腎移植殺人事件

腎移植殺人事件 平成元年(1989年)

 平成元年6月20日、静岡県警浜松中央署は詐欺容疑で逮捕していた浜松医科大泌尿器科助手の広瀬淳(33)を殺人の疑いで再逮捕した。広瀬の容疑は、腎不全患者に架空の腎移植を持ちかけ、現金をだまし取った上、殺害したことだった。この事件は、医師が患者を殺害する異例の犯罪として注目を集めた。

 浜松医科大出身の広瀬淳は、卒業と同時に医師国家試験に合格。家族は4人で、周囲からは病弱な妻をいたわる理想的な医師と映っていた。

 広瀬淳が殺害した患者の中川正雄さん(61)とは、研修医として派遣されていた遠州総合病院で知り合った。広瀬は浜松医大に戻ってからも、毎週遠州総合病院に出張して中川さんを診察していた。

 2人が親しくなったのは、株がきっかけだった。資産家の中川さんは、株の運用に精通し、株を始めたばかりの広瀬の指南役になっていた。広瀬は次第に株にのめり込み、株の資金欲しさから、中川さんに架空の腎移植の話を持ちかけた。

 血液透析の治療を受けていた中川さんは、腎移植の作り話に乗り気になった。広瀬は腎臓提供者の家族が多額の謝礼を要求しているとうそをつき、自分の架空口座に2500万円を振り込ませた。もちろん腎移植は架空話で、最初からだますつもりだった。広瀬は詐欺の発覚を恐れ、口封じのために殺人を計画。病院から筋弛緩剤である臭化パンクロニウムを入手して準備を進めていた。

 平成元年4月10日の午後6時すぎ、広瀬はいつものように中川さん宅を訪れ、「腎臓移植の手術に必要な検査」と偽って精神安定剤(ジアゼパム)を注射。中川さんが寝たところで、臭化パンクロニウム2mLを左腕に注射した。

 臭化パンクロニウムは麻酔時に用いる薬剤で、患者の自発呼吸を止める薬剤である。中川さんは注射を受け、呼吸筋の麻痺を来して死亡した。広瀬は中川さんの死を確かめると、中川さん宅を出た。

 翌日、訪ねてきた息子がソファの上で眠るように死んでいる中川さんを発見。室内は片付いており、何の異常もなかった。駆け付けた別の医師は、死因を腎不全に伴う心不全と診断した。中川さんは病死とされ、司法解剖を受けずに荼毘(だび)に付された。広瀬にとって完全犯罪まであと一歩のところであった。

 しかし中川さんの長男が遺産の整理を始めると、死亡前日に手持ちの株を売った代金の2500万円が見あたらなかった。長男はこの大金と父親の死に何らかの関連性を感じ、警察に届けたのである。そして父親が最近、腎臓移植を受けるかもしれないと言っていたことを思い出した。

 中川正雄さん(61)の不審な死について、静岡県警浜松中央署は1つの推理を立てた。それは腎移植の提供の話に乗って、中川さんが2500万円の大金を犯人に払ったという推理であった。しかしこれを立件するのは至難のことであった。目撃者がいないこと、さらに中川さんの遺体は火葬されていたからである。この「死体なき殺人」での犯人の逮捕は困難との見方が強かった。

 捜査陣は2500万円の現金の流れを追った。そこで中川さんと付き合いがあった浜松医科大泌尿器科助手の広瀬淳が浮かび上がってきた。事件直後、広瀬がいくつかの銀行に分散して架空口座を設けて現金を預け、逮捕直前には証券会社に11銘柄株(総額1300万円余)の購入を申し込んでいた。この金銭の流れから、警察は広瀬を詐欺容疑で逮捕して追及した。

 広瀬には当日のアリバイがなく、警察は薬剤の入手経路の裏付けを行っていたが、やがて広瀬自身から自白を得たのである。もし広瀬が現金を銀行に預けずにどこかに隠していたならば、逮捕されたかどうかは微妙であった。

 警察の調べによると、広瀬は推理小説ファンで、「コンピュータ完全犯罪」などの小説をヒントに完全犯罪を狙ったと自供した。「コンピュータ完全犯罪」は、医師が銀行の現金自動支払機システムを利用して3000万円をだましとる筋書きで、キャッシュカードで銀行の19支店から現金を引き出す手口であった。これを参考に、広瀬は仮名の銀行口座をつくり中川さんに現金を振り込ませ、キャッシュカードで引き出していた。カードは、浜松市内の空き家を住所にして入手していた。犯罪の参考にしたもう1つの小説は、完全犯罪を狙った詐欺が題材だった。犯人の詐欺師が、肝炎ウイルスを注射して発病させる内容で、広瀬が注射で殺害した手口と酷似していた。

 中井準之助・浜松医科大学長は「医師としてあるまじきこと。患者の命を預かる者が命を奪うとは、言語道断で許すべからざる行為」とのコメントを出した。

 裁判では物的証拠がないことから、立証困難が予想された。弁護側は、「殺人の証拠が存在しない」として無罪を主張した。しかし平成2年3月27日、静岡地裁浜松支部の山口博裁判長は「自供内容は体験した者でなければ知り得ない臨場感がある」として自白の信用性を認定し、腎移植を願う患者の弱みにつけ込んだ卑劣な犯行として、広瀬に懲役17年の実刑(求刑・懲役20年)を言い渡した。

 広瀬が控訴しなかったため刑が確定。厚生省の「医道審議会」は、広瀬の医師免許を取り消

とした。この事件は、医師による医療行為を利用した日本初の殺人事件であった。

 一般に、大学の医師は安月給のため、毎日アルバイトに追われていた。先生と呼ばれてもバイトをしなければ生活は苦しかった。犯行の動機は「病気を患っている妻のそばに、少しでも長くいてやりたかった」とされている。しかしどのような事情であれ、当時の医師はみな同じ生活に置かれていた。事件当時は、バブルで日本中が浮かれ、日本中が拝金主義に毒されていた。その毒に染まった犯罪といえるが、唯一の救いは、広瀬が自分の犯行を素直に認め、悪あがきをせず、控訴しなかったことである。