなく、昭和の遺産を食べながら楽観していた。
 平成6年に村山富市内閣が発足すると、日本社会党はその存在価値であった自衛隊違憲、日米安保条約破棄を取り下げ、このイデオロギーの放棄により日本社会党は自滅した。それまでは経済の繁栄をうたった自民党が常に政権を維持し、憲法改正阻止を主張する日本社会党が野党第1党を確保していたが、この政治的巨大談合があばかれたのである。冷戦の時代は終わり、55年体制が崩壊し、政界再編成が活発となり、内閣総理大臣が細川護煕(日本新党)、羽田孜(新生党)、村山富市(日本社会党)と非自民の連合政権が誕生しては、消えていった。小選挙区制が導入され党の再編が起こり、民主党が台頭してきた。
 平成7年1月17日、阪神淡路大震災で6,400人を超える犠牲者を出し、オウム真理教によるサリン事件が起き、社会不安を招いたが、国民はどこか傍観者の立場にいた。日本経済は下降線をたどり、同年1ドル79.7円になり「就職氷河期」と呼ばれたが、雇用不安はまだ他人事で、生活の低迷と日本の衰退を実感する者は少なかった。
 バブルが崩壊してから、失われた10年、失われた20年と言われているが、この20年で日本人の生活を大きく変えたのは、インターネットと携帯電話の普及である。パソコンの普及によってワープロが消え、平成7年にウインドウ95が発売されると、数年後にはIT革命といえるほどにインターネットが普及した。さらに平成10年頃からポケットベルが消え、携帯電話が爆発的に普及して、それまでの生活を一変させた。
 振り返れば、ラジオやテレビの登場も、私たちの生活を大きく変えたが、インターネットや携帯電話は生活を便利にしたが、その情報性と匿名性から知性とモラルの低下を招いた。匿名性から恥を失い、他人への攻撃、アダルト画像、援助交際、振り込み詐欺、などの悪用をもたらし、個人情報保護法に守られながらIT無法時代へと進んでいった。若者は自分が主役になったが、内向的な世界に閉じこもり、安穏としたまま気概を失った。このインターネットと携帯電話に世界への変化があまりに早すぎたため、道徳や規律を作るべき大人は、その濁流について行けず、スカートの丈を厳格に決めていた校則が、子供の携帯電話とインターネットの制限に追いつけずにいた。
 さらに国境を越えた津波のような情報は、経済のグローバル化とボーダレス化をもたらした。企業は生産コストを下げるため人件費の安い国に生産拠点を移し、日本の産業の空洞化を招いた。資本主義はマネーゲームとなり、虚構的投機資金が世界の経済を揺さぶることになった。
 戦後に生まれた世代は、昭和50年に50.6%と半数を超え、平成6年には3分の2を占めるまでになった。平成元年に生まれた者は成人式を終え、大学を卒業しようとしている。彼らは昭和の時代を知らず、彼らの両親は太平洋戦争を知らず、貴重な過去を体験した老人は寡黙のまま世間の片隅にいる。太平洋戦争は、戦国時代や明治時代のように教科書で学ぶものになり、今の若者が大学紛争、冷戦、バブルなどを知るはずもない。それは世代の断裂ではなく、単なる時間の流れによる世代の違いである。明治維新や日露戦争を体験した者がいないように、いずれ神戸淡路大震災も語る者がいなくなるのである。
 

ホパテの劇薬指定 平成元年(1989年)
 平成元年2月21日、厚生省は副作用で11人の死者を出したとして、認知症の改善薬ホパテン酸カルシウム(製品名「ホパテ」)を劇薬に指定した。田辺製薬が開発したホパテは、いわゆるボケ防止薬として広く使われ、後発メーカーも次々に参入して、36社が製造し15万人に投与されていた。当時はホパテ以外にボケ防止薬がなかったことから、ホパテは年間300億円を売り上げるベストセラーになっていた。
 昭和53年1月に、ホパテは小児の精神発育遅滞や言語障害の緩和剤として承認され、その後、昭和58年2月に成人の脳卒中による言語障害や情緒障害にも有効とされ、いわゆる老人のボケ防止薬として売り上げを急増させた。
 しかし発売当初から、ホパテによる血糖低下や意識障害などが報告され、小児科領域でも乳幼児4人がけいれんや肝障害で死亡していた。厚生省は使用上の注意、緊急安全性情報を配布して医療機関に注意を呼び掛けたが、副作用が後を絶たないことから、平成元年2月に厚生省はホパテを劇薬に指定した。
 薬事法では薬剤を、「毒薬・劇薬」「指定医薬品」「要指示医薬品」「習慣性医薬品」の4つに区分している。劇薬に指定されたホパテの容器には赤字で「劇」と書かれ、保管場所も他の薬剤と区別された。また同剤を投与する場合は、2週間ごとの検査、1カ月ごとの効果判定、調査票による全例報告、このような厳しい取り扱いとなった。この劇薬指定により、ホパテは事実上使用できなくなった。
 認知症はアルツハイマー型と脳梗塞などの脳血管型に大別され、高齢化社会とともに脳梗塞が増え、抗認知症薬の市場拡大が予測された。
 ホパテはぼけ防止薬(抗認知症薬)として先導的役割を果たし、そのため昭和61年以降に開発された抗認知症薬は、ホパテの効果を基準に採用が決められ、ホパテの有効性と同等あるは優位である場合に新薬は認可された。つまり、「ホパテは認知症に有効なので、新薬がホパテと同じ効果ならばば、認知症に有効のはず」として、次々に新薬が生まれていった。
 ホパテの販売中止は副作用によるものであったが、発売当初からホパテの有効性に疑問が持たれていた。つまりホパテ騒動は、ホパテとの比較試験で開発された多くのぼけ防止薬にも、有効性の疑惑が連鎖的に波及したのである。ボケ防止薬の市場は年間4000億円とされ、ホパテ騒動は過熱するボケ防止薬開発競争に冷水を浴びせることになった。
 ホパテ騒動から4年後の平成5年、他のぼけ防止薬についても再評価が行われることになった。再評価の方法は、市販後の調査で「使用したら効果があった、副作用がなかった」という簡単なものだった。認知症の症状を数値で示すことは困難なため、薬剤の有効性は医師の主観に頼らざるを得なかった。
 しかし厚生省は、薬剤の有効性を知るため、製薬会社にプラセボ(偽薬)を対照にした薬効の再評価を迫った。つまり「薬剤を飲んだ患者と偽薬を飲んだ患者」の比較試験を製薬会社に求めたのである。その結果、平成10年5月、厚生省の中央薬事審議会は脳循環代謝改善剤について、「医療上の有効性は確認できない」と結論を下した。有効性が確認できないということは、無効ということである。
 中央薬事審議会が効果なしとした脳循環代謝改善剤は、「アバン」(武田薬品工業)、「エレン」(山之内製薬)、「セレポート」(エーザイ)、「ヘキストール」(ヘキスト・マリオン・ルセル)、「アルナート」(藤沢薬品工業)、「アニカセート」(東和薬品)、「ケネジン」(大洋薬品工業)、「プロベース」(ダイト)、「ペンテート」(沢井製薬)の9種類だった。ホパテという親亀がこけたので、子亀もこけたのであるが、ホパテの騒動から9年が経過していた。
 厚生省はこの点について、「承認した当時は医療上の有用性が認められたが、その後の新たな薬剤やリハビリなど治療の進歩で、有用性が低下した」と意味不明の説明をした。
 平成9年のアバンの売上高は224億円で、武田薬品の製品中4番目の売り上げを記録していた。しかし再評価試験では、アバンの有効性が32.4%、偽薬の有効性が32.8%と、偽薬の有効性の方が高い結果になった。脳循環代謝改善剤の売上は8750億円で、当時は薬価と納入額の差、つまり薬価差益は病院の利益になっていたので、売上高8750億円は薬価ベースでは1兆円を超えていた。
 当時は、老人医療費の自己負担がほとんどなかった時代である。そのため、これらの薬剤は患者、病院、製薬会社の誰も痛みを感じずに処方されたが、しかし国全体にとっては大損害であった。厚生省が脳循環代謝改善剤を無効とした平成10年頃は、ちょうど医療財政が悪化した時期で、厚生省は大蔵省から医療費削減を迫られ、仕方なく再評価を始めたのが実情であった。いずれにしても、効果のない認知症薬が何年も使われていたことは、何ともお粗末なことである。
 厚生省は新たな再評価試験で、それまで有効としていた薬剤を、自らその有効性を否定したが、この決定はどのような理由であれ理解できないことである。医師は中央薬事審議会の決定を信じて薬剤を患者に処方している。昨日まで「きちんと内服しなさい」と指導していた医師が、まじめに内服していた患者が、混乱したのは当然のことである。医師と患者の信頼関係を見えない形で悪くしたことは確かである。
 脳循環代謝改善剤を有効と判定した専門家、薬事審議会の委員、厚生省の担当官は、この承認取り消しをどのように受け止めたのか。感想を聞きたいところだが、彼らは何も語らず、誰も責任を取らず、何の反論も示さなかった。
 「承認した当時は、医療上の有用性が認められた」この文言は、「厚生省が承認したことも、承認を取り消したことも間違いではない」との理屈であった。しかしこのような非科学的論理が成り立つはずはなく、厚生省の単なる責任逃れとしか思えない。少なくとも、脳循環代謝改善剤の承認にかかわった権威者たちは、医師の良心に従ってこの矛盾を説明すべきである。
 一般薬として承認され、途中から劇薬に指定されたのは、副作用による「クロロキン」(昭和42年)や経口糖尿病薬(昭和50年)など極めて少ない。今回は薬効のない薬剤を中止したのである。しかもこれらの薬剤は海外では使用されず、日本では1兆円を超えるほど多用されていた。
 現在、抗認知症剤として使用が認められているのは、アルツハイマーの治療薬として開発された塩酸ドネペジル(アリセプト:エーザイ)である。しかもアリセプトは認知症を改善させるのではなく、その進行を緩和する薬剤である。アリセプトは日本で開発された薬剤であるが、平成9年に米国で、平成10年に欧州で認可され、日本で認可されたのはその2年後であった。
 ところで米国のレーガン元大統領は認知症となり、FDAが認可する前に特例としてアリセプトを内服していた。レーガンの認知症の発病はいつだったのか。それは大統領時代とうわさされている。
  なお文中において痴呆、認知症という言葉が混在しているが、平成16年の厚生労働省の用語検討会によって「認知症」へ言い換えが提案され、平成18年から使用が一般化されたので、文中の用語の混乱をお許し頂きたい。このことは平成14年から看護婦を看護師と呼ぶようになったことも同様である。しかしこれらは行政上の名称変更であり、一般人の使用においては制限されるものではない。
 また、文中で認知症改善薬と書いたが、正確には、「脳細胞の機能を高める脳代謝賦活剤」と「脳の血液循環を改善して脳の働きをよくする脳循環代謝改善剤」のことである。当時は、医師も一般人もこのような意味不明の難語を使用せず、ボケ防止薬と呼んでいたので、そのように記した。
 
手塚治虫死去 平成元年(1989年)
 マンガの神様といわれた手塚治虫(本名:手塚治)は、「鉄腕アトム」「火の鳥」「ジャングル大帝」など多くの作品を描き、戦後のマンガ界に大きな足跡を残し、後に続くマンガ家たちに大きな影響を与えた。その手塚治虫が、平成元年2月9日午前10時50分、胃がんのため東京都千代田区麹町の半蔵門病院で死去。享年60であった。
 手塚治虫の人生は、彼の遺した700点にも及ぶ作品や50万枚の原稿用紙の重さに比べれば、あまりにも短かった。手塚治虫死亡のニュースを受けて、多くの雑誌や週刊誌は特集を組み、テレビのワイドショーは長時間の特別番組を放映した。
 手塚治虫はマンガ家の巨匠であるが、大阪大医学部を卒業した医師でもあった。その意味では、日本で1番有名な医師といえる。もっとも、医師免許を持ってはいたが、学生の時からマンガ家を目指していたため、患者を診察したことはほとんどない。
 昭和3年11月3日、手塚治虫は大阪府豊能郡豊中町(現豊中市)で生まれ、幼少時は兵庫県川辺郡小浜村(現宝塚市)で育った。彼の家は裕福で、父親は当時としては珍しかったカメラや映写機が趣味であった。当時撮られたフィルムには、手塚が庭のブランコに乗って遊んでいる姿が納められている。
 新しい物好きの父親の本棚には、一般書に混じって当時としては珍しいマンガ本があり、この父親の趣味が手塚に大きな影響を与えた。また母親も理解のある優しい人で、ピアノが趣味で、寝つきの悪い手塚に本を読んでくれた。また本のページの端にパラパラマンガを描いて見せてくれた。
 幼いころの手塚治虫は背が低く、運動オンチで天然パーマだった。そのため「ガチャボイ」とあだ名を付けられたが、現在のような陰湿なイジメはなく、からかわれる程度だった。絵がうまく、誰からも好かれていた。
 少年時代に田河水泡の「のらくろ」を愛読、海野十三の小説に夢中になった。小学校2年生のころからマンガを描き、ガリ版に刷って友人に配っていた。マンガや絵以外では、昆虫採集に夢中になり、自分で昆虫図鑑を作っていた。実物大で描かれた図鑑は、写真と見間違うほど上手に描かれていた。その時の有名なエピソードとして「いい赤がないので、自分の指から血液を採って絵の具の代わりにした」というのがある。
 「治=オサム」という本名が、ペンネーム「治虫=オサム」になったのは、昆虫採集に夢中になり「オサムシ」とあだ名を付けられていたからで、このペンネームは、小学5年生の時から使われていた。中学時代には、すでに「ヒゲオヤジ」が登場するマンガを描いていた。旧制高校時代には、学徒動員により軍事工場で働いていたが、トイレでマンガを描いていた。戦争中はマンガ自体が認められず、隠れて描いていたが、それでも描き貯めた原稿は3000枚以上になっていた。
 昭和20年、終戦の年に大阪帝国大付属医学専門部に入学。翌21年1月には4コママンガ「マアチャンの日記帳」を少国民新聞(後の毎日小学生新聞)に連載して、マンガ家としてプロデビューをはたした。医学部の授業は階段式の講堂で行われたが、手塚は講堂の1番後ろで、講義を聴きながらマンガを描いていた。
 昭和22年、手塚治虫は少国民新聞に漫画を連載しながら、長編マンガ「新宝島」を出版した。それまでのマンガは数ページのものであったが、「新宝島」は100ページの以上の長編で、映画のようなストーリーを持ち、しかも映画では表現できないシーンを描いていた。「新宝島」は従来のマンガの枠を破った新しい手法によって、本格的マンガとして40万部を売るベストセラーとなった。
 昭和25年に「ジャングル大帝」を「漫画少年」に連載して、医学生とマンガ家の2足のわらじをはくが、授業中もマンガばかり書いていたため、単位が取れず1年留年している。昭和26年に大阪大医学部を卒業すると、1年間のインターンを経て医師国家試験に合格するが、すでに人気漫画家としての地位を築いていた。担当教授は手塚を呼び出し「君が医者になっても、患者のためにならないから、マンガ家になりなさい」と忠告している。手塚は母親に相談するが、母親は「あなたの本当にやりたい道を進みなさい」と言った。当時、医師の社会的地位は高く、マンガ家の地位は低かった。そのような時代であったが、手塚は医師の道を捨て、マンガ1本でいくことにした。
 昭和27年に「鉄腕アトム」を「少年」に連載。アトムは原爆を想像させる単語であったが、当時は「原子力は科学技術の象徴」として、原子力の言葉に国民のアレルギーはなかった。
 手塚は漫画家として不動の地位を築き、「ロストワールド」「メトロポリス」「来るべき世界」などの話題作を次々に発表した。これらの作品は、「ストーリーマンガ」という新しい分野をつくり、藤子不二雄、石ノ森章太郎など次世代のマンガ家に影響を与えた。
 昭和27年に東京に進出し、翌28年には後に有名になる「トキワ荘」に住んだ。部屋は4畳半でトイレは共同であったが、「トキワ荘」には赤塚不二夫、藤子不二雄、石ノ森章太郎らが入居してきて、トキワ荘は若手マンガ家の拠点となり、「マンガ界の梁山泊(りょうざんぱく)」と呼ばれ、活気あふれるマンガ発信地となった。
 昭和30年には、「リボンの騎士」がラジオの連続ドラマとして放送され、昭和34年に手塚は幼なじみの岡田悦子さんと結婚、渋谷区代々木に新居を構えた。このようにマンガ家の道を歩んでいたが、昭和36年には奈良医大の安澄権八郎教授の指導で、「異型精子細胞における膜構造の電子顕微鏡的研究(タニシの精虫の研究)」で医学博士の学位を得ている。また同年、アニメの製作のために東京手塚動画プロダクション(後の虫プロダクション)を設立、翌年には日本で初めての連続テレビアニメ「鉄腕アトム」を製作した。「鉄腕アトム」の視聴率は最高40.3%、平均25%と驚異的な高さで、半年後には欧州でも放映された。
 さらに大人のためのアニメ「千夜一夜物語」など、多数の作品を世に送り出した。当時のスタッフは十数人で、すべてが初めての試みだったため、過労死のスタッフが出たほどである。手塚が生み出した数々のアニメのレベルは高く、日本アニメの基礎を築いた。
 虫プロダクションのアニメの仕事は拡大し、手塚治虫は連載を同時に13本抱えるほどであった。毎日のように徹夜が続き、眠っているのを見たことがないと言われた。ところがファンクラブやテレビ局とのトラブルが続き、また経営難から、昭和48年に虫プロは倒産した。「アニメは、金のかかる恋人」と手塚が言ったように、採算性を考えずに質の高いアニメにこだわったことが倒産を招いた。しかし虫プロ倒産の年に、手塚は不死鳥のようによみがえった。医師を主人公とした「ブラックジャック」を「少年チャンピオン」に連載。さらに、「三つ目がとおる」「火の鳥」「ブッダ」といった歴史に残る名作を生みだし、第2の頂点を迎えることになった。「火の鳥」には宗教的、かつ哲学的な宇宙観が描かれ、読者が読みたいと思うストーリー性があり、しかも知らず知らずに読者を啓蒙(けいもう)する思想性があった。
 当時のマンガ家の作品はワンパターンが多かったが、手塚は作風を時代に合わせ変えていった。初期のマンガは子供に夢を与える可愛い絵柄が中心であったが、次第に劇画調になり、性描写も描いていた。またそれまでのマンガ家は、1人でコツコツ描いていたが、手塚はアイデアとストーリーを自分で考え、マンガの主だったところを描き、バックの柄や雨の降り方、道に生えている草などを番号でパターン化し、アシスタントに数字で指示を出す方法を生み出した。
 手塚はマンガ家・アニメ作家として世界的巨匠となり、国際的な賞を数多く受賞している。週刊文春に連載した「アドルフに告ぐ」は、ヒトラーのユダヤ人説を題材に描いたもので、そのストーリー性の巧みさが評判となった。しかし、いつしか病気(胃がん)が彼の身体をむしばみ、昭和63年に入院になったが、入院中もベッドの上で最後の作品となる「アドルフに告ぐ」を描いていた。
 「手塚治虫漫画全集」(講談社、全400巻)は個人の作品集としては世界一の巻数と、ギネスブックに載っている。現在、日本の貿易は原料を輸入し、製品を輸出することで黒字となっているが、特許料などの知的分野は赤字である。しかし知的分野の中で、マンガ・アニメだけは黒字である。このように世界中に輸出されている日本のマンガやアニメの基礎をつくったのが手塚治虫である。手塚は医師として患者を治す道を選ばなかったが、戦後のすさんだ人々に夢を与え、徹底したヒューマニズムを教えてくれた点では、偉大な医師だった。

ミドリ十字の未承認検査薬事件 平成元年(1989年)
 平成元年1月20日、ミドリ十字による未承認の放射線検査が発覚した。事件の発端は、「福島県郡山市の南東北脳神経外科病院で、未承認検査薬を利用した保険診療報酬の不正請求が行われている」との内部告発状が福島県保険課に届いたことだった。告発状には、レセプトのコピーや内部資料も同封され、極めて信憑性の高いものだった。この時点では、日本中が大騒動になるとは、誰も予想していなかった。
 福島県の特別監査によると、南東北脳神経外科病院では、脳や肺の血流検査用の放射性検査薬として、ミドリ十字の「キセノン133ガス」を使用していた。しかし同ガスは保険で認められていないため、請求可能な日本メジフィジックスのガスを使用したように見せかけていた。不正請求額は、昭和59年からの3年半で約2億9800万円であった。
 厚生省は「キセノン133ガス」を輸入販売していたミドリ十字への調査を開始。その結果、ミドリ十字は昭和58年から無許可で「キセノン133ガス」を輸入し、72の国立病院、94の大学病院、200の公立病院など計706病院に納入し、同ガスの使用で1億円以上を不正請求した病院は14施設に達していた。
 ミドリ十字が病院に売っていたキセノンガスは、200ミリ・キュリー瓶で6万3500円。一方、薬価収載されている日本メジフィジックスの同ガスは、10ミリ・キュリー瓶で3万7617円だった。成分は同じだが、ミドリ十字の方が10倍以上安かった。つまりミドリ十字のキセノンガスを使用していながら、日本メジフィジックスのガスを使用したと請求すれば、10倍以上の薬価差益が病院へ入ることになった。民間病院の多くはこのようにして収入を得ていた。
 公的病院は、実際より低めに請求していたが、認可されていないガスを用いて不正に収入を得ていたことに変わりはなかった。キセノンガスの半減期は4日と短いため、検査をするには多くの患者を集め、また患者を多く集めれば、それだけ利益を得ることができた。
 この事件の背景には、昭和56年に脳の血流量を測定するスペクト検査が保険で認められ、脳の障害部位とその障害程度が診断できるようになったことである。スペクト検査では、検査薬としてキセノンガスを使用するが、認可された測定機器の吸引装置はミドリ十字のキセノンガスの容器としか合わない構造になっていた。そのため、スペクト検査が保険で認められているのだから、ミドリ十字のキセノンガスも承認されていると、病院側は軽く受け止めていた。日本アイソトープ協会も、承認されたガスとして価格表に記載していたほどである。
 ミドリ十字はキセノンガスの輸入承認を厚生省に求めたが、放射性物質の容量が大きいことから、安全性に難癖を付けられていた。そのため、同社は承認申請を途中で取り下げ、未承認であることを内密に販売していた。ミドリ十字はキセノンガスを医薬品ではなく、研究用として輸入して病院に卸していた。
 厚生省は、ミドリ十字のキセノンガス・スペクト装置を認可していながら、それに使うミドリ十字のキセノンガスを未承認とした。このことはガソリン自動車の販売を許可しながら、ガソリンの使用を禁止したようなものである。代替品がないので、病院は仕方なく使用していた。
 しかし厚生省は自分たちの対応の遅れを、法律を盾に病院側に責任を押し付け、さらに自分たちの怠慢を隠すように病院の処分を行った。不正請求として全国562の病院を処分とし、多額だった36病院を、保険医療機関としての指定を取り消した。
 巨額な不正請求は私立病院が主で、大川原脳神経外科病院(北海道室蘭市、3.9億円)、ツカザキ病院(兵庫県姫路市、3.1億円)、長尾病院(高知市、3億円)、崎元病院(鹿児島市、2.5億円)、中村記念病院(札幌市、2.4億円)などだった。
 公的病院では9100万円の盛岡赤十字病院が最高額で、同病院は保険医療の指定を取り消された。そのほかに指定取り消し処分を受けた公的病院は、岩手医科大付属病院、千葉県救急医療センター、袋井市民病院、国立療養所中野病院、国立療養所福岡東病院、山形大医学部付属病院、岐阜大医学部付属病院、長野県厚生連リハビリテーションセンター鹿教湯病院、東邦大医学部付属大森病院、東大阪病院、中国労災病院などである。
 東大付属病院、東京警察病院、国立がんセンター、都立広尾病院などは金額が少なかったため、取り消し処分は免れている。このように、ミドリ十字のキセノンガスは全国の主要病院を巻き込んだ空前の診療報酬不正事件に発展した。厚生省は、不正請求を行った全国57カ所の国立病院、国立療養所の院長・総長に対し、国家公務員法により訓告、文書厳重注意、口頭厳重注意の行政処分を行った。文部省も国立病院長73人を行政処分にした。
 保険診療停止となれば、患者の治療費はすべて自己負担となる。不正請求で、保険診療停止処分を受けたのは地域の中核病院で、病院はもちろんのこと、患者や地元の動揺は大きかった。しかし保険医療の指定取り消しを受けた病院は、その治療費を処分後に請求することが許されていた。つまり2カ月間の保険医療の指定取り消しを受けた病院は、例えば6月の保険診療医療費を8月に2カ月遅れで請求できたのである。
 いうなれば、厚生省の保険診療停止はスジを通した実効性のない処分で、マスコミが騒いだので厳格を装って処分したといえる。表面的には大規模な事件であったが、厚生省の怠慢を隠す目的もあって、形式的な処分を下したのだった。
 さらに問題の検査薬などを一括して医療機関に流していた日本アイソトープ協会に対しては、薬事法違反の疑いで6日間の業務停止処分を下した。輸入されたキセノンガスは、放射性物質の半減期が短いことから、同協会を経由せずに病院へ直送されていた。このため協会は伝票だけの処理で、現物をチェックしていなかった。
 厚生省の調べでは、ミドリ十字の佐倉工場が成田空港からの医療用検査薬輸入を一手に引き受け、放射性物質「キセノン133ガス」を「化学物質」と偽って不正輸入していた。さらに脳血管障害の検査薬「エルマティック3」を含む計28品目の検査薬も不正に輸入して販売し、売上は23億5500万円に達していた。そのためミドリ十字は35日間の営業停止処分となった。
 ミドリ十字は、日本最初の民間血液銀行「日本ブラッドバンク」として創設され、創立の中心となったのは、元陸軍軍医学校教官の内藤良一である。同氏は、関東軍防疫給水部(731部隊)の元幹部を呼び集め、主要都市に採血所をつくり、医療機関に輸血用の血液を販売して業績を伸ばした。この売血が「輸血後肝炎、黄色い血」として社会問題になったため、同バンクは血液製剤中心のメーカーから脱皮を図り、昭和39年8月、社名を「ミドリ十字」に変更した。
 ミドリ十字は血友病向けの凝固因子製剤では、国内シェアの半分近くを占めたが、臨床試験に違反する人工血液の人体実験、採血ミスによる死亡事故隠しなどが発覚していた。このようなミドリ十字の体質が、後に薬害エイズ事件を起こすことになる。

腎移植殺人事件 平成元年(1989年)
 平成元年6月20日、静岡県警浜松中央署は詐欺容疑で逮捕していた浜松医科大泌尿器科助手の広瀬淳(33)を殺人の疑いで再逮捕した。広瀬の容疑は、腎不全患者に架空の腎移植を持ちかけ、現金をだまし取った上、殺害したことだった。この事件は、医師が患者を殺害する異例の犯罪として注目を集めた。
 浜松医科大出身の広瀬淳は、卒業と同時に医師国家試験に合格。家族は4人で、周囲からは病弱な妻をいたわる理想的な医師と映っていた。
 広瀬淳と殺害した患者の中川正雄さん(61)は、研修医として派遣されていた遠州総合病院で知り合った。広瀬は浜松医大に戻ってからも、毎週遠州総合病院に出張して中川さんを診察していた。
 2人が親しくなったのは、株がきっかけだった。資産家の中川さんは、株の運用に精通し、株を始めたばかりの広瀬の指南役になっていた。広瀬は次第に株にのめり込み、株の資金欲しさから、中川さんに架空の腎移植の話を持ちかけた。
 血液透析の治療を受けていた中川さんは、腎移植の作り話に乗り気になった。広瀬は「腎臓提供者の家族が多額の謝礼を要求している」とうそをつき、自分の架空口座に2500万円を振り込ませた。もちろん腎移植は架空話で、最初からだますつもりだった。広瀬は詐欺の発覚を恐れ、口封じのために殺人を計画。病院から筋弛緩剤である臭化パンクロニウムを入手して準備を進めていた。
 平成元年4月10日の午後6時すぎ、広瀬はいつものように中川さん宅を訪れ、「腎臓移植の手術に必要な検査」と偽って精神安定剤(ジアゼパム)を注射。中川さんが寝たところで、臭化パンクロニウム2mLを左腕に注射した。
 臭化パンクロニウムは麻酔時に用いる薬剤で、患者の自発呼吸を止める作用がある。中川さんは注射を受け、呼吸筋の麻痺を来して死亡した。広瀬は中川さんの死を確かめると、中川さん宅を出た。
 翌日、訪ねてきた息子がソファの上で眠るように死んでいる中川さんを発見。室内は片付いており、何の異常もなかった。駆け付けた別の医師は、死因を腎不全に伴う心不全と診断した。中川さんは病死とされ、司法解剖を受けずに荼毘(だび)に付された。広瀬にとって完全犯罪まであと一歩のところであった。
 しかし中川さんの長男が遺産の整理を始めると、死亡前日に手持ちの株を売った代金の2500万円が見あたらなかった。長男はこの大金と父親の死に何らかの関連性を感じ、警察に届けたのである。そして父親が最近、腎臓移植を受けるかもしれないと言っていたことを思い出した。
 中川正雄さん(61)の不審な死について、静岡県警浜松中央署は1つの推理を立てた。それは腎移植の提供の話に乗って、中川さんが2500万円の大金を犯人に払ったという推理である。しかしこれを立件するのは至難のことであった。目撃者がいないこと、さらに中川さんの遺体は火葬されていたからである。この「死体なき殺人」の犯人逮捕は困難との見方が強かった。
 捜査陣は2500万円の現金の流れを追、そこで浜松医科大泌尿器科助手の広瀬淳が浮かび上がってきた。事件直後、広瀬がいくつかの銀行に分散して架空口座を設けて現金を預け、証券会社に11銘柄株(総額1300万円余)の購入を申し込んでいた。この金銭の流れから、警察は広瀬を詐欺容疑で逮捕して追及した。
 広瀬には当日のアリバイがなく、警察は薬剤の入手経路の裏付けを行っていたが、やがて広瀬自身が殺害を自白した。もし広瀬が現金を銀行に預けずにどこかに隠していたならば、逮捕されたかどうかは微妙であった。
 警察の調べによると、広瀬は推理小説ファンで、「コンピュータ完全犯罪」などの小説をヒントに完全犯罪を狙ったと自供した。「コンピュータ完全犯罪」は、医師が銀行の現金自動支払機システムを利用して3000万円をだましとる筋書きで、キャッシュカードで銀行の19支店から現金を引き出す手口であった。これを参考に、広瀬は仮名の銀行口座をつくり中川さんに現金を振り込ませ、キャッシュカードで引き出していた。カードは、浜松市内の空き家を住所にして入手していた。犯罪の参考にしたもう1つの小説は、完全犯罪を狙った詐欺が題材だった。犯人の詐欺師が、肝炎ウイルスを注射する内容で、広瀬が注射で殺害した手口と酷似していた。
 中井準之助・浜松医科大学長は「医師としてあるまじきこと。患者の命を預かる者が命を奪うとは、言語道断で許すべからざる行為」とのコメントを出した。
 裁判では物的証拠がないことから、立証困難が予想された。弁護側は、「殺人の証拠が存在しない」として無罪を主張。しかし平成2年3月27日、静岡地裁浜松支部の山口博裁判長は「自供内容は体験した者でなければ知り得ない臨場感がある」として自白の信用性を認定し、腎移植を願う患者の弱みにつけ込んだ卑劣な犯行として、広瀬に懲役17年の実刑(求刑・懲役20年)を言い渡した。
 広瀬が控訴せずに刑が確定、厚生省の「医道審議会」は、広瀬の医師免許を取り消した。この事件は、医師による医療行為を利用した日本初の殺人事件であった。
 大学の医師は安月給のため、毎日アルバイトに追われていた。先生と呼ばれてもバイトをしなければ生活は苦しかった。犯行の動機は「病気を患っている妻のそばに、少しでも長くいてやりたかった」とされている。しかしどのような事情であれ、当時の医師はみな同じ生活に置かれていた。事件当時は、バブルで日本中が浮かれ、日本中が拝金主義に毒されていた。その毒に染まった犯罪であるが、唯一の救いは、広瀬が自分の犯行を素直に認め、悪あがきをせず、控訴しなかったことである。

生体肝移植 平成元年(1989年)
 平成元年10月26日、島根県出雲市にある島根医科大(現・島根大医学部)第2外科に、国立岩国病院(現・国立病院機構岩国医療センター)から杉本裕弥ちゃん(満1歳)が搬送されてきた。裕弥ちゃんは、先天性胆道閉鎖症という重病を患っており、肝移植以外に助かる方法がなかった。
 先天性胆道閉鎖症とは、肝臓から十二指腸に排泄される胆汁の通り道である胆管が、生後間もなく閉塞し、そのため胆汁が肝臓内に停留して肝硬変を起こす疾患である。
 先天性胆道閉鎖症は、1万の出生に1人の頻度で、日本では年間約100人の患者が生まれている。この疾患は手術によって胆汁を小腸に排泄させなければ、肝硬変から死に至る。裕弥ちゃんは、胆管を小腸につなぐバイパス術を国立岩国病院で2回受けたが、うまくいかず、肝硬変になり腹水がたまっていた。
 その当時、脳死による臓器移植は、まだ認められていなかった。そのため裕弥ちゃんの生命を救うには、健康な人の肝臓の一部を切り取って移植する、生体肝移植しかなかった。欧米では、脳死患者からの肝移植は数千例を超えているが、世界で脳死肝移植を初めて行ったのは、米国ピッツバーグ大のスターツル教授で昭和38年のことであった。それに対し、生体肝移植は脳死肝移植よりも歴史は浅く、昭和63年にブラジルのサンパウロ大において、4歳8カ月の胆道閉鎖症の小児への移植が世界初例であった。当時、生体肝移植は世界で3例だけで、もちろん、日本では誰も経験したことのない手術だった。
 島根医科大助教授・永末直文を中心とした医療チームは難しい選択を迫られていた。たとえ手術に成功しても、失敗しても、健康人の身体にメスを入れて肝臓の一部を取ることに、倫理上の非難が予想されたからである。
 しかし裕弥ちゃんには移植以外に助かる道はなかった。裕弥ちゃんは、島根医科大に入院後、心不全を起こし何度か危篤状態に陥り、やっと回復したばかりである。そのような状況の中で、父親の昭弘さんが自分の肝臓を提供したいと申しでた。あとは永末医師の決断だけであった。
 平成元年11月13日午前9時40分、世界で第4例目、日本で初めての生体肝移植が、永末医師の執刀で始まった。裕弥ちゃんは以前受けた手術のため、肝臓と周辺の臓器との癒着が強く、その癒着を丁寧に剥離し、肝硬変に陥った肝臓を摘出した。そして父親の肝臓の一部を裕弥ちゃんに移植した。小さな命を救うための手術は深夜に及び、15時間45分の難手術だった。
 手術当日、NHKが正午のニュースで日本初の生体肝移植が現在手術中であることを報じ、これをきっかけにマスコミの過熱した報道が始まった。島根医科大は毎日記者会見を行い、裕弥ちゃんの病状を公表した。この記者会見は、それまでの医学界特有の密室性と閉鎖性を打破するための情報公開であった。
 永末医師はテレビで病状を報告し、裕弥ちゃんの家族も手術を受けた気持ちを述べた。マスコミは「父親が子供に肝臓を提供する美談」として、さらに「医師が、手術に応じた美談」として報道した。
 平成元年11月13日、杉本裕弥ちゃんの手術は成功したが、裕弥ちゃんには次々に難関が待ち構えていた。胆管の再閉塞、心不全、腹腔内膿瘍、消化管出血、サイトメガロ肺炎、移植の拒否反など、いくつもの合併症が発生し、術後の裕弥ちゃんは一進一退を繰り返した。
 そして平成2年8月24日、手術から285日目に多臓器不全を起こし、残念なことに幼い生命のともしびが消えた。直接の死因は、輸血された血液に含まれるリンパ球が、裕弥ちゃんの組織を破壊するGVHD(移植片対宿主疾患)によるものであった。
 裕弥ちゃんの手術をきっかけに、生体肝移植が広く行われるようになった。移植技術の進歩と経験の蓄積により、小児だけでなく成人への生体肝移植も可能になった。
 平成2年6月、杉本裕弥ちゃんが生死をさまよっているころ、京都大医学部第2外科で国内第2例目の生体肝移植が行われた。その後、信州大、東京女子医大、広島大など全国の施設で、生体肝移植が行われた。平成15年までの手術件数は3800件を超え、生体肝移植患者の1年生存率は8割以上の成績となった。
 肝臓はほかの臓器と異なり再生能力が強い。そのため肝臓の半分を切り取っても、自然に再生して元の大きさに戻る。さらに親が肝臓を提供した場合、血液型が同じならば拒絶反応が少なかった。移植以外にわが子を救う方法がないため、親心から自分の肝臓を子供に提供するケースが多かった。健康人の身体にメスを入れることに倫理的な批判はあったが、親からの申し出があれば問題はなかった。
 生体肝移植手術とは、文字通り生きている健康人の肝臓の一部を移植することで、脳死肝移植とは異なり「脳死、心臓死」の問題は生じない。当時は脳死移植法案がまだ成立していなかったため、脳死からの臓器移植は困難で、そのため生体肝移植が普及した。ただし、脳死移植が認められている現在でも脳死肝移植は少なく、そのため生体肝移植が肝移植の大部分を占め、「脳死なき移植」と呼ばれている。
 当初は、小児の先天性胆道閉塞症や肝硬変などが移植の対象疾患となっていた。その後、平成10年から、15歳以下の肝疾患、16歳以上では胆汁うっ滞性ならびに代謝性疾患が保険適用となった。保険適応になったことから、手術の自己負担額も20万円前後と安くなり、1カ月当たり6万3000円を超えた医療費は、高額医療費として約3カ月後に払い戻される。
 海外では成人の肝硬変、劇症肝炎にも生体肝移植が行われ良い成績を残している。このように生体肝移植は有望な治療法であるが、誰でも移植を受けられるわけではない。肝臓提供者のほとんどは、家族からの提供なので、家族の提供が前提となる。
 成人の肝移植は健康保険の対象外で、健康保険が使えないことから、自己負担は1000万円以上になることが多かった。しかし平成16年1月から、成人の生体肝移植も肝臓がんの一部で保険適応となった。肝臓がんで生体肝移植の保険適応となるは、がんの転移がなく、門脈や肝静脈へ浸潤がなく、大きさが5cm以下で1個、あるいは3cm以下で3個以内の場合である。生体肝移植の成人例は年々増え、現在では小児例を大きく上回っている。
 成人例が増えたのは、輸血などでC型肝炎ウイルスからの慢性肝炎患者が多いためで、肝硬変から肝臓がんへ移行した場合には、移植以外に根本療法はない。当初は、肝炎ウイルスによる肝硬変や肝がんは、肝臓を移植してもすぐにウイルス性肝炎を起こすとされていたが、たとえウイルスに感染しても、肝硬変になるまでには20年程度の期間があるため、現在では肝移植をためらう理由にはならない。
 生体肝移植を応用した特別な例として、生体ドミノ移植がある。ドミノ移植とは、いわば玉突き移植で、肝臓が分泌するたんぱく質の沈着で起きる難病「家族性アミロイド・ポリニューロパチー(FAP)」の患者に応用された。まず、FAPの患者に健康人の肝臓を移植し、その後、FAP患者から取り出した病気の肝臓を、第3の患者に移植するのである。FAPの肝臓を第3の患者に移植しても、たんぱく質がほかの臓器や神経に沈着してFAPを発病するには30年以上の時間がかかる。そのため第3の患者にとっては当座をしのぐことができるのである。平成11年、肝臓ドミノ移植が京都大病院で初めて行われ、次第に症例が増えている。
 平成14年3月26日、自民党の河野洋平元外相(65)が、生体肝移植の手術を受けると表明した。河野元外相は、村山、小渕、森政権で外相を務め、その激務から解放されたことを区切りに手術を受けることにした。河野元外相はC型肝炎による肝硬変で、全身倦怠感を強く訴えていた。このまま放置すれば肝臓がんに進行する可能性があったため、移植を受けることになった。肝臓を提供したのは、長男である総務大臣政務官の河野太郎衆議院議員(39)であった。4月上旬に信州大医学部付属病院に入院して移植手術を受けた。
 生体肝移植手術の欠点は、肝臓提供者(ドナー)が健康人であり、その健康人にメスを入れる際に危険性を伴うことで、平成15年、京都大病院で肝臓を娘に提供した女性が死亡する国内初の事例が発生している。
 肝臓提供の美談の裏には、隠れた危険性があることを知る必要で、生体肝移植には臓器提供者の自発的な意思が絶対条件になる。親から子供へ、子供から親への生体肝移植は美談とされがちである。しかし、「肉親だから提供するのが当たり前」とする考えが、家族に精神的プレッシャーを与えることになる。すべての家族が、臓器提供するほどの家族愛で結ばれているわけでなく、むしろ臓器提供を申し出る家族は非常に少ない。

S幼稚園O157事件 平成2年(1990年)
 平成2年10月8日頃から、埼玉県浦和市にある私立「S幼稚園」の園児らが、血液の混じった下痢や腹痛、発熱などの症状を起こしはじめた。10日には運動会が行われたが、欠席する園児が多くいた。18日には園児184人のうち 28人が欠席し、翌19日幼稚園は休園となった。
 園児55人が病院で治療を受け、20人が浦和市立病院や岩槻市の埼玉県立小児医療センターなど5カ所の病院に入院となった。入院した園児20人のうち8人が尿毒症となり、2人が死亡する事態になった。死亡したのは、浦和市大門の上甲哲也さん(40)の長男裕也ちゃん(6)と、岩槻市笹久保新田の会田栄さん(31)の長男豊ちゃん(4)であった。2人とも埼玉県立小児医療センターで亡くなったが、死因は尿毒症を併発した急性脳症であった。
 重症園児は病原性大腸菌による「溶血性尿毒症症候群、血管内凝固症候群」を併発していた。溶血性尿毒症症候群とは、腎不全、血小板減少症、溶血性貧血を特徴とする症候群である。治療には毒素を取り除くための血漿交換療法、腎不全に対する人工透析、血小板の減少には血小板輸血などがあるが救命率は低かった。
 S幼稚園には給食施設がないため、給食は外注業者が運んでいた。そのため、まず納入業者が調べられたが、因果関係はすぐに否定された。幼稚園では井戸水を飲料水として使用していたので井戸水からの感染が疑われた。
 埼玉県衛生部が井戸水を検査すると、井戸水から病原性大腸菌O157が検出され、園児の便からも同菌が検出され、厚生省は20日、今回の食中毒は「井戸水からのO157の感染が原因」と発表した。
 O157は、昭和57年に米国のミシガン州で集団発生して以来、欧米では注目されていたが、日本での集団発生の例はなく、死亡例も今回が初めてであった。O157は、感染すると赤痢と同じ血便を伴った激しい下痢を起こし、腹痛、吐き気、発熱などをきたす。園児の症状からもO157に間違いなかった。感染者数は在籍園児の81.9%、感染しても症状を示さない無症状の園児が30.4%いた。
 埼玉県衛生部が井戸周囲を調べると、井戸の近くにトイレの汚水タンクがあり、汚水タンクの継ぎ目に亀裂があった。汚水タンクからO157などの病原性大腸菌が地中に漏れ、5メートル離れた井戸水に混入したのであった。
 S幼稚園は埼玉県の許可を受けずに井戸水を使用していた。3年前の昭和62年に行われた保健所の検査で、井戸水から水道法の基準値である「100個」を超える細菌が検出され、また蛇口からも大腸菌が検出され、保健所は水道水に切り替えるか、煮沸して使用するように口頭で指導していた。しかしこの指導が無視されていた。
 19日の時点で園長は「水質検査は問題なかった」と述べたが、20日になって「検査結果は承知していたが、長年使っているので大丈夫だと思った。衛生に関する考えが甘かった」と前言をひるがえした。
 埼玉県の自家用水道条例では、50人以上で井戸を使用する場合は、知事の確認を受け年2回以上の水質検査を受けることになっていた。また、学校保健法では年1回の検査が義務づけられていた。しかし、S幼稚園は井戸水の使用の届け出をださず、規定の検査も受けていなかった。
 大腸菌は便中に含まれていることから、また海水浴場の水質検査項目に登場することから、汚いイメージがある。しかし大腸菌はヒトの腸管の常在菌で、消化を助けるなどの役割を担っている。この人体に害を及ぼさないはずの大腸菌が、赤痢菌と混じり合うと、赤痢菌と同じベロ毒素を産生することになる。バクテリオファージ(細菌に感染するウイルス)によって、赤痢菌の遺伝子が大腸菌の遺伝子に組み込まれてしまうからで、これが病原性大腸菌O157である。大腸菌は、菌体表面の糖脂質によって血清型に分離されるが、O157はO血清型の157番目に発見された大腸菌という意味である。この大腸菌の一種であるO157は、ベロ毒素を産生するため、赤痢と同じ出血性大腸炎を起こすのである。
 病原性の大腸菌は、50種類以上見つかっているが、O157が最も毒性が強い。O157の毒性は、フグ毒テトロドトキシンとほぼ同じとされ、抵抗力の弱い子供や老人では、感染によって死に至ることがある。O157が恐ろしいのは毒性だけでなく、数個の菌で感染するため予防が難しいこと、潜伏期間が4〜9日と長いので2次感染を起こしやすいことである。
 細菌感染症の治療は抗生剤であるが、O157の治療については確立していない。抗生剤を用いると、O157が壊れるときに毒素を放出するからである。下痢止めは毒素を体内にとどめることから使用できず、点滴による対症療法でしのぐしかなかった。
 この事件から6年後の平成8年、堺市をはじめとした全国各地でO157集団食中毒事件が発生して大問題となった。その平成8年の7月、S幼稚園O157事件の判決が浦和地裁で下され、事件当時の園長(69)は、業務上過失致死罪に問われ禁固2年、執行猶予4年の有罪判決を受けた。浦和地裁の裁判長は「井戸水の滅菌措置をとらなかった過失責任」を指摘、大腸菌の混入が予知できたとし、さらに「園長は園児の健全な成長という重要な使命を担っているのに、園長にあるまじき行為だった」と述べた。しかし判決は執行猶予がつく軽いもので、刑事事件とは別に遺族から約2億円の損害賠償の訴えがあり、浦和地裁は元園長ら6人に9830万円を支払うように命じた。
 さらに遺族は、「この苦しみをほかの親に味わわせないためにも、埼玉県の責任を問いたい」と埼玉県の行政指導不作為についても訴えを起こした。埼玉県は、「理事長が個人名で井戸水の使用を保健所に申請したため、幼稚園の井戸水との認識はなかった。県には行政指導すべき義務はなかった」と主張した。
 埼玉県と保健所は行政として同じ立場にありながら、昭和62年の保健所の検査結果を、埼玉県は把握していなかった。この事件は、縦割り行政の不備が一端を担っているが、浦和地裁は埼玉県に過失はないとして、原告の訴えを退けた。

栄養剤L−トリプトファン事件 平成2年(1990年)
 L−トリプトファンは必須アミノ酸のひとつで、大量に摂取しない限り、人体に害をもたらすことはない。むしろ体内での合成ができないことから、食事から摂取すべき不可欠のアミノ酸である。
 L−トリプトファンは、マグロ、カツオ、豚の赤身に多く含まれ、L−トリプトファンを薬剤として服用しても、人体に影響を及ぼすことはない。米国では健康食品ブームに乗って、L−トリプトファン製剤が15年以上にわたり栄養剤と同じように薬局で売られていた。
 野菜や果物だけを食べるベジタリアン、ダイエットを始めた女性、肉の摂取が少ない老人はL−トリプトファン不足になるとされ、サプリメントとして普及していた。L−トリプトファンは医師の処方せんを必要とせず、栄養補給食や乳児用流動食として、さらには不眠症、うつ病、多動性障害、自閉症など多くの病気に効果があるとされていた。
 平成元年の夏頃から、米国のオレゴン州・ミネソタ州を中心に原因不明の筋肉痛症候群の患者が出現した。筋肉痛症候群とは、白血球の1つである好酸球が増加し、筋肉の激しい痛み、四肢のむくみ、皮疹、倦怠感、呼吸困難などをきたす疾患である。この筋肉痛症候群で、少なくても38人が死亡、5000人が発症している。
 米国FDA(食品医薬品局)は、患者の聞き取り調査から、筋肉痛症候群の原因として健康食品L−トリプトファンに疑いを持った。全米の薬局や病院に注意を呼び掛け、製薬会社にはL−トリプトファンの回収を求めた。FDAは、L−トリプトファンの原料を製造している日本の製造会社にも立ち入り調査を行い、製造会社は薬品を回収しながら、原因解明に取りかかった。
 米国CDC(疾病対策センター)の研究者は、筋肉痛症候群を起こしたグループと無症状のグループについて、L−トリプトファンの銘柄や製造時期などを調べ、その結果、筋肉痛症候群の46例中、45例が昭和電工のL−トリプトファンを服用していて、さらに27種類のうち23種類(85%)の製造時期が前年の1月から5月に集中していた。
 この疫学調査から、FDAは「L−トリプトファン自体に問題があるのではなく、日本のメーカーが製造したL−トリプトファンの一部に不純物が混入したか、あるいは材料の変質が原因」と結論づけた。
 当時、昭和電工のL−トリプトファンは米国市場の6〜7割を占め、昭和電工は「統計的にわが社の製品にたどりつくのは仕方ないことで、わが社としても一刻も早い原因究明を期待している」と述べた。
 昭和電工は、細菌の発酵作用を利用してL−トリプトファンを製造していたが、昭和63年12月から平成元年6月にかけて、製造方法を変更していた。つまり遺伝子組み換えによって、細菌からL−トリプトファンを製造する方法に変えていたのである。そしてその工程で、細菌由来の不純物が混入して、筋肉痛症候群を起こしたのだった。
 昭和電工によって製造されたL−トリプトファンから60近くの不純物が検出され、そのうち他社製のL−トリプトファンに含まれていない2つの不純物タンパクが、筋肉痛症候群の原因とされた。それは人類がこれまで内服したことのない物質だった。
 米国FDA(食品医薬品局)は、商標としてL−トリプトファンの製品名を付けるには、L−トリプトファンの含有率のみを規定していた。昭和電工のL−トリプトファンは99.65%の含有率で、FDAのL−トリプトファン品質基準である98.50%をクリアしていた。つまり品質基準は満たしていたが、ごく微量の不純物が筋肉痛症候群を起こしたのである。このことは予想外のことで、栄養補給食を管理するFDAの責任が問われることになった。
 遺伝子工学によるL−トリプトファンの製造過程で微量の不純物が生じたことが筋肉痛症候群の原因であったが、FDAがその発表を故意に遅らしていた。つまりFDAは生命工学産業への影響を避けるために、情報公開を遅らせていた。このことから、健康を守るFDAの役割に厳しい目が注がれることになった。
 不純物が混入して38人が死亡したL−トリプトファン事件は、新しい科学技術である生命工学や遺伝子工学が、いかに危険であるかを示した。米国内では100件を超す損害賠償訴訟が起き、昭和電工はPL法(製造物責任法)の先進国である米国で、勝訴は困難と判断して、和解交渉を進めた。結局、昭和電工は和解金として2052億円を払い、患者のほとんどは同社と和解した。
 昭和電工は新潟水俣病を起こした会社で、新潟水俣病が一段落ついた後のL−トリプトファン事件であった。この事件の和解金は、新潟水俣病で支払った金額の約10倍に達し、その代償はあまりにも大きく、昭和電工は一時経営不振に陥った。
 厚生省は、L−トリプトファンを含む健康食品や医薬品を作っている国内5社に対し、関連商品を自主的に回収するように指示。さらに原因究明のための専門委員会を設置した。健康食品の安全性が問われたのは、ゲルマニウム含有食品以来のことであった。しかし日本ではL−トリプトファンは一般に発売されていなかったので患者はほとんどいない。
 遺伝子組み換えは、世の中の流れである。遺伝子組み換えによって、トマト、メロン、米などの新しい作物がすでに日本の食卓に顔を出している。これらの作物は、新たなタンパクを含まないとされているが、何が起きるか分からないのが遺伝子工学である。今回の被害者は遺伝工学の被害者ともいえた。

浜松医大・女子医大生殺人事件 平成2年(1990年)
 平成2年5月3日、浜松医大を卒業したばかりの松本秀子さん(24)が、静岡県浜松市半田町のマンション自室で殺害されているのが発見された。娘からの連絡がないことを心配した父親のナオ仙(なおひさ)さん(51)が、マンションを訪れ、殺害されている秀子さんを発見、110番通報したのである。
 静岡県浜北署は殺人事件と断定、捜査本部を設けて本格的な捜査を始めた。司法解剖の結果、死後2、3日が経過していて、死因は首に絞められた跡があり窒息死とされた。
 秀子さんは、この春に浜松医大医学部を卒業。4月に医師国家試験を受験し、5月16日の合格発表を心待ちにしていた。医師国家試験合格後は、浜松医大付属病院の小児科で研修する予定であった。秀子さんは、小児の白血病に興味を持っていた。
 さらに前年の秋には同大出身の5つ年上の医師と婚約しており、結婚を予定していた。4月半ばまで婚約者と暮らしていたが、婚約者が転勤となったため、4月25日に浜松医大病院に近いマンションへ引っ越した。引っ越しからわずか1週間後の悲劇であった。
 遺体は8畳間に全裸でうつぶせに倒れており、首にはひものようなもので絞められた跡があった。犯人が眠っていた秀子さんを襲い、ベッドから引きずりおろしての犯行とされた。
 捜査本部は、秀子さんの部屋の鍵が開いていて、部屋を物色した形跡がないことから、犯人は何らかの面識のある者とみていた。また近所の人も争う物音を聞いていなかった。秀子さんは、「浜松医大祭」のミスコンテストで女王に選ばれるほどの美人であった。秀子さんは用心深く、鍵を掛け忘れることは考えられなかった。
 5月11日、浜北署は秀子さんに部屋を斡旋した不動産会社の日栄建設工業営業第1課長・油井伸太郎(48)を殺人容疑で逮捕した。油井伸太郎は部屋を管理する立場にあったことから、秀子さんが殺されたマンションの予備の鍵を使うことができた。会社で保管している合鍵を用いて秀子さんの部屋に侵入。秀子さんに気付かれたため、首をひもで絞め窒息させたのである。
 油井伸太郎が捜査線上に浮かんだのは、油井が所有する黒のフェアレディーZだった。犯行があったとされる時間に、マンション前の駐車場にフェアレディーZが止めてあるのを近所の住人が目撃していた。この目撃情報をもとに、警察は数日前から油井の犯行とみて捜査していた。
 また秀子さんの部屋には眼鏡のレンズの破片が落ちていた。そのため捜査員は浜松市とその周辺の眼鏡店を調べ、犯行があった4月29日夜以降、眼鏡を買った者、修理に来た者を調べ、その結果、部屋に落ちていた眼鏡のレンズの破片と同じ度数の眼鏡を買った客を突き止めた。この証拠を突き付けられ、油井伸太郎は「暴行目的で侵入したが、騒がれたので殺害した」と自供した。
 松本秀子さんの部屋の鍵は、1つは秀子さんが紛失、もう1つは秀子さんの定期入れから見つかり、残りのもう1つは部屋を斡旋した不動産会社が管理していた。つまり秀子さんの部屋を外から開けるには、不動産に置いてある鍵を使うしかなかった。通常、賃貸アパートやマンションの鍵は3つで、2つを居住者が持ち、1つを大家か不動産業者が保管していた。管理者が鍵を持つのは、入居者が不在時の火災などに対応するためである。
 日栄建設工業は鍵を専用ケースに施錠して保管し、担当者か上司以外の者は使用できなかった。秀子さんが入居したときの担当員は、逮捕された油井伸太郎の部下で、油井は鍵を持ち出せる立場にあった。油井は2年前から、会社にあった契約書を見ては、女性のアパートの鍵を会社から持ち出し20数個の合鍵を作っていた。
 油井伸太郎は、秀子さんと同じ浜松市内の進学高校の卒業生で、成城大学を卒業すると、大手の自動車販売会社に就職。その後、自動車販売業、コンピュータ販売など職を転々とし、昭和61年8月に日栄建設工業に入社し、入社2年後に営業第1課の課長に昇進していた。
 油井伸太郎は社内では有能な営業マンで通っていた。2000万円の分譲マンションに住み、いつもキッチリしたスーツに身を包んでいた。しかし油井伸太郎には暗い過去があった。昭和57年4月、自分が経営していた自動車販売店が倒産。その借金の穴埋めのため、仲間2人と偽装交通事故を起こし、約1200万円の保険金詐欺で、懲役3年の有罪判決を受けていた。
 平成3年4月23日、静岡地裁浜松支部で油井伸太郎の公判が開かれた。検察側は「犯行の計画性と確定的殺意」を、弁護側は「偶発性と未必の殺意」を主張した。三関幸男裁判長は「首を絞めれば死に至ることは分かったはず」として検察側の主張を認め、犯行は自己中心的で残忍として、懲役18年(求刑懲役20年)の実刑判決を言い渡した。
 秀子さんの遺族は日栄建設工業を相手取って、総額約2億1000万円の損害賠償請求訴訟を起こした。遺族は「合鍵を自由に作ることができた会社にも責任がある」と主張、会社の管理がずさんだったこと、素行不良者を課長に登用した人事管理に問題があったと指摘、「会社が犯行を誘発した」とした。会社側は「勤務態度に問題はなく、犯行は予見不可能だった。初めから乱暴が目的の犯行で、会社の業務とは関係ない」と反論した。
 この裁判では、会社側の人事管理と監督責任の有無が争われたが、平成6年2月7日、静岡地裁は会社に1億7000万円を支払うように命じた。裁判長は「鍵管理という職務を利用した犯行」とし、従業員の行為について使用者責任を明確にした。判決では「犯行は職務上知り得た情報に基づき、職務上取り得た手段を行使していることから使用者に責任がある」として、民法第715条の使用者責任を適応した。
 部屋の管理について、不動産会社は安全を守ることも業務であるから、「鍵を開けて入る行為は不動産管理行為」と判断したのであるが、使用者責任が殺人犯に適用されたのは、まれなことであった。
 秀子さんが亡くなってほぼ半月後の平成2年5月16日、医師国家試験合格の通知が届いた。小児科医を夢見ていた秀子さんの霊前に、両親が「遅すぎた吉報」を涙ながらに報告した。

コンスタンチン君救命リレー 平成2年(1990年)
 平成2年8月20日、ソ連のサハリン州で3歳の坊やが、自宅で洗濯のために沸かしていたバケツの熱湯をかぶり、全身の80%に及ぶ大やけどを負った。この生死にかかわる災難に遭ったのは、州都ユジノサハリンスク市に住むコンスタンチン君である。
 市内の病院に入院したが、医師たちは治療をあきらめていた。母親のタリーナさん(26)は看護婦で、地元の医療の限界を知っていた。そのため、彼女は医療先進国の日本で治療ができないかと考えた。
 ちょうど、札幌から出張でサハリンを訪れていた電子ポスト社の山中新社長(50)が、偶然、この話を聞いた。そして山中氏は、北海道庁国際交流課に何とかならないかと電話を入れた。電話を受けた国際交流課の係長は、まず外務省に連絡。外務省の返事を待ちながら、サハリン州のフョードロフ知事に「北海道の横路孝弘知事あてに正式な救援要請をするように」と連絡を入れた。フョードロフ知事はモスクワの許可を取らず、すぐに返事を出した。「熱湯を浴びて大やけどをし、あと70時間しか生きられない3歳の男児を治療してほしい」と横路知事あてにテレックスを打ったのである。
 27日午後2時すぎ、北海道庁は外務省や海上保安庁と協議し、パスポートなしの入国許可を決定し、要請から8時間半後に、サハリン州のフョードロフ知事に救援承諾の意思を伝えた。翌28日午前3時40分、深夜の千歳空港から札幌医大の金子正光教授ら医師4人、パイロット2人、整備士や通訳など計13人が海上保安庁のYS−11機に乗り込んだ。電話を受けてから17時間が経過していた。YS−11は、宗谷海峡で夜明けを迎え、午前6時42分に濃霧のユジノサハリンスク空港に着陸した。
 コンスタンチン君と父親のイーゴリさん(26)を乗せると、YS−11は直ちに北海道へ引き返した。機内ではすぐに治療が開始された。包帯を取ると、コンスタンチン君の皮膚の熱傷は感染症を合併していた。札幌の丘珠空港に着くと、そこからは防災救急ヘリコプターで札幌医大病院に搬送、すぐに集中治療室に収容した。事故から8日が経過していて」、救命できるかどうか予断を許さない状態だった。
 コンスタンチン君の皮膚は緑膿菌に感染して、敗血症による多臓器不全を起こしていた。熱傷と死亡率は、熱傷面積に比例する。熱傷80%ならば死亡率は8割、90%では死亡率は9割とされている。
 コンスタンチン君は80%の熱傷で、つまり死亡率8割であった。コンスタンチン君を救うために、医師たちの懸命の治療が続いたが、治療には遺体からの皮膚移植が必要だった。札幌中の病院に皮膚の提供を頼んだが、提供者の遺族の了解が取れなかった。父親のイーゴリさんは、自分の皮膚を使ってくれと懇願したが、生きている人間から皮膚は取れなかった。
 翌日の夕方、東京の救急病院から皮膚提供者の遺族からの了解を得たと連絡が入った。30日、皮膚が届くとすぐに手術となった。金子教授の執刀により、コンスタンチン君の感染した患部が取り除かれ、提供された皮膚が移植された。
 移植は全身の35%に行われ、3時間50分に及ぶ手術は成功した。その後も3度の手術を行い、やけど部分の80%を移植し、生命の危機は遠のいた。日本のマスコミは、連日のように報道を繰り返し、激励の手紙や電話、花束、千羽鶴、見舞金などの支援が広がった。
 コンスタンチン君は回復し、父親のイーゴリさんは「本当に心から感謝している。言葉ではとても言い表せない」と声を詰まらせた。遅れて来日した母親のタリーナさんも「息子の命を救っていただき、心からお礼を言いたい」と頭を下げた。
 一方、入院中に片言の日本語を覚えたコンスタンチン君は、ちゃめっ気たっぷりで、愛きょうを振りまき、日本中の人気者になった。そして「コンスタンチン君を救おう」との全国的な募金活動が行われ9000万円が集まった。
 募金の中から、医療費・両親の滞在費、帰国費などを差し引いた8000万円で日ソ医療交流基金が設立された。この基金によってサハリンと北海道とで、毎年医療技術の交換会が開催された。
 大やけどを負ったコンスタンチン君が、北海道で治療を受けた当時は、世界は冷戦のまっただ中で、日本とソ連とは対立関係にあった。日本の飛行機が、北方領土近くを飛ぶだけで、ソ連のミグ戦闘機がスクランブルをかける時代だった。昭和58年には国境を越えた大韓航空機が撃墜される事件が起きている。
 このような時代、国境を越えた救出劇に、人々は東西緊張緩和の夢を膨らませた。ソ連のテレビは、その日のうちに緊急ニュースで日本の救命リレーを放映し、ソ連の新聞各社も大々的に報道を繰り返した。そして日本の救命リレーに感謝の記事を書き、日本の善意とヒューマニズムが政治を超えたと称賛した。
 ちょうど来日したシェワルナゼ・ソ連外相は、9月5日の中山太郎外相主催の晩さん会で「貴国における思いやりの行動が、私たち国民の心を深く動かした」と述べ、日本側の献身的な奮闘への感謝の気持ちを表した。さらに「コンスタンチン君の災難と日本側の真剣な取り組みは、よりよい将来の象徴として大きな意味を持つ」と述べた。
 このような迅速な救命リレーが行われた背景には、北海道庁とサハリン州政府との間で、自治体による地道な外交努力があった。ペレストロイカによって、サハリン州の権限が拡大され、人道的な連係がうまくいった。
 4回の皮膚移植手術を受けたコンスタンチン君は順調に回復し、11月23日に退院となった。津島雄二厚相は、札幌医大のコンスタンチン君を見舞い、ソ連保健相あての「日ソ間の医療協力を呼びかける書簡」を両親に託した。
 コンスタンチン君は、両親とともに千歳空港から仙台空港を経て、新潟空港から88日ぶりにサハリンの自宅に帰った。ソ連のマスコミは、コンスタンチン君を「日ソ友好の架け橋となるため、空から舞い降りた天使」と表現した。
 その後、ソ連(ロシア)からはやけどを負ったセルゲイ・アレクセービッチ君(12)、エフゲニー・ポペンコ君(11)が札幌医大病院に、アレクセイ・ブロジャンスキーちゃん(4)が新潟市民病院に、多合肢症のエフゲーニちゃん(1)が金沢大付属病院に入院し、国境を越えた医療は日ソ両国親善のきっかけになった。
 しかし数千万円近い治療費の支払いが問題になり、善意に頼っていた医療はその後ほとんど行われていない。国境を越えた人道的援助の声援は、熱しやすく冷めやすかった。
 熱傷患者の治療には、善意で提供される皮膚が必要で、患部を覆う皮膚移植が決め手になる。コンスタンチン君の救出劇をきっかけに、「スキンバンク(皮膚銀行)」という新しい流れがつくられることになる。
 スキンバンクとは、心臓停止後に遺体の皮膚を凍結保存し、いつでも皮膚を提供できる仕組みである。凍結保存された皮膚を、必要時に解凍して皮膚を網の目状に広げて使うので、1人の遺体から採取した皮膚で4、5人の患者の治療ができた。それまではブタの皮膚が使われていたが、人間の皮膚の方が当然優れていた。このスキンバンクは重症熱傷の救命率を高めたが、皮膚の提供者が少ないため、その存在は次第に忘れられている。
 皮膚の提供は脳死問題とは関係なく、皮膚は提供者が死亡した日に採皮すればよい。採皮部分は、葬儀などの際に目立たない場所を選んでいる。スキンバンクは善意で行われる移植医療で、さらなる普及が期待される。

氷河から現れた5300年前の男 平成3年(1991年)
 平成3年9月21日、オーストリアの地方紙は「チロリアン・アルプスのハァナイル峰を下山中のジーモン夫妻が、氷河で覆われた小渓谷(海抜約3200m)の解けかけた氷河から、頭と肩を突き出した遺体を発見。身元はわからないが、10年以上前に遭難した登山家の遺体と思われる」と報道した。
 毎年のように、氷河から数体の遺体が発見され、遺体発見は特に珍しいことではなかった。遺体の周囲にスキー用のゴムバンドが落ちていたことから、10年以上前に遭難した登山家らしいと報道された。
 遺体の頭部に毛髪はなく、コイン大の傷跡があった。この頭部の傷が、犯罪による傷ならば司法解剖になるが、山岳遭難による行き倒れならば、医師が死亡診断書を書き、家族が遺体を引き取るはずだった。
 しかし遺体がインスブルック大の法医学教室に運ばれ、よく調べてみると、ミイラ化した遺体は予想以上に古いものであった。遺体は法医学教室から解剖学教室に移され、さらにインスブルック大考古研究所のシュピンドラー教授に遺体の調査が一任された。
 氷河はなだらかな斜面をゆっくりと流れている。そのため、氷河の中の遺体はバラバラになるのが通常であるが、この遺体は無傷だった。これまで氷河から発見された一番古い遺体は400年前のものであった。
 遺体を損傷しないように、全身のレントゲン撮影とCTスキャンが行われた。遺体の身長は160cmぐらい、体重は完全乾燥状態で13kgだったので、本来の体重はおよそ50kgとされ、骨盤の形から男性と判明、背骨の状態から年齢は35歳前後と推定された。
 遺体の衣服、皮の靴、周囲に残された遺物の調査も行われた。すると遺体の側に置かれていた棒のようなものは、つくりかけの弓であった。弓の材質から、弓は17世紀以前のものとされた。さらに斧も発見され、その成分が銅であることから、有史以前のものとされた。
 遺体の年代はどんどん古くなってゆき、遺体はいつしかアイスマンと呼ばれるようになった。インスブルック大のシュピンドラー教授らは、炭素の放射性同位元素の測定を行い、アイスマンの年代を分析した。
 炭素の放射性同位元素を用いた年代分析は、昭和22年に米国の物理学者ウィラード・リビー博士が発見した方法である。人間を含めすべての動植物は、死後に炭素の放射性同位元素が崩壊する。そのため炭素の放射性同位元素を測定すれば、死後の時間を逆算できる。炭素の同位元素の半減期が約5730年であることを応用したものである。
 アイスマンの遺体と残された遺物が、オックスフォード大をはじめとした4研究所で分析され、その結果、アイスマンは紀元前3300年頃、つまり死後約5300年経過していた。
 さらにアイスマンのミトコンドリアDNAがミュンヘン大動物学教室のパーボ教授の研究室で分析された。ミトコンドリアDNAは他のDNAより安定していることから、人種間の遺伝子解析によく用いられた。
 アイスマンと世界各地の人々のDNAを比較すると、イタリア人、エジプト人、サウジアラビア人、トルコ人では228人中3人が同じだった。デンマーク人、アイスランド人、イギリス人、北部ドイツ人では255人中9人。アルプス地方の人では72人中1人が同じ型であった。しかしアフリカ人、シベリア人、アメリカンインディアンとは違っていた。このことから、アイスマンは北部ヨーロッパ人に近い人種と推測された。
 ミトコンドリアDNAは同じ民族であっても、多数の型が存在する。そのためアイスマンと世界各地の住民との、ミトコンドリアDNAの変異値が計算された。その結果、アルプス地方の住民がもっとも変異が少なく、アイスマンはアルプス地方のヨーロッパ人の祖先とされた。
 わたしたちの目の前に突然現れたアイスマンは、20世紀最大級の発見であった。世界中を熱狂させ、発見から3週間以内に2冊の本が出版され、本の中には「古代エジプトから運び込まれたミイラである」と断言する本もあった。このエジプトミイラ捏造説を書いたのは、高名な考古学者であったが、この捏造説はDNAの解析によって消え去った。
 アイスマンが5300年の長期間にわたり、氷の中で原形を残していたのは奇跡的なことであった。アイスマンの遺体が良好だったのは、雪に覆われ動物の餌食にならず、氷で覆われ腐敗を免れ、ほどよく乾燥凍結し、岩の割れ目に遺体が入っていたので氷河の流れによる損傷を免れたからであった。アイスマンは世界最古のウェット・ミイラ(脱水処理されていないミイラ)となった。
 5300年前といえば新石器時代である。アイスマンの腸内からヤギ肉と穀物が見つかり、このことは農耕社会を意味していた。また毛髪から銅とヒ素が検出され、銅の精錬業に関与していたと予想された。このように新石器時代の人々は、意外に高度な文明を持っていたのである。
 付着していた花粉から、アイスマンは春から初夏に死亡したとされ、さらにレントゲン撮影によって左肩から石製のやじりが発見され、3次元CTスキャンで、やじりはアルプス南部に特徴的な形であることが分かった。アイスマンは、背後から矢を射られ、死亡した可能性があった。もちろん死因については、放牧での事故説、遭難による凍死説などもあった。
 新石器時代のミイラがわたしたちの前に姿を現したが、5300年前の生活を誰が想像できるだろうか。5300年前といえば紀元前3300年である。世界最古のメソポタミア文明の統一王朝(アッカド帝国、前2350年頃)が登場する1000年前である。エジプトのクフ王の大ピラミッド(紀元前2550年頃)もなければ、古代都市トロイもまだ成立(紀元前3000年頃)していなかった。日本では縄文時代中期のことであった。アイスマンは5300年を氷の中で悠々と過ごしていたのである。
 アイスマンはオーストリアで発見されたとされていたが、後に発見位置がわずかにイタリア側だったことから、現在、アイスマンは北イタリアの南チロル考古学博物館の冷蔵庫に保管され公開されている。アイスマンのレプリカは、平成17年に開催された愛知県の地球博でも公開されている。
 アイスマンは永い眠りから呼び戻されたが、アイスマンが新石器時代からやって来たのは、地球温暖化を警告するためだったのではないだろうか。

東大タリウム毒殺事件 平成3年(1991年)
 平成3年2月14日、東京大医学部付属動物実験施設の技官・中村良一さん(38)が入院先の病院で死亡した。中村さんは主治医に「同僚から毒を盛られたかもしれない」と訴えていた。
 死亡する2カ月前に、中村さんは体調不良を訴えて形成外科を受診。手足のしびれと全身の痛みから多発性神経炎と診断されて入院となった。中村さんの症状は入院しても改善せず、歩行も困難になった。さらに不眠、脱毛、食欲不振、幻覚、激しい腹痛を繰り返し死亡した。
 主治医は、中村さんが言った「毒を盛られた」という言葉にまさかと思ったが、単なる病死とも考えられず警察に連絡、司法解剖が行われた。その結果、遺体のつめと髪から高濃度の酢酸タリウムが検出された。中村さんは、彼自身が予想していたように、何者かによって劇薬・酢酸タリウムを飲まされていたのだった。中村さんの症状は、典型的な酢酸タリウムの中毒症状であった。
 酢酸タリウムは、細菌培養の際のカビ防止剤として用いられ、動物実験施設では薬品庫に常備されていた。酢酸タリウムは無味無臭で水に溶けやすいことから、お茶やコーヒーに混入させて飲ませることは簡単だった。酢酸タリウムの致死量は1グラムで、毒物ではあるが青酸カリのような即効性はなく、徐々に体調を崩していった。そのため犯人の目星が付けにくかった。
 中村さんに自殺の動機はなかったが、東京大医学部で殺人事件が起きたとも考えられず、中村さんが入院保険金目当てに酢酸タリウムを飲み、その量が多すぎたとうわさされた。
 中村さんは都内の私立高校を卒業し、動物飼育関連の会社に勤め、アルバイトで東京大の動物実験施設で働いているうちに正職員として採用された。東京大学の職員であったが、仕事は裏方で、研究者たちが使う動物の飼育や実験の後片付けなどであった。
 動物実験施設ではアルバイトを含め10数人が働いていたので、他殺ならば犯人はこの中の1人とされたが、犯人逮捕まで約2年半かかった。平成5年7月22日、殺人容疑で逮捕されたのは上司の技官・伊藤正博(44)だった。伊藤正博は、中村さんより半年早く採用され、中村さんの上司であったが2人の仲は悪かった。
 中村さんは人付き合いが悪く、態度はぶっきらぼうで、職場の旅行や行事には参加せず、職場を事務所代わりに中古車販売のブローカーをしていた。一方、伊藤正博の性格はまじめで、伊藤は中村さんに中古車販売のバイトをやめるように何度も注意していた。それでも中村さんは反抗的な態度を改めず、伊藤は不快な気持ちを募らせていた。
 この事件が起きるおよそ半年前にも、同じような事件が起きていた。中村さんが使っていたコーヒー豆の缶に酢酸タリウムが混入されていたのだった。このときには、中村さんが異常に気付き騒ぎになったが、結局は悪質ないたずらとされ、警察ざたにはならなかった。このときの犯人も伊藤正博であったが、彼はこの失敗を生かし、次の毒殺のチャンスを待っていた。そして平成2年12月12日、コーヒーを飲んでいた中村さんを館内放送で呼び出し、そのすきに飲みかけのコーヒーに酢酸タリウムを入れた。
 東大タリウム毒殺事件はマスコミが疑惑を騒ぎ立て、報道が先行する展開となった。伊藤正博(44)は捜査当局から再三呼び出されたが、犯行を否認していた。しかし約2年半後「被害者の体内から検出されたタリウムと、伊藤が管理していたタリウムの成分が一致する」との鑑定が出た。この鑑定結果を突き付けられ、伊藤は犯行を自供した。
 平成7年12月19日、東京地裁の金谷暁裁判長は「劇薬を飲ませる犯行は卑劣で、学問の府での犯行は重大」と述べ、懲役11年の実刑判決を言い渡した。伊藤正博は上告したが、最高裁は1審の判決を支持して刑が確定した。
 この東大タリウム毒殺事件をめぐり、中村さんの遺族3人が国を相手に9900万円の損害賠償を求める裁判を起こした。平成14年4月15日、東京地裁の山名学裁判長は、「2人の間にトラブルがあった事情を十分に調査せず、劇薬の管理に不備があった」として国に約6600万円の支払いを命じた。東大側は、「事件は予測できなかった」と主張したが、「事件が起きる前にも、中村さんのコーヒー豆に毒物が混入された事件を東大は把握しており、職員の生命を守る配慮を怠った」として、東大に賠償責任ありとした。
 タリウムを用いた事件は、昭和56年に福岡大病院でも起きている。この事件では検査技師7人が中毒となり3人が入院した。吐き気、嘔吐、末梢神経障害、脱毛などの症状を示し、尿からタリウムが検出された。7人の検査技師が、同時に発症していることから、犯人は同じ職場の者とされた。検査技師7人は同じ休憩室を使っていたため、休憩室を中心に捜査が行われ、コーヒーの砂糖瓶の底からタリウムを検出。さらに検査技師7人の症状と砂糖の使用量に相関関係が認められた。
 やがて同僚の検査技師(33)が、重要参考人として福岡県警の取り調べを受けることになった。しかし事情聴取の前日、「自分は無実で、真犯人を知っている」という遺書を残して自殺。そのため真相は不明のままとなった。
 平成17年12月30日、静岡県警三島署は静岡県伊豆の国市の県立高校1年の女子生徒(16)を殺人未遂容疑で逮捕した。同年8月頃から、ネズミの駆除用に使用するタリウムを母親(47)に飲ませ、母親は意識不明の重体になっていた。
 女子生徒は高校の化学部に所属し、自宅の部屋には30種類の薬品が置いてあった。ネズミの駆除薬として女子生徒は薬局からタリウムを入手し、自分の母親に飲ませ、インターネットのブログに母親の苦しむ様子を書きつづっていた。この事件には、悪魔のような異常性を感じるが、犯人が16歳だったことから、事件の詳細は伝えられていない。このように高校生でも容易にタリウムを買えたのである。
 タリウムは1グラムで人間を殺せる毒物である。タリウムの名前は、「新緑の若々しい小枝」を意味するギリシャ語「THALLOS」に由来するが、このTHALLOSはもともと、美、優雅、花盛りを象徴するギリシャ神話の女神タレイアの名前が語源になっている。
 タリウムを用いた殺人事件は、海外ではアガサ・クリスティの「蒼ざめた馬」が有名である。「蒼ざめた馬」には女同士がけんかをする場面があり、髪をごっそり引き抜かれたのに平気な様子を見せていた女性が、1週間後に死亡している。このように無痛性の脱毛があれば、タリウム中毒を疑うべきである。東大タリウム毒殺事件の犯人・伊藤正博は、もちろん「蒼ざめた馬」を読んでいた。

きんさん、ぎんさん 平成3年(1991年)
 戦後、日本人の平均寿命は驚異的に伸び、昭和59年にはスウェーデンを抜いて、世界第1位の長寿国となった。平成3年、名古屋市の社会福祉事務所は、敬老の日を前に数え年で100歳になる敬老者名簿をマスコミに配布した。
 その中に、明治25年8月1日生まれの「きん」と「ぎん」という名前の女性がいるのを読売新聞の高橋恒美記者が見つけた。2人の住所は違っていたが、もしかして双子の姉妹ではないかと調べてみると、まさにそのとおりだった。高橋記者は「金と銀」を発掘したのだった。
 この話はすぐに愛知県知事の耳に入った。そして敬老の日、愛知県知事と名古屋市長が100歳の「成田きんさんと蟹江ぎんさん」を訪問して長寿を祝った。この名古屋市南区の100歳の双子姉妹は、長寿国日本を象徴する慶事となった。
 このことがNHKのニュース特集で紹介され、それを見た広告代理店が、2人に「ダスキン」のテレビCMへの出演を申し込んだ。この申し出は快諾され、11月に撮影を完了、翌年の正月から放映されることになった。11月から放映までの2カ月間、広告代理店は2人の健康状態を気にしていた。もし健康を害することがあったら、CMは中止になるはずだった。しかしその心配も杞憂(きゆう)に終わり、CMが無事に放映されると、元気なきんさんぎんさんは、たちまち日本中の人気者になった。
 2人が生まれたのは、明治25年8月1日で、日清戦争が始まる2年前のことである。名古屋市郊外の農家に生まれた双子の姉妹は、姉がきん、妹がぎんと名付けられた。この「きんとぎん」という覚えやすい名前は、地元の神主で小学校の校長だった人が付けたもので、この名前だけでもタレントとして十分な価値があった。
 ちなみに、最初に生まれたのが妹のぎんさんで、後に生まれたのが姉のきんさんである。双子の姉妹の場合、現在では先に生まれた方が姉で、後に生まれたのが妹になるが、以前は逆であった。遅く生まれた方が、相手に先を譲ったことから、長女とされていた。
 当時、100歳以上の長寿者は1万人に1人の割合である。2人が100歳を超えるのは1万人の2乗の確率で、双生児は1000人に2人の割合であるから、計算上は500億分の1の確率となった。
 突然、スポットライトを浴びた2人は 、さらにもう1本のテレビCM「通販生活」にも起用され、国民的アイドルになった。「きんは100歳100歳。ぎんも100歳100歳」、ダスキンのCMで屈託のない名古屋弁のセリフは、新鮮な話題を引き起こした。
 2人の登場は、バブル経済がはじけた後の暗い世相を明るくし、将来を悲観していた高齢者を元気にしてくれた。高齢化社会の持つ暗いイメージを笑顔で吹き飛ばしてくれた。
 名古屋市の100歳の双子姉妹の活躍は、日本が長寿国になったことを国民に知らしめ、さらに高齢化社会であっても、元気に暮らせる明るいイメージをつくってくれた。2人はギネスブックにも記録され、世界で最も有名な姉妹となった。100歳、長寿、双子のキーワードが国民的ブームとなった。
 チャーミングな笑顔、名古屋弁のユーモアな話し方、愛らしいキャラクターが2人を国民的人気者にした。屈託のない笑顔、軽妙なおしゃべりが好感を呼んだ。100歳の誕生日に感想を求められると、「100歳には知らん間になっちゃうもんよ。若いつもりが、いつの間にかこんなばあちゃんだがね」、「うれしいような、かなしいような」であった。貴花田と宮沢りえの婚約の感想を求められると、「はだかのお付き合い」といって日本中を沸かせた。
 主にしゃべるのはきんさんで、その性格は天真爛漫(てんしんらんまん)で、少女のようにおどけていた。一方のぎんさんは、それとは反対に冷めた顔でまじめにしゃべるのが特徴であった。2人の会話は漫才のボケとツッコミのようなバランスがあった。
 きんさんぎんさんは、多くのテレビ番組やドラマに出演。音楽CDもだし、ぬいぐるみも発売された。台湾にも旅行し、放送大学にも入学、春の園遊会にも出席した。このように100歳を超えたとは思えない活躍であった。
 2人の生い立ちや人柄を描いた本が出版され、ワイドショーはネタが切れると、きんさんぎんさんを話題にした。マスコミは2人を追い回し、平成3年の流行語大賞は「きんさん、ぎんさん」となった。2人は有名になったが、金銭的な欲はなく、CMの出演料はすべて愛知県の福祉基金に寄付をした。2人の性格は違っていたが、2人とも派手なことは好まなかった。
 厚生省の全国高齢者名簿によると、平成3年の時点で100歳以上のお年寄りは4000人を超え、高齢化社会を前に2人は高齢者の代表選手となった。100歳という年齢は、老人ホームや寝たきり老人をイメージさせるが、2人は元気に歩くことができ、話しぶりも明快で認知症とは無縁であった。
 明治、大正、昭和、平成と続く激動の時代を100年以上、女性として、母親として生きてきた。涙や笑顔の中で、時代の波に飲み込まれることなく、力強く生き抜いてきた。きんさんには11人の子供がいたが、5人を幼時期になくしている。栄養失調で母乳が出ず、また医者にもかかれなかったと回想している。
 平成12年1月23日、死とは無関係と思われていた姉のきんさんが心不全のため名古屋市南区の自宅で死去、107歳5カ月だった。数日前から体調を崩していたが、この日の朝に容体が急変し、最期は眠るような大往生だった。
 悲報を聞いた妹のぎんさんは、涙が止まらず、さみしそうに手を合わせた。気丈なぎんさんも、姉が亡くなってから急に元気がなくなり、翌13年2月28日、後を追うように老衰のため108歳で大往生した。
 2人の死去について、NHKをはじめとした報道各社がニュース速報を流した。きんさんぎんさんは、「お金より、他のことが大切。人間の付き合いとかね。欲は捨てないかん。欲があると、ケンカもせにゃいかんでね」、このように評論家以上の人生訓を語ってくれた。2人が教えてくれた多くの言葉を、人生の先輩の言葉として心の中に残しておきたい。

東海大病院安楽死事件 平成3年(1991年)
 平成3年4月13日、東海大医学部付属病院(神奈川県伊勢原市)で、日本では初めての医師による安楽死事件が起きた。多発性骨髄腫という血液の末期がんに侵された藤原政次さん(58)を同大助手・徳永雅仁医師(34)が塩化カリウム20ccを注射して死亡させたのである。
 藤原政次さんは、会社の健康診断で貧血と血小板の減少を指摘され、平成2年4月14日、同病院を受診、多発性骨髄腫の疑いで入院となった。入院後、多発性骨髄腫と確定診断がついたが、本人に病名は知らされず、長男にだけ伝えられた。長男は「父親に精神的打撃を与えたくない。病名は母親にも知らせないでほしい」と訴えたため、本人への告知はなされなかった。
 多発性骨髄腫は骨髄が侵される病気で、治療によって進行を遅らせることはできるが、平均余命は1年から3年の難病である。骨が薄くなって骨折をきたすことがあり、骨折による激痛とともに腎不全を合併することが多い。
 入院後、藤原さんの病状が一時的に好転したので、いったん退院となったが、同年12月に再入院となった。抗がん剤・インターフェロンによる治療が行われたが、藤原さんの症状は改善せず、平成3年3月下旬には腎不全、高カルシウム血症を来した。治療は、第4内科(有森茂教授)のF研修医とD講師が担当したが、4月1日、徳永医師が派遣先の湯河原中央病院から呼び戻され治療に加わった。
 藤原さんは、多発性骨髄腫による絶え難い痛みと、全身けいれんに襲われていた。同月8日頃から全身状態が悪化したが、D講師が学会に出席するため、F研修医と徳永医師が対応することになった。
 藤原さんは高カルシウム血症のため意識が低下し、不穏症状を示したが、徳永医師は最後まで最善を尽くすのが医者の務めと考え、血漿交換療法を続行した。有森教授の回診でも治療続行が指示され、教授の治療方針に家族からの反対はなかった。
 不穏状態に対して、コントミン(鎮静剤)が数時間おきに投与された。しかし鎮静剤の効果と不穏状態が重なり、意思の疎通が取れないまま、家族は苦しむ姿を見ることになった。藤原さんの妻と長男は「早く楽にさせてくれ」と、治療の中止を執拗(しつよう)に求めてきた。
 同月11日、家族の訴えに憔悴(しょうすい)をきたしたF研修医は、「あの家族には耐えられない。担当を外してほしい」と申し出た。家族はF研修医の自宅にまで電話をかけ、苦情を訴えていた。そのため徳永医師が1人で家族と対応することになった。
 翌12日、藤原さんは昏睡状態となり、対光反射もなく、疼痛反応も見られなくなった。徳永医師は治療続行の説得を家族に繰り返したが、家族の再三にわたる要求から、迷った末に、点滴を外して治療を中止することにした。
 この時点における、徳永医師の治療中止は消極的安楽死といえる。治療を続行しても数時間あるいは数日以内に、確実に死を迎えたからである。しかしその後も藤原さんは苦しそうな呼吸を続け、見かねた長男が「早く楽にしてほしい。早く家に連れて帰りたい」と再三にわたり訴えた。このときの家族の様子は、その場にいた者でなければ分からない。家族は、何度も徳永医師を呼び出しては、何とかしろとヒステリックに迫った。
 藤原さんは末期状態で、死が目前に迫っていた。徳永医師は、心肺停止となれば蘇生はしないつもりでいた。無意味な末期治療を行う意思はなく、自然な死を迎えさせようとした。
 平成3年4月13日、徳永医師は、苦しそうな呼吸を少しでも楽にしてあげようと、通常の2倍量の鎮静剤セルシンを静注。さらに2倍量の向精神薬セレネースを静注したが、1時間たっても荒い呼吸に変化はなかった。家族は「先生は何をやっているのか。まだ息をしているじゃないか」と激しいけんまくで徳永医師を怒鳴った。
 追い詰められた徳永医師は、家族の気持ちを説得することに限界を感じ、家族の執拗(しつよう)な要望から、心拍数を低下させる薬剤ワソランを注射したが、それでも変化はおきなかった。そして徳永医師は塩化カリウム製剤20ccのアンプルを手にした。
 通常、塩化カリウムは電解質の調整に用いられるが、その静注は心臓伝導障害を起こさせ、確実に心停止をもたらす。徳永医師は看護師の制止を振り切って、「私の責任でやる」と塩化カリウムを静注、その数分後に患者は息を引き取った。
 もし家族の執拗な要望がなければ、徳永医師は薬剤を用いず、自然な死を迎えさせていた。死を目前にした患者を楽にしてあげたい気持ちが、混乱した脳裏をよぎったのである。担当していた看護師が、上司にこのことを報告。事件発生2日後、病院長がこの事態を知ることになる。
 この事件は、脅迫に近い家族の要請から徳永医師が行ったことであり、自然死を迎えさせようとしていた徳永医師の意に反するものであった。徳永医師の行為には何の利害もなかった。しかし東海大は13人で構成する「医の倫理委員会」を開き、徳永医師の行為を議論もせず、本人の弁解も聞かずに、「医の倫理にもとる行為」と厳しく非難。4月25日に徳永医師の懲戒解雇処分とした。
 当時、安楽死問題について多くの議論がなされていた。事実、数年前の東海大医学部の入学試験でも安楽死に関する論文をテーマに、受験生にその是非を書かせていた。しかし病院当局は安楽死の議論には触れず、情状酌量の検討もせず、徳永医師の処分を一方的に決めた。受験生に安楽死を問いながら、病院当局がそれを議論せず、処分だけを決めたのは、最高学府の姿勢として正しい行為だったとは思えない。「安楽死は殺人」、「殺人なら懲戒免職」、「懲戒免職にすれば病院の責任は問われない」。このような思考パターンが働いたのであろう。
 この事件は、5月になってマスコミに発覚。医師による安楽死事件として、日本中の注目を集めた。大学はマスコミが騒ぎ始めてから、徳永医師を警察に告発。大学の処分と告訴は、保身のために先手を打ったと思われる。
 安楽死は、死期が迫っている患者が耐え難い肉体的苦痛を持つとき、その苦痛を緩和して安らかな死を迎えさせる行為である。安楽死は、消極的安楽死、間接的安楽死、積極的安楽死に分けることができる。消極的安楽死は治療を中断することで、法的に問題になることはない。セルシン、麻薬などを投与する間接的安楽死も問題になった事例はない。
 しかし今回の事件の焦点は、塩化カリウムを静注したことである。塩化カリウムの静注は、確実にヒトを死に至らせることから、この行為が殺人罪に問われたのである。安楽死という言葉は極めて多岐に用いられるが、消極的安楽死であれ、間接的安楽死であれ、積極的安楽死であれ、結果的には死期を数時間早めるにすぎない。しかし徳永医師は殺人罪に問われることになった。
 安楽死に関しては、昭和37年の名古屋高裁で、「死が目前に迫り、激痛がある場合、その緩和のために、本人の真摯(しんし)な委託または承諾があれば、医師が倫理的に妥当な方法で行う」との判例があった。
 医学の進歩に伴い、回復の見込みのない末期状態の患者でも、治療によって生命を維持できるようになった。しかし、末期治療は望ましいことなのか、医師としてなすべきことなのか、さまざまな議論がなされているが未解決のままである。
 一方、回復の見込みのない末期患者の治療を中止し、人間としての尊厳を保たせ、死を迎えさせる「尊厳死」という考えがある。尊厳死は、患者の自己決定権と治療拒否権を重視した考えであるが、まだ一般化されていない。
 多くの人たちは、安らかな尊厳死を望んでいる。しかし生前に「尊厳死の意志」を文章で残している人はほとんどいない。自分の死について、普段から周囲に話をしていても、文書で残している人は皆無に近いので、患者の意思を知ることはできず、多くの場合は家族の意思によるが、家族の判断が本人の意思を代弁しているとは限らない。
 平成6年12月、横浜地裁は徳永雅仁医師に対し、殺人罪として懲役2年執行猶予2年の有罪判決を下した。判決では安楽死について、(1)耐え難い肉体的苦痛(2)死が避けられない末期状態(3)患者の意思表示(4)ほかに手段がない、の4要件を提起した。今回の事件は、患者の意思表示がなかったこと、昏睡状態なので肉体的苦痛を欠いていたことから安楽死に相当しないとした。さらに厚生省の医道審議会は、徳永医師に医師免許停止3年の行政処分を下した。
 横浜地裁の判決は、日本で初めての医師による安楽死事件を罰することになった。判決では、患者の意思表示がなかったとしているが、長男が患者本人への病名告知を拒否していたので、患者の意思表示を得ることは不可能であった。また昏睡状態なので肉体的苦痛はないと裁判官は言うが、家族が患者の苦痛を代弁しているのだから、その理由は不適切と思われる。
 間接的安楽死であれ、積極的安楽死であれ、患者の死期を早めることに変わりはない。結果は同じなのに、間接的安楽死は合法であり、積極的安楽死は非合法とする判決である。多くの医師や評論家も、裁判官と同じような論評ばかりで、徳永医師の行為を擁護する医師は皆無に近かった。
 安楽死を考える場合、法律で安楽死を規定すること自体に無理がある。安楽死は「患者の苦痛に対する医師の人間的同情からの行為」で、その行為に悪意はない。耐え難い苦痛とは主観的なもので、他人に苦痛の評価などできるはずはない。人間に自分の死を選ぶ権利があるのは当然であるが、「患者の意思」といっても、意識がある場合には自分の最期の状態まで思いが及ばない。つまり安楽死を法律で合法化しても、合法的安楽死は非現実的で、また立法化されれば、安易に安楽死が認められる危険性もあった。
 安楽死を強要した家族は罰せられず、家族の強要に屈した医師が罪を受けたことに違和感がある。大学は徳永医師に厳罰を与えたが、徳永医師のモラルが、権威者といわれる政治的老齢医師たちより劣っているとは思えない。徳永医師の行為は、法的には間違っていたが、人間の良心に何ら恥じるものではない。
 安楽死を医師による自殺幇助(ほうじょ)、医師の自惚れと評論する者がいるが、むしろ徳永医師の医師としての良心を評価したい。この事件における徳永医師の行為よりも、評論家ぶった医師たちの言葉が、医師のモラル低下を国民に与え、医療不信の流れを招いたと思われる。
 徳永医師と同じ状況になった立場、塩化カリウムの注射を静脈に留置し、「これを注入すれば希望通りになります」とつぶやき、家族に注入させれば法的にはどうなるのか。また看護師が、注射には立ち会わず部屋から出て行き、「注射の現場を見ていない」と上司に報告したらどうなったのか。
 大学当局は徳永医師を糾弾したが、なぜ自分の部下を守ろうとしないのか。個人的な考えではあるが、もし私が検事だったならば、「注射と病気による心停止が偶然一致しただけ」として不起訴処分にしたであろう。医師による日本で初めての安楽死事件に、マスコミが騒いだため、検察官や裁判官が時流に踊らされ、人情を考慮せず、法的判断だけで判決を下したと思われる。
 現在、徳永医師は開業医として多くの患者の信頼を得ながら日常の診療を行っている。徳永医師は、医師としての苦悩の中で、その責務を彼なりに果たし、医師として恥じることは何もなかったと信じている。

骨髄バンク 平成3年(1991年)
 白血病や再生不良性貧血などの血液疾患は、血球成分をつくる骨髄の造血幹細胞に異常を来たした疾患である。治療は化学療法が主で、完治するのは約3分の1とされていた。しかし昭和50年後半から骨髄移植が導入され、治療成績が飛躍的に向上した。
 骨髄とは「骨に囲まれたスポンジ状の組織」のことで、そこで赤血球、白血球、血小板がつくられる。血液疾患の多くは、この骨髄の異常(がん化)によって起きる。そのため、病気に冒された骨髄を健康人の骨髄に置き換える骨髄移植が、白血病や再生不良性貧血などの根本的治療になる。
 骨髄移植は大量の抗がん剤を患者に投与し、全身に放射線を照射し、がん細胞を死滅させる。しかし、同時に正常な細胞も破壊されるため、正常な造血機能が失われ、感染や出血などを起こしてしまう。そのために健康人の骨髄細胞を患者に移植するのである。
 実際の骨髄移植は、他の臓器移植と異なり、外科的手段を必要としない。まず骨髄提供者(ドナー)の骨盤に針を刺し、注射器で骨髄液を吸引する。この吸入した骨髄液を、患者に点滴するだけである。骨髄穿刺は激痛を伴うため、また穿刺を何度も繰り返すため、全身麻酔下で行われる。骨髄提供者にとって、麻酔の副作用以外に害を及ぼすことはほとんどない。
 赤血球に血液型があるように、白血球にも型があってこれをHLA(主要組織適合抗原群)という。このHLAの型が一致する確率は兄弟では25%、つまり4人に1人であるが、他人と一致する確率は数100人から数万人に1人と極めてまれである。少子化の現在、兄弟間でHLA型が一致する確率が低いため、ドナーは非血縁者(他人)に頼らざるを得ない。
 患者と骨髄提供者(ドナー)のHLA型が一致しなければ、移植した骨髄細胞が移植された患者の身体を異物とみなして攻撃する。この免疫反応は「移植片対宿主反応」と呼ばれ死に至ることが多い。
 骨髄バンクが出来るまでは、白血病の患者の家族は、HLA型の一致する善意あるヒトを探すしか方法がなかった。昭和の時代までは、患者の家族は「何々君を救う会」を結成して、ドナー捜しに奔走した。しかしHLA型の一致する非血縁者は少なく、またHLA型を調べるのに1人約3万円の費用がかかった。そのためドナーが見つからず、膨大な借金だけを残すことが多かった。
 また多人数のHLAを調べても、それは特定の1人の患者を救うための努力であって、適合者が見つかっても見つからなくても、せっかく調べた多人数のHLA型のデータが無駄になった。このような事情から、一般人が善意で骨髄を提供してくれるシステム(骨髄バンク)が必要になった。全国レベルで多数のドナーのHLA型を登録しておけば、ドナー検索は簡単で、迅速になるはずである。そのため公的機関による骨髄バンクの設立を望む声が高まった。
 平成元年10月、名古屋で民間団体による「東海骨髄バンク」が発足した。この東海骨髄バンクは、医師や患者家族のボランティアによって運営され、同様の民間団体による骨髄バンクが全国的に広がった。昭和63年4月、日本臨床血液学会など5つの学会が公的機関による骨髄バンクの要望書を藤本孝雄厚相に提出。平成3年1月、厚生省は「骨髄移植対策専門委員会」をつくり、同年12月18日に「骨髄移植推進財団」が設立された。
 この骨髄移植推進財団が中心になり、全国規模の骨髄バンクが運営されることになった。骨髄バンクの事業は、一般国民からドナーを募る「ドナー募集」と、患者とドナーの橋渡しをする「コーディネート事業」に分けることができる。現在は、日本赤十字社が中心になり、全国各地の血液センターでドナー登録者とHLA型の検査がなされている。骨髄を提供できる健康人は20歳以上55歳未満で、家族の同意が必要である。
 平成19年2月におけるドナー登録者数は約27万4000人で、骨髄移植例数は累計8000例を超えている。日本で骨髄移植を必要としている患者数は毎年約3000人で、ドナー登録数は増えているが、それでも約1割の患者は、適合するドナーが1人もいない状態である。
 最近になって、臍帯血(さいたいけつ)移植が新しい治療法として行われるようになった。臍帯血とは、胎児と母親の胎盤をつなぐ「へその緒」に含まれる血液のことである。臍帯血は造血幹細胞を成人の骨髄より豊富に含んでいるため、骨髄移植と同様に血液疾患の治療として注目されている。それまで捨てられていた出産時の臍帯と胎盤の有効利用である。
 新生児は免疫機能が未熟なため、臍帯血を移植しても、患者の拒絶反応(移植片対宿主反応)は起きにくく、安全性が高いとされている。この臍帯血移植は、昭和63年にフランスで初めて行われ、欧米ではすでに1000例以上なされている。日本でも平成6年10月、兄弟間による臍帯血移植が初めて実施され、平成9年2月から非血縁者間で臍帯血移植がスタートしている。
 平成11年8月、日本赤十字社中央血液センター内に、「日本さい帯血バンクネットワーク」が設置された。日本では小児への移植が中心であるが、米国では骨髄移植を補うものとして大人へも移植されている。
 臍帯血移植で思い出されるのが、歌手の本田美奈子さんである。平成17年1月、本田美奈子さんは風邪と思い病院へ行ったが、診断は急性骨髄性白血病であった。染色体異常を伴った予後不良の白血病で化学療法の効果はなかった。またHLAの適合者がいなかったため、骨髄移植もできなかった。結局、臍帯血移植を受けたが、同年11月6日に死去、享年38であった。

ハルシオン 平成4年(1992年)
 平成4年、兵庫県三木市内の40カ所の病院でハルシオン(一般名 トリアゾラム)の盗難事件が発生。同様の盗難事件が、茨城県茎崎町天宝喜の茎崎病院など、全国の病院に広がった。さらにハルシオンが海外から不正輸入で持ち込まれた。
 睡眠薬であるハルシオンは、米国の製薬会社アップジョン社が開発。「効き目がハッキリ、目覚めがスッキリ」との宣伝で多くの国々で発売され、世界で最も使用頻度の高い睡眠薬とされた。
 日本でも、昭和57年に中央薬事審議会で製造が承認され、翌58年に発売されると、睡眠薬の37%のシェアを占めるようになった。それまでの睡眠薬は、半減期が長いため翌朝の目覚めが悪いという欠点があった。しかしハルシオンは超短期型の睡眠導入剤で、内服後15分で入睡効果が現れ、半減期が約3時間と短いため、朝の目覚めがさわやかだった。そのため精神科以外の内科や外科でも、ネコも杓子(しゃくし)もハルシオンが処方された。
 画期的で安全性が高いとされていたが、発売からしばらくすると、副作用として前行性健忘が問題になってきた。前行性健忘とは、「交通事故などで意識が戻っても、事故前の記憶を失ってしまう逆行性健忘」とは逆の症状である。つまり、ハルシオンを内服した後、意識が清明であっても、その時の記憶を失ってしまうのである。
 ハルシオンを飲んで眠ると、翌朝、普段通りに目覚め、普段通りの行動をしているのに、夕方になると日中の行動を覚えてないのである。周囲から見れば普段通りに見えていても、本人は目覚めた後の行動を記憶していない、このように何とも不気味な健忘であった。
 この前行性健忘が問題になったのは、ハルシオンを飲んで殺人事件などの凶悪犯罪が起きたからである。ハルシオンを飲んだ者が殺人事件を起こしても、加害者は殺人行為を覚えていない。犯行時の記憶消失は、犯行の立証を困難にし、加害者に責任を問えない事態となった。
 他殺であるのに、事故とも解釈できる奇妙な状況となった。平成4年、ハルシオンを飲んでの殺人事件が神戸で起き、同年にはハルシオンを飲んでの強盗事件も起きた。いずれの犯人も、犯行時の行動を覚えていないが、目撃者は意志的な残虐な行為であったと証言している。このような事件について、警察は「嫌疑不十分」の意見書を添付して地検に送検することになった。
 ハルシオンの服用は、記憶を消失させ、人間の隠された残忍な攻撃性を引き出す。このような恐怖心が、睡眠薬などに関心がない者にまで不安を生じさせた。一方では、平成元年ころから若者の間で「トリップ遊び」と名付けられたハルシオンの乱用が流行した。「トリップ遊び」とは、ハルシオンを酒と一緒に飲んで、もうろう状態のまま繁華街をふらつくことである。
 ハルシオンは、医師の処方箋が必要であるが、このトリップ遊びのために通常20円のハルシオンが100倍の値段で売買され暴力団の資金源となった。さらに、平成4年にハルシオン目的に、病院での盗難事件が頻発した。
 昭和58年のハルシオンの発売から数年の後に、ハルシオンを使用した新種の昏睡強盗が生まれた。昏睡強盗とは、女性が売春をにおわせ男性をホテルに誘い、ハルシオン入りのビールを飲ませ、男性が眠っているすきに現金や所持品を奪う犯罪だった。
 昏睡強盗は、昭和61年頃から東京や大阪などを中心にタイの女性が行っていたが、その安易で成功率の高さから次第に日本各地に広がった。繁華街のピンクサロンなどでは、ハルシオンを混入させた酒を客に飲ませ、寝ている間に現金を奪う犯罪が頻発した。ハルシオンを飲ませ前後不覚にして、路上に置き去りにした。さらにレイプ目的で女性にハルシオンを飲ませる事件もおきている。
 平成6年、福岡市中洲のピンクサロンで福岡高検の検事が被害に遭う事件が起きている。検事はピンクサロンでハルシオン入りの焼酎を飲まされ現金80万円を盗まれた。この事件では、検事でもピンクサロンに入るという意外な人間性を垣間見たと同時に、正義感から捜査に当たった検事の職業意識に妙に感心した。
 平成3年10月、英国BBCは「ハルシオンの悪夢」という番組を放映。ハルシオンの記憶障害について、さらに製造したアップジョン社が承認申請に提出したデータが捏造であったと報じた。この放送以後、ハルシオンは英国や北欧で一時販売停止となった。
 米国のユタ州で、ハルシオンを服用した57歳の娘が83歳の母親を射殺する事件が起き、精神鑑定の結果、「ハルシオンの精神障害による殺人事件」とされた。この娘は、アップジョン社を相手取り2100万ドルの賠償を求める民事訴訟を起こし、会社から和解金を引き出している(「ニューズウィーク誌」1991年8月19日)。
 また離婚した夫が300キロ離れた元妻を射殺した事件が起きたが、殺害時の記憶がない元夫は裁判で無罪になった。このような事件が続いたことから、市民団体「パブリック・シチズン」がFDA(米食品医薬品局)にハルシオンの販売禁止を求めた。
 平成4年1月8日、厚生省は中央薬事審議会副作用調査会にハルシオンの安全性と有効性の検討を依頼。同月31日、アップジョン社に投与用量や期間を限定するよう求めた。そのため、投与量は0.125 mgから最大0.5 mgまでと限定され、厚生省はハルシオンの使用上の注意を医療機関に通知した。
 さらにハルシオンを飲んで当直していた医者が、翌朝になり診察した患者を覚えていない事例が学会で報告された。当直などの激務から、ハルシオンを常用している医師が意外に多くいた、そのため医師たちもハルシオンの前行性健忘を自ら体験していた。服用後の不安感、混迷などの副作用も自らが体験していたので、ハルシオンの副作用が問題視されると、ひそかに内服していた医師たちは、「絶対に処方しない」と決意するようになった。
 ハルシオンが犯罪に結び付くこと、外国からの違法輸入が話題になり、ハルシオンの使用量は激減し、そのため副作用の報告も少なくなった。また麻薬に準じる向精神薬に指定され、「盗難の報告が義務化され、処方を受けた者は第三者に譲り渡してはならない」と規定され、違反すれば3年以下の懲役刑となった。
 このようにハルシオンは、社会に大きな問題を起こしたが、今日でも処方されている。後発医薬品メーカー9社からも同剤が発売されている。結局、ハルシオンの処方量が多すぎたこと、安全性の宣伝が逆効果となったこと、ハルシオンのせん妄が犯罪を増強させたことが、悪いイメージとなったのではないかと回想している。

エイズワクチン風説流布事件 平成4年(1992年)
 平成4年9月19日、名古屋市で開催された日本エイズ学会で、横浜市立大医学部の奥田研爾教授(細菌学)がエイズワクチンの研究成果を発表した。このワクチンは、エイズウイルスの表面タンパクを人工的に合成してつくったもので、「エイズウイルスへの免疫力を高め、エイズを予防する」と説明された。奥田教授は、ウサギを用いた実験結果を示し、数人の健康人に対しても投与したことを述べた。
 エイズワクチンの開発を示唆する発言に注目が集まったが、さらに奥田教授は驚くべき事実を明かした。「すでに7月下旬から、未発症のエイズ感染者30人を対象に、タイでワクチンの試験を始めている」と発言したのである。つまり、日本での臨床試験なしに、海外でエイズワクチンの臨床試験を行っていると公言したのだった。
 世界保健機関(WHO)が定めた当時の薬剤の臨床試験ガイドラインでは、「薬剤を開発した国で、最初にその安全性や薬効について臨床試験を行う」としていた。この奥田教授が発表したタイでの臨床試験は、WHOのガイドラインに反する行為で、「人体実験に近く、倫理的な問題がある」と批判の声が上がった。
 これに対し、奥田教授は「安全性は確かめており、タイからの緊急要請があったので試験を始めた。問題はない」と答えた。しかし、日本エイズ学会は「国際的な倫理問題になる可能性がある」として検討委員会を設けることになった。
 奥田教授の発言は、大きな波紋を起こした。しかしこの「タイでの臨床試験」は全くのデタラメであった。
 実は、このエイズワクチン開発は、日本エイズ学会に先立つ3週間前の8月26日、東京証券取引所の記者クラブ(兜倶楽部)ですでに発表されていた。その記者会見では、奥田教授のほかにソフトウエア会社「テーエスデー」の松崎務社長と、タイの国会議員の3人が顔をそろえていた。そこで「エイズワクチンの臨床試験を7月末からタイで行っていること、タイでワクチンの合弁事業を行うこと、ロシアでも臨床試験に入る予定」と正式に発表していた。このときの記者会見は、テーエスデーが上場企業でなかったことから、大きな反響に至らなかった。しかしそれでも、それまで730円だったテーエスデーの株価は、発表直後から高騰し、9月8日には3650円までつり上がった。
 ところが、エイズワクチンの開発は、テーエスデーの株価つり上げを狙った虚偽された発言だった。タイでの臨床試験はウソであり、ワクチンの合弁事業も作り話だった。平成4年11月、このことが発覚すると、テーエスデーの株価は570円に暴落。同社は、翌年11月に破産した。
 平成7年7月26日、証券取引等監視委員会は、テーエスデーの松崎元社長を証券取引法違反(風説の流布による相場変動)で東京地検に告発した。風説の流布とは、証券取引法158条に反する行為で、「情報の捏造によって、利潤を図る目的で、相場の変動を意図的なうわさで操作すること」とされている。罰則は、5年以下の懲役または500万円以下の罰金であった。
 平成7年11月20日、東京地裁(山田利夫裁判長)の初公判で、松崎被告は事実関係を認めたが、虚偽ではないと無罪を主張。弁護士は「近い将来、実現する可能性のある事実を大げさに言っただけで、風説ではない」と述べた。しかし平成8年3月22日、松崎被告は懲役1年4月、執行猶予3年の有罪判決を受けた。
 一方、奥田教授は刑罰を受けることなく、社会的責任も問われず、その後もエイズワクチンの日本における第一人者として活躍した。この事件の後、横浜市大医学部長、横浜市大副学長に就任している。
 なぜ奥田教授は倫理的責任を追及されず、副学長にまで出世したのだろうか。このような事件に関与すれば、関与の度合いにかかわらず、学者生命は絶たれるのが常識である。奥田教授の責任追及がなされなかったのは、横浜市大に優秀な人材がいなかったのか、奥田教授が松崎元社長にうまくだまされていたのか、いずれにしても学者に対する世間の追及が甘い時代だったからであろう。
 昭和56年、米ロサンゼルスに住む同性愛男性から初めてエイズが発見され、昭和58年に原因ウイルスであるヒト免疫不全ウイルス1型(エイズウイルス、HIV-1)が同定された。当初は、同性愛者や麻薬常習者の疾患とする差別的偏見があり、死に至る病気と恐れられていた。しかし近年では、薬剤療法の進歩により、治療法は飛躍的に改善した。
 一方、前回のテーエスデー事件のように、エイズワクチンのニセの開発事件が、世間を騒がせることがあった。ウイルス性疾患であるエイズに対し、当初からその治療法としてワクチン開発が試みられてきた。しかし、エイズワクチンの開発は簡単なものではない。
 エイズ患者は、全世界で5000万人に達している。治療薬は高価なため、発展途上国では今なお多くの人々が生命の危険にさらされている。安全で、有効で、安価な予防ワクチンに期待されるが、現在に至るまで有効なワクチンは開発されていない。
 エイズワクチンの開発が進まないのは、エイズウイルス特有の遺伝子変異のためである。エイズワクチンを接種しても、人体内でエイズウイルスが変異して効果がなくなり、弱毒生ワクチンを投与しても、弱毒生ワクチンが強毒株に変化し、危険性を逆に高める可能性があったからである。
 エイズウイルスは一般的ウイルスとは違い、C型肝炎と同様にウイルスが人間の遺伝子に組み込まれる特殊性があった。またエイズは気楽に人体実験ができない事情もあった。
 平成5年、中和抗体産生を目指した表面抗原gp120ワクチンが開発されたが失敗。以後、ワクチン開発は遺伝子組み換えによるワクチンへと方向性を変えた。その他にも、種々のワクチン開発が進められているが、安全性と有効性について、多くの課題がある。最近、結核の生ワクチンであるBCGがエイズワクチンとして注目され、平成8年からタイでBCGによる臨床試験が進められ、それを推進するためNPO法人エイズワクチン開発協会が日本で設立されている。
 このようにエイズに対し、世界中の研究者が必死で戦っているとき、平成4年に起きた虚偽のエイズワクチン事件は何とも人騒がせであった。この事件の根底には、金儲け主義があった。さらに横浜市大教授という恥知らずの権威者が関与していたと思うと、何とも情けない気持ちになる。

鶴見大の歯科医師国家試験漏洩事件 平成4年(1992年)
 平成4年1月、歯科医師国家試験委員を務めていた鶴見大歯学部(神奈川県横浜市鶴見区)の花村典之教授(57)が中心になって、平成3年度の歯科医師国家試験問題の一部を、鶴見大の約140人の受験生に事前に漏らしていたことが発覚した。
 花村教授は、鶴見大生の卒業試験の成績が悪いことから、国家試験での合格率低下を恐れていた。そこで、国家試験前日の平成3年4月2日の「国家試験壮行会」で、国家試験の漏洩(ろうえい)講義を行った。
 現役受験生全員が鶴見大第4講堂に集められ、自ら作成した問題について黒板に図を描きながら解説をした。花村教授は「おれの首を賭けて教える」と切り出し、自分が担当した臨床実地補綴(ほてつ)科の試験問題15問(全問題数280問)のうち12問の内容と解き方を教えた。
 補綴学とは、歯のブリッジの保持力や材料などに関する学問で、その講義は、国家試験のヒントを教えるのではなく、国家試験の解答そのものの解説だった。
 さらに他の委員が作成した11の問題のキーワードも教えた。「メモを取るな。絶対に口外するな」と徹底した口止めをしての講義だった。
 後の調査で、臨床実地補綴科15問の正解率は、鶴見大歯学部が全国の歯学部の中で1番の成績だった。鶴見大の合格率は90.3%(現役と浪人を合わせた鶴見大受験者186人中、合格者計168人)となり、前年の79.3%を大きく上回った。
 花村教授は、東京医科歯科大を卒業。鶴見大大学院歯科研究科修了課程を経て鶴見大助手となり、鶴見大講師から昭和48年に鶴見大教授、平成元年4月に鶴見大付属病院長となっている。平成2年10月から、国家試験の問題作成に当たる歯科医師試験委員62人の1人として、補綴学の問題を担当していた。
 鶴見大は、大学ぐるみの犯行を否定したが、国家試験前日の「国家試験壮行会」は大学主催だった。さらに大学当局が会費を徴収しており、大学の関与が強く疑われた。
 花村教授は、「多くの学生を合格させたかった」と動機の一部を供述、神奈川県警は歯科医師国家試験漏洩事件として捜査を開始した。
 平成4年1月16日の深夜、神奈川県警は鶴見大の花村典之教授を歯科医師法違反(守秘義務違反)の疑いで逮捕。花村教授は「国家試験壮行会」で、受験予定者に試験問題を漏らした容疑を大筋で認め、漏洩は自分の判断で決めたと述べた。鶴見大は、3月31日付で花村教授を懲戒解雇処分とした。
 横浜地裁の公判で花村教授は起訴事実を全面的に認め、荒木友雄裁判長は「国家試験の意義を失わせ、国家試験への国民の信頼を失墜させた。私利私欲ではないにしても責任は重い」として、懲役10月、執行猶予2年(求刑、懲役10月)を言い渡した。また厚生省の医道審議会(森亘会長)は、花村教授に歯科医業停止3年の処分を下した。
 なおこの事件で、鶴見大の歯科医師国家試験の合格者をどうするかが議論された。しかし漏洩がどれだけ有利に働いたかの立証が困難なことから、鶴見大合格者の取り消しは行われなかった。
 このように鶴見大で歯科医師国家試験の漏洩(ろうえい)が発覚したが、医師国家試験に絡む不祥事は、これが初めてではない。昭和48年には、東京女子医大教授が医師法違反容疑で書類送検された事件があった。耳鼻咽喉科の試験委員であった女子医大教授が、学内向けに作った問題集の一部を国家試験に出題。さらにその問題集のコピーが他の医科大の受験生に出回っていた。
 また昭和56年には、山口大医学部の卒業試験と国家試験問題が類似していたことが発覚している。厚生省は不祥事防止のために昭和59年秋の国家試験から、試験委員名を非公開とした。平成元年春の医師国家試験では受験者の替え玉受験があった。しかし、鶴見大の歯科医師国家試験漏洩事件のように約140人もの受験生に問題を漏らした例はなく、厚生省のショックは大きかった。
 ところで全国の歯学部学生の間では、「国家試験の問題が事前に漏れるのは当たり前」との認識があった。国家試験の直前になると、それらしい予想問題と解答が全国レベルで飛び回った。そのため、今回の鶴見大の事件は、これまでの悪しき風潮への警鐘となった。
 平成12年3月、奥羽大(福島県郡山市)の卒業試験の一部が、2年間にわたり国家試験の一部と酷似していることが発覚。この事件発覚のきっかけは、予備校生を名乗る2人の学生の告発によるものであった。告発の動機は「現役の大学生には多くの問題が漏れているのに、予備校生には一部しか漏れていない」との不満によるものだった。しかしこの告発は「現役の大学生は1万円を盗んだのに、自分たちは5000円しか盗んでいない」というのと同じ不純な内容だった。当時、国家試験の問題を作る委員は73人で、作成委員はメモを取ることも、持ち出すことも禁じられていた。そのため委員たちは、事前に漏れることなど考えられないと漏洩を否定した。しかし犯人捜しの結果、奥羽大の3人の教授が、国家試験委員の他大学の2人の教授から試験内容を聞き出し、予想問題を作っていたことがわかった。奥羽大は「教授の行為は情報収集の範囲内で漏洩ではない」と疑惑を否定した。奥羽大は、厚生省の疑惑解明に非協力的であっため、十分な解明がなされず、奥羽大が前年度の補助金約4億1800万円を辞退しただけだった。
 私立歯科大学にとって、歯科医師国家試験の合格率は、入学志願者数に大きな影響があった。合格率が高ければ優秀な学生が集まり、低ければ志願者が減り、さらに合格率が70%を割ると、文部省から大学運営補助金が取り消された。大学当局にとって、国家試験の合格率はそれこそ死活問題であった。

 MMRワクチンの中止 平成5年(1993年)
 平成5年4月、厚生省はそれまで行っていたMMRワクチンの接種を中止した。平成元年4月の導入から丸4年を経ていたが、ようやく重い腰を上げた。
 ワクチンは伝染病の予防に用いられるが、1種類のワクチンは1種類の病原体にのみ効果を示す。もし複数のワクチンを混合して1回の接種で済ませることができれば、接種者の負担は少なく、接種率も高くなることが当然期待された。
 そのため混合ワクチンが開発され、昭和39年からジフテリア(Diphtheria)、百日せき(Pertussis)、破傷風(Tetanus)のDPTワクチンがすでに使用されていた。
 平成元年4月から、厚生省はDPTワクチンに加え、麻疹(はしか)、おたふく風邪、風疹の3種類の混合ワクチンを、生後18カ月〜3歳の乳幼児に接種を実施するとした。この新しい混合ワクチンは、麻疹(Measles)、おたふく風邪(Mumps)、風疹(Rubella)の英語の頭文字を取って、MMRワクチンと命名された。その当時、麻疹と風疹は義務接種であったが、おたふく風邪は任意接種であった。
 厚生省はこの3種混合ワクチンの導入により、3つの伝染病を一気に駆逐しようとした。一石三鳥のMMRワクチンは、多くの先進国で実施されていて、日本でも安全に行われると信じられていた。厚生省は「米国ではMMRワクチンは20年前から行われているが、副作用の報告は極めて少ない」と安全性を強調した。確かに、米国では昭和46年に接種が始まって以来、副作用の報告はまれであった。
 しかし、それは米国で製造されたワクチンだったからである。米国で製造されたワクチンを日本でも使用していれば、米国と同様に重篤な副作用はなかったはずである。ところが厚生省の諮問機関である中央薬事審議会は、MMRワクチンに「北里研究所の麻疹ワクチン、阪大微生物病研究会のおたふく風邪ワクチン、武田薬品工業の風疹ワクチン」を混合する方式を採用した。数あるワクチンの中から、この組み合わせを最良として導入したのだが、これが最悪であった。
 MMRワクチン接種が始まると、前橋市医師会は高熱などの無菌性髄膜炎の症状を示す乳幼児が多いことに気付いた。無菌性髄膜炎とは、高熱、嘔吐、頭痛などの髄膜炎症状を示す一方で、髄液検査は単核球優位の細胞増加があり、細菌性髄膜炎を否定できるものである。
 前橋市医師会は追跡調査を行い、「MMRワクチンによる無菌性髄膜炎の発症頻度は184人に1人」と発表した。そして前橋市医師会は、接種開始から2カ月後の平成元年6月、独自の判断で接種を中止した。
 その3カ月後の9月19日、厚生省は「MMRワクチンによる無菌性髄膜炎の頻度は、10万人から20万人に1人で、後遺症を残すほどではない」と前橋市医師会の報告を否定するコメントを出し、各市町村にワクチン接種の推進を求めた。
 ところが、その1カ月後の10月25日、厚生省は方向を変え、「無菌性髄膜炎の頻度は数千人から3万人に1人で、地域によって頻度にばらつきがあるので、MMRの接種は慎重に行うように」と通知を出したのだった。そのため、接種を実施する市町村と、実施しない市町村に分かれることになった。
 平成元年4月に始まったMMRワクチンの副作用が表面化する中、厚生省は同年12月28日、各都道府県に対し「保護者からの申し出がある時に限りMMRワクチンを接種するように」との通知を出した。この通知は、「ワクチンの危険性は高いが、保護者が希望すれば危険なものでも接種してよい」とする厚生省の責任逃れの指導であった。つまり、「国の強制接種で副作用が出れば国の責任になるが、親の希望で接種すれば親の責任になる」との考えで、厚生省の賠償金から逃れるための無責任行政であった。強制接種から希望接種への転換は、ワクチン行政の歴史的転換となった。
 結局、平成元年から4年間で約180万人がMMRワクチンの接種を受け、1800人の子供が無菌性髄膜炎を発症し、重度脳障害、難聴などの被害を出し、5人が死亡した。 MMRワクチンの接種を受けた子供1000人に1人の副作用は、ほかのワクチンでは例がないほど高い頻度であった。
 欧米ではMMRワクチンの安全性は高いとされていたが、日本の無菌性髄膜炎の副作用頻度は欧米の約1000倍だった。なぜ日本でMMRワクチンの副作用が相次いだのか。それは阪大微生物病研究会が作成したおたふく風邪ワクチン(占部株)が原因であった。
 占部株は、昭和56年におたふく風邪ワクチンとして使用され、昭和63年までに54人が無菌性髄膜炎の副作用を起こしていた。それにもかかわらず、厚生省は10年近くもおたふく風邪ワクチンとして占部株を使用し、占部株を最良のものとして、MMRワクチンに導入したのである。平成元年のMMRワクチン導入時点で、占部株を用いたMMRワクチンの欠陥は明らかだった。日本小児学会は、副作用の少ない米国のMMRワクチンの輸入を厚生省に提案していたほどである。また占部株を日本から輸入していたドイツ、英国、カナダでは副作用が多いため、日本がMMRワクチンを導入する前に接種を中止し、ワクチンを回収していた。厚生省はそれを知っていながら占部株を採用したのだった。
 米国で使われているMMRワクチンはメルク社が開発したもので、20年以上使用され、その副作用は100万人に1人程度と極めて低い。このことから米ロサンゼルス・タイムズ紙は、「日本はなぜ、安全性の高い米国製品を使わなかったのか」と日本の医療行政を批判している。
 この占部株の副作用を証明するかのように、MMRワクチン接種後に無菌性髄膜炎を起こした患者から、「おたふく風邪ウイルス」が分離され、国立予防衛生研究所(現国立感染症研究所)は、分離した全ウイルスが阪大微研のおたふく風邪ウイルスであるとした。
 平成5年3月には、第3者がワクチン接種者から感染を受ける事例が報告された。MMRワクチンは生ワクチンなので、接種した乳幼児から接種を受けていない第3者に感染しても不思議ではなかった。しかしワクチンとしてあるまじきことである。
 平成5年4月、厚生省は接種導入から丸4年目にMMRワクチンの中止を決定した。なお正確には、厚生省は中止といわず、「当面の間、接種を見合わせる」と表現した。この表現は、厚労省はMMRワクチンの欠陥を認めていないことを意味していた。
 MMRの副作用は、開始直後からみられており、すぐにMMRワクチンを中止していれば、被害は最小限に抑えられたはずである。厚生省の対応の遅れは、ワクチン行政への国民の不信をもたらした。国民の健康よりも責任回避、保身体質の厚生省がワクチン行政を湾曲させた。
 平成5年5月18日、MMRワクチンの副作用の件で、阪大微生物病研究会に厚生省の立ち入り調査が行われ、その結果、阪大微研は厚生省の承認を得た培養法と違う方法で、おたふく風邪ワクチン(占部株)を製造していたことがわかった。
 厚生省に申告していたのは、ニワトリの胚細胞を培養する方法であったが、実際にはニワトリの卵の羊膜で培養したワクチンと、胚細胞で培養したワクチンを混合させていた。この製造法が副作用を起こしたかどうかは不明であるが、厚生省が承認した方法とは違う方法で製造されていた。
 予防接種は感染予防のため、社会的防衛のためであるが、予防効果と副作用の危険性を比べ、危険性が高ければ当然中止すべきである。予防接種は、国家が半強制的に健康な乳幼児に接種するので、安全性は何よりも優先させなければいけない。
 おたふく風邪は、生命への危険性が低い疾患で、最初からおたふく風邪ワクチンにこだわる必要はなかった。占部株の副作用のためMMRワクチンが中止され、生命の危険を伴う麻疹、子供の奇形を防止する風疹のワクチンまで接種率が低下したことは、MMRワクチンの副作用以上に大きな問題であった。
 MMRワクチン禍の認定患者第1号となったのは、1歳6カ月でワクチンを受け、約2週間後に湿疹と40度の発熱で10日間入院し、聴力障害を引き起こした幼児であった。公衆衛生審議会は「因果関係が完全に否定されない以上、広く救済対象とすべき」と見解を示した。このように予防接種健康被害救済給付制度の認定を受けた被害者は1065人に上った。
 平成15年3月、MMR接種訴訟の判決が大阪地裁であった。この訴訟ではMMRワクチン接種で死亡し、重度の障害を残した子供3人の家族が、国と阪大微研に総額3億5000万円の損害賠償を求めていた。吉川慎一裁判長は、被害児2人について接種との因果関係を認定し、「阪大微研は製造方法を無断で変更し、それが重篤な結果を起こすことを予見できたはず。国は薬事法を順守するよう阪大微研に指導する義務があった」と述べ、2家族に約1億5500万円の賠償を命じた。
 ところで、英国でMMRワクチンが自閉症を誘発しているとの研究が発表され、平成14年2月3日にBBC放送がこのことを放映すると、MMRワクチンの存続をめぐる議論が起こった。しかし英国のブレア首相は「日本はMMRワクチンを中止したため、麻疹による死者が平成6年からの5年間で85人に及んだ」と日本の失敗例を持ち出し、MMRワクチンの存続を訴えた。さらに「MMRワクチンは世界90カ国で5億人が接種している」とその安全性を強調した。
 厚生省が平成5年4月に副作用のあったMMRワクチンの義務接種を中止したことから、その後、麻疹ワクチンと風疹ワクチンは個別接種となった。そのため、接種率が低下し、麻疹の散発的流行がみられることになり、日本は「麻疹の輸出国」との汚名を受けることになった。
 平成18年4月1日から、麻疹と風疹の混合ワクチン(MRワクチン)が公費負担の接種となった。先進国で麻疹はほとんどみられないが、それはワクチンの接種率が高まり、2回接種が徹底させたからである。そのため日本でも同年6月から2回接種が導入され、1回目は1歳の誕生日前日から2歳の誕生日まで、2回目は小学校入学前1年間となった。
 一方、米国の米国食品医薬品局(FDA)はMMRワクチンに水痘・帯状疱疹(varicella-zoster)ワクチンを加えたMMRVワクチンを認可し、平成8年より接種を開始している。日本のワクチン行政が世界標準から大きく後れを取ったのは、MMRワクチンの副作用よりも、厚生省の副作用への対応の悪さによると思われる。

 ヘリコバクター・ピロリ菌 平成5年(1993年)
 平成5年、世界保健機関(WHO)の外部組織である国際がん研究機関(IARC)が、ヘリコバクター・ピロリ菌を発がん性クラス1に分類した。ヘリコバクター・ピロリ菌と胃がんとの関係が完全に解明されたわけではないが、発がん性クラス1は「ヒトに対して発がん性が確認されている87種類の物質のこと」である。
 ところでピロリ菌が最初に注目されたのは胃潰瘍との関係だった。胃潰瘍は、胃酸過多やストレスが原因とされていたが、昭和50年代後半からピロリ菌の関与が注目された。ピロリ菌が難治性の胃潰瘍の原因とされ、抗生剤でピロリ菌を取り除けば、胃潰瘍の再発率が大幅に減じることが分かったのである。それまでは細菌感染によって胃潰瘍が生じるという発想がなかった。胃は強酸の胃液を出しているので、細菌が住めるはずはないと思い込んでいた。
 昭和54年、オーストラリアのロイヤル・パース病院の病理専門医、ロビン・ウォーレン(32)によってピロリ菌が発見された。ウォーレンが慢性活動性胃炎患者の胃粘膜に、らせん状のピロリ菌を発見、ピロリ菌は通常のヘマトキシリン・エオジン染色では染まりにくいため、長い間見逃されていた。ウォーレンは鍍銀(とぎん)染色によって、胃炎周辺にピロリ菌が多数いることを見出したが、当時、この菌が胃潰瘍の原因になるとは思っていなかった。
 昭和56年、内科研修医のバリー・マーシャルが、ウォーレンのピロリ菌の研究を手伝うことになった。その研究の過程で、ピロリ菌は単に胃に住みついているだけでなく、毒素をだして胃粘膜を傷つけ、胃炎や胃潰瘍を起こしていると考えるようになった。
 そのため、胃炎患者の承諾を得て、抗生物質のテトラサイクリンを2週間投与したところ、腹痛の症状と内視鏡所見が改善した。しかしピロリ菌と胃潰瘍の関係を証明することは困難であった。ある細菌がある病気の原因であると証明するには、コッホの4原則が必要だった。コッホの4原則とは、1.その病気のすべての患者にその細菌がいること2.その細菌はほかの病気の患者にはみられないこと3.患者から分離した細菌を別人に投与すると同じ病態が現れること4.同じ病気を起こした別の個体からも同じ細菌が証明できること、の4条件を満たさなければならなかった。
 ウォーレンとマーシャルは、ピロリ菌の分離培養を繰り返したが、すべて失敗していた。しかし、昭和57年4月14日に幸運が訪れた。それはイースター(復活祭)で4日間の休暇となったため、細菌が5日間培養されたままになり、その結果、細菌が増殖したのだった。通常の細菌は2日間で増殖するため、それ以上の長期培養を行っていなかったのである。
 5日間の培養で姿を現した細菌を調べると、まさにこれまで報告されていなかった細菌であった。昭和59年、ウォーレンとマーシャルは、「胃炎と消化性潰瘍患者にみられる未確認の湾曲した細菌について」の論文を英国の医学誌「ランセット」に発表。その論文で、彼らは十二指腸潰瘍で100%、胃潰瘍で77%、胃炎で55%に、この菌が見いだし、さらに抗生剤で除菌が可能とした。
 ヘリコバクター・ピロリ菌(Helicobacter pylori)のヘリコはヘリコプターのヘリコと同じギリシャ語の「らせん」を、バクターは「バクテリア」(細菌)を意味していた。ピロリは胃の「幽門」(出口)を示し、この菌が胃の幽門近くから多く見つかったことに由来している。
 強酸の胃の中では通常の菌は生存できないが、ピロリ菌は例外であった。ピロリ菌はウレアーゼという酵素を産生し、この酵素が胃の中でアンモニアをつくり胃酸を中和していた。ピロリ菌は自分の周囲だけを中性にして、強酸の胃の中で生きていたのだった。またピロリ菌はべん毛を持ち、べん毛を回転させて移動することができた。胃の中は部位によって酸度が違うので、ピロリ菌は酸度の低い部位に移動しながら生活していた。
 昭和59年7月、マーシャルは培養したピロリ菌を自ら飲む実験を行い、その結果、1週間後に腹痛を感じ、10日後の内視鏡検査でピロリ菌と急性胃炎を見いだした。同じようにウォーレンもピロリ菌を飲み、5日目に胃の組織からピロリ菌を検出し、慢性胃炎を確認した。2人はピロリ菌の功績で、平成17年度のノーベル医学生理賞を受賞している。
 彼らの人体実験が証明したように、ピロリ菌は経口感染し、さらに歯垢(しこう)、唾液、便からもピロリ菌が検出され、感染ルートは意外に多いことがわかった。ピロリ菌が発見されるまで、内視鏡で正常といわれた健康人が、1週間後に胃潰瘍で入院することがあった。当時は、内視鏡を行った医師が胃潰瘍を見逃したとされたが、それは内視鏡に付着したピロリ菌が健康人に感染したからであった。
 その後の追跡調査により、内視鏡によるピロリ菌の感染率は4割とされている。ピロリ菌の感染が知られるようになり、内視鏡はきちんと消毒されるようになった。
 ピロリ菌の感染率は国によって差がある。日本では50歳以上の成人の感染率は約70%で、小児で10%。全体では5割程度の人が感染している。おしなべて、先進国での感染率は20〜30%、発展途上国は約80%とされている。
 日本で高齢者の感染率が高いのは、かつて日本の衛生状態が悪かったからとされている。さらに一度感染すると、長期間住み続けるためである。ただ、日本人全体の約50%が感染しているのに、胃潰瘍を発病するのがごく一部であることが、ピロリ菌の謎とされている。体質の違い、菌株の違いなどの関与が推測されている。
 ピロリ菌が胃潰瘍を起こすメカニズムとして、ピロリ菌が出す毒素によって粘液細胞の中にすき間ができる「空胞化毒素説」。ピロリ菌の出すアンモニアが直接粘膜を傷つける「アンモニア説」。ピロリ菌の感染によって集まってきた好中球が活性酸素を出して粘膜を破壊する「活性酸素説」。ピロリ菌が直接粘液細胞を壊してしまう「粘液細胞直接障害説」などがある。もちろん、これらのメカニズムが複合的に作用している可能性が高い。
 現在ピロリ菌感染の有無は、内視鏡で胃の組織を直接調べる検査、内視鏡をしない検査(迅速ウレアーゼ試験、血清抗体法、尿素呼気試験など)によって調べられる。
 平成12年11月、胃潰瘍と十二指腸潰瘍について、ピロリ菌の除菌が保険で認められ、再発を繰り返す難治性潰瘍の改善がみられている。ピロリ菌の除去は、制酸剤と抗生物質の同時投与が用いられ、制酸剤(プロトンポンプ阻害剤)は胃液の酸性度を下げ抗菌薬が効きやすい環境をつくるためである。制酸剤としてランソプラゾール、抗生物質としてアモキシシリンとクラリスロマイシンの組み合わせが一般的である。
 3剤併用療法による除菌率はおよそ70〜90%で、残りは除菌できないが、除菌できないのは耐性菌の存在が考えられている。国内の臨床試験では、除菌者の1年後の胃潰瘍再発率は2割未満、非除菌者の再発率は約7割である。
 ピロリ菌は世界中で研究が進められ、最近ではピロリ菌と胃がんの関係が浮かび上がっている。その関係は、たばこと肺がん、C型肝炎ウイルスと肝がんと同じように位置付けられ、国際がん研究機関(IARC)はピロリ菌を発がん物質と認めている。
 ピロリ菌感染者が胃がんになる率は非感染者の6倍とされ、ピロリ菌によって慢性胃炎が萎縮性胃炎になり、萎縮性胃炎が胃がんを誘発するためとされている。ピロリ菌の除菌が胃がん予防になるかどうかはまだ不明であるが、可能性はないとはいえない。
 ピロリ菌が発見されたのは約30年前だが、1万年以上も前から人間と共生していたことが分かっている。ニューヨーク大の研究チームが、欧米人と南米先住民のピロリ菌の遺伝子を比較し、その解析からピロリ菌は1万1000年前のヒトに存在していたとしている。ピロリ菌は昔からヒトの胃の中で暮らし、ヒトとともに移動し、共存していた。人類にとって古い友だちである。

安部公房の死  平成5年(1993年)
 平成5年1月22日、東京大医学部卒で作家の安部公房(あべ・こうぼう)が急性心不全のため東京都多摩市の日本医科大多摩永山病院で亡くなった。安部公房は、その前年の12月25日、脳出血で倒れ、自宅で療養していた。享年68。
 大正13年3月7日、安部公房は東京府北豊島郡滝野川町(現・東京都北区)で生まれた。父親が満州医大に勤務していたため、1歳のときに満州に渡り、奉天(現在の瀋陽)で育った。同市の小中学校に通いながら、家ではポーやドストエフスキーの小説を熱心に読んでいだ。清朝滅亡後の無政府状態に近い満州で過ごしたことが、それまでの日本の伝統的小説とは異なった作風をもたらした。
 昭和15年に奉天第二中学校を卒業すると、帰国して旧制成城高等学校(現・成城大)で学び、昭和18年10月に東京帝国大医学部に入学。高校、大学では、軍事教練に嫌悪感を覚えながら、ニーチェ、ハイデガー、リルケなどを読み、文学への志向を強めていた。
 昭和19年の20歳のとき、文科系学生の学徒出陣を見て、医学生もいずれ出陣することになると考え、「重度の肺結核」と偽の診断書をつくり大学を休学。父親がいる満州の奉天に帰り、そこで終戦を迎えた。
 当時、奉天では発疹チフスが流行していて、開業医として治療に当たっていた父親は、終戦直後に発疹チフスで病死。昭和21年、引き揚げ船で帰国すると、安部公房は北海道の祖父のもとに身を寄せた。その後、昭和22年に東大に復学し、同年、女子美術専門学校(現、女子美術大)の山田真知子と学生結婚。このころから小説を書き始め、処女長編「粘土塀」を成城高校時代の恩師阿部六郎に持ち込んでいる。
 阿部六郎が「粘土塀」を評論家の埴谷雄高に紹介し、翌23年2月の月刊誌「個性」に掲載された。安部公房が本格的に文学活動を始めたのは、これ以降のことで、同年、医学部を卒業したが医師国家試験で不合格となると、医師への道を絶っている。
 昭和25年、「赤い繭」を発表し、その年の第2回戦後文学賞を受賞するとともに、新人作家として高く評価された。昭和26年には「壁—S・カルマ氏の犯罪」で第25回芥川賞を受賞し、多くの読者を得た。昭和29年に「飢餓同盟」、昭和32年に「けものたちは故郷をめざす」を書き、戦後文学の代表的作家となった。
 昭和37年に、「砂の女」で第14回読売文学賞を受賞。「砂の女」は、砂に埋もれた集落の一軒家に閉じ込められた男が、そこから脱出しようとする孤独な戦いを描いた小説である。戦後の前衛文学の代表として高い評価を受け、23カ国で翻訳され、フランスでは最優秀外国文学賞を受賞した。さらに映画化(岸田今日子主演、勅使河原宏監督)され、昭和39年の第17回カンヌ映画祭では審査員特別賞を受賞している。その後、昭和42年に「人間そっくり」、昭和47年に「棒になった男」、昭和48年に「箱男」を書いた。
 安部公房の小説は、ストーリーを楽しむよりも、戦後世界の疎外感と自由を問うものであった。彼の小説は難解とされるが、それは小説にストーリーを求める日本人の癖によるもので、現実を越えた内容が多いが、読みにくいことはない。
 人間の生死、政治的不安、人間存在の不安、安部はこのような不安定な存在をテーマにしていた。疎外された現実を混沌(こんとん)の中で認識させる知的な世界で、個人の存在を、自らの困惑、揺れる感情、ふらつく思考の中で展開させ、認識させるものである。安部公房の本を持っているだけで、知的なイメージがあった。
 安部公房の作品は国際的に高く評価され、日本よりも海外で有名であった。川端康成、三島由紀夫、大江健三郎などの作家も海外では有名だが、彼らは日本文学の枠の中にあったが、安部公房の世界は国際的であり、彼の作品は世界的レベルで読まれていた。
 安部公房の文学は、「カフカ」に匹敵すると評価され、特にフランス、ロシアで高い評価を得て、ノーベル賞候補にも挙げられていた。医学部を卒業した作家の中で、彼ほどの有名人はいないが、その安部公房も時代とともに忘れ去られようとしている。

逸見アナのがん闘病宣言 平成5年(1993年)
 フジテレビのアナウンサーだった逸見政孝さんは、アナウンサーの枠を超え、バラエティー番組やクイズ番組などで華々しく活躍していた。穏やかな人柄が人々の共感を呼び、レギュラー番組を6本抱え人気絶頂の時期にあった。だが、逸見さんのテレビに映る姿が、この数カ月、急にやせてきたことを多くの視聴者が感じていた。
 平成5年9月6日、国民的人気者である逸見さんがテレビを通して記者会見を行い、自分が胃がんであることを告白した。逸見さんは、自分の病状の経過を次のように説明した。
 本年1月の胃の検査で胃がんが見つかり告知を受けた。対外的には十二指腸潰瘍として、東京の前田外科病院で手術を受け、仕事に復帰した。しかし7月頃、上腹部にしこりを感じ、再検査の結果、小鶏卵大の腫瘍が見つかった。それは胃がんの転移で、8月12日に摘出術を受けた。さらに9月3日の再検査で、腹膜と内腹壁にがんが見つかり、がんは腸に癒着していて、放置すれば数カ月の命との説明を受けた。
 逸見政孝さんは、記者会見で時折笑みを見せながら、最後に「がんと戦う人たちを勇気づけるためにも、必ず生還します」と述べた。それはがんの告白と同時に、がんへの闘病宣言であった。
 記者会見で闘病宣言をすれば、後へは戻れない。泣き言もいえず、国民を個人的な病気に巻き込めば、自分の意志を変えることはできない。このように、自分の弱い気持ちを強めるため、自分を追い込んだものと思われる。
 記者会見では穏やかな態度だったが、「死に直結するがんの悲劇」を国民にみせ、悲劇を克服する意思を演出した。NHK以外のマスコミは、この闘病宣言を大きく取り上げ、テレビのワイドショーや新聞、雑誌は「勇気ある姿に感動」などと連日のように報道した。私生活はもちろんのこと、病気と家族愛を結び付ける過剰な報道により、逸見さんの闘病生活は国民的話題になった。
 タレントは、常に視聴者を意識している。彼の記者会見の真意は、単なる思い上がった演出と思える。前田外科病院は、逸見さんの胃がんの再手術は無理と判断、放射線治療を勧めていた。しかし逸見さんは承知せず、東京女子医大病院で再手術を受けることを決意した。
 9月16日、東京女子医大病院で13時間にわたる手術が行われ、重さ3kgにも及ぶ臓器が摘出された。術後1カ月の経過は良好で、マスコミは廊下を何メートル歩いたとか、何を食べたとか、逐一報道した。逸見さんは「抗がん剤の治療に備えて、体力をつけることが私に課せられた仕事である」と宣言した。
 逸見政孝さんの所属事務所は、抗がん剤治療が終了すれば退院できること、年末年始は自宅で過ごすと発表した。しかし11月、抗がん剤の治療を始めた直後から、食事がのどを通らなくなり、体力が落ちていった。12月に入ると、微熱などが出て病状は悪化。そして12月24日、容体が急変し、逸見さんは翌25日に48歳の若さで死去した。闘病宣言から100余日の壮絶な戦いであった。逸見政孝さんの死後、多くの追悼番組が放映され、通夜の翌日には、遺体を乗せた霊柩車がテレビ各局を回り、放送局の社員が玄関前で逸見さんを見送った。
 そしてその後、「逸見さんのがんは腹膜に転移していて治療は困難で、手術によって余命を縮めてしまった」とするコメントが目立つようになった。逸見政孝の死を早めたとして東京女子医大病院への非難がせきを切ったように出はじめた。逸見さんは前田外科病院で2度、その後、東京女子医大病院で再手術を受けたが、「発見時から悪性の進行がんで腹膜にも転移していたのに、なぜ手術をしたのか」、「本人に病状を正確に伝えていたのか」などと勝手な意見が繰り返された。
 前田外科病院の前田昭二院長は「逸見さんは毎年胃の検診を受け、平成5年1月の内視鏡検査で初めて胃がんが見つかった。胃がんのタイプはボールマン4型と呼ばれるもので、胃がんの中でも進行の極めて速いものであった」と述べた。
 ボールマン4型とは、ドイツの外科医ボールマンが胃がんの形状によって分類した進行がんの1つで、胃が硬く委縮することから、スキルス(硬性)胃がんと呼ばれていた。
 通常の胃がんは、胃の粘膜表面に大きな隆起や陥没をつくるため、エックス線や内視鏡によって早期発見が可能である。だがボールマン4型は、がん細胞が胃壁内に潜り込むように進行するため、早期発見は困難であった。つまり、スキルスは見つかりにくく、発見されたときには手遅れのことが多かった。
 スキルスは、胃がん全体の数%の頻度で、若い女性に比較的多くみられた。治療は手術と抗がん剤投与の組み合わせであるが、5年生存率は10%台と低い。昭和63年9月に、女性タレントの堀江しのぶさん(23)の命を奪ったのもこのスキルスだった。
 前田院長によると、本人にはがんを告知し、2月4日に1回目の手術を行った。胃の5分の4を切除し、見える範囲の腫瘍はすべて取り除いた。さらに7月、みぞおちに小鶏卵大のしこりが見つかり、8月12日に2度目の手術を行った。しかし全部を取り切れないと判断、直径3cmほどの腫瘍を取っただけで腹部を縫合、その後は放射線治療を行う予定だった。
 前田院長は、がんの再々手術はむしろ命を縮めるとしたが、逸見さんは3度目の手術に賭け、東京女子医大で手術を受けることを希望した。東京女子医大で行われた手術は、膵臓の半分、脾臓や大腸の一部など3kgの内臓を切除するものだった。
 前田院長は「女子医大の手術は意味があったとは思えない」と批判的な発言をした。この発言に対し、女子医大の執刀医・羽生富士夫教授は「末期がんに対し、外科医は無力ではあるが、ほかに治療法もないぎりぎりの決断だった」と述べた。
 がんによる死亡は、昭和56年に日本人の死因の第1位となり、毎年数千人の割合で増え続けている。日本人の3割ががんで死亡しており、有名人である逸見さんが48歳の若さで亡くなったことで、世間の人々にとってがんの治療法についての関心が高まった。
 逸見さんの死をきっかけに、がん手術の是非が話題になった。しかしながら、がんの治療がうまくいく、うまくいかないのは運命的な結果である。うまくいけば、医師は感謝され英雄となるが、駄目な場合には非難され。逸見さんの手術がうまくいく可能性は極めて少なかったが、成功の可能性はゼロではなかった。
 羽生教授は、がんの治療の可能性や手術の成功率などをすべて逸見さんに話していた。逸見さんは、早稲田大文学部演劇科卒の教養のある文化人で、納得できない説明では、手術など受けるはずはなかった。逸見さんの意思を尊重して、羽生教授は手術を行ったはずで、実情を知らない第三者が、その場にいなかった者が、手術を非難するのはおかしな話である。
 マスコミは前田院長と羽生教授への賛同、非難を繰り返し、さらに前田外科病院の手術で取り残しがあったから死亡したとの報道もあり、遺族を巻き込んでの醜い論争は泥沼化していった。
 前田院長は医学的常識から再手術を勧めなかった。一方の女子医大の羽生教授は、他に方法がないから手術を勧めた。結果的に女子医大の手術はうまくいかなかったが、もし女子医大の手術が成功していれば、医学の常識が変わっていたであろう。つまり「がんの治療が、医師の考えや手術の腕によって決定するという幻想」を国民に持たせてしまうことになったであろう。
 がんの闘病宣言という個人的プライバシーの公表は自由であるが、闘病宣言によって治らないがんが治るわけではない。「がんの治療が精神的なもので左右される」と、逸見さんも国民も勘違いしていたのであろう。
 がんは、治るがんもあるが、治らないがんは治らないのである。患者の気力を充実させ、自己免疫(抵抗力)を高めるとの理屈はあるが、「がんと闘う」という個人的なことを美談としてマスコミが取り上げ、がんに負けるとその敗因を論評するのは見苦しいことである。逸見さんの死は残念であるが、マスコミビジネスに利用された単なる商品だったと思える。本人も多分そのことを分かっていたと思う。

看護師インスリン殺人事 平成5年(1993年)
 平成5年2月2日、山口県警徳山署は住職・安峯又茂さん(47)を殺害したとして、看護師・林多美子(31)を逮捕した。安峯さんは岩国市の大師院と田布施町の無量寺の住職で、2つの寺の信者から相談事を受け祈祷などを行っていた。安峯さんは1月21日から行方が分からず、家族から捜索願が出されていた。
 徳山署が交遊関係から看護師・林多美子を調べたところ殺害を自供。2人の関係は、林多美子が安峯さんの寺を訪ね、相談事をしたことがきっかけだった。安峯さんが林多美子のアパートの保証人になり、多美子は柳井市内の病院に就職。やがて安峯は多美子の私生活を監視するようになり、預金通帳やキャッシュカードを取り上げ、「お前の行動は、透視力ですべて分かっている」と脅していた。その結果、追い詰められた多美子が殺害を計画したのだった。
 1月21日午後8時半頃、多美子はアパートを訪ねて来た安峯さんに睡眠薬入りの麦茶を飲ませ、病院から持ち出した糖尿病の治療薬インスリンを注射した。そのため安峯は低血糖で死亡した。多美子は遺体を資材置き場に運ぶと、タイヤ6本を集め、遺体にガソリンをかけて火をつけた。
 平成5年7月24日、山口地裁は「犯行は事前に睡眠薬やインスリンを持ち出すなど計画的であるが、被告を追い込んだのは被害者である」として懲役7年の判決を言い渡した。男女間の殺人事件では、保険金目当ての計画的殺人は別として、感情のもつれが動機になることが多い。殺害に至るまでの感情は、本人にしか分からないが、相手を愛していれば、愛する者を殺害するのは矛盾している。憎悪が動機であれば、自分は加害者として人生を棒に振ることになる。冷静に考えれば、殺害で得ることは何もないが、追い詰められて混乱し、ノイローゼ状態にヒステリックな行動が重なったのであろう。
 糖尿病の治療薬であるインスリンが殺人に使われたのは、この事件が日本で初めてのことである。インスリンは人の命を救うために開発されたが、人の命を奪うことも簡単なのである。インスリン殺人事件の犯人は、医療知識を持つ看護師であることが多い。
 平成10年、福岡県久留米市で日本中を戦慄(せんりつ)させた「看護師仲間4人による連続保険金殺人事件」が発生したが、この事件でもインスリンが使用されている。
 平成10年1月24日、吉田純子、堤美由紀、池上和子の3看護師が、池上の夫・平田栄治さん(39)の静脈に空気を注射して殺害。保険金約3500万円をだまし取った。平成11年3月27日には、石井ヒト美看護師を加えた4人が石井の夫・久門剛さん(44)の鼻から胃にチューブを入れ、大量のウイスキーを流し込んで殺害、保険金約3300万円を詐取。さらに平成12年5月29日には堤を除く3人が、堤の母親にインスリンを注射して殺害しようとしたが、抵抗され未遂に終わっている。
 平成18年5月、福岡高裁は、「異常な金銭欲に基づく冷血非情な犯行で、まさに白衣の殺人鬼」として、吉田に死刑、堤に無期懲役、石井に懲役17年を言い渡した。池上は判決前に病死したため公訴棄却となった。
 平成15年4月8月、埼玉県本庄市でもトレーラーハウス販売業・横田有信さん(55)がインスリンを注射され、ひもで絞殺される事件が起きている。加害者は妻(52)と長女(33)、二女(30)、三女の夫(26)で、横田さんの長年にわたる暴力から逃れるためであった。
 平成16年4月には、千葉県光町(現・横芝光町)で農業・鈴木茂さん(53)が中国出身の妻・鈴木詩織(32)から大量のインスリンを投与され、意識不明の重体となり脳に障害を残した。風俗店の経営者と風俗嬢を兼ねていた詩織は、美容整形に約1000万円をかけ、中国への仕送りもあることから保険金殺人を企てたのである。スポーツ紙は「美人中国人妻が、鬼に変わる時」と報道した。
 平成16年12月には、手形の債権をめぐり、大阪府八尾市の近藤博さん(75)が工場に監禁され、インスリンを打たれて死亡している。平成18年10月、この事件で津地裁は犯人の電気部品製造会社役員(72)に懲役11年、その長男(42)に懲役6年を言い渡した。
 インスリン殺人事件で世界を驚かしたのは、平成元年にオーストラリアの病院で起きた大量殺人事件である。4人の看護師が49人の老人患者にインスリンや睡眠薬を投与して殺害。インスリン投与による殺害のほか、老人の鼻をつまみ、口から水を流し込んで窒息死させたケースもあった。老人が病死する場合、肺水腫をきたすことがあるので、検視でも疑われなかった。人間の生命を守るのが白衣の天使の使命であるが、事件にかかわった4人の看護師は「無駄な治療を省くのが目的だった」と自供し、生命の重さ、犯罪の重大性を感じていなかった。「老人はつまらないことで看護師を呼ぶ、わずらわしくて腹が立った」というのが殺害の動機だった。
 人間の膵臓で分泌されるインスリンは、前駆タンパクであるプロインスリンがインスリンとCペプチドに分解されて分泌される。そのため致死量のインスリンを注射した場合、Cペプチドが異常に低くなる。つまり血糖値とCペプチドを測定すれば、他殺かどうかを見分けることができる。もちろん、それ以前のこととして、不審死と疑うかどうかである。
 殺人とは別に、通常の診療でインスリンの過剰投与により患者を死亡させる医療事故も起きている。平成14年9月24日、三重大病院で脳出血のため入院していた男性患者(64)に、看護師が指示された量の40倍のインスリンを投与して患者が死亡している。この医療事故は、医師(28)がインスリンを1時間当たり4単位(0.1mL)の投与のつもりで、「インスリンを時間4で」と看護師に口頭で指示。看護師は時間4単位を「1時間で4mLの投与」と勘違いして、40倍のインスリンを投与したのだった。
 この医療事故で、津地検は医師と看護師を起訴猶予処分にした。起訴猶予にしたのは、「遺族と国の間で和解が成立していて、医師と看護師は国とは別に遺族に弔慰金を支払っていたこと」がその理由だった。この医療事故では、「口答指示、単位の勘違い」が危険であることの教訓を残した。
 さらにインスリンが自動車事故を起こすことがある。平成12年8月、広島県海田町でトラック運転手(32)が運転中に低血糖から意識障害を起こし、大学生(20)をはねて死亡させた。運転手は糖尿病の治療でインスリンの投与を受けていた。弁護士は「医師の説明はなく、事故の予見は不可能」と無罪を主張し、検察は「過去にも運転中に意識障害を来したことがあり、事故を予見できた」と反論した。同年12月20日、広島地裁の高原章裁判官は、「意識障害に陥る直前に運転を中止するのは困難で、最初から運転をやめるべきだった」として運転手に禁固1年を言い渡した。
 現在の道路交通法では、「精神障害者や知的障害者に免許を与えない」という以前の条項は廃止されているが、意識障害を起こす可能性のある患者については免許交付停止、免許取り消しの規定が設けられている。インスリンの自己注射や、血糖降下剤を内服している患者は、低血糖をきたす可能性があるのでこの規定に相当するが、この規定は申告制なので、ほとんど申告されてないのが現状である。

シックハウス症候群  平成5年(1993年)
 かつての日本の住宅は、夏の高温多湿な気候に備え、風通しの良いつくりになっていた。しかし、昭和48年のオイルショックのころから、省エネのために窓や戸がアルミサッシになり、気密性が高くなった。
 さらに住宅需要が高まり、新築の家は値段の安い新建材や内装材が用いられた。新建材が普及したのは、木目印刷の技術が進歩し、きれいに見えるプリント合板が開発されたからである。新建材は見た目が良く手入れも簡単だった。しかし、この新建材に空気を汚染する化学物質が含まれていた。つまり、室内換気の低下と新建材の採用が、室内化学物質による「シックハウス症候群」を発生させたのである。
 それまでは部屋の空気汚染は石油ストーブから発生する窒素酸化物、ダニ、カビなどであった。また大気汚染という公害にも悩まされていたが、この公害が解決したころから、新建材による室内汚染が生活に忍び込んできた。
 この室内汚染は、日本より先に米国で問題になっていた。米国では省エネのためビル内の換気基準が6分の1に下げられ、そのためにビルの居住者やビジネスマンが健康被害を受けていた。米国ではビル内の20%の人が症状を訴えた場合、その建物は「シックビル症候群」とされた。日本では一般住宅から被害が出たが、米国ではビルが室内汚染物質に侵された。日本ではビルの換気基準は決められていたが、一般住宅には換気基準がなかったからで、つまりシックハウス症候群は和製英語で欧米では通用しない。欧米ではシックビル症候群と呼ばれている。
 シックハウス症候群は新しい現代病で、症状が多彩なため病院に行っても原因が分からず、自律神経失調症や更年期障害と診断され、自宅療養で症状を悪化させることがあった。しかし平成5年頃より、テレビでシックハウス症候群が取り上げられ、被害者たちは自分たちの健康被害の原因を知ることになった。
 シックハウス症候群の症状はさまざまであるが、目がチカチカする刺激症状がもっとも多い。そのほか、粘膜の乾燥感、蕁麻疹、胸部不快感、倦怠感、めまい、耳鳴りなどの体調不良がある。「家から外に出ると症状が改善し、家に入ると症状が悪化する」のが特徴である。症状には個人差はあるが、アレルギー体質の人だけでなく、誰でも発症する可能性があった。
 室内空気汚染物質として約900種類の物質が知られているが、その中でもホルムアルデヒドの被害がもっとも多い。ホルムアルデヒドは剌激臭のある気体で、その水溶液は組織標本をつくるホルマリンとして知られている。ホルムアルデヒドは多くの合板に含まれ、壁や天井の壁紙を張る際の接着剤にも使用されていた。さらに家具、カーテン、カーペット、塗料などにも含まれていた。
 ホルムアルデヒド以外の化学物質としては、塗料に含まれるトルエンやキシレンなどのシンナー類や、防虫シート、シロアリ駆除剤に含まれるクロルピリホスなどがある。このようにさまざまな化学物質が健康被害をもたらした。
 平成7年9月、国立公衆衛生院は「新築住宅の平均ホルムアルデヒド濃度は居間で0.18ppm、食器棚で1.00ppmであった」と公表した。この数値は、WHO(世界保健機関)が示す安全基準値0.08ppmをはるかに超える数値であった。その2年後の平成9年6月、厚生省は遅ればせながら、健康的に住むための住宅の指針として0.08ppm以下とするホルムアルデヒド濃度基準を示した。もっともこの数値は単なる目標値で、この数値を超える新築住宅が多かった。野外のホルムアルデヒド濃度は0.008ppmなので、室内の安全基準値は家外より10倍高い数値である。
 しかし世論の高まりから、建材メーカーは「無ホルムアルデヒド」の接着剤や合板の商品化を急ぎ、平成14年には建築基準法が改正され、ホルムアルデヒドを多く出す建材が禁止され、換気の設置などが義務付けられた。
 シックハウス症候群の予防は、空気汚染物質を発生させないことで、さらに換気を頻回に行うことである。新築の家でも換気をよくすれば、数カ月で症状が消えるのが通常である。窓の開放による自然換気、換気口を利用する積極換気、さらに押入にスノコを入れ空気の循環をよくし、エアコンをドライにして湿度を下げるなどの工夫がある。
 シックハウス症候群は、文字通り「病気の家症候群」であるが、マスコミが競うように健康被害を取り上げ、このことがシックハウス症候群を急速に改善させた。

ソリブジン事件 平成5年(1993年)
 平成5年9月3日、日本商事が開発した帯状疱疹の治療薬「ソリブジン」(製品名:ユースビル錠)が発売され、その発売からわずか2週間後の9月19日、副作用による最初の死亡例が発生した。
 この死亡第1例については、販売提携先のエーザイから翌20日に日本商事へ連絡が入ったが、日本商事が厚生省に報告したのは27日のことであった。厚生省は日本商事に注意文書を配布するよう指示を出したが、日本商事はそれを無視して販売を続けた。10月6日になって次の死亡例が報告されたときには、その対応はすでに後手にまわっていた。ソリブジンは発売からわずか1カ月で23人の被害者を出し、15人が死亡する事件へと発展した。医療現場への危険通知がなかったため、多くの犠牲者を出すことになった。
 ソリブジンは、帯状疱疹に対する新しい治療薬だった。帯状疱疹とは、水痘ウイルス(ヘルペスウイルス)によって生じる皮膚疾患で、皮膚に有痛性の湿疹が帯状に出るのが特徴である。免疫能が低下した患者に出現することが多く、そのため抗がん剤を内服中のがん患者が帯状疱疹を合併することがあった。
 ソリブジンによる死亡例は、がん治療中の患者であった。がん患者に投与されたソリブジンが、抗がん剤(フルオロウラシル系)の薬物相互作用によって、白血球減少の副作用を生じさせた。通常、フルオロウラシル系の抗がん剤は、肝臓で代謝され無毒化されるが、ソリブジンの代謝産物プロモビニルウラシルが抗がん剤の分解を阻害するため、抗がん剤の血中濃度を上昇させたのである。つまり投与された10倍の抗がん剤を飲んだのと同じくらいの作用を起こし、抗がん剤が白血球減少を生じさせた。ソリブジンの被害者は、全例フルオロウラシル系の抗がん剤を内服していた。
 この薬害はソリブジン単独のものではなく、ソリブジンと抗がん剤との組み合わせによるものである。ソリブジンとフルオロウラシル系の抗がん剤の併用投与が危険であることは、発売前からすでに指摘されていて、臨床試験の段階で、抗がん剤を投与されていた4人のうち3人が死亡していたのだった。
 昭和62年12月、京都府立医大で乳がん患者(54)がソリブジン投与10日後に死亡、昭和63年8月には鹿児島大で肺がん患者(76)が死亡、同年10月には東北大で乳がん患者(51)が投与10日後に死亡していた。しかし日本商事が厚生省に報告したのは京都府立医大1例のみで、しかもソリブジンの副作用ではないと報告したのである。治験総括医である新村眞人・慈恵医大教授はこのことについて、大した問題ではないと説明していた。これでは何のための治験なのか分からない。「大した問題ではない」が「巨大な問題」を起こしたのだから、それなりの責任があるはずである。日本では、多くの治験がなされているが、治験総括医は必ずしも学問的に優れた医師ではなく、医学界での政治力を持つ教授が多い。つまり患者の生命よりも、製薬会社の利益誘導が根本にあった。
 ソリブジン類義の抗ウイルス剤「プロモビニルデオキシウリジン」が欧州で研究されていたが、すでに抗がん剤の作用を強めることが分かっていた。こうした危険性を示すデータがありながら、その危険性を隠していた。
 さらに日本商事は、臨床試験で死亡例が出たことから、ラットでの動物実験を行い、抗がん剤との相互作用を調べていた。動物実験ではラット全例が2週後に死亡し、薬剤の相互作用は確実になったが、このことも日本商事は隠していた。ソリブジンは厚生省の新薬審査をパスした新薬であるが、審査を担当した中央薬事審議会の102人委員のうち14人がソリブジンの治験にかかわっていた。
 新薬ソリブジンは、発売からわずか1カ月の間に、全国1万2000の医療機関に50万錠以上が納入されていた。日本商事は年商が100億円にも満たない企業であるが、ソリブジンは薬価ベースで1カ月に11億円の売り上げがあった。日本商事の、1錠2216円の新薬ソリブジンにかける意気込みが、いかに大きかったかが想像される。
 多くの医師は、ソリブジンがこのような重大事態を招くとは想像もしていなかった。ソリブジンの添付文書には「抗がん剤との併用投与をさけること」と虫眼鏡がなければ見えないような字で書かれているだけだった。それでも添付文書に書かれていることから、それを投与した医師の責任も問われた。しかし添付文書は生命保険の契約書と同じような文字の羅列であり、全部読んだとしても覚えている医師はないに等しかった。
 たとえこの副作用を医師が知っていたとしても、がんの非告知患者は抗がん剤内服を教えられていため、医師も患者も併用を回避することはできなかった。特に診療科が皮膚科と内科にまたがるため、患者が病院を変えて受診すれば、併用薬を把握できない可能性が高かった。つまり死に至るような副作用を持つ薬剤は、認可すべきではなかったのである。にもかかわらず、厚生省は3人の副作用による死亡を公表した平成5年10月12日の時点で、ソリブジンは薬効の優れた薬剤なので、厳しい制限のもと、薬剤として残す異例の決定をした。そしてその1カ月後に、ソリブジンの回収作業を命じるという、ちぐはぐな対応となった。
 平成6年9月1日、厚生省は日本商事に過去最長の105日間の製造業務停止処分を行った。同時に、緊急副作用情報の即時伝達システムの改善策をまとめたが、ソリブジンを承認審査した厚生省の責任は問われなかった。
 被害者の補償は日本商事が個別にすすめ、死亡した15人のうち14人の遺族が示談に応じ、約5億円の賠償金が支払われた。しかし残りの1人である横浜市青葉区の主婦・春日信子さん(64)の遺族は医師を相手に訴訟を起こした。
 春日さんは、平成5年7月から乳がんの治療のため京都市内の病院で抗がん剤を服用し、同年9月7日、横浜市青葉区の医院でソリブジンの投与を受け、同月19日に死亡した。平成6年12月、春日さんは医師が副作用の注意を怠ったため死亡したとして、ソリブジンを投与した医師に約1100万円の損害賠償を求める訴訟を起こした。医師側は「強い副作用があるときには、添付文書の冒頭に記さなければならないが、この薬にはそれがなかった」と過失責任を否定した。結局、この訴訟は横浜地裁で和解が成立したが、詳細は明らかにされていない。
 死者15人を出した「ソリブジン事件」は、生命を無視した商売第一主義が起こしたといえる。さらに卑劣なことに、日本商事が最初に死亡例を知ってから医師向けに注意文書を配布するまでの間、つまり9月20日から10月12日までに、日本商事社員175人が自社株を売却していたのだった。
 ソリブジン事件が公表される直前に、副作用情報を知った社員は株を売却していた。日本商事の社員は、副作用による死亡をより早く医療機関に通知すべきなのに、社員は自社株の売り抜けを優先させたのである。
 売却したのは日本商事175人のうち管理職82人が含まれ、さらに提携先のエーザイの社員10人、医師らが含まれていた。自社薬剤により患者の生命が危険にさらされているときに、社員は自分の財産保持に専念していた。死亡事故の公表前に、日本商事株を売り払ったことで、インサイダー取引容疑で証券取引等監視委員会の強制調査が行われた。
 死亡事故が公表された10月12日は連休明けだったため、朝から同社株の売り注文が殺到し、午後2時10分に、大阪証券取引所が取引を一時停止した。厚生省が記者会見で副作用死を発表したのは、取引停止直前の午後2時であった。
 大阪地検特捜部は同社株1万株を「空売り」したとして、千葉市の皮膚科開業医・T(56)を証券取引法違反の疑いで逮捕した。T医師は千葉大医学部を卒業、同大助手を経て、昭和44年から千葉市中央区内で皮膚科医院を開業していた。
 T医師は厚生省が副作用死事故を公表する約1時間前に、販売代理店幹部から「日本商事の新薬で、副作用による死亡例が発生したため、出荷が一時停止される」との情報をもらった。そのため公表のわずか10分前に、1万株を売って、翌日に買い戻す信用取引の「空売り」で約400万円の利益を得ていた。
 証券取引等監視委員会による事情聴取で、T医師は「販売代理店とは副作用事故の話はしていない」と全面的に否認。しかし特捜部は、販売代理店幹部がT医師と会っていたことを確認し、さらに代理店幹部が「T医師に副作用事故の話をした」と証言したため、逮捕に踏み切った。
 これらのインサイダー取引により、日本商事の関係者ら24人が大阪簡易裁判所から罰金20万から50万円の略式命令を受けた。しかしT医師だけは略式手続きに同意せず、「副作用を知らされたことはない。株の値動きがおかしかったので売っただけ」と無罪を主張した。しかし検察側は「悪質な犯行」としてT医師に罰金50万円を求刑した。
 平成8年5月24日、大阪地裁の谷口彰裁判長は「空売りという積極的な投機で、取得した利益は少なくないが、社会的制裁を受けている」として罰金30万円を言い渡した。T医師は判決を不服として大阪高裁に控訴したが、平成13年3月16日、大阪高裁の河上元康裁判長は「副作用情報は投資判断に著しい影響を与える」としてT医師の控訴を棄却した。
 ソリブジンの薬害報道は、薬害報道よりも次第にT医師の株取引に関するものが多くなった。しかし本当の悪人はソリブジンの薬害を隠していた日本商事、さらにソリブジンの薬害が公表される前に自社株を売り抜けていた日本商事の社員である。彼らの悪事に比べれば、T医師の行為は微罪と思われる。T医師についての報道は、日本商事の巨悪を隠すようなもので、マスコミや法曹界は、巨悪と小悪人の区別をつけてほしいものである。
 平成10年9月25日、日本商事と昭和薬品が合併しアズウェルと社名を変更し、そのアズウェルもまた名前を変え、平成15年9月29日よりアルフレッサとなっている。日本商事の名前は薬害史の記録に残っているが、その後の社員については誰も知らない。

人食いバクテリア  平成6年(1994年)
 平成6年5月6日、英国の「インディペンデント紙」が、人間の筋肉や血管などを急激に破壊して壊死性筋膜炎を起こす、極めて致死率の高い感染症について報道した。この感染症は、ヒトの皮膚などにみられるA群溶連菌(溶血性連鎖球菌)による劇症タイプであった。しかし「人食いバクテリア」というセンセーショナルな名前から、わが国でも大騒ぎになった。インディペンデント紙は、半年間に216例の患者が発症し、39人が死亡したと報道。さらに、患者の腐った皮膚の写真を掲載し、その恐ろしさを強調した。
 「人食いバクテリア」を起こすA群溶連菌はごくありふれた菌である。咽頭炎や扁桃炎、化膿性皮膚炎を起こす化膿性連鎖球菌の一種で、かつては猩紅熱やリウマチ熱などの起因菌として知られていた。このA群溶連菌は抗生剤がよく効くことから、先進国では重篤な感染や合併症は激減し、深刻な感染を起こすことはないと思われていた。また多くの人たちは小児期に感染して免疫を持っていた。
 そのため重要視されずに、忘れ去られていた細菌であった。たとえ感染しても咽頭炎や中耳炎を起こす程度と軽視されていた。しかしこのA群溶連菌がなぜか凶暴化したのだった。そして「人食いバクテリア」の起因菌として重篤な症例報告が相次いだ。
 「人食いバクテリア(劇症型A群溶連菌)」による感染の特徴は、高熱が出て筋肉に激痛が走り、筋肉が急速に腐ることである。1時間に2.5cmの速さで腐食が進み、細菌が筋肉組織や皮下脂肪を食べるように進行した。適切な治療を行わないと、多臓器不全を起こし24時間以内に死亡した。症状が急速に悪化するため、突然死に近い状態になった。
 その診断は血液や筋膜からA群溶連菌を検出することであるが、そのような時間的余裕はなかった。「人食いバクテリア」を疑ったら、腎不全やショック状態、肝機能異常などの症状がくる前に、抗生剤の投与をすぐに開始し、いかに早く壊死した組織を取り除くかである。治療が数時間遅れただけで致死率に差がみられた。注意すべきは発熱と筋肉痛といった軽い症状から、風邪と診断されることが多いことである。そして時間単位で急速に進行するので、早期治療が遅れてしまうのであった。
 「人食いバクテリア」は、英国でセンセーショナルに報道されたが、英国だけでなく全世界で報告されている。米国では、年間約2000人が発症し、その30%が死亡している。日本では平成4年6月、千葉県旭市の旭中央病院麻酔科部長・清水可方らの報告が初例である。清水らは、軟部組織の壊死と多臓器不全で死亡した患者からA群溶連菌を分離し、本邦初の劇症型A群溶連菌感染症(toxic shock like syndrome:TSLS)を報告した。旭中央病院では、初例から約2年間で10例の「人食いバクテリア」を経験し、患者の死亡率80%、平均4.4日で死亡したと報告している。日本では、平成4年から平成9年の間に約100人が「人食いバクテリア」に感染し、30人が死亡している。
 通常のA群溶連菌感染症は小児に多いが、「人食いバクテリア」を起こす劇症型A群溶連菌感染症は中高齢者に多い特徴があった。
 このA群溶連菌というごくありふれた菌が、なぜ劇症化したのか不明である。A群溶連菌は猩紅熱の原因菌であったが、猩紅熱は敗血症を起こさないのに、「人食いバクテリア」は敗血症を起こした。また猩紅熱は他人に伝染するが、「人食いバクテリア」は伝染しないのが特徴で、2次感染の心配がないことが何よりの救いであった。猩紅熱も「人食いバクテリア」も同じA群溶連菌の感染症であるが、猩紅熱が激減する一方で、「人食いバクテリア」が注目された。
 A群溶連菌が凶暴化したメカニズムは、謎のままである。毒性の強い変異株が突然変異で生じた可能性が検討されたが証明されていない。患者の免疫異常も調べられたが、明確な異常は見つかっていない。
 「人食いバクテリア」は、致死率の高い疾患とされているが、現在では抗生剤の適切な治療によって救命率は向上している。「人食いバクテリア」は散発的で、その患者数も減少している。「人食いバクテリア」としてA群溶連菌は有名になったが、壊死性筋膜炎は病原性の低いビブリオ菌やアエロモナス菌によっても起こる。海水に漬かった後に、壊死性筋膜炎が起きればビブリオ菌が原因で、淡水に漬かってから壊死性筋膜炎が起きればアエロモナス菌が原因である。ビブリオ菌とアエロモナス菌による壊死性筋膜炎の頻度は低いが、A群溶連菌よりも重篤で、海水・淡水中の菌が傷口から感染することによる。感染した手足に血液の混じった水疱ができ、筋肉が急速に壊死し、感染が心筋に及べば致命的となる。致死率は約70%で、これまで日本で100人以上の死亡例が報告されている。

向井千秋さん宇宙へ 平成6年(1994年)
 平成6年7月8日、向井千秋さん(42)はオレンジ色の宇宙服に着替えると、スペースシャトル・コロンビア号(104t)に乗り込んだ。コロンビア号にはロバート・カバナ船長(45)ら飛行士6人が乗っていた。向井さんは日本人女性として最初の宇宙飛行士だった。
 午後0時43分、米国フロリダ州のケネディ宇宙センターから、コロンビア号が炎とともに打ち上げられ、青空に向かって1筋の白煙を残して消えていった。この年は、米国のアポロ11号が月に人間を送りこんでからちょうど25年目であった。
 このとき人々の心の中には、昭和61年1月28日のチャレンジャー号の記憶が残っていた。それは打ち上げ直後に空中爆発を起こし、乗員7人全員が死亡した事故だった。そのため、人々は打ち上げの瞬間をかたずをのんで見守っていた。向井さんの夫・慶応大病院の医師向井万起男さん(47)は、ケネディ宇宙センターの屋上から無事を祈っていた。
 打ち上げから約2分後、コロンビア号は大西洋の約45キロ上空で補助ロケットを切り離し、軌道を修正して地球を約90分で1周する飛行に移った。地球から約300キロの軌道を、15日間で220周する予定だった。打ち上げから2時間50分後、向井さんの元気な第一声がジョンソン宇宙センターの飛行管制センターに入った。この第一声から約40分後、赤いポロシャツと青い短パン姿で実験の準備をしている向井さんの姿がテレビに映し出された。
 向井さんは15日間の宇宙生活で、日本など13カ国が提案した82の実験「第二次国際微小重力実験室(IML2)」を行った。実験内容は、金魚を使って宇宙酔いの仕組みを解明すること、メダカやイモリを無重力の状態で産卵させ、孵化させることなどであった。また新しい材料づくりの実験、無重力での血液の流れと心臓機能の変化をみる人体観測が行われた。人体観測では、無重力における身体の調節機構を血圧計、心電図、心臓エコーなどを用いて調べられた。
 滞在2日目の日本時間10日午前8時、向井さんは宇宙から見た地球の印象を「暗黒の宇宙で、雲の薄いベールをかぶった地球が回る姿は、本当に美しい」と日本語で伝えてきた。このとき、ナポリのサミットに出席していた河野洋平副総理、東京にいた科学技術庁の田中真紀子長官と衛星回線で12分間の会談が行われた。
 田中真紀子長官から「地球を観察しましたか」と質問され、「打ち上げ30分後に1、2分間、ほとんど働いていたので見てません」。「体調は?」と聞かれ、「忙しいけど元気です」と答えた。河野副総理から「外から地球を見た感じは」と聞かれると、「壮大で美しいの一言に尽きます。皆さんにぜひ見せてあげたい。こんな素晴らしい地球に生まれたことを誇りに思っています」と語った。実は、この会談は村山富市首相が出席する予定だったが、体調を崩したため、河野副総理が話すことになった。向井さんは「村山総理のご回復をお祈りします」と医師としての気遣いをみせた。
 またクリントン米大統領からは「宇宙計画は世界の平和と協力の象徴。われわれのシャトルに、日本初の女性宇宙飛行士が乗っているのを誇りに思う」とのメッセージが届き、「その言葉を胸に頑張ります」と向井さんは答えた。
 郷里の群馬の中学生には、「天女になったような感じです」と宇宙の感想を語り、子供たちに大きな夢を与えてくれた。そして15日後の23日、宇宙での実験を終え、地球に帰還することになった。向井さんの宇宙滞在時間は14日と17時間55分で、女性の宇宙最長滞在記録を更新した。
 無重力から重力のある地球への帰還である。無重力では体内血液量が減少するため、地球への帰還後に宇宙飛行士の半数が起立性低血圧をきたした。それを防止するため、塩水1Lを飲んでの帰還であった。
 平成6年7月23日(現地時間)、日本人初の女性宇宙飛行士として向井千秋さんが地球へ戻ってきた。向井さんの搭乗するコロンビア号が、米国フロリダ州のケネディ宇宙センターの滑走路に着陸すると、パラシュートが開き機体はゆっくりと止まった。家族や多くの研究者仲間が拍手で出迎えた。
 向井さんの出身地である群馬県館林市では、子ども科学館に約2800人が集まり、大型テレビの前でコロンビア号の帰還を見守っていた。そして、無事に着陸すると拍手とバンザイが起こり、50発の祝福の花火が打ち上げられた。
 向井千秋(旧姓、内藤)さんは、昭和27年に群馬県館林市のかばん屋の長女として生まれ、9歳の時に弟が大腿部の一部が壊死するペルテス病に冒されたこともあり、10歳頃から医師になろうと決意していた。中学3年で単身上京、慶応女子高から慶応大医学部に進学した。大学時代はスキーに熱中し、医学部東日本大会で優勝している。また酒に関しては男顔負けの酒豪で、酒一升を飲み干した武勇伝が残されている。
 医学部を卒業すると、心臓血管外科を専攻し、寝る時間も惜しんで学んだ。昭和56年、俳優の石原裕次郎が解離性大動脈瘤で慶応大病院に入院した時には、担当医の1人だった。心臓血管外科医の勤務は厳しかったが、きびきびとした動作から、裕次郎から「カンフーねえちゃん」とあだ名をつけられた。
 向井さんが宇宙飛行士になろうとしたのは、昭和58年12月、宇宙開発事業団が、宇宙飛行士を募集しているのを新聞で知ったことがきっかけであった。昭和60年8月、533人の応募者から北海道大工学部助教授の毛利衛さん(37)、NASAルイス研究所の研究員・土井隆雄 さん(30)、そして慶応大医学部助手の向井さん(33)が選ばれた。
 向井さんは、日本初の宇宙飛行士3人の1人に選ばれると、NASAに留学して訓練を重ねた。そして平成4年、「第二次国際微小重力実験室(IML2)」の乗組員に選ばれた。平成6年の宇宙飛行は、宇宙飛行士の候補になってから9年目のことであった。
 向井さんは日本に帰国して連日各地で講演をして、子どもたちに大きな夢を与えた。さらに、平成10年10月29日から11月7日にかけ、史上最高齢の宇宙飛行士ジョン・グレン上院議員(77)とともに、2度目の宇宙飛行をしている。この2度目の飛行中に「宙がえり 何度もできる 無重力」という短歌の上の句を詠み、これに続く下の句を募集。下の句には約14万5000首の応募があった。一般の部で選ばれたのは、東京都国分寺市の坂本一郎さん(68)の「湯舟でくるり わが子の宇宙」だった。また「乗せてあげたい寝たきりの父」などが入選作となった。
 日本人の宇宙飛行士としては、平成4年9月12から20日に宇宙飛行を行い、「宇宙からは国境線は見えなかった」の言葉を残した毛利衛さんが初めてと思われている。しかし日本人で最初に宇宙へ飛んだのは、TBS(東京放送)の記者・秋山豊寛さんであった。秋山さんは、最初の日本人宇宙飛行士となったが、あまり話題になっていない。秋山さんは国際基督教大を卒業後、昭和41年にTBSへ入社。ロンドン支局やワシントン支局などの特派員を歴任していた。TBSが日本人宇宙飛行士搭乗を、推定15億円の契約金でソビエト連邦宇宙総局と調印。平成2年12月2日、ソ連のバイコヌール宇宙基地より宇宙船ソユーズTM-11号に乗って、秋山さんは宇宙へ飛び立った。
 TBSは打ち上げから長時間にわたる特別番組を生放送した。秋山さんの宇宙からの第一声が「これ、本番ですか?」だった。乗組員兼ジャーナリストとして日常生活をリポートし、カエルの無重力実験、自分の睡眠実験などを行ったが、宇宙飛行士というよりも「お客さん」のイメージだった。
 8日後の12月10日に帰還するが、帰還直後に「お酒が飲みたい。たばこが吸いたい」と話した。このように秋山さんは酒もたばこもやる普通のおじさんだった。帰国後、TBS報道局次長などを歴任し、平成7年に退職している。退職したのは、宇宙飛行士だったことから会社にいづらくなったこと、金や権力、名声など小さいことに興味がなくなったからで、退社すると福島県で無農薬農業を行った。日本で最初の宇宙飛行士は秋山豊寛記者であるが、商品化された飛行士の哀れさを感じてしまう。

愛犬家連続失踪殺人事件 平成6年(1994)
 長野県塩尻市の畑の跡地から女性の遺体が発見され、平成6年1月26日、大阪府警はかねてから疑いを持っていた自称「犬の訓練士」・上田宜範(39)を逮捕した。上田は犯行を否認していたが、間もなく殺害を自供した。
 当初、この事件の被害者は1人と思われていた。にもかかわらず、上田宜範は男女計5人を殺害していたことを自白したのである。殺害の動機は、犬の繁殖所、訓練所開設をめぐる出資金のトラブルで、 5人はいずれも筋弛緩剤「サクシン」(塩化スキサメトニウム)を注射されて殺害され、塩尻市の畑の跡地に埋められていた。
 この事件の発覚は、1人の主婦の失踪(しっそう)がきっかけだった。平成5年10月29日頃、大阪府堺市の主婦・志治信子さん(47)が自宅にメモを残したまま行方不明となった。志治さんを探していた家族は、動物病院で思いがけない話を聞いた。それは動物病院の常連客である大阪市住吉区の主婦の高橋サチ子さん(47)も、行方不明になっていたことである。2人の主婦に共通することは、上田宜範と知り合いだったことである。
 志治信子さんは平成3年9月頃、犬の散歩中に上田から声を掛けられて知り合いになり、失踪直前に1070万円の預金を引き出していた。高橋サチ子さんは、動物病院で上田と知り合い、失踪直前に銀行から50万円を下ろしていた。
 信子さんの家族は、上田の知り合いだった大阪市の無職・藤原三平さん(35)に連絡を取ろうとしたが、藤原さんも行方不明になっていた。藤原さんは、平成3年秋頃に犬の雑誌を通じて上田と知り合い、平成4年7月に上田の銀行口座に訓練所の出資金として30万円を振り込んでいた。そして出資金をめぐり上田と口論になっていた。
 藤原三平さんは、上田宜範と塩尻の訓練所予定地を訪ねてから姿を消していた。このように失踪した3人は、いずれも上田と知り合いの愛犬家で、上田から犬の繁殖所や訓練所の共同経営の話をされていた。
 警察庁は、この一連の失踪事件を広域重要「120号事件」に指定して捜査に乗り出した。さらに、上田の仕事を手伝っていた土木作業員の柏井耕さん(22)も、平成4年7月27日に「アルバイトに行く」と言って外出したまま行方不明になっていた。
 藤原三平さんと高橋サチ子さんは、上田に出資金を預けたが、上田はいつまでたっても繁殖所や訓練所の開設準備を行おうとせず、2人は出資金を返すよう上田に迫り、殺害されたのである。
 志治信子さんは、高橋サチ子さんの殺害直後、車に隠していた高橋さんの遺体を偶然見つけたため殺害された。柏井耕さんは犬の面倒をみたときの手伝い料を催促して殺害された。
 上田宜範に殺害された志治信子さん、高橋サチ子さん、藤原三平さん、柏井耕さんの4人は、いずれも筋弛緩剤「サクシン」(塩化スキサメトニウム)を注射されて死亡、遺体は塩尻市の犬の繁殖訓練所予定地の畑に埋められていた。
 警察はこの跡地を捜索し、次々と遺体を発見。さらにもう1人の犠牲者がいることが分かった。それはフリーターの瀬戸博さん(25)だった。瀬戸耕さんは、以前上田と同じ会社で働いていて、一緒に飲みに行くほどの仲だった。しかし瀬戸さんが自分に同性愛の傾向があることを上田に打ち明けると、上田は職場で「瀬戸はホモだ」と言いふらした。その後、上田は職場を変えたが、平成4年5月、犬を散歩させていると偶然瀬戸さんと出会った。このとき、瀬戸さんが上田に対して「悪口を言いふらしたな」と文句を言った。
 上田は「そんな覚えはない」と反発したが、殴り合いのけんかになりそうになった。上田はいったん謝ったが、瀬戸さんへの怒りは殺意に達していた。そして7月に、仲直りを口実に瀬戸さんを呼び出すと、睡眠薬を「下痢止め」と偽って飲ませ、筋弛緩剤を注射して殺害した。
 さらに上田は、これらの殺人に先立つ2年前に、静岡のパチンコ店の店員である北原豊仁さん(18)を絞殺していたと自供した。しかし北原さんの遺体が見つからず、また上田が自供を翻したために立件されていない。
 上田の実家は、大阪府八尾市の裕福な酒屋であった。上田の人生転落のきっかけは30歳の時、自分の会社の金7000万円を友人が使い込んだことだった。友人はそのまま失踪し、上田は大金を返せずに祖母の所有する株を売却して返済。このことで親から勘当され、上田は人間不信となり、性格が変わってしまった。
 もともと犬好きだった上田は、両親から準禁治産者として見捨てられ、人間よりも犬と過ごす方が楽しいと思うようになった。犬好きなことから、獣医のところによく通っていた。ある日、獣医と雑談をしていると、「子犬が売れないので、殺してほしい」と頼みにきた客がいた。獣医が気軽に筋弛緩剤を注射すると、子犬は苦しむことなく死んだ。それに興味を抱いた上田は、口実をもうけて獣医から筋弛緩剤である「サクシン」をゆずってもらった。
 サクシンとは全身麻酔時に使う筋弛緩剤で、呼吸筋を麻痺させるため、人工呼吸器を使用しないと呼吸が停止して死亡する。致死量は筋肉注射では20mg程度で、静脈注射ではその半分の10mgであった。
 上田宜範は筋弛緩剤「サクシン」(塩化スキサメトニウム)を注射しても、体内に入ると分解されることから、殺人の証拠が残らないことを知っていた。そのため、獣医から70人分の致死量に相当する毒薬を入手していた。事件後、毒薬を渡した獣医は獣医師法違反で略式起訴され、罰金50万円が科せられている。
 かつて上田は警察犬訓練士から、仕事の内容を聞かされ、専門的知識はなかったが、畜犬業で金を儲けようとした。そこで長野県塩尻市内の農地を、犬の繁殖場と訓練所にするために借りていた。施設の建設や運営には金がかかる。上田は「犬の訓練士」と称して、業界誌に広告を出しては出資者を集め、あるいは犬を散歩させている人に声をかけ訓練や繁殖の勧誘をしていた。
 上田は愛犬家を装ってはいたが、一方では、商売にならない犬を平然と殺していた。さらに言えば、金銭が関与すれば人間でも、犬同様に殺害することに躊躇(ちゅうちょ)しなかった。
 上田は公判で、自白は警察の暴行によるものと無罪を主張した。しかし平成10年3月20日、大阪地裁で死刑の判決が下った。上田は控訴したが棄却され、死刑が確定した。
 この事件に前後して、同様の愛犬家殺人事件が埼玉県でも起きている。
 平成7年1月5日、埼玉県警捜査一課は愛犬家ら5人が失踪した事件で、同県大里郡江南町の犬猫繁殖販売業・関根元(53)と関根の前妻の風間博子(37)を死体遺棄の疑いで逮捕した。2人は昭和59年頃からペットショップを始め、ペットブームに乗り、一時は年商1億円を超えていた。
 しかし景気の低迷とともに経営は悪化し、そのため珍しい大型犬を高く売って儲けようとした。「子犬が生まれたら高値で引き取る」、と利殖話を持ち掛けて犬を販売した。そして会社役員の川崎明男さん(39)に、数十万円の犬を1000万円で購入させた。しかし後に、川崎さんが法外な値段に気付き、売買の破棄を求めてきた。このトラブルから、平成5年4月20日、関根元は川崎さんに獣医からもらった硝酸ストリキニーネのカプセルを飲ませ毒殺した。
 ストリキニーネの作用は、主に脊髄における反射経路のシナプス後抑制機構の選択的遮断である。つまり骨格筋の緊張と反射興奮性の増大によって、死に至らせた。致死量は30〜100mgで、犬を安楽死させるためと言って、知り合いの獣医から 50人の致死量に相当するストリキニーネを入手していた。
 さらに、川崎さんの殺害を疑った遠藤安亘さん(51)が金銭をせびるようになると、関根は口止め料を払うといって遠藤さんを呼び出し、運転手和久井奨さん(21)もろとも殺害した。そのほか、金を借りていた主婦の関口光江さん(54)も同様の手口で殺害した。
 殺害後、いずれも遺体をドラム缶で焼却し、その骨や遺品を山に捨て、遺体そのものが見つからないようにした。証拠がなければ、捕まらないと思ったのである。
 この事件は、マスコミが先行して騒ぎ立て、そのため警察が動いたケースだった。裁判で風間は「死体遺棄を手伝っただけ」と主張したが、検察側は風間が積極的に殺害を促したとした。平成13年3月21日、関根と風間に死刑判決が下った。
 この2つの事件は「愛犬家連続殺人事件」と呼ばれたが、加害者はもちろんのこと、殺害された犠牲者たちも、犬への愛情より犬を利用した利殖を狙っていた。つまり愛犬家殺人事件ではなく、「愛犬を利用しての、金儲けをめぐる殺人事件」だった。ペットブームの意外な裏側をのぞかせる事件だった。

松本サリン事件 平成6年(1994年)
 平成6年6月27日夜の11時頃、サリンによる無差別テロが長野県松本市北深志1丁目の閑静な住宅地で起きた。この松本サリン事件で7人が死亡し、重軽症者は500人以上に及んだ。
 最初にこの事件を通報したのは、会社員の河野義行さん(44)であった。河野さんは、妻(44)と一緒に自宅1階の居間でテレビを見ていた。すると、妻が突然「気分が悪い」とせき込み、心配した河野さんは、横になるようにと妻に言った。
 ちょうどそのとき、庭の犬小屋の周辺で物音がしたので外に出てみると、2匹の犬が倒れて、口から泡を吹き全身をけいれんさせていた。河野さんは、誰かが毒を投げ込んだと直感し、警察に知らせるため急いで部屋に戻ると、妻があおむけに倒れたまま意識を失っていた。驚いた河野さんは、すぐに119番通報。この河野さんの救急車要請が、この事件の第一報であった。
 午後11時14分、救急隊員が到着したときには、河野さんと長女(16)も苦しんでおり、救急車は家族3人を病院へ搬送した。午後11時30分、消防通信指令室は河野さん一家を中毒事件と判断。直ちに松本警察署、松本市水道局、松本ガスに調査のための出動を要請した。
 午後11時48分、河野さんの自宅の近くにある「開智ハイツ(4階建て)」の住人から「変なにおいがする」と119番通報が入った。翌28日の午前0時5分には「松本レックスハイツ(3階建て)」の住人からも「友人が、気分が悪いと言っている」と通報があった。さらに明治生命寮(3階建て)や周囲の民家からも、救急車要請の電話が続々と入ってきた。いずれも、「目が痛い」、「吐き気がして苦しい」、「口から泡を吹いている人がいる」など切羽詰まった要請であった。
 いったい何が起きたのか、誰も分からなかった。救急隊がマンションに入ると、至るところに住民が倒れていた。アパートや民家から住民が次々と担架で運ばれていった。救急隊員は、住民の安否を確かめるため、マンションのドアをたたきながら走り回った。返事のない部屋の窓ガラスを割って中に入ると、何人かが床をかきむしるように死亡していた。閑静な住宅地を、救急車やパトカーのサイレンと赤いライトが交錯し、城下町の住民はパニック状態となった。患者は松本市内の6つの病院に搬送されたが、マンションで5人が死亡、救急車の中で2人が死亡し、重軽症者500人以上の大惨事となった。
 その夜の松本市の気温は20.4℃で、それほど暑くはなかったが、小雨が降っていて湿度95%と蒸し暑く無風に近かった。被害に遭った人たちのほとんどは、窓を開けて寝ていた人たちだった。死亡したのはすべてがアパートの住民で、2階2人、3階4人、4階1人と上層階に集中していた。このことは建物の外で有毒ガスが発生し、大気中に上昇したと考えられた。気化した毒物が原因とされたが、その毒物が何なのかは誰も予想できなかった。
 翌朝の午前4時15分、松本警察署は事件の第一報を発表。次々と被害者が運ばれる映像がテレビで放映され、日本中がこの事件の恐怖を知った。いったい何が起きたのか、誰が何のために、あるいは旧日本軍の毒ガスなのか。不気味な不安が日本中を襲った。
 原因毒物は不明だったが、被害者の症状は有機リン系の農薬中毒に似ていた。診察した医師によると、患者の瞳孔は著しく縮瞳し、視野狭搾の症状があった。また血液中のコリンエステラーゼ値が低下し、唾液が多く出ていることからも有機リン系の農薬中毒が考えられた。
 人間が死亡した場合、死亡の確認には瞳孔の散大が参考になるが、今回の犠牲者の瞳孔は縮瞳していて、縮瞳は有機リン系の農薬中毒の特徴であった。搬送された6つの病院はお互いに連絡はなかったが、すべての病院が有機リン系中毒と診断、迅速な治療を行った。
 午前7時、長野県警は松本署に「松本市における死傷者多数をともなう中毒事故捜査本部」を設置。捜査本部は、捜査員310人体制で捜査を開始した。
 午前11時には、県衛生公害研究所と松本保健所の職員が、第一報を通報した河野義行さん宅に隣接した池(直径3m)の水や空気などを採取して検査を始めた。路上や庭先で小鳥や飼い犬などの死骸(しがい)が見つかり、池からは空気中の有毒ガスに触れていないはずの魚やザリガニの死骸が多数見つかり、周囲の草木の葉は赤く枯れていた。被害の範囲は河野さんの家を中心に半径約70mに及び、有毒ガスの発生源はこの状況から池付近とされた。松本市長は「心配な人は医療機関を受診して下さい。医療費は全額松本市が負担します」と発言した。
 有機リン系農薬中毒は、農薬を飲んで中毒を起こすケースがほとんどで、気化した農薬が中毒を起こすことはあり得ないことだった。また農薬にしては症状が強く、犠牲者も多過ぎた。そのため農薬とは異なる毒性の極めて強い有機リン系化合物が考えられた。
 松本保健所職員は被害状況の情報収集に努めたが、原因の手掛かりは得られなかった。日本中毒情報センターに照会したが分からなかった。松本保健所は参考書を集め、有機リン化合物等を想定して原因物質を特定しようとした。
 第一通報者の河野さんは、妻とともに入院して重体になったが、捜査本部は河野さんが犯人と確信していた。それはあまりにも偶然が重なったからである。河野さんの庭の池付近が有毒ガスの発生場所と考えられたこと、家族が倒れ飼犬が2匹死ぬなど被害が一番大きかったこと、河野さんは薬物の知識が豊富で多くの薬品を所持していたこと、これらのことから嫌疑をかけられた。
 捜査本部は、河野さんが農薬を調合中に誤って猛毒ガスを発生したと考えていた。そこで事件の翌日、「被疑者不詳の殺人容疑」で河野さんの自宅を家宅捜索した。「被疑者不詳」としたのは、河野さんがクロとの確信がないことを意味していた。捜査本部は、河野さん宅から写真現像用に使っていた青酸カリなど20数種類の薬品を押収。当初、青酸カリを所有していたことから、捜査本部は青酸カリ中毒も考えたが、被害者の症状などから青酸カリは否定された。それでも捜査本部やマスコミは、河野さんが犯人であるがごとく扱った。
 使用された毒物は依然として謎のままだった。採取したサンプルの分析は、県警科学捜査研究所と県衛生公害研究所で同時に進められた。水質汚濁防止法や大気汚染防止法など公害関係法規で規制されている物質についての検査を始めたが、これらの物質は検出されなかった。そして池の水をクロマトグラムにかけて分析すると、スペクトルから毒物が特定できた。それはかつてナチス・ドイツが使用していた「サリン」だった。さらに犬小屋のバケツ、明治生命社員寮3階風呂場の洗面器の水からもサリンが検出された。
 分析の結果、毒物はサリンとなったが、サリンのサンプルがないため、国立衛生試験所に検査を依頼し、その結果サリンであることが確認された。事件から6日目の7月3日、捜査本部は記者会見を行い「サリンと推定される物質を検出した」と発表。この発表から、マスコミはこの事件を「松本サリン事件」と名付けて報道することになった。
 このサリンという毒物を知っている日本人はほとんどいなかった。それでもサリンが使用されたことは、偶発的な事故ではなく、大量殺人を目的とした意図的な事件を示唆していた。サリンは戦争以外に使われた記録はなく、そのサリンがなぜ松本で発生したのかが謎であった。
 サリンという聞き慣れない毒物は、1938年にナチス・ドイツが偶然に発見した極めて殺傷力の高い有機リン系の神経ガスである。呼吸器だけでなく皮膚からも吸収され、呼吸筋や心臓を麻痺させて死亡させることができた。ドイツでは地上の兵士の殺害を目的としていたので、その比重を空気より重い揮発性の物質として開発した。
 サリンは、1988年にイラク軍がクルド人を鎮圧する際にも使用されていた。サリンの毒性は、青酸カリの500倍で、1gで2000人を殺すことができ、かなりの専門知識を持ち、特殊な装置がなければつくることはできない。
 サリンは、神経伝達物質であるアセチルコリンに作用することによって毒性を発揮した。正常人のアセチルコリンは、酵素によって分解されるが、サリンなどの有機リン系物質は、この酵素と結合してアセチルコリンの分解を抑え、中枢神経や運動神経を障害して死亡させるのだった。
 サリンは本来無色無臭の気体であるが、「松本サリン事件」では住民が刺激臭を感じていた。また神経に作用するガスなのに、樹木が枯れていた。このことから相当量の不純物が含まれていたとされた。
 現場からは製造した容器も、持ち運んだ容器も発見されなかった。化学兵器として使われる猛毒ガスが、なぜ住宅街で発生したのか。この謎を解く鍵が見つからず捜査は長期化した。大量毒殺を狙ったことは明らかだが、謎だらけだった。
 中毒物質がサリンと判明した後、河野さん宅から押収された薬品では、サリンは生成できないことが分かった。しかしそれでも捜査本部は河野さんへの嫌疑を捨てなかった。使用した薬剤を、河野さんが捨てたとしたのである。河野さんは入院中にもかかわらず、捜査本部による事情聴取は連日にわたり続けられた。捜査本部は、河野さんのポリグラフを取り自白を待った。さらに7月7日頃から、河野さんを犯人扱いする新聞やテレビによる報道が始まった。誰もが河野さんの犯行とあやしんだのである。
 もちろん河野さんは事件との関与を強く否定し、また一方で、事件解明に協力するために事情聴取に応じた。しかし捜査本部は河野さんを犯人と決めつけ自白を迫った。平成6年8月4日、捜査本部は河野義行さんの体調悪化を理由に、「松本サリン事件」についての聴取を見合わせると発表した。しかし河野さんは翌年3月20日の「地下鉄サリン事件」まで疑惑の人であった。
 「松本サリン事件」は、目撃者や物証に乏しいことから、捜査は長期化を余儀なくされ、迷宮入りもささやかれた。事件解決の鍵を握るのは、薬剤の入手ルートの解明であった。そこで捜査本部ではサリンの原料となる薬剤の購入者割り出しを始めた。サリンの原料となる薬剤ルートについて、全捜査員190人の約8割を投入して徹底的なローラー作戦を展開した。その捜査で浮上したのが、静岡県内に総本部を置くオウム真理教だった。
 事件の数カ月前、オウム真理教に関連する薬品会社が、サリン生成に必要な薬品類を大量に購入していた。またオウムの活動拠点である山梨県の上九一色村で、松本サリン事件から12日後の7月9日に悪臭騒ぎが発生、サリンの副生成物が検出されていた。
 捜査本部はオウム施設への強制捜査を検討していたが、宗教法人がなぜサリンをまく必要があるのか、その動機がつかめなかった。躊躇しているうちに、松本サリン事件から約9カ月後の平成7年3月20日に、「地下鉄サリン事件」が発生した。地下鉄サリン事件から2日後、警視庁はオウムへの強制捜査を実施。オウム信者が逮捕され、松本サリン事件の全容が明らかになった。地下鉄サリン事件が河野さんの冤罪を晴らすことになった。
 松本サリン事件の動機は、サリンの威力を試すことだった。事件前の平成5年11月と12月の2度にわたり、オウムは創価学会の池田大作名誉会長をサリンで襲撃しようとしたが失敗。そのため、人間への効果を確かめたい意図があった。松本サリン事件の標的は、長野地裁松本支部であった。オウムが松本市内に購入した土地をめぐり、元所有者とオウムとの間で明け渡し訴訟が争われていた。7月19日に、判決が言い渡される予定だったが、敗訴の可能性が強かった。そのため担当裁判官らを殺害して、訴訟の進行を妨害しようとした。
 松本智津夫(麻原彰晃、39)は「科学技術省大臣」村井秀夫(35)らに命じ、トラックを改造した噴霧車で攻撃を行わせた。松本は、村井ら幹部に具体的な方法を指示。それに従って、渡部和実(36)ら6人の幹部が、6月20日から事件当日までの7日間でトラックを改造し、噴霧器を取り付けた。サリンの製造は「化学班」のキャップ土谷正実(30)らが担当。平成5年12月下旬から平成6年2月中旬までの間に、上九一色村の実験棟でサリン約30kgをつくり保存していた。
 村井ら7人の松本サリン事件の実行犯は、6月27日午後10時40分頃、サリン12kgを積んだ改造トラックで松本市北深志1丁目の住宅街に到着した。標的は長野地裁松本支部であったが、到着が遅れて夜遅い時間になったので、地裁に人がいないと考え、裁判官宿舎に目標を変えた。防毒マスクを使用し、遠隔操作で約10分間、裁判官宿舎を狙い大型送風機の付いた噴霧器でサリンを噴射続けた。実行犯は中毒になった場合に備え、解毒剤を積んだレンタカーを待機させていた。そして犯行後、逃走の途中で改造トラックを洗浄し、犯行を隠すためナンバープレートを変えた。
 松本サリン事件は、犯罪史上初めて毒ガスを用いた無差別殺人事件であった。捜査本部は平成7年6月、「松本サリン事件はオウム真理教によるもので、第一通報者の会社員である河野義行さんは無関係」とした。また新聞各社も「報道に誤りがあった」と紙面で公表し謝罪した。河野さんの容疑は晴れたが、愛妻の意識は回復しないまま、平成20年8月に息を引き取った。

青物横丁医師射殺事件 平成6年(1994年)
 平成6年10月25日午前8時5分頃、ラッシュで混雑している東京都品川区の京浜急行・青物横丁駅の改札口付近で、出勤途中の都立台東病院の泌尿器科医長・岡崎武二郎さん(47)が60cmの背後からいきなり拳銃で撃たれた。銃弾は腹部を貫通し、岡崎さんはその場に倒れこんだ。すぐに病院に搬送されたが、翌日、出血多量で死亡した。
 この事件は、医師をはじめとした医療関係者を戦慄(せんりつ)させた。医師ならば、誰でも同じような被害者になりえたからである。
 犯人は、駅の近くに止めてあったバイクで走り去った。しかし死亡した岡崎さんが言い残した言葉から、警察は犯人を患者・N(36)と断定。品川署は全国に指名手配した。
 Nは、平成5年に台東病院の泌尿器科で鼠蹊ヘルニアの手術を受けたが、術後しばらくすると体調不調を訴えるようになった。Nは体調不良を、執刀医である岡崎さんが手術の際に体内に異物を入れたせいと思い込み、そのためNは岡崎さんを恨んでいた。手術が人体実験であったと執拗(しつよう)に訴え、岡崎さんに抗議したが、その妄想を否定されたため報復を決意していた。
 Nは技術系の専門学校を卒業し、都内の電気機械メーカーに勤めていた。仕事の内容は、販売先での機器の保守や点検などで、仕事は熱心でまじめだった。Nは独身で母親と埼玉県浦和市に住んでいた。平成4年10月から鼠蹊ヘルニアの治療のため、台東病院泌尿器科に通院。平成5年6月7日に入院して手術を受けた。手術は順調で、その後は通院の必要もなかった。しかし術後半年を過ぎたころから、体調不調を訴えるようになった。体調不調とは、食欲不振、全身倦怠、腹部膨満感、意欲低下などで、体のあちこちに痛みを訴え、他の病院を受診しても原因は分からなかった。
 そのためNは不安をつのらせ、心気症の状態になった。体の中に何かが回転する異常感覚があり、手術をした岡崎さんが身体に何かを入れたせいと確信するようになった。岡崎さんが何らかの人体実験を行ったと思い込み、あるいは手術用具を体内に置き忘れたと疑った。Nは岡崎さんを訪ねては何度も苦情を言った。
 岡崎さんは一通りの検査をして、苦笑しながらどこにも異常がないと言った。しかしNは納得しなかった。Nは妄想を増幅させ、執拗に面会を求め、また頻回に電話をかけては、身体に入れた手術用具を取り除くように要求した。
 身体の中に回転体を埋め込まれたとする異常感覚は、統合失調症の患者にみられる体感異常(セネストパチー)という幻覚の一種だった。体感異常は、身体の中で虫がうごめくとか、脚や足にアリが這っているなど虫に関するものが多いが、Nの訴えもこれと同様のものであった。
 平成6年夏まで、Nは都内の病院の精神科に通院していたが、不安定な精神状態は改善せず、被害妄想が増幅して死を考えるようになった。そして死ぬ前に岡崎さんへの報復を心に誓った。平成6年9月に会社を辞めると、Nは岡崎さんの周辺を調べ回った。Nは岡崎さんの自宅が品川で、毎朝、京浜急行・青物横丁駅から電車で通勤していることを調べ、報復計画に取りかかった。
 一般的に、Nのような被害妄想を持つ患者は珍しいことではない。多かれ少なかれ、医師であるならば荒唐無稽(こうとうむけい)な患者を経験している。そのため、この事件によって「もし患者が簡単に拳銃を入手できたら、自分の生命も奪われるかもしれない」と、多くの医師たちは戦慄を覚えた。医師たちはこの事件を他人事とは思えず、自分たちの身近な事件ととらえた。
 岡崎武二郎さんを射殺したNは、犯行後、隠していたバイクに乗り青物横丁駅から逃走し、翌朝、あらかじめ用意してあった犯行声明文を、NHKなど都内テレビ局4社の警備員に手渡した。またフジテレビのワイドショーに電話をかけ、「撃ったのは俺なんですけど、ちゃんと報道してもらいたい。生島さんに会って経過を話したい」などと言い、このやり取りが全国に放映された。さらにテレビ朝日には「27日午後1時に出頭する。その前に都立台東病院関係者をピストルで撃つ」と電話で犯行を予告してきた。
 警察は精神科病院に入院歴のあるNの人権を配慮して名前を伏せていたが、病院幹部への犯行をほのめかしたため、2次犯罪につながるとして、公開捜査に踏み切った。Nは3日間、都内のホテルなどを転々としていたが、手持ちの金がなくなってきた。そのため28日に母親へ電話をかけ、南浦和駅で会う約束をした。母親はすぐに警察に連絡し、「私が姿を見せれば、本人も現れるでしょう。その時に捕まえてもらいたい」と申し出た。28日夕方、刑事8人が駅構内に張り込みNは逮捕された。
 岡崎武二郎さんの告別式には、医師・看護師ら約500人が参列して別れを惜しんだ。都立台東病院の高畠弘病院長は「ライフワークだった臨床医学を天国でも続けてほしい」と悲しみを語った。
 この事件が衝撃的だったのは、Nが暴力団とは関係のない一般人であったことである。Nは新宿、渋谷、赤坂などの暴力団事務所を歩き回り、拳銃を売ってほしいと頼んだが、冗談だと思い誰も相手にしなかった。
 しかし病院近くの浅草のソープランドの呼び込み人から、暴力団事務所を教えてもらい、留守番をしていた暴力団組員に拳銃購入を持ち掛けた。すると組員は140万円で中国製拳銃トカレフと実弾7発をNに売ってくれた。この拳銃の値段は密売相場の5倍だったが、普通の住民でも金さえ出せば、拳銃が買えることをこの事件は教えてくれた。
 平成6年前後の1年間だけで、拳銃発砲による負傷者は24人、死者11人で、拳銃による犯罪が多発していた。拳銃発砲事件は、それまでは暴力団の抗争に絡んだものがほとんどだったが、平成6年頃から一般市民の犠牲者が増し、社会に大きな不安と衝撃を与えていた。
 暴力団以外の者から拳銃が押収されたのは、それまでは全体の7%程度だったが、平成6年は30%を超えていた。このように拳銃の一般人への拡散が急速に進み、トカレフは、平成3年からの4年間で、中国から2000丁以上が密輸入されていた。
 犯人のNは、事件前に都内の病院の精神科に通院し、また入院歴もあった。このことから刑事責任能力が問題になった。検察側は「多少の判断能力の障害は認めるが、心神耗弱程度」と主張。弁護側は「統合失調症あるいは妄想性障害による犯行で、善悪を判断する能力はなく、心神喪失状態だった」と反論した。
 精神鑑定は慶応大・保崎秀夫名誉教授、東京大・斎藤正彦講師ら6人が約1年5カ月かけて行った。保崎教授は「妄想はあるが、人格の崩れは少ないとして妄想病」と診断。一方、斎藤講師は妄想型統合失調症と診断した。
 裁判では事実関係についてはほとんど争われず、犯行当時のNの精神状態と刑事責任能力の有無が争点となった。平成9年8月12日、三上英昭裁判長は「犯行は被害妄想に基づくが、責任能力を問える心身耗弱状態にあった」としてNに有罪の判決を下した。
 この事件は狂気に近い犯行であったが、数日前から通勤時間帯を狙って青物横丁駅で待ち伏せていたこと、拳銃を暴力団組員から入手して試射していたこと、医師の顔を確認してから発射したこと、さらに逃走に使ったバイクを1カ月前に浦和から品川まで運んでいたこと、日常生活に異常がなかったことから、冷静で沈着な行動を取っていたと裁判長は判断した。
 裁判長はNの責任能力を認め、懲役12年(求刑・懲役15年)を言い渡し、「無防備な被害者を待ち伏せし、至近距離から短銃で撃つという計画的で極めて残虐な犯行」と厳しく批判した。なおNに短銃を売った暴力団組員(29)には、懲役6年の実刑が言い渡された。

病院ランキング 平成6年(1994年)
 もし病気になったら、どの病院へ行けば最も良い治療を受けられるのか。このことは生命にかかわることだけに、患者が知りたいと思うのは当然のことである。このような患者心理を反映するように、平成6年頃から病院の内容を紹介する本がブームとなった。
 患者のニーズがブームを作ったといえるが、膨大な医師の中から良い医師を選ぶのは不可能に近かった。しかも細分化された専門医の実力を調べるには大変な手間がかかった。そのため病院紹介本は、医学会や大学職員名簿を流用したものが多かった。しかし学問と臨床は別であり、学問的に優れた医師が必ずしも臨床が得意とは限らなかった。大学で研究しているだけの医師の名前が名医として掲載されることが多く、その内容はお粗末だった。
 医師たちは、自分の専門分野ならば仲間同士の医師の実力は分かっていた。そのため紹介本に載った医師の名前に首をかしげることがあった。しかし、自分の名前が載れば、恥ずかしながらも大きな満足があった。
 平成6年9月に「日本全国病院ランキング」(丹羽幸一著、宝島社)が出版された。この本はがんや心臓病、糖尿病など約40の病気を対象に、全国の病院を1位から30位(一部は10位)までランク付けしたもので、全国約1万の病院を調査してランクを付けたものであった。
 日本人はランキングが好きで、知りたいことをランキングで示すことは分かりやすいことであった。もちろん評価方法に問題はあったが、レストランのランキング本と同様、どのような評価方法でも非難はなかった。出版社にとっては、患者さんを満足させ、売れればよかった。この病院のランキング本が初めて出版されると、病院のランキング本の出版ブームとなった。
 ランキングの方法はさまざまだった。(1)患者アンケートによるランキング。これは口コミ情報による病院評価であるが客観的データに欠けていた。(2)医師へのアンケートによるランキング。これは医師が医師を選んだものであるが、医師はそれほど多くの医師を知らないという難点があった。(3)病院に行って実際に調べる方法。この方法は医師の評価よりも、職員の対応、トイレの状態など主にアメニティの評価であった。(4)病院の年間手術件数などを用いる方法。年間手術件数はある程度の目安になるが、専門的な医療を行っている大病院が主であった。
 患者にとっては、どの病院にどのような医師がいて、どの病院の医療体制が優れているかを知りたいのである。しかし実際にはきわめて難しいことであった。病院評価は、プロの医師でも判断がつかないことが多いからである。
 またランキングの高い病院を受診しても、優秀な医師が主治医になるとは限らなかった。たとえ有名な医師の診察を受けても、有名な医師は多忙なので、必ずしも濃厚な対応は期待できなかった。また医学的に優れている医師と、患者の心をいたわる医師とは別であった。患者の多くは専門性の少ない病気で、その場合には、大病院よりも親身になれる中小病院の方が優れていた。
 医療内容や治療については、病院よりも医師によって左右されることから、ランキング本は単なる目安であった。厚生省も平成9年から病院機能評価を始めたが、調査結果は合否だけで詳細は公表されていない。ランキング本は興味本位の側面があったが、患者の要望が強いため売り上げを伸ばしていった。
 最近では、病院を知る上で参考になるのは、インターネットによる病院のホームページである。平成8年にウィンドウズ95が発売されてから、インターネットの進歩は目覚ましく、数年でインターネットは広まった。
 多くの病院はホームページを持ち、また病院検索も容易になっている。いずれにしても実際に診察を受け、自分に合うかどうか確かめる以外にない。4組の夫婦がいれば1組が離婚する時代である。医師と患者にも相性があり、どれほど素晴らしい医師でも、信頼関係と相性こそが重要である。

つくば母子殺人事件 平成6年(1994年)
 平成6年11月3日、横浜市鶴見区の京浜運河でビニール袋に入れられた女性の絞殺遺体が発見された。遺体はロープでぐるぐるに巻かれ、鉄アレイが付けられていたが、腐敗ガスによって浮かび上がってきた。
 解剖の結果、首に絞められた跡があり、頸部圧迫による窒息死とされた。横浜水上署と鶴見署は、合同捜査本部をつくり被害者の割り出しにかかった。捜査本部は首都圏で行方不明になっている30〜40歳の女性の特徴をチェックしていった。この段階では、この殺人事件の扱いは小さなものであった。
 しかし11月7日になって、同じ場所からビニール袋にくるまれた幼女の絞殺遺体が発見されると、マスコミは大きく報道するようになる。殺害された母子は、失踪の時期、遺体の特徴、服装、指紋の照合から、茨城県警・つくば中央署に捜索願が出されていた主婦の野本映子さん(31)と長女の愛美ちゃん(2)であることがわかった。野本さん親子は、10月29日から行方不明になっていて、夫の野本岩男医師(29)から捜索願が出されていた。野本医師は、筑波大医学部を卒業して総合病院に勤めていた。
 11月12日になって、長男の優作ちゃん(1)の遺体が同じ場所から発見されると、新聞各社は社会面のトップ記事として事件を伝えた。状況からみて、母子3人は10月の下旬に殺され、海に投げ込まれたとされた。テレビのワイドショーは、連日のようにこの事件を取り上げた。
 野本医師の話によると、10月29日の夕方、病院から帰宅すると妻子3人がいなかったが、妻子は実家に帰ることが多いので、心配していなかった。数日後、妻の実家に電話していないことを知り、慌てて捜索願を出したということであった。失踪の動機については心当たりがないと述べた。
 捜査本部は野本医師から失踪当時の事情を詳しく聞くと同時に、夫婦の身辺の調査を進めていた。野本医師は「家族を失った不幸を嘆く父親」を演じていたが、警察は最初から野本を疑っていた。それは野本の家庭がうまくいっていないと評判だったからである。
 犠牲となった3人は、ふだん着で素足のままだった。映子さんはパンティーストッキングをはいておらず、ピアスをせず、足の裏がきれいで争った跡がなかった。このことから3人は自宅で殺害されたと考えられた。
 捜査員は、野本医師に愛人がいることを調べ上げていて、この事件は家庭内の事情によるものとされた。野本医師の両手のひらに擦り傷が残っていて、野本はそれを飼い犬に引っかかれたと説明したが、捜査員は、妻子殺害の際にできた傷と疑っていた。両手でロープを思いっきり引っ張ると、手のひらに擦り傷が残るからである。
 この事件の被害者が、医師の家庭の母子3人だったことから、マスコミは連日報道合戦を繰り広げた。当初、マスコミは野本医師を被害者と報じたが、次第に野本を疑惑の目で追うようになった。
 神奈川、茨城両県警の合同捜査本部は11月25日、この事件を内科医師・野本岩男の犯行として逮捕。野本は警察の取り調べに対し、17日間シラを切っていたが、ついに「私がやりました」と上告書を提出し犯行を自供した。
 野本が自供したのは、Nシステム(自動車ナンバー自動読み取り装置)による証拠を突きつけられたからである。3人の遺体を遺棄するために、横浜の大黒埠頭(ふとう)へ向かう自分の自動車が、高速道路のNシステムに記録されていたのである。取調官が「早く白状して、妻子を成仏させるように」と説得してから数時間後の自白であった。
 妻子殺しを自白した内科医師・野本岩男は、昭和40年の茨城県岩井市の農家の次男として生まれた。成績優秀で、地元の中学校をトップで卒業。昭和58年に県立水海道第1高等学校を卒業すると、1浪して筑波大医学部に入学。平成2年に医学部を卒業すると、研修医となり筑波大付属病院などで働いていた。
 殺された妻の映子さんは東京都大田区の生まれで、昭和57年に私立女子高を卒業。そば屋の息子と結婚して、土浦市内で夫とそば屋を開業していたが、経営がうまくいかず、2人の子供を夫に残して離婚。その後、映子さんは看護師になりたいという夢を描きながら、昼は筑波メディカルセンターで受付のバイトをしていた。
 平成2年の夏、医師や看護師が参加するテニスの会で、野本は映子さんと知り合うことになる。知り合った時、野本は医学部を卒業したばかりの研修医で、映子さんは2歳年上で離婚歴があった。野本は、映子さんに2人の子供がいることを知っていたが同棲を始めた。この時、野本には他に交際している数人の女性がいたが、映子さんは他の女性とは事情が違っていた。それは映子さんが妊娠したからである。最初の妊娠は中絶させたが、2度目の妊娠を知ると、映子さんは「結婚しなくてもいいから、この子を産みたい」と言った。そして入籍しないまま、映子さんは野本の子供を出産した。
 その後も映子さんは結婚については一言も言わなかった。野本はそれをいじらしく思い、また父親のいない子供を不憫(ふびん)に感じ、衝動的に映子さんと結婚したのだった。周囲の人たちは、2人の結婚は自然の成り行きとみていたが、このような経過もあり、結婚式も披露宴も挙げていない。
 野本岩男は、映子さんと結婚すると、すぐに後悔することになる。映子さんに愛情を持てず、結婚1カ月後に単身赴任した日立市内の病院で、ほかの看護婦と交際を始めていた。勤め先の病院での野本の評判は悪くなかったが、女性の出入りが激しく、勤務先の病院では8人の愛人がいると噂(うわさ)されていた。
 野本岩男は、浮気を隠そうとしなかった。何人かの女性に「妻と別れるから結婚してくれ」と迫っていた。このような野本である。映子さんが耐えることで保たれていた家庭が、次第に崩れていった。夫婦のトラブルが次々と表面化した。
 警察の家宅捜索で映子さんの日記が発見されたが、そこには夫婦の荒廃した日々が綴(つづ)られていた。子供の教育方針や家計に加え、女性問題で夫との口論が絶えなかった。野本岩男は、内科医長として1300万円の年収があったが、複数の女性と付き合い、投資用に大阪、神戸などに3つのマンションを買っていたので、いつも借金の利子返済に追われていた。
 通常、医師の家庭であれば、裕福な生活を想像するであろう。確かに野本も1戸建ての家を借り、ゴールデンレトリーバーを飼い、表面的には幸せそうな家庭だった。しかし映子さんは生活費のために働いていた。昼は微生物研究所の事務員として、夜はランジェリーパブでバイトをしていた。
 被害者である映子さんが、風俗店で働いていたことが分かると、テレビのワイドショーは「みだらな女性のスキャンダル」へと変化した。人も羨(うらや)む医師の家庭とかけ離れた私生活が世間の興味を引いたのである。
 マスコミは被害者である映子さんのプライバシーを次々と暴き、生活のためのバイトなのに、家庭をかえりみない悪妻と書きたてた。さらに性的満足を得るために働いていたように報道し、映子さんは誹謗(ひぼう)中傷の的となった。映子さんは野本と結婚するため、排卵誘発剤を使って妊娠したとまで書いた週刊誌があった。当時は、90%以上が中流意識を持ち、不倫などの性的な乱れが目立ち始めた時代である。マスコミは医師の妻がランジェリーパブで働いていた動機を、勝手に想像していた。
 野本と映子さんは、愛人問題や子どもの教育方針、多額の借金などをめぐって夫婦の仲が破綻していた。そのため連日のように口論が続いていた。そして10月29日の早朝、朝帰りした野本は映子さんから離婚話を切り出され、慰謝料1億3000万円と養育費月100万円を要求された。映子さんは「看護婦との浮気を病院長に直訴して、2人とも辞めさせてやる」、「そんなに嫌いなら、私を殺してください」と挑発的に言った。そのため逆上した野本は、朝5時半頃、映子さんの首をロープで絞め殺害した。
 殺害後、自首あるいは自殺を考えたが、そのうち出勤時間が迫ってきた。野本は母親を失い、父親が殺人者となった子どもが哀れに思い、寝ていた長男の優作ちゃん(1)を絞殺、次に長女の愛美ちゃん(2)を絞殺した。
 2日間、遺体を自宅に置いていたが、10月31日の早朝、野本は3人の遺体を遺棄するために自動車に乗せ、首都高速大黒埠頭(ふとう)非常駐車場から、鉄アレイの重りと一緒にビニール袋に包んだ遺体を海に投げ込んだ。
 野本岩男は殺害に至る経過をこのように説明したが、野本は殺害翌日に新宿歌舞伎町でストリップを見て、ソープランドに行っていた。遺体を投棄した翌日には旅行会社で、愛人の看護師(25)と北海道旅行の予約を入れていた。
 野本岩男はいったん犯行を認めると、捜査に協力的になった。殺害の重大性や人格の未熟さを深く反省している様子だった。また「弁解することは何もありません」と述べた。
 横浜地裁で検察側は「妻子3人を殺して、海中に投棄するという凶悪犯で、純粋無垢(むく)な子どもを殺すなど慈しみは感じられず、極刑をもって臨むしかない」として死刑を求刑した。弁護側は、「映子さんが自分の首にロープを巻いて殺してくれと迫ったため」と主張。2人の幼子殺害については、「母親が死んで、父親が殺人者として生きていく子どもが不憫(ふびん)だったとして、計画的殺人ではない」と強調した。
 平成8年2月22日、横浜地裁の松浦繁裁判長は「医師という社会的地位にありながら、3人を殺害し死体を遺棄。その後偽装工作をするなど極めて重大な犯罪である。しかし犯行は衝動的で、殺害の方法も残酷とはいえず深く反省している」として無期懲役を言い渡した。松浦裁判長は判決後、「君が5年間、医師として救った命よりも、奪った命の方がはるかに重く、救われた患者の喜びよりも、はるかに深い悲しみをつくった」と野本に話しかけた。
 控訴審で検察側は「被害者がわが子であることを理由に、刑が軽くなるのは時流に合わない」とあらためて死刑を求めた。弁護側は「夫婦げんかの末の突発的な犯行で、原判決の量刑は重すぎる」と主張し、無期懲役の妥当性が争点となったが、結局、控訴審で野本岩男の無期懲役が確定した。
 この事件は大きな悲劇であった。勉強はできたが、乱れた女性関係によって家庭を顧みなかった哀れな男性医師。その男性が子どもを孕(はら)ませて結婚。結婚後、幸せな家庭を築けず、生活費のためにランジェリーパブ嬢として働くことになった妻。野本夫婦は幸せな結婚生活を過ごせず、悲劇だけを残した。
 この事件は、「性的に浮遊していた身勝手な夫」と「性的に古典的で、家庭に愛情を求めた妻」との組み合わせが生んだ悲劇だった。野本岩男の妻が映子さんだったから悲劇になったのではなく、浮気癖のある夫と、浮気を許さない妻が結婚すれば、同じような悲劇になったであろう。夫婦における性的純粋度と愛情の方向の違いが、この事件の根本にあった。
 野本が映子さんを殺害後、映子さんの日記を読み、映子さんがこれほど自分を愛してくれたことに気付き、泣き崩れたことだけが救いだった。

神戸・淡路大震災 平成7年(1995年)
 平成7年1月17日午前5時46分、淡路島北端付近を震源地とするマグニチュード7.2の地震が発生。被害は神戸市を中心に、淡路島から大阪市西部まで広範囲にわたり、死者6434人、負傷者4万3792人、全壊家屋10万4千戸、破損家屋40万戸、避難民30万人の被害をもたらした。高速道路、鉄道、家屋が無残にも倒壊し、2500カ所以上で火災が発生し、関東大震災以来の大惨事となった。
 地震直後の午前6時、NHKは第1報として「神戸は震度6で、大きな被害は確認されていない」と伝えた。7時のニュースでは「家屋が倒壊し7カ所から出火している」と伝えたが緊迫感はなかった。神戸市内は電話が不通となり、現場の被害状況が分からなかったのである。
 午前8時になると、神戸市上空からヘリによる生放送が中継され、緊張感が増してきた。神戸市内3カ所以上で火災が発生、ヘリの記者は「神戸が燃えています」と叫んだ。中継は次々に被害の状況を映し、阪神鉄道の車両が転覆している画像、阪神高速道路の橋桁が崩れ、バスが高速道路から落ちそうになっている映像を映したが、この時点での死者は2人と放送していた。9時を過ぎると、ヘリは激しく燃えさかる火災状況、神戸市内が黒煙でかすんでいる様子を映し出し、つぶれた阪神伊丹駅、倒壊した生田神社の社殿が放映された。午前9時30分、兵庫県警察本部は3人が死亡、332人が建物に閉じこめられていると伝えた。
 「神戸では地震が少ない、起きたとしても大地震はない」との先入観があったが、時間とともに火災は広まり、市内は焼け野原と化した。電柱は倒れ、道路は瓦礫で覆われ、崩れた家の下敷きになった人を救出する様子が映し出された。夕方には死者・行方不明者は2000人以上と公表された。ビル、橋、高速道路は耐震構造が成されていると思っていたが、高速道路は倒壊し、ビルは傾いていた。
 傾いたマンションはあったが、マンション住民の死者はほとんどなかった。建築基準法が厳しくなった昭和57年以降に建築されたビルの人的被害は少なく、高層ビルの被害もほとんどなかった。多くの人命が失われたのは木造家屋で、倒壊による犠牲者が9割、火災による犠牲者が1割であった。
 神戸市の長田区は木造住宅が密集していたため、地震直後に崩壊し、火災により6,000棟以上が焼失した。防火貯水槽は少なく、水道管は破裂し、消防士はホースを持ったまま立ち尽くすしかなかった。各地の消防車が応援に来たが、消火栓とホースの規格が合わず、思うように消火ができなかった。
 内閣総理大臣・村山富市はテレビのニュースで震災を知ったが、秘書官からの情報は遅れ、通常国会対応、新党問題、財界首脳との食事会に追われ、十分な対応を行わなかった。また政府は、フランスの捜査犬を中心とした災害救助隊が現地に入ること許可せず、この日本の危機管理能力の低さが非難された。
 自衛隊は6時30分、全部隊に非常勤務を発令。航空3機が偵察のため離陸、陸上自衛隊は神戸周辺で待機した。自衛隊法により「自衛隊は県知事の要請がなければ救助できない」ことになっていた。10時00分になって、兵庫県知事から自衛隊に派遣要請があり、待機していた自衛隊が救助に向かった。知事が派遣を要請しなかったのは、現場の混乱のためとされているが、派遣要請をしたのは県知事ではなく、県知事の名前を無断で語った兵庫県消防交通安全課課長補佐・野口一行の機転であった。これを教訓に、自衛隊への派遣要請は県知事以外に市町村長または警察署長も行えるように制度が改められた。
 長田区にある神戸市立西市民病院は西病棟の5階が押しつぶされ、44人の患者と3人の看護婦が5階に閉じこめられた。職員が5階に駆けつけ、二次災害の危険があるにもかかわらず、瓦礫の中を這いながら横穴を進むように12人を救出。午後2時にレスキュー隊が到着し34人を救出。翌日、自衛隊が最後の1人を遺体で収容した。死亡したのは廊下を歩いていた患者で、他の患者はベッドの上に寝ていたのでベッド柵に守られ、看護婦は詰め所にいて無事であった。
 ポートアイランドにある神戸市立中央病院には1000人近い患者が入院していて、当直医11人、看護婦75人、それに職員たちがいた。地震と同時に停電、断水、ガスが停止、病院が真っ暗になった。それでも負傷者が病院に殺到したが、人工呼吸器は使えず、検査の器械は壊れ、断水のため手も洗えず、懐中電灯の明かりで創傷処置をおこなった。ポートアイランドは液状化現象で泥状となり、橋は使えず、神戸市立中央病院は周囲から孤立した。
 神戸市内の病院には地震直後から多くの負傷者が押し寄せた。重症か軽症かを判断している余裕はなく、停電、断水のなかで救急蘇生がおこなわれた。軽症の入院患者を退院させてベッドを確保したが、それでもベッドが足りず、外来、廊下、待合室、ロビーなど、足の踏み場もないほどになった。
 病院には負傷者だけでなく、避難者も集まってきた。安全な場所として病院に避難してきたのである。医師や看護婦は震災時を想定して出勤訓練をしていたので、家族を振り払い、瓦礫の山を乗り越えて病院に集まった。当時、携帯電話は普及していなかったので、医師は家族と連絡がとれずに、泊まり込んでの治療になった。3日が勝負だった、3日経てば救援隊が来ると信じていた。震災から数日後、全国からの援軍が神戸を目指した。医師、看護師、その他135万人のボランティアが駆けつけた。
 外国のメディアは、略奪などの犯罪行為がほとんど起きなかったと高く評価、また神戸に本拠を置く暴力団・山口組が地域の人たちに援助物資を配ったことも小さなニュースとなった。山口組は全国の暴力団を支配下に置き、全国の暴力団に食料品の収集を命じ、山口組の命令は絶対なので、全国から食料品が豊富に集まったのである。暴力団は絶対悪とのイメージがあるが、日本政府の対応が貧弱だったことを思うと、暴力団の古き義理と人情を美談ととらえても悪くはないと思う。
 神戸淡路の震災で忘れていけないのは、近代都市でも震災には無力であること、政府はなかなか助けてくれないことである。さらに犠牲者のほとんどが家屋の倒壊、倒壊による火災によるものだったことから、家屋の耐震構造が重要なことである。
 神戸には地震はこないとの過信があったが、関東大震災だけでなく、日本のあらゆる場所で、いつ地震が起きても不思議ではない。当たるかどうか分からない地震予報よりも、日頃からの地震対策が大切である。

バリ島コレラ事件 平成7年(1995年)
 平成7年2月から3月にかけ、インドネシアのバリ島へ観光旅行に行った帰国者からコレラ患者が爆発的に発生した。ちょうど関西国際空港がオープンし、バリ島への旅行者が急増した矢先のことであった。コレラ患者は296人、37都道府県に及んだ。死者は出なかったが、日本中にコレラが蔓延する騒ぎになった。
 このコレラ騒動で不可解なことは、地元のバリ島ではコレラ感染者は見当たらず、また他の国の観光客からもコレラ感染者が見られなかったことである。
 インドネシア政府は「バリ州では過去6カ月間コレラの発生はなかった」と公式見解を発表した。そのため、なぜ日本人だけがコレラに感染したのかが話題になった。日本人はナマモノが好きだから、生水から作る氷、生水で洗うサラダなどが感染源ではないかと疑われた。また日本人は清潔な環境で育ったため、免疫力が低下しているともいわれた。厚生省はバリ島への旅行を自粛するように勧告。その後、バリ島からのコレラ患者は急速に減少した。
 コレラは汚染された水や食品から経口感染する。口から入ったコレラ菌は酸に弱いため、大部分は胃で死滅するが、胃酸で死滅しなかったコレラ菌が小腸の粘膜層に付着すると、そこで増殖してコレラ毒素を産生して症状を起こす。胃酸分泌が少ない人、胃を手術で切除した人、胃酸抑制剤を飲んでいると感染しやすい。潜伏期間は1日で、軽症の場合は軟便程度で済むが、重症例では無熱性の「米のとぎ汁様の激しい下痢」をきたす。
 治療は水分と電解質の補給で、脱水を防ぐことである。治療は単純で、下痢で出た水分と電解質を点滴で補えばよい。海外では、WHOが推奨している下痢用経口剤を薬局で買うことができる。経口摂取が可能ならば、下痢用経口剤を水に溶かして飲めばよい。この下痢用経口剤によって何万人もの患者が救われている。スポーツドリンクが下痢用経口補液と成分がほとんど同じなので、代用品として用いられている。
 コレラはもともとインドのガンジス川デルタ地帯の風土病で、これをアジア型あるいは古典型コレラと呼び、19世紀から20世紀にかけて世界的大流行を6回繰り返している。この大流行はインドから世界に広がったもので、日本では江戸時代後期から明治にかけて流行した。江戸時代には3回の大流行があり、明治10年には8037人が死亡、明治12年には10万5786人が死亡する惨事になった。明治19年にも死者10万8405人が出ている。
 このように古典型コレラは流行を繰り返す恐ろしい伝染病であるが、この古典型コレラは衛生環境の改善などにより20世紀半ばから世界的な流行はなく終息している。現在のコレラは、昭和36年ころにインドネシアのセレベス島(現スラワシ島)で発生したエルトール型が主流で、エルトール型コレラは現在も続いていて、第7次世界流行と呼んでいる。この世界的な流行は30カ国以上で約51万人の患者を出し、平成3年にはペルーで大流行を起こし、ペルーだけで患者32万3000人、入院患者2万人、死者2909人を出している。
 かつての古典型コレラは、エルトール型コレラよりも重篤で、治療しなかった場合の致死率は50%以上であった。一方現在のエルトール型コレラの致死率は10%以下である。日本ではコレラはまれな疾患となり、かつてはコロリ病と恐れられていたコレラの死亡例はほとんどみられていない。

エボラ出血熱 平成7年(1995年)
 エボラ出血熱が人類の前に初めて姿を現したのは昭和51年6月のことであった。スーダン南部の町ヌザラで、この未知の熱病が突然流行し、284人が感染、151人が死亡した。
 最初に発症したのは綿工場の倉庫番の男性で、ウイルスは入院先の病院内で広まり、患者、病院職員、世話をしていた近親者が次々と犠牲になった。治療法がなく、致死率53%の数値は、まさに死に神のような熱病であった。
 このヌザラでの流行から2カ月後、ヌザラから800キロ離れたザイール北部のヤンブクで再びエボラ出血熱の大流行が起きた。この流行のきっかけは、エボラ出血熱に罹患したヤンブク教会学校の44歳の男性教師が、ヤンブク教会病院でマラリアの疑いで注射を受け、この男性に用いた注射器を他の患者にも用いたため、注射を受けた9人がエボラ出血熱に感染。さらに病院に出入りしていた患者や家族、医療関係者が次々に感染して死亡した。ヤンブク教会病院のスタッフは17人であったが、13人が発症し11人が死亡した。
 ザイール政府は、流行を食い止めるため、陸軍を出動させてヤンブク全体を閉鎖し、無断で出ようとする者は「射殺せよ」との命令が出された。このザイールのエボラ出血熱は、約2カ月間に318人が感染し、280人が死亡、致死率88%だった。
 エボラ出血熱の名前は、ザイール北西部を流れるエボラ川に由来している。このウイルスが世界で初めて発見されたのが、エボラ川流域の患者だったからである。エボラ出血熱の初発症状は、インフルエンザに似た発熱や筋肉痛などで、次第に目が充血し、激しい嘔吐に襲われ、皮膚、鼻腔、消化管などから出血し、出血によるショック、あるいは衰弱によって死に至った。この恐ろしい伝染病は、昭和51年にスーダンとザイールで流行したが、なぜかそれ以降、18年間にわたり沈静化し流行は起きなかった。そして18年後の平成7年4月、ザイール中央部にある人口40万のキクウィト市でエボラ出血熱が大流行した。
 密林で働いていた男性が体調不良を訴え病院で死亡。その男性の死因を調べるため、男性の血液がキクウィト総合病院に運ばれた。このときに採血した検査技師が感染し、技師は出血が激しいため腸穿孔と診断されて手術となり、手術スタッフも感染した。このキクウィト総合病院を中心に患者が広まり、患者と接触した医師、看護師、修道女を巻き込んで315人が感染し244人が死亡(致死率77%)した。
 発生から1カ月後、米国はエボラ出血熱の流行と判断。調査のためWHOやベルギーなどのチームとともに現地に入った。ほぼ同時期、患者の1人が首都キンシャサ市に入ったことが分かった。つまりキンシャサ国際空港から全世界にエボラウイルスが蔓延しかねなかった。
 この事実に先進各国は戦慄(せんりつ)し、キンシャサ国際空港を閉鎖。ザイール国内では軍隊がキクウィトの村を封鎖する騒ぎになった。発生から2カ月後、エボラ出血熱は自然に終息し、米疾病対策センター(CDC)は6月20日に終焉を宣言した。住民調査によるとエボラウイルスの抗体を持っている人はほとんどいなかった。このことは感染すればほとんどが発症し、その多くが死亡することを意味していた。
 エボラ出血熱はエボラウイルスによる急性熱性疾患で、ラッサ熱、マールブルグ病、クリミア・コンゴ出血熱とともにウイルス性出血熱(Viral Hemorrhagic Fever:VHF)に属している。通常のウイルスは球状の形をしているが、エボラウイルスは糸状の形をしていた。
 ザイールで分離されたウイルスの遺伝子は、18年前に発生したヤンブク教会病院のウイルス遺伝子とほぼ同じであった。エボラウイルスは、ほかのウイルスと同じように、宿主の細胞の中でしか生きていけない。つまり18年間、エボラウイルスは熱帯雨林のどこかで息を潜め、その凶暴な姿を隠していたのだった。
 エボラ出血熱が全世界の注目を集めたのは、感染者の8割が死亡する致死率の高さだった。エボラウイルスはある日突然姿を消し、思い出したように突然人間を襲った。何年かに1度の間隔で、爆発的に流行して死者の山を築いた。自然界における宿主と媒介動物は不明で、息を潜めていたウイルスが、なぜ突然発生して凶暴化するのか分かっていない。
 米国の陸軍伝染病研究所は、感染経路を調べるための実験を行っている。4匹のアカゲザルを別々のオリで飼育し、その1匹にエボラウイルスを注射すると、残り3匹のうち2匹が感染して死亡した。このことはアカゲザルの分泌物や排泄物にエボラウイルスが含まれ、空気感染したと考えられた。ヒトにおいても同様の可能性は否定できないが、ヒトからヒトへの空気感染は証明されていない。ヒトからヒトへの伝播(でんぱ)は、急性期の患者との直接接触によるものとされている。
 エボラ出血熱に共通していることは、病院内で感染が広まることである。アフリカの病院の医療環境は劣悪で、注射器の消毒は不完全で、それが流行を大きくした。アフリカの発展途上国では注射針は使い捨てではなく、複数の人に使い回されている。そのため感染患者に使用した注射器から他の患者に感染が広まり、さらに患者の血液や体液を介して、医療従事者や家族に感染した。また遺体からも感染することが分かっている。アフリカの一部では、葬式の際に参列者が遺体の口に手を触れ、その手を自分の口に当てる風習があり、この風習で感染者が出ている。
 エボラ出血熱は、さいわいなことに中央アフリカの局地的な流行に限られている。しかし今後、流通のグローバル化により、世界レベルで流行する可能性がある。そのための防疫対策として、平成11年4月に施行された感染症新法では、エボラ出血熱は最も危険な感染症として1類感染症に分類されている。エボラウイルスは日本には常在しないが、予防法や治療法が確立していないため、また致死率が高く伝染力も強いため1類感染症に分類された。
 患者の早期発見と隔離が重要であるが、エボラ出血熱の診断は意外に難しい。症状として出血症状を示さないことがあるからで、熱帯雨林への旅行歴から本疾患を疑うことである。しかし、もしエボラ出血熱が発生したら大騒動になることが予想される。
 エボラ出血熱は、病原体の取り扱いに関する4段階の国際基準のうちBSL4(バイオ・セーフティー・レベル・4)の施設で扱うことになる。BSL4とは、病原体が外部へ漏れないように空気の流れを厳重に管理できることを表す。このBSL4施設は、国内では国立感染症研究所(東京都武蔵村山市)など数カ所にあるが、周辺住民などの反対で稼働が凍結されている。そのためBSL4が必須とされている病原体は国内では扱えず、患者が発生しても、診断のための血液分析はできない。
 最も危険な1類感染症患者は、高度な管理を行う「特定」と「第一種」の感染症指定医療機関が担当することになっている。第一種は各都道府県に1カ所指定されているが、平成19年の段階で25医療機関(47床)にとどまっている。
 エボラ出血熱をテーマにした作品として、ノンフィクション「ホット・ゾーン」や、映画「アウトブレイク」 がある。アウトブレイクとは「爆発的に広がる」という意味で、エボラ出血熱をヒントにした新型ウイルスと人間との戦いを描いたものである。映画では回復したサルの血清を使って治療に成功するが、このような抗血清療法は確立していない。この映画の公開も重なり、エボラ出血熱の騒ぎが大きくなった。

うつぶせ寝新生児死亡 平成7年(1995年)
 平成7年1月5日、東京都目黒区の東邦大付属大橋病院で井上湧介ちゃんが誕生した。生後3日目の1月8日早朝、当直だったK看護師(28)が新生児室の湧介ちゃんにミルクを与えたところ、少しミルクを吐いたが、K看護師はそのまま湧介ちゃんをうつぶせに寝かせた。
 湧介ちゃんを寝かせると、K看護師は新生児集中治療室に移動して検査をしていた。K看護師は1人で15人の新生児を看護していた。約30分後、朝の授乳のために母親の立子さん(31)が湧介ちゃんのそばにいくと呼吸が停止していた。すぐに心臓マッサージなどの救命措置がとられたが、低酸素脳症から重度の脳性マヒになり、約7カ月後の8月9日、湧介ちゃんはミルクをのどに詰まらせ死亡した。
 両親である舞台俳優の井上達也さん(31)と妻の立子さん(32)は、湧介ちゃんが死亡したのはうつぶせ寝が原因として、東邦大に6900万円の損害賠償を求める訴訟を起こした。うつぶせ寝によって敷布団が鼻や口をふさぎ窒息したのは、看護師が乳児を観察する注意義務を怠ったからとした。一方、病院は湧介ちゃんの死因は乳幼児突然死症候群(SIDS)によるもので責任はないとした。
 平成10年3月23日、東京地裁の福田剛久裁判長は病院側の責任を認め、東邦大に約4800万円の支払いを命じる判決を下した。「乳児をうつぶせ寝で寝かせる場合は、鼻や口を圧迫しないような寝具を使い、継続的に観察する注意義務がある」と判決理由を述べ、うつぶせ寝が危険であることを法的に指摘した。病院は控訴したが、平成13年10月17日、東京高裁は控訴を棄却した。このように病院は民事で敗訴したが、この事件は刑事事件としても訴えられた。
 平成12年8月7日、時効(5年)2日前のことである。東京地検は同病院のK看護師(33)を業務上過失致死罪で起訴。うつぶせ寝による看護師の責任が、刑事事件として問われるのは初めてのことであった。同年10月23日、東京地裁で初公判が行われ、K看護師は「過失があったとは考えていない。看護師として精いっぱいやった」と無罪を主張した。
 しかし平成15年4月18日、東京地裁の山崎学裁判長はK看護師に「安全に看護すべき注意義務を怠った」として罰金40万円(求刑禁固8月)の有罪判決を言い渡した。新生児をきちんと監視するか、あおむけに寝かせていれば事故は避けられたとした。
 この判決は医療関係者を驚かせた。当直勤務中だったK看護師は、仕事を怠っていたわけではない。15人の新生児を1人で看護していたのである。病院は看護定数を満たしていたので責任はないとしたが、病院の当直体制の不備、あるいは看護定数を法的に定めている国の責任の方が重大と思えたからである。
 事件当時、うつぶせ寝は寝つきがよく、頭の形がよくなるとされ、全国的に普及していた。当時の日本は、赤ちゃんの約2割がうつぶせ寝で、うつぶせ寝を危険とする認識はなかった。そのような世相の中で、K看護師はうつぶせ寝を理由に罰せられた。
 この事件で病院は「乳幼児突然死症候群(SIDS)が死亡の原因」と主張し、この聞きなれないSIDSが話題になった。SIDSは元気だった乳児が、何の前ぶれもなく突然死する疾患で、乳児死因の第3位になっていた。SIDSの原因は不明であるが、乳児は呼吸の調整機能が未熟なため、突発的な無呼吸状態から死亡するとされていた。SIDSの発生頻度は出生1万人に約3人、平成7年の統計では全国で579人にすぎなかったが、SIDSの概念がはっきりしていなかったこと、うつぶせ寝がSIDSを起こすとの報告もあり、議論がかみ合わなかった。
 多くの看護師は、K看護師が有罪になったことに驚き不満を持った。この事件判決後、看護師の医療保険加入が急増したことからも、この事件の影響が大きかったことが分かる。

遺伝子治療  平成7年(1995年)
 平成7年8月、北海道大病院小児科でADA(アデノシン・デアミナーゼ)酵素欠損症の男児(4)に日本初の遺伝子治療が開始された。ADA酵素欠損症とは、免疫系のADA酵素を産生する遺伝子が先天的に欠損している病気で、免疫機能が弱いため、感染症にかかりやすく、長生きできないとされていた。
 この遺伝子治療は、まずマウスのウイルスにADA酵素を産生する遺伝子を組み込み、患者の血液から血液幹細胞を含む白血球を取り出し、ADA酵素遺伝子を組み込んだウイルスを患者の血液幹細胞に感染させる。患者の白血球の遺伝子にADA酵素の遺伝子が組み込まれると、その白血球細胞を培養して患者の体内に戻すことである。
 平成9年3月、男児の体内に戻された白血球細胞がADA酵素を産生、感染への免疫力が認められ治療は終了し、日本初の遺伝子治療が無事成功した。この遺伝子欠損症のADA酵素欠損症への遺伝子治療は、世界的では平成2年から行われていたが、ADA酵素欠損症は世界で100人程度のまれな病気であった。つまり遺伝子欠損症への遺伝子治療は、その対象疾患が限られていた。
 そのため遺伝子欠損症だけでなく、エイズやがんの治療にも遺伝子治療が期待された。遺伝子治療とは病的細胞の持つ遺伝子に、何らかの遺伝子操作を加えて治療することで、人間のDNAを操作することに倫理的問題、技術的困難が伴うが、医学の進歩により治療対象疾患を広げようとした。エイズやがんの治療に大きな期待が持たれたが、ADA欠損症の遺伝子治療ほど順調ではなかった。
 平成9年には、エイズ感染者の発病予防と遅延効果を狙った遺伝子治療が熊本大付属病院で承認されたが、先行して行った米国で、この遺伝子治療が無効であることが分かり中断となった。
 平成10年、東京大医科学研究所で腎臓がんへの遺伝子治療が始まった。手術で取り出したがん細胞にGM-CSF遺伝子を組み込ませたウイルスを入れて培養し、それをがんワクチンとして患者に接種する方法である。
 平成11年3月、岡山大は非小細胞肺がん病巣に、がん抑制遺伝子p53を注入する治療が行われた。アデノウイルスに結合させたがん抑制遺伝子p53をがん細胞に入れれば、がん細胞は増殖せずに死滅するという理屈である。がん抑制遺伝子を、いわば抗がん剤として用いたのであるが、がんは縮小したものの、治癒には至っていない。欠乏している遺伝子を注入することは比較的簡単であるが、がん細胞はすでに遺伝子が変異しているので、治療成績は良好とはいえなかった。
 現在、世界では600以上の疾患に対し、遺伝子治療の研究や臨床応用が進められているが、いずれもそれほどの成果を上げていない。ヒトはマウスとは違い遺伝子の導入効率が悪く、また技術が確立しておらず、安全性が大きな壁となっている。そのため、マウスではなくサルを用いての実験が進められている。遺伝子治療は素晴らしい可能性を持っているが、未知の部分が多く、まだ期待される実用には至っていない。

毒グモ騒動 平成7年(1995年)
 平成7年11月、大阪府高石市に住む昆虫好きの会社員が、高石市内の工場敷地で日本にいるはずのない毒グモを見つけた。これが毒グモ騒動のきっかけであった。
 この毒グモ「セアカゴケグモ」は高石市だけでなく、大阪府南部の堺市、泉大津市などでも大量に生息していることが分かった。さらに、三重県四日市市で70匹、関西空港で54匹が見つかり、各地に警戒網が敷かれた。日本で見つかったセアカゴケグモは、船に紛れて入り込んだとされた。
 セアカゴケグモは、オーストラリアを中心に熱帯・亜熱帯に生息し、ヒメグモ科ゴケグモ属に分類される。ゴケグモは交尾のあと雌が雄を食い殺すことがあり、また通常雌が多いことから、この黒っぽい背中に赤い帯状の色がついているクモは、セアカゴケグモ(背中の赤い後家蜘蛛)と命名されていた。
 体長は4〜10ミリで猛毒を持ち、かまれると死に至ると報道され大騒動になった。「かまれると死ぬかもしれない」という恐怖心から、駆除のためのクモ探しが全国的に行われた。しかし、かまれると死ぬというのは誤報であり、素手でつかんでかまれることはあっても、毒性は低く死ぬことはない。12月5日、セアカゴケグモの毒性を調査していた大阪府は「性格はおとなしく、毒性は弱いため人間が死ぬほどの影響はない」と安全宣言を出した。
 セアカゴケグモは、花壇の縁石や墓石のすき間、側溝の中などに巣をつくって生息する。日本では、セアカゴケグモが沖縄の八重山諸島で見つかった記録があるが、人間を襲った事例はない。外国では死亡例が報告されているが、それは何度もかまれ、アナフィラキシーショックで死亡した例であった。
 セアカゴケグモは1800匹以上見つかったが、これは天敵がいないために帰化した可能性があった。この騒動でクモ探しが全国的に始まり、平成7年12月、日本国内に生息していないはずのハイイロゴケグモ数匹が、横浜市中区本牧のコンテナ置き場で見つかった。ハイイロゴケグモは、セアカゴケグモより毒性の弱いクモで、性格もおとなしく人をかむことはない。厚生省横浜検疫所職員がコンテナ置き場のベンチの下から見慣れないクモ数匹を見つけ、国立科学博物館に鑑定を依頼し、ハイイロゴケグモであることが判明した。
 ハイイロゴケグモは、セアカゴケグモと同じヒメグモ科ゴケグモ属のクモで、中南米やアフリカなどに生息する。体長は約10ミリで茶色の背中に斑紋があり、材木やバナナなどの船の積み荷に紛れ込んで上陸し、繁殖したとされている。暖冬が繁殖を助けたらしい。
 クモは餌の昆虫をかんで毒液を注入し、動けないようにして食べる。このことから昆虫にとって、すべてのクモは毒グモである。しかしクモの毒牙は短く、毒の量も少ないため、人間に危害を加えるクモはきわめて少ない。世界には3万種類のクモがいるが、最も危険なクモは地中海クロゴケグモである。クロゴケグモにかまれると、痙攣を起こし死に至ることがまれにある。痙攣はクロゴケグモが持つ神経毒であるラトロトキシンが、ヒトのカテコールアミンを大量に放出させるためとされている。日本では毒グモで死亡した例はない。今回の毒グモ騒動はあまりに神経過敏と批判が出てやがて沈静化した。

地下鉄サリン事件 平成7年(1995年)
 平成7年3月20日、月曜日の朝のことである。東京の地下鉄はいつものように通勤客で混雑していた。そして午前8時すぎ、営団地下鉄の霞ヶ関駅に向かう、日比谷線、丸の内線、千代田線の3路線5本の満員車両で異様な臭気が生じた。これがいわゆる「地下鉄サリン事件」の始まりだった。
 乗客は目の痛み、頭痛、嘔気を感じ、ドアが開くと車内からホームへと雪崩込み、ホームから地上へ逃げようとしたが、呼吸困難から次々に倒れ込んだ。地下鉄職員は、乗客を助けようとして、サリンとは知らずに異臭物を排除しようとして倒れた。
 地下鉄サリン事件は、午前8時の通勤ラッシュ時を狙った犯罪であった。地下鉄構内には激しい刺激臭が溢(あふ)れ、駅周辺は騒然となった。最初の119番通報は、日比谷線・築地駅の駅員からだった。その数分後には茅場町、神谷町、小伝馬町、霞ヶ関、八丁堀、人形町、本郷三丁目、中野富士見町、中野坂上、新高円寺、荻窪、赤坂見附、国会議事堂前の駅からも、「地下鉄で多数の人が倒れている」と救急車の要請が東京消防庁に入った。通報で駆けつけた救急隊員や警察官はサリン事件とは知らず、防毒マスクもしないで、無防備のまま構内に飛び込んだ。駅はパニック状態となり、救急車が来ても搬送できないほど混乱した。
 8時40分、東京都中央区の聖路加国際病院に最初の患者が搬入された。当時、院長だった日野原重明は、この異常事態に直ちに全職員に集結命令を出した。玄関には「大事件発生のため、外来診療を中止します」の看板を掲げさせ、通常の診療をすべて中止とした。聖路加国際病院の礼拝堂が広い病室に変わり、698人が治療を受け111人が入院となった。緊急事態のためカルテを作れず、患者の首に厚い紙をぶら下げ、カルテ代わりにした。聖路加国際病院以外の他の病院でも同じように重症患者が廊下まで溢れた。
 病院の検査で、被害者のコリンエステラーゼが低値していたことにより、アトロピンの投与が行われた。当時、信州大医学部付属病院第三内科教授だった柳澤信夫はテレビで事件を知ると、前年6月に起きた松本サリン事件と似ていることから、サリンの治療法を聖路加国際病院に電話で伝えた。柳澤医師のアドバイスを受け、サリンの解毒剤パムが投与されたが、被害者が多数だったため、都内の各病院から解毒剤パムが集められた。しかしそれだけでは足らず、東海道新幹線沿線の各病院にもパムの収集令が出された。
 警視庁は午前9時、特捜本部を設置。「地下鉄駅構内毒物使用多数殺人事件」の捜査を開始したが、同時多発の状況から複数の者が毒劇物を仕掛けた組織的な無差別テロと断定。東京都知事・鈴木俊一は陸上自衛隊に災害派遣を要請した。自衛隊が毒ガス事件で派遣を要請されたのは初めてのことであった。自衛隊は、自衛隊中央病院などから医官21人、看護官19人を警察病院や聖路加国際病院など8病院に派遣した。
 事件発生から2時間後、警視庁は「毒ガスはサリン」と発表した。松本サリン事件では毒ガス特定に6日かかったが、地下鉄サリン事件は、松本サリン事件の経験から2時間でサリンを検出した。
 被害にあった地下鉄は、大手町、東京、銀座などのオフィス街を通っていた。そのため犠牲となった乗客はサラリーマンやOLが中心であった。警視庁は後に死者12人、重軽傷者約5500人と発表した。死者の中には、地下鉄職員2人が含まれていた。東京都心が、悪夢のような無差別テロ、不特定多数を狙った無差別殺人に襲われ、世界でも類を見ない化学兵器テロに世界中に衝撃が走った。
 捜査本部は地下鉄サリン事件の犯人について、おおよその見当がついていた。前年の松本サリン事件と、その直後に起きた山梨県上九一色村での異臭騒ぎで見つかったサリンの副生成物が、今回検出された副生成物と一致していたからである。
 事件から2日後の22日、警視庁は目黒公証人役場事務長・仮谷清志さん(68)の拉致監禁死亡容疑で、上九一色村にあるオウム真理教の教団施設を強制捜査、大量の化学薬品を押収した。地下鉄サリン事件発生から約半月後の平成7年4月8日、事件の実行犯の1人である林郁夫(48)が別件で逮捕された。この林郁夫の自供によって事件の全貌(ぜんぼう)が明らかになった。
 林郁夫は、石川県内に潜んでいるところを逮捕され、石川県警から警視庁に身柄が移された。逮捕直後は黙秘していたが、まず元ピアニストの女性へ麻酔注射を打った事件について、組織防衛上やむを得なかったと容疑を認め、その後、医師としての良心を取り戻したのか、せきを切ったように地下鉄サリン事件の詳細を述べた。
 「オウム真理教の幹部5人が5手に分かれ、サリン入りのナイロンポリ袋を持って地下鉄に乗り込んだ。実行犯は乗車口の床にポリ袋を置き、先のとがった傘で数回刺し、すぐに地下鉄を降りて逃走した。捜査の攪乱(かくらん)を狙って、ポリ袋は対立する宗教団体の新聞でくるんでいた」と自白した。
 林郁夫は慶応大医学部出身の医師で、これまで医師として人の命を救うために仕事をしてきたが、多くの人を殺してしまったことに良心の呵責(かしゃく)を覚えたのである。林は、「オウム真理教には逆らえなかった」と語った。
 実行犯5人は、前日に下見をして、事件当日は山梨県上九一色村の教団施設・第6サティアンで傘の先で液体の入ったナイロン袋を突き破る練習をしてから現場に向かった。
 サリンは猛毒の神経ガスの一種で、その毒性は青酸カリの約500倍とされ、7トンを東京上空からまけば、首都圏すべてが死の街に変わるほどで、その威力は水爆に匹敵した。
 松本智津夫(教祖名:麻原彰晃、40)は、サリンによる大量殺人を計画、上九一色村の教団施設内に数十億円をかけて大型プラントを建設。そのプラントで70トンのサリンを製造する予定だった。70トンのサリンは、日本人すべてを殺害できる量であったが、プラントでのサリン製造は失敗し、悪臭騒ぎが起きたためサリンは手作りになった。
 松本は、世紀末に起こるハルマゲドン(世界最終戦争)に備え、サリンの大量備蓄を命令。第6サティアンで「厚生省」の遠藤誠一(34)と化学班」キャップ土谷正実(31)にサリン製造を指示し、教団への捜査の攪乱を狙って地下鉄サリン事件を実行した。実行犯は、幹部である村井秀夫(36)、林郁夫(48)、豊田亨(27)、横山真人(31)、広瀬健一(30)、林泰男(37)ら13人であった。
 当初は、東京・山手線にサリンを散布する計画だったが、オウム真理教は目黒公証人役場事務長・仮谷清志さんの拉致監禁死亡事件、坂本堤弁護士一家殺害事件によって、警察の大規模捜査に危機感を持っていた。そのため捜査を撹乱するため、警視庁などの官公庁が集まる霞ヶ関駅を通る地下鉄での無差別大量殺人に変更したのである。
 5月15日、仮谷さん拉致監禁死亡事件の監禁容疑で特別手配していたオウム真理教・井上嘉浩(25)ら4人が東京都秋川市(現あきる野市)で逮捕され、これを機に翌16日、警視庁は地下鉄サリン事件の殺人・殺人未遂容疑で、オウム真理教幹部ら41人の一斉逮捕に踏み切った。さらに上九一色村の第6サティアンの隠し部屋に横たわっていた松本智津夫を殺人容疑で逮捕した。
 地下鉄サリン事件、松本サリン事件、坂本堤弁護士一家殺害など、オウム真理教による一連の事件で計189人が起訴され、4人の無期懲役、7人の死刑が確定している。松本智津夫は平成18年9月15日、最高裁判所への特別抗告が棄却され死刑判決が確定している。
 仮谷さん監禁致死事件の平田信(43)、地下鉄サリン事件の高橋克也(49)、菊地直子(36)らは今も逃亡している。この事件を契機にサリン防止法(サリン等による人身被害の防止に関する法律)が施行され、サリン等の製造、所持には7年以下の懲役、発散させた場合は無期懲役または2年以上の懲役となった。
 地下鉄サリン事件から10年以上が経過しているが、現在でも後遺症に悩まされている被害者が多い。後遺症は寝たきりからPTSD(心的外傷後ストレス障害)までさまざまであるが、被害者への公的支援はほとんどなされていない。教団による損害賠償金は約3割にとどまり、被害者が賠償金を全額受け取れる可能性は低い。そのため国が未払い分を見舞金として払うことが検討されている。

京北病院安楽死事件 平成8年(1996年)
 平成8年6月4日、京北町立・国保京北病院のT病院長(58)が、入院中の末期がん患者に筋弛緩剤を投与し、安楽死させていたことが報道された。この安楽死事件は、京都府警に「京北病院で末期がん患者が死亡したが、安楽死させられたらしい」という匿名の電話があったことから発覚した。
 この安楽死事件が起きたのは、同年4月27日のことだった。患者は、T病院長と20年来の知り合いだった48歳の男性で、胃がんがすでに肝臓に転移していた。T病院長は苦しむ患者にモルヒネと鎮静剤を投与したが効果がなく、そのため安楽死を考え「筋弛緩剤を持ってきてくれ」と看護師に命じた。
 看護師はT院長の言葉に驚き躊躇(ちゅうちょ)したが、T院長が怒鳴るように命じたため、筋弛緩剤レラキシン200mgを生理食塩水100mLに溶かし、「これ以上できません」と点滴を拒否した。そのためT院長が点滴を行い、患者はその数分後に死亡した。
 T院長は報道陣に対し、「生から死へのスムーズな移行が医師の務めである」と答え、この事件をきっかけに、安楽死の法整備の議論をしてほしいと訴えた。T院長に加害者の意識はなく、逆に安楽死の是非を堂々と世に問う発言を繰り返した。
 T院長は町役場で記者会見し、10年前から末期がん患者数人を安楽死させていたことを明らかにし、末期がんに苦しむ患者への医療の在り方を世に問う姿勢をみせた。しかしT院長のこの言動は、記者会見のその日のうちに急転することになった。記者会見からしばらくすると、T院長はそれまでの発言を否定するようにマスコミを避け、当初の強気の発言だけがポツンと残されてしまった。そして時間とともに、この安楽死事件の雲行きが変わった。
 まず看護師、遺族らが「患者に苦しんでいる様子はなかった」と証言。またT院長は患者の主治医ではなく、主治医に相談なく単独で安楽死を選択していたことが分かった。主治医は、「もし病室にいたら絶対に止めさせていた」と発言した。
 さらに患者本人へのがんの告知はなされておらず、家族への事前の説明もなかった。そのためT院長の当初の発言に疑惑が生じてきた。この騒動のなかで、T院長は「現場に早く復帰して地域医療に取り組みたい」と表明したが、京都府警特捜班はT院長宅と病院を殺人容疑で家宅捜索を行った。6月22日、京北町はT院長に辞任を要請した。
 町民たちはT院長の復帰を望む署名運動を行ったが、看護職員30人全員が「もし院長が復帰したら辞職する」と町長に表明。そして9月8日にT院長の解任が決定した。
 この京北病院安楽死事件は日本中の注目を集めたが、この事件は誰も予想しない結末を迎えた。それまで記者会見で安楽死を強調していたT院長が、発言を変え「筋弛緩剤の投与は顔面のけいれんや患者の苦悶(くもん)の表情を和らげるため」との申立書を警察に提出したのだった。筋弛緩剤を投与すれば、患者が死亡するのは医師の常識で、T院長はそれを十分に認識していたはずである。それなのに筋弛緩剤の投与は安楽死が目的ではなかったとしたのだった。
 京都府警は殺人容疑でT院長を書類送検とした。しかし平成9年12月12日、京都地検は死因との関連性や殺意の立証が困難としてT前院長を不起訴処分にした。T院長を不起訴処分にした地検の判断は、文字通り証拠不十分で立件を断念したのではなく、証拠不十分を理由に安楽死を法律で裁くことを回避したのである。この地検の判断によって、京北病院事件におけるT院長の刑事責任は不問にされたが、それに異を唱える者がいなかったことが地検の英断と思われる。

 クリプトスポリジウム 平成8年(1996年)
 平成8年は病原性大腸菌O157が大流行した年であった。このO157騒動の陰に隠れてしまったが、8800人の被害者を出したクリプトスポリジウムによる集団感染があった。大きな話題にならなかったが、本件は水道水神話、社会衛生神話を揺るがす大事件だった。この事件は、東京から北西約50キロにある埼玉県越生(おごせ)町で発生した。越生町は、梅林や滝などの自然に恵まれ、「緑とせせらぎの町」とうたわれていた。
 平成8年6月7日の金曜日、越生町の3つの開業医と市川病院に下痢の患者が来院、翌日には下痢の患者が次々と押し寄せた。そして10日の月曜日には患者は爆発的に増え、市川病院は下痢の患者であふれた。病院のトイレは長蛇の列をつくり、病院周辺がトイレ代わりになった。下痢は下着を脱ぐ時間もないほどの激しいものであった。患者の多くは、腹痛と下痢による脱水症状を示した。
 越生町と坂戸保健所は、風邪(感染性胃腸炎)による下痢を疑ったが、食中毒も否定できなかった。そのため患者や調理者の便、給食の保存食などを調べたが、原因となる病原微生物は検出されなかった。越生町の小・中学校の給食は、自校調理方式なので学校給食による集団発生は考えにくかった。また患者は小・中学校の生徒だけでなく、越生町全体にわたっていた。
 最終的に人口約1万3800人の越生町で、被害者は住民の6割強に当たる8800人が調子を崩し、2800人が病院で手当てを受けた。小・中学校でも7割の生徒に下痢を認め、また越生町の住人ばかりでなく、他の町から研修に来ていた80人、ゴルフ場に来ていた9人も同様の症状をおこした。
 埼玉県衛生研究所の山本徳栄主任は、塩素処理がされている水道水で生存可能なのは原虫類であることから、原虫類に焦点を当てて検査を行った。そして下痢を起こした患者の糞便、水道水を調べ、クリプトスポリジウム(Cryptosporidium paruvum)の原虫を検出したのだった。山本主任は、大阪市立大医学部の井関基弘助教授に確認を依頼、6月18日、この集団感染がクリプトスポリジウムによることが確定した。越生町の集団下痢事件によって、クリプトスポリジウムが知られるようになったが、クリプトスポリジウムという耳慣れない原虫の名前を知っている者はほとんどいなかった。
 水道水による越生町の集団下痢は国内最大規模で、この事件によって「水道水に病原菌はいない」とする水道水神話が崩れた。水道水には殺菌のため一定濃度の塩素が加えられていたが、クリプトスポリジウムは水道法に基づく水質基準の塩素濃度では死ななかった。国や地方自治体の水道関係者は、このことに大きな衝撃を受けた。
 越生町の水道は、約8割を越生町の越辺(おっぺ)川水流から、約2割を埼玉県営水道の利根川水流から供給していたが、利根川を水源とした水道からの感染者はいなかった。つまり、町営水道水がクリプトスポリジウムに汚染されていたのである。クリプトスポリジウムは越生町の浄水場の原水、越辺川の水、越辺川上流の下水処理施設の排水からも検出された。27日に越生町は町営水道からの給水を停止し、県営水道に切り替え、集団感染は終息に向かった。越辺川の水がクリプトスポリジウムを含んだ家畜の排せつ物で汚染されていたのである。
 クリプトスポリジウムが日本で報告されたのは、昭和61年からのことで、高知、大阪、東京などで年間数件程度であった。日本で初めての集団感染は、昭和62年、青森県黒石市で40人が下痢を起こし10人の便からクリプトスポリジウムが検出された事例である。
 平成6年8月には、神奈川県平塚市の飲食店の雑居ビルで集団発生があった。感染の原因は、ビルの受水槽の上部に穴が開いていて、隣接した汚水槽の排水ポンプが故障し、この穴から汚水や排水が受水槽に混入したことによる。この平塚市の事例では、クリプトスポリジウムに暴露したのは736人で、発症者が461人、124人が病院で治療を受け、5人が入院となった。この集団感染は、水道そのものの汚染ではなかったので、水道関係者は注目していなかった。
 平成16年8月に長野県のプールを利用した183人が下痢を起こし、74人の患者の便からクリプトスポリジウムが検出されている。このプール感染で興味深いのは、このプールを利用した者が別のプールを利用し2次感染を起こしていることである。この2次感染で48人が症状を示し、6人中2人の便からクリプトスポリジウムが検出されている。
 世界的なクリプトスポリジウムの集団発生は、1984年に米国のテキサス州で、井戸水から900人が感染している。また87年にはジョージア州で河川を水源とした水道水によって3万2000人が感染し、それぞれの感染率は34%、40%と高値であった。
 1993年には、ウィスコンシン州ミルウォーキーで、湖水を水源とする水道水を飲んだ160万人のうち40万3000人が感染(感染率25.1%)、約4000人が入院、AIDS 患者など400人以上が死亡した。このミルウォーキーの集団感染が世界最大のもので、クリプトスポリジウムはAIDS患者、免疫抑制剤や抗がん剤の服用で抵抗力が落ちている場合に重症化しやすかった。
 クリプトスポリジウムは、1912年に発見された原虫で、ヒトへの感染は76年に初めて報告されている。クリプトスポリジウムは正常なウシやネコの数%に常在していて、ヒトには常在していない。ウシなどの腸内で繁殖し、便とともに排出される。排出されたクリプトスポリジウムは、オーシストという固い殻に覆われ、オーシストは数カ月間水中にいても感染力を保持している。直径が4〜6μmと小型であるため、浄水処理をくぐり抜け、オーシストの塩素への強さは大腸菌の69万倍とされ、水道水の塩素消毒では死滅しなかった。そのためいったん汚染すると安全な水の確保は困難であった。
 クリプトスポリジウムは感染すると、吐き気、水様性下痢、腹痛、発熱などの症状が、3日から1週間続くが、健常人であれば自然に治癒する。国内での死亡例はないが、エイズ患者、老人や子どもは危険である。クリプトスポリジウムの診断は、検便でオーシストを検出することである。患者の便は多数のオーシストを含むが、極めて小さいために顕微鏡で見落とされることが多い。有効な治療法はなく対症療法のみである。
 ボランティアを用いた米国の実験では、1人当たり30個のオーシストを飲むと20%が発症し、132個のオーシストを飲むと半数が発症した。また患者の世話をしていた18人の看護師のうち8人が感染した報告もあり、感染力の強いことが分かる。感染力は赤痢菌の数百倍で、患者が下痢をすると約10億個のオーシストが放出される。
 クリプトスポリジウムは、加熱と冷凍に弱いので1分間煮沸すれば感染は防止できる。水道原水の水質検査、浄水処理の徹底が集団感染の防止になるが、塩素消毒が無効であるため完全な防止は困難である。クリプトスポリジウムを防止するには、1μm以上の粒子を除去できる浄水器が有効である。
 越生町で発生したクリプトスポリジウム感染は、水道水による集団感染として関心を集めた。越生町は水道料金を23%値上げし、4億円をかけて最新式浄水施設を完成させた。膜の穴の直径は最大0.2μmで、この濾過装置を取り付けたのは越生町が全国初であった。

らい予防法廃止法案 平成8年(1996年)
 らい病は聖書や仏典にも記載されていて、人間の歴史とともにあった疾患である。皮膚や末梢神経が侵される感染症で、病気が進行すると容貌が崩れ、手足が変形することから、人々はこの病気を極端に恐れていた。らい病は古くから天刑病(神の怒りを受けた病気)とされ、患者は迫害を受けた。
 さらに患者への偏見と迫害を助長したのが、国が「療養所と呼ばれる強制収容所」をつくったことである。療養所に入れば二度と外には出られない恐怖が、らい病に加わった。
 かつてらい病は遺伝病とされていた。それはらい菌(Mycobacterium leprae)の感染力が非常に弱いため、容易に他人には感染せず、家庭内で長期間患者と接触する親子間での感染があったからである。しかし明治6年、ノルウェーの医師G.H.A.ハンセンが、らい患者の組織から結核菌に似た桿状の細菌を発見。それ以来「らい病はらい菌による慢性の感染症」となった。
 らい病はハンセン病とも呼ばれ、らい菌は感染しても、発病は極めてまれであった。その証拠に、患者に接する療養所職員、医師、看護師の中でらい病を発症した事例は報告されていない。らい菌の感染力は極めて低く、感染したとしても増殖は緩やかで、潜伏期間は5年以上とされている。このようにらい病は遺伝病ではなく、感染症であることが証明されたが、治療法のない不治の病だったこともあり、患者への差別や偏見は改善されなかった。
 明治時代、らい病患者は、神社仏閣で物乞いをする姿が多くみられた。患者の皮膚は結節様に盛り上がり、いわゆる獅子面となった。その当時の日本は、日清、日露両戦争に勝利し、文明国の仲間入りを目指していた。そのため明治政府は、らい病を社会の表面から隠す政策をとることになる。
 明治40年、「癩予防ニ関スル法律」がつくられ、らい患者をへき地や孤島などに強制隔離することになった。この隔離収容を推進させるため、国はらい病を感染性が極めて高い疾患と宣伝して人々の偏見をあおった。青森から沖縄まで13カ所に国立療養所を配置し、療養所長に司法権と警察権を与えたため、入園者は療養所長に逆らうことができなかった。ちなみに、明治35年の第1回らい病患者調査では患者数は3万393人で、大正8年の第3回調査では1万62611人であった。
 大正4年、東京全生病院長の光田健輔は「らい病患者への優生手術」を行った。入所者同士が結婚する場合、子孫を残すことを許さず、男性には断種、女性には中絶と堕胎を強制した。これは光田の独断であったが、以後、日本における優生政策の一環として行われた。
 昭和18年、米国でらい病の特効薬プロミンが開発され、昭和22年には日本でもプロミンの投与試験が開始された。昭和23年の日本らい学会でプロミンの効果について発表がなされ、この特効薬によって、らい病は恐ろしい病気ではなくなった。
 昭和27年、WHOの「らい専門委員会」は患者隔離を見直すと表明。そのため故郷へ帰れると考えた入園者たちは、これまでの隔離政策を変えるために立ち上がった。このように時代の流れは変わったが、当時のハンセン病の国立療養所長であった光田健輔(岡山・長島愛生園)、林芳信(東京・多磨全生園)、宮崎松記(熊本・菊地恵楓園)の3園長は、患者の意思に反して、患者を収容する法律、断種、逃走罪などの罰則設定の必要性を国会で証言した。そのため、昭和28年に改正した「らい予防法」は従来の「癩予防法」となんら変わらず、日本は世界でも珍しい隔離政策を続けることになった。なお隔離政策に貢献したとして、光田健輔は後に文化勲章を受けている。
 当時の国の担当者、療養所の職員、ハンセン病学者は、「入園者たちが普通の人と変わらないこと、感染の恐れがないこと、後遺症を残しているだけであること」を十分に認識していたが、隔離政策は続けられた。隔離政策は医学的根拠を欠き、患者の尊厳と基本的人権を著しく侵害していた。そのため患者は毎年「らい予防法」の改正、廃止を国に働き掛けたが、この運動が実を結ぶには40年以上の月日がかかった。
 平成7年4月22日、日本らい学会はハンセン病患者の隔離政策を廃止する見解をまとめた。日本らい学会は「偏見に満ちた法律の廃止を、積極的に求めなかったことを反省する」と表明し、同時に、患者の9割が療養所に入っているので、予防法を廃止すると入居者の行き場がなくなると釈明した。
 平成8年1月、菅直人厚相は、「行政としても深い陳謝と反省の意を表する」と患者に謝罪。同年3月27日、国会では全会一致で「らい予防法廃止法案」が成立した。明治40年制定の「癩予防法」から88年間続いた強制隔離の歴史にようやく幕が下りた。らい予防法廃止法案によって、ハンセン病患者は、一般の病院や診療所で健康保険を使って治療を受けられるようになった。
 平成10年、九州の国立ハンセン病療養所に収容されていた元患者13人が、強制隔離や断種など国の誤った政策で苦しんだとして、国を相手に1人当たり1億1500万円の支払いを求める国家賠償請求訴訟を熊本地裁に起こした。平成13年5月11日、熊本地裁は国の隔離政策は違憲と判断。同月23日、小泉純一郎首相は控訴を断念、国はこれまでのハンセン病政策に対して責任を認めて謝罪した。
 平成10年から厚生省が行った社会復帰支援事業は、療養所を出るときに最大150万円の助成金だけだったが、この判決により「ハンセン病補償法」が成立し、元患者には800万から1400万円の賠償金が支払われるようになった。
 現在、ハンセン病患者は約4500人とされ、そのほとんどが後遺症のみの患者である。しかし長期にわたった隔離のため、一般社会での生活が困難となり、療養所から外に出られないでいる。なお日本の新規ハンセン病患者は年間10人以下で、治療法が確立しているので後遺症を残すことはない。
 平成15年11月、熊本県の南小国町・黒川温泉でハンセン病療養所入所者の宿泊拒否問題が起きている。宿泊を拒否した旅館は廃業に至ったが、このようにハンセン病への偏見がまだ残っている。平成20年現在、国立ハンセン病療養所において療養生活を送っている約3000人の入所者の平均年齢は80歳で、その大多数は社会復帰が困難な状況にある。
 ハンセン病を取り扱った文学書としては小川正子著「小島の春」をはじめ、北条民雄著「いのちの初夜」、津田せつ子著「随筆集 曼珠沙華」、林 富美子著「野に咲くベロニカ」などがある。

岡光事務次官福祉汚職事件 平成8年(1996年)
 大蔵省の主計局次長の蓄財疑惑、通産省の業者たかり事件、厚生省の薬害エイズ事件など、平成8年は、官僚たちの不祥事が次々と暴かれ、腐敗した役人たちに国民がうんざりとさせられた年であった。
 薬害エイズ事件で大揺れに揺れていた厚生省は、岡光序治(58)を事務次官に起用し、薬害エイズで失った信頼を取り戻そうとした。岡光序治は厚生事務次官の最後の切り札として期待された。しかしこの岡光こそが、その後に発覚する特別養護老人ホーム汚職の中心人物であった。厚生省のトップが福祉屋と癒着し、福祉そのものを食い物にしていた。
 この事件は、特養ホームの内部告発によって発覚した。平成8年11月18日、前埼玉県高齢者福祉課長・茶谷滋(39)が収賄容疑で逮捕された。逮捕されたのは埼玉県を中心に特養ホームの建設と経営を手がけていた社会福祉法人・彩福祉グループに便宜を図っていたからで、その彩福祉グループ代表・小山博史(51)も贈賄容疑で逮捕された。小山博史から茶谷滋へ、現金1000万円が特養ホームの許認可のワイロとして渡されていた。
 逮捕された茶谷滋は、岡光序治の厚生省の部下で、平成4年から高齢者福祉課長として埼玉県に出向していた。出向の間、岡光が茶谷を小山に紹介、小山を支援するように要請していた。厚生省から地方への出向は通常2年であるが、茶谷の出向は3年に延長されていた。これは、小山を援助するための岡光の人事だった。
 茶谷は、逮捕される直前の10月に行われた衆院選に、自民党公認で埼玉6区から立候補している。選挙の資金も人脈もすべて彩福祉グループの小山の丸抱えだった。当時、首相だった橋本龍太郎をはじめ小渕恵三、梶山静六などの大物議員が応援に来たが、結果は落選だった。
 小山と茶谷が逮捕されたが、この補助金汚職はまだ序幕にすぎなかった。2人が逮捕された同じ11月18日、朝日新聞は岡光序治が特養ホームの設置にからむ補助金交付などの便宜を図ったお礼として、小山からゴルフ会員権などを受け取っていたと報道。翌19日、この報道により岡光は辞任。事務次官になって4カ月目のことであった。
 12月4日、警視庁捜査二課は岡光序治を収賄容疑で逮捕。容疑内容は小山から現金6000万円を厚生省官房長室で受け取っていたこと、さらに乗用車(350万円相当)を3年間無償で提供を受け、ゴルフ会員権(1600万円相当)をもらっていた。
 事務次官クラスが逮捕されたのは、リクルート事件で労働次官と文部次官が東京地検に摘発されて以来、戦後3人目のことであった。さらに岡光の妻(51)が、彩福祉グループの社会福祉法人の理事を務めていたことも報道された。
 岡光序治は幼くして父親を病気で亡くし、努力して東大法学部を卒業、使命感を持って厚生省に入省したとされている。一方、贈賄側の小山博史は、かつての総務庁長官・玉置和郎の秘書だった経歴を持ち、秘書時代に厚生省と密接な関係をつくり上げ、岡光とは厚生省の勉強会で知り合い、20年来の付き合いだった。
 小山博史は、勉強会「医療福祉研究会」を設立し、会長として岡光を祭り上げ接待した。接待の場所は赤坂、向島、浦和市内の料亭で、30人の厚生官僚と付き合い、次官候補はすべて押さえていると豪語していた。小山は、仲間からは陰の厚生事務次官と呼ばれ、厚生省の内情に精通していた。小山博史は、平成5年に病院経営に失敗すると、福祉事業に乗り出した。岡光から厚生行政の情報を取り、厚生行政による事業を先取りして、事業を展開していった。
 特養ホームは「65歳以上の身体精神の障害のために看護を必要とする者が入る施設」で、昭和38年の老人福祉法によって推進が定められた。特養ホームをつくる場合、国が総額の半分を、県が4分の1を、残り4分の1も市町村が補助し、低利融資を受けられるようになっていた。さらに開設後は、お年寄り1人に対し補助金が出る仕組みになっていた。このため特養ホームは認可さえ下りれば、必ず儲かる仕組みになっていた。小山が特養ホームの申請をすると、異例の早さで次々に許可されていった。小山は埼玉県と山形県の8カ所で特養ホームの建設と経営を手掛け、小山が経営する建設会社「ジェイ・ダブリュー・エム」が、これらの特養ホームの建設を独占していた。
 ジェイ・ダブリュー・エムはいわゆるトンネル会社で、特養ホームを建設するだけの能力はなかった。そのため別の建設会社に低額で下請けに出す「丸投げ」を行っていた。この「丸投げ」によって、小山は27億円という巨大な差額を稼ぎ、下請けから2割のキックバックを受けていた。小山は埼玉県だけで6つの福祉法人の認可を受け、福祉行政を食い物にした一部の資金が茶谷滋や岡光序治らの厚生官僚に渡っていた。
 岡光序治は老人保健福祉部長だった平成元年に、「高齢者保健福祉推進10カ年戦略(ゴールドプラン)」をつくり、特養ホームを全国で29万床増床することを国家目標に掲げた。このゴールドプランについて、小山にさまざまな助言をしていた。
 この事件で目立つのは、通常とは異なる贈収賄の構図であった。通常、不正を仕掛けるのは贈賄側で、受け身となるのが収賄側である。業者は政治家や官僚の権力に期待し、料亭やゴルフ場での接待を繰り返してカネを握らせ、その見返りとして法律改正や仕事の斡旋、補助金交付などの頼みごとをした。
 しかし今回の事件はそれが逆で、厚生事務次官まで昇りつめた岡光序治が、自分の資金づくりに小山博史を利用していた。岡光が小山という贈賄屋を丹誠こめて育てあげ、小山に特別養護老人ホームの建設を独占させ、国の補助金を自分にバックさせる構造をつくっていた。岡光は地位を利用して金銭が懐に入るシステムを考案した確信犯であった。官僚倫理レベルを遙(はる)かに超える犯罪で、岡光は退官後に広島県知事選挙に出るつもりだった。
 この事件で、岡光序治の妻(51)も業者に便宜を図ってもらい、「おねだり妻」という新語が生まれた。岡光の妻は、提供を受けた車の色が気に入らないと言っては取り換えさせ、マンションの購入資金だけでなく、改築費まで出させていた。内助の功ではなく、内助の罪をつくっていた。その一方で、岡光は省内の親しい女性を同伴して海外接待旅行をしていた。もちろん資金はすべて小山が出していた。
 この事件の背景には、補助金を監視する制度が不備だったことがある。バブルがはじけ、建設コストが低下したのに、現実とはかけ離れた高額の建設資金が国から業者に支払われていた。丸投げによって27億円の差額が生じても、それをチェックする仕組みがなかった。
 この事件で逮捕された官僚は2人であったが、厚生省にはゴルフや食事など小山から接待を受けていた者が多数いた。和田勝審議官が現金100万円を受け取っていたとして懲戒免職、ほか15人の厚生省幹部が処分された。官僚と頻繁に料亭で酒宴を催すなど、福祉を食い物にした「官」と「民」の癒着であった。
 岡光序治は初公判では起訴事実を認めたが、公判途中から「便宜供与はない」「友人関係の延長から現金などを受け取った」と主張。しかし平成10年6月、東京地裁は「懸命に努力している福祉現場の関係者に深刻な衝撃を与えた」と厳しく指摘し、岡光に懲役2年、追徴金6369万円の実刑判決を言い渡した。
 岡光序治の部下の茶谷滋(39)は懲役1年6カ月、執行猶予4年、追徴金1122万円。小山は懲役1年6カ月、追徴金200万円の実刑であった。茶谷のみに執行猶予がついたのは、要求型の収賄と異なっていたからである。岡光と小山は判決を不服として控訴したが、平成12年11月、東京高裁はこれを破棄している。
 岡光序治の陣頭指揮でつくり上げられた高齢者福祉政策の「ゴールドプラン」、この「ゴールドプラン」に沿った特養ホームの建設が、高齢化社会の厚生省を利権官庁にした。平成12年に介護保険制度が開始したが、この介護保険制度も岡光序治によってつくられた制度であった。

日本住血吸虫症終息宣言
 平成8年2月、山梨県は日本住血吸虫症の終息宣言をした。終息宣言は撲滅宣言ではないので、日本住血吸虫症が完全に姿を消したわけではないが、終息宣言は撲滅宣言とほぼ同じ意味であった。山梨県は日本住血吸虫症の最大の感染地区であったが、昭和51年に発症した患者が最後となり、昭和53年から卵陽性の患者が見られないことから終息宣言となった。明治以来、百年戦争と言われてきた撲滅運動がやっと実ったのである。
 日本住血吸虫症は「日本」という名前が付いているが、日本だけの特有の疾患ではない。世界中で見られるが、日本の名前が付いているのは、日本人がこの疾患を世界で初めて発見し、病態、治療について世界最先端の研究をしたからである。
 住血吸虫は、ヒトの血液の中に住む吸盤を持った寄生虫である。住血吸虫は世界では3種類のみで、日本人が発見した日本住血吸虫、英国人のマンソンが発見したマンソン住血吸虫、ドイツ人のビルハルツが発見したビルハルツ住血吸虫である。日本住血吸虫は東南アジア一帯に生息しているが、マンソン住血吸虫、ビルハルツ住血吸虫はアフリカとブラジルをすみかとしている。住血吸虫は世界中に見られるが、撲滅できたのは日本だけである。
 日本住血吸虫は、山梨県の甲府盆地、広島県片山地方、福岡と佐賀両県の筑後川流域、静岡県沼津地区、千葉県の利根川流域などに分布し、古くから風土病として恐れられていた。
 戦国大名・武田信玄の事跡をまとめた「甲陽軍鑑」に、足軽大将の小幡豊後守昌盛が腹水で腹をパンパンにしながら、戦場に参加できないことをわびる場面が書かれているが、これが日本住血吸虫の最初の記載とされている。甲府地方では、この腹水の溜まる奇病は以前から知られていて、「流行地に行く花嫁は棺桶を背負ってゆけ」と民謡に歌われていた。
 明治14年、山梨県春日井村の村長・田中武平太が「この風土病をなんとかしてほしい」と山梨県知事・藤村紫朗に嘆願書を出したのが、日本住血吸虫との長い闘いの最初のページだった。明治19年には、徴兵検査のために甲府を訪れた石井良斎軍医が、腹水の溜まった男性たちに気付き、富国強兵のためこの病気の原因追求を藤村県知事に申し出た。このことから官民一体の病因追求となった。この奇病は高熱、下痢、血便をきたし、やがて慢性的な倦怠感に襲われる。手足はやせ細り、腹水で腹が膨れ上がり、死亡する者が多かったが、この奇病の原因はまったく分からなかった。
 明治30年、西山梨郡に住む農婦・杉山なか(54)がこの腹水が溜まる奇病に伏した。そして杉山は「この病気の解明のために、自分を解剖してください」と主治医の吉岡順作に遺書を残して死亡した。山梨県での遺体解剖は、杉山が初めてのことである。解剖は玉緒村向(現・甲府市向町)の盛岩寺で行われた。境内にテントが張られ、5人の医師が解剖し、その周囲を50数人の医師が取り囲んだ。解剖の結果、肝臓や大腸に虫卵を発見。成虫は発見できなかったが、この虫卵が寄生虫の卵であると予測された。この解剖の詳細は、当時の山梨県医師会報に記載されている。
 日本住血吸虫症の撲滅には、日本人研究者の功績が大きい。明治37年、岡山医学専門学校病理学教授・桂田富士郎は、この奇病の解明のため山梨県大鎌田村の開業医・三神三郎の家で研究を行い、感染したネコの体内から杉山なかの解剖で発見されたのと同じ虫卵を見出し、さらに肝臓の門脈から世界で初めて成虫を発見した。また同年、京都帝大の藤浪鑑が患者の肝臓の門脈に虫体を発見、吸盤を持つ成虫の形態、また血液の中に住むこと、さらに日本で発見されたことから日本住血吸虫と学名がつけられた。
 次は感染経路であったが、飲水による経口感染なのか、経皮感染なのか分からなかった。そのため牛に長靴を履かせ、あるいは口袋を付け、実験が繰り返された。ある医師は流行地の田に素足で入り、自分の身体を用いて感染実験を試みている。明治42年に、桂田富士郎、長谷川恒治、藤浪鑑、中村八太郎は、動物が水に浸かることによって皮膚から日本住血吸虫が感染することを証明。このことから日本住血吸虫の経皮感染までは分かったが、その生活環は謎に包まれていた。
 同じころ、九州帝大の宮入慶之助と助手の鈴木稔は、九州地方に流行していた日本住血吸虫症根絶のための研究に着手していた。宮入慶之助は「日本住血吸虫には必ず中間宿主がいる」と考え、そして大正2年、中間宿主である宮入貝(ミヤイリガイ)を発見した。宮入貝の発見は日本住血吸虫の生活環の解明し、感染の予防と撲滅を可能にした。宮入慶之助はこの世界的な功績によりノーベル賞候補に推薦されている。
 日本住血吸虫は、患者の便から排出された虫卵が、川の中でふ化することから始まる。水中でふ化した幼生(ミラシジウム)が中間宿主である宮入貝に侵入、そこで増殖成長してセルカリアとなる。セルカリアは宮入貝の体表を破って泳ぎだし、水に浸かったヒトの皮膚から体内に侵入。腸から肝臓へつながる門脈に寄生し、そこで成虫となった。
 日本住血吸虫は、雌雄が抱き合った形で大量に産卵する。虫卵は患者の便と一緒に排出され、虫卵は水中で孵化(ふか)し宮入貝へ感染する。このようにヒト、宮入貝、ヒトへの感染サイクルが形成されていた。
 日本住血吸虫が皮膚から感染すると皮膚がかぶれ、次第に発熱、食欲不振、全身倦怠感などがみられ、腹痛、下痢、腹部膨張などの症状を示す。さらに肝臓に大量の虫卵が運ばれると、肝臓の血管が閉塞して肝障害や肝硬変を起こす。肝硬変により腹水がたまり、腹が膨満するのである。また虫卵が血行性に肺や脳に流れると、てんかん発作や肺うっ血を起こした。このように虫卵が血管を閉塞することで、さまざまな障害を起こした。
 日本住血吸虫症の撲滅には、河川や農業用水に生息する宮入貝の駆除が有効である。この貝を絶滅すれば、この病気も撲滅できるはずであった。そのため生石灰や石灰窒素などを田畑に散布し、火炎放射で宮入貝の駆除が進められた。
 また大便中の虫卵を殺すため便所が改良され、用水路をコンクリートで固め、宮入貝を生息させないようにした。水路をコンクリートで固めれば、水の流れが早くなって宮入貝が住めなくなるからである。山梨県では、昭和32年から水路のコンクリート化が重点的に進められ、平成3年までに釜無川、御勅使川近辺の延長2400kmに及ぶ水路はすべてコンクリート化された。
 このように国が積極的に多額の資金をつぎ込んだため、宮入貝は次第に減少し、昭和53年以降、患者の発生はみられていない。また宮入貝からも日本住血吸虫の幼虫は発見されていない。このことから日本住血吸虫症の終息宣言が出されることになった。
 現在、日本の三大病は「がん、心臓病、脳血管障害」である。しかし世界の三大病は「マラリア、フィラリア症、住血吸虫症」である。日本では日本住血吸虫症が撲滅できたが、海外では現在でも多くの犠牲者を出している。日本住血吸虫は中国やフィリピン、インドネシアにも分布し、中国では160万人を超える感染者がいるとされている。
 世界保健機関(WHO)は、平成6年の感染者は2億人で年間50万人が死亡していると発表している。ガーナにある世界一大きな人造湖であるボルタ湖周辺では、子どもたちの90%以上がマンソン住血吸虫に感染している。
 日本で日本住血吸虫症を根絶できたのは、流行の規模が小さかったからで、日本以外の国は、現在でも多くの犠牲者を出しているが、それは流行地の規模が大きすぎるからである。例えば中国の揚子江流域から中間宿主貝を消滅させることは不可能である。また野生動物も宿主となるので、ヒトだけを治療しても住血吸虫症を撲滅できない。このように海外で感染を減らすことは困難で、現在は住血吸虫症の特効薬としてプラジカンテルが広く用いられている。

O157食中毒事件 平成8年(1996年)
 平成8年は病原性大腸菌O157の年であった。O157による食中毒は日本では過去9件の報告だけで、なじみの薄いものであった。しかし平成8年、この聞き慣れない病原菌が、全国各地で被害をもたらした。
 平成8年5月27日朝、岡山県邑久(おく)町の小学1年生の女子児童3人が激しい腹痛と下痢、血便を訴えて病院を受診。腹痛は激痛で、手に負えないと判断した医師は国立岡山病院に患者を送った。その後も、同じ症状の児童が次々に病院を受診。小学生2人が国立岡山病院で死亡、入院患者26人、患者数468人を出す大規模な食中毒事件となった。5月29日の夕方になってO157の集団感染であることが分かった。
 患者は今城幼稚園、今城小学校、邑久小学校の園児と児童で、同じ共同調理場で作った給食を食べていたことから、学校給食が感染源とされたが、結局、原因となった食材は特定できなかった。
 衛生水準が高いわが国において、比較的安全を誇っていた学校給食で、集団食中毒の発は、誰も予想していなかった。そのため各地で、学校給食の衛生管理が叫ばれた。しかしO157は、その監視の目をかいくぐるように、岐阜県岐阜市(小学校:患者数380)、広島県東城町(小学校:患者数185)、愛知県春日井市(中学校:患者数21)、福岡県福岡市(保育園:患者数48)、岡山県新見市(小学校・中学校:患者数364)、大阪府河内長野市(保育園:患者数50)、東京都港区(会社:患者数191)、群馬県境町(小学校:患者数144)などで集団発生し、猛威を振るった。学校給食は強制で、学童は給食を拒否することはできない。そのため安全性については十分に注意しているはずなのに、O157による中毒事件が次々に発生した。
 そして平成8年7月12日の金曜日の夜、市立堺病院(堺市宿院町西)に、腹痛、下痢、血便を訴える児童10人が受診した。大阪大から来ていた当直の小児科医は、そのうちの2人を入院させた。翌13日土曜日の朝、小児科部長は集団食中毒の可能性を堺市に連絡。医師2人と看護師5人が診療に当たったが、午後になると小学生を中心に下痢や血便を訴える患者が押しかけ、医師、看護師、事務員が総動員され、病院はパニック状態になった。
 市立堺病院は児童40人を入院させたが、満床で入院できない子供たちが、苦しそうに待合室や廊下でぐったりとなっていた。市立堺病院は足の踏み場のない野戦病院と化し、廊下や会議室に長椅子を入れてベッド代わりにした。点滴の支持台が不足し、親が点滴を持ちながら、身体をくの字に曲げる子供を励ました。便器に座りながら点滴を受ける子供も多く、便器が足りず、職員は血便を消毒液で拭(ふ)き取る作業を繰り返した。
 救急車要請の電話が鳴りっぱなしとなり、33の小学校の児童約300人が次々と病院を受診した。症状は激しい下痢と血便で、血便は便に血が混じるのではなく、トマトケチャップそのものであった。15台の救急車はフルに活動し、病院に患者を搬送すると消防署に戻らずに別の患者の家に急行した。救急車は1日だけで199回出動し、子供の親たちは、パニックになる気持ちを抑えて子供を励ました。この凄惨(せいさん)な様子がテレビで全国に報道され、事件の深刻さが日本中に知れ渡った。市立堺病院の医師は食事も取らず2日間徹夜で働いた。ほかの病院から医師3人が応援に駆けつけたが、同じような激務が続いた。この状況は市立堺病院だけではなく、堺市の病院や診療所など170の医療機関に数千人の患者が駆け込んだ。
 医師たちは病原性大腸菌O157の感染を疑ったが、O157だったとしても治療法は確立していなかった。O157は死滅時にベロ毒素を出すことから、抗生剤の投与は症状を悪化させる可能性があった。下痢止めはO157やベロ毒素の排泄を遅らせるので、使用すべきかどうか分からなかった。7月14日、児童26人の便のうち13検体からO157が検出され、15日には市立小学校と養護学校の全92校が休校になった。この間の行政の対応は後手後手に回った。時間の経過とともに対策本部長は保険局長、助役、市長へと変わった。
 子供たちは、血便で血まみれになっていたが、本当の悲劇はしばらくしてから始まった。7月23日に10歳の女児児童が、8月16日には12歳の女児児童が、溶血性尿毒症症候群(HUS)を合併して死亡した。
 死亡した2人の児童は重症患者として把握されておらず、当初は血液検査もしていなかった。それが溶血性尿毒症症候群(HUS)によって急変、人工透析を受けたが意識は回復せずに死亡した。O157感染者のうちHUSになるのは約10%、そのうちの約3%が死亡するとされている。この数値からもO157の恐ろしさが実感させられる。さらに平成9年2月1日、7歳の女子児童が半年以上意識が戻らずに大阪府立母子保健総合医療センターで死亡、集団食中毒の犠牲者は3人になった。
 堺市の9月25日の発表では、O157の患者数は6000人を突破し、受診者の数(累計)は学童6309人、教職員92人、2次感染と思われる者160人の合計6561人という空前の大規模集団感染となった。世界保健機関(WHO)が把握している突発的集団感染としては、記録的な患者数であった。
 大腸菌はヒトの大腸に生息している常在菌で、通常は人体に悪さをせず、ヒトと共存している。大腸菌は菌表面のO抗原の違いによって180種類知られているが、O157は157番目に発見された大腸菌を意味している。この病原性大腸菌O157は、ヒトの腸内に常在する大腸菌と同じ形であるが、通常の大腸菌と違うのはベロ毒素(志賀毒素)を産生することである。ベロ毒素とは赤痢菌の毒素と同じで、少量で強い毒性を持っていた。大腸菌がこの赤痢菌と同じベロ毒素を産生したのは、バクテリオファージ(ウイルス)の感染によって、赤痢菌の毒素をつくる遺伝子を大腸菌が獲得したからである。O157の病原性は赤痢菌と同じで、O157は赤痢と同じ出血性大腸炎を引き起こした。感染者のうち症状を示すのは40〜60%で、破壊された大腸壁からベロ毒素が血液に入った場合には、溶血性尿毒症症候群(HUS)を引き起こした。HUSさらには脳血管障害から死に至った。
 大阪府堺市のO157食中毒事件は、47の学校の児童が同時期に発症したことから学校給食が原因とされた。堺市内の90の小学校と2つの養護学校の給食は、堺市の学校給食協会が73の登録業者から食材を一括購入して、3つの地区に分けて配送し、各校の調理室で調理していた。食材は複数の業者が倉庫に持ち込み、配送業者が毎朝トラック7台で配っていた。各学校では献立が違っているため、感染源は個々の調理室、特定の調理人ではなく、共通した食材とされた。
 ただしO157の発症はその菌量が少ないこと、潜伏期間が4〜9日(平均5日)と長いことから、原因食材の特定は困難だった。例えばサルモネラ菌は100万個の摂取で中毒症状を出すが、O157は100から1000個のごく少量で発症した。学校給食は、食中毒が起きた際に、原因食材を特定するため3日間保存することが決められていた。しかしO157の食中毒は想定外だったので、4〜9日前の給食はすでに破棄され、学校に残された食材からO157は検出されなかった。
 47の学校の7月8日と9日の給食を調べると、共通していた食材はパン、牛乳、カイワレ大根であった。パン、牛乳は複数の業者が納入していたので、カイワレ大根が疑われた。カイワレ大根は大阪府羽曳野市にある農園から納入されていた。
 厚生省はカイワレ大根犯人説を小出しにした。それはほぼ同時期に、羽曳野市内の老人ホームでもO157による食中毒が起きていて、その食材にもカイワレ大根が使われていたからである。さらにO157食中毒が発生した保育園と病院、電子部品製造会社でも、同じ農園から納入したカイワレ大根が使われていた。そして各施設の患者から検出されたO157のDNAは同じパターンを示し、それは同一株による感染を意味していた。このことから、この羽曳野市の農園から出荷されたカイワレ大根が怪しいことになった。疫学的にはカイワレ大根説は十分に考えられたが、このカイワレ大根説の大きな難点は、疑われた農園のカイワレ大根からO157が検出されなかったことである。
 羽曳野市の農園の井戸水やカイワレ大根の種子、従業員の便などが調べられたが、O157は検出されなかった。3回の立ち入り検査で、周辺を流れる農業用水まで調べたが、O157菌は検出されなかった。カイワレ大根犯人説は状況証拠だけで、物的証拠がなかった。またカイワレ大根が給食に入っていなかった堺市西地区でも患者が出ており、カイワレ大根は灰色のままであった。
 通常のカイワレ大根には大腸菌は常在しないことから、カイワレ大根は発生源ではなく、O157に汚染されていたと考えられた。つまりO157は牛などに多くみられることから、カイワレ大根が家畜の糞便によって汚染さたと推測したのである。牛はO157に感染しても無症状であるが、ヒトがO157に感染すると血便や腹痛を発症するのだった。
 真犯人は不明のまま、カイワレ大根がスケープゴートにされた。厚生省が「感染源としてカイワレ大根は否定できない」と発表すると、日本中がカイワレ・パニックを引き起こし、店頭からカイワレ大根が姿を消した。厚生省はこのカイワレ・パニックと、カイワレ大根業者の抗議にあわてて、菅直人厚生相がマスコミの前でカイワレ大根を食べてみせたほどであった。行政は誰かに責任をなすりつけて決着をつけたがるが、その発想がカイワレ大根説に結びついたのである。カイワレ大根の業者は、「厚生省が根拠のない誤った発表をしたため損害を受けた」として、国に損害賠償を求めた。この裁判は最高裁まで争われ、平成16年12月14日、最高裁は国に2290万円の損害賠償を命じる判決をだしている。
 猛威を振るうO157の被害が深刻化し、家庭や食品業界は「自分たちの身は、自分たちで守るしかない」と感染予防に懸命になった。台所用品を抗菌加工品に代え、肉や刺し身などの生ものを止め、薬用せっけんや除菌スプレーの売り上げが急増した。スーパーや百貨店では、従業員の便の検査をするようになった。
 O157は、昭和57年に米国のオレゴン州で初めて食中毒の際に見いだされた菌である。米国ではファーストフード店のハンバーガーが感染源であったが、当初は食中毒にはみられない血便という奇妙な特徴から、O157が食中毒の原因かどうか疑問視されていた。しかし数カ月後、数千キロ離れたミシガン州の同じファーストフード店で同じ症状の患者が発生。この事件によりO157による食中毒の概念が出来上がった。
 平成4年までに、米国のO157による食中毒は、加熱不足のハンバーガーを食べた583人が感染し171人が入院、41人が溶血性尿毒症症候群(HUS)で死亡している。平成9年8月にはO157が検出された牛肉550トンが破棄されている。
 日本では、平成2年に浦和市(現さいたま市)の幼稚園で2人が死亡し、患者319人に達した事件が最初である。この浦和市の事例は、幼稚園の井戸水が汚染されていたことによる。このようにO157は井戸水や湖水から感染する可能性があった。
 平成8年8月6日、O157をはじめとする腸管出血性大腸菌感染症は指定伝染病に指定され、平成11年4月施行の感染症新法では3類感染症に分類された。患者、保菌者の届け出が義務づけられ、特定職種への就業制限、消毒等の対応措置が法で定められた。なお、O-157とハイフンを付けた記載は間違いであり、正確にはO157である。

薬害ヤコブ病 平成8年(1996年)
 プリオンというタンパクが異常をきたした牛の病気が狂牛病(牛海綿状脳症、BSE: Bovine Spongiform Encephalopathy)で、同じく異常プリオンによるヒトの病気がクロイツフェルト・ヤコブ病(CJD)である。狂牛病とCJDの病態はほぼ同じで、脳がスポンジ状に破壊され、歩行障害や痴呆などの中枢神経症状を呈して死に至る。この疾患が恐ろしいのは、治療法がないだけでなく、発症から1年以内に確実に死亡することであった。
 CJDはまれな疾患で、ヒトでは100万人に1人の頻度で自然発生する。大正9年、ドイツの2人の病理学者(ハンス・ゲルハルト・クロイツフェルトとアルフォンス・マリア・ヤコブ)がこの疾患を初めて報告。そのため2人の医師の名前を取り、クロイツフェルト・ヤコブ病と命名された。
 昭和61年、英国で狂牛病騒動が起きたが、当初は牛だけの病気とされた。それが、平成8年になって狂牛病に罹患した牛を食べたヒトも、変異型ヤコブ病(vCJD:variant CJD)を起こすことが分かり世界的な騒動となった。
 平成8年、厚生省の調査研究班は、牛からヒトへの感染を調べる目的でCJD患者の全国調査を行った。その結果、大変な事実が判明することになる。調査では日本国内に878人のCJD患者が確認されたが、その中に開頭手術で硬膜移植を受けた43人がいたのである。自然発生のCJDは50歳以上での発症であるが、硬膜移植後にCJDを発症した患者は30歳以下が多かった。このことから、移植した硬膜とCJDとの関連性は明らかであった。
 ヒトの脳は硬膜、軟膜、くも膜という3枚の膜に覆われ、脳の手術を行う場合、頭蓋骨を取り、脳を包んでいる硬膜を切る必要があった。手術が終わると、硬膜を縫合するが、硬膜をそのまま縫合することはできない。硬膜の縫合にはバンソウコウのような継ぎ当て(硬膜移植)が必要だった。この継ぎ当てに用いられたのが、ヒトの遺体から取り出して凍結乾燥させた硬膜であった。
 硬膜移植が行われるまでは、患者の大腿部の筋膜を切り取って継ぎ当てにしていた。しかし、大腿筋膜の移植は患者の負担が大きく、手術での手技が増えることになる。このことから、乾燥硬膜が発売されると、多くの脳外科医は乾燥硬膜を用いるようになった。
 日本で使用されたヒト硬膜は、ドイツのBブラウン社が製造したもので、日本ビー・エス・エス社が「ライオデュラ」の商品名で販売していた。昭和48年に厚生省が輸入を承認、平成9年までに約200の医療機関で年間2万〜3万枚が使用されていた。ライオデュラは「ヒトの遺体から採取した硬膜を、滅菌処理した後に乾燥凍結させたもの」で、この硬膜の中に信じがたいことに、CJDで死亡した患者の硬膜が混入していたのだった。
 遺体から硬膜を採取する場合には、提供遺体の死因や既往歴を調べ、感染の可能性のある硬膜を排除しなければいけない。しかしBブラウン社は、病院の解剖助手にわいろを渡し、病院に無断で硬膜を集めていた。また法医学教室からも遺体の硬膜を買っていた。硬膜提供者の病気を調べずに、1体分の硬膜を日本円にして約2000円で買っていた。さらに1体分の硬膜をそれぞれ製品化したのではなく、300人分の硬膜を1つのポリ袋で保管していた。つまり300人の硬膜の中にCJD患者の硬膜が1枚でも含まれていれば、全部が感染したのである。
 昭和62年、米国で汚染した硬膜が問題になったとき、Bブラウン社に硬膜の売買記録がなかったことから、硬膜の追跡調査ができなかった。このようにBブラウン社はずさんな管理をしていたのだった。Bブラウン社は硬膜をガンマ線で滅菌していたが、ガンマ線はCJDの病原体であるプリオンには効果がなかった。ノーベル賞を受賞した米国のガイジュセックが、昭和53年にこのことを証明しているが、Bブラウン社は、米国で第1症例が報告される昭和62年までガンマ線による滅菌法を用いていた。その後、Bブラウン社は水酸化ナトリウムによる滅菌を追加したが、古い硬膜を回収せず2年間にわたって売り続けていた。
 昭和62年2月、米国でライオデュラによってCJDを発症した第1例目が報じられると、同年4月、FDA(食品医薬品局)は安全性に関する警告を出し、6月にはライオデュラの使用を禁止して製品を回収させた。ドイツでも、Bブラウン社が病院の解剖助手にわいろを渡し、病院に無断で硬膜を集めていたことが報道され、Bブラウン社の社員は「死者に対する尊厳の侵害罪教唆」で刑事処罰を受けている。
 しかし驚くことに、Bブラウン社は硬膜移植後にCJDを発症したカナダや英国の患者に解決金を払いながら、ライオデュラの販売を続けていた。この点に関し、Bブラウン社は「解決金を払ったが、CJDとの因果関係を認めたわけではない」と述べた。
 昭和62年にライオデュラは米国で使用禁止となったが、その後10年にわたり日本では使用されていた。さらに平成8年に世界保健機関(WHO)が使用禁止の勧告を行い、同年6月にライオデュラは製造を中止したが、その後も在庫を販売していた。日本でライオデュラが使用禁止になったのは平成9年3月からであった。
 米国が販売を禁止した時点で、厚生省がライオデュラを禁止していれば、薬害CJDは回避できたはずである。厚生省はこの点を国会で追及されると「ヒト乾燥硬膜移植とCJD発症について報告を受けていなかった、米国の感染症情報をチェックする責任部局がなかった」と述べた。しかし昭和62年、厚生省の研究班はライオデュラによるCJDの感染の可能性を学会誌で警告していた。このため国の無責任体質が問われ、「薬害ヤコブ病」と呼ぶようになった。現在、厚生労働省が認定している患者は76人である。
 平成8年11月20日、薬害ヤコブ病患者の谷たか子さん(42)とその家族が日本ビー・エス・エス社、国、大津市を相手に損害賠償請求訴訟を起こした。谷さんは、平成3年に頭部手術を受けCJDを発症していた。この大津訴訟が、日本で初めての薬害ヤコブ病の訴訟となった。大津市が訴えられたのは、大津市民病院が危険な硬膜を使用したとことが理由であった。その後も、薬害ヤコブ病訴訟は各地で起き、平成10年12月11日には「薬害ヤコブ病を支える会」が発足。平成13年11月6日、原告や支援者たち500人が薬害ヤコブ病の早期全面解決を求め、厚生労働省を「人間の鎖」で取り囲んだ。
 平成13年11月14日、東京、大津両地裁は国の責任を指摘して和解を勧告。平成14年3月25日、CJDの発生について国とBブラウン社は和解確認書に調印。坂口力厚生労働相は「心からのおわびを幾重にも申し上げても、なお言い尽くせない。療養を続ける患者、家族にもお見舞いを申し上げる」と述べた。国とBブラウン社は、患者1人当たり平均約6000万円の和解金を支払うことになった。
 脳の手術を受けて元気になった患者が、移植された硬膜によりCJDを発症し、短期間のうちに死亡した。和解が成立した時、原告患者のほとんどが死亡していた。CJDは企業の過度な営利追求が生んだ悲惨な薬害であった。

小柴胡湯に副作用 平成8年(1996年)
 平成8年3月3日、厚生省はこの4年間で漢方薬・小柴胡湯(しょうさいことう)を内服していた慢性肝炎の患者125人が、間質性肺炎を起こして19人が死亡していると発表した。さらにこの発表から2年後の平成10年3月4日には、新たに50人が間質性肺炎を起こし8人が死亡していると発表し、厚生省は医療機関に小柴胡湯の慎重投与を再度警告した。
 中国では2000年前の昔から、日本では江戸時代から漢方薬が広く使われていた。日本人の多くは、漢方薬は自然の草や木からとった生薬なので副作用はないと信じていた。薬は「草を楽しむ」と書くように、漢方薬の安全神話があった。そのため医師は漢方を安易に投与し、副作用がないと思っていたので、患者への副作用の説明はなされていなかった。
 小柴胡湯は、柴胡(さいこ)や甘草(かんぞう)など7種類の植物生薬を混ぜた配合剤で、胸焼けや食欲不振などに効果があるとされている。小柴胡湯は当初、短期間投与の漢方薬であったが、肝疾患に効果があると報告されると、肝疾患の患者に長期間にわたり投与するようになった。
 小柴胡湯のどの成分が間質性肺炎を起こすのかは不明であるが、この小柴胡湯の副作用は大きな衝撃を与えた。問題になった間質性肺炎は、一般的な肺炎とは炎症の部位が違っている。肺の末端は、肺胞という「肺胞壁に囲まれた小部屋」に分かれ、この肺胞で酸素と二酸化炭素を交換しているが、一般的な肺炎は「肺胞壁内側の炎症」で、間質性肺炎は「肺胞壁(間質)そのものの炎症」であった。
 つまり一般の肺炎は肺胞壁の障害が少ないので、治療によって治療前の状態に戻ることができた。しかし間質性肺炎は、肺胞壁の炎症なので、治療が遅れると肺胞構造が破壊され、線維化を来すことになる。肺胞壁の破壊と線維化は不可逆性の変化なので、間質性肺炎が進行するとスポンジ状の肺がヘチマ状に硬くなり呼吸困難を起こすことになった。
 間質性肺炎を起こすものとして、感染症や膠原病、アレルギー疾患など様々であるが、薬剤性のこともある。薬剤性の間質性肺炎としては抗がん剤やインターフェロン、リウマチ薬などが挙げられる。最近では、抗がん剤のイレッサによる間質性肺炎が問題になった。なお間質性肺炎を来す漢方薬は小柴胡湯だけでなく、柴朴湯(さいぼくとう)、柴苓湯(さいれいとう)なども知られている。
 平成2年、小柴胡湯による間質性肺炎の副作用が報告され、翌3年、厚生省は小柴胡湯を投与する際には咳や発熱などの肺炎に似た症状に注意するように呼び掛けた。また小柴胡湯とインターフェロンαとを併用すると、間質性肺炎を起こしやすいことから、平成6年に両剤の併用が禁忌となった。
 漢方薬の売り上げが急増したのは、昭和51年に漢方薬が治験なしで薬価収載され、健康保険の適応になってからである。それまで25億円程度だった医療用漢方薬の売り上げが、ピーク時にはその50倍になった。ツムラなど約20社が漢方薬を発売し、小柴胡湯は肝臓疾患を中心に年間100万人以上が内服していた。漢方薬全体の売り上げは年間約1200億円で、小柴胡湯はその約3割を占めていた。
 ツムラが医療用漢方製剤の国内シェア80%を占め、平成3年の売り上げは漢方だけで1000億円弱であったが、この平成8年の小柴胡湯ショックにより、売り上げはピーク時の6割になった。このように小柴胡湯の副作用は、漢方全体の売り上げに大きく影響した。
 小柴胡湯は肝臓病の患者に使われていたが、現在では肝硬変や肝臓がんの患者には使用禁止になっている。さらに慢性肝炎でも、血小板数10万/mm3以下の患者への投与が禁止されている。このように小柴胡湯は医薬品として厳しく制限されているが、その一方で、街の薬局やインターネットで気軽に買うことができるのが現実である。
 薬剤を発売するには、その有効性と副作用を調べ、厚生省の審議を受けて認可される。しかし漢方薬は古くから医薬品として使用されていたため、安全性や有効性の治験をせずに承認されていた。この漢方の超法規承認に、政治的背景があったとされ、また今回の副作用報告は厚生省の医療費抑制の思惑が働いたとも噂されている。

薬害エイズ裁判 平成8年(1996年)
 一般にエイズは性行為によって感染するが、日本は欧米とは違い、汚染された血液製剤によって発症した血友病患者が圧倒的に多かった。昭和57年から61年にかけ、血友病の治療に使用された非加熱製剤が、エイズウイルス(HIV)に汚染されていたのである。日本の血友病患者約5000人のうち1868人が米国から輸入された非加熱製剤によってエイズに感染(平成8年現在)、500人以上が死亡する戦後最大の薬害が発生した。
 薬害エイズで問題になったのは、厚生省、製薬会社、医師の3者が、汚染された非加熱製剤がエイズの原因と知りながら回避措置を取らず、無責任な状態で感染を広めたことである。そのため、官・業・医の癒着による薬害の責任が問われることになった。
 官として前厚生省保健医療局長・松村明仁、企業としてミドリ十字(現田辺三菱製薬)の歴代3社長、医師として前帝京大副学長で元厚生省エイズ研究班長・安部英(たかし)が逮捕され起訴された。
 昭和58年頃からエイズが米国で猛威を振るい、同年6月に厚生省はエイズ研究班を設置し、血友病の専門家である安部英が班長になった。6月18日の読売新聞で、安部は「輸入に頼っている血液製剤は、感染の危険がある」、「輸入血液を60度で10時間加熱(加熱血液製剤)し、ウイルスを不活性化する方法を採りたい」と述べている。つまり当初、安部は感染防止のため、加熱製剤使用を主張していたのであるが、しかしなぜか態度を変え、非加熱製剤の使用継続を決めたのだった。
 昭和59年当時、帝京大医学部長であった安部は、血友病患者48人に非加熱製剤を投与していた。そしてその時点で、患者の半数近くがエイズに感染していることを米国に依頼した検査結果から知っていた。安部は非加熱製剤の危険性を十分に確認していながら、安全性の高い国内血液製剤(クリオ:10人程度の国内供血から製造)に換えず、昭和60年になっても非加熱製剤を指示していた。厚生省がウイルスを不活性化した加熱血液製剤を承認したのは、昭和60年7月になってからである。
 平成8年8月29日、東京地検は安部英(80)を業務上過失致死罪容疑で逮捕。ただし安部の逮捕は、エイズウイルスに汚染された非加熱製剤を流通させたことではなく、エイズで死亡した血友病患者の遺族に告訴されたからである。東京地検は患者の冷凍保存血液から感染時期を特定し、非加熱製剤とエイズ感染との因果関係を証明しての逮捕となった。
 薬害事件で医師が逮捕されたのは初めてのことである。安部は逮捕の際、代替製剤であるクリオでは供給量が足りず、また粘性が高いため注射器が詰まる可能性があるため、非加熱製剤を用いる以外に方法がなかったと主張した。安部は「良心に恥じることはない」と述べ、エイズ感染者に謝罪の言葉はなかった。
 安部英は厚生省のエイズ研究班長として、非加熱製剤の継続を指示し、製薬会社から自らの財団に4000万円以上の寄付金を集めていた。さらにエイズ感染を患者に告知しなかったため、家族内感染の悲劇を生じさせた。平成13年3月28日、東京地裁の永井敏雄裁判長は安部英に無罪判決を下した。「エイズによる血友病患者の死亡は予見可能であったが、予見の程度は低い」というのが判決理由であった。また当時は、多くの血友病専門医が非加熱製剤を投与しており、安部だけに過失を問うことはできないとした。
 この判決は多くの人々を驚かせた。安部英は血友病の専門家として、エイズ研究班班長としての責任を果たしていなかっただけでなく、薬害エイズの危険性を十分に知りながら、非加熱製剤投与を続けていたからである。この判決に、多くの国民は納得できなかった。安部英は東京地裁で無罪となったが、検察は控訴し東京高裁で継続審議となった。しかしその後、安部英は認知症を患い、平成16年から公判が停止し、平成17年4月25日に死去したため、結論をみないまま公訴棄却となった。
 平成8年9月19日、ミドリ十字の歴代3人の社長が、業務上過失致死の疑いで大阪地検に逮捕された。逮捕されたのは、非加熱製剤によりエイズ感染が広がった当時のミドリ十字の社長だった松下廉蔵元社長(75)、副社長兼研究本部長だった須山忠和前社長(68)、製造本部長だった川野武彦社長(66)である。逮捕の理由は、昭和61年4月に行われた食道静脈瘤の手術で、非加熱製剤が用いられ、エイズに感染して死亡させたとする業務上過失致死の疑いだった。昭和60年には安全な加熱製剤が承認されていたのに、この承認後も非加熱製剤を販売したことが感染を招いたとした。
 ミドリ十字は米国の子会社から「非加熱製剤の危険性」を警告されていたが、それを無視していた。さらに子会社は「加熱製剤の供給確保」をミドリ十字に報告したが無視されていた。それだけではなく、ミドリ十字は「非加熱製剤を国内の血液による安全な製剤」とウソの宣伝で販売していた。
 ミドリ十字は、「厚生省が回収命令を出さなかった」と弁解したが、加熱製剤が認可されてから非加熱製剤の回収終了まで2年9カ月かかっている。つまり加熱製剤の安定供給ができたのに、営利のため自社の非加熱製剤を販売し、回収しなかったのである。安全よりも利益優先のミドリ十字の経営体質が示されていた。ミドリ十字は「厚生省業務局分室」といわれるほど天下りが多く、厚生省との癒着が強かった。
 平成12年2月24日、大阪地裁は松下廉蔵に禁固2年、須山忠和に禁固1年6月、川野武彦に禁固1年4月の実刑を言い渡した。この事件は最高裁まで争われたが、平成17年6月27日に、松下禁固1年6月、須山禁固1年2月の実刑が確定した(川野は死去のため公訴棄却)。
 薬害エイズ事件の最大の原因は、厚生省が非加熱製剤の回収命令を出さなかったことである。そのため厚生省の責任者だった当時の薬務局生物製剤課長・松村明仁が「不作意の過失責任」に問われた。日本の加熱製剤の承認が米国より2年4カ月も遅れたのは、厚生省の松村廉蔵と厚生省エイズ研究班長・安部英が、ミドリ十字のために故意に承認時期を遅らせた疑惑があった。ミドリ十字は外資系製薬会社に比べ加熱製剤の開発が遅れていたからである。
 平成8年10月4日、東京地検は松村明仁(55)を業務上過失致死の疑いで逮捕。東京地検は、「国民の生命や身体の安全を守るべき職務上の義務を負っているのに、有効な対策を講じなかったことは不作為に当たる」と指摘。不作意の過失責任を刑事責任で問われることになった。
 平成13年9月28日、東京地裁は松村明仁に禁固1年、執行猶予2年の有罪判決を下した。この判決は、「厚労省は組織として判断を下すのであって、官僚個人の責任は問わない」という霞が関の常識を覆すものであった。それだけ松村の罪が重かったのである。平成20年3月最高裁は上告を棄却し、松村明仁の有罪が確定した。
 薬害史上、製薬会社のトップ、医師、官僚が刑事責任を問われたのは初めてのことだった。多くの国民は薬害エイズ裁判に注目し、HIVに汚染された非加熱製剤を流通させた罪が裁かれることを求めていた。
 しかし薬害エイズ裁判で誤解されやすいのは、この裁判の争点は「非加熱製剤を流通させたこと」ではなく、「非加熱製剤を投与して、特定の患者を死亡させた」ことである。つまり「特定の患者の死亡に、被告がどの程度関与していたか」が争われたのがエイズ裁判であった。なお製薬会社と国への民事裁判については、平成8年2月に菅直人厚生相が謝罪し、翌3月に和解が成立している。

救急救命士の気管内挿管 平成9年(1997年)
 秋田県の脳卒中による死亡率は、全国平均の1.5倍で、戦前から全国第1位であった。このことは、秋田県の脳卒中死亡率は世界1であることを意味していた。
 秋田県はこの不名誉なレッテルを返上するため、昭和43年から「脳卒中撲滅運動」を実施。塩分制限などの生活改善に加え、同年、秋田県立脳血管研究センター(脳研)を設立させた。
 昭和43年当時、脳卒中は倒れた場所から患者を動かさないことが原則であった。しかし脳研はそれまでの常識を変え、患者をすぐに病院に搬送する方式を取り入れた。また24時間体制で医師と看護師が救急車に同乗して、救急車に患者が乗ると同時に気管内挿管などの救命処置を行った。この秋田脳研方式により救命率が劇的にアップし、脳卒中発症後の死亡率は全国平均が47%なのに、脳研では9%と飛躍的な改善をみせた。この好成績がその後の「全国の救命救急センタープラン」のモデルになった。
 ところが、平成9年11月11日、秋田市の救急隊員が気管内挿管を日常的に行っていることをマスコミが報道、全国的に大きな波紋をよんだ。気管内挿管とは「気管にチューブを挿入し、酸素を吸入させること」で、医師だけに認められた医療行為であった。たとえ緊急避難であっても、救急隊員の気管内挿管は違法行為であった。秋田市の警防課長は「気管内挿管は、医師の指示のもと緊急避難的に行ったもので、日常的に行ってはいない」と言い訳じみた説明を述べた。
 秋田市消防本部は救急隊員に挿管を行わないように緊急指示、救急車に備えられていた気管支挿管の器具が取り外された。秋田市当局は「救急隊員が助けたい一心で行ったもので、大変申し訳なく思っている」と述べ、救急業務調査検討委員会を設置して消防本部に残されたデータの分析や、救急隊員からの聞き取り調査を行った。
 同委員会は救急隊員の医師法違反の調査が目的であったが、世論は反対の方向に進んでいった。「救急隊員の気管内挿管を違法行為」とするよりも、違法行為としている法律、挿管を中止させた行政に批判が集中したのだった。
 平成10年までのデータによると、秋田市では心肺機能が停止した救急患者の1カ月後の生存率は11.52%で、全国平均の2.5倍であった。この秋田市の救命率の高さは、救急隊員の気管内挿管が違法行為であったとしても高く評価された。
 秋田市の救急隊員が気管内挿管を行うようになったのは、平成4年4月からで、年平均10件ほど行っていたと公表された。しかし後に発表は訂正され、救急出動件数は3万7950件、心肺停止状態の患者は967人、医師の指示がないのに気管内挿管を673件行い、そのうち49人が社会復帰していたことがわかった。さらに調査が進むと、秋田県内では救急隊員による気管内挿管が1500件を超えていたことが明らかになった。
 救急隊員は、医師が行う気管内挿管の介助を想定し、気管内挿管の実習を行っていたが、救急隊員による気管内挿管は医師法違反であった。つまり救急隊の気管内挿管は違法であるが、違法としている医師法そのものが非現実的とする意見が全国に広がった。
 平成3年に定められた救急救命士法では、救急隊員は人工呼吸や酸素吸入器による酸素供給だけが認められ、医師の指示があれば心肺停止の患者に(1)エアウエーによる気道確保(2)静脈路確保のための点滴(3)半自動式除細動器を使った電気ショックだけが認められていた。気管内挿管は、たとえ医師の指示があっても行うことは禁じられていた。
 救急隊員の気管内挿管は犯罪のように扱われたが、秋田県の寺田典城知事は法制度の不備ととらえ、制度是正を全国に呼びかけた。その一方で、総務省消防庁は全国の都道府県に「救急業務を行う際は、法令を順守するように」と通知を出し、厚生省も「違反行為には厳正な措置を講じる」と述べた。
 結局、法の不備を議論せず、法の順守のみを優先させることになった。しかしこの件をきっかけに、平成16年7月1日より、所定の講習と実習を受けた救急救命士であれば、気管内挿管が可能になった。しかし救急隊員は日々の仕事が忙しく、講習を受けられず、救急救命士は少ないままである。

クローンヒツジの誕生 平成9年(1997年)
 平成9年2月23日、英国の新聞「オブザーバー」はエディンバラにあるロスリン研究所のウィルムット博士らがクローンヒツジの誕生に成功したと1面トップで報じた。この記事は、英国の科学雑誌「ネイチャー」に掲載予定だった論文をスクープしたもので、オスの関与なしに生体組織細胞からヒツジを誕生させたことに、世界の人たちは驚いた。
 ウィルムット博士は、メスのヒツジの乳腺細胞から核を取り出し、あらかじめ核を除去していた未受精卵の中に乳腺細胞の核を移植し、移植細胞を別のヒツジの子宮に植えてヒツジを誕生させたのである。つまり誕生した子ヒツジには3匹の母親がいるが、父親は1匹もいなかった。
 子ヒツジの愛くるしい写真が新聞に掲載され、子ヒツジの名前はドリーと紹介された。このドリーの名前は、豊かなバストで知られる歌手ドリー・パートンにちなんだものである。クローンとは「遺伝的に均一の細胞集団」を意味しており、クローン技術は植物では挿し木として古くから利用されていた。1962年に、英国のガードンがアフリカツメガエルを使って、オタマジャクシの小腸の上皮細胞の核を未受精卵に移植して、オタマジャクシになったことを報告しているが、哺乳類の体細胞クローンはドリーが世界初であった。
 哺乳類では体細胞クローンのドリー誕生の以前から、受精卵のクローン技術は完成していた。受精卵クローンとは「通常の受精卵を細胞分裂させた後に、その細胞の核を未受精卵に移植すること」である。受精卵クローンはオスの関与が必要であるが、体細胞クローンはオスの関与を必要としないことが決定的に違っていた。
 人間を含めた哺乳類は、卵子と精子が受精して子供が生まれる。子は父親と母親の遺伝子を持つため、一卵性双生児を除けば、子供の遺伝子が他人と一致することはあり得ない。しかしドリーの誕生は「受精なしで同じ遺伝子を持つヒツジをつくった」ことで、ヒツジで可能なことは人間でも可能であることを意味していた。
 人間は約60兆個の細胞からできているが、これらは卵子と精子が合体した1個の受精卵から分化したものである。受精卵が母親の体内で分裂を繰り返し、脳、筋肉、心臓、肝臓などの各臓器へ分化する。しかし一度分化した細胞は、逆戻りできないのが生物学の大原則だった。肝細胞に分化した細胞は肝細胞にしかなれず、皮膚に分化した細胞は皮膚細胞、筋肉に分化した細胞は筋細胞にしかなれなかったが、ドリーは乳腺細胞から誕生している。つまりドリーの誕生は、分化した臓器細胞であっても、あらゆる細胞に変化できることを意味していた。
 ウィルムット博士らは、分化した細胞の核の履歴を消すため、細胞培養血清濃度を10%から0.5%に下げ、細胞を飢餓状態にして初期化し、次に弱い電気的刺激を与え、核の全能性を目覚めさせ、受精卵だけに与えられていた万能の特権を、各組織に分化した細胞にも持たせたのである。
 このことは生物学の常識を破る大事件だった。クローン技術は西遊記に出てくる孫悟空が使う分身の術のイメージである。孫悟空は、自分の頭髪を抜いて息を吹きかけ、髪の数だけの分身をつくった。クローン技術とは分身の術と同じで、特定の人間を何人でも複製できる夢のような技術である。
 ウィルムット博士は、ヒツジの乳汁から医薬品タンパクをつくることを研究していた。遺伝子組み換え技術で、医薬品タンパクを含んだミルクを産生するヒツジをつくり、そのヒツジをクローン技術で大量に増やせば製品化できると考えていた。
 事実、ドリーの誕生から5カ月後の7月、ヒトの血液凝固因子を含んだミルクを産生するクローンヒツジ「ポリー」を誕生させている。しかし世界の注目は、医薬品よりもクローン技術の人間への応用に集まった。
 体細胞が残されていれば、クローン技術で死者をよみがえらせることができた。マンモスなどの絶滅した動物をよみがえらせ、絶滅の危機にある動物を増やすことも可能だった。さらに自分のクローンをつくれば、臓器移植が必要なときに、その臓器を利用することも可能だった。自分の無脳児クローン人間をつくれば、臓器移植に倫理的問題は生じないはずであった。このようにドリーの誕生はクローン技術の人間への応用、人間を不死の世界へ導く魔法のような技術として大きな反響を巻き起こした。
 クローン技術によって、性の概念や人間の存在そのものが、根本から覆る可能性があった。そのため米国のクリントン大統領やフランスのシラク大統領は、クローン人間の研究を禁止する声明文を出した。
 カトリックの総本山であるバチカンは「人間は人道的な方法で生まれてくる権利がある」として、クローン技術の人間への応用を禁止することを各国に呼び掛けた。キリスト教の世界では「人は神が創造するもので、人が創造するものではなかった」。クローン技術が宗教界に与えた衝撃は大きかった。
 欧米ではクローン技術の制限の政治的判断は早かったが、その背景には「クローン人間は自然の摂理に反し、神への冒涜(ぼうとく)」とするキリスト教の考えがあったからで、さらにヒトラーの民族浄化、優生思想といった過去の過ちが記憶に残されていたからである。
 多くの国々でクローン技術の人間への応用は法律で禁止され、日本でも、平成13年6月6日にクローン技術規制法が施行され、クローン技術の人間への応用は10年以下の懲役、または1000万円以下の罰金となった。
 人々がクローン技術に不安を持つ中、クローン人間の作成を公言する科学者が相次いだ。平成10年1月、米国のシード博士は不妊患者を対象に世界初のクローン人間をつくると宣言。平成14年4月、タス通信はイタリア人医師アンティノリが、クローン人間の妊娠に成功、すでに妊娠8週間であると伝えた。同年、スイスの新興宗教団体がクローン人間の妊娠に成功したと報じられた。このようにクローン人間のニュースは何度か報道されたが、その真相については分かっていない。クローン人間誕生の正式な報告はないが、世界のどこかでクローン人間が誕生している可能性は否定できない。
 平成10年4月13日、クローンヒツジのドリーがメスの子ヒツジを出産、クローンヒツジの生殖能力が確認された。平成13年、ドリーは高齢のヒツジに特徴的な関節炎を発症。平成15年2月14日、肺の感染症のため安楽死となった。ドリーの寿命は通常のヒツジの約半分だった。クローン動物は、細胞分裂に必要なテロメアの長さが短いことが報告されていて、クローン動物は通常より寿命が短いとされている。ドリーの早い死はこのことを暗示していた。
 クローン技術によって、これまでウマ、ヤギ、ウサギ、ブタ、ネコ、ラット、イヌ、サルなどが誕生している。もちろん無事に生まれる確率は数%と低く、ドリーの場合でも277回試みて、やっと生まれた1匹だった。クローン哺乳類の共通した合併症として、胎盤の形成異常、肺の障害がみられる。
 一方、クローン技術は畜産物の安定供給、畜産振興のために応用されている。平成10年、石川県畜産総合センターで近畿大農学部の角田幸雄教授が世界で初めて成牛の体細胞からクローン牛2頭を誕生させ、「かが」「のと」と名付けられた。
 平成19年までに、日本では535頭のクローン牛の出産に成功させている。科学技術会議(内閣府)は人間のクローン研究を禁止しているが、畜産動物については推進している。クローン技術により「霜降り和牛」などの高級牛肉をつくることを目指していた。
 しかしクローンウシの肉や乳製品を食用とするかどうか、食用とした場合に表示をどうするかについてはまだ解決していない。クローン牛は科学的に安全とされているが、それはあくまでも現在の科学の範囲においてであり、本当に安全かどうかは、消費者が長年かけて実験台になることになる。
 またクローンウシが安全であったとしても、消費者が受け入れるかどうかは別問題であった。平成15年10月31日、米FDA(食品医薬品局)は体細胞クローン技術でつくった家畜の肉やミルクの安全性に問題はないと公表。そのため米国ではクローン牛の子孫の出荷は自主規制から外されている。日本では、その牛肉を輸入するかどうかの結論は出ておらず、現在、輸入は自粛中である。
 ドリーが誕生したとき、ドイツの週刊誌「シュピーゲル」は、その表紙にアインシュタイン、ヒトラー、モデルたちの複数の写真を並べた。この表紙はクローン技術が人々に大きな夢を与えると同時に、大きな恐怖と脅威も同時に与えることを表していた。

多剤耐性結核菌の集団感染 平成9年(1997年)
 宮城野病院は仙台市郊外の光ケ丘の麓(ふもと)に建つ320床の病院である。平成9年1月、その宮城野病院で職員248人の定期健康診断を行ったところ、8人の職員(看護師7人と薬剤師1人)が結核に感染していることが分かった。
 同院は、昭和28年に結核治療のサナトリウムとして建てられ、一般病床のほかに結核病床66床が含まれていた。感染した看護師のうち3人は結核病棟に勤務していて、残る5人は一般病棟の勤務で、一般病棟の患者に感染者はいなかった。その後、さらに3人の看護師が感染していることが分かった。DNA鑑定の結果、看護師ら11人は同一の多剤耐性結核菌に感染していた。多剤耐性結核菌とは「イソニアジド(INH)とリファンピシン(RFP)の両剤に耐性を持つ結核菌」と定義され、多剤耐性結核菌はまれであるが致死率は高かった。
 多剤耐性結核菌の集団感染は、平成6年の八王子市の家内工場内の発症に続き、同院が日本で2件目だった。多剤耐性といっても薬が全く効かないわけではないが治療は困難であった。看護師ら11人のうち2人が肺切除術を受けたが、懸命の治療にもかかわらず、6月3日、26歳の看護師が死亡した。
 結核専門医による結核感染症対策専門委員会は2年半後に、「感染ルートは特定できないが、看護師ら11人の誰かが感染、残りの看護師らに感染を広めた可能性が高い」とした。入院していた多剤耐性結核菌患者と看護師らの多剤耐性結核菌のDNAパターンが違っていたこと、看護師らは院内7カ所に分かれて仕事をしていたことから、特定の患者から感染した可能性は低いとした。
 かつて結核はわが国の死因の第1位を占め、「亡国病」「国民病」と呼ばれていた。その後、ストレプトマイシン(SM)、INH、RFPといった治療薬が開発され結核は順調に減少。現在では結核患者数は横ばいのまま、毎年約4万5000人の患者が発生し、約3000人が死亡している。
 平成3年頃に米国の病院で多剤耐性結核菌の院内感染が多発し、日本での院内感染が心配されていた。宮城野病院の集団感染から5年後の平成14年、結核療法研究協議会が国内99カ所に入院している結核患者3122人の結核菌を分析し、多剤耐性結核菌を55人(1.8%)から検出。さらに55人中17人が、INHとRFPだけでなく多くの抗結核剤に耐性を持つ「超多剤耐性結核菌」であった。
 結核は過去の疾患とのイメージが強く、結核を知らない医師も多いが、結核は念頭になければその診断は不可能である。また結核患者が減ったことから、社会全体が結核に対して無関心になっている。
 結核の集団感染とは「感染した結核菌のDNAが同一菌と判定された場合」に用いられている。集団感染として最大のものは、平成7年から2年の間、新潟県の特別養護老人ホームで27人が感染し、12人が死亡する事例である。最初の患者を医師が肺炎と診断したため治療が遅れたのだった。
 結核の集団感染は、学校、老人福祉施設、簡易宿泊施設、刑務所、事務所などでみられ、その中でも病院での集団感染が最も多い。平成12年1月13日、日本看護協会は「過去1年間で、全国248の病院で看護職員が結核に感染した」と報告している。
 病院の集団結核感染は件数が多すぎて書ききれないが、主だったものとして、平成10年7月、熊本市民病院で看護師ら12人が感染。平成12年、北九州市の東筑病院で10人が感染。平成17年、京都の病院で14人が感染。同年、札幌の病院で16人が感染。平成19年、壱岐市の松嶋病院で15人が感染。同年、熊本市の朝日野総合病院で13人が感染している。
 また死亡例としては、平成15年、茨城県取手市の西間木病院で15人が感染3人が死亡。平成16年、熊本の小柳病院で11人が感染1人が死亡。平成18年、山形の病院で9人が感染2人が死亡している。
 結核は、結核菌を吸い込んで発症することから、病院での感染が多いのは当然である。病院で結核の集団感染が起きると、病院の管理が悪いようにマスコミは叩いてくるが、むしろ医療従事者は常に感染の危険性のある最前線で働いていることを知ってほしい。少なくても、危険手当ぐらい支給すべきである。

火山ガスによる被害多発 平成9年(1997年) 
 平成9年、日本の火山活動は穏やかだったが、なぜか火山ガスによる痛ましい犠牲者が相次いだ。まず7月12日の深夜、青森県の八甲田山の田代平で、訓練中の陸上自衛隊隊員が山麓の窪地で次々と倒れた。先頭を歩いていた隊員2人がうめき声をあげて倒れ、助けようとした隊員たちも倒れた。救急車7台が、隊員たちを青森市内の病院へ運んだが3人が死亡した。
 この事故は、窪地に無臭性の二酸化炭素が滞留していたことによる。空気中の二酸化炭素濃度は通常は0.038%で、15〜20%が致死濃度とされているが、窪地の二酸化炭素の濃度は24%で、窪地に噴気孔が4カ所あったことから火山ガスによるとされた。通常ならば有毒ガスは風に吹かれて拡散するが、窪地のため二酸化炭素が拡散せず高濃度になったのである。
 この事件から2カ月後の9月15日、福島県安達太良山をハイキング中の4人が硫化水素によって死亡した。死亡したのは、理容師グループ14人中の4人で、グループは猪苗代の登山口から登りはじめ、午前10時頃に山頂から1キロ離れた沼ノ平を歩いていた。途中で道を間違え、迷っているうちに3人が次々と倒れ、駆けつけた女性1人も倒れた。
 沼ノ平火口付近は前年に噴火があり、硫化水素や二酸化炭素の発生があったが、入山規制はされていなかった。硫化水素は空気中の濃度が0.01%で中毒症状を起こし、0.1%でほぼ即死する。翌日、強風下で行われた現場検証では0.01%の濃度の硫化水素が検出された。安達太良山は、高村光太郎の「智恵子抄」にうたわれた名山で、年間20万人以上が訪れていた。
 さらに11月23日、熊本県の阿蘇山中岳火口で観光客2人が火山性の亜硫酸ガスで死亡した。阿蘇山中岳火口では、平成2年に3人、平成6年に1人の観光客が死亡している。平成9年以外の火山ガスの事故としては、昭和46年12月27日、草津白根山の振子沢で、温泉造成のために掘られていたボーリング孔から硫化水素が噴出、スキーヤー6人が死亡している。昭和51年8月3日、同じ白根山の山頂から北西約600m付近で、登山中の高崎女子高校生ら約40人が遭難、噴出した硫化水素によって高校生2人と引率教員1人が死亡している。
 最近では、平成12年東京都三宅島の雄山で火山ガスが噴出し、平成17年2月に帰島が許可されるまで島民の長い避難生活が続いた。なお三宅島では火山ガスの噴出が現在も続いており、島の45%が立ち入り禁止区域になっている。平成17年12月29日、秋田県湯沢市の泥湯温泉の駐車場で、雪でできた窪地に滞留した硫化水素によって一家4人が死亡している。
 海外での最大の犠牲者を出したのは、1986年8月21日の深夜、西アフリカのカメルーンのニオス湖で起きている。ニオス湖の火口湖が噴火、噴出した高濃度の二酸化炭素が谷沿いに流下し1700人余りが死亡。ニオス村の住人1200人のうち、助かったのは6人だけであった。二酸化炭素は空気より重いため、地表をはうように広がり、谷底で暮らしていた住民がベッドで寝たまま酸欠死したのである。
 火山ガスとは火山活動に伴い噴出する有毒ガスのことである。火山ガスの成分は95%以上が水蒸気であるが、二酸化炭素、二酸化硫黄、亜硫酸ガス、硫化水素、塩化水素などを含んでいる。火山ガスの噴出は、火山の活動が活発な時だけでなく、穏やかな時にも起こりうる。通常、火山ガスは風によって拡散するが、地形によっては高濃度の火山ガスが窪地にたまり事故を起こす。異変を感じたらより高い所へと逃げるのが原則である。
 火山の噴火による被害は、昭和28年4月27日に熊本県の阿蘇山が噴火、火口近くにいた修学旅行の兵庫県加古川市西高校340人など観光客400人の頭上に噴石が降り、熊本市北署の巡査部長(48)、男児(3)、大分県の男性(24)、加古川市の西高男子生徒(17)、大阪府の桜塚高男子生徒(17)ら6人が死亡している。

ポケモン騒動 平成9年(1997年)
 平成9年12月16日午後6時50分頃、テレビ東京系列で放映していた人気アニメ番組「ポケットモンスター」(通称ポケモン)の第38話を見ていた子供たちが、突然、けいれんやひきつけ、記憶喪失などを起こし、全国各地で救急車が出動する騒動となった。
 病院の当直医たちは、運ばれてきた子供たちを前に困惑したが、放映終了から2時間後の「NHKニュース9」が騒動の第1報を伝えたので、子供たちの症状はテレビによるものと冷静に対応できた。
 翌17日、自治省消防庁は30都道府県で685人が救急車で病院に運ばれ208人が入院したと発表。北九州市では11歳の女児が重症となり集中治療室に収容され、大阪市や千葉県船橋市などでも児童が重症になっていた。
 病院に行かないまでも、具合を悪くして学校を欠席した児童。録画したビデオを見て病院に運ばれた児童もいた。当時の視聴率から計算すると、全国で345万人の子供がポケモンを見ていて、異常を感じた子供は1万人以上とされた。
 問題を起こした6時50分頃の放映では、色彩を交互に点滅させる通称「パカパカ」と呼ばれる技法と、強い光を放つ「フラッシュ」という技法が用いられていた。この「パカパカ」と「フラッシュ」は古くから使われていたが、今回の放映ではストロボやフラッシングなどの激しい点滅が、各1秒間以上25カ所で使われていた。これらの技法が原因となったことは間違いなかった。
 このポケモン騒動で番組は中止となり、アニメの原作であるゲームソフト「ポケットモンスターシリーズ」の発売元・任天堂の株価が大暴落するほどであった。ポケモン騒動は米国まで波及し、米国でもテレビの自主規制が行われた。
 テレビ東京は、当日だけ特別な技法を使ったわけではないと述べたが、この報道を知った多くの神経内科医は、光感受性てんかん発作(PSE:photosensitive seizure)によるものと想像した。PSEとは「光の点滅刺激によって大脳に異常を来すこと」で、木漏れ日のチラツキなどが引き金になって起きることが知られていた。PSE患者は4000人に1人とされ、その診断はストロボの点滅刺激を与えながら脳波を調べることである。光が神経細胞を刺激し、自律神経系を刺激して発作を起こすのだった。
 ポケモン騒動で厚生省は「光感受性発作に関する臨床研究班」を設置し、脳波に異常がなくても強い光刺激で発作が起きること、特に赤色の光刺激が大脳を興奮させやすいこと、暗い部屋でテレビから近い距離で見ていた者に被害が多かったと発表した。
 翌年の平成10年4月8日、日本民間放送連盟とNHKは再発防止のガイドラインを発表。その内容は光の点滅は1秒間に3回を超えないこと、鮮やかな赤色の点滅は特に注意すること、コントラストの強い画面の反転は1秒間に3回を超えないとした。この規制はアニメだけでなく、CMを含めたすべてのテレビ画像に適用された。このガイドラインにより、騒動から4カ月後の4月16日、ポケモンのテレビ放映が再開された。
 前述したように、ポケモンは平成8年に任天堂が発売したゲームソフトである。野や山に生息するモンスターを捕まえ、気に入ったモンスターを成長させるゲームで、通信ケーブルで友達のモンスターと交換することができた。それまでに100万本以上が売れたヒット作で、アニメになってテレビで放映されると、平均視聴率13.9%を記録する人気番組になっていた。
 平成9年12月24日、朝日新聞は驚くような記事を掲載した。それは米国とロシアがポケモン騒動をヒントに、光線兵器の開発を進めているという記事であった。ストロボ光線を兵器に用いる、なんとも恐ろしい話である。なおギネスブックには「最も多くの視聴者に発作を起こさせたテレビ番組」としてポケモンの名前が記載されている。

安田病院診療報酬詐取事件 平成9年(1997年)
 平成9年7月28日、大阪地検特捜部は安田病院グループの安田病院長・安田基隆(77)ら幹部5人を巨額の診療報酬を不正受給していた詐欺容疑で逮捕した。逮捕したのは、安田院長のほか事務長2人、大阪円生病院の婦長、経理責任者2人であった。
 安田基隆院長は、安田病院(大阪市住吉区)、大阪円生病院(同東住吉区)、大和川病院(大阪府柏原市)のワンマン経営者だった。大阪府の調査では3病院が報告していた医師78人のうち11人が、看護師345人のうち157人が退職した職員や架空の職員だった。不正で得ていた診療報酬は、過去2年間だけで20億円に達していた。
 病院に支払われる診療報酬は、「入院患者数に対する看護師の数」で決まる。これを基準看護料と呼ぶが、安田病院と大阪円生病院は基準看護として入院患者4人に対し看護師が1人と届けていた。この「4対1」の基準看護料であれば、入院患者1人当たり1日4240円を得ることができた。また大和川病院は「6対1」として3170円を受け取っていた。
 しかし安田病院グループの実際の看護師数は、基準看護料では最低ランクの1日1420円(安田・大阪円生)、1320円(大和川)に過ぎなかった。この基準看護料の差額が2年間で20億円になっていた。
 安田病院グループは人件費を極端に少なくし、行政へは看護師数を大幅に水増しして報告、その差額を荒稼ぎしていた。安田院長が中心になり、事務幹部が架空の職員や退職した看護師のニセの勤務表や出勤簿、タイムカード、賃金台帳をつくっていた。それは医療ではなく、診療報酬を利用した錬金術であった。
 大阪府はそれまで安田病院グループに医療監査を行い、問題なしとしていたが、それは3病院が同時に監査を受けることがなかったからである。医療監査の日程は、2週間前に当局から病院に通知されていた。そのため1病院に監査が入る日には、ほかの2病院の職員が動員され、マイクロバスで病院に運び、架空職員になりすませていた。看護補助者や付添婦にニセのバッジを付けさせ、看護師の格好をさせていた。
 安田病院グループは、身寄りのない老人や厄介な患者、麻薬中毒患者、アルコール依存症患者などを積極的に入院させていた。ほかの病院が敬遠する患者でも入院できたので、家族、病院、行政にとって都合のいい病院だった。病院にとっては、生活保護患者や公費医療補助の老人は確実に収入となった。しかし病院の環境は最悪で、電気代節約のため冷暖房の使用は制限され、夏は蒸し風呂、冬は冷蔵庫の状態であった。患者への暴行、無資格診療が日常的に行われ、紙おむつ代の水増し請求も発覚した。
 職員全員が安田院長に逆らえず、過重労働を強いられていた。患者が死亡すると、担当職員は「罰金」として2000円から最高36万円が給与から天引きされた。
 安田病院グループの評判は良いものではなく、摘発される4年半前には、大和川病院で患者が3人の看護人に暴行を受け死亡する事件が起きている。この事件をきっかけに、安田病院グループは内部告発などで黒い噂(うわさ)が立っていた。
 安田病院グループの大規模な不正は長い間見逃されてきたが、平成8年12月、大阪府はこの黒い噂に対し3病院の一斉調査を行った。平成9年3月10日、読売新聞が安田病院グループ3病院の不正疑惑を報じ、3月25日の紙上では「平成8年12月の調査を前に、安田院長が国会議員や府議、厚生省の局長らに調査を先延ばしするように働きかけた」と報じた。
 安田院長は旧大阪帝大医学部卒の医学博士で、大阪の高額納税者番付の14位にランクされていた。大阪府医師会理事などのポストを歴任し、大阪府社会保険診療報酬支払基金の審査委員を務めていた。数年前から不正請求の内部告発があったが、支払基金の審査員をしている病院への監査は甘かった。昭和63年、安田院長は「安田記念医学財団」を設立し、政治家、官僚、医師などを役員にしていた。
 このようにして厚生官僚、大阪府の高官、政治家との親密な関係をつくり上げ、関連する役所には返品しにくい生鮮魚介類などを贈っていた。コネを利用した実例として、3病院同時の立ち入り調査の情報が入ると、厚生省保健医療局長、健康政策局長、国会議員、府議などに働きかけ、3病院同時調査を止めるように働きかけていた。
 しかし、強制捜査が行われ、院長室から100キロの金の延べ板(時価1億3000万円相当)と1億5000万円の札束が見つかった。銀行の貸金庫には、総額5億円の定期預金証書があり、安田院長のマンションから1億数千万円の札束が見つかり、約20カ所の土地や住宅を購入していることが判明した。安田病院グループの資産は総額約60億円で、診療報酬の一部がこのような巨額の資産形成に使われていた。
 医療法では「知事が病院の開設許可を取り消す」ことができる。大阪府は安田病院グループの不正が明らかになったことから、3病院の保険医療機関の指定を取り消し、平成9年10月1日、3病院は廃院となったが、職員の給料や退職金は十分に支払われなかった。
 大阪地検特捜部の調べに、安田院長は「悪いのは事務長ら4人。私はだまされていた」と関与を否定したが、公判では裁判官の心情をよくするためか、起訴事実を素直に認め、約 24億円を返還した。平成10年4月14日、大阪地裁は安田基隆に懲役3年の実刑判決を言い渡し、即座に収監された。二審の大阪高裁でも、西田元彦裁判長は「医療従事者としての責務を忘れ、不正受給を続けた犯行は実刑が相当」と一審の実刑判決を支持。安田基隆院長は上告したが、上告中の平成11年6月17日、前立腺がんで死亡した。
 平成9年6月に健康保険法改正案が成立し、健康保険の自己負担が1割から2割へ引き上げられた。国民全体の負担は2兆円増になったが、その一方で金儲けに走った安田グループは医療提供側のイメージを極端に悪くした。病院が不当に得た巨額の資産は、国民の税金や保険料によるもので、腐敗した日本の医療を一気に露呈させた。安田院長にとって、患者は金儲けの道具にすぎなかったが、この事件は医師の性善説を大きく変えることになった。

ベロテック騒動 平成9年(1997年)
 気管支喘息の病態は「気管支の可逆性の収縮による呼吸困難」で、治療薬としては気管支拡張剤であるキサンチン誘導体とβ2刺激薬が用いられてきた。またβ2刺激薬の中でも、より効果的で副作用が少ないことから、フェノテロール吸入剤(商品名:ベロテックエロゾル)の定期吸入が最も優れた喘息の治療と推奨されていた。
 しかし平成元年、ニュージーランドでフェノテロールの販売量と喘息死亡率が一致するとの疫学調査から、フェノテロールの副作用による喘息死を疑う論文が「ランセット」(英国の医学誌)に掲載された。
 この論文を重要視したニュージーランド政府は、平成2年からフェノテロールを保険給付の対象外として使用を制限した。そして平成7年には、フェノテロールの販売量の低下とともに喘息死亡率が低下したと報告された。
 β2刺激薬は、気管支平滑筋の交感神経の「β2受容体」を刺激して、気管支を拡張させる作用がある。その一方で心臓刺激作用や心毒性を持つとされ、心筋障害作用が喘息患者の死亡者を増加させていると推測された。
 しかしβ2刺激薬が喘息死の原因とする疫学調査は、はたして本当だったのだろうか。β2刺激薬(フェノテロール)の有害説がいわれ始めた翌平成2年、英国胸部学会が「気管支喘息は気道の狭窄を来すが、その病態の本質は気管の慢性炎症であり、喘息の治療はステロイド剤の吸入を第1選択薬とする」とする喘息の治療ガイドラインを発表。翌3年には、米国国立衛生研究所(NIH)も「喘息の原因は、慢性の気道炎症」と同様の見解を示した。
 このことから気道の炎症を抑えるステロイド剤の吸入が気管支喘息の治療として推奨され、徐々に浸透した。β2刺激薬はそれまで定期的に使用されてきたが、新しい治療ガイドラインでは原則として屯用に位置付けられた。
 このように気管支喘息の病態が「気管支の狭窄から炎症」に、治療が「β2刺激薬からステロイド吸入」に変わった時期と、フェノテロールが問題視された疫学調査の時期が重なっているため、統計学的にフェノテロールの悪玉説を信じることができないのである。喘息死亡率が下がったとするニュージーランドの統計は、フェノテロールの販売量が減ったのではなく、ステロイド治療が徐々に普及したためと解釈できたからである。さらに同時期から、ピークフローメーターも普及しはじめ、軽い喘息発作を発見でき、発作の起きやすい時期や時間帯などを把握しやすくなった。このように喘息の管理がしやすくなってきた時期と重なっているのである。
 フェノテロールは即効性があり、かつ強力だったため重症患者の使用者が多かった。さらに患者自身がその即効性を実感していたため、その効果に過度に依存していた。喘息発作を起こしてもフェノテロールの効果に期待し、悪化したまま受診が遅れ、喘息死を招いたと考えられた。
 喘息発作は突然起きるので、発作が改善しないまま呼吸困難に陥ることがある。特に1人暮らしの患者にとっては、病院へ行けないほどの発作時にはフェノテロールに頼らざるを得ない。喘息発作を知る患者にとって、フェノテロールは命綱ともいえる薬剤であった。
 平成9年3月7日、フェノテロールの製造元である日本ベーリンガーインゲルハイム社は、「フェノテロールの過剰な使用を避けるように」との添付文書を各病院に配布した。その内容は、フェノテロールの過剰投与が喘息死を起こす可能性があるという緊急安全性情報であった。マスコミはこの緊急安全性情報に飛び付き、β2刺激薬(フェノテロール)を第2の薬害エイズのごとく扱った。平成9年3月22日、NHKおよび新聞各社はフェノテロールの過剰投与により喘息死が増えていると報道した。
 また同年の「文藝春秋」6月号で、ジャーナリストの櫻井よしこがこの問題を取り上げている。その内容は患者の声を冷静に取り上げているが、「喘息患者が次々に死んでゆく」との刺激的な題名から想像できるように、「フェノテロールによって喘息死が起きるから、発売を中止せよ」とのマスコミ論調に追従していた。
 平成9年5月19日、厚生省は日本ベーリンガーインゲルハイム社が3月に出した添付文書と同じ内容の緊急安全性情報を再度出した。民間の薬害オンブズパースン会議は、平成7、8年の喘息死亡者は平均30.0人/月、平成9年1〜5月の喘息死亡者数は21.6人/月、6〜12月は18.1人/月と発表。緊急安全性情報が出た後に、死亡者数が大幅に減っていることから、β2刺激薬フェノテロールの悪玉説を強調した。
 しかし厚生省が毎年発表している死因別統計をみると、喘息死亡者は平成7年以降、平成11年を例外に毎年減少しており、厚生省の喘息死亡率と彼らの統計は違っている。厚生省の統計は2年遅れであるが、この違いを誰も指摘していない。
 平成7年以降、喘息死亡率の上昇は平成11年だけである。このことはフェノテロールの危険性が強調されたため、患者がその使用を控え、死亡率が上昇したと解釈できる。昭和大の飯倉洋治教授は「マウスを用いた実験で、フェノテロールの危険性が証明された」とマスコミの取材で述べたが、それは患者に用いる数百倍の量のフェノテロールをマウスに与えた実験結果であった。
 フェノテロールはβ2刺激薬の中で最も多く使用され、数百億円の売り上げがあった。しかし緊急安全性情報が出された平成9年に売り上げが激減、さらにフロンガス(現在は特定フロンに代わっている)の問題が重なり、現在では数億円程度の売り上げになっている。
 喘息治療の原則は、現在、ステロイド剤の吸入が第一選択剤であるが、中程度以上の患者にはβ2刺激薬の吸入が推奨され、重症患者の治療にはβ2刺激薬が必須としている。喘息死は喘息症状の悪化によるもので、β2刺激薬の心臓刺激作用や心毒性は弱いとする専門家が多い。
 β2刺激薬(フェノテロール)が多くの喘息患者を救ってきたことは事実である。また現在も使用されていて、今後も多くの喘息患者を救うであろう。今回の「ベロテック騒動」は、喘息治療に無知なマスコミ、目立ちたがり屋の学者、さらにはデータの誤用が現場を混乱させた印象が強い。
 たとえβ2刺激薬(フェノテロール)の過剰投与が喘息死に関連していたとしても、メーカーがその可能性を指摘し、適正使用を医師が指導しているのだから、過剰乱用は患者の使用者責任といえる。また多くのマスコミが主張したように、β2刺激薬(フェノテロール)の販売を中止していたら、多くの患者が死んでいたであったろう。
 厚生省に販売中止要求したマスコミや薬害オンブズパースンなどの行為は「ウイスキーの一気飲みを危険と指摘し、ウイスキーそのものの製造販売を中止せよ」と叫んでいるのと同じではないだろうか。β2刺激薬(フェノテロール)の販売中止をせまった彼らの罪は大きいと思われる。
 マスコミは、喘息患者の呼吸苦の現状を知らない。喘息患者はマスコミのベロテック販売中止を求める行動に対して、むしろ困惑の中で沈黙し、冷ややかに受け止めていた。

神戸酒鬼薔薇事件 平成9年 (1997年)
 平成9年5月27日の早朝、兵庫県神戸市須磨区「友が丘中学校」の正門前に、切断された男児の頭部が置かれているのを職員が見つけた。生首は口から耳元にかけて切り裂かれ、口に紙片(犯行声明文)をくわえさせ、底知れぬ恐ろしさがあった。

さあ、ゲームの始まりです。
愚鈍な警察諸君
僕を止めてみたまえ
ボクは殺しが愉快でたまらない
人の死が見たくてしょうがない
汚い野菜共には死の制裁を
SHOOLL KILL
学校殺死の酒鬼薔薇

 犯人は自らを「酒鬼薔薇聖斗」と称し、この声明文は捜査機関への挑戦状のようであった。切断された頭部は、数日前から行方不明だった多井畑小学校6年生の土師淳(はせじゆん)君(11)のものであった。同日午後3時頃、土師淳君の住むマンション近くの通称「タンク山」のアンテナ基地で土師淳君の胴体部分が発見された。
 殺害された土師淳君は、事件3日前の24日午後1時30分頃、「おじいちゃんのところへいってくる」と言ったまま行方不明になっていた。土師淳君は加茂川市民病院放射科医土師守さん(45)の次男で、家族、地元住民、学校関係者、須磨警察署ら160人が懸命に探していた。
 須磨ニュータウンでは数ヶ月前から、友が丘中学校の周辺で、小学生を狙った通り魔事件が多発していた。同年2月10日、小学6年生の少女2人が、路上で頭をハンマーで殴られ1人が重傷になっていた。3月16日には小学校4年生の少女が、公園で頭部を金槌で強打され1週間後に脳挫傷で死亡している。さらに小学校3年生の少女が腹部をナイフで刺され、地元ではこのような連続通り魔事件に不安を抱いていた。
 この通り魔事件と酒鬼薔薇事件との関連性は不明であったが、殺害した少年の首を校門に置くという猟奇的事件に、マスコミは連日報道を繰り返した。テレビは酒鬼薔薇事件一色になり、事件直前に黒いセダンが中学校正門前に停車していて、黒いビニール袋を持った30代の男性を目撃した情報があった。テレビは犯罪心理学者や評論家を総動員して犯人像を探った。犯行背景、犯人像が何度も語られ、「大学生以上の変質者による犯行」とされたが、彼らの分析は完全に間違っていた。
 6月4日、酒鬼薔薇聖斗から2回目のメッセーが神戸新聞社に郵送されてきた。そこには酒鬼薔薇は「おにばら」ではなく「さかきばら」であること、犯行動機は自分の存在をアピールする為で、自分自身を「透明な存在」と表現し、その文章は大人が書いたものと思われた。警察をあざ笑うような声明文には、犯人でなければ知らない内容が含まれていて、いわゆる秘密の暴露から犯人が書いたとされた。
 ところが6月28日、須磨警察署はそれまでの犯人像とは違う、近所に住む少年A(中学3年生)を土師淳君殺害容疑で逮捕し、Aは女子小学生の連続通り魔事件についても自白した。このことが臨時ニュースで流れると、あの残忍な犯行が普通の中学生によってなされたことに、多くの国民は動揺した。少年を知る近所の人たちは、「まさかあの少年の犯行だったなんて」、と信じられない様子だった。
 この事件以前の少年犯罪は、家庭環境や生活環境、学校や友人関係などの問題が犯罪を誘発したと分析されてきた。しかし少年Aは、そのような分析では解明できない普通の中学生だった。Aの父親は大手製薬会社に勤務し、母親、弟(中学1年生)と末弟(小学校4年生)と暮らすごく普通の家族だった。母親の躾は当初は厳しかったが、Aが小学4年生の時から放任主義になっていた。
 Aは祖母に可愛がられていたが、小学5年生の時に祖母が亡くなると、Aは近所の猫や小鳥などを殺すようになった。Aは土師淳と顔見知りで、Aが捜査線上に浮かんだのは、事件の数日前に友が丘中学正門で猫を殺したところを目撃されていたからである。
 Aは24日、歩いている淳君を見つけ「遊びに行こう」と声をかけ、「竜の山」に誘った。午後2時ごろAはケーブルテレビ・アンテナ基地付近で淳君の首を絞め殺害。のこぎりなどで頭と胴体部を切り離し、胴体部をアンテナ基地の下に隠し、同27日早朝に頭部を中学正門前に置いたのである。
 凶器のハンマー、切断に用いた金ノコギリが発見され、少年宅から犯行メモが見つかった。Aは猫や小鳥などを殺すという残忍性はあったが、それは精神異常ではなく人格的な隔たりと呼ぶべきで、その人格の隔たりが殺人に至ったとすれば、それこそ不気味である。
 少年法61条では犯罪を犯した少年の氏名、年齢、住所、容貌の公開は禁じられていた。しかし新潮社の週刊誌「フォーカス (平成9年7月9日号)」は少年の顔写真と実名を掲載し、翌日の「週刊新潮」にも少年の顔写真が目隠しで掲載された。さらにネットでは犯人の顔写真が流布した。
 少年事件の審判は非公開で、事件の詳細は不明であるが、「文藝春秋(平成10年3月号)」に少年の検事供述調書7枚分が掲載された。この供述調書は革マル派が神戸市の病院に侵入してコピーしたものだった。革マル派はこの酒鬼薔薇事件を国家による冤罪とした。それは直接の目撃者がいないこと、あの犯行声明文を14歳の少年が書いたとは信じがたいこと、一連の殺害が普通の中学生には不可能と思えたことからであった。
 平成9年10月13日、神戸家庭裁判所は少年Aを関東医療少年院に移し、平成13年10月から東北中等少年院に移り、平成16年3月に成人したA少年は少年院を仮退院した。平成16年12月、A少年は女医のカウンセリングの最中に、母親がわりの女医を押し、暴行未遂を起こしていることが週刊新潮(平成17年1月20 日号)に書かれている。
 少年はすでに少年院を正式に退院し、私たちの社会のどこかで生活をしている。医療少年院で治療を受けたされているが、治療で治るのは病気であり、性格異常が治療やカウンセリングで治るものなのだろうか。
 この事件は14歳の中学生が、2人の小学生を殺害し、3人に重軽傷を負わせたが、本当の動機は本人以外には分からない。あるいは本人にも分からないかもしれない。人間を物と同じように扱う精神構造、残虐な深層心理、弱者虐待の犯行と感情、これらは通常の通り魔事件と同じである。快楽殺人のように「誰でもいいから殺したかった」のかもしれないが、しかしこの殺害は酒鬼薔薇の名前とは裏腹に、どろどろした悪意が感じられない。捜査内容、審議内容は少年であることから非公開であるが、これまでの犯罪学では説明しにくい事件である。