コインロッカーベビー

コインロッカーベビー 昭和48年(1973年)

 米国で生まれたコインロッカーは、昭和39年の東海道新幹線の開通とともに登場し、以後大阪万国博覧会などの旅行ブームから全国の駅に設置された。それまでは手荷物預かり所で、住所や氏名を書いていたが、匿名性と便利性が受け、昭和48年には全国のコインロッカーの数は18万個になった。コインロッカーの使用期間は4日間で、それを超えると鍵が開けられ、2カ月間、駅で保管された。この匿名性と密閉された空間が犯罪に用いられるようになった。

 昭和45年2月3日、東京・渋谷の百貨店のコインロッカーで新聞紙に包まれビニール袋に入れられた新生児の遺体が発見された。渋谷署は以前売春容疑で検挙した女性の指紋が遺留品の指紋と一致したため、佐世保生まれの女性(21)を全国に指名手配した。これがコインロッカーに新生児が捨てられた最初の事件だった。昭和48年にはコインロッカーに捨てられた新生児は43件に急増し、コインロッカーベビーが流行語になった。

 当時は、赤ちゃん殺しや赤ちゃんの死体遺棄事件が多発し、発覚しただけで年間約200件に達していた。赤ちゃんは人目を避けて川や林に捨てられ、あるいは駅やデパートのトイレやゴミ箱に捨てられた。人目につく場所に捨てた母親は、誰かに育ててもらえることを期待したのであろうが、いずれにしても許されない行為であった。

 医師は妊娠がわかると「おめでとう」と母親に言うが、妊娠を喜ぶ女性がいれば、妊娠を悲しむ女性もいた。出産を希望しない女性にはさまざまな理由があった。当時の性教育は皆無に等しく、避妊の知識は乏しかったので、不幸な妊娠を背負ってしまう女性が多くいた。性道徳は荒れていて、マスコミは婚前交渉を時代の最先端のようにもてはやし、その一方で、性交渉に伴う妊娠というリスクを隠し、未婚の母をふしだらな女性と決めつけていた。

 昭和48年当時は、同棲時代、内縁時代、フリーセックス、ウーマンリブなどの言葉がもてはやされていた。雑誌は性行為を愛の証しのように書き立て、映画は性行為を推奨するように美的に描いた。外国の恋愛映画、ドラマが大量に輸入され、若者はその影響を受けていた。それでいて恋愛結婚という欧米の形態はなじみが薄く、まして当時の女性は私生児を育てる経済力はなかった。国全体がセックスをあおりながら、その結果への社会的な受け入れは無責任であった。日本の社会も家族も私生児を恥とし、その存在を闇に葬ろうとしていた。現在でも一部の自立した有名人を除けば、私生児について日本独自の伝統的嫌悪感がある。 

 戦前は「産めよ増やせよ」の国策で、性行為は子供を産むための行為とされた。時代が進むにつれ、「性行為は性の享楽を求めること、男女の愛の表現方法」に変わったが、避妊の知識は乏しく、望まない妊娠という現実があった。自分だけは妊娠しないという自己中心的な思い込みによる失敗。消費文化を象徴するかのように、不用品を捨てる感覚があった。

 昭和47年の警視庁の統計では、母親の赤ちゃん殺しの動機は、未婚者の8割が世間体を恥じ、既婚者の2割が貧困であった。赤ちゃん殺しの背景には、わが子ならば自分の意のままに処分してしまうという、自由の意味をはき違えた母親がいた。

 しかし、この現象を母性本能の喪失と決めつけることはできない。それは妊娠させた男性にも責任があるからで、妻子ある男性に離婚を条件に身体を許したあげく、男性が妊娠末期に約束を守らずに逃げてしまうケースも多く、「相手が妊娠した途端、男性はその女性を嫌になる」という身勝手なパターンであった。男性が女性と同じように性行為の結果への責任を持つならば、このような悲劇は生じなかったはずである。男性の責任は追求されず、女性ばかりが責任を追及された。婚前性交渉については、男性に甘く、女性に厳しく、男性は妊娠から逃れられても、女性は逃れることはできなかった。赤ちゃんの生命は無視され、胎児、赤ちゃんにとって受難の時代であった。

 出産を希望しない女性が恐れていたのは、紙切れ一枚にすぎない戸籍のことだった。女性の戸籍に子供を産んだ事実が書かれれば、その後に結婚できるはずはなかった。戸籍を汚してしまった女性の人生は終わったに等しかった。当時の性道徳は荒れていたが、性道徳の荒れによる妊娠を世間が受け入れる時代ではなかった。未婚の母親は世間から白眼視され、戸籍を汚すという言葉は、未婚の母親への社会的偏見を意味していた。未婚の母親はふしだらな女性と非難されたため、彼女らはそれを避けるために赤ちゃんを殺してコインロッカーに入れたのである。コインロッカーの使用期間の短縮、避妊の普及により、コインロッカーベビーは次第に減少していった。