O157食中毒事件


O157食中毒事件 平成8年(1996年)

 平成8年は病原性大腸菌O157の年であった。O157による食中毒は日本では過去9件の報告だけで、なじみの薄いものであった。しかし平成8年、この聞き慣れない病原菌が、全国各地で被害をもたらした。

 平成8年5月27日朝、岡山県邑久(おく)町の小学1年生の女子児童3人が激しい腹痛と下痢、血便を訴えて病院を受診した。腹痛は激痛で、手に負えないと判断した医師は国立岡山病院に患者を送った。その後も、同じ症状の児童が次々に病院を受診。小学生2人が国立岡山病院で死亡、入院患者26人、患者数468人を出す大規模な食中毒事件となった。5月29日の夕方になってO157の集団感染であることが分かった。患者は今城幼稚園、今城小学校、邑久小学校の園児と児童で、同じ共同調理場で作った給食を食べていたことから、学校給食が感染源とされたが、結局、原因となった食材は特定できなかった。

 衛生水準が高いわが国において、比較的安全を誇っていた学校給食で集団食中毒が発生するとは、誰も予想していなかった。そのため各地で、学校給食の衛生管理が叫ばれた。しかしO157は、その監視の目をかいくぐるように、岐阜県岐阜市(小学校:患者数380)、広島県東城町(小学校:患者数185)、愛知県春日井市(中学校:患者数21)、福岡県福岡市(保育園:患者数48)、岡山県新見市(小学校・中学校:患者数364)、大阪府河内長野市(保育園:患者数50)、東京都港区(会社:患者数191)、群馬県境町(小学校:患者数144)などで集団発生し猛威を振るった。学校給食は強制で、学童は給食を拒否することはできない。そのため安全性については十分に注意しているはずなのに、O157による中毒事件が次々に発生したのである。

 そして平成8年7月12日の金曜日の夜、市立堺病院(堺市宿院町西)に、腹痛、下痢、血便を訴える児童10人が受診した。大阪大から来ていた当直の小児科医は、そのうちの2人を入院させた。翌13日土曜日の朝、小児科部長は集団食中毒の可能性を堺市に連絡。医師2人と看護師5人が診療に当たったが、午後になると小学生を中心に下痢や血便を訴える患者が押しかけ、医師、看護師、事務員が総動員され、病院はパニック状態になった。

 市立堺病院は児童40人を入院させたが、満床で入院できない子供たちが苦しそうに待合室や廊下でぐったりとなっていた。市立堺病院は足の踏み場のない野戦病院と化し、廊下や会議室に長椅子を入れてベッド代わりにした。点滴の支持台が不足し、親が点滴を持ちながら、身体をくの字に曲げている子供を励ました。便器に座りながら点滴を受ける子供も多く、便器が足りず、職員は血便を消毒液で拭(ふ)き取る作業を繰り返した。

 救急車要請の電話が鳴りっぱなしとなり、33の小学校の児童約300人が次々と病院を受診した。症状は激しい下痢と血便で、血便は便に血が混じるのではなく、トマトケチャップそのものであった。15台の救急車はフルに活動し、病院に患者を搬送すると消防署に戻らずに別の患者の家に急行した。救急車は1日だけで199回出動し、子供の親たちは、パニックになる気持ちを抑え子供を励ました。この凄惨(せいさん)な様子がテレビで全国に報道され、事件の深刻さが日本中に知れ渡った。市立堺病院の医師は食事も取らず2日間徹夜で働いた。ほかの病院から応援の医師3人が駆けつけたが、同じような激務が続いた。この状況は市立堺病院だけではなく、堺市の病院や診療所など170の医療機関に数千人の患者が駆け込んだ。

 医師たちは病原性大腸菌O157の感染を疑ったが、O157だったとしても治療法は確立していなかった。O157は死滅時にベロ毒素を出すことから、抗生剤の投与は症状を悪化させる可能性があった。下痢止めはO157やベロ毒素の排泄を遅らせるので、使用すべきかどうか分からなかった。7月14日、児童26人の便のうち13検体からO157が検出され、15日には市立小学校と養護学校の全92校が休校になった。この間の行政の対応は後手後手に回った。時間の経過とともに対策本部長は保険局長、助役、市長へと変わっていった。

 子供たちは、血便で血まみれになっていたが、本当の悲劇はしばらくしてから始まった。7月23日に10歳の女児児童が、8月16日には12歳の女児児童が、溶血性尿毒症症候群(HUS)を合併して死亡したのだった。

 死亡した2人の児童は重症患者として把握されておらず、当初は血液検査もしていなかった。それがHUSによって急変、人工透析を受けたが意識は回復せずに死亡した。O157感染者のうちHUSになるのは約10%、そのうちの約3%が死亡するとされている。この数値からもO157の恐ろしさが実感させられる。さらに平成9年2月1日、7歳の女子児童が半年以上意識が戻らずに大阪府立母子保健総合医療センターで死亡、集団食中毒の犠牲者は3人になった。

 堺市の9月25日の発表では、O157の患者数は6000人を突破し、受診者の数(累計)は学童6309人、教職員92人、2次感染と思われる者160人の合計6561人という空前の大規模集団感染となった。世界保健機関(WHO)が把握している突発的集団感染としては、記録的な患者数であった。

 大腸菌はヒトの大腸に生息している常在菌で、通常は人体に悪さをせず、ヒトと共存している。大腸菌は菌表面のO抗原の違いによって180種類知られているが、O157は157番目に発見された大腸菌を意味している。この病原性大腸菌O157は、ヒトの腸内に常在する大腸菌と同じ形であるが、通常の大腸菌と違うのはベロ毒素(志賀毒素)を産生することである。ベロ毒素とは赤痢菌の毒素と同じで少量で強い毒性を持っていた。大腸菌がこの赤痢菌と同じベロ毒素を産生したのは、バクテリオファージ(ウイルス)の感染によって、赤痢菌の毒素をつくる遺伝子を大腸菌が獲得したからである。O157の病原性は赤痢菌と同じで、O157は赤痢と同じ出血性大腸炎を引き起こした。感染者のうち症状を示すのは40〜60%で、破壊された大腸壁からベロ毒素が血液に入った場合には、溶血性尿毒症症候群(HUS)を引き起こした。HUSさらには脳血管障害から死に至った。

 大阪府堺市のO157食中毒事件は、47の学校の児童が同時期に発症したことから学校給食が原因とされた。堺市内の90の小学校と2つの養護学校の給食は、堺市の学校給食協会が73の登録業者から食材を一括購入して、3つの地区に分けて配送し、各校の調理室で調理していた。食材は複数の業者が倉庫に持ち込み、配送業者が毎朝トラック7台で配っていた。各学校では献立が違っているため、感染源は個々の調理室、特定の調理人ではなく、共通した食材とされた。

 ただしO157の発症はその菌量が少ないこと、潜伏期間が4〜9日(平均5日)と長いことから、原因食材の特定は困難だった。例えばサルモネラ菌は100万個の摂取で中毒症状を出すが、O157は100から1000個のごく少量で発症した。学校給食は、食中毒が起きた際に、原因食材を特定するため3日間保存することが決められていた。しかしO157の食中毒は想定外だったので4〜9日前の給食はすでに破棄され、学校に残された食材からO157は検出されなかった。

 47の学校の7月8日と9日の給食を調べると、共通していた食材はパン、牛乳、カイワレ大根であった。パン、牛乳は複数の業者が納入していたので、カイワレ大根が疑われた。カイワレ大根は大阪府羽曳野市にある農園から納入されていた。

 厚生省はカイワレ大根犯人説を小出しにしていた。それはほぼ同時期に、羽曳野市内の老人ホームでもO157による食中毒が起きていて、その食材にもカイワレ大根が使われていたからである。さらにO157食中毒が発生した保育園と病院、電子部品製造会社でも、同じ農園から納入したカイワレ大根が使われていた。そして各施設の患者から検出されたO157のDNAは同じパターンを示し、それは同一株による感染を意味していた。このことから、この羽曳野市の農園から出荷されたカイワレ大根が怪しいことになった。疫学的にはカイワレ大根説は十分に考えられたが、このカイワレ大根説の大きな難点は、疑われた農園のカイワレ大根からO157が検出されなかったことである。

 羽曳野市の農園の井戸水やカイワレ大根の種子、従業員の便などが調べられたが、O157は検出されなかった。3回の立ち入り検査で、周辺を流れる農業用水まで調べたが、O157菌は検出されなかった。カイワレ大根犯人説は状況証拠だけで、物的証拠がなかった。またカイワレ大根が給食に入っていなかった堺市西地区でも多数の患者が出ており、カイワレ大根は灰色のままであった。通常のカイワレ大根には大腸菌は常在しないことから、カイワレ大根は発生源ではなく、O157に汚染されたと考えられた。つまりO157は牛などに多くみられることから、カイワレ大根が家畜の糞便によって汚染さたとされたのである。牛はO157に感染しても無症状であるが、ヒトがO157に感染すると血便や腹痛を発症するのだった。

 真犯人は不明のまま、カイワレ大根がスケープゴートにされた。厚生省が「感染源としてカイワレ大根は否定できない」と発表すると、日本中がカイワレ・パニックを引き起こし、店頭からカイワレ大根が姿を消した。厚生省はこのカイワレ・パニックと、カイワレ大根業者の抗議にあわてて、菅直人厚生相がマスコミの前でカイワレ大根を食べてみせたほどであった。行政は誰かに責任をなすりつけて決着をつけたがるが、その発想がカイワレ大根説に結びついたのである。カイワレ大根の業者は、「厚生省が根拠のない誤った発表をしたため損害を受けた」として、国に損害賠償を求めた。この裁判は最高裁まで争われ、平成16年12月14日、最高裁は国に2290万円の損害賠償を命じる判決をだしている。

 猛威を振るうO157被害が深刻化し、家庭や食品業界は「自分たちの身は、自分たちで守るしかない」と感染予防に懸命になった。台所用品を抗菌加工品に代え、肉や刺し身などの生ものを止め、薬用せっけんや除菌スプレーの売り上げが急増した。スーパーや百貨店では、従業員の便の検査をするようになった。

 O157は、昭和57年に米国のオレゴン州で初めて食中毒の際に見いだされた菌である。米国ではファーストフード店のハンバーガーが感染源であったが、当初は食中毒にはみられない血便という奇妙な特徴から、O157が食中毒の原因かどうか疑問視されていた。しかし数カ月後、数千キロ離れたミシガン州の同じファーストフード店で同じ症状の患者が発生。この事件によりO157による食中毒の概念が出来上がった。

 平成4年までに、米国のO157による食中毒は、加熱不足のハンバーガーを食べた583人が感染し171人が入院、41人が溶血性尿毒症症候群(HUS)で死亡している。平成9年8月にはO157が検出された牛肉550トンが破棄されている。

 日本では、平成2年に浦和市(現さいたま市)の幼稚園で2人が死亡し患者319人に達した事件が最初である。この浦和市の事例は、幼稚園の井戸水が汚染されていたことによる。このようにO157は井戸水や湖水から感染する可能性もあった。

 平成8年8月6日、O157をはじめとする腸管出血性大腸菌感染症は指定伝染病に指定され、平成11年4月施行の感染症新法では3類感染症に分類された。患者、保菌者の届け出が義務づけられ、特定職種への就業制限、消毒等の対応措置が法で定められた。なお、O-157とハイフンを付けた記載は間違いであり、正確にはO157である。